HOME   »  自由民権運動
Category | 自由民権運動

『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

なぜこんなに面白い本が焚書処分にされたのかと考えるのだが、おそらくは以前私が紹介した、「マリア・ルーズ号事件」のことを記述しているからなのであろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

マリア・ルーズ号は南米ペルー船籍の船だが、明治5年(1872)に大量の中国人奴隷をアメリカに運ぶ航海の途中で暴風雨に遭い、修理のために横浜港に横付けされている時に、虐待されていた一人の中国人奴隷が逃亡したことが大問題となる。
この事件は神奈川県令の大江卓が自ら裁判長となって、中国人奴隷225名全員を解放したという痛快な話なのだが、このように「奴隷制度」や西洋による世界侵略など、戦勝国にとって都合の悪い史実を記された本は、ほとんど昭和21~23年にGHQによって焚書処分されていると考えて良く、西洋の世界侵略や奴隷制のことを詳細に記述した本は、今も書店で目にすることは滅多にない。

大衆明治史

このようなブログを書くようになってから時々古い本を読むことがあるのだが、平板な歴史叙述に慣らされてきたからなのか、古い本には人物が生き生きと描かれていて面白いと感じることが多いのである。
今回は菊池寛の『大衆明治史』の中から、明治時代の自由民権運動の話を紹介したい。この本の原文を読みたい方は、全文をPDFで公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

菊池寛は、明治元年に会津藩の処遇をめぐる明治新政府軍と奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた「会津の戦」に関する板垣退助の述懐から書き起こしている。
しばらく菊池の文章を引用する。(原文は旧字旧かな)
松平容保

「会津の戦いが済んだ松平容保*父子が城を出て妙国寺に退隠したある日、一人の百姓が来て、芋を藩公に献じてその不幸を慰めようとした。
 その護衛の任にあたっていた土佐の士が、美談として、これを官軍の板垣退助に語ったのである。傍らで聞いていた者は、皆その忠義を褒めないものはない。

 この時、板垣は静かに次のような述懐を洩らしたという。これは日本の憲政史でも、有名な言葉である。

『我輩先日、日光今市の戦いの時、友人にして戦死する者多く、その屍を見るたびに、身を切られるような思いをした。しかるに敵の死兵を検査すると、皆身に文身(いれずみ)をした無頼漢ばかりであった。自分はこれを見て、石と玉とを交換したような気がして、甚だ落胆痛恨した。その夜、床の中で考えたのであるが、ヨーロッパの戦争では、常に万を超える死傷者があるのに、士気は毫(ごう)も衰えぬという。その理由はどこにあるかといえば、だいたい、日本の兵士は僅かな士族だけで組織してあるから、平常の友情関係が極めて濃厚で、人員もまた少ないから、これが戦死を見て、心を痛めることが深い。これは全く封建制度の罪であって、その人情関係が狭いためである。したがって、国民皆兵の時代が来れば、こうした弊害は結局打破されるであろうと考えた。』

彼はさらに語を継いで、
『やがて兵を進めて会津に近づくや、会津の雄藩、必ず一藩を焦土と化して戦うであろうから、三千未満の官兵では、とても攻略することは出来ん。唯討死の外あるまいと秘かに覚悟を決めていた。ところが若松城に近づくにつれて、人民は家財道具を携えて、争って地方に遁(のが)れ、甚だしきに至っては、人足となって官軍の手助けをする者がある。我輩はその意外なるに驚いた。諸君は芋を持ってきてその旧主を慰めんとする百姓に感心してているが、それなら何故初めからわれわれに抵抗して、旧主を助けなかったのか。これを要するに、戦争は士がやるもの、百姓は初めから不関焉(ふかんえん:われ関せず)だからである。その楽しみをともにせざるものは、その憂いをともにせずだ。武士だけがその特権を振り廻している時代に、百姓がどうして国事を共に憂えるものか。これ程の大藩が亡びるのに、之に殉ずる者、僅かに三千に過ぎないというのはこの道理にほかならぬ。我輩は、昨日まではこれを会津のこととして、冷ややかに見ることとが出来たが、これを今後の日本に及ぼして考えれば、由々しき大事である。要するに、今日以後は、四民平等の制度を布(し)いて、国民全体が楽しみをともにし、憂いをともにせねばならぬ。』」(汎洋社版『大衆明治史』p.86-88)
*松平容保(まつだいらかたもり)第9代会津藩主。
会津若松城

平石弁蔵と言う人物が大正6年(1917)に会津人の立場から『會津戊辰戰爭』という本を著して、平石はその序文を板垣退助に執筆を依頼している。
板垣は戊辰戦争で官軍の東山道総督府の参謀をつとめ、非凡な軍略の才能を発揮したと言われているが、板垣がその本の序文に記した文章は、なかなかの名文だ。次のURLにその全文と訳文が出ているが、これを読めば菊池寛が書いた板垣の述懐は、史実にかなり忠実に書かれているものであることが分かる。
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/itagaki.htm

