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毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか

毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。

毛利元就

元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。
今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。
元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になることを示し、毛利家も三兄弟が結束すれば、他国から攻められることはないと訓えたという話だ。

三本の矢人形

この「三矢の訓」の話はテレビでも何度か子役が出てくるのを見たような記憶があり、人形や絵などでも見たことがあるので私も長い間本当にあった話だと信じていたが、最近になって友人からこの話は、時代背景からあり得ないことを教えてもらった。

まず、毛利元就がなくなったのは元亀二年(1571)で、享年75歳であった。
長男の隆元は、それより8年前の永禄六年(1563)に尼子攻めに参加する途上で41歳で急死しているので、元就の臨終の床にいる事はあり得ない。
また、元就の臨終の時に、次男の元春は41歳、三男の隆景は38歳の壮年ということになる。三本の矢を折れないのが少年であれば理解できるが、この年齢の男性なら三本の矢を束ねたくらいならそのままへし折ってしまうだろう。
だから、毛利元就の臨終の床での場面設定は明らかに作り話である。

また毛利元就の子供は3人ではなく実は12人いた。男10人女2人の子沢山である。なぜ、「三本の矢」なのかと、調べるといろんな疑問が湧いてくる。

では、このような作り話がいつ頃から流布したのだろうか。
ネットでいろいろ探すと、中国新聞の特集記事が見つかった。この話が広まったのはどうやら明治時代の教科書がきっかけらしいのだ。
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97041801.html
このサイトを読むと、明治15年(1882)編纂の道徳教育書「幼学綱要」にこんな話が登場していると書いてある。

毛利元就病てまさに死せんとす。諸氏を前に召し、其子の数の矢を束ねて力を極めて之を折れども断えず。また其一条を抜き、随って折れば随って断ゆ。曰く、兄弟はこの矢の如し。和すれば則ち相依って事をなし、和せざれば則ち各々敗る…」。
と、ここでは矢の話が出てくるが兄弟の人数も名前も記されていない。

また大正8年(1919)文部省編纂の「尋常小学読本」にも良く似た話が出てくるのだが、ここでは「父のおしえ」と言う表題で、毛利元就の名前も記されていないそうだ。
中国新聞のこの記事ではこの話が、長男隆元、二男元春、三男隆景に矢を折らす「三矢の訓」に変化したかははっきりしないと書いてある。

自宅の本棚から小学館文庫の「精選『尋常小学修身書』」を取り出して確認すると、昭和9年の「尋常小学修身書」が掲載されていて、ここではこうなっている。

「…元就には、隆元・元春・隆景という三人の子があって、元春・隆景は、それぞれ別の家の名を名のることになりました。元就は、三人の子が、先々はなればなれになりはせぬかと心配して、いつも『三人が一つ心になって助け合うように。』といましめて居ましたが、或る時、三人に一つの書き物を渡しました。…」(p337)

と、今度はどこにも矢の話が出て来ないのだ。「三矢の訓」は明治時代の「幼学綱要」から大正・昭和の「尋常小学校修身書」が混ぜ合わさったような話になっていることがわかる。

昭和9年の「尋常小学修身書」に書いてあることは、概ね史実に基づいたものである。
毛利元就は弘治三年(1557)11月25日に隆元・元春・隆景三兄弟の結束を説く14ヶ条からなる教訓状を残しているのだ。

三子教訓状

この「三子教訓状」は国の重要文化財に指定されていて、現在山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。

原文は次のURLで、
http://www5d.biglobe.ne.jp/~dynasty/sengoku/tegami/m405.htm
現代語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AD%90%E6%95%99%E8%A8%93%E7%8A%B6

これを読むと、毛利元就が言っている事は、矢の話はないものの、「三矢の訓」に近い内容であることがわかる。

(口語訳)
「第三条
改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表わせぬ程である。

第四条
隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ 元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。


