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第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1

最近出版された西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』(徳間書店)を読んでいる。
このシリーズは、戦後占領軍によって焚書処分された本の解説をしているものだが、「GHQ焚書図書」については少しだけ説明が必要だ。
GHQ(占領軍)が昭和20年9月から占領期間中に、わが国の新聞、雑誌、映画、ラジオの放送内容、あらゆる出版物や一部私信までも「検閲」をしていたことは良く知られているが、それとは別に、当時本屋の書棚や図書館などに並べられていた戦前・戦中の書籍のうち、日本人に読ませたくない本7769点を「没収宣伝用刊行物」に指定し日本政府に指定図書の没収をさせていた。その書物は我が国にとっては貴重な歴史書や研究書がかなり含まれていたのである。

西尾幹二

「焚書」といっても、指定される前に購入された学校や図書館や個人の蔵書までは没収されなかったことから一部の書物はある程度入手が可能で、西尾氏は焚書処分された書物を掘り起こされて解説するシリーズの第1巻を4年前に上梓され、今もそのシリーズが出版中で今回が7冊目になる。
このシリーズの本を読むと、占領軍が、どのような史実が書かれた書物を日本人に読ませたくなかったということがよく解り、戦勝国の本来の戦略や意図が透けて見えてきて、日本人が戦後、いかに浅薄な歴史観を押し付けられていることに気づくことが多いのである。

GHQ焚書開封7

今回の『GHQ焚書図書開封7』では、中国研究者の長野朗氏が昭和17年に上梓された『支那三十年』という本が紹介されている。その中で、中国の「排日運動」が何故起こったかについて具体的に書かれている部分を、長野氏の文章を引用しながら紹介したい。

長野氏は中国で「排日運動」が始まった大正8年(1919)には北京の中国人の家に下宿しておられて、「排日運動」が「抗日運動」になるまでを身近に見て来られた人物で、長野氏の中国に関する著作はこの著作も含めて18冊がGHQによって焚書処分の指定を受けているという。

『支那三十年』にはこのように書かれている。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[ ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)
「排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動(ごしうんどう)といわれている。やったのは北京大学の学生だが、起こりはいろいろでここに詳しく述べている暇もないが、第一には英米が欧州戦争[第一次世界大戦]中に、東亜の市場を日本に独占されていたのを、何とかして取戻そうとして、排日を煽り日貨排斥[日本製品ボイコット]を宣伝した[「五四運動」の裏にはイギリスとアメリカがいたというのです。]。欧州戦争中はさすがに気兼ねしていたが[日本は英米側についていたから]、休戦ラッパが鳴り響くや[1918年]忽ち英米新聞が排日の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染し、漸く気勢[「排日」の気運]が出来てきた。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.164)

この部分は一般的なわが国の教科書ではこう記述されている。
「中国では…1911年辛亥革命がおこり、翌年には、南京を中心に孫文を臨時大統領とする中華民国が成立し、新王朝はついにほろんだ。しかし、国内にはなお旧勢力が各地に分立し、軍閥の実力者袁世凱が孫文をしりぞけて大統領となり、北京に政権を樹立した。 第2次大隈内閣はこのような混乱に乗じて、1915 (大正4) 年、中国の袁世凱政府に中国における日本の権益を大幅に拡大する内容のいわゆる二十一ヵ条の要求を提出し、最後通牒を発して要求の大部分をみとめさせた。しかし、中国国内ではこれに反発して排日気運が高まった。」(『もう一度読む 山川日本史』p.270)
と、どこにもイギリスやアメリカの事が書かれていないのだ。

『山川日本史』にかぎらず、どの教科書にも「二十一ヵ条の要求」が排日の直接の原因のように書かれているのだが、この「二十一ヵ条の要求」の内容については従来の既得権益を中国側に確認させる目的で提示されたものが大半で、新たに追加された条項は最終的にはすべて削除されているのである。

孫文

Wikipediaによると、袁世凱の政敵である孫文は、「二十一ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言しているというし、中国に対してはロシア、フランス、イギリス、ドイツも要求している内容と比べて、決して過激なものではなかったというのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82
とすれば、二十一ヵ条の要求が排日の直接の原因であるという教科書の記述を鵜呑みにすることは危険である。
そもそも排日活動は中国だけで起こったわけではない。
例えば第一次世界大戦が終わると、アメリカではカリフォルニア州他各週で日本人の土地所有が禁止され、1924(大正13)年には日本人の移民を国家として禁止している。(排日移民法)
アメリカに対してわが国が悪いことをしたからアメリカが排日になったわけではない。わが国はアメリカの植民地にならずに近代国家に脱皮し、第一次世界大戦の間にわが国が東アジアのマーケットを開拓したことを快く思わない米英が、中国に排日を仕掛けて日本製品をボイコットさせたという長野氏の主張は非常に説得力があるのだ。

五四運動

中国で排日運動が始まった大正8(1921)年の五四運動の時の様子について、長野氏はこう書いている。
「五月四日の夜、親日派の曹汝霖(そうじょりん)邸を焼き討ちし、章駐日公使に負傷させた北京大学生は、…翌日の全市の新聞が大いに彼らの行動に肩を持っているし[北京の全新聞が彼らの行為を絶賛した]、政府の処置が緩やかであったのに元気をだし、忽ち火の手は北京の各大学から天津に伝わり、全国の学校に及んだ。全国の学生運動の中心をなしたのは英米系の学校と、基督教青年会[これも英米系ですね]の幹部とであった。基督教青年会の連中は学生を取り付けるために(取り込むために)映画を見せたり、お茶を出したりして誘い込むのである。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.165-166)

長野氏が下宿していた中国人の家にはよく排日ビラが投げ込まれていて、長野氏は排日の行列を何度も見たそうだが、当時は排日行列に参加すると一日50銭が支払われていたそうで、演説をすると1回あたり50銭、巧い演説には1円、女学生の演説は効能があるので1円が支払われていたそうである。
当時中国には国定教科書がなく、商務印書館とか中華書局とかいうところで勝手に教科書が作られていたが、排日が流行になると盛んに排日記事を入れた教科書が売り出されるようになって、初めて排日教科書が現れたのは大正8年(1919)だったと書かれている。
その当時の排日的教科書の事例として、当時の地理の教科書が紹介されている。
「日本は島国なり、明治維新以来国勢驟(にわか)に盛なり、我が琉球[沖縄をシナのものとしている]を県とし、我が台湾[台湾も自分のものだ、と]を割き、我が旅順大連を租借し、朝鮮を併呑し、奉天、吉林に殖民し、航業商務(海上輸送や各種商業)を我国各地に拡張す。」(同上書p.169)
と、一度も中国の領土になっていないはずの、沖縄も台湾も日本に取られたと書いてある。
中国のやることは、今も昔も変わらない。

そして、
「国民政府になってからは、政府自ら排日教科書を編纂し、童謡に童話に児童劇に、皆排日を盛るに至った。」(同上書p.170)
と、子供の段階から排日を洗脳していったのである。
中国の排日の背景について長野氏はこう書いている。
排日運動を初めから眺めていると、英米人の煽動は実に目に余るものがあった。公吏[英米系の公共団体の職員]が自ら乗り出してやっているし、運動費を出す。それも一度に出すとパッと焚(も)えて後は火の消えたようになるから[一度に全額を出すと、シナ人は最初だけやって、あとは怠けるから]、毎月に出すし[小分けにして出した]、外字新聞[英米人経営の英語新聞]が排日煽動の音頭取りをやるし、それに自分の新聞だけで足らずに、支那紙[シナ語の新聞]を買収して盛んにやったものである。各地の学生会でも、英米人経営の学校が凡て中心になっている。宣教師共が排日運動に大童(おおわらわ)で活動する。殊に基督教青年会の活動が目立っている。英国は未だ日英同盟が存在していたので、表面には出ないで、アメリカを表に出して裏で盛んに活動した。彼らの最も恐れたのは日支の結合である。」(同上書p.171)
「日支が結合すれば、世界何物もこれ[日本とシナの結びつき]を冒すことはできない。それでは彼ら[英米]の野望が達せられないので、まず日支を離間する[日本とシナとの仲を引き裂く]ことに全力を注ぎ、次にこれ[日本とシナ]を衝突させ相闘(あいたたか)わしめようとした。この深謀遠慮は、二十年のたゆみなき努力により、蒋介石の長期抗戦となって現われた。」(同上書p.173)

1929日貨排斥と欧米輸出急増

要するに、英米の狙いは、中国市場を独占することにあった。しかし、中国大陸にはすでにイギリス、ロシア、ドイツ、フランスなどがすでに地歩を築いており、そこで武力を用いて中国市場を奪おうとすれば大戦争とならざるを得ないので避けた。
そこで、第一次大戦で東アジアの市場を拡大していた日本が狙われたということなのだが、そのために中国と日本を離反させ、中国に反日感情を植え付けて中国市場から日本の商品を排除して、その市場をアメリカが奪い取ろうとしたということになる。

1932アメリカが1位になる

そして実際に、1931年の対中国の貿易額は日本、イギリスを抜いてアメリカが第一位となるのであるが、そのやり方が実にひどいのだ。中国人に日貨排斥(日本商品のボイコット)をさせて、日本商品を売れないようにさせるのである。初めはボイコットの期間が短かったのだが、それが次第に長くなって、ボイコットを始める前の日本企業との契約も守られなくなっていく。

「…ボイコット[日本製品のボイコット]の期間が長くなり、又開始前の契約も認めないようになったので、日本の小さい店は倒れるものも出てきた。それにボイコットも部分的でなく多くは全国一斉に行われ、後には南洋まで拡がった。期間が短いと欧米に注文する暇はないが半年一年となると、欧米品が日本品に代ってどんどん入るようになり、この機会に支那にも盛んに工業が起こってきた。ボイコットの方法も深刻になり、違反者を捕えて檻に入れたり、爆弾を投げ込んだり、莫大な罰金を課したり、耳を切ったり、それをすべて私的団体でやり政府は見ているから、支那の政府に抗議しても何にもならない。
…又日貨[日本商品]の没収や日貨に課税したりしてその収入が数千万円に及び、それを争って上海では主謀者の争奪戦が行われた。」(同上書p.180)

このような史実を日本人に知られては、戦勝国が日本人に押し付けた「日本だけが悪かった」という歴史観が成り立たないことは誰でもわかる。長野氏の著作は「戦勝国にとっては都合の悪い史実」が縷々記述されていたために、GHQの焚書処分にあったというしかない。

すでに多くの大企業が中国に進出してしまったのだが、このことは排日運動から抗日に至る歴史に照らして考えれば、非常に危険なことなのだ。
もし長野氏の著作が今も国民に愛読されていたならば、これほど多くの日本企業が中国に工場などの進出をすることはなかったと思うのだが、ここまで進出してしまってはどうしようもないだろう。

今般の領土問題が契機となって、第一次大戦以降と同様な動きが起こっても何の不思議もない。
日系企業労働者にボイコットを仕掛けられ、日貨排斥を仕掛けられ、あるいは反日暴動を仕掛けられた時には、中国に進出した多くの日本の企業はどうやって中国に移した設備や技術や従業員や製品などを守ることが出来ようか。
中国だけではなく韓国でも同様の事が起こってもおかしくないだろう。

長野氏の論文で、中国の排日に英米の勢力が活発に動いたことが書かれていたが、中韓の反日は、今もアメリカが背後で政治家やマスコミを使って工作している可能性を感じている。
アメリカにとっては、自らは血を流すことなく、ライバル国同志の紛争や、ライバル国の内部対立を利用して、お互いを戦わせて消耗させることで自国の覇権を強化するという、戦わずして勝つ戦略がベストのシナリオであろう。
我が国に、中国や、韓国や、ロシアといくら紛争が起こっても、アメリカにプラスになることはあれ、マイナスになることは何もない。

アメリカにとって一番困るのは、わが国が中国や韓国と組むことであるはずだ。しかし、そうさせないためにアメリカはそれぞれの国との関係で紛争の火種をわざと残し、国内にも争いの火種を残して、タイミングを見てそれを刺激して覇権を維持できる仕組みが構築できており、どこの国も簡単には動けない。わが国の総理大臣が短命なのも、そのことと無関係ではないのではないか。
アメリカのやっていることは、長野氏の時代とそれほど変わっていないのかも知れないのだ。真実の歴史を知らなければ、わが国は何度も同じ過ちを繰り返すことになるのではないだろうか。
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米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2

前回の記事で西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封7』に解説されている、長野朗氏の『支那三十年』という本の一部を紹介した。
この当時長野氏は北京の中国人の家に下宿しておられて、中国の排日運動をつぶさに見てこられたのだが、この著書の中で、中国の排日運動は、当初アメリカやイギリスが、対中貿易拡大のために日本企業が築き上げた中国市場における商圏を奪い取る目的で、中国人を煽動しはじめたということを、かなり具体的に書いておられる。

