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明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか

前回の記事で、陸奥宗光外相らの努力により日清戦争の始まる直前に、英国との間に治外法権を撤廃する条約改正が成就したことを書いた。
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キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだが、この言葉の意味を理解するためには当時の朝鮮半島のことを知る必要がある。

征韓論

以前このブログで「征韓論争」のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-161.html

大院君

明治政府は欧米諸国が朝鮮半島に進出することを警戒し、鎖国政策を採っていた李氏朝鮮に強く開国を迫ったのだが、当時の同国の実権は国王(高宗)の父・大院君によって握られていて、その外交方針は「鎖国攘夷政策」であり、欧米の先進文化の受容に努めていたわが国も西洋と同様に「攘夷」の対象とされていたようだ。そのため、同国にわが国が使節を送っても、侮辱され威嚇されて国外に追いだされたという
しかし当時の李氏朝鮮はあまりにも弱体であった。もしこの国がこのまま鎖国を続けていては、いずれ朝鮮半島はいずれ欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立をも脅かされることになってしまう。そう考えて、西郷隆盛や板垣退助が武力を用いてでもこの国を開国させようと政府部内で「征韓論」を唱えたとされ、明治6年(1873)に欧米視察から帰国した岩倉具視・大久保利通らは国内改革の優先を主張してこれに反対し、議論に敗れた西郷らは政府を去ったというのが通説になっている。

雲揚艦兵士朝鮮江華島之図・錦絵

しかし、西郷らを退けた大久保らを中心とする明治政府は、明治7年(1874)には台湾に出兵し、明治8年(1875)には李氏朝鮮に向かって公然と武力挑発に出た(江華島事件)うえに、不平等条約(日朝修好条規)締結を強要している。教科書などで記述されているように、大久保ら欧米視察組は「国内改革を優先」しようとしたという内容を鵜呑みにしてはならないのだと思う。

明治政府が朝鮮に対して出力挑発をし、不平等条約を締結したことについて、西郷隆盛が政府を厳しく非難している文章が残されている。
勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に、明治8年(1875)10月8日付けで篠原冬一郎に宛てた西郷の書簡が紹介されているので引用しておきたい。

「…全く交際これなく人事尽し難き国と同様の戦端を開き候議、誠に遺憾千万に御座候。(中略)
一向[ひたすら]彼[朝鮮]を蔑視し、発砲いたし候故(ゆえ)応報に及び候と申すものにては、是迄(これまで)の交誼上実に天理において恥ずべきの所為に御座候。(中略)
何分にも道を尽さず只弱きを慢(あなど)り強きを恐れ候 心底(しんてい)より起り候ものと察せられ申し候。」(『抹殺された大東亜戦争』p.142)
西郷は、大久保らの明治政府がやったことは、日本に開国を迫ったペリーやハリスと同じやり口であり「天理において恥ずべき所為」だと書いているのである。

西郷の考え方が変わったわけではない。もともと西郷は政府にいた時も、西郷は、武力を用いて朝鮮を開国させよとは言っていないようなのだ。
明治6年(1873)6月12日に初めて朝鮮問題が閣議に諮られた時に、板垣退助の「居留民保護の為に軍隊派遣した後に修好条約の談判にかけるべきだ」という発言に対し、西郷は真っ向から反対したという。
次のURLに閣議における西郷の発言が口語訳されているが、西郷は軍隊派遣を明確に否定し、朝鮮には礼を尽くして全権大使を派遣すべきであるとし、その全権大使に自分を任命してもらいたいと主張したのである
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai11.htm

西郷の考えは内容的には「征韓論」ではなく、「遣韓大使派遣論」「遣韓論」と呼ぶべきとする説があるが、その説の方が正しいのだと思う。
征韓論争で「現状は国力涵養第一。征韓など無策、無為である。」と主張して西郷らを退けておきながら、その数カ月後には台湾に出兵しさらに翌年には江華島事件で朝鮮に武力挑発勝利した岩倉や大久保を「内治派」と呼ぶことに違和感を覚えるのだが、歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の良いように叙述されるものであり、敗者や死者には理不尽なレッテルが貼られるものであると考えるしかない。

ではなぜ、当時のわが国で朝鮮半島が重要視されたのか。この点については、菊池寛の次の文章が分かりやすい。
日本列島

朝鮮半島はその地形上、日本列島に対して短刀を擬したような恰好をしている。もし、この地が支那やロシアに占領されたとしたら、その時の日本はどうであろう。脇腹に匕首(あいくち)を当てられたようなもので、たえずその生存を脅威されるであろう。
 朝鮮問題が明治史のほとんど全部を通じて、終始重大問題を孕んだのは、実にこの日本国家の生存という根本に触れたためであって、日清戦争も日露戦争も、全く朝鮮問題を中心として惹起されたのである
。」(『大衆明治史』p.155)

