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盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか

以前このブログで、昭和12年(1937)7月7日深夜に起こった「盧溝橋事件」のことを書いたことがある。
教科書などの多くは、一方的にわが国が中国に侵略したかのような書き方になっているのだが、日中戦争が泥沼化していった契機となった「盧溝橋事件」を仕掛けたのは、中国共産党であったことが今では明らかとなっている。

周恩来

中国共産党周恩来(1898-1976)が、昭和24年(1949)10月1日(中華人民共和国成立した日)に「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と演説しており、また中国共産党軍の兵士パンフレットにも「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」と書かれているというから、中国共産党が仕掛けたことについては今では疑いようがない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

要するに中国共産党が国民党軍に潜り込んで日本軍と国民政府軍との衝突を意図的に作りだし、中国共産党が「漁夫の利」を得ようとしたというのが歴史の真実なのだ。だとすれば、なぜわが国が「侵略国」と呼ばれなければならないのか。

盧溝橋

この時日本軍が盧溝橋に駐留していたことがすでに侵略行為だと考える人がいるのだが、この指摘は間違いである。
当時清国に駐留していたのは我が国だけではなかった。1900年の『義和団事件』の後で清国が欧米列国及び我が国との間で締結した『北京議定書』に基づいて、わが国を含む8ヶ国が、居留民保護の目的で中国各地に駐留していたのであり、盧溝橋に日本軍がいたことについては「侵略」と呼ばれる筋合いのものではない。

日中戦争が中国共産党の挑発により始まり、日本軍が中国に駐留していたことが「侵略」に当たらないことは明らかであるにもかかわらず、わが国の教科書やテレビなどの解説では、未だにわが国が一方的に中国を侵略したとのストーリーで描かれることが多いのは、嘆かわしい事である。

東京裁判において、わが国が「平和に対する罪」を犯したとして東條英機らが死刑に処せられたことは、わが国が侵略国であると裁かれたようなものなのだが、その「戦勝国にとって都合の良い歴史」を日本人の間に広めるために、多くの歴史的事実が歪められて書かれたり、「戦勝国にとって都合の悪い真実」が伏せられたりしていることを、このブログで何度か書いてきた。このことは、日中戦争においても全く同様なのである。

『もう一度読む 山川の日本史』には盧溝橋事件につづいて、こう記述している。
「…つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦果は中国全土に広がった。日本軍がつぎつぎに大軍をおくって戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して、抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗した。こうして事変は宣戦布告がないままに、本格的な日中戦争に発展した。」
と、盧溝橋事件のあとで日本が次々と大軍を送って戦線を拡大したというのだが、これは決して公平な記述ではないだろう。
今回は、なぜわが国が中国との戦いに巻き込まれたのかについて書くことにしたい。

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盧溝橋事件からわずか3週間の間に、多くの日本軍人や日本人居留者が命を落としたことを私が知ったのは、最近になって中村粲(なかむらあきら)氏の『大東亜戦争への道』(展転社)という本を読んだからなのだが、このことは重要な事件だと思うのだが教科書には書かれていないし、マスコミで報道されたこともほとんどなかったと思われる。しかしこのことを知らずして、なぜわが国が中国戦に巻き込まれたかを語れないと思うのだ。
中村氏の著書を参考にしてその経緯を纏めてみよう。

盧溝橋事件で中国の挑発を受けても、当初は、陸軍も外務省も事件を拡大させるつもりはなかった。
盧溝橋事件翌日の昭和12年7月8日に、陸軍中央と外務省は事件の不拡大方針を決め、9日の臨時閣議中に現地停戦協議成立の報告が入って、派兵提案を見送っている。

しかしながら、中国側は停戦協議で約束した撤退をせず挑発を続けたために、わが政府は11日に三個師団を派兵することを閣議決定するも、同日夜にまた現地停戦協定が成立したため、再び派兵を見送り、現地軍に不拡大方針を再確認させた。
ところが、中国軍は再び停戦協定を破って、13日には天津砲兵聯隊第二大隊修理班が中国兵に襲撃され4名が爆殺されてしまう(「大紅門事件」)。
14日には天津駐屯騎兵隊の1名が襲撃され、残忍な手口で殺される事件が起きている。
また、20日には撤退する約束であった盧溝橋城の中国軍が、日本軍に一斉射撃を仕掛けてきたために、日本軍も盧溝橋城壁に向かって砲撃を行なった。
政府は再び三個師団の派兵を承認するも、現地に派遣していた軍務課長の報告を受けて、再び内地師団の派兵を見合わせている。