板垣は、会津では士族出身者だけが戦っただけで、会津の他の人々はみんな知らぬふりの状態であったことに官軍の参謀として強く危機感を抱いたのである。
板垣自身の文章を紹介したい。
會津は天下屈指の雄藩也、若し上下心を一にし、戮力以て藩國に盡さば、僅かに五千未満の我官兵、豈容易に之を降すを得んや。」

官軍はわずか5千にも満たない兵力しかいなかった。もし会津の人々が心を一つにして藩に協力していたならば、官軍が会津を簡単に降伏させることはできなかったと書いている。
にもかかわらず会津の人々は戦火を避けて逃げて、藩の滅亡を目前に見ても誰もが知らぬふりをしているのは何故なのか。わずかでも藩主の恩に報いようと考えたなら、人々は生命を犠牲にして国を護ろうとするべきではないか。
板垣退助

板垣は、会津の一般の人々がこのような行動をとったことの原因について、士族たちが楽な生活を独占し、平素にあって人民と分かち合わなかったために、身分の上と下とで心が離れてしまったことにあると考えた。
この問題は会津藩だけにあてはまるものではない。もし生まれたばかりの明治日本が他国と戦うことになれば、このままではとんでもないことになると危機感を抱いたのである。

「然るに斯の如く一般人民に愛國心なき所以のものは、畢竟(ひっきょう:つまるところ)上下離隔し、士族の階級が其樂を獨占して、平素に在て人民と之を分たざりし結果に外ならず。夫れ樂を共にせざる者は亦た其憂を共にする能はざるは、理の當に然る所、天下の雄藩たる會津にして既に然り、況や他の弱藩に於てをや。我邦にして若し一朝外國と事を構ふるあらば、其結果知るべきのみ、今や封建の勢既に蹙(ちぢ)まり、時局是より一新せんとす。此時に方り我邦にして苟(いやし)くも東海の表に屹立し、富國強兵の實を擧げんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦樂を同ふするの精神を以て、士の常職を解き、其世禄を廢し、階級の制度を撤去して、國民皆兵を實行したりき。」

明治新政府が封建的な身分制度を改革して四民平等政策をとり、士族を路頭に迷わせてまでして国民皆兵の政府軍を作ろうとした流れは、この板垣の戊辰戦争に関する感想を読めば腑に落ちる。
板垣はここでは「愛国心」という言葉を用いているが、文脈からすれば「愛郷心」に近いと思う。しかしもしわが国が外国との戦いに巻き込まれたとしたら、それに勝つためには自らの郷土を愛するだけではなくこの国を護ろうとする「愛国心」に高めて、国民にあまねく普及させることが必要である。そのためには、士族の持っている特権を国民に広く享受させる一方、兵士になって国のために戦い、死ぬことにおいてもすべての国民が平等であるべきだと考えたのだ。

しかし明治の日本は、板垣が理想と考えていた方向とは違う方向に進んでいく。
明治4年(1871)に廃藩置県が完成して「藩」は制度としては廃止されたのだが、薩長を中心とする藩閥政治が長い間わが国の政治を支配することになるのだ

菊地寛

菊池寛はこの時代の流れをこう書いている。
「しかし、藩閥政治が強大になるにつれて、この反対勢力も勢力を得てくる。藩閥が自己の利益を中心にして、団結しようとすればするほど、これに対する民間の反抗は漸次組織立っていき、自然々々の中に、これが政党という形を採ってくるのだから面白い。 
明治6年の征韓論の決裂は、土佐を政治の中心から追い出しているが、この時飛び出した板垣退助、後藤象二郎等が、後の自由党結成の中心になったのも皮肉だし、明治14年の政変で、藩閥政治は無理やりに佐賀出身の大隈参議を罷免したが、大隈は負けずに改進党を組織して、藩閥打倒の旗幟を高く揚げるようになったのだから、これもまた皮肉である。」(同上書 P.91)

明治6年に征韓論が決裂し板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣が下野し、板垣、後藤らは、明治7年(1874)に「愛国公党」を結成したが、世の注意を惹かずに自然消滅となる。
板垣は同年故郷の土佐に帰り立志社を設立し、明治11年(1878)には大阪に出て同志を糾合して愛国社と改称してその勢力を拡大し、全国的な運動団体となる。
そして明治13年(1880)には国会期成同盟と改称し2府22県、8万7千人の署名を集めて政府に国会開設を請願したという。

このあたりのことは教科書にも書かれていたのだが、学生時代に学んだ時に、なぜこんなに自由民権運動がこの時期に国民に広まったかについては腑に落ちなかった。教科書には薩長の藩閥政治がいかなるもであったかがほとんど何も記されていないから、わからなかったのだと思う。
菊池寛の文章は、そういう疑問点をスッキリ理解させてくれるのでありがたい。

自由民権論がこれほどまでに全国民にとって魅力的となったのは、1つには当時の官僚たちが、封建大名以上に威張り散らしたことに対する反抗であった
 当時の知事が地方巡回をするときは、人民に対して土下座を強要した者があった程である。地方の多少でも、気骨のある有志が、こうした役人の横暴を実際に見て、大いに怒り、自由民権の叫びを挙げるのも当然だったのである。
 これに対して、自由党の板垣でも後藤象二郎でも、かつては参議までした人物が、一般人民と膝を交えて政治論を闘わせたのであるから、その人気が益々高くなったのは無理もない。…」(同上書p.95-96)