第六条
この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。…」

次男の小早川隆景には子供がなく、豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊が養子となり小早川秀秋をなのるも嗣子なくして病没し小早川家は断絶したのだが、毛利元就が第六条で述べたとおり毛利家も吉川家は戦国時代から江戸時代、明治時代を生き抜き今も続いている。毛利元就の想いが子孫に伝わったということなのか。

三矢の訓」は誰が聞いてもいい話で、わかりやすくて含蓄がある。
しかし、子供に道徳を教えるためにいい話をわかりやすくしようとして、明治時代に史実を曲げてしまったことは良くなかった。教科書で一度でもそういうことをすると、長い間に史実でないことが日本人の常識となってしまう。

三矢の訓跡碑

広島県安芸高田市吉田町の「少年自然の家」の敷地は毛利元就の居館跡と伝えられているが、この場所は以前大江中学校(昭和43年[1968]に廃校)の敷地であった。

校地内に毛利元就の居館があったことから、当時の中学校生徒会の手で昭和31年に「三矢の訓跡」の碑が建てられてそれが今も残っている。

サンフレッチェ広島

サッカーJリーグの「サンフレッチェ広島」というチーム名は、「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語の「矢」を意味し、この「三矢の訓」にちなんだものであることは言うまでもない。

「三矢の訓」が作り話であることがわかっていれば、大江中学校の生徒会が碑を作ることもなかったであろうし、広島のサッカーチーム名も異っていたことであろう。 史実と異なる話を創作して伝えたことの罪は本当に重いと思う。
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光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html

山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある

秀吉配下の武士は武功を上げるために、競って光秀を討ってその首を狙おうとする。
一方、光秀の家臣は必死で主君を守ろうし、もし主君が討たれても首だけは敵に渡すまいとするので、いずれにせよ主君の首が放置されることはあり得ない。
普通に考えれば、光秀の顔を知っているはずがない百姓が拾ったような首が、光秀のような重要人物のものであるはずがない

秀吉

秀吉も、百姓が拾ったような首を光秀のものと確信していたはずはなく、おそらく彼は比較的良く似た首を光秀のものとしたのだろう。その上で秀吉は、光秀を貶めるために「百姓に(光秀の)首を拾われた」という嘘の情報を広めて、光秀は味方からも見捨てられて命を落としたとの印象を人々に植え付けようとしたのではないか。光秀がそのような死に方をしたことを広めれば、たとえ光秀が生きていたとしても、再起する可能性はほとんどなくなるぐらいのことを考えたのだと思う。
また信長亡き後の天下を狙っていた秀吉からすれば、徹底的に光秀を貶めて極悪人にしておかなければ、秀吉が明智軍を討伐したことの正当性を世間にすんなり納得させるストーリーが成り立たないことも考えておいてよい。

この戦いのわずか4か月後に秀吉が御伽衆の大村由己に書かせた物語である『惟任退治記(これとうたいじき)』の記述には「諸国より討ち捕り来る首、ことごとく点検のところに、其の中に惟任(光秀)が首あり」となっているのだが、その物語が時代とともに尾ひれがついて、寛永3年(1626)に小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた『甫庵太閤記』では「光秀が小栗栖の竹薮で土民に殺された」という話になり、光秀が「竹槍」で農民に殺されたことになったのは、昭和になって戦国史の泰斗と呼ばれた高柳光寿氏が著書で書いてから広まった話なのである。
光秀の死に関する通説は、こういう経緯を知るとバカバカしくなってくる。

では光秀は山崎の合戦で命を落としたのだろうか、あるいはその後も生き延びたのだろうか。

Wikipediaの「明智光秀」の解説では「槍で深手を負った光秀は自刃し、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、茂朝はその首を近くの竹薮に埋めたとも、丹波亀山の谷性寺まで持ち帰ったとも、あるいは坂本城まで持ち帰ったともいわれる」と書かれているが、同じWikipediaの「溝尾茂朝」の解説では「山崎の戦いにも参加し、一番の中備を務めたが、敗れて光秀と逃走する。しかし遺憾なことに、光秀が百姓によって重傷を負わされると、光秀の命令で介錯を務めることとなる。そして光秀の首を近江の坂本城にまで持ち帰った後、自害して果てた。享年45。」とある。
どちらも興味深い話なのだが、坂本に持ち帰られた3つの首については、前回の記事で記したように、西教寺の記録では光秀のものとは確認されていない。

