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毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか

毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。

毛利元就

元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。
今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと訓えたという話だ。

三本の矢人形

この「三矢の訓」の話はテレビでも何度か子役が出てくるのを見たような記憶があり、人形や絵などでも見たことがあるので私も長い間本当にあった話だと信じていたが、最近になって友人からこの話は、時代背景からあり得ないことを教えてもらった。

まず、毛利元就がなくなったのは元亀二年(1571)で、享年75歳であった。
長男の隆元は、それより8年前の永禄六年(1563)に尼子攻めに参加する途上で41歳で急死しているので、元就の臨終の床にいる事はあり得ない。
また、元就の臨終の時に、次男の元春は41歳、三男の隆景は38歳の壮年ということになる。三本の矢を折れないのが少年であれば理解できるが、この年齢の男性なら三本の矢を束ねたくらいならそのままへし折ってしまうだろう。
だから、毛利元就の臨終の床での場面設定は明らかに作り話である。

また毛利元就の子供は3人ではなく実は12人いた。男10人女2人の子沢山である。なぜ、「三本の矢」なのかと、調べるといろんな疑問が湧いてくる。

では、このような作り話がいつ頃から流布したのだろうか。
ネットでいろいろ探すと、中国新聞の特集記事が見つかった。この話が広まったのはどうやら明治時代の教科書がきっかけらしいのだ。
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97041801.html
このサイトを読むと、明治15年(1882)編纂の道徳教育書「幼学綱要」にこんな話が登場していると書いてある。

毛利元就病てまさに死せんとす。諸氏を前に召し、其子の数の矢を束ねて力を極めて之を折れども断えず。また其一条を抜き、随って折れば随って断ゆ。曰く、兄弟はこの矢の如し。和すれば則ち相依って事をなし、和せざれば則ち各々敗る…」。
と、ここでは矢の話が出てくるが兄弟の人数も名前も記されていない。

また大正8年(1919)文部省編纂の「尋常小学読本」にも良く似た話が出てくるのだが、ここでは「父のおしえ」と言う表題で、毛利元就の名前も記されていないそうだ。
中国新聞のこの記事ではこの話が、長男隆元、二男元春、三男隆景に矢を折らす「三矢の訓」に変化したかははっきりしないと書いてある。

自宅の本棚から小学館文庫の「精選『尋常小学修身書』」を取り出して確認すると、昭和9年の「尋常小学修身書」が掲載されていて、ここではこうなっている。

「…元就には、隆元・元春・隆景という三人の子があって、元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。元就は、三人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、いつも『三人が一つ心になって助け合うように。』といましめて居ましたが、或る時、三人に一つの書き物を渡しました。…」(p337)

と、今度はどこにも矢の話が出て来ないのだ。「三矢の訓」は明治時代の「幼学綱要」から大正・昭和の「尋常小学校修身書」が混ぜ合わさったような話になっていることがわかる。

昭和9年の「尋常小学修身書」に書いてあることは、概ね史実に基づいたものである。
毛利元就は弘治三年(1557)11月25日に隆元・元春・隆景三兄弟の結束を説く14ヶ条からなる教訓状を残しているのだ。

三子教訓状

この「三子教訓状」は国の重要文化財に指定されていて、現在山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。

原文は次のURLで、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/sengoku/tegami/m405.htm
現代語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6

これを読むと、毛利元就が言っている事は、矢の話はないものの、「三矢の訓」に近い内容であることがわかる。

(口語訳)
「第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表わせぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ 元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。


第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。…」

次男の小早川隆景には子供がなく、豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊が養子となり小早川秀秋をなのるも嗣子なくして病没し小早川家は断絶したのだが、毛利元就が第六条で述べたとおり毛利家も吉川家は戦国時代から江戸時代、明治時代を生き抜き今も続いている。毛利元就の想いが子孫に伝わったということなのか。

三矢の訓」は誰が聞いてもいい話で、わかりやすくて含蓄がある。
しかし、子供に道徳を教えるためにいい話をわかりやすくしようとして、明治時代に史実を曲げてしまったことは良くなかった。教科書で一度でもそういうことをすると、長い間に史実でないことが日本人の常識となってしまう。

三矢の訓跡碑

広島県安芸高田市吉田町の「少年自然の家」の敷地は毛利元就の居館跡と伝えられているが、この場所は以前大江中学校(昭和43年[1968]に廃校)の敷地であった。

校地内に毛利元就の居館があったことから、当時の中学校生徒会の手で昭和31年に「三矢の訓跡」の碑が建てられてそれが今も残っている。

サンフレッチェ広島

サッカーJリーグの「サンフレッチェ広島」というチーム名は、「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語の「矢」を意味し、この「三矢の訓」にちなんだものであることは言うまでもない。

「三矢の訓」が作り話であることがわかっていれば、大江中学校の生徒会が碑を作ることもなかったであろうし、広島のサッカーチーム名も異っていたことであろう。 史実と異なる話を創作して伝えたことの罪は本当に重いと思う。
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【ご参考】
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光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある

秀吉配下の武士は武功を上げるために、競って光秀を討ってその首を狙おうとする。
一方、光秀の家臣は必死で主君を守ろうし、もし主君が討たれても首だけは敵に渡すまいとするので、いずれにせよ主君の首が放置されることはあり得ない。
普通に考えれば、光秀の顔を知っているはずがない百姓が拾ったような首が、光秀のような重要人物のものであるはずがない

秀吉

秀吉も、百姓が拾ったような首を光秀のものと確信していたはずはなく、おそらく彼は比較的良く似た首を光秀のものとしたのだろう。その上で秀吉は、光秀を貶めるために「百姓に(光秀の)首を拾われた」という嘘の情報を広めて、光秀は味方からも見捨てられて命を落としたとの印象を人々に植え付けようとしたのではないか。光秀がそのような死に方をしたことを広めれば、たとえ光秀が生きていたとしても、再起する可能性はほとんどなくなるぐらいのことを考えたのだと思う。
また信長亡き後の天下を狙っていた秀吉からすれば、徹底的に光秀を貶めて極悪人にしておかなければ、秀吉が明智軍を討伐したことの正当性を世間にすんなり納得させるストーリーが成り立たないことも考えておいてよい。

この戦いのわずか4か月後に秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた物語である『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているのだが、その物語が時代とともに尾ひれがついて、寛永3年(1626)に小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた『甫庵太閤記』では「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」という話になり、光秀が「竹槍」で農民に殺されたことになったのは、昭和になって戦国史の泰斗と呼ばれた高柳光寿氏が著書で書いてから広まった話なのである。
光秀の死に関する通説は、こういう経緯を知るとバカバカしくなってくる。

では光秀は山崎の合戦で命を落としたのだろうか、あるいはその後も生き延びたのだろうか。

Wikipediaの「明智光秀」の解説では「槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる」と書かれているが、同じWikipediaの「溝尾茂朝」の解説では「山崎の戦いにも参加し、一番の中備を務めたが、敗れて光秀と逃走する。しかし遺憾なことに、光秀が百姓によって重傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めることとなる。そして光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自害して果てた。享年45。」とある。
どちらも興味深い話なのだが、坂本に持ち帰られた3つの首については、前回の記事で記したように、西教寺の記録では光秀のものとは確認されていない。

谷性寺首塚

Wikipediaの記事に名前の出てくる丹波亀山の谷性寺(こくしょうじ)は別名を「光秀寺」といい、境内に「光秀公首塚」があるようだが、この石碑が建てられたのは幕末期のようだ。
この寺に光秀の首が持ち込まれたことを記した古文書があれば面白いのだが、誰か研究している人はいないのだろうか。
http://www.y-morimoto.com/kanko/kokushoji.html

一方、岐阜県山県郡美山町には、山崎の合戦で死んだのは影武者の荒木山城守行信で、光秀は自分を荒深小五郎と名乗り西洞の寺の林間に隠宅に住み、その後光秀は雲水の姿になって諸国遍歴の旅に出て、慶長5年(1600)に死んだという伝承があるという。

hakusann3.jpg

地元の白山神社には明智光秀のものとされる墓があり、次のURLに写真と解説が出ているが、もし光秀が生きていたとしたら、他人の名を名乗ってこのような山深い場所に生きるしか仕方がなかったかもしれない。
http://space.geocities.jp/minokoku1534/ziinn/gifu/fileg/hakusann.html
また次のURLには白山神社にある光秀の墓への行き方が案内されている。興味深い話だが、この墓の由来についての古文書のようなものはないのだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/supopopo_pop/34352170.html

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また、教科書などでよく目にする明智光秀像は、大阪府岸和田市にある臨済宗の本徳寺にあるのだが、これがわが国で唯一残されている明智光秀像だそうだ。
この寺を開基した南国梵桂(なんごくぼんけい)は明智光秀の長男・明智光慶(みつよし)と言われているのだが、光秀の子供で男は光慶一人しかいない。長男の光慶が生存していたのなら、光秀が生きていてもおかしくないだろう。
そして、この光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されていて「雲道禅定門肖像賛」と書いてあり、位牌の戒名は「鳳岳院殿雲道大禅定門」で「光秀」という名前が隠れている。
また光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」、つまり「慶長4年(1599)に当寺を開基した」と記されており、この文章を素直に読むと、この寺を開基したのが明智光秀で、関ヶ原の前年である慶長4年には、光秀がまだ生きていたことになり、当然のことながら、この肖像画もその年以降に書かれたことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BE%B3%E5%AF%BA_(%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)
岸和田市が「市政だより」で制作し、本徳寺の住職がこの肖像画を解説しておられる動画がyoutubeにあるのだが、住職も当然ながら光秀生存説を唱えておられる。興味のあるかたは見て頂くと良い。


ほかにも光秀が生きていたという説がある。
前回の記事の最後に、家康の政治顧問であった南光坊天海が明智光秀と同一人物であるという説があることを触れたが、ネットでは多くの方がこの説を論じておられていてWikipediaにもとりあげられている。

この説の論拠の幾つかを紹介しておく。
日光東照宮陽明門随身像

1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や、多くの建物に明智家の家紋である桔梗の紋が描かれている。
2. 徳川幕府の2代将軍は忠で3代将軍は家だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れているとも読める。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌っていてもおかしくない。
3. 三代将軍家光の乳母のお福こと春日局は、光秀の重臣であり本能寺の変で全軍の指揮を執った、明智家筆頭家老の斎藤利三の娘である。またお福の子の稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府の中枢を占めた。
さらに家康は土岐明智一族の菅沼定政に土岐姓への復帰を命じ、土岐明智家を復活させている
斎藤利三の娘を重用したり、光秀の悲願であった土岐明智家を復活させたことなど、家康が明智家に配慮したのは、明智家に感謝する理由があったのか、家康の参謀となった天海が明智家かそれに近い人間であったのではないか
4. 学僧であるはずの南光坊天海が関ヶ原戦屏風に家康本陣の軍師として描かれている。
5. 京都市右京区京北周山にある慈眼寺に明智光秀の位牌と木像があるが、この寺の名前は天海の諱の慈眼大師と同じである。
6. 比叡山・松禅寺に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。
7. 日光に「明智平」と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

