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昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか

前回まで2回に分けて、昭和3年(1928)の「満州某重大事件」について書いた。簡単に要約すると、この事件に関しては関東軍がやったということが定説となっているが、この説には確たる証拠はなくほとんどすべてが噂や伝聞によるものであり、現場で撮影された写真や現場検証の記録は悉く定説と矛盾している。その一方、公開されたイギリスの外交資料には明確にソ連が実行し日本に疑いが向くように工作したものと結論付けられており、旧ソ連の機密文書を調査したロシアの歴史学者の研究書にも、ソ連軍が計画し日本軍の仕業に見せかけたものと、イギリスの外交資料と同様のことが書かれている。

関東軍の謀略かソ連軍の謀略か、両方の説を読み比べて私は後者の説のほうに説得力を感じてしまうのだが、この説の問題点はこの事件に関する旧ソ連の資料が未だに公開されておらず、この資料にアクセスが許された少数のロシア人研究者の著述に頼るしかないという点にある。それでも私がソ連軍謀略説に説得力を感じるのは、現場の写真や検証内容と矛盾しないことと、イギリスの外交資料とソ連の機密文書の結論とも合致するからである。

しかしソ連謀略説が正しいとすると、昭和初期においてはコミンテルン(共産主義政党の国際組織。別名第三インターナショナル)に協力する軍人がかなりいたことが納得できなければリアリティがない。いままで習ってきた歴史では、日本軍人の中にコミンテルンに協力する左翼分子がいたという事は思いもよらないことであり、その点が長い間腑に落ちなかったのだ。

comintern.gif

コミンテルンは1919年3月に結成され、1935年までに7回の世界大会が開催されていている。昭和3年(1928)張作霖爆殺事件の翌月からモスクワで開催された第6回コミンテルン世界大会の決議内容の一部がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3
「…ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に共産主義者はいわゆる敗戦革命論に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった。」

敗戦革命論」とは軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論 で自国が対外戦争に参戦した場合、自国の勝利の為に挙国一致で戦うのでなく、むしろ自国を敗北させるように仕向けて、その混乱に乗じて自国の革命を成就させることと理解されている。具体的には反戦運動を高揚させたり、自国の戦争遂行を妨害したり、敵国を利するための各種活動を実施することなどがある。

この第6回コミンテルン世界大会には、日本を含め27か国92名の代表が集結したようだが、この時点の共産主義国はソ連のみであったことは言うまでもない。これだけの国の代表がモスクワの指示のもとで動く集団を自国でメンバーを集めて組織し、この政治綱領に基づいて自国を敗戦に導き内乱戦に転換させて、世界の共産国化を狙っていたのであり、重要なターゲットはそれぞれの国の軍隊であったと理解できるのである。

では、この時代にコミンテルンは日本国内でどのような活動をしていたのだろうか。

中西輝政

中西輝政氏は小堀桂一郎氏との対談でこう語っている。
「すでにシベリア出兵*時から、コミンテルンの対日工作は活発に始まっていたのですが、大正12年、関東大震災が起こった時に、各国の救援団が今の『国際NGO』の様な形でたくさん日本に入ってきます。当時すでにコミンテルンは、国際NGOを共産主義ネットワークを作る隠れ蓑としてよく利用していました。ベルリンを本拠にしていたコミンテルンの秘密機関『ミュンツェンベルグ・トラスト』はモスクワや日共とは全く別系統の対日秘密工作に早くから着手しています。はっきりしているのは『国際労働者救援会』というNGOですが、その他にもたくさん東京に入ってきていて、一遍に大きな機密ネットワークをつくっていきました。それが、急速に影響力を増して、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということは、資料的にも明らかになっています。実際の工作に携わっていたアーサー・ケストラーの告白にこの数字があげられています。」(明成社『歴史の書き換えが始まった~コミンテルンと昭和史の真相』p.43-44)
*シベリア出兵:1918年から1922年までの間に、日英米仏伊などの諸国がロシア革命に対する干渉戦争のひとつで、この時にわが国は73000人と他国と比して数十倍多い兵力を投入した。

ミュンツェンベルグ

ミュンツェンベルグ・トラスト』というのは、ミュンツェンベルグ(1889-1940)という人物が築き上げた機密ネットワークを指している。ミュンツェンベルグはドイツのエルフルトに生まれ、第一次大戦中スイスに亡命してレーニンと共に世界革命に献身し、ロシア革命成功後ソ連から豊富な資金を得てベルリンやパリ、上海などを拠点に1920年代以降世界革命のための謀略工作に献身した人物なのだそうだ。

ミュンツェンベルグは世界中の知識人群のなかに浸透し、彼らを動かして世論を形成して工作活動を行ったと言われ、ゾルゲやスメドレー、ハーバード・ノーマン、尾崎秀実、都留重人ら、当時の有名人の多くに彼のネットワークの息がかかっていたとされている。

尾崎秀実

尾崎秀実は朝日新聞に入社し後に近衛文麿政権のブレーンとなるが、後に「ゾルゲ諜報団」に参加していたソ連のスパイであることが発覚して、死刑に処せられた人物である。

中西輝政氏が指摘している「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」ということは『ケストラー自伝―目に見えぬ文字』という本に出ているようだが、この記述は真実なのかそれとも作り話なのか。

学生時代に学んできた歴史では、共産主義の思想は弾圧されて逼塞させられていたというイメージが強かったのだが、いろいろ調べると、少なくとも昭和前期においては、急速にマルクス主義思想がわが国に広がっていったということは間違いがないようだ。

大正14年(1925)のソ連との国交樹立により、共産主義革命運動の激化が懸念されたために日本政府は同年に治安維持法を施行し、天皇制廃止などの革命運動を行う団体として日本共産党を取り締まった事実はあるが、意外にも社会主義・共産主義思想に関わる出版については放置されていたことが、中川八洋氏の『山本五十六の大罪』に記されている。
たとえばマルクス/エンゲルスの『資本論』はこの時期に矢継ぎ早に6社が出版している。(1919年:緑葉社、経済社出版部、1920-24:大鐙閣、1925-26:新潮社、1927-1930年:岩波書店、1927-28:改造社)

マルクス・エンゲルス全集

日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは1928年から1935年である。(画像は改造社版の一部)
二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは1927年から1928年。十五巻の『スターリン・ブハーリン著作集』が同じく白揚社から刊行されたのは1928年から1930年で、この時期は、マルクスやレーニンの書籍がバカ売れしていたようなのだ。

共産党宣言

この種の思想書ばかりではなく、なぜかコミンテルンの大会の決議文書や綱領まで翻訳出版が放任されていたのは驚きである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』も、堺利彦と幸徳秋水が『平民新聞』に1904年に掲載した時は発禁処分になったが、その2年後に堺利彦が『社会主義研究』に全文を掲載した時は何の処分もされておらず、1932年には河西書店が公然と出版している。(画像は河西書店が出版したもの)

治安維持法の条文は次のURLで読めるが、これらの出版行為は治安維持法違反の対象にする解釈も可能であったと思うのだが、思想統制についてはこの法律には明確に書かれているわけではなく、ほとんど放任されていたかのようなのだ。
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/ht14-46.htm

ところで、なぜこの時期にマルクス・レーニンの翻訳本が爆発的に流行したのだろうか。このような堅い思想書が、ただ出版するだけで売れるものだとは考えにくいのだ。

今の世の中を見ても、マスコミが世論を誘導していることは誰でもわかるが、テレビのないこの時代にこれらの思想書が売れるためには、新聞雑誌が採り上げてくれることが絶対条件であったろう。
こう考えると、最初に述べたとおり「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」という中西氏の指摘が作り話ではなさそうに思えるのだ。

中川八洋氏はこれらの書籍が売れた理由を、もう少し詳しく書いておられる。
「1925年の治安維持法と時期を同じくして、マルクスやレーニンの翻訳本が爆発的に大量出版された。第一の理由は、同年のソ連との国交回復によって、大使館という情報調略工作基地を得たソ連が、すぐに日本の出版界や学界を牛耳り支配したからである。第二の理由は、日本人の知的水準や嗜好とよほど馬が合ったのか、猫も杓子もマルクスやレーニンに飛び付いたからである。それらの著作に対する需要は世界一だった。
しかも、1929年の米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、日本では、神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された。だから、ソ連型計画経済を概説した著作は大人気で、官界でも陸軍でも、学界と同じく、大量に読まれた。…」(中川八洋『山本五十六の大罪』p.259)
ソ連大使館は情報調略工作基地であり、大使館員の多くは情報収集と工作活動に従事していたということはこれまであまり考えたことがなかったのだが、その通りではなかったか。

かくしてこの時期に共産主義に憧れる日本人が大量に生まれたのだが、張作霖爆殺事件が起きる4か月前の昭和3年(1928)2月に日本国内で初めての普通選挙が行われ、この結果天皇制打倒を掲げた政党の躍進に脅威を感じた田中義一内閣は3月15日に、治安維持法違反による全国一斉検挙に踏み切った。
この時に、日本共産党および労働農民党などの関係者約1600人余が検挙され、そのうち484人が起訴された事件があった。(3.15事件)
この摘発により東京帝大以下148名のエリート学生が共産主義者として検挙され、政府指導者に衝撃を与えたという。
また、翌年の4月16日には地下党員を中心に339名が検挙され、日本共産党は一旦壊滅したのだが、共産党員でなくともソ連に憧れる日本人が増殖しており、そこまでは検挙できなかったことは当然だ。

岡田嘉子

昭和13年(1938)に美人女優の岡田嘉子がソ連に憧れて演出家の杉本良吉とともに樺太からソ連に亡命した有名な事件があった。ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑に処せられてしまう。
戦後においても北朝鮮を地上のパラダイスのように伝えたマスコミがあり、多くの日本人が北朝鮮に渡ったのと同じように、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスのように煽っていたのではないだろうか。

私の学生時代を振り返っても、ソ連などの社会主義国に憧れる同級生が少なからずいたし、何を隠そう私にもそういう時期があったが、次第に離れて行ったのは「暴力革命」の考え方が馴染まなかったからだ。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」と書いているのだが、この考え方に嵌ってしまうとあらゆる破壊行為が正当化されてしまう懸念がある。
もし、昭和時代の初期に日本軍人の間にマルキシズムが浸透し、軍命令よりもソ連の工作に協力することを優先し、日本軍の情報を漏洩し、コミンテルンからの指示で動く軍人が少なからずいたとしたらどうなっていたであろうか。コミンテルンの政治綱領からすれば、彼等は戦争を終わらせる方向ではなく、長引かせる方向に持ち込んで、体制の転覆に持ち込もうとするはずではないか。

通史では昭和の初期において軍部が政府の命令を無視し、暴走したことが書かれているのだが、彼らの「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に基づいたものではなかったのだろうか。
当時そのことに途中で気が付いた人物がいて、そのような記録もいくつか残されているのだが、その話を書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿

前回の記事で、日本軍には左翼分子が少なからずいて、軍部の「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に従ったものではないかということを書いた。当時、そのことに気が付いた人の記録が残っていることも書いたが、今回は昭和20年2月に近衛文麿が天皇陛下に対して戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』を紹介したい。
この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いているのだが、どういうわけかこの『近衛上奏文』は、わが国の「昭和史」の通説ではほとんど無視されているように見える。

近衛文麿

近衛文麿は3度にわたり内閣総理大臣に指名され、第一次近衛内閣(昭和12年6月~14年1月)では盧溝橋事件が引き金となって支那事変が泥沼化し、第二次近衛内閣(昭和15年7月~昭和16年7月)では八紘一宇による大東亜共栄圏の建設を宣言し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結させて世界大戦に突入させたイメージが強かったのだが、近衛文麿は学生時代から社会主義思想に深く共鳴し、当時著名であった河上肇の経済学を学ぶために東京帝国大学から京都帝国大学に転学しているほどのマルクス信奉者で、軍国主義的思想とは無縁の人物であった。

近衛は昭和8年(1933)に「昭和研究会」という政治・経済・社会に関する研究会を発足させ、その中心メンバーが後に近衛のブレーンとして彼の内閣を支えることになるのだが、その中に、のちにゾルゲ事件*の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実がいた。
*ゾルゲ事件: リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、昭和16年9月から17年4月にかけてその構成員が逮捕された事件。

ゾルゲ

また昭和14年(1939)から16年(1941)にかけて、多数の企画院職員・調査官らが左翼活動の嫌疑により治安維持法違反で検挙起訴された「企画院事件」があった。「企画院」とは首相直属の政府機関で統制経済を推進する部署であるが、この事件で「昭和研究会」のメンバーが多数逮捕されていることから見ても、このメンバーの中にコミンテルンにつながる人物がかなり存在したことは間違いがない。そもそも近衛が総理になった際の書記官長(官房長官)に、戦後はソ連のフロント組織「世界平和評議会」の評議委員で日ソ協会副会長となった共産主義者の風早章を選んでいる。これでは近衛内閣で決定されたことはソ連に筒抜けではなかったか。

近衛上奏文』はこれらの出来事を振り返りながら、戦争の早期終結を天皇陛下に奏上する文章なのだが、文面からはかつての社会主義者の面影はない。文章がやや長いので、「上奏文」のなかで近衛が、わが国にどの程度マルクス・レーニンの思想が広がっていて、高級官僚や軍部がどう動いたかについて述べている部分を中心に紹介することとする。
全文が読みたい人用に、掲載されているURLを紹介しておく。

原文     http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/konoejousou.html
読み下し   http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm#konoezyousyoubun

まず、近衛は「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」と述べ、これからもっとも憂うべきことは「敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に御座候」と書き、世界の情勢について、ソ連が世界の共産国化のために露骨な策動を行っていることが明瞭となってきたと分析して、さらにそのソ連の工作が世界で大部分成功しつつあることを述べている。

続いて、国内の分析に入る。
「翻つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後から操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候
。…」
と、わが国においても軍部内の革新運動とそれに便乗する新官僚の運動を背後から操る左翼分子が暗躍し、わが国で共産革命が成就する条件が揃いつつあると書いている。

「職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、其多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり、只彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。

 抑も満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候
此の事は過去十年間、軍部、官僚、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて過去十年間の動きを照し見るとき、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。」
軍部内の革新論に立つメンバーが、共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは、計画的なものであったことは今や明らかであると述べて、以上のことがわが国の政治の最高責任者として、静かに反省して到達した結論であるとし、さらに、昭和天皇にこのように謝罪している。

「不肖は此の間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮したる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。」
挙国一致の実を上げるために革新論者の主張を取り入れたが、その主張の背後に潜む意図が看破できなかったことに深く責任を感じているというのだ。更に、次のようにも述べている。

アッツ島の仇を討て

「昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす者はいわゆる右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候
一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的気分は次第に濃厚になりつつある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候
以上の如く國の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつつあり、今後戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存候。」

「一億玉砕」などのスローガンは典型的な軍国主義のスローガンだとばかり思ってきたが、近衛は、このようなスローガンで国内を混乱させて共産革命を成就させようとする共産分子が煽動していると睨んでいたのだ。
また軍部の一部にはソ連や延安の共産勢力と手を結ぶことを論じるものがいたとも書いている。

こう述べた後で、近衛は勝利の見込みのない戦いを継続することは共産主義者の思うつぼとなり、一日も早く戦争を終結させるべきであるが、その為には軍部の革新派の一味を一掃する必要があることを縷々述べているのだが、この部分については省略しておく。

この上奏文には様々な評価があり、近衛は共産主義の脅威を過大視しすぎているとか、近衛自身が対米英戦に追いやった最高責任者でありながら、マルクス主義者ではなくなったとのイメージを作る自己弁護の文書であるとか、この文章を素直に読もうとしない研究者が多いようなのだが、この文章を読んで近衛が嘘を言っているようには私には思えない。

確かに、近衛が心配していたようなわが国の共産革命にはならなかったのだが、それは米軍による広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦の直後に、昭和天皇のご聖断で終戦に導いたことが大きいのだと思う。あの時の天皇陛下のご聖断がなければ、近衛が危惧したとおりになっていた可能性が高いのではないだろうか。

終戦の詔勅

そういえば「終戦の詔勅」を天皇陛下が吹き込まれた玉音放送のレコード盤を奪い取って終戦を阻止しようとした陸軍の将校らのメンバーが近衛第一師団長森赳中将を殺害し、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した事件があった。(宮城事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この事件については上記URLに詳しく書かれているが、そもそもわが国の軍人でありながら、最高主権者たる天皇陛下のご聖断にも従おうとしないメンバーが右翼であるとは思えない。このようなメンバーは、近衛の言う「革命の目的を達せんとする共産分子」であったと考えたほうがずっとスッキリするのだ。

余談だが、この「上奏文」を書き上げた近衛は吉田茂邸を訪れ、吉田も共感し牧野伸顕にも見せるために写しをとったが、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたのだそうだ。この時期はそこまで「共産分子」が情報網を張り巡らせていたことに驚きを禁じ得ない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

数年前に初めてこの『近衛上奏文』を読んだ時に、今まで学んできた歴史観とほとんど正反対のことが書かれていることに非常に驚いた。

いろいろ調べると、この時期にここで近衛が指摘したようなことを書いた人物は、探せば他にも何人か見つけることができる。近衛が妄想を書いているという指摘はあたらないのだ。

しかし、このような一次資料が「昭和史」の中で紹介されないのは、なぜなのだろうか。
今までこのブログで何度か書いてきたように、わが国の歴史叙述は、戦勝国にとって都合の良いことは書いても、都合の悪いことは書かれていないと考えて良い。
戦後のGHQによる検閲や焚書によって、多くの日本人は正しい史実にアプローチする術を失ってしまい、そしてわが国のマスコミは、戦勝国にとって都合の良い歴史観を、バイアスがかかったままで固定化する役割を未だに担っているかのようだ。

氷雪の門

以前このブログで、「終戦の詔勅」後にソ連軍によって南樺太が侵略され10万人余の日本人犠牲者が出た史実を映画化した「氷雪の門」が完成し、昭和49年に封切直前でソ連の圧力で葬り去られたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html
しかし、ソ連が崩壊したのちも長い間この映画が公開されることなく、ようやく2010年に一部の地域で小規模に上映されはしたが、テレビでは放映されることがない。未だに戦勝国に都合の悪いことを放送することが自主規制されているかのごとくである。

ところで、この時期に工作活動を繰り返した旧ソ連の全貌が海外で少しずつ明らかになりつつある。

img20120509000218303.jpg

冷戦末期に旧ソ連のKGB対外文書課長であったミトローヒンがイギリスに亡命し、その時に大量の機密文書(「ミトローヒン文書」)を持ち出したそうだ。そこにはアジアへのKGBの工作活動が書かれているそうで、多くの日本の政治家や官僚、マスメディアが国益に反する行動をとっていたことが、実名やコードネームで紹介され、日本の暗号システムまでソ連に渡した外交官がいたことなどが書かれているという。この文書の一部を分析した書物が、今から7年前に英国で出版されている。
このような本は是非邦訳を出版してほしいものである。こういう書物がわが国で多くの人に読まれれば、日本人の昭和史の見方が一変することだろう。

img20120509000209037.jpg

またアメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号の解読内容を1995年から公開した「ヴェノナ文書」がある。この文書によると、この時代のルーズベルト政権では、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいたのだそうだ。

この文書を一部ではあるが分析した書物が2年前に邦訳されているが、残念ながらほとんどがアメリカに関する記述である。
しかし、第二次世界大戦中にアメリカで500人以上ソ連につながる人物がいたというなら、日本にも相当程度いたはずである。独ソ戦開始後、ソ連に近い満州まで進んでいた関東軍が北進してソ連を攻めることがないようにすることがソ連にとっては最大の関心事であったはずで、アメリカと変わらないレベルか、あるいはそれ以上の工作員やスパイやエージェントがいてもおかしくはないと思う。

こう見ていくとわが国は、太平洋戦争の頃から、情報戦や工作には弱い国であったことが見て取れる。そして、今は、この時期以上に謀略に弱い国に成り下がってしまった。
日本人の「和」を重視する伝統的な考え方は世界では多くの国で通用せず、深く考えずにまず謝罪し相手を刺戟しないとする姿勢がつけこまれて、問題をますます複雑にしてはいないだろうか。
先進国ならどこの国でもある「スパイ活動防止法」がないわが国は、他国から見ればスパイ天国であり、世論誘導や政治家やマスコミ・官僚に対する工作で、今や、わが国の富ばかりではなく国土まで奪われかねない状況にあるではないか。

この様な状況を生み出している要因の一つとして歴史観の問題があると思うのだが、「太平洋戦争は日本だけが悪かった」という歴史は、いずれソ連の機密文書が明らかになっていけば、確実にひっくり返されることだろう。
残念ながら、それにはまだまだ時間がかかるだろうが、「近衛上奏文」のような「通説」と異なるような史料は、探せばいくつも見つけることができる。
少しでも多くの日本人がこのような従来とは異なる歴史の見方を学ぶことで、自国に対する誇りを是非取り戻してほしいものだと思う。
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尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる

前回の記事で近衛文麿が、軍部内の革新論に立つメンバーが、わが国を共産革命に引きずり込もうとする官僚などに踊らされて、満州事変、支那事変を起こし、事変を拡大させて大東亜戦争に導いたのは計画的なものであったことは明らかであると述べていることを紹介したが、一人だけだとあまり信用していただけないと思うので、今回は軍部を動かしていた側の文書を紹介してみたい。

共産主義者に軍部を動かす動機があったことを知るためには、レーニンの「敗戦革命論」を知る必要がある。レーニンは1920年のモスクワ共産党細胞書記長会議でこのように述べている。

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「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたってわれわれの基本的原則となるべき規則がある。その原則とは、資本主義国間の矛盾的対立を利用して、これらの諸国を互いにかみ合わすことである。われわれが世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒することができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首を掴まなければならない。」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.37)

このレーニンの考え方が、8年後の1928年コミンテルン第6回大会ではもっと過激で具体的なものとなっている。
「現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、ソ連及び革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、…、右の分類による第二の戦争は一方的反動戦争なるが故に勿論断固反対しなければならない。また第三の戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し帝国主義の武力行使に反対しなければならないが、第一の帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。

(現在の帝国主義国家の軍隊の)最近の傾向は、第二次大戦の危機を前にして各国共に、人民の全部を軍隊にする傾向が増大して来てゐる。この現象は搾取者と被搾取者の関係を軍隊内に発生せしめるものであって、大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(同上書 p.38-40)

コミンテルンは共産主義者に対し、資本主義国家間の戦争に対しては、自国の軍隊に進んで参加して自己崩壊の内乱戦とし、自国政府の敗戦に導くことによりプロレタリア革命を遂行せよと指令し、ソ連に対する戦争は反革命であり断固反対せよと指令しているのだ。

ゾルゲ事件の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実は、生前に残した手記でこのように書いているが、この内容はコミンテルンの方針とよく符合しており、コミンテルンの方針に沿ったものであることは読めば明らかである。ポイントとなる部分を少し紹介してみよう。

尾崎秀実

「我々のグループの目的任務は、特にゾルゲから聞いた訳ではりませぬが私が理解する所では、広義にコミンテルンの目指す世界共産主義革命遂行の為、日本における革命情勢の進展と之に対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報竝びに之に関する正確なる意見をモスコー(モスクワ)に諜報することにあり。狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にして其の支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛する為、日本の国内情勢、殊に政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道し且つ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるに在るのであります。」(同上書 p.214)
我々のグループと言うのは「ゾルゲ諜報団」のことだが、このグループはコミンテルンの目指す世界共産主義革命の実現のため、また日本帝国主義からソ連を守るために情報を流す活動をしていたことを明確に書いている。

また、尾崎が当時の世界情勢をどう考えていたかという点についてはこう書いている。
「私はこの第二次世界戦争の過程を通じて世界共産主義革命が完全に成就しない迄も決定的な段階に達することを確信するものであります。その理由は、
第一に、世界帝国主義国相互間の戦争は、結局相互の極端なる破壊を惹起し、彼等自体の現存社会経済体制を崩壊せしめるに至るであろうと云ふことであります。…敗戦国家に於ては第一次世界大戦の場合と同様プロレタリア革命に移行する可能性が最も多く、又仮令一方が勝ち残つた場合でも、戦勝国は内部的な疲弊と敵対国の社会変革の影響とによつて社会革命勃発の可能性なしとしないのであります。
第二には、共産主義国家たるソ連邦の存在してゐる事実であります。私はソ連邦はあくまで帝国主義諸国家間の混戦に超然たるべきものであると考へ、その意味においてソ連邦の平和政策は成功であると考えていたのであります。…
第三には、植民地、半植民地が此の戦争の過程を通じて自己解放を遂げ、その間に或る民族に於いては共産主義的方向に進むであらうと言ふことであります。少なくとも支那に対しては斯る現実の期待がかけ得られると思はれます。」(同上書p.223)
と、尾崎は第二次世界大戦の過程を通じて、世界共産主義革命が完成に近づくものと考え、中国については特に期待していたと書いている。

そして尾崎自身は第二次世界大戦は次のようなものになると思い描いていたという。
「…私がしきりに心に描いていたところは、次の如きものでありました。
第一に、日本は独逸と提携するであろうこと。
第二に、日本は結局英米と相戦ふに至るであろうこと。
第三に、最後に我々はソ連の力を借り、先づ支那の社会主義国家への転換を図り、これとの関連において日本自体の社会主義国家への転換を図ること。」(同上書p.227)
そして尾崎が考えていた通りに、その後日本はドイツと同盟を結び、英米との戦いに突入する。

次が重要な部分である。
「私の立場から言へば、日本なり独逸なりが簡単に崩れ去つて英米の全勝に終わるのは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであらうとの見通しでありますが)万一かかる場合になつた時に英米の全勝に終らしめないためにも、日本は社会体制の転換を以て、ソ連、支那と結び別な角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考へました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧せられつゝある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を「東亜新秩序」創設の絶対要件であるといふことをしきりに主張しておりましたのはかゝる含みを籠めてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者の主張とも殆んど矛盾することなく主張されている点であります。」(同上書p.227)
共産主義者の尾崎からすれば、この戦争で日本やドイツが簡単に敗れて英米の勝利に終わることは望ましい事ではなく、コミンテルンの指導の通りこの戦争を機に世界の共産革命に持ち込むことを望んでいたことが分かる。
また独ソ戦勃発以降、日本はドイツを助けるため北進してソ連と戦うか(北進論)、欧米の援蒋ルートを絶ち、資源確保のために仏印に進駐するか(南進論)の選択を迫られたのだが、わが国が南進論を選択したのは、尾崎の影響が大きかったと言われている。
「大東亜共栄圏」「八紘一宇」という崇高な理想を掲げたスローガンも、一部は「国粋的南進主義者」が作ったものかもしれないが、尾崎グループが日本軍をソ連と戦わせないよう、皇軍を南進に導くために何度も主張したことが書かれているのだ。

大東亜戦争とスターリンの謀略

今回の記事ですでに何度か引用させていただいた三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という本には、このような当時の史料が満載で、第二次世界大戦にコミンテルンがどう関わったかを学ぶことができる良書なのだが、昭和25年にGHQにより販売禁止とされて長い間埋もれてしまっていた。遠山景久氏の努力により昭和62年に復刊されてその後何度か再版されているが、一般の書店には出回っていない書物である。

第56-57代内閣総理大臣の岸信介はこの本の序文にこう書いていることは注目に値する。

岸信介

「…支那事変を長期化させ、日支和平の芽をつぶし、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった、ということが、実に赤裸々に描写されているではないか。
 近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うなればスターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる。
私が東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人はスターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事を務めたのだから、まことに茶番と言うほかない。

この本を読めば、共産主義者が如何に右翼・軍部を自家薬篭中のものにしたかがよく判る。なぜそれができたのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し考えてみれば、本来この両者(右翼と左翼)は共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同じである。当時戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制と類似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる。…」(同上書 p.319-320)

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三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』はGHQが我が国での販売を禁止した本なのだが、英訳されてGHQの情報部長であったウィロビーの眼に止まり、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなり、その後ルーズベルト政権や戦前の日本政府に入っていた共産主義者の追及につながったと言われている。

いつの時代もどこの国でも情報工作活動を伴う出来事については、工作を仕掛けた側から動機や経緯などが詳細に書かれた史料が公表されることがほとんどないために、記述にはある程度著者の推測が伴うことは已むを得ないが、この三田村氏の著作については特に共産主義者の立場からの考察は説得力があり、かなり核心を突いた記述であると思うのだ。

多くの人に読んでほしい一冊なのだが、出版社側も通常の販売ルートに乗せられない事情があるのか書店での入手は出来ず、私は「GHQ発禁図書刊行会」というところから数年前に入手した。
この書が国民に幅広く読まれたら、『東京裁判史観』が崩壊することは確実だと思うのだが、そうさせたくない勢力が、わが国のマスコミや出版界、教育界などに未だに根強く残っているということなのだろう。
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「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図

国会図書館所蔵の興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料の中に、入手経路が不明なるが故に怪文書とされているものがある。偽書なのか本物なのかは今となっては判断できないのだろうが、そこに書かれていることは極めて重大なことである。
入手ルートは秘匿されても、国会図書館に所蔵されていることは、当時としては信頼できる筋から入手したものなのだろう。
そこに書かれているのは、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説で、重要な部分は次の部分である。

スターリン

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

有名な『砕氷船のテーゼ』と呼ばれているものだが、この内容は、前回書いたレーニンの「敗戦革命論」や尾崎秀実の手記や近衛文麿の上奏文の内容とも符合し、かつ歴史的経過から見ても納得できる内容である。
第二次世界大戦において、日本とドイツが砕氷船の役割を演じさせられて、日独の砕氷船が沈没した後に、ソ連と毛沢東の中国と米国の三社がうまく分け前を取り合った。日本を砕氷船に仕立てるために多大の貢献をしたのが、ゾルゲや尾崎秀実であるということになる。
今では、全てわが国とナチス・ドイツが悪者にされてしまったまま歴史が固定化されようとしているのだが、実際はほとんどがコミンテルンによる仕掛けで行われたものではなかったのか。

スターリンの演説の内、最後の一行に書かれている我が国の共産化だけは実現しなかったが、その要因は前々回に書いた通り、米軍による広島・長崎の原爆投下とソ連の対日参戦の直後に、昭和天皇のご聖断で終戦に導いたことが大きいのだと思う。あの時の天皇陛下のご聖断がなければ、樺太や千島以外の国土が、スターリン演説のとおり共産化していた可能性が高かったと思うのだ。

では、このスターリンの演説が行われたという第7回コミンテルン大会はどのような大会であったのか。

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ネットで調べると、『近代デジタルライブラリー』に決議内容が書かれた文書があるが、ここには先ほどの『砕氷船のテーゼ』に関わる内容については非公開の決議ゆえに記されていないのはやむを得ない。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460513/4

故・倉前盛通氏の著書でベストセラーとなった『悪の論理』にはこう書かれている。

悪の論理

「昭和十年に、モスクワで第7回コミンテルン大会が開かれ、全世界の共産党が集まって、直面する重大問題『日本とナチス・ドイツによって、ソ連が挟み撃ちされる危機を、いかにして防止するか』というテーマを討議し、そこで再びレーニン地政学の『砕氷船テーゼ』がとりあげられたという。
 この第7回コミンテルン大会の表面上のテーゼは『人民戦線の結成』であり、そのように公表されたが、それはあくまでも表のテーゼであり、裏の本当のテーゼは非公開の『砕氷船テーゼ』であるということは、昭和十年代に、心ある人が警告していたことであった。
 しかし、コミンテルンの表面上のテーゼとして『共産主義者は自由主義者と連携して人民戦線を結成し、反ファッショ、反戦の運動を展開しよう』と大々的に宣伝され、一部の進歩的人士がそれに同調する動きを示すような情勢下では、『コミンテルンの本当の狙いは日中を長期戦にひきずりこむことにあるのだ。蒋介石相手の長期戦は国力を消耗するだけであり、ただちに終結せしめるべきだ』という正論は全く世間から相手にされなかった。
 そればかりか、新聞が書きたてる『蒋介石討つべし』との強硬論(これを最も強く主張したのは朝日新聞であった)に煽られた民衆の白眼視を買ったばかりではなく、頭に血の昇った軍部からは、『米英の第五列、人民戦線のスパイ、反戦反軍通敵行為』という名で、弾圧の対象にされた。憲兵隊は、こういう正論をことごとくつぶしてしまったのである。
 まことに、人民戦線テーゼは、軍部の目をあざむく『おとり作戦』であった。本当のソ連のエージェントは、右翼や愛国主義者の仮面をかぶり、軍部に接近して、対支強硬論を煽っていたのである。その代表人物が尾崎秀実であった。彼は近衛文麿の秘書にまでなって、国家の中枢部に食い込んでいたのである。」(角川文庫『悪の論理』p.62-63)

尾崎秀実は昭和12年7月に朝日新聞を退社しているが、それまでは『蒋介石討つべし』の論陣を張って日中戦争に持ち込む世論誘導をしていたのであろう。
尾崎が朝日新聞社を退社する前月の昭和12年6月4日に第一次近衛文麿内閣が成立し、尾崎は翌月に近衛内閣の嘱託になっている。そして、盧溝橋事件が起きたのはその間の7月7日である。

盧溝橋事件記事

この事件から日中戦争が始まり、ドロ沼化していくことになるのだが、盧溝橋事件とはどんな事件であったかを振り返っておこう。

『もう一度読む山川の日本史』では「1937年7月7~8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突が起こった(盧溝橋事件)。」とわずか1行で書かれているだけだが、この表現では両軍とも一触即発の状況であったと錯覚してしまう。

実はこの時の日本軍は「丸腰」(演習の為、実弾を携行していなかった)であり、日本側には戦う意思などは毛頭なかった。
橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)は当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しており、日本側は何者かに仕掛けられたのである。

では、どこが仕掛けたのか。
実はこの時に、国民党軍も、日本軍同様、銃撃を受けている。

盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込み、反対に国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んで、この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのだが、双方共、腑に落ちない点があり、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んでいる。つまり、日本軍は中国との全面戦争を、最初から欲してはいなかったのである。

誰がこの戦いを仕掛け、拡大させたのか。その答えは中国共産党であったことがわかっている。

周恩来

昭和24年(1949) 10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相が、「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と発言していることから明らかな事であり、中国共産党軍の兵士パンフレットにも「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」と書かれているというから、中国共産党が謀ったことは疑いようのない事なのだ。
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html

では、日中間で一旦停戦協定を結んだにもかかわらず、なぜ争いが拡大していったのか。

Wikipediaには、中国共産党が事件拡大にどう関わったかが詳しく書かれている。
「7月8日、全国に通電して、局地解決反対を呼びかけ、7月9日、宣伝工作を積極化し、各種抗日団体を組織すること、必要あれば抗日義勇軍を組織し、場合によっては直接日本と衝突することを、各級党部に指令した。…11日の周恩来・蒋介石会議で、周恩来は抗日全面戦争の必要を強調した。そして国民政府が抗日を決意し、民主政府の組織、統一綱領を決定すれば、共産党は抗日の第一線に進出することを約束した。7月13日、毛沢東・朱徳の名で国民政府に即時開戦を迫り…」などと、中国側に戦争を終結させる意思はどこにもない。

蒋介石抗戦記事

停戦協定は中国によって何度も破られて、19日に蒋介石は抗戦の覚悟を公式に明らかにした以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日には北支における日中両軍の全面衝突が開始してしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

我が国はこの中国の謀略に気付いていなかったのではなかったようだ。
前掲の倉前氏の書物にはこう書かれている。
「…巧妙な挑発に成功した劉少奇が、この旨を延安へ秘密の電波で通報したところを、千葉県の大和田にあった海軍通信所がキャッチして暗号を解読し、『これはおかしい。今回の事件は謀略だ』と海軍側は考えたと言われる。しかし、何分にも、陸軍の主流は、『支那大陸の支配』を夢見るグループによって握られており、中国内部も、国共合作による対日抗戦を決定している状況下では、いくら、良識ある政治家や軍人が、事変の不拡大に努力しても無駄であった。その上、米ソ両国の筋も、日本のマスコミに潜入していたコミンテルン筋も、日中戦乱の拡大を歓迎して、裏面で『戦火の拡大』を煽ったのであるから、とても戦乱を止めることができなかったのであろう。」(同上書 p.65-66)

それにしてもソ連とは恐ろしい国である。第7回のコミンテルン大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立てて、日本の敗戦が近いと分かった時点で、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告している。
これは『砕氷船のテーゼ』のシナリオ通りで、初めからそうするつもりであったと考えるしかないのだ。

倉前氏は盧溝橋事件をこう纏めている。
「日本と中華民国との全面武力衝突は、米国もソ連も大いに歓迎するところであったし、日本の本物の左翼も、中国共産党も大歓迎であった。巧妙なワナにはまったとも悟らず、暴走したのは愚かな日本の軍部と何も知らぬ日本人大衆だけだったわけである。」(同上書 p.64)

私は、コミンテルンを知らずして20世紀の歴史は語れないと考えるようになったのだが、このような史実に言及している論文や著書は極めて少なく、こういう史実を語ることが、未だにマスコミや歴史学会ではタブーになっているかのごとくである。
少なくとも、盧溝橋事件については中国共産党が、自らがやったことを表明しているのであるから、せめて教科書には「中国共産党の謀略により」と、堂々と書いて欲しいものである。

現在のように、諸外国の圧力を怖れるあまりに自国の歴史記述を歪めるような行為を続けることは、わが国に対しては嘘の歴史であっても何度も繰り返し圧力をかけておけば、いずれはその嘘が認められて我が国の教科書にも載るようになるとの誤ったメッセージを諸外国に発することになってしまう。

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我が国の立場と異なる歴史を広めることによって、いままでどれだけ多くの国益が失われてきただろうか。嘘の歴史記述を押し付けてくるような国に対しては、政治家はもっと毅然とした態度をとって欲しいし、有権者はそういう政治家を選ばなければ国が危うくなるばかりである。
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「二・二六事件」と中国の「西安事件」に垣間見えるコミンテルンの影

前回の記事で、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリン演説を紹介し、当時コミンテルンが立てていた戦略は、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占めることであったことを書いた。

このコミンテルン大会の後でわが国と中国で起こった事件を調べてみると、不可解でかつ重大な出来事が相次いでいることに気が付く。

先に中国側の出来事から見て行こう。
まず、第7回コミンテルン大会期間中に、モスクワにいた駐コミンテルン中国共産党代表団が、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で、日本の中国進出に対抗するよう要求した「八・一宣言」を発表した。
その当時中国国民党は反共主義者である蒋介石が率いており、蒋介石は日本に対しては宥和的な姿勢で臨みつつも、共産党に対しては激しい攻撃を加えていた。
多くの戦死者が出ていた共産党軍は、第7回コミンテルン大会の前年の1934年10月に瑞金から脱出してソ連国境に近い延安に逃れたのだが、この時も蒋介石軍に追撃されて65千人もの兵士を失っている。
「八・一宣言」を無視してさらに蒋介石は延安への攻撃を図り、共産党軍が壊滅的状態になるかと思いきや、ここで「西安事件」が起きて事態が一変するのだ。

西安事件

西安事件」とは1936年12月12日に西安で張学良らによって蒋介石が拉致監禁されて内戦の停止・政治犯の釈放などを要求した事件である。当初、蒋介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶したのだが、共産党の周恩来らが西安入りして蒋介石らと話し合いがもたれてから、蒋介石の態度が急変する。
前回の記事で書いた盧溝橋事件がおこり日中戦争に突入すると、国民政府は中共掃討を放棄し、第二次国共合作が成立して、抗日全面戦争に進んでいく流れだ。

蒋介石監禁の報を受けた当初、中国共産党は蒋介石殺害を検討したようだが、スターリンからは「蒋介石を釈放しなければコミンテルンを除名する」と恫喝されて、中国共産党は国民党と手を組んで(「国共合作」)抗日戦を継続することとなった。どうやらスターリンは、早期に内戦を終焉させて日中戦争に持ち込み、日本を中国に釘付けにさせて対ソ戦を回避させるという思惑が存在していたようだ。

拉致監禁された蒋介石に対して周恩来が何を話したのかについては、記録が何もなく、本人も死ぬまで語らなかったために今も不明なままである。
ところで、もし「西安事件」が起こらなかったら中国共産党はどうなっていただろうか。 当時蒋介石に近かった文学者、外交官の胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べているが、それほどこの事件は絶妙なタイミングで起こっているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
次にわが国の出来事を見てみよう。

第7回コミンテルン大会の翌年の昭和11年(1936)の2月に二・二六事件が起こり、昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件がおこり、同じ月に通州で日本人居留民が大量に虐殺される事件が起こっている(通州事件)。
またその年の12月に日本軍が南京を占領するが、この時に日本軍による大虐殺があったかなかったかで今も議論が続けられている。南京占領についてはいずれこのブログで書くことがあると思うが、日中間の争いを泥沼化させることがコミンテルンの戦略であったという流れの中で見ることが必要であるし、中国側の言っていることを鵜呑みにすることは危険であると考えている。

通州事件

また、我が国の教科書や通史には「南京大虐殺」は載せても「通州事件」を載せることがないのだが、「通州事件」を載せないというのは教科書記述としてはかなり公平性を欠くものだと思う。通州事件についてはネットでいくらでも読むことができるが、このような残虐な手口は卑劣な挑発行為であると誰でも思うのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6
今回は二つの虐殺事件はこの程度にして、「二・二六事件」について振り返ってみることにする。この事件は『もう一度読む山川日本史』にはこう記述されている。

226事件

「…軍部はしだいに政治的発言権を強め、日本は、ワシントン海軍軍縮条約を廃棄し、ロンドン海軍軍縮会議も脱退して、着々と軍備拡張をすすめた。
このころ、陸軍の内部では皇道派と統制派の派閥的対立もからんで緊張が高まりつつあったが、1936年(昭和11)2月26日、皇道派の急進的な陸軍青年将校が、千数百名の兵士を率いて反乱をおこし、内大臣斉藤実・大蔵大臣高橋是清ら要人を殺害し、首相官邸などを占拠した。これが二・二六事件である。戒厳令が出され、反乱はまもなく鎮圧されたが、陸軍当局はその指導者を処刑し、陸軍部内の統制を確立するとともに、事件後の広田弘毅内閣に圧力をかけて、軍部大臣現役武官制を復活させるなど、政治の主導権をにぎっていった。」(『もう一度読む山川日本史』p.299-300)

事件の経緯についてはこれ以上詳しく書くつもりはないが、この事件によって軍部の勢力地図はどう変わったのかがこの教科書では良くわからない。
前回紹介した、倉前盛通氏の『悪の論理』にはこの点についてわかりやすくこう書かれている。

「これは同じ年に発生した中国の西安事変と、同じ目的を持っていた。
当時の陸軍内部は『蒋介石と和解し、ソ連に対抗するための国力の充実をはかろう』という派と、『対ソ作戦は棚上げにして、まず、シナ大陸を支配しよう』という二つの派に大別されていた。皇道派、統制派、中間派、いろいろな名称があり、一人一人の派閥関係には不明な点もあるが、いずれにせよ、二・二六事件によって『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々はほとんど陸軍から排除され『支那大陸への侵攻』を考えるグループによって陸軍の主導権が握られたことは疑いを入れない。ここにも、日中を戦わせようとする米ソ双方の巧妙きわまる陰謀工作が伏在していたと筆者は信じている。
こうしてみると、昭和十年の第七回コミンテルン大会、昭和十一年の二・二六事件と西安事変、昭和十二年の日支事変勃発(盧溝橋事件)の四者の間には密接不離の脈絡があることがわかるであろう。
昭和10年代に、この点をいうことはタブーであった。うっかり、こんなことをいえば、『皇軍を侮辱する気か』と憲兵隊に引っ張られることは明らかであった。
敗戦後も、この点を指摘することはタブーであった。これを言うことは『日本帝国主義の罪科を、米ソ両国と中国共産党に着せようとする反動分子の詭弁』として袋叩きに合うことは必至だったからである。」(倉前盛通氏『悪の論理』p.64-65)