この地政学上の問題は、秀吉の時代も同じことが言えるし、現在のわが国の安全保障についても絡んでくる話であるのだが、この時期の李氏朝鮮は弱体でかつ王朝内部に開国派と攘夷派との対立が深く、ある時は清に靡き、ある時は南下するロシアに屈服するといった状態であったのだ。

もっとも李氏朝鮮に自国を守れるだけの国力があれば明治政府はそれほど深刻に考えなかったのだろうが、当時のこの国はあまりに弱体で、もし清国やロシアが攻め入ったら、簡単に滅ぼされていたことは確実だ。
次のURLに当時の李氏朝鮮の写真が紹介されているが、このいくつかを見ればこの国がいかに貧しかったかが瞬時に理解できる。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html

ソウル

イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)

1888年ソウル南大門大通り

明治政府がそんな李氏朝鮮と締結した日朝修好通商条規の第一款には「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とあるのだが、その後もこの国は独立国だという気力も実力もなく、清国は相変わらずその宗主権を主張して隷属国視していたのである

閔妃

李氏朝鮮では1873年に大院君が失脚し、以降、国王(高宗)と皇后(閔妃[びんぴ])が国王親政の名のもとに一族とともに政治の実権を握っていた。後に初代内閣総理大臣となった金弘集(きんこうしゅう)は、明治13年(1880)に修信使として来日して開国の必要性を認識し、国王に日朝支が連携すべきであると進言してそれが閔妃一派に採用され、朝鮮もようやく積極的開国に転じるようになる。翌年には日本から軍事顧問を招き、新式の陸軍を編成するとともに、日本に大規模な使節団を派遣している。金玉均(きんぎょくきん) はその使節団のメンバーであったのだそうだ。
ところが1882年(明治15)7月23日に大院君によるクーデターが勃発し、日本公使館は焼き討ちされ、日本人軍事顧問や公使館員が多数殺害されている。(壬午[じんご]事変)
清国は、閔妃の頼みを受けて乱を鎮圧し、大院君を拉致・監禁することでクーデターは失敗に終わったのだが、以後朝鮮には清国に阿(おもね)る「事大党」が跋扈するようになり、清国はこの事件をきっかけに対朝鮮干渉を強化した
ソウルに3000名の清国軍を駐留させたまま袁世凱に指揮を執らせ、ソウルを軍事制圧下に置き、不平等条約を締結し、条文には朝鮮が清国の属国である事が明記されていたという。そのために、わが国が江華島事件の後で締結した日朝修好条規の効果が吹き飛んでしまうのだ。

呉善花さんの『韓国併合への道』を読むと、この清国の駐留軍がソウルで随分乱暴狼藉を働いたことが書かれている。
駐留清国軍は、ソウル各所で略奪、暴行を働き、多くのソウル市民がその被害にあうことになってしまったのである。清国の軍兵たちが集団で富豪の家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、あげくのはては金銭財貨を奪うなどの乱暴狼藉が日常のごとく行なわれたのである。…
中国には伝統的に、軍隊は略奪を一種の戦利行為として許されるという習慣があったから、将官はそうした兵士の乱暴狼藉は見て見ないふりをするのが常だった。…
清国兵士たちの暴状は際限なくエスカレートしていくばかりであった。さすがの清国軍総司令官の呉長慶もそれを放っておくことができなくなり、ついに特別風紀隊を編成して自国軍兵士たちの取締りを行なったほどである。」(『韓国併合への道』p.69-70)

これに対する反動で、1884年(明治17)に甲申事変(こうしんじへん)が起き、再び多数の日本人が犠牲になっている。菊池寛の文章を引用する。

「今度の変は、日本政府の援助を過信した、朝鮮開化党の軽挙に原因しそれに乗じた、支那の駐屯兵と朝鮮軍隊の暴動によって、日本人男女四十余人の惨殺という犠牲を出したのである。
 時の公使、竹添進一郎は直ちに居留民を公使館に集めて、悲壮な演説をして、避難を決行することになった。
 村上中隊長の率いる百四十余名の守備隊と四十余名の警官隊、それが公使館員、家族、居留民百三十名を中央に挟み、三百名の総員が死を決して、城内から脱出しようというのである

