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カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1

昭和21年の3月から4月にかけて、当時の松平慶民宮内大臣・木下道雄侍従次長らが、戦争に至った遠因・近因、経過および終戦の事情について、昭和天皇から5回にわたって聞き書きをした貴重な記録がある。

その冒頭は昭和天皇の次のようなお言葉となっている。

昭和天皇

「大東亜戦争の遠因
この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然存在し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。…
かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、これを抑えることは容易な業ではない。」(『昭和天皇独白録』文春文庫p.24-25)

加州というのはアメリカのカリフォルニア州のことで、アメリカにおける排日運動はここから始まっている。
昭和天皇はこの戦争の遠因は人種問題にあったと考えておられると理解して良いが、このような視点は天皇陛下だけのものではなく、当時のマスコミもそのような論調の記事が少なくなかったようだ。しかしながらこの視点は、戦後になってわが国の歴史の記述からスッポリと欠落してしまっているように思われる。

以前このブログで中国における排日問題を考察した際に、神戸大学付属図書館の新聞記事文庫を紹介した。明治末から昭和45年までの経済記事に限られるという問題はあるが、検索キーワードで当時の新聞記事を探すことが出来るのはありがたい。新聞の過去記事についてはGHQの検閲や焚書などの対象にならなかったので、当時のわが国における論調をそのまま読むことが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

この検索を使って、例えば「人種問題」と入力すると693件もの記事がヒットする。これだけの記事がヒットするということは、当時の経済状況や世界情勢を考える上において「人種問題」は無視できなかったはずである。

これから何回かに分けて、この「人種問題」がわが国にどのような影響を与えたかを考えることにして、今回は、カリフォルニア州で排日運動が起こってそれが全米に拡大した背景について書くことにしたい。

昭和天皇が提起された「加州移民拒否」、すなわちカリフォルニア州の日本人移民排斥の前に、支那人移民排斥運動が起こっている。
その経緯を調べると、カリフォルニア州で19世紀の半ばに金が発見され、金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到した(ゴールド・ラッシュ)。その時に中国人が苦力として投入され、1852年には2万人以上がカリフォルニアに到着し、中国人が州人口の1割にも及んだという。
その後中国人と白人労働者との摩擦が激しくなり、1870年代から支那人排斥運動が始まり、1882年には「中国人移民排斥法」が成立したために、中国人がアメリカに移民できなくなった。日本人の移民が増加するのはその頃からである。

先程紹介した神戸大学付属図書館の新聞記事検索で、やまと新聞が大正2年(1913)に日米問題についての特集記事を55回に分けて連載しているのが見つかった。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10024271&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
この記事によると、明治20年(1887)以降わが国からの移民数が急激に増加し、明治41年(1908)年には日本人移民数がピークとなり全米の移民総数は103,683人。その6割近くがカリフォルニア州に居住していたという。

日米問題の研究

日本人移民の評判が急変するのは日露戦争でわが国が勝利してからのようである。
日露戦争勝利の翌年の明治39年(1906)年にサンフランシスコ学童事件がおこる。先ほど紹介した新聞の記事を引用する。(桑港=サンフランシスコ)

「州知事改選期が迫るや、加州の共和党は労働者同盟の主張と同じく、日本人及び朝鮮人をも清国人と同一に排斥すべしとの一項を条項中に加えた、同時にバンネス、フィルヨープの両街の日本街にある日本人の店に立退きを迫る者があり、又日本人洋食店に対してボイコットが行われ、或は夜陰に乗じ通行の日本人を殴打し、白昼強盗横行して戮殺略奪を恣にし、殺気縦横、保安警察の途殆ど全く廃れた、又公立学校に通学中の日本児童二百余名突然放逐を命ぜられた、是に於て日本の学童は離隔小学校に通わなければならぬ事となったが、素と其学校は支那人の為めに建設せられたるもので、支那街にあって兇賊常に出没し、之れに通うにも遠きは四五哩、近きも二十三十町も遠方から通わねばならぬから、離隔学校に通う事は殆ど不可能であった。
 更に其の校舎の設備を見るに、一度焼けたものに臨時の小屋掛をなし、板壁を廻らし屋根もなく天井も備わらぬ処に、僅か数十脚の椅子があるのみの所へ、四人の教師が残って居るのみである、桑港の官憲は実に斯る仮小舎に日本の学童を放逐せんとしたのである。」(大正2年5月2日「日米問題研究」三十一)

また翌年(1907)5月には再びサンフランシスコで邦人虐待事件が起こっている。
「此暴行は約一週間継続し、帝国領事館及び連合邦人協議会より市の当局者並びに加州の知事に対して保護を求めたるにも拘わらず、依然として暴行は継続せられた、白人は群を為して日本人の飲食店を襲撃して店員を殴打し、或は石、鉄片を以て硝子窓を粉砕し、石を食堂に投入し、湯屋を破壊する等言語道断なる暴行を加え、甚だしきに至っては屋内に闖入して家具を持去るが如き事があった。
 検事は我領事と打合せて被害者の調査に従事したが、在留邦人は米国官憲が本件に対し一般に冷淡である事を憤慨せざる者はなかった」(大正2年5月26日「日米問題研究」三十三)
とアメリカ人のやったことは、先日の中国における反日暴動とあまり変わらない。

