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カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1

昭和21年の3月から4月にかけて、当時の松平慶民宮内大臣・木下道雄侍従次長らが、戦争に至った遠因・近因、経過および終戦の事情について、昭和天皇から5回にわたって聞き書きをした貴重な記録がある。

その冒頭は昭和天皇の次のようなお言葉となっている。

昭和天皇

「大東亜戦争の遠因
この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然存在し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。…
かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、これを抑えることは容易な業ではない。」(『昭和天皇独白録』文春文庫p.24-25)

加州というのはアメリカのカリフォルニア州のことで、アメリカにおける排日運動はここから始まっている。
昭和天皇はこの戦争の遠因は人種問題にあったと考えておられると理解して良いが、このような視点は天皇陛下だけのものではなく、当時のマスコミもそのような論調の記事が少なくなかったようだ。しかしながらこの視点は、戦後になってわが国の歴史の記述からスッポリと欠落してしまっているように思われる。

以前このブログで中国における排日問題を考察した際に、神戸大学付属図書館の新聞記事文庫を紹介した。明治末から昭和45年までの経済記事に限られるという問題はあるが、検索キーワードで当時の新聞記事を探すことが出来るのはありがたい。新聞の過去記事についてはGHQの検閲や焚書などの対象にならなかったので、当時のわが国における論調をそのまま読むことが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

この検索を使って、例えば「人種問題」と入力すると693件もの記事がヒットする。これだけの記事がヒットするということは、当時の経済状況や世界情勢を考える上において「人種問題」は無視できなかったはずである。

これから何回かに分けて、この「人種問題」がわが国にどのような影響を与えたかを考えることにして、今回は、カリフォルニア州で排日運動が起こってそれが全米に拡大した背景について書くことにしたい。

昭和天皇が提起された「加州移民拒否」、すなわちカリフォルニア州の日本人移民排斥の前に、支那人移民排斥運動が起こっている。
その経緯を調べると、カリフォルニア州で19世紀の半ばに金が発見され、金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到した(ゴールド・ラッシュ)。その時に中国人が苦力として投入され、1852年には2万人以上がカリフォルニアに到着し、中国人が州人口の1割にも及んだという。
その後中国人と白人労働者との摩擦が激しくなり、1870年代から支那人排斥運動が始まり、1882年には「中国人移民排斥法」が成立したために、中国人がアメリカに移民できなくなった。日本人の移民が増加するのはその頃からである。

先程紹介した神戸大学付属図書館の新聞記事検索で、やまと新聞が大正2年(1913)に日米問題についての特集記事を55回に分けて連載しているのが見つかった。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10024271&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
この記事によると、明治20年(1887)以降わが国からの移民数が急激に増加し、明治41年(1908)年には日本人移民数がピークとなり全米の移民総数は103,683人。その6割近くがカリフォルニア州に居住していたという。

日米問題の研究

日本人移民の評判が急変するのは日露戦争でわが国が勝利してからのようである。
日露戦争勝利の翌年の明治39年(1906)年にサンフランシスコ学童事件がおこる。先ほど紹介した新聞の記事を引用する。(桑港=サンフランシスコ)

「州知事改選期が迫るや、加州の共和党は労働者同盟の主張と同じく、日本人及び朝鮮人をも清国人と同一に排斥すべしとの一項を条項中に加えた、同時にバンネス、フィルヨープの両街の日本街にある日本人の店に立退きを迫る者があり、又日本人洋食店に対してボイコットが行われ、或は夜陰に乗じ通行の日本人を殴打し、白昼強盗横行して戮殺略奪を恣にし、殺気縦横、保安警察の途殆ど全く廃れた、又公立学校に通学中の日本児童二百余名突然放逐を命ぜられた、是に於て日本の学童は離隔小学校に通わなければならぬ事となったが、素と其学校は支那人の為めに建設せられたるもので、支那街にあって兇賊常に出没し、之れに通うにも遠きは四五哩、近きも二十三十町も遠方から通わねばならぬから、離隔学校に通う事は殆ど不可能であった。
 更に其の校舎の設備を見るに、一度焼けたものに臨時の小屋掛をなし、板壁を廻らし屋根もなく天井も備わらぬ処に、僅か数十脚の椅子があるのみの所へ、四人の教師が残って居るのみである、桑港の官憲は実に斯る仮小舎に日本の学童を放逐せんとしたのである。」(大正2年5月2日「日米問題研究」三十一)

また翌年(1907)5月には再びサンフランシスコで邦人虐待事件が起こっている。
「此暴行は約一週間継続し、帝国領事館及び連合邦人協議会より市の当局者並びに加州の知事に対して保護を求めたるにも拘わらず、依然として暴行は継続せられた、白人は群を為して日本人の飲食店を襲撃して店員を殴打し、或は石、鉄片を以て硝子窓を粉砕し、石を食堂に投入し、湯屋を破壊する等言語道断なる暴行を加え、甚だしきに至っては屋内に闖入して家具を持去るが如き事があった。
 検事は我領事と打合せて被害者の調査に従事したが、在留邦人は米国官憲が本件に対し一般に冷淡である事を憤慨せざる者はなかった」(大正2年5月26日「日米問題研究」三十三)
とアメリカ人のやったことは、先日の中国における反日暴動とあまり変わらない。

アメリカの日本人排斥原因

では、アメリカ人が排日に至った理由は何なのか。
大正2年(1913)12月2日から5日にかけて神戸又新日報で『米国の日本人排斥原因』という記事が書かれているが、そこに同年8月9日付のサンフランシスコ・ポスト紙の記事が翻訳され引用されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10024153&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「 (前略)然れども気の毒なることに添田博士は土地法を通過せる加州議会の真意を了解せざるなり。土地法の目的は日本人が善良なる米国市民となり能うやの問題に非ず。実に血液の混合を恐るるにあり。ウイッブ法案が僅か五名の反対者にて議場を通過したるは是が為めなり。此血液問題人種問題は実に深遠にして且つ世界的の問題なり。博士の意見の末節に対しては実にお気の毒と云わざるを得ず。然れども土地法の根底は実に日本人をして白人種に混合せしめざらんとするにあり。故に其目的さえ達成すれば排日感情は休止すべく即ち日米問題は在米日本人が否応言わず土地法に服従し、且つ米国に向て移民の輸入を断念さえすれば自ら根本的に解決さる可きなり云々」
この記事ではニューヨーマトリビューン紙やサクラメントユニオン紙等の記事も紹介されているが、これらを読むとアメリカ人は日本人という人種を嫌ったのであって、人種差別であったと理解するしかない。

上の記事は大正2年のものだが、排日活動はこの頃に急激に拡大しその後さらに本格化していく。

GHQ焚書図書開封6

西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』にサンフランシスコ総領事であった大山卯次郎氏の「米国における排日の動き」という論文が紹介されている。その論文を読めば、先ほどの記事の中の「土地法」の問題も解説されている。この文章をしばらく引用する。(原文を新字・新仮名に変更したもの)

「さればその最初の現われた1913年(大正2年)加州における第1回排日土地法の制定であって、加州は同法により日本人に対して土地の所有を禁じ、農業の目的をもってする土地の賃借を3箇年以内に限定した。これ日本人の農業経営に対する大打撃なるのみならず、実にその生業を奪うものであって、条約上ならびに人道上許すべからざる不正不当の行為なるにより、日本政府は米国政府に対し本法(排日土地法)が国家の平等を根本義とする日米条約に反すること、人間の平等機会均等を保証する米国憲法に違反すること、多年米国にあって粒々(汗水たらして)稼ぎあげた多数日本人の事業を破壊しその生業を奪うものなることを指摘し、厳重なる抗議を重ねたるも、要領をうるあたわず、本問題は形の上においては今なお懸案中なるも、その実泣き寝入りの姿成りいるのみならず、さらに1920年(大正9年)に至り、加州は第2回排日土地法を制定し、これにより日本人に対し今まで許した3箇年以内の農業上の借地権を剥奪し、地上権を禁じ、農業のためにはいかなる方法によるも土地の利用を許さないこととした。」(『GHQ焚書図書開封6』p.120-121)

わが国は米国法廷に訴えたが、米国大審院はこの「排日土地法」はアメリカ憲法、カリフォルニア州憲法、および日米条約に違反しないと判決を下す。すると、カリフォルニア州に続いて、ワシントン州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州、ネブラスカ州などの他州も同様の土地法を制定してしまうのだ。

排日土地法」だけではない。1922年に米国大審院は日本人の帰化を認めない判断を下し、1924年には連邦法で「排日移民法」が成立しアジアからの移民を禁止した。さらにアジア人は白人との結婚を禁止する「黄白人結婚禁止法」もこの頃成立したようだ。

しかし、なぜカリフォルニア州のサンフランシスコで、最初に排日運動が激しく燃え上がったのか。

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五明洋氏の『アメリカは日本をどう報じてきたか~~日米関係200年』という本は、200年に亘ってアメリカ側の新聞や雑誌に書かれた記事を纏められたものであるが、そこにはわが国が日露戦争に勝利した1905年についてこう書かれている。

「サンフランシスコ・クロニクル紙が降って湧いたように排日キャンペーンを開始した。この唐突なキャンペーンは社主のデヤング氏が上院議員に立候補しようとしてのことであった。
排日はこれまで労働組合が先鞭をつけていたが、これ以降新聞が主導することになる。キャンペーンは1か月に及び、その後をハーストのエキザミナーや他紙が負けじと追従したので、サンフランシスコは排日の霧にすっぽりと覆われてしまった。
クロニクル紙の一連のキャンペーンの記事を要約すると、
『日本人はカリフォルニア、そして米国にとって一大脅威となった。日本人は白人の仕事に直ぐ慣れ、白人が生活出来ぬ安い賃金で働くので中国人よりも始末が悪い。日本人は米国人を嫌うが、米国人にも日本人を拒否する権利がある。』(1905/2/23)
『日本人の無制限移民に反対する動議がカリフォルニア州議会で3月1日満場一致で可決された。父達が多くの犠牲を払い勝ち取ったカリフォルニアを昔の姿に戻すのが我々の責務である。当紙は日本移民の制限を連邦議会と大統領に要請する』(1905/3/2)」(『アメリカは日本をどう報じてきたか』p.101-103)
日本人が嫌われたのは生活態度に問題があったわけではなく、まじめに働いて白人の仕事を奪っていったことが問題になっているのだ。

また著者の五明洋氏はサンフランシスコにおいて排日運動が激しくなった背景についてこう解説している。

「サンフランシスコが排日のメッカになった理由は、アイルランド系がこの市に集中していたからである。…
アイルランド人はポテト飢饉を逃れて移民した貧しい人々で、入植した東部では格好の差別対象であった。大陸横断鉄道工事に従事しフリーパスを得た彼らは、新天地サンフランシスコを目指して大移動を開始した。
ここで彼等は差別にもってこいの日本人に遭遇したのである。差別理由をあえて求めるなら、アイルランドが隷属を強いられた英国と日本が同盟を結んでいるくらいのことであった。彼らは「西部生まれの会」という組織を作り、1907年には「灰色熊(Grizzly Bear)」を創刊して日本人排斥に拍車をかけた。
当時排日の中心人物はすべてアイルランド系で、…排日家のカーニー、オンドネル、フィラン、シュミッツ、マクラッチ、インマン等すべてアイルランド系であった。」(同上書 p.110-112)
下層階級の白人ほど黒人を差別する傾向があるのと同様に、英国で虐げられてきたアイルランド人は黄色人種の日本人が豊かに暮らしていることが気に入らなかったという事なのだろう。

その後アメリカ各地に排日的な論調が広がっていき、1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、日米開戦論が公然と論ぜられるようになる。たとえば、こんな記事が書かれていた。
「日米の開戦危機が取り沙汰されるにつれ、太平洋岸の無防備状態が問題になってきた。特にロサンゼルスの表玄関に当たるサンペドロ港に要塞がないのは致命的で、これでは東郷提督の為すがままである。彼でなくとも誰が来てもサンペドロは易々と侵略され、豊かなロサンゼルスの街並みは日本軍に蹂躙されてしまうのである。」(LA Times1907.1.20)
「ハワイには日清、日露戦争で戦闘訓練を受けた日本人が6万5千人もいて、皆拳銃を所有している。日米開戦ともなればハワイは内外の敵により最も危険な状態になるであろう。」(LA Times1907.1.20)
と、日本の脅威を随分過大に煽っている。そもそもこの時期の日本に米国と戦う意志があったとは思えないのだ。

そしてこの時期に「黄禍(Yellow Peril)」という言葉がロサンゼルス・タイムズに登場したという。「黄禍論」というのは白人国家において現われた黄色人種脅威論のことだが、この言葉は1895年にフランスで生まれたと推定され、ドイツ皇帝(カイゼル)ヴィルヘルム2世が唱えたことが有名なのだが、マスコミで使われ出した影響は大きかった。

ところでアメリカ政府は、当初はカリフォルニアの排日政策に批判的であったのだが、1906年には長期的な対日戦争計画である「オレンジプラン」を大幅に改定していることに注目したい。「オレンジ」とは日本の隠語で、この時点でアメリカはわが国をロシアに代わる仮想敵国と考えていたのである。
最初の「オレンジプラン」は日露戦争の7年前の1897年に策定されていたそうだが、その後このプランは何度か改訂されて、最終的には日本の国土を無差別に焼き払い占領することまで盛り込まれていたのだが、このような「戦勝国に都合の悪い史実」は、戦後GHQに封印されたり反日国家の圧力で語られることがほとんどなく、日本人に知らされる機会があまりにも少ない。そもそもこのような史実を知らずして、公平な観点から太平洋戦争を語れるとは私には思えないのだ。

そして、先ほど大山卯次郎氏の論文にあった排日土地法が、1913年にカリフォルニア州で成立する。そしてその翌1914年に新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始する。

William_Randolph_Hearst_cph_3a49373.jpg

五明洋氏の解説を引用すると
ハーストは扇動的な新聞を1セントという安値で売り大衆紙を確立した人物で、新聞王と呼ばれた。彼はロサンゼルス・エキザミナー紙、サンフランシスコエキザミナー紙、ニューヨーク・アメリカ紙等を傘下に、政界へ立候補する度に日本脅威論を唱える排日の元凶であった。ハースト・キャッスルは日本人観光客で賑わうが、この城塞のような豪邸は、排日煽動記事で発行部数を伸ばしその財源で建てられた、いわば邦人怨念の館である。」(同上書p.124-126)

ハーストキャッスル

ハーストは最盛期には26の新聞社、13の全国紙、8局のラジオ局、それに数多くの関連したニュースサービスを所有し、彼の築いた邸宅ハースト・キャッスルは城のような豪華な建物だ。
マスコミが大衆を煽動する世界は今も昔も変わらないのだが、ハーストが人種問題を煽ることによって部数を伸ばし、とんでもない財を築いたことをもっと日本人は知るべきではないだろうか。

ハースト系の新聞の記事が、五明洋氏の著書にいくつか紹介されている。
「ロサンゼルスの日系人は日本政府の要請があり次第5千の兵をヨーロッパ戦線へ送る準備をしている。彼らは徴兵すれば2万5千名の兵を集めることも可能と豪語している。…日本人のみ戦闘意欲に燃え意気盛んである。」(LA Examiner 1914.08.12)
「日本は1923年までに強大な海軍を造ろうと予算を計上し、超弩級戦艦4隻の建造に着手した。日本は常軌を逸した熱心さで海軍力を増強し、米国をアジアのみならず太平洋から追い出そうとしている」(LA Examiner 1916.07.28)

いずれの記事も事実ではないと思うのだが、ハーストが米国大衆に不要な危機感を煽って新聞が売れることを狙ったのか、権力がマスコミを使って反日に世論を誘導し、軍事力強化に舵を切ろうとしたとしか考えられない。
そして1916年7月30日には『カリフォルニアに危機迫る(Lookout! California-Beware!)』という、わが国を脅威とする歌が同じロサンゼルス・エグザミナー紙に大きく掲載された。ちなみにロサンゼルス・エグザミナー紙は米国最大の部数を誇った夕刊紙であった。
こんなプロパガンダが繰り返されることによって、アメリカ人は反日に洗脳されていったという事なのか。