教科書などをいくら読んでも、この時期になぜ突然に中国で排日運動が起こったのかが長い間腑に落ちなかったのだが、長野氏の文章を読んでようやく納得した。
排日運動を仕掛けたことによって、アメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たと書いてあったので、当時の新聞記事を探してみた。こういう時は「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」を使えば、経済関連の古い記事が自宅のPCで検索できる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html
例えば「対支貿易 アメリカが首位」と入力して検索すれば、昭和7年8月2日付の中外商業新報の記事がヒットする。

1932アメリカが1位になる

そこには、アメリカが首位に躍り出た理由がこう書かれている。
「米国が対支輸出国の首位を占めたるに至ったのは、支那の日貨排斥運動によりわが対支輸出が大打撃を蒙ったのに対し、米国が原料品は銀安にも拘らず商品価格の世界的低落の波に乗って銀竪*としても値段はなお出会う程度に低落し米国小麦、綿花、薬煙草、木材等が大量に支那に流入したことによる…」
ここにはアメリカが排日運動を主導したとまでは書かれていないが、最大の受益者がどの国であるかを考えればおおよそ見当のつく話だ。
*当時の米中貿易は決済を銀で行っていた

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この「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」を使えば中国やアメリカ以外でも排日運動が起こっていた事が容易にわかる。例えば昭和10年5月25日付の大阪朝日新聞には、中南米の排日貨で斎藤駐米大使が米政府に「注意喚起」している記事が出ている。わが国の政府も、裏でアメリカが中南米の排日で動いていたことの裏付けなしで、このような会談を米国務省に公式に申し入れることはあり得ない話であろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10002662&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
戦後GHQは、このような戦勝国にとって都合の悪い真実を日本人に忘れさせるために、そのような記録のある書籍を徹底的に洗い出して焚書処分させ、さらに「戦勝国にとって都合の良い歴史」を日本人に押し付けてしまったので、ほとんどの日本人にとってはこのような史実を知る機会が失われてしまったのである。

再び長野朗氏の著作に戻ろう。
長野氏は中国の排日活動を4段階に分けて書いておられる。
第1段階では、排日と親英米の空気を造るために、中国の隅々に宣教師を送り込み、教会や学校や病院を創る一方で、中国人に「排日思想」を植え付け、日貨(日本製品)のボイコットを始めた。
第2段階では、日貨のボイコット期間が長くなり、日本品に代って欧米品が中国に入ってきた。前回はここまでの経緯について書いたのだが、その後、英米資本と中国の民族主義とが結びついていく。それが第三段階である。しばらく長野氏の文章を引用する。
(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

蒋介石

「第三期になってくると、国民政府[蒋介石の国民党政府]が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を考え、全国のボイコットを統一した。しかし表面は国民党によって組織された反日会が本部を上海に設け支部を全国に置き、国民党の支部員がこれ[日貨排斥]にあたった。この時期になると、ボイコットは政府の任務であり、政策として行われた対日経済戦であった。…
英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路をとった。
一つは支那の民族運動として、満州の漢人化となり[清朝が倒れたので、清朝の故地である満州にどんどんシナ人が入っていった]、満州からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満州事変を起こさせるに至った。
一つは経済的の現われで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んできたのである。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封7』p.181~183)

日本を追い詰めた排日運動は二つのコースをたどり、満州では張学良が盛んに日貨排斥を行ない、それが満州事変の引き金となった。もう一つは浙江財閥の蒋介石が英米資本と手を組んで日本を追い詰めたというのである。

「排日の内容も時には変化があった。排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、その後ソ連の指導する中国共産党が現われるにしたがい、大正十二年から少し雲行きが変わってきた。…
学生会のリーダーは、英米系の基督教青年会の幹事から、いつの間にか共産主義青年団の幹部となり、排日から反帝国主義運動になったが、英米人は巧く游(およ)ぎ廻って、その鉾先をたえず日本側に向けたのと、支那人の外国崇拝と日本軽視とは、日本人には[排斥運動を]やるが外人には手を着け得なかった。」(同上書 P.183~184)

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と、排日の主役が英米系のキリスト教会からコミンテルン勢力に移っていくとともに、運動のターゲットが「排日」から「反帝国主義」に変わっていく。コミンテルンにとっては英米の資本主義は敵であり英米資本も一時は狙い撃ちにされたのだが、英米はうまく立ち回ってわが国に鉾先を向けさても、英米人には手を着けられることがなかったとある。
すなわち、英米は反日を優先しソ連を抱き込んで、中国人の「反帝国主義」の圧力をかわすことになるのだが、西尾幹二氏は「日本がなぜ日独伊三国同盟に走り、英米を敵に回さざるをえなかったという背景かが浮かび上がってくるように思います。すなわち、英米がシナ大陸をめぐってソ連に近づく、英米金融資本がコミンテルンと結託し、日本に攻撃を仕掛けてきたことが第二次世界大戦の主たる原因であった」と、巧く纏めておられる。

長野氏が英国の立ち回りの凄さを、具体的に記述しておられる部分を引用しよう。
「大正十五年の北伐[蒋介石の国民党軍が北方軍閥を倒してシナを統一しようとした内戦]には、国共合作[北伐で国民党軍と共産党軍が手を結んだ]であったため、ソ連と英国との仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鉾先をまず英国に向け…

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武漢に飛び出してきた国民革命軍は口々に『打倒英国』を叫び、武漢政府[汪兆銘率いる国民党政府]は漢口の英租界を武力で占領した。すると機を見るに敏なる英国は、あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返して反英の気を抜き…
今まで北方軍閥派の討赤連合軍[共産党潰しを狙っていた北方軍閥]」を助けていたのを、鮮やかに百八十度転回して、…
当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂(こっきょうぶんべい:共産党とたもとをわかつこと)の芝居を打たせ、蒋介石の共産党弾圧[それまでイギリスを敵視していた共産党を弾圧させるように仕向けた]となり、ソ連は英国に背負い投げを食わさるるとともに、反英は又排日となり、国民革命軍が南京まで下ってくると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。この蒋と英国との連合は今日[昭和16年時点]まで続いている。同時に排日も抗日から抗戦へと予定のコースをとってきた。」(同上書 P.186~188)

コミンテルンの息のかかった国共合作軍は、最初は「反帝国主義」でイギリスを狙って、漢口の英租界を武力占領するのだが、英国はすぐさま漢口と九江の英租界を返還して反英の気勢を削ぎ、さらに国共合作軍の蒋介石に接近して、日本に鉾先を向けさせたというのだ。このような巧妙なやり口は、農耕民族の日本人にはとても真似ができないところだ。
かくして、日本は再び狙われることとなるのだが、この時期となると、英米が中国に種をまいた「排日思想」の影響がとても無視できない状況になる。

長野氏はこう書いている。

「排日で日本は経済的打撃を受けたことも少なくなかったが、それにもまして大きな問題は、支那民衆の間に排日の感情を深く浸潤させたことである。ある支那の要人は『支那人は生まれながらにして排日だ』といった。四つか五つの何も知らない子供が、自分の好きな玩具(おもちゃ)で遊んでいるのに『それは日本品だ』と一言いうと、どんなに大事にしていた玩具でも投げ捨てるということである。支那人が日本人からの電話口に出ようとすると、女房と子供が反対して出さないということである。」(同上書 P.189~190)

「しかし何といっても女子供の頭の中に深く刻まれたのには困ったものである。大正八年から排日教育を受けているが、子供の頃に注ぎ込まれたものはなかなか抜けるものではなく、それが国民革命頃[昭和初期の「北伐」の頃]には排日の立派な闘志となっていたし、今度の事変[昭和12年の支那事変]には抗日の指導者となっている。…
街路の正面にも抗日の札があり、門にも壁にも抗日の文句があり、日本品には『仇貨』『敵貨』(敵国の製品)と銘打っているし、紙幣にも排日の文字が捺してあり、時計の中にも(排日と)書いてある。買うものには排日の字があり、町を出れば排日、新聞も書籍も排日、音楽も排日、これで二十年もたてば如何に鈍い支那人でも骨の髄まで排日にならざるを得ないだろう。これが蒋(介石)の長期抗戦の原動力となり、抗日連合戦線の糊付けとなっている。」(同上書 P.192)

中国における「排日の歴史」を見ていくと、ここまで中国人の洗脳が進んでしまったきっかけは英米が作ったものであり、それが日本と中国とを離間させて、最終的に支那事変を生み、日米開戦につながっていった流れなのだが、英米はわが国の勢力を削ぐために、中国人に親英米思想と排日思想を同時に植え付けることから始めたという点は注目して良いだろう。
中国の市場を奪い取ることは、弱小国ならば力で奪い取ることができるが、強国を武力で制圧することは多くの自国兵士の血を流し、さらに全世界からの非難を受けることになってしまう。
だから時間をかけて中国人を親英米・反日に洗脳することから始め、中国人が日本商品を買わなくなるように仕向けたのだ。その手法は今もいろんな国が密かに用いているのではないかと思うのだが、日本人にはそういう発想をする人は少なく、すべてを外交交渉に委ねようとしてしまう。それが誤りなのだと思ってしまう。

相手国が情報戦を仕掛けている段階では、わが国も情報戦で戦う意思が不可欠ではないか。
相手国が我が国について明らかな偽りの歴史を世界に広めようとしているときは、わが国はその主張が誤りである根拠を示し、何が真実であるかを客観的な史料で明らかにして論破し、並行して日本文化の素晴らしさを世界に向けて発信すべきではないのか。
そのことを、戦後のわが国はほとんど何も行わずにすごしてきたし、その場しのぎで安易な謝罪をすることも少なくなかった。

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しかし、わが国がある国から偽りの情報を広められた時に、内容の検証もせずに謝罪してしまうことは、相手国の主張が正しいことを認めたことと同じだ。
また、偽りの情報に対してこれと言った反論をせずにずっと黙っていることは、わが国はその情報を正しいものと暗に認めているという、誤ったメッセージを世界に対して発することになってしまうことにならないか。

占領軍は日本を去る前に、わが国においても「排日思想」の種をばら撒き、そのために「国民の生命と財産を守り領土を守る」という当たり前のことでさえ、国論が割れてしまう国になってしまった。
例えば尖閣の問題では、「中国を刺激するべきでない」と言って中国を増長させる輩がわが国には結構多いのだが、そもそも領土問題というものは、譲歩や妥協でいい結果が残せるものではないだろう。

尖閣

中国も韓国もロシアも、英米が残した「排日思想」を利用し、わが国の「戦争責任」を追及する姿勢を示すだけで、日本との外交交渉は容易に勝利できることを修得済である。
一方、アメリカはわが国が近隣諸国と対立関係にあるという事だけで、わが国の政治に容易に介入できる立ち位置を確保できる。
それぞれの国にとっては、日本が「戦勝国にとって有利な歴史観」に洗脳されたままであることが、最も都合の良い状態にあると考えておいた方が良いのだと思う。

今も中国や韓国では出鱈目な反日教育が行われていることは日本人の多くが知っているのだが、いくら内容が誤っていようが何十年にもわたりそのような教育が続けられ国民が洗脳され続けていることが、将来のわが国にどのような災難をもたらすかは、長野氏の文章を読めばおおよそ見当がつく。
このまま放置しておけば、いずれ災いの鉾先がわが国に向かうことになってしまいかねないのだが、わずか90年程度前の歴史をわが国で、決して再び繰り返すことがないようにしなければならないと思うのだ。

史実に基づかない反日の種は史実で反論して、もっと早いうちから摘み取っておくべきであったと思うのだが、わが国のマスコミは史実を伝えず、正論を言う政治家を失脚させるようなおかしな動きを永年続けてきた。
いくら実力のある政治家でも、マスコミと戦うためには世論の後押しがなければ難しい状況だから、国民の大半が「日本だけが悪かった」とする浅薄な歴史観に洗脳されてしまっている状態を、一日も早く脱する必要がある。

そのためには、これからでも遅くないから、戦後のGHQによる検閲と焚書により長い間封印されていた「戦勝国にとって都合の悪い真実の歴史」を少しずつでも取り戻し、多くの人に広めていくことしかないのだと思う。
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中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3

前回まで、長野朗氏の『支那三十年』というGHQ焚書処分された書物の内容の一部を紹介してきた。

長野氏はこの著書で、中国の排日は中国大陸で最大の交易国であった日本の商圏を奪い取る目的で英米が最初に「排日思想」を中国人に植え付けたものであり、事実アメリカは日本を追い落として中国の最大の交易国となり目的を達したことや、その後中国では二十年もの間行われてきた「排日教育」が徐々に中国人に浸透して民族主義と結びつき、またコミンテルンも「排日思想」を利用するようになっていったことを極めて具体的に叙述しておられる。
また、当時の新聞記事のいくつかを紹介して、長野氏の主張が的を得ていることを検証してみたのだが、このような記事は当時の新聞を検索していけばいくらでも見つけることができる。
当時の日本人はこのような新聞記事を読んでいたのだから、中国人の排日の背後に英米やコミンテルンが関与していたことはある程度理解できていたはずなのだが、このような史実を伝えることが戦後GHQの焚書処分やプレスコードによるマスコミ・出版の自主検閲によって封印されたために忘れ去られて、今では日本人の多くが、「わが国が侵略国であり戦争の原因を作った」という歴史観に洗脳されてしまっていることは非常に残念なことである。
もし、GHQが焚書を行なっていなかったなら、近・現代史が今とは全く異なる内容になっていてもおかしくない。歴史の真実を知れば知るほど、戦後の日本人がいかにひどい歴史観を押し付けられてきたことに、誰しも容易に気が付くはずなのだ。