しかし、25日には廊坊の電線修理に派遣された日本軍の電信隊一個中隊が、中国軍に包囲、攻撃される事件があり(「廊坊事件」)、26日には天津駐屯第二聯隊第二大隊が支那軍から乱射を浴びる事件があった(「広安門事件」)。

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始。中国軍は南へ敗走したという流れである。

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しかし、翌7月29日に通州で、中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件(「通州事件」)が発生したのである。
この「通州事件」を記述する歴史書はほとんどなく、新聞やテレビなどで解説されることは戦後では皆無に近い。しかし、当時の新聞や雑誌などではその惨状が大きく報道され、日本人の被害が克明に記録されており、証拠となる写真も多数残されている。

通州地図

通州という場所は北平(現在の北京)の東12kmにあり、南京政府から離脱して設立した冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)の中心都市で、北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していたのだが、「廊坊事件」や「広安門事件」などが起こり、北平の治安強化のために応援に出ていたために、通州の守備隊は110名程度と手薄になっていた。
このタイミングで、冀東防共自治政府の千数百名の保安部隊が、日本軍の守備隊や特務機関や民家を襲撃し、無辜の民に対して掠奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽くしたのである。

中村粲氏の『大東亜戦争への道』のp.404-406に東京裁判で行われた証言内容が掲載されている。
「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだつた。」
(萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長(当時)の東京裁判における証言)

「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつてゐたのを目撃した」
(桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長(当時)の東京裁判における証言)

通州城内見取り図

「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」
(桂鎮雄・支那駐屯第二連隊歩兵隊長代理(当時)の東京裁判における証言)

このような証言は決して作り話ではなく、証拠となる現場写真も多く残されている。
見るだけで気分が悪くなるのでここでは紹介しないが、例えば次のURL等に一部の写真が掲載されているが、日本人はこんなひどい殺し方をしないだろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/46489118.html

通州の在留邦人380人中惨殺された者は260名に達し、被害者の名簿もしっかり残されている。
また、今では冀東保安隊第一、第二総隊の計画的犯行であったことが中国側の資料で明らかになっているし、「防共」自治政府の保安隊と言いながら第二総隊には中国共産党の支部が結成されていたという。

この通州事件の詳細が我が国に伝えられて、国民の憤慨が頂点に達したことは言うまでもない。もし自国の同胞が理由もなく辱められ虐殺されたならば、世界中のどこの国であろうとも、いつまでも加害国を許せるものではないだろう。

以前このブログで「砕氷船のテーゼ」のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html
1935年の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説はこのようなものであったという。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

要するに中国共産党は、凄惨な方法で日本人を虐殺することで、このシナリオ通りに、日本を中国との戦いにひきずりこむことに成功したということではなかったか。冒頭の周恩来の演説の通り、わが国は中国共産党の卑劣な罠にかかってしまったと解釈するのが正しいのだろう。

このブログで何度も書いているように、戦勝国にとっては、わが国がよほど邪悪な国でなければ自国にとって都合の良い歴史を叙述することができないのだ。もし「通州事件」を通史に書いてしまえば、わが国以上に中国が悪い国になりかねないことは、少し考えれば誰でもわかることだ。
だから、「通州事件」のような「戦勝国にとって都合の悪い史実」は日本人に知らせないように封印したのであろう。
何度も言うように、我々が戦後押し付けられている歴史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、日本人がこの歴史観に染まっている限り戦勝国は安泰なのである。

ところで「通州事件」の4か月後の12月13日から6週間にかけて「南京大虐殺」が起こったとされるのだが、普段は中国の言うことを全く信用しない人も、この事件だけは中国の言い分を丸呑みする政治家が多いことや、中国に気兼ねするマスコミの論調には閉口してしまう。

明らかに日本人が虐殺された「通州事件」の史実が封印されて、なぜ「南京大虐殺」ばかりが強調されなければならないのだろうか。
このことは、中国にとって都合の良い歴史とするためには、わが国が邪悪な国であり、中国がその邪悪な国と戦って勝った国であると書くしかないのだという事が理解できれば、疑問のすべてが氷解する。中国が日本人を虐殺した事件は他にも昭和3年(1928)の「済南事件」などがあるが、このような事件が戦後書かれた通史からことごとく無視されているのは、前述した事情によるものなのだろう。

キリスト教徒の久保在政氏が「キリスト教読み物サイト」というHPを運営しておられて、そのなかにある「日中戦争の真実」という論文は当時の写真や資料が豊富で非常にわかりやすく纏められており、イデオロギー臭も少ないので、一読を勧めておきたい。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm

この久保氏の論文で、当時のローマ法王ビオ11世が日本軍の事を絶賛していることが紹介されている。
「日中戦争(支那事変)が始まった年である一九三七年、一〇月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られるピオ一一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。法王は、
『日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ』といった内容の声明を出しています。」

