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第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1

最近出版された西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』(徳間書店)を読んでいる。
このシリーズは、戦後占領軍によって焚書処分された本の解説をしているものだが、「GHQ焚書図書」については少しだけ説明が必要だ。
GHQ(占領軍)が昭和20年9月から占領期間中に、わが国の新聞、雑誌、映画、ラジオの放送内容、あらゆる出版物や一部私信までも「検閲」をしていたことは良く知られているが、それとは別に、当時本屋の書棚や図書館などに並べられていた戦前・戦中の書籍のうち、日本人に読ませたくない本7769点を「没収宣伝用刊行物」に指定し日本政府に指定図書の没収をさせていた。その書物は我が国にとっては貴重な歴史書や研究書がかなり含まれていたのである。

西尾幹二

「焚書」といっても、指定される前に購入された学校や図書館や個人の蔵書までは没収されなかったことから一部の書物はある程度入手が可能で、西尾氏は焚書処分された書物を掘り起こされて解説するシリーズの第1巻を4年前に上梓され、今もそのシリーズが出版中で今回が7冊目になる。
このシリーズの本を読むと、占領軍が、どのような史実が書かれた書物を日本人に読ませたくなかったということがよく解り、戦勝国の本来の戦略や意図が透けて見えてきて、日本人が戦後、いかに浅薄な歴史観を押し付けられていることに気づくことが多いのである。

GHQ焚書開封7

今回の『GHQ焚書図書開封7』では、中国研究者の長野朗氏が昭和17年に上梓された『支那三十年』という本が紹介されている。その中で、中国の「排日運動」が何故起こったかについて具体的に書かれている部分を、長野氏の文章を引用しながら紹介したい。

長野氏は中国で「排日運動」が始まった大正8年(1919)には北京の中国人の家に下宿しておられて、「排日運動」が「抗日運動」になるまでを身近に見て来られた人物で、長野氏の中国に関する著作はこの著作も含めて18冊がGHQによって焚書処分の指定を受けているという。

『支那三十年』にはこのように書かれている。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[ ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)
「排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動(ごしうんどう)といわれている。やったのは北京大学の学生だが、起こりはいろいろでここに詳しく述べている暇もないが、第一には英米が欧州戦争[第一次世界大戦]中に、東亜の市場を日本に独占されていたのを、何とかして取戻そうとして、排日を煽り日貨排斥[日本製品ボイコット]を宣伝した[「五四運動」の裏にはイギリスとアメリカがいたというのです。]。欧州戦争中はさすがに気兼ねしていたが[日本は英米側についていたから]、休戦ラッパが鳴り響くや[1918年]忽ち英米新聞が排日の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染し、漸く気勢[「排日」の気運]が出来てきた。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.164)

この部分は一般的なわが国の教科書ではこう記述されている。
「中国では…1911年辛亥革命がおこり、翌年には、南京を中心に孫文を臨時大統領とする中華民国が成立し、新王朝はついにほろんだ。しかし、国内にはなお旧勢力が各地に分立し、軍閥の実力者袁世凱が孫文をしりぞけて大統領となり、北京に政権を樹立した。 第2次大隈内閣はこのような混乱に乗じて、1915 (大正4) 年、中国の袁世凱政府に中国における日本の権益を大幅に拡大する内容のいわゆる二十一ヵ条の要求を提出し、最後通牒を発して要求の大部分をみとめさせた。しかし、中国国内ではこれに反発して排日気運が高まった。」(『もう一度読む 山川日本史』p.270)
と、どこにもイギリスやアメリカの事が書かれていないのだ。

『山川日本史』にかぎらず、どの教科書にも「二十一ヵ条の要求」が排日の直接の原因のように書かれているのだが、この「二十一ヵ条の要求」の内容については従来の既得権益を中国側に確認させる目的で提示されたものが大半で、新たに追加された条項は最終的にはすべて削除されているのである。

孫文

Wikipediaによると、袁世凱の政敵である孫文は、「二十一ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言しているというし、中国に対してはロシア、フランス、イギリス、ドイツも要求している内容と比べて、決して過激なものではなかったというのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
とすれば、二十一ヵ条の要求が排日の直接の原因であるという教科書の記述を鵜呑みにすることは危険である。
そもそも排日活動は中国だけで起こったわけではない。
例えば第一次世界大戦が終わると、アメリカではカリフォルニア州他各週で日本人の土地所有が禁止され、1924(大正13)年には日本人の移民を国家として禁止している。(排日移民法)
アメリカに対してわが国が悪いことをしたからアメリカが排日になったわけではない。わが国はアメリカの植民地にならずに近代国家に脱皮し、第一次世界大戦の間にわが国が東アジアのマーケットを開拓したことを快く思わない米英が、中国に排日を仕掛けて日本製品をボイコットさせたという長野氏の主張は非常に説得力があるのだ。

