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醤油の歴史と本物の醤油の見分け方

醤油のルーツは古代中国から伝わったと言われているが、 いつの時代に伝わったかは良く分からない。
大宝律令には宮内庁の大膳職に属する「醤院(ひしおつかさ)」で大豆を原料とする「醤(ひしお)」が作られていたと書かれているそうだ。当時の「醤」は今の醤油と味噌の中間のようなものだったそうだ。

今の醤油はいつごろ生まれたかと言うと諸説があるようだが、湯浅で聞いた話では、鎌倉時代の中頃に紀州の禅寺「興国寺」の開祖「法燈円明国師」が、当時は南宋と呼ばれていた中国から伝えた嘗味噌(なめみそ::経山寺味噌、現在は金山寺味噌と呼ばれている)の醸造法をならって帰国し、その味噌に瓜・茄子などの野菜を漬け込んで発酵させ精進料理としたのだが、その金山寺味噌の製造工程で、樽にたまった汁で食べ物を煮るとおいしいことが発見され、それが「醤油」の起源となったとのことである。

紀州湯浅で生まれた醤油の製法はその後も発展し、天正年間(1580年頃)には日本で最初の醤油屋さんと言われる玉井醤が、味噌・醤油業を開始したとされる。

玉井醤名所図会

19世紀初頭に出版された「紀伊国名所図絵」にも、湯浅醤油が日本の醤油の起源として紹介され、玉井醤については「村中大阪屋三右衛門店にて製す。経山寺味噌の類なり。…実に未曾有の味なれば、紀州経山寺の稱、遍く他邦にも聞こえたり。」と記されている。

湯浅の醤油は各地からの引き合いもあり藩も手厚く保護して、江戸時代に湯浅で千戸あった家のうち醤油屋が92軒もあったそうだ。
しかし明治以降は藩の保護もなくなり、大手メーカーの進出により多くの醤油屋が廃業し、今では一部の会社が伝統の製法を守っている。

028玉井醤本舗大三

ここが玉井醤本舗だが、ここの金山寺味噌は今でも有名で、毎年夏の時期にだけ仕込んで無くなり次第販売終了となる貴重な味噌だ。米、麦、大豆になす、しそ、ショウガなどを加え、塩以外の添加物を一切含まないとのことだが、私が2年前に行った時には5月だったので買えなかった。

湯浅で昔ながらの醤油屋を見るのだったら「角長(かどちょう)」。

029角長の建物

今も江戸時代の天保年間に作られた蔵を用いて、今も昔と同じ製法で伝統の醤油が作られ、もちろん販売もしているし、平日あるいは土曜日に行くと従業員により、湯浅醤油の歴史や伝統的な製造法について説明を受けることができる。

伝統の製造法で原料となるのは大豆と小麦と塩と水だけで、それらが麹菌、乳酸菌、酵母による発酵過程をへて醤油が出来上がる。醤油の色は発酵させれば「メイラード反応」により自然に赤褐色になるのであって、本物の醤油は一切着色料を使わないということだ。
ちなみにスーパーなどで売られている醤油の原料を見れば、原料にいろいろなものを使っている。大豆も「脱脂加工大豆」という油の搾りかすを原料にしていることが大半だ。
角長の従業員によると「脱脂加工大豆」では醤油独特の色が出ないために着色料を用いざるを得ないし、香りも味わいも乏しくなるから香料を用いているところが少なくないそうだ。

角長蔵

角長では原料にもこだわりがあり、大豆は岡山産、小麦は岐阜産、仕込みの際の塩水はオーストラリア産の天日塩が用いられている。加熱には一切ガスや電気を使わず薪を用い、桶は吉野杉の木桶を今も使っているとのことだ。

伝統的な製造法では「こいくちしょうゆ」の場合、大豆と小麦の分量は大豆5割、小麦5割と決まっているそうだが、この角長では大豆6割、小麦4割で作っているとの話で、昔からの製法を愚直に守ってきた姿勢に感激して、お土産用に一杯醤油を買って帰った。実際使ってみて、大手メーカーの醤油とは香りが全然違う。それ以来、醤油は本物しか買わないことにした。

地方に旅行に行った時に地元産の醤油の原料を確認することがあるが、多くの場合は大豆以外に「脱脂加工大豆」を原料とし、着色料などを使っているのをみてがっかりすることがある。大手メーカーのまねをしてコストを下げたところで、結局は販売力の差では零細企業は勝てないだろう。小さい企業であれば、そこでしか作れないものにチャレンジしてこそ生きる道があるのだと思う。
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「おはぎ」と「ぼたもち」の違い