三島通庸

当時の知事(県令)で悪名高い人物としては薩摩出身の三島通庸(みしまみちつね)が有名で、山形、福島、栃木の県令時代に住民の反対を押し切り土木工事を進めて住民に増税や労役賦課、寄付金強要を行ない、批判に対しては弾圧一辺倒であったという。藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』の次のページには、三島通庸と戦った田中正造の活躍が描かれている。
http://www.ashikagatakauji.jp/tanaka/tanaka06.html
また宮武外骨は『明治奇聞』の中で、「圧制三県令」として「明治十五年頃、政府が民権家を敵視して圧迫加えた当時、最も辛辣を極めた地方官中の三酷吏」として、福島県令・三島通庸、岡山県令・高崎五六、愛媛県令・関新平を挙げているという。調べると高崎五六も薩摩出身、関新平は肥前出身だ。
http://blog.svp2.com/?eid=938821
以前このブログで書いた、廃仏毀釈で奈良の寺院の文化財などを収奪し財を成した堺・奈良県令の税所篤(さいしょあつし)も薩摩出身である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html


このブログで何度か書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史というものは為政者にとって都合の良いように編集され、為政者にとって都合の悪いことは書かれないものだと考えて良い。教科書を含めてわが国の歴史書の多くは官製史料を重視するスタンスで叙述される傾向が強いと思うのだが、それでは何回読んでも、為政者にとって都合の良い歴史を読むことになって、真実が見えてくるとは限らない。
真実を追及していくためには、同じ時代を生きた人々の記録と読み比べて、その上で本当は何があったのかを考える姿勢が不可欠なのだと思う。

ところで先ほど紹介した藤田敏夫氏の『不屈の田中正造伝』には、田中正造に対して三島通庸が刺客を送り込んだという記述がある。
もしかすると、明治15年(1882)に板垣退助が岐阜で刺客に襲われたのも、同様な背景があったのかもしれない。板垣を襲った相原は北海道に向かう船上で行方不明となっており、板垣襲撃を計画した者に殺害されたという説もあるようだ。

板垣退助遭難の図

有名な『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、板垣が岐阜で襲われた時に発したとされているのだが、右胸、左胸を刺された本人が刺客に対して言う言葉としては芝居のセリフのようで、どうも不自然だと思う人は私だけではないだろう。
本人は別の言葉を発したとかいろいろな説があるようだが、事件後の報知新聞の取材では、刺客の相原を抑え込んだ内藤魯一が事件時に叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」を、内藤が、板垣が叫んだことにしたという説がWikipediaに出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この内藤魯一は、明治17年(1884)民権運動を弾圧した三島通庸や大臣たちを爆殺しようとした加波山事件に連座して2年の獄中生活を送った人物だ。

菊池寛は、この板垣襲撃事件を自由党が党勢拡大に利用したことをうまく書いている。
「明治15年3月、自由党総理、板垣退助は東海道の遊説に赴き、静岡、名古屋を経て、4月6日に岐阜において大演説をなした。
 将に玄関を出ようとするところを愛知県の小学校教員、相原某に襲われた。傷は浅かったが、この報が全国に伝わるや自由党員はこぞって岐阜に集まり、これ政府が手を廻して板垣総理を殺さんとしたのであると慷慨激越、意気正に天を衝くの慨があった。
この時板垣は刺客を睥睨して、
『板垣死すとも自由は死せず』
と一喝したとの挿話は、殉教者の様な響きを以て、全国に伝わったのである
。」(同上書 p.96)

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯

自由民権運動の高まりに対抗して明治政府は集会条例を制定するなど民権派の活動を取り締まる一方、政府主導による立憲政治の実現にとりかかった。
政府部内でも大蔵卿・参議の大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスをモデルとした議会中心の政党政治を行なうことを主張したが、岩倉具視、伊藤博文らはドイツ流の君主の権限の強い憲法制定をとなえて大隈と対立していた。
明治14年(1881)に、開拓使官有物払下げを巡り政府内の対立が深まり、政府は国会開設の勅諭を出して、明治23年(1890)に国会を開くことを約束するとともに、大隈参議を辞職させ、伊藤博文を中心とする薩長の政権が確立した。(明治14年の政変)

その直後に、国会期成同盟を母体に板垣退助を党首とする自由党が結成され、翌明治15年(1882)には大隈重信を党首とする立憲改進党が結成された。

以上のことはどこの教科書にも書かれていることなのだが、この2つの政党の違いが、よくわからなかった。

たとえば『もう一度読む 山川日本史』では、
「両党とも各地で演説会をひらき、機関誌を発行するなど、政党政治の実現をめざし、都市の知識人(おもに士族)や地方の地主・豪農・商工業者などのあいだに勢力をひろめた。その活動は、志士的気風に富み行動力の活発な自由党のほうが、イギリス流の穏健で着実な議会政治を理想とする立憲改進党よりも急進的であった。」(p.236)
と記述されている。
学生時代には「急進的」と「穏健」という言葉で自由党立憲改進党を記憶したが、2つ政党の主義・主張、活動方針がどう異なるのか。こういう肝心なことが何も書かれていない。