倉前氏が書いている『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々は『皇道派』で、『支那大陸への侵攻』を考えるグループは『統制派』と言われるグループだと考えて良いが、『二・二六事件』を機に皇道派将校は予備役に追いやられて統制派が実権を握り、さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく、「軍部大臣現役武官制」が復活されたために、その後、特に陸軍は政治色を強めていくことになる。
統制派が実権を握るという事は、日中が戦うということであり、「軍部大臣現役武官制」が復活して軍隊が暴走したら総理大臣ですら止められない仕組みを導入してしまったという事は、まさにコミンテルンのシナリオ通り進んだということではなかったのか。
倉前氏が指摘しているのは、日中が同じ時期に、お互いが相戦う方向に突き進んだことに何らかの工作があったのではないかというのだが、確かに日中両国で、コミンテルンにとって都合のいい勢力だけがタイミングよく残り、双方の戦いが泥沼化する体制が完成したというのは、とても偶然だとは思えないのだ。

前々回の記事で紹介した三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』に、二・二六事件で被告となった反乱将校らの獄中手記がいくつか紹介されているが、これを読むと、当時の皇道派の反乱分子は、目の前の戦いに勝つことよりも、わが国の国家改造を第一に考えていたようである。現代人のイメージからすれば少なくとも右翼ではなく、反ソ・反共とは言いながら左翼の考え方に近いところがある。

例えば栗原中尉はこう書いている。

栗原安秀

「多くの同志にとり極めて不幸なりし二・二六事件は…大国民運動の前衛戦となりしことを自負し、以て自ら慰むるものなり。…事件以後は、青年将校の運動より、下士官、兵を一丸とせる大運動へ発展せざるべからず。」
「今日本を誤りつゝあるは、軍閥と官僚だ、その二者を殲滅せば失へる財閥は、自ら崩壊せざるを得ざるべく、財閥の背景なくして売国的政党の存立するなし。昭和維新も、兵卒と農民と労働者との力を以て軍閥、官僚、政党を粉砕せざる間は招来し得ざるものと覚悟せざるべからず」 (三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.123-124) と、最後の文章はまるで革命の闘士のようだ。

注目すべきは、新井元陸軍中尉の文章だ。
「国家改造を夢見ながらも、青年将校と幕僚との間には、十月事件以降溝ができた。続いて起こった血盟団や昭和七年の五・一五事件は、いづれも青年将校の流れをくむものであつたが、幕僚を主体とする軍はこの機会を巧みにつかんで、ついに政党政治に終止符を打つた。政権把握の軍の野望達成には、最早国内テロの必要はなくなつた。戦争が開始されれば、必然的に軍の権力は拡大する。望むのは戦争だけである。国際的進出―対外侵略―と併行し、その企画統制の下に国家改造を断行する。これが永田鐡山を首領とする統制派幕僚の政策であった。
政党政治が崩壊しても、それだけでは青年将校の国家改造運動は、到底おさまる筈がなかつた。昭和三年来全国を襲つた深刻な不景気、特に中小商工業社や、農、山、漁村の困窮を最も敏感に感じ取つたのは、兵と直接接触する青年将校である。腐敗した政党と貪欲な財閥を打倒し、悩む下層階級を救おうといふのが、かれらを貫く思想であつた。…中でも東北地方の冷害で、満州に出征した兵の家庭では、姉妹が娼婦に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まつた国家改造の機運はおさまる道理がなかつた。」

226事件2

新井がこの事件によって軍の政権掌握の野望のために国内テロは不要となったと言っているのは注目して良い。この文章から、この事件によって統制派が実権を掌握したことでわが国は戦争に突き進んで、敗戦革命による「国家改造」を断行するというシナリオが垣間見えるのである。
ところで新井中尉は二・二六事件の叛乱者としてではなく、司令官軍隊を率い故なく配置の地を離れたために、禁固6年を言い渡された人物である。

前々回の記事で、レーニンの「敗戦革命論」のことを書いたが、これらの青年将校のかなりの部分はこの考えに従っているか、あるいは何者かに洗脳され焚き付けられて、そのように動かされていたのではないだろうか。

第6回コミンテルン大会の決議の一部を再度引用してみたい。
「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」

新井中尉が、「青年将校の間に…国家改造の機運がおさまる道理がなかった」と書いている通り、このレーニンの「敗戦革命論」に刺激されて、軍隊を「内部から崩壊せしめる」ために入隊した隊員が少なからず存在し、その中で兵を統率する立場になった者が相当存在していたことは確実だ。そして彼らに手渡された兵器は、敵国から国を守るためよりも、「国家改造」のために、何度かわが国の政治家や経済人や軍閥に銃口が向けられることになったのだ。

軍部の統制派が我が国の実権を掌握したために、政治家では軍部の暴走を止めることが出来なくなっていった。
この軍部の暴走は、大日本帝国憲法第11条により陸海軍の統帥権を持つ天皇しか止めることができなかったはずだ。昭和天皇は、広島・長崎に原爆が投下されソ連が我が国への侵攻を開始した極めて適切なタイミングで終戦のご聖断を下され、わが国がドイツや朝鮮半島のように共産主義勢力により国家を分断される危機を救われたのだが、このことはもっと評価されて良いことではないかと考えている。
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アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影

前々回の記事で昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説で「砕氷船のテーゼ」と呼ばれる部分を紹介した。再掲すると、

「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

という内容だが、その後の歴史は日米開戦まではこのテーゼの通りに展開し、わが国は千島や樺太を除き大部分は共産化を免れたが、ドイツの半分は共産国となり、その後東欧やアジアのいくつかの国々が共産陣営に入ったのだ。

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前回までの記事で、相戦う気配もなかったわが国と中国とがドロ沼の戦いに突き進んで行ったのは、コミンテルンの工作によるものである可能性が高いことを書いた。
ここまで書くと、なぜわが国がアメリカと戦うことになり、その過程でコミンテルンの関与があったかどうかについても書かねばなるまい。

まず、一般的な日本史教科書では日米開戦についてどう書かれているか。たとえば、『もう一度読む山川の日本史』では、

「ゆきづまった日米交渉
日独伊三国同盟の成立と日本の南進開始以後、日米関係は悪化の一途をたどったが、1941 (昭和16) 年4月からワシントンで日米交渉が始まり、戦争を回避するための努力もつづけられた。しかし、日本軍の中国からの撤兵問題などをめぐって交渉は難航した。

1941年6月、独ソ戦争が始まると、日本はドイツが優勢になればソ連との戦争にのりだす準備をするため、関東軍特殊演習という名目で、ソ連との国境近くの北満州に大軍を動員するとともに、同年7月、南部仏印(フランス領インドシナ南部)進駐をはじめた。アメリカはこれに対抗して在米日本資産の凍結、対日石油輸出の禁止を断行し、イギリス・中国・オランダと協力して、日本に対する経済封鎖を強めた(ABCD包囲網)。石油の大部分をアメリカから輸入していた日本にとって、これは大きな打撃であった。日本国内では陸軍が対米開戦論をとなえ、慎重だった海軍でも、強硬意見が大勢を占めるようになった。

日米開戦
1941(昭和16)年10月、日米交渉にゆきづまって第3次近衛内閣が退陣すると、かわって陸軍の実力者東条英機が内閣を組織した。日米交渉はなおもつづけられたが、妥結のみとおしはほとんどなくなっていた。アメリカは日本のあいつぐ南進政策に不信感をいだき、同年11月、日本へきわめて強硬な内容のハル・ノートを提示したので、日本はここに最終的に開戦を決定した。
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍はアメリカの海軍基地ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、陸軍はイギリス領マレー半島に上陸するなど、東南アジア・太平洋各地で軍事行動をおこし、アメリカ・イギリスに宣戦布告した。…」(『もう一度読む山川日本史』p.307)

と記述されているが、この文章では、なぜわが国が日米開戦に追い込まれたのかが今ひとつピンとこないし、戦争の原因が主にわが国にあるような印象を受ける。
そもそも国家が理由もなく他国を攻撃することがあるはずがないのだが、我が国の開戦理由についてどれだけの人がこの程度の叙述で納得できているのだろうか。

ハリーホワイト

この教科書には「ハル・ノート」が、わが国が開戦を決定するに際して極めて重要な役割を果たしたことが書かれているが、この内容を起草したのはルーズベルト政権下で財務次官であったハリー・ホワイトであったことがわかっている。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722420010-n1.htm

このハリー・ホワイトという人物は、1948年の夏の下院非米活動委員会において共産主義者であると告発を受け、その時に彼は否定したのだが直後に不可解な死を遂げている。
その後アメリカが傍受していた大量のソ連の暗号文書「ヴェノナ文書」が公開され、その文書により彼がコミンテルンのスパイであったことが判明し、1948年の下院非米活動委員会における告発が正しかったことが証明されている。

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ヴェノナ文書」のことは以前このブログでも書いたが、アメリカ陸軍省の特殊情報部が1943年以降極秘裏に解読してきたソ連情報部暗号文書のことで、解読に成功したのは第二次世界大戦が終戦したあとの1946年以降のことである。
アメリカ国家安全保障局中央保安部の次のサイトから、解読され英訳された「ヴェノナ文書」のタイプ打ち原稿の一部を誰でも読むことができる。
http://www.nsa.gov/public_info/declass/venona/

この「ヴェノナ文書」の解読によって、当時のルーズベルト政権では、ハリー・ホワイトのほかに、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判明しているのだそうだが、彼等は太平洋戦争終戦後もしばらくアメリカの政権の中枢部にいたという。

ジョゼフ・マッカーシー

彼らがアメリカの中枢部から排除されたのは、1950年に共和党議員のジョセフ・マッカーシー(上画像)が、当時において「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したと伝えられる演説を契機に大規模な「赤狩り」が行われた以降のことであり、それまではソ連に繋がる人脈がアメリカの政治や外交に影響を与えていたことになるのだ。

F.ルーズベルト大統領の時代にこれだけコミンテルンに近い人材がアメリカの中枢部にいて、彼等はそこで何をしていたのか。その後のアメリカは、スターリンの「砕氷船のテーゼ」通りにドイツおよび日本と戦うことになったのだが、これは果たして偶然だったのであろうか。

そもそもF.ルーズベルトは、選挙では、戦争に介入をしないと宣言をして大統領に当選しており、参戦したくても出来ない状況にあったし、当時のマスコミも世論も、アメリカが戦争に参戦することに強く反対していた。
では、なぜアメリカは、ドイツと日本の二国と戦うことになったのか、ルーズベルト政権の動きを日米の問題を中心に纏めてみよう。

前回の記事で、日中が本格的に戦う体制が出来上がったのが、1936(昭和11)年の二・二六事件と12月の西安事件の頃で、1937(昭和12)年7月に日中の最初の衝突となる盧溝橋事件が起こったことを書いたが、F.ルーズベルトはこの直後から、中国国民党を追い込む日本に圧力をかけ、大量の軍事物資を援蒋ルートを通じて蒋介石率いる国民党政権に送り続け、さらに義勇軍「フライング・タイガース」(米国の正規兵300名)と100機の戦闘機(P40-B)、や軍事顧問の派遣を決定して実行している。
240px-Flyingtiger1.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%B9

また1937 (昭和12) 年10月5日、F.ルーズベルトはシカゴで日本とドイツを侵略国家として非難する演説を行っている。 (「隔離演説」)
「世界の九割の人々の平和と自由、そして安全が、すべての国際的な秩序と法を破壊しようとしている残り一割の人々によって脅かされようとしている。…
不幸にも世界 に無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体 は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている。…
宣戦の布告も警告も、また正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が、空中からの爆弾によって仮借なく殺戮されている戦慄すべき状態が現出している。このような好戦的傾向が漸次他国に蔓延するおそれがある。彼らは平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」

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そして、この演説の翌日に、中国における日本の行為を、アメリカは九カ国条約とケロッグ-ブリアン条約(パリ不戦条約)違反だとみなし、声明は国際連盟の決議に沿うものとして、日本を明確に名指している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

F.ルーズベルト大統領の「隔離演説」については、アメリカ国内ではマスコミや労働界から「アメリカを世界戦争に巻き込もうとしている」との大非難を受けたのだが、その後も1941(昭和16)年に「武器貸与法」を成立させ、終戦までに総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供されたという。
このように、ルーズベルトが中国に対してとった支援内容は、冒頭の「砕氷船のテーゼ」のとおりに「日米決戦」まではアメリカは蒋介石の中国が日本と戦って日本軍を消耗させるために、アメリカの正規軍と戦闘機と武器を送り込んで実質上の参戦を果たしていたのだ。

1941(昭和16)年の4月からは日中間の戦争調停と日米間の合意を目指す日米交渉が本格化したが、日独伊三国同盟問題や満州国など日米の溝は大きく、交渉はまとまらなかったようだが、アメリカ側に交渉をまとめる意思があったのか。

そもそも当時日本の指導部は、日米の国力の差を考えて対米戦争に対しては消極的であったという。
前々回の記事で紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』によると、こんな数字が出ている。
鉄鋼生産  日本800万トン、 米国1億トン
石油生産  日本 20万トン、  米国2億トン
自動車生産 日本 約6万台、 米国600万台
倉前氏がコメントしているように、こんな圧倒的な数字の格差を見れば、わが国が米国との戦争を考えるはずがなく、庶民ならともかく、政府も軍部も財界も、米国との戦争はどうしても避けたいと考えるのが当然であろう。

そして6月に独ソ戦が開戦する。
7月2日に策定されたわが国の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」にもとづきわが国が南部フランス領インドシナ進駐をほのめかし7月28日に日本軍の進駐が実行されると、それに並行してアメリカは7月25日に在アメリカのわが国の資産凍結を行い、8月1日にアメリカは「日本を含む全侵略国」への石油禁輸を行った。

前々回の記事で紹介した『悪の論理』によると、当時わが国の石油消費量は約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていたそうである。また、当時のわが国の石油の備蓄は600万トンだった。1年半も経たないうちにわが国の経済が成り立たなくなることが目に見えていたはずだ。

野村吉三郎

日本政府は昭和16年1月末から野村吉三郎海軍大将を特命全権大使として派遣し、同年の11月には来栖大使もワシントンに派遣し、日米関係の好転と経済制裁解除のために最後の努力を振り絞り、あらゆる譲歩を行っている。

倉前氏はこう書いている。
「日本は米国の要求をいれて、日独伊三国同盟を死文化することに同意し、ハル長官はこれに満足の意を表している。その半面、米国は依然として、中立法をおかして、英国船団の護衛を続けていたのである。つまり、米国は英国を助けるが、日本はドイツを助けるなと言う一方的要求を日本はやむなくうけ入れたのである。また仏印、支那大陸から撤退することにも合意し、中国人民が望むなら、蒋介石が中国政府の中心人物に復帰することにも同意したのである。この事実も戦後、いっさい、日本国民に知らされていない。
日本政府も、軍部も、米国との和解を心から希望してここまで譲歩した。そこへ突如として11月26日のハル・ノートが届いたのである。」(倉前盛通『悪の論理』p.76-77)

わが国がここまでアメリカに譲歩したことについては、教科書や市販されている現代史の本にはほとんど書かれておらず、マスコミが報道することもないのだが、現代の日本人にはこういう史実を知られては困ると考える勢力が、未だに教育界やマスコミ・出版界にかなり存在しているという事なのか。
普通に考えれば、ここまで譲歩したのならばアメリカが我が国と戦う理由がどこにあったかのと疑問に思うのだ。アメリカはただ参戦したかったというだけで、ルーズベルト大統領にそのような決断を仕向けさせたのは、彼の周りにいたコミンテルンにつながる人脈で、もとを正せばスターリンの「砕氷船のテーゼ」と関係があるのではないだろうか。

随分長くなってしまったので、肝心のハル・ノートの内容および日米開戦については次回以降に書くこととしたい。
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昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと

昭和20年8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇が「終戦の詔書」をラジオを通じて発表され、全日本軍は一斉に戦いを止めて連合国に降伏した。

終戦の詔書

この8月15日が『終戦の日』で、この日に戦争が終わったものと子供の頃から思っていたのだが、樺太や千島や朝鮮半島ではその後もソ連軍と激しい戦いが続き、多くの犠牲者が出たことを知ったのは比較的最近のことである。

日本人の多くがそのことを知らないのは当然のことである。このことはGHQの検閲の為に、またその後のマスコミ・出版社の自己検閲の為に、その事実を日本人広く伝えられることがほとんどなかったからだ。

前回の記事で少しだけ触れたが、8月8日にソ連日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始している。

このブログで何度か引用している勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』の解説をしばらく引用する。
ソ連軍は、総員百七十四万人、火砲三万門、戦車五千二百五十両、飛行機五千機の圧倒的兵力で、八月九日午前零時を期して、満州・北朝鮮・南樺太になだれ込んだ。満州国を守備する関東軍は七十万人、火砲千門、戦車二百両、飛行機二百機と、兵数こそ三対一であったが、兵器は三十対一、全くお話にならない装備の貧弱さであった。(中山隆志『ソ連軍侵攻と日本軍』)。その上“弱り目に祟り目”ではないが、不意を突かれた関東軍は大本営の命令(朝鮮防衛・満州放棄策を採った)により、軍司令部を首都新京から通化に移したので、最後まで民間人を守るべき軍が、我先に逃げ出したとの悪印象を、後々まで与えることになった。」(『抹殺された大東亜戦争』p.416-417)

関東軍の兵器が少なかったのは、日本とソ連との間には『日ソ中立条約』が締結されており、ソ連軍がこんな時期に条約を破棄して攻めてくることを、政府・日本軍が想定していなかったからだ。
よく「ソ連が『日ソ中立条約』を一方的に破棄して攻め込んできた」という話を聞くのだが、Wikipediaの記述を読むと当時のわが国の政府や軍関係者がソ連の対日参戦の意志を読み取れなかった情報力不足にもかなり問題がありそうだ。

スターリン

1944年(昭和19年)にスターリンは革命記念日の演説で日本を「侵略国」と非難する演説を行っている。
また1945年2月のヤルタ会談の秘密協定でスターリンはルーズベルト、チャーチルに対してドイツ降伏後3か月以内に参戦することを密約している。
そして、昭和20年4月6日にソ連は、「情勢が締結当時と一変し、今日本はソ連の敵国ドイツと組んで、ソ連の盟友米英と交戦しており、このような状態において日ソ中立条約の意義は失われた」ことを理由に『日ソ中立条約』を延長しないことをわが国に通告し、その後5月8日にドイツが無条件降伏し、ソ連軍は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に軍事力を集積させていたのだ。

このような状況であればわが国は、ソ連軍の日本侵略を警戒しなければならなかったと思うのだが、『日ソ中立条約』の期限である昭和21年4月25日にはまだ十分に日数があり、ヤルタの秘密協定の内容についての情報も入っていなかったことから、ソ連の対日宣戦の意志を読み取ることができなかったようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%AE%A3%E6%88%A6%E5%B8%83%E5%91%8A

こともあろうにわが国は、このソ連に対して6月に連合国への和平工作の仲介を依頼し、終戦の模索を始めているのだが、この時点でソ連は対日勝利を確信したはずだ。わが国は、侵略しようとする国に対して、今が準備するタイミングであることを伝えたのと同じである。日本外交の間抜けさは今も昔も変わらない。

そしてソ連軍は8月8日に日ソ中立条約を破棄し、わが国への侵略を開始する。
再び勝岡寛次氏の著書を引用させていただく。

「8月14日の日本降伏後も、ソ連軍は進撃を止めず、九月初旬には北方四島を略取し、一旦合意した関東軍との停戦条項も無視して、略奪・暴行いたらざるなしといふ有様であつた。火事場泥棒よろしく手当たり次第に略奪し、女性とみては手当たり次第に強姦を続けるソ連軍によつて、百五十万在留日本人は恐怖のどん底に陥つた。そのやうな地獄の日々を綴つた手記は枚挙に暇(いとま)がないが、冷戦開始以前の占領軍は、検閲によってこれを悉く削除させたため、民族の苦難の体験は戦後世代には十分には伝はつてゐないのを遺憾とする。」(『抹殺された大東亜戦争』p.417)

勝岡氏の解説に驚かれた方も多いと思うのだが、これは史実である。同氏は、GHQの検閲により削除された事例を、前掲書のp.417-418で、いくつか紹介しておられる。削除理由はどちらも「ロシア」批判だそうだ。前回の記事でも書いたが、占領軍はたとえ事実であっても戦勝国に対する批判につながる記述を許さなかったのだ。

「突然、ソ聯軍が進駐してきてから、この幸福な町は急に恐怖のどん底にたゝき込まれた。
目ぼしい家に押し入つては、金を巻きあげ、好みの品は何であろうが掠奪し、なかには着ている着物さえもはぎとつてゆく者が現われてきたからである。しかも手むかいでもしようものなら、「ドン」と、一弾の下にもとにやられるばかりである。しかし、それ迄はまだよかつた。最後には、…女の大事な黒髪さえも切り落として、男装をしなければならない、實に悲惨な状態におちいつてきたのである。(中略)
突然『うわあ、うわあ』という声に、人々の顔からはさつと血の氣がひいていつた。(中略)私はもう、何がなんだかわからなかつた。唯、素裸にされたうら若い婦人が肩からしたたる眞赤な血潮をぬぐおうともせず…狂氣の如くよびまわつている悲惨な姿が、やけつく様に瞼に残つているばかりである。」(柳内孝子「私は犬です」『かたはま』第6号昭和23年3月)

「この第一夜から町のいたるところに泥酔兵士の暴行が始つた。婦女子の劣辱事件は頻々として巷間に傳はる、…。一方時計一個を拒否したゝめに拳銃彈數發を受け紅(くれない)に染つて絶命した有志、…娘の暴行現場に飛び込んで絶命する男、…大泊(おおどまり)においてのみでも數十名の犠牲者を出すに至り戰々兢々(せんせんきょうきょう)たる數日を經た。」(榎島伸二「樺太を回顧する」『新世紀』第1巻第1号、昭和23年1月)

この様な体験者が残した記録について、マスコミや出版社がほとんど採りあげてこなかったために、多くの日本人がソ連軍の戦争犯罪の犠牲者になったことを知る人は少ないだろう。私の世代は、子供の頃に大人から少しばかり聞く機会があったが、大人が子供に伝えることを憚ることも少なくなかったのだろう。私が、この時のソ連軍の実態がこんなにひどかったことを知ったのはつい数年前のことだ。

ソ連対日参戦による日本軍の戦死者や行方不明者は良くわかっていないが、戦死者だけで8万人以上と言われている。また、シベリア抑留の犠牲者についてはWikipediaにこう説明されている。
「終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99

ようやくソ連崩壊後に、ソ連占領地区から引き揚げてきた人々の筆舌に尽くせぬ悲惨な経験をされたことを記した書物がいくつか出版された。次のURLでその一部を読むことができるが、日本人なら、少し読むだけで怒りが込み上げてくるだろう。なぜこのような史実が、長い期間にわたって伏せられてきたのか。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Stalin.html

満州ではソ連軍は日本人を暴行し虐殺しただけではなく、中国住民に対しても暴行を働いたようだ。上記URLに中国人の徐焔氏が著した『一九四五年 満州進軍―日ソ戦と毛沢東の戦略』(三五館)という本が紹介されている。その本にはこう書かれている。

1945年満州進軍

「ソ連軍が満州に入った時点から、その相当数の将兵は直ちに、横暴な行為を露骨に現した。彼らは敗戦した日本人に強奪と暴行を振るっただけでなく、同盟国であるはずの中国の庶民に対しても悪事をさんざん働いた。
特に強奪と婦女暴行の二つは満州の大衆に深い恐怖感を与えた。
100万以上の満州に出動したソ連軍兵士の中では、犯罪者は少数というべきだが各地で残した悪影響は極めて深刻なものだった。」

この徐焔氏の文章の中で著者がソ連のことを「同盟国」と呼んでいることについて補足すると、ソ連は8月8日に日ソ中立条約を破棄した後に、8月14日に「ソ華友好同盟条約」を結んでいる。満州の出来事はその直後のことである。

ソ連軍はヨーロッパでも同様に、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアなどで暴行・虐殺のかぎりを尽くした報告が残されていることがWikipediaに書かれているが、ソ連という国はどこの国に対しても野蛮な行為を行っていたことを知るべきである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E7%8A%AF%E7%BD%AA

話をソ連軍の対日宣戦に戻そう。
ソ連は8月8日の対日宣戦布告の翌日、ソ・満国境を越えて満州に進攻し、8月14日に締結されたソ華友好同盟条約に基づいて、満州を日本軍から奪取した。

北方領土略図

南樺太では、8月11日に日ソ国境を侵犯し、ソ連軍は8月25日までに南樺太全土を占領した。
南千島についてはソ連の樺太占領軍の一部が8月26日に樺太・大泊港を出航し、28日には択捉島に上陸。9月1日までに、択捉・国後・色丹島を占領した。歯舞群島は9月3日から5日にかけて占領している。

占守島

北千島については、8月18日にソ連軍が千島列島の最北の占守島(しゅむしゅとう)に上陸。日本軍と激戦となり日本軍が優勢であったが、日本政府の意向を受け同日16時に戦闘行動の停止命令が出て21日に停戦となり、23-24日に武装解除がなされた。それ以降ソ連軍は25日に松輪島、31日に得撫(ウルップ)島を占領している。

北方領土

ソ連との戦いに関しては、わが国がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇の「終戦の詔書」が出ていることを完全に無視して日本の領土を掠奪し、今も北方領土(国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島、南樺太)を不法占拠しているままだ。
それだけではない。ソ連は武装解除した日本軍将兵約60万人をシベリアに拉致・抑留し、極寒の地で強制労働に従事せしめ、多くの日本人を死に至らしめた。
この悲劇はアメリカの原爆投下とともに、日本人が絶対に風化させてはならない史実だと思うのだが、いずれも占領軍の検閲により徹底的に排除され、占領軍の検閲が終わっても外国と国内の反日勢力の圧力で、たとえ史実であっても戦勝国の批判が書けない時代が長く続いてきた。

以前このブログで『氷雪の門』という映画のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

氷雪の門

昭和20年(1945)8月20日に樺太の真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ艦砲射撃を開始し、上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺していった。この映画は、ソ連兵の機銃掃射が続く中で、ソ連兵が近づく直前まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。

昭和49年にこの映画が完成し公開直前になってソ連から「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」との圧力がかかり、公開中止に追い込まれてしまった。

この時代はまだソ連という社会主義国が存在していたのだが、終戦後29年という歳月が経過しても、わが国はソ連の圧力に屈したことを忘れてはならないと思う。この時に、圧力に抗して上映していたら、北方領土問題は、今よりも少しは良い方向に動いていたのではないだろうか。

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前回はアメリカのことを書いたが、アメリカは都市空襲と原爆投下、ソ連は我が国のポツダム宣言受諾後の日本侵略とシベリア抑留と、どちらも世界史上特筆すべき戦争犯罪に手を染めた国なのである。そのことが追及されないために、わが国に対して検閲や焚書という手段でその史実を封印し、戦勝国に都合の良い歴史を強引にわが国民に押し付けたのだろう。
彼らにとっては我が国に押し付けた「自虐史観」の洗脳が解けてしまっては、今度は自国に「犯罪国家」のレッテルが貼られることになりかねないのだ。だから、わが国のマスコミや政治家に圧力をかけて、中国や韓国にも参戦させて、わが国に「自虐史観」の歴史認識を問い続けているのではないだろうか。

世界の多くの国は「国益」追及の為なら嘘もつくし、下手に謝罪をすればわが国に罪を押し付けて金まで要求してくる国がいくつも存在する。相手国の圧力が大きいと安易に謝罪する政治家が多いのは、「自虐史観」が本気で正しいと信じているからか、裏取引があるか、強いものには媚びを売って一時凌ぎをする事しか考えていないかのいずれかだろう。
政治家が歴史を知らないのは、戦後の歴史教育もマスコミも出版物も、戦勝国にとって都合の良い歴史しか伝えてこなかったのである程度は仕方がないのだが、戦勝国は良い国で日本だけが悪い国という歴史しか知らないで、どうしてわが国が、大国と対等に渡り合えることができようかと思う。
相手から抗議されて謝罪することは、相手の言い分を対外的に認めることと同じだから、このまま政治家が安易な謝罪を続ければ、わが国は中長期的に、国益や領土を侵害され続けることになるだろう。

その流れを止めるのは、やはり歴史の真実を知り相手国の嘘をきちんと見破り反論することしかないのだと思う。真実を知れば、相手が主張する歴史の嘘が通用しなくなる。
そして、国民もマスコミの嘘や露骨な世論誘導を見破る力が必要だ。どんな実力ある政治家も、マスコミを敵に回してはいい仕事ができず、世論の後押しが不可欠だからだ。
戦後の占領国による検閲と焚書により、戦勝国にとって都合の悪い真実のほとんどが埋もれてしまったのだが、その歴史を少しずつ取り戻し、それを広めていくことが重要なのだと思う。
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ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む

前回の記事でソ連によるシベリア抑留のことを書いた。

シベリア抑留を体験された斉藤六郎氏が国を相手の補償要求裁判をされて「全国抑留者補償協議会(全抑協)」という会を立ち上げられ、その裏付けのためにモスクワに何度も足を運ばれてモスクワの公文書館に保存されていた極秘文書のコピーを大量に持ち帰られたのだそうだが、その資料の中にはわが国にとっても、かなり貴重なものが含まれているという。
以前は山形県の「シベリア資料館」に公開・展示されていたようだが、残念なことに斉藤氏は平成7年に他界され、「シベリア資料館」にあった膨大な史料は遺族のトラブルに巻き込まれて展示されなくなっているようだ。そして昨年5月には「全抑協」も解散されてしまった。

斎藤氏が集められた史料の中には旧ソ連軍の「北海道と南千島占領計画書」があるのだそうだ。
この文書はジャーナリストで近現代史研究家の水間政憲氏が、「シベリア資料館」の史料を調べられた時に発見されたものである。

領土問題の真実

文書の日付は1945年8月18日で、ソ連軍極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥からスターリン、ブルガーニン、アントーノフの3名に宛てられたもので、この文書の全文が、水間氏の『領土問題の真実』(PHP刊)のp.60~p.62に翻訳されている。
この文書の冒頭で、日本軍の降伏と武装解除が順調に進んでいることを述べたあと、ワシレフスキー元帥はこのように記している。

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「全満州、内モンゴル、遼東半島(大連港、旅順を含む)、北緯38度線までの朝鮮、サハリン(樺太)の南半分、釧路から留萌までの線から北の北海道の半分(釧路、留萌を含む)、クリル(千島)列島の全島の占領という、極東軍、太平洋艦隊に提起された任務に基づき、各方面軍には、即刻、任務が与えられた。」

と、北海道の北半分と北方領土の占領が、ソ連極東軍・太平洋艦隊の任務であることを明記している。

次いで、ザバイカル方面軍については、モンゴル人民共和国軍と共同で満州、遼東半島、関東半島の等の占領計画が書かれている。
続いて、重要な部分に入る。

北海道分割

「第一極東方面軍の任務は、ボーリ、ハルピン(含む)の線から南、チャンチュン、トゥンホゥア、ヤルツヤン川の線の東、北緯38度までの朝鮮領の占領である。ハルピン市とギリーン(吉林)市占領の時期は8月21日の朝までに、北朝鮮に関しては9月1日までとする。… 同時に、…釧路市から留萌市までの線の北側の北海道の半分と、シムシル島まで(含む)のクリル列島の南部の占領を委ねた。この目的のために、方面軍司令部は、太平洋艦隊と商船隊の船の援助を受け、1945年8月19日から9月1日までの期間に順次、クセノフォーントフを軍団長とする第87狙撃軍団のうち3個狙撃師団を送り込む。それらのうちの2個師団は北海道に、1個師団はクリル列島に配置する。軍団参謀本部は、北海道に置く。この同じ時期に、第87狙撃軍団とともに第9空軍のなかから1個駆逐航空師団と1個爆撃航空師団が基地移動する。」

シムシル島(新知島)はクリル(千島)列島のほぼ中央にある長さ59kmの島である。

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続いて第2極東方面軍の任務について述べている。

「第2極東方面軍の任務は、…北満州の占領を1945年8月20日までに行うことである。 同時に、…、サハリン島の南半分、シムシル島(除く)までのクリル列島北部を占領する任務が課せられた。
サハリン島の南半分の占領のためには、現在ここにある軍を使用する。今後、補足的にさらに1個狙撃師団を送り込む。占領は8月18日の朝から着手される。クリル列島北部の占領のためには、8月18日にかけての夜に、カムチャトカに配備されている第101狙撃師団から2個狙撃連隊を列島に送り込む。今後、カムチャトカ区域とクリル列島の北部を、さらに1個の狙撃師団で強化する。ここのすべての軍の監督を、カムチャトカ防衛区域の長に委ねる。」

その上で、太平洋艦隊の一部をペトロハヴロフスク・ナ・カムチャトケに、主力部隊をオートマリ(サハリン南部)に基地移動することの許可を求めている。
そして最後にこう結んでいる。

「当計画に関するすべての予備命令は、各方面軍司令官に宛てられた。
太平洋艦隊司令官への指示は、大将クズネツォーフとともに、8月18日にウラジヴォストークで直接与える。

当計画によって決められた任務の遂行と同時に、押収した兵器、食料および工業企業の設備類の、早急な登録とわが領土内への搬出の組織化を、各方面軍に断固として要求する。

当計画に関する貴殿の承認か、あるいは指示をお願いする。」

この文書とは別に、同じ日付でソ連軍極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥から第1極東司令官に宛てた文書がある。おそらくこの文書は、上記の文書に対するモスクワからの回答を入手したのち作成されたものなのだろう。そこには北海道占領計画に関する記述が、より詳細に書かれている。

「上記の命令の遂行と同時に、1945年8月19日から9月1日までの期間に北海道の半分、すなわち、釧路市から留萌市までを結ぶ線から北半分と、シムシル島までのクリル列島南部を占領すること。この目的のために、太平洋艦隊の船と部分的に海洋商船隊の援助を受けて、1945年8月19日から、9月1日の期間に、第87狙撃軍団の二個狙撃師団を投入すること。また同時期に、第九空軍の1個駆逐飛行師団と一個爆撃飛行師団を北海道とクリル列島に基地移動すること。」(水間政憲『領土問題の真実』p.63)

前回の記事に書いたが、ソ連軍は8月25日までに南樺太を占領し、南千島は歯舞群島については9月3~5日に占領となったが、他の島は9月1日までに占領している。また北千島は8月31日までに占領と、概ね計画通りに領土を奪っていることがわかる。
ところが、ソ連の計画では9月1日までに北海道の北半分を占領することになっていたのだが、幸運なことに北海道については手つかずで終わっている。それはどういう経緯であったのか。

米国は8月15日にマッカーサー元帥の命により、一切の戦闘行動を中止している。その3日前の8月12日にソ連は日本の武装兵力の全面降伏を受理し、調整・実行するために、連合軍最高司令官としてマッカーサーが任命されることを合意していた。
ところが、マッカーサーがソ連軍統帥部に攻撃作戦停止を要求してもソ連軍は無視し、むしろソ連軍の本格攻撃は終戦後から始まった。このような行動をとったのは、連合国ではソ連だけなのだ。

ソ連は自国の歴史では、どう説明しているのだろうか。
水間氏の著書によると、ソ連の『大祖国戦争史』には、
「8月14日、天皇の行った日本の降伏についての発表は、一般的な無条件降伏にすぎない。軍隊に対する戦闘行動停止命令はまだ出ていないし、日本軍は依然抗戦を続けている。したがって、日本軍の降伏はまだないのである。」(水間政憲『領土問題の真実』p.64-65)
と書かれているそうだ。

しかし、このソ連の『大祖国戦争史』の記述は嘘である。8月15日に昭和天皇の「終戦の詔書」が発表され、大本営は各方面軍に対し戦闘行動の停止を命令していたのだ。

そもそもわが国が徹底抗戦を続けていたら、ソ連軍がこんな短期間に領土を奪えるはずがなかった。ソ連軍の侵略は、日本軍の戦闘行動の停止命令が出て、日本軍の武装解除が進んでいることを確認してからその計画が策定されている。だからこそ、わずか2週間足らずで、南樺太も千島列島も北北海道も一気に占領できると判断したのだろう。このソ連軍の『北海道・北方領土占領計画書』は、ソ連という国が、いわば『火事場泥棒』的に、わが国の抵抗がほとんどない事を前提に、領土を奪い取る計画を策定したようなものだ。

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しかし、ソ連軍の侵攻を頓挫させる戦いが起こった。
千島列島の最北にある占守島(しゅむしゅとう)での日本軍の戦いは特筆すべきだと思うのだが、こういう史実が伝えられないのは残念なことである。
占守島守備隊の村上大隊長は「軍使が来たら紛争を起こさず、直ちに連絡せよ」「敵軍が攻撃してきたら自衛戦闘は妨げず、ただし停戦は18日16時とする。」との指令を受けていたのだが、深夜に来たのはソ連軍の軍使ではなく砲弾だった。

樋口季一郎

第五方面軍司令部の樋口季一郎中将は、ソ連軍奇襲の報告を受けて、自衛のための戦いを決断したのである。

水間氏は前掲書でこのように書いている。
占守島守備隊は、竹田浜からの上陸を想定し、長い訓練の結果として、夜中でも竹田浜に上陸してくる敵を砲撃できるように鍛え抜かれていた。また竹田浜をはさんだ国端崎、小浜崎の両陣地は、洞窟陣地であり、敵艦の艦砲射撃にも微動だにしなかった。
そして、両陣地から砲撃が開始されると、反撃は激烈を極めた。
その結果、ソ連軍艦船は、撃沈、擱座して、竹田浜にはおびただしい兵士の遺棄死体が累々と晒されたのである。
日本軍の損害は、死傷者600名、破壊された砲6門、擱座した戦車20両であった。それに引き替え、ソ連軍の損害は甚大だったのである。
それは『戦艦撃沈破十四、舟艇二十』『破壊、水没した火器五十数門』『戦死二千五百人、戦傷行方不明二千人』だったのだ。」(水間政憲『領土問題の真実』p.69)

この記述は決して誇張されたものではない。ソ連政府機関紙『イズベスチャ』は「占守島の戦いは、満州、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日である。」と報道したそうだ。

このまま第五方面軍が攻撃を続ければソ連軍を水際で殲滅していたかもしれないが、この自衛の戦いを終息させた人物がいた。それが関東軍参謀長であった秦彦三郎中将である。

秦関東軍参謀長が第5方面軍参謀長に宛てた8月20日付の公文書が、水間氏の前掲書に紹介されている。そこに書かれていることは重大だ。
「小官本十九日東蘇軍最高司令官「ワ」元帥ト會見ノ際北東方面ノ戰闘未ダ終熄セザルヲ心痛致シ在ル旨述ベ小官ノ斡旋方依頼アリタリ至急処置相成度」

第五方面軍の抗戦によりソ連側の被害が甚大となり、急遽ソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥が仲介を求めてきたのだが、秦は相手の申し入れを真に受けて、直ちに停戦することを日本軍に要請しているのだ。そのために日本軍は優勢であったにもかかわらず、武装解除を余儀なくされ、シベリアに送られることになってしまった。

ところで秦参謀長の「心痛」とは、ソ連軍が計画書通りに9月1日までに北方領土と北北海道を占領できないことを心配したということなのか。
以前このブログで、当時わが国の政治家や官僚・軍人の中に、この戦争の混乱を機にわが国に社会主義革命を起こそうと考え、ソ連に協力する人物が少なからず存在したことを書いたが、秦参謀長もそのような男であったのか。この男がこのような指令を出さなければ、北方領土の問題は今は存在しないか、全く異なるスケールのものであったのではないだろうか。

秦関東軍参謀長とソ連極東軍最高司令官ワシレフスキー元帥の19日の会談の翌日に、ワシレフスキーはモスクワのスターリンに宛ててこんな文書を発信している。
「現在、私と第一極東方面軍司令部は、北海道への上陸作戦の準備に真剣に取り組んでいる。現在、海洋からの偵察を行ない、空軍、砲兵隊、輸送手段を準備しているところである。1945年8月22日頃になるだろうと思われるが、サハリン南部の占領の後、貴殿の許可が下り次第、ただちに海からの作戦を開始する。」
秦参謀長の停戦命令により、ようやくサハリン南部の占領に取り掛かれることになり、北海道の上陸作戦にも取り組めるようになったということだろう。

スターリン

しかしスターリンからは、北海道への侵攻の命令は出されなかった。
樺太南部の豊原、大泊をソ連軍が占領したのは8月25日だが、ソ連軍の侵攻を予定より遅らせたのは南樺太を守っていた日本軍の抵抗によるものだったと考えて良い。

しかしスターリンが南樺太占領後、北海道への侵攻をあきらめたのは何故か。
この経緯については伊勢雅臣氏の「国際派日本人養成講座」の記事が参考になる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.html

スターリンは我が国の1945年8月16日付のトルーマン米大統領宛の書簡で、北北海道の割譲を要求したが、トルーマンは8月18日付の返書でそれを拒絶している。
そこで、ソ連極東軍ワシレフスキー元帥は、8月25日までに樺太全島と千島列島の北部 諸島、9月1日までには千島列島の南部諸島と北海道北半分を占領するよう命令を変更している。

しばらく伊勢雅臣氏の記事を引用させていただく。
「8月22日になって、ようやくスターリンはトルーマンあてに北海道占領を断念する旨の回答を送り、ワシレフスキー元帥は「連合国との間に紛争や誤解が生じるのを避けるために、北海道方面に一切の艦艇、飛行機を派遣することを絶対的に禁止する」という電報を打った。

22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つかずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であった。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえない状況に追い込まれたのである。」

かくしてソ連軍は南千島の占領に勢力を集中させて、北北海道はソ連の侵略から守られたのである。

トルーマン

トルーマンが北北海道の割譲に反対したことのインパクトもあったとは思うが、トルーマンがソ連の千島や南樺太の侵略行為に対して戦う意思を示したわけではない。
ならば日本軍が領土を守るために奮戦したことを、なぜ正当に評価しないのか。

もし日本軍がさしたる抵抗をせず、早い段階でソ連の北北海道占領を許していたらどうなっていたであろうか。
トルーマンがいくらソ連を批難しても、北北海道は今の北方領土と同様にソ連に奪われたままとなった可能性が高かったのではないか。そして満州や南樺太と同様に、北北海道の多くの民間人が虐殺されたり、シベリヤに送られたと思うのだ。

このような史実を教科書にはもちろん、普通の歴史書にはほとんど書かれていないし、テレビで解説されることもほとんどない。このままでは、戦勝国にとって都合の良い話だけが史実として固定化されてしまいそうなのだが、戦後のソ連軍による日本侵略にはどこに正当性があろうか。婦女暴行やシベリア抑留にいたっては世界史上特筆されるべき戦争犯罪であろう。