「1.羊のような米国民は 平和の鳩と戯れる
  誰も気が付かないうちに 大災難が降りかかる
  JAPを追い出さない限り
 2.一寸の虫も愛おしむ 慈愛の声に抱かれて
  何の軍備もしない間に ゴールデンゲートを通り抜け
  JAPは岸辺を埋め尽くす
 3.敵艦隊がマグダレナに 彼らはニコニコよく働くが
  カリフォルニアを盗もうと 至る所に東郷が
  JAPを決して 信用するな」
(LA Examiner 1916.07.30『アメリカは日本をどう報じてきたか』p.127-128所収)

この様な経緯を知ると『昭和天皇独白録』で、昭和天皇が「人種問題」を戦争の遠因と述べられたことは、正しい指摘だと納得できる。
カリフォルニア州の排日は、わが国側には致命的となるような原因は見当たらない。アメリカ側が人種差別と対立を煽り立てて、米国大衆を反日に誘導し軍事力を強化した史実を知らずして、太平洋戦争の原因がどちらにあったかを正しく判断することはできないと思うのだ。<つづく>
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【ご参考】
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日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2

アメリカの排日は、日露戦争後にアメリカのマスコミが人種差別を国民に煽って急激に広がっていったことを前回の記事で縷々述べてきたが、日露戦争時にはアメリカはわが国では親日国だと見做されていたはずだ。なぜアメリカが、日露戦争後にわが国に対する方針を変えることになったのだろうか。

GHQ焚書図書開封6

前回紹介した西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』に高木陸郎氏の「米国の支那進出運動とその将来」という論文がある。ここにはこう書かれている。(原文を新字・新仮名に改めて引用)

「米国は満州に発展の強い意図を抱いていたため、一方において露国の満州独占を防止しつつ、他方において積極的開放政策をとり、満州を自国の商品市場として確保するに努めたのである。
その結果1903年の通商関係拡張に関する条約によって、新たに奉天(現在の瀋陽)および安東(現在の丹東)の二港を開かしむるに至った。
しかるに露国の満州侵略は依然その矛を収めず、團匪事件(だんぴじけん:義和団の乱)以来いよいよ露骨となり、…

ついに日本と交戦(日露戦争)するに至ったのであるが、米国はこの大戦中日本に対し非常に好意を示し、外債二億六千万円を引受け、あるいは講和条約の斡旋をなすなど反露親日の態度に出たのである。…

しかるに戦後(日露戦争後)日本が満州において優越的地位を占めたるため、米国の対満発展政策は転じて、日本の勢力排除に向けられるにいたった。…

即ち、米国は露国よりも御しやすい日本を利用して、満州に自国の商業的利益を伸長せんとしたのであるが、その期待が外れ満州の形勢は単に日露両国の勢力を入れ替えたにとどまり、戦前と大差なき状態を呈したからである。」(『GHQ焚書図書開封6』p.56-58)

要するにアメリカは、ロシアに満州独占をさせないためにわが国にロシアと戦わせ、わが国が日露戦争に勝利すると講和条約の斡旋をしてわが国に恩を売り、その後アメリカが我が国に圧力をかけて満州鉄道など満州の権益を手にすると考えていた。しかしながら、そのことはわが国の抵抗にあってうまくいかなかった。そこで、アメリカはわが国の勢力を排除する方向に舵を切ることになったというのだが、この説はなかなか説得力がある。

満州鉄道

1905年9月に米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により日露戦争の講和が成立し、わが国はロシアが敷設した満州鉄道の利権を獲得した。
中国に橋頭保を築きたいアメリカは、鉄道王と呼ばれたハリマンをわが国に特使として派遣し、シベリア鉄道の買収もしくは共同経営の折衝を開始したのだが、ロシアから賠償金が取れなかったことからわが国では反米感情が高まっていたため、満州鉄道までアメリカに譲歩できる状況ではなかったようだ。

わが国はアメリカの要請を断り独自で経営をスタートさせたのだが、アメリカからすれば中国大陸に拠点を持つというアメリカのアジア戦略にわが国が立ちはだかる存在となってしまった。そこで、わが国の勢力を排除するために、1906年にわが国を仮想敵国とする「オレンジ計画」(対日戦争計画)の策定を開始したという流れだ。

しかし、アメリカが我が国の勢力を排除するといっても、大義名分もなくいきなり武力を以て排除することはできない。日本人がまじめに働いている限りは通常の方法では排除できないからこそ、カリフォルニアで拡大していた排日の動きを利用し、全米に人種差別を煽って反日感情を拡げてわが国を追い詰めていくという最も卑劣な方法を用いたということではなかったか。

米国の排日大阪朝日新聞

大阪朝日新聞に連載された法学博士末広重雄氏の『米国の排日』という連載を読むと、サンフランシスコ・クロニクル紙がいつから排日キャンペーンを開始したかが明確に書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10027103&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「明治三十六年及び明治三十七年には日本人が太平洋沿岸に於て驚くべく多数になった。それに刺戟さられて明治三十八年(1905)二月二十五日から、米国太平洋沿岸に勢力のある桑港のクロニクル新聞が、連日日本移民に関する論説を掲げて、日本人の多数入国は将来大に危険であると云うことを論じて、日本人排斥の必要を絶叫し、同年労働派を基礎として日韓人排斥協会、後に亜細亜人排斥協会と改称になった会が組織せられて日本人排斥運動が愈組織的になって来たのである。」(1914年3月9日大阪朝日新聞)

1905年1月2日に旅順開城があり、3月1日に奉天会戦、5月27日に日本海海戦があったから、このキャンペーンは日露戦争の帰趨がはっきりしない段階で始まっているので、アメリカの対満発展政策とは無関係に始まったものだと理解できる。

500px-San_francisco_fire_1906.jpg

1906年4月18日にカリフォルニア州サンフランシスコで大地震が起こっている。
その時にわが国は直ちに同市に対して50万円の見舞金を送っているが、当時の50万円は現在の十数億円程度にも相当する金額で、この見舞金は他の国々からの見舞金の総額をも上回っていたという。

サンフランシスコ地震義捐金

こういう日本人の善意を感じて、すこしは対日感情が改善しても良さそうに思うのだが、先ほど紹介した大阪朝日新聞の『米国の排日』という連載記事を読むと、カリフォルニアの状況が具体的に書かれている。興味深いのでいくつか紹介したい。

「街上に於て、日本人に瓦礫やら、腐った玉子やら、噛りかけの果物を投げつけたり、鉄拳を下すが如きことは、曾て桑港(サンフランシスコ)の地震後に甚しく、当時地震研究の為に加州に出張して居った大森博士さえ此の厄に罹ったことがあった。今日は斯る強漢は殆ど其の跡を絶ったけれども、社会上尚種々なる形式に於て日本人排斥が行われて居る。」

「排斥の為先ず第一に日本人の困ることは下宿屋、貸部屋の誠に得難いことである。加州に長逗留をするものが、或は下宿或は貸部屋の必要を感じ、新聞の広告を見て、其の家に出掛け来意を通ずると、主婦が出て来て、日本人であるのを見ると、随分剣もほろろの挨拶をして断ることがある。甚しきに至っては、アイ・ドント・ウォント・ジャップ(日本人には用がない)と言って、頭ごなしに跳ねつけて仕舞う者がある。」

「又昨年(1913)バークレーに於て売出中であった市街宅地には、左の条件を附して居ると云うことである。即ち
 千九百三十年迄は阿弗利加(アフリカ)人、モンゴリア人及び日本人血統のものは此の土地を買い又は借受くることを得ず、若し此の条件に背いて、日本人に地面を売るものある時は売主も買人の日本人も共に、附近の食料品屋及び其の他の商店からボイコットせらる。 」

「桑港(サンフランシスコ)の水泳場、浴場は全く日本人を客としない。其の他劇場寄席活動写真等で、時としては全く日本人の入場を拒絶し、然らざるも上等席を売らざるところが少くない。公衆の出入する場所、例えば芝居で日本人を排斥するのは日本人にも罪があると云うことを認めなければならない。」

「桑港附近に於ては、労働者の勢力極めて強大で、排日感情も亦極めて猛烈であるから種々なる労働組合は日本人に対してボイコットを行う。理髪師の如きは組合規約に基いて、日本人の理髪をしないと云うことになって居る。又日本労働者の組合加入を拒絶して居る。是等労働組合員の日本人排斥は極端なところまで行われて居る。」

「桑港地震後には、日本人洋食店も一時随分迫害を受けた。暴徒連が我が洋食店の店先に群集して、白人客が食事の為店に居るのを引止めて営業に非常なる妨害を加えた。洋食店の主人連は相談の上、直接に、或は領事の手を経て警察の保護を請求した、ところが巡査の派遣はあったけれども、食事時、暴徒が来て邪魔するような時には、巡査は何処へか行って仕舞って居ない。食事時が過ぎ、暴徒が其の目的を達して散じた頃になると巡査連はノコノコ何処からか出て来ると云う有様で、一向何の役にも立たない。洋食店主人連は大に困った結果、労働組合の親分株に六百円の賄賂を贈って漸く迫害を免れることになったそうである。
桑港、オークランド地方に於ける我が洗濯業者に対する迫害に至っては最も甚だしい。凡ゆる手段を講じて我が洗濯業者の営業妨害をして居る。洗濯業に必要なる器具機械類の買入れの邪魔をすることを始めとして、監視員を設けて絶えず日本人洗濯業者の華客先を調べ、或は印刷物を配附し或は人を派して日本人との取引を断絶せんことを請求し其の華客を奪わんことを図り、今日でも尚運動を続けて居る。」

「日本人を劣等視するところの感情は、日本人と白人との結婚を許さざる法律となって現われて居る。加州民法第六十条は白人と黒人及びモンゴリア人との結婚は不法にして無効なるものであると規定して居る。恋愛神聖の白人国の法律としては、誠に不似合千万なことではないか。尤も加州在住日本人と相愛する間柄になった白人は、此非人情な法律の為…斯かる法律のあるのを見ても、如何に人種的偏見が、加州に於て猛烈であるかと云うことが分るのである。」

これらの記事を読むだけで、この当時アメリカにいた日本人が大変な苦労をしたことがよくわかる。

1920年の写真

ネットで当時の写真を容易に見つけることができるが、上の写真は1920年の画像である。

アメリカ人による人種差別は日本人に対してのみなされたのではない。黒人やユダヤ人に対しても同様だったようだ。その点についても大阪朝日新聞の『米国の排日』にこう書かれている。

「米国の東部で黒人及び猶太人(ユダヤ人)に対するのは、恰も西部で日本人に対するが如き有様である。白人の黒人排斥は今更のことでない、白人と黒人との間に屡(しばしば)大葛藤を生じ、流血の惨状を呈することがある。昨年の秋にも亦一騒動が米国の東部で持ち上ったことがある。ボルチモアと云う町で、黒人の一家族が白人街へ引越して行った、ところが近所の白人は彼等白人の独占のものと考えて居る場所へ黒人が侵入して来たのを見て大に憤激し、其の黒人の家に瓦礫を投ずると云う騒ぎになった。黒人の方でも白人の乱暴に立腹し、多数集まって白人の家に投石して復讎(ふくしゅう)をした。其の結果白黒人の大衝突となり、遂に市は市の安全の為、白人と黒人の衝突を避くる為、白黒人の住居を離隔する命令を発したそうである。」

アメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれ、多種多様な民族が混在し独特な共通文化を形成していく社会だと言われていた時期があったが、実際はそれぞれの文化が混じりあって融合しているわけではなく、混じりあわない者同士が同じ地域に住んでいるだけのことだ。
アメリカのような多民族国家で、もし全米規模で人種問題が煽られたらどんなに危険なことが起こるかは、はじめからわかっていなければおかしいと思う。
前回の記事で1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、1914年には新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始したことを書いたが、アメリカの大新聞がこのような記事を書くということは世論を対日宣戦に導くためのプロパガンダであり、対日戦争計画書である「オレンジプラン」と無関係ではなかったのだろう。

以前このブログで、第一次大戦以降本格化した中国の排日は、アメリカが我が国の中国におけるマーケットを奪い取る目的で仕掛けたものであることを当時の文章を引用して縷々説明してきた。
アメリカの排日キャンペーンと中国の排日暴動とは繋がっていたのだろう。
アメリカ側は人種問題を煽ることが、急成長していたわが国を追い落とし、中国大陸の権益を手にするために有効な方法だと考えていたのではないのか。
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米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3

前回まで二回にわけて、日露戦争以降のアメリカの排日活動の経緯や実態について書いてきたが、アメリカの知識人はこの時期のカリフォルニアで燃え上がった排日の原因をどう分析しているのだろうか。

日米開戦

ちょっと気になったのでネットで探していると、カレイ・マックウィリアムスの『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』という本があることを知り早速取り寄せた。著者は1905年生まれで南カリフォルニア大学で法律を学んだ後、弁護士資格を取得し、1938-1942年にはカリフォルニア州移民・住宅局長を務めた人物である。表題にあるように、この本は太平洋戦争の最中の1944年に出版されている。

マックウィリアムス氏は、1900年前後から始まったカリフォルニア州排日運動の火付け役は、宗主国イギリスの圧政から逃げ出してきたアイルランド系移民であったとはっきり書いている。この点については、前々回に紹介した五明洋氏の『アメリカは日本をどう報じてきたか』にも同じ指摘があったが、マックウィリアムス氏はもう少し詳しくその事情を述べている。

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当時カリフォルニア州で働く外国生まれの移民の4分の1がアイルランド出身者で、アイルランド系移民のほぼすべてがサンフランシスコに集中していて、サンフランシスコの労働運動をリードしていたという。
彼らはアイルランド人移民を糾合するのに人種問題を取り上げるのが手っ取り早い事に気づき、州人口の1割にも達していた中国人移民を排除した後、中国人に代わって入ってきた日本人をも同様の方法で排除しようとした。

マックウィリアムス氏はこう書いている。
「この頃、アメリカ東部の諸都市ではアイルランド人への差別がひどかった。その鬱憤を晴らすには反東洋人のスローガンは心地よかった。これに加えて日本がイギリスと結んだ日英同盟が反日本人の運動の火に油を注いだ。アイルランド人はイギリスの圧政の中で悲惨な暮らしを強いられてきたのだ。」(『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』p.41)

もともとカリフォルニア州は、他州から移住してきた人が人口の半分を占めていて、移住者たちはカリフォルニア州の政治に強い影響力があったそうだ。

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マックウィリアムス氏はこう分析する。
「このカリフォルニアの特異な人口構成は、むしろばらばらなものを一つにまとめようとするベクトルを作り出していて、その動きの中で生まれた団体が政治力を持っていたと考えている。…
その連携を生み出すには反日本人のスローガンは格好の手段となった。共通の敵を作れば連携が容易というわけだ。日本人問題をシングルイッシューとすることで、こうした団体の活動に共通項が見出せた。…」(同上書p.45-46)
と述べ、この時期にE・A・ヘイズ議員やハイラム・ジョンソン議員など上下院選挙などで選出された議員の多くが反日本人を主張することで選挙に勝利してきたことを書いている。いつの時代もどこの国でも民主主義という政治制度では、候補者は大衆受けすることを公約して選挙に勝とうとするものだが、人種問題を公約して選挙に勝った政治家が少なからずいたのが当時のアメリカだったのだ。

1906年4月18日にサンフランシスコに大地震が起こったことを前回の記事で書いた。その時にわが国は、諸外国の援助額の総計を上回る復興資金を出したのだが、なぜこの時に排日活動が終焉しなかったのか。