…城内光化門にさしかかると、朝鮮兵営から、大砲を二発打って来た。幸い目標は外れ、これに対して日本軍の前衛は一斉射撃を以て応じて、これを沈黙させた。
西大門に達すると、門は堅く閉ざされ、鉄索でごていねいにも封じられてある。
竹添公使はかねてこのことを予想して、大工に斧を持たせてあったので、これを以て打ち破って城外に出で、麻浦から八艘の船に分乗して、川に張った薄氷を砕きながら、仁川に向かって避難して行ったのである。
振り返って京城(ソウル)の空を見ると、黒煙濛々と上り、爆音しきりに起って、凄愴極まりない。これは一行が立退いた後、暴徒が日本公使館に火を放ったのである。
この公使館は、十五万円を投じて前月やっと落成したばかりのもので、京城における最初の洋風2階建ての建築だったのである。」(『大衆明治史』p.160-161)

金玉均

少し補足すると、2年前の壬午事変以降、閔氏一族は親日派政策から清への事大政策へと方向転換していたのだが、それでは朝鮮の近代化は難しいと考えた金玉均らがクーデターを計画して、守旧派の一掃を企てたのがこの甲申事変である。

日本兵は150名だけで1300名の清軍と戦わざるを得なくなったため、形勢は次第に不利となり、竹添公使は撤退の意志を固めて、金玉均らとともに脱出を図った。菊池寛の文章は、その脱出の場面である。
日本公使館は2年前の壬午事変で焼かれて、建て替えたばかりであったのにまた焼かれてしまったのだ。

Wikipedia「甲申政変」に、この時日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民は、特に婦女子30余名は清兵に凌辱され虐殺されたと書かれている。初めて知ったことなので、近代デジタルライブラリーで調べると、たとえば明治43年(1910) に菊池謙譲氏が著した『大院君伝 : 朝鮮最近外交史 附王妃の一生』(日韓書房)のp.132-133にこのような記録がある。(コマ番号91/207)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994464

「…日本居留民の一官舎に逃げ込みし四十余名は或は銃殺せられ石打せられ竹槍にて惨殺せられ、婦人は悉く強姦せられて尚…より竹貫して殺されたるあり、…を斬剥して殺されたるあり、二三の小児と一婦人を除くの外三十九名は清兵の汚辱の為に殺さる。」

このような猟奇的な虐殺の手口は、この事件の53年後に冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)によって日本人居留民の223名が惨殺された通州事件と酷似している。
このような史実を知らずして、なぜ日清戦争が起こったかを真に理解することは難しいと思うのだが、このような史実が日本人にあまり知らされないのは何故なのかを良く考えておく必要がある。

伊藤博文

年が明けた明治18年(1885)、わが国は伊藤博文を全権大使に任じて清国の全権大使・李鴻章と天津で談判し、4月に調印された天津条約では
・日清両国とも4か月以内に朝鮮より撤兵すること
・日清両国とも、朝鮮軍を指導するために軍事顧問は派遣しないこと
・将来朝鮮に重大変乱があり、日清両国において派兵の必要ある時は、まず互いに報告し合うこと
を取り決めている。

この2つの壬午事変甲申事変が起こってから、高宗も閔妃も日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第にロシアに近づくようになっていった。
それを察知した李鴻章は、清国に軟禁していた大院君を、朝鮮に国賓待遇をもって帰国させている。そのことがまた新たな火種となっていくのである。

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福沢諭吉は、どういう経緯で『脱亜論』を書いたのか

甲申事変の後、日清間で締結された天津条約(1885年)によって日清両国は朝鮮より撤兵したが、清の袁世凱(えんせいがい)は通商事務全権委員という名目で依然ソウルに留まり、朝鮮への圧力と干渉を強めていった。
ところが、天津条約で日清両軍が撤兵したことは千載一遇のチャンスであるとみて、ロシアという新たな脅威が朝鮮半島に進出してきたのである
1884年、ロシアが朝鮮と通商条約を結んだ後に駐韓公使となったウェーバーが、清国の干渉を嫌う高宗や閔妃に接近し、ロシアの勢力を次第に拡大させていくのである。

その動きを知った清国は、軟禁中の大院君を朝鮮に帰国させて高宗や閔妃らを牽制しようとするのだが、国王らはその後もロシアと接近する動きを続け、1886年7月には、有事の際にロシアの保護を求める秘密協定を締結しようとする動きがあったため、清は仁川に北洋艦隊を派遣して圧力を加え、この秘密協定締結を阻止したという。

koreamap1.jpg

このロシアの朝鮮半島進出の動きに触発されて、英国も同様に動いている。もしロシアがシベリアを南下して清韓両国を侵略すれば、英国の植民地の防衛が危うくなるからだ。
1885年(明治18)4月、英国東洋艦隊は突如、ロシア極東艦隊の通路を遮断するために、朝鮮半島南方沖の巨文島(こむんど)を占領し、朝鮮政府の抗議を無視して占領を続けたのだ