アメリカの日本人排斥原因

では、アメリカ人が排日に至った理由は何なのか。
大正2年(1913)12月2日から5日にかけて神戸又新日報で『米国の日本人排斥原因』という記事が書かれているが、そこに同年8月9日付のサンフランシスコ・ポスト紙の記事が翻訳され引用されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10024153&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「 (前略)然れども気の毒なることに添田博士は土地法を通過せる加州議会の真意を了解せざるなり。土地法の目的は日本人が善良なる米国市民となり能うやの問題に非ず。実に血液の混合を恐るるにあり。ウイッブ法案が僅か五名の反対者にて議場を通過したるは是が為めなり。此血液問題人種問題は実に深遠にして且つ世界的の問題なり。博士の意見の末節に対しては実にお気の毒と云わざるを得ず。然れども土地法の根底は実に日本人をして白人種に混合せしめざらんとするにあり。故に其目的さえ達成すれば排日感情は休止すべく即ち日米問題は在米日本人が否応言わず土地法に服従し、且つ米国に向て移民の輸入を断念さえすれば自ら根本的に解決さる可きなり云々」
この記事ではニューヨーマトリビューン紙やサクラメントユニオン紙等の記事も紹介されているが、これらを読むとアメリカ人は日本人という人種を嫌ったのであって、人種差別であったと理解するしかない。

上の記事は大正2年のものだが、排日活動はこの頃に急激に拡大しその後さらに本格化していく。

GHQ焚書図書開封6

西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』にサンフランシスコ総領事であった大山卯次郎氏の「米国における排日の動き」という論文が紹介されている。その論文を読めば、先ほどの記事の中の「土地法」の問題も解説されている。この文章をしばらく引用する。(原文を新字・新仮名に変更したもの)

「さればその最初の現われた1913年(大正2年)加州における第1回排日土地法の制定であって、加州は同法により日本人に対して土地の所有を禁じ、農業の目的をもってする土地の賃借を3箇年以内に限定した。これ日本人の農業経営に対する大打撃なるのみならず、実にその生業を奪うものであって、条約上ならびに人道上許すべからざる不正不当の行為なるにより、日本政府は米国政府に対し本法(排日土地法)が国家の平等を根本義とする日米条約に反すること、人間の平等機会均等を保証する米国憲法に違反すること、多年米国にあって粒々(汗水たらして)稼ぎあげた多数日本人の事業を破壊しその生業を奪うものなることを指摘し、厳重なる抗議を重ねたるも、要領をうるあたわず、本問題は形の上においては今なお懸案中なるも、その実泣き寝入りの姿成りいるのみならず、さらに1920年(大正9年)に至り、加州は第2回排日土地法を制定し、これにより日本人に対し今まで許した3箇年以内の農業上の借地権を剥奪し、地上権を禁じ、農業のためにはいかなる方法によるも土地の利用を許さないこととした。」(『GHQ焚書図書開封6』p.120-121)

わが国は米国法廷に訴えたが、米国大審院はこの「排日土地法」はアメリカ憲法、カリフォルニア州憲法、および日米条約に違反しないと判決を下す。すると、カリフォルニア州に続いて、ワシントン州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州、ネブラスカ州などの他州も同様の土地法を制定してしまうのだ。

排日土地法」だけではない。1922年に米国大審院は日本人の帰化を認めない判断を下し、1924年には連邦法で「排日移民法」が成立しアジアからの移民を禁止した。さらにアジア人は白人との結婚を禁止する「黄白人結婚禁止法」もこの頃成立したようだ。

しかし、なぜカリフォルニア州のサンフランシスコで、最初に排日運動が激しく燃え上がったのか。

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五明洋氏の『アメリカは日本をどう報じてきたか~~日米関係200年』という本は、200年に亘ってアメリカ側の新聞や雑誌に書かれた記事を纏められたものであるが、そこにはわが国が日露戦争に勝利した1905年についてこう書かれている。

「サンフランシスコ・クロニクル紙が降って湧いたように排日キャンペーンを開始した。この唐突なキャンペーンは社主のデヤング氏が上院議員に立候補しようとしてのことであった。
排日はこれまで労働組合が先鞭をつけていたが、これ以降新聞が主導することになる。キャンペーンは1か月に及び、その後をハーストのエキザミナーや他紙が負けじと追従したので、サンフランシスコは排日の霧にすっぽりと覆われてしまった。
クロニクル紙の一連のキャンペーンの記事を要約すると、
『日本人はカリフォルニア、そして米国にとって一大脅威となった。日本人は白人の仕事に直ぐ慣れ、白人が生活出来ぬ安い賃金で働くので中国人よりも始末が悪い。日本人は米国人を嫌うが、米国人にも日本人を拒否する権利がある。』(1905/2/23)
『日本人の無制限移民に反対する動議がカリフォルニア州議会で3月1日満場一致で可決された。父達が多くの犠牲を払い勝ち取ったカリフォルニアを昔の姿に戻すのが我々の責務である。当紙は日本移民の制限を連邦議会と大統領に要請する』(1905/3/2)」(『アメリカは日本をどう報じてきたか』p.101-103)
日本人が嫌われたのは生活態度に問題があったわけではなく、まじめに働いて白人の仕事を奪っていったことが問題になっているのだ。