西尾講演

前置きが長くなったが、今回も「中国の排日」に関して書くことにしたい。
『支那三十年』の著者である長野朗氏が他にも中国に関する本をいくつか書いておられるが、同様にGHQの焚書図書に指定されている『民族戦』という本を、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封7』でその内容を紹介しながら解説しておられる。

英米が仕掛けた「排日思想」になぜ中国人が飛び付いたのか。その経緯については、『支那三十年』にはあまり詳しくは書かれてなかったのだが、この『民族戦』にはその点について長野氏の所見が記述されている。しばらく長野氏の文章を引用させていただく。(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

「…日清戦争までは、支那は大国として日本を蔑視し、日本又支那に敬意を表していたが、日清戦争の結果、その地位は顚倒[日本とシナとの力関係が逆転]した。次いで北清事変[1900年(明治33年)義和団事件]、日露戦争を経て日本の地位が益々向上するにしたがい、支那はその積弱(せきじゃく:だんだんダメな国になっていること)を暴露してきた。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.320)

「かくて日本が朝鮮を合邦し[1910年(明治43)日韓併合]、関東州[旅順・大連のある一帯。日本の租借地]を得、満鉄によって満州に進出し、さらに日独戦[第一次世界大戦のとき、日本がドイツをシナの租借地から一掃した戦い]により山東にまで迫るに及び支那の恐怖は漸く増大した。…
しかるに、欧州大戦が終わって英米が東亜にやって来たのと、支那人の思想が世界思潮の変化につれ変わったために、俄然排日の空気が勃発するに至った。加えるに当時の我が外交のやり口が、支那に誤解を抱かせるものもあり、口に日支親善と支那の領土保全を叫び、内政不干渉を唱えながら、裏の方は一党一派を助けて内政干渉をやり、…」(同上書p.321)
と書いてある。

GHQ焚書開封7

簡単に纏めると、誇り高き中国は日清戦争に敗れて凋落し、日本は日露戦争にも勝って、中国と日本との力関係は逆転してしまった。また当時の中国の政治は乱れていて、軍閥が4つも5つもあり、国がまとまりそうではなかったのだが、第一次大戦の後、英米が中国に進出して「排日思想」を撒き散らしてから流れが変わっていく。わが国が中国に対してやったことは中国に進出した西洋諸国と変わらなかったのだが、中国人はわが国に対してだけは許せなくなっていく。

「支那人には白人崇拝心はあるが、同じ人民[黄色人種である]である日本人に対して崇拝心なく、日本人が白人と同じように支那人に威張るのを小づら憎く思った[これが排日のいちばん大きな理由でしょう]。それに日本が小国でありながら、一躍世界列国の列に入り[第一次大戦後の「五大国」はイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、そして日本でした]、列強の一つとして支那に臨んでいることに対しては、少なからざる嫉妬心さえ持っている.のである。」(同上書p.322)

中国にとっては、同じ黄色人種の日本との戦争に敗れ経済でも大きく遅れをとったことが面白くなかったことは容易に想像ができる。中国人は日本人に対して長い間民族的嫉妬心を抱いていたのだが、それに火をつけたのが英米だったのである。
中国人も英米と同様に日本人を中国市場から追い出そうとした。その背景について、長野氏はこう解説している。

「こうして排日が起こったが、彼らがボイコットを採用したのは、実に日本の経済的弱点に乗じたのである。日本は土地狭くして資源少なく、それに人口が多く、商工中心政策をとってはきたが、原料と販路を他に求めねばならぬ。しかるに隣邦支那には幾多の原料を蔵し、かつ四億の民衆があるから、日本はいきおい原料と販路を支那に求める。この関係を知っている支那人は、日本は支那がなくては生きていけないと思うから、日本を虐(いじ)めるには日貨排斥が第一策だということになる。即ちボイコットをやっていけば、日本人は生存ができなくて支那の言う通りになると思っているし、またいかに虐めても未練があるから[中国がどんなにいじめても、日本は中国のマーケットに未練があるから]、何もなし得ないと思っている。…

支那人は言う。日本は支那がないと生きて行けないから共存共栄かも知れないが、支那は日本がなくても生きて行くのに一向差支えないのだから、共存共栄を唱える必要がない。日支の共存共栄などは日本人が言っているので、支那人の方からかってそうした言葉を言い出したことはないと、武力では日本に及ばないことを知っている支那は、ボイコットにより日本のこの弱点を衝くことが最も有利な戦法であると考えているから、何かちょっとした事があっても、すぐにボイコットをやって日本の進出を防止せんと試みたのである。

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ボイコットの一因は支那民族資本の勃興であった。支那が外国の市場的位置から脱却せんとし、上海を中心に民族資本が起こるや、まず日本の産業と衝突した。日本の産業は支那よりは進んでいるが、欧米に較べては遅れている。そこで支那の産業が進歩するにしたがって、日本の産業とは競争的地位に立つことになり、日本工業品の輸入により圧迫される支那の工業家は、自己の販路を展開するため、ここに日貨排斥の挙に出て、日貨に代わり国貨[シナの国産品]を以てせんとしたから、日貨排斥にはかならず国貨提唱が付きまとい、国貨の製造販売業者が日貨運動[日貨排斥運動]の中心の一つになった。
同じ外貨[外国製品]でも欧米品は多く高級品であるか、あるいは支那品と競争しない特殊品であるため、欧米品を排斥しても得るところなく、排斥の必要を感じなかったことが、ボイコットの対象が日本品に限られた一因でもある。」(同上書p.324~325)

欧米が排斥されなかったのは、欧米製品は高級品か特殊品で中国製品と競合しなかったからであり、わが国だけが排斥されたのは、日本製品が中国製品と競合したからだという指摘は重要である。
現在の日本人が当時の中国における日貨排斥の歴史をすっかり忘れてしまったために、多くの日本企業が、人件費が安く通貨も安い中国に生産設備を中国に移転してしまっている。このことがいかに危険な事であるかは、長野氏の文章を読めば直感的にわかる。
今の中国は先進国からの設備投資を呼び込んですでに「世界の工場」になっている。
中国に生産設備を移転した日本企業にとっては、中国との共存共栄が望ましいところだが、中国にとっては日本との関係が共存共栄でなくともいくらでも生きていける。
いずれ近いうちに、中国は日本製品のボイコット(日貨排斥)や、サボタージュを仕掛けてくるのではないだろうか。中国にとっては、日本企業を追い出せば、うまくいけば日本企業が残した設備とインフラが安価で手に入るという誘惑がある。ところが、能天気な日本企業は、最先端に近い生産設備を中国に作ってしまっているのだ。

昭和120724北支事変

話を昭和初期の中国の排日運動に戻そう。
この排日運動が、昭和十(1935)年以降局面が変わっていく。再び長野氏の文章を引用する。

「北支問題[満州に境を接する北支は治安が悪かったのです]が起こるや、日貨排斥に代わって対日宣戦の叫びがいたる所にあがった。昭和十年の暮ごろから十一年に入っては、支那人の対日空気は、北から南まで非常に悪化し、従来比較的に良かった北支さえ険悪になった。宋哲元(そうてつげん)の二十九軍[宋哲元は馮玉祥の子分で、蒋介石に対立していた軍人。以前は排日ではなかった]の空気は悪化し、山西は中央支持となり、山東の態度も怪しくなった。民衆の態度は日本人に対して露骨に敵愾心をあらわし、官憲は日本人の旅行者に対してほとんど交戦国民扱いで、その一挙一動は憲兵によって監視された。支那人の細君[奥さん]となっていた日本夫人は続々離婚されて帰国した。…

支那人は傲語して言う『現在吾人[われらシナ人]に残された問題は一つしかない。それは何時日本と戦うかということである』と。」(同上書p.327~328)

教科書ではわが国が一方的に中国を侵略したように書かれているのだが、当時の日本政府は戦争をする気がなく、軍人もしたくなかった。戦争をしたくて仕方がなかったのは中国の方だったのだ。

その当時、戦争を煽ったのは中国においても日本においてもマスコミであった。
以前にこのブログに書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということが判明している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
コミンテルンは以前このブログで書いたように、日本と中国とを戦わせて戦力を消耗させた後に米国を参戦させて、わが国と中国の共産国化を狙っていたのだから、中国がわが国を戦争に挑発する行為を繰り返したことは、すべてコミンテルンの描いたシナリオ通りであったのではないだろうか。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

中国のマスコミによる煽動もかなり激しかったようだ。長野氏は次のように書いている。
「彼らは映画やその他の方法で、支那は日本と戦っても始めは負けるが最後には勝つという宣伝を普遍的に大衆の間に繰り返した。そうしてこの戦争は支那四億万民の存亡にかかる民族戦だとなした。かくて支那全国に漲るものは抗日救国[日本を倒して国を救え]の空気であった。…

昭和111118上海紡績暴動

抗日の気勢があがるとともに、従来に見られない邦人の生命財産に対する危害となり、昭和十一年の八、九月頃に至り、抗日テロがいたる所に起こり、その主なるものでも十七、八件に達し、彼らの凶弾に倒れた邦人も少なくなかった。…」(同上書p.328~329)

わが国の教科書では、中国側が卑劣な挑発行為を何度も繰り返したことが一切書かれていないのだが、戦争をしたくて仕方がなかったのは実は中国の方だったのだ。

わが国にとって、このような中国の排日の歴史の真実が忘却されてしまったことの影響は決して小さくない。そのために今では多くの日本の大企業が、共産主義国の中国に生産設備を移転してしまったのだが、それらの企業の多くはテレビや新聞の広告主でもあり、わが国のマスコミの論調はそれら広告主の圧力により、かなり中国寄りになっている事が多いのである。

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わが国が自国の領土である尖閣諸島を守るべきであることは当然の事なのだが、この問題でわが国が強く出れば出るほど、中国は反日暴動などを何度も仕掛けて、中国に進出した日本企業にジワジワ圧力をかけてくるであろう。これらの大企業に、いずれ反日暴動や従業員のサボタージュを仕掛けられたときに、どうやって企業の設備や技術を守ることが出来ようか。今の反日運動の先頭に立っているのは共産主義青年団で、この闘争が拡大していけばこのサイトで書かれている通り、死者が出てもおかしくないのではないかと思う。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/66410e7f46810a7f5e650f7e7c92a189

中国に進出した日本企業を守ることを優先しようとしてわが国が譲歩を繰り返していけば、領土問題が尖閣諸島だけではなくなっていく可能性が小さくない。しかし、いくらわが国が日本企業を守るために領土で譲歩しても、中国が日本企業に対して反日暴動などを起こさない保証はどこにもない。中国は領土だけでなく日本企業の設備と市場を一気に奪い取ろうとするのではないか。それが最悪のシナリオである。

どう考えてもわが国は中国に対して、まずは領土を守る意思を毅然と示すことが必要になってくるだろう。歴史の真実を知らない民主党内閣がどう対応するか。これからの中国の反日運動の行方に目が離せない。
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中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4

前回の記事で昭和11年(1936)の8~9月ごろになって、抗日テロが至る所に起こった経緯について書かれた長野朗氏の『民族戦』の文章を紹介した。今回はその続きである。

長野氏の著書によると、この年の11月に起こった『綏遠問題』によって、中国の抗日運動がピークに達したのだという。この『綏遠問題』とは何か。

長野氏の文章と西尾氏の解説を参考にまとめることにする。
「綏遠」というのは内蒙古にある省の名前で、そこに徳王という蒙古独立運動の指導者がいた。
その徳王が蒙古族を率いて反漢人闘争に立ちあがったのを受け、蒋介石が綏遠に八万の大軍を送り込むのだがその際に、「徳王軍の背後に日本軍がいる。」との情報を流して、全国民に対して民族戦のために蹶起を促したために、中国全土で抗日の機運が一気に盛り上がったというのだ。
わかりやすく言うと、蒋介石は米英が種をまいた「排日思想」のエネルギーを蒙古族の徳王に向けさせて、その鎮圧に利用したということだ。

S111118綏遠問題

以前このブログで紹介した「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」システムで「綏遠問題」を検索すると、昭和11年11月18日付の大阪毎日新聞の記事が見つかった。
この記事によると、「露国はすでに外蒙を完全に勢力下に入れ、さらに北支にも赤化[共産化]の魔手を伸ばそうとしている矢先、この内乱こそ露国にとっては乗ずべき絶好の機会に違いない。」とあり、単純に蒙古族と漢人との争いというだけではなく、ソ連も「排日思想」のエネルギーをうまく用いて、双方を消耗させることは共産革命に導く好機ではないかと述べている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10106668&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