またこのような記述もある。
「日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。
ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。」

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この久保氏のサイトに、当時の日本軍と中国の少年たちが1938年の正月を迎えている写真が掲載されているが、この写真は「南京大虐殺」があったと主張する人々が、虐殺があったとされる時期撮影された写真ということになる。本当にそのような凄惨な虐殺があれば、このような明るい笑顔が中国人に出せるはずがないのだ。日本軍は中国民衆にとっては、解放軍ではなかったか。

このような写真や論文はネットで探せばほかにもいくつも見つけることができるのだが、このような論文や写真に触れて、この事件に関しては教科書以外に様々な見方があることだけでも知ってほしいと思う。
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「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか

前回の記事でルーズベルト米大統領が、蒋介石の中国を連合国陣営に戦略的に残したことを書いた。以前にも蒋介石に関する記事は「中国排日」シリーズで何度か書いたが、この男がどういう人物であったかを知るうえで欠かせない事件の顛末を書き記しておきたい。

1938年(昭和13年)6月に黄河の堤防が決壊し、津波のように流れ出した大量の水が周囲の都市や田畑を襲い多くの人々が死亡する大災害が起こったのだが、この災害は自然災害ではなく、とんでもない人災であったのだ。

この事件はWikipediaや「日華事変と山西省」というサイトに詳しく書かれており、これらのサイトなどを参考にまとめてみることにする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_ref-t1617_20-0
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000189.html

1937年(昭和12年)盧溝橋事件から支那事変がはじまり、その後日本軍は中国中心部に進軍し、翌年6月には河南省の中心地である開封(かいほう)という町を占領。次いで鄭州(ていしゅう)という町に向かうのだが、このままだと国民党政府にとって重要な都市である武漢が危うくなる。そこで蒋介石は、日本軍の進撃を阻止するために、黄河の堤防の爆破を命令したのである。

Wikipediaによると、「氾濫は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及んだ。水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人と言われるが被害の程度については諸説ある。」と解説されている。

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54,000平方kmといっても広すぎてなかなかピンとこないのだが、近畿地方の面積が33,117平方km、四国地方が18,805平方kmだから、近畿と四国を合わせたよりも広い面積が水没したことになる。上の画像が冠水地域の地図である。

当時のわが国新聞などにも、この事件はもちろん報道されたのだが、ネットで見つけた新聞の画像では字が読みづらい。

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このブログで何度か紹介している西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封』の5巻に、仲小路彰氏の『世界戦争論』という著書が解説されていて、そこに黄河決壊事件の当時の記録が書かれている。
この『世界戦争論』は、この事件のわずか4か月後に出版されたもので、戦後になってからGHQにより焚書処分にされてしまった本である。
この仲小路氏の文章のポイントの部分を引用させていただく。原文は旧字旧カナだが、新字新仮名に改めている。また[ ]内は、西尾氏のコメントである。

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「六月中旬、暴虐なる支那敗残軍は、わが進撃を極度に恐れ、自らの良民の休戚[善良な民の喜びと悲しみ]を顧みずか、開封西北鬧市口(どうしこう)、蒲灘(ほなん)間、十数か所および鄭州北方許家堤付近数ヶ所に黄河の堤防破壊を決行せり。
折からの雨期に増水せる大黄河の滔々たる濁流は、奔然、白波を立てて氾濫。…河南の大沃野は一瞬にして泥海と化せり。

決潰口は口百五十米(メートル)」余に拡大、水勢は秒速一米余、中牟(ちゅうぼう)付近には水深二米に達し、その一丈五尺[4.5メートル]の大城壁も刻々濁水の中に沈みつつあり。…支那側は今や頻りに黄河堤防決潰を日本軍の所為(せい)なりと宣伝に努む [自分でやっておいて日本軍のせいにする] 。
しかもその地点と称さるる京水鎮(けいすいちん)には未だ日本軍は進出せず、支那軍は日本の空爆によりて破壊せりと言えど、幅三百米もある堤防を如何にして爆弾にて破壊し得ん[「日本軍が空爆した」といっているけれど、幅が300メートルもある堤防をどうして爆弾で破壊できるのか?と。]。