谷性寺首塚

Wikipediaの記事に名前の出てくる丹波亀山の谷性寺(こくしょうじ)は別名を「光秀寺」といい、境内に「光秀公首塚」があるようだが、この石碑が建てられたのは幕末期のようだ。
この寺に光秀の首が持ち込まれたことを記した古文書があれば面白いのだが、誰か研究している人はいないのだろうか。
http://www.y-morimoto.com/kanko/kokushoji.html

一方、岐阜県山県郡美山町には、山崎の合戦で死んだのは影武者の荒木山城守行信で、光秀は自分を荒深小五郎と名乗り西洞の寺の林間に隠宅に住み、その後光秀は雲水の姿になって諸国遍歴の旅に出て、慶長5年(1600)に死んだという伝承があるという。

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地元の白山神社には明智光秀のものとされる墓があり、次のURLに写真と解説が出ているが、もし光秀が生きていたとしたら、他人の名を名乗ってこのような山深い場所に生きるしか仕方がなかったかもしれない。
http://space.geocities.jp/minokoku1534/ziinn/gifu/fileg/hakusann.html
また次のURLには白山神社にある光秀の墓への行き方が案内されている。興味深い話だが、この墓の由来についての古文書のようなものはないのだろうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/supopopo_pop/34352170.html

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また、教科書などでよく目にする明智光秀像は、大阪府岸和田市にある臨済宗の本徳寺にあるのだが、これがわが国で唯一残されている明智光秀像だそうだ。
この寺を開基した南国梵桂(なんごくぼんけい)は明智光秀の長男・明智光慶(みつよし)と言われているのだが、光秀の子供で男は光慶一人しかいない。長男の光慶が生存していたのなら、光秀が生きていてもおかしくないだろう。
そして、この光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」、つまり「仏門に入り去っていった」との一文が記されていて「雲道禅定門肖像賛」と書いてあり、位牌の戒名は「鳳岳院殿雲道大禅定門」で「光秀」という名前が隠れている。
また光秀の位牌の裏には「当寺開基慶長四巳亥」、つまり「慶長4年(1599)に当寺を開基した」と記されており、この文章を素直に読むと、この寺を開基したのが明智光秀で、関ヶ原の前年である慶長4年には、光秀がまだ生きていたことになり、当然のことながら、この肖像画もその年以降に書かれたことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BE%B3%E5%AF%BA_(%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)
岸和田市が「市政だより」で制作し、本徳寺の住職がこの肖像画を解説しておられる動画がyoutubeにあるのだが、住職も当然ながら光秀生存説を唱えておられる。興味のあるかたは見て頂くと良い。


ほかにも光秀が生きていたという説がある。
前回の記事の最後に、家康の政治顧問であった南光坊天海が明智光秀と同一人物であるという説があることを触れたが、ネットでは多くの方がこの説を論じておられていてWikipediaにもとりあげられている。