五四運動

中国で排日運動が始まった大正8(1921)年の五四運動の時の様子について、長野氏はこう書いている。
「五月四日の夜、親日派の曹汝霖(そうじょりん)邸を焼き討ちし、章駐日公使に負傷させた北京大学生は、…翌日の全市の新聞が大いに彼らの行動に肩を持っているし[北京の全新聞が彼らの行為を絶賛した]、政府の処置が緩やかであったのに元気をだし、忽ち火の手は北京の各大学から天津に伝わり、全国の学校に及んだ。全国の学生運動の中心をなしたのは英米系の学校と、基督教青年会[これも英米系ですね]の幹部とであった。基督教青年会の連中は学生を取り付けるために(取り込むために)映画を見せたり、お茶を出したりして誘い込むのである。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.165-166)

長野氏が下宿していた中国人の家にはよく排日ビラが投げ込まれていて、長野氏は排日の行列を何度も見たそうだが、当時は排日行列に参加すると一日50銭が支払われていたそうで、演説をすると1回あたり50銭、巧い演説には1円、女学生の演説は効能があるので1円が支払われていたそうである。
当時中国には国定教科書がなく、商務印書館とか中華書局とかいうところで勝手に教科書が作られていたが、排日が流行になると盛んに排日記事を入れた教科書が売り出されるようになって、初めて排日教科書が現れたのは大正8年(1919)だったと書かれている。
その当時の排日的教科書の事例として、当時の地理の教科書が紹介されている。
「日本は島国なり、明治維新以来国勢驟(にわか)に盛なり、我が琉球[沖縄をシナのものとしている]を県とし、我が台湾[台湾も自分のものだ、と]を割き、我が旅順大連を租借し、朝鮮を併呑し、奉天、吉林に殖民し、航業商務(海上輸送や各種商業)を我国各地に拡張す。」(同上書p.169)
と、一度も中国の領土になっていないはずの、沖縄も台湾も日本に取られたと書いてある。
中国のやることは、今も昔も変わらない。

そして、
「国民政府になってからは、政府自ら排日教科書を編纂し、童謡に童話に児童劇に、皆排日を盛るに至った。」(同上書p.170)
と、子供の段階から排日を洗脳していったのである。
中国の排日の背景について長野氏はこう書いている。
排日運動を初めから眺めていると、英米人の煽動は実に目に余るものがあった。公吏[英米系の公共団体の職員]が自ら乗り出してやっているし、運動費を出す。それも一度に出すとパッと焚(も)えて後は火の消えたようになるから[一度に全額を出すと、シナ人は最初だけやって、あとは怠けるから]、毎月に出すし[小分けにして出した]、外字新聞[英米人経営の英語新聞]が排日煽動の音頭取りをやるし、それに自分の新聞だけで足らずに、支那紙[シナ語の新聞]を買収して盛んにやったものである。各地の学生会でも、英米人経営の学校が凡て中心になっている。宣教師共が排日運動に大童(おおわらわ)で活動する。殊に基督教青年会の活動が目立っている。英国は未だ日英同盟が存在していたので、表面には出ないで、アメリカを表に出して裏で盛んに活動した。彼らの最も恐れたのは日支の結合である。」(同上書p.171)
「日支が結合すれば、世界何物もこれ[日本とシナの結びつき]を冒すことはできない。それでは彼ら[英米]の野望が達せられないので、まず日支を離間する[日本とシナとの仲を引き裂く]ことに全力を注ぎ、次にこれ[日本とシナ]を衝突させ相闘(あいたたか)わしめようとした。この深謀遠慮は、二十年のたゆみなき努力により、蒋介石の長期抗戦となって現われた。」(同上書p.173)

1929日貨排斥と欧米輸出急増

要するに、英米の狙いは、中国市場を独占することにあった。しかし、中国大陸にはすでにイギリス、ロシア、ドイツ、フランスなどがすでに地歩を築いており、そこで武力を用いて中国市場を奪おうとすれば大戦争とならざるを得ないので避けた。
そこで、第一次大戦で東アジアの市場を拡大していた日本が狙われたということなのだが、そのために中国と日本を離反させ、中国に反日感情を植え付けて中国市場から日本の商品を排除して、その市場をアメリカが奪い取ろうとしたということになる。

1932アメリカが1位になる

そして実際に、1931年の対中国の貿易額は日本、イギリスを抜いてアメリカが第一位となるのであるが、そのやり方が実にひどいのだ。中国人に日貨排斥(日本商品のボイコット)をさせて、日本商品を売れないようにさせるのである。初めはボイコットの期間が短かったのだが、それが次第に長くなって、ボイコットを始める前の日本企業との契約も守られなくなっていく。