十四日まで中牟[ちゅうぼう]付近を中心とし、被害面積四百五十平方支里[シナの尺度による里]は水底に没す。大小一千余の部落は濁水に姿を消し数十万の住民は逃げ惑い、阿鼻叫喚の巷と化せり。
開封駐屯の日本軍は、早くも筏船(いかだぶね)、自動車隊を出動せしめ、勇敢に決死の救助作業に従事、僅かに水面に残れる中洲や丘陵に恐れ戦ける(おののける)瀕死の避難民を救助しつつあり。しかも修復作業隊は、幾度か敵の暴戻なる攻撃を物ともせず、敢然、轟々(ごうごう)たる濁流に抗して、応急の行為に出ずるなり。
没落の直前にある蒋介石は、わが新占領地を一大湖水化せしめ、漢口進攻を阻止せんとす。かくて更に国民政府は、この決潰と同時に『潼關(とうかん)より曲沃(きょくよく)に至る山西南部一帯は既に奪回されたり』と、デマ放送をしつつあり。
なおも修理を為さんととする良民に対し、支那兵は悪鬼の如く機関銃を猛射せるなり。」(『GHQ焚書図書開封5』P.334-338)

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この様に国民党軍は自分で黄河の堤防を破壊して黄河の水を溢れさせ、100万人もの水死者を出しておきながら、「日本軍の仕業だ」とのデマを流した。そればかりではなく、決死の救助作業に従事し多くの避難民を助け修復作業に従事していた日本軍や被害者の良民に対して、国民党軍は機銃掃射を浴びせてきたというのである。

この話は多くの日本人には信じられないかもしれないが、事実なのである。
仲小路彰氏はスペインのサンセバスチアンで発行されているディアリオ・パスコ紙の6月19日付けの「支那人の戦法」という記事で、国民党軍のこの行為に抗議しない英米仏を辛辣に批判している部分を紹介している。
「…然るに、英、米、仏いずれよりもこの世界に前例なき人類一大鏖殺[おうさつ:皆殺し]に対し、一言たりとも抗議する声を聴かない。この奇異なる態度こそボルシェヴイズムおよび民主主義者流の特質とする虚言および事実を歪曲する支那人でもなければ了解することはできない。…
支那人が数百万人の平和なる住民を溺死せしむべき大洪水を起こしても、ひたすら沈黙を守っているのは、これ彼等の心事を以てしなければ理解できない。吾人はかかるご都合主義的虚偽を人類の尊厳を汚辱するものとして世界各国が絶対に排撃しない限り、いわゆる文明に対し不信を感ぜざるを得ぬ」(『GHQ焚書図書開封5』P.342-343)

この事件を、英米仏の3国が無視したわけではない。報道はしたのだが、中国軍に対する批難はしなかったということのようだ。
Wikipediaによると、アメリカにおける報道は被害の規模を伝えるのみにとどまり、『ブルックリン・デーリー・イーグル』紙が6月16日に「日本軍が必死の救助活動をしている」と報じた程度という。
英国では事件が日本軍の砲撃で引き起こされたとする中国側の説明に無理があることを示しながら双方の主張を伝え、フランスでは6月9日上海発アヴアス電は漢口からの報告として中国軍は黄河の堤防破壊による洪水で日本軍の進撃を阻止したとの内容であったが、6月15日夕方駐仏中国大使館は、黄河決壊に関するコミュニケを各通信社・新聞社に送り、その中では事件を起したのは日本であるとしていたが16日の各紙朝刊は全くこのことを掲載しなかったそうだ。また6月17日のフランス急進社会党機関紙「共和報」は、黄河決壊事件は中国軍による自作自演であると書いたという。
このように世界各国は、概ね中国軍の嘘の発表は見抜いていたようだ。

中国政府の要職を務めた文学者・歴史学者・政治家の郭沫若(かくまつじゃく:1892-1978)の自伝の中にもこの事件の記述があり、日本軍の責任と言っていたが実は蒋介石の命令によって実行したこと明確に書いている。次のURLに該当箇所の引用がある。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4274.html

「敵の最初の計画は、伝えられるところでは、大きく迂回した包囲戦略をとり、隴海線に沿って西進し、さらに平漢線南半を奪って大武漢の背をつこうというものだったという。しかしこの戦略は、6月11日の黄河堤防の決壊で、河南省東部が沼沢地帯になったため、水の泡と化した。
あの時、黄河の堤防は開封の西北の五荘、京水鎮、許家堤等で同時に決壊した。わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった。
わが伝統兵法――「水、六軍を淹(ひた)す」だった。
しかし敵が水浸しになった程度はたかの知れたもので、むしろわが方の民間の生命財産が想像もつかぬ犠牲をこうむった。」

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蒋介石の自伝にも「黄河決壊事件」の事が書かれていて、日本軍の侵攻を食い止めるにはこの策は必要だったと記しているそうなのだが、この男は自国の国民を塗炭の苦しみに陥れても、自分の利益を守ることを優先するというとんでもない人物だと思う。