この説の論拠の幾つかを紹介しておく。
日光東照宮陽明門随身像

1. 日光東照宮陽明門にある随身像の袴や、多くの建物に明智家の家紋である桔梗の紋が描かれている。
2. 徳川幕府の2代将軍は忠で3代将軍は家だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れているとも読める。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌っていてもおかしくない。
3. 三代将軍家光の乳母のお福こと春日局は、光秀の重臣であり本能寺の変で全軍の指揮を執った、明智家筆頭家老の斎藤利三の娘である。またお福の子の稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府の中枢を占めた。
さらに家康は土岐明智一族の菅沼定政に土岐姓への復帰を命じ、土岐明智家を復活させている
斎藤利三の娘を重用したり、光秀の悲願であった土岐明智家を復活させたことなど、家康が明智家に配慮したのは、明智家に感謝する理由があったのか、家康の参謀となった天海が明智家かそれに近い人間であったのではないか
4. 学僧であるはずの南光坊天海が関ヶ原戦屏風に家康本陣の軍師として描かれている。
5. 京都市右京区京北周山にある慈眼寺に明智光秀の位牌と木像があるが、この寺の名前は天海の諱の慈眼大師と同じである。
6. 比叡山・松禅寺に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。
7. 日光に「明智平」と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。

これ等の指摘は結構説得力があって引き込まれるのだが、調べていくと、それぞれについてこのような反証がある。

桔梗紋と木瓜紋

1. 日光東照宮陽明門にある随身像や、多くの建物にある家紋は、明智家の桔梗紋ではなく織田家の家紋である木瓜紋(もっこうもん)である
2. 家光の諱を選定したのは、天海とライバル関係にあった金地院崇伝である。
3. 福は小早川秀秋の家臣である稲葉正成に嫁いだが、正成は関ヶ原の戦いで小早川軍を東軍に寝返らせ徳川軍を勝利に導いた功労者である。
4. 関ヶ原歴史民俗資料館が所蔵する関ヶ原戦屏風には「南光坊」の名があるが、この屏風は彦根城博物館が所蔵する江戸時代後期に狩野貞信が描いた屏風を模写したもので、この彦根城博物館の屏風には「南光坊」の記載がない。
5. 慈眼寺にある明智光秀の位牌と木像は、周山の東北にあって廃寺となった密巌寺から1912年に移されたもの。天海の諱の慈眼大師と一致するのは偶然だと思われる。次のURLに光秀の位牌や木像の写真が紹介されている。
http://everkyoto.web.fc2.com/report667.html
6. 比叡山の石灯籠に刻まれた「光秀」が明智光秀本人であることの立証は困難。
7. 「明智平」を天海が名づけたというのは伝承にすぎない。

他にも次のような反論がある
8. 光秀=天海とする説は明治時代の作家・須藤光輝が唱え出したもので、当時の記録に光秀と天海とを結びつける記録が全くないのはおかしい。
9. 天海と光秀が同一人物だと享年は116歳となり天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がある

確かにその通りなのだが、いくら反論を読んでみても、なぜ家康が明智家に配慮したのかという根本的な疑問がどうしても残ってしまう。

春日局

通説では明智光秀は主君の信長を討った謀反人であるわけだが、なぜ、その謀反を主導した明智家筆頭家老の斎藤利三の娘を、2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(のちの3代将軍・家光)の乳母に任命したのだろうか。
少し考えればわかる事だが、乳母という立場はその気になれば嬰児の命を奪うことは容易な事であり、そのような重要な任務を光秀の重臣の娘に抜擢することは常識では考えにくいところだ。
また土岐明智家を復活させたのも理解に苦しむ。なぜ謀反人である光秀に配慮したのだろうか。

これらの点をスッキリさせるためには、本能寺の変の原因が明智光秀の信長に対する怨恨であるという通説を一旦リセットする必要がある。

以前このブログで本能寺の変について5回に分けて書いたことがあるのだが、この事件から家康と光秀との関係から述べだすと、かなり長くなってしまうので、次回に記すことにしよう。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html


南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2

前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。
また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。

通説が正しいことを前提にすると「謎」になるような事象が多い場合は、通説の信憑性を疑ってみても良いのではないかと思うのだ。

明智憲三郎

最近注目されている明智憲三郎氏の論考では家康と光秀は繋がっていたと考察しておられ、本能寺の変のについて通説とは全く異なる説を唱えておられる。しかも、その論拠は明快で、通説よりもはるかに説得力がある。明智憲三郎氏の視点に立てば、光秀の謎は消えるのである。