これ等の指摘は結構説得力があって引き込まれるのだが、調べていくと、それぞれについてこのような反証がある。

桔梗紋と木瓜紋

1. 日光東照宮陽明門にある随身像や、多くの建物にある家紋は、明智家の桔梗紋ではなく織田家の家紋である木瓜紋(もっこうもん)である
2. 家光の諱を選定したのは、天海とライバル関係にあった金地院崇伝である。
3. 福は小早川秀秋の家臣である稲葉正成に嫁いだが、正成は関ヶ原の戦いで小早川軍を東軍に寝返らせ徳川軍を勝利に導いた功労者である。
4. 関ヶ原歴史民俗資料館が所蔵する関ヶ原戦屏風には「南光坊」の名があるが、この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したもので、この彦根城博物館の屏風には「南光坊」の記載がない。
5. 慈眼寺にある明智光秀の位牌と木像は、周山の東北にあって廃寺となった密巌寺から1912年に移されたもの。天海の諱の慈眼大師と一致するのは偶然だと思われる。次のURLに光秀の位牌や木像の写真が紹介されている。
http://everkyoto.web.fc2.com/report667.html
6. 比叡山の石灯籠に刻まれた「光秀」が明智光秀本人であることの立証は困難。
7. 「明智平」を天海が名づけたというのは伝承にすぎない。

他にも次のような反論がある
8. 光秀=天海とする説は明治時代の作家・須藤光輝が唱え出したもので、当時の記録に光秀と天海とを結びつける記録が全くないのはおかしい。
9. 天海と光秀が同一人物だと享年は116歳となり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がある

確かにその通りなのだが、いくら反論を読んでみても、なぜ家康が明智家に配慮したのかという根本的な疑問がどうしても残ってしまう。

春日局

通説では明智光秀は主君の信長を討った謀反人であるわけだが、なぜ、その謀反を主導した明智家筆頭家老の斎藤利三の娘を、2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(のちの3代将軍・家光)の乳母に任命したのだろうか。
少し考えればわかる事だが、乳母という立場はその気になれば嬰児の命を奪うことは容易な事であり、そのような重要な任務を光秀の重臣の娘に抜擢することは常識では考えにくいところだ。
また土岐明智家を復活させたのも理解に苦しむ。なぜ謀反人である光秀に配慮したのだろうか。

これらの点をスッキリさせるためには、本能寺の変の原因が明智光秀の信長に対する怨恨であるという通説を一旦リセットする必要がある。

以前このブログで本能寺の変について5回に分けて書いたことがあるのだが、この事件から家康と光秀との関係から述べだすと、かなり長くなってしまうので、次回に記すことにしよう。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html


南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2

前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。
また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。

通説が正しいことを前提にすると「謎」になるような事象が多い場合は、通説の信憑性を疑ってみても良いのではないかと思うのだ。

明智憲三郎

最近注目されている明智憲三郎氏の論考では家康と光秀は繋がっていたと考察しておられ、本能寺の変のについて通説とは全く異なる説を唱えておられる。しかも、その論拠は明快で、通説よりもはるかに説得力がある。明智憲三郎氏の視点に立てば、光秀の謎は消えるのである。

本能寺の変の前後の歴史は、秀吉がその4か月後に家臣に書かせた『惟任(これとう:光秀の事)退治記』で、光秀を謀反人に仕立て上げてそれを秀吉が退治したとの物語を広めて以降、歌舞伎などで演じられ、それをもとに物語が書かれて、今ではその内容が通史にも使われて、それが日本人の常識となっている。
明智憲三郎氏の表現を借りると、今も「秀吉の嘘に日本国中がだまされて」「軍記物依存症の三面記事史観」の闇の中に彷徨っている状態にあるということになる。

以前このブログで本能寺の変について、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 427年目の真実』などを参考に5回に分けて書いたことがあるが、最近調べた事などを付け加えながら、簡単にこの事件の原因を振り返っておこう。

当時のルイス・フロイスの記録や、明智光秀の配下の武士で本能寺の変に従軍した本城惣右衛門が知人に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』*)に明確に記されているのだが、フロイスも明智軍も、この日に命を狙われていたのは信長ではなく、家康だと考えていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

老人雑話

また、秀吉や細川藤孝とも交流のあった江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という書物でも、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという」と記されているのだが、当時のいくつかの記録から見えてくるものは、信長自身が家康を関西に呼び寄せて、機をみて殺害する謀略を考えていたということである。

『本城惣右衛門覚書』の文章と訳文は次のURLにあるが、本能寺襲撃の指揮を執ったのは、光秀の重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)であり、光秀が先導したのではないことが記されていることはもっと注目して良いと思う。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm
この時代の公家の山科言経が記した『言経卿記』によると光秀は戦勝祈願の為に愛宕山に登っており、下山したのは6月1日になってからであったという。丹波亀山城に戻って出陣の準備をし、兵を率いて2日未明に本能寺に辿りつくのは物理的に不可能という説もある。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide083.htm

安土城絵

一方家康は5月14日に安土に到着し、安土城での饗応を受けたのち、信長の命により京都や堺の見学をすることになった。5月21日に安土を出て、本能寺の変のあった6月2日の早朝に、家康とその重臣一行の三十名ほどが堺を出て、信長と会うために本能寺に向かった記録がある (『茶屋由緒記』) 。

また信長は、家康を警戒させないために、関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて京都を手薄にさせ、本能寺には信長を含めてわずかの人数で宿泊していたという。

ところが家康は、手薄な本能寺を明智が討つ計画がある情報を事前に入手していて、信長に対しては警戒していないふりをして信長を油断させ、本能寺を無防備な状態のままとさせて明智の信長討ちを成功させようとした。
おそらく家康と光秀は繋がっていた。光秀は信長より、5月に安土城で家康を饗応することを命じられていたので、本能寺の少し前に家康と密談する機会は充分にあったのである。

では明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか。
それまで光秀は、信長から四国の長宗我部氏の懐柔を命じられていて、重臣である斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、信長は急遽方針を変更して天正10年(1582)5月に三男の織田信孝に四国攻めの朱印状を出していた。そして長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていた。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった
のである。

元親記

本能寺の変の原因は、長宗我部征伐を中止させることが目的であったという「四国説」は、長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が記した『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と記されている。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596a
明智憲三郎氏の著書によると、山科言経の『言経卿記』や勧修寺晴豊の『晴豊公記』にも、そのことを裏付ける記録があるようだ。

このような視点に立って本能寺の変を考えると、なぜ家康が光秀や斎藤利三に配慮したかが見えてくる。
もし本能寺の変で光秀が本能寺で信長を討たなければ、家康自身の命が奪われていた可能性が高かった。家康にすれば、明智光秀斎藤利三は命の恩人なのである
だとすると、家康が土岐明智家を復活させたり、斎藤利三の娘を家光光秀の乳母としたことが「謎」ではなくなってしまうのだ。

前回の記事で、山崎の合戦の後も光秀が生きていたと思わせる伝承や文書が、多くの場所に残されていることを書いた。
これらの伝承などは、通説が正しいという前提に立てば、すべて「ありえない」ことばかりだが、通説が正しくない前提に立てば、全てがつながる仮説を立てることが出来る。
しばらくの間、私の推理にお付き合いいただきたい。

光秀は山崎の合戦で死んだのかもしれないが、もし生き残っていたとしても、死んだことにしなければ、秀吉に必ず命を狙われることになる。
だから光秀と縁の深かった丹波亀山の谷性寺や近江坂本の西教寺に、本物かどうかもわからない首を持ち込んで墓を造らせたとは考えられないか。

光秀だけではない。光秀の兄弟や重臣たちにも言えることだが、もし彼らが生きていたとしたら平家の落人と同様に、身の安全を守るために山深いところに名前を変えて住むことは、充分にありうることだと思う。光秀のものだと伝えられている墓のある岐阜県山県郡美山町は、まさにそのような場所のようだ。

hakusann3.jpg

しかし慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなり豊臣家の力が次第に衰えて、自らの命が狙われるような危険が遠ざかる日が来た。いつまでも山深い場所(岐阜県山県郡美山町)で隠棲する必要もなくなってきたので、今まで使っていた名前の人物(荒深小五郎)は死んだことにして、慶長5年(1600)に白山神社にその人物の墓を造らせ、新たな活動を開始したとは考えられないか。
面白いことに、この地の伝承ではこの人物は、「関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだ」となっている。
そして「関ヶ原合戦屏風」には天海らしき人物が描かれているのである。そして関ヶ原以降は家康の近くに居場所を移したことも考えられる。

実際のところ、光秀らしき人物が生きていたと思われる形跡は秀吉が亡くなったあとからのものばかりなのである。
その人物が、岸和田に本徳寺を開基したのが慶長4年(1599)。また比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進されたのは慶長20年(1615)2月17日で、大阪冬の陣の2ヶ月後のことである。そしてその3カ月後に大阪夏の陣で徳川軍が勝利し豊臣家は滅亡している。

南光坊天海

次に南光坊天海に話題を移そう。
面白いことに、天海」という僧侶が歴史の表舞台に登場するのも、秀吉が亡くなったあとからのことである。

徳川家康が「天海」を駿府に招き、初めて公式に対面したのは慶長13年(1608)なのだそうだが、その時に家康は「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたと伝えられている。しかし、実際はもっと早くから家康は天海という人物を知っていたはずである。
というのは、家康は慶長8年(1603)に下野国久下田(栃木県真岡市)に新宗光寺の再興を託し、慶長12年(1607)には比叡山東塔の南光坊在住を命じ、織田信長の焼き討ち以後、荒廃していた比叡山の復興にあたらせているのだが、会ってもいない人物に対して、こんな重大な仕事を次々と命じることは不自然だ。

そして天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作っている
前回の記事で紹介した滋賀院門跡は、天海が元和元年(1615)に後陽成天王から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺であり、日吉東照宮も元和9年(1623)に天海が造営した建物である。