最近いろんなお店で、「おはぎ」が沢山店頭に並べられている。今日は「お彼岸の中日」で、彼岸の時期に「おはぎ」を食べるのは日本古来の伝統である。

ぼたもち

私の京都の実家はお寺で、春や秋の「お彼岸」の法要には毎年沢山の檀家の方々が集まり、昔は集まった皆さんのお昼の食事を、婦人会の方々が手分けして作って振る舞われておられたことを良く覚えている。

そしてこの時期に必ず用意されるのが粒あんで丸く作られた「おはぎ」なのだが、子供のころにこれを「おはぎ」と言うと婦人会の人に「ちがう、『ぼたもち』や」と言いかえられたか、「ぼたもち」と言って「ちがう、『おはぎ』や」と言いかえられたかどちらか記憶が定かではないが、とにかく「おはぎ」と「ぼたもち」とはどこがどう違うのかが良く分からなかった記憶がある。

子供の時にきちんと婦人会の人に聞いておけば良かったのだが、だんだん聞くのが恥ずかしいような年齢になってしまって、良くわからないまま過ごしてきた。

誰でも疑問に思いながら、大人になると聞くことが恥ずかしくなって、知らないままに過ごしていることがいくつかあるのだと思うのだが、こういうことは今はパソコンで検索すれば恥ずかしい思いをしないでいろんなことを容易に知ることができる便利な世の中になっている。

私が「おはぎ」と「ぼたもち」との違いを正しく知ったのは最近の事なのだが、正解は春のお彼岸に食べるのは「ぼたもち」で秋のお彼岸に食べるのは「おはぎ」で、ただ季節により呼び方が変わるだけである。

両者の違いは、外側の餡が粒餡かこし餡かの違いだとか、中が搗いた餅かどうかの違いだかいろんな説明を聞いたことがあったが、子供の時に実家の婦人会の方に作っていただいた「おはぎ」と「ぼたもち」は外見も中身も全く同じあったので腑に落ちなかった。

最近になって、たとえば次サイトの文章を読んでようやく永年の疑問が解消した次第である。
http://allabout.co.jp/career/dictionary/closeup/CU20010905/index.htm

上記の文章によると、「おはぎ」は萩、「ぼたもち」は牡丹が咲く季節と関係している。また、夏や冬にはまた別の名前があることも紹介されている。夏は「夜船」、冬は「北窓」とい言い、いずれも「搗きしらず」、すなわちいつ作ったのか分からないことをひっかけて名づけられているのだが、詳しくは是非上のサイトを参考にしてください。

昔の人は季節の野菜や果物を食し、お菓子まで季節によって名前を変えて、季節の風情を味わっていたということは素晴らしいことではないか。

しかしなぜお彼岸に「おはぎ」や「ぼたもち」を食べるようになったのか。

いろいろ調べると、永田久さんが「年中行事を「科学」する」という本の中で、次のように説明しておられることがわかった。

「ぼた餅」は、日本古来の太陽信仰によって「かいもち」といって、春には豊穣を祈り、秋には収穫を感謝して、太陽が真東から出て真西に沈む春分・秋分の日に神に捧げたものであった。それが、彼岸の中日が春分、秋分であるいう仏教の影響を受けて、彼岸に食べるものとなり、サンスクリット語のbhuktaやパーリ語のbhutta(飯の意)が、「ぼた」となり、mridu、mude(やわらかい)が「もち」となって「ぼたもち」の名が定着したのである。(日本経済新聞社刊 P97)

なんと「ぼたもち」とは日本語ではなく、サンスクリット語やパーリ語だったとは面白い。

こんなことを調べながら、今日のドライブで立ち寄った亀岡市内の店で買ってきたのは本来は「ぼたもち」と呼ぶべきなのだが、パックには「おはぎ」と書いてあった。
日本全国で「おはぎ」と「ぼたもち」の違いが伝承されておらず、季節をめでる風習が消えかかっていることを痛感しつつも、日本茶とともにいただいた手作りの亀岡の「おはぎ」は旨かった。
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端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か

端午の節句が近づくと、どこのスーパーに行っても「ちまき」と「柏餅」が店頭に並べられる。

ちまきと柏餅70

子供の頃端午の節句の日に友達の家に遊びに行って「ちまき」をごちそうになって帰ることがあった。京都にある実家は忙しくて「ちまき」を作ることは一度もなかったが、当時は近所で「ちまき」を作る家が結構あって、お裾分けしていただくことがよくあった。