前回紹介した菊池寛の『大衆明治史』に、新たな政党を設立して大隈が総裁になるのではないかと言う風説が出て、藤田一郎と言う人物がその真偽を確かめた一問一答をまとめた「東京日日新聞」の記事が引用されている。ここで大隈は自由党に対して結構過激な発言をしているが、こういう文章を読むと、自由党立憲改進党の違いが見えてくる。

大隈は、政府にいても民間にいても自分の主義主張は変えないと述べたあとで、板垣退助を厳しく批判している。
大隈重信

「…彼(か)の板垣退助君の如く、征韓論を以て内閣を去りながら、数月を出でずして民撰議院設立の建白書を上るというが如き挙動は、予の敢てなすところではない。予は主義によって政府を去り、その主義を以て民間に唱う、何ぞ出所の正しからざることあらん。
予、熟々(つらつら:つくづく)近時の我が国情を考えるに、政党組織も遏む(とむ:とめる)べからず。政談演説も絶つべからず。必ずや一日は一日と多くなることと思う。これのみではない。予が兄と共に憂うべきことは、今日の政党者流の挙動である。彼等は政府といえば善悪を弁せず、郡吏、巡査さへも攻撃せんとし、民権と言えば、政府に抗すれば、得られるものと思っている。その最も甚だしきものは彼の自由党の類である。このままに放置して置けば、遂には社会を破壊するに至るであろう。これが予が不敏を省みず、自ら任じ、民間にあってこれを矯正し、国家の保安を維持して、聖天子に報い奉らんと欲する所以(ゆえん)である。予豈(あに:決して)徒(いたずら)に事を好んでこの事をなさん。」(菊池寛大衆明治史』p.99)

大隈はこの発言ののち、明治15年(1882)3月14日に立憲改進党の趣意書を発表し、16日に木挽町で結党式を挙行している。

大隈も板垣も、二人とも薩長閥が権力を握った政府と戦うために政党を作ろうと考えたのは同じだと思うのだが、大隈は、自由党のように政府のすることなすことに抵抗していたら、いずれわが国の社会が破壊されてしまうとまで述べていることは注目して良い。

菊池寛は二つの政党についてこう解説している。
菊地寛

日本の政党が、とかく主義を主としないで人を主とし、ややもすれば封建的な権力争いに浮身をやつす傾向は、既にこの頃から萌(きざ)していたのである
 自由党と改進党は、ともに立憲主義を抱き、藩閥を敵としていたのだから、共同戦線を張ったらよさそうなものだが、実際はお互いの軋轢や党争を繰り返しているのは、その主義と言うより党風の相違とその総理である板垣と大隈の性格の相違に依るものが多い。
 意気を尚(とおと)び、情熱家の板垣は、智略を事とし、品格を重んずる大隈とは合わない。だから自由党に集まる者は、燕趙悲歌*(えんちょうひか)の壮士、地方農民と不平士族が多く、改進党を支持する者は学問常識を誇る者や都会の商工業者が多かった
。」(同上書p.101)
*燕趙悲歌の壮士: 時世を慷慨する者

このようにして自由党、立憲改進党が相次いで成立したのだが、政府が約束した国会開設は明治23年(1890)であり、立憲改進党が出来た年から8年も先の話である。両党にとっても8年近く運動を継続し、支援者を増やして資金を集め続けることは容易な事ではなかったはずだ。しかも両党の党首が仲が良くないときている。そこに薩長藩閥の明治政府がつけ入る隙があった。
板垣退助

政府はまず板垣を外遊させている。
板垣退助は、岐阜で暴漢に襲われた半年後に後藤象二郎とともにヨーロッパに旅立つのだが、その外遊費用2万円は現在価値にして4億円近いとされ、こんな資金が自由党にある筈がなかった。では誰が出したのか。
通説では三井財閥が出したと言われているのだが、板垣の洋行費の出所が改進党系の新聞で追及され、自由党内でも問題になったため、板垣の分は別の人物から工面したというのが真相のようである。

以前このブログで吉野の山林王・土倉庄三郎のことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html
土倉庄三郎

この土倉庄三郎が板垣の洋行費の大半を工面したとことがわかっている。
田中淳夫氏は著書『森と近代日本を動かした男』の中で、自由民権運動を経済面で支えたのはこの人物であったことを詳細に記しておられるが、その当時「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われていたという。
土倉がなぜ自由民権運動を支援したかについては、田中氏は当時奈良県が大阪府に統合されていたことと関係がある事を示唆しておられる。
森と近代日本を動かした男
以前私のブログにも書いたが、明治9年4月に府県の統廃合が行われて奈良県は大阪南部にあった堺県に編入され、ついで明治14年には、東京・京都・大坂の三府のうち最も財政基盤の弱かった大阪府を補強するために堺県が大阪府に編入されてしまっていた。
そのために、予算の多くが摂津・河内・和泉地区の河川改修などに重点的に配分されたり、旧奈良県で不可欠な予算が削られるようなことが頻発し、「奈良県再設置」の運動が拡がった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html
土倉庄三郎自由民権運動の高まりに期待して多くの資金を支援したのだが、その資金は最終的には役に立たたず、恒岡直史・今村勤三議院らが政府に何度も陳情して「奈良県再設置」の実現にこぎつけている。