方広寺の鐘

また、天海は大阪の陣で豊臣家を攻撃する口実となった方広寺鐘銘事件は、徳川の正史である『台徳院殿御実紀』巻廿七(慶長19[1614]年7月21日)に天海が関与したことが記されている。
「世に傳ふる所は。此鐘銘は僧淸韓がつくる所に して。其文に國家安康。四海施化。萬歲傳芳。君臣豐樂。又東迎素月。西送斜陽などいへる句あり。御諱(いみな)を犯すのみならず。豐臣家の爲に。當家を咒咀するに 似たりといふ事を。天海一人御閑室へ召れたりし時。密々告奉りしといふ。此事いぶかしけれども。またなし共定めがたし。いま後者の爲めにしるす。」
http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html

なぜ僧侶である天海が、このように家康の政治に意見することができたのか誰でも不思議に思うところで、この記録を読むと、天海という人物が、豊臣家に強い怨みを持っていた可能性を感じる。 

もちろん、天海という人物が明智家と全く関係のない人物である可能性も小さくないのだが、もしかしてと思わせる事象が偶然にしては多すぎて、ちょっと考えさせられてしまうところだ。

明智光秀

しかし、天海と明智光秀が同一人物だという説の最大の問題は、年齢であろう。
天海の生年がはっきりしていないようだが、没年は寛永20年(1643)で100歳以上の長命であったという。
もし天海と光秀(誕生:享禄元年[1528])が同一人物だとすると115歳で没したことになり、常識的には、この時代にこの年齢まで生きる人物がいたことは考えにくい。また春日局との関連から、天海は斉藤利三(誕生:天文3年[1534])ではないかという説もあるようだが、斎藤利三については6月17日に六条河原で斬首されたと具体的な記録があるので、その可能性は低いし、109歳で没したことになるという年齢の観点からも問題がある。
諸説の中には、光秀の死後に長男の光慶(誕生:永禄12年[1569])が天海を演じたという説も存在するというが、それだと年齢の問題についてはクリアされる。しかし、もしそうだとしたら、そのことを裏付ける記録が残っていてもおかしくないのだが、そのようなものは何も存在しないのだ。
前回の記事に書いたのだが、そもそも天海と光秀とが同一人物であるという説は、明治時代の作家・須藤光輝が最初に唱えたものであり、当時には光秀と天海とを結びつける記録が全く存在しないのである。

最後に結論めいたことを言わせてもらうと、明智光秀はおそらく山崎の合戦を生き延びた。
そして豊臣秀吉が亡くなったあたりから活動を開始し、家康を陰で補佐していたのではないか。
光秀が生きていて家康に意見具申できる立場であったなら、方広寺鐘銘事件や近江坂本の復興などは、天海が光秀と同一人物でなくとも、光秀の考えを天海という僧侶に代弁させるなり、必要資金の大半を家康が出してその実行を命じれば済む話であるともいえる。
あるいは徳川幕府が、光秀から得た知恵は、死んだ人物の名前を出せないために、天海の名前を用いて記録したということも考えられる。

僧侶には家康の政治顧問は務まらないとの意見もあるが、光秀が生きていたのなら家康に意見を述べることができた可能性が高い。また家康が光秀から政治に関する知恵を真に必要としたのは豊臣家が滅亡する頃までであり、本物の光秀が死んでからは天海の政治顧問としての出番は多くはなかったと考えれば、光秀が長寿である必要もなくなる。

南光坊天海は明智光秀と同一人物であったという説は、個人的には面白いとは思うし完全否定をするつもりはないのだが、天海が光秀と同一人物でなくとも、すべての事象が合理的に説明可能なので、私は、この説が真実である可能性は低いと考えている。
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本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
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明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
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家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
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秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
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安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
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16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
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島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか

治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。

「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。

通称の「左近」は多くの史料で出ているようだが実名については諸説があり、「勝猛(かつたけ)」書いている史料や「友之(ともゆき)」としている史料や、「清興(きよおき)」としている史料などがあるという。

島左近2

出自や生国についても様々な説があり、天文9年(1540)頃に大和椿井(つばい)城(現奈良県平群町)に生まれたという説もあれば、近江(滋賀県)の出身とする説、尾張(愛知県)の出身とする説や、対馬(長崎県)出身という説まである。大和出身説が多数説のようだが、これとて確実な裏付けがあるわけではないようだ。

当然の事ながら、石田三成が三顧の礼を迎えた人物なら、それまでにそれなりの軍功がなければならないのだが、Wikipediaの記述を読んでみても、どうもピンとくるものがなく、筒井家の家臣であった時代についてはこのように記されている。

「筒井順慶を侍大将として盛り立てたといわれるが、当時の筒井家の家臣団の中には名が見えない。『尋憲記』や『多聞院日記』等の記載によれば、当時の筒井家の有力家臣には八條相模守長祐、松蔵権助秀政、飯田出羽入道、中坊飛騨守秀祐などの名が知られるが、嶋氏関係の氏名は見当たらない。

確証はないが、何らかの形で筒井順慶を支え続けたといい、その功績によって筒井家の重臣に加わったという。一般には松倉重信(右近)と並んで筒井家の両翼『右近左近』と並び称されたというが史実ではなく、実際に筒井家の両翼と呼ばれたのは松蔵権助秀政と松田善七郎盛勝だったようだ。
順慶はやがて松永久秀を倒し(信貴山城の戦い)、本能寺の変といった存亡の危機も乗り越え、筒井家による大和国の統一を成し遂げたが、その後の左近は吐田城を接収するなど内政面で順慶を支えていたらしい。」とあるが、記されていることは伝聞推定の域を出ないものばかりである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

軍談・講釈の類では、天正10年(1582)の本能寺の変の報に接した羽柴秀吉が急遽中国から引き返して明智光秀を討った「山崎の戦い」において、左近の主人・筒井順慶は洞ヶ峠に布陣して、羽柴方が優勢と見るやにわかに明智勢を襲って勝敗を決定づけたとされ、こうした段取りをつけたのは島左近であったと描かれているのだが、筒井順慶が洞ヶ峠まで出て行ったという事実はなく、大和へ撤兵したというのが真実だという。

その後、島左近が椿井城主となったのちに主君の筒井順慶が病に倒れ、跡をついだ順慶の甥・筒井定次とは意見が合わなかったために、天正16年(1588年)2月に筒井家を辞して、奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食したとされる。

その後の左近は秀吉の弟・秀長に仕え、天正19年(1591)に秀長が死んだ後は、その嗣子・秀保に仕えたと言われているが、蒲生氏郷に仕えたとする説もある。いずれにしても、左近が大きな軍功を挙げたという記録は見当たらないのである。

では左近はいつ石田三成に仕官したのかというと、この点もよくわかっていないようなのだ。Wikipediaでは天正19年(1591)1月22日以降、天正20年(1592)4月以前と結論づけているが、記録に残るような軍功のない人物を、なぜ三成の禄高4万石の半分を与えるという破格の条件で召し抱えた理由が見えてこないのである。もしかすると、三成が高禄を与えたという話も、後世の作り話なのかもしれない。

関ヶ原布陣

しかしながら、島左近は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍にいたことは史実である。
決戦前日の9月14日、東軍の総大将である徳川家康が美濃赤坂の安楽寺に大軍を率いて到着すると、西軍の中で動揺が走って一部の兵士が逃亡する事態となり、事態を憂慮した島左近は、戦勝により士気の回復を図るため、東軍に奇襲攻撃をかけることを石田三成に進言した。島左近は東軍の中村・有馬両部隊を挑発しおびき出すことに成功すると、伏兵で両部隊を取り囲んで打ち破っている。(杭瀬川の戦い)
その夜に、島津義弘・小西行長らと共に夜襲をかけることも提案したとされるが、三成に受け入れられずに終わったという。

島左近

翌朝関ヶ原の戦いの本戦が始まり、石田隊には黒田隊、細川隊が攻めかかったとされている。石田隊の先陣であった島左近は木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎつつ、鉄砲、大筒などを用いて、必死に東軍部隊を抑えていたのだが、黒田隊の狙撃兵が島左近を負傷させた後、石田隊の先陣が退却したと記されている。確かに『関ヶ原合戦図屏風』(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)には、負傷して両脇を兵に支えられて退却する左近が描かれている。

このことについて、他の記録ではどうなっているのだろう。

黒田隊

例えば筑前黒田家の公式の記録である『黒田家譜』巻之十一では、こう記されている。黒田長政隊は、島左近に最も近い場所に陣を布いていたとされている。

「…長政の家臣白石正兵衛、菅六之助等、足軽を引つれ、右の方の少高き所にはしり上り、かねてよりすぐり置たる鉄砲の上手五十人に、透間もなく打せければ、左近が兵多くうたれ、左近も鉄砲にあたりて落馬す。…深手負ければ力及ばず。柵の内に引きとるべしとして、家人の肩にかかり、柵際まで引来りしが、其子新吉(左近の子)をとへば、はや戦死したる由家人申を聞て、扨(さて)は是までなり、我首をあげて深谷(しんこく)にかくせといい付ければ、家人其言のごとくしたりける。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023982/153

左近は側近に介錯を行なって首を埋めよと命じたと、まるで左近の陣営の柵の内で目撃したかのように記されているのだが、この部分は創作としか思えない。東軍の黒田長政からすれば、手柄として有名な武将を討ち取ったことをアピールしておきたいところなのだろう。

しかしWikipediaには興味深いことが記されている。
左近の遺体は、関ヶ原の合戦で戦死した大谷吉継の首級と共に見つかっていない。さらには合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだという」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

東軍が島左近の首や遺体をいくら探しても見つからなかったならば、左近が生き延びた可能性をどうして否定することができようか。島左近が鉄砲に撃たれたのは午前9時から10時の間とされ、石田三成が敗走したのは午後2時前後とされている。島左近は、その気になれば逃亡するだけの時間は充分にあったのである。

島左近が負傷したあと、どうなったかについては、書物によって随分異なるという。
「『被弾し倒れる』・・・『関ヶ原合戦大全』、『落穂集』、『黒田家譜』、『故郷物語』等
『戦死』・・・・・『関ヶ原合戦誌』、『関ヶ原合戦大全』の一説、『関ヶ原軍記』、『戸川記』等
『生死・行方不明』・・・・・・『関ヶ原状』、『慶長年中ト斎記』、『武徳安民記』等
『対馬へ脱出』・・・・・・『関ヶ原軍記大全』
『西国へ脱出』・・・・・・『石田軍記』」
http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/sakon_c.html

例えば徳川家康の侍医である板坂卜斎が著した『慶長年中ト斎記』には、「島左近行方不知子供打死になり」と簡単に書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772758/21

