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遷御の儀を終えた伊勢神宮の外宮から内宮を訪ねて

毎年桜の咲く季節になると、どこか桜の名所やその近辺の社寺仏閣の歴史を調べてブログの記事を書いているのだが、先日、昨年の10月に式年遷宮の遷御(せんぎょ)の儀を済ませた伊勢神宮の外宮・内宮や、近辺の重要文化財や桜の風景などを訪ねてきたので、そのレポートをさせていただく。

伊勢神宮については、2つの正宮である外宮(げぐう)と内宮(ないぐう)しか知らなかったのだが、他に14の別宮(べつぐう)があり、さらに43の摂社、24の末社、42の所管社があって、この合計125社の総称を「伊勢神宮」と呼ぶのだそうだ。

これだけ多くの場所を巡ることはとても無理なので、どこを参拝しようかと旅程を組んでいた時に、そもそも伊勢神宮の外宮と内宮とはどちらを先に参拝すべきなのかが気になったので調べていくと、「外宮先祭(げぐうせんさい)」という言葉があることを知った。

「外宮先祭」とは、伊勢の神宮の諸祭事はまず豊受大神宮(外宮)を先に行い、続いて皇大神宮(内宮)を行いなさいという意味なのだが、参拝もその順序でするべきだという説がネットでは多数ヒットする。
しかし、次のURLの記事などを読むと、祭事によっては「内宮先祭」であることもあり、参拝順についてはとくに取り決めはなく、絶対に外宮から内宮の順に参拝をしないといけないというものではなさそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20131005

また平成25年1月28日の「神社新報」にはもっと具体的に書かれていて、日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)の神饌奉奠や祝詞、神宮最大の神事である式年遷宮の諸祭は内宮が先に斎行され、恒例祭典で一番重要な神嘗祭は古くから外宮が先に奉仕されるので、どちらの優先順位が高いというものではないのだが、慣例的に皇族方の御参拝をはじめ、多くの公式な参拝は外宮、内宮の順で行われるのだという。

伊勢街道

しかし、これは伊勢湾沿いに伊勢街道を進み、津、松阪などを経て伊勢神宮方面へと進むと、外宮が先になるのは自然の成り行きでもあるので、特に深い意味があるとは思えない。
http://itakiso.ikora.tv/e866532.html

そもそも外宮の参拝が優先すべきものであるならば、外宮の参拝者が内宮より多くなければ理屈に合わないことになる。
「伊勢市の観光統計」で調べると、太平洋戦争の頃は、内宮の参拝客が年間約350万人、外宮は約400万人だったのだが、昭和40年代以降外宮の参拝客が大きく落ち込んだ一方で内宮の参拝者が増加し、平成24年の参拝者の数は内宮が551万人、外宮は252万人で、内宮の参拝者が外宮の倍以上多いことが分かる。
http://www.city.ise.mie.jp/secure/12124/24kankotoukei.pdf

このことは、近くに賑やかな「おはらい町」や「おかげ横丁」があって、食事や買い物で楽しめる内宮だけを参拝して、外宮には足を伸ばしていない観光客が半分以上であることを物語るのだが、昨年秋に遷御の儀を終えたばかりの真新しい社殿を参拝して、わが国の古き伝統文化の重みと静寂なる神域の厳かな雰囲気を感じたいので、今回は内宮・外宮はもちろんのこと、別宮もいくつかを訪ねてみたいと考えていた。

どちらから先に行っても良いのだが、昔の参拝者と同様に、伊勢街道の道順に宮川から外宮に進むことにし、外宮参拝の前に宮川堤の桜を楽しむことにした。

宮川堤の桜1

宮川堤は古くから桜の名所で、明治時代に橋が出来るまでは渡し船が活躍し、現在の宮川橋あたりにあった渡船場を往復する船を「桜の渡し」と呼んだという。
この桜は『日本さくら100選』に選ばれていて、土手には千本近い桜が、南北1キロにわたってほぼ満開状態だった。