「…ボイコット[日本製品のボイコット]の期間が長くなり、又開始前の契約も認めないようになったので、日本の小さい店は倒れるものも出てきた。それにボイコットも部分的でなく多くは全国一斉に行われ、後には南洋まで拡がった。期間が短いと欧米に注文する暇はないが半年一年となると、欧米品が日本品に代ってどんどん入るようになり、この機会に支那にも盛んに工業が起こってきた。ボイコットの方法も深刻になり、違反者を捕えて檻に入れたり、爆弾を投げ込んだり、莫大な罰金を課したり、耳を切ったり、それをすべて私的団体でやり政府は見ているから、支那の政府に抗議しても何にもならない。
…又日貨[日本商品]の没収や日貨に課税したりしてその収入が数千万円に及び、それを争って上海では主謀者の争奪戦が行われた。」(同上書p.180)

このような史実を日本人に知られては、戦勝国が日本人に押し付けた「日本だけが悪かった」という歴史観が成り立たないことは誰でもわかる。長野氏の著作は「戦勝国にとっては都合の悪い史実」が縷々記述されていたために、GHQの焚書処分にあったというしかない。

すでに多くの大企業が中国に進出してしまったのだが、このことは排日運動から抗日に至る歴史に照らして考えれば、非常に危険なことなのだ。
もし長野氏の著作が今も国民に愛読されていたならば、これほど多くの日本企業が中国に工場などの進出をすることはなかったと思うのだが、ここまで進出してしまってはどうしようもないだろう。

今般の領土問題が契機となって、第一次大戦以降と同様な動きが起こっても何の不思議もない。
日系企業労働者にボイコットを仕掛けられ、日貨排斥を仕掛けられ、あるいは反日暴動を仕掛けられた時には、中国に進出した多くの日本の企業はどうやって中国に移した設備や技術や従業員や製品などを守ることが出来ようか。
中国だけではなく韓国でも同様の事が起こってもおかしくないだろう。

長野氏の論文で、中国の排日に英米の勢力が活発に動いたことが書かれていたが、中韓の反日は、今もアメリカが背後で政治家やマスコミを使って工作している可能性を感じている。
アメリカにとっては、自らは血を流すことなく、ライバル国同志の紛争や、ライバル国の内部対立を利用して、お互いを戦わせて消耗させることで自国の覇権を強化するという、戦わずして勝つ戦略がベストのシナリオであろう。
我が国に、中国や、韓国や、ロシアといくら紛争が起こっても、アメリカにプラスになることはあれ、マイナスになることは何もない。

アメリカにとって一番困るのは、わが国が中国や韓国と組むことであるはずだ。しかし、そうさせないためにアメリカはそれぞれの国との関係で紛争の火種をわざと残し、国内にも争いの火種を残して、タイミングを見てそれを刺激して覇権を維持できる仕組みが構築できており、どこの国も簡単には動けない。わが国の総理大臣が短命なのも、そのことと無関係ではないのではないか。
アメリカのやっていることは、長野氏の時代とそれほど変わっていないのかも知れないのだ。真実の歴史を知らなければ、わが国は何度も同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。
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米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2

前回の記事で西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』に解説されている、長野朗氏の『支那三十年』という本の一部を紹介した。
この当時長野氏は北京の中国人の家に下宿しておられて、中国の排日運動をつぶさに見てこられたのだが、この著書の中で、中国の排日運動は、当初アメリカやイギリスが、対中貿易拡大のために日本企業が築き上げた中国市場における商圏を奪い取る目的で、中国人を煽動しはじめたということを、かなり具体的に書いておられる。

教科書などをいくら読んでも、この時期になぜ突然に中国で排日運動が起こったのかが長い間腑に落ちなかったのだが、長野氏の文章を読んでようやく納得した。
排日運動を仕掛けたことによって、アメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たと書いてあったので、当時の新聞記事を探してみた。こういう時は「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」を使えば、経済関連の古い記事が自宅のPCで検索できる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
例えば「対支貿易 アメリカが首位」と入力して検索すれば、昭和7年8月2日付の中外商業新報の記事がヒットする。