この英国の動きに驚いたロシアは、その対抗措置として朝鮮半島の永興(よんふん)湾を占領すると主張した。この問題で清の李鴻章は英露両国を調停して二年間にわたる交渉の結果、英露両国とも朝鮮の領土を占領しないという妥協を成立させたので、1887年2月に英国艦隊はようやく巨文島を撤退している

このような歴史を紐解いていくと、自国の領土に複数の第三国が堂々と進出して占領しているという重要な問題に対して、朝鮮国自身が有効に対処する能力がなく、ほとんど国家の体をなしていなかったことが見えてくる
次のURLに明治18年8月13日付の時事新報の記事が読めるが、これによると英国が巨文島を支配して工事があれば島民を使役し、犯罪があれば英国法で処罰したというのだが、使役された場合に賃金を払い、処罰も朝鮮国ほどはひどくなかったことから巨文島の住民は幸せ者だと国民から羨望されていたというのだ
http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E6%B0%91%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AB%E5%85%B6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%82%92%E8%B3%80%E3%81%99

このまま放置すればこの国の領土が、いずれどこかの国に支配されることは確実な情勢にあり、どの国が朝鮮半島を支配することになったとしても、わが国にとっては国家の生存に関わる重大な問題となることは変わらない。まずは朝鮮の近代化をすすめることがわが国の死活問題になっていたわけなのだが、そのあたりの事情が教科書にはほとんど書かれていないのはおかしなことである。

たとえば『もう一度読む 山川の日本史』では、甲申事変のあとの朝鮮半島についてこう記述されている。
「翌年、日本は伊藤博文を天津におくり、清国全権李鴻章とのあいだに天津条約をむすび、日清両国はたがいに撤兵し軍事顧問を送らないことを定めるなど、武力衝突を避けた。しかし、日本国委では民権派が武力による朝鮮改革を計画し、政府も清国に対抗して海軍拡張をすすめるなど、朝鮮の支配圏をめぐる日朝の対立はしだいにふかまった。」(p.245)
こんな文章を読めば、わが国は清と同様に朝鮮を侵略しようとしたと理解する人が大半だと思うのだが、ロシアもイギリスも出てこないような記述で、この時代の歴史を正しく伝えられるとは思えないのだ

明治6年(1873)に征韓論に敗れて下野した西郷隆盛は、鹿児島に彼を訪ねに来た庄内藩家老・菅実秀に「いずれロシアは満州朝鮮半島を経て日本に迫ってくる。これこそ第二の元寇であり、日本にとっては生死の問題になる」と語ったという記録があるそうだが、西郷の危惧していた状況が、15年後には現実のものとなっていたということになる。

では、当時において、そもそもこの朝鮮という国に独立の気概はあったのだろうか。
前回の記事で甲申事変のことを書いたが、この事件は朝鮮の近代化の為に起ち上がった金玉均(きんぎょくきん)ら独立党員によるクーデターだったのだが、それに失敗した金玉均らは日本に亡命している。

清国および朝鮮政府は、独立党員の逮捕引渡しを再三わが国に要求したが、わが国は彼らを政治犯として扱い、引渡しを拒絶した。
しかし、清国や朝鮮政府の差し向けた刺客が彼の身辺に出没するようになり、1894年3月に金玉均は上海に誘い出されて、洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで暗殺されてしまった。

金玉均遭難事件

菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。
金玉均上海において暗殺さるの悲報がとぶや、李鴻章は朝鮮国王に対し祝電を発し、北洋艦隊の一部を派して、金の死体を軍艦に収容、しかも刺客洪鐘宇を同乗させて、朝鮮政府に引き渡したのである。
 朝鮮政府は金の死体に対して、所謂(いわゆる)凌遅の刑*に処し、その首と四肢をバラバラにして、京城(ソウル)その他各地に梟(さら)したのである。
 金玉均暗殺は、同じく大きな衝動を日本全国に与えた。日本の法律の保護の下にあった彼を上海におびきよせ、これを殺して、その軍艦で死体を届けるなど、支那政府は金玉均暗殺にあたって、全く首謀者の観を呈し、その傍若無人ぶりは、全く日本政府の威信を傷つけるものであった。上下世論は沸然として沸き上がり、暴支膺懲(ぼうしようちょう)**の声は挙がった。」(p.167-168)
*凌遅の刑:死体を首・胴体・腕・脚の6部分に斬り取って晒し者にする刑罰
**暴支膺懲:「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」の意

次のURLに金玉均の暗殺に関する当時の長崎の鎮西日報の記事が転載されているが、これをよめば菊池寛の記述に誇張はないようだ。
http://www1.bbiq.jp/~aizunotomo/homepage2/%E9%87%91%E7%8E%89%E5%9D%87%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%96%B0%E8%81%9E%E8%A8%98%E4%BA%8B.html
Wikipediaには晒首にされた金玉均の写真も掲載されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%8E%89%E5%9D%87