北方領土と住民を守るために命を捧げた日本兵士がいて、その後シベリアに抑留された兵士が多数いて、多くの人の犠牲によって日本の国土が守られてきたことを忘れてはならない。
『自虐史観』では、彼らは国家のために意味のない戦争に参加させられて「犬死に」したと蔑まれるのだが、彼らが領土と国民を守ってくれたことの意義を忘れてしまう事こそが、彼らの死を「犬死に」に貶めてしまうことであり、ロシアを「高笑い」させることではないのだろうか。
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【ご参考】
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GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由

以前このブログで、三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』という書物が英訳されて、当時GHQ(連合国総司令部)の情報部長であったウィロビーの眼に止まったことが、米国で「ゾルゲ捜査」を始めるきっかけとなったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

マッカーサーはこのウィロビー将軍のことを、「在任中に出会った最も優れた知性派の将校であり、陸軍広しといえども将軍に続く人物を探し出すのが全く困難なほどずば抜けた人物であった」と言っていたようだが、このウィロビーが40年以上前に回想録を残しており邦訳もされている。
この回想録は1973年に『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』という書名で番町書房から刊行されたのだが長い間絶版となっていて、一昨年に山川出版社から『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』という書名で、再刊されていることを知った。
この回顧録を取り寄せて読むと、我々日本人がマスコミなどで知らされてきた歴史とは全く異なる見方が描かれおり興味深い。今回は、冒頭の部分を紹介したい。

知られざる日本占領 ウィロビー回顧録

「この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
 私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在)では、共産主義国家とされているソ連、かつてのツァーリ支配下のロシアそのままの圧政をしくソ連の指揮による破壊転覆の異常な発達が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである
 共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と協働戦線を組むかわりに、破壊してしまった。…」(『GHQ 知られざる諜報戦』p.16)

ソ連という国家が崩壊してしまったので、若い世代の方には分りにくいかもしれないが、ウィロビーの主張を一言でいうと、米国にとっても日本にとっても、本当の敵はソ連であり共産主義であったということなのだ。

アメリカは日本との戦いに勝利したが、5年後の1950年には朝鮮半島の38度線を挟んで共産主義勢力と対峙し戦うこととなってしまった。
その朝鮮戦争終戦後もソ連との冷戦が長く続くことになったのだが、冷静に歴史を振り返ってみると、ウィロビーの述べていることが正しいように思えるのである。

このブログでも以前書いたことがあるが、1928年コミンテルン第6回大会議でこのような決議文が採択されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること

帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。」

このような考え方はレーニンが最初に主張した「敗戦革命論」と呼ばれるものだが、要するに、列強国同士が戦うことになれば、共産主義者は戦争に反対するのではなく、戦争によって自国政府が敗北し崩壊に向かわせて、共産主義革命を導けと言っているのだ。

さらに昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会で、スターリンがこのように述べている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

スターリン

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

ソ連は反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、最後に漁夫の利を占める戦略を立てて、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告している。
これは「砕氷船のテーゼ」のシナリオ通りで、最初から強国同志を争わせて疲弊させ、日・独が荒らしまわった地域と日独両国を共産主義陣営に取り込もうと考えていたのではないか。
ソ連は、わが国のみならず欧米諸国に多数の工作員を潜り込ませ、さまざまな工作活動を行っていたことが次第に判明しつつある。その目的は、世界の多くの国で共産主義革命を実現させるためということになるのだが、ソ連側の資料が公開されなければその立証が難しいことは誰でもわかる。

ヴェノナ

以前にも書いたが、アメリカが傍受していた大量のソ連の暗号文書 (「ヴェノナ文書」) が戦後になって解読されて、当時のルーズベルト政権では常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが判っているという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

そもそも、わが国に日米開戦を決断させたとされる「ハル・ノート」を書いた米国財務省次官のハリー・ホワイトが、ソ連のスパイであったことが今ではわかっているのだ。

アメリカの政権中枢部にそれだけソ連の工作員、スパイやエージェントが暗躍していたなら、わが国はアメリカと同等かそれ以上にいてもおかしくないのだが、その証拠となる史料が乏しかった。
史料が乏しいという事は、そのような人物か余程少数であったということも考えられるが、そのようなメンバーが多数派を握っていて証拠を握りつぶすのが容易な状況であったこともあり得るのである。

尾崎秀実

独ソ戦勃発後、わが国はドイツを援けるために北進してソ連を挟撃する北進論と、欧米の援蒋ルートを絶ち、資源確保のために仏印に進駐する南進論との選択を迫られ、わが国は南進論を選択したのだが、そのことは日独伊軍事同盟を無視して、日ソ不可侵条約を優先したことを意味する。この決定については近衛首相の側近でありコミンテルンのスパイで、ゾルゲ事件で逮捕されて死刑に処せられた尾崎秀実の影響が大きかったとされるのだが、死んだ人物にすべての責任を被せることは歴史上よくある話で、実際にはもっと大がかりのものであった可能性が高い。

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以前このブログで、近衛文麿が昭和20年2月に天皇陛下に対して戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』について記事を書いたが、この上奏文で近衛は、わが国の軍部や官僚などに左翼分子がかなりいて、彼らが主導して我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

残念ながらこの上奏文には実名はなく、わが国の政権や軍部の中枢部にまでソ連の工作が浸透していたことの状況証拠にはなっても、そのことを裏付けるような史料が今までなかった。

ところが最近になって、重要な史料が出てきたのである。
8月11日の産経新聞に、わが国の政権や軍部の中枢部にまでソ連の工作が浸透していたことを裏付ける史料が出たことを伝える記事が掲載されていて、次のURLで読むことが出来る。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130812/chn13081209400000-n1.htm

この記事にはこうかかれている。
「終戦間際の昭和20(1945)6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった。戦局が厳しい状況に追いこまれる中、日本がソ連に接近して和平仲介を進めたのは、ソ連およびコミンテルン国際共産主義が日本中枢に浸透していたためとの説を補強するものとして論議を呼びそうだ。」

当時英国は交戦国であったドイツ、日本だけでなく、中国など同盟国を含め三十数カ国の電報を傍受、解読していたのだそうだ。

産経0811

さらに記事はこう解説している。
「電報の内容は『米国から得た最高機密情報』として、『国家を救うため、日本政府の重要メンバーの多くが日本の共産主義者たちに完全に降伏(魂を明け渡)している』と政権中枢がコミンテルンに汚染されていることを指摘。そのうえで、『あらゆる分野で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めている』とした。
そして『日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(米英との和平工作を)提案している』と解説している。

 敗色が色濃くなった日本では同年5月のドイツ降伏を契機に、ソ連を仲介とする和平案が検討され、電報が打たれた6月には、鈴木貫太郎内閣による最高戦争指導会議で国策として正式に決まった


さらに記事は
「(鈴木貫太郎の)首相秘書官を務めた松谷誠・陸軍大佐が、(昭和20年)4月に国家再建策として作成した『終戦処理案』」では「『戦後日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿り、この点からも対ソ接近は可能。米国の民主主義よりソ連流人民政府組織の方が復興できる』として、戦後はソ連流の共産主義国家を目指すべきだとしている。」
という話や、
同年4月に陸軍参謀本部戦争指導班長、種村佐孝大佐がまとめた終戦工作の原案『今後の対ソ施策に対する意見』でも、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書かれている。」
という話など、軍部の上層部にソ連の工作が浸透していたことを覗わせる史実をいくつか紹介している。

終戦後68年にもなって、このような共産主義の工作がわが国で浸透していたことを裏付ける第一級史料が公開されたことには、何らかの意図があるのだろう。
第二次世界大戦の戦勝国のなかには、これからアメリカと中国が接近して世界の覇権を握ろうとする動きを好まない勢力や、ロシアの勢力拡大を好まない勢力があるのだろう。
その動きを牽制するには武力も外交交渉も必要ではない。ただ古い史料が出てきたと少しずつ公表するだけで中国やロシアに大きなダメージを与えることが出来るし、アメリカの親中派も動けなくなる。
もし、このような第一級史料が今後どんどん公開されていけば、わが国だけが悪かったという歴史観はいずれ破たんすることになるだろう。
中韓が声高に唱える歴史が嘘だらけである事が世界の常識になる日は来るのか。
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える

昭和20年(1945)8月14日の御前会議でポツダム宣言の受諾が決定され、わが国政府はこれを連合国に通知し、翌15日の正午に昭和天皇自らの肉声による『終戦の詔書』が全国に放送された。

終戦の詔書

わが国が敗戦した当時、国外にいた軍人・軍属がおよび民間人はそれぞれ約330万人で、合わせて660万人と見られているのだそうだが、帰還事業は米国から約200隻の船舶の貸与を受けるなど米国の援助を得て急速に進み、敗戦の翌年までに約500万人が海外から戻ってきたという。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5226.html

上記サイトでは、「ソ連に抑留されたり、中国内戦で留用されたり、帰還が遅れた者もいた」とさらりと書いているのだが、蒋介石配下の中国大陸からの復員と引き揚げは順調に進んだものの、ソ連については多くの日本人を捕虜収容所に入れたまま、なかなか返さなかったし、実態は奴隷同然に扱われて多くの死者が出たのだ。いまだに「抑留」などという生易しい言葉で表現するのはロシア(旧ソ連)に対するわが国の外交的配慮なのか。

前回の記事で紹介したウィロビー回顧録にはこう書かれている。
「1949年4月の時点で、まだ五十万に近い日本軍兵士が未帰還になっていた。このうち三十万名以上がシベリアに連れ去られたままであり、ほぼ十万名が樺太や千島列島で姿を消したままだった。そして約五万名が毛沢東の支配地域で『行方不明』になっていた。…
GHQは1946年から1949年にかけて、どこかに消えてしまったこの50万名の兵士を帰国させるようにと、ことあるごとにソ連に圧力をかけ、必死の努力を払ってきた。…」(『GHQ 知られざる諜報戦 新版ウィロビー回顧録』p.93-94)

わが国は引揚者のために、呉、佐世保、博多など全国各地に引揚港を設置したのだが、他の引揚港の業務が終了していくなかで、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港だった舞鶴港だけは、ソ連のために昭和33年(1958)まで引揚業務を終えることが出来なかったのである。

その舞鶴港の近くに「舞鶴引揚記念館」という施設がある。
数年前に一度訪問したことがあるのだが、ここにはソ連の捕虜収容所や引揚船の模型、シベリアの収容所内の生活で用いられた食器や衣類などが展示されていた。

丹後半島旅行 003

舞鶴引揚記念館HPの解説では、日本人捕虜は酷寒の中、森林伐採や石炭採掘などの強制労働に従事させられ、食事は「黒パン」が一切と極度に栄養価の低い「カーシャ(水粥)」と呼ばれる粥のみが与えられる悲惨な食糧事情であったことが書かれているが、ソ連が何のために大量のわが国の兵士を捕虜にして、この場所でどれだけ多くの命が失われたかについてはほとんど書かれていないのは残念なことである。なぜ、ソ連の戦争犯罪に触れようとしないのだろうか。
http://m-hikiage-museum.jp/index.html

まずわが国の犠牲者の数について考えてみる。
ウィロビーの回想録には、GHQがシベリアから帰還した日本兵にヒアリングをして、ソ連における日本人捕虜の実態を把握しようとしたことが書かれている。

「ついに故国の土を踏んだ生き残りの引き揚げ者たちが、決してウソは言わぬと誓い、涙ながらに語った証言によれば、100ヶ所以上のソ連収容所にいた209,300名の捕虜のうち、51,332名が栄養失調や伝染病で死亡したという。その死亡率は24.5%に達する。さらにある地域では死亡率は60%にも達していた。
地方病院の墓堀りとして働かされていた引き揚げ者の、次のような報告は典型的なものであろう。
『飢えと疾病のためあまりに多くの人が死んだので、50名からなる屍体処理班は、死者を焼く仕事を遅滞なく果たすことができなかったほどです。軍医の話だと、1945年から1947年にかけての死者の数は、その地域では30%の高率に達したそうです』
その証言者はそう語ると、しばし絶句してしまった。」(同上書p.95-96)

GHQの報告にはバイアスがあって当然だと考える読者もいると思うので、次にわが国の厚生労働省の数字を紹介しよう。
厚生労働省のHPには
a.旧ソ連地域に抑留された者         575千人
b.帰還した者                473千人
c.死亡と認められるもの            55千人
d.病弱の為入ソ後旧満州、北朝鮮に送られた者  47千人
と書かれている。
数字のまとめ方としてはおかしな書き方だが、a=b+c+dの関係になっているので、aが総数で、b,c,dがその内訳だということになるのだが、この数字ならば死亡率は9.6%にすぎない。
http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2009/11/01.html

しかし、この厚生労働省の数字にはトリックがあり、「行方不明者」が初めから除外されてしまっている。ソ連との戦いで命を失ったものや、ソ連に送られる途中で死んだ者もいるだろうが、終戦後ソ連管轄地域にいたはずの日本人はもっと多かったと思われる。「行方不明者」の数を隠すことで「旧ソ連地域に抑留された者」の総数を意図的に減らされてもわからないし、そうすることによって「(旧ソ連地域で抑留後)死亡と認められる者」の人数を小さく見せることが出来ることは誰でもわかる。
シベリアにおける日本人犠牲者については、次のサイトが良く調べておられて資料も豊富なので、一度目を通されることを薦めたい。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/026s320212dai2gou.html

上記サイトを読んでいくと、平成21年(2009)にロシアの国立軍事公文書館で、第2次大戦後に急ソ連で抑留された軍人や民間人が最大で76万人の新資料が発見され、日本政府に提供することで原則合意したという東京新聞の朝刊(2009/7/24)記事が紹介されている。

0724NewShiryou.jpg

それからどうなったのかがさっぱりわからないが、ソ連で捕虜とされた日本人も、捕虜となった後に死亡した日本人も、厚生労働省の数字をはるかに上回る数字になることは間違いがないだろう。

0901Yomiuri37.jpg

また昭和25年(1950)12月11日に外務省は、37万人がソ連から未帰還であると公式に発表しており、うち31万名は、氏名も判明しているとまで述べたのだが、それから後にわが国に帰還してきたものはわずかに2594人だったという。とすると、旧ソ連地域からの最終的な未帰還者は、戦死者も含めて30万人をはるかに超えていたことになる。(上の画像は1950/12/12読売新聞朝刊)

では、ソ連は何のために大量の日本人を捕虜とし、強制労働をさせたのだろうか。
ウィロビーはこう書いている。
「ソ連の捕虜収容所で、日本軍捕虜たちがいかなる扱いを受けてきたか、…帰還兵たちを尋問したG2(連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部)の情報員たちでさえ、驚くほどの実情だった…。
『われわれは、まるで奴隷のように重労働を課せられ、多くの仲間が栄養失調と病に倒れ、そして死んでいった』
帰ってきた兵士たちの多くは口をそろえた。それでも早い時期に帰れた捕虜たちは恵まれていた。多くは一日、また一日と帰還を延ばされていた。ソ連当局はこれら日本人捕虜のなかから慎重に人選し、これを日本に帰したのち、第五列(国内事情を、特定国または敵軍に通報するいわゆるスパイ行為をする一群の人々を指す)の指導的任務につかせるために『洗脳教育』をしていたのだった。」(同上書p.97)とある。

img20120815192623701.jpg

ではどんな『洗脳教育』がなされていたのだろうか。
簡単に言うと、ソ連は日本人捕虜に対して、搾取者であるアメリカの支配下に置かれた日本での生活に恐怖を抱かせた後、天皇制を崩壊させ日本に共産主義政権を樹立し日本共産党に入党して支援する旨の誓約をさせる。
その上でやがて日本における将来の任務のための特殊訓練を施され、要求するレベルに達しなければ、強制労働の世界に戻されるという仕組みだったそうだ
。日本人たちは、故国に帰るためには、他たとえ表面的にでも、ソ連の言いなりになるしかなかったのだ。
要するにソ連は、わが国を共産主義国家とするための工作員を大量に育てて送り込もうとしたということだろう。

シベリア帰還兵の手記を読んでも、ソ連が洗脳教育を行なったことを確認できる。たとえば、福井県の馬橋正氏は、
「日本の兵士、特に日本で貧困生活を味わった兵士は、資産家育ちの兵士とは別に共産主義を指導して帰還兵を乗船させる前に洗脳して日本へ帰す、そして日本での共産主義を拡大させようと企画したことは間違いなかったと思います」と書いておられる。
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13yokuryu/S_13_124_1.pdf

そしていよいよソ連は昭和24年(1949)に、95千名の「教化済み」引揚者を日本に注入する計画を実際に行動に移したのである。

ウィロビーの回顧録に、1949年8月5日付『ジャパン・タイムズ』紙のソ連からの帰還兵の記事が出ており、興味深いので紹介したい。

ソ連がその捕虜収容所から日本へと帰国させてくる連中は、人間なのか、それとも獣なのか
 長い間、息子の帰りを待ちわびていたある母親が、苦悩の色を浮かべながら『あそこでは、息子になんていうことをしてくれたのだろう?』と悲嘆の叫びを上げている。こうした叫び声は、9年になって引き揚げ業務が開始されて以来、何度も何度もこだまとなって響いたものである。
 こういう叫び、こういう疑問を発しなければならなかったのは、引き揚げ者たちが、人間を獣と分かつ、あの感情や感覚を些かも持ち合わせていないことが、ひとたびならずあらわにされたからである。故国を眼の前にして、しかも愛する人が待っているというのに、港について一週間以上も、引き揚げ者たちはかたくなに上陸を拒否した。
 そうかと思うと、温かい歓迎の言葉に野次を飛ばし、心からの同情のうちに差し伸べられた手をむげにはねつけたりしたのである。そのうえ数年もの間、彼らの帰りを待ちわび、ひとつ屋根の下で生活することを切望していた家族を冷たくあしらう連中すらいた。獣の群れのように行動する彼らは、群れのリーダーの言いなりに振る舞ったのである。…
 …いまや日本人は過去においては知らなかったかもしれないが、共産主義が人間をどうしてしまうのかを理解した。自由を愛する国民は人間からその人格と人間としての資質を奪い取ってしまうイデオロギーをまざまざと見せつけられたのである」(同上書 p.101-102)

下山事件

この記事を読む限りでは、ソ連からの引き揚げ者たちが筋金入りの共産主義者になっていたかどうかまでは読み取れないのだが、この年の7月5日に下山事件(国鉄総裁が失踪し遺体で発見)、7月15日に三鷹事件(無人列車暴走で6人死亡、20名負傷)、8月17日に松川事件(列車脱線て転覆で3人死亡)という奇怪な事件が相次いで起こっている。
この3つの事件は「国鉄の三大ミステリー」とされて、共産主義勢力が仕掛けたものなのか、アメリカが共産主義勢力を弱体化させるために共産主義者の仕業のように見せかけたものなのか、今もわかっていない。
いずれにせよこれらの事件が発生して以降、「共産主義者がわが国で革命を起こそうとしている」とか「ソ連からの引き揚げ者は共産主義者だ」という噂が広まっていったようなのである。
そのためにソ連からの引き揚げ者はかなり警戒されて、それぞれの郷里に引き渡すまでは軍事的コントロール下に置かれるようになったという。

埼玉県朝霞市の高橋秀雄氏が『私のシベリア抑留記』という文章をネットで公開しておられるがそれを読むと、舞鶴は「シベリアの収容所そのものだった」と書いていることに誰しも驚いてしまうことだろう。ちなみに高橋氏が引き揚げ船で舞鶴に到着したのは、松川事件が起きた44日後の10月1日であった。しばらく高橋氏の文章を引用する。
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm

「我々は信じられぬ光景を目にすることとなった。
上陸直後、吾々の宿舎となった舞鶴援護局の周辺には、新しい鉄条網が張り巡らされていた。さらに武装した警官隊が鉄条網の外に、中を監視するように配置していた。

あのシベリアの収容所そのものだった。

出迎えた家族との再会の場は二〇メートルも離れたフェンス越しであった。さらに、帰還者を京都へ運ぶ国鉄当局は、ダイヤまでも組み替えて、乗換駅での滞在時間を短くし、帰還者たちだけが一つに集まらぬよう一般客のあいだに分乗させた。少人数ごとに京都駅まで運び、出向かえた家族に引き渡す方法をとった。
シベリア帰りは共産主義者というこの噂を真に受けたのだろう、親兄姉までが惑わされていたようだ

故郷に帰り着いた後も、警察が、シベリア帰りの者のいる家々に調査に来たこともある。
日本の世情が飲み込めない吾々は、復員した戦友たち同士無事を確認し合うためによく互いの家を行き来した。生きて帰った喜びを吾々は、手拍子を叩きながらシベリアでおぼえた平和の歌を歌い、底抜けに明るくソーラン節を踊った。…」

シベリアで捕虜になり生きて帰ってきた日本兵を、決してわが国は温かく迎えたのではなかったのである。実家に戻ってからも周囲から冷たい視線を浴びて、本人だけでなくご家族の方も、長い間苦しまれたことであったろう。

前回の記事でソ連がわが国の中枢に浸透していて、ソ連主導で戦争を終結させようとしている旨の英国立公文書館所蔵の最高機密文書を紹介したが、その文書によるとソ連はわが国を共産主義勢力に取り込む寸前のところまで来ていたことになる。
アメリカがわが国に原爆を落としたのは、早期に戦争を終結させてソ連の野望を挫き、主導権を掌握しようという意図があったのではないか。
わが国がすぐに敗戦すれば、ソ連は「戦勝国」という立場にはなりえない。慌てて対日参戦するが、千島や樺太の日本軍の抵抗にあい、北海道の領有をも断念することとなる。 わが国の共産国化に失敗したスターリンは、今度は大量の日本兵を捕虜とし共産主義革命の戦士に育て上げ、日本に帰還させた後に内乱を仕掛けて再度わが国を取り込もうとしたのだが、日米が協力してそれを阻止したという流れではなかったか。

スターリン

先程紹介した高橋秀雄氏の『私のシベリア抑留記』には、驚くべきことが書かれている。
スターリンは…強硬に北海道占領を要求した。
が、トルーマンは強引に退けた。スターリンは怒り、北海道占領に代えて日本軍兵士六十三万余のシベリア移送命令を出し、労働現場に配置した。
また「日本軍将兵は武装解除の後に平和的に家庭に帰す」と宣言した「ポツダム宣言」が有るにも関わらず、日本政府からは、将兵の帰国要求申し入れは全くなかった、という。むしろ「貴軍経営のためどうぞお使いください」と日本人将兵の労務特供給の申し入れをしたのは他ならぬ日本政府・大本営であったという
このことは共同モスクワニュースが詳細に伝えた。
このために、六十三万余の将兵が長年に渡って、酷寒の地シベリアでの強制労働、飢餓を味わうことになった。」

共同モスクワニースの記事をそのまま信用することはできないが、結論めいたことを言うと、シベリアで捕虜にされた人々は、わが国を共産主義陣営に取り込もうとするソ連と、それを許さないアメリカの水面下の駆け引きが続くなかで、その双方の犠牲者であったということだ。
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アメリカまでのびていたゾルゲ諜報組織の「赤い糸」

前回、前々回の記事で紹介した『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』に1964年9月5日付の『ニューヨークタイムズ』紙のこのような記事が紹介されている。

ゾルゲ

「モスクワ発9月8日―――ソ連は第二次世界大戦中、東京にあるドイツ大使館情報宣伝課に勤めていたリヒアルト・ゾルゲが、ソ連スパイ団を巧妙に指揮していたことを認めた。共産党機関紙『プラウダ』が、ゾルゲが提供した情報の結果、ソ連軍は1941年秋におけるドイツ軍のモスクワ進軍に効果的に対処し得たとの記事を載せたのである。ゾルゲは、日本の秘密警察(注:特別高等警察=特高)に逮捕され、秘密裁判の結果、1944年に処刑されている。ゾルゲ・スパイ団の諜報活動を公にしたのは、極東におけるダグラス・マッカーサー司令部の情報部長(1941~1951年)だった陸軍少将チャールズ・A・ウィロビーの作成せる米陸軍報告書が最初である。

1941年、リヒアルト・ゾルゲはソ連のレニングラードに対するヒトラーの攻撃準備に関して有用な情報をもたらし……攻撃日付を正確にも6月22日としていると続けながら、『プラウダ』は日本軍が太平洋戦争を準備しており、ソ連を極東の地において攻撃することはないだろうとの情報を、真珠湾攻撃の2か月前にソ連情報部にゾルゲが提供したことを明らかにしている。この情報のおかげでソ連は極東から必要な増援部隊を迅速に移動させ、かくしてドイツの進軍をモスクワの一歩手前で阻止できた…」(同上書 p.109-110)

少し補足しておくと、1941年6月22日にドイツ国防軍がソ連に侵入し戦争状態となった。
そしてわが国は、昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、日独伊軍事同盟に基づいてドイツを支援するために北進しソ連を挟撃するのではなく、日ソ不可侵条約の方を優先してソ連とは戦わないことが決定されたと言われているのだが、その情報がただちにゾルゲからソ連に通報されていたのである。そしてソ連はゾルゲの情報に基づき、ソ連と満州の国境にいたソ連軍を独ソ戦線に向かわせた。
この『ニューヨーク・タイムズ』の記事はそのことが史実であったことを、23年もたってソ連が漸く公式に認めたことを書いているのだ。

1941年当時、満州との国境にいたソ連軍が急に西に移動しはじめたことについて、ドイツがわが国に対して疑問をもったのは当然のことである。

悪の論理

以前このブログで紹介した倉前盛通氏の『悪の論理』にはこう書かれている。

「(昭和16年9月6日の御前会議の)そのあくる日から、ソ満国境のソ連軍は一斉にヨーロッパに移動しはじめ、独ソ戦線に向かった。驚いたドイツは日本政府へ質問を寄せてきた。
『ソ満国境のソ連赤軍が一斉にヨーロッパ戦線へ移動しはじめたのはいかなる理由であるか。日本はソ連に対し何らかの保障を与えたのではないか』
だが、日本政府がソ連にわざわざ保障を与えるはずもないのであって、これは明らかに御前会議の極秘内容が、その日のうちにソ連に筒抜けになったことを暗示している
ゾルゲと尾崎が、それから1か月後に逮捕された理由も、この御前会議の重大決定が、どのようなルートでソ連に漏れたかを追及した結果、かねてマークされていた二人が浮かんできたというわけであろう。」(『悪の論理』p.87)

尾崎秀実

「尾崎」という人物の名は「尾崎秀実(おざきほつみ)」で、朝日新聞を退社後近衛文麿政権のブレーンとなり、開戦直前までわが国の政治の最上層部と接触し国政に影響を与えた人物である。
Wikipediaによると、昭和3年(1928)に尾崎がコミンテルン本部機関に加わり、そしてゾルゲと出会い、昭和7年にゾルゲの諜報組織に参加しているという。そして昭和13年7月に近衛内閣の嘱託となり、ゾルゲ事件の首謀者として逮捕されたのは昭和16年(1941)10月15日だから、3年3ヵ月もの間、尾崎がわが国の政権の中枢にいて重要情報を収集していたことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%A7%80%E5%AE%9F#cite_ref-9

わが国の特別高等警察(特高)はアメリカ共産党員であった宮城与徳や北林トモの周辺にかねてより内偵をかけていたようで、昭和16年9月27日に北林が逮捕されたのを皮切りに関係者が順次拘束・逮捕され、10月10日には宮城が逮捕され数多くの証拠品が発見されたという。
宮城は取り調べの際に自殺を図ろうとしたが失敗し、それ以降詳細な陳述を始めたという。

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この宮城の陳述によって、このスパイ組織が世界規模の大掛かりなものであることが判明し、10月14日の尾崎の検挙のあと、10月18日にはゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチの3外国人が検挙されている。そして3年後のロシア革命記念日の日である昭和19年(1944)11月7日にゾルゲと尾崎の死刑が執行された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AB%E3%82%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ウィロビーの回顧録にわが国の内務省警保局が1943年にゾルゲ事件をまとめた文書が紹介されている。重要な部分を引用しておく。

「スターリンは自国防衛の為に『一戦争、一戦後に勝利を得んが為には相当の兵力を必要とするが、戦争を失敗せしむるには数人にて足る。即ち数人の密偵が我等の作戦計画を盗んで与えれば良い』との防諜教訓を与え、中国共産党の“鋤奸(じょかん)読本”も亦(また)此の言葉を引用して、除奸運動を強化しつつあり。
而もソ連邦は我国に対し斯くの如き有力なる諜報網を布き、以て或は支那事変を指導し或は各般の対日方策を講じつつありたるものにして、斯る機関を長年月に亘り我国に蟠踞せしめたる根本的原因に就ては検討の要大なるものあり…」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.116-117)

このようにわが国の公式文書に、ソ連が諜報網を布いて、日中戦争を指導し、様々な工作を仕掛けていたと記録されていることは注目して良い。
またソ連は終戦後19年間もゾルゲ諜報団の存在を否定していたのだが、スターリンを批判したフルシチョフが失脚した直後に、ゾルゲの遺族に対し「ソ連邦英雄勲章」を授与し、尾崎に対しても親族からの申し出があれば勲章と賞状の授与する旨の発表をしたという。また宮城与徳の遺族は、勲章と表彰状を受領済なのだそうだ。
ソ連がこのスパイ行為に携わった人物を表彰した事実は、わが国が太平洋戦争に巻き込まれたのはソ連の工作抜きでは語れないということを雄弁に物語っているのだが、こういう重要な史実が日本人の常識となる日はいつになるのであろうか。

話をウィロビーの回顧録に戻そう。
太平洋戦争終戦後わが国は連合国軍に占領され、占領開始後数カ月の間に治安維持法などを破棄させ、そして投獄されていた人々を解放したのだが、その中には日本共産党の幹部や、マックス・クラウゼンなどゾルゲ諜報団の生き残りたちも含まれていた。

一方ウィロビーの所属するGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)参謀第2部(G2)は日本の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収していた。
その資料に興味を抱いたウィロビーが、その調査を開始している。ウィロビーは回顧録でこう記している。

ウィロビー参謀二部長

「ところで米国内の治安という観点から、G2はゾルゲ諜報団とアメリカとの関係を調べていた。そしてカリフォルニアの共産主義活動家と直接関係していたことを発見するまでには、かなりの時間と慎重な調査が要求された。しかし、その調査は比較的スムーズに運ばれた。それは釈放された連中が、遅かれ早かれ本国との関係の糸をたぐっていくだろうと思われたからである。

予想通り、ドラマチックな巻き糸の糸口は上海に伸びていき、間もなくゾルゲ・グループが極東におけるソ連の支配をその究極の目的にしていたことが分かった。すなわち、ゾルゲ諜報団は共産主義の第3インターの『諜報班』の歯車の一つであることが明瞭になったのだ
。今日では常識化しているこれらの事柄も、1945年ころには十分に理解されてはいなかったのである。」(p.120-121)

ウィロビーの指示によりゾルゲ諜報団に関するレポートがまとめ上げられ、ワシントンに送られたのだが、この諜報団の詳細の公表はしばらく控えられてきた。
そして1948年に、モスクワの米大使館員が突然ソ連にスパイ容疑で告発される事件があり、アメリカ陸軍省はそれを機に、ゾルゲ事件の公表を決断したという。

ウィロビーは6月と8月の2回にわたり、主要な証人と被告の証言を翻訳してワシントンに送ったのだが、ワシントンは数カ月の間沈黙したそうだ。その後ようやく12月にゾルゲ事件を公表したのだが、すぐに腰砕けになってしまう。この経緯をウィロビーはこう記している。

「ゾルゲ事件のニュース・バリューがきわめて高いことは誰の目にも明らかだった。ソ連のスパイ活動一つのパターンを示すものとして、非常に重要な価値を持っていることは言をまたない。記者たちは最初の発表に引き続き、さらに詳細、とりわけ証拠書類の発表と主な被告、関係者、目撃者たちの陳述の発表をいまや遅しと待機していた。東京のG2は、この種の資料提供の準備を整え、発表の命令を待つばかりとなっていたが、ワシントンからその命令はついに来なかった。そのかわり数日後、あれほど熱心に丸一年間も協議してゾルゲ事件の公表に踏み切ったはずのワシントン当局によって、今後の詳細の発表を拒否されてしまった。私にはとても信じられなかった。予測されたように、報告書の中に登場するスメドレー女史(アメリカ人ジャーナリスト。中国共産党軍に従軍して取材活動をした社会主義者)が猛烈な抗議運動を展開し、スタイン(中国共産党に好意的であったアメリカの新聞記者)もまた不満の意を表明していたとはいえ、こんなバカなことが実際に起ころうとは!…」(同上書 p.127)

スメドレー

スメドレー女史の抗議ばかりではなく、アメリカの多くの作家や雑誌・新聞などがスメドレー女史の擁護に立ちあがったというのだ。
ゾルゲとスメドレー女史との関係については、ゾルゲの手記など多くの資料で容易に確認でき、スメドレーが諜報活動をしていたことは確実なのだが、それら資料の一切を開示することを封じられてしまったのはなぜなのか。

当時は我国だけではなくアメリカにおいても、主要なメディアにソ連および共産主義の工作が浸透していて、共産主義勢力にとって都合の悪い真実を公表できるような環境ではなかったということなのか。
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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




GHQの中にもソ連の工作があったのではないか

ウィロビーの回顧録を読み進むと、わが国の「公職追放」に関するニューズウィーク紙(1947年1月27日付)の「日本の公職追放の裏側――米国軍人の対立」という論文の一部が引用されている。そこにはこう書かれている。

img20130823215636862.png

公職追放を財界へも及ぼしたため、日本の財界人は5千人から2万5千人がその職を追われ、その上三親等までその職に就けないから、犠牲者は約25万名にのぼる。これによって日本の全経済機構の知能が取り除かれてしまった
当然の結果として、有能で経験と教養をもった階層、いつもアメリカと協力しようとしていた階層が切り離されてしまう。多くの占領軍将校は日本人と同様当惑しており、ある者は米国の資本主義原則が、どうして米占領軍当局の手でぶちこわされようとしているのか調査すべきだと考えている。
GSには限られた分野での理論的専門家は大勢いたが、専門以外のことについては無知で、自分たちのもっている巨大な力に少しも気づかず、結果がどうなるかについてもまったく気にとめないありさまである。」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.160-161)

GS」というのはGHQの内部組織で「民生局」と訳されることが多いが、このGSGHQの中でわが国の占領政策の中心を担っていて、この「公職追放令」はGSホイットニー局長とケーディス次長が中心となり、その右腕だった外交官ハーバート・ノーマンらによって発せられたという。

ニューズウィーク紙のこの記事では追放の範囲が拡げられて、財界人までが追放されたことを中心に記されているが、実際にはわが国の政治家、官吏、教員、財界、教員などの主要人物を中心に20万人以上の人々が短期間の間に強制的に職を追われたという大事件なのである。

ニューズウィーク紙によるGS批判はその後も続き、こんな記事もウィロビーの回想録に引用されている。
大多数の占領軍関係者は、親米的な日本人をなぜ次から次へと追放するのか疑問を抱いているGSは、追放は日本政府によって行われているのだと主張しているが、実際はGSが指導し、ときには直接命令を下している。
追放は、たとえば日本共産党の台頭などより、はるかに強い打撃をアメリカに与えた。マッカーサー元帥はGS局長ホイットニーに追放の件をゆだねたが、ホイットニーの事務室は最高司令官の部屋の真下にあった。そして誰よりも自由に元帥に近づけた。

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追放は、ホイットニーの性格から、あのようになったものと思う。ホイットニーは怒りっぽい弁護士で、GSでも人気がなく、日本人は彼を狐つきだと思っている。追放のやり方にはどこか左翼や反資本主義者の色がある

東京にいる多くのアメリカ人たちは、GSのなかにいる共産党シンパや、もっと悪質な者が、そのイデオロギーを追放のなかに注ぎ込んでいると信じている。」(同上書 p.161-162)

また1948年7月と1950年5月に『ニューヨーク・タイムズ』に、日本人のこんな投書が掲載されたという。
公職追放はポツダム宣言第6項*を根拠にしているというが、多くの無罪の人々が追放に処せられている。GS次長のケーディス大佐は『あいつは追放にしろ、あいつは助けろ』と指示し、ホイットニー局長も口やかましく命令している
追放令によれば、日本人の公職追放は『委員会の審議に基づき内閣総理大臣がこれを決定する』となっているのに、GSは委員会の審議を無視し、独断的に采配をふるっていいものか。GSの横暴は、誰が見ても目にあまるものがある。収賄さえ行われている。」(同上書p.169)
*ポツダム宣言第6項:日本を世界征服に導いた軍国主義勢力の除去に関する内容
訳文はhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm

一般的な教科書である『もういちど読む山川日本史』ではこの公職追放について、「(1946年1月)GHQは軍国主義者・超国家主義者とみなされる各界の旧指導者たちの公職追放を指令した」とわずか1行で書かれているだけで、この文章を普通に読めば、公職追放で職を追われたのは軍国主義や超国家主義に凝り固まった少数の人物だけだと考えるだろう。
しかし、実際には政官財の重要人物の多くが巻き込まれて、空前の規模で行われたのである。ではどのような人物が職を追われたのだろうか。

公職追放

Wikipediaに公職追放で職を追われた著名人のリストが掲載されているが、追放解除後に政財界から教育界やマスコミ・言論界の重鎮となった人物の名前が目白押しである。
軍部に批判的だった石橋湛山や経済人では三井物産の石田礼助や松下幸之助や阪急の小林一三など、どう考えても軍国主義とはあまり関係なさそうな人物がかなり存在する。

では、必ずしも明確でない基準で20万人以上が職を追われた後に、どのような思想の人物がポストに就いたのか。こちらもかなり重要な問題である。

Wikipediaにはこう解説されている。
「公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、いわゆる『左派』勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE

戦前に左派系の学者が大学から追放されたことがあったが、敗戦後の公職追放令によりこのような人物が多数戻ってきて、ぽっかり空いたポストに就いたというケースが多かったという話を聞いたことがある。
同様なことが他のマスコミ・出版界や教育機関などでもおこり、戦後の長い間にわたり一般世論よりも左寄りの人々が言論界や教育界の主導権を握り続けることができたのは、占領期に行われた公職追放令の影響が大であると指摘する人もいる。

渡部昇一

例えば教職員の追放について調べていくと、渡部昇一氏はこう解説しておられる。
「昭和21年(1946)3月にアメリカの教育使節団がやってきて、5月には教職員追放令が公布された。そして教職員適格審査というものがはじまった。
当時の教職員は70万人くらいいたが、密告が増え、その結果、5200人が追放になった。そして、それを見ていて密告されるのを嫌がった人たちなど、約116千人が教職を去った。
戦前から教育を担っていたまともな教師が70万人のうち、12万人もいなくなったのである。この教職を去った人たちは、だいたいが師範学校の卒業生だった。…
12万人がいなくなった後を埋めたのが左翼だった。教職を左翼が埋めて、日本がよくなるわけがない。
しかもその時、教育界に影響を及ぼすような教授や知識人はコミンテルン、共産党に関係し、戦前は帝国大学から追放されたよう人たちだ。彼らがカムバックしてきて『戦前は悪かった』と唱えた。自分たちにとって悪い状況だったからそういうのは当然だろう。そして現在の左派の先生たちは、彼らから徹底的に教育を受け、反日思想をよく勉強したのである
。…」(『戦後混迷の時代に』 渡部昇一日本の歴史7戦後編P.100-101)

「師範学校」というのは、戦前に存在した、初等・中等学校教員の養成(師範教育)を目的とした中等・高等教育機関で、師範学校出身者には良質な先生が沢山おられたという。
渡部氏は公職追放のおかげで指導的地位に就いた人々を「敗戦利得者」と呼んで解説しておられるが、くわしくは渡部氏の著書を読んで頂ければと思う。

終戦直後にGHQが矢継ぎ早に実施した施策には、「公職追放」以外にも、ソ連や共産主義者が喜ぶようなことが多いのである。
CIC(対敵防諜部隊)のキャップであったエリオット・ソープ准将は、特高(特別警察)を全面的に解散させ、日本共産党の幹部やゾルゲ諜報団の一味を含む政治犯を、ちゃんとした監視体制もとらないまま、いきなり釈放してしまっている。
またGS(民生局)はホイットニー局長やケーディス次長が、新憲法の起草から、財閥解体、農地改革、選挙法改正、警察法改正にいたるまで手を伸ばしていった
。GSのこれらの施策がG2(参謀第二部)のウィロビー部長を激怒させ、後にワシントンでも問題視されるようになる。

渡部昇一氏もウィロビーも、どちらかというと反共主義者なので、バイアスがかかっている事を疑う読者もおられるに違いない。そこで、わが国の共産主義者が当時の占領軍の施策をどう評価していたかを紹介したい。

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当時の日本共産党徳田球一、志賀義雄らが終戦直後に執筆し、党のその後の運動を決定づけたという論文『人民に訴う』を紹介するが、多くの方が次の文章を読んで驚かれるのではないだろうか。論文の冒頭にはこう書かれている。

ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことに対して、われわれは深甚の感謝の意を表する
http://www.mcg-j.org/mcgtext/undousi/undousi.htm

また昭和20年(1945)11月7日付の赤旗再刊2号にはこう書かれている。
連合国軍が軍国主義、専制主義から我々人民を解放し、民主主義革命の端緒を開きつつあることは我々が今眼前に見るところである。我々自身が獄から解放されたのも、天皇とその政府によってではない。連合国と最高司令部からの命令によってである。我々は天皇制を打倒し、人民共和国を樹立する為に、この連合国解放軍と協力することができる
また昭和21年2月に行われた第5回日本共産党大会で、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の綱領的方針として採択されている。

このように日本共産党は終戦直後は占領軍を「解放軍」と考え、GHQの施策を歓迎していたのである。今では左派系の人々は、終戦直後には日本共産党が、アメリカが主導権を握っていた占領軍を熱烈に支持していたことを「馬鹿げたこと」と一笑に付すのだが、わが国でこれから革命を起こそうとする勢力が、敵と味方を間違えたと評することの方が不自然ではないのか。
その当時に、日本共産党が占領軍を「解放軍」と考えただけの理由があったはずだ。すなわち共産主義者にとって都合の良い施策を推進してくれると確信できるだけのメンバーがGHQの中枢に多数存在し主導権を握っていたことがその理由ではなかったか。

当時GHQのGSにはニューディーラーと呼ばれる左派系の人物がかなりいた。

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例えば「公職追放」を推進した中心人物といわれるハーバート・ノーマンは、ソ連のスパイであった可能性がかなり濃厚だと言われている。
ウィロビーはGSの繰り出す施策に疑問を持ち、GHQ内部の左派系の人物を摘発していくことになるのだが、この事を書き出すとまた長くなるので、次回以降に記すことにしたい。
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アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情

ウィロビーの回顧録を読み進んでいくと、1947年4月23日付でウィロビーが纏めさせたマッカーサー最高司令官に宛てた『総司令部への左翼主義者の浸透状況』というマル秘レポートが掲載されている。一部を紹介させていただく。

まず、どの程度ソ連に近い人物がGHQにいたのだろうか。このレポートにはこう書かれている。

「総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の割合がかなり高い。GHQに雇われている(無国籍者を含む)304人の外国人のうち、最大グループを形成する28%(85名)はソ連またはソ連衛星国の出身である。そのうち42名はソ連の市民権の持ち主である。通常の治安概念からみれば、このグループは事実上の脅威となるはずである。ことに最近ソ連は、元の白系ロシア人の全員、および無国籍者をソ連市民として登録してきているからなおさらである。
GHQ従業員のうち199人は帰化した『アメリカ市民権取得者の第一世代』となってはいるが、もともとはソ連またはその衛星国の背景を持つ者である。
 したがって、これらの者のなかですでに左翼主義者として知られていたり、同調者として知られている者の占める割合は決定的なものである
。…」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.177)