1932アメリカが1位になる

そこには、アメリカが首位に躍り出た理由がこう書かれている。
「米国が対支輸出国の首位を占めたるに至ったのは、支那の日貨排斥運動によりわが対支輸出が大打撃を蒙ったのに対し、米国が原料品は銀安にも拘らず商品価格の世界的低落の波に乗って銀竪*としても値段はなお出会う程度に低落し米国小麦、綿花、薬煙草、木材等が大量に支那に流入したことによる…」
ここにはアメリカが排日運動を主導したとまでは書かれていないが、最大の受益者がどの国であるかを考えればおおよそ見当のつく話だ。
*当時の米中貿易は決済を銀で行っていた

imagesCAWQX9R0.jpg

この「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」を使えば中国やアメリカ以外でも排日運動が起こっていた事が容易にわかる。例えば昭和10年5月25日付の大阪朝日新聞には、中南米の排日貨で斎藤駐米大使が米政府に「注意喚起」している記事が出ている。わが国の政府も、裏でアメリカが中南米の排日で動いていたことの裏付けなしで、このような会談を米国務省に公式に申し入れることはあり得ない話であろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10002662&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
戦後GHQは、このような戦勝国にとって都合の悪い真実を日本人に忘れさせるために、そのような記録のある書籍を徹底的に洗い出して焚書処分させ、さらに「戦勝国にとって都合の良い歴史」を日本人に押し付けてしまったので、ほとんどの日本人にとってはこのような史実を知る機会が失われてしまったのである。

再び長野朗氏の著作に戻ろう。
長野氏は中国の排日活動を4段階に分けて書いておられる。
第1段階では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを始めた。
第2段階では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。前回はここまでの経緯について書いたのだが、その後、英米資本と中国の民族主義とが結びついていく。それが第三段階である。しばらく長野氏の文章を引用する。
(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

蒋介石

「第三期になってくると、国民政府[蒋介石の国民党政府]が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を考え、全国のボイコットを統一した。しかし表面は国民党によって組織された反日会が本部を上海に設け支部を全国に置き、国民党の支部員がこれ[日貨排斥]にあたった。この時期になると、ボイコットは政府の任務であり、政策として行われた対日経済戦であった。…
英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路をとった。
一つは支那の民族運動として、満州の漢人化となり[清朝が倒れたので、清朝の故地である満州にどんどんシナ人が入っていった]、満州からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満州事変を起こさせるに至った。
一つは経済的の現われで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んできたのである。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封7』p.181~183)

日本を追い詰めた排日運動は二つのコースをたどり、満州では張学良が盛んに日貨排斥を行ない、それが満州事変の引き金となった。もう一つは浙江財閥の蒋介石が英米資本と手を組んで日本を追い詰めたというのである。

「排日の内容も時には変化があった。排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、その後ソ連の指導する中国共産党が現われるにしたがい、大正十二年から少し雲行きが変わってきた。…
学生会のリーダーは、英米系の基督教青年会の幹事から、いつの間にか共産主義青年団の幹部となり、排日から反帝国主義運動になったが、英米人は巧く游(およ)ぎ廻って、その鉾先をたえず日本側に向けたのと、支那人の外国崇拝と日本軽視とは、日本人には[排斥運動を]やるが外人には手を着け得なかった。」(同上書 P.183~184)

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と、排日の主役が英米系のキリスト教会からコミンテルン勢力に移っていくとともに、運動のターゲットが「排日」から「反帝国主義」に変わっていく。コミンテルンにとっては英米の資本主義は敵であり英米資本も一時は狙い撃ちにされたのだが、英米はうまく立ち回ってわが国に鉾先を向けさても、英米人には手を着けられることがなかったとある。
すなわち、英米は反日を優先しソ連を抱き込んで、中国人の「反帝国主義」の圧力をかわすことになるのだが、西尾幹二氏は「日本がなぜ日独伊三国同盟に走り、英米を敵に回さざるをえなかったという背景かが浮かび上がってくるように思います。すなわち、英米がシナ大陸をめぐってソ連に近づく、英米金融資本がコミンテルンと結託し、日本に攻撃を仕掛けてきたことが第二次世界大戦の主たる原因であった」と、巧く纏めておられる。

長野氏が英国の立ち回りの凄さを、具体的に記述しておられる部分を引用しよう。
「大正十五年の北伐[蒋介石の国民党軍が北方軍閥を倒してシナを統一しようとした内戦]には、国共合作[北伐で国民党軍と共産党軍が手を結んだ]であったため、ソ連と英国との仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鉾先をまず英国に向け…

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武漢に飛び出してきた国民革命軍は口々に『打倒英国』を叫び、武漢政府[汪兆銘率いる国民党政府]は漢口の英租界を武力で占領した。すると機を見るに敏なる英国は、あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返して反英の気を抜き…
今まで北方軍閥派の討赤連合軍[共産党潰しを狙っていた北方軍閥]」を助けていたのを、鮮やかに百八十度転回して、…
当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂(こっきょうぶんべい:共産党とたもとをわかつこと)の芝居を打たせ、蒋介石の共産党弾圧[それまでイギリスを敵視していた共産党を弾圧させるように仕向けた]となり、ソ連は英国に背負い投げを食わさるるとともに、反英は又排日となり、国民革命軍が南京まで下ってくると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。この蒋と英国との連合は今日[昭和16年時点]まで続いている。同時に排日も抗日から抗戦へと予定のコースをとってきた。」(同上書 P.186~188)