福沢諭吉

福沢諭吉は、明治18年(1885)3月に有名な『脱亜論』を書いて、清や朝鮮を見限ろうと考えた。
WIKISOURCEにその原文と現代文があるので今ではネットで誰でも読む事が可能だ。随分過激な文章だが、129年も前に書かれた文章とは思えないのが不思議である。
http://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96

「…筆者からこの二国[清・朝鮮]をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。幸い国の中に志士が現れ、国の開明進歩の手始めに、われらの明治維新のような政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。…

『輔車唇歯(ほしゃしんし)』とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の一大不幸というべきである

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。」

福沢諭吉は決してアジアを蔑視してこの文章を記したのではない。福沢は壬午事変の後、朝鮮独立を目指す金玉均らに対し、惜しみなく指導をし、援助を与えてきた人物なのであるが、もうこの2つの国は見放そうと言っているのだ。

中村 粲

中村 粲(あきら)氏はこう解説している。
基本的には、人と国家の独立自尊についての福沢の厳しい観念が、アジアの隣国に見切りをつけさせたと考えてよいだろう。東洋各国に駸々(しんしん)と押し寄せる欧米勢力に対して我国の独立を守るには、アジアの隣邦を誘掖(ゆうえき)して近代文明国家足らしめ、共に独立を全うして西力東漸を防がねばならぬ。―――これが福沢の思想である。福沢によれば、日本一個の独立では不十分なのだ。…
 
 …明治日本の標榜せる『富国強兵』も『文明開化』も『殖産興業』も、そして『自由民権』も、国力の充実、国家の独立という一点を目指す必死の自己防衛の途に他ならなかったのだ。
 『独立の気力なき者は邦を思うこと深切ならず』と福沢は云う。彼にとって、独立の気概なき民族は、到底国を興し、独立を勝ち取る見込みはない、と見えたに違いない
。…

 あくまでも朝鮮を属国の地位に止め置こうとする尊傲な中華思想の清国と、大院君派と閔妃派の内訌絶えることなく、時によって清に服し、日本に倚(よ)り、あるいは露を迎える叛服常なき事大思想の朝鮮の姿… 斯くの如く文明を喜ばず、独立の意義を悟ろうとせぬ隣邦に深くかかづらうことは、やがて日本自身が共倒れになりかねない。福沢は当然、これを峻拒する。『脱亜論』はこのような文脈で理解されねばならない。」(『大東亜戦争への道』p.42-44)

今ではこの『脱亜論』が、中国・朝鮮への強硬姿勢を示す論文として、中国や韓国だけでなく、わが国でもよく引用されるのだが、福沢の『脱亜』という言葉が、原文の論旨とは随分異なる使われ方をしているようである。

わが国の領土である竹島を不法占拠している韓国も、わが国の領土である尖閣諸島を自分の領土だと言い張る中国も、福沢の表現を借りれば、今も『悪友』ということになろう。

このような国に対しては、福沢の主張する通り、「隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべき」で、これ以上両国に対して譲歩する必要なく、もし史実でない歴史を押し付けてきたら、誰でも納得できる明確な根拠を示して、堂々と事実を全世界に発信し続けるべきだと思う。今までのように何も反論しないまま、あの『悪友』の圧力に屈して支援を継続するようでは、わが国があの国以上に悪い国であるとの印象を世界に発信することになるだけだ。

マキアヴェッリ

『君主論』を著したマキアヴェッリが、このような言葉を残しているという。
わが国は、明治期に多くの犠牲をはらって学んだことを忘れて、戦後の長きにわたりこの言葉の真逆のことを続けてきたのではないだろうか。

「隣国を援助する国は滅びる。」
「次の二つのことは、絶対に軽視してはならない。
第一は、忍耐と寛容をもってすれば、人間の敵意といえども溶解できるなどと、思ってはならない。
第二は、報酬や援助を与えれば、敵対関係すらも好転させうると、思ってはいけない。」


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日清戦争開戦前の5ヶ月間の動きを追う

前回の記事で、明治27年(1894)3月28日に金玉均が暗殺されたことを書いたが、4月2日にはロンドンで英国との条約改正の交渉が始まり、7月16日には英国外務省において日英通商航海条約が調印され領事裁判権が撤廃された。また8月1日には日清両国が相互に宣戦布告し日清戦争が開戦している。
このように明治27年という年は、わずか5ヶ月の間に随分大きな事件が相次いでいることに驚いてしまう。今回はその5ヶ月間について、日清戦争が始まるまでの経緯を中心に纏めてみることにしたい。