ここでしばらく長野氏の文章を引用する。
(原文は旧字・旧仮名遣いだが、新字・新仮名遣いに変更している。[  ]内は西尾氏の補足部分。以下も同様。)

「綏遠問題は実に抗日に一大転換を与え、戦士は民族戦の英雄として全国民賞賛の的となり、かつ日本に対する自信力を得たため、[シナの民族は]従来の受動的消極的態度から、一変して積極的となった。そこにその年の暮れに西安事件[蒋介石が張学良に監禁され、共産党との協力を迫られた事件]が起こり、蒋介石は膝を共産党に屈し[蒋介石がそれまでは共産党征伐をやっていた蒋介石が共産党に膝を屈した]、共産党不討伐と抗日戦の実行を承諾して漸く免かれ[①共産党と手を握ること、②抗日を実行することを約束させられて解放された]、第二回の国共合作と抗日統一戦線が成立し、支那の抗戦体制が成った。」(西尾幹二GHQ焚書図書開封7』p.332)

西安事変

1936年12月の「西安事件」については教科書には詳しく書かれていないのだが、この事件が起こるまでの8年間は、蒋介石は共産軍を殲滅させるために戦ってきたのであり、新たに20個師団と100機を超える航空機を導入して2週間から1か月以内に共産軍に勝利して戦いを終息させようとしていた矢先に、蒋介石は張学良により拉致・監禁されてしまうのだ。この事件を機にそれまで反共産主義であった蒋介石は豹変し、共産党と手をにぎって抗日に転換することになる。

蒋介石を拉致監禁した張学良は張作霖の息子である。父親の張作霖は反共共産主義であり、1927年4月ににはソ連大使館を捜査して関係者を大量に逮捕し、武器も多数押収している。一方息子の張学良は、1925年には共産党に極秘入党していたとの記録もあるようだ。

このブログで2度に分けて張作霖爆殺事件のことを書いたが、ソ連の情報機関の資料から明らかになっているのは、この張作霖爆殺事件はスターリンの命令に基づいて、コミンテルンの工作員のナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだというのだ。
この事件は調べれば調べる程不自然な事ばかりで、関東軍が疑われるように工作された可能性が極めて高いと私は考えている。主犯とされる河本大作に関しては信頼できる第一次資料は存在せず、通説と爆破された後の現場検証の記録とは完全に矛盾していて、通説が正しいことは物理的にあり得ないことが調べればわかる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

蒋介石の話に戻そう。
かくして、米英が最初に仕掛けた「排日思想」は、蒋介石だけでなくコミンテルンにも利用されて、彼らの工作により、この時期の多くの事件が日本軍の仕業によるものとされていったのではないかと考えている。

特に蒋介石の国民党は宣伝がうまかったようだ。長野氏の『民族戦』の文書をいくつか引用する。

「国民党は宣伝で政権を取っただけに、宣伝はお手のもので、ポスターに漫画に、市内の壁という壁、高い塔、町の入口、すべて排日の文字ならざるはなく、…

紙幣にも排日の二字が印され、商品にも排日の文字があり、民衆は足一歩出づれば、眼に見るもの耳に聞くもの、すべて排日ならざるはなく、長い間には無意識の間に排日思想が民衆の頭に刻み込まれて行った。…

排日教育については国民党のやり方は徹底していた。国民政府内に教科書の編纂委員会が出来、その方針を決定し、編纂を管理するにいたったから、排日教育は政府により行わるることとなった。国民党は自ら排日を行ったほか、その指導下に反日会なる排日実行団体が生まれ、これを通じて全国小学校に向け、たえず排日の教材を配布し、その他童謡に童話に、児童劇に、悉く激越な文字を羅列し、児童の頭に排日を植え付けて行った。…

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かくて学生から商人へ、労働者へ、小学生へと広まっていった排日思想は、この事変[支那事変]により都市から農村へと拡大され、且つ事変の過程を通じて極めて深刻となり先鋭化しているから、現状においては日支親善の如きは一つの口頭禅[口先だけの念仏]で、如何にして尖鋭化した抗日思想を多少緩和するかくらいで、日支の感情融和の如き、一朝一夕のことでない。」(同上書 p.333-337)

蒋介石がここまでして排日思想を広めたことの意図はどこにあったのだろうか。ここからが重要な部分である。長野氏の文章を再び引用させていただく。

「次は民衆の戦争参加である。彼らはこの戦い[支那事変]を支那民族全部の戦いに持っていこうとしている。彼らは正規軍の力だけでは、日本軍に抗し得ないことを知っている。そこで民衆動員を企て、日本軍の背後にも一つの戦線を造ろうとした。これが遊撃隊である。かくて従来の戦争に見られない現象が起こった。即ち戦線が前方と後方とに二つ出来た。前方には正規軍、後方には民衆軍である。正規軍が二百万、これと同じくらいの数の遊撃隊がいる。この遊撃隊の組織に当たったのは主として共産軍である。…

ロシアの満州謀略

この民衆軍の組織に当たっては、その核心となるものがなくては、民衆だけでは成り立たない。そこで共産軍はその全力を挙げて遊撃区に入り、中央軍、雑軍もまた加わった。この正規軍を核心として、その周囲に遊撃隊が編成されていった。…

この後方戦線の仕事は、前方戦線とは全く異ったものであった。また従来の不正規戦やゲリラ戦とも異っている。従来の遊撃隊が主として相手方の後方攪乱であったのと異って、後方攪乱はむしろ従であり、その主任務は政治・経済・思想工作であった。政治工作として彼らは日本軍の被占領区域[日本軍に占領された地域]に入り込んで、自分たちの県長を任命し、地方政府を造り、課税し、学校を設け、紙幣を発行し、新聞を発行し、郵便局までを設けた。経済方面では日本側が必要とするものを一切供給せず、皆日本から持って来させるようにし、日本の国力消耗を計り、又日本品を購買しないようにした。彼らは農村に拠り、日本軍の占拠する都市と対立した。経済絶交のために農村は自給自足の状態にかえり原料生産から食糧生産に転じ[加工原料を作るのではなく、主食の生産に移った]、ために棉花の生産等は大いに減じた。又農村に手工業を興して、工業品の自給を企てた。[農村で手工業もはじめた。]…

思想戦においては二つの目標を設けた。一つは民衆獲得である。民衆を日支いずれが獲得するかは重大な問題である。民衆の獲得には民心を獲得すべきであり、民心を得るには民衆生活を安定にせねばならぬ。そのため民衆の生活問題については種々とやった。一つは抗日思想涵養である。日本側の和平運動に対し、長期抗戦のためには、民衆の間に抗日運動をうんと注ぎ込む必要があるので、民衆組織を通じて抗日宣伝に努めた。かくて抗日思想はこの機会に更に大衆の間に深刻に入っていった。」(同上書 p.338-340)

長野氏の視点は、「各民族のぶつかり合いが戦争を惹起せしめるのだ」という極めてシンプルなものだ。今まで資本主義が戦争を起こすとかファシズムが戦争にひきずりこむなどという考え方を吹き込まれてきたが、長野氏の視点の方がはるかに説得力を感じるのだ。 アメリカの民族戦は資本侵略であり、ロシアの民族戦は武力による領土侵略であり、中国の民族戦は民衆を盾にして人海戦術でもってする侵略であったのだが、今の世界もそういう視点が必要なのではないか。

おおよそ百年前の世界と異なるのは、わが国において「民族の衝突」に対処しようにも、戦後の長い期間にわたってそのような事態になることを「想定外」としてきた点だろう。今のわが国で、ある国が一方的に攻撃してきた場合にどう対処すればよいのか、その対策が十分に検討されているのかどうかが心配になってくる。

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いずれの国においても、国を守るためには健全な愛国心が不可欠だと思うのだが、戦後のわが国においては、愛国心を育てる教育が学校で充分になされてきたとは思えない。
「ひとりひとりの命を大切に」という思想ももちろん大切だが、侵略する側からすれば抵抗する人間が少なくて逃げる人間が多ければ、その国を侵略することは容易であることは言うまでもない。
自らが犠牲になっても国を守り家族を守るという行為よりも自分の命が優先する価値観に国民が染まっていて、どうして国を守ることが出来ようか。

私には戦後にGHQが広めた歴史観にせよ、国家観にせよ、家族観にせよ、わが国が二度と戦わない国にする意図が隠されているような気がしてならない。そして中国や韓国の戦後の反日も、背後でアメリカなどの国が動いている可能性を感じている。

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今回の騒動で多くの日本企業が中国から撤退することになるだろう。日本企業が徹足したあとに、アメリカ企業が中国に進出したとしたら、昭和初期に実際に起こったことを繰り返すことになる。

以前にも書いたが、アメリカにとっては、ライバル国同志の紛争や、ライバル国の内部対立を利用すれば、自らは血を流すことなく、お互いを戦わせて消耗させることで自国の覇権を強化できる。我が国に、中国や、韓国や、ロシアといくら紛争が起こっても、アメリカにとっては、わが国が3国で開拓した市場を奪うチャンスでもあり、武器や兵器を売るチャンスでもある。プラスになることはあれ、マイナスになることは何もないのだ。

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わが国は中韓ロがいかなる挑発をしてこようとも、領土問題では安易な妥協をすべきではないと思う。安易な妥協を繰り返せば沖縄も対馬も危なくなると考えるべきだし、自国の国土を守れない国は世界から軽蔑されるだけである。
かといって、武力衝突することはアメリカの思う壺かもしれないし、国力の消耗することは避けたいことは言うまでもない。
やるべきことは、これ以上問題を先送りすることなく、中韓ロがこれ以上武力挑発できない方向に世界の世論を向けていくしかないように思う。

いずれの領土問題についても、もともとわが国の領土であることを確かな証拠を示して説明することができるのである。その主張をわが国が他の世界諸国と国民に向けて繰り返しアピールし、中韓ロいずれの国も歴史を捏造して自国民を教育していることを示し、民間レベルでも、ネットを通じて世界にも領土問題の真実を広めていくべきではないのか。
中韓ロの主張に理がない事が世界に浸透すれば、それぞれの国が強硬策でわが国の領土を奪おうとすることが全世界から「野蛮な行為である」と認識され、そうすれば反日のエネルギーは弱まらざるを得ないだろう。

中韓ロの民衆が領土問題について自国側に理がない事を知れば、3国の民衆がこれまでの政府情報が虚偽であることを知り、それまでの反日エネルギーがいずれ自国政府に向けられる可能性も小さくはない。その兆候が出てきてはじめて、わが国は有利な立ち位置に立って交渉を行なうことが可能となるのだと思う。
相手国の情報戦には、情報戦で徹底的に戦うことが原則であり、何もしなければ先方のプロパガンダにより、再びわが国が「悪者」のレッテルを貼られることになるだけだ。
わが国のみを悪者とする「戦勝国にとって都合の良い歴史観」では、わが国が戦勝国に対して外交で勝利することがありえないことを、もうそろそろ認識すべきである。

中韓ロが理のない挑発行為を行った今こそ、戦後の長きにわたり戦勝国から押し付けられてきた歴史観から、国民が脱却するチャンスではないのか。
以前にも書いたが、これからでも遅くないから、戦後のGHQによる検閲と焚書により長い間封印されていた「戦勝国にとって都合の悪い真実の歴史」を少しずつでも取り戻し、国内外の多くの人に広めていくことが重要だと思う。
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当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5

前回まで4回に分けて、GHQに焚書処分された長野朗氏の2つの著書の文章を当時の新聞記事とあわせて紹介したが、戦前の日本人の文章や新聞記事は信用できないという人も少なくないだろう。
そこで、今回はアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ氏が1938年(昭和13年)11月に著した、”Behind the News in China”(邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』:芙蓉書房出版)という書物を紹介することにしたい。

無題

この本の中でウィリアムズ氏は、アメリカ人の視点で、中国が排日に至った経緯をこう述べている。

「日本は、…アメリカやヨーロッパに若者を留学させた。やがて日本は西洋列強が新しく見出した保護すべき友人という立場から、対等のライバルとみなす程度まで競争力を貯め、成長してきた。
彼ら(西洋列強国)の態度は変わった。日本の背中をやさしく叩いて、『お前はいい子だ』とはもう言わなくなった。彼らは態度を変え、団結して対抗するようになった。気が利いており、かつ危険なプロパガンダなのだが、日本の商品や国民に対する差別によって日本は世界中にその名誉を毀損され、人々に嫌われただけではなかった。日本をなだめすかして鎖国の孤立から引きずり出したあの西洋列強が、ゆっくりとそして段々と日本の工業生産物を世界の市場から締め出し始めたのだった。」(田中秀雄訳『中国の戦争宣伝の内幕』p.13-14)

