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「満州某重大事件」の真相を追う~~その1

昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。

張作霖記事

学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。

最近になって、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、2001年にGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書*に基づいて『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を上梓し、その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルン**の工作員であることなど、数々のソ連の工作活動を明らかにしたそうだ。
 * GRU文書についてはソ連崩壊後一部公開されていたが、プーチン政権になってアクセスが難しくなりつつあるという。
**コミンテルン:共産主義政党の国際組織。第3インターナショナル。

マオ

2005年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」と書かれているが、これはプロコホフの著書の記述に従ったものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

『マオ』が我が国で出版されて、この事件のことが我が国の論壇誌に採りあげられ、プロホロフ氏がインタビューに答えた内容が、加藤康男氏の著書に纏められている。

「サルヌインは、1927年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州国において、諜報活動にあたる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった
1928年6月4日夜(正確には4日未明)、張作霖は北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差しかかったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

1990年代の初め、ソ連の機密度の高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ*氏は、ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(1879-1940年)の死因を調べている際に、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという
トロッキーはスターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.123)
*ドミトリー・ヴォルコゴノフ:1988年から1991年の間ソビエト連邦国防省の軍事史研究所長官であった。

張作霖

張作霖は北京政権を牛耳り露骨な反ソ姿勢を取って、1927年4月6日には張作霖の指示でソ連大使館捜索と関係者を大量に逮捕し、同時に武器などが多数押収されたことから、ソ連の特務機関に暗殺の指令が出たようなのである。

ソ連の資料だけなら、エイチンゴンが自分の功を誇るために嘘の記録を残したという解釈も可能ではある。しかしながら、この事件に関してソ連が関与していたことを強く疑っていた大国があったことは注目して良い。それがイギリスである。

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先ほど紹介した加藤康男氏が、2007年に公開されたイギリスの外交文書を、著書『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で紹介しておられる。
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.F4598/7/10】
1928年7月3日付 北京駐在公使ランプソンのオースティン・チェンバレン外相宛公電 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分たちの説の正しさを論証しようとしている。」(同上書 p.149)
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.WO106/5750】
張作霖の死に関するメモ
「a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
 b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。
 c.  ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願った上でのことだった。
 d. 満州で張り合うソ連と日本の野望は、張作霖がある程度両国を争わせるようにした側面がある。ソ連も日本も権益保護のため開戦する覚悟は今のところないが、必然的に中国を犠牲にして何らかの暫定協定を結ぶことを望んでいる。したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。」(同上書 p.151-152)

もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう。」(同上書 p.155)
【イギリス公文書館所蔵 1928年12月15日付外交文書】
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。」(同上書p.197)

ドミトリー・プロホロフが、『GRU帝国』で張作霖爆死事件がソ連の工作によるものだと記した内容にかなり近い記録が、事件直後のイギリスの外交文書に残されていることを加藤康男氏の著書で初めて知ったが、イギリスは張作霖爆殺事件について関与していたわけではないので、イギリス情報部が本国に対して報告した文書は、現地で収集した情報を分析した内容を率直にレポートしていると考えるべきであろう。
また『GRU帝国』の出版はイギリスの公文書公開よりも6年も早く、ドミトリー・プロホロフはこれらのイギリスの外交文書を読むことなしに、この事件をソ連の工作によるものだと結論付けていることは注目してよい。

加藤氏はイギリスの外交文書を読んでこう解説しておられる。
「ソ連の工作による利点は、日本が自動的に疑われ、無実であるとの証明がはなはだ難しいことだった。なぜなら、張作霖を排除したいと考えていた日本人を、奉天界隈で見つけることは、極めてたやすい作業だったからだ
そのうえソ連にとっては幸運なことに、日本は自らの無実の証明をまったく試みなかった、とも付け加えている。
イギリスの機密文書からは、少なくともイギリス自身が日本軍主犯説に首をかしげる様子が浮かび上がってくる。
こうしてみると、巧妙に仕掛けられたソ連の工作の可能性を見抜けず、早々と日本軍独自の犯行と言う結論で幕引きを図った日本側の対応ぶりには疑問を持たざるを得ない。」(同上書p.153)