島新吉

また、『石田軍記』巻之十を読むと、島左近が黒田隊に撃たれたことなどは一言も書かれていない。その書物には島左近の子である新吉が黒田隊ではなく藤堂高虎の家臣に討ち取られたとあり、島左近についてはこう記している。
去程(さるほど)に島左近は、正々(まざまざ)と愛子の討たるゝを援けんと思ふ心もなく、空知らずして落行きし…。今の左近は、臆病と命の惜しき癖者が為所(しわざ)に非ずやと、笑ふ族も多かりけり。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948827/139

石田軍記

このように西軍の動きを中心に書かれた『石田軍記』では、早々と逃亡した島左近のことを嘲るような表現になっているのだが、このように戦記というものは書く者のスタンスによって、随分内容が違ってくるものなのである。勝った側は自隊の兵の活躍を誇大に書こうとするのが普通であろうし、敗れた側は、負けた原因を自軍の采配や戦術以外のものに求める傾向が多いのではないだろうか。

もし島左近が本当に関ヶ原で討死していたのならば、『慶長年中ト斎記』にせよ『石田軍記』にせよ、別の書き方になるのではないだろうか。この2つの文書を読んで、島左近が関ヶ原で討死せず、生き延びた可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。

Wikipediaなどで紹介されているが、島左近が生きていたとする記録が各地にあるようだ。
少し気になる情報を拾ってみよう。

立本寺本堂

京都市上京区の立本寺に島左近の墓があり、立本寺のホームページの解説にはこう記されている。
「1600年に起こった関ヶ原の合戦において銃弾を受け、討ち死にしたと言われているが、その遺体や首は見つかっておらず、京都に逃げ延びて『立本寺にて余生を過ごした』という説も伝えられている。
 墓は立本寺墓地に、位牌等は塔頭の教法院にあり、没年は寛永9(1632)年とされています。」
http://honzan-ryuhonji.com/shoukai.html

僧になった話はほかにもあり、関ヶ原で戦線離脱したのちに鎌倉光明寺で出家して泰岩和尚となり、家臣の推挙により細川家に仕え、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという。熊本市の西岸寺に泰岩和尚の墓があり、横に「島左近」と彫られている写真が次のURLに出ている
http://poreporetraveler.blog96.fc2.com/blog-entry-837.html?sp

Wikipediaによると、対馬の島山島にも島左近の墓があり、写真も紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B8%85%E8%88%88

また、東広島市西条市にある老舗酒造メーカー「白牡丹(はくぼたん)」のホームページにはこう記されている。
「古書によると『慶長五年九月 関ヶ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀氏の長たりしも、戦に敗れ、長男新吉戦死す。 次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ケ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。
彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年(西暦1675年)酒造業を創む
』とあります。」
http://www.hakubotan.co.jp/index05.htm
この「白牡丹」の社長は代々島家が引き継いでいるのだそうだ。

さらに、岩手県にも島左近が落ち延びたという説が伝わっているという。
中江克己氏の『裏面の日本史』(宝島文庫)によると、明治43年(1910)に出版された『気仙郡誌』(岩手県教育委員会気仙郡部会編)にはこう記されているという。
偉人浜田甚兵衛、石田三成の謀臣島左近の偽名なり。(略)関ヶ原の戦いに敗れ、流路、米崎村に至り、村童を集めて句読を授け、静かに余生を送る。(略)正保5年(慶安元=1648)死す。年86」(『裏面の日本史』p.69)

また相原友直という人物が宝暦11年に著した『気仙風土草』にはこう記されているのだそうだ。相原友直は仙台藩の藩医となった人物である。
「石田三成が家臣島左近。関ヶ原より落来りて、姓名をかえ、この村に隠れ居たりしが、末期に本名をあらはせしという。彼が事、記録にも出たるゆへ、ここに載す」(同上書p.69)

浄土寺

そして、岩手県陸前高田市の浄土寺の過去帳には「浜田甚兵衛」の名があり、その名の横にわざわざ「嶋村左近」と書き入れてあるという。そしてその人物が死去したのは、慶安元年(1648)8月30日と記されていて、墓もあるという。

多くの記録で「行方不明」あるいは「逃亡した」と記されている島左近は、関ヶ原のあとも生きていたのではないか。しかしながら、名の通った武将であるために見つかれば処刑を免れることは難しく、武士の身分を捨て、名を変えてひっそりと生きるしかなかったのだと思う。敗れた西軍の武士たちの中には、そのような選択をした者がほかにも少なからずいたのではないだろうか。

そして慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、元和2年(1616)に徳川家康が死去して、いつまでも隠遁生活を続けなければならないような身辺の危機は薄まっていく。頃合を見計らって、彼らの一部は少しずつ表の社会に復帰していったと考えられる。

言うまでもなく当時はPCもなければ写真もないので、島左近のような有名な人物の顔を知る者はほとんど存在しない。年齢が近いことが条件ではあるが、戦国武将の話や戦いの場面を詳しく語る能力があれば、有名な武将に成りすまして周囲にそう信じさせることは、それほど難しい事ではなかったと思うのだ。

すでに偽名で16年以上過ごしてきた人物にとっては、本名に戻すよりも名の知れた武将に成りすまして余生を過ごした方が良いと考えた者がいてもおかしくないだろう。
島左近が生きていたという伝承がいくつか残されているのだが、多くは、島左近にあこがれた人物や、名前の良く似た人物が成りすましたのではないだろうか。
そして、もしかすると、これらの伝承のうちどれかが本物の島左近に繋がるかも知れないし、いずれも無関係なのかも知れないのだが、その判断は読者の皆さんに委ねたいと思う。

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赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
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わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』

天文18年(1549)8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えた頃のことを以前このブログで記したことがある。

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html

そもそも、宗教の自由だとか、信教の権利だとかいう考え方はこの時代のわが国には存在しなかった。
当たり前のことなのだが、わが国においてキリスト教を布教するということは、人々に神仏への信仰を棄てさせなければ始まらないのだが、それは容易なことではなかったことはザビエルの文章を読めばわかる。

ザビエル
フランシスコ・ザビエル像】

岩波文庫の『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄(下)』に、ザビエルがわが国で布教活動した頃のさまざまな記録が残されているが、キリスト教においては亡くなった異教徒の霊は地獄に堕ちて救われないとザビエルが説くと、多くの日本人が嘆き悲しんだという。(同上書p.119-120)
キリスト教に入信するためには祖先との関係を一旦リセットしなければならないために、祖先を大切にする日本人にとっては、神仏への信仰を棄てさせることのハードルはかなり高かったようなのだ。
にもかかわらず、一部の地域でキリスト教が拡がっていったのだが、どのようにしてこの宗教が広まっていったのだろうか。

わが国の戦国大名で、最も早くキリスト教の信者となったのは肥前大村の領主・大村純忠で、洗礼を受けたのは永禄6年(1563)というから、ザビエルが来日してから14年も経過してからのことである。
今回は大村純忠がキリスト教に入信し、領国でのキリスト教がどのようにして布教されたかを記す事としたい。

九州地図
【戦国時代の九州地図】http://tugami555syou.blog94.fc2.com/blog-entry-384.html

大村純忠は肥前有馬氏の当主・有馬晴純の次男で、天文7年(1538)に大村純前の養子に迎えられ、天文19年(1550)に大村家の家督を継いだのだが、実は大村純前には実子・又八郎がいたのである。又八郎は武雄に本拠を置いていた後藤家に養子に出されて後藤貴明と名乗ることとなったのだが、自分を追い出して大村家の家督を継いだ純忠に対して、終生敵意を持ちつづけ、また大村家の家臣の中にも後藤貴明に心を寄せる者が少なからずいたという。
普通に考えれば、周囲に敵が多い中で神仏を棄ててキリスト教を信仰することは領民の支持を余計に失うことになりかねない。
日本キリスト教史研究の先駆者・山本秀煌(ひでてる)氏が大正15年に著した『西教史談』には、こう記されている。

 西教史談

「しかるに、かかる困難な境遇にありながら、かりにも新宗教を奉ぜんか、領内の民心を失うは勿論、この機会を利用して如何なる謀計をなす者があるかもわからない。少なくとも、平常純忠に帰服しておらなかった輩に、有力なる反抗の口実を与えることは勿論である。故にかかる困難なる事情の下にある者は、たといキリスト教を信ずるの信仰があったとしても、之を心中に秘して世に公にしないのが賢明な態度である。大友宗麟をはじめ、その他の大名が信仰を告白するのを久しく躊躇しておったのはこれがためである。しかるに純忠は、単に宣教師の意を迎えんために、心にもなき信仰を殊更に標榜して洗礼を受けるが如きことを敢えてなしたとするならば、そは好んで身を難境の中に投ずる者であって、愚の極みと言わなければならない。故に純忠が洗礼を受けたのは、心中深くキリスト教に帰依し、その信念牢固として抜くべからざるものがあったのは知るべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/41

山本秀煌氏は大村純忠が純粋にキリスト教を信奉したことを強調しておられるのだが、当時の記録を読むと、別の意図が見え隠れする。

純忠は永禄5年(1562)に自領にある横瀬浦(現在の長崎県西海市)をイエズス会に提供しているのだが、この時に結んだ約定が、同じ山本秀煌氏が大正14年に著した『日本基督教史. 上巻』に引用されている。

日本基督教史

「一 キリスト教の寺院を創設し、宣教師を十分に給養し、ポルトガル人のために横瀬浦の一港及びその周囲二里四方の地を開き、諸税を免じ、またキリシタン僧侶の許諾なき異教者は一人も港内に住するを得ざらむべし
 一 ポルトガル人等港内に在住するものへは何人に論なく、諸税を免除し、自今十ヶ年間ポルトガル人と貿易を営む諸人へも課役一切を免除すべし
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/88

大村純忠がこのような破格の条件を提示した経緯を調べると、その前年である永禄4年(1561)に平戸においてポルトガル商人と日本人との間で暴動事件が起こり(宮ノ前事件)、領主の松浦隆信は日本人への処罰を行なわなかったことから、日本教区長のコスメ・デ・トーレスは、平戸での貿易を拒絶することに決めている。その直後に大村純忠イエズス会に接近しているのである。
大村純忠の提案を受け、当時隣国の平戸港に集まっていたポルトガル商人たちは、翌永禄5年(1562)に横瀬浦を新貿易港として対日貿易を再開し、商人たちが平戸から次々と移住したことにより横瀬浦は繁栄し、肥前大村は財政的に大いに潤ったという。