マックウィリアムス氏はこう書いている。
「…震災後しばらくは反日本人の動きは沈静化を見せている。しかしそれも長くは続かなかった。
日本人住民への犯罪的ともいえる暴力的行為がすぐに再発している。震災復興にあわせた都市再開発の流れのなかで、日本人社会も拡大した。ビジネスの規模も大きくなり、活動するエリアも広がった。例えば日本食レストランの数は八つから三十に一気に増えている。また従来はリトルトーキョーに居住していた日本人がエリアの外に出て家を購入し始めている。こうした動きにすぐさま反応したのが日本人・朝鮮人排斥連盟であった。日本人のビジネスをボイコットする運動を開始したのだ。
…日本人・朝鮮人排斥連盟は日本人排斥を公式なスローガンとして掲げた。それに他の組織も賛同している。こうした組織の会員数は四百五十万人[他州のメンバー数を含む]にのぼっている。こうしたなかで一九〇六年、カリフォルニア州は日本人移民排斥を超党派で支持することを決定した。」(同上書p.48-49)
地震や災害の後に外国人が勢力を拡大することを警戒することは判らないではないが、その後日本人児童をチャイナタウンにある学校に隔離したことは日本人を憤慨させた。

ではなぜアメリカ政府はカリフォルニア州の危険な動きをストップさせるべく圧力をかけなかったのか。

マックウィリアムス氏は続けて、
「カリフォルニアは一八八二年に支那人排斥法を成立させるために、南部諸州の支援を得て連邦政府に圧力をかけた。今回の事件も同じやり方をとったのだ。最高裁判所がアジア人や黒人の公民権排除を憲法違反でないとしている以上、合衆国政府には州の政策を変更させる権限はなかった。たとえ外国人の権利が条約上保護されるべきであっても、連邦政府はそれを強制することができなかったのだ。
南部諸州の黒人の権利を保護することができないように、カリフォルニアの支那人や日本人の権利も保護が出来ないのだ。…」(同上書p.55-56)

このようにアメリカ政府にはカリフォルニアの排日の動きを止める権限がなかったのだ。そして、メディアはさらにわが国との戦争を煽り、わが国は反米感情を昂らせていくばかりであった。

「ルーズベルト大統領は、わが国は日本との関係が悪化し、一触即発の戦争の危機にさらされていると考えた。大統領はヘンリー・ホワイト宛ての私信(7月10日付)のなかで次のように憂慮している。
『カリフォルニアの日本人排斥は由々しき問題である。事態が改善する兆しが一向にない。』
また友人のヘンリー・ロッジへの同日付け私信では、メディアを強く批判している。
『日本との戦争を避けることが出来たとしても、(戦争を煽る)メディアの責任は免れ得ない。日本にもわが国にも、この問題を戦争で決着すべしと叫ぶ馬鹿野郎が同じ程度に跋扈している。』
西海岸のメディアは(三紙を除いて)こぞって戦争を煽っていたのだ。」(同上書p.57-58)

サイレントインベージョン

同上書に、ロバート・E・パーク博士の言葉が紹介されている。
「階級あるいは人種間の衝突は、単純な、闇雲な反感から生じる衝突から形を変え、より政治的な意味合いを持つようになった。それはあのヒットラーが表現しているように、より精神性を持った、いわば霊的な側面を持ち始めたといえる。つまり人種間の対立のなかでは言葉、スローガンあるいはプロパガンダが“生き生きとした嘘(Vital lies)”になり、いわば言葉が兵器に変質したのだ。ニュース、論評、コラムといった類のものがすべてそういう性格を持ち始めた」(同上書p.65-66)

しかし、日本人がカリフォルニア州で嫌われた理由は何なのか。嫌われるようなことをしたのではないかといろいろ読み進んでも、どこにもそのような記述はないのだ。むしろ日本人はその地で華々しい活躍をしていたのだ。たとえば、

「日本人移民は西海岸にそれまで知られていなかった労働集約型の耕作方法を持ち込んでいる。彼らは土そのものの知識があった。土と作物との関係をよく理解していた。だから耕作しようとする作物に適合するように土壌を改良していった。肥料と施肥の方法にも専門知識を持ち合わせていた。開墾、灌漑、排水の知識に加えて、労力を惜しみなく注ぎ込む不屈の精神があった。こうして日本人移民は数々の農作物栽培のパイオニアとなった。
彼らが開墾した土地はカリフォルニアの肥沃なデルタ地帯だけではなかった。太平洋北西部の切り株だらけの木材伐採地などもあった。日本人を差別する記事を書き続けたサンフランシスコ・クロニクル紙でさえ『カリフォルニアの荒れた土地や痩せ地を豊かな果樹園やぶどう園や庭園に変えたのは日本人の農業技術だ』と賞賛するほどだった。

リビングストンの町は打ち捨てられて荒廃していたのだが、この町を豊かな耕作地に変えたのも日本人の農民だった。カリフォルニア北東部のネバダ州境にあるプレーサー郡の丘陵地帯では果樹栽培が失敗したまま放置されていた。日本人はここでも果樹園経営を成功させている。

後年、カリフォルニア人は日本人がカリフォルニアの最も肥沃な土地を独占したと非難したが、素直に事実を見れば、こうした土地はもともと限界的耕作地だったのだ。
漁業についても同じような傾向が見出せる。西海岸の漁業は昔から移民たちが就いた職業だった。日本人移民はここでも漁獲量を増やすのに貢献した。…
彼らはガソリンを動力としたエンジンをつけた船で、かなり沖合まで漁場を求めて出て行った。新しいタイプの網や釣針を考案し、エサも工夫した。その結果、1回ごとの漁獲高は大きく増えたのだった。また彼らは通年で漁をしたから、市場にはいつも新鮮な魚が溢れることになった。」(同上書p.125-127)

このように、カリフォルニア州に移住した日本人は大変な努力をし、社会にも貢献して生活の基盤を築こうとしたのだが、この州は日本人の努力を正当に評価してもらえるところではなかったのだ。

国民の歴史

西尾幹二氏の『国民の歴史』に当時の米国大統領であるセオドア・ルーズベルトの言葉が引用されている。
「日米間の人種的相違には極めて根深いものがあるので、ヨーロッパ系のわれわれが日本人を理解し、また彼らがわれわれを理解するのは至難である。一世代の間に日本人がアメリカに同化することはとうてい望めないので、日本人の社会的接触はアメリカ国内の人種対立をますます悪化させ、惨憺たる結果をもたらす。その危険からアメリカを守らねばならない。」(『国民の歴史』p.555)

「日本人は勤勉で節倹精神に富んでいるので、カリフォルニアが彼らを締め出そうとするのも無理はない。」(同上書p.556)

要するに日本人は、劣っていたからではなく、優れていたからこそ排斥されたのである。日本人の成功が、他の有色人種を刺戟し白人優位の世界を崩していくことを怖れたのであろう。ルーズベルトが守ろうとした「アメリカ」は「白人が有色人種を支配するアメリカ」であったと考えて良い。

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当たり前のことであるが、戦争というものは、相手国に戦争をする意志がなければ起こらないものである。
勝手に人種問題を焚き付けて世論を動かし、勝手にわが国を仮想敵国にして、挑発行為を繰り返し仕掛けた国はアメリカだったではないか。
「戦勝国に都合の良い歴史」ではこの事実に目をふさいで、戦争の原因が一方的にわが国にあるとするのだが、いつかこの偏頗な歴史が書き換えられる日が来ることを期待したい。
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日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4

前回は日露戦争以降のアメリカで日本人排斥が急速に広まった経緯について、米人弁護士のカレイ・マックウィリアムスの著書の一部を紹介したが、当時の事を黒人の立場から書かれた書物を紹介することにしたい。

レジナルド・カーニー氏が『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本を書いている。日露戦争でわが国が勝利した時に、黒人社会がわが国に対してどういう印象を持ったかについて述べている部分をしばらく引用する。

20世紀の日本人

「東アジアの覇権をめぐる争いを繰り返した後、日本とロシアは戦争に突入した。黒人知識人たちは、白人の国であり、ヨーロッパの列強のひとつであるロシアと、東洋の近代有色人国家、日本との戦争勃発を探っていた。
『セントルイス・パラディアム』紙は「今世紀もっとも重要な歴史的事件」であるという見出しをつけて、日露戦争を報じた。アメリカ人全体がそう思っていたかどうかは別にしても、少なくとも白人と黒人に共通してはっきりしていたことは、日本人が白人をその特権的地位から引きずり降ろそうとしている、ということだった。
…この戦争を機に、黒人には人種関係の大きな転換期が見えたのだ。この国際的事件は、国内の人種問題以外には無関心とされていた黒人が、大いに関心を示したものとなった。黒人は、白人を打ち負かす能力を持った、同じ有色人種としての日本人のイメージを磨き上げていったのである。」(『20世紀の日本人』p.54)

日露戦争風刺

カーニー氏の著書の中で、『インディアナポリス・フリーマン』紙の社説に次のような文章が掲載されたことが紹介されている。

「東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめしつづけている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入 れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに今突き崩されようとしている。」(同上書 p.65-66)

「茶色い男たち」はもちろん日本人の事である。わが国はロシアとの戦いに勝利した。
この当時の米国黒人の知識人たちの反応のなかには次のようなものがあった。

「…おもな黒人の知識人やジャーナリストのなかには、白人支配を根底から覆し、黒人の地位を向上させる契機として、この戦争を捕えようとする者もいた。日本人という有色人種が、ロシアという白人国家を打ち負かしたのだから、黒人もやがてアメリカという白人優位国家に対して、同じことが出来るかもしれないと考えたのだ。

… 何と言っても、白人が有色人種を支配する人種構造はけっして真理ではなく、ただ創られた神話に過ぎないということを、明確に世界中に知らしめたのだから。この戦争を契機に、黒人は日本人が自分たちと同じ有色人種であったという同胞意識を、強く抱くようになった。…」(同上書 p.67-70)

当時の西洋社会では有色人種は白人より劣った人種であり、白人が有色人種を支配することは当たり前だという考え方が支配していたのだが、日露戦争でわが国が勝利したことが有色人種に与えた影響はかなり大きかったようなのだ。

またカーニー氏は、当時の『ニューヨーク・エイジ』紙にこんな記事が掲載されたことを紹介している。
「アジアは欧米の支配を受けないアジア人のためのものという信念が『黄禍』を生み出したとしたら、将来アフリカには『黒禍』なるものが生まれてくるであろう。」
「もし日本人が中国人に勇気と反抗の精神を植え付けることができたなら、高慢で横柄なノアの子孫たちは用心しておいた方がよいだろう。」

「高慢で横柄なノアの子孫たち」というのは白人のことを指している。
『旧約聖書』ではノアの息子たちはセム、ハム、ヤペテであることが記され、この3人はそれぞれ、セム=黄色人種、ハム=黒人種、ヤペテ=白人種の祖先になったとかなり古い時代から解釈されているようだ。

聖書創世記

そして『旧約聖書』創世記9章にはこのようなノアの言葉が書かれている。カナンはハムの父である。
「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべ*らのしもべとなれ。」
また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。
神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
*しもべ:召使い、下僕
http://www.cty-net.ne.jp/~y-christ/reihai/reihai2011/reihai11.10.2.html

聖書この記述から白人による黒人支配が正当化され、西洋による有色人種の国々の植民地化が正当化されていた時期が長く続いたのだが、日露戦争における日本軍の勝利は、この白人優位の常識を覆したのだ。

カーニー氏が重要な指摘をしている部分を引用する。
「日本が…ただロシアをやっつけたというだけではなくて、白人が有色人種を支配するという神話を完全に打ち砕き、『他の呪われた有色人種たち』の秘めた力を引き出すきっかけを作った。それが日本だったのだ。
この頃から、デュボイスは**、ヨーロッパによる支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっとも高い国として、日本を支持していた。ブッカ―・T・ワシントン派の有力な評論家は、日本人が『”白”という言葉の持つ近代の愚かなまやかし』をぶち壊したと言った。彼はまた『茶色と黒の人種』が日本人のあとに続くだろうと予言した。つまり、これこそが白人支配に脅威を与えた、いわゆる『黄禍』の本当の意味だったのだ。」(同上書 p.55)

デュボイス
**デュボイス:黒人運動の先駆的指導者。全米黒人地位向上協会の創立者(1868-1963)

またカーニー氏によると、インディアナポリスのYMCA黒人支部主催の討論会で次のような議論がなされたという。
「戦争の結果に暗示されたアジアの栄華とヨーロッパの衰退は、他の抑圧された有色人種たちの未来に、明るい兆しをもたらしたということ、であった。日本が中国をヨーロッパから解放してくれる……ひとたび日本と中国との関係が強化されれば、インドやアフリカや東南アジアをも、白人支配の手から救い出す大きな力になり得る、と考えたのだ。」(同上書p.69)

これらの文章を読むと、なぜアメリカで『黄禍論』が急速に広まったかがよくわかる。
アメリカに日本人が移住してから、アメリカに奴隷として送られてきた過去を持つ黒人や、移住してきた有色人種達が日本人の活躍をみて刺戟され、白人優位の社会に疑問を持ち始め、地位改善のための活動を始め出していたののだ。
白人たちは、早いうちに手を打たないと、いずれは世界中で有色人種たちが白人に抵抗するようになり、永年にわたり白人が築き上げてきた白人優位の世界が崩壊していくきっかけとなるとの危機感を持ったということではないか。

しかしながら、日本人は集団で犯罪行為を行っているわけでもなく、正常な経済活動を行っているにすぎない。これでは普通のやり方で日本人の勢力を排除することは不可能である。
そこでアメリカ白人たちは、別のやり方で日本を孤立させ、経済的に追い詰めていくことを考えた。
カリフォルニア州で起きていた排日運動を巧く利用し、二流三流のメディアを使って黄禍論を全米で煽り米国世論を反日にシフトさせた。そうして日本人がアメリカで築いた経済基盤を破壊し、さらに中国にも排日思想を植え付けてわが国の企業が苦労して築き上げた中国大陸の商圏を奪い取り、かつ黄色人種同士を相争わせることで日本の勢力を弱め、かつアジアで黄色人種が纏まることがないようにしたということではないのか。

黒人たちが望んでいたことは日本と中国とが手を結び、まずアジアが黄色人種で纏まることであったが、アメリカはそれを許さず、素早く黄色人種の間に対立軸を組み込んだのである。中国の排日については、今までこのブログで何度か書いたので繰り返さないが、これを仕掛けたのは英米であったことは当時の記録に残されているのだ。

パリ平和会議

第1次世界大戦が終焉し、1919年にパリ平和会議が開かれる。そこでわが国は人種差別撤廃を講和条件に盛り込むことを強く主張したのだが、標準的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』では、アメリカの排日運動については何も触れずに、
「…パリ平和会議の結果、日本は、山東半島の旧ドイツ権益の継承、国際連盟の委任による赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島(サイパン島など)の統治を認められた。しかし中国は日本の山東権益承継に強く反対し、大規模な反日民族運動(五・四運動)が展開された。また日本がこの会議に提出した人種差別撤廃法案は、アメリカなどの大国の反対で採択されなかった」(『もういちど読む 山川日本史』p.278)
と書かれているが、この記述はフェアなものではない。

わが国がパリ平和会議人種差別撤廃条項を盛り込むことを主張したのは、日本人自身がアメリカで不当な人種差別を受けてきたことや、英米が中国の排日を仕掛けたことを抜きには考えられない。以前このブログで書いた通り、五・四運動の背後には英米がいたのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

『山川の日本史』の文章をいくら読んでも、そのような背景を理解することはできない相談だ。この文章を普通に読めば、日本が悪い国であったので、人種差別法案が採択されなかったと理解する人が大半だろう。
『山川の日本史』のこの部分だけが問題だというのではなく、概してわが国の教科書や通史における近・現代史の解説文においては、『戦勝国にとって都合の悪い史実』が記されていない。それが問題なのである。

パリ平和会議のことを書き出すとまた長くなるので、次回のテーマとすることにしたい。
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【ご参考】
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パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5

1918年11月11日、ドイツは連合国に降伏し第一次世界大戦は終結した。翌年1月に開かれたパリ平和会議において世界の主要国の首脳が集まり、戦後処理および国際連盟を含め新たな国際体制構築について話し合われた。

国際連盟委員会

2月13日国際連盟委員会において、わが国の全権の牧野伸顕は連盟規約第21条の「宗教に関する規定」に次の条項を加えることを提案した。いわゆる「人種的差別撤廃提案」だが、Wikipediaの記述等を参考にパリ講和会議における議論を振り返ってみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%A8%AE%E7%9A%84%E5%B7%AE%E5%88%A5%E6%92%A4%E5%BB%83%E6%8F%90%E6%A1%88#cite_ref-13

