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英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本

前回の記事で、帝国議会の開設を明治政府が宣言した後に自由党も立憲改進党も衰退に向かい、帝国議会開設に近づくと再び自由民権運動が動き出すのだが、明治政府は明治21年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させたことを書いた。立憲改進党はその後集団運営体制に移行し、党首を欠いたまま明治23年の帝国議会の開設を迎えることになったのだ。
大隈重信

しかし、この重要な時期になぜ、大隈重信は立憲改進党の仲間を裏切ってまでして、入閣したのだろうかと誰でも思うところだ。

菊池寛の『大衆明治史』には、入閣の経緯についてこう説明されている。
寺島(宗則)、井上(馨)と相次いで失敗し、薩長の政治家中、もはや条約改正の難業を担当する人物は一人もいなくなってしまったのだ。
 ここにおいて、衆目は往年の名外交家、大隈重信に集まり、大隈を除いてこの難業を成就する者はないということになったのである

 大隈は明治14年の政変で、薩長の総攻撃を受けて廟堂を逐(お)われたが、今や再び外相の印綬を帯びて、枢機に参ずることになった。明治21年2月のことである。
伊藤(博文)は黒田清隆を伴ってしばしば大隈を訪ね、過ぐる14年の不始末を詫び、その入閣を懇請したわけである。両人は大隈に『内閣に入れ』と言う。『いや入らぬ』と言う。こうして三人寄っては酒を飲み、泥のように酔っては、話がまとまらずに別れたことが数回に及んだが、結局入閣を承知したのである。」(『大衆明治史』p.145)

伊藤、黒田からすれば、自由民権運動が再び盛り上がることを阻止する意図もあったかもしれないが、井上馨外相の交渉失敗のあと、外相兼務となった伊藤博文総理大臣が外交手腕のある大隈に入閣を要請せざるを得ない程、条約改正問題について世論が盛り上がっており、寺島、井上と二代続けて失敗して、今度失敗しては政府の命取りにもなりかねないほどの重要課題になっていたようなのだ。

「条約改正」というのは、江戸幕府が外交知識が乏しいままに安政年間に結んだ条約が不平等で屈辱的なものであったために、明治政府がそれを改正させようとしたのだが、それが容易ではなかったのだ。
では、条約のどこが問題であったかについては教科書にも記されていたが、『大衆明治史』の文章が具体的で非常に分かりやすい。

「その例の一つは、最恵国条款で、ある一国に認めた特権も無条件で他の国々にも付与されることになって、甘い汁を吸われ出すとキリがないことになる
 第二には、治外法権である。日本国内で外国人が犯罪を犯しても、その外人はその本国の法律で罰せられ、日本の裁判所も法律も、これを如何ともすることが出来ないのである。しかも当時日本にあった外国領事は、多く学問も教養もない者が多く、その裁判は偏頗であり、わが国の威信を傷つける処置が少なくなかった。外人の犯罪はほとんど日本では無罪になったものである。その上、外人からは税金も取れぬのである
 その三は、関税自主権のないことで、輸入税は最低額とされたことである。しかもこの税率は、年とともにますます低下され、従来2-3種に過ぎなかった無税品も、18種の多きに上っている。
 しかも一番悪い点は、これらの条約それ自体が全く片務的で、日本にだけ義務が課せられていることであった。外国人や外国船舶が日本に来て、通商貿易を営み、または日本に居住する際の特権は認めながら、日本人や日本船舶が外国に行った時のことは、一行も書かれていないという、勝手極まる条約だったのである。
 これでは、独立国の面目丸つぶれである。…」(同上書p.141-142)
岩倉使節団

この不平等条約を改正すべきであるとの考えは、明治政府成立の初期からあった。
明治4年(1871)の岩倉具視らによる欧米視察は、各国の首脳と会って条約改正に対する意向を打診するにとどまっている。

しかし「条約改正問題」で世論が盛り上がったのは何故なのか。普通に考えると、余程ひどい事件が続かなければそんなことが起こりえないと思うのだが、いろいろ調べていくととんでもない事件が起こっている。菊池寛の『大衆明治史』を読み進んでいくと、GHQ焚書図書であるからこそ読める記述に出くわすことになる。なんとわが国に阿片が密輸されていたのである
寺島宗則