コミンテルンの息のかかった国共合作軍は、最初は「反帝国主義」でイギリスを狙って、漢口の英租界を武力占領するのだが、英国はすぐさま漢口と九江の英租界を返還して反英の気勢を削ぎ、さらに国共合作軍の蒋介石に接近して、日本に鉾先を向けさせたというのだ。このような巧妙なやり口は、農耕民族の日本人にはとても真似ができないところだ。
かくして、日本は再び狙われることとなるのだが、この時期となると、英米が中国に種をまいた「排日思想」の影響がとても無視できない状況になる。

長野氏はこう書いている。

「排日で日本は経済的打撃を受けたことも少なくなかったが、それにもまして大きな問題は、支那民衆の間に排日の感情を深く浸潤させたことである。ある支那の要人は『支那人は生まれながらにして排日だ』といった。四つか五つの何も知らない子供が、自分の好きな玩具(おもちゃ)で遊んでいるのに『それは日本品だ』と一言いうと、どんなに大事にしていた玩具でも投げ捨てるということである。支那人が日本人からの電話口に出ようとすると、女房と子供が反対して出さないということである。」(同上書 P.189~190)

「しかし何といっても女子供の頭の中に深く刻まれたのには困ったものである。大正八年から排日教育を受けているが、子供の頃に注ぎ込まれたものはなかなか抜けるものではなく、それが国民革命頃[昭和初期の「北伐」の頃]には排日の立派な闘志となっていたし、今度の事変[昭和12年の支那事変]には抗日の指導者となっている。…
街路の正面にも抗日の札があり、門にも壁にも抗日の文句があり、日本品には『仇貨』『敵貨』(敵国の製品)と銘打っているし、紙幣にも排日の文字が捺してあり、時計の中にも(排日と)書いてある。買うものには排日の字があり、町を出れば排日、新聞も書籍も排日、音楽も排日、これで二十年もたてば如何に鈍い支那人でも骨の髄まで排日にならざるを得ないだろう。これが蒋(介石)の長期抗戦の原動力となり、抗日連合戦線の糊付けとなっている。」(同上書 P.192)

中国における「排日の歴史」を見ていくと、ここまで中国人の洗脳が進んでしまったきっかけは英米が作ったものであり、それが日本と中国とを離間させて、最終的に支那事変を生み、日米開戦につながっていった流れなのだが、英米はわが国の勢力を削ぐために、中国人に親英米思想と排日思想を同時に植え付けることから始めたという点は注目して良いだろう。
中国の市場を奪い取ることは、弱小国ならば力で奪い取ることができるが、強国を武力で制圧することは多くの自国兵士の血を流し、さらに全世界からの非難を受けることになってしまう。
だから時間をかけて中国人を親英米・反日に洗脳することから始め、中国人が日本商品を買わなくなるように仕向けたのだ。その手法は今もいろんな国が密かに用いているのではないかと思うのだが、日本人にはそういう発想をする人は少なく、すべてを外交交渉に委ねようとしてしまう。それが誤りなのだと思ってしまう。

相手国が情報戦を仕掛けている段階では、わが国も情報戦で戦う意思が不可欠ではないか。
相手国が我が国について明らかな偽りの歴史を世界に広めようとしているときは、わが国はその主張が誤りである根拠を示し、何が真実であるかを客観的な史料で明らかにして論破し、並行して日本文化の素晴らしさを世界に向けて発信すべきではないのか。
そのことを、戦後のわが国はほとんど何も行わずにすごしてきたし、その場しのぎで安易な謝罪をすることも少なくなかった。

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しかし、わが国がある国から偽りの情報を広められた時に、内容の検証もせずに謝罪してしまうことは、相手国の主張が正しいことを認めたことと同じだ。
また、偽りの情報に対してこれと言った反論をせずにずっと黙っていることは、わが国はその情報を正しいものと暗に認めているという、誤ったメッセージを世界に対して発することになってしまうことにならないか。

占領軍は日本を去る前に、わが国においても「排日思想」の種をばら撒き、そのために「国民の生命と財産を守り領土を守る」という当たり前のことでさえ、国論が割れてしまう国になってしまった。
例えば尖閣の問題では、「中国を刺激するべきでない」と言って中国を増長させる輩がわが国には結構多いのだが、そもそも領土問題というものは、譲歩や妥協でいい結果が残せるものではないだろう。

