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「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか

前回の記事で、わが国に日米開戦を決断させたとされる「ハル・ノート」を書いたのは、後にソ連のスパイであったことが判明した米国財務省次官のハリー・ホワイトであったことを書いた。また当時のルーズベルト政権の内部や周りには、ハリー・ホワイトだけでなく数多くのソ連スパイや工作人、協力者が存在したことが、戦後アメリカが解読に成功したソ連の情報文書(『ヴェノナ文書』)で判明しているのだ。

この『ヴェノナ文書』だけでは信じられない人もいるだろうが、旧ソ連側からも工作人が「ハル・ノート」作成に関与したことを裏付ける証言が近年になって出てきている。元ソ連NKVD(内閣人民委員部、後のKGB)工作員であったビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、当時このホワイトに接触し、ホワイトが草案を書くにあたって参考にするようメモを見せたと、近年になって証言しているのである。

パブロフは1995年にホワイトとの交渉などを『スノウ作戦』という自著に記し、1997年にNHKの特別番組の取材を受けて、その内容についてはわが国でも放送されたそうだが、この時のインタビューの内容の詳細が須藤眞志氏の『ハル・ノートを書いた男』(文春新書p.129-164)に記述されている。

ハルノートを書いた男

須藤氏の著書によると、パブロフとホワイトが会ったのは1941年の5月で、ワシントンで昼食を共にした時間にパブロフはホワイトにメモを渡している。証拠を残さないためにそのメモはその場で回収されたために内容の検証は不可能だが、そのメモの内容のいくつかが「ハル・ノート」の草稿に少なからずの影響を与えた可能性が高い。

またパブロフの著書『スノウ作戦』の内容の一部が産経新聞社の『ルーズベルト秘録 下』(p.272-276)に紹介されている。

ルーズベルト秘録

パブロフがホワイトに渡したメモがそのままハル・ノートになったわけではないようなのだが、その『スノウ作戦』という本には「作戦は見事に成功し、日本に突きつけられた厳しい対日要求、ハル・ノートこそがその成果だった」と書いていることは注目して良い。

では、ハル・ノートとはどのような内容で、なぜわが国はその内容を最後通牒と考えたのか。その点についてはあまり教科書には書かれていないのである。

次のURLに原文および日本語訳が紹介されているが、重要な部分は第2項の各条文である。
(英語原文) http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/hullnote.html
(日本語原文ならびに口語訳)
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/hull%20note.htm
この内容が日本側に失望を与えたというのだが、そのことは8か月にわたる日米交渉の経緯をある程度知らなければ理解しづらい。

Wikipediaに日米交渉の経緯が書かれているので、それを参考に纏めてみる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
1941(昭和16)年11月20日に日米交渉においてわが国は以下の「乙案」を提示した。
「1.日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
2.日米は蘭印(オランダ領東インド)において石油やスズなどの必要資源を得られるよう協力する
3.アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:(A) 交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する (B) 日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する」

アメリカ政府は日本の「乙案」についての対応を11月21日に協議し、3か月間は日米の通商関係を資産凍結令以前の状態に戻すなどの内容の「暫定協定案」を検討していたが、26日早朝までにハル国務長官とルーズベルト大統領との協議が行われ、「暫定協定案」が放棄されて、ホワイト作成の「ハル・ノート」を提示することになったという。

「ハル・ノート」について、わが国が到底飲めなかった部分は以下の点である。
・支那大陸やフランス領インドシナからの即時無条件完全撤退(第2項-3)
・汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて重慶の蒋介石政権(重慶政府)を支持すること(第2項-4)
・日独伊三国同盟の死文化(事実上の破棄)(第2項-9)
我が国に対しこれだけのことを要求しておきながら、わが国が最も強く求めていた経済封鎖解除に関する回答は一言もない。これでは石油などの必要資源が得られる保証が全くない。

今まで何度か紹介した倉前盛通氏の解説を紹介しよう。
「この電文をうけとった時、日本の首脳部は青天の霹靂に打たれた感を持ち、米国は、どうしても日本との戦争を欲しており、もし日本が手を出さなかったなら、米国の方から攻撃が加えられることをはっきり知らされた。それは、完全な日本への無条件降伏要求であり、『日本は明治維新以前の四つの島にもどれ』という通告であった。…

0815-pal01.jpg

極東軍事裁判の判事として列席したインドのパール判事は、その判決文、『日本無罪論』の中で、『アメリカ政府が日本政府へ送ったものと同じ通牒をうけとった場合、モナコ王国、ルセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう』と述べている。およそ、世界の外交史でハル・ノートのように極端に挑発的な最後通告は空前絶後といえるであろう。…
米国が何故、この時点で態度を急変させたか、それは米国の戦争準備が完了したからである。大戦に参加する決意をさだめてから、米国は鋭意、戦争の準備をすすめていた。10か月にわたる日米交渉も、実はアメリカが時を稼ぐための芝居にすぎなかった。徹頭徹尾,不誠意であったのはアリカの方である。…
ハル国務長官は、ハル・ノートを日本につきつけたあと、米国の陸海軍首脳に対して、『これで僕の仕事は終わった。あとは君たちの仕事だ』と洩らしている。英国大使にも同じことを伝えた。
ルーズベルトは、日本の回答を待つことなく、11月27日付で米国前哨指揮者に『戦争体制に入れ』という命令を発した。真珠湾は断じて不意打ちではなかったのである。」(倉前盛通『悪の論理』p.77-78)

前回の記事に書いた通り、当時のわが国の石油消費量は年間約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていた。また当時のわが国の石油の備蓄は600万トン程度しかなく、その状態でアメリカは7月に石油をわが国に輸出しないことを一方的に通告してきたのである。それから約4か月日米交渉が続いた結末がハル・ノートで、石油の備蓄はさらに減って、開戦したころは1年分程度の備蓄しかなかったのである。これではハル・ノートを受諾したところでわが国の経済が成り立つはずがないではないか。満州や朝鮮半島や台湾やインドシナの権益をすべて捨てて石油も資源も手に入らないのでは、国民の支持が得られないどころか、暴動になってもおかしくない。

嶋田繁太郎

当時の海軍大臣であった嶋田繁太郎はこう語ったという。
「十一月二十六日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、だれ一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で、手いっぱいなことを、政府も軍部も知りすぎる程知っていた。天皇は会議のたびに、日米交渉の成り行きを心から憂慮されていた。第二次近衛内閣も、東条内閣も、平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して任命され、政府の使命は日米交渉を調整することかかっていた。」(同上書 p.80-81)

東郷茂徳

また当時の外務大臣であった東郷茂徳は、こう述べている。
「ハル・ノートを野村大使からの電報で受けとった時、眼もくらむばかりの失望にうたれた。日本が、かくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートを送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した」(同上書 p.81)

驚くなかれ、アメリカ陸軍元帥、GHQ最高司令官を歴任したダグラス・マッカーサー自身が1951年の5月に上院軍事外交共同委員会で、この戦争を日本の自衛戦争だという趣旨のことを述べている。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

マッカーサー

「日本が抱える八千万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。
そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。
潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。
いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。
このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。
彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。
日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿が無く、羊毛が無く、石油製品が無く、スズが無く、ゴムが無く、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。
したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。」
マッカーサーは朝鮮戦争でソ連軍と対峙してはじめて、満州を共産勢力に渡さないことが、わが国が国を守る為に必要であったことを理解したのだろうか。いずれにせよ、この発言の4か月後にアメリカはわが国の占領政策を変更し、わが国を独立させようとバタバタとサンフランシスコ講和条約を締結することになるのである。

「窮鼠猫を噛む」のことわざの通り、「ハル・ノート」を受け取ったわが国は生存権をかけて日米開戦の道を選択せざるを得なかったというのが真相であったと思うのだが、敗戦国の悲しさで、この戦争の責任のほとんど全てがわが国に擦り付けられた状態にあるのが現実である。
アメリカやロシアや中国など戦勝国にとって都合の悪い史実のほとんどが伏せられているために、わが国はリアリティのない浅薄な歴史記述を押し付けられて、それがマスコミや教科書に拡散され、いつの間にか日本人の常識になってしまっているのは残念なことだ。
しかし、この洗脳を解かないことには、本当の意味でわが国の「戦後は終わらない」のだと思う。
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日本軍が真珠湾に向かっていることを知りながら手を出させなかったアメリカ側の事情

このブログで日中戦争からハル・ノートまでの流れをいろいろ書いてきたが、アメリカが絡む問題で、一つ書いておきたいことがある。

アメリカで1935年に成立した「中立法」という法律があるのだが、この時代を読み解くにあたっては、この法律を理解しておくべきであることを最近になってようやく分かってきた。
この法律を調べると、米大統領が、戦争状態にある国が存在していることまたは内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、交戦国または内乱国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止する法律であると説明されている。

例えば、盧溝橋事件を契機にわが国と中国とがお互いに宣戦布告をせずにずるずると軍事衝突の継続状態に入ったのだが、もしいずれかが宣戦布告をしていたとすれば米大統領により「戦争」状態と宣言されてアメリカの「中立法」の適用対象となってしまう。
中国はアメリカから武器や軍需物資の支援を受けられなくなって戦うことが困難となり、わが国はアメリカから石油や資源が輸入できなくなってしまって自国の経済が成り立たなくなってしまう。
だから日中は宣戦布告をしないまま戦い続けながら、この争いを「戦争」と呼ばずに「支那事変」などと呼び、日中両国がお互いにアメリカとの貿易がストップすることを避けようとしたということなのだ。
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page061.html

ホワイトハウス

しかしながら、そもそも「中立法」は、アメリカが二国間の紛争などに巻き込まれることがないようにするための法律である。アメリカの議会では、日中間における「事変」については実質的には「戦争」であるから「中立法」を適用し、日本に戦争資材供給を禁止せよとの議論がかなりあったようだ。

ところが、「中立法」が発動されると、アメリカはわが国の交戦国である中国に対し武器の輸出が出来なくなってしまうことに、強く反対する国内勢力が存在した。
アメリカ政府は「相互に宣戦布告を行っていない両国間の関係で、アメリカが戦争の存在を確認するのは好ましくない」という理由で、日中の軍事衝突に関して「中立法」の発動を避けたという経緯があったようなのだ。

チャーチル

この「中立法」にからんで、もう一つの問題があった。同盟国からの参戦要請があっても簡単には応じられない点である。現にアメリカはイギリスのチャーチル首相から参戦の要請を受けていた。アメリカがすぐに参戦できなかったのは、参戦に反対する当時の世論もあったのだが、参戦すること自体が「中立法」に抵触することが問題であったようだ。

何度かこのブログで紹介している倉前盛通氏の『悪の論理』に、こう書かれている。

「昭和16年6月、ドイツがソ連と戦端を開いたとき、米国のルーズベルト大統領は、いよいよ、欧州の大戦に介入すべき時が来たと判断した。…
当時、米国には中立法という法律があり、海外の戦争に介入することを禁止していた。欧州でナチス・ドイツと英仏の間戦争がはじまり、フランスが降伏し、英国もドイツの猛烈な空襲と、ドイツ潜水艦による通商破壊戦のため、絶体絶命の危地に陥ってしまった。ルーズベルト大統領としては、この英国の危機を救うために、何とかして、欧州の戦争に介入してドイツと戦いたいと焦慮したが、中立法があるために意にまかせなかった。
しかし、米国は昭和15年、50隻の駆逐艦を英国に売り、その代償としてバミューダ島の永久租借権を得た。これは明らかに中立国としての国際法違反である。その上、米国駆逐艦によって、英国商船隊の船団防衛をおこなった。これは、もはや米国海軍の直接的な公然たる戦争介入であった。ヒトラーは米国の挑発に乗らぬようドイツ潜水艦に厳命を下していたが、米国駆逐艦による不法な爆雷攻撃が、あまりに執拗に続けられたので、たまりかねて、正当防衛のため、ドイツ潜水艦が米駆逐艦を撃沈してしまうという事件が発生した。 ルーズベルトは、こおどりして喜び、早速、議会に対し、「ドイツ潜水艦の不法攻撃のため、米駆逐艦が撃沈された。ただちにドイツに宣戦しよう」と提案したが、米議会がよく調べたところ、中立法を破って英国船団を護衛していたのは、米国の軍艦であったことが判明し、かえって、議会から「悪いのは米国海軍の方ではないか」とやっつけられ、ルーズベルトの目算は外れてしまった。
そこで、次に目をつけられたのが日本であった。」(倉前盛通『悪の論理』p.71-72)

アメリカがドイツと戦いたくてもできなかったのは「中立法」のためであった。では、どうすればアメリカがドイツと戦うことが可能となるのかというと、アメリカがドイツから攻撃される状態になるということ、すなわちアメリカが自衛のために戦わざるを得ない状態に持ち込むことが必要であったという事である。しかし、アメリカはその演出に失敗してしまった。
そこで、資源を持たない日本を経済制裁して資源が手に入らないようにした上で、挑発して戦争におびきよせて、うまく日本に先制攻撃をさせれば、日本の同盟国であるドイツに対してもアメリカが参戦できる正当な理由になる、とルーズベルトは考えたのではないのか。

この、アメリカ側の事情を理解すると、何故アメリカが我が国を異常に挑発したのかが見えてくる。アメリカは、どこかの国に攻撃されなければ第二次世界大戦に参戦したくともできなかったのだ。だからこそ、日本が応諾するはずのない「ハル・ノート」を突き付けたということではないのか。

ルーズベルト

1941年11月25日の戦争閣僚会議でルーズベルト大統領が議題としたのは和平の見通しではなく、戦争はいかにして開始されるかという事だったという。この会議に出席したスチムソン陸軍長官のこの日の日記にはこう書かれているそうだ。
「…大統領は対独戦略ではなく、専ら対日関係を持ち出した。彼は多分次の日曜日(12月1日)には攻撃される可能性があると述べた。…問題は我々自身に過大な危険をもたらすことなく、いかに日本を操って最初の発砲をなさしめるかと云ふことであった」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社p.608)

この日記の下線部分は何を意味するのか。普通に考えれば、ドイツ参戦に失敗したアメリカは日本にターゲットを絞り、経済制裁とハル・ノートで日本が戦わざるを得ない状況にまで追い詰めた上で、最初の一発だけは日本に打たせてから参戦するという方針が決まっていたということだろう。ルーズベルトは初めから日米和平などは考えていなかったと思うのだ。

こういう議論をすると、必ず『陰謀論』とレッテルを貼る人がいるのだが、アメリカやイギリスにはルーズベルトが陰謀を考えていたという証言や記録がいくらもあり、歴史上の重要人物が自ら自国に不利なことを書いているのだ。普通に考えれば、陰謀がなかったと考える方が不自然だと思えるくらいである。

開戦に至る日米交渉に関する日本側の暗号電信などが、事前にアメリカ側に傍受され解読されていたことは常識である。

スティネットの『真珠湾の真実』という本には、ルーズベルトが刻々と真珠湾に向かっている日本軍の動きを知っていたことを、膨大な資料を掲げて実証している。

真珠湾海図

たとえば、この本の第9章を読むと、ヒトカップ湾から南雲中将の機動部隊が北太平洋に向けて出発した11月25日(ワシントン時間)の1時間後に、米海軍作戦本部はキンメル宛に「太平洋を横断する(米国及び連合国の)船舶の航路はすべてトレス海峡(ニューギニアとオーストラリアとの間の海峡)とする」との電報を出している。このことは、北太平洋を真空海域にし、日本海軍の進路を妨害するなという事を意味する。
その2週間前にはキンメル太平洋艦隊司令長官が疑心暗鬼のあまり、ハワイ北方海域での日本機動部隊の捜索を命じたのだが、ホワイトハウスは直ぐに探索を中止し、艦隊を北太平洋海域から真珠湾に戻すことを指示している。これは日本軍の真珠湾攻撃を成功させるためのものと考えるのが自然であろう。
その命令にキンメルが抗議した公文書も存在しているようだ。

またルーズベルトの前の米大統領であったフーバーまでもが、ルーズベルトのことを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判しているのだ。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm

フーバー回顧録

フーバーの回想録「Freedom Betrayed(裏切られた自由)」の原稿は、フーバー自身が生前に出版することを希望しながら封印されて、死後47年経った昨年12月にようやくアメリカで出版されたばかりだ。この回想録に関する論文が一部紹介されているが、たとえば対日経済制裁についてはフーバーはこう書いている。
「…ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、一九四一年七月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた」
http://gekkan-nippon.com/?p=2969

またイギリスのチャーチル首相は『第二次世界大戦回想録』の中で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、日本軍が勝利したにもかかわらず、これで強力なアメリカの参戦が決まったと述べたあと、「戦争の結果については、もはや疑いようもなかった」と勝利を確信したことが書かれている。次のURLが該当のページである。
http://ksrd.yahoo.co.jp/PAGE=DT_SOLVED/OUTLINK=1/QID=1123030181/AID=65995847/SIG=12eoivcer/EXP=1339305045/*-http%3A//www.loc.gov/exhibits/churchill/images/wc0142_1s.jpg
この言葉は誰が読んでも、チャーチルが、アメリカの参戦を妨げていた中立法の束縛がとれたことを喜んだと考えるしかないだろう。

真珠湾地図

陰謀があったという説が正しい説に立てば、わざわざ真珠湾に太平洋艦隊を並べて見せたのは『オトリ』だということになるのだが、そのことは開戦当時の太平洋艦隊司令官セオポルト少将が『真珠湾の秘密』という本で明言し、証拠も上げていることである。

真珠湾

日本軍による真珠湾の奇襲である程度の被害が出なければ、世論を開戦に導くことはできないとのアメリカの計算があったのではないか。日本軍による奇襲により、アメリカは戦艦5隻沈没、航空機188機破壊、戦死者2345名などの損害が出たのだが、それによってアメリカは中立法の束縛から離れて、即日にわが国に宣戦布告している。
一方、ドイツは日独伊三国同盟によって、日本より少し遅れてアメリカに宣戦布告をし、このことによって、アメリカは堂々と第二次世界大戦に参戦し、日本だけではなくドイツとも戦ってイギリスを援けることのできる大義名分を得たのである。
先程紹介した、イギリスのチャーチル首相が『第二次世界大戦回想録』の中で、勝利を確信した理由がここにある。

アメリカは、わかりやすく言えば、裏口から第二次世界大戦に参戦した。そのためにわが国は経済制裁で追い詰められ、アメリカはハワイの米国艦隊を犠牲にしたというのが正しい解釈ではないかと考えている。
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真珠湾攻撃のあとでわが国が対米宣戦布告をしたのは故意か過失か

前回は、ルーズベルトが真珠湾に向かっていることをわかっていながら、なぜハワイにいたキンメル太平洋艦隊司令長官にその情報を知らせなかったかという問題について、ルーズベルトは、中立法の束縛を解いて第二次世界大戦に参戦するために、日本軍に最初の一発を撃たせようと考えていたのではないかということを書いた。
この説は、日本軍による真珠湾攻撃が「騙し討ちだ」とする「通説」の内容とは全く異なるのだが、ルーズベルトの側近が真珠湾攻撃の日に記した日記などを読むと、「通説」の方が的外れであることが見えてくる。

スチムソン

たとえばスチムソン陸軍長官(上画像)は真珠湾攻撃の日の午後二時にルーズベルトの電話を受け、その日の日記にこう書いている。
「それはたまらなく面白い事だった。…今やジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を一挙に解決してくれた。日本の攻撃を受けた時、私の気持ちは、不決断の状態が終り、全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たというほつとした気持であった。」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社p.634所収)
また当時の労働長官であったフランシス・パーキンズ女史は1946年に、この時の大統領のことをこう書いている。
「12月7日の閣議で大統領は、彼の誇りや海軍への信頼や米情報機関への信用に対する大打撃にもかかわらず、また戦争が実際もたらした惨害にもかかわらず、いつもよりもずっと平静な様子であつた。彼の恐ろしい道徳的問題がこの出来事によつて解決されたのである。退出した時、フランク・ウォカー郵政長官は私に『大統領は何週間ぶりに心底からほつとしてゐることと思ふ』と述べた」(同上書 p.634)

真珠湾攻撃

これらを読むと、アメリカ側は日本軍の真珠湾攻撃を「騙し討ちだ」と激怒していた様子はなく、むしろルーズベルトとその側近は、やっとこの日が来たことを喜んでいたかのようである。ルーズベルトをはじめその側近たちがこのような心理状態にあったという事は、事実は、アメリカが経済封鎖とハル・ノートでわが国を追いこんで奇襲させようとしていたと考えたほうがスッキリと理解できるのだ。

しかし、日本側が真珠湾空襲に先だってなされるべきであった対米最後通告が、真珠湾攻撃開始から50分近く遅れてしまったという事があった。それがためにわが国は「真珠湾攻撃を騙し討ちした卑怯な国」だと烙印を押されてしまうのだが、日本側はなぜ対米通告が遅れてしまったのか。単なるミスなのか、故意なのか、あるいはそれ以外の事情があったのか。今回は、この問題について考察することにしたい。

imagesCAF5AXXK.jpg

ネットでいろいろ調べると、たとえば次のURLではこう纏められている。
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon6.html
「12月6日午前6時30分(ワシントン時間、以下同じ)
 901号電発信。内容は「ハルノートに対する対米覚書を別電902号で送る。長文なので14部に分ける。極秘。アメリカ側通告時間は追って指示。いつでも手交しうるよう準備せよ」、通称パイロットメッセージ。 
時間不明 :「機密漏洩防止の為覚書作成にはタイピストを使わぬ事」の指示。
12月6日午前6時30分:902号電1部目発信、
12月6日午後0時30分:902号電13部目発信、
12月7日午前2時00分:902号電14部目発信
12月7日午前2時30分:904号電発信 内容は「7日午後1時(ホノルル時間7日7時30分、日本時間8日午前3時)に野村大使よりハル国務長官に本件対米覚書を直接手交せよ」
この最後の904号電が大使館に配達されたのは7日の午前7時頃。
電信員が解読してタイプが終わったのが午前10時30分、902号電14部目が午前11時30分。

しかし、ここで大使館員の不手際により、暗号解読、タイピング作業に予想以上の時間がかかり、開戦後のワシントン時間午後2時20分頃に宣戦布告文が手交された。」

この文書がどれだけ長文なのかと疑問を持ったので、国立公文書館アジア歴史研究センターのHPにその日本文及び英文が読めるので探してみた。
(文書を読むには、メインページに案内されているDjVuプラグインのダウンロードが必要。)
メインページ : http://www.jacar.go.jp/ 
該当ページ  : http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
確かに長文ではあるが、「ハル・ノートに対する対米覚書」という事であれば、大使館員は万全の態勢で入電を待機するのが当然だろう。13部までが6日の昼過ぎに受信したのであれば、丸一日の余裕があるので充分に時間があったはずだ。最後の902電14部目は7日の未明に受信しているが、英語の原文はたかだか7行程度の文章だ。宇佐美保氏HPの次のURL にその英文が掲載されている。
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030719gmtyn.htm

通説に良く書かれている、「大使館員は英文の暗号解読やタイピング作業に手間取った」というのは、重要な事実を隠した書き方だ。事実は、こんなに重要な仕事があるにもかかわらず、米国大使館員は全員大使館を出払ってしまっていたという言い訳をしている。いったい何があったのか。

当時、アメリカ大使館の電信官であった堀内正名氏は、戦後の昭和21年6月20日に提出した「日米開戦当時華府大使館デノ対米通告ノ電報解読並ニ浄書ニ関スル事実ニ付テ」という回答書に、この日の経緯について驚くべきことを書いている。先ほど紹介した宇佐美氏のHPに原文が出ている。
「…電信課員ハ本件通告電報ノ十三本目迄ヲ処理シタ時ハ、之ガ緊急電報デモナカッタシ又内容カラシテ最後的ノ緊急且重大ナモノトハ認識セズ非常ナ緊迫ハ感ジナカッタ。…同夜(六日夜)(本件電報十三本目迄解読後)館員全部ガ支那料理屋デ寺崎書記官ノ南米転勤送別会ヲヤッテイタ様ナ次第デ、他ノ館員モ同様本件電報ヲ以テ最後的ノ重大電報トハ認メテ居ナカツタ様ニ思ウ。…」
なんと、大使館員全員が中華料理屋で寺崎英成書記官の送別会で出払っていて、この電報がとんでもなく重要なものだとは誰も認識していなかったというのだ。
また本来タイプを打つべき奥村勝蔵一等書記官は、緊迫の12月6日の夜の送別会の後に知人宅にトランプをしにいったという証言もあるのだそうだ。

何という緊張感のない職場だろうと思ってみても仕方がないが、それでも堀内氏は13本の電報は7日午前1時までに全部解読し、残りの電報が来るのを待ったが、午前5時半に帰宅。7日午前9時半ごろに電報がついている旨の電話連絡があり、午前10時に登庁して解読に着手。肝心な部分を原文のまま引用する。
「一、次デ普通電解読に着手セルガ、之対米覚書ノ第十四通目ニシテ其ノ出来上リタルハ丁度正午頃ニシテ、電信課員一同間ニ合フベシト思ヒ喜色アリタリ。」(同上HPより) と、12時ごろには解読が完了していたと書かれている。

奥村一等書記官が送別会の後に大使館に戻り、13本の浄書を早目に完成していたら、14本目の浄書を付け加えるだけの作業であり、それほど時間がかかるものではなかったはずだ。大使館から国務省までの道のりは徒歩10分程度だったので、約束の1時に届けることは余裕で間に合ったことなのである。
とすれば、奥村一等書記官は懲戒処分にされてもおかしくないほど罪が重いと誰しも思うのだが、全く処分されることなく1952年には外務省の事務次官に栄転し、1969年には勲一等まで授与されているのも妙な話である。
そもそも最後通牒よりも送別会を優先したことが真実なのだろうか。戦争が始まろうとしている緊迫した時期に、異動があったり送別会があるのも奇異に感じるのだが、本当に米国大使館の職員はこんなに怠惰だったのかと永年疑問に思っていた。

開戦通告はなぜ遅れたか

最近になって、全く別の証言があることを知った。
斎藤充功氏の『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』という本を取り寄せて読んでみた。この本によると、対米諜報を任務とし、アメリカの国力・戦力を調査していた陸軍主計大佐の新庄健吉(下画像)が12月4日に病死し、開戦当日の12月7日の朝からワシントンのバプテスト派教会で葬儀があったのだそうだ。

新庄健吉

『週刊原始福音』という雑誌の177号に、当時のアメリカ大使館で一等書記官であった松平康東氏が、その葬儀に野村、来栖の両大使が出席し、葬儀でアメリカ人牧師が新庄大佐の生前の英詩を読み上げて長々と追悼の辞を述べて予定以上に葬儀が長引いたことが、開戦通告が遅れた原因であることを対談の中で述べているという。
著者の斉藤氏がすごいのは、その記述内容の真偽を確かめるために各地に飛び、かつて新庄が学んだ陸軍経理学校の同窓会である『若松会』の人物にまで面談し、その会報誌に寄稿された記事の中から、野村、来栖の両大使が出席した新庄の葬儀が1時間以上予定を超過し、そのために最後通牒の手交が遅れたという別の会員の書いた記事を発見しておられるところだ。
信者向けの冊子の記事と、同窓会の冊子に書かれたことが一致していることに偶然という事はあり得ないことだ。おそらく、新庄氏の葬儀に野村、来栖の両大使が新庄健吉の葬儀に出席したことも、その葬儀が長引いたことも真実なのだろう。