「西南戦役後、外務卿寺島宗則は条約改正に乗り出し、まず税権の改正について、米国との間に了解ができたが、英国公使の真っ向な反対を受け、せっかく調印した日米条約もフイになってしまった。
 この頃、たまたまわが税管吏が英人の阿片の密輸入を発見し、これを英国領事に引渡し、その処罰を求めたことがあるが、領事はこれに対して無罪を宣告したことがあった。もしこの時、政府にかの林則徐のような硬骨漢がいたら、あるいは第二の阿片戦争が起こったかも知れないが、この事件はうやむやの中に葬り去られたのである。しかし国論はそのままでは収まらず、囂々(ごうごう)として政府の処置を難じ、自由民権論者は、国会が開設されぬから、こんな屈辱的条約に甘んぜねばならぬのだと、攻撃してやまなかった。寺島も遂にこのために辞職のやむなきに至り、この頃から条約改正は、時の政府の命取りとなったのである。」(同上書 p.142-143)

Wikipediaによると、この阿片密輸事件は「ハートレー事件」と名付けられている。
明治10年(1877)にイギリス商人ジョン・ハートレーが生阿片20ポンド(約9.1kg)を密輸しようとして税関に見つかった。阿片は日英修好通商条約附属「貿易章程」第二則で輸入禁制品とされていて、それを根拠に税関長はハートレーを訴えたのだが、領事裁判法廷ではイギリスの法令には違反していないので無罪とした。政府は外交交渉で解決を図ろうとしたが迷宮入りとなったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E4.BA.95.E4.B8.8A

清では1796年以来阿片の輸入を禁止し、それ以来も何度か禁止令が発令されていたにもかかわらず英国からの阿片の密輸入が止まらなかった。そこで、1839年に林則徐が1400トンにも及ぶ阿片を処分したことから、翌年にイギリスは清に遠征軍を送り両国の戦争となったのだ。

ハートレーはこの事件の直後にも、吸煙阿片12斤を密輸している。もし、このような密輸が拡がってわが国にも中毒者が増えていけば、1840年の阿片戦争と同じことがわが国で起こってもおかしくなかったのだ。

Wikipediaで条約改正の世論が高まる原因となった事件を調べていると「ハートレー事件」の前に「ヘスペリア号事件」という事件もあったことがわかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
わが国では明治10年にコレラが大流行しその翌年も流行したのだが、当時はコレラ菌も未発見で特効薬がなかったので、明治政府は検疫規則を作って検疫の実施を図ろうとした。
ところが、西洋の一部の国は検疫の実施に反発したのだ。例えば、駐日英国公使であったハリー・パークスは、イギリス人が日本の法規を破ったとしてもイギリスの法規を破ったのでなければ犯罪の要件を構成しないとして、日本在住イギリス人はこの規則に従う必要なしと主張したそうだ。かくしてコレラはますます拡大していく。
明治12年(1879)には中国大陸から伝わりコレラが西日本で大流行した。7月に明治政府は検疫停船仮規則を作成して検疫実施を各国公使に伝えたが、その直後にドイツ船ヘスペリア号がコレラ流行地の清から日本に直航してきたので神戸港外で停船させた。しかしこの船が、その後神戸から東京湾に入ろうとしたので神奈川県に設けた検疫場に回航させたが、結局わが国の数度の検疫要請を無視して砲艦ウルフの護衛のもとに横浜入港を強行したという事件である。
この年(明治12年)はコレラが西日本から関東地方にも大流行し、この年だけでコレラによる死者が全国で10万4千人も出たそうだ。こんな不平等条約があれば国が守れないことに誰でも気づくことになる

Wikipediaにはこう解説されている。
「ヘスペリア号事件に対して、日本の国内世論は沸騰した。日本の知識人の多くが、この事件やハートレー事件等により、領事裁判権の撤廃なくば国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを理解するようになった。世論は、日本の経済的不利益の主原因もまた、日本に法権の欠如していることが主原因であると主張するようになった。実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然だったのである。」

教科書や通史を読んでもあまりリアリティを感じないのは、このような史実がきちんと書かれていないからである。ところが「日本だけが悪かった」という歴史を描きたい国内外の人々が、「西洋にも悪い側面があった」という史実を書こうとしない。これでは本当の歴史を学べない。
そもそも「条約改正」のような対外交渉を必要とする問題は、余程世論が沸騰しなければ政治家が動かないのだから、国民が悲憤慷慨するだけの出来事がいくつもあったことを無視してはならないのだと思う。
井上馨

寺島宗則に代わって条約改正の担当となったのは、外務卿・井上馨である。しばらく、菊池寛の文章を引用する。

伊藤や井上は、欧米諸国をして条約改正を承認させるのは日本が欧米と同じ文明国であると信ぜしむる必要ありと考えて、極端な欧化政策を採ることになった。西洋建築、洋装、洋食が奨励されて、ダンス、仮装舞踏会などが盛んに行われて、国粋主義者の猛烈な反発をかったのであった。鹿鳴館は明治16年に竣工し、内外人の饗宴場に充てられたのである。
 こうした準備をもって進められた井上の改正案も、まず外国の了解を得る前に、その条件のあまりに国辱的であるとの理由の下に国内からの攻撃によって、中止となった。
 殊にこの6月帰朝したばかりの農商務大臣谷干城は、意見書を奉ってその中止を迫り、その容られざるを知って一人で辞表を出してしまった。…
 よほど鹿鳴館の猿芝居が、疳にこたえたのだろう。世人も多くこの谷干城の態度を高士と称して軟弱外交の政府に迫ったのである。」(同上書p.143-144)
鹿鳴館浮世絵