宮川堤から2kmも走れば、外宮に到着する。
外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)とも言い、御祭神は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る神である豊受大神(とようけのおおみかみ)である。

以前このブログで天橋立の近くにある元伊勢籠神社*(もといせこのじんじゃ)のことを書いたが、平安時代に書かれた『止由気宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』によると、第二十一代雄略天皇22年7月に、豊受大神は元伊勢籠神社からこの場所に遷座したのだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-216.html

外宮北御門鳥居

上の画像は外宮の駐車場の近くの北御門の鳥居だが、建て替えられたばかりの真新しい鳥居をくぐると随分清々しい気持ちになれる。

外宮正宮

参道を歩いて正宮(しょうぐう)に至る。昨年の10月5日に遷御がなされたばかりで、屋根も柱もまだまだ美しい。
外宮の社殿の中心である正殿(しょうでん)の周りには4重の御垣がめぐらされていて、参拝客は外玉垣南御門の前で参拝をするのだが、そこからは正殿を見ることが出来ず、外玉垣南御門から右ないし左に行っても、わずかに正殿の屋根の一部が見えるだけだ。

正宮は参拝者が神に感謝の意を伝える場所で個人的なお願い事をする場所ではないという。従って外宮にせよ内宮にせよ正宮には賽銭箱が存在しない。
個人的なお願い事は、第一の別宮(外宮:多賀宮、内宮:荒祭宮)でするのだそうだ。

内宮も外宮も正殿は「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」と呼ばれ、掘立柱・切妻造・平入の極めてシンプルな構造だが、内宮と外宮の違いは鰹木(かつおぎ)の本数と千木(ちぎ)の形にある。

内宮と外宮の違い

鰹木というのは屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材を呼ぶが、外宮の正殿は9本、内宮の正殿では10本になっている。正殿以外の建物についても、また別宮も摂社においても、外宮の鰹木の本数は奇数で内宮は偶数になっているという。
千木というのは屋根の両端で交叉させた部材だが、外宮では千木の先は垂直に切られていて、これを外削(そとそぎ)といい、内宮では水平に切られていて、これを内削(うちそぎ)と言うのだそうだ。
鰹木や千木は他の神社の社殿にもあるのだが、祭神が男神の社は鰹木の本数が奇数で千木は外削ぎ、祭神が女神の社は鰹木の本数は偶数で千木は内削ぎとするのが原則のようだ。しかしながら、伊勢神宮・外宮の祭神である豊受大神は女神でありながら、正殿の鰹木の本数は9本で千木は外削ぎとなっていて、その例外になっている。

外宮古殿地

正宮の東隣は古殿地で、昨年まで正宮であった建物が残っている。いずれ撤去されて、19年後には今の場所から正宮が移されることになる。
20年も経てば、こんなに屋根が苔むしてしまうのだ。

外宮多賀宮

正宮の南側の神域内には、豊受大神の荒御魂(あらみたま)を祀る多賀宮(たかのみや)、山田原の土地と伊勢市内を流れる宮川の洪水から堤防を守る大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀る土宮(つちのみや)、風雨を司る級長津彦(しなつひこ)命と級長戸辺(しなとべ)命を祀る風宮(かぜのみや)の3つの別宮がある。土宮と風宮はまだ遷御が終わっていなかったが、多賀宮は昨年10月13日に遷御がとり行なわれたばかりで、真新しい社殿で参拝すると随分清々しい気持ちになる。
今後の別宮の遷御の日程がWikipediaに出ているが、今年の10月から12月にかけて執り行われるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

外宮せんぐう館

外宮の勾玉池池畔に「せんぐう館」という施設が一昨年にオープンしたので、立ち寄ったが、外宮正殿の東側の4分の1部分を原寸大で再現した模型や外宮殿舎配置模型のほか、式年遷宮が伝えてきた技術や文化が分かりやすく展示されている。式年遷宮によって伝えられているのは建築技法だけではなく、御装束神宝の加工・調整にかかわる匠たちの伝統技法も含まれることは初めて知った。展示品も豪華だが、景観もなかなか素晴らしい。