1884年に甲申事変が起き、その翌年に結ばれた天津条約で、日清両国は互いに朝鮮から撤兵し、今後もし派兵する必要のある時は互いに報告し合うことを定めたのだが、最初に朝鮮半島に出兵したのは清国の方である。

東学党の乱

その時の派兵理由は金玉均暗殺の翌月に起きた「東学党の乱」(「甲午農民運動」とも言う)と呼ばれる大規模な農民の反乱の鎮圧であった。

朝鮮八道図

菊池寛の文章をしばらく引用する。
「明治27年4月、朝鮮全羅道古阜県に乱民蜂起し、国政改革を名として、殺戮を逞(たくま)しうし、忠清、慶尚道に及びその勢い猖獗を極め、最早朝鮮の軍隊では、どう手の下しようもなくなった。
 この徒を東学党と称し、東学という一種の教派から出た宗教団体であって、…その教えは、儒、仏、道教を折衷混合したものであった。
 …
 東学党の勢いいよいよ熾(さか)んになり、いたるところ官兵敗れ、京城(ソウル)も危険に瀕して来たので、朝鮮政府は清国に援助を求めることになった。
 この時の支那の駐韓公使は怪傑袁世凱(えんせいがい)であって、彼は日本の退嬰政策を機として、韓廷内において縦横の権を揮っていたが、朝鮮政府の求めに応じ『属国の難を救う』と称して、直隷提督葉志超をして兵を率いて、朝鮮に入らせた
しかし、天津条約の取り決めがあるので、出兵の理由を日本に通知してきた。その文中、
『朝鮮政府の来文を覧(み)るに、その情詞切迫なるのみならず、兵を派して援助することは、我が属邦を保護するの旧慣に有之候』
と、相変わらず、朝鮮を属国扱いである
。…」(『大衆明治史』p.168-169)


しかし、なぜこのタイミングで朝鮮半島に農民暴動が起こったのだろうか。閔妃一派打倒の機を窺っていた大院君か、あるいは清国が裏で繋がってはいなかったかと誰でも考えるところだ。

国立公文書館アジア歴史資料センターの公開資料に『対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録』という文書がある。この文書は臨時代理公使であった杉村濬(ふかし)氏が記録したものである。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B03030197800?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2006092114020180873&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&

最近見つけたのだが『きままに歴史資料集』という凄いホームページがあって、わが国の元寇の頃から明治期までの重要な外交資料が多数収集されており、そこに『対韓政策関係雑纂/在韓苦心録 松本記録』のポイントとなる部分を現代語で書き起こしておられるのはありがたい。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi057.html

杉村濬

そのHPに、杉村濬氏によるこのような記録が紹介されている。
「当時、全羅道の東学党の勢いは益々盛んであって、西南部一体に蔓延し、その地方の韓兵の力では鎮圧することが出来ず、急報頻繁なるにより、朝鮮政府は兵使洪啓薫を以って招討使となし、京城の兵八百を引率し、同月五日に於いて京城を出発せしめた
 これより先、勢道閔泳駿*は東学党の蔓延の急報に接するや、直ちに京兵を発し、これを討伐せんと企てたが、諸大臣中に不同意の者多く、
 『東学党は良民である。地方官の悪政に堪えられずに蜂起したもので、むしろこれを招撫すべきであって、討伐すべきではない』
と言って遂に出兵を拒んだことにより、閔泳駿も政府内では頼みがいもないと思ったのか、密かに清使袁世凱と謀るに至った。
 袁世凱は最初から、韓兵の脆弱と出兵準備不足の為めに、その成功は覚束ないと悟り、一度官兵が敗れた後に乱徒が北上して京城に侵入する時には、必ず外国と面倒を引き起こしかねないと気遣い、よって韓廷を援助して早く鎮圧せねばならないと思い込んだ
[このことは、余が直接に袁氏から聞いた]。且つこの機に乗じて一つの巧名を立てんことを期し、一時は自ら自国の巡査と商人を引率して出馬せんとまで申し出た程であった。」
*閔泳駿(ミン・ヨンジュン):漢王室の外戚(閔氏一族)。当時は閔氏一族が李氏朝鮮の権力を独占していた。

乱民と言ってもさしたる武器はなかったはずだ。にもかかわらず招討使洪啓薫の軍は野戦砲4門、弾薬140箱を所持して京城を出発したのだが、なぜか武装した兵士の方があっさりと敗れてしまったのである

アジア歴史資料センターにある公文書『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第三巻』の『朝鮮政府援兵ヲ清国二乞フ事』に、閔泳駿が袁世凱に援兵を打診する会話が出ていて、『きままに歴史資料集』の先ほどのURLで口語訳が読める。