中国の戦争宣伝の内幕

要するに西洋諸国は、わが国がこんなに早く西洋技術を修得して西洋のライバル国となるとは考えてもいなかったのである。西洋諸国は自国の製品を日本市場に売りつけて、日本から富を吸い上げるつもりだったのが、逆に西洋諸国の販売国に日本製品が食い込んで行った。それがアメリカをはじめとする西洋諸国には不愉快であったのだ。
そこで彼らは、わが国に対して「危険なプロパガンダ」を使ってでも、日本商品を市場から締め出そうとしたのである。
長野氏の著作では最初に排日を仕掛けたのは英米であったと書かれていたが、アメリカ人であるウィリアムズ氏も長野氏と同じことを書いていることに注目したい。

では当時の中国はどうであったのか。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「日本には中国というよき教訓の対象となる国がある。隣国で大きく、その重い図体であえぎあえぎしていた。四億五千万の人々が住んでいながら、自らの足で立つこともできないでいた。貧困と悲惨にどっぷりと浸かっていた。その豊かな国土は軍閥によって強奪、掠奪され、西洋列強によって富が吸い取られていた。…

日本は西洋列強のライバルとなった。中国は彼らの奴隷となった。それゆえに日本は自分が一人の味方もいない事を思い知らされた。そして中国は、かつて外国人を殺戮し掠奪したという過去も忘れられて、突然同情と援助に値する国家と国民というように持ち上げられたのだ。」(同上書p.14-15)

このように、中国民衆は長い間、軍閥と西洋列強によって搾取されるばかりであったのだが、西洋列国が「危険なプロパガンダ」により日本商品を市場から排除する際に、中国を支援して排日思想を植え付けて民衆にそれを煽ったために、わが国は世界で孤立していくことになってしまったということになる。

西洋諸国が日本との貿易を避けようとするので、新たなビジネスを開拓せざるを得なくなったわが国は、当時掠奪と殺戮を繰り返す約30万の匪賊が横行していた満州に目をつけ、その地から張学良ら軍閥と傭兵匪賊集団を放逐し、学校や鉄道を作り工場などを誘致して、満州を北支人が嫉妬するほどの国に変えてしまったのである。

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しかし、わが国に新たな危機が到来する。ウィリアムズ氏の文章を続けよう。

「この危機はソビエトロシアからやってきた。西洋諸国は中国で経済計画を作成していた。特にその中の一国は中国に大きな権益を持っていた。ソビエトロシアは政治的計画を作成していた。極東に起きたドラマにおけるソビエトの役割はまだほとんど語られていない。だから私が話そう。モスクワが日本と中国との間に戦争の火を点じたのだ。…

この四五年、ソビエトは中国に足場を持とうとしていた。…
共産主義者たちは飢える数百万の中国人を使って、金持ちや蒋介石、そして彼の南京の軍閥政府、そしてすべての外国人相手に戦わせようと慎重に計画していた。彼らは差し押さえた金持ちの財産、安楽な生活、有り余る食い物をすべての飢えた苦力たちに保証したのだ。…
蒋介石は驚き、『反日』という方法で中国を統一する考えに絶望的にしがみついた。そして彼や金持たちから大衆の視線をそらそうとしたのだ。いくつかの西洋列強からも彼はひそかにそれを奨励された。蒋介石は中国共産党の戦列についに加わった。

日本は中国だけでなく、国家を超えた反日計画に直面していることを理解した。それは西洋列強とリンクしていたのだ。日本が、またある西洋国家さえもが中国の混乱に秩序を与えてくれると期待していた蒋介石は日本の敵と合流した。しかし日本は果実に錐で穴をあけるような反日の嵐が遠くまで広がり、侮辱と周期的な自国民の殺害に至っても平和的であろうとした。」(同上書p.21-22)

ソ連満州の武装共産党員

ソビエトはさらに日本と中国を戦わせようと圧力をかけていく。これは以前このブログで書いた通り、スターリンは日中を戦わせてわが国を消耗させ、さらに日本をアメリカと戦わせて敗北させて、わが国を共産主義陣営に取り込む戦略であったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

中国にせよ西洋列強にしても、満州の発展をそのまま放置して彼らのプロパガンダの嘘が明らかになってしまうことは、極めて都合の悪い事であった。ウィリアムズ氏はこう書いている。

満州とコミンテルン

「新しくできた満州国蒋介石やその配下の軍閥にとって目の上のたんこぶか、喉に刺さったとげのようなものであった。それは中国共産党にもロシアのボルシェヴィキにとってもそうであった。というのも、貧相きわまる満州から、幸福と繁栄の帝国に満州国は変貌を遂げていたからだ。日本が傀儡政権をうち立て、満州人を搾取しているというプロパガンダが世界的に広まっていてもである。日本の統治であっても、疑いなく満州帝国は繁栄をきわめるだろう。満州国の清潔で賑やかな町と村、よく秩序だった生活、近代的な鉄道と、中国本土の惨めで貧しい、紊乱した状態を比較してみるがいい。たちどころに南京政府もソビエトロシアも秩序というものからほど遠い事が理解されるだろう。

そういう時に西安事件が起こったのだ。それから北京の近くの盧溝橋での日中両国間の敵意の爆発までには大した時間はかからなかった。宣戦布告なき戦争である。真実はまだわからない。しかしその背後にあるものを見ようとする者には、真実は知れ渡っているのである。」(同上書p.23-24)

西安事件というのは前回の記事で書いた通り、1936年12月に反共の蒋介石が張学良に拉致・監禁された事件で、それ以降蒋介石はソビエトのコントロール下に置かれるようになる。
西安事件のあと、中国共産党はわが国を戦争に巻き込むために何をやったか。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「…中国共産党は日本人を血祭りに挙げることに決めた。もし日本人が二、三千名殺されたして、誰が対応するのだ。虐殺は日本を激昂させるだろう。自国民を殺されて行動を起こさない国はない。面目は立たない。日本人虐殺は日本との戦争になるだろう。蒋介石も戦わざるを得なくなる。

そしてまた、蒋介石は南京で新たに軍隊を熱狂的に作り直そうとしていた。そしてこれによって中国中にさらに大きなスケールでの日本人男女、子供の虐殺がはじまることになった。これには朝鮮人も含まれる。防御方法を持たない無辜の日本人たちは、家で、店で屠殺され、町や村の街路で暴徒に殺された。数えきれない多数の日本人、朝鮮人たちがこうして死んだ。孤立したコミュニティで殺されていく。」(同上書p.32-33)

こういう史実はほとんどわが国では知らされておらず、日本人は中国大陸で悪いことをしてきたと多くの日本人は学校やテレビ番組などで教え込まれてきた。
以前にこのブログでも通州事件のことを書いたが、中国大陸でこの時期に大量に虐殺されたのは日本人の方なのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

この通州事件のことをウィリアムズ氏はこう書いている。
「私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。20名はほんの子供のような少女だった。家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉を繋がれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。空中にぶらぶらされる拷問である。共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。
日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供らの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして1日中続いた。家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見した時には、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼らの血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。…
…中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの『助けてくれ』との叫びを聞こえなくさせた。目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。」(同上書p.33-34)

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通州事件のことは、以前このブログで詳しく書いたので繰り返さないが、死亡者の名簿も現場の写真も、生存者の手記も残されている。わが国では新聞や雑誌にも詳しく報道されている。ウィリアムズ氏の手記には誇張はないと思う。

しかし、この様な酷い事をした中国兵をせっかく日本軍が摑まえても、「罪を憎んで人を憎まず」のサムライ精神で臨み、「もうああいうことをしてはいけない。さあ行け。」と説いて帰したというのである。その点は、尖閣事件における不法侵入者に対する今回の日本政府の対応と似ている。
通州事件」の際に、わが国が世界に対して、このような残虐きわまりない行為を訴えていれば、世界が中国を非難していたのだろうが、日本側は中国側の酷い行為を世界にアピールしなかったために、世界は中国でこのような虐殺行為があったことを知られていないとウィリアムズ氏は書いている。ちなみにこの本が刊行されたのは、「通州事件」が起きてからわずか1年4か月しか経っていないのだ。

「…もし他の国でこういうことが起きれば、そのニュースは世界中に広まって、その恐ろしさに縮み上がるだろう。そして殺された人々の国は直ちに行動を起こすだろう。しかし、日本人は宣伝が下手である。…

中国にいる外国人には驚きとしか思えないのだが、日本はすぐには動かない。彼らは共産主義者によって虐殺が遂行されていたことが分っていた。また西洋諸国が日本を貿易市場から締め出した以上、北支との間でビジネスをしなければならないことが分っていた。率直に言って、中国とは戦争をしたくなかったのである。中国政府がロシアのボルシェヴィズムの罠に絡め取られていることも分っていた。しかしそれでも中国との人々とは戦争をしたくはなかったのである。なぜなら中国は隣国であり、もし望むならば、生きていくためのなくてはならないお客様だったのである。」(同上書p.36)

日本人は我慢強い民族であるが故に、わが国を蒋介石との戦争に引きずり込むために、中国共産党はここまで卑劣な行為で挑発をしなければならなかったのかも知れないが、歴史の真実は、こんな酷いことをされても、わが国は世界にアピールすることもせず、中国と戦おうともしなかったのである。

しかしながら戦後占領軍によって、このような「戦勝国にとって都合の悪い史実」が封印され、「わが国が侵略国家であり、戦争責任はわが国にある」という薄っぺらい歴史観を、日本人は戦勝国から押し付けられてしまった。
学校で学んできた歴史も、マスコミによる昭和史の解説も、いずれも同じ歴史観で語られるために、ほとんどの日本人がその歴史観に洗脳されてしまっているのが現状だ。しかし、中国や韓国や北朝鮮のような言論の自由がない国が、彼らの主張する歴史を声高にわが国に押し付けようとすることには、余程の魂胆があると考えるべきではないのか。

いずれ近現代史は全面的に書き換えられる日がるだろうが、その為には多くの日本人が現在流布されている歴史観の誤りに気がつき、正しい歴史を世界に広める強い意志が不可欠である。なぜなら、中国にせよ韓国にせよロシアにせよアメリカにせよ、わが国が「戦勝国にとって都合の良い」歴史観に洗脳されていることが、それぞれの国の国益に叶うからである。わかりやすく言うと、戦争の原因をすべてわが国に擦り付けることができるだけでなく、少し圧力をかけるだけでわが国から資金援助を得ることも可能だからである。
史実はその歴史観とは程遠いものであったのだが、彼らはいくら真実が明らかになっても、わが国がその歴史観を変えないように、様々な圧力をかけてくるだろう。
なぜならわが国が歴史の真実を知りそれを世界に広めることは、彼らの国はわが国から資金援助が得られないばかりではなく、今度は彼らの国が「戦争犯罪者」の汚名を被ることになりかねないからだ。

パール博士顕彰碑

戦勝国が我が国を裁いた東京裁判の11人の判事の中でただ一人、日本人被告全員無罪の判決を下したインド代表判事のラダビノード・パール氏の顕彰碑が東京都千代田区にあり、その碑にはこう刻まれている。
「時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう」

第二次大戦が終わって67年以上が経過した。そろそろ日本人も真実の歴史に目覚めるべき時ではないだろうか。
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蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6

前回の記事で、1938年にアメリカ人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズが著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)という本の中から、中国が「排日」に至った背景から「通州事件」に至る部分を紹介した。

この「通州事件」は誰が考えても重大事件であり、このように日本人が大量に虐殺されるような事件がなければわが国が戦争に巻き込まれることはなかったと私は考える。

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この事件については当時の新聞や雑誌などで大きく報道され、中国人に虐殺された日本人の名前もすべてわかっており、史実であることを否定しようがないのだが、この事件を記述している歴史書は極めて少ないし、ましてテレビや新聞などで解説されることは私の記憶では皆無である。
なぜこのような重要な史実が日本人に知らされないのかと誰でも疑問に思うだろう。

このブログで何度も書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者が書き換えてきた。歴史とは単なる史実の叙述でなく、勝者にとって都合よく書き換えられ、時には史実がねじ曲げられて叙述されたものに過ぎない。そしてわが国の日本史教科書などに書かれている近現代史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」と考えて良い。

通州事件」がほとんどの教科書に載らないのは、「戦勝国にとっては都合の悪い真実」であり、この事件を日本人に知らせてしまっては、それをきっかけに「戦勝国が日本人に押し付けた歴史」の嘘が誰の目にも明らかになることを戦勝国が怖れたからであろう。
日本人が虐殺された重要事件は他にいくつもあるのだが、このような事件が日本人にほとんど伝えられていないのは、今も中国、ロシアや日本の左翼勢力などが、文部省やマスコミ・出版各社に圧力をかけて、通州事件のような「戦勝国にとっては都合の悪い真実」を封印させ続けているからではないのか。

ソ連テロ計画

封印された史実はこの時代の中国に結構多い。そしてほとんどの事件に共産勢力が絡んでいるのだ。そのことを理解していただくために、一般的な歴史教科書とウィリアムズの本を少し読み比べてみよう。