また著者の五明洋氏はサンフランシスコにおいて排日運動が激しくなった背景についてこう解説している。

「サンフランシスコが排日のメッカになった理由は、アイルランド系がこの市に集中していたからである。…
アイルランド人はポテト飢饉を逃れて移民した貧しい人々で、入植した東部では格好の差別対象であった。大陸横断鉄道工事に従事しフリーパスを得た彼らは、新天地サンフランシスコを目指して大移動を開始した。
ここで彼等は差別にもってこいの日本人に遭遇したのである。差別理由をあえて求めるなら、アイルランドが隷属を強いられた英国と日本が同盟を結んでいるくらいのことであった。彼らは「西部生まれの会」という組織を作り、1907年には「灰色熊(Grizzly Bear)」を創刊して日本人排斥に拍車をかけた。
当時排日の中心人物はすべてアイルランド系で、…排日家のカーニー、オンドネル、フィラン、シュミッツ、マクラッチ、インマン等すべてアイルランド系であった。」(同上書 p.110-112)
下層階級の白人ほど黒人を差別する傾向があるのと同様に、英国で虐げられてきたアイルランド人は黄色人種の日本人が豊かに暮らしていることが気に入らなかったという事なのだろう。

その後アメリカ各地に排日的な論調が広がっていき、1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、日米開戦論が公然と論ぜられるようになる。たとえば、こんな記事が書かれていた。
「日米の開戦危機が取り沙汰されるにつれ、太平洋岸の無防備状態が問題になってきた。特にロサンゼルスの表玄関に当たるサンペドロ港に要塞がないのは致命的で、これでは東郷提督の為すがままである。彼でなくとも誰が来てもサンペドロは易々と侵略され、豊かなロサンゼルスの街並みは日本軍に蹂躙されてしまうのである。」(LA Times1907.1.20)
「ハワイには日清、日露戦争で戦闘訓練を受けた日本人が6万5千人もいて、皆拳銃を所有している。日米開戦ともなればハワイは内外の敵により最も危険な状態になるであろう。」(LA Times1907.1.20)
と、日本の脅威を随分過大に煽っている。そもそもこの時期の日本に米国と戦う意志があったとは思えないのだ。

そしてこの時期に「黄禍(Yellow Peril)」という言葉がロサンゼルス・タイムズに登場したという。「黄禍論」というのは白人国家において現われた黄色人種脅威論のことだが、この言葉は1895年にフランスで生まれたと推定され、ドイツ皇帝(カイゼル)ヴィルヘルム2世が唱えたことが有名なのだが、マスコミで使われ出した影響は大きかった。

ところでアメリカ政府は、当初はカリフォルニアの排日政策に批判的であったのだが、1906年には長期的な対日戦争計画である「オレンジプラン」を大幅に改定していることに注目したい。「オレンジ」とは日本の隠語で、この時点でアメリカはわが国をロシアに代わる仮想敵国と考えていたのである。
最初の「オレンジプラン」は日露戦争の7年前の1897年に策定されていたそうだが、その後このプランは何度か改訂されて、最終的には日本の国土を無差別に焼き払い占領することまで盛り込まれていたのだが、このような「戦勝国に都合の悪い史実」は、戦後GHQに封印されたり反日国家の圧力で語られることがほとんどなく、日本人に知らされる機会があまりにも少ない。そもそもこのような史実を知らずして、公平な観点から太平洋戦争を語れるとは私には思えないのだ。

そして、先ほど大山卯次郎氏の論文にあった排日土地法が、1913年にカリフォルニア州で成立する。そしてその翌1914年に新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始する。

William_Randolph_Hearst_cph_3a49373.jpg

五明洋氏の解説を引用すると
ハーストは扇動的な新聞を1セントという安値で売り大衆紙を確立した人物で、新聞王と呼ばれた。彼はロサンゼルス・エキザミナー紙、サンフランシスコエキザミナー紙、ニューヨーク・アメリカ紙等を傘下に、政界へ立候補する度に日本脅威論を唱える排日の元凶であった。ハースト・キャッスルは日本人観光客で賑わうが、この城塞のような豪邸は、排日煽動記事で発行部数を伸ばしその財源で建てられた、いわば邦人怨念の館である。」(同上書p.124-126)

ハーストキャッスル

ハーストは最盛期には26の新聞社、13の全国紙、8局のラジオ局、それに数多くの関連したニュースサービスを所有し、彼の築いた邸宅ハースト・キャッスルは城のような豪華な建物だ。
マスコミが大衆を煽動する世界は今も昔も変わらないのだが、ハーストが人種問題を煽ることによって部数を伸ばし、とんでもない財を築いたことをもっと日本人は知るべきではないだろうか。