このレポートによると、当時GHQで働く従業員の内、人種的にソ連またはその衛星国に繋がる人物が284名もいたということになる。さらにアメリカ人スタッフの中にも、出身国や人種的はソ連またはその衛星国と関係がなくとも、思想的に左翼系の人物も少なからずいたであろう。
若しこれらの人物がGHQの中で重要なポストに就いていれば、かなりの影響力を持ちうることは容易に想像できる。

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以前このブログで紹介したことがあるが、『ヴェノナ文書』(ソ連情報部暗号文書)の解読によって、アメリカのルーズベルト政権には、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが今では判明している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

終戦直後のGHQには、ルーズベルト政権に匹敵するほど、内部にソ連の工作員がいた可能性があるのだ。

このレポートでは、GHQのスタッフで明らかにソ連に協力した数名の人物の実名を出し、その経歴や考え方、具体的な行動などを調査してかなり具体的に記述されている。個人別の記録内容の多くは細かい部分なので省略することとして、ウィロビーは回顧録の中でこれらの調査結果について総括している部分を紹介したい。

「…これら一連のGHQスタッフに対する調査は私の個人的興味によって行われたものではない。日本占領後の混乱期を過ぎ、ほっとひと息ついたとき、ワシントンの机の前で構想だけを練っている連中は、それまでの“民主的対日政策”とやらがどうやら行き過ぎたものであり、このまま日本の“民主化”が進めばアメリカの占領政策の破綻はいうにおよばず、日本自身が共産主義化してしまう事に気がついたのだ。
それは日本が連合国にギブ・アップした1945年8月15日から、まだ1年も経っていない時期だった。私にすれば徳田球一、野坂参三といった日本共産党幹部の釈放や帰国を、まるで戦後の新生日本を背負う凱旋将軍の帰国のごとく扱った、一部GHQ幹部の感想を拝聴したい気分だった。私は、それら共産党幹部を軽々しく歓迎することには反対だったし、ワシントンが初期の対日占領政策を変更し、行き過ぎつつあった『民主化政策』とやらの是正を打ち出すまでもなく、はっきりと間違いであると思っていたから、調査はごく当たり前のことと受け取ったのである。
事実、占領初期の“対日民主化”に熱心であったホイットニーの民生局(GS)とマッカートの経済科学局(ESS)には明らかに左翼イデオロギーのもとに日本の“民主化”を遂行しようとしていたスタッフが多くみられた。民生局のケーディスのもとで活躍した前記のトーマス・A・ビッソン、アンドリュー・ジョナー・グラジャンツェフ、くわせ者の美人職員で、わがG2*の調査報告完成後の1947年9月に帰国しなければならなくなったミス・エリノア・M・ハドレーといった『ニュー・ディーラー』といわれた連中である。」(同上書 p.201)
*G2:GHQの参謀第二部。日本の治安と情報を担当し、ウィロビーが部長を務めた。

野坂参三

野坂参三というと1946年に1月12日にソ連経由で中国から帰国し、1月26日には日比谷公園で参加者3万人とも言われる帰国歓迎大会が開催され、『英雄還る』という曲がこの日の為に作曲され、声楽家・四家文子が壇上で熱唱したことなどがWikipediaに記されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89

その後1955年に日本共産党議長に就任し、1982年に退任して名誉議長となったのだが、100歳になった1992年に日本共産党を除名されている。除名された理由は、ソ連解体後に一部のソ連共産党文書が公開されて、野坂が仲間の情報をソ連に密告していたことが明らかになったことによる。
野坂がソ連の工作員であったことはGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の情報将校であったというスリーピン大佐が1949年10月に作成した野坂の「ファイル」に明確に書かれている。
「野坂は、ソ連共産党中央委に対し、日本共産党の基本綱領や戦術問題で頻繁に助言を求めている。野坂はまた、東京にいるわれわれの要員の一人と関係を維持し、彼を通じて日本の内政、経済状況や占領軍の政策、日本共産党を含む各政党の活動についてわれわれに情報提供している。野坂はしばしば、日本共産党政治局を代表して、われわれの日本代表に対し、日本におけるソ連の権威を強化するため、ソ連の対日政策への勧告や要望を提出した。」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/nagosi.htm

野坂という人物は実に謎の多い人物で、米軍将校との面会をしばしば目撃されたことなどから占領米軍のエージェントでもあったとする説もあり、日本の官憲とも繋がっていたという説もある。
野坂が二重三重のスパイであったという可能性を認めることは、アメリカ占領軍も日本共産党を手中に収めようと画策をしていたという見方につながるのだが、この種の話には証拠となるような画像や記録があるわけでもないので、どちらが正しいか判定することは難しい。

話をウィロビーの回顧録に戻そう。
回顧録には不審なメンバーの調査内容が書き連ねてあるのだが、たとえば次のような事を推進したGHQの幹部がいた事実を知らなければ、なぜGHQが方針を転換したかを理解することが出来ないだろう。
1946年6月14日、読売新聞社においてストライキが発生した。事態は6月25日に収拾されたが、この収拾に関してコーエン(GHQの経済科学局[ESS]課長)とコンスタンチーノは警察官、馬場恒吾読売社長、その他をコーエンの事務所に召喚し、不当にもSCAP(連合国軍最高司令官:マッカーサー)の政策と偽り、ストライキ側を奨励したため、連中はデモを企て、暴力行為に訴えるなど占領政策に不利な行為を公然となすにいたったのである。それ以後、相次いで起こったストライキやデモは、ことごとくコーエンとコンスタンチーノの不当な干渉によってもたらされたものである。」(同上書 p.203)

コンスタンチーノは、わが国の労働組合法や労働関係調整法制定に関わった人物のようだが、「来日までのコンスタンチーノの経歴は、アメリカにおける左翼労働活動の記録で埋まっている。しかも彼には名誉棄損罪、陰謀罪、第三級暴行争乱行為等によって逮捕されたという警察記録すらあるのだ。…
コンスタンチーノは日本共産党員と密接な関係を持っていて、1946年3月10日と15日、大阪の共産党本部を訪れ、志賀義雄と密談していた。…」(同上書 p.204)という。

ウィロビーはこのレポートで他にも数多くのGHQの職員を問題視しているのだが、これらの人物の全てがソ連の工作員であったかどうかはよくわからない。

ウィロビーが纏めさせたレポートを読んでいくと、コンスタンチーノのような前歴のある人物が何人か出てくるのだが、職員採用時になぜこのような人物が排除されなかったのかと誰しも不思議に思うだろう。
ひょっとするとアメリカは、共産主義者をコントロールできることを前提に、意図的にこのような人物をGHQの要職に就けて、「民主化」政策という呼び方でわが国を「弱体化」させる施策を推進しようとしたのではないかと考えてみたりもする。
そもそも占領初期においては、アメリカがわが国を二度と自国に立ち向かわないようにさせることが最重要課題であったはずだ。そのために共産主義者を使って労使の対立を煽り、わが国民の力を分散させてわが国の「弱体化」をはかろうと考えた人物がいてもおかしくはない。

ウィロビーの報告が何度か握りつぶされたのは、アメリカの上層部にそのような考えがあったのか、或いはアメリカが想定していた以上に共産主義勢力がGHQで広がっていてコントロールできるような状況ではなかったか、そのいずれかなのだと思う。
前回の記事で書いたが、占領開始直後に日本共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と呼んだ背景を考えると、後者の可能性が高かったのではないか。

しかしウィロビーが作成させたレポートなどが次第にGHQやワシントンで支持されるようになって、わが国の「民主化」を強引に推し進めていった「ニュー・ディーラー」達が相次いで職を追われていく。ウィロビーのいる保守派のG2(参謀第二部)の発言力が増して、占領直後より「ニュー・ディーラー」達の牙城でわが国の「民主化」を推進していたGS(民生局)は力を失っていく。

ケーディス

1948年12月、GSケーディス次長は占領政策の大転換を阻止するために、ホワイトハウスの翻意を促すべく出張でアメリカに帰国している。
その時のワシントンの反応をウィロビーはこう記している。

「そうでなくても当時のワシントンはマッカーサーの対日政策に批判的になっていた折であり、加えてケーディスを中心とした若手リベラル派の“独走”に顔をしかめていただけに、彼ケーディスにプラスするはずはなかった。おかげでペンタゴンに続いて国務省、上下両院などを訪問する予定のケーディスの計画は完全に狂い、逆に自分を弁解しなければならないハメに陥ってしまった。」(同上書 p.170-171)

鳥尾鶴代

ケーディスが自己弁解しなければならなかった事とは何か。
ウィロビー率いるG2はケーディスの思想から素行に至るまで調べあげて、報告書にまとめてワシントンに送っていたのである。上の画像の女性は子爵・鳥尾敬光の妻の鶴代(多江)である。この女性がGHQの民生局(GS)の大物・ケーディス次長と恋に落ちたという。 ウィロビーはこう解説する。
「当時、憲法改正にあたって天皇制に関する条項が皇室に不利にならないよう、ときの楢橋官房長官はたびたびGS局員を招いてパーティーを開いていた。その席によく鳥尾元子爵夫人**が顔を出していた。夫人はたちまちケーディスの心をとらえ、ふたりは深い仲になったらしい。この鳥尾夫人の“サービス”が、日本の皇室の安泰にどれだけ貢献したかは推測の域をでないが、ケーディスは彼女には禁制品を売る店をやらせたりしていたものである。」(同上書 p.171)
*鳥尾子爵は1949年6月に死亡したが、夫人とケーディスが交際していた時は存命していた。

ケーディスは日本には単身で来ていたのだが、ケーディスがワシントンに滞在している数ヶ月の間にケーディス夫人は夫と鳥尾鶴代との関係を知り、離婚するに至る。
その後ケーディスは、アメリカに出張したまま1949年5月に民政局次長を辞任し、再び東京に戻ることはなかったという。

かくしてGHQの中にいたニュー・ディーラーは一掃され、マッカーサーは同年の7月に「日本は共産主義進出阻止の防壁」との声明を発表するところとなる。

中華人民共和国成立

そしてマッカーサー声明の3カ月後の10月には中華人民共和国が誕生した。
さらに朝鮮半島やインドシナ半島などで共産主義勢力が台頭し、アメリカはアジアでの優越的な地位を失っていたのである。そのまま放置しては、アジアの大半を共産主義陣営に奪われてしまう事をアメリカは怖れた。
そこでアメリカは国益を守るために、日本・韓国・フィリピンを反共国家として共産主義の防波堤を作る戦略を立てた。そのために日本の経済再建に取り組まざるを得なくなったのである。

そこでウィロビーの回顧録の冒頭の言葉に戻ろう。
「私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-214.html

ウィロビーが言いたいのは、米国にとっても日本にとっても、本当の敵はソ連であり共産主義であったということなのだ。

一方ソ連は、次に韓国に狙いを定めることになる。
上記のマッカーサーの「日本は共産主義進出阻止の防壁」との声明からわずか11ヶ月後の1950年6月25日に朝鮮半島で戦争が始まったのだが、この戦争のことを書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか

1950年6月25日の午前4時に朝鮮半島の38度線で、突如北朝鮮による砲撃が開始され、10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。

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米駐韓国大使のジョン・ムチオは、ワシントンの国務省に宛てて次のような報告をしている。
「1950年6月25日ソウル発
韓国軍事顧問団の資料によって、一部確認された韓国陸軍からの報告によれば、北朝鮮は今朝、韓国の領土に対し数ヵ所にわたって侵略を開始した。攻撃はほぼ午前4時に開始され、甕津(オングチン)は北朝鮮軍の砲火によって破壊された。午前6時ごろ、北朝鮮の歩兵隊は甕津、開城(ケソン)、春川(チュンチョン)各地方における38度線内に侵入し、伝えられるところによれば、東部海岸の南江陵に陸海軍による上陸が行われた。開城は午前9時、作戦を開始した10台の北朝鮮側戦車によって占領されたと言われる。また戦車を先頭にした北朝鮮軍は、春川を包囲しつつあるといわれる。江陵における戦闘の詳細はまだ不明であるが、北朝鮮軍によって主要道路は断たれた模様である。攻撃の性質、および攻撃開始の方法からみて、これは韓国に対する全面攻撃とみられる」(『知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.232)

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その勢いで北朝鮮軍は勝ち進み、6月27日には韓国の首都京城(ソウル)が陥落してしまったというのだ。画像は「朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書」というサイトに豊富に紹介されている。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html

ソウル占領

朝鮮戦争の緒戦でこんなに簡単に韓国軍が敗れたのは意外であったが、いろいろネットで調べていくと、当時の韓国軍の装備については、韓国軍は、総兵力10万、戦車ゼロ、大砲91門。一方の北朝鮮軍は、総兵力20万、戦車240両、大砲552門と北朝鮮軍の装備が韓国軍を圧倒していた。しかも韓国軍の91門の大砲は北朝鮮の戦車T34(ソ連製)の分厚い装甲を撃ち抜くことが出来なかったという。重戦車と歩兵との戦いでは勝負にならないことは誰でもわかる。
http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-128.htm

またウィロビーの回顧録によると、戦闘が開始された時には、韓国軍には司令官がいなかったのだそうだ。
「…1950年6月当時、韓国軍の装備は北朝鮮側にくらべ哀れな状態であった。そのうえ戦いが開始されたときには司令官まで欠いていたのだから、押し寄せる北朝鮮軍の前に手もなくひねられ、敗走したにしても一般兵士たちを責めるにはあたらない。」(同上書 p.233)

ではなぜ、韓国軍の装備がかくも貧弱であったのか。
この点については、ウィロビーの回顧録に、当時の駐日大使でGHQ外交局長であったウィリアム・J・シーボルトの回想記が引用されている。シーボルトはこう書いている。
李(李承晩[イスンマン] 韓国大統領)は、常に好戦的な態度を見せていたので、米国顧問団は、この軍隊に戦車、重砲、軍用機などを与えるのを拒否していた。正規の攻撃兵器を与えれば、李はただちに38度線を突破して北進する恐れが十分にあったのだ。」(同上書p.234)
こんな理由で、アメリカが韓国の防衛を怠っていたとは信じがたいことである。

また1950年1月12日には米国のアチソン国務長官が「たとえ韓国が共産主義者に攻撃されても、アメリカは韓国防衛に対して消極的であろう」との演説をしたそうだが、このような発言が、北朝鮮による韓国侵略を決断させる要因の一つになったのであろう。

ウィロビーの回顧録を読み進むと、ウィロビー率いるG2(GHQの参謀第2部)は北朝鮮による攻撃が近いことを何度も国務省に報告しており、その特別報告のいくつかの内容が著書に紹介されている。それによると、北朝鮮の戦争準備の動きばかりではなく、38度線から3マイル以内に住むすべての民間人に退去命令が出ていることや、北朝鮮軍による韓国侵略が6月であることなども報告されていた
また韓国大統領の李承晩も、北の攻撃が予想される中で、戦えるだけの武器がないことをアメリカに訴えていたのだが、どういうわけかアメリカは韓国軍の装備が貧弱なまま放置していたのである
ウィロビーの記述が正しければ、朝鮮戦争は決して北朝鮮軍による不意打ちではなかったことになる。報告は受けていたのだが、何らかの理由があって動かなかったか、動けなかったのである。ワシントンの中枢部もソ連寄りの人物が主導権を握っていたのだろうか。

トルーマン

米大統領のトルーマンは、北朝鮮による侵略が開始されてまもなく、GHQのマッカーサーに韓国の防衛を命じている。また国連も米国に国連の代理としての行動をとるように要請し、マッカーサーが国連軍司令官に任命されている。

6月29日の早朝にマッカーサーは羽田を出発して韓国における戦場の上空を視察し、帰日後ワシントンにこうレポートしている。
「…敵の侵攻を防止するのが第一の問題である。さもないと敵が朝鮮全域を支配するかもしれない。韓国軍には反撃する能力が全くないので、北朝鮮軍がさらに侵攻する危険性は大きい。もし敵の進撃が続けば韓国は危険にさらされる。現在の戦線を維持し、さらに失地を回復するための唯一の道は、朝鮮戦線にアメリカ地上軍を投入することである。有効な地上兵力なくして、空軍と海軍とだけを用い続ければ決定的なものになりえない。…」(同上書p.242)

翌日にワシントンは米地上軍の韓国投入を許可し、マッカーサーに彼の指揮下にある兵力を使用する全権が与えられたのだが、マッカーサーが使える兵力は、北海道から九州までに散らばっていた勢力不足の占領軍4個師団とオーストラリア軍1個大隊だけで、到底敵戦力とつり合いのとれる水準ではなかったという。

ウィロビーはこう書いている。
「8月から9月初旬にかけて、米軍はもっとも苦しい戦いを強いられていた。8月15日、当時の北朝鮮首相・金日成は、あたかも勝利はわが掌中にありとばかりに、次のように語った

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いま、米軍と李承晩敗残部隊は、わが共和国南半部(韓国)全地域の約8パーセントを維持しているにすぎない。わが祖国の全地域が、アメリカの武力干渉者どもから完全に解放され、自由と独立の旗が全朝鮮の津々浦々にいたるまでひるがえる日もそう遠くはないだろう。』…」(同上書p.247)
と、この時点で韓国領土の92%は北朝鮮軍に制圧されていたのである。
しかしウォルトン・H・ウォーカー中将率いる米国第8軍が釜山周辺地区で背水の陣を敷きながらなんとか踏ん張っていたという。

そこでマッカーサーは戦況を一転させるために「仁川(インチョン)上陸作戦」を計画し断行する。
今回の記事の最初に添付した朝鮮半島の地図をもう一度見て頂きたい。
北朝鮮軍は快進撃を続けて韓国領土の大半を支配したのだが、最前線の兵士に燃料や弾薬・食料などの補充を行ない続けなければ戦いを継続することが出来ないことは言うまでもない。マッカーサーのこの作戦は、北朝鮮軍の大半が釜山攻防に配置されているタイミングで、仁川を攻撃し北朝鮮軍への補給路を断つというものであった。

マッカーサー

マッカーサーは8月20日に東京の第一生命ビルで開かれた仁川上陸作戦に関する戦略会議でこう述べたという。
敵の弱点は補給にある。敵は南に進めば進むほど輸送線が伸び、それだけ危険も増大する。敵の主要補給線は、いずれもいったんソウルに集まり、ソウルから戦線のあちこちに伸びているから、ソウルをおさえれば、敵の補給網を行きも帰りも完全に麻痺させることができる
弾薬と食料の補給がとまれば、敵はたちまち手も足も出なくなって混乱し、われわれの小さくとも補給充分な兵力で簡単に圧倒することができる。作戦の成功については、私はこれを確信する。」(同上書 p.253-254)

この作戦にはなぜかワシントンでは根強い反対があったようだがマッカーサーが押し切り、9月15日に実行に移された

Battle_of_Inchon.png

マッカーサー率いる国連軍は仁川上陸に成功したあとソウルを攻め、敵軍は補給がとまったところへ挟み撃ちにあい、退却の道も断たれて総崩れの状態となった。北朝鮮軍の兵士の投降が相次ぎ、1か月以内の捕虜総数は13万人にも達したという

9月28日に国連軍はソウルを奪還し、翌日には韓国政府がソウルに入城したのだが、この時にマッカーサーは、米国首脳の考え方に不安を感じていたらしく、尊敬していたウォーカー将軍に次のように打ち明けたという。

「…犠牲を払って軍事的勝利をおさめても、それから政治的に有利な平和が導き出されるのでなければ、何のための犠牲かわからない。
 いまは北朝鮮軍を壊滅させた仁川での勝利をただちに政治的平和にすりかえる、つまり軍事的に勝ったのを機に、ここで戦争を終結させてしまう絶好の機会だ。これはなにも敗北した北朝鮮軍に、われわれの意志を強引におしつけるという意味ではない。われわれは北京とモスクワに、米国は何の野心もなく、韓国から敵兵を一掃して独立国として存在を保てるような状態にすること以外には、何の使命も帯びていないということを納得させるだけの外交的能力が必要だ
 ところが、われわれの外交陣はまことに不活動的で、この勝利を活用して朝鮮に平和と団結を回復させるための素早い、ダイナミックな外交活動を起こすということがさっぱり行われていないようだ。戦争を終結して、太平洋にもっと永続的な平和を生み出す方向へ大きく動き出す絶好の機会が訪れているのに、それをつかみ損ねるという大変な政治的失敗が犯されているような気がしてならない。われわれが政治的、外交的に不活発であるため、相手がそれをためらいや譲歩と取るだろう。こんな状態では戦争は終わるどころか、道は長引く。」(同上書p.276)

このようなマッカーサーの思いとは裏腹に、国連軍がソウルを奪還した9月28日に、米統合参謀本部は、北進攻撃の許可と詳細な指令を東京のマッカーサーに送っている。
貴官の軍事目標は、北朝鮮軍を壊滅させることにある。この目標を達成するため、貴官が朝鮮の38度線以北で軍事行動をとることを許可するものである。ただし、いかなる場合にも中国およびソ連との国境を越えてはならない。…」(同上書 P.277)

通説では、トルーマン大統領や米統合参謀本部の命令を無視して韓国軍と国連軍が38度線を越えて北上したとなっているのだが、ウィロビーの回顧録によれば、38度線を超えて北上する指示は米統合参謀本部がマッカーサーに出していることがわかる。
しかし、後日「マッカーサーは自分勝手に上層部を無謀にも無視して38度線を突破し、北朝鮮に進攻した」という作り話が新聞に載って全世界にばら撒かれたために、事実でないことが通説になってしまったのだが、どこの国でもいつの時代もこのような方法で、権力者にとって都合の悪い真実が都合の良い歴史に書きかえられて国民に広められることがよくある。

かくして韓国軍と国連軍は38度線を突破し10月20日には北朝鮮の首都平壌を制圧し、さらに北朝鮮軍を追って破竹の勢いで中国国境に近い鴨緑江近辺まで進軍したのだが、ここで国連軍は中国軍の猛反撃に遭遇することになる。中国軍は国連軍をはるかに上回る規模であったのだが、その後の戦いについては次回に記すことにしたい。
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【ご参考】
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朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか

仁川上陸作戦で北朝鮮軍の補給路を断ち攻勢に出た国連軍を指揮するマッカーサーに対し、米統合参謀本部は北進攻撃の許可と詳細な指令を1950年9月28日に出し、いよいよ38度線を超える北進攻撃が開始された
しばらくウィロビーの回顧録を引用する。

「連合国軍による38度線を突破しての北進攻撃は、まず韓国軍の二個師団によって開始された。1950年9月30日、これらの部隊は東海岸沿いの道路を一挙に北上、10月3日には38度線を突破して100マイル近くも前進していた。そして10日後には、これらの師団は軽い抵抗を受けただけで元山を攻略していた。
一方、西海岸沿いでは米第8軍が国連決議を待つかのように、10月8日に38度線を突破し、平壌の南部近郊へと一直線に攻め込んだ。第187空輸部隊は平壌の北25マイルにパラシュート部隊を降下させ、マッカーサー元帥と第8軍司令官ウォーカー中将も、この落下傘部隊を追うように平壌の飛行場にその姿を現わした。」(知られざる日本占領 ウィロビー回顧録』p.278)

国連軍は北朝鮮の首都平壌を占領し、破竹の勢いで鴨緑江近辺まで進軍したが、ここで868千人の中国軍の大軍に遭遇することになる
再びウィロビーの回顧録を引用する。

鴨緑江地図

「この危機的局面に直面しているマッカーサーの部隊はといえば、残余の北朝鮮軍を壊滅させ、北朝鮮全域に秩序を回復するだけの能力は十分持っていた。…だが、中共軍が本格介入した場合、その兵力比は5対1の割で敵の方が圧倒的に多く、おそらく今年の終わりには10対1にまで開く可能性さえある。しかしワシントンは、すでにマッカーサーにはこれ以上兵力を増やすことはないと知らせてきたのだ。
1950年11月26日、中国軍司令官・林彪は全兵力を挙げて鴨緑江を渡り、攻撃を開始した。かくして中国は、米国その他の連合諸国とおおっぴらな戦争状態に突入したのであった
。」(同上書 p.292-293)

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国連軍は中国軍の兵力に圧倒されて12月4日に平壌を放棄して後退し、1951年1月4日には再びソウルを共産軍に奪われてしまう

0105共産軍ソウル占領

ウィロビーの回顧録を読み進んでいくと、大量の中国軍が国境付近に集結し北朝鮮支援のために参戦する可能性が高いことを、ウィロビー率いるGHQ参謀第2部(G2)が何度もワシントンに詳細に報告していたことや、台湾の国民党筋も1950年8月27日に中共の介入をアメリカに警告していたことなどが縷々述べられている。そのような重要情報を入手していながら米統合参謀本部は、「中共が本格的攻勢をかけようとしているか確認できない」として、マッカーサーに対し北進を指令したのだが、それは何故なのか。
また中共軍が参戦して国連軍が敗走し再びソウルを失うと、自らの状況判断ミスを棚に上げて、結果責任をもっぱらマッカーサーに擦り付け、「わが部隊は中国の農民兵を前にして敗走したが、これは米国戦闘史上にあってもっとも恥ずべき敗北である」とマッカーサーを非難したという。

前回の記事でもいくつか紹介したが、米統合参謀本部はマッカーサーにとってプラスになるような有用な情報を伝えるどころか秘匿し、マイナスになるような命令を何度も出した。またマッカーサーが敵軍の補給路を断って緒戦の戦況を一変させた「仁川上陸作戦」には、何故か根強く反対したのである。
米統合参謀本部の中枢には、少なくともマッカーサーが活躍することを喜ばず、できれば失敗をさせることによってマッカーサーを失脚させたいと考える人物が中枢にいて指示を出していた可能性を感じる人は私だけではないだろう。その問題については後で書くことにしよう。

話を中国軍と国連軍との戦いに戻す。
兵力では圧倒的に中国軍の方が優勢であったのだが1951年の2月ごろから不思議なことに中国軍の戦闘力が低下していった。

ウィロビーはこう解説している。
「1951年2月10日には奪われていた仁川港を再び攻略したわが軍は、態勢を立て直して反撃を開始し、共産軍にカウンターを食らわせつつあった。
 とはいえ、共産軍の猛攻が失敗に帰して、2月以降、その戦闘力が低下したことは、わが軍がすばらしい戦闘能力を示したというだけでは説明がつかない。なぜなら、わが兵力は数の上で圧倒的劣勢に立たされていたからである。これには別の要因も働いていた。つまり流行病という天罰が敵に下っていたのである。天然痘、腸チフス、発疹チフス、回帰熱等の流行病が北朝鮮全域に蔓延したのである。…」

かくして国連軍は態勢を建て直し、3月14日には再びソウルを奪還している。そして戦いは膠着状態に入ったと言われているのだが、武力においてはすでに国連軍のほうが優勢であったと言われている。
ところがトルーマン米大統領は4月11日にマッカーサーを突然解任し、彼のすべての指揮権を剥奪してしまったのだ

マッカーサー解任毎日新聞

ウィロビーの回顧録にはこう記述されている。
トルーマン大統領は、新たな勝利が朝鮮戦争でもたらされようとしていたその矢先、彼の最高の野戦司令官を解任するという暴挙に出た。その結果、トルーマンは敵が恐れていた一人の男を取り除くことになった。
 当時、マッカーサーは中国内の聖域を攻撃する決定を下すように、強硬に主張していた。彼はワシントンに、わが軍に対して活発に展開していた鴨緑江以北の軍事施設を空爆し、敵の補給をたつために中国の海岸を封鎖することの許可を求め、さらに台湾の国府軍を使わせてほしいとの要求を再三再四行った。だが国防長官のマーシャル、国務長官のアチソン、それにトルーマンはこれを握りつぶしてしまった。おかげでわれわれは陣地戦で行き詰まり、消耗多くして実りの少ない戦争を継続する羽目に陥った。
 トルーマンは、中国内の聖域どころか鴨緑江にかかる橋を空爆することさえ許可しようとしなかった。中国軍が鴨緑江を渡ってきたとき、マッカーサーは河にかかる6つの橋を空軍で破壊するよう命じたが、彼の命令はたちどころに飛んできたワシントンからの電報で撤回されてしまった。鴨緑江の橋はいまも相変わらず架かっている。その橋桁には、共産軍を増強して国連軍を撃破しようと、何十万という兵士たちの足音がとどろきわたり、何百万トンという補給物資と弾薬が車輪の音を響かせたのである。」(同上書p.320-321)

普通に考えれば仁川上陸作戦で敵軍の補給路を断つのに成功したならば、鴨緑江に渡る橋を破壊すれば、北朝鮮軍の全面的敗北は確実であったと思われる。ところが、それをさせじとする勢力がワシントンの中枢部にいたことは極めて重要である

通説では、マッカーサーが原爆を投下したいと主張したので、トルーマンが反対してマッカーサーを解任したという事になっている。
しかし、ソ連朝鮮戦争が始まる前年の1949年に原爆実験を成功させていた。もし国連軍が原爆を使えば、ソ連も使う可能性が高いだろう。それでは戦争は終わるはずがないし、世界を巻き込む大戦争になることは誰でもわかる。 しかし原爆を使わないと宣言してしまっては、保有することによる抑止力を失ってしまうので、マッカーサーがそれを「使わない」とは宣言するはずがない。かといって「使う」と言ったとしても、余程のことがない限り使わないのが原爆なのではないか。
マッカーサーが原爆を使うということを強く主張したことがわかる当時の史料が存在するなら撤回するが、私はマッカーサーがそう主張したために解任されたという説は、マッカーサーの評判を落とすための作り話だと考えている。

ウィロビーの回顧録に当時の記録がいくつか紹介されているのだが、マッカーサーの解任理由を語っているくだりには、トルーマンもマッカーサーも原爆のことを語っていないことがわかる。

トルーマン

トルーマンは『エスクァイア』誌のインタビューに対しこう答えたという。
「『…マッカーサーが大統領の権威を尊重することを拒否したのだ。彼はわが国政府における文民優位の伝統に挑戦したのだ。…』
 『2つの基本的問題があった。第一は蒋介石と彼の軍隊に関するもので、私はその使用につねに反対だったが、マッカーサーは逆だったのだ。』…
さて、戦線では中共介入後、2ヶ月間にわたる残酷なほどの冬季戦闘ののち、38度線まで敵を押し戻すにいたったのだが、マッカーサーは3月初旬、それ以上北進するなとのワシントンの命令に関わらず、シーソーゲームをくりかえしていることにはもう厭気がさしたと公然と不平を言いながら、その地点にとどまっていようとはしなかった
『あいつはとんでもないヤツだ。もしマッカーサーのいい分を聞いていたら、アメリカは中共ばかりかソ連とも戦うようになり、第三次世界大戦が起こったかもしれないのだ。』」(同上書 p.314-317)
ウィロビーの記述によれば、38度線を越える北進の命令を下し国連軍を中国の大軍と戦わせことも、鴨緑江の6つの橋の破壊を許さず、中国軍の補給路を断つことを認めなかったこともワシントンの指令であった。
マッカーサーに勝利させることを許さず、シーソーゲームになるようにしたのはワシントンの中枢部ではなかったか。そもそもマッカーサーには中国全土を敵に回す意図はなく、北朝鮮軍の補給や通信地点を破壊することで第三次世界大戦になるというのは論理の飛躍であるように思えるのだ。

次にマッカーサーの発言を紹介しよう。
「解任は出し抜けになされた。私は、台湾が共産主義者の手に落ちる危険性について警告していた。これは当時の権力と意見を異にするものだと言われた。だが国務省は、私の解任以後、そんなことは合衆国の長年の変わらぬ政策だったと言明している。
 申し渡された第2の理由は、私が敵の司令官に軍事事項の話し合いを呼び掛けた点だった。(3月24日、大統領の許可を受けずに、むしろ大統領に対抗して、マッカーサーは休戦協議の声明を発表している)。ところが、同じような提案がソ連についてなされるや、これは熱烈に歓迎されたのである。
 第3の理由は、ある下院議員に対する私の書簡であった。軍役に服しているものの誰一人として、下院議員と連絡することを制限されない、という法律が立派にあるのに。」(同上書p.322-323)

マッカーサーの電撃的解任には日本人も驚かされたが、米国人も驚いた。そしてそれは、次第にトルーマンに対する怒りに変わったという。

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4月17日にマッカーサーはサンフランシスコに到着し、50万人の人々が彼を出迎え、300万人の人々が彼の帰国を見守り、カリフォルニア、フロリダ、ミシガン、イリノイの各州議会は、マッカーサーを罷免したトルーマン大統領を非難する決議を採択したという。

マッカーサーはワシントンでも熱狂的歓迎を受けたのち、上下両院の合同会議上で議員の前で演説を行い「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ(Old soldiers never die,they just fade away)」という歌の一節を引用して演説を締めくくり、議場の歓呼に応えて演壇を降りて軍歴を閉じたのだった。

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トルーマンの言っているのが正しいのか、マッカーサーやウィロビーの言っていることが正しいのか。
今では朝鮮戦争以降のマッカーサーが悪者にされて歴史が綴られているのだが、いつの時代もどこの国でも、往々にして歴史は勝者にとって都合の良いように書きかえられてきたものである。通説では説明できないことが書かれている当時の記録が多数残されている場合や、通説の根拠となる当時の史料が見つからない場合には、通説をまず疑ってみるべきだと考えている。

以前このブログで、『ヴェノナ文書』(ソ連情報部暗号文書)の解読が進んで、アメリカのルーズベルト政権(民主党)には、常勤スタッフだけで2百数十名、正規職員以外で300人近くのソ連の工作員、あるいはスパイやエージェントがいて暗躍していたことが今では判明していることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html" target="_blank" title=" http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html"> http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

トルーマンはF.ルーズベルト大統領の急死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格した人物だが、トルーマン政権(民主党)を支えたスタッフはルーズベルトのスタッフの多くを引き継いでいたのである。トルーマンがソ連に有利な判断に傾く謎はそのことを無視しては語れないのだと思う。

マッカーシー

朝鮮戦争のはじまる4か月前の1950年2月9日に、アメリカ上院で共和党議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーが、「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発していることがWikipediaに記述されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC

マッカーシー議員の情報源は『ヴェノナ文書』ではなく、FBIから情報を入手したと言われているのだが、その後『ヴェノナ文書』の解読が進み、ソ連のスパイ行為はマッカーシー議員の見積もりよりもさらに大規模なものであったことが判明しているという。
とすると、アメリカのルーズベルト政権からトルーマン政権までの20年間(1933-1952)は、アメリカの政権中枢はソ連によるスパイ活動の影響を相当受けていたことになる

この2人の民主党の大統領の時代にアメリカがソ連を敵に回したことがほとんどなく、共産主義勢力に対して甘い対応を取りつづけたのは、このような背景を知らなければ理解できないと思うのだ。
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スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている

前回は、トルーマン政権が朝鮮戦争で国連軍を勝たせないようにしたのではないかということを書いたのだが、その後スターリンの極秘文書の中から、スターリンがアメリカを朝鮮戦争に誘導したと記述している書簡が発見されているので紹介したい。

韓国の新聞である『中央日報』が2008年6月に報じた記事を、その日本語版のホームページで誰でも読むことができる。ちょっと長いが、全文を引用させていただく。
韓国の新聞なので「朝鮮戦争」とは呼ばず「韓国戦争」と書かれているが、同じ意味である。
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=101713&servcode=200§code=200
http://japanese.joins.com/article/714/101714.html?sectcode=&servcode=200§code=200

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スターリンが米に韓国戦争参戦を誘導していた…極秘文書発見
派兵しやすいよう、安保理拒否権を行使せず

ヨシフ・スターリン・ソビエト連邦(現ロシア)書記局長が1950年、韓国戦争に米国を参戦することを希望、戦争勃発直後に招集された国連安全保障理事会にソビエト連邦が参加しなかったのも、米国の参戦を誘導するための緻密な計算であったことを示す文書が公開された。
またスターリン書記長は中国も戦争に加担させることにより、米国と中国が韓半島に踏みとどまざるを得ない状態をつくる戦略を立てていたことが明らかになった。
このような事実は1950年8月27日、スターリン書記局長がチェコスロバキアのクレメント・ゴットワルト大統領に送った極秘文書を通じ、明らかになった


文書でスターリン書記局長は、この年の7月初旬に開催された国連安保理でソビエト連邦が国連軍派兵に拒否権を行使しなかったことに対するゴットワルト大統領の問題提起に対し『安保理で、米国が多数決決議を得られやすくしたもの』と説明した。またスターリン書記局長は『これによって、米国は韓国での軍事介入に巻き込まれ、軍事的威信と道徳的権威を失いつつある』と主張した。

スターリン書記局長は特に『米国が韓国戦争の介入を続け、中国まで韓半島に引き込まれる事態になればどんな結果になるのか考えてみよう』とし『ヨーロッパで社会主義を強化する時間を稼ぎ、国際勢力の均衡により、私たちに利益を抱かせるだろう』と強調した

スターリン書記長の文書は、北京大学歴史学部のキム・ドンギル教授が2005年にロシアの3大国立文書保管所のひとつである社会政治史文書保管所(RGASPI)から入手した旧ソビエト連邦の資料(文書番号fond 558、opis 11、delo 62、listy 71~72)に含まれていた。スターリン書記局長が韓国戦争について開戦前後の国際情勢と、自分の戦争構想を具体的に言及した文書が公開されたのは今回が初めてだ。この文書はスターリン書記局長が米国の介入を懸念し、金日成(キム・イルソン)主席の南下侵略の計画に反対したという通説を覆す内容が含まれている

文書の最後に、スターリン書記局長は撤収した国連安保理にソビエト連邦が復帰すると言い『これは米政府の好戦的な政策を暴露し、米国が安保理を利用するのを防ぐために効率的だったからだ』と書かれている。
スターリン書記局長は一級機密に分類された文書の保安維持のため、暗号名“Filippov”(フィリッポフ)を用い、プラハ駐在のソビエト連邦大使に『口頭で、ゴットワルトに伝えろ』と指示した。

文書を分析し『ゴットワルト大統領に送ったスターリンの文書と韓国戦争の起源』という研究論文の執筆を終えたキム教授は『スターリンが戦争を認めた背景を含め、韓国戦争の起源を新しい角度から説明する文書だ』と話した。キム教授の研究結果は、キム教授が客員研究員であった米国のワシントンにあるウッドロー・ウィルソンセンターの『国際冷戦史プロジェクト』論文集に今月25日、発表される予定だ。

◇スターリン
ロシア社会主義革命を率いたレーニンの後継者でソビエト連邦共産党の書記局長を務めた。1922年から亡くなるまで(1953年)、31年間にわたりソビエト連邦を独裁統治した。第2次世界大戦終戦後、米国と対立しながら冷戦の象徴人物となった。」(引用終わり)

  ネットで検索していくと、この記事に書かれているウッドロー・ウィルソンセンターのサイトにキム教授の該当論文が見つかったが、英語は弱いのでとりあえずURLだけ紹介しておく。どこかに邦訳があれば、ご教示いただければありがたい。
http://wilsoncenter.org/sites/default/files/NKIDP_eDossier_1_Origins_of_the_Korean_War.pdf

少しだけ補足と、私なりの解釈を書かせていただく。

ゴットワルト

スターリンの極秘文書の宛先であるゴットワルトは、1921年にチェコ共産党の創設に関わり、1945年以降チェコ共産党委員長となり、1948年から1953年まではチェコスロバキアの大統領を兼務した人物である。スターリン主義者で知られ、多くの政敵を粛清したが、1953年3月にスターリンの葬儀から帰国した5日後に病死している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%88

前々回の記事には書かなかったのだが、米英仏露の4か国は国際連合の安全保障理事会で拒否権を有していた。したがって、1950年7月に開催された国連安保理でソ連が拒否権を発動していれば国連軍の派遣はなかったし、戦車や重火器を大量にもつ北朝鮮軍が、僅かな大砲を持つだけで兵力の劣る韓国軍を緒戦で圧倒し、簡単に勝利することは確実であった。

では何故、ソ連は国連安保理で拒否権を発動せずに、安保理を欠席したのか。

冒頭で紹介した『中央日報』の2008年6月に報じた記事は、ゴットワルトがスターリンにソ連が安全保障理事会で拒否権行使せずに欠席した理由を質問したことに対するスターリンの回答文書が発見されたことを書いているのだが、その記事によるとスターリンの回答は、安保理を欠席することで米国が多数決で国連軍の朝鮮戦争参入を決め、朝鮮戦争に介入させて中国まで引きずり込めば、ヨーロッパで社会主義を強化でき、社会主義国家にとってメリットがあるという趣旨のものであったようだ。

よくよく考えると、このスターリンの回答は、ソ連側が米国の中枢部をコントロールできるという確信がなければ絶対に書けないことを書いている
もしアメリカが韓国に、充分な兵士とともに最新鋭の武器や弾薬や戦車を送り込んでいたら、北朝鮮軍の勝利ははじめからあり得ない話なのだ。ではなぜスターリンは、国連軍が朝鮮戦争参入を決定すれば、国連軍を中国までひきずり込むことができると考えたのか、それが問題だ
前回および前々回の記事に書いたとおり、トルーマン大統領のスタッフには数百名のソ連の工作員、スパイやエージェントがいたことが、『ヴェノナ文書』の解読が進んで明らかになっているのだが、そのことを抜きにしてはこの謎は説明できないと思うのである。

一般的な日本史の教科書である『もう一度読む 山川日本史』には、「朝鮮戦争」についてこう書かれている。

「1950年6月、朝鮮半島では北朝鮮軍が北緯38度線をこえて韓国に侵攻を開始した(朝鮮戦争)。国際連合の安全保障理事会は北朝鮮を侵略者として武力制裁を決議し、アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国側に立って参戦した。一方、北朝鮮側には中国人が人民義勇軍の名で加わり、はげしい戦闘がくりかえされたが、1953年7月、板門店で休戦協定がむすばれた。」(p.322)

淡々と史実だけが記されているような印象をほとんどの人が受ける文章なのだが、ソ連については一言も書かれていないのはフェアではないだろう。
少なくとも、北朝鮮軍の兵器や戦車はソ連から支援を受けていたことや、国際連合の安全保障理事会でソ連が拒否権を行使すれば国連軍の組成は出来なかったはずであったにもかかわらず、ソ連は安全保障理事会を欠席したために国連軍の派兵が決定したという史実は書くべきではないかと思う。

それと、もう一つ教科書に書くべき重要なことがある。この朝鮮戦争における死傷者が半端ではなかったことだ。
Wikipediaによると、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷し、中共の公式発表による中国人民志願軍の戦死者は11.4万人、戦闘以外の死者は3.4万人、負傷者34万人と書かれているが、この戦争の犠牲者は兵士よりも民間人の方がはるかに多かったという。
朝鮮戦争でアメリカ空軍および海軍航空隊が投下した爆弾の総重量は60万トン以上で、第二次世界大戦でわが国に投下された16万トンの3.7倍なのだそうだが、100万人から200万人の民間人犠牲者が出たと言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89#cite_ref-39

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また韓国の李承晩大統領は、朝鮮戦争勃発を受けて共産主義からの転向者やその家族を再教育するための「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人以上を虐殺した(「保導連盟事件」)というし、北朝鮮の金日成も韓国の一般市民数十万人を「反共産主義の反動分子」との罪名で大量虐殺している。
ソウルのように北朝鮮軍と国連軍が入れ替わり立ち代わり占領したところでは、見境のない殺害と報復が繰り返されたという。
次のURLで、朝鮮戦争時の韓国軍や北朝鮮軍による虐殺現場の写真を見ることが出来る。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/1222ChoosenWar.html