本能寺の変の前後の歴史は、秀吉がその4か月後に家臣に書かせた『惟任(これとう:光秀の事)退治記』で、光秀を謀反人に仕立て上げてそれを秀吉が退治したとの物語を広めて以降、歌舞伎などで演じられ、それをもとに物語が書かれて、今ではその内容が通史にも使われて、それが日本人の常識となっている。
明智憲三郎氏の表現を借りると、今も「秀吉の嘘に日本国中がだまされて」「軍記物依存症の三面記事史観」の闇の中に彷徨っている状態にあるということになる。

以前このブログで本能寺の変について、明智憲三郎氏の著作『本能寺の変 427年目の真実』などを参考に5回に分けて書いたことがあるが、最近調べた事などを付け加えながら、簡単にこの事件の原因を振り返っておこう。

当時のルイス・フロイスの記録や、明智光秀の配下の武士で本能寺の変に従軍した本城惣右衛門が知人に宛てた記録(『本城惣右衛門覚書』*)に明確に記されているのだが、フロイスも明智軍も、この日に命を狙われていたのは信長ではなく、家康だと考えていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

老人雑話

また、秀吉や細川藤孝とも交流のあった江村専斎という医者が書き残した『老人雑話』という書物でも、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺にいた。信長は羽柴藤吉郎に、家康に堺を見せよと命じたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であったという」と記されているのだが、当時のいくつかの記録から見えてくるものは、信長自身が家康を関西に呼び寄せて、機をみて殺害する謀略を考えていたということである。

『本城惣右衛門覚書』の文章と訳文は次のURLにあるが、本能寺襲撃の指揮を執ったのは、光秀の重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)であり、光秀が先導したのではないことが記されていることはもっと注目して良いと思う。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide072.htm
この時代の公家の山科言経が記した『言経卿記』によると光秀は戦勝祈願の為に愛宕山に登っており、下山したのは6月1日になってからであったという。丹波亀山城に戻って出陣の準備をし、兵を率いて2日未明に本能寺に辿りつくのは物理的に不可能という説もある。
http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide083.htm

安土城絵

一方家康は5月14日に安土に到着し、安土城での饗応を受けたのち、信長の命により京都や堺の見学をすることになった。5月21日に安土を出て、本能寺の変のあった6月2日の早朝に、家康とその重臣一行の三十名ほどが堺を出て、信長と会うために本能寺に向かった記録がある (『茶屋由緒記』) 。

また信長は、家康を警戒させないために、関西の諸大名に毛利攻めへの加勢を命じて京都を手薄にさせ、本能寺には信長を含めてわずかの人数で宿泊していたという。

ところが家康は、手薄な本能寺を明智が討つ計画がある情報を事前に入手していて、信長に対しては警戒していないふりをして信長を油断させ、本能寺を無防備な状態のままとさせて明智の信長討ちを成功させようとした。
おそらく家康と光秀は繋がっていた。光秀は信長より、5月に安土城で家康を饗応することを命じられていたので、本能寺の少し前に家康と密談する機会は充分にあったのである。

では明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか。
それまで光秀は、信長から四国の長宗我部氏の懐柔を命じられていて、重臣である斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結び、光秀と長宗我部との関係もきわめて親密な関係になっていたのだが、信長は急遽方針を変更して天正10年(1582)5月に三男の織田信孝に四国攻めの朱印状を出していた。そして長宗我部征伐軍の四国渡海は天正10年6月3日、つまり本能寺の変の翌日に予定されていた。
そしてこの計画は本能寺の変により吹き飛んで、長宗我部征討軍は崩壊してしまった
のである。