菊池寛が「国辱的」だと書いた、井上馨の改正案とはどのようなものであったのか。
それは領事裁判権を撤廃し、関税率を5%から11%に引き上げることを了承するかわりに、
「1.条約実施後2年以内に日本は内地を開放し、外国人に居住権・営業権をあたえ、2年以後は内地居住外国人は日本裁判所の管轄に属すること。
2.条約実施2年以内に日本は「泰西ノ主義ニ従ヒ」、すなわち西洋を範にとった刑法・民法・商法等法典の整備をおこない、施行16ヶ月前にその英文を諸外国政府に通知すること
3.外国籍の判事・検事を任用すること
4.外国人が原告もしくは被告となった事件については、直接控訴院(第二審)に提訴することができる。その際、控訴院および大審院の判事は過半数を外国人とし、公用語として英語を認めること。
を、日本側が受け容れるというものであった

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3#.E6.9D.A1.E7.B4.84.E6.94.B9.E6.AD.A3.E4.BC.9A.E8.AD.B0.E3.81.A8.E4.B8.96.E8.AB.96.E3.81.AE.E6.B2.B8.E9.A8.B0
ボアソナード

明治政府の法律顧問であったフランス人のボアソナードは、井上の改正案は日本の法権独立を毀損するものだと述べ「この改正が実現すれば日本人は外国を怨むより、屈辱的裁判制度をつくりだした政府を非難するようになるだろう」と進言したという。

井上馨は交渉失敗を理由に外交責任者の地位を辞し、その後は内閣総理大臣の伊藤博文が外相を兼務することになる。また国辱的な井上案の内容を知った民権派が一斉に政府を批難するようになり、反政府運動が高まりを見せる。明治政府は保安条例を発布して、治安妨害を理由に570名あまりを皇居三里外に3年間追放し政情の安定と、秩序回復を図ったという。

そこで冒頭の話に戻る。
伊藤博文が大隈重信に条約改正の交渉を託したのは、こんな事情があったのである。
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英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件

前回の記事で、わが国で「条約改正」の世論が盛り上がった背景に、わが国に阿片を持ち込んだ英商人が無罪とされたことや、コレラが流行していた清国からわが国へ直航してきたドイツ船・ヘスペリア号がわが国の検疫要請を無視し、横浜入港を強行した事件があったことを書いたが、もうひとつ国内世論を沸騰させた有名な事件があるので書き記しておきたい。

明治19年(1886)10月24日の夜、横浜港から神戸に向かっていたイギリス船籍の貨物船ノルマントン号が、暴風雨に遭い紀州沖で座礁沈没し、ドレーク船長以下イギリス人水夫ほか乗組員26人は4隻の救命ボートに乗り移って全員脱出し、2隻は串本に漂着。漂流していた2隻は、須江浦(和歌山県串本町)の人々が9隻の鰹船を出して救出したという。
ところがその後、沈没したノルマントン号には25名の日本人乗客がいて、全員が行方不明であることが判明した。「行方不明」という表現が使われるのは水死体がひとつも上がらなかったからなのだが、おそらく彼等は全員が船中に取り残され、そのまま溺死したと考えられる。
白人が生き延びたにもかかわらず、なぜ日本人全員が犠牲となったのか。この結果に、何も疑問を持たない日本人はいないであろう。

ノルマントン号沈没事件
【ノルマントン号沈没事件 歌川国政(四代)画:早稲田大学図書館蔵】

Wikipediaにはこう解説されている。
「国内世論は、ドレーク船長以下船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に沸騰した。たとえば、『東京日日新聞』(1872年創刊)は、「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や2人の日本人乗客とても助からないはずがない」との憤懣を記し、『西洋人乗客なら助けたのに日本人なるがゆえに助けなかったのではないか」と論じている。また、事実検証についても不平等条約の壁に阻まれ満足な解決が得られなかったといわれる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E7.94.B0.E4.B8.AD

領事裁判権に基づき11月1日に神戸のイギリス領事官で海難審判がなされ、11月5日に在日英国領事のツループは、ドレーク船長の「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかったのでしかたなく日本人を置いてボートに移った」という陳述を認めて、船長以下全員に無罪判決を下している。そこでわが国の世論が沸騰する。