わが国が提案したのは次のようなもので、国際会議の席上で人種的差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であった。(原文は旧字旧かな)
「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」

わが国がこの法案を提出した背景は、アメリカやカナダなどで日本人移民がひどい人種差別を受けている問題があり、わが国の外務次官幣原喜重郎が、この提案を行うことにより排日問題の解決のきっかけを作ろうとしていたとされている。

わが国の提案は会議で紛糾し、結局連盟規約第21条自体が削除され、全権の牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べて次の機会を待つこととなったのだが、わが国のこの提案は海外でも報道され様々な反響を呼んだ。
牧野伸顕の『回顧録』には、西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人やアイルランド人などから人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けたことが書かれているそうだ。
また、アメリカのウィルソン大統領は一時帰国して米議会に諮るも、この提案は内政干渉にあたるとの強い批判に直面し、上院ではこの提案が採択された際にはアメリカは国際連盟に参加しないとの決議がなされたという。

牧野伸顕

4月11日に国際連盟委員会の最終の会議が開かれ、牧野伸顕は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案した。

ウィルソン大統領

議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるようわが国に勧告したが、牧野は採決を要求した。

議長を除く16名が投票を行い、フランス、イタリア、中国など計11名が賛成し、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
過半数の賛同を得たものの、議長のウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、牧野は多数決で決すべきではないかと詰め寄ったのだが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである。」と答えて譲らなかったという。
牧野は最後に「今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解したという流れだ。

我が国が人種差別撤廃の提案をしたことは、これまで欧米植民地体制の下で呻吟してきたアジア・アフリカの人々やアメリカの黒人に大きな希望を与え、彼らは会議の行方を見守っていたのだ。

前回の記事でレジナルド・カーニー氏の『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本観1900-1945』という本を紹介したが、この本にはこう書かれている。

「どのような不都合が生じたとしても、人種平等を訴え続けることは、必ずアメリカ黒人の利益につながると、ジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンは考えた。『おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星』、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。

日本が人種問題を国際会議の卓上にのせたことで、黒人のあいだには、おのずと日本への興味が高まっていった。全米黒人新聞協会(NAAPA)は、次のようなコメントを発表した。『われわれ黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。』『全米1200万人の黒人が息をのんで、成り行きを見守っている。』
黒人のなかには、この会議が日本を仲立ちとして、黒人の本当の苦しみを世界に伝えるいい機会だと考えるものもいた。そして、これを機に、黒人と日本人が人種差別撤廃にむけて手を取り合うべきだ、と。」(「20世紀の日本人」p.74-76)

国家と人種偏見

米国黒人がこれほどまでに期待していたパリ講和会議におけるわが国の「人種差別撤廃提案」が、賛成多数であったにもかかわらず、議長裁定により法案が成立しなかったことに失望して全米各地で紛争が起こったことがポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』という本に書かれている。

「アメリカでも暴力的な反応があった。人種平等や民族自決の原則を講和会議が支持しなかったことにいらだち、あからさまに不法で差別的な政策を前にして自国の政府が意図的に無作為であったことに怒って、アメリカの多数の黒人が完全な市民権を要求することを決意した。この決意は特に黒人帰還兵の間で強かった。彼らの民主主義十字軍としての戦争参加は、祖国でももう少し民主主義を、という当然の夢をふくらませた。…その一方で、復活したクー・クラックス・クラン*の会員のような反対派の連中は、平等の要求などは絶対に許さないと決意しており、『生まれながらの白人キリスト教徒はアメリカ国家と白人の優位を維持するために団結して統一行動をとる』という計画を公然と発表した。
この相容れない態度が1919年の暑い長い夏に、剝きだしの暴動となって爆発した。6月から10月まで、アメリカの多くの都市のなかでも、シカゴ、ノックスヴィル、オマハ、それに首都ワシントンで大規模な人種暴動が発生した。リンチ・放火・鞭打ち、身の毛のよだつテロ行為、それから『人種戦争』と呼ぶのにふさわしい破壊。当局は秩序回復のために、警察、陸軍部隊、州兵を動員した。暴動が終わってみると、100人以上が死亡、数万人が負傷、数千ドルに及ぶ被害があった。ジョン・ホープ・フランクリンは次のように書いた。パリ講和会議の差別の政治と外交に続いたこの『赤い夏』は『全土をかってない人種闘争という大変な時代に追い込んだ。』彼が目撃した暴力は国内の一部の地区にとどまらず、北部・南部・東部・西部…『白人と黒人が一緒に生活を営んでいるところならばどこでも発生した』」(『国家と人種偏見』p.151-152)」

KKK.png

*クー・クラックス・クラン:アメリカの秘密結社、白人至上主義団体。略称KKK。

この様なアメリカ黒人の暴動は報道機関によって全世界に配信され、一部の記事を神戸大学図書館デジタルアーカイブの新聞記事文庫で読むことが出来る。

人種不平等の国

例えば、大正8年(1919)8月26日~27日付の神戸新聞はワシントンの黒人暴動を特集記事で伝えている。ワシントンの黒人暴動は白人が黒人にリンチを仕掛けたことから始まっていることがわかる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10056149&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「時は本年(1919)七月二十日夜華盛頓(ワシントン)市の中央に於て米国水兵、水夫、陸軍々人及び其他の市民は連合して黒人を襲撃した、其数数百より数千に達した、彼等は電車や自動車中に居る黒人を引ずり下した、而して此等の黒人を死刑に処せんとしたのである 。
 何故に彼等はかく野蛮なる行動に出でたかと云うに之は南部米国に於て屡々(しばしば)行わるる所謂(いわゆる)リンチ(私刑)を行わんとしたのである、先月より黒人にして白人婦女子を強姦する者が屡々であった、警察は敏活に活動して数名を捕えた、然し乍ら猶多くの捕われざる者がいると一般に思われていた、かくして白人等は警察の手をまだるしとなし、黒人と云えば手当たり次第に捕えたのである 。
 之は南部に於ては寧ろ(むしろ)当然として屡行わるる所であるが首府の中央に、斯(かか)る事件の発生したことは米国としても珍らしい事件である。然(しか)もそれより四日を経過せし今日は更に黒人側も連合して之に当り一種の内乱の有様を呈している、黒人は手に手に武器を有して決死の勢いを以て白人に対し双方に死傷者を出し遂に政府は軍隊を出して鎮静に努めたが今尚夜毎に争闘が行われている、新聞の報ずる所によればこは黒人間にある秘密結社の者が此運動に加わっているのであると云う 。
 二十二日夜も十時頃より黒人の暴動は益々猛烈となった、数多の騎兵、歩兵、水兵はハーン大将指揮の下に鎮静に努めているが猶止まない之は云う迄いなく黒人の非道徳的行為に原因しているのではあるが然し乍ら根本を正せば白人の黒人に対する軽蔑の念之に対する黒人の不平が有力なる原因たること勿論である、何となれば白人にして黒人婦人を強姦若くは其他の非行を行うも社会は一般に之を責めない、黒人がすれば之を責めると云うのは黒人自身多年の歴史より自己を白人より下位に見ると白人が又自己を黒人より上位と見るに原因する 。
 其証拠には日常の社会的習慣を見れば明かである、黒白人の区別最も甚しい米国南部では通路さえ区別されている、電車の中でも黒人がもし白人の傍へ坐すれば無礼だとせられる、汽車や電車も区別せられることがある、もし電車内で白人婦人が黒人の側に掛けてる場合、白人の男が其女と席を代えても敢て黒人に対し失礼とも思わない、こう云うようなことは沢山ある黒人がかかる待遇に対し不平を懐くのは勿論である、だから今度の華盛頓市の暴動も日頃の不平の勃発と見るべきである。 」

ボストン大暴動

上記画像は大正8年(1919)9月15日付けの大阪朝日新聞の記事で、ボストンでの黒人暴動を伝えている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00791137&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「暴動は容易に鎮定の見込なく更に二名の死亡者を出せり。知事は十一日陸海軍長官に向い州兵のみにては秩序維持に不足なるにより正規兵を直に派遣さるべき旨の電報を発せり。」
「ボストンの暴動以来十二日朝まで軍隊に打たれ死亡せし者七人に達せり。軍隊の警備あるに拘らず掠奪は到る処に行われ無政府状態は依然たり。」
「華盛頓(ワシントン)、市俄古(シカゴ)に於ける黒人暴動の時と同様無見識にて曩(さき)にシアトルに発生してウィンベッグに移りリヴァーノールに飛火し更にボストンに後戻りせる暴動は次には何処に伝染すべきか憂慮に堪えずと論じ居れるのみ。」
と書かれているが、このような黒人暴動が全米に次々に飛び火していったのだ。

パリ講和会議の後で暴動が起きたのはアメリカだけではなかった。ポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』にはパリ講和会議の直後に世界各地で暴動などが起こったことが書かれている。
3月にエジプトで暴動が起こり、4月に起こったインドのパンジャブ地方で反乱では、イギリスの将軍が非武装のインド人群衆に発砲して死者400人、負傷者1000人が出たという。同じ月にパレスティナでも流血の惨事があり5月にはイギリスはアフガニスタンで戦争に突入し、トルコとは一触即発の状態となったという。

英米をはじめとする白人の帝国主義勢力は、それまで植民地で原住民を食い物にしてきた。
第一次大戦後に開かれたパリ講和会議で「民族自決」の要求と期待にどうこたえるかに世界の注目が集まったのだが、この会議で「民族自決」の原則を認めたのは東欧やバルカン半島などヨーロッパだけであり、期待を裏切られた有色人種たちはついに立ち上がったのだ。
この有色人種の怒りを抑え込むために、アメリカはわが国を仮想敵国とし、人種問題を焚き付けて全米を反日に染め上げ、中国には排日思想を植え付けてわが国が築いた中国大陸の商圏を奪い取り、黄色人種同士を反目させた上で、わが国に経済制裁まで仕掛けて挑発し、戦争に持ち込めれば徹底的に叩きのめして、白人優勢の世界を固守しようとしたのではなかったのか。

少なくとも太平洋戦争が終わるまでは、「人種戦争」という視点は当時の新聞記事の論説から容易に見出すことができるので、当時の論文や書籍でも同様な論調が多かったと思うのだが、戦後GHQがそのような視点で記述された書物を徹底的に焚書処分にし、事前検閲で占領軍批判につながる文章の掲載を禁止したことの影響が長らく続き、いまもこの「人種問題」という「戦勝国にとって都合の悪い史実」をテレビなどで解説されることはほとんど皆無ではないか。

しかしながら「人種戦争」の視点から20世紀の歴史を見直していくと、太平洋戦争の原因の全てがわが国にあるとする「戦勝国にとって都合の良い歴史」が、いかに浅薄で偏頗なものであることに誰でも気が付くことであろう。日本人が「自虐史観」の洗脳を解く鍵が、このあたりにあるのだと思う。
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関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6

レジナルド・カーニー氏の『20世紀の日本人』によると、米国黒人たちが自分たちと日本人を同一視する見方が一般的になったのは1920年代らしい。その当時西海岸において行われた調査で『フィラデルフィア・トリビューン』はこのように書いていた。
「黒人たちは、日本人を心から尊敬している。同じ『抑圧された民族』であるにもかかわらず、『自分たちのために、一生懸命努力する』日本人の態度は、見習うべきものである、と」(『20世紀の日本人』p.82)

アメリカ西海岸では白人と日本人と黒人が混在して居住していたのだが、概して黒人と日本人との関係は良好であったようだ。カーニー氏はこう記している。
「…白人のマジョリティーのなかにこれらふたつの人種が入り込み、そのうち徐々に、『白人と日本人、白人と黒人の意見の対立』が表面化していった。白人のなかには、日本人よりも黒人を好む者もいたし、またその逆もいた。しかし、白人たちの関心は、あくまで豪華できれいな家に住むことだった。つまり、彼らが気にしていたのは、黒人や日本人が近所に来ることによって、不動産の価値が下がることだった。かと思えば、黒人や日本人の流入を抵抗なく見守る、リベラルな白人もいた。
当時の日本人移民へのインタビューによると、白人は日本人を避ける傾向があったのに対し、黒人たちの反応は暖かいものだった。ある移民は、移り住む際に、あえて黒人の近所を選んだと語った。『黒人は白人に比べて、日本人への偏見が少ない。親切だし、一緒に住めることを喜んでくれさえもする』というのがその理由だった。」(同上書p.83)

黒人もまた日本人を暖かい存在だと感じていた。その理由をカーニー氏はこう書いている。
「…日本人は黒人の権利と尊厳を認め、平等に扱ってくれる。彼らはそう考えていたのだ。その証拠に、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、ふたりは黒人だった。そのことに触れて、『カリフォルニア・イーグル』紙は、次のように述べている。『ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日本の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうことの出来る安心を、患者は得ることが出来るのだから』。黒人を差別しない日本人というイメージは、黒人のメディアを通じて、またたく間に西海岸中にひろまった。そこには、黒人と結婚する日本人が取り上げられていた。白人がひどく嫌う黒人との人種混交を、日本人は受け入れている。このことは、日本人が人種平等を心から目指していることを示す、何よりの証拠だと黒人たちは考えた。」(同上書p.88-89)

関東大震災人形町

このように米西海岸では日本人移民と米国黒人との関係は良好であったようなのだが、その頃わが国に関東大震災が起こった。
大正12年(1923)9月1日に発生した相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の大地震は、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出たことを以前このブログで2回に分けて書いたが、死者の9割近くは火災によるもので、東京、横浜の中心部がまるで大空襲でもあったかのように焼失し、津波による被害も大きかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

この大地震のニュースは12時間後にはアメリカに伝わり、シカゴの白人政治家たちがわが国を救援するキャンペーンを始める記事が、黒人向けメディアの『シカゴ・ディフェンダー』紙の紙面を飾ったのだが、この記事に対する米国黒人の反応が非常に興味深いので、再びカーニー氏の文章をしばらく引用させていただく。

「…この記事を読んだある黒人の読者は、『アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか』と主張した。それを受けて、同紙は即座に、黒人による日本人救済のキャンペーンを始めた。真っ先に100ドルの寄付を行なったのは、ジェシー・ビンガというビンガ州立銀行の頭取だった。ビンガは1921年に銀行の経営を始めた実業家であるが、以前から多くの不動産を持っていた。大震災の10か月ほど前、彼はアメリカの社会事情を学んでいた何人かの日本人留学生に会い、日本人がいかに一生懸命、人種平等のために努力を重ねているかを知り『痛く感激した』という経緯があった。このことが、逸早く多額な寄付につながったのは言うまでもなかった。『シカゴ・ディェンダー』紙は『黒人として何が出来るかを考えよう』と呼びかけた。『確かに、我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか』。同紙の熱心な呼びかけは、しだいに多くの黒人のあいだに浸透し、日本救済への機運は徐々に高まっていった。」(同上書p.83-84)

関東大震災 日本救済運動

海外から最終的に関東大震災の義捐金がどれだけ集まったかについては良くわからないのだが、全世界からかなりの義捐金が集まったようである。
当時の新聞記事を神戸大学付属図書館の新聞記事文庫から探すと、9月10日の大阪毎日新聞の記事が見つかった。ここには世界からの支援があったことに加えて、とりわけ排日活動が過激なサンフランシスコも日本支援に動いたことが書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070408&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

見出しには、「排日巨頭連も一様に日本支援の演説」とかかれ、こう解説されている。
「全米国各地は日本救済のため大運動中である。…ゴムバース、ジョンソン氏等の平素排日的論調を有する人々も皆一様に日本救助を演説している、全米各新聞は日毎に救助論を書いている、桑港(サンフランシスコ)赤十字社は五十万弗を送る筈で、その他の団体も送金の運動中である、ただ船腹がなくて品物の発送に困っている、桑港市長ロルフ氏は自分の船四隻を直ぐ出すことを発表した、米人側から子供や婦人が続々寄附に来て涙がこぼれる程である」

関東大震災 シカゴ市の日本救済運動

また次のサイトでは、アメリカ赤十字社に「日本救済事務所本部」が設置され、日本救済募金が2500万ドル(約5000万円:現在価値で600億円相当)が集まったと書かれ、シカゴ市で日本救済金を募集している人々の写真が紹介されている。このように人種に関係なく、わが国を助けようとする善良な人々が多かったこともまた事実なのだ。
http://www.blog.crn.or.jp/lab/06/21.html