ハースト系の新聞の記事が、五明洋氏の著書にいくつか紹介されている。
「ロサンゼルスの日系人は日本政府の要請があり次第5千の兵をヨーロッパ戦線へ送る準備をしている。彼らは徴兵すれば2万5千名の兵を集めることも可能と豪語している。…日本人のみ戦闘意欲に燃え意気盛んである。」(LA Examiner 1914.08.12)
「日本は1923年までに強大な海軍を造ろうと予算を計上し、超弩級戦艦4隻の建造に着手した。日本は常軌を逸した熱心さで海軍力を増強し、米国をアジアのみならず太平洋から追い出そうとしている」(LA Examiner 1916.07.28)

いずれの記事も事実ではないと思うのだが、ハーストが米国大衆に不要な危機感を煽って新聞が売れることを狙ったのか、権力がマスコミを使って反日に世論を誘導し、軍事力強化に舵を切ろうとしたとしか考えられない。
そして1916年7月30日には『カリフォルニアに危機迫る(Lookout! California-Beware!)』という、わが国を脅威とする歌が同じロサンゼルス・エグザミナー紙に大きく掲載された。ちなみにロサンゼルス・エグザミナー紙は米国最大の部数を誇った夕刊紙であった。
こんなプロパガンダが繰り返されることによって、アメリカ人は反日に洗脳されていったという事なのか。

「1.羊のような米国民は 平和の鳩と戯れる
  誰も気が付かないうちに 大災難が降りかかる
  JAPを追い出さない限り
 2.一寸の虫も愛おしむ 慈愛の声に抱かれて
  何の軍備もしない間に ゴールデンゲートを通り抜け
  JAPは岸辺を埋め尽くす
 3.敵艦隊がマグダレナに 彼らはニコニコよく働くが
  カリフォルニアを盗もうと 至る所に東郷が
  JAPを決して 信用するな」
(LA Examiner 1916.07.30『アメリカは日本をどう報じてきたか』p.127-128所収)

この様な経緯を知ると『昭和天皇独白録』で、昭和天皇が「人種問題」を戦争の遠因と述べられたことは、正しい指摘だと納得できる。
カリフォルニア州の排日は、わが国側には致命的となるような原因は見当たらない。アメリカ側が人種差別と対立を煽り立てて、米国大衆を反日に誘導し軍事力を強化した史実を知らずして、太平洋戦争の原因がどちらにあったかを正しく判断することはできないと思うのだ。<つづく>
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日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2

アメリカの排日は、日露戦争後にアメリカのマスコミが人種差別を国民に煽って急激に広がっていったことを前回の記事で縷々述べてきたが、日露戦争時にはアメリカはわが国では親日国だと見做されていたはずだ。なぜアメリカが、日露戦争後にわが国に対する方針を変えることになったのだろうか。

GHQ焚書図書開封6

前回紹介した西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封6』に高木陸郎氏の「米国の支那進出運動とその将来」という論文がある。ここにはこう書かれている。(原文を新字・新仮名に改めて引用)

「米国は満州に発展の強い意図を抱いていたため、一方において露国の満州独占を防止しつつ、他方において積極的開放政策をとり、満州を自国の商品市場として確保するに努めたのである。
その結果1903年の通商関係拡張に関する条約によって、新たに奉天(現在の瀋陽)および安東(現在の丹東)の二港を開かしむるに至った。
しかるに露国の満州侵略は依然その矛を収めず、團匪事件(だんぴじけん:義和団の乱)以来いよいよ露骨となり、…

ついに日本と交戦(日露戦争)するに至ったのであるが、米国はこの大戦中日本に対し非常に好意を示し、外債二億六千万円を引受け、あるいは講和条約の斡旋をなすなど反露親日の態度に出たのである。…

しかるに戦後(日露戦争後)日本が満州において優越的地位を占めたるため、米国の対満発展政策は転じて、日本の勢力排除に向けられるにいたった。…

即ち、米国は露国よりも御しやすい日本を利用して、満州に自国の商業的利益を伸長せんとしたのであるが、その期待が外れ満州の形勢は単に日露両国の勢力を入れ替えたにとどまり、戦前と大差なき状態を呈したからである。」(『GHQ焚書図書開封6』p.56-58)

要するにアメリカは、ロシアに満州独占をさせないためにわが国にロシアと戦わせ、わが国が日露戦争に勝利すると講和条約の斡旋をしてわが国に恩を売り、その後アメリカが我が国に圧力をかけて満州鉄道など満州の権益を手にすると考えていた。しかしながら、そのことはわが国の抵抗にあってうまくいかなかった。そこで、アメリカはわが国の勢力を排除する方向に舵を切ることになったというのだが、この説はなかなか説得力がある。