話を板垣の外遊に戻そう。では板垣は、なぜ外遊しただろうか。
板垣は伊藤博文が憲法調査のため西欧に行くことに刺激されて、自分も立憲政治の実情を知りたいと考えていたところに後藤象二郎がその計画を応援したということのようだが、この事情を調べていくと、自由党のリーダーの外遊させて自由党の弱体化を謀ろうとする伊藤博文や井上馨の意図が見え隠れするのだ。
後藤の外遊資金は政府が斡旋した三井の資金を受け取ったと思われるが、板垣の場合は改進党からその資金の出どころを追及されたために、板垣は三井の金を受け取らず土倉庄三郎の資金を頼ったことになる。
この間の事情は、田中由貴乃さんの論文『板垣洋行問題と新聞論争』などが参考になる。
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0040/DB00400L001.pdf

しかし、自由民権運動が全国的に盛り上がっている時期に、自由民権派のリーダーである板垣が外遊することに反対する自由党幹部が少なくなかったようだ。板垣は後藤らに説得されて外遊を強行したのだが、そのために自由党を去った者も少なくなかったようだ。

そのタイミングで明治政府は、リーダー不在の自由党を叩いている。
ここで、前回の記事で紹介した「鬼県令」の三島通庸(みちつね)が登場する
菊池寛の文章を再び引用しよう。
三島通庸

福島県令三島通庸が、『自由党と火放け泥棒は一匹も管内に置かぬ』と嘯いたのは有名な放言であるが、藩閥官僚の面目は、この一句に躍如としている。
 藩閥政治家は、まずこの二大政党の仲の悪いのに乗じて、一層この乖離に努めた
金をバラまいて居た板垣を洋行させるかと思うと、大隈にはその糧道を絶って、その咽喉首を締め上げている。更に正面攻撃では巌法酷刑を設けて、政党員の活動を手も足も出ぬように縛り上げたのである。
 指導者を失い、酷刑に脅かされた自由党は遂に非合法的なギャング党になり、各地に武器をとって政府に反抗する暴動が頻発した。温健をもって誇っていた改進党も、次第に強硬な闘争党となって、長く反政府軍の先鋒となったのである。
 この気分が、国会開設まで残り、主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だと言って不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々がいたるとこで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

少しばかり補足しておく。
三島が福島県令になったのは明治15年(1882)で自由党が結成された翌年のことである。
福島県は自由党勢力が盛んな地域であり、三島は県令に就任するや、会津若松から新潟、山形、栃木に通じる道路(会津三方道路)の開削に着手した。その手法は重税を課した上に県民を強制的に徴発して労役奉仕させるもので、それに応じない者の財産を競売に付したりしたという
三島の強引なやり方に反対して、同年の11月に数千人の住民が喜多方警察署に押しかけ、約2千人が逮捕されている。(福島事件)
また翌明治16年(1883)3月には新潟の自由党の活動家ら37余名が政府転覆容疑で逮捕されたが、逮捕された大部分が冤罪であったという。(高田事件)

同年6月に帰国した板垣は、党再建のための政治資金集めをはかるが失敗し、翌明治17年(1884)3月には総理権限を強化して党員の結集を図ろうとしたが、地方の急進派を押さえきれず、9月には栃木県令三島通庸の暗殺未遂事件(加波山事件)を引き起こしてしまう。
この事件により党内で解党論が高まり10月29日の党大会で自由党は解党したのだが、その2日後の10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父地方で農民が武装蜂起し、高利貸しや役所などの書類を破棄し、政府は警察隊・憲兵隊だけでなく東京鎮台の兵士まで送り込んで鎮圧するという事件が起こっている。(秩父事件)

一方立憲改進党の方はどうであったのか。
立憲改進党は自由党総裁の板垣退助の洋行費の出所を批判したが、自由党からも同様な批判を受けたようだ。
早稲田大学のホームページに、政治家としての大隈重信のエピソードを纏めたページがある。
http://www.waseda.jp/jp/global/guide/founder/statesperson.html

そこには、こう記されている。
1883(明治16)年、自由党は、大隈と三菱は結託しており、一企業の利益を優先する政党は『私党』だ、『偽党』だと、激しく改進党を攻撃しました。海坊主(三菱)と大隈を退治せよと演説し、熊の人形を引きずり出して火をつけたりして、両党の亀裂は深まっていきました。
 政府による妨害と経済界の不況があいまって、党活動は困難へと追い込まれます。1884(明治17)年11月、自由党の解党に続いて、改進党にも解党問題がおこり、党内は賛否両論に割れました。大隈は調停をはかろうとしましたが、これに失敗し、ついに12月、脱党届を提出して党を去ります。以後、改進党は都市知識人を中心とした集団運営体制へと移行し、党首を欠いたまま、1890(明治23)年の帝国議会の開設を迎えました。」