とすると、奥村勝蔵は指定された時間内に対米覚書を手交できなかった野村大使と外務省を守るために、自らが犠牲になったことも考えられるのだが、外務省内ではなぜかこの葬儀自体が秘密にされてきていたようなのだ。
著者の斉藤氏は、この葬儀に出席したはずの、当時在米日本大使館の三等書記官であった人物に面談を試みたが、その葬儀に両大使が出席していたかどうかを尋ねたところ「強い口ぶりで」否定されている。

もし、この野村大使がこの葬儀に出席したために最後通牒の手交が遅れたということが真実であるならば、野村大使の責任が問われることは間違いがないだろう。外務省はそれを避けようとして、奥村一等書記官に責任を被せて、後に厚遇してその恩に報いたということではないのか。

斎藤氏の本を読んでいると、いろいろ面白いことが書かれている。

昭和天皇

たとえば、12月7日には東条英機は奇襲を成功させてから宣戦布告することを当初考えていたのだが、天皇から呼ばれて「最後まで手続きに沿って進めるように、宣戦布告は開戦前にすること」と、強く窘められて方針を変更し、暗号電文の発信を早めたのだそうだ。
その方針変更が米国大使館の両大使に伝わらなかった可能性はなかったか。
それとも、東条が天皇の意向に背いて、米国大使が捕まらない時間帯に暗号電文を発信させたのか。

あるいは、もっと踏み込んで、アメリカが新庄の葬儀に工作したという事は考えられないか。そもそも新庄の死因も良くわからず、関係者の間では「毒を盛られた」との噂もあるようなのだ。

斎藤充功

斎藤充功氏はこう書いている。
「ヨーロッパで戦火が広がる中、米国の国際的な体裁は、民主主義の国、平和愛好の国で通っていた。自国民に向けても、正義を貫く大義名分が必要であったろう。そのためには、あえて日本に先制攻撃をさせ、悪者になってもらわなければならなかった。しかもそれが『宣戦布告なき先制攻撃』であれば、こんな好都合なことはない。日本が『トレチャラス・アタック(卑怯な騙し討ち)』を仕掛けてきたと見せるために、宣戦布告を意図的におくらせることはできないか…。
そう考えた米国が、新庄の葬儀を巧妙に利用した、とは考えられないか。」(斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』p.58-59)

だとすると、新庄の葬儀に出席した野村大使はまんまとアメリカの仕掛けに嵌ってしまった事になり、大使の責任問題になりかねない。だから葬儀のことを隠して、事務手続き上のミスにすり替えたというのだが、斉藤氏の説になかなかの説得力を感じるのだ。
とはいいながら、これという証拠があるわけではなく、生存者がほとんどいなくなった今となっては何が真実か、確定させることは困難だ。

既に日本人の常識となっている説が正しいとは限らないと思う事が多くなってきた。
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述は、勝者にとって都合のいいように書き換えられていくものであり、特に現代日本史に関して言うと、戦勝国に都合の良いように事実が歪められたり、当事者の所属する組織のトップが傷つかないように書き換えられることがあることを考えておいたほうが良い。
現代史は、もし世界の勢力図が変わったりわが国の権力構造が変わったりすれば、かなり修正されていくと思われる。我々が学校で学び、マスコミで何度も垂れ流される歴史というものは、所詮はその程度のものなのだ。
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太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた

前回まで2回に分けて日米開戦の経緯について書いた。
真珠湾攻撃のことはあまり書かなかったが、アメリカ側は、戦艦8隻の内5隻が沈没され3隻が損傷により航行不能となったほか、航空機188機が破壊されて、戦死者が2345名など米軍の被害はかなり大きかった。一方日本軍の損害は、航空機29機、戦死者55名と少なく、日本軍の奇襲は大成功に終わっている。

アメリカは目論見通りに挑発によって日本軍に真珠湾を奇襲させたのだが、ここまで損害がでることは予想していなかったはずだ。
というのは、既にドイツとイギリスとの戦争は始まって約2年も経過しておりながら、ドイツ空軍はイギリス海軍に対して、有効な打撃を与えていなかったからだ。
ドイツの潜水艦は主に通商破壊のために商船を攻撃することを主任務としていたこともあるが、当時の魚雷は、海中から発射しても、厚さが数十センチもある戦艦の甲板の鋼板を貫くことは出来ず、戦艦を撃沈することはできなかった。
また上空から爆弾を落とす場合も、時速25ノット(時速約50km近い)で進む戦艦に命中させることは極めて困難であり、命中精度を上げようと低空から爆弾を落とそうとすると、戦艦の対空火砲によって撃ち落される可能性が高く、運よく撃ち落されずかつ爆弾が命中したとしても、加速度がついていないから甲板を貫くことができない。
そのような理由からドイツ空軍は、イギリスの戦艦に手も足も出なかったことが、以前紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』に書かれている。

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上の画像は真珠湾攻撃前の2か月ほど前のものだが、真珠湾は湾の入り口が狭く、真ん中に島がある湖のような地形になっている。湾の深さは12メートル程度と浅く、この場所では雷撃機から魚雷を投下しても真珠湾の海底に魚雷の頭が突っ込んでしまうし、それを避けようと低空に降下してから魚雷を投下しようとすれば、ドーナツ状の湾内で投下しなければならないのだから相当戦艦に接近しなければならず、戦艦の対空火砲の餌食となりに行くようなものだ。
だから、もしドイツの空軍が同じ条件で真珠湾を奇襲しても魚雷は使えず、とても日本軍ほどの戦果を上げることはできなかったことは確実なのだ。
アメリカも、日本軍に奇襲をさせたところで、すべての戦艦が使えなくなるほどの被害が出ることは全く想定していなかっただろう。

ではなぜ、日本軍は真珠湾でこれだけの戦果を挙げることができたのだろうか。
倉前氏の『悪の論理』の説明がわかりやすいので、しばらく引用する。

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「真珠湾に並んでいた米主力艦が何故、あのように、脆くも沈んだのか。それは日本の海軍機の爆弾が戦艦の主砲弾を改造して爆弾につくり変えていたからである。強力な装甲板を突き破る目的でつくられた戦艦の口径、三十六センチもしくは四十センチ砲弾を改造した、硬い弾頭をもった爆弾が急降下攻撃によって、絶対貫けないと思われていた米戦艦の装甲甲板をつき抜いたのである。ドイツ空軍も考えなかったアイデアであった。

また、真珠湾は水深が浅いため、雷撃機から魚雷を投下しても、いったん魚雷が深く沈んでから前進するので、真珠湾の海底に魚雷が頭を突っ込んでしまう。それゆえ、真珠湾に入っている艦船は、敵の飛行機から魚雷攻撃を喰らう心配はないと考えられていた。

ルーズベルトも、米海軍も、このような前提のもとでことを考えていたのである。だからこそ、11月26日、ハル・ノートという最後通牒を日本に突きつけ、11月27日には前線指揮官に戦争開始の指示を与えておきながら、それから2週間もすぎているのに、のうのうと真珠湾に全艦隊が入港して休息していた。これは、よほど油断していたのか、日本をおびき寄せるオトリに使うつもりであったのか。いずれにせよ、たとえ、日本の航空艦隊の襲撃をうけても、かすり傷ですむとタカをくくっていたことを意味する。

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だが、爆弾ばかりではなく、日本は魚雷にも新しいアイデアをこらしていた。雷撃機から投下した魚雷が、深く沈まないように、翼のようなものを魚雷につけていたのである。しかも魚雷の威力は、ドイツが『涎』を流して欲しがり、ドイツ自慢のUボートとの交換を申し入れてきたほどのもので、米英海軍の魚雷とはケタ違いであった。それゆえ、戦艦の舷側に張られている、幾層もの強力無比な防御壁を一撃で粉砕し、あたりどころがよければ、一発で戦艦が二つに折れるほどの威力であった。

それにくらべ、米国の方は、開戦後まもなく、米潜水艦が当時軍事輸送に使われていた図南丸に魚雷攻撃を加えた時、六発命中させたが、一発も爆発しなかった。驚いた艦長はすぐに基地に帰り、こんな魚雷では戦争はできないと文句を言ったという。米国は大あわてで魚雷の全面改良をおこない、それに一年以上の時間をついやしたといわれている。」(倉前盛通『悪の論理』p.96-98)

この時代の魚雷は、雷撃機から投下すると一旦水深60m程度まで沈み、それから浮上し前進していくものだったそうだが、日本軍は短期間の間にそれを改良し、投下後水深10メートル以内で浮上する魚雷を開発したのだそうだ。

前々回のこのブログの記事で、真珠湾攻撃のニュースを聞いて、英国のチャーチル首相がこれによってアメリカが参戦し、イギリスの勝利を確信して喜んでいる旨の文章を書いていることを紹介した。しかしながら、真珠湾攻撃の2日後にイギリス軍の自慢の戦艦が日本軍と、マレー沖で戦うことになる。再び倉前氏の著書を引用する。

「チャーチルにも、喜びに満ちて安眠したあととすぐ、顔面蒼白になる悲報が届いた。ハル・ノートが突きつけられた後、行動を開始した日本の大輸送船団数十隻を、南シナ海の洋上で全滅させる目的で、シンガポールにいた英国自慢の不沈戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と、もう一隻の戦艦『レパルス』の二隻および随伴の駆逐艦は、戦闘機の護衛もつけずに北上した。そして12月10日、ベトナムのフコク諸島から発信した日本の海軍航空隊から攻撃をうけた。英国海軍首脳は、ドイツ空軍でさえ、手の出せない英国不沈戦艦に、日本空軍が何ができるものかという思い上がりがあった。

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ところが、80機の日本海軍の投下する爆弾と魚雷によって、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』の二隻はたちまち撃沈され、日本側は三機を失ったのみであった。

チャーチルは驚愕して議会に駆け込み、不沈戦艦がいまや不沈でなくなったことを報告して泣いた。シンガポールにいた英国海軍将校など、ショックのあまり失心する者まで出たと言われている。

かくして、開戦後わずか3日でアメリカ太平洋艦隊とイギリス極東艦隊は全滅し、それ以後、約2年間、西太平洋と東インド洋の制海権は日本の掌中に帰した。」(同上書p.99-100) このように、日本軍はきわめて幸先の良いスタートを切ることができたのである。

ゼロ戦

この日本の快進撃がアメリカにとっていかに「想定外」の出来事であったことは、その直後のアメリカの動きを見ればわかる。

日本海軍は太平洋のアメリカ西海岸で潜水艦による通商破壊作戦を実施し、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を10隻以上撃沈していた。
アメリカでは1942年の初頭にかけて日本軍によるアメリカ本土への上陸の可能性が高いと考えられるようになり、アメリカ西海岸の主要な港湾においては、機雷の敷設が行われたり、他の都市でも爆撃を怖れ、防空壕を作ったという。

そのような厳戒態勢下にあったにもかかわらず、1942年2月24日未明に日本軍はカリフォルニア州サンタバーバラの石油製油所を潜水艦による砲撃作戦を成功させるのだが、翌25日深夜にカリフォルニア州ロサンゼルスで面白い事件が起こっている。

日本海軍の艦載機による空襲を信じたアメリカ陸軍が対空砲火を中心とした迎撃戦を展開し、その模様はラジオ中継されアメリカ西海岸をパニック状態に陥れた(ロサンゼルスの戦い)というのだが、日本軍が空襲を行った記録はどこにもなく、真相はいまだに不明で、アメリカではUFOが飛来したのではないかと真面目に議論されているという。

この事件で米軍は同士討ちで6名を失ったというのだが、それほど日本軍の快進撃はアメリカ人を恐怖に陥れていたのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

最近になって知ったことだが、植村峻氏の『お札の文化史』という本に、アメリカはこの真珠湾攻撃の大敗北のあと、ハワイだけで通用する紙幣を刷りはじめたことが書かれているという。これは、ハワイ8島を放棄せざるを得ない局面もあり得ると考えてのことだと言われているが、アメリカ人はそれほど日本軍の快進撃にショックを受けながら、そしてハワイ陥落という最悪の事態をも想定していたというのだから、実にアメリカ人は抜け目のない人種である。その点は、最悪の事態を「想定外」として思考停止するどこかの国の人々は見習わなければならないと思う。
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4871883167/ref=dp_db_cm_cr_acr_txt?ie=UTF8&showViewpoints=1

トインビー

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べている。
「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」

太平洋戦争でわが国は敗れたが、緒戦とはいえ日本軍が米英軍を相手に圧倒的な勝利を得たことが、当時白人に支配されていたアジア・アフリカ諸国に、白人が無敵でない事を示したことは大きかった。
原材料に乏しいわが国が戦いに勝ち続けることはできなかったが、この戦争の後に、これらの諸国が次々と独立し白人の支配から解放されていくことになる。
もし日本がハル・ノートを受け容れて対米戦争を回避していたら、現在のような人種平等の世界が来ることはなかったであろう。そうすればわが国も、その後白人の支配下に置かれていたとしてもおかしくなかった。あの戦争の前の非西洋諸国は、日本とタイとエチオピアを除いたすべてが西洋の植民地であったことを忘れてはいけない。

西洋諸国は300年以上の長きにわたり支配してきたアジア・アフリカの植民地のほとんどを第二次世界大戦の後で失った。その意味で、我が国が戦争の目的とした「東亜諸民族の解放」は実現したという主張をすることも可能だが、終戦後に独立した国の多くは共産国となったので、終戦後実質的に勢力を伸ばしたのはソ連ではなかったかと思うのだ。ひょっとすると、「東亜諸民族の解放」というスローガンも、共産主義者から吹き込まれたものではなかったのだろうか。資源のない我が国が他国の白人支配からの解放を手助けする余裕があったとは思えないのだ。

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このブログで何度かスターリンの『砕氷船のテーゼ』を紹介したが、もう一度、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を引用しておきたい。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

先進国同士を戦わせて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得るスターリンの戦略は、世界に根を張っていた工作員や協力者によって、主要国でほとんどそのテーゼの通りに実行されていたのではないか。
アメリカは、言わば共産主義の脅威を作り出すために参戦したようなもので、つまるところスターリンの手の内で動いていたのではなかったか。ルーズベルト政権の中枢やその周りには500人以上のコミンテルンのスパイや協力者がいたことがわかっているのだ。
イギリスも、ナチの徹底的破壊を志向したために、結局はソ連の東欧進出を許したばかりか、植民地の全てを失って二流国に転落した。これもスターリンの戦略通りであったのではなかったか。
ルーズベルトもチャーチルも謀略家ではあったが、スターリンの方がはるかに上であったと思うのだ。

では、何故わが国は共産国化を免れることができたのであろうか。
これには、いろんな理由が考えられるのだが、以前にも書いたように、昭和天皇が、広島・長崎に原爆が投下されソ連が我が国への侵攻を開始した極めて適切なタイミングで終戦のご聖断を下されたことが大きかった。もしこの御聖断がなければ誰もこの戦争を止めることが出来ず、アメリカとの本土決戦となれば米軍もソ連軍の協力を要請していた可能性が高いと思われる。
もしそうなっていれば、ドイツや朝鮮半島と同様に、わが国も終戦後に、北海道や本州の一部が共産化することが避けられなかったと考えている。
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「大東亜共栄圏」の思想が広められた背景を考える

昭和前期の「日本史」を学んだ際に、資源の乏しいわが国がアメリカにより経済封鎖されながら、「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」というスローガンを掲げて、植民地となっていたアジア諸国を解放するために戦おうとしたことにずっと違和感を覚えていた。資源のないわが国には、他国の為に貴重な資源と富を費やして戦うほどの余裕があるはずがないと考えていたからだ。

いつの時代でもどこの国でも、戦争を始めるには国民を納得させるだけの理由が不可欠だ。
アメリカの場合は「リメンバー、○○」と、嘘でもいいから国民に復讐心を煽ることで紛争に介入して何度も自国の権益を拡大してきた歴史があるのだが、そういう単純な世論誘導が出来たのは、アメリカにはいつでも戦争ができるだけの資源が国内に豊富にあり、周辺諸国よりも軍事力で圧倒的に勝っていたことが大きいのだと思う。
一方、わが国には長期にわたり戦争を継続できるだけの資源がないので、近隣諸国との問題が発生した場合は、まずは外交で問題の解決を図ることを優先してきたことは当然である。
いくら相手国が理不尽な要求をしてきた場合でも、勝算もなしに参戦したところで長期戦に持ち込まれれば敗戦が確実で、そうなれば国民を塗炭の苦しみに陥れてしまうことになってしまうからだ。

当時の日本軍の戦闘機や武器の性能がかなり高かったことを前回の記事で書いた。しかしそれらの性能が世界のトップレベルであったとしても、鉄や石油などの資源がなければ新たな兵器の製造も、飛行機や戦艦の製造も修理も困難となり、いずれは日本軍としての戦力が急低下していくことは明らかである。
だから、わが国が戦争する場合は、短期間で決着をつけるような戦い方しかできないはずなのだが、なぜか日中戦争に巻き込まれ、その上にアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。
その背景に何があったのかを掴もうとすると、通史をいくら読んでもピンと来るものがなかった。国益と国益がぶつかり合う世界で、ドロドロとしたものがあって当然であるのに、なぜかわが国だけが侵略国だったと片づけてられてしまうことが納得できなかった。

レーニン

レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」を知ったのは比較的最近のことなのだが、レーニンスターリンの言葉を読むと、この時代はこの二人の言葉通りに世界が動くように共産主義者とその協力者が工作活動をしていたと考えたほうが、納得できることが多いと思うのだ。少なくともわが国の昭和史についてはそう考えたほうが自然なのである。

レーニンの考えにもとづき1928年のコミンテルン第6回大会でこのように決議されている。

「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

当時の日本はマルクス・レーニンの著作などがバカ売れした時代であり、生まれてまだ日も浅い社会主義国であるソ連を理想国家と考える日本人が少なくなかったことをこのブログで書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

レーニンは、自国を敗北させて戦争を通じてプロレタリア革命を遂行せ、共産主義者は進んで軍隊に入隊して内部から崩壊させよ、などと恐ろしいことを述べていたのだが、この思想に共鳴したメンバーが実際に政府の中枢に実在し、軍隊にもかなり存在していたことがわかっている。
何故軍隊という規律が正しいはずの組織がわが国で暴走したか、何故日中戦争がズルズルと泥沼化していったかが長い間納得できなかったのだが、わが国の軍隊の中に、レーニンのこの敗戦革命理論を実践しようとする勢力が少なからずいたと考えればすっきりと理解できるのだ。

スターリン

また1935年(昭和10年)の第7回コミンテルン大会ではスターリンが、第二次世界大戦を機に世界の共産化を推進させる具体的な方法を述べている。
前回の記事で、そのスターリンの演説を引用したが、彼の戦略をまとめると、ドイツはフランスとイギリスと戦わせ、日本は中国に向けさせた後アメリカと戦わせ、日・独の敗北のあとにその荒らしまわった域と日独両国を共産化することを狙うというものだが、その後の歴史は、前回の記事で触れたとおり、途中までその目論見通りに進んでいくことになる。

今までこのブログで当時の記録を紹介しながら縷々述べてきたが、わが国はソ連の工作により、日中の戦いにひきずりこまれ、次いでアメリカとの戦いにも参戦させられたのであって、自らが侵略する目的で参戦したものではないと考えた方が当時の記録や史料と矛盾することがなく、すっきりと理解できるのだ。

開戦の詔書

真珠湾攻撃の日に昭和天皇が国民に向けて「開戦の詔書」を出しておられる。
この詔書にはどこにも「大東亜共栄圏」や「東亜諸民族の解放」などという勇ましい言葉がなく、戦うことは(昭和天皇の)本意ではないが自衛のためにやむなく参戦するしか道はないと書かれている。
原文では読みにくいので口語訳の一部を紹介する。全文の原文、読み下し文、口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www.geocities.jp/kunitama2664/daitoua1208.html

昭和天皇

ここで昭和天皇は、わが国が戦わざるを得ない理由についてはこう述べておられる。

「…今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)

…余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

 このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。…」

と、この戦いが自衛のためのものであることを明確に書いておられる。この内容は今まで私がこのブログで書いてきたわが国の出来事やの交渉経緯と矛盾することがなく、すっきりと理解出来る内容になっているのだが、この詔書が通史や教科書で紹介されていることはほとんどない。

ところが、4日後の12月12日に、東條内閣での閣議決定でこの戦争の名称を「大東亜戦争」と呼ぶことが決定し、同日情報局が「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味にあらず」と発表し、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定されている。

「情報局」というのは戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に設置された日本の内閣直属の機関であるが、この文章には不思議なことに「自衛戦争」とのニュアンスが消えてしまっている。なぜ「情報局」が、昭和天皇の「開戦の詔書」の主旨と異なる発表をしたのであろうか。

そもそも、「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」という言葉はいつ頃誰が創ったのだろうかと調べると、昭和10年の第7回コミンテルン大会の後だということがわかる。
ネットで調べると昭和13年1月に「東亜新秩序」声明があり、それ以降「昭和研究会」のメンバーが中心となって東亜共同体の理論体系を展開していったとある。
ソ連のスパイであった尾崎秀実が手記に書き残した「昭和研究会」のメンバーには、後の「企画院事件」で検挙された革新(共産主義)官僚が数多くいたことがわかるし、それ以外のメンバーも、戦後には社会主義者・共産主義者として知られているメンバーが少なくない。
http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/981.html

以前このブログでも書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということがアーサー・ケストラーの手記に書かれているが、コミンテルン工作の最重要のテーマはソ連の防衛と、共産圏の拡大にあったことは言うまでもない。

ドイツソ連に宣戦布告

昭和15年(1940)9月にわが国は日独伊三国聯盟を締結し、翌年の昭和16年(1941)6月に、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きている。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認し、7月に南部仏印への進駐を実行するのだが、この時期から「大東亜共栄圏」という言葉が流行しはじめ、公式文書に登場するのは昭和16年(1941)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F

尾崎秀実

この時期に、尾崎秀実は「シベリア作戦で国力を消耗したところを背後から米国につかれる恐れがある。…南方には日本が戦争を完遂するに必要な資源(ゴム、錫、石油等)が豊富に存在する。だから、我々は今こそ、断乎、英米を討って南方に進むべきである」などと主張していたようだ。

この時にわが国がもし「北進論」を選択していれば、わが国はドイツとソ連を挟み撃ちすることができ、そうすればソ連の息の根を止めることができたのだろうが、それを阻止する勢力がわが国に多数いたことは確実だ。
昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、わが国は日独伊三国同盟よりも日ソ不可侵条約を優先することが決定したのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったのだそうだ。このことは、御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味した。

ドイツからの照会を受けてこの重大情報漏洩の追及の結果、ゾルゲ尾崎秀実が1か月後に逮捕されることになるのだが、参考人として取調べを受けた関係者は数百人にも及んだという。

ゾルゲ

しかしゾルゲと尾崎が情報工作により日本を対ソ不戦に導き、その情報をいち早く伝えたことはソ連にとっては極めて貴重なものであった。
ソ連はゾルゲに対して、1964年11月5日に「ソ連邦英雄勲章」を授与している。また歴代の旧ソ連駐日大使やソ連崩壊後のロシアの駐日大使は、日本に赴任した時に東京の多磨霊園にあるゾルゲの墓参をすることが慣例となっているそうだ。
また尾崎もソ連のスパイとしての功績が高く評価され、2010年1月にロシア政府から、尾崎の親族からの申し出があれば、勲章と賞状を授与するとの発表が出ているらしいのだ。

大東亜共栄圏

「大東亜」と呼ばれた地域の多くが昔の英米仏蘭の植民地であり、「大東亜共栄圏」という言葉は白人に支配されている住民を解放するためにわが国が戦うことを暗示し、そのことが「対ソ不戦」を意味するということを今まで考えたことがなかったのだが、最近になってこの言葉が、尾崎をはじめとする「南進論」を唱えるメンバーにより広められたことに気が付いた。

「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、つい最近まで、この時期に右傾化した日本で広められたスローガンだとばかり思っていたのだが、このブログで記事を書いているうちに、これらの言葉は、レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」の考え方の中から、共産主義者やそのシンパによって編み出されたのではないかと考えるようになってきた。

尾崎やゾルゲらは、日本をソ連とは戦わせずに中国、ついでアメリカと戦わせ、わが国の国力を消耗させたのちに、世界の多くの国を共産国化させる戦略を練っていた。
最初に書いたように、我が国が戦争に参加するにあたっては、国民を納得せる理由が不可欠だ。しかし単なる「自衛戦争」では「敗戦革命」を実現し、あわせて世界の共産化を図ることは難しいと考えたのではないか。全世界の共産革命のためには、戦争はより大きくて複雑なほど都合が良いはずだ。
そこで、当時白人に支配されていた東亜諸民族の解放という崇高な目的が付け加えられ、マスコミによる世論工作が繰り返しなされて、わが国が無謀な戦争に突き進むように巧妙に仕掛けられたということではなかったのだろうか。
第二次世界他大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払ったことがなければ実現しなかったことではあるのだが、それは、我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させるというスターリンの謀略そのものではなかったのか。
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『ポツダム宣言』を受諾したわが国は、連合国に「無条件降伏」したのか

1945年8月14日、日本国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、9月2日に降伏文書に調印した。
学生時代には「太平洋戦争はわが国が連合国に無条件で降伏した」と学んだ記憶があるし、テレビの解説などで「無条件降伏」という言葉を何度も聞いたと思うのだが、最近のわが国の高校教科書ではそう書かれていないことに気がついた。

降伏文書調印

例えば『もういちど読む山川日本史』では、
「8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天皇自身のラジオ放送をつうじて、国民にこれを明らかにした。そして9月2日には、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、日本は連合国とのあいだで降伏文書に調印した」(p.313)とある。

また明成社の『最新日本史』では、
「アメリカ・イギリス・中華民国の三国は、共同で降伏条件を示したポツダム宣言を発表した。…8月14日、日本はポツダム宣言を受諾した。翌日天皇は『終戦の詔書』を…発表され、全日本軍は…連合国に降伏した」(p.267-268)とあり、いずれの教科書にも「無条件」という文字がないばかりか、明成社の教科書には降伏条件があったと書かれている。この叙述は学生時代に学んだ歴史とは異なる印象を受けた。