手もとにある『もう一度読む山川の日本史』には、日中戦争についてこう記している。 「…1937(昭和12)年7月7~8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突がおこった(盧溝橋事件)。つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦火は中国中部にもひろがった。日本がつぎつぎに大軍をおくって戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗した。こうして事変は宣戦布告がないままに、本格的な日中戦争に突入した。」(p.301)

このような事実の羅列だけのつまらない記述に学生時代は閉口しながら、テストのためにいやいや丸暗記した記憶があるのだが、この文章を普通に読めば、ほとんどの人は日本軍が一方的に大軍を送って中国を侵略し、中国は国民党と共産党が協力して日本軍と戦った解釈するだろう。しかしよく調べてみると、事実はそんなものではなかった。
盧溝橋事件の部分は省略して、1937年(昭和12年)8月から始まる上海での日中両軍の衝突の部分を、ウィリアムズ氏はどう描いているのか紹介しよう。

ウィリアムズ氏によると、蒋介石にはドイツの軍事顧問団がついていて、その顧問団が蒋介石に対して、日本に対しては単独では勝てないので外国に干渉させるように仕向けることをアドバイスし、さらに日本に干渉させる国はアメリカが最適で、日本が世界の侵略を企んでいるとの情報を流せば、アメリカは「世界から民主主義を救え」との理由で動き出すとの考えを述べたという。
そこで蒋介石はどういう行動をとったのか。しばらく、ウィリアムズ氏の文章を引用する。

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蒋介石はドイツ軍事顧問たちから干渉を引き起こすよう耳にささやかれて、上海に着目した。そこには上海租界*があった。外国人がいて、外国の銀行があって、会社があって、外国人住宅があった。ここで事を起こせばもっと簡単ではないのか?町は日本人の避難者でごった返していた。日本の水兵と陸戦隊は彼らを乗船させ、国外に出そうとして忙しかった。上海での戦いは結果として日本人を外国人区域に閉じ込め、そして外国人が殺害されることは、外国の干渉と日本に対抗する強力な同盟形成を意味することになる。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.41)
*租界:清朝末期から第二次大戦末期まで中国にあった、治外法権の外国人居留地

ドイツ軍事顧問たちはこの蒋介石の案に賛成し、戦いを決して長引かせず、「一撃して去る」ことをアドバイスしたという。
蒋介石は上海の混雑した地域に、十万を超える部下を集めて軍服を着せずに苦力のような格好で潜り込ませた。当時上海にいた日本の水兵と陸戦隊はわずかに二千名であったという。
圧倒的な数的有利な状態で、蒋介石軍は攻撃を開始する。攻撃を仕掛けたのは蒋介石軍なのだ。

「戦いは始まった。しかし、最初の銃撃が始まる前に、モスクワとヨーロッパのプロパガンダ機関、中国の報道機関が動き始めていた。
世界では、統一されて目覚めた中国が侵略者に直面しているのだと報道されていた。…

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戦いは(日本軍が)圧倒的な不利にもかかわらず、血の1週間を持ちこたえた。しかしながら世界の新聞は日本を罵り、嘲った。特にアメリカが率先していた。と同時にある外国の国々は日本の没落を熱望しつつ、中国軍に援助と武器の供給を始めたのだ。貿易においては日本はライバルであるからである。…」(同上書p.43-44)

日本軍は圧倒的な数的不利の状況を良く持ちこたえたのだ。蒋介石はドイツ顧問団がすぐに撤退させよとのアドバイスを無視して、アメリカを巻き込むために、多くの犠牲者を出しながら戦いを続けることになる。

「干渉をもたらそうとする絶望的な努力が続けられていた。中国は何度も何度も日本軍の砲火を国際租界に命中させようと企んでいた。最初の頃だが、中国軍機がキャセイホテルやパレスホテルに爆弾を投下さえした。中国人が何百人も死んだ。…

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…毎日毎日、日本は蒋介石軍の精鋭を倒していった。…
しかし、ドイツ顧問団にとっては何年もかけて蒋介石のために作り上げた軍隊が消耗し、消滅の危機にあった。報道など気にしていられなかったのだ。アメリカ人よ、自国の新聞をよく読んでもらいたい。新しい統一された中国が日本と戦っていると書かれている。しかし実際の問題としては、蒋介石は「面子」を保つために彼の部下を犠牲にしていたのだ。そして中国にいる人々はほぼ一致して(特に上海では)軍閥のボスが上海から出て行き、平和を取り戻させてくれと神に祈っていたのだ。」(同上書p.44-46)

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日本軍を挑発して国際租界地に砲撃させるために蒋介石は多くの部下を失い、中国人苦力の住む建物から銃を構えて多くの苦力を生贄にしたが、日本軍は蒋介石の攻撃の意図を理解し、他国から干渉される原因となるような行動はとらなかったのだ。

そのことはウィリアムズ氏だけが書いているのではない。アメリカの新聞報道を見ても同様の事が書かれているようだ。
Wikipediaによると1937年8月30日付のニューヨークタイムスでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じ、またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

その後蒋介石はプロパガンダを強化して世界に訴えるようになっていく。欧米から物資や兵器の支援をつなぎ止めるためにはそれが必要だったのだが、宣伝の使い方は極めて巧妙で、わが国とは較べものにならなかった。ウィリアムズ氏はこう書いている。

「総統と軍閥の軍隊が日本の打撃に落ちこぼれ始めると、蒋介石は宣伝力を強化した。これはモスクワとあるヨーロッパの国々と結びついた。あらゆる退却が戦略の転換に、あらゆる敗北が英雄的な行為へと変えられた。後には嘘だと証明されるのだが、勝利の物語を新聞に載せさせた。同時に日本の本当の勝利の価値を貶めて差引きゼロにさせようとした。…
これらは、すべて外国の騙されやすい人々に鵜呑みにされたのである。…プロパガンダ機械によって世界中に蔓延した物語がその耳に吹き込まれ、多くの国の紙面に『中国は勝っている』という見出しが躍っていたのである。…

中国の勝利という物語が幾つも合わさってくると、一方では日本人は狂った野蛮人だということに照明を当て、キャセイホテル爆撃のような流血を巧妙に隠すことをおっ始めた。」(同上書p.48-49)

この軍事衝突で上海は陥落したのだが、この戦い(第二次上海事変)で日本側の犠牲者も大きかった。調べると戦死者は9115名、戦傷者は31257名だ。
さらに日本軍の掃討作戦で蒋介石軍の南方拠点である宿縣も陥落しようとしていた。あまりに早く宿縣が陥落しては欧米からの支援を得るのに不利となるので、ここで蒋介石はさらに大きな芝居を打つ。日本に飛行機を1機だけ飛ばして空襲を試みたのだ。しかし爆弾を搭載すると飛行高度が下がるので日本軍機に確実に撃墜されてしまう。そこで爆弾を積まずに高々度を飛行し九州南部の山の上から日本国民に向けた反戦パンフレットをばら撒いてすぐに引き返したのである。
蒋介石の宣伝班は世界に向けて6機 (本当は1機) の爆弾を持った飛行機が日本に深く潜入して日本軍を驚かせたとのニュースを発信し、それをアメリカの新聞は「中国軍機が日本を空襲」と報道したという。

さらに蒋介石夫人の宋美齢は外国人特派員を前に日本空襲の際に爆弾を落とさずにパンフレットを撒いたかの理由を語るのである。再びウィリアムズ氏の著書を引用する。

「彼女は世界にその理由を語ったのだ。彼女は会議の結果、日本空襲を優先する数名の将軍たちは勧告だけでなく強硬に日本の都市爆撃を主張したと思われると打ち明けた。彼女はクリスチャンで、そのバイブルを夫はいつも持ち歩いている。夫は立ち上がり、バイブルに手を置いて情感を込めて宣言した。
『こういうことはキリスト教的ではない。我々は世界に中国が人道的であることを示さなければならない。日本の野蛮人と同じことをしてはならない。つまり罪のない女子供の上に死の雨を降らせてはならない。』…

…ここに町や村を敵によって空から爆撃されているだけでなく、自国の飛行機が敵国を空襲できる時でも、彼らと同じ行為を拒否する侵略された国の国民の統治者がいた。蒋介石夫人に味方する小利口な新聞どもは大きな同情の波を作り、宿縣の敗北と夫の軍の逃走をひた隠しにして、落ち込んだ穴の中から拾い上げ、別口で生涯の信用を与えたのである。」(同上書p.61-62)

宋美齢

宋美齢は明らかな嘘を述べたのであるが、このスピーチで蒋介石は欧米のシンパシーを獲得することに成功してしまったのだ。

つくづく思うのだが、日本人は昔も今も、このような明らかな嘘に対する対応が甘くないだろうか。「相手を刺戟しない」とか、「真実は歴史が証明する」として相手が垂れ流す嘘にキチンと反論しない姿勢は、何も知らない国からすれば「日本が反論しないのならば、中国の方が正しいのではないか」と解釈されても仕方がないではないか。
昨今の領土問題にせよ、従軍慰安婦問題にせよ、反論すべき時にしっかりと対応しなかったことが往々にして問題を複雑にしてしまっている。
日本人は嫌なことをすぐに忘れようとするだが、相手の国はわが国が何も反論しないことをいいことに、自国民に嘘の歴史を教え込む教育を開始し洗脳してしまっているのだ。しかるべき時に相手に言うべきことを言わずに問題を先送りすることが、さらに大きな災いを生む原因となりうることを知るべきである。

ウィリアムズ氏の文章に戻ろう。ウィリアムズ氏は宋美齢のスピーチがプロパガンダであることを当然理解している。
「私が中国、その恐ろしい戦場、骨と皮ばかりの町や村から帰ってきたとき、私は心に残る別の画像を消し去ることができなかった。金持ちの政治家と軍閥とそのずる賢い妻、片手で麻薬中毒患者を殺害しながら片手で同胞に麻薬を売っている将軍、立派なスピーチをして国民の改善を約束しながら、その軍隊を維持するために貧弱な稼ぎの中から貢物を取り立てて人々を飢え死にさせ、彼の家族と取り巻きは豪華な宮殿に住んでいる一人の軍閥の画像を。」(同上書p.63)
ウィリアムズ氏は母国のアメリカ人に、中国の発表を信じることの危険性をこの著書で訴えようとしたのだが、アメリカの反日の流れは止まらなかった。

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ところで、この第二次上海事件の時に上海にいて、日本人捕虜と日本人に協力して逮捕された上海住民に対して行われた中国人兵士による残虐な処刑の一部始終を画像に収めた人物がいる。スイス人写真家トム・シメン氏は、生前にこの写真を息子のジョン・シメン氏に将来公開するように伝え、ジョン氏は現在、出版社を探しているのだそうだ。次のURLで写真の一部(残虐映像を含む)を見ることができる。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html

ここで最初に紹介した『もう一度読む山川の日本史』の記述をもう一度読んでみてほしい。そして日本人の多くがこの時期に虐殺された事件が幾つもあることを知ってほしい。

そして、この中国排日シリーズで何度か紹介した「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ」の「新聞記事文庫簡易検索」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.htmlで実際に検索して当時の新聞が何を書いているかを読んで、当時の空気を感じ取ってほしいと思う。このサイトで検索キーワードに「虐殺」と入れるだけで、経済記事にもかかわらず393件もヒットする時代の異常さに気が付いて欲しい。そして誰が、どの組織が、どの国が虐殺行為を行っていたかを記事から読み取って欲しい。中国、ソ連などの共産主義につながる勢力が恐ろしい活動をしていたことが誰でもわかるだろう。
当時の新聞を普通に読んで、史実を追いながらこの時代の「空気」に触れると、ほとんどの人は戦争の責任が日本にあるとは思わないと思うし、わが国が侵略国だと呼ばれることに疑問を感じることだろう。真実は、わが国が中国大陸を侵略したのではなく、侵略国にされたのではないのか。

もちろん当時の新聞やウィリアムズ氏の記述には、それなりのバイアスがかかっていることだろう。その点を割り引いて考えても、現在使われている教科書などに書かれている歴史は、中国やロシアや共産主義者の立場からは極めて都合のいい叙述になっていることについては理解して頂けると思う。

時事問題でも歴史記述でも同様だが、様々な利害対立が存在する場合は、立場が違えば主張する内容が違っていて当たり前だ。少なくとも、明らかな嘘を今も堂々と吐き続ける国が声高に主張し続ける歴史を、日本人が鵜呑みにすることは危険な事であるはずだ。

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しかしながらわが国は、それらの国が一方的に主張する歴史の信憑性を確認もしないまま何度も謝罪し、相手国を喜ばせるために巨額の支援を続けてきたのだが、もし、もともとわが国に非がなかったことが明らかになれば、このようなことを独断で決めた政治家は「売国奴」と呼ばれても仕方がない。

「近いうちに」次の選挙があるはずなのだが、今度の選挙はかなり重要な選挙になる。世論に迎合したり、近隣諸国に甘い政治家を選んでは、かなりの確率で領土を失ってしまうだろう。今度の選挙こそは、マスコミの世論誘導に惑わされず、わが国の危機を乗り越えてくれる智恵と勇気のある政治家を選びたいものである。
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プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7