尖閣

中国も韓国もロシアも、英米が残した「排日思想」を利用し、わが国の「戦争責任」を追及する姿勢を示すだけで、日本との外交交渉は容易に勝利できることを修得済である。
一方、アメリカはわが国が近隣諸国と対立関係にあるという事だけで、わが国の政治に容易に介入できる立ち位置を確保できる。
それぞれの国にとっては、日本が「戦勝国にとって有利な歴史観」に洗脳されたままであることが、最も都合の良い状態にあると考えておいた方が良いのだと思う。

今も中国や韓国では出鱈目な反日教育が行われていることは日本人の多くが知っているのだが、いくら内容が誤っていようが何十年にもわたりそのような教育が続けられ国民が洗脳され続けていることが、将来のわが国にどのような災難をもたらすかは、長野氏の文章を読めばおおよそ見当がつく。
このまま放置しておけば、いずれ災いの鉾先がわが国に向かうことになってしまいかねないのだが、わずか90年程度前の歴史をわが国で、決して再び繰り返すことがないようにしなければならないと思うのだ。

史実に基づかない反日の種は史実で反論して、もっと早いうちから摘み取っておくべきであったと思うのだが、わが国のマスコミは史実を伝えず、正論を言う政治家を失脚させるようなおかしな動きを永年続けてきた。
いくら実力のある政治家でも、マスコミと戦うためには世論の後押しがなければ難しい状況だから、国民の大半が「日本だけが悪かった」とする浅薄な歴史観に洗脳されてしまっている状態を、一日も早く脱する必要がある。

そのためには、これからでも遅くないから、戦後のGHQによる検閲と焚書により長い間封印されていた「戦勝国にとって都合の悪い真実の歴史」を少しずつでも取り戻し、多くの人に広めていくことしかないのだと思う。
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中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3

前回まで、長野朗氏の『支那三十年』というGHQ焚書処分された書物の内容の一部を紹介してきた。

長野氏はこの著書で、中国の排日は中国大陸で最大の交易国であった日本の商圏を奪い取る目的で英米が最初に「排日思想」を中国人に植え付けたものであり、事実アメリカは日本を追い落として中国の最大の交易国となり目的を達したことや、その後中国では二十年もの間行われてきた「排日教育」が徐々に中国人に浸透して民族主義と結びつき、またコミンテルンも「排日思想」を利用するようになっていったことを極めて具体的に叙述しておられる。
また、当時の新聞記事のいくつかを紹介して、長野氏の主張が的を得ていることを検証してみたのだが、このような記事は当時の新聞を検索していけばいくらでも見つけることができる。
当時の日本人はこのような新聞記事を読んでいたのだから、中国人の排日の背後に英米やコミンテルンが関与していたことはある程度理解できていたはずなのだが、このような史実を伝えることが戦後GHQの焚書処分やプレスコードによるマスコミ・出版の自主検閲によって封印されたために忘れ去られて、今では日本人の多くが、「わが国が侵略国であり戦争の原因を作った」という歴史観に洗脳されてしまっていることは非常に残念なことである。
もし、GHQが焚書を行なっていなかったなら、近・現代史が今とは全く異なる内容になっていてもおかしくない。歴史の真実を知れば知るほど、戦後の日本人がいかにひどい歴史観を押し付けられてきたことに、誰しも容易に気が付くはずなのだ。

西尾講演

前置きが長くなったが、今回も「中国の排日」に関して書くことにしたい。
『支那三十年』の著者である長野朗氏が他にも中国に関する本をいくつか書いておられるが、同様にGHQの焚書図書に指定されている『民族戦』という本を、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封7』でその内容を紹介しながら解説しておられる。

英米が仕掛けた「排日思想」になぜ中国人が飛び付いたのか。その経緯については、『支那三十年』にはあまり詳しくは書かれてなかったのだが、この『民族戦』にはその点について長野氏の所見が記述されている。しばらく長野氏の文章を引用させていただく。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

「…日清戦争までは、支那は大国として日本を蔑視し、日本又支那に敬意を表していたが、日清戦争の結果、その地位は顚倒[日本とシナとの力関係が逆転]した。次いで北清事変[1900年(明治33年)義和団事件]、日露戦争を経て日本の地位が益々向上するにしたがい、支那はその積弱(せきじゃく:だんだんダメな国になっていること)を暴露してきた。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.320)

「かくて日本が朝鮮を合邦し[1910年(明治43)日韓併合]、関東州[旅順・大連のある一帯。日本の租借地]を得、満鉄によって満州に進出し、さらに日独戦[第一次世界大戦のとき、日本がドイツをシナの租借地から一掃した戦い]により山東にまで迫るに及び支那の恐怖は漸く増大した。…
しかるに、欧州大戦が終わって英米が東亜にやって来たのと、支那人の思想が世界思潮の変化につれ変わったために、俄然排日の空気が勃発するに至った。加えるに当時の我が外交のやり口が、支那に誤解を抱かせるものもあり、口に日支親善と支那の領土保全を叫び、内政不干渉を唱えながら、裏の方は一党一派を助けて内政干渉をやり、…」(同上書p.321)
と書いてある。