ネットでいろいろ検索していくと、国会答弁で「わが国が連合国に無条件降伏した」という表現が何度かされていたことがわかる。

たとえば昭和24年11月26日の衆議院予算委員会で、野党の西村栄一議員から、講和会議に関して、わが国は無条件降伏をしたのであるから何ら発言権がないという定説があるが、カイロ宣言・ヤルタ協定は日本国民を敵対視していないので、日本国民は講和条約に対し、発言権が認められてもいいではないかという質問に対し、吉田茂首相がこう答弁したという。

吉田茂

「…またこの間もよく申したのでありますが、日本国は無条件降伏をしたのである。そしてポツダム宣言その他は米国政府としては、無条件降伏をした日本がヤルタ協定あるいはポツダム宣言といいますか、それらに基いて権利を主張することは認められない、こう思つております。繰返して申しますが、日本としては権利として主張することはできないと思います。しかしながら日本国国民の希望に反した条約、協定は結局行われないことになりますから、好意を持つておる連合国としては、日本国民の希望は十分取入れたものを条約の内容としてつくるだろう、こう思うのであります。」
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ADD/Mujoukenkoufuku.htm

上記URLには最高裁判決で「無条件降伏」という言葉を使っている事例も紹介されているが、昭和28年6月3日の最高裁判決に出てくる「わが国はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に調印し連合国に対して無条件降伏をした」(昭和23年政令第201号違反被告事件)という言い回しは今まで何度目にしたかわからないくらいだ。

ではなぜ最近の教科書に、わが国の降伏について「無条件」という言葉が書かれていないのだろうかと少し疑問を感じて、「ポツダム宣言」を探して読むことにした。今ではネットで簡単に読むことが出来る。日本語訳文は外務省の訳文は旧字旧かなでわかりづらいので、それを参考にして私なりに現代文に書きなおしてみた。
原文・外務省訳: http://home.c07.itscom.net/sampei/potsdam/potsdam.html

『ポツダム宣言』は13の条文からなるが、初めの(1)~(4)は、いわば連合国のわが国に対する「脅し」のようなものである。「最後の一撃を加える体制が整っている」とか「日本の国土の完全なる破滅を意味する」というのは、いくつかの原爆を投下する準備が出来ているという意味なのか。
一応引用しておくが、太字の部分だけをざっと読み流していただくだけで構わない。

「(1) われわれ、合衆国大統領、中華民国政府主席及び英国首相は、われわれ数億人の国民を代表し協議の上、今回の戦争を終結する機会を日本国に与えることで意見が一致した

(2) 合衆国、英帝国及び中華民国の陸海空軍は、西方から自国の陸軍及び空軍による数倍の増強を受けて巨大となり、日本国に対して最後の一撃を加える体制を整えた
この軍事力は、日本国が抵抗をやめるまで、同国に対し戦争を遂行しているすべての連合国の決意により支持され、かつ鼓舞されているものである。

(3)世界の自由なる人民が蹶起した力に対するドイツ国の無益かつ無意義な抵抗の結果は、日本国国民に対して、その先例を明白に示すものである。現在日本に向かって集結しつつある軍事力は、ナチスに対し適用されてドイツ国人民の土地、産業、および生活様式を荒廃せしめた力と較べれば、はかりしれぬほどに強大である。われわれの決意に支持されたわれわれの軍事力を最高度に使用すれば、日本国の軍隊を不可避的かつ完全にを壊滅させ、そしてそれは必然的に日本国土の完全なる破滅を意味することになる

(4) 無分別な打算により日本帝国を滅亡の淵に陥れたわがままな軍国主義的助言者によって日本国が引き続き支配されるのがよいか、あるいは日本国が理性の道を歩むのがよいか、日本国が決断する時が来ている。」

そして(5)に、以下は連合国がわが国に呈示した、わが国の降伏を認める条件であるとし、(6)以下にその条件が記されている。ここからが重要なところなのだが、『ポツダム宣言』は普通に読めば「条件付き降伏」なのだ

「(5)われわれの条件は以下の通りである。 われわれはこの条件から逸脱することはないし、これに代わる条件は存在しない。遅延は認めない

(6)われわれは、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、世界の平和、安全および正義の新秩序が生まれ得ないことを主張する。 日本国民を欺瞞し、彼らに世界征服の挙に出るという過ちを犯させた者の権力および勢力は永久に除去されなければならない

(7) そのような新しい秩序が建設され、かつ日本国における戦争遂行能力が破砕されたことの確証が得られるまでは、連合国が指定する日本国領土内の諸地点は、ここに指示する基本的目的の達成を担保するため、連合国が占領するものとする

(8) カイロ宣言の条項は履行されるべきものとし、日本国の主権は本州、北海道、九州、四国ならびにわれわれの決定する周辺小諸島に限定される

(9) 日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる

(10) われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられることになる。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする

(11) 日本国はその経済活動を維持し、かつ公正な実物による戦争の賠償取り立てを可能にするような産業を維持することを許される。但し、日本国が戦争の為の再軍備を行なうことが出来るような産業はこの限りではない。この目的のため、原料の入手(その支配とはこれを区別する)は許可される。日本国は将来、世界貿易への参加を許される。

(12) 前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意志にしたがい平和的傾向を持ち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収するものとする

(13) われわれは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつその行動における同政府の誠意について、適当かつ充分なる保障を提出することを要求する。これ以外の道を日本国が選択した場合は、迅速かつ完全なる壊滅があるだけである。」

(8)に「カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定される」と書かれている点については、若干の補足が必要だ。

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カイロ宣言』というのは1943年11月22日に、米大統領F・ルーズベルト、英首相W・チャーチル、中華民国国民政府主席の蒋介石によって行われた『カイロ会談』で12月1日にメディアに向けて発表された内容指すのだが、この『カイロ宣言』には日時や署名がなく、公文書も存在していない
中国は1943年12月1日にルーズベルトチャーチル蒋介石がカイロで発表したプレスコミュニケが『カイロ宣言』だと主張しているのだが、その日はルーズベルトチャーチルはイランの首都テヘランでスターリンと会議をしていたことが分かっている。また蒋介石は重慶にいたので、三首脳が共同でプレス・コミュニケを出すことはありえないのである。またルーズベルトチャーチルも『カイロ宣言』の内容を否定しており、中国が捏造したものであることは明らかなのである。
2008年に当時の台湾総統であった陳水扁氏が、英国の『ファイナンシャルタイムズ』のインタビューに応じ、『カイロ宣言』はニセモノであると語っている記事も参考になる史料である。
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=52675&ctNode=3591&mp=202

陳水扁

陳水扁が『カイロ宣言』を否定したのは、この宣言に台湾について極めて重要なことが書かれているからなのだが、そこにはわが国が返還すべき領土に関しては次のように記されているのだ。
「右同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し、又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り
日本国は又暴力及貧慾に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」
http://blog.goo.ne.jp/hm-library/e/1925e39f7d2ee814093e5b07934bb319

台湾・澎湖島地図

このように中国に領土を返還することばかりが書かれているのだが、そもそも台湾や澎湖島はわが国が盗んだわけではなく日清戦争の講和条約により正当に取得したものである。
台湾独立派の陳水扁が「中国は『カイロ宣言』をもとにして、台湾の主権を有していると宣伝しているが、『カイロ宣言』はニセモノであり、歴史を書き改めなければならない」と主張していたことはよくわかる。

しかし中国のこんな捏造文書においても、わが国が1914年以前にわが国の領土であった島などについては中国が問題にしていなかったことは注目して良いだろう。
現在、中国との間で問題になっている尖閣諸島には、1880年代後半から1940年(昭和15)にかけ日本の琉球諸島の住民が建設した船着場や鰹節工場などがあり、居住者もいたのである。もちろん中国から盗んだ島であるわけでもない。

鳩山発言

鳩山由紀夫というバカな政治家が、『ポツダム宣言』第8条を根拠に尖閣諸島は中国領などと発言していたが、この条文に出てくる『カイロ宣言』の条項を尊重したとしても、わが国周辺の島については、わが国が中国から盗み取ったという立証がなされない限り、1914年以前からわが国の領土であれば、まぎれもなく日本の領土ということになる。中国は『カイロ宣言』を重視しているようだが、この宣言はサンフランシスコ講和条約の第二条「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」で書きかえられており、『カイロ宣言』は日本を拘束するものではなく無効である、と反論しなければいけない。

話を『ポツダム宣言』の条文に戻す。
最後の(13)に一度だけ「無条件降伏」という言葉が出てくるのだが、これは全日本国軍隊が「無条件」で降伏することを要求しているのであり、この部分は戦争を終結させるため連合国側が提示した条件のうちの一つであるとしか読めない

要するに、『ポツダム宣言』を正確に読めば、日本国軍は「無条件降伏」したが、国家としては「条件付き」で降伏したのであり、決して「無条件降伏」したわけではないのである

故江藤淳氏は『アメリカ合衆国外交関係文書・1945・ベルリン会議』所収第1254文書「国務省覚書」に「ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものになる」との見解が書かれていることを著書で指摘しておられる。(新潮文庫『忘れたことと忘れさせられたこと』P.218)
他にも事例があるが、アメリカ側も『ポツダム宣言』で、わが国に条件付きで降伏を勧告したという認識であった史料が残されているのだ。

しかしながらアメリカ政府は1945年9月6日付でマッカーサーに次のように通達したという。
「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ADD/Mujoukenkoufuku.htm

要するに、連合国が、占領当初から『ポツダム宣言』に違反することをマッカーサーに指示したということなのだが、連合国に占領されたわが国としては、連合国とまともに交渉できる状況にはなかった。その結果、「無条件降伏」に近い状況に陥ってしまったというのが真相のようなのである。

冒頭に、当時の吉田茂首相の国会答弁を紹介したが、吉田はわが国が「無条件降伏」したのではなかったことは実際には分かっていたはずである。わが国の外務省の文書には「日本の降伏は無条件降伏ではない」と記録されたものが残されており、その条件の内容の確認をしたうえでわが国は『ポツダム宣言』を受諾したのである。
紹介した吉田茂の答弁は、占領軍総司令部(GHQ)に対してとてもNOが言える状況ではなかったことを、便宜上わが国が「無条件降伏」であったことにして、苦しい言い逃れをしているものであるとも読める。わが国が自ら「無条件降伏」したと認めることは、『ポツダム宣言』違反をした連合国の行為については目を塞ぐことにしますというメッセージを発しているということにもなるのだ。

『ポツダム宣言』の(10)で、連合国はわが国の言論、宗教、思想の自由及び基本的人権を尊重しなければならなかったのだが、ソ連は北方領土を不法に占拠し、また多くの日本人をシベリアに抑留した。国内ではGHQは徹底的な検閲を行ない、さらに焚書を行なってわが国の言論の自由、思想信条の自由を奪ったうえに、憲法まで押し付けたのである

戦後の長きにわたり、「わが国は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して無条件降伏した」という謬説がまかり通ったのは、『ポツダム宣言』に堂々と違反した連合国側に問題があったことは言うまでもないが、わが国の政治家や官僚やマスコミが連合国のポチのように動き、GHQによる占領が終了してからも、長い間わが国の国民を欺き続けてきたということが重要な問題なのだと思う。

江藤淳

昭和53年に故江藤淳氏がこんな文章を書いているのだが、このような主張を風化させてはならないのだと思う。
「…つまり、ポツダム宣言は、日本のみならず連合国をも拘束する双務的な協定であり、したがって日本は、占領中といえどもこの協定の相手方に対して、降伏条件の実行を求める権利を留保し得ていたのである
 いうまでもなくソ連は対日参戦と同時にポツダム宣言の署名国に参加し、この『協定』の拘束を受けている。ソ連の邦人シベリア抑留が不法だったのは、早期帰還を約束している宣言第9条に違反していたためであり、わが北方領土占拠が不当なのは、ポツダム宣言が領土不拡張を掲げたカイロ宣言の精神を承継しているにもかかわらず、その原則を侵害しているためである
 もし…、日本が『無条件降伏』をしていたのであれば、われわれがポツダム宣言署名国であるソ連に対して何等の請求権を持ちえないことになる。今日、わが国の北方領土返還要求が不当だというジャーナリストは、少なくともこの日本にはいないであろう。そうであれば、日本が『無条件降伏』したなどという謬説をただちに去って、敗戦の原点を今一度虚心に見詰めなおしてもらいたいと思う
 戦争の敗け方にも、いろいろな負け方がある。敗けたからと言って事実を曲げ、必要以上に自らを卑しめるのは、気概ある人間のすることとは思われないのである。」(同上書P.218-219)

わが国のリーダーたるべき政治家や官僚や言論人が、右も左も、戦後の長きにわたり大国の圧力に屈して、「事実を曲げ、必要以上に自らを卑しめ」てきたために、わが国は、どれだけ多くの国富を奪われてきたことか.。
対外交渉においては、いずれの国においても同じことだと思うのだが、その国のリーダーたる者に「国を護る」という気概が不可欠である。その気概がなければ、国際社会の中でいいように富を毟り取られ、国民は自国に対する誇りを失って、最後は衰退していくしかないのだと思う。
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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。


『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2

前回の記事で、『ポツダム宣言』がわが国に対し戦争を終結させるための条件を提示した文書である事を書いた。 実はこの『ポツダム宣言』が公表される前に、連合国側がわが国に提示しようとしていた天皇制維持に関する重要な部分が削除されたことを最近知った。
しばらく鳥居民氏の解説を引用する。

鳥居民

ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた。つぎのくだりである。
ソノ政府が侵略ノ野心ヲ二度ト抱カナイコトヲ世界ニ完全ニ納得サセルニイタッタ場合ニハ、現在ノ天皇家ノモトデ立憲君主制ヲ維持スルコトガデキルモノトスル
 これをつくったのは国務長官代行のジョゼフ・グルーと言われているが、ヘンリー・スティムソン陸軍長官の部下が作成したのであり、スティムソンの案だった。グルーの考えそのものだったから、グルーは『われわれの案』だと言い、ジェームズ・フォレスタル海軍長官もその第12節後半の文章に賛成した。
 陸軍省がつくり、国務省と海軍省の首脳が支持した対日宣言案がそのまま公表となれば、鈴木貫太郎首相から阿南惟幾陸相まで、だれひとり反対せず、その宣言を受け入れ、原爆投下前に日本は降伏することになる
ところでハリー・トルーマン大統領の唯一の相談相手になっていたジェームズ・バーンズは、ソ連を脅かそうとして、どうあっても日本の都市に原爆を落とすつもりでいた。自分に代わって、第12節の後半を削ってくれる人物を探した。ポツダムへ向う前日、かれは元国務長官のコーデル・ハルにその宣言案を送り、第12節の是非を問うた。…ルーズベルトに疎んじられていたハルは、原爆の製造を知らなかった。もちろん、投下の計画を知るはずはなく、アメリカが直面する国際情勢にも無知だった。第12節後半を削除し、ソ連の対日参戦を待つべきだと元国務長官は新国務長官バーンズに打電した
バーンズは自分の手を汚すことなく、原爆投下のお膳立てをつくったのである。」(文春文庫『日本よ、「歴史力」を磨け』p.232-233)

200px-James_Francis_Byrnes,_at_his_desk,_1943

少し補足すると、ジェームズ・バーンズは1945年7月3日に米国国務長官に就任した人物で対日強硬派であった。そして着任早々の7月6日に国務省はスティムソン案のさらなる改定を要求し、7月7日の幹部会で紛糾したのちに、バーンズが元国務長官のコーデル・ハルに相談したようである。
では、元国務長官のハルがバーンズに対し、第12節後半を削除しソ連の対日参戦を待つべきだと打電した意図は何だったのか。
もし日本に立憲君主制の継続を容認するような和平勧告を出せば日本は受諾して戦争が終わってしまう可能性が高かった。それでは都合が悪いとバーンズが考えたのでハルに相談したのだろうが、ハルの回答に少なからず違和感を覚えるのは私だけだろうか。なぜハルは、原爆開発の情報を入手したにもかかわらず「ソ連の対日参戦を待つべきだ」と答えたのか

1945年2月のヤルタ会談で、ソ連はドイツ降伏後3ヶ月での対日参戦を約束していた。そしてドイツは5月8日に降伏した。したがって、ソ連は8月上旬には参戦するものと考えられていたが、その具体的日程についてはソ連からはまだ回答がなかった
一方アメリカは、7月上旬には原子爆弾をほぼ完成させており、実験に成功すれば太平洋戦争にアメリカが単独で勝利できる可能性が一気に高まることは言うまでもない。もし原爆実験が成功した後にソ連を参戦させてしまうと、ソ連を戦勝国の仲間に入れるということであり、アメリカはほとんど血を流さなかったソ連にも勝利の配当を分け与えなければならないことになってしまう。
アメリカが原爆開発を急いだ理由や、広島・長崎に相次いで原爆を落とした理由は、ソ連に漁夫の利を得させないという米国の強い意志の表れではないのか


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ところでコーデル・ハルといえば、彼が国務長官であった1941年11月に日米交渉において「ハル・ノート」を提示し、それが日本側の外交交渉断念を招いて開戦のきっかけを作ったことで知られている人物だ。そして、「ハル・ノート」を起草したのは、財務次官であったハリー・ホワイトで、この人物がコミンテルンのスパイであったことが、戦後に解読されたソ連の暗号文書(「ヴェノナ文書」)で判明している
ルーズベルト、トルーマン政権下のアメリカの国務省には多数の共産主義者が勤務していたことも「ヴェノナ文書」で明らかになっているが、バーンズ国務長官がハルに相談した内容の多くはソ連に筒抜けだったのではないか。当時、原爆がほとんど完成していたという情報はアメリカにとっては重要機密であったはずなのだが、このような情報がポツダム会談の直前に、ハルに近い人物を通じてソ連に流れた可能性を感じている。

ポツダム会談

というのは、7月17日からドイツベルリン郊外のポツダムで米英ソ3か国の首脳が集まってポツダム会談の、会議の始まる直前にスターリントルーマンに8月15日頃の対日参戦の意を伝えているからだ
トルーマンはこれで日本に勝利できると喜んだそうが、その翌日に原爆実験 (トリニティ実験) 成功の知らせを受け、それ以降のトルーマンは会議で豹変したという

ポツダム会談について詳述されている山下祐志氏の論文の一部を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1386988410&cp=

トルーマン,_1945

「…『原爆実験成功』の報告を受けたトルーマン大統領は、瞬時にして完全に連合国の支配者になったチャーチル首相の見たトルーマン大統領は『別人のようになり』、『ロシア人に対し、かれらが、どこで乗り、どこで降りるかを指示するように話だしたし、全体として会議そのものを支配した』という。なぜならば、ポツダムにおいて、『つねに自己の利益ばかりを強引に計る冷酷な駆け引き人』という印象をスターリン首相に対して抱いた大統領は、『ロシアを日本管理にいささかも加わらせまいと決意した』からである。さて、かかる決意を固めた米首脳部にとって、残された課題は、日本の早期降伏(できればソ連参戦以前に)を誘導することであり、手段として原爆使用と対日声明発出のタイミングが論議の対象となった。
 スティムソン陸軍長官は、日本の和平の動き(対ソ工作)を見て、先ずこの会談で直に対日声明を発することを決意した。日本がソ連の懐に飛び込むことを嫌ったからである
。そして、それでも日本が受諾しない場合には、『新兵器』の行使と『ロシア実際の参戦』を背景に、いっそう強力な警告を再度発することを提言した。一方、バーンズ国務長官は、原爆の威力を誇示した上で対ソ外交を展開しようと考えており、声明の発出を時期尚早としてこれに反対した。そこでトルーマン大統領は、JCS(統合参謀本部)の意見を求めた。リーヒJCS議長は18日、対日声明の即時発出に賛意を表しつつ、ただ『立憲君主制』のくだりは、抽象的に『日本国民は自らの政治形態を選択する自由をあたえられる』と改めることをもとめ、この点で先の国務長官の見解を支持した。陸軍長官は20日、この修正に同意するとのメモを大統領に送るが、同時に、7月2日付草案第2項の『日本の無条件降伏まで』を、『日本が抵抗をやめるまで』と改めることを申し出た。これにより、国家の無条件降伏を示す箇所は消え、13項の「全軍隊」のそれのみが文面にのこることになった。」(『アジア太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』p.16)

それから7月24日にイギリスに声明案が提示され、翌7月25日にチャーチルが修正案を回答した。その内容は声明が呼びかける対象を「日本国民」から「日本」「日本政府」に再度変更すること、民主化の主体を「日本政府」と明記すること、占領の対象を「日本領土」から「日本領土の諸地点」に変更すること、の三点であった。トルーマンはイギリスの修正を全面的に受け入れ、声明発出の準備を行うとともに原爆投下命令を承認した。
かくしてポツダム宣言』は、ソ連側に何の口を差し挟むことが出来ないうちに、7月26日、突如として全世界に向けて発信されたのである。

ところでトルーマンの7月25日付の日記には「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と書かれているそうだ。トルーマンの頭の中では、天皇制に関する条項を削除したことにより、日本はこの『ポツダム宣言』に反応せず、それによって原爆を落とすことが出来ると考えていたことになる

次に『ポツダム宣言』に対するわが国の反応を見てみよう。

ポツダム宣言記事

これについてはWikipediaに詳細に書かれているが、この宣言の発表を受けてわが国政府は、その内容について公式報道はしても内容についての公式な言及をしないということが閣議決定され、7月27日に宣言の存在を公表した。翌日の新聞報道では読売新聞では「笑止、対日降伏条件」という見出しだが、このように主要各紙はこの宣言を黙殺して断固戦争完遂に邁進するのみといった論調だったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80

しかしながら政府がこの宣言に対し何も言及しないのでは兵士の士気にかかわるとの軍部の圧力に押され、7月28日に鈴木首相は新聞記者団との会見において、閣議決定を無視して「政府としては何ら重大な価値あるとは考えない、ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂にあくまでも邁進するのみである」と答えてしまう。この発言が連合国においては日本側の拒絶回答と解釈されて、原爆投下やソ連参戦の口実を与えてしまうことになるのだ

ではなぜわが国は、『ポツダム宣言』に対して公式な言及をしないことを閣議決定したのだろうか。
この理由は、この期に及んでもわが国政府は、ソ連に和平の仲介を期待しその回答を待っていたからだというのだ。

ポツダム会談が開かれる少し前の6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を行うよう政府首脳に要請し、7月12日に近衛文麿が正式に特使に任命され、外務省から特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連に申し入れていたのだが、ソ連はヤルタ会談でドイツ降伏後3か月以内の対日参戦で合意しており、日本政府の依頼を受ける気はなかったようだ。
そもそも、米英ソ3国の首脳が集まって、ポツダム会談であのような宣言が出た段階でもソ連の回答に期待するというのは信じがたい話で、わが国の外交センスのなさと情報収集力の弱さは昔も今も変わらない。

もしわが国が早期に『ポツダム宣言』受諾を決意していれば、戦後の歴史は相当違ったものになっていたはずなのだが、原爆が投下されてからも、マスコミの動きも軍部の動きもどこかおかしいのだ。
山下祐志氏の別の論文で、『ポツダム宣言』を受諾するまでのわが国の動きが詳述されている。しばらく引用させていただく。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387097098&cp=

「ポツダム宣言発表以来、これといった策を打ち出せないまま、一途にソ連の回答を鶴首していたところ、8月6日午前8時過ぎ広島に原子爆弾が投下された。7日朝、米側ラジオはトルーマン大統領の声明として、『6日広島に投下した原子爆弾は戦争に革命的な変化を与えるものだ。日本が降伏しない限り、さらに他の場所にも投下する』と伝えてきた。しかし、わが国軍部は原爆の開発は技術的にまだ不可能と信じていたこともあり、敵の謀略宣伝かも知れぬと主張して発表を禁じた。原爆であることが確認された(8日夕刻)後にも、軍部は国民の反応を恐れ、事実を覆い隠そうと画策した。すなわち、公的に『原子爆弾』との発表は終戦までなく『新型の特殊爆弾』と銘打ったまま、トルーマン声明に『迷ふことなく各自はそれぞれの強い敵気心をもつて防空対策を強化せねばならぬ』とか『新型爆弾決して怖るに足らず』と逆宣伝に躍起となった

昭和天皇

 国民に事実を隠蔽したまま、いち早く8日午前、東郷外相は宮中地下室で天皇に原爆についての外国報道の詳細と『ポツダム宣言』を受諾するほかないとの判断を上奏した。天皇は『この種武器が使用せらるる以上戦争継続は愈々不可能となれるにより、有利なる条件を得んがために、戦争終結の時期を逸するは不可なり』、『成るべく速かに戦争の終末を見るよう努力せよ』と沙汰を下した。…
 同日午後5時、モスクワの佐藤大使は、ポツダムから帰ったモロトフ外相とようやく会見を許された。モロトフ外相は、和平依頼の返答を求めに赴いた佐藤大使の発言を制して、わが国がポツダム宣言を拒否したために、ソ連政府は連合国の要請を受けて『明日即ち8月9日よりソヴエート連邦が日本と戦争状態に入る旨宣言する』と対日宣戦の布告文を読み上げた。原爆投下に対して、ソ連政府はわが国よりも機敏に対応し、予定よりも6日早い参戦であった。佐藤大使はただちに本省宛至急電を打ったが、それはソ連政府に妨害されて届かなかった。数時間後、ソ連極東軍は国境を越えて満州に侵入し、関東軍に襲い掛かった。ここに、ソ連に託した和平工作の一縷の希望は、ものの見事に吹き飛んだ。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

では、ソ連が参戦してわが国は『ポツダム宣言』の受諾の意思をすぐに固めたかというと、そうでもなかったのである。アメリカと同様にわが国の中枢にも、ソ連に対日参戦させて日本の領土を奪わせようとした人物が少なからずいたと思われるのだ。

受諾に至るまでの経緯は、次回に記すことにする。

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原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か~~ポツダム宣言3

前回の記事で、『ポツダム宣言』が出た直後のわが国の反応について書いた。
この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。

長崎原爆

もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかないという考え方はあり得ると考えるが、前々回の記事で記したとおり『ポツダム宣言』は戦争を終結させるための連合国側の条件を提示したものであり、その条件には曖昧な部分があるにせよわが国の立場を配慮した部分が少なからずあったのだ。
国民の生命と財産を守るべきわが国の指導者からすれば、これから先勝ち目のない戦争を継続して多くの国民に犠牲を強いるよりも、速やかに『ポツダム宣言』を受諾してその後の外交交渉に委ねる方がましだという結論に落ち着くのが自然だと思うのだ。
ところが、わが国中枢には徹底抗戦を唱える者がいて、簡単に議論がまとまらなかったのである。徹底抗戦を選択した場合は、『ポツダム宣言』を受諾するよりももっと悲惨な結果になったはずなのだが、いったいどのような議論があったのか気になるところである。

前回の記事に引き続き、山下祐二氏の論文を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387290927&cp=