当時の空気のわかるような記録を探していたが、そういう時は『近代デジタルライブラリー』の検索が便利である。このURLで明治以降刊行された図書・雑誌の一部がデジタル化されていてPC上で読むことが可能だ。
http://kindai.ndl.go.jp/

例えば、検索キーワードを「ノルマントン」とすると17冊の書物が引っかかる。
福地桜痴

例えば『ノルマントン号事件日本大勝利』という書物には文筆家で後に政治家となった福地源一郎(桜痴)が、神戸のイギリス領事官で海難審判がなされた直後の11月14日に、横浜の聴衆を相手に演説した記録が出ている。この本が出版されたのも同じ明治19年の12月だ。
読みやすいように新字新仮名に直して、ポイントとなる部分を意訳して紹介する。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/785644

「…かのノルマントン号の船長士官乗組員のうちで、26人は欧州人種のキリスト教徒、日本人乗客25人、インド人火夫12人、支那ボーイ1人計38人はアジア人種の異教徒である。この26人の欧州人では、ベルナルドという1人の水夫が、ボートを下ろすとき誤って海中に陥り死んだのを除く外は、25人悉(ことごと)く3隻のボートに乗って助かっている。然るに、38人のアジア人は、支那人のボーイを除くのほかは悉く沈没の難に遭い、非業の最期を遂げたのである。
 もし、この1人ずつの除外例なかりせば、アジア人は悉く死し、欧州人は残らず救われた結末となる。これ果たして偶然のことであろうか。」(『ノルマントン号事件日本大勝利』p.13)
ノルマントン号事件

インド人の火夫が12人いて、日本人同様に全員死亡したことはこの文章を読んで初めて知ったが、これは偶然ではありえないことであり、『東京日日新聞』が「人種差別」ではないかと評したことも理解できる。
ノルマントン号事件海難審判

また海難審判で、ドレーク船長が「船員は日本人に早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語がわからず、そのすすめに応じずに船内に籠もって出ようとしなかった」と述べたが、これは明らかな嘘である。日本人乗客には英語のわかる者もいたし、ボートに乗り移る程度の内容は言葉が通じなくとも誰でも理解可能であろう。

「…目前危急に迫って、生死の境に臨んでは、互いに言語は通ぜずとも、手を引き袖を引いてなりともボートに乗り移れと勧めれば、どうしてその意を解しないことがあろう
ましてやこの乗客中には神戸の中村某という人があった。この人は神戸周旋屋の手代で、十数年外国船に日本人乗客を乗せては賄方となって沿海を往来することを業とし、従って英語を良くしたと聞いている。…既に三等運転手申し立てに、移乗を勧めた時、一人の日本人乗客は、何の事変でこんなに急に騒動するのかと問うたとあるから、日本人乗客25人の中には、英語を解する者のあったことは明白である。…
 いやしくも船長が申し立ての通り、十分の力を盡して親切にボートへの移乗を勧めていたならば、日本人乗客といえども命の惜しいのは勿論である。どうしてこれを肯じないことがあろうか。…」(同上p.16-18)

百歩譲って、日本人とは言葉が通じず全く意思疎通ができなかったとしても、12人のインド人とは言葉が通じたはずだ。では12人のインド人はなぜ助からなかったのか。
船長の言い分はこうなのだが、この言葉をそのまま信用するようなおめでたい日本人はいないだろう。

「三人は辛くもボートに乗り込んだが、疲労の為に相果てた。他の3人は精神錯乱して、本船中で自殺した。6人は日本人乗客と同じく、ボートに乗り移ることを肯んぜずして止まった…。」(同上 p.12-13)

生存者が皆無なので、真相の解明が出来なかったのはやむを得ないところだが、まだ寒くもないわが日本の10月の秋の一夜に、インド人ばかりが3人も疲労で死ぬというのはあり得ない話だし、別のインド人3人も自殺したという説明も口から出まかせででたらめを述べただけのことであろう。

読み進んでいくと、この船長は、救命ボートを下ろす作業を、3人の日本人に手伝わせたことを語っている。しかし、船長らは乗客である日本人に働かせるだけ働かせておいて、その命を救おうともしなかったことになる。

次いで福地はドレーク船長の責任問題に触れる。
蓋し文明国普通の例によれば、かかる危難に遭うに臨み、船長の心得はまず第一に乗客を助け、次に乗組員を助け、最後に船長自己の安全を図るをもって通義とする。殊に英国海員が天下にその名声を轟かす所以のものは、万一に当たって義侠の勇に富むと伝えられるからである。然るに今やノルマントン号船長の所為は全くこれに反し、船長がまず助かり、乗組員がこれに続き、乗客はついに悉く溺死したのであるから、世上では種々の疑を惹起して遂に今日の事態を導いたのである。