全体では400万人から500万人の犠牲者が出たという話もあるが、その数字だと当時の朝鮮半島の人口は約3000万人だから、全人口の13%~16%程度の人々が犠牲になったことになる。

お隣の国では、これだけの民間人の犠牲者が出ているにもかかわらず、未だに追悼碑を設置する動きがないのだそうだ。このような史実は民族の歴史には残したくないものなのかもしれないが、これでは朝鮮戦争の犠牲者はいつまでたっても浮かばれないことになる。

ところで朝鮮戦争は1953年に休戦に至り北緯38度線を軍事境界線として南北に分断されたが、両国の間に平和条約は結ばれておらず、国際法上ではこの戦争は終わったことになっておらず、長い間「休戦中」の状態にあった。しかるに今年になって、東アジアの状勢が怪しくなってきている。

習近平オバマ

今年の3月11日に北朝鮮は朝鮮労働党機関紙の労働新聞で、国連や中国との間で結んだ朝鮮戦争の休戦協定を白紙に戻すと言明したと報道され、6月7-8日には中国の習近平国家主席はオバマ米大統領との首脳会談で今後の米中関係について「新型の大国関係」を主張し、「太平洋には米中両大国を受け入れる十分な空間がある」と語ったという。この言葉は、中国が韓国や日本や台湾などで紛争しても、アメリカは口出しするなと言っているのと同じだ。
また10月2日にはアメリカのヘーゲル国防長官と韓国のキム・グァンジン国防相がソウルで会談し、北朝鮮が核兵器を使用する確実な兆候をつかんだ場合には、米韓両国の軍があらゆる戦力を動員して先制攻撃を行うことで合意したという報道があり、10月3日のTHE WALL STREET JOURNALのサイトには、北朝鮮は日本での情報収集能力を高めるため、ベテラン工作員を事実上の在日大使館の幹部として起用したとのニュースが流れている。
http://realtime.wsj.com/japan/2013/10/03/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%80%81%E5%AF%BE%E6%97%A5%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%82%92%E5%BC%B7%E5%8C%96%E2%80%95%E3%83%99%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%B3%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E5%93%A1%E3%82%92/

李鵬

1993年に中国を訪問したポール・キーティング豪首相(当時)に対して、李鵬首相(当時)が「日本は取るに足るほどの国ではない。20年後には地上から消えていく国となろう」と語ったことは有名な話だが、今年はちょうどその言葉が発された20年後の年になる。
世界の先進国の中でスパイ防止法がないのはわが国だけなのだと言われており、わが国には北朝鮮や中国だけでなく米韓ロなどの「工作員」がマスコミや教育機関などで多数活動していて、「スパイ天国」とも言われている状態だ。
青山繁晴氏が日本の公安当局に北朝鮮の工作員の数を以前質問したことがあり、その数はおおよそ2万人程度でコアなメンバーは500人程度との回答であったと述べているが、米中韓ロにはもっと多くの工作員がわが国にいてもおかしくないだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=b9XLubXKrsI

尖閣列島

今年に入って尖閣諸島の日本領海への中国側艦艇の侵入がますます頻繁になってきた。韓国も反日を煽り続け、北朝鮮も対日工作を強化しようとしている…。20年前の李鵬の言葉と今年6月の米中首脳会談における習近平の発言とどこかつながりがあるのではないかと気になるのだが、中国と周辺国の工作員が今年をターゲットにしていて、具体的にわが国の領土を奪い取ろうとしている可能性を感じるのである。

これから先、いつか東アジアできな臭い事が起こるのではないかと心配だが、わが国はいつまでも自国の防衛の過半をアメリカに頼って大丈夫なのか。資金不足で自国の政府機関をも一部閉鎖せざるを得なくなったようなアメリカで、同盟国を守るために自国の軍隊を派遣することについて米国民の支持が得られないことも考えておく必要がある。
わが国も他国と同様に、わが国における他国のスパイ活動を取り締まり機密情報を守る一方、他国の情報は自前で集めて、自分の国のことは自分で守る体制に次第に移行していくことが、これからますます必要になっていくのだと思う。
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『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか

前回まで、わが国が連合軍に占領されていた時期から朝鮮戦争までの歴史を追ってみた。
ウィロビー回想録の文章を引用しながら当時の雑誌などの記事をいくつか紹介してきたが、これらを読んでいくと、今までわが国の教科書やマスコミなどで広められてきた現代史の知識はかなり一面的なもので、一番重要なソ連の関与には全く言及していないことに気づくことになる。

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以前このブログで1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容のことを書いたが、再び引用させていただく。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

このような考え方はレーニンが最初に考えた『敗戦革命論』と呼ばれているものだが、共産主義者は革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力とし、自国政府の敗北を導けという考え方である。
その考え方だけでも恐ろしいのだが、その方法については、レーニンはこう記している。
「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない
共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」(同上書 p.41-42)

要するに、国家を内部崩壊させて共産革命に導くための手段は問わない。非合法行為もかまわないし、真実を隠蔽しても良いと言っているのだ。
この時代においては、このような恐ろしいレーニンの思想がインテリ層や若い世代を中心に全世界に拡がっていて、わが国もマルクス・エンゲルスやレーニンなどの全集が飛ぶように売れていたのである。

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『軍国主義』『青年将校』というと、私も長い間『極右』をイメージしてきたのだが、上記のコミンテルン第6回大会から4年後の昭和7年(1932)5月15日に青年将校が首相官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害する事件が起こった。この五・一五事件の首謀者が書いた檄文を数年前に読んで、私の青年将校に対する認識が一変した。
次のURLにこの時の檄文の全文が出ているが、最後の部分だけ引用させていただく。
http://mid.parfe.jp/kannyo/itinichikai/siryou/H19-5-31-515/top.htm

「… 国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ
! 
 祖国日本を守れ
 而して
 陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ
 民衆よ!
 此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す
 吾等は日本の現象を哭(こく)して赤手世に魁(さきが)けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの 素より現存する左傾右傾の何れの団体にも属せぬ
 日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る
 起て!
 起つて真の日本を建設せよ!
 昭和七年五月十五日    陸海軍青年将校」

右翼が一般の労働者に対して、体制の破壊のために蹶起を促すことはあり得ないことだ。この檄文は、彼ら青年将校の中心人物の中に、マルクスやレーニンの影響を受けていた者が少なからずいたことを物語っている。彼らの多くはレーニンの言う『敗戦革命』を実現させるべく、自国政府を敗北に導くために進んで入隊したのではなかったか

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以前このブログでも書いたが、昭和20年になって昭和天皇が終戦を決意され、いよいよ8月15日に国民に向かって「終戦の詔勅」を放送される直前の8月14日深夜から15日にかけて、天皇陛下が吹き込まれた玉音放送のレコード盤を奪い取って終戦を阻止しようとした陸軍の将校らのメンバーがいた。彼らは近衛第一師団長森赳中将を殺害し、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠したのだ。(宮城事件)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html
そもそもわが国の軍人でありながら、大日本帝国憲法下で最高権力者である天皇陛下のご聖断に従おうとしないメンバーが右翼であるはずがないだろう
彼らの一部は上官の命に従っただけの者もいただろうが、リーダー格には共産主義者が少なからずいて、レーニンの『敗戦革命論』を実践してわが国の体制を徹底的に破壊して共産革命に導こうとしたと考えて初めて腑に落ちるのである。
ソ連は8月9日に対日宣戦布告を行ない、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻を開始したのだが、共産主義者からすれば、ソ連軍が日本列島の主要な部分を占領できないままに戦争を終わらせてしまっては困るのである。だから彼らは宮城を占拠して、玉音放送のレコード盤を奪い取り、戦争を長引かせようとしたのではないのか。

近衛文麿

以前このブログで、日中戦争勃発時から開戦直前まで首相を務めた近衛文麿が終戦の年(昭和20年[1945])の2月に昭和天皇に上奏し、戦争の早期終結を唱えた『近衛上奏文』という文書を紹介した。
この上奏文の中で近衛はわが国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

「…翻(ひるがえ)つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後から操る左翼分子の暗躍等々に御座候
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。…

 抑も(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。…

昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす者はいわゆる右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。…」

近衛文麿は学生時代から社会主義思想に深く共鳴した人物で、昭和8年(1933)に「昭和研究会」という政治・経済・社会に関する研究会を発足させ、その中心メンバーが後に近衛のブレーンとして彼の内閣を支えることになったのだが、その中にはのちにゾルゲ事件の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実や、左翼活動の嫌疑により治安維持法違反で検挙起訴された人物が少なからずいたのである。
そして第一次近衛内閣の時に日中戦争に引き摺り込まれて戦線を拡大し、第二次近衛内閣の時には日独伊三国同盟を締結し日ソ中立条約を結び、第三近衛内閣の時には日米交渉が不調に終わり政権を投げ出した。

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近衛が政権を握っていた時代に実際に起こったことは、このブログでも何度か引用した昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会におけるスターリンの演説内容とぴったりと符合するのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」

近衛はソ連が世界の共産化のために工作を続け、軍部や官僚に多くの共産分子がいることに思い至り、この上奏文の中で「彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所」と書いて昭和天皇に謝罪し、このまま勝利の見込みのない戦いを継続することは共産主義者の思うつぼとなるので一日も早くこの戦争を終結させるべきであると述べている。この上奏文の全文は次のURLで読むことが出来る。
原文     http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/konoejousou.html
読み下し   http://www.geocities.jp/since7903/zibiki/ko.htm#konoezyousyoubun

スターリンの戦略は、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛けて共産陣営に組み込むことだった。そしてわが国やアメリカの政権の中枢部に、ソ連と繋がる人物が多数送り込まれていたということは、今では多くの史料で確認できるのである。
こういう話をすると、すぐに『陰謀論』と一笑に付して思考停止する専門家が多いのだが、本当に怪しいのは、共産国にとって都合の悪い史実を一切語らず、中韓が捏造した物語を充分な検証もせずに「正しい」と声高に叫び続ける連中の方ではないのか。
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尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる

前回および前々回の記事で、1928年以降アメリカだけでなくわが国においても、政府や軍部の中枢部にソ連の影響が大きかったのではないかということを述べてきた。

今回はゾルゲ事件の首謀者の一人として昭和16年10月に逮捕された尾崎秀実が昭和17年(1942)3月か4月頃に獄中で執筆した手記を紹介したい。

尾崎秀実を取り調べた宮下弘氏の著書によると、尾崎は10月15日の早朝に逮捕され、正午から取り調べが始まり、先に逮捕されていた宮城与徳*との関係を追及していったところ夕方にはスパイ行為を認めたと書かれている。そして翌日の16日に近衛文麿が政権を投げ出し18日に内閣を総辞職している。尾崎のスパイ行為による逮捕は、近衛にとっては驚天動地の出来事であったに違いない。
*宮城与徳:米共産党員。10月10日に逮捕され、宮城の自供により尾崎秀実やゾルゲソ連のスパイであることが判明した。

尾崎秀実はわずか数時間の取調べで、ソ連へのスパイ行為を自白した点について、取調べで尾崎にはひどい拷問がなされたと書いている人もいるのだが、宮下弘氏は
「わたしはそういうやりかたは性格的にも反対ですし、いやしくも近衛さんの大事な人なんだから、拷問なんぞやりませんよ。」(宮下弘特高の回想』p.216)
と書いている。ということは、どちらかが嘘を言っていることになる。

ひどい拷問があったと書く人は、「尾崎の回想録は特高に書かされたものなので史料価値が乏しい」と信じたいのだろうが、この回想録を普通に読めば、尾崎しか知りえない事柄がかなり詳しく、具体的に書かれており、しかも長くて論旨が明快であり、すでに判明している史実と矛盾することもない。

そもそも尾崎が逮捕された時にはアメリカ共産党員の宮城与徳が逮捕されていて、宮城の自供により、尾崎が諜報活動をしていたことや、尾崎と宮城が会っていたことはすでに特高が把握していた。
宮下弘氏の著書によると、何度も会っているはずの宮城の名前が尾崎のアドレスブックになかったのだが、その点を巧妙に衝いて尾崎を観念させている。ちょっと面白いので、しばらく宮下氏の著書を引用する。

特高の回想

「…あなたがしばしば会っているはずの人物がいる。しかしその人物の名前は、あなたのアドレスブックにもないし、交友関係その他の供述のなかにも出てこない。これはいったいどういうことですか、いうと、尾崎は黙って下を向いて答えない。

そこで、わたしは机を向いて脅しつけたんです。君の論文や何かで調べているのではない。ソ連あるいはコミンテルンのスパイとして、いま君を調べているんだ。日本が戦争している時に、スパイをやっている人間を容赦するわけにはいかんのです! と。
そうしたら、彼はシューンとして、椅子からくずれるように、ずり落ちましてね、真っ青になった。そうして三十分くらい、黙っていましたよ

それから、スパイ、スパイとそうきめつけないでください。ようやくそう言って、椅子に這いあがってね。私はただスパイをやった人間といわれたのでは浮かばれない。私は政治家です。政治家であることをまず認めてください、と言う
そりゃあ、君の内心はどうであったかは知らないが、取調べるほうは君が政治家だから取調べるのではない。君が治安維持法、国防保安法、あるいは軍機保護法に違反しているという、法のタテマエから調べるのだ。だから君が政治家であるというのは君の主観的な事であって、それはそうおもっておればよろしい。とにかく君は自分が検挙されたほんとうの理由を知っているはずだ。君はどうやら観念したように見えるが、どうだ、話さないか、ということで、ここではじめて宮城与徳の名前を、わたしから出したわけです。宮城とはどういう関係か、と。ブーケリッチという人物もわかっているし、背後にいるドイツ人もつかんでいる、と
ま、こういうことでやったのですが、わりあいに簡単でした。」(同上書p.215-216)

宮下氏の文章には誇張もあるだろうが、尾崎としてはこれだけ周りを固められていたら、観念するしかなかったのではないだろうか。尾崎の取調べは途中で宮下氏から高木警部に代わっているが、初日に観念して自供した人物に対しては拷問などは必要ないのではないか。

冒頭に記したように、尾崎秀実は昭和17年(1942)3月か4月頃に手記を執筆している。
尾崎の手記の内容に入る前に、尾崎がこの手記をどのような心境で書いたかがわかる部分を引用しておこう。まずこの部分を読んで頂いて、この尾崎の手記がひどい拷問によって意に沿わぬものを書かされたものであるかどうかを読者の判断に委ねることにしたい。(原文は旧字・旧仮名遣い)

尾崎秀実と娘

「…私を最も苦しめたことの一つは私が是まで普通の社会人として接してきた仲間の人々に対しその完全な好意と善意を裏切らねばならぬ立場にはじめから立っていたことであります。これは専ら私の仕事の特異性に基づくことで客観的には私が平常接触をもつ人々を利用することによって私の主たる仕事が成立つのであります。…それらを利用しそれらから諜報の材料を得ることはコンミュニスト(共産主義者)としての活動に当然内在する筈ではないかとも云い得るところでありましょう。しかしながら、これらの人々のいずれも完全に私を信頼し友誼を以て遇してくれた人々であります。しかも今や事ここに至ると最も惨酷なる形で彼等を裏切りかつ迷惑をかける結果となったのであります。この点の心苦しさから私はなかなか脱却できないので居ります
肉親に対する愛情も私は元来強い方であります。…私に裏切られて突然不幸を与えられた妻や子供が私に尽くす真情には筆舌に云い難いものがあります。それだけに心苦しく感じるわけであります。私にはなお一人の老父と実兄とがあります。これらの人々の心中などを考えることは耐えられぬところでありますから強いて考えないことにして居ります。 …私自身は早くからこの日のあることは覚悟したことでもあり、人間も元来あきらめの良い方でありましたから、実は割合いに落ち着いて居るのであります。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.234-235)

尾崎はこのように、自分を信頼して重要情報を伝えてくれた人々を裏切りかつ迷惑をかけたに心を痛めたことは述べているものの、ソ連にわが国の重要情報を伝えたことについては詫びている訳ではない。しかし許されないことをやっていたことは分かっており、いつかは逮捕されることを覚悟していたのである。
では、具体的にどのような諜報活動をしていたのか。尾崎はこう述べている。

「吾々のグループの目的任務は…広義にコミンテルンの目指す世界共産革命遂行のため 日本における革命情勢の進展とこれに対する反革命の勢力関係の現実を正確に把握し得る種類の情報ならびにこれに関する正確なる意見をモスコー*に諜報することにあり、狭義には世界共産主義革命遂行上最も重要にしてその支柱たるソ連を日本帝国主義より防衛するため 日本の国内情勢ことに政治経済外交軍事等の諸情勢を正確且つ迅速に報道しかつ意見を申し送って、ソ連防衛の資料たらしめるにあるのでありますしたがってこの目的のためにはあらゆる国家の秘密をも探知しなければならないのでありまして、政治外交等に関する国家の重要な機密を探り出すことは最も重要な任務として課せられているのであります。」(同上書p.214-215)
*モスコー:モスクワ(ソ連の首都)

尾崎が逮捕されたのは日米開戦の2ヶ月前であるが、この手記を書いたのは太平洋戦争が始まって日本軍が陸海軍とも連戦連勝の破竹の勢いであった頃である。

シンガポール陥落

日本軍は2月にはイギリスの東南アジアの最大拠点であるシンガポールを陥落させ、3月にはバタビア沖海戦でも連合国に圧勝。ジャワではオランダ軍を、フィリピンではアメリカ軍を、ビルマのラングーンではイギリス軍を追い出し圧倒的に強かった。
このような時期に尾崎が、この戦争がその後どうなるかについて述べている部分は非常に興味深い部分である。

「…日本の勝敗は単に日本対英米の勝敗によって決するのではなく 枢軸全体として決せられることになるであろうと思います。日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが その後の持久戦により消耗が軈(やが)て致命的なものになって現われ来るであろうと想像したのであります。しかもかかる場合において 日本社会を破局から救って方向転換乃至体制的再建を行なう力は日本の支配階級には残されていないと確信しているのであります。結局において身を以て苦難にあたった大衆自体が自らの手によって民族国家の再建を企図しなければならないのであります。
ここにおいて私の大雑把な対処方式を述べますと、日本は破局によってその不必要な犠牲を払わされることなく立直るためにも、また英米から一時的に圧倒せられないためにも行くべき唯一の方向はソ連と提携し、これが援助を受けて、日本社会経済の根本的立て直しを行ない、社会主義国家としての日本を確乎として築き上げることでなければならないのであります。…」(同上書p.224-225)

このように尾崎は、日本軍が連戦連勝でいた時に日本軍の敗北を予想し、その後はソ連の傘下に入り社会主義国に転換すべきであると述べている。
その一方、日本が英米と戦って敗れたとしても簡単に敗れては好ましくないとも言っている。この点が重要な部分である。

「…私の立場から言えば、日本なり、ドイツなりが簡単に崩れ去って英米の全勝に終わるのでは甚だ好ましくないのであります。(大体両陣営の抗戦は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以てソ連、支那と結び別の角度から英米に対抗する姿勢を採るべきであると考えました。此の意味に於て、日本は戦争の始めから、米英に抑圧さられつつある南方諸民族の解放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己解放を『東亜新秩序』創建の絶対要件であるということをしきりに主張して居りましたのはかかる含みを籠めてのことであります。…」(同上書 p.228-229)

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以前このブログで書いたが、昭和16年6月に日本の同盟国であったドイツがソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きた。
近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認したのだが、この「南進論」の論陣を張ったのが尾崎秀実らのグループである。
「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、「南進論」を進めるために尾崎をはじめとする近衛内閣の「左翼」ブレーンたちが造ったスローガンなのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-223.html

もしこの時にわが国が北進を選択していれば、ソ連は日独に挟撃されて息の根を止めていただろう。それはソ連にとって最悪の選択だ。
ソ連にとって望ましいのは、世界大戦で列強同志を戦わせて消耗させ、将来革命を仕掛けて共産圏を拡大させる条件を整えることである。
そこで、今まで欧米諸国の植民地であった南方諸民族を日本が解放するという崇高なストーリーを描き、日本に欧米諸国と戦わせて欧米勢力を南方諸国から追い出させる。しかし日本は資源不足のためいずれ消耗戦に耐えられずに敗北する。そして南方諸民族は再び西欧諸国の再植民地化を選択しないようにすれば、いよいよ世界を共産主義化するチャンスが生まれると考えていたのではないか。尾崎はこうも書いている。

「…私達は世界大同を目指すものでありまして、国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現を目指しているのであります。従って我々がソ連を尊重するのは以上の如き世界革命実現の現実過程に於いてソ連の占めている地位を意義あるものとしての前進の一里塚として少なくともこの陣地を死守しようと考えているにすぎないのであります。…社会主義は一国だけで完全なものとして成立するものではありません。世界革命を待って始めて完成するのであります。全世界に亘る計画経済が成り立って初めて完全な世界平和が成り立つものと思われます。…」(同上書 p.232-233)

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前回の記事で、スターリンの第7回コミンテルン大会における演説の言葉を紹介した。
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」
ゾルゲや尾崎をはじめとする、世界に散らばったソ連の工作員たちは、列強の国力のバランスをはかりながら、このスターリンの『砕氷船のテーゼ』を忠実に実現させようと動いていたのではなかったか。

実際に第二次世界大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払わなければ実現しなかったことは事実ではあるのだが、一部の歴史家が言うように第二次世界大戦の真の勝利者は南方の西洋植民地解放を実現したわが国であるかのような考え方は、この時代の本質を衝いているとは思えない。
わが国に南方諸民族を解放させることによって我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させ、あわよくばわが国も共産化させるというスターリンの謀略に、わが国がまんまとかかってしまったというのが真相ではなかったか。
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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




ゾルゲ、尾崎らが一斉検挙に至った経緯について

前回の記事で尾崎秀実自身がソ連のスパイ活動をしていたことを記述した獄中手記の文章を紹介した。この尾崎秀実を自白させたのは特高第一課係長であった宮下弘と言う人物だが、特高はその前に、アメリカ共産党員の宮城与徳を自白させてゾルゲや尾崎がスパイ活動をしているとの供述を引き出している。
ところが、当時この宮城与徳という人物については捜査線上になく、北林トモというアメリカ共産党員の取調べで浮上してきたという。また、北林トモも当時は捜査線上になかった人物であったが、宮下氏が日本共産党員の伊藤律の取調べした際に名前が出てきた人物なのである。

ゾルゲ事件記事

スパイというものは証拠を残さずに活動し、死んでも秘密を守るのが当たり前だと思うのだが、捜査線上にもなかった人物からこれだけのスパイグループの情報をどうやって引き出したのかと誰しも思うところだ。実は特高は、宮城与徳が自供するまでは、ゾルゲ諜報団について何も把握できていなかったのである。
前回の記事でも尾崎秀実を自白させる場面を紹介したが、わずかな糸口から一斉検挙に結び付けるだけの情報を引き出した宮下弘氏の証言を記した『特高の回想』という本があり、これがなかなか面白い。
今回はこの本の記述を引用しながら、ゾルゲ事件が発覚した経緯について記すことにしたい。

ゾルゲ事件の発端となる証言は伊藤律(いとうりつ)という人物を宮下氏が取調べしたときに出てきている。

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伊藤律という人物は昭和8年(1933)3月に日本共産党に入党して2ヶ月後の5月に逮捕され、昭和10年(1935)に懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けている。昭和12年(1937)に日本共産党の再建運動を開始し、昭和14年(1939)に再度逮捕されて、翌15年5月に特高1課に着任したばかりの宮下係長の取調べを受けている。伊藤は前回の逮捕の時も、宮下氏の取調べを受けており、二人は面識があった。
伊藤は宮下係長に、転向する(共産主義を捨てる)ので保釈して欲しいと持ちかけるが、宮下氏は転向したとは認めないと答える。そこで伊藤は保釈してもらったら宮下氏に奉公すると持ちかける。その場面から引用する。

「…伊藤律は、いや、出たらきっとご奉公します、とそういうことを言ったんです。宮下さんのために働きますよ。…君が労働者出身なら、もっとザックバランに、君に働いてもらうようにしかけたかもしれない。しかし君がぼくのために働くと言ったが、それは党に被害を与えるようなことになっても働くという意味か、と訊ねたら、いや私はタマシイは売りません、と律は言った。…

 いや、それじゃあやっぱり出せないな。ぜんぜん期待しない。かならずためになると言ったって、将来を担保にした話で、そんなことで、外に出してもらいたいと言っても、それはダメだ。そう突っ放しておいて、すこし間をおいてから、言った。ぼくが君を外へ出せるような話をしろ、と。あるだろう、こちらから訊かれないことで、話をしてみたらどうか。君は長いあいだ、党の運動をしてきていろんなことがあったはずだ。よおく思い出してみたらどうだ。われわれがあっとおどろくような話があるはずだ、とね。

 そうしたら、律はじーっと考えていたが、じゃあ、こういうのはどうでしょうか、と話したのが北林トモのことです。
 共産党ばかりあなたがたは問題にしているが、アメリカのスパイについて注意していない。シナ事変は米英の後ろ楯によって頑強な抵抗がおこなわれているじゃありませんか。アメリカのスパイがいますよ。調べてごらんなさい、と北林トモのことをしゃべった
。 …北林がもしアメリカ共産党員だったら、帰国後は日本共産党員として働かねばならない。しかし北林は日本の党と連絡をつけ、日本の党に属して活動しようとしている様子はなかった。だから、その北林トモをアメリカのスパイだとおもう、と伊藤は言った。」(宮下弘特高の回想』p.182-183)

伊藤は知人に紹介されて北林に会ったことはあるが、その時はアメリカ共産党の話を聞かされ、また三方の道路があって家の中から三方の道路が見えるような家を探すことを頼まれたことがあった程度で、活動上の接点はなかったという。伊藤自身は北林がどのような重要人物に繋がるかについては何も知らなかったと思われる。だから、軽い気持ちで北林の名前を出したのではないか。

実はこの北林トモという女性がゾルゲ事件の発端になるのだが、宮下氏は伊藤律の話を聞いて、これはコミンテルンのアメリカ支部、つまりはソ連のスパイだと直感したという。もちろんこの段階では宮下氏も、この女性がゾルゲや尾崎に繋がるとは考えていなかったが、宮下氏は上司の中村特高課長や検事局の了解を得た後、今後「男と男のつきあいだ、君がなにかこれは宮下に聞かせておきたいという情報があったら聞かせろ、タマシイは売る必要はない」といって伊藤を釈放したという。

その後伊藤律は満鉄調査部に復職し、それ以降何度か宮下氏は伊藤と会っているが、宮下氏がゾルゲや尾崎に繋がる情報を得た訳ではなかった。

戦後に話が飛ぶが、日本共産党が再建の動きが始まると伊藤律はいち早く入党し、徳田球一書記長の片腕として党の重職を担った。しかしその後、伊藤律がこの時に北林トモの名を供述したことがゾルゲ事件発覚の発端になったことがGHQのレポートで知られるようになり、仲間の名を出した伊藤律は特高のスパイであったという説が拡がって、昭和28年(1953)に伊藤は日本共産党を除名されている。

ところが、宮下氏は著書の中で「他所へは言わないものをわたしのところへもってくるんだから、一般的にはスパイかもしれんが、左翼の側の裏切りという意味でのスパイというのはあたらない。」(同上書p.087-188)と述べている。
またゾルゲが活動していた当時のモスクワの参謀本部諜報局極東課で暗号電文の翻訳を担当していたM.I.シロトキンが1964年に書いた回想録にも、「伊藤律は『ラムゼイ』(ゾルゲのコードネーム)の諜報網と、何の関係も持っていなかった」と書かれているという。
伊藤律がスパイとされ日本共産党から除名されたことは、持病の糖尿病が悪化していた徳田球一書記長の後継争いのゴタゴタに伊藤自身が巻き込まれた中で読む必要があるのだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BE%8B#cite_note-71

話を元に戻そう。宮下氏は伊藤律の話を聞いて、特高の資料の中で「北林トモ」の情報を探そうとした。特高には米国共産党所属の日本人の氏名だけをカタカナのタイプで打った名簿らしいものがあり、その中に「北林トモ」の名前を見つけて宮下氏は興奮したという。
北林の上には当然ソ連に繋がる外人がいるに違いないと考えたが、防諜は特高の外事課の担当であったため、まず外事課が北林トモの調査をすることになった。
しかし、外事課は真剣に調査した様子がなく、1年以上たって「何にも動きがなく、スパイの証拠を得られない」と回答してきた。このことによほど腹が立ったのだろう。宮下氏はこう述べている。

もしゾルゲ事件の検挙が半年以前におこなわれていたとしたら、シナの背後にいるのが米英ではなく、つまり、国共合作した蒋介石を援助して日本と戦わせているのが、米英ではなくソ連だ、ということがはっきりわかったでしょうから、対米英宣戦布告などというバカげたことは、あるいは起こらなかったかもしれない。そう考えると、外事課での1年余の遅れは、やはりちょっと取り返しがつかない気がしますね。」(同上書p.195)

宮下氏の本には書かれていないが、この1年余の間に独ソ戦開戦(1941年6月)があり、わが国は4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする「北進論」と、南方地域へ進出し資源を確保しようとする「南進論」の閣内対立が起きる。
そして9月6日の御前会議で、日ソ不可侵条約を優先する「南進」が正式決定されたのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったという。このことは、この御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味していた。

この重要機密をソ連に流したのはいったい誰なのか。特高は尾崎秀実が怪しいと目をつけていたようだが、彼がソ連のスパイである証拠を掴んでいたわけではない。確たる裏付けなしに尾崎を検挙しても、もし取調べが長引くと、他の被疑者が逃亡したり証拠を湮滅する可能性がある。
ほかに田口右源太という怪しい人物がいたが、最初の検挙者は、「三人のうち、もっとも共犯との連絡の機会の少ないものでなくてはならない。それには外事課が長期間張り込んで動きのつかめなかった北林トモがいいだろう」(同上書p.196)ということで、最初に北林を検挙することに決定したという。

北林トモ

そういう経緯で和歌山県粉河町にいた北林トモを検挙して東京へ連行し、麻生六本木警察署に留置したのだが、北林は第一回目の取調べでは黙秘したものの翌日の取調べでは自分から語りだしたという。宮下氏は著書にこう述べている。

「北林トモを麻生六本木署に留置したのはまったくの偶然ですが、北林は、宮城与徳が麻布に住んでいたものだから、てっきり宮城がここに検挙されていて、それで自分が逮捕されたのだとおもったのですね。それで自分から宮城の名前を出せば、自分の方が疑いは軽くなるとおもったのでしょう。『宮城さんはスパイかも知れませんが、わたしはスパイではありませんよ』と先走っちゃったんですね

宮城なんて名前は、こちらにはわかっていない。知らない。しかし高木警部補はなにくわぬ顔をして、『その宮城のことを訊きたいんだ』、と。…

アメリカ共産党に同時期に入党したこととか、亭主はなにも知らないのだが、宮城とはひじょうに親しい間柄になったとか、そういうようなことも話した。宮城が下宿している先の細君とおかしいということで、嫉妬していたらしい。それと宮城が先に捕まっているとおもいこんでいるから、宮城が簡単に自分の名前を出したことを恨む気持ちにもなっている。そういう両方の感情から、宮城のことはあからさまに、なんでも話しました。…


宮城与徳

こうして宮城与徳という人物が浮かんできて、まえにいった北林トモの名を見つけた米国共産党日本人部の名簿を調べると、カリフォルニア在住の党員の中に名前が出ている。これだ、というので、宮城の住んでいる家を十日間ほど張り込んで、出入りする人間をつかんで、それから逮捕した。
 家宅捜査したら、文書がいっぱい出てきました。宮城は絵描きだが、絵の道具よりも、いろんな調べたものがいっぱいある。官庁が調査機関に委嘱したような調査データなどもある。で、宮城は、押収されたこれらの証拠から、スパイであることを認めざるを得なかった。」(同上書p.207-208)

宮城遺作集

宮城与徳という人物のことはゾルゲ事件のことを調べて知ったのだが、東京オリンピックの翌年の1965年1月19日にソ連が「ソ連最高会議幹部会令」を出して、ゾルゲの諜報グループの活動とそのソ連への功績を認め、宮城へ勲章を授与することを決定している。(尾崎秀実も同様の決定があった。)
しかし長いあいだ宮城の親族の居所がつかめず、勲章が贈られないまま1991年12月にソ連が解体されてしまったのだが、数年前に宮城の親族が名乗り出たようだ。

宮城与徳受賞

The Voice of Russiaのホームページの2010年1月14日付の記事で、親族の方に勲章が贈られている写真と記事が掲載されている。
http://japanese.ruvr.ru/2010/01/14/4595962.html

ソ連が「第2等祖国戦争勲章」を授与する対象となった宮城与徳という人物はわが国でほとんど知られていないのだが、いったいどのような活動をしていたのか。
宮城は取り調べに際して最初は仲間のことについて固く口を閉ざしていたのだが、ある出来事を契機に考え直してすべてを自白し始めることになる。その話を書き出すとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

<つづく> 
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尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後

前回の記事で、北林トモの供述に基づき宮城与徳が逮捕されたのち、宮城は仲間のこと等について固く口を閉ざしていたことを書いた。では何がきっかけで、宮城が供述を始めることになったのか。
宮下氏の著書にはこう書かれている。

特高の回想

「で、宮城は取調べで、スパイであることは認めざるを得なかったのだが、しかし仲間については口を割らない。言わなければならないときは死のうと申し合わせをしていた、とあとになって言っていたが、宮城は築地警察署で取調べを受けているとき、二階から飛び降りて自殺しようとした。柘植警部補と酒井という巡査が二人で取調べていたのですが、どちらも屈強な体格というわけではないし、とっさのことで、あわてて組みついたが止めきれなかった。宮城は窓から飛び降りたが、樹にひっかかってほとんど怪我しなかったけれども、宮城を追って飛び降りた酒井巡査は大腿部骨折で大怪我をしました

 この自殺未遂のあと、宮城はすっかり心境の変化をきたしたのでしょうね。自分は死のうと決心して飛び降りたのだが、警察官はそうではないだろう。それが、自分を追って飛び降りた。日本の警察官は生命がけで職務にあたっている、自分は考え直しました、と自白しはじめた。

  尾崎秀実とわかる人物も、太ったドイツ人とか、大きなドイツ人とかも出てくる。外事課には外人のリストがありますから、そこで宮城の供述に出てくるそれらしい外人をあたって、写真で宮城に確認させる。ブーケリッチもクラウゼンもゾルゲも、そうして割り出していったわけです。宮城は、尾崎の家には尾崎の娘の絵の先生として行っていることもしゃべった。」(宮下弘特高の回想』p.209-210)

このように、ゾルゲ事件は特高がゾルゲ周辺に網を張っていて、その供述を得て一斉検挙になったわけではなかったのである。
もし伊藤律が、アメリカのスパイだと思っていた北林トモの名前を出さなければ、もし北林トモが麻布六本木署でしゃべらなければ、また宮城が取調べ中に飛び降りて巡査が大怪我をするようなことがなければ、おそらく解明されることはなかった事件だったのだ


かくして、この事件が大がかりなスパイ事件である事がはっきりしてきたのだが、尾崎は近衛文麿首相の側近で内閣の嘱託であったし、ゾルゲもオット駐日ドイツ大使に信頼され、大使館情報官に任命されていた。ドイツは日本の同盟国であり、一斉検挙をするとなると内閣だけでなく、わが国とドイツとの友好関係にも重大な影響を与えることになる。
宮下氏は、こう記している。
「…これを一斉検挙でやってよいか、それはわたしの一存ではいかない、とは考えていました。

 それでも、ぐずぐずしていれば、戦争の命運にも関わる大事件をやりそこなうだろう。だから、まず尾崎をやってみて、そこで確かめてからゾルゲをやる、ということにした。尾崎のほうだけなら、まえに論文で引っぱってはどうか、ということもあったんだし、警視庁から逮捕するといえば、すぐ令状は出したでしょう。だから尾崎を検挙するのは、近衛内閣だったからといって、そう苦労したとはおもえない。問題はやっぱりドイツだったですね

 それで、外人をふくむ一斉検挙はダメになりました。あせったですよ。取調べだけからでは証拠が出てこないでしょうし、ゾルゲにドイツ大使館に逃げ込まれたら、ちょっと手が出せないですからね。ゾルゲはナチスの在日代表だったし、大使よりも実力者だった。けっきょく、尾崎を検挙することになったわけです。」(同上書 p.213)

尾崎を検挙したのは10月15日だが、その日に尾崎がスパイを認め自供したことは前々回の記事で書いたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

ところが、尾崎が自供してすぐにでもゾルゲを逮捕したかったにもかかわらず、なかなか逮捕令状が出なかった。宮下氏はこう記している。

「宮城の供述でゾルゲが浮かんだとき、逃亡されるおそれがある、すぐにも彼を逮捕しようとやっきになったのですが、検事局の方では、宮城の供述だけではあぶない、もうひとり、というので尾崎を検挙して取調べを急いだわけですから

  が翌日になっても、なかなか令状が出ない。たまりかねて、わたしは中村登音夫検事に電話で怒ったんです。ぐずぐずしていると、これはせっかくの事件を台なしにしてしまいますよ。ゾルゲの検挙は、一日も早く、一時間も早く、やらなければダメです。中村思想部長検事相手に電話でガンガンやっていたら、近衛内閣が総辞職です。これが10月16日ですね。司法大臣も誰に代わるかわからないから、令状など出せない、ということで、つまづきました。こちらは、内閣が代わる、司法大臣が誰に代わる代わらない、という以上に、日本の命運に関わっている問題なんだ、と激しくやりあっていたら、司法大臣は留任ということになって、令状をやっと出してくれました。それ! というので、16日にゾルゲを検挙した。東条内閣の発足は18日だったのですから。」(同上書 p.217)

かくしてゾルゲは16日に検挙されたのだが、この日に近衛文麿が政権を投げ出すことになるとは特高にとっては想定外のことであったろう。もし司法大臣の留任が決定していなければとてもスピード検挙は不可能であったし、東條内閣の発足を待っていては、ゾルゲは安全な場所に身を移していたことだろう。

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ゾルゲの取調べは特高の外事課が担当したので、どういうやり取りがあったかはあまり書かれていないが、ゾルゲがスパイであることを認めた瞬間について、宮下氏はこう書いている。

「…ゾルゲがおちたときは、なかなか劇的だったといいますからね。着ていた上衣を脱いで、椅子に叩きつけて、敗けた、日本の警察にはじめて敗けた、と。それからぜんぶ供述した。そういう報告が外事課から刻々にきて、やった、勝った、ということですね。当時流行していたナントカ節ふうの歌詞をわたしがつくって、振付を中村課長がやって、外事課と合同の祝宴の席で歌って踊りましたよ。
『…やおらゾルゲは立ち上がり、ナチの上着を投げ捨てて、なかは真赤だ、敗北だ、日本警察、勝ちました…』」
 わたしは神や仏にたよったり、こじつけたりするのは性格的にきらいですが、しかし、このゾルゲ事件は、そもそも最初の糸口から全力で取り組み、これを勝利的に終結させることが出来たのは、神の加護であった、とおもいました。まあ特高冥利に尽きる、ということですね

 東条首相が、これは金鵄勲章ものだ、と言ったと聞きましたが、そう聞いただけで、金鵄勲章もなにももらわなかった(笑)。わたしは内務大臣から呼ばれて話を聞かれて、百円もらいましたが。それだけです。」(同上書p.229)

金鵄勲章も何も貰わなかったと述べた後に宮下氏が笑っているのは、終戦直後の昭和20年(1945)10月4日に治安維持法とともに特高が廃止され、在籍者全員が罷免されたことを知る必要がある。
ゾルゲ事件の時に宮下氏の上司であった中村特高課長は、終戦当時は厚生省に勤務していたためにその時点では職を失うことはなかったがが、後にゾルゲ事件に関連した者として公職追放されたという。

以前このブログで、終戦直後から3年間にわたりGHQの中でわが国の占領政策の中心を担っていたのは民生局(GS)という部署であり、ここにはニューディーラーと呼ばれる左派系の人物がかなりいて、日本共産党が占領軍を「解放軍」とよび、次々と繰り出すGHQの施策を歓迎していた時代である。宮下氏らが苦労して捕えたゾルゲ事件の残党や日本共産党の幹部は終戦直後に釈放され、一方公職追放で政官財の有力者を中心に20万人以上が追放されて、特に教育機関やマスコミ、言論などの業界で、いわゆる『左派』勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長することとなり、今もその影響を少なからず引き摺っていると考えられる。この公職追放を推進した中心人物はハーバート・ノーマンだとされているが、この人物はソ連のスパイであったという説が今では有力である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-246.html

話を宮下弘氏の話題に戻そう。
宮下氏は終戦当時富山の特高課長だったが、職場を去っても退職金も恩給もなかったという。職を失って東京に戻ると家は空襲で全焼しており、本や資料を預けておいた親戚の家も焼けていた。しかたなく夫人の実家の静岡県磐田郡豊浜村で生活しようとしたが悲惨な生活だったようだ。

「豊浜村にも、戦時中から伝手をたよった疎開者がずいぶん入っていましてね。疎開者というのは嫌われるんですよ。百姓をしている家内の兄貴の家の納屋のような小屋を借りました。わたしも家内も子供たちも、みんな足を皮癬(ひぜん:疥癬)でやられていた。あれは栄養分をとらないと癒らないんです。顔は栄養失調で黄色くむくんでいる。…若干の貯金があったのでやっとくいつないだけれども、そのうち預金封鎖で、五百円生活です。
 百姓しようにも、農地改革だというので、よそ者に耕地を貸してくれるような者はいない。漁師は漁業組合で鑑札を出していて、やっぱりよそ者は締め出す。役場なんていったって、何人も働いているわけじゃない。小さな村には、はいりこみようがないんです。」(同上書p.261)

仕方なく家族を豊浜村に残して、単身で東京に戻って鉄道電気工事の仕事に就く。宮下氏は敗戦後も絶対にヤミ物資を買わないという主義だったので、その頃は栄養失調で、歯もぜんぶガタガタになって、痩せこけていたという

そして昭和24年(1949)の4月ごろに宮下氏のところに占領軍のある部署の者が訪ねてきた。どうやらゾルゲ事件について協力がほしいとのことだった。当時の上司であった中村課長も呼ばれていた。

宮下氏はこう述べたという。
わたしは特高警察官として長い間働いていたために、あなたがたの命令で罷免されて、以後、政治には絶対タッチしてはならぬことになっている。おたずねのことに答えるのは、これは政治にタッチすることになるとおもうのでお断りする。」(同上書p.231)
あまり意地を張らないで教えてほしいと頼まれて、何が知りたいのだと聞くと、どうやら彼らはゾルゲや尾崎とスメドレー(アメリカ人ジャーナリストで中国共産党軍に従軍して取材活動をした社会主義者)との関係について調べているようだったので、宮下氏は参考になりそうな人物を一人教えたという。

ウィロビー

以前このブログで書いたが、GHQの参謀第二部(G2)は日本の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収していて、その資料に興味を抱いたウィロビー部長がそのレポートをきっかけにゾルゲ諜報団とアメリカとの関係を調査し、ワシントンにレポートを送付した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-236.html
そのレポートの中でソ連のスパイであると書かれたスメドレー女史がこの内容に抗議し、マッカーサーを名誉棄損で告訴すると猛反発したのだが、宮下氏や中村課長ら特高メンバーの協力を得て、スメドレーの抗議は却下されたのだという。
その後、ウィロビーらの努力によりアメリカでもゾルゲ事件が知られるようになり、ゾルゲ・グループが極東におけるソ連の支配をその究極の目的にしていたことがようやく認識されるようになった。