この張作霖爆死事件については昔から諸説があったのだが、旧ソ連やイギリスの機密書類の一部が公開されたことにより、コミンテルンが関与した可能性がかなり高まってきているので、教科書の表現が多少なりとも修正されてはいないかという事が気になった。
自宅にある『もう一度読む山川日本史』の該当記述を確認すると、残念ながら昔とほとんど同内容だ。

「この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)のなかには、張にかわって日本の自由になる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。」(『もう一度読む山川日本史』p.290)
と本文に書かれた後、囲み記事で、
「張作霖の爆殺は、関東軍の参謀がひそかに計画し、部下の軍人たちに実行させたものであった。この事件をきっかけに満州を軍事占領し、新政権をつくらせて満州を日本の支配下におこうとする意図であったといわれるが、関東軍首脳の同意を得られず、それは実現しなかった。」(同上p.291)
と、今も明確に、関東軍が実行したこととし、異論があることに一切触れていないのだ。

200px-Koumoto_Daisaku.jpg

では、当時のわが国は、なぜ関東軍が実行したと考えたのだろうか。
当時から関東軍がやったという噂があり、関東軍の大佐であった河本大作(上画像)自身が殺害計画があったことを認める発言を何ヶ所で残していたようなのだ。

河本本人は手記を残していないのだが、河本の義弟で作家の平野零児が『文芸春秋』昭和29年12月号に、河本の一人称を使って「私が張作霖を爆殺した」という手記のようなものを書いている。全文が次のURLで読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.html

全文を読むのは大変なので肝心な部分だけ抜き出すと、
動機に関しては
「一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足りるのである。」

img20120425233727531.jpg

爆破に関しては
「来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点*にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。」
(『文芸春秋』昭和29年12月号)
*クロス点:事件の現場となった満鉄線と京奉線とがクロスしている地点。

この「手記」が文芸春秋に掲載された時点では、河本大佐は中国共産党軍に逮捕監禁された後に獄死(昭和28年8月25日)していたのだ。この「手記」が河本大佐の口述筆記によるものという平野零児の説明を鵜呑みにすることは危険だと思うのだが、どういうわけか今では河本大佐を実行犯とする説が定説になっている。

当時のイギリス情報部の外交文書の表現を借りると、河本大佐はコミンテルンと共謀した日本人の一人ではなかったのだろうか。またわが国や満州で、関東軍が張作霖を爆殺したとの噂をバラ撒いたのはコミンテルンによる情報工作によるものではなかったか。
そもそも張作霖爆殺事件については関東軍がやったという確実な証拠はなく、ほとんどすべてが噂や伝聞によるものと考えて良い。
関東軍謀略説を主張する論者は、平野零児の書いた「河本大佐の手記」と、東京裁判における田中隆吉の証言を重視しているようだが、平野零児は戦前に治安維持法で何度か捕まった人物だとされる。田中隆吉証言も伝聞に過ぎず、彼はゾルゲや尾崎秀実とも親交があり、コミンテルンにつながる人物であったと言われているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89#cite_ref-0
また、東京裁判で田中隆吉が証言台に立った時には主犯とされていた河本大佐は中国に生存していた。本来ならば、河本本人が証言すべきであったのだが、なぜ連合軍は当事者でない田中を証言台に立たせたのだろうか。

加藤康男氏の著書によると、当時の関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は現場を検証し関東軍による実行とは考えられないことを論証する報告をしたのだが、なぜか軍上層部が斉藤の報告を無視し、いち早く罷免しているのだそうだ。この点について書くと話が長くなるので、次回に記すことにしたい。
とにかく関東軍謀略説には謎が多すぎて、私は素直に信じる気になれないのである。
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「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。

関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。

張作霖爆津瞬間

まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで61枚の写真がでてきて、この写真はその中の1枚である。
「この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で70歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77-80)
このSと言う人物は、ネットで検索すると元軍人の佐久間徳一郎という名前であることがわかる。
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-26.html

また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう1組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は200メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。

現場見取り図

写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も2度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。(上の図は加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45)

あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。

そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
「考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも2組あって、出てきたというところではないか。」(同上書 p.223)

当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者3人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、3人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。

今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和17年12月1日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

この記録で、爆破の場面を紹介すると、
「…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した
 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった
 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた
 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。 
… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。」

仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は20両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路わきに設置した爆弾で列車の中の張作霖を爆殺しようとするならば、まず張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならない。しかも高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破しなければならない。このことは決して容易ではないはずだ。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然である。