満州鉄道

1905年9月に米大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により日露戦争の講和が成立し、わが国はロシアが敷設した満州鉄道の利権を獲得した。
中国に橋頭保を築きたいアメリカは、鉄道王と呼ばれたハリマンをわが国に特使として派遣し、シベリア鉄道の買収もしくは共同経営の折衝を開始したのだが、ロシアから賠償金が取れなかったことからわが国では反米感情が高まっていたため、満州鉄道までアメリカに譲歩できる状況ではなかったようだ。

わが国はアメリカの要請を断り独自で経営をスタートさせたのだが、アメリカからすれば中国大陸に拠点を持つというアメリカのアジア戦略にわが国が立ちはだかる存在となってしまった。そこで、わが国の勢力を排除するために、1906年にわが国を仮想敵国とする「オレンジ計画」(対日戦争計画)の策定を開始したという流れだ。

しかし、アメリカが我が国の勢力を排除するといっても、大義名分もなくいきなり武力を以て排除することはできない。日本人がまじめに働いている限りは通常の方法では排除できないからこそ、カリフォルニアで拡大していた排日の動きを利用し、全米に人種差別を煽って反日感情を拡げてわが国を追い詰めていくという最も卑劣な方法を用いたということではなかったか。

米国の排日大阪朝日新聞

大阪朝日新聞に連載された法学博士末広重雄氏の『米国の排日』という連載を読むと、サンフランシスコ・クロニクル紙がいつから排日キャンペーンを開始したかが明確に書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10027103&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

「明治三十六年及び明治三十七年には日本人が太平洋沿岸に於て驚くべく多数になった。それに刺戟さられて明治三十八年(1905)二月二十五日から、米国太平洋沿岸に勢力のある桑港のクロニクル新聞が、連日日本移民に関する論説を掲げて、日本人の多数入国は将来大に危険であると云うことを論じて、日本人排斥の必要を絶叫し、同年労働派を基礎として日韓人排斥協会、後に亜細亜人排斥協会と改称になった会が組織せられて日本人排斥運動が愈組織的になって来たのである。」(1914年3月9日大阪朝日新聞)

1905年1月2日に旅順開城があり、3月1日に奉天会戦、5月27日に日本海海戦があったから、このキャンペーンは日露戦争の帰趨がはっきりしない段階で始まっているので、アメリカの対満発展政策とは無関係に始まったものだと理解できる。

500px-San_francisco_fire_1906.jpg

1906年4月18日にカリフォルニア州サンフランシスコで大地震が起こっている。
その時にわが国は直ちに同市に対して50万円の見舞金を送っているが、当時の50万円は現在の十数億円程度にも相当する金額で、この見舞金は他の国々からの見舞金の総額をも上回っていたという。

サンフランシスコ地震義捐金

こういう日本人の善意を感じて、すこしは対日感情が改善しても良さそうに思うのだが、先ほど紹介した大阪朝日新聞の『米国の排日』という連載記事を読むと、カリフォルニアの状況が具体的に書かれている。興味深いのでいくつか紹介したい。

「街上に於て、日本人に瓦礫やら、腐った玉子やら、噛りかけの果物を投げつけたり、鉄拳を下すが如きことは、曾て桑港(サンフランシスコ)の地震後に甚しく、当時地震研究の為に加州に出張して居った大森博士さえ此の厄に罹ったことがあった。今日は斯る強漢は殆ど其の跡を絶ったけれども、社会上尚種々なる形式に於て日本人排斥が行われて居る。」

「排斥の為先ず第一に日本人の困ることは下宿屋、貸部屋の誠に得難いことである。加州に長逗留をするものが、或は下宿或は貸部屋の必要を感じ、新聞の広告を見て、其の家に出掛け来意を通ずると、主婦が出て来て、日本人であるのを見ると、随分剣もほろろの挨拶をして断ることがある。甚しきに至っては、アイ・ドント・ウォント・ジャップ(日本人には用がない)と言って、頭ごなしに跳ねつけて仕舞う者がある。」

「又昨年(1913)バークレーに於て売出中であった市街宅地には、左の条件を附して居ると云うことである。即ち
 千九百三十年迄は阿弗利加(アフリカ)人、モンゴリア人及び日本人血統のものは此の土地を買い又は借受くることを得ず、若し此の条件に背いて、日本人に地面を売るものある時は売主も買人の日本人も共に、附近の食料品屋及び其の他の商店からボイコットせらる。 」

「桑港(サンフランシスコ)の水泳場、浴場は全く日本人を客としない。其の他劇場寄席活動写真等で、時としては全く日本人の入場を拒絶し、然らざるも上等席を売らざるところが少くない。公衆の出入する場所、例えば芝居で日本人を排斥するのは日本人にも罪があると云うことを認めなければならない。」

「桑港附近に於ては、労働者の勢力極めて強大で、排日感情も亦極めて猛烈であるから種々なる労働組合は日本人に対してボイコットを行う。理髪師の如きは組合規約に基いて、日本人の理髪をしないと云うことになって居る。又日本労働者の組合加入を拒絶して居る。是等労働組合員の日本人排斥は極端なところまで行われて居る。」