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ソ連は終戦後19年間もゾルゲ諜報団の存在を否定していたのだが、スターリンを批判したフルシチョフが失脚した直後に、ソ連はゾルゲに対し最高の国家勲章を贈り、肖像入りの記念切手まで発行している。また、前回記したとおり、尾崎秀実にも宮城与徳にも勲章の授与が決定されている。
ソ連が勲章を与えた人物であるという事は、普通の日本人の立場からすれば自国をソ連に売ったことを意味するのだが、どういうわけかわが国で、ゾルゲや尾崎や宮城のことを「反戦平和の闘士」と書く人が少なからずおられるようだ。

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たとえば、東京都府中市の多磨霊園にはゾルゲの墓があり、そこには「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれていて、その横には尾崎や宮城ら同志の名前を記した碑があるという。
http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-sonota.htm#sorge

スパイ・ゾルゲ

また2003年にはゾルゲや尾崎を「反戦平和の英雄」として描いた映画「スパイ・ゾルゲ」(篠田正浩監督:東宝)が製作され全国で上映されている。

このように、わが国をソ連に売ろうとした人物を英雄扱いする日本人がいる一方、ソ連のスパイを苦労して摑まえて国を守ろうとがんばった人物が、戦後は犯罪者のように肩身の狭い思いをして生きなければならなかった現実があった。そこに戦後のわが国の病理がある。
世界の共産革命を夢見てわが国を中国との戦争に引き摺り込み、アメリカと戦わせてわが国を悲惨な敗戦に導いたゾルゲの仲間が、反戦平和の英雄だとか闘士だとどうして言えるのだろうか。

戦後68年が過ぎ、ソ連が崩壊してもそのような歴史観が続くのは、終戦直後のGHQによる公職追放のあとを埋めたのがどのような人々であったかということとおそらく関係があるのだろう。
教育界、言論界やマスコミや映画界などでは、渡部昇一氏の言う「敗戦利得者」の多くが、戦後取得した権益にしがみつき、時には外圧まで利用して、未だに国民を洗脳し続けているのではないのか。

わが国の教科書やマスコミなどで広められている近現代史は、つまるところ「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、その多くが「コミンテルンにとって都合の良い歴史」であると考えて良い。実際には、戦後GHQやわが国の「敗戦利得者」が隠し続けてきた「戦勝国やコミンテルンにとって都合の悪い史実」が数多く存在し、そのような史実を丹念に追っていかなければ、「本当は何があったかのか」が見えて来ないのだと思う。
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特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

前回まで3回にわたって、宮下弘氏の『特高の回想』の文章を引用しながら、ゾルゲ事件について書いてきた。

この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていた点にあるのではないか。
よくよく考えると、戦後のマスコミや教育界・出版界・学会を長らく支配してきた左翼系の人々が、天敵であった特高を悪しざまに言うのは当然のことだと思うのだ。

もちろん、特高出身者の宮下氏が語る言葉が、実際にあったことを控えめに述べている可能性は否定できないのだが、宮下氏は高等小学校後職工生活を経て20歳の時に警察練習所を経て巡査となり、26歳で巡査部長、29歳で警部補に昇進し特高に抜擢された苦労人である。また戦後の特高は解散されて公職追放で職を追われ、悲惨な生活の中で栄養失調で歯がガタガタになってやせこけたという宮下氏に、前の職場を美化する動機が強いとは考えにくいのだ。

宮下氏は、特高のいい面も悪い面もかなり正直に述べていると私は判断しているのだが、特高の取調べの際の暴力がどのようなものであったのか、宮下氏自身が語っている部分を紹介することから始めたい。

特高の回想

特高警察を特殊視して、そこで暴力・拷問といった固定観念がつくられてしまっている。しかし特高警察と一般の警察がまるでちがったものに考えられているのは誤解です。
 司法警察官として検事の命を受けることも、普通の刑事犯を扱う司法警察官と変わりありません。刑事訴訟法のたてまえからいうと、検事が捜査し、司法警察官がそれを補助するということですから、検事が中心です。じっさいに検事が捜査を指揮するわけではないのですが、法のたてまえはそういうことです。警視庁特高であるわたしたちの場合は、東京地検の思想部検事の補助をする。

 取調べのさいの暴力ですが、ぶんなぐるというようなことがなかったかというと、それはずいぶんあったかもしれない。それはいろんなものが重なり合って、警察にはそういう習慣があるんです。刑事部屋というのはずっとつづいていますから、それに体罰をくわえるというのは、当時は親でも学校の教師でも、かんたんにやった。わたしなんかも巡査時代、同僚に殴られたりしたことがある。軍隊経験者も多いし、挑発されるとつい手がでる。そういう意味では暴力は警察のなかでは日常化しているということはありました。…」(宮下弘特高の回想』p.123-124)

と、宮下氏は暴力行為があったことは否定しないが、当時は体罰を加えることは、親でも学校の教師でもよくあったことだし、宮下氏が特高に抜擢される前の警察勤務時代においてもある程度の暴力はあり、同僚から殴られたこともあると書いておられる。では特高は一般の警察と較べて、暴力を用いることが多かったのか、少なかったのか。

そりゃあ刑事の対象は罪のおそれで比較的おとなしく卑屈にもなるが、特高はこれを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた加わるのですよ。これは共産主義者が非合法運動をやっているのですから

 … わたしは特高になったとき、最初に先輩に訊いたことがある。いったい、こんなに乱暴に扱っていいのか、とね。そうしたら、なにを言ってるんだ、なんならむこうに訊いてみろ、と話にならない。共産主義の側からいえば、おれたちは革命をやるんだ、お前たちと戦争しているんだ、立場が逆になれば、おれたちがおまえたちを取締る、ということでしょう。まかりまちがえばあなたたちを殺しますよ、というわけです。あたりまえの話なんで、不法だなんだというようなことは言わぬのだ、と。そういうような状態のなかに、取調べる側も取調べられる側もあるので、いまの人たちが考えるように、そうおかしくはないんです。」(同上書 P.125)

なるほど、革命を夢見ている共産主義者からすれば、特高は憎むべき敵であり、特高の取調べは国家権力との戦いであり、その戦いに勝つことが正しいことなのである。したがって、逮捕されたところで罪の意識は殆んどないのだ。そういうメンバーを自白させるのには、一般の警察の場合よりもかなり大きなエネルギーを必要としたことは間違いがないだろう。
多くの日本人は、「特高」といえば「拷問」をしたと考えてしまうところなのだが、そのイメージはプロレタリア作家の作品などで拷問の場面が何度も描かれたことから作り上げられた側面もあると思われる。

宮下氏は、
知識人や作家が書くものには誇張もあるだろうし、自分を美化するところもあるだろうし、戦後自分は軍と協力した、というひとは一人もいなかったように、書かれるのは特高にひどい目にあわされたという話ばかりですから。」(同上書 P.126)
と述べて、実際には嘘話が平気で書かれている書物がある事を具体例を挙げて説明しておられるのだが、その点は省略する。

プロレタリア作家からすれば、国家権力に雄々しく立ち向かう主人公を描くためには、特高の取調べが余程厳しく描かなければ物語が成立しないだろうし、嘘をもっともらしく広めて国家権力を貶めることも権力闘争の一手段であると彼らが考えていた可能性もあると思う。

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とは言いながら、特高の取調べの最中に死亡した人物がいることもまた事実である。このことをどう解釈すれば良いのだろう。
『日本資本主義発達史』を著した野呂栄太郎が昭和9年2月に品川警察署から北品川病院に移送された後に死亡しているが、このケースでは、もともと肺結核で療養中のところを検挙され、取調べ中に持病が悪化したために死亡した可能性も考えておく必要がある。

蟹工船

しかし『蟹工船』を著した小林多喜二が昭和8年(1933)2月20日に特高での取調べ中に死亡した件については、写真も残されており拷問があった可能性を感じさせる。
この小林多喜二の件については宮下氏の言葉の歯切れは良くないのだ。
「拷問で殺したとはおもっていませんよ。殺したというんじゃない。死なせたわけですわね。むろんそれはまずいことですよ。死なせてしまったんですから。いいことをしたというようなことはぜんぜんない、まずいことです。大失敗です。しかし、部内で責任がどうこうということはなかった。誰が責任を取る、追及されるという事柄ではなかった。」(同上書 P.126)

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ところがプロレタリア作家の江口換は、赤坂福吉町で小林多喜二とともに捕らわれて、膀胱結核で保釈となった今村恒夫を病院に訪ねて、今村から多喜二のことを聞いたとして
「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」
とひどい拷問が行なわれたことを書いているという。これは取調べというよりもリンチというべきだが、本当に特高はここまでやったのだろうか。
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/669e9970e90e6d399fb57fdd8d50a4a7
次のURLに小林多喜二の遺体の写真があるが、両足が内出血で黒ずんでしまっており正視できるものではない。
http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-774d.html

しかしこのような拷問がもし日常的に行われていたとしたら、報復で特高警部が襲われたり、自宅が襲撃されるようなことがあってもおかしくないと思うのだが、そのようなことはなかったという。宮下氏はこう述べている。

「ありませんね。わたしはいまの暴力の問題もふくめて、そんなに憎まれるような調べをやったことがありませんから。まえにも言ったが、いま住んでいるわたしの家は戦後建てたんですが、あれはわたしが取調べた共青*の中央組織部長がつくってくれたんですよ。加藤工務店という工務店をやっていましてね。」(同上書 p.127)
(*共青:日本共産青年同盟の略。現在の日本民主青年同盟の前身。)

特高には宮下氏のように、後に取り調べを受けた者から感謝された人物もいたのである。取調べられる方も、自白するかどうかは相手の人柄と力量に左右される部分が大きいのだと思う。

とは言いながら、昭和3年から4年の頃には「取調べる方がなんにもわからないんだから、ひっぱたくしかしょうがない。特高にひっぱられたら拷問というのは、そのころの話がいつまでも伝わっているんじゃないかな。もっとも、その後でも、そういうやり方の人間がいたことは否定しませんが。」(同上書 p.128)とも述べている。

さらに、宮下氏は取調べには拷問は必要ないとはっきり述べている。

とにかく調べというのは、意志と意志の戦いですよ。調べるほうの意志が相手を打ち負かすか、相手の方が優位に立つかで、相手が優位に立てば取調べなんかにならないでしょう。だからぶんなぐるというのも、相手の意志を挫き、弱くする方法であるが、調べる側がじゅうぶんな知識をもってのぞめば、拷問というような手段は必要ないんです

取調べる側からいえば、取調主任の能力が問題ですね。調べられる側の話しやすい人間というか、話してくることをピンと受けるとる感度を持っている人間というか、ですね。それからツボを衝かなければ訊きだすものも訊き出せない。自分でもスリができるくらいでないと有能なスリ係の刑事にはなれないと警察ではよく言いましたよ。バクチの調べでもそうです、自分がぜんぜんバクチできなくては取調べはできない。
 われわれでいえば、革命運動をやろうとする心理、それが逮捕されたときの心理、そういうものを知っていて、それから言葉づかいでも彼らと同じ用語を使う。仲間としゃべっているような気分にさせてしまうくらいにね。(笑)
 留置場に長いあいだ放り込まれていると、しゃべりたくなるのが人情なので、そのあたりをみはからって取調べに呼び出し、ツボをはずさなければ、たいていはしゃべります。それでもしゃべらないというのは、まず、いません。」(同上書p.128-129)

教育は教師と生徒との魂のぶつかり合いだという話を聞いたことがあるが、特高の取調べも同様であろう。相手から自白を引き出す仕事はリンチのような拷問行為は必要がないという宮下氏の話にはかなり説得力がある。

小林多喜二が死んだ年である昭和8年(1933)の12月23日に、当時の日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の二人が、渋谷区内のアジトで仲間に針金等で手足を縛られ、目隠しとさるぐつわをされて暴行されために、小畑が24日に外傷性ショックにより死亡した「日本共産党スパイ査問事件」という事件があった。
二人に暴行を加えた人物の供述によると「最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた」というもので、小林多喜二の場合の場合よりさらに残酷なやり方で小畑は命を奪われていることになる。二人が仲間から暴行された理由は、特高のスパイ行為を働いたというものであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_ref-4

宮本顕治

このリンチを行なった中心人物は、後に日本共産党委員長となった宮本顕治である。 宮本はこのリンチ事件の2日後で捕えられたが、なぜ宮本の場合は小林多喜二のようにならなくて済んだのか。
そもそも地下活動に入っていた小林多喜二が、仲間と待ち合わせしていた場所になぜ特高警察が待ち伏せしていたのか。いったい誰が多喜二の待ち合わせ場所を特高に洩らしたのか。特高が多喜二を拷問にかけて死に追いやったのがプロレタリア作家・江口換の記述の通りなら、仲間や家族が国を相手に訴えなかったのはなぜなのか。

私には、この事件にはもっとドロドロとした背景があるような気がしてならない。
ネットでは宮本顕治が怪しいと考えている人もいるようだが、なかなか興味のある視点である。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/hosoku_mifuneco.htm

今まで小林多喜二が特高による拷問で死んだ話は何度も聞かされてきたのだが、その前に日本共産党員が昭和5年「川崎武装メーデー事件」で拳銃を発砲し警官やメーデー実行委員を負傷させた事件があった。昭和7年にはスパイ容疑で仲間を射殺する事件があり、10月には拳銃と実弾購入資金を得るために銀行を強盗した「赤色ギャング事件」が起こっている。
そして昭和8年2月に小林多喜二事件があり、12月に「日本共産党スパイ査問事件」があった。

このような事件が当時の日本共産党で相次いだことを知ったのは比較的最近のことなのだが、このような一連の事件を伝えずに小林多喜二の特高の拷問で死んだことばかりが強調されるのが公平な歴史叙述の姿勢であるとは思えないのだ。

我々は、教科書や新聞などを読み、テレビや映画などを見ているうちに、いつの間にか「共産主義者やコミンテルンにとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。
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特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党

前回記事の最後に、昭和8年(1933)の12月に日本共産党の宮本顕治・袴田里見らが仲間をリンチにかけて殺害した「日本共産党スパイ査問事件」のことを書いた。この事件で日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の2名がリンチに遭い、翌日に小畑が死亡したのだが、この二人が仲間から暴行を受けた理由は「特高のスパイ行為を働いた」というものであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-283.html

特高の回想』を著した宮下弘氏はこの事件の担当ではなかったが、当時の日本共産党では仲間をリンチにかける事件が結構多かったようだ。宮下氏はこんな事件のことを述べておられる。

「わたしが直接調べたリンチ事件は、小畑達夫のもとで党中央財政部員だった全協*出身の大沢武男がリンチされた事件です。
昭和8年(1933)暮の宮本・袴田たちによるリンチ査問のあと、翌年1月から2月にかけて、大沢はひどい目にあわされています。査問されても、頑強にスパイであることを否認するので、査問する側は党中央にお伺いをたてたら、スパイであるという印をつけて釈放しろ、と。それで、大沢の額に焼きごてをあて、硫酸を流し込んで、スパイの烙印をつけて釈放したんです。
 同じころ査問された江東地区委員だった波多然のばあいも、やっぱり同じようにして烙印をつけられている
。この大沢や波多然にたいするリンチを木島(日本共産党委員、江東地区責任者)らがやっています。
 大沢がスパイ容疑で査問されているらしいという情報があって、内偵しているうちに、大沢のハウスキーパーをしていた女性の実家で女中をしていた女の口から、大沢の居場所を訊いた。そこは引っ越して空き家だったが、運送屋を調べたりして隠れ家を突きとめたら、真夏だというのに昼でも雨戸を閉めきりにしている。額に烙印をおされて、戸外に出られないで、部屋の中に閉じこもって、新聞の碁の欄を見ては一日じゅう碁盤に石を並べていた。それを逮捕したのです。」(『特高の回想』p.130-131)
*全協:日本労働組合全国協議会の略。昭和3年に左翼が再結集し発足。日本共産党の指導下にあった。

s8.11.20全協1700検挙

「日本共産党スパイ査問事件」でリンチに遭い、生き延びた大泉兼蔵は六本木の隠れ家に監禁されていた。大泉を援けたのも警官だった。宮下氏はこう述べている。

あれは六本木署の巡査が通りかかったら、家の中でわめいているのが聞こえて、入ったら大泉が転がり出て来たんです。ピストルをもった木俣鈴子を突きとばすようにしてね
 大泉がどこかに監禁されていることはわかっていたけれども、どこかはわからない。どうもおかしい、どこかでやられているとはわかっていた。」(同上書 p.131)

ではなぜ日本共産党はこの時期にメンバー内でリンチ事件を繰り返していたのだろうか。
宮下氏の解説によると、昭和7年(1932)の10月に武装闘争のための拳銃と銃弾購入資金を
得るために起こした「赤色ギャング事件」以降大衆の支持を失い離反者が増え、さらに闘争の情報などが漏れて幹部が疑心暗鬼となり、犯人探しに躍起になったようだ。
この頃の日本共産党の状況を宮下氏はこう述べている。

S9.5.23赤色ギャング

「…銀行ギャング事件以後は、大量転向、スパイ除名処分といった、もうほとんど壊滅に近い状態のなかで、ひとにぎりの共産党と警察だけが対抗していました。共産党はいったいどこを向いて、何をやっているのだろう、という気がしたことは事実です。
 とにかくわれわれの側の対策が効果をあげていくにしたがって、共産党のほうでは、おかしいぞ、おかしいぞというので、スパイ容疑で組織から活動家をどんどん処分してゆく。で、ほとんどなんにも動けない状態になっていったわけで、その果てがリンチ事件ですね

 スパイ容疑で除名される者のほとんどがスパイでもなんでもない。当時の『赤旗』に発表されたスパイの氏名や部署などを今日の冷静な目でみれば、いかになんでもそんなにスパイがいるはずないと、誰しも思うでしょうが、当時の党の疑心暗鬼は狂気じみていました。」(同上書 p.133)

Wikipediaに、小畑・大泉の両名がリンチを受けた翌日(昭和8年12月24日)に『赤旗』に掲載された、日本共産党が出した党声明が紹介されている。
中央委員小畑達夫、大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6
「極刑をもって断罪する」の意味するところは、リンチによる死刑ということのようだ。

また、生き残った大泉が監禁されているところを警察により救出された翌々日の昭和9年1月17日の『赤旗』には、「鉄拳で奴等を戦慄せしめよ」という表題の記事が掲載され、「日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。」という内容であったという。

ところが殺された小畑の方は、特高のスパイではなかったのだ。宮下氏はこう述べている。(Sは、スパイのこと)

「リンチ事件があったあと、わたしは労働係の訊ねたのですが、小畑はぜんぜんSなんかじゃないと言っていました。リンチ共産党事件当時では、わたしももうベテランの部類にはいっていたし、労働係が嘘を言うことはない。それに本人が殺されているのですから、事実を隠す必要もないわけです。
 とにかく、労働係が小畑を当方の協力者として利用していた形跡はぜんぜんなく、わたしたちも彼をSにしたことはない。
 スパイでもないのにスパイとして除名された共産党員や共青同盟員はいっぱいいるわけですが、小畑などは、スパイの濡れ衣を着せられたまま殺されて放置されているんだから、可哀そうです
よ。

小畑に対するスパイという断定の根拠は、小畑が昭和6年(1931)年の夏、万世橋警察署に検挙されたさい、党員なのに40日の拘留で帰された、ということだけのようなんですね。これはまったく滑稽な話で、昭和5年以後の特高は、党員でも党役員でも、転向を誓えば、どしどし起訴留保の意見を付して検事局へ書類送致し、警察限りで釈放しているんですよ。…
昭和7年の夏から秋にかけて、村上多喜雄が尹基協をスパイとして射殺したり、城南地区委員の平安名常孝がスパイ容疑で刺されたりしています。この尹基協も平安名も無実だったのを、共産党自身否定できないんじゃないでしょうか。そのほかにも表面に出なかったリンチ事件はかなりあったんじゃないかとおもいます
。」(同上書 p.134-135)

S10.3.袴田逮捕5

このように、当時の日本共産党は無実の党員を何人もリンチにかけ、死亡者も出していたのであるが、日本共産党幹部をここまで疑心暗鬼にさせたのは、特高が日本共産党にスパイを送り込んだことによるのだ。
では、特高はいかにして日本共産党にスパイを送り込んだのか。宮下氏はこう書いている。

わたしたちはS(スパイの頭文字)といっていたが、Sを養成して組織に送り込むという事はしていない。しかし活動していて一定の部署をもった者が没落する、あるいは転向する、それから検挙されて考えが変わった、というようなのが、Sになるんですね

だいたい共産党や共産青年同盟が、前衛党としてガッチリした共産主義者ばかりを組織していれば、スパイというような問題は起こらない。すくなくともひじょうにすくないでしょう。ところが、党員や同盟員は、学生あるいは学生あがりのインテリが大部分だ、と。それで労働者をなるべく獲得したい、それを主要な部署に配置するようにせねばならない、という要請がつよい。で、労働者党員あるいは労働者は、労働者だからというので、ルーズに加入させてしまうというような傾向があったのでしょう

そんなふうにして入ったもののなかには、共産主義運動を命がけでやるという心構えのない者もある。だから検挙されて取調べを受けると、誰彼に誘われてイヤと断れずに入っちゃった、ほんとうはやる気なんぞないんだ、などという。それくらいひどいのも、なかにはいるわけです。それから運動に入っていって失業してしまって、ずるずると、いった格好の者もいる。」(『特高の回想』p.108-109)

インテリは、スターリンは絶対正しくコミンテルンは無謬であるとの考えが固く特高のSには不向きで、Sになったのは主に労働者であったという。そして情報入手の際には金銭がからむことが多かったようだ。平均的には交通費の名目で10円から20円だったようだが、非合法の共産党員として活動している連中には生活をみてやらねばならず、月に100円以上渡していたという。
また、特高は情報を誰から入手したかが相手に分からないように重々配慮し、相手がSをやめてからも一切名前を明かすようなことをしなかったそうだ。
そのため、共産党側では、情報が漏れていることは分かってもどこから漏れているかがわからない。そこで、多くの党員をスパイ、挑発者として除名していくのだが、特高からすれば、スパイでも何でもない人間が処分されていたという。
宮下氏はこういう事例を述べている。

「『赤旗』でも、配布ルートのどこかで入手できたし、のちには印刷直後に入手できるようになりました。
 だから、印刷局の大串雅美が西沢隆二らにリンチされたりした
。あれは宮本や袴田の事件*のちょっと前じゃありませんか。大串が監禁されていた赤坂の印刷所から這い出して、警察に自首してきてわかったのですが。しかし大串はスパイじゃありませんよ。われわれが簡単に『赤旗』を入手するし、つぎつぎに印刷所を手入れするしで、彼らがスパイ摘発をあせった、ということです。」(同上書 p.116)
*日本共産党スパイ査問事件のこと

このように当時の日本共産党はかなり多くのメンバーをリンチにかけているのである。そして、前回話題にした小林多喜二の事件もこのような時期に起こっているのだ。

S8.3.16小橋多喜二追悼会



日本共産党幹部からすれば、スパイ分子を組織から排除することが重要であることはもちろんだが、新たな特高のスパイが生まれないようにしなければならないことは言うまでもない。
そのためには、特高がとんでもなく怖ろしい場所であるとメンバーを洗脳することが不可欠であったはずだ。
そのことは、メンバーに特高を怖れていない場合のことを考えればわかる。特高が怖くないと認識されていたら、幹部からリンチを受けそうな気配を感じた場合に、実家などに逃げるよりも特高に逃げることが一番安全となってしまうだろう。それではこれから革命を起こそうとする組織の秘密が守りえない。
だから日本共産党幹部は特高の怖ろしい拷問シーンをプロレタリア作家に書かせたのだと思う。

宮下氏によると、プロレタリア作家らが書いた特高の拷問に関する記述には、特高に実在しない人物が出てきたり、宮下氏が担当していない人物の取調べで宮下氏の名前が出てきたり、特高では存在しなかった電気椅子が登場したりしているのだそうだ。
要するに、特高でとんでもない拷問が行なわれたというプロレタリア作家の記述の多くはフィクションであり、これらの文章がそのまま真実の記録であるかのように考えてこの時代を理解しようとする姿勢は誤りなのだと思う。
実際にひどいリンチを行なっていたのは日本共産党の幹部の方ではなかったか

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軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織

すこし前にゾルゲ事件で主謀者が検挙されたことをこのブログで2回に分けて書いたが、その話に戻そう。ゾルゲや尾崎が捕まったといっても、ソ連の工作ルートは世界に拡がっていて、その一部が解明されたに過ぎなった。
宮下氏は中国共産党につながる諜報ルートが恐らく別にあって、それを解明する必要があると考えていたようだ。
しばらく宮下氏の文章を引用する。

「尾崎秀実の取調べで、周辺の一人ひとりについてくわしい説明を求め、諜報活動との関係を訊問したときに、尾崎自身の口から水野のことが、尾崎第一の側近として出ました。そこで水野に関する中国在住の東亜同文書院出身者のことなどを追及したら、いや、それは水野からいろいろな人間の名前や動きはでるだろう、が、中国関係の線と自分のほうとは関係がないんだ、と。
 水野は中国になら多少は関係があるかもしれないが、ゾルゲや自分たちの諜報活動にはタッチしていないんだと予防線を張って、小さく言って済ませようとしたため、かえって中共の線に関係のあるのを匂わせたようなことになったのですね

中国共産党につながって日本の情報をむこうに手渡している諜報組織があるにちがいない、とおもっていたわけですが、しかし、じっさいに特高一課としてそれの究明にとりくむことはできなかった。それが、ゾルゲや尾崎のスパイ活動を摘発して、やはりこれは尾崎周辺の疑わしい人物を検挙してこの線を徹底的に洗い出さねばならない、とわかったので、ゾルゲ事件と併行して、またそれを一段落させた後、この中共の線の追及に全力を挙げました。」(『特高の回想』p.234-235)

東亜同文書院

東亜同文書院」というのは、明治34年(1901)に東亜同文会(近衛篤麿会長)によって上海に設立された日本人のための私立の高等教育機関のことである。設立者近衛篤麿の長男が、のちに尾崎秀実をブレーンとし総理大臣となった近衛文麿である。
また「水野」という人物の名は「水野茂」で、彼が「東亜同文書院」の学生時代、共産主義活動に奔走していた時期に朝日新聞の上海特派員であった尾崎秀実の目にとまり、水野が帰日後はゾルゲ事件が発覚するまでの約10年間、尾崎秀実が就職の面倒を見ていた人物である。

水野茂の自供から、連絡を取っていた人物として西里竜夫、中西功、安斉庫治が浮上し、3名を逮捕すると、中国共産党の上級とのつながりもわかっていったという。
しばらく宮下氏の文章を引用する。

西里は軍嘱託、同盟通信社出向社員のかたちで国民政府宣伝部直属の中央訊社に入っていて、同時に、中共党員として李徳生や汪錦元らの党細胞にも入っている。汪錦元は母親が日本人で、日本名を大橋とかいいましたが、南京政府の汪兆銘政府の動静など、ぜんぶ西里たちはつかんでいた
 西里はこのほかにも、陳という中共党員を中央電訊社の記者として採用させたりしている。人材を採用するんだといって懸賞論文の企画をたて、それに同志を応募させてお手盛りで当選させる。そういうことができたのも、傀儡政権にのりこんだ軍の嘱託という身分の背景があったからでしょう。
 …
 中西功は満鉄調査部の『支那交戦力調査』で軍から信頼されていた。
 とにかく、彼らと中国共産党のつきあいは長いわけです
。西里の場合は東亜同文書院当時から社研などをやっており、卒業して上海日報の記者になったころに、尾崎と知り合っている。
 安斉庫治も、東亜同文書院出身で、逮捕したのですが、安斉は中西らのグループを離れて、蒙古でなにか特殊任務を受けてそれに従事していたようでした。安斉の実兄が軍の要職にいて、こっちで大事に使っているんだからあれは釈放してやってくれという要請があって、釈放しました。釈然としない気持ちでしたが、軍と衝突してもつまりせんから。…」(同上書 p.236-237)

このブログでいろいろ書いてきたので繰り返さないが、軍の幹部にも共産主義者が少なからずいた。軍部の圧力に屈したために、それ以上の真相の究明が出来なくなってしまったのだが、中国諜報団は大変な規模のものであったはずであり、早い時期にこの諜報団の全貌が解明され検挙に至っていたならば、わが国だけでなく中国の歴史も大きく変わっていたかもしれないのだ。
宮下氏はこう述べている。

それはもう、相当な事件だったとおもいます。南京の汪兆銘政権の内部に日本人の参加した中国共産党の組織がもぐりこんでいるのですから。南京政府を強化して中国の統一と日支和平を図ろうとした対支政策の根本が、延安の共産党に筒抜けになってしまっている
 重慶の蒋介石は、一方で日本と戦争をしながら、片方では中共をつぶしたいと考えているのだから、南京政府を漢奸だ、傀儡だといいながら、なんらか反共連絡線はあったでしょう。つまり、日支間の和平工作のパイプは複雑に絡み合っていたとおもうのです。それをぜんぶ失敗させて、抗日戦争を徹底的に続けるという、延安の毛沢東の方針を、李徳生や陳一峯、西里らは実行していたわけですからね。しかもそれを、現に戦争している軍の内部にいて、軍の嘱託として信頼を得ながら、中国政策や軍の占領行政を妨害して、日本人が中共のために活動していた。昭和12年(1937)以来、日本の兵隊は何万と死んでいるのですから、これは重大なことですよ。」(同上書 p.239-240)

わが国の教科書では、この頃の中国史が特にわかりにくい。
例えば『もう一度読む山川の日本史』では

「1937(昭和12)年12月、日本軍は中国の首都南京を占領した。このとき日本軍は、非戦闘員をふくむ多数の中国人を殺傷して国際的に非難をうけた(南京事件)。このころ、ドイツを仲介に日中間の和平交渉がすすめられていたが、日本側が過大な要求を示したため、交渉はなかなかまとまらず、1938(昭和13)年1月、第1次近衛文麿内閣は、参謀本部が反対したにもかかわらず、今後は『国民政府を対手とせず』という声明(近衛声明)をだし、みずからの和平の機会を断ち切ってしまった。
 近衛内閣は、戦争の目的が日本・中国・満州国の協力による”東亜新秩序”の建設にあることを声明し、国民政府の有力指導者の一人汪兆銘(精衛)を重慶から脱出させて、1940(昭和15)年には南京に新政府をつくらせた。しかし重慶を首都にした国民政府は共産党と協力して、アメリカ・イギリス・ソ連などの援助でねばり強く抗戦をつづけ、日本はいつはてるともしれない長期戦の泥沼にふみこんでいった。」(『もういちど読む山川日本史』p.302)
と書かれている。

教科書は、「南京大虐殺事件」という事件があったことを前提にし、諸悪の根源は日本に在るように描きたいのであろうが、背後で共産主義勢力がどういう目的でどのような動きをしていたかを一言も触れずに「共産主義者にとって都合の良い歴史」を書こうとするから理解しづらいのだと思う。

教科書の叙述は「近衛内閣」を主語とし「汪兆銘を…重慶から脱出させ」、「南京に新政府をつくらせた」と、いかにも日本側が押し付けたような書き方になっているが、汪兆銘は1939年7月10日に上海で発表した声明で、彼は盧溝橋事件発生以来「全く日支戦争を阻止する方法がなかつたが、一刻といへども事態の転換を思はざるはなく、一刻といへども共産党の陰謀を抑制し、これを暴露せんと思はざるはなかつた」と述べたという。

汪兆銘

要するに汪兆銘は、日中戦争が長引いて国民政府軍の戦力が消耗していけば、たとえ勝利したとしても、共産主義勢力が勢力を伸ばすことになることを憂慮していた。
彼が重慶を脱して日本と手を握ろうとしたのは彼の意志であった
のだが、その後の中国の歴史は汪兆銘の憂慮したとおりとなり、中国は共産国家となるのである。

宮下氏はさらに、「中国共産党が日本人を組織して諜報団をつくっているにちがいないということは、昭和10年(1935年)の8.1抗日宣言のときから確信していた」(同上書p.240)と述べているのだが、ここで昭和10年以降の出来事をWikipedia等の記事を参考にまとめておきたい。<
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98

8.1抗日宣言」とは、1935(昭和10)年8月1日にモスクワで発表されたもので、中国共産党と中華ソビエト共和国中央政府が共同で日本の中国進出に対抗するよう要求した宣言である。

汪氏狙撃事件

そしてこの宣言が出た3カ月後の11月1日に中華民国首都南京で開かれた国民党六中全会の開会式の記念撮影の時に、汪兆銘が狙撃される事件が起きた。汪は一命を取り留めたが、その後も知日派や日本人を狙ったテロが続発し、12月12日には蒋介石が拉致監禁される西安事件が起きて、その事件以降蒋介石は抗日路線を採るようになった。
1937(昭和12)年7月に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まる
。その後も汪兆銘は日本との戦いはすべきではないとの考えであった。
徹底抗戦を主張する蒋介石と袂を分かち、1938(昭和13)年12月に汪兆銘はフランス領インドシナのハノイに拠点を写したのだが、翌1939年3月には汪の腹心であった曾仲鳴が射殺されている
ハノイでの狙撃事件をきっかけに、汪兆銘は「日本占領地域内での新政府樹立」を決意し、5月に日本を訪問して新政府樹立の内諾を取り付け、10月から日本との間に締結する条約の交渉が開始されたのだが、日本から提案されたものは、なぜか従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、交渉の一員であった今井武夫氏は「帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物」「日華協議記録に違背し、近衛第三次声明*の精神を逸脱するもの」であったと述懐しているという。(『支那事変の回想』)

汪兆銘南京国民政府時代

最終的には日本側が若干の譲歩を行なって、1940(昭和15)年3月30日に南京国民政府が誕生したのだが、なぜわが国は、自らの政治生命を懸けて重慶を脱出した汪兆銘に対し、従来の交渉経緯からすれば背信的とも受け取られて仕方がないような協定案しか出せなかったのだろうか。
*近衛第三次声明: 近衛は昭和13年(1938)12月22日に対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示したが、この声明の2週間後に内閣総辞職となり、対中交渉は平沼内閣に受け継がれた。

汪兆銘とわが国の交渉に関する情報も中国共産党にかなり漏れていたことは間違いがない。
ゾルゲ諜報団が逮捕され、次いで特高は中国ルートの解明に進もうとしたのだが、今回の記事の冒頭で記したように軍部の圧力があり、特高の取調べが東亜同文書院のグループの摘発だけで終わってしまったことは非常に残念な事であった。

特高の回想』の著者である宮下弘氏は、特高在籍中に左翼だけでなく右翼についても担当されたことがあった。最後に、当時の右翼について宮下氏が面白いことを述べておられる部分を紹介したい。

多くの右翼団体の資金源は、軍や艦長の機密費であったり、テロをおそれる財界からの寄付金であったりして、かなり潤沢なようだった。それをまたたくさんの予算をつけて監視していたので、おかしな話ですよ
 けっきょく、右翼で一番問題なのは、テロのおそれあり、これだけです。5.15事件、血盟団事件、2.26事件と、個人的であれ、集団的であれ、政府要人や財界の代表的人物が狙われ、殺された。上層部はそれをいちばん恐怖した。だから、特高二課(右翼担当)の組織も人員も拡充されたわけです。」(同上書 p.157)

左翼と右翼をくらべれば、わたしは絶対に、とくに共産党の連中が好きだった。純真でね。理屈いいあっても張りあいがありましたよ。わたしは自分自身が労働者あがりだから、労働者の心情にはとうぜん共感するところがあったし、学生やインテリが労働者や下層階級の窮乏を救いたいとする人道的なものの考え方をありがたいとおもったから、人間的に彼らを好ましくおもうことが多かったのです。

 それにくらべれば、国家主義の運動家などといっても、多くはガラがわるい。カネばかりせびってね。右翼は大嫌いです。」(同上書 p.158)

宮下氏は右翼担当であった時に、2.26事件の黒幕と疑われた皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れている。この時真崎が宮下氏に語ったという言葉は特に印象深いものがある。

真崎甚三郎

君、世間は知らないんだが、2.26事件の青年将校たちをふくめて、みんなアカなんだよ。統制派も皇道派もそんなものはありゃしないんだよ。アカがなにもかも仕組んでいろんなことをやっているんで、軍もアカに攪乱されているんだよ。」

近衛文麿

そういえば近衛文麿が昭和20年2月に昭和天皇に宛てた『近衛上奏文』の中で、
是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」
と述べたが、真崎甚三郎が言っていることもほぼ同じことである。

治安維持法の存在と特高の活躍でこの時期に日本共産党はほとんど壊滅的な状況になったのだが、共産主義的信条を持つメンバーがこれでいなくなったわけではなかったし、革命により新しい社会をつくるという彼等の夢が捨て去られたわけではなかったのだ。
宮下氏の著書には「昭和5年以後の特高は、党員でも党役員でも、転向を誓えば、どしどし起訴留保の意見を付して検事局へ書類送致し、警察限りで釈放」(同上書p.135)したことが書かれているが、これが事実ならば、左翼に対して特高の対応が苛酷であったというよりも、むしろ甘かったというべきではないだろうか。
当時高級官僚や軍人には「転向者」や「隠れ左翼」が少なからずいたという。だからこそ、尾崎秀実のような共産主義者が権力の中枢に近づくことができ、機密情報を入手することが可能であったのだろう。
ゾルゲは、日本には「最早盗むべき機密はない」と豪語したというが、治安維持法が存在し、特高が頑張っていた戦前においても、わが国の機密情報が相当盗まれていたことを知るべきである。

情報漏えいに関する厳しい法律が存在しても、またその法律に基づいて怪しい人物を検挙して厳しい取調べが出来たとしても、自国以外の国やグループに忠誠心を持つ人間が中枢部に何人かいるようでは、国家の重要機密が守れないことはゾルゲ事件を学べばわかる
まして、いまだに機密情報に関する法律すら整備されず、アメリカや中国や韓国に擦り寄るような政治家や官僚や言論人が少なからずいるわが国の現状では、国家機密がいくら洩れていてもおかしくないはずだ。
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昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える

前回の記事で、わが国の終戦工作を担当した陸軍大佐がひどくソ連寄りであったことを書いたのだが、ではなぜ、わが国の軍隊の中枢部に共産主義思想の持ち主が入り込むことを水際で阻止できなかったのかと誰でも思う。

真崎甚三郎

以前このブログで、尾崎秀実を取り調べた特高の宮下弘氏の著書『特高の回想』を紹介したことがある。その宮下氏が右翼担当であった時に、皇道派の大物・真崎甚三郎を訪れたことがあり、その時に真崎が宮下氏に語ったという言葉が印象深い。

「君、世間は知らないんだが、2.26事件の青年将校たちをふくめて、みんなアカなんだよ。統制派も皇道派もそんなものはありゃしないんだよ。アカがなにもかも仕組んでいろんなことをやっているんで、軍もアカに攪乱されているんだよ。」(『特高の回想』p.153)

軍を攪乱していたのは左翼であったと真崎は述べているのだが、よく似たことを書いている当時の記録は少なくないのだ。

例えば近衛文麿は、昭和20年2月に昭和天皇に宛てた『近衛上奏文』の中で、
是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。」
という下りがある。

近衛文麿

近衛はこの上奏文で、軍部で革新論を唱えたメンバーが一部の官僚、民間人と組んで、意識的に共産革命に引きずり込もうとしていることを述べたのち、軍部からこの一味を一掃することの必要性を強調しているのだが、この重要な文書の内容を解説している本は極めて少なく、言及しても読者に原文を紹介もせずに一方的に近衛をこき下ろす文章がほとんどである。
今では『近衛上奏文』はWikipediaに全文が出ており、ネットで誰でも読むことが出来るのだが、解説もよく調べて書かれているので、先入観なしに是非一度は読んで頂きたいと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

次に、軍隊に共産主義思想が水面下で浸透していった経緯について記すこととしたい。
以前このブログで、大正末期から昭和10年代にかけてマルクス、エンゲルス、レーニンの著作がわが国でバカ売れして、相次いで全集が出版されたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄は、昭和初期の思想状況について『昭和の精神史』にこう記している。

竹山道雄

インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』というふうだった。指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。しかしインテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されてしまった。
あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映し、その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した
。すでに北一輝などの経典があって、国体に関する特別な観念を作り上げていて、国体と社会改造とは背馳するものではなかった。しかし、北一輝だけでは、うたがいもなく純真で忠誠な軍人をして、上官を批判し軍律を紊(みだ)り世論に迷い政治に関与させることは、できなかったに違いない。…いかに背後に陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が『青年将校』となることはありえなかった。これを激発させたのは社会の機運だった。このことは、前の檄文*の内容が雄弁に語っている

青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、自分は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリの動機とほぼ同じだった。ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし、彼らが肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』のそれではなかった。」(講談社学術文庫『昭和の精神史』p45-47)
*五・一五事件の檄文

竹山氏が知るある青年将校に訊ねたところ、彼らが考える『天皇制』の『天皇』のポストに就くべき人物は、昭和天皇ではなく、スターリンのような人物であったのだそうだが、当時の日本軍には共産主義思想がそれほどまでに浸透していたのである。

<五・一五事件

以下の文章は昭和7年(1932)に起きた五・一五事件の檄文の一部だが、これを読めばこの事件の首謀者は共産主義思想の影響を受けていたことが明らかである。

「 … 国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ!
 