前々回から紹介している”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の著者であるフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズはサンフランシスコの新聞社の記者であった頃に東洋からアメリカのチャイナタウンに向かう暗黒街の麻薬ルートの情報を追及していたことがあり、彼によると蒋介石はかつて阿片の最大の取引をしていた実績がある人物だったという。

1937年から翌年にかけて、その蒋介石が「排日」活動でアメリカなど西洋諸国からの人気が高まった時期に、西洋諸国の歓心を買うために麻薬売買を禁止する決定を下し、阿片常習者の苦力たちを「逮捕」し、銃殺刑に処せられるところを世界に公開したのだが、その処刑に著者のウィリアムズ氏が立ち会ったことが紹介した著書に記述されている。

「中国の陰気な群衆は自分のかわいそうな友人たちの処刑を目撃している。そして処刑は抑止効果があると思わせられた。しかし実際問題としてまもなくその軍閥や役人の手先どもがちょこまかちょこまか小走りに人々に阿片を売り歩いていのである。このようにして二三週間もすると、別の一群の『吸飲者』たちが駆り集められて、撃たれ、写真に撮られ、死んだことが海外の新聞に出る。彼らの多くが吸飲者であることは疑いない。しかし鎮圧を命じ、使用者を死に至らしめたあの役人どもの手先によって、麻薬商売は続きに続いているのだ。」(『中国の戦争宣伝の内幕』p.95)

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すなわち、蒋介石阿片常習者の苦力たちを、阿片の販売先として利用したのちに、西洋諸国に対し阿片販売を取り締まる国としてアピールするために処刑を公開にして利用したのである。そうしておきながら、麻薬商売をやめる気などは毛頭なかったというのである。
日本が侵略したとされる満州も、麻薬常習者が多かった。ウィリアムズは満州について次のように記している。

溥儀

「日本人が入ってくる前の満州は麻薬中毒患者であふれていた。その製造と使用は大きく広がっており、公的に認められていた。しかしその製造と消費についての何の記録も統計もなかった。軍閥が追放されてから、日本が新満州帝国の建設を始め、満州人の血統を持つプリンスが玉座に着いた。日本人が最初にやったことは麻薬売買の記録を正式に作ることである。覚えていて欲しい。これは満州で全く初めて作られたのである。

そして長い間の使用の結果の、驚愕すべき堕落の実態が完全に明らかにされたのである。平行して、出生、建築、病院、住宅、政府の各役所の記録が作られていった。これは法と秩序、治安と安定を確立させるためのものであった。日本はこれらの発見を誇りを持って世界に発信した。しかし世界はおおむね学校や病院その他の数とかに目配せもしなかった。国際連盟のあるジュネーブやアメリカは特にひどかった。…

満州での麻薬中毒とその使用を止めさせるための叩き台を作るというアイデアに基づいて満州の日本人の骨身を惜しまぬ努力によって集められた統計は、これらの偽善者によって反日の材料に使われたのだ。…

驚愕と痛みもいくらか感じながら、日本は自分たちが作ったリハビリテーションのための仕事が、自分たちに襲い掛かってくるのを発見した。日本人は宣伝が下手である。逆襲する代わりに彼らはすねた。もし西洋世界が自分たちのしていることが理解できなかったのなら「くたばりやがれ」というものだ。日本人のまさに沈黙は、数百万の新聞読者の目をぎくりとさせるような見出しとなり、彼らの明らかな罪悪の証拠として受け取られた。」(同上書 p.95-97)

日本は満州の麻薬を排除し、満州の治安と安定を確立させたのたが、中国の権力者にとっは麻薬の利権が脅かされたことを喜ぶはずがなかった。
いくら日本のしたことが道義的に正しくても、マスコミは往々にして権力者につながっている。ウィリアムズはここでも、日本人の宣伝下手を指摘している。 ウィリアムズの文章を続ける。

蒋介石

「さあ、中国、あるいは蒋介石一派は、麻薬まみれになり、実際に麻薬取引をやっているのは自分らなのに、悪臭ぷんぷんの悲しげな嘆願を世界に向けて放ち始めた。日本は中国人に阿片を吸い、ヘロイン、コカインを使うようにと勧め、我国の精神とモラルを破壊しようとしているのである。中国に住む事情通の外国人は、これは笑い話でしかない。しかし南京政府は、これはいつばれると思う罪障からの逃げ道であり、反日のためのいいプロパガンダであり、宣伝なのだ。めったにないチャンスでありペテンだったが、絶好の機会を捉えていた。軍閥が忌み嫌う日本人は、彼らのひどい罪を背負わされて世界から非難されたのだ。…

ほかのどんな国民と較べても、日本人ほど女性や麻薬の売買を忌み嫌う国民はいない。…

それにもかかわらず世界中の善男善女は、恐怖に陥り、思考停止になったままに、日本が哀れな国を征服しただけではなく、人々に阿片吸引を押し付けていると言うわけだ。…」(同上書 p.97-98)

蒋介石がこのような明らかな嘘を垂れ流した時に、日本人が具体的にどのような対応をしたかは具体的には書かれていないが、ウィリアムズ氏の「日本人のまさに沈黙は…罪悪の証拠として受け取られた」という文章からすれば、ほとんど反論せず黙っていたのであろう。

今もわが国は、外国から誹謗中傷を受けた時には、「沈黙は金なり」で沈黙することが多いのだが、このような考え方は相手が情報戦を仕掛けてきた際には世界では通用するはずがない。何も知らない世界ではむしろ、わが国が反論しないのは、わが国に後ろめたいものがあるのだろうと考えるのが普通ではないのか。
蒋介石は自国の犯罪をそのままわが国の責任に擦り付けるという明らかな嘘をついたのだが、わが国が反論らしき反論をしないために、世界では蒋介石の言葉が真実らしいと受け取られてしまった。

情報操作を仕掛ける国は、嘘を承知でそれを何度も浴びせてくる。そのような情報戦を仕掛けられた場合には、その都度しっかり反論し、世界にわが国の正しさを明確に論拠を示して主張する以外に方法はないのだ。

わが国の政治家も外務省も、このような歴史を知らないから、同じ誤りを何度も繰り返しすばかりである。

話をウィリアムズ氏の著書に戻そう。

中国のプロパガンダは言葉や活字だけでなく、写真でも行われている。下の画像は学生時代の教科書で見たような気がするのだが、ウィリアムズの著書にこの写真が作成された経緯が書かれている。

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「カメラはアメリカにおける中国のプロパガンダの中で、日本への反感と中国への軍閥への同情を引き起こすのに掛け値のない役割を演ずるものである。これらの中国の宣伝屋たによって、今までかつてなかったほど沢山の贋物写真がアメリカの新聞雑誌にこっそりと挿入されている。彼らは次々に恐怖を越させようと、実にタイミングよくリリースしていったのだ。
代表作の一つは、上海の中心の爆撃で破壊された通りの廃墟に泣き叫ぶ赤ん坊のポーズの写真だ。これはニュースを操った。そしてこれは合衆国では最近でも毎日のようにプリントされている。写真は破壊されたビルディングを写している。そしてボロを着たちっちゃな赤ん坊が目をこすり、口を開けて泣き叫んでいるのがはっきりとわかる。…
何百万のアメリカ人が、まさに赤ん坊が泣き叫んでいる、爆撃で破壊された通りのさまを見た。『無法行為』をしでかした『非人間的な日本人』への反感から、義憤が立ち上がってきたのだ。このような写真が沢山ある。そしてこれらの写真は日本の敵には大変な名声を博してきた。」(同上書 p.119-120)

この泣き叫ぶ赤ん坊の写真は、アメリカの『ライフ』誌1937年10月4日号に掲載された有名なものだが、ウィリアムズ氏によると、前回の記事で書いた第二次上海事件のさなかに、日本軍を挑発するために中国空軍がキャセイホテルやパレスホテルを爆撃して中国の民間人が多数死んだ現場に、この赤ん坊が持ち込まれて撮影されたことが書かれている。
要するに、中国軍が中国人を空爆し虐殺した現場に、カメラと赤ん坊を持ち込んで泣いているところを撮影したというのだ。

51WHQF8P35L.jpg

この写真がアメリカの世論を沸騰させて「反日」に仕向けさせた。
中国のプロパガンダ写真を解説している『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社)の解説によると、この写真は『ライフ』1938年1月3日号で「読者の選ぶ1937年ニュース物語ベスト10」に選出されたという。この一枚の写真がアメリカの世論に強烈な印象を与えて、アメリカの世論を反日に傾けたことは想像に難くない。

d-nankinsyasin04.jpg

この著書を見るとこの赤ん坊を別のアングルで映した画像や運んでいる画像なども紹介されており、ウィリアムズ氏の記述の正しさが画像でも確認できる。

中国がこの時期に捏造した写真は他にも多数あり、上記図書にも多数の事例が出ておりほとんどが世界を「反日」に仕向ける意図で作成されたと言っていい。
上記図書の一部を、写真付きで紹介しているサイトがある。この図書を購入されるにせよしないにせよ、一度目を通されることをお勧めしたい。
http://www.geocities.jp/kawasaki_to/d-nankinsyasin.html

日本と中国との戦いは、戦争としては日本が勝っていたにせよ、宣伝戦に大敗して世界の敵にされてしまった。蒋介石の背後にはソ連共産党があり、わが国はソ連の思惑通り日米戦に巻き込まれていくのである。

以前にこのブログで書いたが、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会における次のスターリン演説が気にかかる。この演説以降の歴史は、しばらくこの言葉の通りに展開しているのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

アメリカを戦争に巻き込むには、中国にとってはアメリカ人の「正義感」を刺戟するプロパガンダが不可欠であったはずだ。そのためには日本は絶対に「邪悪な国」でなければならなかった。しかし、日本軍は統制がとれていて、真実をそのまま伝えてもアメリカの介入は期待できなかった。そこで中国は嘘八百でわが国を「邪悪な国」にするプロパガンダに走ることになるのだが、これに対するわが国の対応が甘すぎた。
わが国にとっては馬鹿馬鹿しいほどの嘘であっても、何も反論しなければ世界はそう信じてしまうとまでは考えなかったようだ。いつの間にか世界は嘘にまみれたプロパガンダにより「反日」に染まり、わが国の反論ができない状況になっていたのである。

「嘘も百回言えば本当になる」という言葉があるが、情報戦対策が甘くほとんど反論しないわが国に対しては、この手法による効果が絶大であることを証明してしまったのだ。中国はこの手法で、ほとんどカネをかけずに、世界の世論を「反日」に染めていったのである。
もしわが国が、相手の事実無根のプロパガンダに対し、即座に嘘であることを世界に訴えていたら少しは流れが変わっていたと考えるのは私だけではないだろう。

尖閣問題にせよ従軍慰安婦問題にせよ、今も同様に甘い対応が続いており、明らかな嘘を広められてもわが国は「大人の対応」とか「いたずらに相手を刺戟すべきではない」と言って、公式には事実を世界に広める行動を殆んど何もしてこなかった。
歴史を知らない経済人が、反日国家に巨額の投資をしたために、両国の関係が悪化することを怖れて圧力をかけた面もあるようだが、そもそも反日を国是とするような国に投資すること自体が根本的な誤りであることに、そろそろ経済人は気が付かねばならないし、政府も国益のかかる重要な判断に、企業の事情を配慮すべきとは思わない。
それと、何よりも、戦後の長きにわたりわが国で封印されてきた中国や共産党の工作の史実をもっと日本人は知るべきだと思う。このことをしっかり学んでおかなければ、また同じ誤りを繰り返すことになるだけではないか。
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「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8

前回まで3回にわたり、米人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ”が著した”Behind the News in China” (邦訳『中国の戦争宣伝の内幕』)の内容の一部を紹介してきた。この著書は1938年11月にアメリカで刊行され、とりわけ1936年12月に蒋介石が中国共産党に拉致監禁された西安事件から1938年10月の日本軍による広東攻略までの背景や中国の戦争宣伝についてかなり具体的に描かれている。
私がこのブログで紹介したのは、日本人が大量に虐殺された昭和12年(1937)7月29日の通州事件と、同年8月9日に日本兵が射殺されたことから始まった上海での日中の軍事衝突(第二次上海事変)であるが、この第二次上海事変は3ヵ月続き、11月9日の中国軍の一斉退却で終わっている。

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そしてその第二次上海事変が終了した約1か月後、この軍事衝突を早く収束させるために日本軍は国民政府の首都である南京攻略を目指したのだが、この南京攻略の後に所謂「南京大虐殺」があったという説がある。ところが、その10か月後に出版されたウィリアムズ氏の著書においては、まだ日も浅い時期に起きたはずの「南京大虐殺」について、全く何も記載されていないのである。ここで、日本軍の南京攻略について簡単に纏めておく。