しかし、小さい頃に京都で私が端午の節句で食べたのは「ちまき」が大半で、「柏餅」を食べるようになったのはもう少し大きくなったからのような気がする。

そもそも端午の節句に「ちまき」や「柏餅」を食べるようになったのはいつの時代からなのだろうか。またその由来は何なのかがちょっと気になって調べると、次のサイトなどに結構詳しく書いてある。
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20080421A/index2.htm
しばらく引用すると、
「今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がおりました。屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって失脚し、国を追われ…国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったそうです。その日が5月5日です。」

屈原

「国民は屈原の死を悲しみ、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いをしていましたが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで、龍が苦手にしている楝樹(*れんじゅ)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。(引用終わり)」
(*楝樹とはセンダンという香りの強い木らしいが、日本では今では「ちまき」は笹で巻かれている。)

これが「ちまき」の始まりとなって、中国では5月5日に「ちまき」を作って災いを除ける風習ができ、端午の節句となって「ちまき」とともに日本に伝来したらしい。

Wikipediaによると平安時代中期に編纂された辞書である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「和名知萬木」と言う名の記事があり、もち米を植物の葉でつつみ、これを灰汁で煮込むという製法が記載されており、当時は灰汁の持つ殺菌力や防腐性をもちいた保存食であったようだ。これが長い年月をかけて次第に変化していったもののようである。

また江戸時代の元禄10年(1697)に書かれた「本朝食鑑」には4種類の「ちまき」が紹介されており、そのうちの1種類は和菓子としての「ちまき」の原型と考えられている。いずれにせよ中国から伝わった「ちまき」が、国内でかなり変化遂げながら、端午の節句に食べる伝統のお菓子としての「ちまき」を食べることが続いているということで、昔のものがそのまま伝わっているわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D

では柏餅はどうかというと、これは日本独特のもので、江戸時代の江戸に生まれたものだ。

柏餅を包む柏は新しい葉が生えないと古い葉が落ちないことから、「子供が生まれるまでは親は死なない」すなわち「跡継ぎが絶えない」「子孫繁栄」に結びついて、男の子のお祝いである端午の節句に縁起のいい食べ物となったということだそうだ。

というわけで、江戸文化を反映して全国に柏餅が広がっていき、上方では伝統を重んじて「ちまき」が伝承され、江戸時代の幕末には関西で「ちまき」、関東で「柏餅」を食べることがほぼ定着し、今でも関西で「ちまき」、関東で「柏餅」が親しまれる傾向にあるというのである。

これで私の子供の頃に京都の実家で端午の節句に「ちまき」を食べることが多かった謎が解けた。

関西と関東の文化が融合して、最近ではどこのスーパーでも「ちまき」と「柏餅」が店頭に並ぶようになった。グルメの私にとっては東西文化の融合は大変ありがたく、今年も両方をいただくことにしよう。
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土用の丑の日に鰻を食べるのは

「土用の丑の日」と言えば誰でも「鰻」を連想する。

しかし、「土用丑の日」とはどういう意味なのかよくわからなかったので、ネットで調べてみることにした。

うなぎ丼

その結果、「土用」というのは、立春、立夏、立秋、立冬の終わりの18日間のことを言い、年に土用が4回ある理屈だが、一般的には立秋前の18日間の土用のことを指すということがわかった。今年の場合、土用の入りは7月20日で土用の明けは8月6日だ。

では、「丑の日」とは何か

太陰暦では一年365日のそれぞれの日が十干・十二支で表現されている。
たとえば今月では、7月13日が十干の最初の「甲」と十二支の最初の「子」との組み合わせの甲子(きのえね)の日になり、翌14日は「乙丑(きのとうし)」と干・支とも一つずつずれていき、10と12の最小公倍数の60日で干支が一巡する。

十二支の方は12日で一巡する一方土用は18日間なので、年によっては土用の期間中「丑」のつく日が2回あることもある計算だが、ちなみに今年の「土用の丑の日」は7月26日の1回だけ。昨年は7月19日と7月30日の2回あったということだ。来年も7月21日と8月2日の2回だそうだ。
二回「丑の日」がある場合、一回目を「土用の丑」、二回目を「二の丑」と呼ぶらしい。もちろん二回も「丑」のつく日があれば、鰻やは商売繁盛まちがいなしだ。

暑い日に鰻を食べて精をつけるというのはわかるが、何故丑の日に食べるのだろうか、いつから食べるようになったかということが気になったのでいろいろ調べてみたら、4つ程の説があることが分かった。