爆破はまず6月7日に行われたがこれは失敗し、9日の爆破で黄河は決壊したが、大量の水が流れ出したのは3ヶ所の堤防が爆破された11日の爆破以降のようだ。
幸い日本軍の被害は少なく、洪水自体による犠牲者はたったの3名だけだったという。堤防修復作業の際に中国軍からの攻撃を受けて、さらに何人かの犠牲者が出たようだが、詳しいことはよく解らない。

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この堤防決壊事件によって黄河の流れが変わり、濁流が流れ去った後は辺り一面が乾燥地帯になり、堤防破壊の後遺症として1942年に河南省で干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたという記録もあるようだ。

Wikipediaにはこう書かれている。
「劉震雲によれば1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、干ばつ、イナゴの発生、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した。…この状態が続けば河南省は全滅していたが、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救った。」

そして、河南省の人々が中国軍に叛旗を翻し、日本軍に協力する者も少なくなかったという。
「河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった。
1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦)。そのための兵力は約6万人であった。この時、河南戦区の蒋鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行しはじめた。これは農民に耐え難いことであった。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した。推定では、河南の戦闘において数週間の内に、約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた。すべての農村において武装暴動が起きていた。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果30万の中国軍は全滅した。」

無題

このような史実が中国河南省出身の劉震雲氏が祖母や叔父らをインタビューして著した『温故一九四二』という本に書かれているようだ。邦訳もされており、アマゾンに詳しいレビューが紹介されている。
http://www.amazon.co.jp/%E6%B8%A9%E6%95%85%E4%B8%80%E4%B9%9D%E5%9B%9B%E4%BA%8C-%E5%8A%89-%E9%9C%87%E9%9B%B2/dp/492477992X

こんな大きな事件があまり日本人に知られてこなかったのは、わが国の歴史教科書に書かれてこなかったからなのだが、ではなぜこの事件が教科書に載せられることがなかったのか。
このブログで何度も書いている事なのだが、わが国の教科書は『戦勝国にとって都合の良い歴史』であり、このような『戦勝国にとって都合の悪い史実』を書くことは許されなかったと考えるしかない。

この事件の前後に起こった事件を追っていくと、今の教科書のスタンスを守ろうとする勢力が、この事件を教科書に書くわけにはいかないと考えた背景が見えてくる。

1937年7月7日に盧溝橋事件がおこり日中戦争がはじまったが、ことのきっかけは、後に中国の国家主席となった劉少奇の指示により、夜陰に乗じて、共産党軍が日本軍・国民党軍の双方に発砲したことからはじまっている。
この事件発生後5日目に停戦協定を結んだが、この停戦協定はその後何度も中国によって破られて日本兵が襲撃され、ようやく7月28日に日本軍は武力不行使の方針を捨てて中国軍へ開戦を通告した。
その翌日の29日に、中国保安隊によって通州の在留邦人380人中260名が惨殺される事件が起こっている。(「通州事件」)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

その翌月に蒋介石は外国人の多い上海で再び武力衝突を仕掛け、国民党軍は国民党軍機で空爆を行うなどして日本軍を挑発し続け日本軍は全面戦争に突入していくのだが、この時に国民党軍は上海を空爆して自国民の犠牲者を出しておきながら、その空爆を日本軍がやったとデマ宣伝を行っている。この上海での戦い(第二次上海戦争)は約3ヵ月続き、11月に国民党軍が退却する際に堅壁清野と呼ばれる焦土作戦を用い、掠奪と破壊が行われたことが記録されている。
これらの事件はこのブログにも書いたが、すべて中国やアメリカにも当時の記録や写真などが残されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

そして第2次上海戦争が終わった翌月の12月13日から6週間にかけていわゆる「南京大虐殺」があったとされるのだが、その5か月後にこの黄河決壊事件が起きているのだ。

もしわが国の教科書に「通州事件」や「第二次上海事件」や「黄河決壊事件」につながる史実が記されていたら、今日広まっているような「南京大虐殺」の記述にほとんどの日本人が疑問を持つのではないだろうか。
中国軍が、日本軍だけではなく日本人居留民や中国大衆を虐殺して挑発し、自分の犯した罪を何度も日本軍に罪を押しつけた事件がその前後にあったにもかかわらず、『南京大虐殺』だけは中国の言い分がすべて正しいという説明は、誰がどう考えても不自然である。

このブログで何度も書いているように、『戦勝国にとって都合の良い歴史』には、日本軍だけが悪者にならなければストーリーが成り立たない。だから「黄河決壊事件」のような史実が語られることが今までほとんどなかったのであるが、国境問題がきな臭くなってきた昨今では、日本人がこのような歴史の真実を知り『自虐史観』の洗脳を解くことが、これからますます必要になってくるのではないだろうか。
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中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる

西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封3』に、中国兵の陳登元氏が自らの戦争体験を綴った『敗走千里』という本の解説がある。

imagesCA8U0A8M.jpg

この本はGHQによって焚書処分にされてしまったために、戦後はほとんど日本人の目に触れる事がなかったのだが、最近になってこの解説を読んで、中国の戦争の仕方が日本人の戦争の常識とは随分かけはなれたものであることを知って、驚いてしまった。
今回は『敗走千里』の文章や西尾氏の解説を引用しながら、中国軍と日本軍との違いについて纏めてみることにしたい。

著者の陳登元氏は14、5歳の時に日本に留学するために来日し、日本の大学に進学して昭和13年には卒業する予定であったが、日中戦争が拡大したのを心配して一度郷里に戻ったところ、強制的に兵隊にとられて戦線に送られてしまう。二カ月ほど兵隊生活を送り、かなりの重傷を負って病院に収容され、傷も良くなってからこの本の原稿を書いて、日本でお世話になった大学教授に送ったのだが、1938年(昭和13年)3月にこの原稿が翻訳されて出版されたのがこの『敗走千里』であり、大虐殺があったとされる「南京事件」(1937年12月)に近い時期に書かれたものであることは注目して良い。

初めに紹介するのは、彼が兵隊にとられる場面である。
原書の文章は旧字・旧仮名だが、読みやすいように新字・新仮名とし、[ ]内のコメントは西尾氏のものである。

わが国なら戸籍に基づいて召集令状(赤紙)が来て、誰しも心の葛藤はあったにせよ、最後は逆らうことなく赤飯を炊いて出征兵士を送り出した。
一方、当時の中国には戸籍がなかったので、募兵官が直接人集めにやってきて、こういう時に中国人は、いかに徴兵から逃れるかが関心事であったようだ。彼は家の中の秘密の部屋に隠れて徴兵を逃れようとしたのだが、五六人の兵士が両親を縛り上げて、八方に分かれて家宅捜査を始めたのである。なかなか見つからないので募兵官が老夫婦を脅迫するところから引用する。

imagesCAXL2X98.jpg

「探しあぐねた兵士たちは、店先に取って返してそこに縛られている父や母をまた責めだした。
『お前たちが飽くまで自分の息子をかばうというなら、こっちにも考えがある。群衆に命じて略奪もさせよう。群衆はお前たちも承知の通り、屋根の瓦から、床板まで剥がして持っていくだろう。むろん、お前たちは国家の統制を乱すものとして銃殺だ。…どうだ、それでもまだかばうつもりか。』
老人夫婦はふるえるばかりで口も利けなかった。顔も上げられなかった。その時、店先にたかっていた野次馬の中から
『その家には、秘密の地下室があるんだ、その中に隠れているに違いねえ』と言うものがあった。誰か近所の、事情を知っているものらしかった。
彼は遂に発見された。」(同上書 p.152-153)

「彼」というのは主人公の事で、著者の陳登元氏は自分の事を「陳子明」という名で登場させている。彼は徴兵忌避の罪で銃殺刑に処せられるところを、彼を知る中隊長に命を助けられて軍隊に入り斥候(せっこう)を命じられる。斥候の主な任務は敵軍の様子を探り監視することである。斥候を命じられた中国軍の仲間たちがどんな行動をとっていたかがわかる部分をしばらく引用する。

「下士斥候は大概の場合、五名か六名だ。それが揃っていざ出発という場合、彼等[斥候を命じられた兵士たち]はにやりと何か意味ありげな微笑をかわす。陳子明の如き、わずか1カ月ほど前から強制徴募されてきた新兵には、その微笑が何を意味するものか、初めは全然わからなかった。
が、二時間ほどして、意気揚々と帰ってきた彼らを見て、新兵たちは初めて、彼らが何故にあの危険きわまる斥候を志願するかが解った。彼等は実におびただしい種々雑多な戦利品をぶら下げているのである。主に時計とか指輪、耳飾り・・・・といったような、小さくて金目のものだが、中には重いほどそのポケットを銀貨でふくらまして来るものがある。…

ある一人の兵が持っていた耳飾りの如き、現に、たった今まである女の耳にぶらさがっていたものを無理にひきちぎってきたからだろう、血痕が滲んでさえいた。しかもその兵の、無智、暴戻、残虐を象徴するかのごとき、ひしゃげた大きな鼻、厚く突き出た大きな唇、鈍感らしい黄色い濁った眼・・・・その眼が何ものかを追憶するようににたりにたりと笑い、厚い大きな下唇を舐めずり回している顔を見ていると、陳子明の胸には、何かしら惻々(そくそく)とした哀愁が浮かんできてならなかった。あの血痕の滲んだ耳飾りと関連して、何かしら悲惨なことが行われたような気がしてならないのだった。」(同上書 p.158-159)