 祖国日本を守れ
  而して
  陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用し 朗らかな維新日本を建設せよ
  民衆よ!
 此の建設を念願しつつ先づ破壊だ!
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 威大なる建設の前には徹底的な破壊を要す…」
この檄文の全文は次のURLに掲載されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/39349617.html

次に、当時の新聞ではこのような左傾化の風潮をどう書かれているのか紹介したい。
『神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』という新聞記事のデータベースがあり、経済記事やその解説記事が中心にストックされていて誰でもネットで利用することが出来る。その「新聞記事文庫 簡易検索」を用いて「軍隊」「赤化」などのキーワードを入れて検索を実施すると、多数の記事がヒットする。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

その中から、当時のわが国の軍隊に共産主義が蔓延していたことを匂わせる記事を探していると結構面白い記事を見つけることが出来る。

共産党の一味が重要なる某連隊に

たとえば、昭和3年(1928)4月14日の神戸又新日報の記事には、
重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽」したと書かれている。
ちなみに「今回の共産党事件」というのは「3.15事件」のことで、この日に約1600人の共産主義者が全国で検挙されているのだが、この中に4月に入隊したばかりの現役兵がいたということである。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070587&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

露国 軍人煽動の檄文

また同じ年の9月25日の中外商業新報の連載記事『赤化運動の経緯』の2回目に、ソ連の5月24日付の『プラウダ』紙上で第三インターナショナル(コミンテルン)がわが国の軍人に対して「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」と檄文を飛ばしたことが記されている。陸海軍によほど共産主義者がいなければ、こんな記事が、ソ連政府の半官報である『プラウダ』紙上に出るはずがない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070971&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

露国共産党巧みに我が軍隊に赤化宣伝

また同じ年の10月19日の国民新聞の記事だが、ソ連の共産党が6月以降、巧みに我軍隊に対して共産主義の組織的宣伝を開始したことが記されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=HTML_FILE&POS=1

そしてその翌年の昭和4年(1929)4月16日に共産党員の全国的な検挙が行なわれ(「4.16事件」)、この年には4942名が検挙されている。

士官学校に赤化分子

また昭和7年(1932)2月11日の東京朝日新聞では、陸軍幹部養成の総本山である陸軍士官学校で赤化運動が起こり、連日所持品検査がなされて4名が放校処分された記事が出ている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070975&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

そしてこの年の11月の熱海事件で、党幹部が一網打尽にされ、獄中で指導部の佐野学・鍋山貞親が共同で転向声明を出し、「ソ連の指導を受けて共産主義・社会主義運動を行なうのではなく、今後は天皇を尊重した共産主義・社会主義運動を行なう」と宣言した。
そのために多くの党員が転向し、日本共産党は壊滅状態となったのだが、だからといって共産主義者が一掃されたわけではなかったのである。

三田村武夫氏はこう解説している。
「…昭和6年頃から一度検挙された共産党関係者で、所謂(いわゆる)、その思想の転向者と見られる人物については、司法省に於いても、あるいは警視庁の特高部に於いても熱心に就職の斡旋をしたものである。そして、それらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職していた筈である。更にまた、軍部にも同様にその調査事務には相当数の転向者が入っていた。そこで問題となるのは、この転向者の思想傾向であるが、司法省、内務省で転向者としてあつかったその所謂(いわゆる)『転向』の判定は天皇制の問題に重点がおかれており、天皇制否定の主張を訂正した者は転向者とみたのである。従って転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、また彼らは、所謂秀才型が多く、進歩的分子をもって自任し、これらの人々が戦時国策の名に於いてなした役割は軽視すべからざるものがある。」(『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.136)

赤の転向者へ同情

当時の新聞記事を探すと、三田村氏の書いている通り、特高の職員が思想犯の就職あっせんをしていた記事がいくつか見つかる。

もちろん本物の転向者もいた事だろうが、口先では天皇制を肯定しても「頭の中はマルクス主義者」の転向者がかなり軍隊に入隊したと考えるのが自然だ。
それにしても、なぜこんなにひどくなるまで放置したのであろうかと誰でも思う。

三田村氏はこう解説している。
「…その第一は、思想犯事件の内容を総て秘密にしてきたことである。…三月事件、十月事件を始め、共産党関係の事件にしても政府、軍部または官憲の立場から発表することを好まない事件内容は、一切これを極秘扱いとしてきたのである。そこに認識に対する無智と、空白があり、意識して謀略に乗ぜられた条件があった。第二は、政治家の無智であり、事件内容を秘密にしてきたことと関連して、政治家はほとんど思想事件に無智であった。というよりも無関心であった。従って自分の身辺間近まで、あるいは自分の腹中にその謀略の手が延びて来ても気付かなかったのである。第三は役人の政治認識欠如であり、長い特高警察の経験を持った者でも、政治経験を持たないが故に、取締りの立場からのみ見て、政治的な角度から指向される謀略活動に気が付かなかった。また事件として検挙された場合でも、その事件が共産党関係のものならば治安維持法のケースにあてはめ、罪になるかならぬかのみ捜査の重点を置き、また、尾崎・ゾルゲ事件の如くスパイ関係の事犯に対しては、国防保安法という法律の適用面からのみ、これを見る習慣があったのである。」(同上書p.137)

軍人も政治家も役人も思想犯を甘く考えていて、思想犯事件の内容を極秘にして公開しなかったことが、尾崎・ゾルゲグループらソ連のスパイ連中につけ入る隙を与えてしまったと理解すれば良いのだろうか。

マルクス・エンゲルス全集

先ほど少し触れたが、日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは昭和3年(1928)から昭和10年(1935)。二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは昭和2年(1927)から昭和3年(1928)。この時期はマルクスやレーニンの書籍がバカ売れしていたのである。

そして1928年(昭和3)のコミンテルン第6回大会では、レーニンの「敗戦革命論」に基づいて、「共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」との決議が採択され、この決議の通りに共産主義の影響を受けた一部の若人が軍人となることを志し、そのために士官学校等に入学した。

その後昭和7年(1932) 11月の熱海事件で日本共産党幹部が一網打尽にされ、、多数の共産党員は天皇制を否定さえしなければ転向したとみなされて、「天皇を尊重した共産主義・社会主義運動を行なう」メンバーが軍に入り、さらに士官学校の卒業生が任官したという流れである。

以前このブログで、昭和20年8月15日に予定されていた昭和天皇による玉音放送を阻止し、戦争を継続させようと目論んで皇居へと襲撃をかけた、『宮城クーデター』に関与した人物を中心に陸軍士官学校の卒業年次を調べたことがあるが、昭和5年卒業生の中には、宮城事件の立案者である稲葉正夫中佐、宮城事件の首謀者の一人である竹下正彦中佐、昭和7年卒業生の中には瀬島隆三中佐がおり、昭和8年の卒業生には朝枝繁治中佐のほか、宮城事件の首謀者の一人である井田正孝中佐、宮城事件で森近衛師団長殺害に関与した畑中健二少佐など、その前後の年次には明らかに左寄りのメンバーがいる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html

このような史実を拾っていくと、教科書やマスコミなどで拡散されてきた歴史叙述とは随分異なる世界が見えてくる。

私も長い間マスコミなどに洗脳されていて、『軍国主義』が怖ろしいものだとイメージしていたのだが、よくよく考えると「軍」という組織は、国民の生命と財産を護る存在である限りは怖ろしいものではありえない。
いつの時代であっても、またどこの国にとっても、「軍」が恐ろしい存在となるのは、その組織の中に、他国の為に動こうとしたり、革命を夢見て権力を掌握しようとするメンバーが存在し、その目的のために組織的に武力を用いる意思を持つようになった場合であろう。
そしてわが国の場合において本当に怖かったのは、「ソ連に忠誠を誓い、わが国を戦争に巻き込み、最後にソ連を参戦させてわが国を共産主義の国にしようとした『軍』の兵士達」ではなかったか。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみて下さい。

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-284.html

軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-285.html


ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか

前回は、日本の軍部が左傾化していることを報じている当時の新聞記事を紹介したが、今回は、いかにしてソ連は、わが国だけでなく世界に共産主義を拡げていったかについて書かれている記事をいくつか紹介したい。

1917年(大正6)にロシア革命が起こり史上初の社会主義政権が誕生したのだが、国内では反革命勢力(白軍)との内乱が続き、外債を踏み倒された独英仏などは反革命勢力を支援した。
そこでソヴィエト政権は、白軍と対抗するため義勇軍を中心とした赤軍を組織し、さらに反革命派を取締まるためにチェカ(非常委員会)を置き、対外的には1919年にはコミンテルン(共産主義インターナショナル、第三インターナショナルともいう)を結成して、全世界の左翼勢力をソ連共産党の指導下として、レーニンの『敗戦革命論』の考え方に則った世界の共産主義化をはかろうとした。ちなみにわが国に、コミンテルン日本支部として日本共産党が結成されたのが大正11年(1922)である。

敗戦革命論』についてはこのブログで何度も書いてきたが、要するに資本主義国家間の矛盾対立を煽って、複数の資本主義国家が戦争をするように仕向け、そして自国を疲弊させて敗戦に導き、その混乱に乗じて共産党が権力を掌握するという革命戦略である。

前回同様に『神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫』という新聞記事のデータベースを使って、「赤化」「共産党」というキーワードで検索すると402件の記事が引っかかり、記事を発行日順に並べて見出しを読み、面白そうな記事をピックアップしていく。

最初に紹介するのは大正15年(1926)4月7日付の「中外商業新報」だが、『赤化運動の10年』という連載記事の1回目に、小松緑氏はこう記述している。

大正15 赤化運動の10年

「…共産党本部が、白人諸国における従来の失敗に鑑み更に方向を一転して、先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略である。これは、カラハン氏*がポーランドから極東に転任した時分から決定したものであるがやがてカラハン氏は、露支条約及び日露条約の成功に狂喜し、極東の赤化は一二年を出でざるべしと豪語して、大仕掛けの赤化運動に着手したのである
 先月十八日、北京において国民党を首脳とする総工会、学生団等の代表者二千名が大会を開き先ず革命歌を高唱し『帝国主義を撲滅せよ』『段祺瑞を打倒せ』『不平等条約を破棄せよ』『八国格子を駆逐せよ』などと不穏の言辞を弄し国務院の門内に乱入し、終に衛隊と衝突して、死者三十名、傷者八十名を出すという宛然たる革命騒動を演出し、その主謀者たる徐謙、顧孟余、李石曾等が、逮捕を恐れて、露国公使館に遁げ込みしが如き、また永らく共産党の傀儡となって、ロシアから武器、軍資の供給を受けつつありし憑玉祥が近々モスコウに赴き、自ら一職工となりてまでも、ソヴィエット制度を根本的に研究すると公言しているが如き、また近頃広東はおいても純然たるソヴィエット政府を組織せんとする陰謀の起れる際、関係露国人十名並に政府部内及び軍隊中より六十名の連類を逮捕せしが如き、孰(いず)れの一を見ても、赤露の魔手が如何に辛辣に動きつつあるかを立証して余りある」
*カラハン氏:レフ・ミハイロヴィッチ・カラハン。ロシアの革命家 。1923~1926に中国大使を務めた。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10101841&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

引用部分の冒頭で「先ず有色民族――殊に支那人、日本人の赤化に全力を傾け、その白人に対する共通反感を利用し、一気に圧倒的世界革命を断行しようという新方略」と書かれているのだが、ソ連は全世界の共産主義化を推進するために、白人と有色人種との人種問題を焚きつけて、その対立を煽って世界を戦争に巻き込む戦略を立てて着手したという点は注目してよいだろう。

151837.jpg

アメリカで排日運動が起こったのは日露戦争以降のことだが、特に激化したのは第一次世界大戦以降のことで、白人対有色人種との対立の煽りかたが次第にひどくなって、アメリカでは日本人を猿やネズミと同様に描いたポスターが多数作られている。この背景には、日米の対立を煽って、両国を戦争に巻き込むというソ連の工作があったというのである。

また同じ年の大正14年(1925)5月30日に、中国・上海の租界(外国人居留地)で起こったデモに対して租界警察が発砲したため、13人の死者と40人以上の負傷者が出た暴動事件が起こっている。(「五・三〇事件」)
この事件は、5月15日に上海にある日系資本の内外綿株式会社の工場で暴動が発生し、工場側当事者が発砲し、共産党員の職工が死亡して10人以上の重軽傷者が出た。その後、各都市でその抗議活動がおこり、5月30日に上海で数千人規模のゼネストに発展したのだが、同年6月6日の「大阪毎日新聞」に、この五・三〇事件に関する各国の新聞の論調が紹介されている。

大正14 上海暴動と各国世論

いくつかの新聞でソ連の関与を明確に指摘しているのだが、たとえば米国のニューヨーク・イヴニングポスト紙はこう解説している。
支那における最近の排外運動の裏面にロシア共産党領袖連が飛躍して来たことは明白で、これを単なる想像と見なすには余りに証跡歴然たるものがある。最近 数ヶ月間にロシア政府の使命をおびた共産党員が多数支那に入り込んでいる…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=00502972&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

昭和3 日本共産党の大検挙

次に、昭和3年(1928)の記事を紹介しよう。
最初に紹介するのは4月11日付の大阪朝日新聞の記事で、3月15日に日本共産党の党員が千名以上検挙された事件ことを報じている。報道が遅れたのは、全国一斉に大検挙が行なわれてすぐに記事掲載が禁じられ、ようやく4月10日に一部解禁となったことが正直に記されている。
では、当時の日本共産党は何をしようとしていたのか。司法当局がこの事件の概要を説明したことを報じているが、一部を紹介しよう。

「(1)…現在における党員は数百名に達し、関東、関西、九州、北海、信越等に潜居し、進んで青年及び軍隊の赤化に労力しおれり
(2) 日本共産党は革命的プロレタリヤ等の世界党第三インターナショナル日本支部としてわが帝国を世界革命の渦中に誘致し、金甌無欠の国体を根本的に変革して労農階級の独裁政治を樹立し、その根本方針として力をソウェート・ロシヤの擁護、各植民地の完全なる独立等にいたしつつ共産主義社会の実現を期し、当面の政策としては革命の遂行を期したるものとす。…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070605&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

この程度の内容で「一大陰謀」との見出しをつけたことに尋常でないものを感じるのだが、具体的にどのような計画があったのかは記されていないのでわからない。

そして、同じ年の昭和3年(1928)の7月から9月にかけて、モスクワでコミンテルン第6回大会が開かれ、この会議において共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。」などと書かれた決議が採択されたのだが、すでにソ連はこの大会の前から、わが国の軍隊に工作をかけることに着手していたことが新聞記事に記されている。

昭和3 露国共産党巧みに我が軍隊に赤化宣伝

10月19日の『国民新聞』の記事だが、
「露国の対日赤化宣伝は…最近極東局長メリニコフ氏を極東赤化の根拠地たるハルビン総領事に任命し、…再び巧妙なる方法を以て対日宣伝に著手するに決し、…直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り
 (一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す
 (二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡ありとは屡々(しばしば)其筋に達した確報に依って明らかであり、我国礎(いしずえ)を危くする重大問題として政府当局は極度の警戒を加 えて居る…」
とある。
ソ連は6月にすでに調査員を派遣しており、彼らは日本軍隊をこう評価したという。
在満日本軍隊に対する宣伝は可能性ありと認める、出張中種々の機会に於て下士階級以下と飲食を共にして談話したる所、彼等の思想も相当進歩し居り、階級論争を理解して居る、然れ共今急激に皇室を云々するが如き或は帝国主義打倒の如き宣伝を行うは尚早である、階級革命、国民自由平等を標榜する宣伝を行う時は確実に効果あるものと認める…」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071350&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

かくして、7月2日に宣伝文書を約3千部用意し、日本語に堪能な中国人を使って、6日、7日の両日に長春、奉天、鉄嶺、安東の日本軍に配布し、7月24、25日には第2回目の宣伝文書を配布したという。

ソ連による工作活動は多岐にわたり、かなり執拗なものであったようだ。

昭和3 赤化宣伝の密謀に政府神経を尖らす

次に9月21日の「時事新報」の記事を紹介しよう。
「政府は過般の共産党事件以来特に露国の赤化運動を重大視し、その防圧に関して種々対策を講じているが、其後も第三インターナショナルの赤化運動は隠然猛威を逞しうし、聊(いささ)かも緩和の色なきのみか、共産党事件の取調べ進捗するに従い、漸次其背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た。殊に最近政府側の探知し得たるところに依れば、第三インターナショナルは今秋を期し、大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし、我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものあるので政府でも座視する能わずと為し、寄々その適当なる処置について協議し政府部内の一部に両国の国交を賭しても危険思想の流入を防止すべしとて極論するものあるから、場合に依っては近く露国政府に対し厳重なる警告を発する段取になるであろうと。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070801&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

日本共産党はコミンテルン(第三インターナショナル)の日本支部であるので、ソ連の関与があることは当然のことなのだが、新聞記事で「隠然猛威を逞しうし、聊かも緩和の色なき」と書かれているレベルというのは、余程のひどい事を画策していない以上はありえない表現である。3年後の昭和6年(1931)にはわが国でクーデター未遂事件が2件[三月事件、十月事件]起こり、その翌年の昭和7年(1932)には5.15事件が起こっているのだが、このような企みがこの時期からあったのではないだろうか。

昭和3 帝都に潜む左傾的学生

また、ソ連は軍隊だけでなく、大学にも工作をかけていたようだ。
同じ年の12月30日付けの「台湾日日新報」には東京を中心とする極左学生813名のうち約半数を検挙したと報道されており、大学別の人数まで報道されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071122&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

昭和3 米国で行われた赤化宣伝の跡

もちろんソ連はこのような宣伝工作をわが国だけに実施したのではない。
同じ昭和3年(1928)10月8日の時事新報には、米国でソ連の工作が行われたことが記されている。アメリカでは数百回にわたって共産党大会が開かれ、大量の共産文書が配られたようだ。
「米国軍隊が支那に出発する時紐育(ニューヨーク)、フィラデルフィア及び沙市の海軍造船所では示威運動が行われ又乗船中の海兵団や軍隊内にまで宣伝ビラが撒かれたのである、因(ちなみ)に米国海兵団が自国政府に反抗せよと煽動されたのは米国労働史上今回が始めてである」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071254&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

昭和3 各国の赤化宣伝

さらに10月21日の「京城(ソウル)日報」には、ソ連による主要国に対する工作活動の内容と、各国の取締り状況が纏められている。
例えばスウェーデンとインドについてはこう記されている。
【スウェーデン】
「サウェート密偵の動静に関する警察署の報告書が公表されたが、それによると労農大使館員ミトケーウキチは常に瑞典(スウェーデン)の機密をロシヤに報告しておったのみならず、ロシヤとの開戦の場合、瑞典が暴動を起こすべく各所に多数の武器を隠匿していた事も発覚した。なおこれが操従者アレキサンドルの家宅捜索の結果、ヤチェイカの組織、罷業の計画に関する書籍も出た、右アレクサンドルはモスクワよりの命令を受け活動したものであるが、国籍が瑞典にある事とて退去さるとも恐れなく思い切って密偵任務に服しつつあったものだと」
【インド】
ポンペイ製粉工場を起こった罷業は、モスクワよりの資金で行われた事が発覚した、先週莫大な金がモスクワから送って来、罷業の首謀者ドゥユーリ個人の分として二千ループカの送金があった労働者等は毎月モスクワより保助金がくるのだと公言している。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071140&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

このようにソ連は、わが国だけではなく、世界各国で共産主義革命のための工作を行なっていたことが明らかなのである。

次に昭和10年(1935)の記事を紹介したいのだが、この年の7月25日から8月20日にかけてモスクワで第7回コミンテルン大会が開催され57か国、65の共産党から510名の代表が集まっている。この大会で決議されたことがわが国にとっては非常に重要なことであるので、Wikipediaの解説を引用しておく。

「決議の第一には、コミンテルンはそれまでの諸団体との対立を清算し、反ファシズム、反戦思想を持つ者とファシズムに対抗する単一戦線の構築を進め、このために理想論を捨て各国の特殊事情にも考慮して現実的に対応し、気づかれることなく大衆を傘下に呼び込み、さらにファシズムあるいはブルジョワ機関への潜入を積極的に行って内部からそれを崩壊させること、第二に共産主義化の攻撃目標を主として日本、ドイツ、ポーランドに選定し、この国々の打倒にはイギリス、フランス、アメリカの資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いること、第三に日本を中心とする共産主義化のために中国を重用することが記されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3

何度かこのブログで、この大会でスターリンがこう演説したことを書いてきた。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ

昭和10 わが国も抗議

この大会の後、英米に続いてわが国もソ連に抗議し、「厳重警告」を発したようだが、検閲で記事の大半が白抜きになっているのは残念だ。しかし、世界がいくらソ連に抗議しても、この国は各国の抗議に耳を傾けるような国ではなかった。おそらくソ連にとっては、資本主義の大国は工作の対象でしかなかったのだろう。

昭和10 ソ連テロ計画

この会コミンテルン大会の少し前の7月17日には『大阪時事新報』には、ソ連共産党委員会が恐るべき内容の対満州謀略の方針を決定したことが記されている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10071603&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

その後のソ連の動きを見てみると、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
そして日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて疲弊させ、ドイツ・日本の敗戦が近いと分かった時点で、条約を破棄してそれぞれ宣戦布告し、そして第二次大戦後に多くの国々を共産圏に取りこんだのである。

この動きはスターリンの描いたシナリオ通りだと読めるのだが、通説ではソ連の謀略は存在しなかったことになっている。しかしながら当時の新聞記事を少し検索するだけで、通説と矛盾するような記事をいくらでも容易に見つけることができる。このように通説に矛盾する史実が膨大に存在する場合は、通説が誤っていると考える方がずっと自然だと思うのは私ばかりではないだろう。

コミンテルンの世界戦略を中心に、ロシア革命以降の歴史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。

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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
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義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
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日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
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日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む

前回は、ソ連が如何にしてわが国や世界に共産主義を拡げていったかについて書いたのだが、読者の中には、「軍国主義」を礼賛したような時代のわが国の新聞に書かれている記事を紹介されても、その内容そのものが信用できないという方もおられるだろう。

そこで今回は、当時の日本共産党が軍部に対してどのような文書を拡散していたかを紹介したい。

赤旗パンフレット29号 兵士諸君に与ふ

昭和7年(1932)9月1日に日本共産党が対軍工作の為に出した『兵士諸君に与ふ』という赤旗パンフレットが残されており、次のURLで全文を読むことが出来る。
http://kure-sensai.net/Undou/Senzen/HeisiniAtau/HeisiniAtau.htm

表紙に書かれている『国際共産党』というのは、前回の記事をはじめこのブログで何度か紹介した『コミンテルン』のことで、世界の共産主義国化のために1919年にモスクワで結成され、わが国ではコミンテルン日本支部として大正11年(1922)に日本共産党が結成されたのである。

この『兵士諸君に与ふ』に書かれている内容は、当時の時代背景を考えると若い人々にかなり説得力があったと思われるのでぜひ一度読んで頂きたいと思う。(原文を新字新仮名に変更して引用)

「…吾々、兵卒水兵は一体何者か。我々は軍服を着た労働者農民である。吾々はかつては、農村で、工場で、働き搾取されていた。吾々の親や兄弟は、土地を取り上げられ、重税に収奪され、特に昨年の大凶作、繭(まゆ)安以来、全く食うや食わずの生活を送っている。しかも我々が兵士として入営し、また出征することは、農村の働き手を奪われ益々農民の生活を窮迫さしている。
農民のかかる窮乏化は農民自身の責任ではない。…いかにも国際的恐慌に関連せる日本の農業恐慌、寄生地主による収奪、独占価格による搾取、高利貸、租税の無慈悲的取立により発生せる恐慌が農民自身の責任、その怠惰にでも起因するかの如く政府は「自力更生策」を掲げて、その無能を暴露し、農民を愚弄している。飢餓窮乏はもとより農村ばかりでない。恐慌を切り抜けるための資本家の強硬手段、美名産業合理化は1930年代以来、労働者の破滅的窮乏を招来した。賃下げ、時間延長、労働強化は資本家の凶暴なる攻撃武器となっている。…特にかく首による失業者250万を超えている。…」(『兵士諸君に与ふ』p.1~2)

少し補足すると、1929年にアメリカで始まった恐慌が全世界に広がっている時期に、わが国は昭和5年(1930)に金解禁を行ない、そのために外国からの安い商品が入ってきて大量の金が海外に流出することとなった。対米輸出が激減し、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策もあって商品市場が大暴落し、多くの企業が倒産したり操業短縮に追い込まれて、失業者が街にあふれて深刻な不況に喘いでいた(昭和恐慌)。
また、米と繭の二本柱で成り立っていた日本の農村は、生糸価格の大暴落が導火線となり農産物価格が下落したうえ、昭和5年(1930)の豊作で大幅に米価が下落したために壊滅的な打撃を受け、さらに翌年の昭和6年(1931)には東北・北海道が冷害のために大凶作となり、貧窮のあまり欠食児童や娘の身売りが相次いだという。

離村子女を守れ

秋田県のHPには、
「凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると『父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち』の数は、 1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。」と書かれている。
http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

相次ぐ経済政策の失敗の上に悪いことが重なって国民の間には政党政治と財閥に対する不信感が高まっていったのだが、そのような背景を知らなければこの時代に共産主義思想が広がっていったことを理解することは難しい。

『兵士諸君に与ふ』の話に戻ろう。文章は次第に過激になっていく。

「今吾々は、軍服を着て軍隊にとられた。
軍隊とは何か?それは、日本の労働者・農民の生活の守りであるか。
否、それは『天皇』の名において労働者農民を弾圧し、資本家地主の利益を擁護する、天皇・資本家・地主の最も重要な武装権力である

吾々兵士は固き団結を以て来たるべき戦争を迎えよう。しかし如何なる態度をもってか?
戦争は未曽有の不況を切り抜けるために帝国主義日本の採った最後の手段
である。
戦争は、天皇政府のいう如き好況を決してもたらさない。そして一切の犠牲と負担とはこの時にも、労働者・農民の肩に負わされる。
戦争は、労働者・農民を犠牲にし、資本家の市場獲得のために行うところの殺戮である。これが、戦争の本質である。…われわれは一切の侵略的戦争に反対だ。支那革命を圧殺するための対支出兵反対。ソヴェート同盟を守れ。そして、戦争を内乱に転化しなければならぬ

『天皇の軍隊』の崩壊のために、資本家・地主的天皇制の打倒のために、
労働者・農民・兵士のソヴェート樹立のために。
  帝国主義戦争絶対反対!
  戦争を内乱へ!
ソヴェート同盟を守れ!
支那革命を守れ!
労働者・農民・兵士の提携万歳!
」(同上 p.2~4)

と、兵士に向かって「固き団結を以て来たるべき戦争を迎えよう」と述べているのだが、その目的は「戦争を内乱に転化」させ、政権を転覆させてソ連と同様の共産主義国家を樹立させることにあり、そのために兵士は労働者・農民とともに戦おうと書いているのである。この考え方は、レーニンの『敗戦革命論』そのものである。

では、具体的にはどう戦えと言っているかというと、

「…われわれは資本家・地主の利益を擁護する『天皇の軍隊』崩壊のために、武装せる労働者・農民との固き提携のもとに『天皇政治』に武器を向けるために力一杯戦わねばならぬ。」(同上p.7)
と、支配階級の巨大な権力機構に武器を向けて戦えと書いているのだ。

とは言うものの、最初から武器を持って上官と戦えと言っているのではない。まずは親睦会のような組織に入って少しずつ兵士の支持を勝ち取って軍隊内で合法的に力を増していけば、無茶な弾圧を受けることもないし、また合法性を獲得することも可能になると述べ、そして
支那の兵士たちは残虐なテロに抗して、反動的な国民党内で活躍し、今や輝かしい赤軍建設に成功したではないか!
 兵営、軍館内の兵卒、兵、大衆諸君!
 …
 今こそ、団結せよ! 勇敢に戦え!
 兵士大衆自身の組織、兵士委員会を作れ!」
と締め括っている。

パンフレットには、「支那の兵士たちは残虐なテロに抗して」蒋介石率いる反動的な国民党内で活躍したとある。この文章から、国民党にはコミンテルンの策謀によりかなりの中国共産党員が潜入していたことがこの文章から明らかであるが、そのことは当時の新聞にも記事に書かれている。

昭和6 牛蘭事件の審問


上の新聞記事は、昭和6年(1931)の9月18日付の『満州日報』の記事で、コミンテルン(第三国際)で東洋攪乱工作をしていた牛蘭(ヌーラン)という人物が6月に捕えられ、600以上の文書が押収されたのだが、特に重要な文書の内容の一部が紹介されている。

「第三国際(コミンテルン)は、全支那をソビエート区と、非ソビエート区に分ち、ソビエート区域では、赤色の労工会及び農会を組織し、非ソビエート区域では、全国に渉りて極力労働争議を煽動する。党会を開く時に出席する者には一元ずつ支給する。又国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要だと書いてある。而して上海の此機関の毎月の費用は十三万元である。」
「其使命の重大なる者は、第一は中国を蹂躪する赤匪を指揮して、之れが為めに軍事計画を計議する事、第二は中国共産党徒の指導者と為りて、其報告を接受し、並びにソビエート露西亜及び第三国際の訓令を伝達する事。第三は、遠東各地共産党員の指導者となりて、其の為めに種々の設計を為し、其工作を指導する事。第四は、中華民国を顛覆し、社会組織を破壊し、善良国民を赤化すべき種々の企図を為す事である」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071151&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

生まれたばかりのソ連を他国の侵略から守るためには、周囲の国に工作をかけて内戦を激化させたうえで共産国化をはかる取組が必要だと考えたのだろうが、国家を転覆させたり社会組織を破壊させるほどの大がかりな工作をするためには、その国民に共産主義思想を広めたりアジビラを撒布する程度では生ぬるいことは誰でもわかる。
牛蘭という人物が、わが国に対してはどのような工作を指示していたか、『満州日報』の記事にはこう記されている。

「其中数件は、牛蘭親筆のもので、其多くは労働者の暴動に対する指揮、及び中国ソビエート区域内の労働者農民に対する訓練の計画、党徒を非律賓(フィリピン)、朝鮮、安南、印度、日本に派遣して、労働者を煽動する事、日本其他の共産党の組織宣伝訓練等に関するものである。要するに牛蘭から第三国際宛の報告、各国各処から牛蘭宛の報告、牛蘭から各国各処宛の訓令である。内容は、如何に労農を煽動す可きか、如何に組織を加う可きか如何に共党の訓練を施こす可きか、而して如阿に各国各処の政治を攪乱す可きかである」

昭和6 満州の主要都市を暴動化の大陰謀

もっと具体的な新聞記事を探すと、例えば、牛蘭という人物が逮捕された3か月前の昭和6年3月21日の京城日報にはこう報道されている。
満洲省委員会は中国共産党中央党部の指示に従い撫順、奉天、ハルビン、大連の四大都市を暴動化の中心として(昨年)12月11日の全国ソビエット代表大会前後を期し中央党部と相呼応し全国一斉に事を挙ぐべく撫順特別支部はその際撫順炭坑における支那坑夫を煽勲して賃銀値上げ待遇改善を要求し同盟罷業に終り直ちに大暴動を敢行して紅軍を組織して撫順八大炭坑発電所機械工場、オイルセール工場等を破壊し日支両国の主要官衙交通通信機関を破壊し及び両国の主力官民を暗殺し総べての資本機関を奪取し彼等の手に収め撫順を占領して撫順に地方ソビエット政府を樹立せんとするものである。…先般北満間島*吉敦方面で行われた放火、鏖殺、官公衙通信機関等の破壊事件は皆彼等一味の行為である。…」
*間島(かんとう):豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯

炭鉱坑夫の賃上げ要求を契機に中国の主要都市で大暴動を起こし、主要な工場などを破壊し要人を暗殺して、ソ連と同様の共産主義政権を樹立しようとしたというのだが、引用した最後の部分に書かれている「北満間島吉敦方面で行われた放火、鏖殺、官公衙通信機関等の破壊事件」とはどのような事件であったのか。
Wikipedia『間島(かんとう)共産党暴動』にはこう解説されている。
「1930年5月30日、(中国共産党の支援を受けた朝鮮人グループ)は延吉・竜井など間島の主要都市や鉄道沿線で一斉に蜂起し、日本領事館などの官公庁や鉄道施設・電灯会社などを襲撃した。続いて7月31日にも敦化を中心として暴動が再燃、以後1年以上にわたって断続的な暴動が間島各地で繰り広げられた。大日本帝国の軍部・警察は直ちに間島に入って鎮圧を開始、奉天軍閥も鎮圧に動いた。その結果、日本側によって7,000名が検挙されて700名余りが起訴、うち周現甲・李東鮮ら22名が治安維持法や刑法などによって死刑とされた。…
武装蜂起の生き残りは抗日パルチザンとして、引き続き満州での抗日運動を展開して行くことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E6%9A%B4%E5%8B%95

昭和7 稀有の赤色テロ 間島共産党事件

Wikipediaには「襲撃」や「暴動」などと抽象的に記されているが、昭和7年(1932)12月29日付の大阪朝日新聞の記事では間島暴動における「放火70件、強盗百数十件、殺人30数名」というから、明らかなテロ事件である。この事件がコミンテルンに治安維持法が適用された最初の事例なのだそうだが、このような大がかりなテロを仕掛けてくる国際組織に対して治安維持法を適用することは、国民の大多数が支持したことだと思う。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070651&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

共産党が兵士のために作成した文書は『兵士諸君に与ふ』以外にもあるので、もう一つ紹介しておこう。

兵士の友発刊の辞

昭和7年(1932)の9月に共産党中央は軍事部を設け、『兵士の友』を創刊している。
創刊号には、上海の日本兵士が将校に銃を向けた話や、上海の日本飛行隊の兵士が空から「帝国主義戦争反対」「ソヴェート同盟を守れ」と書かれた宣伝ビラを撒いた話や撫順の守備兵士が将校の命に反抗して叛乱したことなどが書かれている。この頃から大陸では日本軍の左傾化が進んでいたようである。
http://kure-sensai.net/Undou/Senzen/HeisiniAtau/HeisiNoTomoSinbun.htm

昭和8 兵士の友

また昭和8年8月に出された『兵士の友』第10号にはこんなことが書かれている。ここでは、銃を政府に向けよと明確に述べていることに注目したい。

「今や我々は断乎たる決意を以て告げる。
中国の兄弟たちとの戦争を拒否しよう。そして手を握り合おう。戦線から去ろう。
ソ同盟の同朋には断じて銃は向けまい。
我々の銃は後ろへ! ●●と流血の戦争政府へ、資本家地主の天皇政府へ!

http://kure-sensai.net/Undou/Senzen/HeisiNoTomo/HeisiNoTomoSinbun10gou.htm

この時期にどの程度の兵士がこの『兵士の友』を読んでいたかはよく分からないが、その後は日本軍の中枢部まで左傾化していったことを考えると、それなりの影響力はあったと思われる。
この頃のわが国では、国家権力に銃を向ける事件が相次いだのであるが、前々回の記事で引用したとおり、五・一五事件の檄文を読むと左翼思想の影響を感じざるを得ず、このようなテロ事件のいくつかはコミンテルンによる何らかの工作がなされた可能性を感じている。

レーニンは、共産主義者は進んで軍隊に入り、内部から崩壊させて、自国政府の敗北を導かねばならない。その実現のためには民主的な方法では到底不可能であり、工作により戦争に導いて、その上でプロレタリア革命を遂行させよという意味のことを述べている。その『敗戦革命論』の考え方に基づき、コミンテルンによって主要国で多くのテロ行為が仕掛けられたのだが、この時期に中国側でわが国を挑発する事件が多発しているのは、その工作と関係があるのではないか。
昭和3年(1928)に起きた張作霖爆殺事件は、今も教科書には関東軍の仕業だと書かれているが、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、2001年にGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書に基づいて『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を上梓し、その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルンの工作員であると断言している。
また、昭和12年(1937)に起きた7月7日の盧溝橋事件についても、また中国共産党軍の兵士パンフレットに「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」と書かれており、仕掛け人は明らかである。

通州事件

盧溝橋事件の後わが国は事件を拡大させるつもりはなく派兵提案を見送っているのだが、中国側は停戦協議で約束した撤退をせずに挑発行為を続け、日本兵が襲撃される事件が相次いだ後、7月28日には通州の日本人居留民380人中260名が惨殺された事件が起きている (「通州事件」) 。

暴支膺懲

その事件が報じられて国民の憤慨が頂点に達したことは言うまでもなく、かくして中国共産党は、凄惨な方法で日本人を多数虐殺することでわが国の「暴支膺懲*(ぼうしようちょう)」の世論を激高させて、日本を中国との戦いにひきずりこむことに成功したということが歴史の真実ではないだろうか。
*暴支膺懲*:暴虐な支那(中国)を懲らしめよの意

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-285.html



なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む

高校で日中戦争を学んだ時に、わが国がなぜ戦争に巻き込まれのかが理解できなかったのだが、最近の教科書ではどう書かれているのかと思って『もう一度読む 山川の日本史』を読み直してみる。そこにはこう記されている。

「日本はしだいに中国北部にも勢力を伸ばし、この地方の軍閥に力を貸して、国民政府の影響から切り離そうとした。そのころ中国では、国民政府と共産党の内戦が続いていたが、1936(昭和11)年に張学良が蒋介石を監禁して抗日への転換をせまった西安事件をきっかけに、内戦を停止して日本に抵抗する気運が高まった。
 そのような状況の中で、1937(昭和12)年7月7~8日、北京郊外で日本軍と中国軍の武力衝突がおこった(盧溝橋事件)。つづいて上海でも日中両軍が衝突し、戦火は中国中部にも拡がった。日本がつぎつぎに大軍を送って戦線を拡大したのに対し、中国側は国民党と共産党が協力して抗日民族統一戦線を結成し(第2次国共合作)、日本に抵抗した。こうして事変は宣戦布告がないままに、本格的な日中戦争に発展した」(『もう一度読む 山川の日本史』p.300~301)

「抵抗」する中国に対し「つぎつぎに大軍を送って戦線を拡大」したと解説されているのだが、そもそも「抵抗」という言葉は、仕掛ける側ではなく仕掛けられる側に用いられる言葉である。普通にこの文章を読めば、わが国が戦争を仕掛けて中国がそれに抵抗したと理解してしまうところだが、そのような歴史理解は正しいと言えるのか。

しっかりと史実を押さえておきたいところだが、まず盧溝橋事件は「武力衝突」であったという表現にも疑問を感じる。この時の日本軍は演習の為、実弾を携行しておらず、戦う意思などは毛頭なかったからである。
橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)は当時の状況を、「実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれた」と証言しており、日本側は何者かに仕掛けられたのである。

盧溝橋事件記事

では、どこが仕掛けたのか。
実はこの時に、国民党軍も、日本軍同様に銃撃を受けている

盧溝橋で銃撃を受けた日本軍は国民党軍によるものと思い込み、反対に国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んで、この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのだが、双方共、腑に落ちない点があり、事件発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結んでいる。つまり、日本軍は中国との全面戦争を、最初から欲してはいなかったのである。

では、丸腰の日本軍に発砲をしたのは誰であったのか。

たとえば『帝国電網省』の『歴史再考』にはこう記されている。

「7月8日、つまり、『盧溝橋事件』発生の翌日、支那共産党は『対日全面交戦』を呼び掛けているのです。これは、どう見ても、お膳立てが良すぎます。まるで、『盧溝橋事件』が起きる事を知っていたかの様な手際の良さです。と言うよりも、間違いなく共産党は、事件が起きる事を知っていました。それは、何故か? 実は、『盧溝橋事件』は何を隠そう、共産党による『謀略』だったからです。つまり、共産党の工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦する様にし向けたのです。その証拠に、共産党軍の兵士向けのパンフレットには、『盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の支持によって行われたものである』とはっきりと記述されていました。又、昭和24(1949)年10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相も、『あの時(盧溝橋事件の祭)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍操法に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ』と発言しています。共産党自らが『自白』しているのですから、これ以上の証拠はありません。」
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html

少しだけ補足しておこう。この時に北京郊外に日本軍がいたのは、1900年の『義和団事件』の後で清国が欧米列国及び我が国との間で締結した『北京議定書』に基づくものであり、わが国だけでなく、ほかに7ヶ国の軍隊が、居留民保護の目的で駐留していたのである。

『帝国電網省』の解説では、要するに中国共産党は、日本軍と国民党の双方を戦わせて疲弊させ、最後に漁夫の利を得ようとしたことになるわけだが、その裏付けを取ろうとしても共産党パンフレット(『戦士政治課本』)の現物はわが国に持ち帰られていないようであり、また周恩来の演説原稿の出典を明記しているサイトも確認できなかった。

しかしながら、探しているうちに別の面白い資料が見つかった。

興亜院政務部 コミンテルン並びにソ連の対支政策に関する基礎資料

わが国がどういうルートから入手したかは定かではないが、1937年7月付の『盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令』が興亜院政務部の極秘資料『コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料』のなかに収められており、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。そこには実に恐ろしいことが書かれている。

(1)あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。
(2)右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく
局地的解決(例えば北支を分離せしめることによって戦争を回避するの類。)日本の譲歩に依って、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい
(3)下層民衆階級に工作し、これをして行動を起こさしめ、国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければならぬ。
(4)党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。日本を援助せんとする第三国に対しては、ボイコットをもって威嚇する必要がある。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454637/54

Wikipediaによると、興亜院というのは、
「昭和13年(1938年)12月16日に設立された日本の国家機関の一つ。日中戦争によって中国大陸での戦線が拡大し占領地域が増えたため、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮するために第1次近衛内閣で設けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E9%99%A2
とあり、この『盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令』が収められている『興亜資料. 政治篇 ; 1』には、大正6年(1917)から昭和14年(1939)までの資料が集められていて、昭和14年(1939)の10月に印刷されている。
太平洋戦争が開戦する2年以上前に、コミンテルンからこのような指令が出ていることをわが国の政府が入手していたことは注目して良いだろう。おそらく、コミンテルンに近い人物にスパイを送り込んでいたのであろう。

わが国の情報網から入手した、この『盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令』を、興亜院が本物と判断したからこそ極秘資料集の中に綴じ込まれたのだろうが、その後の史実を追っていけば、興亜院がこの文書を本物だと判断した理由が見えてくる。

盧溝橋事件翌日の昭和12年7月8日に、陸軍中央と外務省は事件の不拡大方針を決め、9日の臨時閣議中に現地停戦協議成立の報告が入って、派兵提案を見送っている。すなわち盧溝橋事件で中国の挑発を受けても、陸軍も外務省も事件を拡大させるつもりはなかったのである。

しかしながら、中国側は停戦協議で約束した撤退をせず挑発を続けたために、わが政府は11日に三個師団を派兵することを閣議決定するも、同日夜にまた現地停戦協定が成立したため、再び派兵を見送り、現地軍に不拡大方針を再確認させている。
ところが、中国軍は再び停戦協定を破って、13日には天津砲兵聯隊第二大隊修理班が中国兵に襲撃され4名が爆殺されてしまう(「大紅門事件」)

さらに14日には天津駐屯騎兵隊の1名が襲撃され、残忍な手口で殺される事件が起きている。
また、20日には撤退する約束であった盧溝橋城の中国軍が、日本軍に一斉射撃を仕掛けてきたために、日本軍も盧溝橋城壁に向かって砲撃を行なった。
政府は再び三個師団の派兵を承認するも、現地に派遣していた軍務課長の報告を受けて、再び内地師団の派兵を見合わせている。


広安門事件

しかし、25日には廊坊の電線修理に派遣された日本軍の電信隊一個中隊が、中国軍に包囲、攻撃される事件があり(「廊坊事件」)、26日には天津駐屯第二聯隊第二大隊が支那軍から乱射を浴びる事件があった(「広安門事件」)。

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始。中国軍は南へ敗走した。

通州事件

そしてその翌日の7月29日に、約3000人の冀東防共自治政府の千数百名の保安部隊(中国人部隊)が、日本軍の守備隊や特務機関や民家を襲撃し、無辜の民に対して掠奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽くした事件が発生した。この事件で日本軍日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約380名を襲撃し、260名が惨殺されている。(「通州事件」)

通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かっていて少数しか残っておらず、装備も劣っていたために死傷者が続出し、通州特務機関は全滅したという。
冀東政府保安隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった。

中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』のp.404-406に東京裁判で行われた証言内容が掲載されている。(原文は旧字旧カナ)
旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
(萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長(当時)の東京裁判における証言)

守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した
(桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長(当時)の東京裁判における証言)

このような証言を信じられない人が多いと思うのだが決して作り話ではなく、この事件については新聞や雑誌にも写真付きで大きく報道され、被害者の名前もすべて特定されている。
Wikipediaに詳しく纏められており、この事件を知らない方は是非一読願いたいと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

通州事件の現場の写真が多くのブログで紹介されているが、とても正視できるものではない。中国側がここまでひどい殺し方をしたのは、何か特別な理由があるようにも思える。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/46489118.html