月夜見宮

外宮の境内を出て駐車場から800mほど北に歩くと、外宮の別宮の1つである月夜見宮がある。
祭神は月夜見尊(つきよみのみこと)と、その魂の月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)の2神で、外宮の境外別宮は月夜見宮1社のみである。
外宮から離れた場所にあるため、ここまで足を運ぶ観光客はかなり少なく、自然に囲まれて静かな伝統的社殿で、祈りの空間を独占できるのも良い。

てんこもり海鮮丼

月夜見宮の参拝を済ませた後、昼食に向かう。
ネットで見つけた「てんこもり海鮮丼」が食べたかったので「花」という店に入ったが、新鮮な魚介類がふんだんに盛られていて、期待通りに旨かった。

続いて、内宮に向かう。内宮の入口に近い駐車場が満車で順番を待つ車の列が長かったので、途中で引き返して猿田彦神社の近くの駐車場に車を停めたが、もともと内宮参拝の後でおはらい町を歩く予定だったので、その方が正解だった。次のURLに駐車場の地図があるので、車で内宮に行かれる方は印刷して持参されることをお勧めしたい。
http://www.city.ise.mie.jp/parking/

内宮宇治橋

内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)ともいい、祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)である。
言うまでもなく、天照大神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは皇居内に祀られていたそうなのだが、その状態を畏怖した同天皇が理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継ぎ、垂仁天皇25年に現在地に遷座した旨が『日本書紀』巻第六に記されているし、詳しくは『皇太神宮儀式帳』および『倭姫命世記』に記されているという。
内宮のご神体は「三種の神器」の1つである八咫鏡(やたのかがみ)で、正殿に安置されているのだそうだ。

内宮神苑桜

雨が止んだばかりのタイミングということもあったが、内宮は外宮よりもはるかに参拝客が多かった。
五十鈴川に架かる、全長約108mの宇治橋を渡るとすぐに神苑があって、桜が見ごろを迎えていた。

五十鈴川

一の鳥居をくぐり手水舎でお清めをしたのち、五十鈴川の流れに手を浸して、清らかな気持ちで正宮の参拝に向かう。
内宮正宮

ここが内宮の正宮である。昨年の10月2日に遷御の儀を終えたばかりで、社殿はいずれも真新しくて清々しい。
社殿の中心である正殿は五重の垣根に囲まれていて、外宮の正宮と同様に、正面からは正殿を見ることが出来ない。

宮域内には、皇大神宮の荒御魂を祀る荒祭宮(あらまつりのみや)、風雨を司る級長津彦命と級長戸辺命をまつる風日祈宮(かざひのみのみや)が別宮として鎮座している。

内宮荒祭宮

荒祭宮は昨年10月10日に遷御の儀を終えた、真新しい社殿である。参拝客が順番待ちだった。

風日祈宮は、内宮神楽殿前から南方へ向かう参道にある風日祈宮橋(かざひのみのみやばし)で五十鈴川支流の島路川を渡った先にある。この風日祈宮は、古くは末社格の風神社であったが、弘安4年(1281)の元寇の時に、神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格したのだそうだ。

おはらい町

内宮の参拝を済ませて、「おはらい町」に入る。五十鈴川に沿って続く、およそ800mの石畳の通りに江戸時代の町並みが再現されてレトロな雰囲気が楽しい。
おはらい町の中ほどには、江戸期から明治期にかけての伊勢路の代表的な建築物が移築・再現された「おかげ横丁」もある。赤福の本店など多くの店舗が立ち並び、いつ来てもよく賑わっている。

旧慶光院客殿

「おかげ横丁」で少し遊んでから、「おはらい町」を北に進むと、非公開ではあるが国の重要文化財に指定されている建物がある。華やかな桃山時代の様式を伝えている貴重な建物なのだそうだが、以前はこの建物は尼寺であったという。