この事件は…日本人と外国人との関係というべき問題ではなく、全く船長・乗組員と乗客との関係であって、すなわち船長が乗客を救助し得なかったという問題である。…同船して溺れんとするにあたり、他を救うの遑(いとま)なきは乗客のことであり、船長ともなれば、職責上それでは許されない。船長は身を捨てても、同船者の溺れるのを救助すべき重責がある。」(同上p.20-26)

そう述べた上で、この演説を聴いて外国人に憎悪の念を向けることは誤りであるとし、わが国に居住する外国人向けの新聞論調などもノルマントン号事件の対応を厳しく批判していることを紹介している。

「今や外国人がこの事件につき、如何なる所感を招くかとみるに、さすがに挙ってこれを不平なりとし、外国諸新聞の如き、横浜港のヘラルド・ガセット・メールおよび神戸ニウス等の諸紙は、ノルマントン号の所為を痛議して余すところなく、凡そ東京、横浜、神戸その他諸方にある外国人の世論は、悉くノルマントン号の所為を非難して乗客の不幸を哀悼し、もって弔慰の情を尽くし、もって憤激の意を表しているではないか。外国人はかくの如く、正義によってこの事件を観察し、かかる事変のために彼我の交際を妨害せしめざることを望んでいるのであって、我もまた同じく正義によってこれを観察し、併せてその厚意を謝さねばならぬと思うのである。…」(同p.27-28)
と述べて、領事裁判制度の問題点を衝いて明治政府の対応の甘さを暗に批判しているのだ。

当時の外務大臣は井上馨であったが、前回記事で書いた通り、鹿鳴館の舞踏会をはじめとする欧化政策を推進した人物である。明治政府のこの事件に対する対応は、イギリスに対して配慮しているようなところがあり、世論から批判されることは当然であったと思う。

井上馨

井上外相は沸騰する国内世論に押されて、11月13日に内海忠勝兵庫県知事に命じてドレーク船長らの神戸出船を止め、翌14日に兵庫県知事名で横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴させている。さらに11月22日から沈没船を捜査し日本人の遺体を実地検分しようとしたが、水深があり充分な捜索が出来ないままわずか3日間で打ち切り、11月24日には勝浦の狼煙(のろし)山に木標を建てたという。
そもそも事件から1カ月近くたって捜索を始めること自体が異常であり、英国に遠慮して真実の追及を怠ったとしか見えないのだ。
12月8日、横浜領事裁判所判事のニコラス・ハンネンが下した判決も、船長のドレークは職務怠慢罪で禁固刑3か月、他は無罪という軽いもので、死者への賠償金は一切支払われなかったという。

この事件は、当時胎動しつつあった大同団結運動派によってさかんに取り上げられ、井上外交は「媚態外交」「弱腰外交」と批判され、これを契機に外交の刷新、領事裁判権の完全撤廃、条約改正を叫ぶ国民の声が更に高まっていくのである。

ノルマントン号沈没の歌

Wikipediaには「ノルマントン号沈没の歌」の歌詞が出ているが、明治の人々はこんな歌を流行させて英国の非道を訴えたのである。59番まで歌詞があるそうだが、以下はその一部である。「奴隷鬼」というのは、船長の名前であるドレイクをもじったものである。

・岸打つ浪の音高く 夜半の嵐に夢さめて 青海原を眺めつつ わがはらからは何処ぞと

・外国船の情けなや 残忍非道の船長は 名さえ卑怯の奴隷鬼は 人の哀れを外に見て
・己が職務を打忘れ 早や臆病の逃げ支度 その同胞を引きつれて バッテラへと乗り移る
・影を見送る同胞は 無念の涙やるせなく あふるる涙を押し拭い ヤオレにくき奴隷鬼よ
・いかに人種は違うとも いかに情を知らぬとも この場に望みて我々を すてて逃るは卑怯者

こんな明治の歴史を知ると、戦後のわが国は随分軟弱な外交を続けてきていると思わざるを得ないし、現在よりも明治時代の言論界・報道機関の方が、はるかに健全に機能していたと考えるのは私だけではないだろう。
明治時代に、もし尖閣や竹島のようなわが国の国益にかかる問題があれば、政治家だけでなくマスコミももっと過去の史実を世界に発信し、中国や韓国を強く非難しただろう。
もし政府が言論を弾圧して発言を封じようとしても、智恵のあるものが政府の弱腰を批判する演劇や歌でも流行らせて世論を動かし、動かない政府に対して圧力をかけたのではないだろうか。