南蛮人来朝之図

そしてその翌年の永禄6年(1563)に純忠は洗礼を受けることを決心し、重臣二十五名とともにコスメ・デ・トーレス神父のもとを訪れている

イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見したルイス・フロイスが著した『日本史』に大村純忠が洗礼を受けた経緯が記述されているが、これを読めば、純忠はキリスト教徒となるのと引き換えに、領地にあるすべての神社仏閣を焼くことを神父から求められていたことが分かる。純忠が、自分の思いを神父にこう伝えてくれと使いの者に述べ、その使いがトーレス神父に報告する場面を引用させていただく。

大村殿は、尊師が彼に一つのことを御認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領民の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄・義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも:九州のこと)においても最も身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒は見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでしょう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史6』p.279)

有馬義貞は13年後の天正3年(1576)年に洗礼を受けてキリスト教徒となっているが、当時は仏教徒であった。弟の大村純忠は、仏教を信奉する兄がいるので、神社仏閣の全てを焼き払うことは出来ないが、今後一切寺社の援助しないことを代わりに司祭に約したのである。援助をしないのであれば、寺も神社はいずれ廃れていくことになる。
この報告を受けて司祭は純忠にこう答えたという。

時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授けしましょう」(同上書p.279)

この文脈では、司祭が述べた「なし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向」とは、神社仏閣のできる限りを破壊したり、一切支援せずに荒廃させることと解釈するしかないだろう。

大村純忠が洗礼を受けた日に、実兄の有馬義直が龍造寺隆信と開戦したとの報が入ったという。その直後の純忠の行動が『西教史談』にこう記されている。

摩利支天

「翌日出陣の際兵士を率い、軍神摩利支天の社殿に参詣した。兵士は思った。これはいつもの慣例と同じく戦勝をここに祈禱するのであろうと。然るに何ぞはからん。それは軍神を尊敬するにはあらで侮蔑するためであった。即ち純忠は命じて摩利支天の神像を拝殿より引き出さしめ、剣をもってその首を斬り、惨々に打ちたたいてその面部をめちゃめちゃに破毀してしまった。曰く、
『嗚呼、汝軍神よ、汝我を欺くこと幾許なりしぞや、汝は実に偽神なり。我れ汝の偽りに報いること此の如し』と。
 よって直ちに火を放ってこの社殿を焼き、その跡に美麗なる十字架を建て、跪いてこれに向かい、恭しく三拝したので、軍兵皆その例にならい、謹んで十字架を拝した
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/44

そして純忠はこの戦いに勝ち、この勝利はキリスト教を信奉したことのお蔭であることを確信したことから、ますます排仏施策を推進していくことになる。

ルイス・フロイスは同上書でこう記している。
「(大村純忠は)主なるデウスの御奉仕において、自ら約束した以上のことを行ない示そうとして、戦場にいて、兄を助けて戦っていた間に、数名を自領に派遣して、幾多の神仏像を破壊したり焼却させたりした。そして殿は家臣の貴人たち数名とかたるときにはいつも、汝ら、キリシタン信仰のことで疑わしいことがあれば、予に訊ねるがよい。予がそれらを解き、汝らを満足させるだろう、と言っていた。」(同上書 p.281-282)

大村純忠は、このように戦の最中に何名かを派遣して仏像等を焼却させるようなことを繰り返しただけでなく、領内の仏教の禁止を宣言し、天正2年(1575)正月には仏教僧らを引見し、
予は諸君らが速やかに仏教より転じてキリスト教に帰依さられんことを願う。もしキリスト教に転ずることを肯んじられないならば、一定の時期を画して、我が領内より退去せらるることを願う
と述べて棄教をせまったという。

大村純忠
【大村純忠像】

山本秀煌氏は大村純忠による仏像等の破壊行為を「排仏毀釈」と表現して、こう纏めておられる。
「かくて仏寺は変じて切支丹寺となり、伝道隊は組織せられて、町々村々に布教せられ、新たに四十個の切支丹寺院は建設せられ、五万人(或いは三万五千人ともいう)の新たなる信者は加えられた。かくの如くにして大村領内には一人の仏教僧徒もなきに至った。まことに偉大なる功績と称すべきである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/49

キリスト教信者である山本氏にとっては「偉大なる功績」なのであろうが、キリスト教を信奉しない普通の人々にとっては「徹底的な文化破壊」以外の何物でもない。

このブログで何度か紹介してきたのだが、当時のキリスト教宣教師が大名や信徒たちに寺を焼き仏像を破壊せよと教唆していたことをイエズス会ルイス・フロイスが具体的に記録している。

フロイスの『日本史』を読み進むと、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に、松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、両軍がミサのために休戦したという信じられない記録がある。そしてその翌年に三好三人衆の軍隊の中にいたキリシタンの武将が東大寺に火を点けたことが記されている。
当時は九州や畿内で多くの寺社が焼かれたのだが、キリスト教の宣教師からすれば、戦国時代で争っている両軍の兵士に教唆すれば、寺社を焼いたり破壊したりすることは容易であったろう。この時代には、それほど多くのキリシタンの武将が、敵方にも味方にも存在したのである。
織田信長が命じたとされる元亀2年(1571)の叡山の焼き討ちも、軍事的に意味のないような多くの寺が焼かれているようなのだが、すべてが宣教師の教唆と無関係に行われたばかりなのだろうか。

日本西教史

フロイスと同様に日本にいたジアン・クラッセが1689年に著した『日本西教史』に、イエズス会日本準管区長コエリョの言葉として、寺社を破壊した理由についてこう記している。

「キリストの教えはただ天地創造の一真神を崇拝するにより、殿下は日本人のキリスト教に入るを許し、偶像を拝するを禁じ、而して真神に害する所あるを以てその社寺を毀つを許されしなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/359

文中の「殿下」は伴天連追放令を出した秀吉のことだが、これを大村純忠に置き換えても同じことである。
領主がキリスト教の布教を許したということは、その領地内で、キリスト教にとって異教である仏教の寺や仏像・神社のすべてを破壊することも同時に許したことになると、当時わが国にいたイエズス会のトップがそう考えていた事を知るべきである
多神教を奉ずる日本人には、こういう考え方は理解しがたいところなのだが、一神教であるキリスト教では異教はすべて根絶すべきものと考え、その破壊を実行することは正しいことであると、単純に考えてしまうところにその怖さがある。そのことは他の一神教においても同様のことだが、このような考え方では、理論的には異教を根絶する日が来るまで徹底して破壊し戦い続けなければならないということになってしまう。
そして一神教を奉ずる国々では、今も世界の各地で、同様な争いが続いているのである。

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永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
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明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html



大友宗麟はキリスト教に接近し、洗礼を受ける前から神社仏閣を破壊した

前回は大村純忠の神社仏閣の破壊のことを書いたが、今回は大友義鎮*のことを記すことにしたい。
*大友義鎮(おおともよししげ): 豊後国大友氏第21代当主。永禄5年(1562)に出家し「宗麟」と号した

大友義鎮が豊後の国主となったのは天文19年(1550)のことだが、その翌年にフランシスコ・ザビエルを府内の城中に引見して、キリスト教の教義を聴き、領内での布教を許可したことから、領内でキリスト教の信仰が拡がって行くことになる。

前回の記事で紹介した、山本秀煌氏の『西教史談』にこう記されている。
「これより府内はキリスト教の根拠地となり、宣教師等は此処を中心として各地に伝道することとなった
 こうして各地に伝道した結果、新宗教に帰依する者続々起こり、数年ならずして幾千人の信者を得るに至り、府内・臼杵にキリシタン寺院が建てられ、宣教師の住宅は構えられ、学校・病院・孤児院など、キリスト教の社会的事業もまた大いに勃興するの機運に到達したのである。
 しかるに、府内に起こった信者は多くは下級民であった。上流社会の人々は少なかった。それ故に新宗教の勢力も甚だ微弱であったように思われる。…けれども天正5年頃より大友家一族の中にキリスト教に帰依する者が続々起こり、宗麟また受洗するに至り、有力なる家臣の新宗教に加わるもの続出し、信者数万人を数えるに至り、豊後地方は広くキリスト教の行わるる所となったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/50

大友宗麟像

大友義鎮がザビエルを引見したのは天文20年(1551)のことだが、本人はその後も長らく禅宗に帰依し、永禄5年(1562)に門司城の戦いで毛利元就に敗れた後に出家して「宗麟」と号している。出家して仏門に入ったことで、この時点では宗麟がキリスト教を強く信仰していた可能性は極めて低かったと断じざるを得ない。

ところが天正6年(1577)に島津軍と戦った耳川の戦いの直前に宗麟が宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受け、48歳の時に正式にキリスト教徒となっているのだが、ザビエルを引見してから洗礼を受けるまでに27年間も年月を要している

なぜ、洗礼を受けるためにこれだけ長い年月がかかったのだろうか。

九州戦国地図

山本秀煌氏は前掲書でいくつか理由を挙げているが、1つは宗麟の治める豊後国の国情である。
宗麟は弘治2年(1556)に来日したインドの支部長ヌゲー師より洗礼を受けることを勧められたそうだが、心の中ではキリスト教を弘めたいとの志があるとしつつも、「現下国家多難のときでありまして、その素志を達することが出来ません。…騒乱のあと遂に教法を改めることあらば、彼等この機に乗じ、祖先の教法を廃する者を亡ぼさんと称し、隣境の諸侯と結んで予を攻めんこと必定であります。然るに、私はこれに抗するの威力がありません…」と述べて断ったという。

そもそも大友宗麟の父・義鑑は、義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、義鎮の廃嫡を企み義鎮派の粛清を計画していたところを、それを察知した義鎮派重臣が謀反を起こして塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷したという政変が起って、義鎮が家督を継いだという経緯にある。周辺諸国とのあいだにも領土を奪い合う争いがあったが、大友家内部においても多くの対立があり、その上に宗教上の対立を持ち込むことは難しかった事情は理解できる。

宗麟が長い間洗礼を受けなかった理由は、彼の操行や家庭の事情などの指摘もあるのだが、最大の理由はキリスト教への信仰を持たなかったからであると、山本秀煌氏が明確に書いておられる。