この尼寺と伊勢神宮との関係について書きだすとまた長くなるので、次回に記すことにしたい。

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伊勢の廃仏毀釈と伊勢神宮の式年遷宮に多大な貢献をした尼寺のこと

慶光院

前回の記事の最後に、おはらい町のなかに国の重要文化財に指定されている建物があることを書いたが、この建物の名前は「神宮祭主職舎本館」といい、明治の廃仏毀釈の時に廃寺となった「慶光院」という尼寺の境内地と建物を伊勢神宮が買い取り、明治5年(1872)に神宮司庁の庁舎となり、明治23年(1890)に神宮祭主職舎となって今日に至ったものである。

伊勢神宮の御膝元である伊勢国(三重県)で廃仏毀釈が相当激しかったことは最近知った。Wikipediaでは100ヶ所以上の寺院が明治初期に廃寺になったと書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E4%BB%8F%E6%AF%80%E9%87%88

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、伊勢の廃仏毀釈に関する記述のある本を捜していたところ、大正13年に出版された利井興隆氏の『祖国を憶ひて』という書籍に、こんな記述があるのを見つけて驚いてしまった。(原文は旧字旧かな)
伊勢の内宮外宮に寺が189、尼寺が21あって寛文11年(1671)11月14日に焼失しました。大神宮と仏教との関係の深いことはこの一事をもっても知られます。しかるにその後、山田の奉行桑山下野守はこれが再建を禁じました。仏教排斥の意味をそこに見ることが出来ます。」(『祖国を憶ひて』p.38)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981991/24
伊勢神宮の御膝元で何度か大火があったようだが、この地域にこんなに多くの寺があったというのは知らなかった。

仏教遭難史論

『近代デジタルライブラリー』でさらに関連書籍を捜すと、大正14年の羽根田文明氏の『仏教遭難史論』という書籍が見つかった。この本には極めて興味深いことが具体的に書かれている。しばらく引用させていただく。(原文は旧字旧かな)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/84

「明治初年に、伊勢国山田に、度会府(わたらいふ)を置き、旧公家橋本實梁(さねやな)を、府知事に任ぜられた。同地宮川と五十鈴川との中間地を、すべて川内と呼んだ。これ神宮の神領地域である。
その川内神領地に、天台、真言、禅、浄土等の、各宗寺院が、60余個寺あり、中にも外宮の神宮寺に常明寺、内宮の神宮寺に天覺寺、又天照皇山、大神宮寺というのがあった。同地は元神領にて、両神宮の所在地であるから、排仏思想者たる橋本知事には好都合の地であった。
ここに橋本知事は、神宮の神職と結託して、己が廃仏思想を実現せんとて、まず川内神領地において一切仏葬を禁止して、悉く神葬すべしと布令した。これ60余個寺の、檀徒を奪い去ったのである
 寺属の檀徒を前に奪いて、後に各寺住僧を呼び出し、今般当地方に於いて、一般、仏葬を禁じて悉く神葬することを布告したに就いて、最早(もはや)各寺とも、寺を維持する資料がない。ゆえに各寺院とも、住僧と檀徒総代と連署して廃寺願書を差出すとともに住僧は帰俗すべし。すなわち今廃寺を願い還俗*する者は、身分を士族に取扱いかつその寺院に属する。堂塔等の諸建造物、及び什器等、ことごとくみな、前住僧の所得に帰す。もし、この際、廃寺願書を呈せず猶予する者は、近く廃寺の官令降る時は、上記の物件、みな官没となる。ゆえによく利害得失を考え、一刻も早く、廃寺願書を呈出する方が、得策であろうと、説諭に及んだ。」(『仏教遭難史論』p.145-146)
*還俗(げんぞく):僧侶であることを捨て、俗人に戻ること

少し補足しておくと、「神宮寺」というのは、神仏習合思想にもとづいて神社に建てられた仏教寺院である。神社の境内に寺院がある事は今では考えにくいのだが、明治時代の初めまでは当たり前のことであったという。