GHQ焚書開封7

簡単に纏めると、誇り高き中国は日清戦争に敗れて凋落し、日本は日露戦争にも勝って、中国と日本との力関係は逆転してしまった。また当時の中国の政治は乱れていて、軍閥が4つも5つもあり、国がまとまりそうではなかったのだが、第一次大戦の後、英米が中国に進出して「排日思想」を撒き散らしてから流れが変わっていく。わが国が中国に対してやったことは中国に進出した西洋諸国と変わらなかったのだが、中国人はわが国に対してだけは許せなくなっていく。

「支那人には白人崇拝心はあるが、同じ人民[黄色人種である]である日本人に対して崇拝心なく、日本人が白人と同じように支那人に威張るのを小づら憎く思った[これが排日のいちばん大きな理由でしょう]。それに日本が小国でありながら、一躍世界列国の列に入り[第一次大戦後の「五大国」はイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、そして日本でした]、列強の一つとして支那に臨んでいることに対しては、少なからざる嫉妬心さえ持っている.のである。」(同上書p.322)

中国にとっては、同じ黄色人種の日本との戦争に敗れ経済でも大きく遅れをとったことが面白くなかったことは容易に想像ができる。中国人は日本人に対して長い間民族的嫉妬心を抱いていたのだが、それに火をつけたのが英米だったのである。
中国人も英米と同様に日本人を中国市場から追い出そうとした。その背景について、長野氏はこう解説している。

「こうして排日が起こったが、彼らがボイコットを採用したのは、実に日本の経済的弱点に乗じたのである。日本は土地狭くして資源少なく、それに人口が多く、商工中心政策をとってはきたが、原料と販路を他に求めねばならぬ。しかるに隣邦支那には幾多の原料を蔵し、かつ四億の民衆があるから、日本はいきおい原料と販路を支那に求める。この関係を知っている支那人は、日本は支那がなくては生きていけないと思うから、日本を虐(いじ)めるには日貨排斥が第一策だということになる。即ちボイコットをやっていけば、日本人は生存ができなくて支那の言う通りになると思っているし、またいかに虐めても未練があるから[中国がどんなにいじめても、日本は中国のマーケットに未練があるから]、何もなし得ないと思っている。…

支那人は言う。日本は支那がないと生きて行けないから共存共栄かも知れないが、支那は日本がなくても生きて行くのに一向差支えないのだから、共存共栄を唱える必要がない。日支の共存共栄などは日本人が言っているので、支那人の方からかってそうした言葉を言い出したことはないと、武力では日本に及ばないことを知っている支那は、ボイコットにより日本のこの弱点を衝くことが最も有利な戦法であると考えているから、何かちょっとした事があっても、すぐにボイコットをやって日本の進出を防止せんと試みたのである。

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ボイコットの一因は支那民族資本の勃興であった。支那が外国の市場的位置から脱却せんとし、上海を中心に民族資本が起こるや、まず日本の産業と衝突した。日本の産業は支那よりは進んでいるが、欧米に較べては遅れている。そこで支那の産業が進歩するにしたがって、日本の産業とは競争的地位に立つことになり、日本工業品の輸入により圧迫される支那の工業家は、自己の販路を展開するため、ここに日貨排斥の挙に出て、日貨に代わり国貨[シナの国産品]を以てせんとしたから、日貨排斥にはかならず国貨提唱が付きまとい、国貨の製造販売業者が日貨運動[日貨排斥運動]の中心の一つになった。
同じ外貨[外国製品]でも欧米品は多く高級品であるか、あるいは支那品と競争しない特殊品であるため、欧米品を排斥しても得るところなく、排斥の必要を感じなかったことが、ボイコットの対象が日本品に限られた一因でもある。」(同上書p.324~325)

欧米が排斥されなかったのは、欧米製品は高級品か特殊品で中国製品と競合しなかったからであり、わが国だけが排斥されたのは、日本製品が中国製品と競合したからだという指摘は重要である。
現在の日本人が当時の中国における日貨排斥の歴史をすっかり忘れてしまったために、多くの日本企業が、人件費が安く通貨も安い中国に生産設備を中国に移転してしまっている。このことがいかに危険な事であるかは、長野氏の文章を読めば直感的にわかる。
今の中国は先進国からの設備投資を呼び込んですでに「世界の工場」になっている。
中国に生産設備を移転した日本企業にとっては、中国との共存共栄が望ましいところだが、中国にとっては日本との関係が共存共栄でなくともいくらでも生きていける。
いずれ近いうちに、中国は日本製品のボイコット(日貨排斥)や、サボタージュを仕掛けてくるのではないだろうか。中国にとっては、日本企業を追い出せば、うまくいけば日本企業が残した設備とインフラが安価で手に入るという誘惑がある。ところが、能天気な日本企業は、最先端に近い生産設備を中国に作ってしまっているのだ。