そもそも国家の利害が対立するような事案では、安易に相手に譲歩しては長期的には国益を阻害することになるのだが、今のわが国の政治家やマスコミは、これまで何度も同じ過ちを繰り返してきたように思うのだ。

わが国は歴史叙述にまで、諸外国の圧力に対して譲歩を繰り返してきたために、いつのまにか「戦勝国にとって都合の良い」叙述が中心になってしまっている。

私の記憶では、ノルマントン号事件は小学校や中学校・高校の歴史の教科書に載っていて、このような出来事があって国内で条約改正を望む世論が高まったと理解したのだが、最近の標準的な高校の教科書である『もういちど読む山川日本史』には、ノルマントン号事件についてはひとことも書かれていないことに違和感を覚えた。
もちろん、前回記事で紹介した阿片密輸事件やコレラ検疫を拒否した事件などの記述もないのだが、このような重要な史実を抜きにして歴史を叙述したのでは、わが国の先人たちが53年もかけて条約改正に取り組んだ苦労や、改正を成し遂げたことの重みや、当時の西洋諸国がわが国にとっていかなる存在であったかを正しく理解できるとは思えない。
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条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か

前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日本人乗客が全員溺死した事件を紹介した。
最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっただろう。そして、このような世論の高まりがなかったならば、明治政府は「条約改正」をなしえなかったのではないか。

広重 東海道53次 袋井

いきなりたとえ話で恐縮だが、凧は強い風があれば高く上がるし、凧が高く上がっていれば強い風があることが分かる。政治家と世論との関係は凧と風との関係のようものではないか。強い世論の支援があってこそ、相手国に強く主張することが出来るし、風がなければ政治家は重たい外交交渉は難しいし、逆に相手から舐められることになる。

そのことは戦後のわが国を見ればわかる。北方領土問題や尖閣諸島、竹島問題などの領土問題は長い間先送りされ続けてきたし、慰安婦問題もあいまいな対応を続けてきたことがかえって問題を大きくしてしまった。これらの問題のいくつかは、初期の段階で事実を示して反論していれば、早期に解決していた可能性が高かっただろう。しかしながら当時の政治家が正論を訴えて早期解決の手を打たなかったのは、解決の志を持つ政治家を支えるだけの世論の高まりがなかったからとしか言いようがない。
今でこそ、ネットにおける言論が大きな力になる可能性が出てきたが、それまではマスコミが主に世論を誘導してきたと思う。そして特に外交問題に関する問題については、少なくとも戦後においては、マスコミは国益のために動こうとする政治家の足を引っ張ることの方に熱心ではなかったか。

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今では多くの国民が認識するようになったが、今の大手マスコミには反日勢力や外国勢力に繋がる者が幹部に少なからずおり、報道内容は公平中立とはとても言い難い。
ネットで探すといろんな勢力がマスコミに影響を与えていると主張するサイトがいくつもあるが、上記の相関図以外にもいろんな国や組織が影響を与えていると私は考えている。

政治家が重たい外交交渉を成す場合は、余程大きな世論がバックになければ相手国に対して強く出ることができないことを述べたが、戦後の大手マスコミは、その様な外交交渉を有利に導くために必要な世論が高まらないようにコントロールし、むしろ外国の国益になることに世論を誘導することが少なくなかった。
領土問題や慰安婦問題や拉致事件などの重要問題が長い時間をかけても解決が出来なかったのは、勿論政治家にも責任があることなのだが、諸外国に対して政治家が正論で立ち向かう事を封じ続け、志のある政治家の足を引っ張り続けた大手マスコミの責任も重大ではないのか。

話を明治時代に戻そう。
わが国が明治時代に「不平等条約改正」という難しい問題を解決できたのは、この世論の高まりが重要だということが言いたいのだが、なぜこの時期に「条約改正」の気運が盛り上がっていったかを振り返ると、薩長の藩閥政治に対抗して大物が野に下って自由民権運動が盛り上がり、民権派の勢力が強くなって新聞の論調も政府に批判的となり、そこに不平等条約の問題点が浮き彫りになるような事件が相次いだ上に、欧化政策を推進してきた外務卿・井上馨の国辱的な条約改正案の内容が伝わって、政府内外からの批判が噴出するという流れであった。
わかりやすくいえば、自由民権論者が「条約改正問題」を政府批判の格好の材料にしたことが、この問題の早期解決を望む世論を高めるきっかけになったということだ。

条約改正に失敗した井上は職を辞し、次いで大隈重信に白羽の矢が立った。

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菊池寛の『大衆明治史』はこう述べている。
寺島(宗則)、井上(馨)と相次いで失敗し、薩長の政治家中、もはや条約改正の難業を担当する人物は一人もいなくなってしまったのだ。
 ここにおいて、衆目は往年の名外交家、大隈重信に集まり、大隈を除いてこの難業を成就する者はないということになったのである