高村光雲

明治の廃仏毀釈で仏師としての仕事がなくなり、その後西洋美術を学び彫刻家として活躍した高村光雲は『幕末維新懐古談』でこう述べている。
これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。」とあり、廃仏毀釈以前は、神社と寺院施設の全体の管理を僧侶が行なっていたようなのだ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html


伊勢神宮にも神宮寺があったというのは知らなかったのだが、いろいろ調べると伊勢神宮の「神宮寺」はかなり大規模な寺院であったようである。
寛政9年(1797)に出版された『伊勢参宮名所図会』という書籍に、外宮の神宮寺であった常明寺の絵が掲載されている。

常明院 伊勢参宮名所図

この寺は、明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官を世襲した度会(わたらい)氏と関係が深く、毎年正月8日には外宮の神官が参向し、境内にある神落萱社(かんおとしかやしゃ)に於いて祭りを行い、寺僧も本堂で誦経をしたという。
次の地図で、常明寺門前道から常明寺、そして境内に金毘羅宮があったことを考慮すると、この寺の大きさがおおよそわかる。
http://homepage3.nifty.com/NFC/ise-meisyo3.htm.

また、次のURLの記事によると、現在、伊勢市内の「倭町(やまとまち)」と呼ばれる地名は、明治元年11月までは「常明寺門前町」と呼ばれていて、常明寺自体が明治2年2月に廃絶されると、近くにあった遊郭街も撤去されたという。そのURLには常明寺の跡地の画像も紹介されている。
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/28192851.html

話を『仏教遭難史論』の記述に戻そう。
仏葬を禁じられ檀家を奪われては、普通の寺院としての収入は激減し、そのうち寺を維持するどころか生活すらできなくなることは誰でもわかる。
度会府の橋本知事は、着任してすぐに仏葬を禁止し、寺院が経済的に成り立たなくなるようにしてから、寺僧を集めて全員に廃寺を迫り、廃寺に応じで還俗したならば、寺の建物や什器の個人所有を認め、応じない場合はすべてを没収すると言明したのだ

明治政府が全国の寺院を廃寺にせよと命令をしたわけではなかった。もし政府の命令であれば、各寺から「廃寺願書」を提出させる必要はなかったはずだ。
だからこそ橋本知事は、自らの信念である廃仏主義を伊勢神宮の神域で実現させるために、まず寺院の収入源を奪い取り、その上で寺院から廃寺願書を出させることにしたのである
当時の知事は地元民から選ばれた者ではなく、明治政府が派遣した役人であり、廃仏の取組は地域によって、また知事の考え方によってかなりの差があったようだ。ちなみに、隣接の藩であった田丸藩の管内では、一つの寺院も廃寺とならなかったという。

『仏教遭難史論』によると、伊勢神宮の神領地域の寺院の内約50ヶ寺が、この時に廃寺願書を出したそうだ
願書を出さなかった寺のうち、3ヶ寺は寺有田を持つなど、檀家からの収入がなくとも寺の維持が可能と判断したものだが、残りの約10寺院は、官憲の迫害に耐えかねて、すでに他国に出奔したか無住になっていた寺であったという。
橋本知事はその後も残された3ヶ寺に対し、様々な嫌がらせをしたのだが、興味のある方は『仏教遭難史論』の続きを覗いてみて頂きたい。この本には、日本各地で廃仏毀釈が激しかった地域の具体的な記録が満載である。

かくして、伊勢神宮の御膝元の神領地にあった寺院のほとんどが姿を消し、さらに橋本知事は仏像仏具類を公売することを禁止したために、それらの寺院にあった仏像などは大半が破壊されたか、危険を冒して闇で取引されたかのどちらかと考えて良い。
ただ欣浄寺という大きな寺院の宝物については本山の知恩院が引き上げたと書かれているが、このような例は少ないと思われる。

setoda_ise.jpg

伊勢神宮の神宮寺にあったと伝えられる平安後期の作である釈迦如来立像が、広島県尾道市の生口島にある耕三寺(こうさんじ)の耕三寺博物館にあるのだそうだが、これはおそらく本物なのだろう。今では国の重要文化財に指定されている木造の仏像だが、外宮・内宮どちらの神宮寺にあったのか、どういう経緯で耕三寺にあるのかはよくわからない。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/hoso_kosanji.htm