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このブログで何度も書いたように、当時の国際社会が日本に対して厳しい見方をすることが多かったので、上海派遣軍司令官の松井石根(まついいわね)大将は全軍に軍規の徹底を呼びかけた上で、昭和12(1937)年12月9日に籠城する国民政府軍に対し投降勧告を出し、彼らが拒否したのを確認してから翌日に攻撃を開始しているのだが、こともあろうに蒋介石は20万人近くの市民を置き去りにしたまま12月7日に南京を夜間脱出しているのだ。
日本軍の攻撃開始後には、国民政府軍の唐生智将軍までが南京から脱出したために国民政府軍の戦意は衰え、12月13日に南京が陥落し日本軍が城内に入っているのだが、「戦勝国にとって都合のよい歴史」では、それから約6週間にかけて日本軍が一般市民を殺戮した(「南京大虐殺」)という説が、今も強く主張されている。

南京地図

国民政府軍の責任ある地位の者が逃げて秩序ある降伏が出来なくなったために、一部の中国兵が軍服を捨て、平服に着替えて「安全区」に逃げ込みゲリラとなって抵抗したことから、日本軍がゲリラ狩りを行ない処刑を行なった事実はある。そもそもゲリラ戦は多くの無辜の市民を巻き込む懸念があることから、ゲリラをその場で処刑することはハーグ陸戦規定により認められている事であり、これを「虐殺」と呼ぶことは誤りである。
ゲリラと間違えられて犠牲になった民間人がいた可能性は否定できないという論者がいるが、それは遺憾な事故ではあっても、組織的な「虐殺」とは根本的に異なる。
蒋介石が首都攻防戦を決断しながら兵を残して逃亡したためにそのような状況になったのであり、本来その責任が問われるべきはどう考えても国民政府軍の方にある。

南京事件

上の画像が南京事件を伝えた12月10日の朝日新聞だが、国民政府軍は南京を廃墟にして出て行ったと伝えており、中国側に多くの「残忍行為」があったようなのだが、具体的な記述はないので詳しいことは分からない。この記事を読む限りでは、日本軍が問題のある行動をとったことは考えにくい。

もし日本軍による「南京大虐殺」と呼ぶべき事件があったとする説が正しいのであれば、もっと当時の記録に残っていなければおかしいのだが、前回まで紹介したウィリアムズ氏の”Behind the News in China”には一言も書かれていないし、この時期南京には日本だけではなく世界のジャーナリストが多数いたにもかかわらず、その当時の報道や記録で日本軍が虐殺行為を見たという記録は存在しないのだ。
評論家の阿羅健一氏が、当時の英米の新聞や雑誌の報道内容を調査したところによると、南京大虐殺について触れた記事や社説は皆無だったとのことである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason14.html

中国共産党も共産軍も、南京陥落について国民党のだらしなさは書いても、日本軍が大虐殺を行なったとは一言も書かれていないという指摘もある。
高木桂蔵氏が『抗戦中の中国軍事』という中国で刊行された軍事に関する刊行物を研究されたレポートを『月曜評論』(昭和24年2月27日号)に発表しておられる。
そのレポートによると中国共産党の「軍事雑誌」1938(昭和13)年6月20日、刊行第109号に南京の戦闘に関する最初の記事が出ているのだそうだが、そこには
「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京…」
と書かれているだけで、どこにも日本軍による市民の虐殺とか捕虜の大量殺戮のことが出てこないようなのだ。常識的に考えて、もしそのようなことがあったら中国共産党が黙っているはずがなかったことは誰でもわかることなのだが、何も書かれていないことに注目すべきである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason11.html

当時わが国に対して厳しい姿勢であった、英米だけでなく中国においてすら、日本軍の大虐殺があったとはどこにも書かれていない。にもかかわらず、なぜ「南京大虐殺」があったと言えるのか。

このブログで縷々述べてきたように、当時のわが国は世界の報道を牛耳る力などは微塵もなく、前回の記事に書いたように、中国の虚偽のプロパガンダに翻弄されていたのが現実だ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

この様な史実を知れば知るほど、誰でも「南京大虐殺」という事件があったという説を疑わざるを得なくなるのだが、学校教育では戦後の長い間、「南京大虐殺」があったとして指導されてきた。

以前の教科書では、日本軍が虐殺した中国人の数は30万人とか20万人とか、人数について諸説があるような書き方が記述されていた記憶があるが、市販されている『もう一度読む山川日本史』ではこう書かれている。
「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。この時日本軍は、非戦闘員を含む多数の中国人を殺傷して、国際的に大きな非難をうけた(南京事件)」(p.302)

人数の議論については書かなくなったにせよ、日本軍が非戦闘員を虐殺したような書き方は今も健在である。「戦勝国にとって都合のよい歴史」においては、いくら論拠が怪しいものであっても、日本軍が虐殺に関与した点だけは、どうしても譲れないようなのだ。

しかし、何度も言うように、もし日本軍による「大虐殺」というような事件があったなら、常識的に考えて、世界中で大きく報道されてわが国が非難されていないはずがない。英米も、中国も当時の記録が残っていないということは、世界が問題にするような規模の事件では到底なかったはずなのだ。

「南京大虐殺」については、ネットでも様々な議論がなされている。当時の記録や写真を豊富に集められて、説得力のあるサイトはいくつもあるが、一度目を通していただきたいのが次のサイトである。
http://www.history.gr.jp/~nanking/

上記サイトに明確に書かれているように、当時の陥落前の南京の人口は20万人であった。そして南京陥落後は難民が帰還して1か月後には25万人に人口が増えていることが公式文書で確認できるのだ。
もし日本人による虐殺があったとしても人口以上の虐殺はあり得ず、また、虐殺が今も続いている場所に人々が戻ってくるようなこともあり得ないことは誰でもわかるだろう。
難民が帰還して人口が増えたということは、常識的に考えれば南京は安全であったのだという事なのだ。

南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、すべて国際委員会の管理する安全区(難民区)内に居住しており、松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなく、放火もなかった。だからこそ、国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏が、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている。

ラーベ

「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/reason05.html
もし虐殺行為があれば、このような書状を出すはずがない。

また金陵大学病院医師マッカラム氏は、当時の日記および手記にこのような記録を残しているという。
「(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。」
「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。」 
「(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。」

無名戦士の墓

南京陥落に際しては、日本軍の死者だけでなく中国軍の死者も出ていた。次のURLでは日本軍が「中国無名戦士の墓」を建てたことが写真付きで紹介されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/peace.html#15
昭和12年12月24日の朝日新聞にはこう書かれている。

「抗日の世迷い言に乗せられたとは言え、敵兵も又、華と散ったのである、戦野に亡骸を横たえ風雨にさらされた哀れな彼ら、が勇士達の目には大和魂の涙が浮かぶ、無名戦士達よ眠れ!白木にすべる筆の運びも彼らを思えばこそ暫し渋る優しき心の墓標だ。」
敵の無名戦士の墓標を建てる日本軍兵士が、罪のない婦女子を大量虐殺するという説は、どう考えても違和感がありすぎるのだ。

そもそも本物として通用する虐殺現場の写真は世の中に1枚も存在しないのだ。
前回の記事で『南京事件「証拠写真」を検証する』という本を紹介したが、その本の中で、日本軍による大虐殺があったという証拠写真としてよく用いられる143枚すべてを検証し、すべてが南京事件とは何の関係もない写真であることが論証されている。

南京風景

上の画像は毎日新聞社の佐藤カメラマンが12月17日に南京で撮影した画像だが、実在している写真は、南京の避難民が喜んでいる姿ばかりである。中国人難民の自然な表情からみても、日本軍を怖れているとは思えない。

南京事件1220

当時の写真は数多く残されているが、一度次のURLで確認されればよい。普通の人はこれらの写真を見て、日本軍により「大虐殺」があったと誰も思わないだろう。
http://www.online-utility.org/image/gallery.jsp?title=Battle+of+Nanking

虐殺の証拠となる記事もなければ、写真もない。日本人が多数虐殺された通州事件とは違い、「南京大虐殺」には死亡者のリストも作成されていない。
そもそも、その直前まで中国軍は、とんでもない嘘のプロパガンダで日本軍を貶めてきたのだ。普通に考えれば「南京大虐殺」は作り話としか考えられず、また作り話であるから「虐殺者数」がコロコロ変わっている。
あまり話題にならないが、この事件の直後の1938年2月に中国が国際連盟で「南京で日本軍による中国民間人2万人の虐殺があった」と発言しているが、この発言すら当時の世界のマスコミはほとんど採りあげなかった。当時は世界の記者が南京にいたので、デマだと即座に判断される内容だから報道されなかったと考えるのが自然だろう。
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shincho0738.pdf

他にもいろいろ論拠はあるがこれくらいにして、普通の人が普通に考えれば「南京大虐殺」はなかったか、もし一部の中国民衆が便意兵と誤認されて巻き添えを食ったとしても、日本軍が組織的に虐殺したことについてはありえないと考えられる程度のものであったと思われる。そのことは、南京にかなりの自国人がいたアメリカもイギリスもソ連も当然分っていたはずである。

「南京大虐殺」という話が公式の場に登場し広がっていくのは、実は昭和21年の5月3日に始まった「東京裁判」以降のことなのである。では、なぜ占領軍は東京裁判で日本人による30万人の大量虐殺の話を、唐突に持ち込んだのだろうか。

img20121010221811520.jpg

このブログで何度も「いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者が書き換えてきた。歴史とは単なる史実の叙述でなく、勝者にとって都合よく書き換えられ、時には史実がねじ曲げられて叙述されたものに過ぎない。そしてわが国の日本史教科書などに書かれている近現代史は『戦勝国にとって都合の良い歴史』と考えて良い。」と書いてきた。
そして「戦勝国にとって都合の良い歴史」を書くためには、戦勝国が参戦することに崇高な目的と、勝利したことに意義があるものでなければならないのだが、そのストーリーを成り立たせる為には日本が余程「邪悪な国家」でなければないことは誰でもわかる。

しかし戦勝国のアメリカはわが国に2つの原爆を落とし、東京や大阪などの大空襲で無辜の民を大量虐殺した。ソ連も我が国のポツダム宣言受諾後に日本を侵略し多くの日本兵をシベリアに抑留し、極寒の地で強制労働に従事させて死に至らしめた。また中国共産党は、日本を戦争に引き摺り込むために多くの日本人を虐殺し、その背後にはソ連共産党がいた。アメリカの2つの原爆の死者だけでも21万人、ソ連のシベリア抑留時に死亡した日本人は29万人とも言われている。
それらの戦勝国の戦争犯罪を打ち消すためには、それ以上に酷い事をわが国が行っていれば好都合なのだが、わが国の方が「邪悪な国家」であることを全世界が納得するような事実はどこにも存在しなかった。ならば捏造するしかないではないか。

史実の捏造なら中国人の得意なところである。そこで戦勝国は、日本軍が「30万人」もの中国人民衆を虐殺したということにして、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が完成した。
それまで中国の公式発表では日本軍による虐殺は2万人で、その数字ですら世界は信憑性を疑ったのだが、それをとんでもない数字に膨らませたのだ。「30万人」という数字は、アメリカやソ連にとっては自国の戦争犯罪を打ち消すために、こだわる理由のある数字ではなかったのか。

img20121011201017724.jpg

東京裁判は戦勝国のリンチ裁判のようなものである。判決文の多くは真実ではない。そして「戦勝国にとって都合の良い歴史」の解釈に基づき、7人の被告が死刑に処せられている。
その上でわが国に存在する「戦勝国にとって都合の悪い史実」が書かれた書物を徹底的に焚書処分し、同時にあらゆる出版物や放送原稿や私信までを検閲し、「戦勝国にとって都合の悪い」ことの一切を書いたり放送したりしないようにした一方、「戦勝国に都合の良い歴史」だけを広めて、日本軍が諸悪の根源であるイメージを日本人に洗脳した。

そして、「戦勝国にとって都合の良い歴史」を固定化させるために、中国・韓国・北朝鮮には「反日史観」を、わが国には「自虐史観」を広め、領土を曖昧にして、東アジアに紛争の種を残したということではないのか。そして中国・韓国・北朝鮮およびわが国の左翼が、「戦勝国にとって都合の悪い歴史」を封印して日本人の歴史認識の洗脳状態を維持する役割を、今も担っているようにも思えるのだ。

アメリカにとってもロシアにとっても、黄色人種同士が領土問題や歴史認識で対立したり、同様の問題でわが国内で対立があることは好都合であるはずだ。対立がある限りは、何もせずとも、自国の戦争犯罪が話題に上ることがないという都合の良い立ち位置に留まることができる。またアメリカにとっては、それらの国のいずれかがアメリカの経済的地位を脅かす国に成長しそうな勢いであったとしても、その対立関係をうまく利用すれば、すぐにその芽を潰すことが可能である。
領土問題にせよ従軍慰安婦問題にせよ、日中や日韓の諸問題にアメリカが介入してくれて解決を図ることについて過度な期待することは誤りではないのか。アメリカがそれらの問題にわが国のために介入することの方が、アメリカの国益を損なう可能性がありうるとの視点を持つことも重要だと思う。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史