「桑港地震後には、日本人洋食店も一時随分迫害を受けた。暴徒連が我が洋食店の店先に群集して、白人客が食事の為店に居るのを引止めて営業に非常なる妨害を加えた。洋食店の主人連は相談の上、直接に、或は領事の手を経て警察の保護を請求した、ところが巡査の派遣はあったけれども、食事時、暴徒が来て邪魔するような時には、巡査は何処へか行って仕舞って居ない。食事時が過ぎ、暴徒が其の目的を達して散じた頃になると巡査連はノコノコ何処からか出て来ると云う有様で、一向何の役にも立たない。洋食店主人連は大に困った結果、労働組合の親分株に六百円の賄賂を贈って漸く迫害を免れることになったそうである。
桑港、オークランド地方に於ける我が洗濯業者に対する迫害に至っては最も甚だしい。凡ゆる手段を講じて我が洗濯業者の営業妨害をして居る。洗濯業に必要なる器具機械類の買入れの邪魔をすることを始めとして、監視員を設けて絶えず日本人洗濯業者の華客先を調べ、或は印刷物を配附し或は人を派して日本人との取引を断絶せんことを請求し其の華客を奪わんことを図り、今日でも尚運動を続けて居る。」

「日本人を劣等視するところの感情は、日本人と白人との結婚を許さざる法律となって現われて居る。加州民法第六十条は白人と黒人及びモンゴリア人との結婚は不法にして無効なるものであると規定して居る。恋愛神聖の白人国の法律としては、誠に不似合千万なことではないか。尤も加州在住日本人と相愛する間柄になった白人は、此非人情な法律の為…斯かる法律のあるのを見ても、如何に人種的偏見が、加州に於て猛烈であるかと云うことが分るのである。」

これらの記事を読むだけで、この当時アメリカにいた日本人が大変な苦労をしたことがよくわかる。

1920年の写真

ネットで当時の写真を容易に見つけることができるが、上の写真は1920年の画像である。

アメリカ人による人種差別は日本人に対してのみなされたのではない。黒人やユダヤ人に対しても同様だったようだ。その点についても大阪朝日新聞の『米国の排日』にこう書かれている。

「米国の東部で黒人及び猶太人(ユダヤ人)に対するのは、恰も西部で日本人に対するが如き有様である。白人の黒人排斥は今更のことでない、白人と黒人との間に屡(しばしば)大葛藤を生じ、流血の惨状を呈することがある。昨年の秋にも亦一騒動が米国の東部で持ち上ったことがある。ボルチモアと云う町で、黒人の一家族が白人街へ引越して行った、ところが近所の白人は彼等白人の独占のものと考えて居る場所へ黒人が侵入して来たのを見て大に憤激し、其の黒人の家に瓦礫を投ずると云う騒ぎになった。黒人の方でも白人の乱暴に立腹し、多数集まって白人の家に投石して復讎(ふくしゅう)をした。其の結果白黒人の大衝突となり、遂に市は市の安全の為、白人と黒人の衝突を避くる為、白黒人の住居を離隔する命令を発したそうである。」

アメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれ、多種多様な民族が混在し独特な共通文化を形成していく社会だと言われていた時期があったが、実際はそれぞれの文化が混じりあって融合しているわけではなく、混じりあわない者同士が同じ地域に住んでいるだけのことだ。
アメリカのような多民族国家で、もし全米規模で人種問題が煽られたらどんなに危険なことが起こるかは、はじめからわかっていなければおかしいと思う。
前回の記事で1907年1月にはロサンゼルス・タイムスが日本脅威論を唱え始め、1914年には新聞王と呼ばれるウィリアム・.ハーストが排日キャンペーンを開始したことを書いたが、アメリカの大新聞がこのような記事を書くということは世論を対日宣戦に導くためのプロパガンダであり、対日戦争計画書である「オレンジプラン」と無関係ではなかったのだろう。

以前このブログで、第一次大戦以降本格化した中国の排日は、アメリカが我が国の中国におけるマーケットを奪い取る目的で仕掛けたものであることを当時の文章を引用して縷々説明してきた。
アメリカの排日キャンペーンと中国の排日暴動とは繋がっていたのだろう。
アメリカ側は人種問題を煽ることが、急成長していたわが国を追い落とし、中国大陸の権益を手にするために有効な方法だと考えていたのではないのか。
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米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3

前回まで二回にわけて、日露戦争以降のアメリカの排日活動の経緯や実態について書いてきたが、アメリカの知識人はこの時期のカリフォルニアで燃え上がった排日の原因をどう分析しているのだろうか。

日米開戦

ちょっと気になったのでネットで探していると、カレイ・マックウィリアムスの『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』という本があることを知り早速取り寄せた。著者は1905年生まれで南カリフォルニア大学で法律を学んだ後、弁護士資格を取得し、1938-1942年にはカリフォルニア州移民・住宅局長を務めた人物である。表題にあるように、この本は太平洋戦争の最中の1944年に出版されている。