先ほど紹介した興亜院の極秘資料を思い出してほしい
そこには、あらゆる手段を使って「日支の全面的衝突に導かねばならぬ」と書かれていたのだが、中国側が何度挑発しても、また日本兵の死者が出ても、わが国は派兵を決断しなかった。だからこそ中国が、日本人に復讐の念を起こさせるために、日本人が憤らざるを得ないような卑劣なやり方を試みたのが「通州事件」ではなかったか。

ところがわが国の政府は、罪のない日本人の多くがこんなにひどい方法で殺されたにもかかわらず、それでもまだ和平を模索しようとしていたのである。

中村粲氏の『大東亜戦争への道』にはこう記されている。
「8月1日、外務省の石射(いしい)東亜局長は陸軍省の柴山兼四郎軍務課長と海軍省の保科軍務局第一課長を招き、停戦交渉案と全面的国交調整案について腹案を説明した。その腹案とは、折柄滞京中の在華紡績同業界理事長・船津辰一郎を通して南京政府に接触し、和平交渉の糸口を開かんとするものであった。…
 この着想は陸海軍とも賛成し、8月4日には近衛首相及び外務・陸軍・海軍各大臣の諒承を得て成立した。」(『大東亜戦争への道』p.413)

この石射東亜局長の案は、満州事変以降わが国が華北で獲得した既成権益の殆んど一切を放棄しようとする寛大極まりない内容で、従来中国側が日華国交改善の条件として求めていた内容をほぼすべてを応諾するものであったのだが、8月9日に再び日本兵が巻き込まれる事件が起こってしまう。

大山中尉虐殺事件

海軍の大山勇夫中尉と一等水兵の斎藤嶼蔵の2名が支那保安隊から多数の機関銃弾を浴びて殺され、さらに大山中尉は青竜刀で頭を真っ二つに割られていたというのだ。(大山事件)


続いて8月11日から12日にかけて中国軍が、上海停戦協定の条文を無視して協定線内に侵入し、上海は一触即発の状況となる。

そして「…(8月)13日午前9時半頃、俄然、数名の支那便衣隊が…(わが国の)陸戦隊警備兵に対し、突如機関銃を浴びせ、また午後にも北四川路の我が警備兵に対し機関銃射撃が行なわれた。しかし、我が方は不拡大方針に基づいて応射しなかったが、夕方5時近く、八字橋方面の支那軍は数ヵ所の橋を爆破するとともに砲撃を開始してきたため、午後5時、上海海軍特別陸戦隊司令官。大川内伝七少将は『全軍戦闘配置に付き警戒を厳にせよ』と下令、我方はクリーク対岸の敵拠点を焼き討ちして、その気勢を挫いたのであった」(同上書 p.418~419)

海軍からの要請に基づいて、わが国の政府がようやく内地2個師団の上海派遣を決定したのは、8月13日の夜の話なのだが、Wikipediaによると、すでに国民党軍は無錫、蘇州などで20万人以上が待機しており、対するわが国は上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊が、多めに見ても5千人いただけだったそうだ。

第2次上海事件勃発

翌8月14日には国民党軍機による空襲が開始され、8月23日に日本の陸軍部隊2個師団が上陸して第二次上海事変となるのだが、こういう経緯を知ればわが国の軍隊が中国側に戦争を仕掛けたとは誰しも思わないだろう。
わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、戦いを仕掛けてきたのは常に中国側で、彼らは日中で停戦協定が成立してわが国の派兵が見送られるたびごとに、繰り返しわが国を挑発してきたというのが真実なのである。
こういう経緯を知ると、わが国の興亜院が『盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令』を本物であると判断し、対ソ政策の極秘基本資料集に綴り込んだことは充分理解できる話なのである。

このような指摘をすると、「決定的な証拠が何もない」と反論する人が必ず出てくるのだが、『もう一度読む 山川の日本史』に書かれている叙述も、確たる証拠もなく描かれた仮説にすぎないのだ。この教科書に描かれている近現代史はわが国の通説に近いものなのだが、このような歴史観に矛盾する史実は、少し調べるだけでいくらでも出てきてしまう。自説に都合の悪い史実を隠蔽するか無視することで成り立っている歴史叙述は、マスコミが力を失った現状では、そう長くはもたないような気がする。
そもそも覇権をめぐる闘争に権謀術数はつきものであり、「決定的な証拠」が残されないことはよくあることではないか。つまるところ、仮説の優劣はその説に矛盾する事実の少なさで総合判断するしかないのだと思う。

このブログで何度も書いてきたのだが、わが国で戦後広められている歴史叙述においては、戦勝国にとって都合の良い事ばかりが書かれている。特に日中戦争に関する歴史叙述においては、ソ連や中国、あるいはコミンテルンにとって都合の悪い話は徹底的に排除されているのが現実であり、こんなスタンスで書かれた歴史教科書や参考書をいくら学んでも、真実に近づくことは難しく、逆に「わが国だけが悪かった」という偏頗な歴史観に洗脳されてしまうだけではないのか。
戦後の長きにわたり、戦勝国やわが国の左翼勢力によって隠蔽されてきた数多くの史実が少しずつ知られるようになって、公平な観点から近現代史が見直され、広く議論される日が来ることを願いたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2 部分一致で大文字、小文字を同じとみなす
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4 部分一致で大文字、小文字を同じとみなす
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html


南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか

前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。
しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸戦隊警備兵が機関銃を浴びせられ、さらに夕方には砲撃を開始されたために、ついにわが国も戦闘を開始するに至る。
このように発生した第二次上海事変は、やがて日本軍が上海地方を制圧し、逃げる中国軍を追撃するかたちで南京戦へと展開していくのだが、この戦いで日本軍に大きな犠牲が出た。

松井石根

中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』にはこう解説されている。
「8月13日、上海陸戦隊と支那軍との間に戦闘が開始されると、我国は海軍の要請によって陸軍部隊を増援することになり、8月15日、上海派遣軍(軍司令官・松井石根大将。第三、第十一師団基幹)の編成派遣を下令した。…
 当時陸戦隊は十数倍の中国軍と対峙して苦戦を続けていたため、第三、第十一師団は応急動員のまま出発、8月24日未明より呉淞(ウースン)およびその上流揚子江岸に上陸した。
 クリーク*とトーチカ**に拠る中国軍十五万の抵抗は激しく、我軍の攻撃は9月に入ってから停滞し、兵員の損害も急増したため、統帥部は台湾から重藤支隊(約1個旅団)を、内地からは第九、十三、百一各師団、野戦重砲兵第五旅団などを増派した。激戦の末、10月下旬に中国軍は退却を開始し、派遣軍は進撃に移り、26日大場鎮を占領、進んで蘇州河を越え、11月9日大上海全域を占領した。
 11月8日までの上海戦に於ける我軍の戦死者は9,115、負傷者は31,257。南京占領までを合算すると戦死者は21,300、負傷者は5万余に達する大激戦であった。」(『大東亜戦争への道』p.422-423)
*クリーク:小運河  **トーチカ:鉄筋コンクリート製の防御陣地

少し補足すると、戦闘が開始されたとはいえ当初の日本軍は4~5千人程度の兵力しかなく、一方国民党軍は8月17日の段階で7万名を超えていたというから、日本軍は本土から援軍が来るまでわずかな兵力で持ちこたえなければならなかったし、我国の援軍が到着した後も、次から次へと繰り出してくる中国兵との苦しい戦いを余儀なくされている。
Wikipediaによると、第二次上海事変においては航空機、戦車、軍艦の数では日本軍が優っていたのだが、兵士の数では中国兵約60万に対し日本兵は約25万と、圧倒的に中国兵が多かったのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

子供の頃に中国軍は「烏合の衆」で、日本軍の相手ではなかったという話を何度か聞いた記憶があるが、第二次上海事変では日本軍に多くの犠牲者が出ている。では、中国軍は日本軍に対してどのような戦術で臨んで日本軍を苦戦させたのであろうか。中村粲氏の文章を続けよう。

大東亜戦争への道

「上海付近の中国軍官民は、長年にわたって排日・侮日思想を鼓吹されてきたため、日本への敵愾(てきがい)心が強く、婦女子を含む一般人民までゲリラ行動に出たため、作戦は頗(すこぶ)る困難であった。また中国軍は、後退する友軍の兵を射殺する『督戦隊(とくせんたい)』という異常かつ非人道的な部隊を第一線の後方に配置したため、退路を断たれた中国兵は命を捨てて頑強に抵抗せざるを得ず、ために極めて悲惨な状況が展開したのであった。
 また中国軍は退却に際しては、重要交通機関や建造物を破壊、焼却するいわゆる『清野(せいや)戦術』*を行なったため、その道路周辺は忽ち無残な荒廃に帰したのである。のみならず敗退する中国将兵の中に『便衣隊』となり、軍服を平服に着換えて残留し、我が将兵を狙撃し、我軍の背後を脅かす者も少なくなかった。これは明白に戦時国際法の違反であった。」(同上書 p.424)
*清野戦術:焦土戦術のこと。敵が行っても泊まるところも食べるものもないように、全部焼き払う戦術。日本軍に追われた支那軍は退却の際、何もかも焼き払い、同胞も平気で犠牲にした。そのため、退路周辺はたちまち荒廃に帰した。

以前このブログで、日本に留学していた中国人陳登元氏が帰郷した際に徴兵され、日中戦争に従軍させられて負傷した体験談をもとに記された『敗走千里』という本の一節を紹介したことがあるのだが、その本には『便衣』になって逃げ延びようとした兵士の話や、『督戦隊』に銃殺されて、兵士の死体の山が出来たなどの話が赤裸々に記されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

この本は戦後まもなくGHQによって焚書にされてしまったのだが、西尾幹二氏が『GHQ焚書図書開封3』で内容を解説しておられるだけでなく、日本文化チャンネル桜でこの本の講話をしておられる番組を、誰でもYouTubeで視聴することが出来るようになっているのはありがたい。


当時陸軍少佐であり、後に参議院議員となった松村秀逸氏は著書で督戦隊についてこう述べている。この本は、国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。
松村秀逸

「支那軍は第一線に雑軍を立てる場合が多い。その後に督戦隊が頑張っていて、逃げ出そうとすると後ろから撃つのである。また無茶なことをするもので、トーチカの中で手枷・足枷をつけて、鎖でくくりつけたり、トーチカの鉄の扉に外から錠をかけたりしている。私は北支戦線でも広東でも、この手枷・足枷を見たのであるが、全くひどい事をするものである。要するに逃げ出さないように万般の手段を講じているので、進むも死、退くも死、必死の地に追い込んで、戦いをさせるのである。最も激戦だった上海戦線の如きは八段構えの布陣である。第一線、第二線と第八線迄あって、これを時々取り替えるのである。『この前督戦隊で、おれを撃ったから、今度はこっちが撃ってやるぞ』という寸法。支那人同士が仇討ちのつもりで、第一線が逃げ出そうとすると後ろから撃つのであるから、頑強な抵抗をしたわけである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218491/22

松村氏によると、このような督戦隊は15~16世紀にはいずれの国にも存在し、傭兵のような自国に対して忠誠心の乏しい兵士を働かせるために、後方に督戦隊をつけて戦わせたのだという。

中国軍(旧奉天派)第15旅隷下の督戦隊の部隊旗。1929年の中ソ紛争でソ連軍に鹵獲された

Wikipediaで「督戦隊」を調べると、こう記されている。
「国家の近代化と市民化が進むにつれ強制徴募は衰退し、戦時国際法・ハーグ陸戦条約などでは占領地での兵の強制徴募が禁止されることになる。しかしそれ以降も徴兵令による兵士(徴集兵)やゲリラ兵、市民兵、あるいは自国内で不正規に徴発された兵士(強制徴募兵)を督戦するための兵や部隊がしばしば登場した。
第二次世界大戦時、主に独ソ戦のソ連労農赤軍に於けるものや中国軍におけるものが有名である。1937年の南京攻略戦の際にも敗退して潰走する国民党軍将兵を、挹江門(ゆうこうもん)において督戦隊が射殺したと言われる事件でもその存在が知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%A3%E6%88%A6%E9%9A%8A

挹江門

第二次上海戦争で敗れた中国軍は撤退を始め、当時の首都であった南京に防衛線を構築した。挹江門というのは南京城の北西にあり揚子江に最も近い場所にある城門である。
閉ざされた挹江門の城壁を登って越えて逃げようとする中国兵を射殺したのが正式な督戦隊であったかどうかは議論があるようだが、南京戦を経験した日本軍の兵士たちが督戦隊について語った証言が残されている。

nanking_senshi01.jpg

『証言による「南京戦史(6)」』p.10に掲載されている高橋義彦中尉の証言を紹介しよう。
高橋氏は当時第6師団左側支隊に所属し、(12月)12日に新河鎮の部落まで進軍して、13日に揚子江沿いを下関(シャーカン)に向かう予定であったが、13日の早朝5時ごろから敵の総攻撃を受け、最初の頃は勇敢な兵士が出てきて手こずったが、9時ごろから次第に敵兵の質が落ちて、11時頃に出てきた敵は戦意を失っていたという。

南京地図

「(12月)13日11時頃、敵の突撃部隊は便衣を着た民兵たちで、質が落ちてヘッピリ腰で押し出してくる。異様な感じがした。見れば、私たちの抵抗をうけて反転しようとする兵を督戦隊が後方から射殺している
督戦隊は『督戦』という腕章.をつけ、大型モーゼル拳銃をかまえて約四歩間隔に横に展開しており、突撃部隊を押し出すのが任務であったようだ。 味方撃ちで殺された敵の死体は、死体総数の約1割、三百名を下らないと観察した。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking06.pdf

高橋氏によると9時以降繰り出してくる敵兵の約半分は督戦隊によって射殺され、戦場には遺棄死体が約2300、水際付近には約1000あったと記している。そして、「遺棄死体の服装は区々であったが、一般住民は混入しておらず、すべて武器を持った戦闘員であった。また付近には住民は一人も居らなかった」とある。

中国兵の多くが軍服を着用していない「便衣兵」であったのだが、これは明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうことになるからだ。
南京陥落の前日である12月12日に、中国兵多くが商店などからの掠奪をし、軍服を脱いでいることがニューヨークタイムズのダーディン記者が目撃している。その記事が『証言による「南京戦史(5)」』に掲載されている。

12日の夕方、彼等は安全地帯に充ちあふれ数千の兵士は軍服を脱ぎ始めた。民間人の服を盗んだり、通りがかりの民間人に頼んでわけてもらったが、どうしても『非戦闘員』に化けきれない兵士は、最後には軍服を捨てて、下着姿となった。
持っていた武器は、軍服と一緒に投げ捨てられたので、街頭には銃や手榴弾、軍刀、鉄カブトが山積みされた。特に下関付近に棄てられた軍需品の数は驚くほど大量だった。逓信省前から二区画にわたって、トラック、大砲、バス、乗用車、荷馬車、マシンガンの類がまるでガラクタ置場のように散乱していた。
そして12日の深夜には、南京市が誇る豪華な建物の逓信省に火が放たれ、中に貯蔵されていた弾薬は、物凄い音をたてて、数時間にわたって爆発を続けた。火はやがて付近のゴミの山に燃え移り、この日は翌日も燃え続けた。…
中国軍部隊のうち、数千名は下関に辿りつくと、数少ないジャンク、ランチを使って揚子江の向こう岸に着くことができた。しかし、この途方もない『パニック』のため、揚子江で溺死するものも沢山あった。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking05.pdf

そもそも蒋介石は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡していたのだから、中国軍に戦意が乏しかったことは当然なのだが、13日に南京が陥落して日本軍の勝利となったとはいえ、これで戦争が終わったわけではない。南京政府は都落ちしたが、四川省の重慶へ遷都し抗日政権は残っていたのだ。

ここで考えて頂きたいのだが、南京の戦場に残された遺棄死体の多くが軍服を着ていなかったし、遺体の処理は中国側が実施した。武器を回収してしまえば、遺棄死体や処理のために運ばれた死体だけを見れば住民ともども虐殺されたと誤認される可能性が外見上からはありえたということは重要なポイントである。その点を衝いて蒋介石は、プロパガンダで日本を貶める戦略を考えていたようである。

南京事件--国民党極秘文書から読み解く

東中野修道氏の『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』によると、国民党は上海戦に次ぐ南京戦に勝算がないことは承知していたという。しかし蒋介石には別の狙いがあったという。

「だからといって日本との戦いを放棄することはなかった。中央宣伝部が『抗戦6年来の宣伝戦』(1943年)で〈現代戦は武力戦とともに宣伝戦が勝敗を決する決定的要因である〉と言うように、彼らは武力戦で負けても宣伝戦でかつという国策に立っていた。そして董顕光の率いる中央宣伝部はかってない宣伝戦を計画した
 極秘文書の中の『編集課工作概況』は、編集発行した『英文日刊』について、次のように報告している。
 『…たとえば首都(南京)防衛戦のときには我軍の勇気を奮い起こした作戦、後方の救援工作を宣伝し、首都が陥落した跡は、敵の暴行を暴き、武漢会戦の段階では、わが軍事力が日増しに増強したことを宣伝した。』
 つまり中央宣伝部からすると、南京戦の焦点は陥落後の敵軍(日本軍)の暴行を宣伝する宣伝戦に絞られていた。…
 …中央宣伝部が国際宣伝において重要視していたことの一つは『各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする』ことであった。つまり『われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、最も直接的な効果がある』のであり、そのための工作が重要であった。」

南京陥落直後の12月15日に『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、18日には『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が、南京事件で日本軍による虐殺があったとする記事を書いたのだが、この時に世界の報道機関は二紙に追随しなかった。主要国の記者は南京にいたので、何が真実であるかがわかっていたようである。
国民党政府は米紙の報道があったことを根拠に、この事件の直後の1938年2月に国際連盟における顧維鈞の演説で2万人が日本軍に虐殺されたことを世界に向けて公言したのだが、これも世界の反応がなかったという。当時は主要国の記者が南京にいたので、中国の主張が嘘であることが判断できたのだろう。

しかしながら、その後中国は東京裁判以降このプロパガンダを何度も繰り返し、わが国が長きにわたり積極的な反論を行なわなかったために、今では『南京大虐殺があった』という説が世界の多数説になってしまっている。

わが国のマスコミや学校で「自虐史観」が今も拡散されているのだが、当時の南京の写真や映像を先入観なしで観ていただいて、本当は何があったのかを多くの人に考えてほしいと思う。
当時の新聞や写真で報道された、日本軍が南京戦に勝利したあとの南京の写真や映像が数多く残されているのだが、いくつかを見れば、その後に南京に平和が訪れて住民の笑顔が戻ったことが分かっていただけるだろう。

南京風景

Wikipediaに当時の写真がいくつか紹介されているが、上の写真は南京陥落の4日後の12月17日に日本軍による南京入城式が行われた後に、「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民の画像である。(昭和13年1月11日発行『支那事変画報 大阪毎日・東京日日特派員撮影』第15集)
また下の写真は12月20日に南京城内中山路にて子供達と戦車の玩具で遊ぶ日本兵の画像である。(昭和13年刊、朝日新聞『支那事変写真全集〈中〉』)

南京事件1220

もう一度言うが、アメリカの2新聞が「日本軍による大虐殺があった」と報じた日は、12月15日と18日であるのだが、もし本当に大虐殺があったのならば、子供がこのような表情をするはずがないのだ。

また南京陥落の翌年である昭和13年の2月に封切られた『戦線後方記録映画「南京」』がYouTubeで公開されている。



この記録映画は昭和12年(1937)12月14日から翌年1月4日に至るまでの間、南京城内外の様子を撮影したものだが、通説では南京陥落後に『南京大虐殺』が行なわれたことになっていることを頭に入れて、多くの人にじっくり見て頂きたい映像である。
もちろん、わが国が編集したものだからわが国にとって都合の悪い場面はカットされている可能性は否定できない。

南京入城式

とは言いながら、12月17日に陸海軍による入城式が整然と行われ、18日には陸海軍合同慰霊祭が厳かに挙行されている
多くの中国人が映像に出てくるのだが、日本人を恐れている様子は感じられない。正月になって爆竹を鳴らして遊びに興じる子供達の明るい表情を見れば、陥落後わずか1か月で南京の人口が20万人から25万人に膨れ上がったことが、誰しも納得できるのではないだろうか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html



日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか

前回の記事で、蒋介石は上海戦に続く南京戦に勝算がないことは承知しており、南京陥落の後に日本軍の暴行を世界に宣伝し、武力戦で負けても宣伝戦で勝つという国策に立っていたことを書いた。

蒋介石総統および政府・軍部の首脳は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡したのだが、これも予定の行動であったと思われる

唐生智将軍記念館

というのは、無責任にも南京から逃亡した唐生智は、その後栄転して中国国民党革命委員会の中央常務委員、全国人民代表大会の常務委員会委員、全国人民政治協商会議の常務委員会の委員などを歴任している。調べると南京には「唐生智将軍記念館」というものまでが存在するようだ。
南京戦の最高司令官の任務を放棄して逃亡し、多くの自国の兵士を死なせてしまったのなら、普通に考えれば極刑に処されてしかるべきところだが、そうならなかっただけでなく、偉人扱いされているのは何故なのか。

しかも唐生智は、中国兵が最もショックを受けるタイミングで南京を脱出しているのだ。
前回の記事で書き漏れてしまったが、日本軍は12月9日に空から「投降勧告文」を投下している。そこにはこう書かれていたと12月10日付の朝日新聞に報道されている。

投降勧告

日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり。…本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、即ち南京城を和平に開放し、しかして左記の処置に出でよ。…
本勧告に対する回答は12月10日正午…もしも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば日本軍はやむを得ず南京城攻略を開始せん
。」(水間政憲『ひと目でわかる 日韓・日中の歴史の真実』p.48所収)

ところがこの勧告を総司令官の唐生智が拒絶したため、日本軍の南京城攻撃が決定してしまった。
しかしながらこの唐生智は、日本軍が中華門の一角を占拠した12日夕刻に、自軍に対して撤退命令も出さないままに南京を逃亡してしまったのである。当然のことながら中国軍は大パニックに陥った

Wikipediaには、12月12日の夕方以降の出来事についてこう記されている。
逃げ遅れた将兵は唯一の脱出口であった南京城西北の挹江門(ゆうこうもん)に殺到したが、門は既に閉じられており、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった
この際、挹江門の防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生。…高さ2メートルに及ぶ死体の山を乗り越えて南京城の城壁を急造のロープで降りようとした多くの将兵が墜落して死亡している
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%B9%E6%B1%9F%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

挹江門

この城壁の高さは15メートル近くはあっただろう。飛び降りて逃げることは不可能だ。しかも周囲は真っ暗だったはずである。
前回の記事で紹介した『戦線後方記録映画「南京」』には、南京城内から挹江門の城壁を乗り越えて逃げようとした兵士たちが、城壁を降りようとした際に用いた多数の手作りのロープや、乗り越えたあとに脱ぎ捨てた軍服や、打ち捨てた夥しい兵器類など生々しい映像に残されているので、一度視聴されることをお勧めしたい。この映像をスタートさせて6分した頃から挹江門周辺の影像が紹介されている。
https://www.youtube.com/watch?v=nos2prviBq8

挹江門城壁の綱

「ロープ」と言っても決して頑丈なものではなく、帯・ゲートル・縄など長いものを結びつけて作ったもので、その「ロープ」に多くの兵士が殺到して降りようとしたため、持つ手が滑ったり、ロープが重さに耐えられずに切れたりして多くの兵士が落下し、圧死した者が上に積み重なって死体の山が出来たと考えるのが自然だと思う。
後ほど紹介するが、米国『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、南京陥落直後挹江門を通った時に、5フィート(約1.5m)の死体が積もっていてその上をやむなく車を走らせたと12月15日付の新聞記事に書いている。もし日本軍との銃撃戦でこれらの兵士が死んだのなら、その死体が5フィートもの高さで積み重なるはずがないことは誰でもわかる。

Falsehood_in_The_Rape_of_Nanking4.jpg

城壁をなんとか下りて脱出に成功した中国兵たちはそれから揚子江方面に向かっていったのだが、今度は数少ない船を奪い合う争いが起って川岸には多くの兵士の死体が散乱し、溺死していた兵士も多数いたことが目撃されている。

南京戦の戦闘地図

そして翌13日には日本軍が南京城に迫り、揚子江沿いに逃げようとする中国兵と日本軍との銃撃戦となったのだが、中国兵の多くはいわゆる『便衣兵』で軍服を着ていなかったという。また彼らの後ろには督戦隊がいて、逃げようとする多くの兵士が味方の督戦隊に射殺されて、戦場には多くの便衣兵の死体が残されたのである

揚子江に近い挹江門から下関(シャーカン)近辺はそんな状況であったが、南京城内で軍服を脱ぎ捨てて、住民が避難していた『安全地帯』に潜り込んだ中国兵もかなりいた。

中国軍が総崩れになったきっかけは、日本軍が南京の中華門の一角を占拠して唐生智が逃亡したあたりからなのだが、12日の夕方に数千の中国兵たちが軍服を脱いだことと、深夜に逓信省に火が放たれたことは、『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が目撃し記録している。
『証言による「南京戦史」(6)』の中で、当時第十軍参謀であった谷田勇氏は「中国軍の抵抗は12日城壁の線で終わり、13日には戦火を交えることなく城内を平定している。…
軍司令部は翌々日の14日午前、城内に入り、正午過ぎに南京路のほとりにある銀行の社屋に司令部を置いた。市内は既に平静で、駐留間一発の銃声も聞かなかった
。」と書いている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking06.pdf

また、『証言による「南京戦史」(5)』では、歩兵第47連隊速射砲中隊長として参加した安部康彦氏の証言があり、それにによると13日から17日の入城式までの間、一部の兵士に城内掃討を行なわせたがほとんど敵がいなかったという。
「掃討部隊から聞いた話では、便衣の敗残兵は、ほとんど退去した跡であり、掃討といっても遺棄された軍需品の収集や跡片づけが主な仕事であったとのことです。
その全体はわかりませんが、第9中隊の陣中日記によると、『各種弾薬数万発、青竜等数十本、軽機、重機数百挺、小銃六百挺、迫撃砲数門、毛布、天幕、軍服など遺棄されたもの多数』と誌してあります。遺棄された軍需品は多数であったと記憶しております。」
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking05.pdf

南京城内の残敵掃討は他の部隊も実施ししているが、相手は軍服を着ておらず民間人に成りすましていながら武器を持っている可能性があった。掃討の要領は各部隊により方針が微妙に異なっていた可能性があるが、例えば『証言による「南京戦史」(7)』で畝本正巳氏は、歩兵第6旅団の「掃討実施に関する注意事項」の中には「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵とし、すべて逮捕監禁せよ。」という条項があり、実際に14日には「多数の俘虜及び兵器を鹵獲して、…この掃討間、反抗の気配があった敗残兵約七、八十名を射殺している。」と書いている。その日に俘虜250名に対し小銃230挺、軽機関銃11挺、対戦車砲2門、機関砲1門等を鹵獲したとあり、処刑されたのは敵兵であったことは間違いがなかったようだ。「便衣兵」を処刑することは戦時公法の認めるところであるのだが、事情を知らない人物が服装だけで判断すれば、一般市民を虐殺したかのように見えてもおかしくない。
http://www.history.gr.jp/~nanking/sougen_nanking07.pdf

ここで前回の記事を思い出してほしい。

南京事件--国民党極秘文書から読み解く

東中野修道氏の『南京事件――国民党極秘文書から読み解く』によると、国民党中央宣伝部の極秘文書『編集課工作概況』に「首都が陥落した後は、敵の暴行を暴き」「各国新聞記者と連絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」と書かれているそうだが、彼らにそのような意図があったことを理解しなければ、南京を逃亡した総司令官の唐生智がのちに栄転した謎が解けないのである。唐生智が逃亡することで、中国軍兵士がパニックに陥り、南京城外には多くの便衣兵の死体ができ、城内では軍服を脱いで安全地帯の民家などに紛れ込んだ一部の兵士が処刑されたのだが、そのような状態を作って外国人記者に見聞させることが蒋介石のねらいだったのだろう。唐生智は抜群のタイミングで逃亡し、中国軍を大混乱させ、ほとんどの兵士を便衣兵にさせて多くを死に至らしめて、日本軍の暴行とする報道に結びつけることに成功したから評価されたのではないのか

「日本軍が中国の民間人を虐殺した」という中国が流したデマに騙されたのか、中国からカネを受け取って書くことになったのかは定かではないが、前回の記事で紹介したとおり、南京陥落直後の12月15日に『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が、18日には『ニューヨークタイムズ』のダーディン記者が、南京事件で日本軍による虐殺があったとする記事を書いている。では、具体的にはどんな内容であったのだろうか。

次のURLで、15日付の『シカゴ・ディリー・ニュース』のスティール記者が書いた記事の全文が翻訳されている。
http://www.geocities.jp/yu77799/steele.html

「<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。
 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた
 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
 南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。

 五フィートも積もる死体
 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。
陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィートの厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。
市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。」

スティールが下関門と書いているのは挹江門のことだと思われるが、先ほど少し触れたとおり、もし日本軍が銃殺していたのなら、5フィート(約1.5m)の高さに中国兵の死体が積み上がることはありえないし、また、日本軍と戦う直前に中国兵士が軍服を脱ぎ、大量の武器を捨てたことをどう説明するつもりなのだろうか。挹江門の周囲に武器が散乱していたのは、日本軍と戦う前に逃亡しようとした兵士が多かった以外には考えられないはずだ。

スティール記者の記事はこのくらいにして、次にダーディン記者の記事を読んでみよう。次のURLで、18日付の『ニューヨークタイムズ』の記事が翻訳されている。
http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html

ダーディン記者

「十二月十七日、上海アメリカ船オアフ号発 ニューヨーク・タイムズ宛特電
 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。…大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。…」

などと、まるで自分の目で日本軍による虐殺や暴行行為を見たかのようにレポートしているのだが、1987年8月にダーディンは、自分が書いた南京大虐殺の記事は嘘であったことを正直に告白しており、その文章がネットで読める。

この下関地区では、それこそ大勢の兵隊が挹江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりしたのです。前にもお話したような気がしますが、私たちが南京を出るときに、この門を通りましたが、車は死体の山の上を走らねばなりませんでした。この門から脱出しようとした中国軍の死骸です。中国軍はあちこちで城壁に攀じ登り脱出を試みました、これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で戦闘はありませんでした。(『南京事件資料集』アメリカ関係資料編)」
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/7214269.html

蒋介石に協力して『南京大虐殺』の虚報を世界に流した当の本人が、南京の記事は嘘であったというだけでなく、日本軍が占領する前から中国兵の死体の山が出来ていたと思うと述べていることはもっと注目して欲しいところである。

前回も書いたが、このような2人の米人記者の記事を世界のマスコミは追随しなかった。そして翌年2月に、国際連盟における中国の顧維鈞の演説で、中国人2万人が日本軍に虐殺されたと述べたのだがその時も相手にされなかったことは知っておいてよい。
そもそも『南京大虐殺』という言葉が使われるようになったのは東京裁判の時であり、東京裁判の際にも、中国側は虐殺を目撃した証人を出す事ができなかった。
しかしそれ以降、わが国の左翼と連携して何度もこのプロパガンダを繰り返し、わが国政府が積極的な反論を行なってこなかったことから、いつのまにか教科書に『南京大虐殺』が掲載されるようになり、先日はこのウソ話がユネスコ記憶遺産にも登録される見通しになったことが報道されている。

南京大虐殺 記憶遺産へ

中国がこの申請を行なったのは昨年の6月の話なのだが、藤岡信勝(拓殖大学客員教授)らが外務省に対してこの問題にどう取り組んできたかを尋ねたところ、外務省は6回にわたり中国政府とユネスコ事務局に対し反対意見を提出したと答えたそうだ。そこで藤岡氏が、それならばその反対意見の内容を公表せよと迫ったが、外務省はそれを拒否したという。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5985.html

上記URLによれば、中国がユネスコに申請した書類は写真もフィルムも日本軍とは関係がなく、中国人の日記や日本兵の供述書も捏造されたものばかりで「日本軍の犯罪の証拠」とはなりえないものだという。それならば、外務省が反論することは容易であるはずなのだが、反論内容を国民に堂々と公表できないということは、外務省は本気で中国やユネスコと戦っていないと言っていることと同じである。

ユネスコで記憶遺産に登録されたということは、第二次世界大戦は日本だけが悪かったという歴史観を固定化させようとする「歴史戦」なのだが、この戦いを今までのように政治家や官僚や学者やマスコミに任せてもロクなことがなかったし、これからも同様であろう。
わが国は民主主義国家なのだから、まずは国民が真実を知り、おかしな動きをする勢力に「NO」を突きつけて、国民の強い意志を示して政治家を動かさないことには世の中は変わらないのである。
まずは、昨年54億円以上も支払ったユネスコに対する拠出金を凍結せよ。その上で、今回の外務省の失態を徹底的に国会で糾弾せよ。

黄河決壊事件

さらに、中国が民間日本人223名を虐殺した昭和12年(1937)の通州事件と、昭和13年(1938)に中国国民党が日本軍の進撃を止める目的で仕掛けた黄河決壊事件で数十万人の犠牲者が出て、日本兵が多くの地域住民を救助した史実を教科書に載せるだけでなく全世界に発信して、いかに中国という国がウソばかりついてきた国であることを世界の人々の記憶に留めさせよ。
ここでわが国が毅然とした態度を取らなければ、これからも中国から舐められるだけではないのか。
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http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.htm


わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。

大東亜戦争とスターリンの謀略

三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。しばらく引用させていただく。

柴田秀利

「三田村代議士と松前氏の持ち込んだテーマは、実に驚嘆に値するものだった。
『馬場さん、ソ連のスパイであった尾崎・ゾルゲ事件を御記憶でしょう。私どもは警保局でこの事件を担当して以来、一貫してその内容の分析、調査をしてききましたが、ようやくことの真相を突き止めることができました。実をいうと、彼らは単なるスパイではなかったんです。コミンテルンの世界革命計画に従って、敗けると決まっている戦争に日本を駆り立て、敗戦に導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという、大変な戦略、つまりこれを名付けて『敗戦戦略』といいますが、この大ワナに日本をはめ込んだ、とんでもない、壮大な政治謀略家だったんです。愚かにも日本は、ウマウマとその手に乗っかかって、今日の惨状を招くに至ったということに、目を開かせなきゃいかんと思ってお伺いしたわけです。』」(中央公論社『戦後マスコミ回遊記』p.35)

ゾルゲ

少し補足しておこう。
「尾崎・ゾルゲ事件」というのはこのブログでも何度か触れたが、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報・謀略活動を行なっていたとして、昭和16年(1941)9月から翌年4月にかけてその構成員が逮捕された事件をさしている。
その中に近衛内閣のブレーンであった元朝日新聞記者の尾崎秀実がいて、ゾルゲと尾崎が死刑に処せられた。尾崎は近衛内閣嘱託の立場を利用してわが国の国家機密や会議の内容などをゾルゲに提供していたのである。
コミンテルン」というのは、1919年にモスクワで結成された共産主義政党による国際組織で、モスクワからの指令により世界各国で共産革命を起こそうとしていた。
わが国でも大正11年(1922)7月に日本共産党が設立され、その年の11月に日本共産党がコミンテルン日本支部となり、昭和2年(1927)にモスクワから次のような「日本に関する決議(27年テーゼ)」を受けている。
「日本の資本主義は既に末期的段階に達し、崩壊の前夜にある。日本共産党はその革命的指導力を急速に強化し、プロレタリア暴力革命に突入して君主制を廃止し、共産党独裁政権を樹立せよ。」

日本共産党は非合法の地下活動やテロ活動を行なうも、相次ぐ弾圧で主要な多くのメンバーを失い、5年後の昭和7年(1932)に方針が変更されるに至る(32年テーゼ)。

「日本にはプロレタリア革命に突入する客観的条件がまだ整っていない。当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階である。(二段階革命論)

戦後マスコミ回遊記

ふたたび柴田氏の著書を引用する。
「この急がばまわれの二段革命論に活用されたのが、レーニンの世界革命戦略の基本綱領だった。つまり、究極の世界革命達成のためには、まず、資本主義国同士を戦わせ、その負けた国から一つずつ革命していき、大勢のきまったところで一挙に世界暴力革命に突入する――という筋書きだという。それを彼らは敗戦謀略と名付け、日本をその絶好の生贄と見てとったのだった。
 幸か不幸か、時の宰相近衛文麿公爵は、学生時代から公卿には珍しい進歩主義者で、…彼の側近には、…そのほとんどがいうところの進歩主義者で埋め尽くされ、モスクワの使者尾崎が潜入するには、何の障壁もなかった
 ゾルゲの指示に従って近衛内閣の嘱託となり、近衛を取り巻くブレーン・グループが構成していた、いわゆる『朝飯会』の有力メンバーとなった。その主な顔ぶれを見ただけでもゾッとする。
 風見章、富田健治、西園寺公一、笠信太郎、原貞蔵、松本重治、田中慎太郎、犬養健、牛場友彦
 身近な秘書官から大臣、書記官長(今の官房長官)に加うるに、親戚、縁者、ジャーナリストから学者を加え、揃いも揃ったり、といいたいところだが、これだけ集まれば、国の最高機密だって、何でも取れる。また国政を左右しようとすれば、何でもできる。スパイにとって、これ以上の宝庫はなかった。…」(同上書 p.36-37)

第一次近衛内閣

柴田氏の著書には詳しくは記されていないが、第一次近衛内閣の時にわが国は中国との戦争に巻き込まれている。
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(昭和12年[1937]7月7日)は、近衛内閣が成立してわずか33日目に起きたのだが、その事件を仕掛けたのは中国共産党であったことが今では明らかになっている。
わが国の陸軍中央と外務省は事件の翌日に不拡大方針を決め、2日後に現地停戦協議成立の報告が入って派兵提案を見送ったのだが、中国側は停戦協議で約束した撤退を実行せず、3週間にわたりわが国に挑発を続け、7月13日には「大紅門事件」で4名の日本兵士が爆殺され、ほかにも日本人が支那軍から包囲され、銃撃される事件が相次いだ。(「廊坊事件」「広安門事件」など)

通州事件

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、7月28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始し中国兵を敗走させている。しかしながら翌7月29日に、通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件(「通州事件」)が起こり、260名の日本人居留民が極めて残酷な方法で虐殺されるに至る。

第一次近衛声明

このような卑劣なやり方でわが国は日中戦争に引きずり込まれていき、日本軍はその年の12月に南京を攻略して講和に持ち込もうとしたのだが、アメリカ、イギリス、ソ連の後ろ盾を得ていた蒋介石はあくまで徹底抗戦する姿勢であった。
翌年1月16日に近衛は「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の声明を発表し、蒋介石政府との講和の芽を自ら摘んでしまって、汪兆銘を担いで南京政府を樹立させて支援しようとしたのだが、中国で汪に呼応する有力政治家は現れず、早期停戦はますます遠のいてしまうことになる。その一方で、近衛の足下では彼のブレーンたちによって本館的な臨戦態勢が打ち出されていくことになる。

大政翼賛会

再び柴田氏の著書に戻ろう。
まず『近衛新体制』と称して『翼賛政治会』の名のもとに、政党は解体統一された。相前後して『大政翼賛会』の名のもとに、下は下町の片隅にまで隣組組織がくまなく網をはりめぐらされ、またたく間に日本は全体主義的統一国家へと変貌していった。近衛自らの達筆になる『上意下達、下意上達』の迷文句が、氏神様のお札のように、全国至るところにベタベタと張られ出したのもこのころだった。それにもかかわらず、議政壇上で『なぜにかかる全体主義的な非民主的国家統一、独裁体制を作るのか』と政党代表に詰問され、追いつめられたとき、一国の、しかも非常時を背負う総理大臣が、『実は私にも、どうしてこうなったか、全く何もわからぬままに来てしまったのです…』といって絶句し、白いハンカチで眼を拭って、泣き出してしまったのを、駆け出しの記者の私も目撃している。世の中にこんな不思議なことがあってたまるものかと、憤激を覚えたことが、昨日のことのように想い出される。彼がいかに目隠しされた操り人形であったかを如何に物語るシーンだった。」(同上書 p.39)

昭和13年(1938)に労働力・物資・価格・金融・事業を国家が統制できる「国家総動員法」が成立したのだが、明治憲法が定める議会制民主主義と「天皇の大権」のいずれをも無視するような法律がなぜ成立したのか。
この法律は衆議院の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれたのだが、そのような法律を通すためには、日中戦争が長期化する情勢が必要だったことは誰でもわかる。近衛は蒋介石政府と断交したのはそのためであったと考えるのだが、おそらく近衛の周囲に集まった左翼のブレーンたちが近衛にそう言わせたのである。その後「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」などという勇ましい言葉が新聞の見出しに躍るようになるだが、このような言葉は尾崎に近いグループが考案したものと考えて良い。

柴田氏の著書にこう記されている。

「三田村・松前両氏の説明によると、尾崎の筋書に近衛の親友、後藤隆之助たちが乗って『昭和研究会』とか『国策研究会』をつくり、そこでこれら新体制なるものの綿密な全体計画が練り上げられていったという。しかも表面上は、日増しに強くなってきた軍閥の力を抑制するには、これ以外にないというのが、ここに集まった進歩主義者たちの言い分だった。しかしそれらすべてが裏を返せば、近衛なきあと、軍閥が政権をとれば、そのままヒットラーやスターリンと全く同じ、軍事独裁政権確立のための巧みなお膳立てとして着々と進んでいたことになる。」(同上書 p.39)

そして1941年6月に、ドイツのヒットラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始する。ヒットラーは同盟国のわが国に対して日本軍のシベリア出兵を何度も催促し、軍はそれにこたえて7月に関東軍を満州と朝鮮半島に集結させたという。そのまま関東軍が北に進めばソ連は潰滅していた可能性が高かったのだが、この時にソ連を危機から脱出させたのがゾルゲグループによる情報収集と工作活動なのである。

尾崎秀実

先ずアメリカが対日全面禁輸に踏み切ったのだが、当時のわが国の石油備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかったという。そこで、尾崎秀実が『北方傾斜論』を書き、次のように主張したことが柴田氏の著書に引用されている。

今北進すれば、シベリアは苦もなく手中のものとなろう。だがツンドラのシベリアを手に入れて何になるか。そこからは日本が必要とする石油の一滴すら取れないではないか。それよりも、北方にいささかの懸念もなくなった今こそ、進んで軍を南に向け、豊かな石油資源を手に入れる絶好のチャンスであり、その方がとどれほど賢明か。…今日本を真に敵視しているのはソ連ではない。米英である。米英は、日本が北進作戦で、なけなしの石油と鉄を使い果たすのを見届けた上で、必ず日本を討って出るに違いない」(同上書 p.40)

この尾崎の主張が採用されてわが国は「南進論」に舵をきることになるのだが、そのことによってわが国は米国と戦うことを余儀なくされることになる。驚くべきことに、そのことはスターリンがその6年前に描いた『砕氷船のテーゼ』の筋書きの通りなのである。

スターリン

昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこのような演説をしたという。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

コミンテルンはこの大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
その上で、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立て、日本の敗戦が近いと分かってから日ソ中立条約を破棄して宣戦布告している。
そうすることによってソ連は「ドイツと日本が荒らし回った」多くの地域を共産化することに成功し、ドイツについては東ドイツを共産国化し、日本については千島列島をソ連領とし、北方4島と南樺太の占拠が今も続いているのだが、第二次世界大戦後にスターリンの計画に近い状態が現実のものとなったことが、ソ連による工作活動と無関係であったとは到底思えない。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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