ではなぜ、宗麟は信奉すらしていないキリスト教を若い頃から厚遇し、布教を許したのであろうか。

 西教史談

山本氏は前掲書でこう述べている。
「思うに、彼がキリシタンを厚遇したのは、キリシタンと密接の関係ある外国貿易を盛んならしめん為であったに違いない。当時外国より日本に渡って貿易に従事していた者はポルトガル人のみであって、その貿易はキリシタンと離るべからざる関係を有していた故に、外国貿易を奨励せんには、どうしてもキリシタン宣教師を好遇しなくてはならなかったのである。
 …
天下に覇たらんとするに当たって、まず必要なるものは軍用金の調達であった。併せて武器の精鋭なることであった。而してこれを得るには外国貿易を奨励するほかはなかった。是れ彼がポルトガル商人を招待し、家臣を海外へ派遣し、以て武器を購入した所以(ゆえん)である。彼が大友の主君となってから数年にして、九州のうち6か国を掌握するに至ったのは、将士の忠誠にあずかって力があったのは無論であるが、またその資金の豊富なることと武器の精鋭なるとにあったことは、今改めてここに特筆するを要しない。当時国崩しと称した大砲の如きは、恐らく大友氏の専有であって、他にその類がなかったであろう。後年宗麟の居城丹生島(にぶじま)城が薩軍の猛撃を受けて落城しなかったのは、ただに要害が堅固であったばかりでなく、またその国崩しの威力が与って力のあったのは疑うことが出来ない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/55

足利義輝像

Wikipediaによると、宗麟は貿易によって得た利益を用いて室町幕府13代将軍・足利義輝に接近し、永禄2年(1559)には幕府より豊前国、筑前国の守護に任じられ、さらに九州探題に補任され、翌年には左衛門督に任官し、大内家の全盛期を創出した

しかしながらに永禄10年(1567)以降、毛利元就が北九州に触手を伸ばすようになり、毛利氏との戦いが始まる。
宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出したという。
その後、永禄12年(1569)毛利元就を安芸国に撤退させるも、翌年に肥前で龍造寺隆信に大敗し、さらには天正5年(1577)に薩摩国の島津義久が日向国に侵攻を開始した。宗麟が洗礼を受けたのはこの年である。

薩摩との戦いに勝利するためには、大量の武器弾薬が不可欠である。そのために宗麟は、宣教師の要求に応えざるを得なくなる。山本氏の前掲書の解説を引用する。

「宗麟が神社・仏閣を破棄し、山伏・僧侶を追放した中で、最も有名なるものは、萬壽寺の焼打ちと彦山の攻撃との2つである。前者は元亀元年(1570)であって、後者は天正5年*(1577)の出来事である。2つとも彼がキリスト教に改宗しない前であったことは注目すべきことである。
大友記にいっている。
『宗麟公はキリシタンに帰依せられ、神仏は我宗の魔なり。然れば国中の大社・大寺、一宇も残さず破却せよとて、一番に住吉大明神の社を、山森紹應に仰せ、焼拂いはせで打ち崩す。次に萬壽山破壊の承りは、橋本正竹にして、彼の寺へ行向い、山門より火をかける。時しも辻風烈しく吹きかけて、回廊・本堂に燃えければ、仏僧・経論・聖経、忽ちに寂滅の煙と立ち昇る。…
尚も宗麟より吉弘内蔵助に国中の神佛薪にせよと仰せつければ、山々在々に走り回りて、神佛尊容を薪にす』云々。
また有名なる彦山退治の記事がある。曰く
彦山退治とて、清田鎮忠に三千の兵を相添え遣わさる。山中三千の山伏、身命を棄てて防ぐといえども、鎮忠上宮まで責めのぼり、一宇も残らず灰燼になす。掛りたる処に山伏二名高声に叫ばわり、大友宗麟7代までの怨霊とならんと、罵詈して、腹かき切り、猛火の中へ飛び入りける』云々」
*天正5年: 彦山焼打ち時期は『豊筑乱記』には天正4年(1576)とあるようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/57

少し補足すると、萬壽寺という寺は、平安時代に今の大分市元町付近に建てられた寺で、その後衰退したが徳治元年(1306)大友家第五代当主大友貞親が再興したという。
『群書類従. 第拾四輯』に『大友記』の原文があるが、そこには萬壽寺の焼打ちについて
「方八町の寺内に三百余箇所の大伽藍。甍を並べ建てたるを、只一片の煙となす。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879783/335
と記されている。
800m四方の境内に300以上の大伽藍があったというから随分大きな寺であったようだが、この寺はその後天正10年(1582)にも大友宗麟の嫡男である大友義統(よしむね)に焼かれて、寺社領が没収され家臣の恩賞とされたという。

英彦山

「彦山」は今では「英彦山」と記されるが、中世以降は山伏の修験道場の行場となり、戦国時代の盛時には、山中の衆徒三千の坊舎があり、大名に匹敵する兵力を保持していたのだそうだ。

その彦山の衆徒が、キリシタンを支援する大友氏と敵対するようになったことは当然の成り行きだと思うのだが、秋月氏と彦山が通じたことに宗麟が怒り、天正4年4月に清田鎮忠、上野鎮俊を大将として4300人の兵を彦山に出陣させている。しかしこの時は山の腰を囲んだだけで山上には攻め上がらなかったようだ。
しかしながら、宗麟が洗礼を受けた後の天正9年(1581)には徹底的に彦山を破壊している。
山本氏の解説を再び引用する。

天正9年になって、終に山上に攻め上がり、権現の社頭を始め、僧坊民屋に至るまで、一宇も残さず焼き払い、仏像・祭器・経巻等に至るまで、悉くこれを焚滅してしまったのは、かなり痛切な悲惨事であった。…一山の衆徒の遁走せし者が、大友家の敵たる島津・秋月の軍に投じて種々の讒言を放ち。『豊府の宗室大臣等は皆異教を奉じ、寺観・祠廟を毀ち、神主仏像を火中に投じた』と言い放ち、邪宗徒征伐を宣伝されたということは、大友家にとって少なからず打撃であった、」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/963109/62

大友宗麟銅像

しかしながら、大友宗麟が洗礼を受けた後の大友家は衰退の一途をたどっている。
天正6年(1578)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。
天正7年(1579)頃からは、蒲池氏・草野氏・黒木氏などの筑後の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。

天正15年(1587)に島津義久の攻撃で大友氏の滅亡寸前まで追い詰められるも、豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し、各地で島津軍を破っていく中で宗麟は病に倒れ58歳でこの世を去っている。
宗麟の葬儀はキリスト教式で行われ、自邸に墓が設けられたそうだが、後に嫡男の義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めたという。

九州平定後は秀吉の命令で義統には豊後一国を安堵されたのだが、大友宗麟はキリスト教に接近し、宣教師の言う通りに神社仏閣を破壊したことを、最後に後悔してはいなかったか。

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シーボルトと日本の開国
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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
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シーボルトはスパイであったのか
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
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薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか

前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。

前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。

耳川合戦図屏風 京都市相国寺蔵
【耳川合戦図屏風】

天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて南下を開始したのだが、耳川(みみかわ)の戦いで島津義久軍に大敗している。

その大敗で、それまで大友家に従属していた肥前の龍造寺隆信が離反して自立し、筑前でも秋月種実や筑紫広門が離反して島津方についた。また大友庶家の重鎮である田原親宏や田原親貫、田北紹鉄らも大友家に対して反乱を起こし、これまで豊後・筑前・肥前・筑後・豊前・肥後の6カ国にまたがっていた大友領で次々と反乱が起こったという。

一方島津家は、耳川の大勝を機に薩摩・大隅・日向を制圧し、肥後にも手を伸ばすなど、大友家に対する圧迫を強めていた。それに対し大友家では、領内の叛乱を抑えきれないために織田信長に接近し、信長の仲介で島津義久との間で『豊薩和睦之儀』を成立させたものの、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去すると両国間の和睦は雲散霧消してしまう。

島津義久
島津義久像】

天正12年(1584)から13年(1585)にかけて島津義久は大友家に従属する肥後の阿蘇家を滅ぼしてさらに筑後に兵を向けたため、大友宗麟は豊臣秀吉に援軍を要請したという。秀吉も信長と同様に薩摩との和睦を成立させようとしたが、今度は島津義久が断っている。

戸次川の戦い
【戸次川の戦い】

天正14年(1586)に島津義久による豊後侵攻が始まると、大友宗麟・義統父子への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反して、島津軍は筑前に兵を向けて岩屋城を落城させたのち、12月には戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊に大勝し、その勢いで大友氏の本拠地である豊後府内を攻略にかかった。臼杵城に籠城していた大友宗麟は、南蛮貿易で手に入れた大砲を使って臼杵城を死守し、戦国大名としての意地を見せたという。

臼杵城
【臼杵城】

天正15年(1587)になって大友氏が滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が到着し、さらに秀吉も10万の兵を率いて九州平定に出陣し各地で島津軍に勝利して、3月にようやく島津軍が退却を始めるという流れである。

九州平定後秀吉が博多を出発する際に、大友宗麟の嫡男・義統(よしむね)に対して秀吉が一通の書状を送り、キリシタン信仰を棄てるようにと命じたという。そして義統は、関白に従うと答えたのだそうだ。

調べると大友義統が黒田孝高の強い勧めで、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けたのは天正15年(1587)の4月なのだが、6月に秀吉が『伴天連追放令』を出したために、義統は正式にキリスト教となってわずか2ヶ月でキリスト教を棄教したことになる。

この薩摩と豊後との長い争いで、両軍に相当な犠牲者が出たことは言うまでもないが、特に長い間戦場となった豊後の人々は、相当悲惨な状態に陥ったことが、当時わが国にいたイエズス会のルイス・フロイスの記録に残されているので引用したい。

完訳フロイス日本史8

「豊後の事情は今まで惨憺たる有様であった。すなわち、かの地から来た土地の人々が一様に語っているところによると、その国の人々は次の3つのうちいずれかに属していた。
その一つは薩摩軍が捕虜として連行した人々、他は戦争と疾病による死亡者、残りの第三に属するのは飢餓のために消え失せようとしている人々である
。彼らは、皮膚の色が変わってしまい、皮膚に数えることができそうな骨がくっついており、窪んだ眼は悲しみと迫りくる死への恐怖に怯えていて、とても人間の姿とは思えぬばかりであった。どの人もひどく忌まわしい疥癬に全身が冒されており、多くの者は死んでも埋葬されず、遺体の眼とか内臓には鴉とか山犬の餌と化するのみであった。彼らは生きるのに食物がなく、互いに盗賊に変じた。既述のように蔓延した病気はいまだに収まっていなかった。主なるデウスはさらに彼らの上に正義の鞭を下そうとなされ、臼杵の村落は前年の薩摩軍の包囲によって城を残すだけですべて焼失してしまったが、その後、豊後の新たな国主*は、焼き払われ破壊されたその国を再建しようと全力を尽くした。国主の要請に基づいて、持てる者も持てざる者もその力に応じて再建にいそしんだ結果、[人々の談によれば]豊後の国は当初の規模と外観に劣らぬほどになったという。…そのうちに、かの地から一人の司祭が我らの許に届けてきた通信によると次の事態が発生した。
本年の1月2日の正午近く、臼杵の主要な街路(ルア)で火災が発生した。火元はある貧しい男の家であった。火災は猛烈な勢いでその街路に燃え拡がり、折からの強風に煽られてほとんどことごとく焼き尽くした。…人々が証言するところによると、この火災は家財を盗もうとした人によって人為的に点火されたものだという。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.266)
*豊後の新たな国主:大友義統(おおともよしむね)のこと。大友家第22代当主・大友宗麟の嫡男。後に秀吉から偏諱(「吉」の1字)を与えられて義統から吉統へと改名した