しかしながら、この大震災における日本支援運動が米国の排日の流れを止めるきっかけにはならなかった。
地震からわずか3か月後に、帰化できない外国人のアメリカ入国を禁止する法案がアメリカの上下院に提出されている。この法案の内容は各国からの移民の上限を1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者の2%以下にすることを目的とするもので、特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられていた。
日本人のアメリカへの移民が増えだすのは以前にも書いた通り明治20年(1887)以降のことであり、この法律は実質的には日本人にターゲットを絞ってその移民を禁止するものであり、わが国では「排日移民法」と訳されている。
この法案は翌1924年4月に下院で、5月には上院で可決され、7月1日に施行されている。

何の自由平等ぞ

次に紹介するのはこの法案が下院を通過した直後の大阪毎日新聞の記事だ。
「…若し米国上院議員等が人種的僻見や一片の感情に囚はれていないとすれば、そして国家間の交渉に当り、これが埴原大使の所謂『常に公明正大という高遠なる原則の上に立脚せねばならぬもの』とすれば如何なる排日議員も、あの排日条項そのままに置く訳には行くまい。…
要は締盟国の或る国に差別的待遇を与えるか、与えないか、我等が今次の移民法案に反対するのは移民そのものの制限よりも何等移民と関係のない帰化不能の理由を以て特に日本移民を禁止する点にある。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10026392&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

少しわかりにくいので補足すると、関東大震災の1年前の1922年の11月にアメリカの大審院が「黄色人種は帰化不能外国人であり帰化権はない」という人種差別丸出しの判例を出している。それだけでも問題であるのだが、過去に帰化した日本人の権利まで剥奪ができるとし、第一次世界大戦にアメリカ軍の兵士として兵役に服し、復員後、帰化権を得てアメリカ市民になった500人以上の日本人も、その帰化権を剥奪されたのだ。
この「排日移民法」は、日本人は帰化が禁止されているので移民もできないという理屈なのだが、この法律は明らかに日本人を差別する法律であり、わが国が激怒したのも当然だと思う。

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万国黒人地位改善協会を設立したマーカス・ガーベイは、アジアがアジア人でまとまることによってアフリカ人が本来のアフリカを取り戻すことが出来ると考えていた。関東大震災で大損害を受けたわが国に対して深く同情し、ガーベイと万国黒人地位改善協会で日本に対し500ドルの寄付を行なったのだが、関東大震災後に排日移民法が可決されて、ガーベイは日本とアメリカとの戦争を予期したという。

黒人の間でも日米開戦がささやかれはじめ、アメリカの黒人はもし開戦ともなれば、日本を無視すべきか、加勢すべきか、中立を守るべきかで議論がまき起こったことをカーニー氏が著書で書いている。
「『シカゴ・ディフェンダー』紙は、この黒人たちの迷いに、ある方向性を示した。同紙は、黒人の中には、日本の勝利を前提とした日米開戦を心待ちにしている者がいることに触れて、それは『堕落した夢』であると警告した。『たとえ日本に同情を寄せたとしても、身と心はアメリカに捧げなければならないのだ』。同紙はまた、現状を次のように見ていた。『白人のためなら…水の中にも潜らなければならない。たとえ溺れても、どこまでもついていかねばならないのだ』。最後に、同紙は次のように締めくくっている。アメリカの黒人たちはつねにこう答えるよう期待されている。『白人様がやれとおっしゃるのなら…』」。(同上書 p.86)

1863年のリンカーンの奴隷解放宣言でアメリカの黒人は白人と平等になったわけではなく、その後も人種差別が続いて貧困から解放されたわけでもなかった。
黒人たちは生活のために白人に仕え、兵士として戦場の最前線に送り込まれ、アメリカの白人社会を支える役割を担わされてきたのだが、貧困である限りアメリカ黒人たちは白人に逆らっては生きていけない悲しい存在であったのだ。
その貧しい黒人たちが、なぜわが国を愛したのか。なぜ、関東大震災の後にわが国を支援しようとしたのか。そしてわが国が関東大震災直後でまだまだ苦しんでいる時期に、なぜアメリカ議会で「排日移民法」提出され可決されたのか。
これらの史実は『人種問題』を抜きに理解することは困難である。黒人が自発的・献身的に日本を支援する動きは、白人にとっては脅威ではなかったのか。アメリカは、有色人種が白人社会を支える仕組みを崩壊させる可能性を秘めた動きを排除して、白人優位の社会を守ることを優先させたのではないのか。
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日本軍の真珠湾攻撃で快哉を叫んだ米国黒人が少なからずいた~~米国排日7

そして1941年12月8日の真珠湾攻撃で日米の戦いが始まった。
米国の黒人たちは、この日本人との戦いをどう捉えていたのであろうか。

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今まで何度紹介したレジナルド・カーニー氏の著書『20世紀の日本人』にはこう書かれている。
「…日本が真珠湾に奇襲をかけた時、黒人の意見はいくつかに割れた。母国であるアメリカが攻撃を受けたのだから、ひとまず人種問題は置いといて、とにかく戦わねばならない。いやずっと求め続けてきた黒人の権利は主張しながらも、アメリカ人として戦うべきだ。いやいや、黒人を差別するようなアメリカのために戦うなんて、ばかげている。そして、このいずれにも決められないという意見。」(『20世紀の日本人』p.120)

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戦争が始まるとなると自国の勝利のために自分の命を賭けて戦ってくれる兵士を集めなければならない。そのためにどこの国のマスコミも政府に協力して戦闘意欲を高める記事を書くものであり、「軍国主義」がわが国だけの専売特許であるわけではないのだ。カーニー氏の著書に、主要黒人メディアの当時の論調が書かれているが、戦前は日本に同情的な記事が多かった黒人メディアも、戦争が始まると全く論調が変わっていることがわかる。アメリカも日本と同様に、「軍国主義」の国になっていたのだ。

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たとえば、
【アムステルダム・スター・ニュース紙】
アメリカがひとつにまとまった国だということを、ジャップとナチに思い知らせてやる。われわれは民主主義のために戦うのだ。しかも勝つために!…肌の色を云々言っている場合ではない。人種の違いなど考えているいとまはないのだ。」

【インディアナポリス・レコーダー紙】
黒人の忠誠心には何の心配もいらない。われわれは100パーセント以上アメリカ人なのだから。いつでも準備はできている。」
黒人は『勝利と平和』のために戦い、最後には『完全な人種平等』を勝ち取る

【シカゴ・ディフェンダー紙】
「われわれ自身の問題を日本に任すわけにはいかない」
黒人の人種問題の解決を、日本に求めるのは筋違いである

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上の画像は、戦争中に作られたポスターだが、なぜ黒人が描かれるのか。
ここには「ジャップと同じくらい精一杯勉強や仕事に励んでいるのなら、もっと迅速に東京をひねり潰すことができるのに」という意味のことが書いてある。

アメリカでは、黒人がこの戦争の勝利に貢献することによって、念願の公民権を獲得し人種差別問題に打ち勝とうとする「ダブルビクトリー」キャンペーンが大々的に展開されたようなだが、そのような論調を冷ややかに見ていた黒人も少なからずいたようだ。

カーニー氏はこう書いている。
「全米都市同盟(NUL)や全米黒人向上委員会などは、この戦争を機に、いつまでたっても約束通りに生活改善を推し進めようとしない政府に、黒人の低所得者層はうんざりしていることを訴えようとした。エチオピア平和運動をはじめとして、エチオピア和平会議、東洋世界和平会議、イスラム神殿等のメンバーは、たとえアメリカが戦争に勝っても、黒人の状況に前向きな変化はない、という冷ややかな見方をしていた。それどころか、逆に、日本が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んでさえいたのだ。アメリカにいる限り、黒人には明るい未来はないとする彼ら。たとえ、アメリカが日本に負けても、黒人の状況はこれ以上、悪くなりようがない、と彼らは考えていたのだ。
…新聞は彼らを叩いた。FBIも調査に乗り出し、政府機関は彼らを次々に逮捕していった
。」(同上書p.123-124)

淵田美津雄自叙伝

日本軍が連合軍に打ち勝ったという知らせに喜んだ黒人がいたことが一言だけ書かれているが、ずっと以前に真珠湾での日本軍の快進撃を黒人が喜んだという話を読んだことを思い出した。ブログの読者からもコメントがあったのでその出典を調べたところ、『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』に書かれていることがわかった。

終戦後、真珠湾攻撃を指揮した淵田美津雄の宿舎に三人の黒人兵が訪ねて来た。そして淵田は彼らのジープに乗せられて丸の内の郵船ビルの裏にあった彼らの働くバーの楽屋裏に案内され、そこで大勢の黒人兵たちに大歓迎されたのだそうだ。

淵田美津雄

次のURLで淵田美津雄自叙伝の一部の文章が紹介されている。
http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/51896032.html
ポイントとなる部分を引用させていただく。
「この三人の黒人兵のほかに、バーで夕方の準備に忙しく働いている大勢の黒人兵たちも、みんな私に手を差し伸べて、飲みねえ、とばかり、ウイスキーのグラスをつきつける。食いねえ食いねえとばかり、クラッカーをさし出す。
私には、何の為にこの様な歓待を受けるか見当がつかなかったが、だんだんと分かって来たことは、彼等のジェスチャーで
『真珠湾空襲を誰が一番喜んだと思うか』
との問いかけであった。そしてその答えは『われわれ黒人だよ』と言うのであった

私はこのとき初めて身をもって、白と黒の人種的ツラブルの深刻さを味わった。黒人は白人に対して、先天的に、蛇に睨まれた蛙みたいに頭が上がらないものとされてきた。しかし彼らは、白と黒の差別意識には我慢ならない思いを、いつも泣き寝入りさせられて来たのであった。それが真珠湾で小気味よく白人の横づらを殴り飛ばして呉れた。われわれ黒人は溜飲を下げた。そのお礼に今サービスするというのである。しかし占領政策で、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されているので、大っぴらに出来ないから、この様な楽屋裏で我慢して呉れとの申出であった。
私は、この皮膚の色が違うからというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一こまをここに見て、胸がふさがる思いであった。真珠湾のお礼などと、とんでもない。(『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』第五部 占領の名の下で 273-274頁)」

カーニー氏によると、彼らのように軍隊に志願した黒人の多くは「とくに国粋主義者でも反戦論者でもない、ごく一般の若者だった。」彼らにすれば、反戦論を貫いて監獄に放り込まれるよりかは軍隊の方がましだったのだ。
マスコミは戦争で勝利に貢献して人種平等を勝ち取ろうと書きたてていたのだが、実際に彼らが目にしたのは、「黒人兵が白人の兵士や市民や警官から差別されるという南部の現実だった」。太平洋戦争中に数多くの黒人差別事件があったようだ。

レジナルド・カーニー

カーニー氏はこう書いている。
「陸軍の黒人兵を南部のキャンプに入れるという方針は、結局、軍自らの首を絞める結果を招くことになった。ワイリー報告は、北部出身の黒人を南部に送り込むという陸軍省の方針は『まったく相容れないふたつのものを、お互いののど元につき合わせるようなもの』だとしている。…
たとえ黒人の兵士がアメリカ民主主義のために海外で戦う気になったとしても、そのことで、国内の人種差別がなくなるわけではなかった。デトロイトとニューヨークのハーレムを中心に、人種対立はますます激しくなっていった。暴動、リンチ。あまりにも残酷な現実を目のあたりするにつけ、敵であるはずの日本人との距離は少しずつ縮まっていった。…

海外に派兵された黒人兵にとって、いちばん不安だったのは、アメリカ国内の家族や親戚が無事かどうかだった。『アフロ・アメリカン』紙は、社説で、黒人社会が直面していると思われる問題をふたつ取りあげた。『肌の色がちがうというだけで、街角が黒人の血で真っ赤に染まったアメリカ。そんなアメリカが日本の行為を非難できるのか?』『家族や親戚が、敵以上に残酷で無慈悲な味方に脅かされているかもしれないと思うと、海外で戦ってなどいられない!』」(同上書p.137-139)

カーニー氏の著書には黒人に対して兵役拒否を呼びかけた人物が紹介されている。
ミッティ・モード・リーナ・ゴードン女史は40万人もの署名を集めて、すべての黒人をリベリアに移住させるための組織「エチオピア和平会議」を創設し、黒人たちに兵役登録を拒否することを訴えたそうだ。
1942年にFBIの取調べを受けた時に彼女はこう述べたという。
先の第一次世界大戦で命がけで貢献した黒人に対し、国はいったい何をしてくれたというのか。…『各地では人種暴動』が頻発し、黒人はこのアメリカで『生き抜くために、貧困や差別と闘わねばならなかった』ではないか、と。…アメリカのために戦い、アメリカに裏切られた黒人たち。そんな彼らがもう一度命をかけてまで、星条旗を守ろうなどと思うはずがないではないか、と」(同上書p.125)
このゴードン女史は親日活動のために2年の執行猶予付きではあるが有罪判決を受けたという。

また、レオナード・ロバート・ジョーダンという人物は、兵役への反抗、不忠、反逆、拒否を率先するような演説を行い、政府による兵役への勧誘や登録を妨害したとして、他の3名とともに扇動陰謀罪および扇動防止法違反で有罪となった。

取調べをしたFBIの資料にこのようなジョーダンの言葉が残されているという。
「真珠湾が起きるまでは、白人は日本人をバカにしていた。しかし、シンガポール、ジャワ、ビルマが次々と日本の手にわたっていくのを見て、思っていたほど日本人は愚かではないことにやっと気づきはじめた。日本のアジア侵攻は、アフリカ人がアフリカを統治するように、アジアの原住民自らがアジアを統治するという理想を実現させるものだったということに、白人はやっと気づいたのだ」…「大砲も飛行機も毒ガスも持たない黒人やインド人が、白人に勝つことはできない。同じ有色人種として、日本人だけが頼りなのだ。軍備の整った日本と手を組むことが、インドやアフリカの未来を決めることになる」(同上書p.130-131)

ゴードン女史やジョーダンらの考え方が全米に拡がっていくことを政府は怖れた。
ハーレムの黒人たちのあいだには、親日感情がはびこりつつある。その証拠に、日本が勝利するたびに、黒人たちは小躍りして喜んでいる」。(同上書p.132)
このような状況に対して軍部がこう結論したというのだ。

黒人の独特な感情から察するに、約150人の支持者を持つジョーダンをこの町にのさばらせ、ハーレムじゅうに親日感情が蔓延するのを指をくわえて見ているのはきわめて危険なことである。日本の勝利に刺激された黒人どもが、いつ人種暴動に火をつけるとも限らないのだから。」(同上書p.132)

太平洋戦争でわが国は敗れたのだが、その後アジア諸国にもアフリカ諸国にも民族独立運動が広がって次々と白人国家からの独立を果たしていった。しかしながら、肝心のアメリカ国内における有色人種の差別はすぐには解消されなかったのである。

マーチンルーサーキング

1950年代にマーチン・ルーサー・キングなどが指導者となって、米国黒人をはじめとする被差別民族に法的平等を求める公民権運動が始まったのだが、白人と法的にも平等であるとの市民権法が制定されたのは、なんと終戦から19年経った1964年の7月のことだった。

アメリカでは、差別意識が薄れてきたとはいえKKKのような白人至上主義運動を唱える白人グルーブが未だに存在し、今も黒人に対する差別が続いているようだ。
差別されているのは黒人だけではない。黄色人種の差別も未だに続いており、次のCNNの記事では、中国系と思われるアメリカ人兵士がいじめを苦にして自殺したことが書かれている。この記事によると、アジア系米国人に対するいじめが横行しており、過去10年間で自殺者が急増していることが書かれている。
http://megalodon.jp/2012-0123-0538-38/www.cnn.co.jp/fringe/30005318.html