かくして自由党も立憲改進党も衰退してしまうのだが、帝国議会の開設が近づくと、後藤象二郎が自由民権運動各派を統一させようと再び動き出す。(大同団結運動:明治20-22年)
明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させている。また明治22年(1889)には、後藤象二郎を逓信大臣に入閣させて、大同団結運動から撤退させた。またその年に旧自由党のメンバーの一部が大同協和会を結成し、翌年に自由党と改称している。
明治23年(1890)に帝国議会が開催されると板垣退助を擁立する声が高まり、自由党と愛国公党、大同倶楽部が合流して立憲自由党を結党している。
第2回帝国議会

こんな細かい話はどうでもよいのだが、菊池寛はわが国の政党の問題点をこのように簡潔に述べている。

「…主義綱領を争うより、やれ民党だ、吏党だといって不必要な摩擦を繰り返し、これが国運の順調な発展を阻害したもの、非常であることは、今日まで我々が到るところで、その弊害を見せつけられているのである。」(同上書p.102)

菊池寛が『大衆明治史』を上梓したのは昭和16年(1941)のことなのだが、党利党略を優先し不必要な摩擦を繰り返して、国家の重要な問題の解決を先延ばし、わが国の発展を阻害してきたというのは、今日の政治家も同様なのではないか。
**************************************************************
ブログパーツ

このブログでこんな記事を書いています。
良かったら覗いて見てください。

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html


吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html



最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。

明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)
【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】

これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすのであるが、1つの県が大きく3つの県に分かれた事例が1つだけある。それが石川県である。

廃藩置県 石川 富山福井

石川県廃藩置県は複雑で、Wikipediaには、以下のように解説されている。
「1869年(明治2年)版籍奉還で加賀藩は金沢藩となり、14代藩主前田慶寧は金沢藩知事に任命された。しかし、1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が行われ、金沢藩域は金沢県(第1次)、大聖寺(だいしょうじ)藩域は大聖寺県となった。同年11月20日に両県を廃止し、旧・金沢県より射水(いみず)郡以外の越中国新川郡、婦負(ねい)郡、礪波(となみ)郡を分けて新川県(当時は新川郡魚津が県庁所在地)を設置、能登国と越中国射水郡に七尾(ななお)県を、加賀地方に金沢県(第2次)を置いた。明けて1872年(明治5年)2月2日、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市美川南町)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し、石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。なお、金沢市も市制施行前は石川郡に属していた。同年9月25日に射水郡を除く七尾県を石川県に併合(射水郡は新川県に併合)、11月に足羽県より白山麓18か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し、翌1873年(明治6年)に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。その後、1876年(明治9年)、当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)と敦賀県(現在の福井県にほぼ相当)の嶺北(れいほく)*地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年(明治14年)に福井県が、1883年(明治16年)に富山県がそれぞれ分離して現在の県域となる。」
*嶺北:福井県の木ノ芽峠以北の呼称。令制国の越前国にほぼ相当する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C

なぜ明治政府はこの県について何度も県域や名前を変え、県庁の所在地を田舎に移し、県名も「石川県」というローカル色の強い名前にしたのだろうか。その理由を考えていくと、石川は金沢を中心に不平士族の勢力が強かったために、明治政府が彼らの影響力を弱めようとして実行したとしか考えられないのである。

金沢城
【金沢城】

江戸時代の加賀藩は「加賀百万石」と称され、前田家は外様大名でありながら御三家に準ずる待遇を受けてきたのだが、大政奉還時は徳川慶喜を支持し慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方として出兵している。ところが、途中で幕府軍敗走の情報が入り、加賀藩は兵を呼び戻して、以後朝廷方に尽くすことを表明したという。
4月になって加賀藩にも出兵命令が下り、彼らは官軍として長岡城攻撃など、新潟県、山形県など各地を転戦した。この戦いで加賀藩は7千人を超える兵を動員し、280人もの死傷者を出している。戦後になって明治政府が加賀藩主に対し1万5千石の戦功賞典を与えている事実はあるが、政府にとっては彼らが戊辰戦争でどのような戦果を挙げようとも、29千人もいた加賀藩の士族の勢力を弱めることの方が重要であったようだ。

前回まで鳥取藩の事を書いたが、同藩の場合は戊辰戦争で当初から官軍につき、政府は戦後3万石の戦功賞典を藩主の池田慶徳に与えている。にもかかわらず9千人いた鳥取藩の士族はひどい目に遭ったことは何度かこのブログで書いてきたので繰り返さない。
官軍方についた鳥取藩ですら餓死者が出たほどなのだから他の藩も推して知るべしで、士族の人数が多かった大藩では明治政府に対する不満が強かったところが少なくない。

当時の藩別の人口や士族の人口は早稲田大学の大隈重信関係資料『府藩県石高人員表』に出ていて、Wikipediaに他の資料とともにまとめられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
この表を見ると、明治10年(1877)に西南戦争の起こった薩摩藩の士族人口は245千人で最も多く、次いで多いのが熊本藩の99千人で明治9年(1876)にこの藩で神風連の乱が起きている。続いて士族人口が多いのは、静岡藩(67千人)、高知藩(31千人)、仙台藩(29千人)、金沢藩(29千人)の順番となるのだが、大量の幕臣が移住した静岡藩を除くと金沢藩は5番目に士族が多かった県ということになる。