こういう経緯を知ると、宮川と五十鈴川に挟まれた伊勢神宮の御膝元というべき地域に、江戸時代以前の建物で重要文化財が1件しか存在しないことが納得できる。その1件が、冒頭に触れた「慶光院」という尼寺である。次にこの尼寺のことを記しておきたい。

伊勢神宮の式年遷宮は20年に1度行なわれることになっているのだが、昨年に行われた内宮と外宮の遷宮がそれぞれ第62回目になるのだそうだ。
ところで、式年遷宮の制を制定したのが天武天皇14年(685)で、第1回の式年遷宮は内宮が持統天皇4年(690)、外宮が持統天皇6年(692)であることがわかっている。
しかし、それ以来ずっと20年に1回のルールを守っていたら、昨年の式年遷宮が第62回という数字にはならないことは計算すればすぐわかる。

Wikipediaに今までの式年遷宮の実施時期が纏められているが、応仁の乱から戦国時代にかけて、かなり長期間にわたり遷宮が行なわれなかった時代が存在する。
次のURLを見れば、外宮の第40回式年遷宮は永禄6年(1563)に129年ぶりに行われ、内宮の第41回式年遷宮は天正13年(1585)に123年ぶりに行われたことがわかる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%BC%8F%E5%B9%B4%E9%81%B7%E5%AE%AE

この長期間に及ぶ遷宮の中断に終止符を打ったのがこの慶光院の尼僧であったのだ。
この経緯については伊勢神宮崇敬会が作成している季刊誌『みもすそ』49号の特集記事『式年遷宮と慶光院』が、非公開の建物の内部の写真まで掲載していてわかりやすい。
http://www.jingukaikan.jp/sukeikai/imgs_mimosuso/49.pdf
高野澄氏の『伊勢神宮の謎』(祥伝社黄金文庫)にもp71-82に慶光院の事が書かれている。

上記記事やWikipediaなどを参考に、慶光院と伊勢神宮とのかかわりについてまとめておこう。

応仁の乱以降のわが国は下剋上の乱世となり、伊勢神宮では厳しい経済事情から式年遷宮が行なえず、宇治橋の架け替えもままならないまま、あるとき宇治橋が洪水で流されてしまった。
このような痛ましい神宮の姿を見かねて、起ち上がったのが、慶光院の守悦(しゅえつ)という尼僧であった。
守悦は、宇治橋再建の為に諸国を勧進してまわって、浄財を集め、そして延徳三年(1491)についに宇治橋の架け替えを成し遂げている。

守悦から二代目の院主が清順であった。清順は遷宮の費用も勧進で行おうと考えたが、僧職にあるものが遷宮に携わるのは異例であるため、まずは実績を残すために、宇治橋架け替えのために諸国を勧進し、そして天文18年(1549)に宇治橋を架け替えている。
清順はその後、式年遷宮復活に向けて各所に働きかけを行ない、その思いは朝廷や幕府をも動かした。それまでは遷宮の費用は役夫工米の徴収によって調達されていたのだが、清順は諸国を勧進してその費用を集める方式を提案し、朝廷の承認を取り、清順は十年間諸国を巡った末に、ついに外宮の遷宮に必要な資金を調達し、かくして永禄6年(1563)に外宮の正遷宮が129年ぶりに行われたのである。

10年間にわたり浄財を集めたという努力もすごいことだが、いよいよ遷宮が近づくと清順は国司北畠具教の許可を得て、遷宮の1ヶ月の間、伊勢と近江の全ての関所をフリーパスにしたそうだ。そのことによって、多くの民衆が参拝に訪れ、遷宮は成功したという。
清順は宗教家としても、プランナーとしてもなかなかの才能の持ち主であったと思う。