マックウィリアムス氏は、1900年前後から始まったカリフォルニア州排日運動の火付け役は、宗主国イギリスの圧政から逃げ出してきたアイルランド系移民であったとはっきり書いている。この点については、前々回に紹介した五明洋氏の『アメリカは日本をどう報じてきたか』にも同じ指摘があったが、マックウィリアムス氏はもう少し詳しくその事情を述べている。

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当時カリフォルニア州で働く外国生まれの移民の4分の1がアイルランド出身者で、アイルランド系移民のほぼすべてがサンフランシスコに集中していて、サンフランシスコの労働運動をリードしていたという。
彼らはアイルランド人移民を糾合するのに人種問題を取り上げるのが手っ取り早い事に気づき、州人口の1割にも達していた中国人移民を排除した後、中国人に代わって入ってきた日本人をも同様の方法で排除しようとした。

マックウィリアムス氏はこう書いている。
「この頃、アメリカ東部の諸都市ではアイルランド人への差別がひどかった。その鬱憤を晴らすには反東洋人のスローガンは心地よかった。これに加えて日本がイギリスと結んだ日英同盟が反日本人の運動の火に油を注いだ。アイルランド人はイギリスの圧政の中で悲惨な暮らしを強いられてきたのだ。」(『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』p.41)

もともとカリフォルニア州は、他州から移住してきた人が人口の半分を占めていて、移住者たちはカリフォルニア州の政治に強い影響力があったそうだ。

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マックウィリアムス氏はこう分析する。
「このカリフォルニアの特異な人口構成は、むしろばらばらなものを一つにまとめようとするベクトルを作り出していて、その動きの中で生まれた団体が政治力を持っていたと考えている。…
その連携を生み出すには反日本人のスローガンは格好の手段となった。共通の敵を作れば連携が容易というわけだ。日本人問題をシングルイッシューとすることで、こうした団体の活動に共通項が見出せた。…」(同上書p.45-46)
と述べ、この時期にE・A・ヘイズ議員やハイラム・ジョンソン議員など上下院選挙などで選出された議員の多くが反日本人を主張することで選挙に勝利してきたことを書いている。いつの時代もどこの国でも民主主義という政治制度では、候補者は大衆受けすることを公約して選挙に勝とうとするものだが、人種問題を公約して選挙に勝った政治家が少なからずいたのが当時のアメリカだったのだ。

1906年4月18日にサンフランシスコに大地震が起こったことを前回の記事で書いた。その時にわが国は、諸外国の援助額の総計を上回る復興資金を出したのだが、なぜこの時に排日活動が終焉しなかったのか。

マックウィリアムス氏はこう書いている。
「…震災後しばらくは反日本人の動きは沈静化を見せている。しかしそれも長くは続かなかった。
日本人住民への犯罪的ともいえる暴力的行為がすぐに再発している。震災復興にあわせた都市再開発の流れのなかで、日本人社会も拡大した。ビジネスの規模も大きくなり、活動するエリアも広がった。例えば日本食レストランの数は八つから三十に一気に増えている。また従来はリトルトーキョーに居住していた日本人がエリアの外に出て家を購入し始めている。こうした動きにすぐさま反応したのが日本人・朝鮮人排斥連盟であった。日本人のビジネスをボイコットする運動を開始したのだ。
…日本人・朝鮮人排斥連盟は日本人排斥を公式なスローガンとして掲げた。それに他の組織も賛同している。こうした組織の会員数は四百五十万人[他州のメンバー数を含む]にのぼっている。こうしたなかで一九〇六年、カリフォルニア州は日本人移民排斥を超党派で支持することを決定した。」(同上書p.48-49)
地震や災害の後に外国人が勢力を拡大することを警戒することは判らないではないが、その後日本人児童をチャイナタウンにある学校に隔離したことは日本人を憤慨させた。

ではなぜアメリカ政府はカリフォルニア州の危険な動きをストップさせるべく圧力をかけなかったのか。

マックウィリアムス氏は続けて、
「カリフォルニアは一八八二年に支那人排斥法を成立させるために、南部諸州の支援を得て連邦政府に圧力をかけた。今回の事件も同じやり方をとったのだ。最高裁判所がアジア人や黒人の公民権排除を憲法違反でないとしている以上、合衆国政府には州の政策を変更させる権限はなかった。たとえ外国人の権利が条約上保護されるべきであっても、連邦政府はそれを強制することができなかったのだ。
南部諸州の黒人の権利を保護することができないように、カリフォルニアの支那人や日本人の権利も保護が出来ないのだ。…」(同上書p.55-56)

このようにアメリカ政府にはカリフォルニアの排日の動きを止める権限がなかったのだ。そして、メディアはさらにわが国との戦争を煽り、わが国は反米感情を昂らせていくばかりであった。