アメリカは過去、世界第2位の経済大国を叩きながら自らの経済覇権を維持してきた国ではなかったか。アメリカはいずれ中国を包囲し弱体化させる方向に舵を切ると考えるのだが、アジア人に対するいじめが増加していることは、その前触れであるのかもしれない。
アメリカで黄色人種に対するいじめや差別がこれ以上拡大したり、アジア人同士の対立が深刻化しないことを祈りたい。
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なぜ日系人だけが強制収容所に送られたのか~~米国排日8

「カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1」でアメリカの新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが1914年(大正3)から排日キャンペーンを開始したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

ウィリアム・ハースト

ハーストが米国大衆に危機感を煽って新聞が売れることを狙ったのか、権力がマスコミを使って反日に世論を誘導したかどちらかはよくわからないが、ハースト系のメディアはその後も一貫して反日記事を流し続けていた。

以前このブログで紹介した米人弁護士マックウィリアムス氏が太平洋戦争中の1944年に著した『日米開戦の人種的側面 アメリカ人の反省1944』に、1940年2月21日のロサンゼルス・イグザミナー紙上でハーストが力説した言葉が紹介されている。

日米開戦の人種的側面

「ちびの日本人がそこらじゅうで果物や野菜や花の栽培をしている。いかにも牧歌的である。しかし奴らは『おいらは日本の軍隊待っている。いつか必ずやって来る。そうなりゃここにあるもの何もかも、みんなおいらがとってやる。そんな時が来るまでは、はいはいわかった、ありがとう。静かにへつらい面従さ』なんて歌っていやがるんだ。…
太平洋に目を向ければ、そこには何百という漁船が並走に漁をしている。漁師は日本人ばかりだ。奴らは魚を追いながら、沿岸部の写真を撮っているのだからたちが悪い」(『日米開戦の人種的側面』p.161-162)
とハーストは言っているのだが、事実でない事を述べて大衆を反日に煽っているとしか思えない。後で記すが、日本人移民の中で日本政府のエージェントであるとかスパイ容疑で逮捕された者は一人もいなかったのだ。

このように無責任なマスコミの論調に煽られて反日思想がアメリカ社会の奥底に根を張っていった。そして彼らは、もし日米が開戦すれば何をするかをかなり早い時点から決めていたようだ。
在郷軍人会第278支部国防委員会会長の職にあったライル・ケインという人物は1939年9月30日のサタディ・イブニング・ポスト紙でこう語ったという。
日本との戦争が始まったら最初にすべきことは奴ら(日系移民)を一人残らず(everyone of them)強制収容することである。」(同上書 p.162)

そして予定通りに、日米開戦後に日系人は強制収容されたのである。
アメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスに全米日系人博物館があり、その日本語サイトに日系人強制収容のあらましが書かれている。しばらくこの解説を引用させていただく。
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/index_jp.html

第二次世界大戦中、12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所に送られた。かれらの大半は戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられ、のこりの人々は司法省やそのほかの政府機関が管理する収容所や拘置所に入れられた。
日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域にすむ日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられた。なんの補償も得られないまま、かれらは家や会社を安値で売り渡さなければならず、中にはすべての財産を失ってしまった人もいた。

日系アメリカ人が国家の安全保障の脅威になるという口実のもと、フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領行政命令9066号に署名し、陸軍省に、地域を指定しその地域内のいかなる人にも強制立ち退きを命じる権限をあたえてしまったのである。」

では、なぜアメリカ政府は日系人を強制収容所に送り込んだのか。上記サイトのQ&Aでこう解説している。
http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/accfact_jp.html

1941年12月7日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲すると、アメリカはすぐ、日系アメリカ人が国防に危険をもたらすのではないかと疑いました。実際には、日系アメリカ人は真珠湾攻撃にまったく関係しておらず、スパイ行為や軍事、生産への妨害行為なども、当時もいまも、まったく発見されなかったにもかかわらずです。
強制収容された日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていましたし、のこりの3割の一世たちも、市民権を取ることは禁じられていましたが、すでに永住権をもち、20年から40年もアメリカで暮らしていた人たちでした

1982年、アメリカ議会に任命された調査委員会は、日系アメリカ人強制収容が、適当な国防上の理由で行なわれたものではなく、その真の理由は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった、と結論をくだしています。 」

ロナルド・レーガン大統領によって署名された「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」で、アメリカ政府は強制収容が重大な基本的人権の侵害であったと認めました。『日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、議会は国を代表して謝罪する』」

このように戦後、アメリカは強制収容された日系人に対して正式に謝罪しているのであるが、なぜこの事実が教科書などで書かれないのだろうかと思う。

Tule Lake Relocation Center

上記の画像はツールレイクの収容所だが、日系人たちは、これまで培ってきた生活の全てが奪われて、このような人里離れた荒野の、有刺鉄線に囲まれ武装兵が銃口を構えて監視する場所に、強制移住させられたのだ。

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強制立ち退きを強いられた日系アメリカ人たちは、収容所に送られるまでのあいだ、16ヶ所の集合センターに拘留されていたのだが、上の写真はサンタアニタ集合所に到着した日系アメリカ人である。わずかな手荷物しか持つことを許されず、ほとんど着の身着のままで大人しく列にならんで米兵に従っている姿が写っているが、日本人は誰ひとりとして抵抗することなく、むしろ協力的で、各地でスムーズに強制移住が進んだのだという。
次のURLに強制収容所の写真がいくつか出ているが、このような場所で12万人以上の日系人が集団生活することを余儀なくされたのだ。
http://www.theatlantic.com/infocus/2011/08/world-war-ii-internment-of-japanese-americans/100132/

なぜ日系人だけがこんな目にあわされたのだろうか。日系人が強制収容されたのであれば、わが国の同盟国であったドイツ系やイタリア系も同様な措置がなされなければ筋が通らないのだが、日系人だけが強制収容されたのである。
先程のマックウィリアムス氏の著書を読むと、日系人をこのような強制収容所に送り込んだ理由について、太平洋岸を担当する責任者に任命されたJ.L.デウィット中将は、破壊行為及びスパイ行為という二点の心配があったと述べたのだそうだが、実際には日系人には破壊行為もスパイ行為も何もなく、その理由で逮捕された日本人は一人もいなかったという。

デウィット中将は奇妙な論理を持ち出している。破壊行為が見られないのはむしろ怪しい徴候であり、そうした行為は必ず近いうちに実行されるだろう、というのだ。言葉を換えていうなら、日本人が誰一人として破壊行為など行っていないという事実こそが、彼らがこれから破壊行為に走ることを示しているという主張である
これは実に奇妙なロジックであった。もう一つ解せないのが、こうした論理を適用した対象が日本人だけであったことだ。むしろドイツ系やイタリア系の移民の方が破壊行為の実行は容易であったのは誰の目にも明らかであった
西海岸でスパイ行為があることはほぼ間違いのないことだった。…
要するに日本政府は真珠湾攻撃前に必要であった情報は、すべて非日本人を通じて入手していたのだった。理由は説明するまでもないだろう。目をつけられやすい日本人移民にスパイ行為など任すわけはないのだ。わが国を裏切ったのは日本人移民ではなかった。白人アメリカ人だったのだ
日本人移民は誰一人として日本政府の秘密エージェントであるとかスパイ行為をしたという理由で逮捕されていないのである。」(同上書 p.165-167)

1942年1月以降各種メディアで反日アジテーションが始められた影響が大きかったのだろうが、実際には日本人移民は、アメリカ人にとって決して危険な存在ではなかった。隔離問題の真の原因は人種問題と経済問題にあったという。

責任者であるデウィット中将自身が1943年4月13日の下院海軍問題小委員会でこのような人種差別的な発言をしている。
ジャッブはどこまでいってもジャッブである。彼らがわが国への忠誠をみせていようがいまいが、危険な人種であることは間違いのない事なのだ。日本人の中で誰がわが国に忠誠を誓っていて、誰がそうでないかなどわかるはずがない。アメリカ国籍を持っていようがいまいが、日本人の性質は変えられはしない。アメリカ市民であるとの証明書1枚で彼らが変わったと考えるのは甘いのである」(同上書 p.172)

+ジャップ

また、日本人移民を強制的に海岸部から追い出すことで利益を狙っているグループがいたという。
カリフォルニア全体でみると、州内の野菜や果樹の生産者のグループは概ね(日本人の)強制隔離に賛成で、その理由は彼ら自身も認めているように経済的利益であった。サリナス市の生産者組合はオースチン・E・アンソンという人物をワシントンに送り込み、強制隔離に向けたロビー活動を行っている。彼は次のように主張した。開き直ったかのような強弁だった。
われわれは、日本人追い出しの動機がこずるい金儲けにある、と非難されている。そのとおりである。奴らはこの一帯にやってきた。そして今やその土地を乗っ取ろうとしている。要するに太平洋沿岸部に住むのはわれわれ白人なのか、それとも肌の黄色い奴らなのか、という問題なのである
花や苗を生産する白人のグループも、日本人生産者との競争がなくなれば、それはそれで望むところだった。…
白人は日本人生産者との今後の競争も恐れていた。彼らが生産を拡大することを嫌った。一世は土地を借りて生産していたが、これからは二世が進出してくる。彼らはアメリカ市民であり、かつ高い教育を受けている者が多い。二世が土地を購入して生産を拡大する。白人たちは、日本人が必ずや許容範囲を超えてくるだろうと恐れた。白人生産者は日本人すべて、つまりアメリカ市民である二世も含めて排除できれば、近い将来起こるはずの彼らの競争を回避できると考えた。…
彼らは日本人を太平洋沿岸地域から永久に隔離するよう主張した。日本人移民の生産量はかなり高かった。カリフォルニア全体での果樹や野菜の生産額は3千5百万ドル[現在価値400億円]程度と推定される。ロサンゼルス近郊の生花の生産に限ってみても400万ドル[現在価値50億円]にのぼっている。」(同上書 p.184-185)

たとえば農業に関して言うと1940年の統計によると、カリフォルニア州では5135箇所の日本人経営の農場があり耕作地は92千ヘクタールあったという。
1941年には、毎日トラックで運ばれる生鮮作物の42%が日本人の農場からやって来た。彼らはカリフォルニアのわずか3.9%の土地を使い、穀物では全体のわずか2.7%しか生産していなかったが、特定の野菜類では極めて高い出荷量があった。セロリ、ペッパー、イチゴ、キュウリ、アーティチョーク、カリフラワー、ほうれん草、トマトといった野菜は、カリフォルニア生産量の50%から90%が日本人農家によって供給されていた。」(同上書 p.135)

要するに、日本人が長年かかって西海岸で苦労して開拓した土地や市場を、人種問題を奇貨として二束三文で日本人から手に入れようと考えたずるい連中が、少なからずアメリカにいたのである。

カリフォルニアを白人だけの土地にしようと主張する人々は、日本人の強制退去と隔離を喜んだのだが、そこで皮肉な現象が起こる。日本人の抜けた後に15万人にのぼる黒人が南部諸州から仕事を求めて引き寄せられてきたのだ。この頃軍事産業は好況で人手不足の状態であったからだ。
日本人が消えたリトルトーキョーに黒人たちが住み着いて、カリフォルニアは新たな人種問題で悩まされることとなったのである。
さらに、生鮮野菜の野菜が買い占められて価格が吊り上り、野菜の品質も明らかに低下したのだという。日本人は良い作物を作って適正な価格で販売し、家主には家賃を払い、銀行にはきちんと約条通り返済してしっかり地元経済に根を張っていたのだが、日本人を追い出したことにより、別のあらたなる難問を次々に惹起していったのである。

マックウィリアムス

日系人の強制収容の事を調べていくと、つくづく日本人は我慢強いものだと感心してしまう。マックウィリアムス氏も、こう書いている。
「…普通のアメリカ人十万人を収容しなければならないとしたら、どれほどの混乱が生じることか火を見るよりも明らかである。おそらく陸軍の数個師団の出動が必要であろう。それでも十五分おきに叛乱が起きたに違いない。
日本人という人種以外であったら、あのような退去隔離の作業を進めることは不可能であった。彼らの精神的苦痛、恐怖、混乱、将来への不安。こうしたことをも考慮すると彼らのみせた態度は驚くべきことと言わねばならない。…彼らがみせた行動は、彼らのわが国への忠誠心そのものなのである。」(同上書 p.195-196)
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強制収容所の日系人が米軍を志願した理由は何だったのか~~米国排日9

前回の記事で、日系人強制収容所の写真が沢山掲載されているサイトを紹介した。
http://www.theatlantic.com/infocus/2011/08/world-war-ii-internment-of-japanese-americans/100132/

上記サイトの中に若い男性が順番に並んでいる写真が掲載されている。

兵士志願する日系人

英文の解説を読むと、この写真は1944年2月22日に撮影されたもので、コロラド州グラナダ強制収容所(通称:アマチ強制収容所)に送られた日系人のうち米軍入隊を希望した男性が、入隊前の身体検査の為に並んでいるところである。

強制収容所に隔離されていた日系人の多くが入隊を志願したことは聞いたことがあったが、彼らが米軍の中でも特筆すべき活躍をしたことを知ったのは比較的最近の事である。今回は、日系人部隊がどういう経緯で集められ、どのような活躍をしたのか。ロサンゼルスにある日系メディアの『ライトハウス』が特集記事を出しているので、その記事やWikipediaなどを参考にして纏めてみることにする。
http://www.us-lighthouse.com/specialla/e-587.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B3%BB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%BC%B7%E5%88%B6%E5%8F%8E%E5%AE%B9

前回の記事で、12万人を超える日系人が強制収容所に送られたことを書いたが、実は収容所に送られたのは殆んどがアメリカ本土在住の日系人で、ハワイの日系人が収容所に送られたということは殆んどなかったのだそうだ。その理由は、ハワイの日系人がハワイ人口の約半分にもなっており、日本人を隔離してしまっては社会混乱が避けられず、かつ膨大な経費と土地が必要になるためだったと考えられている。

しかし、太平洋戦争の緒戦は日本軍の快進撃が続き、アメリカ政府ならびに軍は、日本軍のハワイ進攻が近いうちに行われることを予想し、その対策を進めることとなった。
現実問題として、もし日本兵が米軍の軍服を着て紛れ込んだりすると見分けることは極めて困難である。そこで米軍が出した対策が、ハワイの日系兵士を集めてアメリカ本土へ送ることだった。
こうしてハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」が生まれ、極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られた。そこで日系兵は抜群の成績を挙げたという。彼らは、真珠湾攻撃を目の当たりにしたからこそ、訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出てアメリカに対して忠誠心を示すことこそが、ハワイで日系人が生き残る唯一の道だと考えていたのだった。

しかしこの時点では日系兵が戦場に送られる可能性は殆んどなかった。というのは、米軍は開戦後日系人の志願を禁止していたし、また軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていたのだそうだ。

『ライトハウス』日本語版にはこう書かれている。
「この不信感を覆したのが、…(第100歩兵大隊の)優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。…彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも2世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。43年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて『アメリカのために死ねる権利』を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。」

そこで日系人志願兵募集が始まる。ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、アメリカ本土では兵役年齢にある2世男子の5%が志願した程度に過ぎなかったという。記事の冒頭で紹介した写真が、その志願者の列なのだ。
「日系」という理由で敵性外国人と見做され、特に米国本土ではそのために生活基盤が壊され、財産が没収され、強制収容所にまで送り込んだアメリカという国家に忠誠を誓い、自らの命を捧げられるかと随分悩んだことだと思う。しかし、国家に反抗したところでいいことは何もない。収容所にいる家族を一日も早く解放させ、将来にわたって日系人がアメリカで生きていくためには、結局のところ、この機会に国家に忠誠を尽くして、日系人に対する偏見を除去する以外にないと彼らは考えたようなのだ。

『ライトハウス』日本語版には、アメリカ本土から442連隊に入隊したケン・アクネ氏が入隊時に友人とこのような議論したことが記されている。
「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここ(収容所)にいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」。

かくして、日系人で編成された第100歩兵大隊と及び442連隊はヨーロッパ戦線で決死の覚悟で戦うこととなる。Wikipediaで442連隊の戦歴が書かれているが、読んでいくとその凄まじい戦いぶりに驚いてしまう。「死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字」は尋常な数字ではない。一人の兵隊が平均3回以上負傷するか死んだということである。そしてアメリカ史上最も多くの勲章を受けた部隊がこの442部隊なのだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3