外宮の遷宮を成し遂げた3年後に清順は没し、後を継いだ周養(しゅうよう)が清順の遺志を継いで内宮遷宮費用の勧進事業を進め、織田信長や豊臣秀吉の寄進を受けて、天正13年(1585)に内宮の正遷宮を123年ぶりに行ない、さらに外宮の正遷宮をも22年ぶりに執り行う事が出来たという。

その後慶光院は慶長8年(1603)と、寛永6年(1629)・慶安2年(1649)の正遷宮では江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されて神宮に協力したのだが、寛文6年(1666)に伊勢神宮から訴えがあり、以後は徳川幕府が直接に資金を支出して式年遷宮が行なわれたという。
伊勢神宮からすれば、神宮の神官でもない尼僧がいつまでも遷宮を取り仕切り、さらに、そのことで幕府や朝廷からの崇敬を受けていたことが気に入らなかったのではないだろうか。

20101110keikoin.jpg

慶光院は、以前は山田西河原(現在の伊勢市宮後)にあったのだそうだが、慶長年間に豊臣秀吉の命令で現在の場所に移ったという。江戸幕府から遷宮朱印状が慶光院に下されたくらいだから徳川家の信望も厚く、強力な支援者を得たことから慶光院は、これだけ立派な建物を内宮の近くに建てることが出来たのだろう。
慶光院の客殿は2002年に国の重要文化財に指定され、表門と勝手門は三重県の有形文化財に指定され、毎年11月ごろに3日間程度、一般公開されているようだ。

慶光院 伊勢参宮名所図会


上の絵は『伊勢参宮名所図会』だが、右下の建物が慶光院で、その前を人々が歩いている通りが今の「おはらい町通り」すなわち「旧参宮通」である。
この版画には、通りに沿って不動堂や法楽舎という寺院も描かれている。法楽舎は真言密教の祈祷所で内宮だけでなく外宮にもあった施設だが、明治の廃仏毀釈で取り毀されたことは言うまでもない。不動堂も同様だろう。

廃仏毀釈については、たとえば一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.231)
などと書かれていて、廃仏毀釈は自然発生的に起こって明治政府は関与していなかったような叙述になっているが、国家権力の関与なくしてどうしてこれだけ多くの寺院を、短い期間で廃寺にすることが出来ようか。

明治新政府は国教をそれまでの仏教より神道に変え、天皇を支柱とする国民国家を目指し、皇室の宗廟たる伊勢神宮を国家祭祀の最高位の一つに位置づけようと考えたからこそ、伊勢神宮の御膝元の地である度会府に、筋金入りの廃仏論者を送り込んだのではなかったか。
もし伊勢の廃仏毀釈が、明治政府の意向を無視して度会府の橋本知事の独断で進められたのであるならば、すぐにこの知事が解任されてもおかしくないと思うのだが、橋本實梁は明治4年(1871)に統合再編成された新生の度会県が生まれると県令となり、明治17年には功を認められて伯爵の位を授けられているのである。

いつの時代もどこの国でも、「為政者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育やマスコミで広められ、「為政者にとって都合の悪い史実」が伏せられて人々の記憶から消えていく。
我々日本人は、幕末から明治の歴史について、いつの間にか「薩長閥にとって都合の良い」「キレイ事の歴史」に洗脳されてしまってはいないだろうか。
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伊勢神宮内宮の別宮・月讀宮、神宮徴古館、金剛證寺などを訪ねて

前回は伊勢神宮の式年遷宮を復活させた慶光院という尼寺のこと中心に書いたが、今回は伊勢旅行の続きを書くことにする。

慶光院からおはらい町通りを歩いて猿田彦神社の近くの駐車場に戻り、次の目的地である月讀宮(つきよみのみや)に向かう。

月讀宮は伊勢神宮内宮の別宮で祭神は「月讀尊(つきよみのみこと)」で、外宮別宮の月夜見宮の祭神「月夜見尊」は本別宮と同じ神だとされている。
宮域には同じく内宮別宮の、月讀尊の魂を祭神とする月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祭神とする伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祭神とする伊佐奈弥宮(いざなみのみや)の3社がある。