この戦いで多くの人々が亡くなり、あるいは薩摩の捕虜となったとなったのだが、残った人々はほとんどすべてが飢餓状態にあったというからひどい話である。
1月2日の火事で大友氏の居城である臼杵城も焼け、国主の蔵1つだけが焼け残ったのだそうだが、この日は出陣中であっため消火に駆けつけた人々は少数で、そのことが火災の被害を大きくしてしまったという。

飢えで苦しんだ人々も悲惨だが、捕虜にされた人々も悲惨な運命を辿ったようだ。フロイスは同上書でこう述べている。

薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(中公文庫『完訳フロイス日本史8』p.268)

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、太閤検地の頃の豊後の人口が418千人だったことから勘案すると、その2割程度は捕虜として売却されたと考えてもおかしくないだろう。

島原半島の島原や三会の港に運ばれたということは、買ったのはポルトガル人であったと考え良い。ではポルトガル人は、それから彼らをどう用いたのか

ルイスフロイス
ルイス・フロイス像】

フロイスの記録を辿っていくと、多くの日本人が奴隷として海外に売飛ばされている事実を突き止めて、豊臣秀吉がイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョとやりあったことが記されている部分がある。

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(中公文庫『完訳フロイス日本史4』p.207-208)

この太閤の提起した問題に関してコエリョが答えた内容について、前掲書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)

このようにコエリョは、奴隷売買についてはこれを取締らない日本側に問題があると答えたことに秀吉は激怒するのだが、コエリョがこのように回答したのには理由がある。当時においては、異教徒ならびにキリスト教に敵対する勢力を攻撃してあらゆる所蔵物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶める権利をローマ教皇が認めていたことを知る必要がある。そもそも、当時わが国に来ていた宣教師がローマ教皇の教書の内容を否定できる筈がなく、彼らにとっては間違ったことは何もしていない認識でいたと考えられる。

カトリック教会と奴隷貿易

その教書の内容についてはカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある西山俊彦氏の著書である『近代資本主義の成立と奴隷貿易』に出ているが、著書の一部をネットでも読むことが出来る。次のURLで紹介されている論文のp.6「Ⅱ.一層明白な教会の関与 ~キリスト教徒は禁じ、敵対者は奴隷化を奨励する諸教書」で確認願いたい。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/doreimondai_2.pdf

同上書には1454年に出された「ロマーヌス・ポンティフェックス」が訳出されているが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。

西山氏の著書によると、それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だという。このようなキリスト教の負の歴史は、戦後のわが国では未だにタブーとされていると言って良い。

わが国の歴史家はこの時代を「大航海時代」などというピント外れの言葉を使って問題の本質を隠しているのだが、ローマ教皇が「ロマーヌス・ポンティフェックス」のような教書を相次いで出していたからこそ、スペイン・ポルトガルが罪の意識を持たずして世界を侵略し、原住民を奴隷にして世界各国に売飛ばしつつ、植民地を拡大していったことを知らねばならない。
このような教書が存在したこの恐ろしさは、宣教師が布教に訪れた国が、キリスト教と異なる宗教を持つということだけで、スペイン・ポルトガルがその国を侵略したり住民を奴隷にする権利を付与していた点にある。
そして戦国時代以降のわが国は、スペインやポルトガルがその権利を行使できる対象国になっていたことを知らなければ、わが国に相次いで宣教師が来た理由を正しく理解したことにはならないだろう。

鉄砲を棄てた日本人

では、なぜわが国がこの時代に国を奪われずに済んだのか。
この点については以前もこのブログで記したように、この当時のわが国は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、キリスト教が伝来する6年も前の天文12年(1543)に西洋の鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。ノエル・ペリン氏の『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)には、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたことや、当時日本に訪れた宣教師オルガンティノ・グネッチや、前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロは、母国よりも日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

スペインもポルトガルも日本よりも軍事的劣勢であっただけでなく、本国から遠く離れていたので武器・火薬等の補給が困難であったことから、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、わが国には容易に手を出せなかったのである。
だから彼らはキリシタン大名や武将を育てて国を割り、最後にキリシタン大名に勝利を導こうと画策したのだが、わが国の為政者がその侵略の意図を認識し適切に対応したことや、スペイン・ポルトガル国内事情もあって失敗に終わったと理解している。その点については以前このブログで述べたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

戦国時代以降のわが国の歴史は、西洋史の大きな流れの中で捉えるべきだと考えるのだが、戦後のわが国の歴史叙述では、なぜかこのような視点が根本的に欠落していると思われる。
豊後の人々が島原半島で南蛮船に乗せられて奴隷として売られていったことも、前回及び前々回に記したキリシタン大名の領国で徹底的に神社仏閣が破壊されたことも、ローマ教皇の教書によって異教徒の全ての領土と富を奪い取り住民を終身奴隷にすることが認められていたことを知れば納得できる話なのである。
彼らは世界中の異教国を侵略し、異教徒の文化を破壊し、住民を奴隷化してその土地から追い出し、そこに白人を植民してキリスト教国化する手法で、キリスト教世界を拡げようとしていたのだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html



蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える

蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。

蒲生氏郷公像

右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より郷土日野を望み、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』の歌を詠む氏郷の姿を写したものです。」と解説されている。
ところが、氏郷は朝鮮出兵文禄の役に参陣したのち肥前名護屋城陣中で下血し、以降体調を崩して、文禄四年(1595)に40歳の若さでこの世を去っている。

蒲生氏郷は日野に生まれ育ったのだが、日野城主であったのは天正十年(1582)から天正十二年(1584)とかなり短く、蒲生氏郷が伊勢国松ヶ島に転封されて日野を去ったのは28歳であった。

若くして日野を去ったにもかかわらず故郷に名を残した蒲生氏郷が、どのような人物であり、どんな人生を送ったのかを最初に振り返っておこう。

蒲生氏郷は弘治二年(1556)年に六角義賢(ろっかくよしかた)の重臣であった蒲生賢秀(かたひで)の三男として近江国蒲生郡日野に生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。

永禄十一年(1568)に足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると、賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従したという。ところが、この時十三歳であった鶴千代が織田信長に気に入られることになる

『名将言行録』にはこう記されている。
信長これを見て、蒲生が子眼晴常ならず、尋常の者にはあるまじ。天晴(あっぱれ)なる若者哉。信長が娘に合わせんとて、岐阜城に止め、弾正忠*の一字を賜わり名を忠三郎と賜う
 信長の前にて、毎度武辺の談論あり。氏郷年十三。常に座に在り、深更に及ぶといえども、終に倦怠することなく、一心不乱に語る者の口本(くちもと)を守り居たり。稲葉貞通(さだみち)これを見て、蒲生が子は尋常の者にあらず、彼にして一廉(ひとかど)勝れたる武勇の者に成らずんば、成る者はあるまじきと言われけり。
 (永禄)十二年八月、信長、大河内の城に発向す。氏郷年十四。ただ一人抜掛し、多勢の中に戦い、能き首取りて帰る。信長大に感じ、自ら打鮑取りて賜わりけり。是より大小の戦功、数うるに遑(いとま)あらずや
。」
*弾正忠家:戦国時代の尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清州三奉行の一つに織田弾正忠家があり、織田信長はこの家系に属する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/39

氏郷は、初陣で戦果を挙げたのち信長の次女を娶って日野に帰国し、元亀元年(1570)の朝倉攻めや姉川の戦い、天正3年(1575)の長篠の戦いなどに従軍して、数多くの武功を挙げている。

安土城絵
【安土城】

天正十年(1582)に本能寺の変が起こった時に、日野城で事変の情報を聞いた氏郷は安土城にいた父・賢秀に連絡し、城内にいた信長の一族を安土城から日野城に移動させてお守りしている。そののち賢秀から家督を継いだというが、氏郷はその年の12月に十二ヶ条の掟を日野城下に出して、今までの独占販売権、非課税権などの特権を持つ商工業者を排除して自由な取引市場をつくり、新興商工業者を育成して地域経済の活性化を図ろうとしたのである。

信長亡き後は、氏郷は秀吉に付くこととなり、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの際は秀吉軍撤退の殿(しんがり)を務め、戦いのあとで12万石に加増されて伊勢松ヶ島に転封となっている。したがって蒲生氏郷は、日野城主としては2年程度務めたにすぎないということになる。ついでに言うと、氏郷の実子2人はいずれも早世し、長男の子も早死にしたために蒲生家は寛永十一年(1634)に断絶となっているのである。

仁正寺藩邸跡
【仁正寺藩邸跡】

一方、蒲生家の居城であった日野城は、関ヶ原の戦いののち廃城となり、慶長十一年(1606)に破却されているが、元和6年(1620)に市橋長政が仁正寺藩を立藩して日野城の跡地に藩邸を建設し、その後明治四年(1871)まで251年もの間、市橋家が日野を治めている。

日野の人々にとっては市橋家のほうがはるかに長い付き合いであったことになるのだが、「郷土の誇り」とする人物を選ぶとなると、今も蒲生氏郷の名が最初に挙がるようなのだ。
その理由は、彼の人望の高さもあるのだろうが、任期中もまた転封後も、日野商人に便宜をはかることで、日野を豊かにしたことが大きいのだと思う。

前回の記事でも紹介した通り、天正十二年(1584)に蒲生氏郷が伊勢松ヶ島に転封されると、日野商人達は氏郷を追うようにしてその地に一街区を拓いて移り住み、さらに氏郷が天正十八年(1590)に陸奥国会津に転封されると、再び氏郷に従って商圏を拡大していったことが記録に残されている。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