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例えば1944年10月24日に連合軍の第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊)がドイツ軍に包囲されてしまった。翌日ルーズベルト大統領自身の救出命令により、442連隊がドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることになる。
Wikipediaの解説によると、
「10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重症を負った。救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、442部隊の一少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった」と記されている。

日本人に救われたユダヤ人手記

またWikipediaには、442連隊は「ドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊・ダッハウの強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった」と書かれているが、この出来事に興味を覚えたのでネットで調べると、ユダヤ人のソリー・ガノール氏が日系人部隊によって救出された体験を手記に書いていて、『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)としてわが国で翻訳されていることが分かった。

次のURLで上記書籍の一部が紹介・引用されている。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb804.html

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ソリー・ガノール氏は、助けてくれた日系二世兵士の名前を記している。

「日系二世兵士はクラレンス・松村という名前であった。アメリカ軍の第522野戦砲兵大隊に属していた。大隊から小隊まで日系二世だけで編成した連隊規模の第100・第442統合戦闘団の一大隊である。彼らはイタリア、フランス、そしてドイツと、凄惨な戦場を転戦した。この戦闘団は、その従軍期間から計算すると、大戦中のどのアメリカ軍部隊よりも多くの死傷者を出し、より多くの戦功賞を得ていた。」
「私の身のうえを思うと、いまひとつ見落としにできない運命の皮肉がある。松村ほかの日系人たちが、アメリカのために戦い、生命を落としつつあるというのに、祖国アメリカでは彼らの家族の多くが抑留所に押し込められていたことである。住居や事業から切り離され、人里離れた土地に作られ、タール紙を張りめぐらせたバラックでの生活に追いやられていた。アメリカ政府は『再配置収容所』と呼んだが、『強制収容所』の別名にすぎなかった。」

ダッハウ強制収容所にはユダヤ人や政治犯などが20万人も送り込まれたと言われているが、この時に解放された囚人は32千人だったという。ここで多くの囚人が虐殺され、チフスなどの伝染病などで病死したのだが、家族がアメリカの強制収容所に隔離されている日系兵がナチスの強制収容所の解放に関与したことに歴史の運命を感じてしまう。

この史実は1992年まで公表されなかったというのだが、これは何故なのか。

ゴー・フォー・ブローク

渡辺正清氏が著した『ゴー・フォー・ブローク 日系二世兵士たちの戦場』(光人社NF文庫)にはこう書かれている。
「米軍事史の研究家エリック・ソウル氏によると、日系二世兵は米陸軍によってダッハウ解放をけっして口外してはならないと命令されていた。その理由として、米政府は日系兵の栄誉が認められることを好まなかったからではないかと推察し、
『もし日系兵が口外すれば軍法会議にかけると脅したため、彼らは口をつぐんでいた』と述べている。」(『ゴー・フォー・ブローク』p.240)

エリック・ソウル氏の推察は表面的なレベルにとどまっている。ではなぜ、米政府は日系兵の栄誉を認めたくなかったのだろうか。
もしこの史実が美談として世界に広まれば、アメリカにも日系人の強制収容所があり、日系人の国家に対する忠誠心を試す目的で志願兵を募集し、激戦のヨーロッパ戦線の最前線に送り込んだアメリカが非難されることにつながることを怖れたということではないのか。
日系兵士は、家族と日系人の未来のために決死の覚悟で戦場に赴いたが、アメリカはただその勇敢さを、白人兵の犠牲を少なくするために利用しただけではなかったか。

ヨーロッパ戦線からアメリカ本土に帰ってきた422部隊を迎えた式典で、トルーマン大統領は彼らの栄誉をたたえて、こう述べたという。
「諸君は今度の戦争で二つの敵と戦った。
一つは戦場における敵であり、もう一つは米国内の偏見との戦いである。
諸君はいずれの戦いにも勝利を収めた。」

日系人兵士がヨーロッパ戦線で大活躍し、この様な大統領の言葉があったのであれば、日系人の名誉が回復されていかなければ筋が通らないと思うのだが、戦後もアメリカ白人による日系人差別は変わらず、その後もアメリカの国民ではあってもアメリカの市民権は剥奪されたままだったのである。
偏見や差別の中で、仕事や家を失いその他の財産のほとんどを放棄させられて長年に渡って強制収容された日系人が、戦後のアメリカで社会復帰することは容易ではなかったようなのだ。

「事実、終戦後のアメリカでは、戦前からの排日の風潮は少しも衰えていなかった。本土に帰った二世が、両親のいる収容所に向かうとき、駅で、食堂で、散髪屋で、
『ジャップ』
は追い出された。かれらが、米陸軍の制服を着ていてもである。
ダニエル・イノウエ中尉がハワイに帰るとき、サンフランシスコで散髪屋の主人に、
『ジャップの髪は刈らない、出ていけ』
と言われた実話は、あまりにも有名である。
このとき、イノウエ中尉の制服には、右腕を失った代償としての勲章がひかっていた。
トルーマン大統領の言葉とは裏腹に、米軍の制服を着た日系人を見る眼は、一般のアメリカ人にかぎらず、米陸軍省においてさえ偏見と差別にあふれていたのである。」(『ゴー・フォー・ブローク』p.249)

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ここに出てくるダニエル・イノウエ中尉は昨年末に亡くなられたが、1963年に米国上院議に選出され、上院の最古参議員となり上院仮議長にまで登りつめた人物である。戦時中は442連隊に所属し、ヨーロッパ戦線で右腕を失い、米国陸軍では「英雄」と讃えられたというのだが、戦場から帰国した彼らが見たアメリカは、相変わらず日系人・日本人が差別される社会であったのだ。

そこで日系人の新しい戦いがはじまった。新しい敵は日本人の土地所有を禁止している「排日土地法」と、日本からの労働移民を禁止している「排日移民法」であった。
日系人たちはヨーロッパ戦線での犠牲と武功を武器にして、アメリカ議会と法廷と世論を相手に戦ったのである。

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そして7年の歳月をかけて、1952年に「排日土地法」「排日移民法」を葬り去ることに成功し、その後もダニエル・イノウエを始めとする日系アメリカ人議員や日系アメリカ人団体の地道な活動により、1976年にはフォード大統領から、日系人を強制収容したことは「間違い」であり「決して繰り返してはいけない」という公式発言を引き出している。

続いて1978年には日系アメリカ人市民同盟は謝罪と賠償を求める運動を立ち上げ、1988年にはレーガン大統領が「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名し、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 と述べて強制収容された日系アメリカ人に公式に謝罪し、現存者に限って1人当たり2万ドルの損害賠償を行ったという流れだ。

ところで、もし日系人が兵役を志願しなかったり、兵役を志願してもヨーロッパ戦線でほとんど活躍しなかったとしたら、戦後の日系人や移民した日本人の扱いはどうなっていたであろうか。
日系人が、終戦後にこれだけ苦労して「排日土地法」「排日移民法」を葬り、アメリカ政府から正式な謝罪と賠償を勝ち取った歴史を知ると、プロパガンダで意図的に広められた人種的偏見を除去することは容易でないことが誰でも分かる。第二次大戦でもし日系人部隊の活躍がなかったとしたら、今もアメリカで日系人・日本人が人種的に差別される状態が続いていても、決して不思議なことではないように思えるのだ。
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なぜわが国にだけ原爆が落とされたのか~~米国排日10

以前このブログで、わが国のメディアや出版物で原爆を批判することをGHQが許さなかったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html

鳩山一郎

たとえば朝日新聞は鳩山一郎の「原子爆弾の使用や無辜(むこ)の國民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の國際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬ」という談話を載せたために2日間の業務停止処分を受けているが、鳩山一郎の言っていることは誰が考えても正論だろう。しかしGHQは、原爆批判に限らず戦勝国の批判につながる記述の一切を許さなかったのである。
そして今もテレビで占領軍や戦勝国を批判するような発言がメディアで流されることは皆無に等しく、学校の教科書も同様のスタンスである。

我が国に原爆が投下されたことは、早く戦争を終結させるためにやむを得なかったという説明を子供の頃から何度も聞かされてきたのだが、この説明をそのまま鵜呑みにするのは危険である。

わが国ではあまり知られていないが、1944年9月にニューヨーク州ハイドパークで米英首脳会談が開かれ、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相が「原爆を日本人に対して使う」と記した覚書を交わしている。(ハイドパーク覚書)
この時点ではドイツもイタリアも交戦中であったのだが、ドイツ人、イタリア人はなぜか原爆投下の対象に入っていなかった。「早く戦争を終結させるため」であれば、ドイツやイタリアに落としても良かったはずだ。なぜ、日本人だけが対象に選ばれたのか。
この会談におけるルーズベルトチャーチルの協議内容は極秘のものであったが、今では覚書が公開されており、邦訳が次のURLに紹介されている。そこには日本人が原爆投下の対象とされた理由については触れられていない。
http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2010/08/post-9105.html

そもそもわが国は、1945年1月の時点で米軍のマッカーサー将軍に講和提案を行っていた。マッカーサーは直ちに交渉するように大統領に具申したのだが、ルーズベルトがその提案を退けたことが、カーチス・B・ドール氏の著書『操られたルーズベルト』という本に書かれているようだ。ドール氏はルーズベルトの長女の婿で、いわば身内からの告発だ。以下のドール氏の発言はネットでも容易に読むことが出来る。
「アメリカの歴史家ハリー・エルマー・バーンズ博士は、1945年1月には、日本人は彼らが戦争に敗けたことを確信し、マッカーサー将軍に講和提案を送ったが、それはほとんど最後の条件と同じだった。マッカーサーはルーズベルトに直ちに交渉するように、ただしロシアを除外するように勧めた。大統領はマッカーサーの人道的で愛国的な提案を斥けたのです。
1945年8月19日VJデーの後の日曜日に、すべての汚い騙しを暴露した、私の友人のアメリカの記者、ウォルター・トローハンから、バーンズ博士はその話を聞いたのです。トローハンは、私の以前の岳父ルーズベルトとマッカーサー将軍の間の通信がそのデスクの上を通ったリーヒー提督から、直接その話と事実を知ったのです。この話はそれが事実かどうか訊ねた前大統領ハーバード・フーバーによって、個人的に確認されている。マッカーサーはきわめて詳しくそのことを確認しています。最近、この話はアメリカン・マーキュリー誌の1970年秋号に再び暴露されています。」
http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060730

このドール氏の記述内容が正しければ、ルーズベルトは原子爆弾が完成しわが国にそれを投下するまでは、わが国との講和条件の協議に応じるつもりがなかったという解釈が成り立つ。ちなみに、最初の原子爆弾の実験が行われたのは1945年の7月16日で、広島に原爆が投下される3週間前の事であった。 ルーズベルトが、あるいは後任大統領のトルーマンも、講和条件の協議よりも原爆投下を優先したのはなぜなのか。
また、原爆を落として戦争の終結を早めるというのであれば、住宅密集地に落とさなくとも、原野等の過疎地域に落として威嚇するだけで充分ではなかったか。広島や長崎に落とせば、数十万人もの無辜の民を惨殺することになることは初めからわかっていたはずだ。どうしてそんな残酷なことが平気で決断出来たのだろうか。

Destroy_this_mad_brute_WWI_propaganda_poster_(US_version).jpg

今回の記事にもいくつか当時のアメリカの戦時ポスターの画像をいくつか貼っておいたが、これらの画像を見ていると、彼らは日本人を人間と見做していなかったのかと考えてしまう。当時のアメリカはマスコミなどを使ったプロパガンダで、日本人は獣のような存在であると国民を洗脳し続けていたのだ。

無題

ひどいポスターは絵ばかりではない。「日本人狩猟許可証」というものまで数多く作られた。Googleの画像検索で「jap hunting license」とでも入力すれば、いやというほどの「許可証」を見ることが出来る。この種のものは、2001年9月11日の「同時多発テロ」という事件の後でも多数作られたが、太平洋戦争中の日本人に対するものと極めて似ているのが興味深い。下の画像が「同時多発テロ」のときのものだが、右下の人物はブッシュ前大統領である。

071207_terror_huntlic.jpg

このような画像を見ていると、太平洋戦争を考えるにあたっては人種問題を抜きに考えることができないのではないかと誰でも思うだろう。わが国にも「鬼畜米英」「暴支膺懲」という言葉があったが、このようなアメリカのプロパガンダ画像の足元にも及ばない。

この「米国排日」シリーズの4回目に書いた、『旧約聖書』創世記9章の一節を思い出してほしい。カナンはハムの父である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべ*らのしもべとなれ。」
また言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。
神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
*しもべ:召使い、下僕

『旧約聖書』にはノアの息子たちはセム、ハム、ヤペテであることが記され、この3人はそれぞれ、セム=黄色人種、ハム=黒人種、ヤペテ=白人種の祖先であるとかなり古い時代から解釈され、この聖書の解釈から、白人種が黒人種や黄色人種の国々を植民地化することが正当化されてきたのだ。

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キリスト教の教義からすれば、白人は有色人種よりも優位であることが当たり前であるにもかかわらず、日本人がアメリカや中国で成功して勢力を伸ばし、白人の地位を脅かすまでになったことに彼らは我慢できなかったのだろう。だから、アメリカは日本人をアメリカや中国から追い払うだけではなく、日本人が二度と立ち上がれないようにしようと本気で考えたのではないか。
しかし、何の理由もなく日本人を追い払うことは不可能だ。そこで人種問題を焚き付けて世論を排日に誘導し、中国にも民衆に排日思想を焚き付けてわが国と紛争を起こさせ、アメリカも勝手にわが国を仮想敵国にして挑発行為を繰り返し、ハル・ノートを突きつけてわが国を戦争に導いたというのが歴史の真実ではないのか。そしてその背後には、おそらくコミンテルンの工作も絡んでいたと考えている。

米軍が広島・長崎に原爆を落とした直後の8月9日に、アメリカ・キリスト教会連盟事務局長のカヴァート氏がトルーマン大統領にあてて抗議の電報を送っている。
その電報の内容と8月11日付のトルーマンからの返信文の有馬哲夫氏による邦訳が次のURLで紹介されているが、トルーマンのこの手紙を読めば多くの日本人が驚いてしまうことだろう。
http://sukebei.blog111.fc2.com/blog-entry-294.html

「…私は日本の宣戦布告なき真珠湾攻撃と戦争捕虜の虐殺にも非常に心を痛めました。彼ら(日本人)が理解する唯一の言葉というのは、私たちが彼らを攻撃するときに使う言葉のようです。
けだものと接する時はそれをけだものとして扱わなければなりません(When you have to deal with a beast you have to treat him as a beast.)。非常に残念なことですが、それが真実です。」これがアメリカ大統領の言葉なのだ。
太字の部分は、このブログの管理人氏が「けものを処理する(殺す)時は、かれをけものとして扱わなければならない」と訳すべきだとコメントしておられるがその通りだろう。
いずれにしても、トルーマンは日本人を人間として扱っていなかった。だからあのような大量無差別殺戮を平気で決断できたのだろう。

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ジョン・W・ダワー氏の『容赦なき戦争』という本を読むと、米英の指導層にはトルーマン以上に過激な人物が相当いたことが分かる。
「のちに南太平洋方面司令官となったウィリアム・ハルゼー海軍大将は、真珠湾攻撃後、終戦までに日本語は地獄だけで使われるようになるだろうと宣言し、『ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、もっと多くのジャップを殺せ』といったスローガンのもとに軍の士気を高めた。あるいはハルゼーのモットーを海兵隊ではこう言い換えて、もっと有名にした。『真珠湾を忘れるな・・・・奴らの息の根を止めろ』と」(『容赦なき戦争』p.85)

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「(1943年5月)チャーチルは…ワシントンへの訪問において、両院の議員を前に演説を行い、『日本の大都市や軍事施設を灰燼に帰するという必要不可欠な過程』について語っている。『世界が平和にもどる前に、それらを完全に灰にしなければならないから』というのである。大統領の息子で自信家のエリオット・ルーズベルトは、45年にヘンリー・ウォレスに対し、アメリカは日本の民間人の半分を亡ぼすまでは日本への爆撃を続けるべきであると述べている。」(同上書p.116)
このような高官の言葉は、本書以外でもいくらでもネットで見つけることが出来る。