元親記

本能寺の変の原因は、長宗我部征伐を中止させることが目的であったという「四国説」は、長宗我部元親の側近だった高島孫右衛門という人物が記した『元親記』にも「斎藤内蔵介(利三)は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いを差し急いだ」と記されている。
http://blog.goo.ne.jp/akechikenzaburotekisekai/e/746430c823d3cd630ff0816b9f3e596a
明智憲三郎氏の著書によると、山科言経の『言経卿記』や勧修寺晴豊の『晴豊公記』にも、そのことを裏付ける記録があるようだ。

このような視点に立って本能寺の変を考えると、なぜ家康が光秀や斎藤利三に配慮したかが見えてくる。
もし本能寺の変で光秀が本能寺で信長を討たなければ、家康自身の命が奪われていた可能性が高かった。家康にすれば、明智光秀斎藤利三は命の恩人なのである
だとすると、家康が土岐明智家を復活させたり、斎藤利三の娘を家光光秀の乳母としたことが「謎」ではなくなってしまうのだ。

前回の記事で、山崎の合戦の後も光秀が生きていたと思わせる伝承や文書が、多くの場所に残されていることを書いた。
これらの伝承などは、通説が正しいという前提に立てば、すべて「ありえない」ことばかりだが、通説が正しくない前提に立てば、全てがつながる仮説を立てることが出来る。
しばらくの間、私の推理にお付き合いいただきたい。

光秀は山崎の合戦で死んだのかもしれないが、もし生き残っていたとしても、死んだことにしなければ、秀吉に必ず命を狙われることになる。
だから光秀と縁の深かった丹波亀山の谷性寺や近江坂本の西教寺に、本物かどうかもわからない首を持ち込んで墓を造らせたとは考えられないか。

光秀だけではない。光秀の兄弟や重臣たちにも言えることだが、もし彼らが生きていたとしたら平家の落人と同様に、身の安全を守るために山深いところに名前を変えて住むことは、充分にありうることだと思う。光秀のものだと伝えられている墓のある岐阜県山県郡美山町は、まさにそのような場所のようだ。

hakusann3.jpg

しかし慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなり豊臣家の力が次第に衰えて、自らの命が狙われるような危険が遠ざかる日が来た。いつまでも山深い場所(岐阜県山県郡美山町)で隠棲する必要もなくなってきたので、今まで使っていた名前の人物(荒深小五郎)は死んだことにして、慶長5年(1600)に白山神社にその人物の墓を造らせ、新たな活動を開始したとは考えられないか。
面白いことに、この地の伝承ではこの人物は、「関ヶ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発したが途中藪川の洪水で馬と共に、押し流されて死んだ」となっている。
そして「関ヶ原合戦屏風」には天海らしき人物が描かれているのである。そして関ヶ原以降は家康の近くに居場所を移したことも考えられる。

実際のところ、光秀らしき人物が生きていたと思われる形跡は秀吉が亡くなったあとからのものばかりなのである。
その人物が、岸和田に本徳寺を開基したのが慶長4年(1599)。また比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進されたのは慶長20年(1615)2月17日で、大阪冬の陣の2ヶ月後のことである。そしてその3カ月後に大阪夏の陣で徳川軍が勝利し豊臣家は滅亡している。

南光坊天海

次に南光坊天海に話題を移そう。
面白いことに、天海」という僧侶が歴史の表舞台に登場するのも、秀吉が亡くなったあとからのことである。

徳川家康が「天海」を駿府に招き、初めて公式に対面したのは慶長13年(1608)なのだそうだが、その時に家康は「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたと伝えられている。しかし、実際はもっと早くから家康は天海という人物を知っていたはずである。
というのは、家康は慶長8年(1603)に下野国久下田(栃木県真岡市)に新宗光寺の再興を託し、慶長12年(1607)には比叡山東塔の南光坊在住を命じ、織田信長の焼き討ち以後、荒廃していた比叡山の復興にあたらせているのだが、会ってもいない人物に対して、こんな重大な仕事を次々と命じることは不自然だ。