「(8月)9日午前4時ごろ、モスクワ放送は突如対日宣戦布告を報じ、外務省ラジオと同盟通信がこれをキャッチした。午前5時、迫水書記官長がこの報をもって鈴木首相のもとに駆けつけた。和平のタイミングを待ち受けていた首相は、『いよいよ来るものが来た』と静かにつぶやいた。同じく近衛公は、ソ連の参戦を『まさに天佑であるかも知れん』と語っている。…
 構成員のみによる最高戦争指導会議が9日午前11時近くに始まった。鈴木首相は、原爆投下とソ連の参戦によって『ポツダム宣言』を受諾するほかなくなったと思われるが、意見を聞きたい、と切り出した。重苦しい空気の中で、さすがに誰一人『ポツダム宣言』受諾に対し、全面的に反対する者はいなかった。東郷外相は国体護持のみを条件として受諾することを説き、米内海相がこれに賛同した。阿南陸相と梅津参謀総長は国体護持の他に、①戦争犯罪人の処罰に関しては日本側代表をも裁判に加えること、②武装解除は日本側で自発的に行うこと、③占領軍の進駐は、出来るだけ小範囲で小兵力で短時日に制限すること、の三条件を加えるように主張し、豊田軍令部総長がそれに賛同した。その直後に、今度は長崎に原爆が投下されたとの知らせが入った。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

最高戦争指導会議

少し補足すると、最高戦争指導会議のメンバーは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長の6人である。
長崎に原爆が投下された情報があった後、午後から臨時閣議が深夜まで行なわれ、席上で阿南陸相は原爆にひるむことなく、『死中活を求むる戦法』を主張し、米内海相が「一か八かとにかく戦ひつづけるのがよいか、極めて冷静に合理的に判断すべきである」と述べたという。
明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としていたので話は平行線のままで進まず、鈴木首相は決定の遅延と内閣総辞職の双方を回避するため、御前会議を開催して天皇の聖断を仰ぐことを決意した
この日の午後11時50分、宮中の防空壕内の一室で、天皇陛下御臨席のもとで最高戦争指導会議が開催され、この会議で天皇陛下は「外務大臣の意見に賛成である」と裁断を下され、その理由をこう述べられた

最高戦争指導会議天皇ご臨席_0007

「従来勝利獲得の自信ありと聞いて居るが、今迄計画と実行が一致しない、又陸軍大臣の言ふ所に依れば九十九里浜の築城が8月中旬に出来上るとのことであったが、未だ出来上がって居ない。又新設師団が出来ても之に渡すべき兵器は整っていないとのことだ。之ではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込みなし
 朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉の御決断の例に做ひ、忍び難きを忍び、人民を破局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである。」(同上論文 p.5)

この御前会議のあと、翌8月10日午前3時からの首相官邸における閣議決定により、「御聖断」を正式の政府決定にする手続きがなされ、外務省から「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答が海外に発信されている

そして、この日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民に対しどう公表すべきかが議論され、ポツダム宣言の受諾については天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしい。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている
。この全文は次のURLに出ている。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/ussr.html

全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。
 假令、草を喰み土を噛り野に伏すとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず
、是即ち七生報国「我一人生きてありせば」という楠公救国の精神なると共に、 時宗の『莫煩悩』、『驀進進前』以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、 全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀進進前すべし。
 昭和20年8月10日             陸軍大臣」

なぜ天皇陛下の御聖断が出て『ポツダム宣言』受諾が決まったことをすぐに公表させず、陛下の詔勅が出るまで公表を先延ばしにすることにしたのだろうか。
軍隊を指揮監督する最高の権限をもつ天皇陛下の御聖断が出たというのに、なぜ軍の幹部はそれに従おうとしなかったのだろうか。
戦争を継続すれば更なる原爆投下が予想され、ソ連の侵攻が始まったというのに充分な武器・弾薬があるわけではなかった。戦争を継続してどうやって国民を護り、国土を防衛することが出来るのか。いくつも疑問点が湧いてくる。

米内海相の言う通り「冷静に合理的に判断」すれば、すぐにでも『ポツダム宣言』を受諾すべきなのだが、阿南陸相らが徹底抗戦を主張したその裏には、軍の上層部にソ連の力を借りてわが国の共産主義化を成し遂げようとした人物が少なからずいた可能性を感じるのは私だけではないだろう


阿南陸相

阿南陸相の本心は終戦にあったのだが、陸相としては立場上徹底抗戦を主張せざるを得なかったとも言われている。また阿南自身が終戦を唱えれば暗殺されて後任の大臣が出ず内閣が総辞職し終戦が実現しない可能性があったという説もあるようだが、詳しいことはわからない。
http://ufononatu.blog10.fc2.com/?m&no=139

ところで、今年8月11日付の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出たことをこのブログで紹介したことがあった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、当時わが国の中枢部分(軍の上層部を含む)に共産主義者が多くいて、彼らがこの時期のわが国の主導権を握っていたことを窺わせるものである。なぜ軍部に共産主義者が多かったのかについては、次回に詳しく記したいと思う。

話を『ポツダム宣言』の話に戻そう。
国体護持を前提として『ポツダム宣言』を受諾するというわが国の回答に対して、連合国側はどう反応したのだろうか。

アメリカはわが国の回答を不満とする意見もあり、バーンズ国務長官が起草したとされる正式回答書(「バーンズ回答文」)には、
「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」
「最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
とあり、真正面からの回答を避けたものであった。
(「バーンズ回答文」の外務省訳文の全文は先ほど紹介した山下祐二氏論文のp.6に出ているので興味のある方は参照願いたい。)

この連合国側の回答文で納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張したが、8月13日午後4時のから始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となる。
鈴木首相がこの閣議で最後に述べた言葉は、誰が読んでも正論だろうと思う。

鈴木貫太郎

「…最後に問題は国体護持の上より危険を感じているが、さればとて今どこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが大御心はこの際和平停戦せよとの事である。もしこのまま戦えば背水の陣を張っても原子爆弾のできた今日、あまりにも手おくれである。それでは国体護持は絶対にできませぬ。いかにも一縷の望はあるかも知れませぬ。死中に活もあろう。全く絶望ではなかろうが、国体護持の上から見てそれはあまりに危険なりといわねばならぬ。万民のために赤子をいたわる広大なる思召を拝察しなければならぬ
 臣下の忠誠を致す側より見れば、戦抜くという事も考えられるが、自分達の心持だけで満足できても日本の国はどうなるか誠に危険千万である。かかる危険をも御承知にて聖断を下されたからは、我等はその下に御奉公する外に道なしと信ずる。従って私はこの意味に於て本字の閣議の有りのままを申し上げ重ねてご聖断を仰ぎ奉る所存であります。」(同論文 p.7)

事態は切迫していた。アメリカのマスコミはわが国の回答遅延を責め、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布したという。先に述べたとおり、この段階においてはわが国が連合国と『ポツダム宣言』受諾に関する交渉をしている事実は一般国民には知らされておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。

8月14日午前10時50分ごろ、急遽御前会議が開かれ、ここで述べられた天皇陛下のお言葉が素晴らしいのだ。

御前会議

「…私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える
 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れ受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
…今日まで戦争に在って陣没し、或いは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。…どうか私の心持を良く理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない
。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。」(同論文 p.8)

HIROHITO.jpg

このお言葉のあと、参加者全員がすすり泣いたと伝えられているが、昭和天皇がこの時に、会議の列席者それぞれの心にしみるようなわかりやすいお言葉でわが国の将来のために適切な判断を下されたことが、8月15日の終戦につながったことは言うまでもない。

侍従長であった藤田尚徳の回想記(『侍従長の回想』)にはこの御聖断が下ったあと、阿南陸相はお立ちになる陛下に、とりすがるように慟哭したと書かれているそうだ。そこで陛下は、このように陸相になぐさめの言葉をかけられたという。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる自信がある。」
(つづく)
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学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4

以前このブログで、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を紹介した。

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない
。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

この考え方はレーニンが最初に考えた『敗戦革命論』と呼ばれるものだが、共産主義者に対して、「軍隊を内部から崩壊させ」「自国政府の敗北を助成」し、「戦争を通じて共産主義革命」を起こせ。そのために「進んで軍隊に入隊」せよと言っている。これだけでも恐ろしいことなのだが、さらにレーニンはこうも述べている。

『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない』
共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない
。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」(同上書 p.41-42)

要するに、国家を内部崩壊させて革命を成功させるためにはその手段は問わないと言っているのだが、もしこのような考え方の者がわが国の軍隊に多数入隊して主導権を握っていたとしたら、どういうことが起こり得るであろうか。

なぜ昭和の初期にテロ事件が多かったのか、なぜ宣戦布告がないままに日中戦争が全面戦争に発展したか、なぜ昭和天皇の『ポツダム宣言』受諾の御聖断に対して軍部の一部が強く抵抗したのか。それらの謎を解く鍵のひとつは先程紹介したレーニンの『敗戦革命論』にあるのではないだろうか。

昭和40年代前半も学生の多くが共産主義思想に染まった時代だったのだが、火炎瓶や鉄パイプでは国家権力に勝てるわけがなく、簡単に鎮圧された。しかし、昭和初期の若い共産主義者は、軍隊に入れば本物の大量の武器・弾薬が目の前にあった。
もし昭和43年頃全共闘時代の学生たちが大量の爆弾や拳銃を手にしていたとしたら、大規模なテロ事件やクーデター事件が日本各地で起こっていてもおかしくはなかったと、この時代を知る人は思うに違いない。では、昭和7年(1932)の五・一五事件や昭和11年(1936)の二・二六事件は軍部の中の共産主義者が絡んだテロ事件という理解は出来ないのだろうか。

このブログで、昭和初期にマルクス・レーニンの著作がバカ売れして、共産主義思想に共鳴した青年が多数いたことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

例えば、マルクスの『資本論』だけでも大正8年(1919)から昭和3年(1928)にかけて6社(緑葉社、経済社出版部、大鐙閣、新潮社、岩波書店、改造社)が出版している。また昭和3年(1928)から昭和10年(1935)にかけて改造社から全27巻の『マルクス・エンゲルス全集』が出版され、昭和2年(1927)から翌年にかけて白揚社から24篇の『レーニン叢書』が出版されている。

こんなに多くの左翼思想の本が売れたという昭和初期はどんな時代だったのだろうか。 このブログで何度か紹介した『神戸大学デジタルアーカイブ』で、当時の経済記事や解説記事の検索を試みた。

新聞の過去記事については戦後のGHQの検閲や焚書の対象にはならなかったので、当時の論調がそのまま残されていて、その貴重な史料が次のURLで誰でもネットでアクセスすることができるのはありがたい。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

この「新聞記事文庫 簡易検索」を使ってたとえば「左傾」というキーワードで検索すると528件もの解説や記事にヒットする。

左傾学生の続出に文部省全く弱る

発行日順に並び替えて表題を読むだけでも、結構な情報を得ることが出来るが、この当時は学生や教員の左傾化が社会問題になっていて、政府や文部省がその対策に苦慮していたという記事がいくつもあるのに誰もが驚いてしまうだろう。
たとえば昭和7年(1932)1月15日の東京日日新聞の『学生の思想は何故左傾する』という記事がある。次のURLで記事の全文を読むことが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070705&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

学生の思想は何故左傾する

この記事では左傾化の原因について当時の社会情勢として
① 資本家と労働者との生活の甚しき懸隔及び農村の著しき疲弊
② 労働問題及び小作問題の激化
③ 中産階級の経済的顛落
④ 卒業後における就職の不安
⑤ 政界の腐敗
⑥ 政治並に政党に対する不満
…などがあり、
このような現状を根本的に変革しようとしてマルクス・レーニンの著作に飛び付き、思想界、学会、教育界もその流れにあったことが記されている。

血盟団事件

そして、この記事が掲載された翌月である昭和7年(1932)の2月から3月にかけて、前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨が相次いで暗殺される血盟団事件が起こった。この血盟団のメンバーは大半が20代の学生だ。

May_15_Incident.jpg

ついで5月には海軍の青年将校を中心とする一団が首相官邸に向かい犬養首相を暗殺する五・一五事件が起きている。この五・一五事件の檄文を読めば、共産主義的考え方の影響をかなり受けていることがわかる。一部を引用すると、こんな具合だ。

「 … 国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ! 
 祖国日本を守れ

  而して
  陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ
  民衆よ!
 此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す…」

竹山道雄

『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄は昭和初期の状況をこう記している。
インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』というふうだった。指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。しかしインテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されてしまった。
あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映し、その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した
。すでに北一輝などの経典があって、国体に関する特別な観念を作り上げていて、国体と社会改造とは背馳するものではなかった。しかし、北一輝だけでは、うたがいもなく純真で忠誠な軍人をして、上官を批判し軍律を紊(みだ)り世論に迷い政治に関与させることは、できなかったに違いない。…いかに背後に陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が『青年将校』となることはありえなかった。これを激発させたのは社会の機運だった。このことは、前の檄文*の内容が雄弁に語っている

青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、自分は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリの動機とほぼ同じだった。ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし、彼らが肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』のそれではなかった。」(講談社学術文庫『昭和の精神史』p45-47)
*五・一五事件の檄文

では、「彼らが肯定した天皇と国体」とはどのようなものであったのか。
竹山氏は一人の青年将校を知っていた。その青年将校は職業軍人ではなく教師であったと書いているが、つねにブルジョアを激しく攻撃していたという。そしてその人物が思い描いていた『天皇制』とは、「国民の総意に上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた」(同上書p.48)と竹山氏は記している

竹山氏の表現を借りると、青年将校たちは「天皇によって『天皇制』を仆(たお)そうとした」、「革新派の軍人が考えていた『国体』は、『天皇制』とはあべこべのものだった」ということだが、別の言い方をすると、その青年将校は、『天皇制』は認めても「天皇」というポストに就くべき人物は昭和天皇ではなく、スターリンのような人物を考えていたということなのだ
そのように考える青年将校がどの程度いたかについては、今となってはわからないが、先ほどの『神戸大学デジタルアーカイブ』で検索していくと、軍隊の中に共産主義が相当浸透していたことがわかる記事をいくつか見つけることが出来る。

共産党の一味が重要なる某連隊に

たとえば、昭和3年(1928)4月14日の神戸又新日報の記事だが「重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽」したと書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070587&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

海軍方面へも魔手

また、昭和3年9月24日から6回に分けて中外商業新報に連載された、「赤化運動の経緯」という記事では、
今後も共産主義に感染した学生及び労農党に属する有識壮年等が赤化運動の首謀者となっている。…
ここに最も注意すべきは兵営の内外から連絡を保って陰謀を企てた兵卒が、第四師団の軍法会議に廻された事実である。大阪におけるある秘密結社の如きは、軍隊の赤化に最も力を尽し、その手段すこぶる巧妙、運動者の一人久木某の如きは、軍事教官という綽名さえ持っていたということだ。
これ等赤化運動者が、個人として若しくは団体とし、ソウェート・ロシアと密接な関係を持っていたことは、これまで発表された宣伝の様式や運動の方法などを見た丈けでも、明々白々であるがなおロシア側の情報に照らし合せこると、洵に思い半ばに過ぐるものがある
。」 などと書かれている。

赤化運動の経緯

さらにこの記事を読み続けていくと、ソビエトの赤化工作は西欧では失敗したが、東洋の日本では急激に浸透していることを書いている。そして、ソ連共産党年鑑に載っている第三インターナショナル(コミンテルン)規約第三条が引用されている。
「欧米諸国における階級闘争は今や殆ど内乱の状態となり、ブルジョア国の法律は、共産党員に対し、厳刑を科するに至りたるを以て、本党員たる者は、今後各地一斉に秘密結社を組織し決定的時機の到来に際し、革命運動の成功を期する為め、普段の努力を怠るべからず」。
またその第四条には
 「共産主義の宣伝は、極力軍隊に向って行うべし。特別の法律を以て宣伝を拘束する国においては、秘密手段に訴うべし。」
とあり、また5月24日付のソ連のプラウダ紙には、日本の共産主義者および陸海軍人に対し、「世界のブルジョア諸国は、支那に対する内政干渉より一転して領土侵略に移った。日本はその機先を制せんとして、早くも要害の地歩を占め、山東を満洲と同じくその植民地とする野心を暴露した。」
 「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」
 「日本の反革命的強盗に打撃を加うべき共産党機関現在なれ」などと煽動していることが書かれている
。一部の軍人はソ連に繋がっていて、この規約の通りに動いていたのではなかったか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070971&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

このような記事は時間をかければ『神戸大学デジタルアーカイブ』でまだまだ見つかると思うのだが、いくら共産主義に共鳴する軍人が多くいたとしても、軍隊の幹部クラスが共産主義に毒されていなければ、クーデターのようなことは不可能だ。
しかし、いろいろ調べていくと軍のエリートにもソ連に繋がる者がいたようである。
その点については、次回に記すこととしたい。

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政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5

前々回の記事で、昭和3年(1928)5月24日付のプラウダ (ソ連共産党機関紙)に、日本の陸海軍の軍人に対し「諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と書いていることを紹介した。このような記事がプラウダに掲載されていたということは、昭和初期には日本軍人の中に、ソ連の共産主義に共鳴するメンバーが少なからずいたと考えるべきである。

さすがに昭和初期には軍の幹部にそのような人物は少なかったかもしれないが、終戦の頃には共産主義者が日本軍の枢要な地位を獲得していたようなのだ。

日本が共産主義に降伏

以前このブログで紹介したが、昨年8月11日の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出た。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、産経新聞はこの記事の中で、こう解説している。
松谷大佐

「(鈴木貫太郎の)首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では「『戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる』として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。」
という話や、
「同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれている
。」

記事に出てくる松谷誠・陸軍大佐は、解説記事を読むだけで共産主義者であることが分かる。種村佐孝・陸軍大佐については後述するので、ここではこの人物は戦後に日本共産党に入党した人物であることだけを補足しておこう。

この記事に出てくる最高機密の電報がベルンから重慶に打たれた日付は1945年6月22日なのだが、この日にわが国でどのような出来事があったのか気になるところである。
この点についてはこの記事を書いた産経新聞編集委員の岡部伸氏が、『正論』平成25年10月号の「日本を赤化寸前まで追い込んだ『敗戦革命』工作」という論文に詳しく書かれている。次のURLに全文がある。
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/NihonWoSekikaSunzenmadeOikondaHaisenKakumei.html

正論2013年10月

「この電報がベルンから重慶に打たれた日付に注目していただきたい。1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。奇妙にもソ連仲介案が正式決定したその日に、ベルンから『共産主義者たちに降伏した日本がソ連に助けを求めている』と報告しているのである。スイス・ベルンは日本から夏時間で7時間遅れの時差があることを差し引いても、国策が決まった直後に打電されていることには、アメリカの素早い情報のキャッチとともに驚くしかない。しかも中国は以前から『迷走』する日本の動きを正確に捉えていたのである。」

このように、わが国の最高戦争指導者会議における重要決定事項がその直後に中国に把握され、そのことを伝えた機密電文がアメリカに傍受され、英国にも伝えられているのである。わが国の機密が奪われていたのはゾルゲグループばかりではなかったのだ。当時のわが国は主要国に対してほとんど丸裸の状態になっていたと言って良い。

しかし、なぜソ連仲介和平案を国策として正式に決定したその日に、わが国の政権中枢が「共産主義に降伏している」と中国陸軍の武官が重慶に打電したのだろうか。そもそも、この機密電文の内容は信頼に値するものなのかとまず疑問に思うところだ。

大戦時に政府中枢の主導権を握っていたのは陸軍の統制派だと言われているが、岡部論文を読み進むとそのことを匂わせる文書が、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAの中にあり、その内容の紹介とともに解説がなされている。しばらく岡部論文を引用する。

「…ヤルタ会談が終わった直後の45年2月14日にベルリン駐在ポーランド外交官が、ベルンの日本外交官談話として、ロンドンの亡命ポーランド政府に送った電報である。
『日本はドイツ敗戦後中立国との外交が一層重要になる。ソ連との関係がカードとして身を護る保険として重要になる。日本とソ連は結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに、東京-ベルリン-モスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府のことである
 軍部が、なお日独ソの連携に幻想を抱き、共産主義に共感を抱いているというのだ。アングロサクソンに対抗するためソ連と結合してアジアの利権を分け合うというのは実現性に乏しい白日夢だろう。ソ連はヤルタで対日参戦の密約を交わしている。ポーランド外交官が日本公使館員から聞いた情報として伝えているので、日本の外務当局が『軍部は共産主義に共感を抱き、ソ連に幻想を抱いている』と理解していたとも考えられる。中国の電報が指摘した日本政府の指導層とは、軍部とりわけ陸軍統制派であったに違いない。
 ここまで来れば合点が行くことだろう。日本は早くからソ連が中立条約を破って参戦してくることを察知していた。1945年2月、クリミア半島ヤルタでソ連が対日参戦を正式に決めた密約を会談直後にストックホルムから陸軍武官、小野寺信少将が参謀本部に打電していた。さらに同3月に大島浩駐ドイツ大使が『ロシアが適当な時期に参戦する』と外務省に打電。5月以降は、ベルン海軍武官やリスボン陸軍武官らもソ連参戦を機密電報で報告している。6月22日の最高戦争指導会議でソ連仲介和平を決定する時点で、陸軍、海軍、外務省ともソ連参戦情報は掴んでいたのだ。にもかかわらずソ連が『最後は助けてくれる』『交渉で参戦阻止できる』と希望的観測を抱き、ソ連に擦り寄り、和平交渉を委ねたのである。この様な非論理的行動も、政府中枢にコミンテルンが浸透し、水面下でソ連と気脈を通じる人物がいたのなら理解出来よう。愚策ではなく、共産主義国家建設に向けた『敗戦革命』工作だったと解釈すれば筋が通るのだ。」

東郷茂徳

上記岡部論文のなかで、この年の4月に鈴木貫太郎内閣が成立しソ連に和平仲介を依頼するために、参謀本部が東郷外相を訪ねたことが記されている。その後に参謀本部が提出した、ソ連に仲介を依頼するに際して提出された意見書は、冒頭に紹介した産経新聞の記事に出てきた種村佐孝大佐が作成したものであったが、その内容は『ソ連の言いなりに従え』という、とんでもないものであった。再び岡野論文を引用する。

「陸軍は本土決戦準備と沖縄戦で奔走する中、22日午後、参謀本部の新任次長、河辺虎四郎中将は、有末精三第二部長を伴って外相官邸に新任の東郷外相を訪問、対ソ仲介による和平工作を持ちかけ、渋る東郷を河辺は説得した
『特使は大物中の大物・・・出来れば外相ご自身か近衛公・・・。大物が直接スターリンに会って、欲するものを欲するままに与えるという条件ならば動きます。一世一代の大工作に賛成して頂けませんか。ソ連への引き出物は書類にしてお目にかけます
しばらくして参謀本部から、東郷外相に4月29日作成の『今後の対『ソ』施策に対する意見』と『対ソ外交交渉要綱』がもたらされた。作成したのは参謀本部第二十班(戦争指導班)班長、種村佐孝大佐だった。対ソ和平の意見書は、『ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ』という主張に貫かれていた。全面的に対ソ依存して、日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよというのである
対米戦争継続には『日ソ戦争を絶対に回避すべき』で、そのために、『ソ連側に確約せしむ条件は日「ソ」同盟なり』と主張、日本の対ソ交渉は『ソ連側の言い分を持ってこれに応ずるという態度』(ソ連の言いなりに従え)、ソ連が寝返ってソ連の干渉(仲介もしくは恫喝)で戦争終結が余儀なくされる場合には、『否応なしに仲介もしくは恫喝に従わざるをえない』と唱えた。ソ連に与える条件は、『ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる』前提で、『満州や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ』としている
ソ連と日本列島との間にある北側の領土と日本の南側の台湾、沖縄までソ連に差し出せば、日本はソ連に包囲され、東欧が辿ったように共産政権によるソ連の衛星国になっただろう。沖縄まで献上するというのは、ヤルタ密約にさえない。
さらに『対ソ外交交渉要綱』は、『対米英戦争を完遂のため、ソ連と中国共産党に、すべてを引き渡せ』と述べている。米英の『世界侵略』の野望に対して、日・ソ・支三国が『善隣友好相互提携不侵略の原則の下に結合し、以て相互の繁栄を図る』ため、ソ連との交渉役として外相あるいは特使を派遣し、『乾坤一擲』を下せと進言している。支那との交渉相手は延安(共産党)政権として、同政権の拡大強化を計り、希望する地域から日本軍を撤退させ、必要ならば国民政府を解消せよとも主張。ソ連には、北支鉄道も満鉄も漁業条約も捨て、満州国も遼東半島も南樺太も割譲し南方占領地域の権益を譲渡せよと訴えていた。」

このような史料が教科書などに引用されていたら、終戦の少し前には参謀本部が共産主義者に主導権を握られていたことが誰でもわかる。
しかし、このような史実がもし国民に広く知られていてら、「日本だけが悪かった」という偏頗な歴史観が通用しなくなってしまうに決まっている。そうなっては困る勢力が国内外にいるからこそ、公教育やマスコミに圧力をかけて今も『自虐史観』を垂れ流し、日本人をいつまでも洗脳し続けようとするのだろう。

ソ連が参戦することが分かっていながら、『ポツダム宣言』が出た後もソ連の和平工作の回答を待ち続けようとしたわが国の不可解な動きは、ソ連軍にわが国土を存分に占領させるところまで戦争を終わらせたくなかった共産主義者たちが、この時期にわが国の主導権を握っていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのだ。

こういうことを書くと、「共産主義者が判明していると言っても、たった数名で主導権が握れるはずがない」などと考える人もいるだろう。
しかし、わが国の政治や外交に影響を与えるような参謀本部の重要なポストにこの様な人物が就いていたことは、その背後には相当数の共産主義者がいたと考えるのが自然だと思う。ほかにもソ連に忠誠を尽くそうとした幹部メンバーの固有名詞がわかっているのでついでに挙げておこう。

昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、亡命先のアメリカで、36人の日本人エージェントを有していたと証言したことがマスコミに報じられ、エージェントのうち元関東軍第三方面軍情報参謀・志位正二少佐と元参謀本部作戦課参謀・朝枝繁春中佐が警視庁に自首したという。志位正二少佐という人物は現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父だという。

ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言もしているようだ
その11名のうち氏名が判明しているのは、志位、朝枝のほかには、帰国後総合商社伊藤忠商事の会長や中曽根康弘総理のブレーンを務めた瀬島龍三、先ほどの対ソ和平仲介工作で名前の出てきた種村佐孝がいる。種村は帰国後、日本共産党員となっている

読売報知S200315

『一億玉砕』と本土決戦を国民に呼びかけたことも種村や松谷が作成した「終戦構想」にあるようなのだが、こういう史実を追っていくと、われわれには重要な真実が戦後の長きにわたって封印されてきたことを知らざるを得ない。真の戦争犯罪人はソ連のスターリンではなかったか。

岸信介

第56-57代の内閣総理大臣を務めた岸信介は、三田村武夫氏の著書『大東亜戦争とスターリンの謀略』の序文でこう記している。

近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うならば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる
私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない

スターリン

何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼・左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当然、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制(筆者註:昭和25年)と酷似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる
…日本の共産化は実らなかったものの、国際共産主義の世界赤化戦略だけは、戦前から今日まで一貫して、間断なく続いていることを知らねばならない。…」(『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.319-320)

わが国が国益を考えて何か新しい動きをしようとすると、必ずマスコミが「軍国主義の足音が聞こえる」などと言うフレーズを繰り返し国民を思考停止に陥れてきたのだが、史実に照らして日本人が真に警戒すべきものは、「軍国主義の足音」ではなく「共産主義の足音」であると言いかえるべきなのではないのだろうか

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『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6

このシリーズの3回目に、昭和天皇御聖断でわが国が『ポツダム宣言』を受諾することが決まった経緯について書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-292.html

しかしながら、わが国はこの御聖断によりすんなりと終戦に向かったのではなかったのだ。
今回は、昭和天皇の二度にわたる御聖断とその後の動きについて、寺崎英成ら昭和天皇の側近が昭和21年の3月から4月にかけて天皇から直々に聞きまとめたとされる記録(『昭和天皇独白録』)が残されているので、その文章を参照しながら、内閣や軍部の動きを2回に分けてまとめてみたい。

最高戦争指導会議天皇ご臨席_0007

まず第1回目の御聖断の出た昭和20年8月9日の深夜の御前会議については、『独白録』にこう記されている。(原文は旧字旧かな)

「政府もいよいよ『ポツダム』宣言を受諾することに意見を極めて、8月9日閣議を開いた。
また最高戦争指導会議も開かれた。
 海軍省は外務省と解釈を同じうするが、陸軍省、参謀本部および軍司令部は、外務省と意見を異にした
 領土を削られることは強硬論と雖も、余り問題とはしないが、国体護持、戦争犯罪人処罰、武装解除および保障占領*の4点が問題となった。軍人たちは自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除について、反対したのは、拙いことであった。閣議も会議も議論は二つに分かれた。」
 会議は翌10日の午前2時まで続いたが、議論は一致に至らない。
 鈴木(貫太郎首相)は決心して、会議の席上私に対して、両論いずれかに決して頂きたいと希望した。
 会議の出席者は、鈴木総理のほか、平沼、米内、阿南、東郷、梅津、豊田の6人。**
 国体護持の条件を付することに於いては全員一致であるけれども、阿南、豊田、梅津の3人は保障占領を行なわないこと、武装解除と戦犯処罰はわが方の手で行う事の3条件を更に加えて交渉することを主張し、戦争の現段階ではこの交渉の余裕はあるとの意見であったに反し、鈴木、平沼、米内、東郷の4人はその余裕なしとの議論である
 そこで私は戦争の継続は不可と思う。参謀総長から聞いた事だが、犬吠埼と九十九里海岸との防備は未だ出来ていないという。また陸軍大臣の話によると、関東地方の決戦師団には9月に入らぬと、武装が完備するように物が行き渡らぬという。かかる状況でどうして帝都が守れるか、どうして戦争が出来るか、私には了解が出来ない。
 私は外務大臣の案に賛成する(ポツダム宣言受諾)、と言った
。」(文春文庫『昭和天皇独白録』p.146-148)
*保障占領:国際協定の実行を保証する担保としての占領。協定履行により解除され、施政権は主権国に返還されるのが建前。
**鈴木貫太郎首相、平沼騏一郎枢密院議長、米内光政海軍大臣、阿南惟幾陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長

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少しばかり補足しておく。
この第1回目の御聖断により、国体護持を条件として『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答をすることが正式に決定され、翌10日の午前6時45分から連合国軍にその旨連絡されたのだが、陸軍省では徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こり、阿南陸相は苦境に立たされてしまう
午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだと匂わせたメンバーがいたそうだが、陸相は「不服な者は、まずこの阿南を斬れ」と述べて鎮静化をはかったというのは有名な話だ

そしてこの日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民にどう伝えるかが議論されている。その結果、わが国が連合国軍に対し国体護持を条件にポツダム宣言の受諾する回答をしたことについては、天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしいのだ。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている。この文書の一部を引用する。

全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。… 」
別宮暖朗氏の『終戦クーデター』によると、この文書は阿南陸相の義弟の竹下正彦(陸軍・軍務課内政班長)らが作成し、新聞社やNHKに手渡され実際に報道されたという

一方連合国側では、わが国が『ポツダム宣言』に対し「国体護持」を前提とする受諾回答であることを不満とする意見もあり、12日の連合国の正式回答文(「バーンズ回答文」)においては、「国体護持」については正面からの回答を避けたあいまいな表現となっていた。
ポイントとなるのは、次の部分である。

降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとす
最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす

要するに、保障占領の間は日本政府と天皇は連合国最高司令官に遵う(subject to)こと。その後の政体については「日本国民の自由に表明する意思」で決定されるというのだが、この”subject to”の解釈で紛糾する。外務省は「制限の下に置かれる」と訳し、陸軍省は「隷属する」ではないかと反論した。

この連合国側の回答文では納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張し、再び議論は平行線になった。
そして8月13日午後2時20分にスウェーデンの岡本公使より緊急電報が外務省に届き、そこには連合国正式回答文に関する米英ソの交渉経緯を伝え、この回答文はソ連の反対を押し切り、実質的には日本側条件を是認したものであるという内容が書かれていたという。
この電報が功を奏し、同日の午後4時から始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となるが、それでも3名の反対者が出て、また議論はまた堂々巡りとなる。前にも書いたが、明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としており、多数決では決められなかったのだ。

13日の午後8時に陸軍官邸に戻った阿南陸相は、軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐の訪問を受け、義弟の竹下中佐から「兵力使用計画案」の説明を受けてクーデター計画の賛同を迫られたという。

その「計画案」については2通りの記録が残されていて、昭和57年に出版された井田正孝中佐の手記『雄誥』に書かれている「竹下案」と、稲葉正夫中佐が昭和24年10月にGHQ歴史課に説明して残された「稲葉案」があるのだが、2つの案はかなり異なるという。

終戦クーデター

別宮暖朗氏の『終戦クーデター』にその双方の案が紹介されているが、いずれも事件を起こした当事者が説明しているものであり、仲間を庇ったり自分を護るためにかなりの修正がなされているらしく、特に井田の手記は、クーデターを行なったメンバーを美化する立場で書かれている点を割り引いて読む必要があるという。
別宮氏も稲葉が残した「兵力使用計画案」の方が原型に近いものであると考えておられるようだが、その「稲葉案」においては、誰が読んでも驚くようなことが書かれている。

「使用兵力 東部軍および近衛師団
 使用方法 天皇を宮中に軟禁す。その他木戸、鈴木、外相等々の和平派の人達を兵力を以て隔離す。次いで戒厳に移る
 目的 天皇に関するわが方条件に対する確証を取り付けるまでは降伏せず、交渉を続ける。
 条件 陸相、総長*、東部軍司令官**、近衛師団長***の4者一致の上であること。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.71)
*梅津美治郎参謀総長、**田中静壹東部軍司令官、***森赴近衛師団長

竹下の計画説明に対し、阿南陸相がどういう反応を示したのだろうか。別宮氏は先程紹介した著書で、竹下が著した『機密終戦日誌』の該当部分を現代語訳で紹介しておられる。

「…たとえ逆臣となっても永遠の国体護持のため断乎明日午前クーデターを決行することを具申した。大臣は容易に同調する気色はなかったが『西郷南洲の心境がよくわかる』『自分の命は君等に差し上げる』などと言った。」
と、しぶしぶ同意したとも不同意であったとも、どちらともとれる書き方になっているのだが、井田の手記『雄誥』では、阿南陸相はクーデターに賛成したことになっているという。
しかし、計画案に「天皇を軟禁す」と書かれていることが真実であったならば、簡単に阿南陸相が賛成したとは考えにくいところだ。

翌14日午前7時に阿南陸相は荒尾興功軍務局軍事課長とともに梅津美治郎参謀総長を訪ね、軍は断乎クーデターによって天皇を擁し、軍政府を立てて戦争を続行する旨述べたのだが、梅津は天皇陛下の御聖断があった以上は、軍は陛下の御意志に副うべく万全を尽くすべきだとして同意せず、さらに中堅将校の不心得を十分に取締まることを要求したそうだ。
ついで阿南陸相は7時半には田中静壹東部軍司令官と高嶋辰彦参謀長を陸軍大臣応接室に招請して、クーデターに参加することを求めたがそれも不調に終わっている。
その際に高嶋参謀長は「明治憲法規定によって担当大臣副署による昭和天皇の命令を出してくれ」と要求したという。

ここで大日本帝国憲法の条文を復習しておこう。
第 3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
とある。
この憲法を読んで普通に考えれば、昭和天皇による第1回目の御聖断が出た時点で、陸海軍ともそれに従うしかなかったはずである。
クーデターを起こそうとした将校たちは、いったいどういう論理で陛下の御聖断を無視したのだろうか。この点は気にかかるところだ。

別宮暖朗氏の著書に、阿南陸相の義弟・竹下正彦が昭和22年2月28日にGHQ歴史課の尋問を受けた時の陳述内容が紹介されている。この文章を読めばクーデターを起こしたメンバーは昭和天皇を護衛する意識などはなかったことが誰でもわかる。

「この度天皇は民族の根さえ残っておれば、国家再興の時機は必ず到来すると申されたが果たしてそれでいいのか。天皇ヒロヒトはそう申されても、それは明治天皇やその他の皇祖皇宗の御考えと一致しているとは思われない。今上天皇の意図に反することは避けたいけれども、たとえ一時そういう結果になっても皇祖皇宗の御志にそうて行動することが大きな意味において本当の忠節である。東洋思想によれば承詔必謹のみでは不十分で諌争(かんそう)*ということがあって本当に忠義になるのである。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.172)
*諌争:君主に諫言して、自分の意見に従わせること

別宮暖朗

別宮氏はこう解説している。
竹下は自分の意見『太平洋戦争継続』を昭和天皇と諌争して、実現させたかったというのである。ソ連が参戦し原爆を落とされ、多くの陸兵が太平洋の孤島で玉砕したあとの言い分である。ただし、竹下自身も、降伏自体は避けられず、『国体護持』のため武装解除、保障占領、戦犯裁判回避のため、多少継戦して、本土決戦で一撃を与え、その三つの条件を撤回させたいと主張した。
 諌争といっても、ただの軍事課課員の竹下が直接やるわけにもいかず、義兄の阿南も他の閣僚に継戦論を説得できずにいたのである。竹下の諌言や諌争は、昭和天皇に達する以前に他省庁に対しても説得力を欠いていた
それでも竹下が昭和25年に昭和天皇を『ヒロヒト』と呼ぶことは極めて異例であろう。…竹下も義兄を『コレチカ』と呼び棄てにすることはなかったであろう。
諌争とは君主が自分の意見と異なった命令を出した場合、あくまでも論争を挑み、不服従を遂げることであった。儒教とは選民=エリートである官僚がどのように振る舞うべきかを説いたものであり、陸軍エリート将校の頭に入りやすかったのである。」(同上書 p.172-173)

このような考え方で、竹下らは昭和天皇を軟禁し和平派を隔離して戦争を継続させようとしたのだが、この続きは次回に記すことにしたい。
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昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7

前回の記事で、阿南陸相の義弟である竹下中佐らが、陸軍大臣らの許可を得て兵力を使用し、昭和天皇および和平派を軟禁拘束して、玉音放送を妨害して戦争継続の方向に導くことを計画したことを書いた。

この計画に賛同するメンバーは決して少数ではなかった。
森 赳(たけし)近衛師団長は蹶起することに反対していたが、近衛師団参謀長の水谷一生、参謀の古賀秀正、石原貞吉も、竹下中佐らの仲間に入ることを約束していた。
古賀は東条英機の女婿で、古賀の依頼により近衛師団歩兵第二連隊(「近歩二」)第一大隊長の北畠暢男は、750名の兵力全部を8月12日以降徐々投入する決心をしていた。
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その第九中隊の司令官であった絵内正久は、著書『さらば昭和の近衛兵』に当時の状況を書き残している。前回紹介した別宮暖朗氏の『終戦クーデター』に、絵内氏の記録が引用されているので紹介したい。次の訓辞の部分は絵内氏の著書から引用されたものだが、驚くような内容だ。

12日午後1時、北畠大隊の第九中隊人事係は…絵内正久を司令官とする『絵内分隊』に、疎開地の小日向小学校から小銃や軽機関銃に実包をこめたまま出発することを命令した
 分隊とは小隊に属する帝国陸軍に於ける最小単位で、約12名で編成された。少尉、准尉または下士官が司令官になった。中隊人事課は出発しようとする分隊を校庭に集め不思議な訓辞を与えた。
『よく聞け。地方部隊の中に、もう戦争に飽きたのでやめよう、と民間人に同調する不穏の動きがある。その連中が宮城を攻め、天皇陛下を人質とし、戦いをやめ、反戦を陛下に強要しようと企んどる。お前たちは、それに備えて、陛下をお護りするため、特別に派遣されることに、なった。お前たちは、宮城に入ったら、お前達の直属上官でも、無理に入ろうとしたら、ただちに撃ち殺さなくてはならん』
。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.59)

おかしな話である。
実際は、徹底抗戦派が陛下と和平派を監禁して、陛下に戦争継続の決断を迫ろうとしていたのに、反戦派が陛下を人質に取って戦争を終結させようという不穏な動きがあるので、陛下を護るために宮城を完全閉鎖しようという命令が出ていたのだ。
これを読むと、ほとんどの兵士たちは自らがクーデターに加担することになることを全く知らされていなかったことがみえてくる。

事態は切迫していた。国内の徹底抗戦派の動きも気になるところだが、アメリカのマスコミもわが国の『ポツダム宣言』に対する回答遅延を責めだし、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布し、14日にも同様のビラが撒かれたという。この段階ではポツダム宣言は国民に公表しておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。

そこで昭和天皇は、自らの判断で御前会議の開催を要求され、14日午前8時に鈴木貫太郎首相にメンバーの召集を命じられて、この御前会議昭和天皇が二度目の御聖断をなされることになる。
御前会議

この連載の3回目に比較的詳しく書いたので繰り返さないが、この会議の昭和天皇のご発言が素晴らしいのである。もし、まだ読んでおられなければ是非読んで頂きたいと思う。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-292.html

この御前会議で、『ポツダム宣言』の受諾および『終戦の詔書』を出すことが決定したのだが、それからあとが簡単には進まなかったのである。
この御前会議とそれ以降の出来事について『昭和天皇独白録』にはこう記されている。

「午前11時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最後の引導を渡した訳である、この会議のことは迫水*の手記に出ている。『ポツダム』宣言受諾の詔書は14日午後9時過ぎ署名したので、これですべて確定したと思ったが、陸軍省は、放送がなければ効力がないと思ったか、放送妨害の手段に出た。
荒畑軍事課長**が、近衛師団長に、偽命令を出して欲しいと強要した。森(赴)近衛師団長は立派な人で、この強要に頑強に反抗したため殺された、そして師団参謀長***と荒畑**との名で偽命令書が発せられた。
宮内省の電話線は切断せられ、御文庫の周囲も兵により包囲された。

幸い空襲のため窓の鉄扉が閉鎖されていたので、私の居るところは兵には判らなかったらしい。
この騒動をきいて、田中静一(正しくは静壹)軍司令官が馳せ付け兵達を取り鎮め、事は無事に終わった。
鈴木、平沼の私邸も焼かれた
、平沼は陸軍に巧言、美辞を並べながら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。
結局二股かけた人物というべきである。」(文春文庫『昭和天皇独白録』p.157-158)
*迫水久常:内閣書記官長。
**荒尾興功大佐(荒畑は誤り)
***水谷一生大佐

昭和天皇はこのように極めて簡潔に述べておられるのだが、これを読むだけでこのクーデターは陸軍の中枢が関与した大事件であったことがわかる。
通説では、畑中健二少佐を主犯とする一部の若手将校による小規模な反乱であったとされているのだが、通説は当事者が書き残した記録を鵜呑みにして記されていることに注意することが必要だ。当時の記録をいろいろ辿っていくと、『昭和天皇独白録』の方が真実に近いことが見えてくる。
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話を元に戻そう。宮城事件の各場面の登場人物や時間については諸説があるようだが、ここでは別宮氏の『終戦クーデター』に合わせておく。

近衛師団参謀・古賀秀正少佐の指示で近衛師団歩兵第一連隊(「近歩一」)の小田小隊は15日午前零時を期して、NHK本部占拠に向かい、近歩二の通信中隊は宮城紅葉山にあった宮内庁の電話設備を破壊した。
ついで、クーデターに反対していた森近衛師団長の部屋に、畑中健二少佐、窪田兼三少佐、上原重太郎大尉らが向かう。森は義弟の白石通教(みちのり)第二総軍参謀長と寛いでいたところであったが、二人とも畑中らに殺害されてしまった


一方、近歩二第三隊長の佐藤好弘大尉は、宮内省庁舎を出て4台の車に分乗した下村情報局総裁兼NHK会長一行の車列を停め18名全員を拉致した。下村総裁一行は、昭和天皇の玉音放送の収録を14日の午後11時45分に終えた帰りであった。
玉音放送

8月15日正午に放送された昭和天皇の終戦詔書を読み上げる肉声を録音したレコードは「玉音盤」と呼ばれるのだが、昭和天皇は2回録音され、それぞれ2枚複写されたので、玉音盤は4枚存在したはずだという。このレコードを奪取しようと反乱軍が必死に探したというのが通説になっているのだが、別宮暖朗氏によると佐藤大隊長は玉音盤奪取を具体的に指示してはいないという。別宮氏はこう解説している。
玉音盤

「佐藤は、そもそも玉音盤あるいは録音方法を何も知らなかった。昭和天皇が放送局のどこかのスタジオでマイクに立つと考えた可能性も強い。仮に録音盤の存在なり数量なりを知っていたとしても、近衛兵によって宮城を完全封鎖できている以上、外部に持ち出すことは不可能と想像することはできたはずである。そのうえ4枚のうち1枚も発見できなかった。近衛兵が真剣に捜索したとは思えない。」(別宮暖朗『終戦クーデター』p.105)
とある。

当時近歩一第一中隊長であった小田敏生氏がこの日の出来事を『正論』の平成17年9月臨時増刊号に『近衛連隊と玉音放送阻止事件』という表題で寄稿しておられる。
この文章の中で小田氏は、8月14日深夜午後11時30分に非常呼集があり、15日午前0時過ぎに「放送局を占拠し、放送を阻止せよ」「放送局にいるものを一人といえども外へ出すな。外部からいかなるものも入れてはならない。各部屋のカギを全部没収し、当直以下理事者全員を一室に監禁せよ」という久松秀雄第一大隊長命令を受けているが、それが玉音放送の阻止であるとは知らされていなかったという。

ところで小田氏の論文には、どこにも「録音盤」という言葉がない。別宮氏が指摘しておられる通りで、宮城や放送局の完全封鎖ができていれば、放送などできるはずがなく、録音盤を探す必要などはなかったのだ。
14日に録音が終了した時点では『玉音盤』は宮内庁にあった
のだが、深夜のような状況が長く続けばそれを放送局に運ぶことは不可能に近く、予定の時間に放送が出来ない事態に陥っていたはずだ。

一方、宮中の動きに連動して、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとする「国民神風隊」が、15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内大臣、東久邇宮稔彦王らの私邸に火を放ったということがWikipediaにでている。皇族の私邸にまで火をつける連中は、戦後のマスコミで繰り返し伝えられてきた『軍国主義者』とは異なるような気がするのは私だけではないだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ふたたび宮城事件の話に戻る。小田氏の文章を読み進むと、15日の夜が明け始めた頃に事態が一変し、久松大隊長から「当初の放送阻止を解除して、放送を援護するように」との命令変更が伝えられたという。
そして午前11時半ごろに東部軍の高嶋辰彦参謀から、「お前らはニセの命令によって行動した。よいか。命令を伝える。これから天皇陛下の戦争終結の放送がある。その放送を援護しろ。」
と言われ、すでに小田中隊長は近衛師団長が殺害されたことを知っていたので高嶋参謀の命令を疑う余地はなかったと述べ、またその命令を聞くまでは、正午にあるという玉音放送は、天皇から戦争継続の宣言があり軍人や国民に対して最後の激励をされるものだと思い込んでいたと正直に吐露しておられる

では、どういう事情があって、途中で命令が真逆に変わったのだろうか
『昭和天皇独白録』にも名前が出てくるが、東部軍管区司令官の田中静壹大将が身を挺して困難な状況を打開したのである。東部軍管区には実戦部隊は存在せず、田中は近衛師団を説得して少しずつ味方につけていくしか方法はなかったのだ。
田中静壹

夜が明けるのを待って田中は塚本素山副官だけを自分の公用車に乗せ、他の1台には不破博参謀と憲兵将校1人と下士官2名を乗せて東部軍司令部を出発したという。
まず近歩一営庭で田中は車を降り、まっすぐに二階の連隊長室に向かい、
「古賀による偽命令だ。直ちに兵を戻せ」と渡辺多粮連隊長(近歩一)に命じた。渡辺は既に今までの命令におかしなものを感じていたせいか、すぐに応じたという。

次いで田中は近衛歩兵一、二連隊営門の反対側の乾門の前で近歩二の芳賀豊次郎連隊長を呼び、「お前たちは、師団長が殺された以上、いっさい参謀の命令に従う必要がない。これからは自分自身が近衛師団の指揮をとる。」と述べ、たまたま陸軍公用車に乗って乾門に近づいてきた荒尾軍事課長、井田正孝、島貫重節3名(反乱軍側)が皇居の中に入ろうとしたところを、田中は「禁闕守衛の任にある者の他、一人もここを通ることはならぬ。帰れ」と叫ぶと三人は圧倒され、車をUターンさせて戻ったという。
その後クーデターは急激に鎮静化に向かっていったという。

一方、陸相官邸では14日深夜に阿南陸相が切腹自殺をし、15日早朝に絶命した。遺書には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記されていたという。

最後まで抗戦を諦めなかったという椎崎中佐と畑中少佐は、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺したというのが通説だが、おそらく作り話だろう。

別宮氏は著書で通説の疑問点をいくつか挙げておられる。
たとえば、窪田少佐も上原大尉もともに畑中とは面識がなく、畑中がこの二人に森師団長殺害を決心させ、同時に警戒厳重な近衛師団司令部に招じ入れることが出来たことが不自然であること。また3人が殺害に向かった同じ時間に小田小隊をNHKに向かわせ、古賀参謀を動かすことは考えにくいこと。二人が自殺したとされる午前11時にはすでに皇居前に多くの人々が集まっており目撃者が誰もいないのは不自然であること。10時10分ごろに阿南陸相、椎崎、畑中の3名の遺体を見たという黒崎貞明氏の記録があること。さらに3人とも遺体を竹下の手によって焼かれていること。…これらの指摘が正しければ、普通に考えれば自殺ではないだろう。
そもそも「畑中主犯説」を最初に書いたのは、クーデターを起こした側のメンバーの一人である不破博で、その後も井田正孝や竹下正彦が本を著して「畑中主犯説」を書いているが、クーデターを起こした当事者の記録を鵜呑みにして通説が出来上がっているということになる。
畑中健二

別宮氏は「畑中主犯説とは、全責任を仲間であった死者、畑中健二に被せる説でもあった」と述べておられるが、その通りであろう。この『宮城事件』は殺人を伴う重要事件でありながら、いっさい司直の捜査が入らなかった奇妙な事件でもある。戦後、生存者がそれぞれ要職に就き、死者に全責任を擦り付けておくことにしたかったのではないか。

話を『宮城事件』に戻そう。
かくして2枚の玉音盤は宮内庁から無事放送会館および第一生命館に設けられていた予備スタジオに運び込まれ、予定どおり15日の正午に、陛下の肉声が録音された『終戦の詔書』が全国に放送された。

昭和天皇の『玉音放送』は、今ではYoutubeで誰でも拝聴することができる。
http://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo
終戦の詔書』のテキストや現代語訳も、今ではネットで容易に読むことが出来る。
http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/43672010.html

そして反乱軍の首謀者の1人である古賀参謀はこの玉音放送の放送中に、近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺したという。
また反乱軍を鎮静化させた田中静壹陸軍大将は、陸軍徹底抗戦派の最後の反乱となった8月24日の川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室にて拳銃で自殺したのだそうだ。

つい最近まで、『宮城事件』がこんなに大きな事件だとは思っていなかったのだが、もし昭和天皇が8月14日に急遽御前会議を開くことを決断しなかったなら、もし田中静壹大将が身を挺して近衛師団を説得し、参謀と切り離すことに成功しなかったなら、このクーデターは成功し、8月15日に終戦できなかった可能性がかなり高かったのではないか。

アメリカが更なる原爆を投下する準備は出来ていたし、ソ連の対日参戦でソ連軍は日本列島に迫ろうとしていた。本土決戦となったところでわが国には到底勝ち目はなく、さらに数多くの人命を失ったに違いないし、戦後はドイツや朝鮮半島のように国土を分断されて、一部は共産主義国になっていただろう。陸軍のエリート将校達は、そこまで戦争を引き延ばしたかったのではなかったか。
終戦の詔勅

戦後のわが国が平和で豊かな国になれたのは、この時に『玉音放送』を阻止しようとする勢力を排除し、『ポツダム宣言』の受諾を国内外に宣言したことから始まると言っても言い過ぎではないと思う。
「…然れども、朕は時運の趨く(おもむく)所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以って万世の為に太平を開かむと欲す。…」
この放送を国民に伝えるために尽力した多くの人々に、感謝したい気持ちになった。
<つづく>

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若草山の山焼き
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明治期の危機を乗り越えた東大寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-84.html

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
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国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8

前回および前々回の記事で、8月14日の御前会議で『ポツダム宣言』を受諾し戦争を終結させることが決定したのだが、陸軍のエリート将校たちは昭和天皇による『玉音放送』を阻止して、戦争の継続に導こうとするクーデターを起こしたことを書いた。(宮城事件)

彼らはクーデターに反対した近衛第一師団長森赳(たけし)中将と森の義弟の白石通教(みちのり)第二総軍参謀長を殺害し、師団長命令を偽造して近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠したが、東部軍管区の説得に失敗。逆に東部軍管区の田中静壹司令官が近衛歩兵第一連隊と第二連隊の説得に成功してクーデターは沈静化し、『玉音盤』は無事宮内庁から放送会館と予備スタジオに運ばれて『終戦の詔書』が無事全国に放送されたという流れなのだが、軍部による抵抗はこれで終ったわけではなかったのである。
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水戸教導航空通信師団教導通信第二隊第二中隊を率いる岡島哲少佐(上画像)は、8月15日の『玉音放送』に納得できず、杉茂少佐や、林慶紀少尉らとともに、東京で終戦阻止のために蹶起した部隊に合流しようと計画したという。林少尉は17日未明に、蹶起に反対した上官の教導通信第二隊長田中常吉少佐を射殺し行軍を開始。東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)に占拠してここを拠点として各方面に蹶起参加を呼びかけ、17日の朝に師団が出発する際にも、これを止めようとした吹田技術中尉を松島利雄少尉が射殺したという。