時計や指輪などが略奪してきた品々であることは言うまでもない。中国の兵隊は斥候をしながら中国民衆から金品を巻き上げるだけではなく、女性を凌辱する者もいたのである。
この会話はさらに続いて、耳飾りをしていた女性を殺したのかという質問に対しては、この兵士はあいまいにして答えなかったのだが、この言葉のやり取りまで引用すると長くなるので省略することとして、彼が軍隊の本質を述べている部分を引用する。

「陳子明はすべてを見た。そして、聞いた。彼はこれだけで戦争なるもの、更に軍隊なるもの、本質を残らず把握したように思った。戦争なるものがひとつの掠奪商売であり、軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊*であるということである。
しかし、そんなことは今どうでもいい。問題は、自分が好むと好まざるとにかかわらず、国家という大きな権力の下に、自分がその匪賊の仲間入りしたことである。自分一人は純潔のつもりでいても、濁水の中に交った清水は結局濁水である。」(同上書 p.161)
*匪賊:集団で略奪などを行なう盗賊

次の場面は、彼の所属する軍が窓覆いをおろされて外の景色が見えない電車に乗せられ、どこかわからないところに移動しているところである。仲間同士で、もうすぐ日本軍と大激戦になって死ぬ者がかなり出るだろうという話題になり、そこで軍曹が、おれが指揮官だったら兵隊を犬死させないためにこういう策戦をとると、周りの兵隊に話を持ちかけた。ポイントとなる部分を引用する。

「『ほう、どんな策戦です?』
声明が助かるということだったら、今の場合、どんな児戯に類したことでも聞きたい。それは偽りのない彼らの心境だった。
『それは、敵に気づかれないように、ここの戦線をそっと引き揚げるんだ。そして、奥地の山岳地帯に敵を誘い込んで、ここに現れたかと思うと、彼方に現れ、あちらに現れたかと思うとこちらに現れ、敵を奔命に疲らすんだ。そして、俺達は全部、便衣になるんだ。そしていよいよ追い詰められた時は、百姓になって誤魔化してもいいし、商人になってもいい。とにかく良民に化けて敵の眼からのがれる工夫をするんだ。』」(同上書 p.165)

「便衣」というのは普段着のことだが、要するに切羽詰ったら軍服を脱いで一般人に変装して前線から逃れたり、あるいは隙をついて日本軍に攻撃を仕掛けようと言っているのだ。しかもその「便衣」も、どこかの村などから衣服を略奪することが多かったようだ。
大虐殺があったとされる「南京事件」では、実際に中国兵が軍服を脱ぎ捨てて一般人になりすまして日本軍を攻撃したのだが、このような行為は明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうからだ。
それゆえに、もし平服で敵対行為をすれば戦時重罪犯の下に、その場で死刑かそれに近き重罪に処されることは戦時公法の認めるところである。この場合にゲリラを処刑する行為は「虐殺」にも「捕虜殺害」にもあたらないのだ。
下の画像は岩波新書『南京事件』P107にある便衣兵の画像である。 

img062.gif

次に紹介するのは実際の戦いの場面であるが、日本軍の追撃におされて、退却しようとする中国兵に味方の兵が銃を撃つ場面である。
「退却部隊はひっきりなしに、ざっ、ざっ、ざっ・・・・と走っている。終いになる程、ただ色でない顔つきになってくる。みんな必死の顔だ。服装までが裂けたり、泥だの血だので汚れ返っている。しかも、追撃に移った敵軍[日本軍]の銃砲聲が、猛烈に、手に取るように近々と聞こえ出してきた。本来ならここらで一旦退却体制を整備して、反撃に移らなければならないのだ。…
が、この死にもの狂いの見方の軍隊の顔つきを見ると、それは到底不可能だと諦めに到達する[もう一回日本軍と戦うことはとてもできないという意味]。…こうなっては自然に任すより他はないのだ。…
要するに、彼も…一緒に走るより他ない。だから彼は走った。走っていると、より一層早く走らなければならないという気持ちに駆り立てられる。…
町に近づくにつれ、異様な光景が眼につき出した。仲間の退却軍であろう。あちこちに屍骸をさらしているのだ[味方から撃たれて、死体の山ができている]。自分が肘をやられたと同じく、味方から発砲されて、やられたものに違いない。
退却部隊は、町の入口近くで急に右に曲がって、町の北側の方向に延々と続いて走っている。おかしいぞ------と思っているうちに、彼はその曲がり角のところに来た。そして見た。
急拵えの鉄条網が町の入口を塞いでいるのである[町の中に入れないようにしてある]。そして、その背後に武装した兵士がずらっと、機関銃の銃口とともに、自らの方向を睨んで立っている。しかも、そのすぐ前には、堂々と塹壕の掘削工事が始められている。…」(同上書 p.171-173)