20110110122150.jpg

上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかったのだ。そのことは、現場近くで列車を大幅に減速させていたことを意味している。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。

imagesCAIGKEMG.jpg

上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
現場を見れば『河本大作大佐談』や前回紹介した『河本大作の手記』は作り話であることが明らかであり、最初に紹介した爆発の瞬間の写真は、事後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。

現場を検証した日本人がそれらの矛盾点に気が付いていなかったのではなかった。
現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していたのである。

ic.jpg

「爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。」(『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.206)
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。

さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約32km/h)で通行するところを、推定時速十キロ程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
「何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)」
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。」(同上p.208)
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。

前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の2か月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。

img20120430190340923.jpg

このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和3年6月21日付の報告書には、
「調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第80号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。」(同上p.217-218)
と書かれている。(上の図はイギリス公文書館に保管されていた爆発現場の見取り図。同書p.230)

この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々から過小評価されているのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るものだからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合軍にとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。

加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU百科事典』*という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである

そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。

張作霖爆殺事件にかぎらず、昭和の歴史には多くの嘘があるのだろう。コミンテルンが多くの紛争に関与して、世界の共産主義化を画策していたとすれば、このような事件はほかにもいくつかあって、日本だけが侵略者にされている可能性はないのだろうか。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀史観」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ソ連やイギリスから出てきた史料や論文まで「陰謀史観」扱いをしていることは、研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国側に都合の良い歴史観の中で堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
そもそも、戦争が行なわれていた時代に陰謀が存在していたことは珍しい事ではない。自国の陰謀を隠すために、他国の謀略に見せかけるような事件は世界史でいくらでも見つけることができる。にもかかわらず、わが国の歴史教科書は他国には陰謀がなく、日本軍にのみ陰謀があったことを印象づけたいかのようだが、これでは永遠に真実が何であるかが見えてこないだろう。
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昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか

前回まで2回に分けて、昭和3年(1928)の「満州某重大事件」について書いた。簡単に要約すると、この事件に関しては関東軍がやったということが定説となっているが、この説には確たる証拠はなくほとんどすべてが噂や伝聞によるものであり、現場で撮影された写真や現場検証の記録は悉く定説と矛盾している。その一方、公開されたイギリスの外交資料には明確にソ連が実行し日本に疑いが向くように工作したものと結論付けられており、旧ソ連の機密文書を調査したロシアの歴史学者の研究書にも、ソ連軍が計画し日本軍の仕業に見せかけたものと、イギリスの外交資料と同様のことが書かれている。

関東軍の謀略かソ連軍の謀略か、両方の説を読み比べて私は後者の説のほうに説得力を感じてしまうのだが、この説の問題点はこの事件に関する旧ソ連の資料が未だに公開されておらず、この資料にアクセスが許された少数のロシア人研究者の著述に頼るしかないという点にある。それでも私がソ連軍謀略説に説得力を感じるのは、現場の写真や検証内容と矛盾しないことと、イギリスの外交資料とソ連の機密文書の結論とも合致するからである。

しかしソ連謀略説が正しいとすると、昭和初期においてはコミンテルン(共産主義政党の国際組織。別名第三インターナショナル)に協力する軍人がかなりいたことが納得できなければリアリティがない。いままで習ってきた歴史では、日本軍人の中にコミンテルンに協力する左翼分子がいたという事は思いもよらないことであり、その点が長い間腑に落ちなかったのだ。

comintern.gif

コミンテルンは1919年3月に結成され、1935年までに7回の世界大会が開催されていている。昭和3年(1928)張作霖爆殺事件の翌月からモスクワで開催された第6回コミンテルン世界大会の決議内容の一部がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
「…ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった。」

敗戦革命論」とは軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論 で自国が対外戦争に参戦した場合、自国の勝利の為に挙国一致で戦うのでなく、むしろ自国を敗北させるように仕向けて、その混乱に乗じて自国の革命を成就させることと理解されている。具体的には反戦運動を高揚させたり、自国の戦争遂行を妨害したり、敵国を利するための各種活動を実施することなどがある。