昭和120724北支事変

話を昭和初期の中国の排日運動に戻そう。
この排日運動が、昭和十(1935)年以降局面が変わっていく。再び長野氏の文章を引用する。

「北支問題[満州に境を接する北支は治安が悪かったのです]が起こるや、日貨排斥に代わって対日宣戦の叫びがいたる所にあがった。昭和十年の暮ごろから十一年に入っては、支那人の対日空気は、北から南まで非常に悪化し、従来比較的に良かった北支さえ険悪になった。宋哲元(そうてつげん)の二十九軍[宋哲元は馮玉祥の子分で、蒋介石に対立していた軍人。以前は排日ではなかった]の空気は悪化し、山西は中央支持となり、山東の態度も怪しくなった。民衆の態度は日本人に対して露骨に敵愾心をあらわし、官憲は日本人の旅行者に対してほとんど交戦国民扱いで、その一挙一動は憲兵によって監視された。支那人の細君[奥さん]となっていた日本夫人は続々離婚されて帰国した。…

支那人は傲語して言う『現在吾人[われらシナ人]に残された問題は一つしかない。それは何時日本と戦うかということである』と。」(同上書p.327~328)

教科書ではわが国が一方的に中国を侵略したように書かれているのだが、当時の日本政府は戦争をする気がなく、軍人もしたくなかった。戦争をしたくて仕方がなかったのは中国の方だったのだ。

その当時、戦争を煽ったのは中国においても日本においてもマスコミであった。
以前にこのブログに書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということが判明している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
コミンテルンは以前このブログで書いたように、日本と中国とを戦わせて戦力を消耗させた後に米国を参戦させて、わが国と中国の共産国化を狙っていたのだから、中国がわが国を戦争に挑発する行為を繰り返したことは、すべてコミンテルンの描いたシナリオ通りであったのではないだろうか。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

中国のマスコミによる煽動もかなり激しかったようだ。長野氏は次のように書いている。
「彼らは映画やその他の方法で、支那は日本と戦っても始めは負けるが最後には勝つという宣伝を普遍的に大衆の間に繰り返した。そうしてこの戦争は支那四億万民の存亡にかかる民族戦だとなした。かくて支那全国に漲るものは抗日救国[日本を倒して国を救え]の空気であった。…

昭和111118上海紡績暴動

抗日の気勢があがるとともに、従来に見られない邦人の生命財産に対する危害となり、昭和十一年の八、九月頃に至り、抗日テロがいたる所に起こり、その主なるものでも十七、八件に達し、彼らの凶弾に倒れた邦人も少なくなかった。…」(同上書p.328~329)

わが国の教科書では、中国側が卑劣な挑発行為を何度も繰り返したことが一切書かれていないのだが、戦争をしたくて仕方がなかったのは実は中国の方だったのだ。

わが国にとって、このような中国の排日の歴史の真実が忘却されてしまったことの影響は決して小さくない。そのために今では多くの日本の大企業が、共産主義国の中国に生産設備を移転してしまったのだが、それらの企業の多くはテレビや新聞の広告主でもあり、わが国のマスコミの論調はそれら広告主の圧力により、かなり中国寄りになっている事が多いのである。

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わが国が自国の領土である尖閣諸島を守るべきであることは当然の事なのだが、この問題でわが国が強く出れば出るほど、中国は反日暴動などを何度も仕掛けて、中国に進出した日本企業にジワジワ圧力をかけてくるであろう。これらの大企業に、いずれ反日暴動や従業員のサボタージュを仕掛けられたときに、どうやって企業の設備や技術を守ることが出来ようか。今の反日運動の先頭に立っているのは共産主義青年団で、この闘争が拡大していけばこのサイトで書かれている通り、死者が出てもおかしくないのではないかと思う。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/66410e7f46810a7f5e650f7e7c92a189

中国に進出した日本企業を守ることを優先しようとしてわが国が譲歩を繰り返していけば、領土問題が尖閣諸島だけではなくなっていく可能性が小さくない。しかし、いくらわが国が日本企業を守るために領土で譲歩しても、中国が日本企業に対して反日暴動などを起こさない保証はどこにもない。中国は領土だけでなく日本企業の設備と市場を一気に奪い取ろうとするのではないか。それが最悪のシナリオである。

どう考えてもわが国は中国に対して、まずは領土を守る意思を毅然と示すことが必要になってくるだろう。歴史の真実を知らない民主党内閣がどう対応するか。これからの中国の反日運動の行方に目が離せない。
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