また同書には1944年12月の米世論調査の結果が書かれている。マスコミが人種問題を煽った結果は恐るべしである。
「『戦争が終わったら、日本に対してどういう処置をとるべきだと思うか』という問いに対し、13%の回答者が『日本人の全員殺害』を希望し、33%が国家としての日本の崩壊を支持している。…目的は単なる勝利ではなく殺すことにあると述べた兵士たち同様、戦争が終わり日本が平和国家再建を目指しはじめたあとでさえ、驚くべき数のアメリカ人が、日本が原爆投下後あまりもあっけなく降伏してしまったことを残念がっている。45年12月『フォーチュン』誌が行った世論調査によれば、回答者の22.7%が『日本が降伏する前に、もっと原爆を』使う機会があればよかったと考えていた。」(同上書p.114)

一方アメリカの一部の黒人メディアでは、日本に対する原爆投下を強く非難したことが、このブログで何度か紹介したレジナルド・カーニー氏の『20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観1900-1945』に記されている。ポイントとなる部分を引用させていただく。

「『ピッツバーグ・クリア』紙のふたりのコラムラストの怒りは最も激しいものだった。…そのうちのひとり、マジョリー・マッケンジーのコラム、『…とりわけ信じがたかったのは、二個の原子爆弾が広島と長崎に落とされ、一瞬にして女、子供を含む何万人という日本人市民が跡形もなく吹き飛ばされた事実を、アメリカ市民が喜んだ瞬間だった。』彼女の言うには、アメリカ政府は『人間と文明に対する道徳心』を抹殺し、『国際秩序を再起不能』にしてしまった。
(もうひとりのコラムニスト)ジョージ・シャイラー…は、…原爆はアングロ・サクソン、つまり白人が人類の頂点に立つためのものだった。…彼は、原爆を『悪魔のためのとんでもない凶器』だと述べた。つまり、原爆を取り扱っていた人間は人種差別意識が強く、気の小さい二流の人間だ、ということだ。さらに、『世界の頂点にいるアメリカ人やイギリス人が、ドイツや日本人に“英米の生活習慣”を再教育すべきだ』という考えがあることについては、全く不愉快なたわごとだとし、『白人たちが聖人君主づらをして、日独伊の残虐行為を非難するのを聞くと、吐き気が込み上げてくる。まったくのお笑い草だ』と激しく書きたたいた。『愚かな自己満足に浸る黒人と優越感に満ちた白人』のはびこる悪い時代に、また逆戻りしてしまったアメリカ。…」(『20世紀の日本人』p.163-164)
と、黒人メディアの方がまともな事を書いていたのだ。

原爆

当時成文化されていた戦争に関する国際法において、非戦闘員の殺傷、非軍事目標、無防備都市への攻撃、不必要に残虐な兵器の使用は厳禁されていた。アメリカがわが国の大都市を空襲し、広島・長崎に原爆を落として一般市民を無差別に大量殺戮した行為は明らかなる戦争犯罪である。
しかし、このような史実がなぜわが国で広く知られていないのかという問いに対しては、アメリカが戦勝国であり、いつの時代も歴史は勝者にとって都合の良いように書き記されるものだと言うしかないだろう。このブログで何度も書いているように、わが国の日本史教科書などに書かれ、マスコミなどで報道されている近現代史は『戦勝国にとって都合の良い歴史』であると考えて良い。

『戦勝国にとって都合の良い歴史』には、戦勝国が参戦することに崇高な目的と、勝利したことに意義があったことを書くことが必須となるが、そのストーリーを成り立たせる為には、原爆を落とした国以上に、わが国が「邪悪な国家」であったとして描くしかないことは誰でもわかる。
だから戦後GHQは、日本人に読ませたくない本7769点を「没収宣伝用刊行物」として焚書処分して戦勝国の犯罪行為を封印し、さらに史実の捏造をも行ったうえで、太平洋戦争の原因の全てがわが国にあると描き直した歴史をわが国に押し付けたのである。

このような偏頗な歴史観は戦勝国側の史料や記録からもその矛盾が明らかなのだが、この歴史観を修正することは、戦勝国にとっては自らの犯罪行為が問われ、戦争責任を問われることに繋がるので、証拠となる史実をいくら提示しても、その修正を容易に応じることはないだろう。
戦勝国にとっては、わが国が『自虐史観』に洗脳されている状態が一番好都合なのであり、わが国が歴史観を見直す動きにいつも敏感に反応するのは、自国の国益を考えれば当然のことだと思う。
今年1月3日にNYタイムズの社説で、従軍慰安婦募集の強制性を認めた河野談話の見直しを示唆した安倍首相を、「戦争犯罪を否定し、謝罪のトーンを弱めるどのような試みも、韓国や中国、フィリピンなど、戦時中の日本の野蛮な行為で苦痛を受けた国々を激怒させるだろう」、「安倍首相の恥ずべき衝動は北朝鮮の核開発など地域の重要な協力態勢を脅かす恐れがある。こうした修正主義は、日本にとって恥ずべき愚かなことだ」と非難している。
http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20130104/frn1301041635007-n1.htm

アメリカは、直接関係のない問題においてすら、いつもこのように口先介入して中韓両国とわが国の左翼勢力を刺戟し、わが国が『自虐史観』に洗脳された状態を維持するために利用しているのである。
我が国はこういう記事に対しては、世界に向けてしっかり反論しておくべきだと思う。なにも反論しておかなければ、アメリカの主張を認めたと受け止められることになるだろう。これではまともな外交交渉ができるはずがない。
まずは、国民に歴史の真実を広め、確実な史料を世界に示して史実でもって繰り返し反論し続けることである。国民の洗脳を解くためには、マスコミや教育機関が頼りにならない現状では、民間レベルで真実を広めて、政治家やマスコミを動かすほどの力を持つしかないのだと思う。
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ルーズベルトはなぜ黄色人種の中国を連合国陣営に残そうとしたのか~~米国排日11

「米国排日」シリーズの最初の記事で『昭和天皇独白録』の冒頭の文章を紹介した。

「大東亜戦争の遠因
この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然存在し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。…
かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、これを抑えることは容易な業ではない。」(『昭和天皇独白録』文春文庫p.24-25)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

昭和天皇

昭和天皇は太平洋戦争の遠因は人種問題であったと指摘しておられるのだが、前回までこのブログで縷々紹介してきたように、この昭和天皇のご指摘が正しいことを確認できる史料は、当時の日米の新聞報道や著作やポスターなど、ネットでいくらでも見つけることが出来る。
にもかかわらずわが国においては、このような史実の一切を無視した歴史が記述され、人種問題の観点から日米戦争を考える機会を国民に与えられることがほとんどなかったのである。
このブログで何度も書いてきたように、歴史とは単なる史実の叙述でない。いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者にとって都合よく書き換えられ、時には史実がねじ曲げられて叙述されたものである。そしてわが国の日本史教科書などに書かれている近現代史は、基本的に「戦勝国にとって都合の良い歴史」であると考えて良く、「戦勝国にとって都合の悪い史実」が書かれることはほとんどないのだ。

もし、太平洋戦争の遠因が人種問題であることを裏付ける史実が日本人に広く知れわたっていたとしたら、どうなっているかを考えてみればよい。その場合は、戦勝国が戦後わが国に戦争責任の全てを押し付けた歴史観が、わが国で成り立たなくなってしまうはずである。そうすると、今度は戦勝国の戦争犯罪が浮かび上がり、アメリカが悪者にならざるを得ないのである。
だからアメリカはわが国が歴史観を変えようとする動きがあれば今も不快感を示し、中国・韓国とわが国の左翼を刺戟する方法でわが国に圧力をかけてくるのだ。アメリカと中国・韓国およびわが国の左翼勢力は、わが国の歴史観を固定化させるためにウラでは繋がっているのか知れないが、わが国が「自虐史観」で洗脳されている状態が好都合である点では利害が一致している。なぜ、こういうことになってしまったのかを調べていくと、ルーズベルト米大統領の深謀遠慮によるものだったようだ。

太平洋戦争における人種問題

イギリスの歴史家クリストファー・ソーンの『太平洋戦争における人種問題』という本にこのような記述がある。

「…オランダの首相P.S.ヘルブランディが、日本の勝利によって白人の威信が脅かされていると声明したとき『ボンベイ・クロニクル』*はいち早くそれをとり上げ、次のように論じています。

『日本を罰するための戦いが、中国人、インド人、フィリピン人、東インドの人びとの助力のもとに行われているのは、日本に対して…「白人の威信」を擁護する為ためであり、日本の主たる罪とは明らかに侵略ではなくして、有色人種であるということである。』

このような警告や抗議の声に、アメリカの要人たちは無関心ではいられませんでした。彼らの多くが心配していたのは、戦争中、さもなければ、戦後にでも、汎アジア的、あるいは汎有色人種的運動が勢いを得るのではないかということでした。たとえば議会の有力者たちは、ひそかに国務省に対して『黄色人種と白人との間の人種戦争』は、まもなく白色人種の存在そのものを脅かすことになるかもしれないと警告しました。ローズヴェルトは同じ理由から、中国をぜひとも連合国陣営にとどめておかなければならないと力説しました。そして1945年3月にも、有色人種世界が敵対する恐れは今後も存在するだろうと強調しました。国務長官のコーデル・ハル、後任者のエドワード・ステティニアス、それに前の駐日大使ジョゼフ・グルーらはいずれも、国務省の極東部長が1942年に述べた議論と同じ趣旨のことをひそかに口にしていました。それは、もし中国とインドが対日戦から離脱するようになれば『日本は当然、心理的に、世界の有色人種とまではいかなくても、アジア人種の指導者として確固たる地位を手にするだろう。そうなれば、連合国が日本を打ち破ることはあやしくなってくるかもしれない』ということでした。」(『太平洋戦争における人種問題』p.43-45)
*『ボンベイ・クロニクル』:インドの国民党系の新聞 1942.2.14付

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1943年11月22日に、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相に蒋介石を交えてカイロ会談が開かれ、この会談で連合国の対日方針が定められたのだが、この会談に蒋介石を出席させたのはルーズベルトのようである。

Wikipediaには、次のように解説されている。

「この会談に蒋介石を出席させたのはルーズベルトであり、日本と休戦協定・単独講和を結ぶ事で抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落する恐れがあった中国を米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、台湾の返還や常任理事国入りさせて激励させて士気を高めさせるためと言われている。対戦中、親英米派である蒋介石が英米からの支援が少ないことに不満を持っており、日本に寝返るのではないかと噂が絶えなかったが、支援がふんだんに貰えると聞いて夫人同伴でカイロに来た。そして日本を無条件降伏させるまで戦う事を約束し、蒋介石が日本と停戦する事を禁じた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E5%AE%A3%E8%A8%80#cite_ref-3

このカイロ会談に蒋介石を出席させることにチャーチルは反対したようなのだが、ではなぜルーズベルトは中国を連合国陣営に残すことにこだわったのだろうか。

この点については、日下公人氏の解説が一番すっきりと理解できる。

日下公人

ルーズベルトが最も恐れたのは、日本が『有色人種を解放するために戦う』と宣言することだった。だから、昭和18年に蒋介石を連合国の一員に加えたのである。大義名分として、『連合国陣営にも有色人種がいるのだから、これは人種間戦争ではなく民主主義とファシズムの戦いである』と言うためである。
昭和12年の時点で、世界で最もファシズム路線の国は中華民国である。蒋介石が一番ファシストだった。ヒトラーもムッソリーニも、その当時の蒋介石にくらべれば、ファシストとしてはまだまだ可愛いものだった。
だから、アメリカの上下両院は、蒋介石を連合国陣営に加えることに大反対した。この戦争は軍国主義に対する戦いなのに、蒋介石はファシストではないか、というわけだ。
蒋介石はそれを知って、宋美齢夫人を派遣して、『日本の方がもっと軍国主義である。中華民国を助けてくれ、私の夫を助けてくれ』とPRした。その費用は、アメリカからもらった対中国援助の中から払った。」(『人間はなぜ戦争をやめられないのか』p.306-307)

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「ルーズベルトが最も恐れたのは、日本が『有色人種を解放するために戦う』と宣言することだった」ということは充分にあり得ることであることは、当時の新聞記事を読めば納得できる。
今まで何度か紹介した神戸大学付属図書館デジタルアーカイブの新聞記事文庫の記事検索で、昭和10年9月29日の神戸新聞の記事が見つかった。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10014560&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

白人の戦慄

「ワルワル事件**を発端として東アフリカの一角に捲き起った戦雲は、単にイタリー、エチオピヤ間の紛争のみに止まらず、全欧洲、全世界を挙げて喰うか喰われるかの一大闘争のルツボに叩き込まんとして居る。それは単に国際連盟の面目問題であるとか、英仏伊三強国の利権争いなどと云う単純な問題ではない。実に白色人種対黒色人種の戦いであり、進んで 全有色民族を打って一丸とせる白人世界への挑戦にまで発展する可能性を備えて居る。この点に関しては白人自身が最も鋭敏に感得し、人種問題については非常に神経過敏になって居る。殊にこの人種戦争の先頭に勇猛果敢なる民族として白人の最も畏怖する皇道日本が、剱をとって立たん事を極度に怖れて居る。これ等の事実は彼等の著述の随所に発見し得る所で彼等はそれが為めにあらゆる手段を以て黒人を嚇し、或は之を懐柔しつつある。」
**ワルワル事件:第二次エチオピア戦争(1934-35)の発端となった、イタリア軍とエチオピア軍との軍事衝突。

わが国が有色人種のリーダーとして全世界の有色人種の民族解放のために戦うことを白人がそこまで怖れていたのなら、わが国は白人が怖れていた通りに「有色人種の植民地解放」を前面に出し、アジア・アフリカの有色人種国家の独立を支援し、中国をも味方につけて戦えば、その後の歴史は別の展開になっていたのではないか。
アメリカの兵器工場があったデトロイトでは戦争中の1943年に黒人の大暴動が起こり、3日間にわたり都市機能が麻痺したのだが、わが国が有色人種の希望の星と広く認識されていたのなら米黒人による大暴動はデトロイトだけではすまず、全米各地でストやサボタージュが起こって、アメリカは戦争どころではなくなっていたのではないかと考えてみたりもする。

ルーズベルト

しかしルーズベルトは、中国をうまく連合国に加えることで黄色人種の間に対立軸を作り、わが国の勝ち筋を消すことを考えたということだろう。
それも、ただ中国を加えるだけでは白人が有色人種を支配する世界を守れそうもない。そこで、日本軍の残虐性を世界にアピールするプロパガンダで、米黒人を含めた全世界の有色人種が民族の独立・解放のために日本軍に協力する動きを封じる動きに出たのだと思う。

その後第二次世界大戦が終わり、アジア・アフリカの多くの国々が次々と独立を果たしていくのだが、中国と日本の対立軸と日本軍の残虐性についての数多くのデマ宣伝が残された。
このルーズベルトの深謀遠慮による影響が、今も日中韓3国の領土問題や歴史問題に微妙に繋がっているような気がしている。

アメリカの経済覇権がいつまで続くかはわからないが、黄色人種国である日中韓3国の間に領土問題や歴史問題で如何なる対立があったところで、アメリカにプラスになることはあれ、マイナスになることは何もないのだ。

アメリカや中国の排日の歴史を学ぶと、今中国やアメリカで起こっていることは20世紀の前半で実際に起こったこととどこか類似しているのが気になるのは私だけではないだろう。
歴史の真実を学ぼうとしないわが国に対しては、過去と同じように「排日」が仕掛けられ、わが国の企業が苦労して海外で開拓した生産拠点や営業基盤を、奪われることにならないかと心配でもある。

中国や韓国がわが国を挑発し、アメリカがわが国に圧力をかけている今こそが、真実の歴史を学び、戦後の長きにわたり戦勝国から押し付けられてきた歴史観から脱却すべき時期であると思うのだが、「戦勝国にとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまった日本人の歴史観を変えることは容易ではないだろう。拙文で採り上げたような史実が、少しでも広まっていくことを祈りたい。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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