その日に岡島少佐は情報収集のため自らが士官候補生だった時に陸軍士官学校本科教練班長だった近衛第一師団参謀石原貞吉少佐と面会。同参謀から14~15日に終息したばかりの『宮城事件』の説明を受け、終戦の詔勅が真実であることなどを知る。
石原参謀は、東部軍管区司令部からの依頼があり、上京部隊に対し撤収の説得のために現地に向かっていたが、19日の午後に撤収か徹底抗戦かで激論が交わされた際に、林少尉に射殺され、その日に林少尉は自決し、その後リーダー格であった岡島少佐、杉少佐ほか2名が自決したという。(水戸教導航空通信師団事件)
http://www42.tok2.com/home/moijan/kyuujoujiken/

前回の『宮城事件』の記事で、森近衛師団長がクーデターに抵抗したために殺害されたことを書いたが、師団長を殺害したメンバーの中に陸軍通信学校教官窪田兼三少佐という人物がいた。この人物は我が国が降伏したことが納得できず、8月15日以降も抗戦決起を呼びかけて同志を募っていた。
窪田少佐から、ラジオ放送所を占拠して国民に徹底抗戦を呼びかける計画を打ち明けられた、陸軍予科士官学校生徒隊寄居演習隊第23中隊第1区隊長・本田八朗中尉はこれに賛同し、演習を名目に部隊を動かす許可を得て、8月24日午前0時ごろ第1区隊生徒ら67名を引き連れ、川口放送所に向かって出発し、途中で窪田少佐も合流。午前5時ごろ川口放送所に到着し、窪田少佐が同行する隊は川口放送所の占拠にあたり、本田中尉が指揮する隊は鳩ケ谷放送所へ向かった。
窪田少佐は川口放送所で蹶起を呼び掛けようとしたが機械が故障していたため、鳩ケ谷放送所で再度放送の準備を要求した。
放送所員からの連絡で異変を感じた日本放送協会は至急、東部軍管区司令部へ連絡した。報告を受けた東部軍管区司令官田中静壹大将は放送を止めるため、関東配電社に対し両放送所に対する送電をストップするよう依頼し、事態収拾のため現場に向かったという。この田中大将は『宮城事件』の際にニセ命令に従って反乱軍に加担した近衛歩兵第一連隊の第二連隊の説得に成功してクーデターを沈静化させた人物である。

午前6時ごろに送電が停止され、窪田少佐らは送電が開始されるのを待っていたが、いつまでたっても送電がされないために川口放送所に移動。午後2時ごろ、東部憲兵司令部の藤野中佐は5名程の部下と共に川口放送所へ説得に向かい、 藤野中佐は窪田少佐らに送電が止められている事を告げ、これ以上やっても成功の見込みは無いと言って説得した。
窪田少佐らは計画の失敗を悟り投降したが、この事件の影響で午前6時ごろから約9時間にわたり、関東地方一帯でラジオ放送が停まったとのことである。(川口放送所占拠事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E6%94%BE%E9%80%81%E6%89%80%E5%8D%A0%E6%8B%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

宮城事件』のあとの2つの事件は、陸軍の中枢が関与したものではないが、『宮城事件』に関しては、陸軍の中枢部が関与していた大事件だと考えて良いのだと思う。

長い間腑に落ちなかったのは、わが国だけが悪かったとする『自虐史観』では『軍国主義』は『悪』でなければならないのだが、この事件は『軍国主義』の恐ろしさを印象付けるために使える格好の題材であるはずなのに、教科書や通史でほとんど叙述されることがない点だ。

調べていくと、どうもこの事件は不可解な事が多すぎる。戦後になって、『宮城事件』の反乱軍側の多くの将校がGHQの歴史課に勤務したというし、クーデター計画を策定した陸軍省軍務局軍事課の稲葉正夫中佐や東部軍高級参謀の不破博大佐は、その後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務し、歴史を編纂する立場に廻っているという。
別宮暖朗氏の『終戦クーデター』にいくつかの事例が出ているが、この事件の公式記録に明らかな改竄の跡があるのだそうだ。
この事件に関する公式記録の記述内容は信頼性が乏しいと多くの研究者から指摘されているのだが、単に自分や仲間の立場を守ろうとしただけなのか、あるいは、この事件の背後にある「日本人には広く知られては困る事実」を封印しようとしたのか。

すでにアメリカは広島と長崎に原爆を投下し、ソ連の対日参戦が開始されていた。普通に考えれば、本土決戦に持ち込んでもわが国に到底勝ち目はないことが軍人ならばわかっていたはずだ。勝てないことが見えているのであれば、普通に考えれば、国民の生命・財産を守るために『ポツダム宣言』を受諾しようという昭和天皇の御聖断は、現在だけではなく将来のわが国をも見据えた正しい判断である。
にもかかわらずなぜ陸軍首脳の多くが、陸海軍を統帥する存在である天皇陛下の『御聖断』に抗って、クーデターの実行に及んだのだろうか。

その理由について別宮暖朗氏は『終戦クーデター』で、陸軍組織の存続にあったと主張しておられる。
確かに、『ポツダム宣言』の第9条に「日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰」とあり、『ポツダム宣言』を受諾するということは、陸海軍とも解散を余儀なくされることになる。陸軍の首脳はそれを阻止したかったということかも知れないが、徹底抗戦しても到底勝ち目がないのであれば、一時的に陸軍が存続しても、もっとひどい敗戦を招くことになるだけだ。わが国が敗戦するタイミングを遅らせれば遅らせるほど、終戦後に連合国がわが国に突きつける条件はもっと厳しいものになる筈ではないか
陸軍のエリート将校たちがクーデターを起こそうとしたのは、陸軍組織の存続とは違う別の目的があったと考える方がずっと筋が通るのだ。

このシリーズの5回目に紹介したが、英国の最高機密文書ULTRAに「わが国政府が共産主義者達に降伏している」という中国政府の陸軍武官が重慶に送信した機密電報が見つかったという新聞報道があった。
その記事に関する産経新聞の解説のなかで、鈴木貫太郎首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、昭和20年4月にまとめた『終戦処理案』」では、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとし、同時期に陸軍参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれていたことに注目したい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

もし陸軍の首脳が、『ポツダム宣言』受諾が決定してしまった状態でもなお、松谷大佐や種村大佐のシナリオ通り、敗戦後の日本はソ連流の共産主義国家を目指したいとした場合はどう行動するであろうか。
もし、昭和天皇の御聖断のとおりアメリカ主導でわが国が敗北してしまってはそのことは不可能であり、せめて一部でもわが国の領土をソ連の傘下とさせるためには、少なくともソ連が対日参戦して、わが国の領土を相当奪うところまでは戦争を継続させなければならなかったはず
である。陸軍がクーデターを実行に移した背景は、そのあたりにあったとは考えられないか。
ソ連対日参戦

松谷大佐や種村大佐の考えが陸軍の中枢に浸透していたのなら、ソ連が8月9日に対日宣戦布告したときに関東軍はソ連軍と徹底抗戦することを回避しようと考えるはずなのだが、実際はどうだったのかを見てみよう。
10日に大本営は、「対ソ全面作戦」を関東軍総司令部に発動している。原文は次のURLにある。
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/1945Tairikumei74_80.html

一 「ソ」連は対日宣戦を布告し九日零時以降日「ソ」及満「ソ」国境方面諸所に於て戦闘行動を開始せるも未た其規模大ならす

関東軍は主作戦を対『ソ』作戦に指向し皇土朝鮮を保衛する如く作戦す
…」
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ソ連の攻撃がまだ初期の小規模な段階から「朝鮮保衛」が関東軍の主任務であると言っているのだが、要するに満州国を直ちに放棄し、朝鮮半島を防衛せよという意味である。
さらに11日には「総司令部を通化に移転する」という命令がでているようだが、地図で確認すると総司令部は朝鮮との国境近くまで退却せよと言うことだ。わが国の終戦も決まっていない段階から、なぜ早々と退却する必要があろうか。

Wikipediaによると、当時は満州国の首都・新京だけでも14万人の日本人が居留しており、8月11日未明から正午までに18本の列車が出で38千人が新京を脱出したそうだが、軍人関係家族や満鉄関係家族、大使館家族が優先され、民間人は240人しか脱出できなかったという。しかも軍人家族脱出の指揮を執ったのは関東軍の総参謀長・秦彦三郎の夫人だというからひどい話である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6

多くの日本人は取り残されて、侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例もあり、収容所に送られ、孤児や満州人の妻となる人々も出たという。
関東軍は一般居留民を護りながら、ソ連と戦いつつ後退したのではなかったのだ。自分の家族を優先したものの他の居留民は見捨てて、領土もろともソ連に差し出したのである

関東軍は初めからソ連と戦うつもりはなく、満州国領土と居留民を早々にソ連に差し出したことが史実であることを裏付ける証拠が、ソ連側に残されていることがわかった。まず、極東ソ連軍の最高司令官であったワシレフスキー元帥がモスクワに打った、8月20日付の電文を紹介しよう。次のURLに訳文が紹介されている。
http://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/63b131d3e8a160d75230a4c62f6bf71d
ワシレフスキー元帥

関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。秦中将は、日本人、満州人、朝鮮人の関係が悪化していると述べた。また日本軍将官、将校兵士に対する然るべき取り扱い給養、医療を要請した。私は必要な指示を与えた」
この文章を普通に読めば、関東軍は満州にある企業や財産を日本人居留民のために守ろうとしたのではなく、ソ連に差し出すために守ったということになる。

また同上のURLに関東軍がワシレフスキーに宛てた「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」の一部が公開されている。この文書は、関東軍参謀(作戦班長)・大佐草地貞吾が数人の参謀と合議のうえまとめ、秦総参謀長、山田総司令官の決裁を受けて、ソ連側に提出したもので8月26日にソ連が受領した記録があるものだが、これを読めば、関東軍は日本人居留者を護る意識はなかったと断じざるを得ない

「一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい。ただし老人、婦女子は内地か、元の居留地へ移動させて戴きたい。
一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までに極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい。
一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働かせてもらい、冬季の最大難問である石炭の取得にあたりたい
。」

以前このブログで高橋秀雄氏の『私のシベリア抑留記』の文章の一部を紹介したが、関東軍がワシレフスキーに宛てた文書内容と同様な事をシベリア抑留者が書いている点に注目したい。重要な部分なので高橋氏の文章を再度引用する。

「『日本軍将兵は武装解除の後に平和的に家庭に帰す』と宣言した『ポツダム宣言』が有るにも関わらず、日本政府からは、将兵の帰国要求申し入れは全くなかった、という。むしろ『貴軍経営のためどうぞお使いください』と日本人将兵の労務特供給の申し入れをしたのは他ならぬ日本政府・大本営であったという
このことは共同モスクワニュースが詳細に伝えた。
このために、六十三万余の将兵が長年に渡って、酷寒の地シベリアでの強制労働、飢餓を味わうことになった。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

ソ連によるシベリア抑留は『ポツダム宣言』に違反するものであると、多くの人が書いており私もそう理解していたのだが、強制労働を関東軍から提案していた史料があるのに愕然とした。
さらに調べると、シベリアに抑留された人々がスターリンに感謝決議文を贈ろうという運動が起こり、それに賛同する日本捕虜66434人の署名入りのものが製作されたという
それほど日本陸軍の中枢には、ソ連の工作が浸透していたのか、共産主義者が主導権を掌握していたのか、少なくともソ連を理想国家と信じて疑っていなかったと解釈するしかないのだ。

帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどかったという中川八洋氏の指摘は、昔は信じられなかったのだが、今はその可能性がかなり高いと思うようになった。
思想安全地帯に赤化分子

このブログで紹介した『神戸大学デジタルアーカイブ』の新聞記事データベースでこんな記事が見つかった。
「陸軍幹部養成の総本山たる陸軍士官学校に赤化運動が起り当局必死の隠ぺい策も効なく校内外にもれ時節柄センセーションを起している。」(昭和7年2月11日付 東京朝日新聞)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070975&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE
普通このような記事が出たら、士官学校生徒の相当数は「赤化」していたかそのシンパだったと考えて良いだろう。かくいう私の学生時代も、クラスの多くは「左寄り」だったし、私も社会主義が理想国家と考えた時期があった。

自国のために戦うのではなく、他国のために戦おうとする人物が軍隊に入り込んで武器を持てば、どんなに怖ろしいことになるかは、すこし考えればわかる。
日中戦争の原因となったとよく言われる関東軍の暴走も、そういう観点から見直すことが必要なのだと思う。

中川八洋氏が『軍国主義』と『共産主義』との関係をこのように述べている。
近衛文麿の戦争責任

「1931年から1945年にかけての『軍国主義』、それは陸軍主導による日本の社会主義(共産主義)化を『上からの革命』によってなしとげようとしてきた日本型『共産革命』の表象にすぎない。表層の『軍国主義』現象の、その基層は『(共産党や社会党でなく)陸軍を独裁党とする日本の共産主義』革命運動であった。
 日本の『軍国主義』が、日本の『共産主義』革命運動が生んだ一現象であるならば、日本の大東亜戦争とは、社会主義(共産主義)イデオロギーが生んだ戦争であり、もし大東亜戦争を非難するのであれば、その母胎となった、戦前の社会主義(共産主義)革命熱をまず非難すべきであろう。
 戦後の日本において『大東亜戦争=軍国主義』という公式が宣伝されたのは、共産主義を聖化して共産主義革命を大東亜戦争批判(非難)の外に避難させておくためのレトリック(詭弁)であった。『大東亜戦争=日本と東アジアの共産主義化』という歴史の真実を隠す、情報操作の一つであった
。」(中川八洋『近衛文麿の戦争責任』p.200)

現代史家の大半は、このような中川氏の説を認めようとしないのだが、少なくともこの時代の歴史は、当時のわが国の共産主義や社会主義熱を抜きには語れないし、コミンテルンの工作なしには語れない。
史実を知れば知るほど、通説の嘘が見えてくるのだ。

『ポツダム宣言』受諾のあとの『宮城クーデター』も、ソ連参戦直後の関東軍の満州放棄も、いずれも種村大佐のシナリオに沿って行われたものだと考えれば、スッキリ理解することができるし、おそらく歴史の真実は、それに近いものであったのだろう。
「通説にとって都合の悪い史実」がネットで拡がって行って、いつか通説が書きかえられる日がくるのか。
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帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、昭和天皇による『御聖断』のあとに、陸軍の異常な動きが際立っていることが理解して頂けたと思う。
彼等の動きを見ていると、陸軍の中枢にはわが国の敗戦を機に、陸軍主導で共産主義革命を起こそうとしたメンバーがかなりいたと考えざるを得ないのだ。

張作霖爆殺事件

一番わかりやすいのは、関東軍だろう。
以前このブログで、関東軍が独断で実行したことになっている昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されていることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

通説では関東軍はこの事件を自らの判断で実行したと描かれているのだが、ソ連の工作に協力したというのがどうやら真相のようである。
柳条湖事件も、最近の研究では日本軍主犯説を否定する議論があるようだが、いずれにせよ関東軍は中国大陸で暴走してわが国を戦争へと巻き込んだ可能性が高いのである。

ところが、太平洋戦争末期にソ連が対日参戦した直後に、前回の記事で書いた通り、好戦的であるはずの関東軍の秦彦三郎総参謀長が、「ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請」したというのである。

ここで、このブログで以前紹介した、1935年(昭和10)に開かれた第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を思い出してほしい。
スターリン

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

スターリンは、日中を戦わせて長期戦で消耗させ、日本の敗戦が確実なタイミングで参戦して共産陣営に取り込む戦略であったのだ。関東軍のとった行動は、わが国を中国との戦争に巻き込み、最後に満州をソ連に献上したのだから、スターリンの戦略と見事なまでに一致しているのだ
ソ連が対日参戦した際にワシレフスキー元帥には満州、北朝鮮、南樺太、千島全島、北海道の半分まで占領する任務が与えられていたそうだが、北海道まで兵を進めることが出来なかったのは、第五方面軍司令部の樋口季一郎中将が、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断し、千島列島の最北にある占守島でソ連軍の進軍を阻んだことが大きい。
樋口季一朗

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

ところが、関東軍参謀長の秦彦三郎中将は、ワシレフスキー元帥からの要請により、第五方面司令部に武装解除を命じて、千島や樺太におけるわが国の自衛の戦いを終息させてしまっている。停戦命令が出ていても、邦人に対する攻撃がある限り法人の生命と財産を護るために軍隊が戦う事は国際法で認められているにもかかわらずである。
そのためにソ連軍による邦人の無差別殺戮が8月28日頃まで続き、多くの兵士がシベリアに送られたのだ。この史実をどう読めばよいのか。

私も長い間『軍国主義』が怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると軍隊と言う組織は、国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではありえない。ところが、その組織の中に、わが国以外の国の為に動こうとしたり、革命を夢見て権力を掌握しようとするメンバーが存在し、その目的のために組織的に武力を用いる意思があれば、どこの国にとっても怖ろしい存在となりうるものなのだ。そしてわが国の場合においては、本当に怖かったのは正確に言えば「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込み、最後に共産主義革命を起こそうとした軍隊」なのではなかったか

いつの時代もどこの国でも、自国と敵対する国の工作員にとっての重要な工作対象は、政治家やマスコミも重要だろうが、一番重要なターゲットはその国の軍隊だと思うのだ。なぜなら、その工作が成功すれば、さしたる武力を使わずとも相手国を倒すことが容易になるからだ

以前このブログでも書いたが、1928年(昭和3)のコミンテルン第6回大会に採択された決議内容には「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」と書かれていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html
わが国は、帝国陸海軍がコミンテルンの工作対象になっていることに対し、あまりにも危機感が乏しく、リスク管理が甘かったと言わざるを得ないのだ

話を元に戻そう。
いろいろ調べていくと、張作霖爆殺事件について事件にかかわったメンバーは処分されていない。同様に『玉音放送』を阻止しようとし、多くの人命が失われた『宮城事件』についても誰も処分されず、クーデターに加わったことが明らかなメンバーも、戦後をのうのうとして生きたのである。彼等の多くは防衛庁や自衛隊に入っているが、戦後しばらくは再び共産主義革命のチャンスをうかがっていたのではないか。
思想安全地帯に赤化分子

前回の記事で、昭和7年の2月に陸軍士官学校に赤化運動が起こり4名が放校処分されたという新聞記事を紹介したが、この記事の出た前後の卒業生に『宮城クーデター』を実行した中心メンバーや、ソ連とつながりがある人物が少なくないことが分かる。ソ連の特殊工作員となったということは、ガチガチの共産主義者でなければありえないはずだ。
私の記事で名前の出てきた共産主義者と宮城クーデターに参加した人物を、卒業年次順に並べてみると次のようになる。
陸軍士官学校

【33期】大正10年(1921)7月卒業
水谷一生大佐(近衛師団参謀長:宮城事件で竹下中佐に協力を約していたが、東部軍司令部に説得される)
【35期】大正12年(1923)7月卒業
荒尾興功大佐(軍務局軍事課課長:宮城事件首謀者の1人。戦後は復員庁に勤務)
【39期】昭和2年(1927)7月卒業
不破博大佐(高級参謀: 宮城事件に参加を約していた。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
【42期】昭和5年7月卒業
稲葉正夫中佐(宮城事件計画立案者。戦後防衛庁防衛研修所戦史室に勤務)
竹下正彦中佐(宮城事件首謀者の1人。阿南陸相の義弟。戦後、陸上自衛隊東部方面総監)
【44期】昭和7年(1932)7月卒業
瀬島龍三中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。後に伊藤忠会長)
【45期】昭和8年(1933)7月卒業
朝枝繁春中佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後商社勤務)
井田正孝中佐(宮城事件首謀者の1人。戦後は在日米軍司令部戦史課に勤務後電通に入社)
椎崎二郎中佐(宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決)
【46期】昭和9年(1934)7月卒業
畑中健二少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与。昭和20年8月15日自決)
【47期】昭和10年(1935)6月卒業
石原貞吉少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加を約していた。)
【50期】昭和12年(1937)12月卒業
窪田兼三少佐(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)
【52期】昭和14年(1939)9月卒業
古賀秀正少佐(近衛師団参謀:宮城事件に参加。昭和20年8月15日自決。東条英機の女婿)
志位正二少佐(ラストボロフ証言によるとソ連の特殊工作員として訓練を受けた。戦後外務省、海外石油開発株式会社勤務。日本共産党委員長志位和夫の伯父)
【54期】昭和15年(1940)9月卒業
北畠暢男大尉(近歩二第一大隊長:古賀少佐の依頼により宮城事件で兵力投入)
佐藤好弘大尉(近歩二第三大隊長:宮城事件でNHK会長ら18人を拉致)
【55期】昭和16年(1941)7月卒業
上原重太郎大尉(宮城事件で森近衛師団長ら殺害に関与)

『宮城クーデター』に関与した将校クラスのメンバーはまだまだあるが、興味のある方は別宮暖朗氏の『終戦クーデター』のp.4~7にリストが出ているので参考にしていただきたい。
阿南惟幾大将は陸軍士官学校18期(明治38年[1905]卒業)であるが、このような過激なメンバーを将校クラスに多数抱えた陸軍大臣であったわけである。

阿南陸相は『ポツダム宣言』を受諾するかどうかで、会議では最後の最後まで徹底抗戦を主張していたのだが、これは陸相の『腹芸』で、本心は別のところにあったという説がある。

その説を一笑に付す論者が多いのだが、終戦を決めた鈴木貫太郎内閣当時の内閣書記官長であった迫水久常氏の『終戦の真相』と言う論文を読んで、私も『腹芸』の可能性を感じるようになった。迫水論文の重要な部分を引用する。
迫水久常

当時の陸軍の状況から申しますと、若し(もし)阿南さんが終戦に賛成されたら、必ず部下に殺されていたと思います。若し阿南さんが殺されたら内閣としては、陸軍大臣を補充しなければなりません。当時の陸軍大臣は陸軍の現役大・中将ということになって居りましたので、その補充について軍が承諾しない限り出来ないのであります。若し陸軍大臣を補充できなければ、鈴木内閣は総辞職する外(ほか)ありません。あの場合、鈴木内閣が総辞職したらどうなりますか。終戦は出来なかったでしょう。阿南さんはこのことを知って命を保って、鈴木内閣をして終戦を実現さるために、あの腹芸をなされたのです。若し心から終戦反対なら辞職されて了(しま)えばやはり鈴木内閣はつぶれて終戦は出来なかったでしょう。」(正論臨時増刊号 終戦60周年記念『昭和天皇と激動の時代』p.90)

少し補足しておこう。
当時には、軍部大臣(陸軍、海軍)の補任資格を現役武官の大将・中将に限っていた『軍部大臣現役武官制』という制度があり、そのために内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことが可能であったのだ。
過去、陸軍が組閣に協力しなかったために内閣が総辞職した事例として、第37代の米内内閣が有名だ。米内光政首相は日独伊三国同盟反対論者であったために陸軍から不評を買い、陸軍は畑俊六陸相を単独辞職させたのち、後任の陸相を推薦しなかった。そのために、米内内閣はわずか半年で総辞職に追い込まれている。(昭和15年[1940])
他にも昭和12年(1937)に広田内閣の寺内陸相が衆議院解散を要求し、広田首相が内閣総辞職を行ない、後任として組閣大命を受けた宇垣一成に対して、陸軍が陸軍大臣の候補者を出さなかったために組閣ができなかった事例がある。
阿南陸相

迫水氏が指摘している通り、阿南陸相がもし本気で徹底抗戦を考えていたのなら、自ら辞表を出せば簡単に鈴木内閣を総辞職に追い込むことが出来たのである。ではなぜ、阿南は辞任しなかったのか
実際に阿南陸相は、14日正午過ぎに首相官邸閣議室において、クーデターを起こした義弟の竹下正彦中佐らから陸相辞任による内閣総辞職、さらに再度クーデター計画「兵力使用第二案」への同意を求められたが、阿南はこれを退けたことがWikipediaにも書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
機関銃下の首相官邸

迫水氏は別の著書でこう述べている。
「…終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから自分にまかせよといわれたという。当時の状勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに違いない。かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮を自ら引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。『一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル*』とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかっただろうか。阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。…」(ちくま学芸文庫『機関銃下の首相官邸』p.334-335)
*阿南陸相の遺書

迫水氏によると、14日に阿南陸相は終戦の詔書の署名したのち鈴木貫太郎首相を訪れて、涙を浮かべながら首相にこう謝罪したという。
「終戦についての議がおこりまして以来、私はいろいろと申し上げましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申し上げます。私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように。」
鈴木首相はうなづきながら、阿南陸相に歩み寄られて「そのことはよく判っております。しかし、阿南さん皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから。」と述べたという。そして陸相が丁寧に一礼して部屋を去った後に、総理は迫水氏に「阿南君は暇乞いにきたのだね」とつぶやいたという。

阿南陸相は昭和4年(1929)から昭和8年(1933)までの4年間は侍従武官を務めており、当時の侍従長が鈴木貫太郎であったそうだ。また昭和11年(1936)の2.26事件の時に鈴木侍従長が襲撃され重体になった時には阿南は陸軍幼年学校長であり、阿南校長はこの時の生徒への訓話の中で叛乱将校を厳しく批判し、軍人は政治にかかわるべきでないと説いたという。
そして昭和20年4月、昭和天皇のご意志により、鈴木貫太郎が首相を拝命し、鈴木は即座に陸軍省に赴いて、阿南の陸相就任をとりつけたそうだ。陸相就任の数日後に阿南は友人にこう語ったという。
大臣が自ら責任を負わねばならぬことがあっても、辞職さえすればその責を逃れたとするような態度は私は絶対にとらない。将来、責任を負わねばならぬようなことに遭遇したら、本当に腹を切って、お上にお詫び申し上げる覚悟だ。」
こういう経緯を知れば、鈴木首相と阿南陸相とは強い信頼関係があったことがわかる。
阿南はわが国が『ポツダム宣言』を受諾し、終戦に至るぎりぎりのところまで鈴木内閣を支え、そして最後の最後にクーデター派を裏切ったのだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog151.html

8月15日未明、阿南陸相は『ポツダム宣言』の最終的な受諾返電の直前に、陸相官邸で切腹した。介錯を拒み早朝に絶命したと記録されているそうだ。
anami_isho.jpg

靖国神社の遊就館の中に、阿南陸相の血染めの遺書や自決時の軍服が展示されているという。
遺書には、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」と記され、
大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし
という辞世の句を残している。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/ziketu-anami.htm

この阿南陸相の自決が、陸軍に強い衝撃を与えたことは言うまでもない。
阿南が終戦処理を託した荒尾興功軍事課長は次のように述べたという。
「全軍の信頼を集めている阿南将軍の切腹こそ全軍に最もつよいショックを与え、鮮烈なるポツダム宣言受諾の意思表示であった。之により全陸軍は、戦争継続態勢から、ポ ツダム宣言受諾への大旋回を急速に始めた。…換言すれば、大臣の自刃は、天皇の命令を最も忠実に伝える日本的方式であった。」