袁世凱

袁世凱は招討使洪啓薫の軍の動きを部下に観察させていたのだが、閔泳駿にこんな軍隊では討伐できないと述べたという。
「決死敵対する賊ですら討伐するに足る。それを、まして戦おうともしない者等ならいよいよ打ち滅ぼすのは簡単なことではないか。自分は、討伐の挙があると聞いて、それが京城を出発するという日に人を遣ってその動静を観察させた。しかし(朝鮮軍には)威令もなく兵に規律もない。その上陸の日[群山浦上陸の日をいう]に白衣[白衣は通常人が着る(昔は兵士も白衣であったが、この頃の朝鮮軍は青色の制服を纏っていた。)]も軍中に混じっていた。また兵士も気ままに座ったり寝そべったりしており、みだりに(隊列)を出入りしていた。将官たる者も終日相手の力を不安に思い、恐れて兵を進めない。ただそこに陣を留めるのみである。また朝から晩まで恐れていることは、一に、兵士が命令に従わないこと、二に、賊徒と相対することにある。そして道の先十里内に賊がいると聞くと、止まって行こうとしない。このようなものがどうして討伐であろうか。」

確かに、こんな軍隊を派遣しても、乱の鎮圧など出来るはずがない。5月31日に全州城陥落の報が入り、朝鮮政府もついに清に援兵することを決断した、という流れである。

清国がこの時期に朝鮮に兵を送り込んだのは、当時のわが国の内情を観て朝鮮半島に出兵する好機と判断した可能性が高そうだ。しかしながら、わが国は清の予想に反して迅速に反応したのである。ふたたび菊池寛の文章を引用する。

官民反目の極、議会は解散また解散、予算は毎度不成立に終わったから、海軍拡充計画など、固より円滑に行われるわけはない。(明治)26年の第四議会など、歳出8375万円の予算は884万円の削減を加えられ、殊に軍艦建造費は悉く削られている。清国が日本組みし易しと、朝鮮に乗り出してきたのは、無理はないのである。
 しかし、朝鮮の独立は、多年わが国の生存問題として擁護主張してきたところである。朝鮮半島に清国の覇権が確立する日は、即ちその利刃が日本帝国の脇腹に擬される日である。
 ここに至って、国民の敵愾心は俄然として昂騰し、一戦辞せずの気運は全国的に高まって行ったのである。
 『伐てやこらせや支那兵を、彼は正義の敵なるぞ』
 の歌とともに、まだ戦争もはじまらぬ中から義勇兵を志願する者、各地に続出した

 当時の新聞はこれを伝えて、高知市の練武館800名の官員が義勇兵を志願したこと、旧水戸藩復権士族280名が抜刀隊を組織し、従軍願を陸軍省に出したなどを報じている。」(『大衆明治史』p.170)

新聞は開戦を支持し、国民の世論が燃え上がって、いつのまにか官民の軋轢は消えてしまう。では、なぜここまで、国民世論が日清開戦に向けて昂揚したのだろうか。

朝鮮半島がわが国の生存の問題にかかわる重要な位置にあるという地政学上の問題は重要であることは誰しも理解できるが、そんな理由だけで従軍志願者が続出することはないだろう。当時の国民が心底から清国を嫌い、こんな国は朝鮮半島から追い払ってしまえと思わなければそういうことは起こらないと思うのだ。

国民世論が開戦に向けて昂揚し従軍希望者が続出したのは、前回の記事で書いた金玉均の暗殺の後で死体の首と四肢をバラバラにして、京城その他各地に梟(さら)したこともあると思うが、それよりも前々回の記事で書いたとおり、壬午事変と甲申事変で多くの日本人居留民が惨殺されたことが大きいのではないか。特に甲申事変では多くの女性が清兵に凌辱された上にとんでもない殺され方をしているが、こういうことがなければ国民大衆レベルまで開戦を支持することにはならなかったと考える。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-307.html

またこのブログで2回に分けて、アメリカがハワイ王朝を転覆させたハワイ王国の悲劇について記事を書いたことがあるが、この出来事も日清戦争直前の話である。
アメリカは、1887年に欧米人に選挙権・被選挙権を与えながらハワイ人にはごく一部の人間しかその権利を与えない憲法を押し付けて、米国人が議会の多数派となって政治の主導権を握り、1893年には軍事力で恫喝して君主制を廃止させようと米海兵隊がハワイに上陸してホノルル市内を制圧し、1894年の7月4日にはハワイ共和国の独立を宣言してハワイ王家を廃絶させている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-180.html
このように、スキあらば軍事力を用いて他国の国土を奪い領土を拡大しようとする意図を持つ大国がわが国の周囲で活動していて、わが国が植民地にされないために必死の思いであったことがわかっていないと、この時代を正しく理解することにはならないのだと思う。