要するに、兵士が簡単に退却することがないように、町の入口に鉄条網を張って町に入れないようにして、退却しようとする兵士は味方の中国兵によって銃殺されていたのである。
ちなみに、主人公の陳子明氏は鉄条網の向こう側にうまくもぐりこんで命を拾ったのだそうだ。

この本の中に何度か出てくるのだが、中国軍には前線の後方にいて自軍の兵士を監視し、命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)したり、降伏するような行動をとれば自軍兵士に攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った「督戦隊(とくせんたい)」という部隊が存在した。この督戦隊に殺された中国兵士が日中戦争では少なくなかったのである。

次のサイトは中国語のサイトであるが、
「在中日8年戰爭中的中國軍督戰隊是使中國軍隊死亡數目最多的原因之一。」
と書かれている。
日中戦争で多数の中国軍兵士が死亡した最大の原因のひとつがこの督戦隊によるものであるという意味のようだ。
http://www.buddhanet.idv.tw/aspboard/dispbbs.asp?boardID=12&ID=27094&page=7

南京事件』では、南京の城門のところに多数の中国人の死体があったことが、多くの日本兵士によって目撃されており、日本軍との戦争で死亡した兵士よりも、自軍の督戦隊に射殺された兵士の方が多かったと多くの人が指摘している。司令官が「死守」と言えば、兵隊は文字通り死ぬまで戦わされていたのである。

蒋介石都落ち

南京城にいた蒋介石総統は12月7日に南京を脱出し重慶へ逃げた。その後を任された唐生智(とうせいち)防衛司令長官は12月11日に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令しておきながら、12日の夜に南京の守備を放り出して逃げてしまった。その時に兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には督戦隊を置いていったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6

指揮官がいなくなってしまって軍紀が乱れ、多くの中国軍は民衆に暴行を加え衣服を奪い取り軍服を脱ぎ捨てて、一般人になりすまして逃亡したといわれているが、『敗走千里』に記されている中国兵の実態を知らずしては、「南京大虐殺」の本質を見誤ることにならないか。

敗走千里』という本の内容は決してフィクションではない。陳登元氏が体験した戦いの場所は異なるかもしれないが、中国軍の本質は南京事件においても同じで、当時の別の記録や外国の新聞記事などからもその裏付けをとることが出来る。

日韓・日中歴史の真実


水間政憲氏の『ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実』という本は、当時の史料を多数紹介されているのでお勧めだが、その44ページに南京を逃げ出した蒋介石の1937年11月30日の日記を紹介しておられる。
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ(中略)撤兵時の掠奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」
蒋介石のこの文章は無責任極まりないものであるが、明らかに自国にとって不利となる発言をしている点についてはもっと注目して良いのだと思う。

また国民党軍の敗残兵が南京城内になだれ込み便衣兵になったことを、南京陥落前に米紙が報道しているのだ。

imagesCAP9L4A5.jpg

水間氏の著書の56-57ページに、ニューヨークタイムズ紙のダーディン記者が報じた12月12日(日曜日)付の記事が引用されている。南京が陥落した日はその翌日の事である。
「日曜日の正午…中国軍の崩壊が始まった。第八十八師の新兵がまず逃亡し、たちまち他の者がそれに続いた。…将校たちは状況に対処することもしなかった。一部は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した…多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。…中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた。」
「日曜日の夕方には…軍服とともに武器も遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった」

南京事件における中国軍の残虐行為や略奪行為などは、次のURLにさらに詳しい史料とともに記述されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/nanking.html#10

南京焼却説

水間氏の著書にも、ニューヨークタイムズの記者が12月7日付で、中国軍が南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ったことを報じていることを伝えた12月9日付の朝日新聞の画像がある。

またWikipediaには1938年1月4日付のニューヨークタイムズ紙の記事が紹介されている。元将校たちは何のために女子大にいたのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4)#cite_note-29

「<元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに>
南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。」

民間人に対する残虐な行為が南京陥落前後にどの程度あったかは今となっては知る由もないが、その原因の大半は中国兵の方にあったと考える方が自然ではないのか。
それでも通説の通り残虐な行為があったのは日本軍だけだと思いたい人はいるだろうが、日本軍が制圧したのちわずか1か月で、南京の人口が20万人から25万人に増えていることを、どう説明すればよいのだろうか。また南京安全区国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏が、国際委員会を代表して日本軍に感謝状を贈ったことをどう理解すればよいのだろうか。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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