この第6回コミンテルン世界大会には、日本を含め27か国92名の代表が集結したようだが、この時点の共産主義国はソ連のみであったことは言うまでもない。これだけの国の代表がモスクワの指示のもとで動く集団を自国でメンバーを集めて組織し、この政治綱領に基づいて自国を敗戦に導き内乱戦に転換させて、世界の共産国化を狙っていたのであり、重要なターゲットはそれぞれの国の軍隊であったと理解できるのである。

では、この時代にコミンテルンは日本国内でどのような活動をしていたのだろうか。

中西輝政

中西輝政氏は小堀桂一郎氏との対談でこう語っている。
「すでにシベリア出兵*時から、コミンテルンの対日工作は活発に始まっていたのですが、大正12年、関東大震災が起こった時に、各国の救援団が今の『国際NGO』の様な形でたくさん日本に入ってきます。当時すでにコミンテルンは、国際NGOを共産主義ネットワークを作る隠れ蓑としてよく利用していました。ベルリンを本拠にしていたコミンテルンの秘密機関『ミュンツェンベルグ・トラスト』はモスクワや日共とは全く別系統の対日秘密工作に早くから着手しています。はっきりしているのは『国際労働者救援会』というNGOですが、その他にもたくさん東京に入ってきていて、一遍に大きな機密ネットワークをつくっていきました。それが、急速に影響力を増して、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということは、資料的にも明らかになっています。実際の工作に携わっていたアーサー・ケストラーの告白にこの数字があげられています。」(明成社『歴史の書き換えが始まった~コミンテルンと昭和史の真相』p.43-44)
*シベリア出兵:1918年から1922年までの間に、日英米仏伊などの諸国がロシア革命に対する干渉戦争のひとつで、この時にわが国は73000人と他国と比して数十倍多い兵力を投入した。

ミュンツェンベルグ

ミュンツェンベルグ・トラスト』というのは、ミュンツェンベルグ(1889-1940)という人物が築き上げた機密ネットワークを指している。ミュンツェンベルグはドイツのエルフルトに生まれ、第一次大戦中スイスに亡命してレーニンと共に世界革命に献身し、ロシア革命成功後ソ連から豊富な資金を得てベルリンやパリ、上海などを拠点に1920年代以降世界革命のための謀略工作に献身した人物なのだそうだ。

ミュンツェンベルグは世界中の知識人群のなかに浸透し、彼らを動かして世論を形成して工作活動を行ったと言われ、ゾルゲやスメドレー、ハーバード・ノーマン、尾崎秀実、都留重人ら、当時の有名人の多くに彼のネットワークの息がかかっていたとされている。

尾崎秀実

尾崎秀実は朝日新聞に入社し後に近衛文麿政権のブレーンとなるが、後に「ゾルゲ諜報団」に参加していたソ連のスパイであることが発覚して、死刑に処せられた人物である。

中西輝政氏が指摘している「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」ということは『ケストラー自伝―目に見えぬ文字』という本に出ているようだが、この記述は真実なのかそれとも作り話なのか。

学生時代に学んできた歴史では、共産主義の思想は弾圧されて逼塞させられていたというイメージが強かったのだが、いろいろ調べると、少なくとも昭和前期においては、急速にマルクス主義思想がわが国に広がっていったということは間違いがないようだ。

大正14年(1925)のソ連との国交樹立により、共産主義革命運動の激化が懸念されたために日本政府は同年に治安維持法を施行し、天皇制廃止などの革命運動を行う団体として日本共産党を取り締まった事実はあるが、意外にも社会主義・共産主義思想に関わる出版については放置されていたことが、中川八洋氏の『山本五十六の大罪』に記されている。
たとえばマルクス/エンゲルスの『資本論』はこの時期に矢継ぎ早に6社が出版している。(1919年:緑葉社、経済社出版部、1920-24:大鐙閣、1925-26:新潮社、1927-1930年:岩波書店、1927-28:改造社)

マルクス・エンゲルス全集

日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは1928年から1935年である。(画像は改造社版の一部)
二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは1927年から1928年。十五巻の『スターリン・ブハーリン著作集』が同じく白揚社から刊行されたのは1928年から1930年で、この時期は、マルクスやレーニンの書籍がバカ売れしていたようなのだ。

共産党宣言

この種の思想書ばかりではなく、なぜかコミンテルンの大会の決議文書や綱領まで翻訳出版が放任されていたのは驚きである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』も、堺利彦と幸徳秋水が『平民新聞』に1904年に掲載した時は発禁処分になったが、その2年後に堺利彦が『社会主義研究』に全文を掲載した時は何の処分もされておらず、1932年には河西書店が公然と出版している。(画像は河西書店が出版したもの)