そして天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作っている
前回の記事で紹介した滋賀院門跡は、天海が元和元年(1615)に後陽成天王から京都法勝寺を下賜されてこの地に建立した寺であり、日吉東照宮も元和9年(1623)に天海が造営した建物である。

方広寺の鐘

また、天海は大阪の陣で豊臣家を攻撃する口実となった方広寺鐘銘事件は、徳川の正史である『台徳院殿御実紀』巻廿七(慶長19[1614]年7月21日)に天海が関与したことが記されている。
「世に傳ふる所は。此鐘銘は僧淸韓がつくる所に して。其文に國家安康。四海施化。萬歲傳芳。君臣豐樂。又東迎素月。西送斜陽などいへる句あり。御諱(いみな)を犯すのみならず。豐臣家の爲に。當家を咒咀するに 似たりといふ事を。天海一人御閑室へ召れたりし時。密々告奉りしといふ。此事いぶかしけれども。またなし共定めがたし。いま後者の爲めにしるす。」
http://www.j-texts.com/jikki/taitoku.html

なぜ僧侶である天海が、このように家康の政治に意見することができたのか誰でも不思議に思うところで、この記録を読むと、天海という人物が、豊臣家に強い怨みを持っていた可能性を感じる。 

もちろん、天海という人物が明智家と全く関係のない人物である可能性も小さくないのだが、もしかしてと思わせる事象が偶然にしては多すぎて、ちょっと考えさせられてしまうところだ。

明智光秀

しかし、天海と明智光秀が同一人物だという説の最大の問題は、年齢であろう。
天海の生年がはっきりしていないようだが、没年は寛永20年(1643)で100歳以上の長命であったという。
もし天海と光秀(誕生:享禄元年[1528])が同一人物だとすると115歳で没したことになり、常識的には、この時代にこの年齢まで生きる人物がいたことは考えにくい。また春日局との関連から、天海は斉藤利三(誕生:天文3年[1534])ではないかという説もあるようだが、斎藤利三については6月17日に六条河原で斬首されたと具体的な記録があるので、その可能性は低いし、109歳で没したことになるという年齢の観点からも問題がある。
諸説の中には、光秀の死後に長男の光慶(誕生:永禄12年[1569])が天海を演じたという説も存在するというが、それだと年齢の問題についてはクリアされる。しかし、もしそうだとしたら、そのことを裏付ける記録が残っていてもおかしくないのだが、そのようなものは何も存在しないのだ。
前回の記事に書いたのだが、そもそも天海と光秀とが同一人物であるという説は、明治時代の作家・須藤光輝が最初に唱えたものであり、当時には光秀と天海とを結びつける記録が全く存在しないのである。

最後に結論めいたことを言わせてもらうと、明智光秀はおそらく山崎の合戦を生き延びた。
そして豊臣秀吉が亡くなったあたりから活動を開始し、家康を陰で補佐していたのではないか。
光秀が生きていて家康に意見具申できる立場であったなら、方広寺鐘銘事件や近江坂本の復興などは、天海が光秀と同一人物でなくとも、光秀の考えを天海という僧侶に代弁させるなり、必要資金の大半を家康が出してその実行を命じれば済む話であるともいえる。
あるいは徳川幕府が、光秀から得た知恵は、死んだ人物の名前を出せないために、天海の名前を用いて記録したということも考えられる。

僧侶には家康の政治顧問は務まらないとの意見もあるが、光秀が生きていたのなら家康に意見を述べることができた可能性が高い。また家康が光秀から政治に関する知恵を真に必要としたのは豊臣家が滅亡する頃までであり、本物の光秀が死んでからは天海の政治顧問としての出番は多くはなかったと考えれば、光秀が長寿である必要もなくなる。

南光坊天海は明智光秀と同一人物であったという説は、個人的には面白いとは思うし完全否定をするつもりはないのだが、天海が光秀と同一人物でなくとも、すべての事象が合理的に説明可能なので、私は、この説が真実である可能性は低いと考えている。
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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