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このブログでこんな記事を書いています。
よろしかったら覗いて見てください。

節分の不思議
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幻の映画、「氷雪の門」
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ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
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占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
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【ご参考】
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『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10

前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、国内でこれだけ激しく意見の対立があったのは、この『ポツダム宣言』の内容が、連合国とわが国が戦争を終結するための条件を呈示したものでものであったからとも言える。

このシリーズの最初の記事で『ポツダム宣言』に書かれている内容を紹介したが、この宣言で、連合国はわが国に対して、条件付きで戦争を終結させようと提案してきたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-290.html

なぜ連合国が、わが国の本土決戦の前にこのような提案をしてきたのだろうか。
もし『ポツダム宣言』がなければ、連合国が勝利するためには、わが国が降伏するまで攻撃をし続けるしかなかったのだが、わが国は簡単には降伏しそうな国ではなく、本土決戦に突入すると、わが国だけではなく連合国側にもさらに多くの犠牲者が出ることが予想されていた。
ポツダム宣言』が発表された背景には、連合国側に、これ以上犠牲がでることを避けようとする意図が見えてくるのだ。

実は『ポツダム宣言』以前にも、アメリカは、何度もわが国に対して降伏勧告をしていたようだ。
それまでのアメリカの動きを、このシリーズの最初に紹介した山下祐志氏の論文『アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(11)――ポツダム宣言の発出』を参考にみていこう。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980158.pdf?id=ART0001156844&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1391217393&cp=

トルーマン大統領

1945年(昭和20)5月7日にドイツが無条件降伏すると、アメリカのトルーマン大統領は次のような対日降伏勧告声明を発している。
日本軍の無条件降伏は日本国民にとってはなにを意味するのかといえば、それは戦争の終結にほかならない。日本を惨禍の淵に追い込んだ軍部指導者の無力化を意味する。兵士たちが家庭に、農場にまた職場に復帰できることを意味する。またそれは勝利の希望のない日本人の現在の苦悩や困難をこれ以上引きのばさないことを意味している。無条件降伏は決して日本国民の絶滅や奴隷化を意味するものではない。」

しかしわが国政府は5月9日に次のような声明を発して、あくまで徹底抗戦することを告げている。
「帝国と盟を一にせる独逸(ドイツ)の降伏は帝国の衷心より遺憾とするところなり、帝国の戦争目的はもとよりその自尊と自衛とに存す。これ帝国の不動の信念にして欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝国は東亜の盟邦と共に東亜を自己の欲意と暴力の下に蹂躙せんとする米英の非望に対し、あくまでも之を破摧しもって東亜の安定を確保せんことを期す。」

アメリカはそれ以降、ザカリアス米海軍大佐によって、14回にわたって降伏勧告を求める放送を実施したのだが、わが国を動かすことはできなかった。

空襲だけでは日本を降伏にまで追い込むことはできないと考えられ、九州上陸作戦および関東平野上陸作戦が検討されていて、その作戦を実行に移したとしても、もし300万人近い内地の日本軍将兵が山地や森林にこもってゲリラ戦を展開したとしたら、米軍側に大量の犠牲者で出ることは確実であり、あまり時間をかけすぎれば、ソ連が対日参戦して北海道や東北を狙ってくることも充分に考えられたのである。

アメリカがそう考えたのも無理もない。米軍は硫黄島、沖縄の戦いで多くの犠牲者を出している。
硫黄島の戦い

例えば、硫黄島の戦いについてWikipediaではこう解説されている。
「日本軍に増援や救援の具体的な計画は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、また、硫黄島上陸後わずか3日間にて対ドイツ戦(西部戦線)における「史上最大の上陸作戦」ことオーバーロード作戦における戦死傷者数を上回るなど、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地のひとつとして知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

硫黄島には、米軍は日本軍2.3万人の5倍にあたる11万人もの兵士を送りこんだのだが、日本兵を上回る犠牲者を出していたというのは驚きだ。この戦いで日本兵は約千名が捕虜になった他はほとんどが戦死あるいは自決したという。それにしても、日本軍は少ない兵力ながらも、僅かな武器を有効に用いて、勇敢に戦ったのである。
また沖縄戦も同様に、米兵は日本兵の5倍の55万人の兵士を送り込んで戦ったのだが、8.5万人もの死傷者を出している。

このような日本軍の悲壮な抗戦は決して無駄ではなかったとも言える。もし硫黄島も沖縄も米軍の圧勝で終っていたなら、『ポツダム宣言』のような終戦条件の提示はあり得ず、わが国は本土決戦で焦土となり多くの人命が失われ、敗戦後はドイツなどと同様に国土が分断されていたに違いない。
アメリカでは1944年10月のレイテの戦いが始まる前あたりから、出来るだけ早く条件付き終戦に持ち込もうとする考えがでてきたようだが、硫黄島や沖縄の戦いにおける米軍の犠牲が大きかったことが、その流れを加速させたと言えるだろう。

山下祐志は上記論文でこう述べている。
「日本捕虜の意識調査をしていたジョン・エマーソンらのグループは、すでに1944年10月10日の時点で、日本の早期降伏をもたらすためには国体護持を認め、なおかつ日本人が将来に希望を持ち得るよう『無条件降伏以上のことを告げるべき』との報告書を提出しており、ザカリアス大佐の対日放送もこれに準じたものであった。ゆえにこの日、ジョン・マックロイ陸軍次官が、本土上陸作戦の代案を検討すべきだと主張した。彼の考えは、大統領が立憲君主としての天皇制の保持を認め名誉ある降伏を日本人に勧告する個人的メッセージを発表すべきだ、というもので、この勧告は、もし日本人が拒否した場合には原爆をみまう、という警告と組み合わせて出すのが効果的だとした。彼の提案に対してトルーマン大統領は、原爆にはいっさい言及することなく対日警告文をもっと練り上げるように命じた。まだ、原爆実験成功の確証がなかったことと、ソ連に秘密にしたまま原爆の研究・製造を進めるべきだ、という意見が関係者の間で支配的であったからである。ともあれ、この決定によって、後の『ポツダム宣言』が実現に向かって一歩を進めることになる。」(同上論文 p.14)

その後国務省内で、親日派と親中国派との係争があり、『ポツダム宣言』の公表文書が出来上がるまでにはかなりの紆余曲折があったようだ。

一方わが国にとっては、『ポツダム宣言』が連合国からの終戦条件の提示であったからこそ、受諾するかしないかで国論が2つに割れた。
もしこの文書が無条件降伏を要求するものであれば議論の余地は乏しく、陸軍主導で本土決戦に進んでいたものと思われるのだが、「国体護持」に希望が持てたからこそ、昭和天皇の『御聖断』によりわが国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、終戦することを選択したのである。

重要なポイントなので繰り返して言おう。
『ポツダム宣言』はわが国に無条件降伏を勧告した文書ではなく、戦争を終結させるために連合国からの条件を呈示した文書である。さらにこの文書は、わが国のみならず連合国をも拘束する双務的な協定である。だからこそわが国は、これを受諾したのだ
アメリカもこの文書に拘束されることは、アメリカの公文書の中に記録がある。
「ポツダム宣言は降伏条件を提示した文書であり、受諾されれば国際法の一般規範によって解釈される国際協定をなすものになる」(『アメリカ合衆国外交関係文書・1945年・ベルリン会議』所収第1254文書「国務省覚書」)

ところが『ポツダム宣言』の各条項を、わが国は遵守したのだが、連合国がそれを平然と無視し、わが国でやりたい放題の国際法違反を重ねたのである

連合国の重大な違反行為をいくつか指摘しておこう。
例えば『ポツダム宣言』の第9項には、
日本国の軍隊は完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を得ることとなる。」とある。
シベリア抑留

このブログで以前書いたが、50万人以上の日本人が戦後ソ連に抑留された史実は、明らかにこの条項に違反する。ソ連は対日参戦と同時に『ポツダム宣言』の署名国に参加し、この「協定」の拘束を受けているはずだ。

また、わが国が『ポツダム宣言』を正式に受諾した後に、ソ連がわが国の北方領土を占領し不法占拠を続けている問題も、ポツダム宣言の第8項で、領土不拡張を掲げたカイロ宣言の精神を承継しているという原則を侵害している

また『ポツダム宣言』の第10項には、
われわれは、日本人を民族として奴隷化しようとしたり、国民として滅亡させようとする意図を持つものではない。しかし、われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられることになる。日本国政府は、日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去するものとする。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立されるものとする。」とある。

しかし、昭和20年9月から占領軍による検閲がはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、出版物であれ放送原稿であれ私信であれ、たとえその内容が真実であっても、徹底的に排除された。
さらにGHQは西洋の世界侵略や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書など7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄させている。(GHQ焚書)

次のURLに新聞雑誌などに適用された「プレスコード」の全項目が書かれているが、アメリカ・ロシア・イギリス・朝鮮・中国など戦勝国への批判は許されず、占領軍が日本国憲法を起草したことに言及することも許されなかった
http://www.tanken.com/kenetu.html

そもそも、占領軍がわが国に憲法を押し付けることは国際法違反である。
1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議で採択され、1907年の第2回万国平和会議で改訂された『ハーグ陸戦条約』第43条にはこう書かれている。
「国の権力が事実上占領者の手に移った上は、占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない。」

また、東京裁判では「平和に対する罪」「人道上の罪」という国際実定法上根拠のない「事後法」により訴訟が提起され、この裁判で多くの日本人被告が裁かれたのだが、この行為も明らかに第10項に違反している
東京裁判

「A級犯罪」というのは「平和に対する罪」で、「A級戦犯」というのはこの罪を問われた日本人のことである。同様に「B級犯罪」というのは「通常の戦争犯罪」で、「C級犯罪」は「人道上の罪」であり、「A級」「C級」というのはいずれも「事後法」なのである。

そもそも戦争を起こしたことを犯罪とする法律は存在しない。
東京裁判において、連合国が「罪刑法定主義」の法治社会の根本原則に違反して、日本の指導者たちを「事後法」で裁いたことは、裁判らしき形式はとってはいるものの、実態は法律とは無関係の行為である。裁判は法に基づいて裁くものであって、感情や道義で裁くものではないはずだ。
百歩譲って「事後法」で裁くことを許容したとしても、「平和に対する罪」「人道上の罪」という罪状で戦争犯罪人を裁くのであれば、アメリカの原爆投下やソ連のシベリア抑留をなぜ裁かないのか。連合国側には適用されず、わが国にだけそのような罪を適用するのは、「法の下の平等」にも反する行為であり、実態は勝者の敗者に対する野蛮な報復行為でしかなかったのだ。

また『ポツダム宣言』第12項を読めば、現時点で米軍がわが国に駐留していることも協定に違反していることになる。
前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意志にしたがい平和的傾向を持ち、かつ責任ある政府が樹立されたときには、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収するものとする。」

これだけ重要な違反があるのに、なぜわが国の政治家はアメリカやソ連に対して言うべきことを言わなかったのかと誰しも思うところである。
しかし官僚には気骨のある者がいたようだ。以前紹介した江藤淳氏の『忘れたことと忘れさせられたこと』のp.231にこんな記述がある。
占領中に、日本は『無条件降伏』していないという事実を隠蔽し、封殺しようとする圧力が存在したことについては、証言する人々がある。たとえば『終戦史録』第6巻の月報に執筆していている下田武三氏は『ポツダム宣言による戦争終結は、無条件降伏でないと国会答弁で喝破して、条約局長を罷めさせられた萩原徹氏』の例をあげている。」
萩原徹氏の国会答弁を「国会会議録検索システム」で検索しようとすると、該当部分が引っかからないのだ。占領軍から圧力がかかって速記録から削除されたのだろうか。
http://kokkai.ndl.go.jp/

わが国では戦後の長い間にわたり、「わが国は『ポツダム宣言』を受諾し、連合国に対して無条件降伏した」という謬説が国民に広められてきた。堂々と違反してきた連合国側に問題あったことは言うまでもないが、GHQの占領期が終わってからも、それに対して何も反論してこなかったばかりか、謬説を繰り返すばかりであったわが国の政治家やマスコミ・言論界の罪は大きいと思う。

連合国が重大な数々の違反行為を国民に隠蔽するために「無条件降伏」であることを国民に広めようとしたのだろうが、その安易な対応が「戦勝国はすべていい国だったが、日本だけが悪い国であった」というとんでもない歴史観を押し付けられることに繋がったのだと思う。
そのような歴史観は、戦勝国にとって都合の良い歴史観であることは当然だが、戦争を機に共産主義革命を起こそうとして数々の工作を繰り返した事実を隠蔽するのにも都合の良い歴史観でもある。アメリカだけでなく中国やわが国の左翼が、わが国の歴史教育の見直しの動きに過敏に反応する理由はそのあたりにあるだろう。

東京裁判で戦勝国11人の判事のうち、ただ一人被告全員の無罪を判決した、インド代表のパール判事はこう述べている。
パール判事

「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼等の戦時謀略に誤魔化されてはならぬ。日本が過去の戦争に於いて、国際法上の罪を犯したという錯覚に陥る事は、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈な植民地民族に転落する。」
今のわが国は、パール判事の予言の通りの状態になってはいないか。そして今も身近な国から無理難題を押し付けられているばかりである。

今さらアメリカやソ連や中国を恨んでも仕方がない。世界の国はいずれも、いつの時代も、国益を考えて動いているだけのことである。わが国も現在および将来の国益のことをもっと考えて行動するしかない。当たり前のことだと思うのだが、史実に照らしてまた国際法や慣習に照らしておかしなことは、安易に認めてはいけないのである。そこを何度も認めてしまったからおかしなことが続くのだ。
河野洋平

問題は、わが国が国益を深く考えずに強大国に迎合し、それらの国々が押し付けてきた歴史を十分な検証もせずに受けいれて真実の解明を避けてきたわが国の姿勢であり、政治家やマスコミや教育界や官僚が長い間、国民に歴史の真実を伝えてこなかった姿勢なのである。

今からでも遅くはない。今後のわが国の再生のためには、一人でも多くの国民が歴史の真実を知ることに目覚め、偏頗な歴史観に騙されないことだ。そしてバカな政治家を選ばないことだ。
世論が動いて、政治家もマスコミも米中韓などに安易に迎合できなくなる日は来るのか。

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アメリカは当初、京都を原爆投下の第一のターゲットにしていた

私は京都に生まれて京都で育ったが、子供の頃に何度となく「京都の文化遺産を守るために、アメリカは京都の空襲を控えた」という話を聞かされていて、単純にそう信じていた。しかし、ネットでいろいろ調べると、京都でも昭和20年(1945)に何度かアメリカ軍による無差別爆撃がなされていることがわかる。

ネットでは諸説があり、あるサイトでは空襲回数は合計20回を超え、死者302人、負傷者561人と書いているのだが、残念ながらそのサイトでは、いつどこで、どの程度の規模の空襲があったかが良く分からない。

京都馬町空襲

ネットで探すと、1月16日の東山区馬町の空襲の写真を容易に見つけることが出来る。
Wikipediaの「京都空襲」によると5回の空襲があり、日付と場所が具体的に記されている。

「第1回 1月16日23時23分頃、東山空襲(東山区馬町)被災家屋140戸以上
第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)
第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死傷者100人以上
報道管制が敷かれたため被害の詳細は判明していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そして極めて重要なことが、そのあとにサラリと記されている。

第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。原爆投下目標だったからとされる。」

この文章を普通に読めば、もうすぐ完成する原爆の威力を確認するためには、原爆を投下する前に通常爆撃で京都を焼け野原にしてしまうわけにはいかないので、アメリカは意図的に6月26日以降の空襲を停止したということになる。
米軍の資料によると京都市内の梅小路機関車庫が原爆投下予定地点であったという。

radius4km.jpg

次のURLにその場所と、その地点を中心に半径4kmの同心円が描かれているが、こんな場所に落とされては、広島以上の犠牲者が出たことは確実で、さらに東寺や西本願寺、東本願寺、三十三間堂をはじめとする多くの歴史的建造物と文化財を焼失させていたことだろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/j_map/umekouji.html

話を京都の空襲規模に戻そう。5回あったとされる京都市の空襲は他の都市と比べて、極端に少なかったと言えるのだろうか。

Wikipediaによると、昭和19年(1944)末頃から米軍機による空襲が熾烈となって、翌年8月15日の終戦当日まで続けられたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あるが100万とするものもあり、被災人口は970万人に及んだ。被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した」とある。

b-29s_dropping_bombs.jpg

上記URLに『都道府県別被害数』がまとめられているのだが、それを見ると京都府の空襲被害は人口や世帯数の割に極めて少なく、大阪府や兵庫県と比べると死傷者の数は2ケタ違う。アメリカが意図的に京都を温存していた可能性を感じざるを得ない。

ではどういう経緯で京都が原爆投下の対象とされることになったのか。またなぜ途中で京都が候補から外されて、広島と長崎に投下されることになったのか。その経緯について述べる前に、アメリカの原爆開発から原爆投下までの歴史をおさらいすることにしたい。

第2次世界大戦中の1941年に、アメリカで核兵器開発を計画する部署が設立され、1942年に物理学者ロバート・オッペンハイマーほか当時最高レベルの科学者、技術者を一堂に集められ、マンハッタン計画という名の本格的な核兵器開発のプロジェクトが始まった。

この計画に対してアメリカは当時の額面で19億ドルもの資金を投入して秘密裏に研究が進められ、そして1945年7月上旬には原子爆弾を完成させて、7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)に成功している。この実験は、米英ソの首脳が集まって第二次世界大戦の戦後処理を決定するために開かれたポツダム会議の前日に実施されたのだが、この実験に成功したニュースがポツダムにいたトルーマン米大統領に伝えられたのは7月18日だという。

ヤルタ会談

実は、アメリカは1941年の開戦当初から、ソ連に対して対日参戦要請をしていたようだが、スターリンがようやく対日参戦の時期に言及したのは、1945年2月に開かれたヤルタ会談においてであった。その会談でスターリンは、樺太南部の返還と千島列島の引渡しなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月での対日参戦を米英首脳に密約したとされる。

そしてドイツは同年の5月8日に連合国に対し無条件降伏したのが、この時点でアメリカは、ソ連が約束通り8月までに対日参戦することを期待したはずである。

ポツダム会談三首脳

7月15日にポツダム会議に出席したトルーマンは、スターリンから、8月15日に対日参戦する旨の確約を得たのだが、その翌日に原爆実験成功のニュースが伝えられてトルーマンは豹変したという。

ポツダム会談の席上で原爆実験成功のニュースを聴いたトルーマンについて、オリバー・ストーンは著書でこう解説している。

トルーマン、バーンズ、グローヴス*は、これでソ連の手を借りずともアメリカが望む条件で日本の降伏を早期に実現でき、ソ連に確約していた領土と経済上の譲歩もする必要がなくなったと考えた。スティムソンは述べている。『大統領は報告書に浮かれたようになり、会うたびに何度もそのことを口にした。彼は依然とまったく異なる自信を得たと語った』。トルーマンはそれまでの会談はチャーチルやスターリンに主導権を握られていたが、以後は審議を牛耳るようになった。ウィストン・チャーチルが実験後初の本会議での様子について、『私には合点がいかなかった。報告書を読んだあとの彼は別人だった。ロシア人たちにあれこれ指示し、会議をおのれの意のままに進めた』と書いている。」(ハヤカワ文庫『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 1』p.367)
*トルーマン米大統領、バーンズ米国務長官、グローヴス陸軍少将(マンハッタン計画責任者)

ポツダム会談

原爆実験が成功した以上、トルーマン、バーンズ、スティムソン*はもはやソ連の参戦を望まなかった。ソ連が参戦すれば、ルーズベルトがヤルタ会談でソ連に約束した譲歩を実施に移さなければならないからだった。7月23日、チャーチルは『アメリカが現段階でソ連の対日戦争参戦を望んでいないのは歴然としている』と述べた。バーンズは『今回の実権が成功したと知った以上、大統領も私もソ連の参戦を望まない』と記している。…トルーマンと顧問たちにとって、これ(日本の降伏)を達成する方法は明らかだった。原爆を落せばよいのだ。トルーマンは述べている。『ソ連が参戦する前に日本は折れるだろう。マンハッタン計画の産物が頭上で炸裂すれば、日本は間違いなくそうすると私は確信している』。」(同上書 p.370)
*スティムソン:陸軍長官

このようにアメリカは、日本を早期に降伏させるために、はじめから原爆を落とすことを考えていた。ではどこに落とそうと考えていたのだろうか。

原爆投下場所についての検討はかなり以前からなされていたらしく、1945年5月12日付のアメリカの極秘文書に、京都が第一候補に書かれていることが確認できる。(英文)
http://www.dannen.com/decision/targets.html
その訳文は次のURLにある。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

その文書によると、京都が選ばれたのは、まだあまり破壊されていない大都市であることと、「他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的に大きいという利点がある」という点。すなわち、米軍の新型爆弾の恐ろしさを認識するだけの知的レベルがあり、日本が降伏を決断するきっかけとなり得るということを述べているようだ。

大阪空襲
【大阪空襲】

また、トルーマンがポツダムで原爆実験のニュースを聞いた5日後の7月21日に、米軍陸軍第20航空部隊が対日爆撃の中間総括を試みる報告書『中小工業都市地域への爆撃』を作成している。その報告書には、6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けしたリストがあるという。

Wikipediaでそのリストが紹介されているが、それによると京都市は、東京都、大阪市、名古屋市に次いで攻撃すべき都市の4番目にリストアップされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そのうち、名古屋市については過去5回の攻撃を実施しておりこれ以上の攻撃は不要であるとし、さらに東京都、大阪市も5回の攻撃を行なっており、あと1回の攻撃を行なえばよいと書かれているのだそうだ。では京都市についてはどう書かれているのか。

その報告書の中で都市爆撃を免除する3つの例が示されていて
 1. 原子爆弾の投下目標として、爆撃対象から除外された4都市。
    ・京都市、広島市、
小倉市(現北九州市小倉北区、小倉南区)、新潟市
  2. レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市
    ・八幡市、山形市、福島市、会津若松市、郡山市、川口市、瀬戸市、高山市、吹田市、長崎市、布施市、久留米市、若松市、戸畑市、都城市
  3.  北緯39度以北にあるため、硫黄島を基地として使用するまでは目標がサイパン島から遠すぎて攻撃不可能であった17都市。
    ・札幌市、函館市、小樽市、室蘭市、青森市、秋田市、盛岡市、旭川市、八戸市、釧路市、弘前市、釜石市、帯広市、池田町、川内町、能代市、宮古市」

とあり、京都市は原爆投下の最有力候補であったことがわかるのである。

しかしながら、京都を原爆のターゲットすることについては当時陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが強力に反対して最終的に外されたようなのだが、彼が反対した理由はどのようなものであったのか。

ヘンリー・スティムソン

スティムソンの7月24日付けの日記には、彼がトルーマン大統領に進言した内容が記されているが、これを読めば彼が京都の文化財を守るために進言したわけではなかったことが誰でもわかる。

「私は大統領に対し、提案されている目標のなかの一つ(京都)を除外すべきであると私が考える理由を再び述べた。大統領は、この問題について大統領自身の賛成の考えを、この上なく力をこめて繰り返し述べた。私が、もし除外しない場合には、そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、長期にわたってその地域で日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろわれわれに対して友好的な感情をもたせることが不可能になるのではないか、と提言したところ、大統領は、とくに力をこめてこれに賛同した」(『スチムソン日記(抄)』1945年7月24日付)
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

アメリカは、わが国がソ連を仲介とする和平工作に動き出しており、ソ連に期待をかけていた勢力が政界にも軍部にも少なくなかったことはわかっていた。もしアメリカが京都に原爆を投下したとしたら日本人を怒らせて、戦後日本がソ連に接近するようになってしまっては、アメリカがアジアにおいて主導権を取ることが難しくなることを懸念したのであろう。
スティムソンの説得が功を奏して、最初の原爆の投下地は広島に変更され、長崎が候補地に追加されることになった。
そして7月25日にトルーマン大統領が原爆弾投下の指令を承認しているのである。ポツダム宣言が出る以前に、アメリカはわが国に原爆を投下することを決断していたことは重要なポイントなのだが、例えば『もういちど読む 山川日本史』では、こう記されている。

「1945年7月、米英ソ3国首脳はふたたびポツダムで会談し、その機会に米英中3国(のちにソ連も参加)でポツダム宣言を発し、日本に降伏を呼びかけた。
 しかし、ソ連を仲介とする和平の実現に期待していた日本政府は、はじめポツダム宣言を黙殺する態度をとった。これに対してアメリカは、同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、一瞬のうちに市街地を壊滅させ、多数の一般市民を死亡させた。…」(『もういちど読む 山川日本史』p.313)

この文章を普通に読むと、わが国がポツダム宣言を黙殺したから原爆が落とされたかのような書き方になっているのだが、真実はポツダム宣言が出る前に原爆投下が決定されていたのである。

長崎原爆

わざわざ原爆を落とさなくとも日本の敗北は必至だったのだが、ではなぜアメリカは軍事的にあまり必要と思われない原爆をわが国に落としたのだろうか。この点については、前掲のオリバー・ストーンの著書がわかりやすい。

ソ連の指導者は喜ぶどころの騒ぎではなかった。すでに瀕死の状態にある国家を叩きのめすのに原爆は必要ないと承知していたことから、彼らは真の標的がソ連であると結論付けた。アメリカは原爆投下によって日本の降伏を早め、ソ連がアジアの覇者になるのを阻もうとしたと考えたのである。さらに彼らの不安を煽ったのは、アメリカが明らかに無用と思われる局面で広島の原爆を投下したのは、仮にソ連がアメリカの国益を脅かすようなことがあれば、アメリカはソ連に対して原爆を使用することも辞さないという意志の現われと推測できることだった。」(前掲書 p.383-384)

トルーマンもスティムソンも、早期に戦争を終結させるためだけに原爆を用いたのではない。終戦後の戦勝国間において、アメリカがソ連よりも優位な地位に立つことまで考えていたことを理解しなければ、終戦から冷戦に至る歴史を正しく読み取ることは出来ないのだと思う。

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【ご参考】
軍部や官僚の重要メンバーの中にソ連に繋がる者がかなりいたことが今では明らかになっていますが、戦後の歴史叙述ではほとんどそのことが無視されています。しかし、この史実を押さえておかなければ、なぜ関東軍がソ連の対日参戦に抵抗せずに満州をソ連に差出したのか、なぜ昭和天皇の終戦の詔勅の後にクーデターを起こそうとした軍部の動きを理解することは困難です。
興味のある方は、こんな記事を覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった

8月8日付の産経新聞にこんな記事が掲載されていた。
ロシアが、米国による広島、長崎への原子爆弾投下を『犯罪』として糾弾する動きを強めている。米国を唯一の『非人道的な使用国』と宣伝することで自国の核保有を正当化し、さらに日米の分断を図る思惑が見える。『米国の原爆でなく、ソ連の対日戦争こそが第二次世界大戦を終結させた』と主張し、日ソ中立条約を破った事実をかき消そうとする論調も目立つ
 プーチン露大統領に近いナルイシキン下院議長は最近、原爆問題を討議する円卓会議を主催。原爆投下には『当時の連合国であったソ連を威嚇する目的があった』などと批判、『人道に対する罪に時効はない』と述べた。また『米ソの戦略核バランスのおかげで第三次世界大戦は起きなかった』とし、ロシアの核戦力は平和目的であるとの主張すらにじませた。円卓会議の出席者からは『国際法廷』を設けて『米国の犯罪』を裁くべきだとする声が相次いだ。」

長崎原爆

ネットで調べると8月6日のJ-CASTニュースで同様な記事がでている。
ここ数日で、ロシアの国会議員が原爆投下について言及する機会が増えている。ロシア国営のタス通信も、発言を積極的に伝えている
 例えば2015年8月4日には、政権与党『統一ロシア』のフランツ・クリンツェヴィチ第1副代表が、原爆投下について『70年が経った今でも、こういった行動を人道に対する罪だと公式に宣言しても遅くはない』と述べたと報じている。発言では、原爆投下は『背景に軍事的理由はない』として、『米国は原爆投下を威嚇のために利用した。日本に向けてではなく、ソ連に向けたものだった』、『こういった野蛮行為は本質的に正気の沙汰ではなく、人類に対する真の犯罪だと信じている。国連を含めた全ての国際機関が関係する方法で、そのように宣言すべきだ』などと米国を非難している
 セルゲイ・ナルイシキン下院議長は、8月5日にモスクワ国際関係大学で開かれた円卓会議で『原爆投下の記憶はナチスと日本軍による残虐行為の記憶と同様に重要』だと指摘。原爆の悲惨さを伝えるために、在京ソ連大使館が原爆投下直後に本国に送った公電をウェブサイトで公開するように指示したという。」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150806-00000003-jct-soci

このブログで、いつの時代もどこの国でも勝者が、勝者にとって都合の悪い真実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を描いて、それを広めて歴史叙述を固定化させようとしてきたことを、具体事例を挙げながら書いてきた。

そして近世から現代にかけてのわが国の歴史について言うと、戦勝国にとって都合の悪い史実は徹底的に伏せられ、あるいは事実を捻じ曲げられて、学校教育だけでなく新聞・テレビなどのメディアで、戦勝国は良い国でわが国は悪い国であるとの歴史叙述ばかりが拡散されてきたのである。
そのために、戦勝国にとって都合よく描かれた物語がそのまま日本人の常識になり、世界での認識においてもほぼ同様となっている。

原爆ドーム

ところがロシアは戦後70周年を迎えた今年になって、アメリカによる原爆投下を『人類に対する真の犯罪である』として、『国際法廷』を開いてアメリカを断罪すべきであると発言したというのだが、分かりやすく言えばロシアは、戦勝国が日本を悪玉にして作り上げた「戦勝国にとって都合の良い歴史叙述」を、「アメリカにとって都合が悪く、ロシアにとっては都合の良い歴史」に書き換えようとしている動きが出てきたということである。
しかしながら、そもそもロシアはアメリカを断罪する資格があるのだろうか。

シベリア抑留

このブログで何度かシベリア抑留の事を書いたが、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいて、そのうち約107万人がシベリアやソ連各地に送られて強制労働させられたと言われている。
昭和25年12月に外務省は37万人が未帰還であると公式に発表しており、うち31万名は氏名も判明していたのだが、それから後にソ連からわが国にから帰還してきた人はわずかに2594人だったという。恐らく30万人以上の日本人が極寒の地で命を落としたと考えられるが、このシベリア抑留もアメリカの原爆投下と同様に明らかな国際法違反であり、人類史上最大級の犯罪であった。

自国の戦争犯罪を棚に上げてロシアが『歴史戦』を仕掛けてきた狙いは、産経の記事にあるように、日米の分断をはかろうとしているのだろう。そしてロシアの背後には中国がいるはずだ。

そう言えば今年のテレビの『終戦70周年記念』の特別番組はやたら原爆の話題が多く、今までテレビではあまり見たことのないような、被爆者の皮膚がひどく焼けただれた画像がやたら多く出た一方で、ソ連のシベリア抑留の解説が少なかったのは、ロシアが仕掛けてきた「歴史戦」と無関係ではないのだろう。

先ほどロシアの背後に中国がいると書いたが、歴史問題に関してはここ数年、両国は連携を強めてきている。そして中露にとって都合の良い歴史は、わが国の左派勢力にとっても都合の良い歴史であることは言うまでもない。

ここで、中国とロシアが歴史問題で共闘してきた経緯を振り返っておこう。

メドベージェフ国後島訪問

戦後65年に当たる5年前(2010年)に、当時の胡錦濤国家主席とメドベージェフ大統領は「中露は第二次大戦の歴史の歪曲を断固非難する」との文言を含む共同声明を発表し、その後、中国は尖閣諸島や歴史認識をめぐって対日圧力を強め、メドベージェフ氏もソ連・ロシアの指導者として初めて北方領土を訪問した。
第二次大戦における対日戦で共闘したとの歴史認識を共有し、中国は尖閣諸島、ロシアは北方領土の領有権主張につなげる構図が鮮明になったのだが、当時のわが国は民主党政権の時代で、まともな対応をしなかった。

その後中国は国際ルールを無視して、フィリピンの了解にある南シナ海の南沙諸島で、暗礁を埋め立てて滑走路や軍事施設などの施設の建設を今も進めている。
わが国のマスコミではこの問題をあまり報じていないのが気になるが、南シナ海は原油や液化天然ガス(LNG)の半分近くが通る世界経済の大動脈であり、この問題を放置すればいずれ中国は南シナ海の制海権を掌握し、各国の船舶は自由な航行が出来なくなる可能性が高いのだ。

一方ロシアはウクライナへの軍事介入を行なって、昨年(2014年)3月にはウクライナ南部のクリミアを独立させてロシアに編入することを決定した。欧米の主要国がロシアを非難ししたのち経済制裁を科してわが国も同調したのだが、プーチンは日本に対して高圧的な姿勢に転じて、閣僚に北方領土を視察させ、先日の報道によると、極東地域の振興策として来年1月からは土地を国民向けに無償で分与する法案を準備していて、北方4島にも適用されることが報道されている。こんなことを放置してしまっては、北方領土の返還が益々遠のいてしまう。

ロシアは中国やわが国の左翼マスコミ等と連携して、日本人の歴史認識を「自虐史観」のまま固定化したうえで、アメリカの原爆投下は「ナチスと日本軍による残虐行為の記憶と同様」だとして日米の離反をはかろうとしているようだが、普通に考えると、ロシアから「国際法廷を開いて断罪すべき」とまで言われたアメリカが、何時までも沈黙を続けるとは思えない。
これから戦勝国同士の『歴史戦』が始まるのかもしれないと思うのだが、その場合にアメリカがとる戦略としては、「ロシアや中国にとって都合の悪い真実」が記された文書を逐次世界に公開していき、中露が主張する歴史叙述の嘘を白日の下に晒して、中国やロシアやわが国の左派勢力の論拠を崩すことが、最も有効なのだと思う。
そしてそのための裏付けとなる史料はアメリカにかなり残されていると思われ、それを少しずつ公開していけば、ほとんど資金を使わず、また軍事力も使わずに、中露に決定的なダメージを与えることができる。

ヴェノナ

以前このブログでも書いたが、第二次世界大戦前後にアメリカ国内に多数いたソ連のスパイやエージェントがモスクワの諜報本部と交わした極秘通信をアメリカ陸軍省特殊情報部が傍受していて、1946年以降に解読に成功したヴェノナ文書がある。
この文書が解読され次々と公開されることによって当時のルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判明し、彼等は太平洋戦争終戦後もしばらくアメリカの政権の中枢部にいてソ連と通じていたことがわかってきたのである。
戦前のアメリカの反日運動の背後にもソ連のスパイがいたこともわかっており、「日米戦争を引き起こしたのは、ルーズヴェルト政権内部にいたソ連のスパイたちではなかったのか」という視点が浮上して、アメリカでは近現代史の見直しについてかなり議論が進んでいるようだ。

次のURLに江崎道朗氏の『アメリカを巻き込んだコミンテルンの東アジア戦略』という論文が掲載されているが、これを読むと、こんなに多くのソ連の工作員がアメリカの中枢部に潜り込んでいたことに誰しも驚きを禁じ得ないだろう。
http://ironna.jp/article/915

一方でわが国の政権中枢や軍隊にもソ連のスパイやエージェントがかなりいて暗躍していたこともわかっているのだが、ではソ連が日米双方に大量のスパイを潜り込ませた意図はどこにあったのか。

当時のレーニンとスターリンの考え方を知れば、ソ連が何を考えていたか誰でもわかる。

レーニン

このブログでも紹介したが、レーニンの『敗戦革命論』の考えかたに基づき、は1928年コミンテルン第6回大会議でこのように決議されている。
帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。


帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
要するに、戦争によって自国政府が敗北し崩壊に向かわせて、共産主義革命を導けと言っているのである

スターリン

また1935年の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこう演説している。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

要するにソ連は、先進国同士を戦争させて消耗させ、最後に参戦して漁夫の利を得ようと考えていたのである。そしてスターリンのこの戦略を実現するための工作員や協力者が世界中に根を張っていて、わが国の政界や軍の中枢にも上層部にも多数存在していたのである。以前このブログでも書いたが、「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉はソ連のスパイであった尾崎秀実らのグループによって広められ、このスローガンで日本を対ソ不戦に導く「南進論」に導いたのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

産経0811

上の画像は、平成25年8月11日の産経新聞の記事だが、これによると、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受したことが機密電報でロンドンに伝えられ、英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに残されていることがわかったという。
その記事の解説によると鈴木貫太郎の首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだと書かれていたことや、陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)ソ連主導で戦争終結し (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶと書かれているのだそうだ。

以前ブログに記したが、ソ連が8月9日に対日宣戦布告したのち、大本営は「対ソ全面作戦」を関東軍総司令部に発動したのだが、驚くべきことにその内容は、満州国を直ちに放棄して軍を朝鮮半島に向かわせ、11日には朝鮮国境に近い場所に総司令部を移転させている。これは種村大佐が終戦工作原案でまとめたとおり「領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる」ことを忠実に実行しているのである。

関東軍は早々と満州国をソ連に差し出したのだが、領土だけでなく居留民をも早々と差し出している。そのことを裏付ける証拠がソ連側にも関東軍にも残されている。

たとえば、関東軍が8月26日にソ連に提出した文書は、このようなものであった。
「一、135万の一般居留民のほとんどは満州に生業があり、希望者はなるべく残留して、貴軍に協力させてほしい。ただし老人、婦女子は内地か、元の居留地へ移動させて戴きたい。
一、軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、その他は逐次内地に帰還させてほしい。帰還までに極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい。
一、例えば撫順などの炭鉱で石炭を採掘するとか、満鉄、製鉄会社などで働かせてもらい、冬季の最大難問である石炭の取得にあたりたい。

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

当時の史料を読めば、シベリア抑留の問題は、左傾化していた大本営や関東軍にも責任があることは明らかなのだが、関東軍上層部の異常さは千島列島の最北にある占守島(しゅむしゅとう)の戦い見てもよくわかる。

樋口季一郎

第五方面軍司令部の樋口季一郎中将は、ソ連軍奇襲の報告を受けて自衛のための戦いを決断し、日本軍は良く戦ってソ連軍の進軍を阻んだのだが、ソ連側の被害があまりに甚大となったために、ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が急遽関東軍の秦関東軍参謀長に仲介を求めてきたという。秦参謀長は直ちに停戦することを樋口中将に要請し、日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされたのだが、この戦いでソ連軍の進軍を止めたことで、北北海道はソ連に侵略されずに済んだのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

わが国よりもソ連に忠誠心を持つような幹部や兵士が関東軍に多数いた事は、わが国が中国大陸で戦争に巻き込まれていったことと無関係ではないと思うのだが、戦後このような史実がほとんど無視されているのは、わが国で拡められている歴史叙述が相当歪められたものであることを物語っている。
こんなことを書くとすぐに中韓や左派勢力から「歴史修正主義は許さない」「陰謀論は聞くに値しない」という声が聞こえてきそうだが、この言葉は「戦勝国および共産主義にとって都合の良い歴史を書き換えるな」という意味の脅しだと理解すれば良いだろう。

しかし、ロシアがアメリカの原爆投下を問題にし出したことで、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が一枚岩ではなくなり、これから大幅に書き替えられる可能性が小さくない。このことはわが国にとってはチャンスなのだと思う。

アメリカは「邪悪な日本との戦争を早く終結させるために原爆投下はやむを得なかった」との従来の主張を続けては中露を叩くことが不可能で、中露から原爆を落とした罪を永遠に問われることになってしまう。
この「歴史戦」でアメリカが不利な状態を脱するためには、ソ連こそが最大の犯罪国家であり、中国共産党はソ連の仕掛けた「敗戦革命工作」に協力したという真実の歴史を描くしかないのではないか。アメリカには「中露にとって都合の良い歴史」が嘘であることを暴く、決定的な史料があるはずで、それを少しずつ呈示しつつ暴露することによって、中露を徹底的に叩くことができる。

そうすれば「日本だけが悪かった」とする歴史は全面的に書き換えられ、ロシアや中国およびわが国の左派勢力も一気に力を失うことになるだろう。
わが国が北方領土問題や尖閣問題について、ロシアや中国とまともな交渉できるようになるのはそのあとのことになると思われる。

今後のアメリカにおける歴史の見直しの動きに注目したい。
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【ご参考】通史では以下のような史実はすべて伏されてしまっていますが、重要な事実でありながらなぜ戦後のわが国で伝えられてこなかったのかと誰でも考えると思います。良かったら覗いてみてください。

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-300.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む

今までこのブログで何度か紹介してきた、種村佐孝という人物についてWikipediaではこう解説されている。
太平洋戦争(大東亜戦争)中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。
戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続のためソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。
戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった『第7006俘虜収容所』にて、共産主義革命のための特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E6%9D%91%E4%BD%90%E5%AD%9D

種村大佐は、前回の記事で記した朝枝中佐、瀬島中佐とともに戦後シベリアに抑留されたのだが、1954年に日本からアメリカに亡命したKGB中佐・ラストボロフの証言によると、いずれもウランバートルで特殊工作員としての訓練を受けた11名の軍人メンバーのうちの1人だというのだ。
ところで上記URLの解説に志位正二という人物の名があるが、彼は関東軍隷下の第3方面軍情報参謀(陸軍少佐)で、現在日本共産党委員長である志位和夫の叔父にあたる人物だという。志位は、1948年にシベリアから帰国ののちGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、1951年以降G2在職のままKGBのエージェントとして雇われたのだが、1954年のラストボロフ亡命後に毎月ソ連からお金を受け取っていたことを本人が自主したことを付け加えておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%83%95

ソ連占領予定線

ソ連は終戦直前に対日参戦し、満州や樺太や千島だけでなく北海道の北半分をも占領する計画であったのだが、千島列島と樺太で日本軍の頑強な抵抗に遭ったために、北北海道の占領については失敗してしまう。
とは言いながら、ソ連は、そんなことでわが国の共産国化を諦めるような国ではなかったのである。革命のための日本人特殊工作員を養成するために種村佐孝や瀬島隆三ら日本の軍人メンバーを集めてウランバートルで特殊教育を実施したわけだが、常識的に考えて、ソ連が選んだ11名については、ソ連が彼らのソ連に対する忠誠心を疑わなかったということであり、いずれも筋金入りの共産主義思想の持ち主であったことを意味する。

前回は朝枝繁春陸軍中佐のその異常なソ連傾倒ぶりを紹介したが、今回は種村佐孝陸軍大佐の文章を紹介したいと思う。このような文章を書く人物が、わが国の対ソ終戦工作に従事していたということを念頭に置いて読んで頂きたいのだが、その前にこの文章が書かれるまでのわが国の動きを概観しておく。

ヤルタ会談

1945年(昭和20)2月にクリミヤ半島のヤルタ近郊でで米英ソ3国による首脳会談が行われ、ドイツの分割統治や東欧諸国の戦後処理が取り決められ、米ソの間ではドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇について話し合われ、秘密協定が締結されたという。(ヤルタ会談)
そして、4月5日にソ連はわが国に対し一方的に「日ソ中立条約」の破棄を通告してきたのだが、その条約の第3条には、破棄通告後も条約の満期が到来する1946年4月24日までは存続することが定められていた。
そこで小磯国昭内閣が総辞職となり、4月7日に鈴木貫太郎内閣が成立したのだが、当時の陸軍中枢部は、ソ連との関係改善を図るべきことを強く主張したという。

今後の対『ソ』施策に対する意見

陸軍参謀本部の種村佐孝大佐が作成し4月29日に提出した、「今後の対『ソ』施策に対する意見」なる意見書が陸軍上層部に配布されたのだが、これから紹介するのはその一部である。
原文は旧字・旧カナで記されているが、読みやすいように新字新仮名で書きなおしている。原文は、国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトに現物の画像があり誰でもネットで原稿を読むことが出来る。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293800?IS_KIND=MetaDetail&IS_STYLE=default&
原文にこだわらない方は次のURLに全文が新字新仮名で紹介されている。
http://touarenmeilv.blog88.fc2.com/blog-entry-14.html

種村大佐の意見書の冒頭部分にはこう書かれている。

「今さら申すべきにあらざるも、『ソ』連の」対日動向は、帝国の大東亜戦争遂行に致命的影響を及ぼしていることは、大東亜戦争開始前以来の戦争指導上の最大関心事であった。
而してこの『ソ』の対日動向を、大東亜戦争の終末まで中立的態度を維持せしめ得れば、戦争指導上満点である。
今日まで日『ソ』中立条約に依存して、帝国は日『ソ』間の関係を危なげながらも維持してきたのであるけれども、今や日『ソ』中立条約破棄通告を受け、かつ独(ドイツ)崩壊したる現状態においては、遺憾ながら日本独力により『ソ』の中立的態度を維持せしめ得べき何等の根拠も持っていない。」

と、当然のことから書き出している。そして

「作戦必勝の道なきところに戦勝の光明など存在しようがない。…どうしても作戦必勝の道なしとすれば、これが補助手段としての外交の道も存在しないと見るも過言ではあるまいか。
そこで熟々(つらつら)帝国現下の作戦の推移を考察する時、今後の対『ソ』」施策に殆んど期待を懸け得られない様な気がする。もし期待を懸けるとしたならば終戦方策としての対『ソ』交渉に転移すべきではないかとの考えが起って来るのも無理からぬ点である。」

と述べた後、わが国はあくまで対英米戦争完遂の為にソ連と交渉すべきであるとし、ソ連には余程譲歩して条件呈示をしなければ、逆にソ連との戦争になる怖れもあるとしている。では、ソ連に対してどのような条件を出すべきだというのか。ここで種村大佐は驚くべきことを書いている。

「…換言すれば『ソ』側の言いなり放題になって眼をつぶる。日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立ち換ったならば、今日日本が満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て、飽くまで日『ソ』戦を回避し、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない。…
…帝国としては、この肚を以て、日『ソ』戦争を絶対に回避すべきであって、そこまで肚を極めて対『ソ』交渉に移るべきである。移った以上『ソ』側の言い分を待って之に応ずるという態度に出づるべきである。我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交駈引上から言っても当然考慮せられるべき点である。」

対ソ外交交渉要綱

同じ日付で『対ソ外交交渉要綱』という文書があり、これも種村佐孝大佐が書いていて、国立公文書館のサイトで誰でも読むことが出来る。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C12120293900?IS_KIND=MetaDetail&IS_STYLE=default&

種村は「今後の対『ソ』施策に対する意見」にも書いていた通り、英米との戦争を貫徹するために、ソ連に対して大譲歩して対ソ戦を回避するべきだと述べた後、わが国がソ連に対して提案すべき腹案をこう書いている。

「二、対『ソ』交渉に当り我が方の提案すべき腹案要旨左の如し。
 米英の世界侵略、就中(なかんずく)東亜に於ける野望に対し、日『ソ』支は善隣友好互助提携相互不侵略の原則の下に強固に結合し以て相互の繁栄を図るを目的とし、帝国は『ソ』連邦に対し左記を確約す

1、満洲国に於ける居住営業の自由。
2、支那に於ける『ソ』連勢力、特に延安政権の拡大強化。要すれば其の希望する地域より日本軍の撤退。
3、南方占拠地域に於ける戦後所望する権益の譲渡。
4、満洲国及外蒙共和国は、本施策に同調すること。


支那に於ける交渉の対象は延安政権とするも差支なきこと。これがため、要すれば国民政府を解消せしむ。」

少し補足すると、「延安政権」というのは中国共産党のことである。
なぜ、一戦も交えていないソ連に対して、わが国は満州も東南アジアもモンゴルも差し出さねばならないのか。この辺りは、誰しも疑問を感じるところである。
それだけではない。種村大佐は、もしソ連が強硬に出てきた場合には、次の条件も容認すべきだと書いている。

「三、『ソ』にして、前項交渉に当り強硬に要求するに於ては、左記を容認することあり。
1、北鉄の譲渡
2、漁業条約の破棄
3、満洲国、満鉄、遼東半島、南樺太朝鮮等につきては解消若くは譲渡することあるも当時の情勢に依り之を定む
。」

日本最大版図

わが国が開戦に追い込まれた「ハル・ノート」に於いて、わが国が受け入れ難かった主な条項は、
① 中国本土及び仏領インドシナから一切の陸海軍兵力及び警察力を撤退させる。
② 重慶政府(蒋介石政権)以外のいかなる政権をも、軍事的、政治的に支持しない。(汪兆銘政府を見捨てよ)
③ 日独伊三国同盟条約の死文化
だったのだが、ハル・ノート」の内容よりもはるかに過激な内容が、ソ連から要求されてもいないのに陸軍参謀本部から出てきたことをどう理解すればよいのか。

種村大佐は「満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り」というのだが、そもそも沖縄も北千島も、日清戦争前からの日本領なのである。わが国の中枢部に相当程度ソ連の工作があったか、ソ連を理想国家と崇めていたメンバーが主導権を握っていないと、このような公文書が残されるはずがない。前回にも書いたが、この『対ソ外交交渉要綱』を書いた種村大佐は戦後日本共産党に入党しているのである。

そして、このような文書が、その後もわが国に強い影響を与え続けたことを書かざるを得ない。
7月12日に近衛文麿がわが国の特使として、英米との「終戦仲介」を依頼すべくモスクワに派遣されることに決定したのだが、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を約束していたスターリンに会談を拒否されている。

その時にわが国がモスクワとどのような交渉案で臨む準備をしていたかについて、Wikipediaにはこう記されている。

「近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、『やむを得なければ』海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意することになっていた。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

このように、種村大佐案よりもさらに過激なものになっているのだが、特に注目したいのは「海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する」という部分である。

戦後、インドネシアやベトナムなどで一部の日本軍兵士が残留してアジア諸国の独立戦争に身を投じ、戦勝国勢力を追い出して独立を果たしたのだが、近衛の交渉案でソ連に約束しようとした日本軍の現地残留と関係あるのだろうか。また、多くの日本人がシベリアに抑留され、強制労働に従事させられたのだが、賠償として労働力を提供する方針がこの頃から固まっていたと読めるのである。

産経0811

何度かこのブログで紹介してきたが、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになっている。その電報の内容を2013年8月11日付の産経新聞の記事にこう記されている。
「…『国家を救うため、日本政府の重要メンバーの多くが日本の共産主義者たちに完全に降伏(魂を明け渡)している』と政権中枢がコミンテルンに汚染されていることを指摘。そのうえで、『あらゆる分野で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めている』とした。
そして『日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(米英との和平工作を)提案している』と解説している。」

なぜ軍隊の中枢に共産主義者がいたかについては、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を思い出してほしい。
帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

レーニン

この考え方はレーニンが最初に考案したもので『敗戦革命論』と呼ばれているが、わが国の軍隊にはこの決議通りに、革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力とし、自国政府の敗北を導こうと動いたと考えれば、軍隊に共産主義者が多数いたことは理解できる話である。

先程の産経新聞記事で書かれていた、中国国民政府の陸軍武官が米国から入手した『最高機密情報』は、わが国で公開されている史料でその正しさが立証できるわけだが、こういう史実が日本人に広く知られると、戦勝国が広めた「日本だけが悪かった」とする歴史観が土台から崩れ始めて、「一番悪かったのは、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛けて共産主義陣営に組み込もうとしたソ連である」ということになるのではないか。

戦後の長きにわたり、左寄りの日教組やマスコミが多くの「ソ連などの共産主義国家にとって都合の悪い」史実に目を塞ぎ、「自虐史観」の固定化にこだわり続けてきたのは、わが国だけを悪者にすることが共産主義国の悪事の歴史を隠すために都合が良かったからなのだろう。しかしながら、ネット社会でマスコミの力が凋落している状況下で、史実に基づかない「自虐史観」は、わが国であと何年も持たないのではないか。

先日「戦勝国による『歴史の書き換え』が始まった」たという記事で、ロシアが米国による広島、長崎への原子爆弾投下を「犯罪」として糾弾する動きを強めていることを書いたが、早速アメリカが動き出したようだ。

JBPRESSで古森義久氏の「中国の『抗日戦争勝利』式典に憤る米国の元政府高官…プロパガンダそのもの、米国と同盟国への政治的戦争と非難」という論文が掲載されている。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44702

古森氏によると、アメリカの外交専門誌『ザ・ディプロマット』(8/31号)に中国の安全保障の専門家であるランディ・シュライバー氏の『中国は自らの歴史問題を抱えている』と題する論文が掲載され、そこには中国の歴史改竄が批難されているという。

抗日70年行事

「同論文は『中国の歴史の扱いも精査されるべきだ』という見出しで、中国共産党政権が9月3日に開催する『抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年』記念式典を批判していた。同式典は『中国のプロパガンダそのものであり、中国が勝利した経緯の正確な描写が書けている。それは私達への侮辱であり、反対すべきだ。中国による歴史の改ざんを許容してはならない』という。」

そしてシュライバー氏はこう述べている。
「アジアの歴史認識については日本の態度だけが問題にされる。だが、政治目的のために歴史を歪曲し、修正し、抹殺までしてしまう点で最悪の犯罪者は中国である。中国共産党は1931年から45年までの歴史を熱心に語るが、1949年から現在までの歴史は率直に語ろうとしない。」

アメリカと中露との『歴史戦』はこれだけで終わるはずがないだろう。何が嘘で何が真実かを立証する決定的資料はアメリカにかなりあると思われる。今後の動向に注目したいところである。
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蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
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プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
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「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
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「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
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陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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