「ルーズベルト大統領は、わが国は日本との関係が悪化し、一触即発の戦争の危機にさらされていると考えた。大統領はヘンリー・ホワイト宛ての私信(7月10日付)のなかで次のように憂慮している。
『カリフォルニアの日本人排斥は由々しき問題である。事態が改善する兆しが一向にない。』
また友人のヘンリー・ロッジへの同日付け私信では、メディアを強く批判している。
『日本との戦争を避けることが出来たとしても、(戦争を煽る)メディアの責任は免れ得ない。日本にもわが国にも、この問題を戦争で決着すべしと叫ぶ馬鹿野郎が同じ程度に跋扈している。』
西海岸のメディアは(三紙を除いて)こぞって戦争を煽っていたのだ。」(同上書p.57-58)

サイレントインベージョン

同上書に、ロバート・E・パーク博士の言葉が紹介されている。
「階級あるいは人種間の衝突は、単純な、闇雲な反感から生じる衝突から形を変え、より政治的な意味合いを持つようになった。それはあのヒットラーが表現しているように、より精神性を持った、いわば霊的な側面を持ち始めたといえる。つまり人種間の対立のなかでは言葉、スローガンあるいはプロパガンダが“生き生きとした嘘(Vital lies)”になり、いわば言葉が兵器に変質したのだ。ニュース、論評、コラムといった類のものがすべてそういう性格を持ち始めた」(同上書p.65-66)

しかし、日本人がカリフォルニア州で嫌われた理由は何なのか。嫌われるようなことをしたのではないかといろいろ読み進んでも、どこにもそのような記述はないのだ。むしろ日本人はその地で華々しい活躍をしていたのだ。たとえば、

「日本人移民は西海岸にそれまで知られていなかった労働集約型の耕作方法を持ち込んでいる。彼らは土そのものの知識があった。土と作物との関係をよく理解していた。だから耕作しようとする作物に適合するように土壌を改良していった。肥料と施肥の方法にも専門知識を持ち合わせていた。開墾、灌漑、排水の知識に加えて、労力を惜しみなく注ぎ込む不屈の精神があった。こうして日本人移民は数々の農作物栽培のパイオニアとなった。
彼らが開墾した土地はカリフォルニアの肥沃なデルタ地帯だけではなかった。太平洋北西部の切り株だらけの木材伐採地などもあった。日本人を差別する記事を書き続けたサンフランシスコ・クロニクル紙でさえ『カリフォルニアの荒れた土地や痩せ地を豊かな果樹園やぶどう園や庭園に変えたのは日本人の農業技術だ』と賞賛するほどだった。

リビングストンの町は打ち捨てられて荒廃していたのだが、この町を豊かな耕作地に変えたのも日本人の農民だった。カリフォルニア北東部のネバダ州境にあるプレーサー郡の丘陵地帯では果樹栽培が失敗したまま放置されていた。日本人はここでも果樹園経営を成功させている。

後年、カリフォルニア人は日本人がカリフォルニアの最も肥沃な土地を独占したと非難したが、素直に事実を見れば、こうした土地はもともと限界的耕作地だったのだ。
漁業についても同じような傾向が見出せる。西海岸の漁業は昔から移民たちが就いた職業だった。日本人移民はここでも漁獲量を増やすのに貢献した。…
彼らはガソリンを動力としたエンジンをつけた船で、かなり沖合まで漁場を求めて出て行った。新しいタイプの網や釣針を考案し、エサも工夫した。その結果、1回ごとの漁獲高は大きく増えたのだった。また彼らは通年で漁をしたから、市場にはいつも新鮮な魚が溢れることになった。」(同上書p.125-127)

このように、カリフォルニア州に移住した日本人は大変な努力をし、社会にも貢献して生活の基盤を築こうとしたのだが、この州は日本人の努力を正当に評価してもらえるところではなかったのだ。

国民の歴史

西尾幹二氏の『国民の歴史』に当時の米国大統領であるセオドア・ルーズベルトの言葉が引用されている。
「日米間の人種的相違には極めて根深いものがあるので、ヨーロッパ系のわれわれが日本人を理解し、また彼らがわれわれを理解するのは至難である。一世代の間に日本人がアメリカに同化することはとうてい望めないので、日本人の社会的接触はアメリカ国内の人種対立をますます悪化させ、惨憺たる結果をもたらす。その危険からアメリカを守らねばならない。」(『国民の歴史』p.555)

「日本人は勤勉で節倹精神に富んでいるので、カリフォルニアが彼らを締め出そうとするのも無理はない。」(同上書p.556)

要するに日本人は、劣っていたからではなく、優れていたからこそ排斥されたのである。日本人の成功が、他の有色人種を刺戟し白人優位の世界を崩していくことを怖れたのであろう。ルーズベルトが守ろうとした「アメリカ」は「白人が有色人種を支配するアメリカ」であったと考えて良い。

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当たり前のことであるが、戦争というものは、相手国に戦争をする意志がなければ起こらないものである。
勝手に人種問題を焚き付けて世論を動かし、勝手にわが国を仮想敵国にして、挑発行為を繰り返し仕掛けた国はアメリカだったではないか。
「戦勝国に都合の良い歴史」ではこの事実に目をふさいで、戦争の原因が一方的にわが国にあるとするのだが、いつかこの偏頗な歴史が書き換えられる日が来ることを期待したい。
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Author:しばやん
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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