その4つとは、①平賀源内(1728-80)説②春木屋説③大田蜀山人説④鰻二匹説である。

① 平賀源内(1728-1780説
中学や高校の日本史でこの人物を習ったが、エレキテルを組み立てたくらいの事しか習わなかった。いろいろ調べるとかなりの変人らしいが、本草学者であり医者でもあり、蘭学者でもあり、発明家でもあり、作家でもあり、画家でもあるという多芸多才の人だったらしい。

平賀源内

Wikipediaの平賀源内の記事は平賀源内が土用の丑の日を考案したということが書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
文政5年(1822)に青山白峰が著した「明和誌」という本には次のようなことが書かれているらしい。

商売がうまくいかない鰻屋が夏に売れない鰻を何とか売るために、平賀源内のところに相談に行ったところ、源内は「丑の日に『う』のつく食べ物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めたところ、物知りの源内先生の言うことならということで、その鰻屋は大変繁盛し、その後他の鰻屋も真似るようになって、土用に丑の日に鰻を食べることが定着したという説。

② 春木屋善兵衛説
同じく文政年間の「江戸買物案内」という本に、ある時春木屋という鰻屋に神田和泉橋の藤堂のお屋敷から、旅に出るのに持っていきたいと大量の蒲焼の注文があり、春木屋の主人が、子の日、丑の日、寅の日の三日に分けて鰻を焼き、土蔵に貯蔵して三日間おいたところ、丑の日に焼いた鰻だけが色合い、風味とも変わらなかったので、丑の日に焼いたうなぎを藤堂様に納めた。それ以来、鰻は丑の日がよいということになったという説。

③ 大田蜀山人(1749-1823)説
大田蜀山人は本名を大田南畝といい江戸時代天明期の文人だが、天保10年(1839)に出版された「天保佳話」という本に、鰻屋に相談を持ちかけられた大田南畝が「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したと書かれている。
太田蜀山人
その後、土用の丑の日に鰻を食べることが定着したという説。

④ 鰻二匹説
平仮名で毛筆を使って、たっぷり墨を使って「うし」と書くと、まるで二匹の鰻のように見えたからという説。

これらの説の中では平賀源内説が一番有名だそうだが、①~③はいずれも江戸時代の後期であり、また現在のように鰻を開いてタレをつけて食べるようになったのは天保年間(1781-1789)と言われており、時期的には江戸時代の文政期から天保期にかけて全国的に拡がっていったと考えてよさそうである。しかしどの説が正しいかは、一つに絞ることにあまり意味がないかもしれない。

鰻の専門業者のホームページを読むと鰻の旬は夏ではなく、天然物は10月末、養殖物は11月以降ということらしいが、平賀源内に相談した鰻屋の主人も、夏に鰻が売れないので源内に相談したことから始まっている。先程の土用の丑に鰻を食べる習慣の起源の諸説から垣間見えるのは、鰻が売れない時期でも鰻を売ろうとする鰻屋の商魂である。

当時はテレビもなければラジオもない、瓦版は江戸時代のはじめに生まれ、江戸時代にはかなり印刷されていたのだが、全国的に情報を広げるメディアがなかったのだから、鰻屋の主人は常連客の有名人をつかまえて、一筆書いてもらって店の宣伝に使うくらいのことはしただろうし、そのことがまた新たな客を呼ぶ効果はあったと思われる。

今でも、田舎に行っても少し有名な店に立ち寄ると、俳優やスポーツ選手などの色紙などが掲げられている。下手な字のものも多いが、中には達筆で洒落たセリフと上手い絵が書かれていて時々感心することがある。そのような色紙があれば、田舎でなくとも今でもお店の最大の宣伝材料になるのではないか。

江戸時代後期に平賀源内や大田蜀山人が全国レベルで一般庶民に知られていたとは思えないが、少なくとも地元の人は名前くらいは知っている人が多かっただろう。そんな有名人がこの店を贔屓にしているし、体に良いと言っているなら食べに行こうと考える人が何人いてもおかしくない。かくいう私も、有名人が雑誌などで勧めている店があれば、近ければ行ってみたくなる人間だ。

それにしても、最近は景気の悪いご時世で、近くのレストランや喫茶店の閉店が続いている。客が来ないことを理由に簡単にやめてしまうくらいなら、はじめから何もやらない方が良い。
商売はやり方次第で客が集まるものだ。味が良いことは絶対条件だが、店に行くきっかけを作る工夫と、また行くことが楽しみとなる工夫をする店主が少なくなってきているのは残念だ。その二つの工夫をしている店は、小さくても生き残っているし、そういう店をいくつも知っている。
いつの時代も、個人店主が絶対に失ってはならないものは、商魂だと思う。
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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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