前回記事で紹介させていただいた宮武外骨の文章を再び引用させていただく。
不平士族の多い石川県も有数の難治県であり、最初の県長官内田政風はヒドク悩まされた。金沢藩の金沢県を改めて郡名の石川県とした時、県庁は金沢町内に置くはずであったが、不平士族が険悪の態度であったがため、同郡美川町という海辺へ県庁を置いた。後に金沢の士族どもが緩和するのを待って金沢へ帰ったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1277286/72

この頃の石川県の不平士族がどのような動きをしていたか、『石川県史. 第4編』に詳しく記されているので引用させていただく。

金沢藩治の施かれし後、幾(いくば)くもなく壮年の志士等、当局の為す所を快とせざるものあり。杉村寛正・坪内金吾・陸義猶・長谷川準也等は即ちこの徒にして、安井顕比・内藤誠に対して厳しく論難攻撃し、遂に坪内金吾は抜刀して顕比を脅迫せしことあり。内藤誠もまた東京において、或る者のために鉄棒を以て頭部を乱撃せられしことありき。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/139

島田一良
【島田一良】

このように、藩の統治に携わる者は、不平士族からいつ命を奪われてもおかしくないような危険に晒されていたのだが、『石川県史. 第4編』を読み進んでいくと、内藤誠を鉄棒で頭を殴った「或る者」とは、島田一良という人物であったことがわかる。島田一良は明治11年(1878)に大久保利通を東京紀尾井坂で暗殺したグループのリーダーとなった男である。

島田は嘉永元年(1848)に加賀藩の足軽の子として生まれ、戊辰戦争の活躍が認められて以降、軍人として順調に昇進していったのだが、征韓論に端を発した明治6年(1873)政変で西郷隆盛以下大量の軍人・官僚が職を辞した際に、西郷を強く支持していた島田は故郷に戻って国事に奔走する道を選択し、後に金沢の三光寺を拠点にして政治結社・「三光寺派」を結成している。

明治10年(1877)に西南戦争が起こり、島田は西郷らに呼応して挙兵しようと動き出したのだが、1200名の社員を擁する政治結社「忠告社」は戦況を傍観する態度で動かなかった。島田はそれでもこの機に挙兵を行おうと躍起になったのだが、『石川県史. 第4編』に島田らが挙兵にこだわった理由と彼の戦略が記されている。

「彼らは言う。加賀藩が海内列候の首班に居りながら、維新の鴻業に際して何らの功績を立つる能わず。その進退の優柔なりしこと婦女子に類するものありしを以て、今や満天下の軽侮する所となり、常に人後に鞺若たるに至れるは、到底吾人の堪うる能わざる所なり。然るに今幸いにして西郷隆盛の兵を挙げたるあり。吾人須らく精神あり気魄ある志士を募り、金沢の天地に兵火を挙げ、天下をして金沢にもまた人あることを知らしめ、過去の汚辱を一洗することを要す。而してその目的を貫徹するの手段としては、先ず石川県庁を襲い、その金庫を奪いて軍用金に供し、金沢営所の兵士が既に出征して、留守部隊の僅少なるに乗じ、火を放ちて兵器弾薬をかすめ、直に長駆して京師に上り、鳳輦を大本営に擁して、薩南の健児と官軍を挟撃せば、南海の志士また饗応すべく、必ず成功せんこと萬の一の疑いを容れず。この如くにして相倚り相助けて天下の事に当たらば、明治第二維新の政治これによりなすべく…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/165

島田にとっては、御三家に準ずる待遇を受けてきた誇り高き加賀藩が、日和見藩として世間から軽んじられている現状に我慢が出来ず、政府軍が九州に出征して軍備が手薄となるタイミングで兵を挙げて現政権を倒し、生まれ変わった政府で枢要なる地位を占めることによって加賀藩の汚辱を洗い流すことを真面目に考えていたのである。しかしながら、石川藩士族の最大勢力である忠告社の説得に時間がかかりすぎて、挙兵のタイミングを完全に失してしまう。

歌川房種『六凶集合之図』

島田はそれ以降、要人の暗殺に方針を転換することとなる。島田は当初木戸孝允と大久保利通に狙いを定めていたのだが、しばらくして木戸孝允が病死したため、島田の標的は大久保利通一人に絞られた
彼らは、毎月4・9のつく日に参議らが参朝することを確認し、大久保が参朝する日は自宅を午前8時に出発し、いつも紀尾井町を馬車で通過することを確認していたという。かくして明治11年(1878)5月14日を決行日とすることが決定した。
この日に集まったのは、石川県士族5名(島田一良、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一)と島根県士族*の浅井寿篤であった。
*島根県士族:当時は鳥取県が島根県に併合されていた時代で、浅井の出身は鳥取藩である。