 大隈は明治14年の政変で、薩長の総攻撃を受けて廟堂を逐(お)われたが、今や再び外相の印綬を帯びて、枢機に参ずることになった。明治21年2月のことである。」(『大衆明治史』p.145)

大隈に対し数度にわたり入閣を懇請したのは伊藤博文だが、当時大隈重信は立憲改進党の党首であった。そのために立憲改進党は党首不在のまま帝国議会の開設を迎えることになったのだが、では、仲間を裏切ってまでして入閣した大隈の仕事ぶりはどのようなものであったのだろう。

菊池寛は入閣した頃の大隈の活躍を、こう記している。(原文は旧字旧かな)
入閣した大隈は非常の抱負と自身の中に、条約改正に邁進した。伊藤や井上が条約改正の手段として、欧化政策を採ったため、外国からは却って軽蔑され国内からは非難されたという前例に鑑みて、大隈はその反対を往って、排外政策を採った。彼は今まで黙認されていた外人の居留地外の家屋所有や、自由旅行をピシピシ取締って、現行条約励行と称して、その反省を促したのである。
 しかも自分の手腕をあくまで信じている大隈は、談判を外国駐在の日本公使に一任せず、なるべく東京に於いて外国公使と折衝する方針をとった。しかも各国別に比較的に楽な方から片づけていくといった風である。
 そこで列国の中、最も人種的の偏見を持たないメキシコを相手にまず交渉を開始して、22年2月には新条約の批准を完了し、その成功の第1歩を踏み出したのである
。これには駐米公使、陸奥宗光の隠れたる功績があったのである。
これに勇気を得た大隈は、同月米国との間に、新条約を結び、6月には駐独公使西園寺公望はベルリンにおいて、日独条約を調印し、8月、大隈は外務省に於いて露国公使との間に日露条約を締結、その目的に向かって着々と効果を収めて行ったのである。
この間、ひとり英国だけは、頑強にその特権を固執して、反対の意思を表示してやまなかった。」(『大衆明治史』p.145-146)

当時の英国駐日公使はフレザーという人物で、日本の申し出に対して頑強に反対し続けたという。このフレザーとの駆け引きが面白い。今のわが国の政治家にこんな芸当のできる人物がいるのだろうか。

「一筋縄ではゆかぬと見た大隈は、がらりと態度を変えて、今度は強硬に出たのである。
 加藤高明の話によると、この時大隈はフレザーに対して、一種の威嚇を示し、東洋における日本の武力の侮るべからざることを説いて、次のように言ったそうである。
日本は東洋におけるイギリスである。陸には6万の常備軍がある。海には30余艘の軍艦がある。この武力を擁して東洋に雄飛する日本を敵に回すことは、イギリスにとって不利であろう。シャムを見られよ。朝鮮を見られよ。東洋に於いて屹然として独立を保っているのは日本と支那だけである。この辺を、イギリスのために篤と考慮すべきであろう
 と、高飛車に出たというが、如何にも大隈のやりそうな芸当である。当時の日本の国力としては、随分思い切ったことを言ったものだ。
 これに対して、フレザー公使は、暫く黙考していたが、
『お話の件は、頗る重大事ですから、よく熟考致しましょう』
 と答えて、去ったという。
 案外におとなしい英国の態度に、大隈は一層勇気を得て、駐英大使岡部長職を督励して、尚も強硬に我が権利を主張させたところ、英政府の意向も漸く動いてきた。
 こうして、宿望の条約改正は成功の曙光を見るに至ったかに見えたが、茲にはしなくも憲法違反問題が起こって、大隈のこの努力も水泡に帰すことになった。強烈な反対の声は、外国から出たのではなく、実に日本内部に萌していた諸々の矛盾が、表面に爆発することによって、打倒大隈の声は旋風のように巻き起こったのである。」(同上書 p.147-148)

今の政治家が大隈のような発言をすれば、今のマスコミから『軍国主義者』『右翼』などと叩かれることは確実だと思うのだが、一方的に相手国に非がある場合の外交交渉は、それぐらいの覚悟をしてこちらが本気であることを相手に示してこそ、相手がようやく動きだすのである。大隈は世論を味方に付けながらそのスタンスでいいところまで行ったのだが、あと少しというところで国内から反対の声が上がって、結局失敗に終わってしまった。では、大隈案のどこに問題があったのか。