ところで、秀吉が氏郷を遠国の陸奥国会津に移封したのはなぜなのか。
『名将言行録』にはこう記されている。
「…秀吉諸将を会し、会津は関東の要地なり。勝れたる一将を撰みて鎮圧せしめずんばならぬ地なり。汝ら遠慮なく意見を記して見すべしと言わる。細川越中守忠興、然るべしと言う者十人には九人あり。秀吉これを見て、汝ら愚かもまた甚だし。我天下を容易く得しことは理わりなり。この地は蒲生忠三郎ならでは置くべき者なしとありて、氏郷に90万石を賜う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42

要するに、伊達政宗に対する備えとして蒲生氏郷が適任であると秀吉が判断したというのだが、『名将言行録』には秀吉が氏郷を上方から遠ざけた別の理由も記されている。

「氏郷、会津へ行く時、秀吉袴を脱ぎ氏郷に着せられ、自ら氏郷の袴を着らる。さて氏郷奥州へ行くことを如何存じおりしやと尋ねられければ、近臣殊の外迷惑がり候と申す。秀吉聞きて、いかにも左あるべし。こちに置きては怖ろしき奴なり。故に奥州に遣わすとぞ言われけり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/42

秀吉は信長が認めた器量人である氏郷を恐れて、上方から遠ざけたことは充分あり得る話だと思う。氏郷自身も、会津転封を命ぜられた際に、恩賞を賜るなら小国でも西国をと望んでいたのに、辺境では天下取りの機会が失われると悲しみ涙を流したと伝わっている。

『名将言行録』を読み進んでいくと、蒲生氏郷が毒殺されたと記されている
文中の「九戸役」とは、天正十九年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。

石田三成
石田三成

「九戸役の後、石田三成、都へ帰り、ひそかに秀吉に申様、此度氏郷が軍容を視侍るに、尋常の人には候わず、彼の軍行七日が程引きも切らず、然るに一人も軍法を犯す者候わず、この人殿下の御為に、二心を懐かざらんには、かかる御固また餘にもあるべからず、心得させ給いて然るべき人なりと申ししかば、密に毒を与えられぬ。之に依り忽ちに病に犯されて終に空く成りにける。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1043026/49

氏郷は天正十八年(1590)十一月にも葛西大崎一揆鎮圧に向かう途中で伊達政宗から誘いを受けた茶席で毒を盛られ、帰って急いで毒を吐いたことが『氏郷記』に記されている。この書物も国立国会図書館デジタルコレクションに公開されており、誰でもPCで読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/91

先ほど紹介した『名将言行録』の記述は『氏郷記』の次の部分を参考に書かれたものと思われるが、重要な部分なので引用させていただく。

「爰(ここ)に石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時に越えたる讒臣*なり。ある時潛(ひそか)に太閤へ申されけるは、…会津宰相こそ謀も勝れ、能き侍をも数多持ちて候え。先年九戸一乱の砌罷下りて、彼が計略を見候に、軍勢を七日路に続け、その人数仕い法度の品々、目を驚かし候いつる。かかる良将を愛して置かせ給わば、養虎の愁、踵(きびす)を廻(めぐら)すべからずとぞ申しける。太閤相国秀吉公も、常々訝(いぶかし)く思召しけるに、かく言上しければ、彼氏郷を失わん談合評定取々なり。…氏郷は、錐袋にたまらぬ風情にて、一言の端も、人に指を指されじと嗜まれしかば、太閤斯様に思召すも、余儀なくぞ覚えし。されどまた忠功第一の人なれば、如何ともすべきようなかりけり。然れば唯人知れず害毒せよとて、ある時毒を飼い給いしとかや。此毒や祟りけん、去朝鮮征伐の頃も、下血を病まれけり。猶それより以下(このかた)、気色常ならず、面黄黒にして、項頸(うなじ)の傍ら肉少なく、目の下微(すこ)し浮腫(はれ)しかば、去りし秋の頃、法眼正純を召して、養生薬を用いられしが、其後腫脹弥(いよいよ)甚しかりければ、去年名護屋にて宗叔が薬相当しけるとて、又彼を召して、薬を用いられしかども、更に其験なかりけり。同十二月朔日、太閤如何思召しけん。江戸大納言加賀中納言へ仰付けられて、諸医を召し、氏郷の脈を見せよとありければ、両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め、脈を見せられけるに、各大事にて候とぞもうしける。明くる文禄四年正月迄、宗叔薬を盛りけれども、氏郷次第に気力衰えしかば、それより道三の薬を用いられけり。されども早叶わずして、同二月七日、生年四十歳と申すに、京都にて朝の露と消えられけり。」
*讒臣(ざんしん):讒言して主君におもねる臣下
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/123

肥前名護屋城
【肥前名護屋城】

『氏郷記』は『名将言行録』よりかなり具体的に記されていて理解しやすいのだが、この記述が正しいとすると、石田三成が秀吉に讒言して氏郷に毒を盛った時期は、「九戸役」が終結した天正十九年(1591)の秋から朝鮮出兵(文禄の役)が起きた文禄元~二年(1592~3)までということになる。
そして、その毒が原因となって、文禄の役に参陣した氏郷が肥前名護屋で下血し、その後、外見からも重病であることが窺える症状が出たという。

屈強な武士が40歳という若さで体調を崩して命を落とすことは考えにくく、毒殺されたとする説があっても何も不思議なことではではないのだが、氏郷が亡くなったのは文禄四年(1595)二月なので、石田三成に毒を盛られたにしては結構長く生きていることが気になるところである。

では、通説ではどうなっているかを調べると、氏郷は毒殺ではなく、病気で死んだことになっているようだ。
一般的に事実の不存在の立証は『悪魔の証明』とされて難しいものなのだが、何を根拠にして毒殺説を否定しているのだろうか。

Wikipediaには、こう解説されている
豊臣秀吉(『氏郷記』)や石田三成(『石田軍記』、『蒲生盛衰記』)などによる毒殺説もあるが、下記の理由により否定されている。
秀吉は氏郷の治療にあたり、施薬院全宗が医師団を指揮し、曲直瀬玄朔、一鷗軒宗虎を長老格とする9名の医師団による輪番治療を行わせた。曲直瀬玄朔(まなせげんさく)が残したカルテ『医学天正記』には文禄の役へ出兵の途中、文禄2年(1593年)に名護屋城で発病し、文禄4年(1595年)に没するまで、3年間患い症状が出たと記されている。腹水がたまり、顔面や手足に浮腫ができるといった徴候から、氏郷は今でいう直腸癌だったと推測されている。他に死因として肝臓癌が上げられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7

曲直瀬玄朔
【曲直瀬玄朔】

秀吉が氏郷の治療の為に文禄三年十二月に名医を集めたことは、先ほど紹介した『氏郷記』にも出ていたが、曲直瀬玄朔は幼少の頃両親を失い、母の兄である曲直瀬道三に育てられて医者となった人物である。かなりの名医であったらしく、『医学天正記』には正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼ほか、毛利輝元、加藤清正などの治療が記録されているという。
http://kenblog1200.at.webry.info/201305/article_15.html

国立国会図書館デジタルコレクションに『医学天正記』があり、ネットで全文が公開されている。
『医学天正記』の原文は漢文なのでやや読みづらいが、書いていることは何となくわかる。次のURLに氏郷のカルテがあり、この記述が氏郷病死説の根拠とされているのだが、簡単に内容をまとめておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433/236

『医学天正記』の該当部分
【『医学天正記』の蒲生氏郷についての記述部分】

氏郷は文禄の役に参陣し肥前名護屋で下血した際には、堺の医師である宗叔(そうしゅく)が主治医を務めていた。
文禄3年に曲直瀬玄朔が氏郷を訪問した際には顔色が黄黒で首筋の肉がやせ衰え、目の下に浮腫があったとあり、秋に再び訪問した際には氏郷の腫れがひどくなり、むくみも増していたとある。そして12月に入って秀吉は、徳川家康と前田利家に命じて9人の名医を招いて診察させている。曲直瀬玄朔は「十中九は大事(危険)」と診断したが、他の医師はそこまで危険と考えず、特に主治医の宗叔は難しいのは十のうち一と診断したそうだ。
前田利家は曲直瀬玄朔に氏郷の治療を頼んだのだが、主治医が手を引かないので治療は出来ないと断った。その後も宗叔の投薬が続けられて、3カ月後に氏郷はわずか40歳でこの世を去ったのである。

毒を盛られてから三年も経ってから死んだ場合は、その死因を「毒殺」とは言わないのかもしれないが、『氏郷記』が記しているように毒を盛られたことをきっかけに体調を崩し、衰弱して死んでいったということならばあり得る話だと思う。

冒頭の蒲生氏郷像は文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中で歌を詠む氏郷の姿なのだが、『思ひきや 人のゆくへぞ定めなき わがふるさとを よそに見んとは』と詠んだ時の氏郷は重い病に冒されていたのだろうか。名護屋の陣に着く直前か、陣の中で毒を盛られたから下血したということではないのだろうか。

豊臣秀次
【豊臣秀次】

ところで、氏郷の死後に驚くような出来事が起っている。
氏郷が亡くなった年である文禄四年(1595年)六月末に、突然秀次に謀反の疑いが持ち上がり、秀吉によって七月に切腹を命じられ、八月には秀次の家族や側室・侍女ら39名が処刑されている。
驚くべきことに、先ほど紹介した『医学天正記』を著した曲直瀬玄朔も流罪に処せられている。曲直瀬玄朔は秀次の喘息の治療のために秀次邸に出入りしていたことが引っ掛かったようである。

この時代は、秀吉の後の天下を狙っていた人物が少なからず存在した。蒲生氏郷も豊臣秀次も、将来のライバルとなる人物を消すための何者かの工作にかかった可能性を感じるのは私ばかりではないだろう。しかしながら、もしそのような工作があったとしても、それを裏付ける証拠となるものが残されることはほとんどないと言って良い。

このブログで何度も書いているように、いつの時代もどこの国でも、勝者は、勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良い歴史を編纂して広めようとするものである。この種の工作が行われた場合は、特にその工作に将来の為政者が関与していた場合は、記録は改竄されるか封印されるのが常ではないか。

蒲生氏郷
【蒲生氏郷】

最後に氏郷の辞世の歌を記しておく。
かぎりあれば 吹かねど花は 散るものを 心みじかき 春の山風
(風など吹かなくても、花の命には限りがあるのでいつかは散ってしまう。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか)
春の山風とは氏郷を早死にさせた運命を意味すると思うのだが、氏郷はこの言葉の中に、誰か具体的な人物が関与していることを匂わせようとしたのかもしれない。

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【ご参考】豊臣秀吉の死後の覇権争いについてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-426.html

徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-427.html

石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-429.html

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-430.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-425.html

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史