大久保利通
大久保利通

『石川県史. 第4編』に当日の場面がこう描かれている。
「5月14日払暁、同志悉く島田一良の旅宿に集合し、午前7時30分ここを出でたるが、一良は長連豪(ちょう つらひで)とともにその首謀たるをもって、最も途上の状況に注目するところあり。8時紀尾井町の清水谷に至りしに、あたかも大久保利通が霞ヶ関の邸を出で、二頭立の馬車に乗じて赤坂の皇居に至らんとするに会せり。連豪すなわち直ちに突進して馬脚を斬りしも、馬は尚疾行せしを以て、杉本乙菊はまた他の馬脚を斬れり。時に利通は車内にありて書類を閲したりしが、兇徒のために襲撃せられたるを知り、大声『待て』と叱咤し、徐(おもむろ)にその書類を袱紗(ふくさ)に包まんとせり。ここに於いて一良は車窓を開きて利通の手を捉え、胸部と咽喉を刺すことこと三たび、同志また集まり来たり、車上より利通を引下して之を殺し、鞭を挙げて抵抗したる馭者中村太郎もまた脇田巧一の為に斬られてその主に殉ぜり。一良等既に素志を達したるを以て、刀を路傍の草間に棄て、馳せて宮門に赴き、警衛の兵士に就きて自首す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/627

斬奸状

刺客の島田一良はこの日の為に斬奸状を用意していた。この全文は『石川県史. 第4編』で読むことができる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/628

長い文章なのでポイントだけ書くと、彼らにとって大久保には5つの罪があるという。
 その一、公議を途絶し、民権を抑圧し、以て政事を私する
(国会や選挙を行うことなく、民権を抑圧し政治を私物化している。)
 その二、法令漫施、請託公行、恣に威福を張る
(法令の朝令暮改が激しく、官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やしている。)
 その三、不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す
(不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。)
 その四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す
(忠義ある志士を排斥し、憂国の士を疑い、内乱を引き起こした。)
 その五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す
(外交政策の誤りにより、国威を貶めている。)

その二で、大久保が公金を私財の肥やしにしたとの指摘があるが、その点については事実と異なると思われる。実際の大久保は金銭に対して潔白な政治家で、公共事業などに私財を投じていたために死後は8千円もの借金が残っていたという。

民選議院設立建白書

とは言いながら、彼らの主張に理がないわけではなかった。
五箇条の御誓文では「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」「上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フべシ」と宣言していたにもかかわらず国会開設の動きは一向に進まず、また明治7年(1874)には板垣退助や後藤象二郎らが民選議院設立建白書を提出した動きに対し、明治政府は新聞紙条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、反政府の言論活動の取締り強化を図るばかりであった。

斬奸状にはこう記されている。
「…政治を改正し、国家を興起するのことは、すなわち天皇陛下の聖明と、闔国人衆(こうこくじんしゅう)*の公議に在り。願わくは明治一新の御誓文に基づき、八年四月の詔旨**により、有司専制の弊害を改め、速やかに民会を興し、公議を取り、皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷、以て貫徹するを得、死して而して瞑す。」
*闔国人衆:全国の人々の意。
**八年四月の詔旨:五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した詔書(立憲政体の詔書)。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186851/630

彼らがとった手段は感心できないが、この文章を読むと彼らが最終の目的としていたのは国会の開設であったことは明らかである。

明治の三傑

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(長州出身)、西郷隆盛(薩摩出身)、大久保利通(薩摩出身)の3人の最高指導者が短い間に相次いで世を去ったのだが、それまでは「薩長」藩閥とは言いながら圧倒的に「薩摩」が強かった。しかしながら、西郷と大久保を失ったあとは伊藤博文(長州出身)、山形有朋(長州出身)や井上薫(長州出身)が台頭するようになり、「薩長」の勢力関係が逆転することとなる。

伊藤、山形、井上

また大久保暗殺事件(紀尾井坂の変)の影響の中でさらに重要な点は、この事件以降自由民権運動が強まっていったことにある。西南戦争によって武力で明治政府をと対抗しても勝つことが叶わないことがわかり、以後は言論で合法的に戦う以外に行くべき道がなくなったということであろう。

自由民権運動

この事件の4か月後の9月に大阪で開かれた愛国社再興会議で石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり、翌明治12年11月の愛国社第3回大会で国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定され、明治13年(1880年)3月第4回大会では、2府22県から愛国社系以外の政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約8万7000人の署名が集まった。
明治政府は集会条例を制定するなど民権派の急進的な活動を取り締まる一方で、政府の主導による立憲政治の実現に取りかかることになるのである。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-256.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html

武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-492.html

西郷隆盛なくして、地方の権力と武力を中央に集める廃藩置県が可能だったか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-160.html

征韓論争は大久保が西郷を排除するために仕掛けたのではなかったか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-161.html

西南戦争が起こる前の鹿児島県はまるで独立国のようだった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-162.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html







FC2カウンター
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
QRコード
QRコード
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
Kindleストア
旅行・出張






グルメ
よく使っています


旅館・ホテル

スピードクーラー
楽パック 航空券×宿
レンタカー

ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (上位500)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログサークル
    ブログサークル
    ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    おすすめ商品
    楽天Kobo電子書籍
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史















    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。