菊地寛

菊池寛はこう解説している。
「大隈は条約改正の談判に於いて、その内容が事前に洩れることを恐れて、極秘の中に、進行していったが、その成功の直前、すなわち明治22年4月19日のロンドン・タイムスはこの新条約の内容を大要発表し、それが東京の諸新聞に記載されるに至って、事態は急激に険悪になった。
 問題となった点は、改正案の中の『大審院に外国法律家若干名を任用する』という宣言であった
 憲法第19条に『日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格に応ジ均ク文武官ニ任セラレ、及ビ其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得』と規定してあるが、これは日本人の特権を規定したものであって、外国人はこの公権を日本臣民と同様に享有することが出来ない、というのが、法理論からする有力な反対論の趣旨であった。
 領事裁判の撤廃は良いが、大審院に外国人を加えるとは何事かというのが、谷干城や三浦梧櫻などの国粋主義の人達の言い分であった。
 この他に、大隈の改進党に対して、政敵として対立する自由党の面々、また大隈に条約改正の功を奪われるのを快しとしない連中など一斉に起って、囂々と大隈非難の声を放ったのである。
 この際において、大隈を無理やりに内閣に引張りだした、伊藤や井上馨の態度こそ見物であった。
 伊藤は初めから大隈の改正案の内容を知っており、賛成もして、中途まではこれに助力を与えていたのである。ところが、天下を挙げての反対気勢を知ると、世論に敏感な伊藤は大隈に黙って、アッサリと枢密院議長の辞表を出してしまった
。これでは百難を排して新条約断行の意気に燃えていた黒田も大隈も、意気阻喪せざるを得なかった。
井上馨も…当然賛成でなければならぬが、いつの間にか大隈に対して嫉妬の念を抱くようになった。とにかく世論の沸騰するにつれ、伊藤も井上も、なるべく火の粉が飛びかからぬよう、韜晦*しだしているのである。」(同上書 p.148-150)
*韜晦(とうかい):姿を隠すこと

大日本帝国憲法

少し補足しておく。
大日本帝国憲法は伊藤博文、井上毅らが検討を重ねて枢密院の信義を明治22年(1889)1月に結了し、国民に公布されたのはその年の2月11日である。[施行は明治23年(1890)11月29日]
そして大隈がロンドン・タイムズに新条約の大要を発表したのは、憲法公布から2ヶ月を過ぎた明治22年(1889)4月19日のことであったが、憲法制定と条約改正は同時並行で行われていたものの相互に没交渉であったという。そのために憲法が制定される状況下で、憲法違反の条約改正が進むという矛盾を生じてしまった
大隈の条約案で非難の的となった大審院に外人判事を任用する点については、12年後には廃止されることになっていて、大隈にすれば、現実に居留地や治外法権という憲法に規定されていない事態が継続している以上、その問題を解決するためにはある程度憲法上の例外が生じても問題にならないという考えだったようだが、世論は大隈を非難した。その中で最後まで大隈を支持したのは首相の黒田清隆と文相の榎本武揚だけであったという。
榎本は「今日まで大隈に少なからず骨を折らせておいて、事が捗(はかど)ってから、かれこれ嘴(くちばし)を入れて破壊するが如き、真に国家を憂うる者の仕方ではない」と書き送って、大隈を激励したそうだ。榎本が批難しているのは伊藤博文や井上馨あたりだろうが、この2人は大隈が簡単に条約改正を成し遂げてしまっては都合が悪いと考えたのではないか。

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そんな矢先に大隈に事件が起こる。
その年の10月18日、閣議を終えた大隈が官邸に戻る途中で国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて右脚の切断を余儀なくされる。
Wikipediaによると、その翌日に黒田首相は明治天皇に拝謁して条約改正延期を伝え、10月21日に入院中の大隈が不在のまま閣議は条約改正中止を決定し、米・独・露3国とのあいだの調印済の条約にもその延期を申し入れ、その責任をとって内閣は総辞職したとある。
かくして大隈の努力はすべて水泡に帰し、安政時代の条約に戻ってしまったのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3

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首相として大隈を支えた黒田清隆は、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件を明治22年に起こしたというが、大隈を文字通り「失脚」させた背景には、かなりドロドロしたものがありそうである。

菊池寛は条約改正を最後にこう纏めている。
「…この後、陸奥宗光、小村寿太郎などの決死の奮闘によって、条約改正のことが一応完成したのは、その後10年も経った、明治32年7月のことである。この時治外法権は撤廃され、居留地はすべて、わが地方組織の中に入った。そしてさらに明治44年に至って、最後に関税の自由権を完全に認めさせ、初めて日本の全面的な対外平等の要求が貫徹されたのであるから、ほとんど明治史の終焉に及んで、やっと日本の国際的平等権が確立したのである。」(同上書 p.154)
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