では、当時のマスコミはどんな論調であったのか。
福沢諭吉は時事新報紙上に連日社説を掲げて
「(清国の)陸軍に至っては何百何十万と号するが、一部の外は依然たる旧式軍隊で、新式精鋭なる日本軍に対しては、百姓一揆のようなものである。日支戦争は文明と野蛮との戦争であるばかりではなく日本人の義勇奉公の精神を世界に示す好機会である」と論じ、
徳富蘇峰は国民新聞に於いて
我々の戦うは、維新興国の業を大成せんがためなり。即ち日本帝国統一自衛の道を盡し、外に向かって大日本を膨張せしむるなり。朝鮮の独立、清国の膺懲、ただこの大目的に到着する一手段に過ぎず。即ち吾人は国家自衛のために戦うなり。国民雄飛のために戦うなり。」と書いたという。(菊池寛『大衆明治史』より)

世論の支持が強ければ、政治家の決断が速くなるのはどこの国でも同じである。この時の明治政府の決断は早かった。6月6日の閣議で、日本人居留民保護を理由に朝鮮への派兵が決定している。6月12日には先発隊が仁川(じんせん)に送られ、さらに8千人余りの軍隊が続々と朝鮮半島目指して出発している。
ところが、日清両国軍が朝鮮に出兵してみると、東学党の乱はとっくに鎮められていて、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れたのだが、両国は受け入れずに両軍の対峙が続いたのである。

そこからどういう経緯で開戦に至ったのか。中村粲(あきら)氏は著書でこう解説している。

npnhmrdn.jpg

「我国が大鳥公使を通して朝鮮国王に内政改革を勧説したのは6月26日であった。内政改革は朝鮮政府の改造であるから、それは支那勢力の失墜を意味する。朝鮮政府は袁世凱の後援を得て、強硬に反対した。
 大鳥公使は7月3日、5項26条の内政改革案を朝鮮政府に提示し、20日には清韓宗族関係の廃棄と清国軍の撤退を要求、その回答期限を7月22日と指定した。この間、過去10年に亙って朝鮮属邦化政策を推進してきた袁は、日本の強硬策を察知するや密かに京城を脱出して天津に引揚げた(7月18日)。朝鮮政府は、袁の後を引継いだ唐紹儀と協議し、急場逃れの回答を行なったが、大鳥公使は不満足を表明し、満足な回答なき場合は兵力を行使する旨警告、23日、日本軍は景福宮内の朝鮮兵を駆逐した。閔氏一族は逃走し、長らく政権から遠ざかっていた大院君李是応(りしおう)が日本公使の要望で政権を引受けた。
 政権の座に復帰した大院君は直ちに7月25日、清韓宗族関係の廃棄を宣言し、牙山駐屯の清兵駆逐を我国に要請した。…」(『大東亜戦争への道』p.48)

朝鮮改革談判図

我国が提示した5項26条の内政改革案は、普通の国なら当たり前のことをやれという程度のものだ。その5項は具体的にはこう書かれていた。
「一 中央政府の制度并(ならび)に地方制度を改正し、并に人材を採用する事。
二 財政を整理し富源を開発する事。
三 法律を整頓し、裁判法を改正する事。
四 国内の民乱を鎮定し安寧を保持するに必要なる兵備を設くること。
五 教育の制度を確立する事。」
細目についても、できていないことがおかしいようなことが縷々述べられているだけだ。紹介すると長くなるので引用はしないが、次のURLに全文が出ている。これを読めば、当時この国が腐敗していて、国家の体をなしていなかったことが見えてくる。
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi060.html

わが国が要求した改革は、朝鮮国の支配層にとっては痛みを伴う改革であった。朝鮮の民衆には歓迎されたようだが、支配層には改革する意思はなかったという。
日英の条約改正が調印された7月16日以降は、わが国はさらに強気となり、7月20日には清軍の撤退と、清朝間の宗主・藩属関係の解消を要求している。
しかし22日に届いた朝鮮の回答は
①改革は自主的に行う
②乱が収まったので日清両国の撤兵を要求する
というものであった。

大院君

7月23日に日本軍は景福宮内の朝鮮兵を駆逐し閔氏一族を追放して、再び大院君を担いで新政権を樹立させている。そして政権に復帰した大院君は7月25日に清韓宗族関係の廃棄を宣言し、さらに牙山の清軍掃討をわが国に要請した。

日清開戦わが軍大勝利・読売新聞

その7月25日に、日清両国の海軍が朝鮮西岸の豊島沖で遭遇し我が艦隊が清国艦隊を撃滅することになるのだが、日清戦争について書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。
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このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

桜の咲く古民家の風景を求めて
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津山城址と千光寺の桜を楽しむ
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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