治安維持法の条文は次のURLで読めるが、これらの出版行為は治安維持法違反の対象にする解釈も可能であったと思うのだが、思想統制についてはこの法律には明確に書かれているわけではなく、ほとんど放任されていたかのようなのだ。
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/ht14-46.htm

ところで、なぜこの時期にマルクス・レーニンの翻訳本が爆発的に流行したのだろうか。このような堅い思想書が、ただ出版するだけで売れるものだとは考えにくいのだ。

今の世の中を見ても、マスコミが世論を誘導していることは誰でもわかるが、テレビのないこの時代にこれらの思想書が売れるためには、新聞雑誌が採り上げてくれることが絶対条件であったろう。
こう考えると、最初に述べたとおり「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」という中西氏の指摘が作り話ではなさそうに思えるのだ。

中川八洋氏はこれらの書籍が売れた理由を、もう少し詳しく書いておられる。
「1925年の治安維持法と時期を同じくして、マルクスやレーニンの翻訳本が爆発的に大量出版された。第一の理由は、同年のソ連との国交回復によって、大使館という情報調略工作基地を得たソ連が、すぐに日本の出版界や学界を牛耳り支配したからである。第二の理由は、日本人の知的水準や嗜好とよほど馬が合ったのか、猫も杓子もマルクスやレーニンに飛び付いたからである。それらの著作に対する需要は世界一だった。
しかも、1929年の米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、日本では、神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された。だから、ソ連型計画経済を概説した著作は大人気で、官界でも陸軍でも、学界と同じく、大量に読まれた。…」(中川八洋『山本五十六の大罪』p.259)
ソ連大使館は情報調略工作基地であり、大使館員の多くは情報収集と工作活動に従事していたということはこれまであまり考えたことがなかったのだが、その通りではなかったか。

かくしてこの時期に共産主義に憧れる日本人が大量に生まれたのだが、張作霖爆殺事件が起きる4か月前の昭和3年(1928)2月に日本国内で初めての普通選挙が行われ、この結果天皇制打倒を掲げた政党の躍進に脅威を感じた田中義一内閣は3月15日に、治安維持法違反による全国一斉検挙に踏み切った。
この時に、日本共産党および労働農民党などの関係者約1600人余が検挙され、そのうち484人が起訴された事件があった。(3.15事件)
この摘発により東京帝大以下148名のエリート学生が共産主義者として検挙され、政府指導者に衝撃を与えたという。
また、翌年の4月16日には地下党員を中心に339名が検挙され、日本共産党は一旦壊滅したのだが、共産党員でなくともソ連に憧れる日本人が増殖しており、そこまでは検挙できなかったことは当然だ。

岡田嘉子

昭和13年(1938)に美人女優の岡田嘉子がソ連に憧れて演出家の杉本良吉とともに樺太からソ連に亡命した有名な事件があった。ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑に処せられてしまう。
戦後においても北朝鮮を地上のパラダイスのように伝えたマスコミがあり、多くの日本人が北朝鮮に渡ったのと同じように、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスのように煽っていたのではないだろうか。

私の学生時代を振り返っても、ソ連などの社会主義国に憧れる同級生が少なからずいたし、何を隠そう私にもそういう時期があったが、次第に離れて行ったのは「暴力革命」の考え方が馴染まなかったからだ。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」と書いているのだが、この考え方に嵌ってしまうとあらゆる破壊行為が正当化されてしまう懸念がある。
もし、昭和時代の初期に日本軍人の間にマルキシズムが浸透し、軍命令よりもソ連の工作に協力することを優先し、日本軍の情報を漏洩し、コミンテルンからの指示で動く軍人が少なからずいたとしたらどうなっていたであろうか。コミンテルンの政治綱領からすれば、彼等は戦争を終わらせる方向ではなく、長引かせる方向に持ち込んで、体制の転覆に持ち込もうとするはずではないか。

通史では昭和の初期において軍部が政府の命令を無視し、暴走したことが書かれているのだが、彼らの「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に基づいたものではなかったのだろうか。
当時そのことに途中で気が付いた人物がいて、そのような記録もいくつか残されているのだが、その話を書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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