月読宮

4つの神明造の社殿が真横に並ぶ景色は実に壮観で、内宮に来られた方には立ち寄られることをお勧めしたい。
観光客は僅かだったので、古代にタイムスリップしたような写真が撮れた。

この4つの社殿は今年の10月に遷御の儀が行われる予定になっており、その頃になれば真新しい社殿を目当てに多くの観光客が訪れるのだろうが、こういう古めかしい社殿も味わいがあって良い。
それぞれの参拝を済ませて、次の目的地である神宮徴古館、神宮農業館に向かう。

220px-Katayama-Tokuma.jpg

神宮徴古館の建物は赤坂離宮(現在の迎賓館)を手掛けた片山東熊(とうくま)が設計し、明治42年(1909)に完成したルネッサンス式の洋風建築で、日本最初の私立博物館として開館したのだが、昭和20年(1945)の米軍の空襲により建物と収蔵品の大部分を焼失してしまったそうだ。今の建物は、昭和28年(1953)の復旧工事の際に、外壁をそのままにして2階建てに改築されたものなのだが、明治期の建築物の特徴が復元されていて、平成10年に国の登録有形文化財となっている。

神宮徴古館2

中に入ると、遷宮の行事に実際に使われた装束や道具類、内宮正宮の精密な模型や文書類などが多数展示されていて結構見ごたえがあった。

神宮農業館

神宮農業館も片山東熊の設計による和洋折衷の木造建築で、伊勢神宮と農業に係る資料や、昭和天皇、香淳皇后の下賜品などが展示されている。
この建物も、平成10年に国の登録有形文化財となっていて、たまたま桜が満開で、こういうレトロな建物をバックに桜が撮れてラッキーだった。

神宮美術館

すぐ近くに平成5年に開館した神宮美術館もあるので、ついでに立ち寄った。
文化勲章受章者・文化功労者・日本芸術院会員といった当代を代表する作家が、式年遷宮を奉賛して伊勢神宮奉納した作品を収蔵展示している。神宮だけあって日本画の秀作が多く、結構楽しむことができた。

宿は答志島で予約していたので船に乗り遅れないように早めに切り上げて鳥羽港に進む。
佐田浜第一駐車場に車を停めて、桃取行の船に乗った。

10年ほど前に伊勢を旅行した時は伊勢市内のホテルに泊まり、夕食はアワビのステーキがメインディッシュでなんだか物足りなかった。
今回は、せっかく伊勢にいくのだからアワビだけではなく伊勢エビも食べたいと思って、ネットで宿泊場所を探して、価格もリーゾナブルな松家という宿を予約していたのだが正解だった。

海賊焼き

夕食は伊勢エビの刺身とアワビの刺身とタイの生け造りと、伊勢エビ、アワビ、サザエ、大あさり、クルマエビの海賊焼きと、メバルの煮つけ、たこのしゃぶしゃぶなど、桃取港で水揚げされたばかりの新鮮な魚介類が調理されて次から次へと出てくる。海賊焼きでは伊勢エビやアワビが生きているので網の上で動き回る。
新鮮な魚介類は食べればすぐにその違いがわかる。臭みが全くないので、醤油などをかけなくとも素材の味そのままでおいしく戴ける。

漁師町のなかにある古い一軒宿で、旅館と言っても民宿並みの施設で、近くに店らしい店もなく、食事の後は風呂に入って寝るだけなのだが、都会では味わえないような新鮮な魚介類を腹いっぱい食べることができて大満足だった。

翌朝、8時半の船に乗って鳥羽港に戻り、伊勢志摩スカイラインを走って金剛證寺(こんごうしょうじ)を目指す。
伊勢志摩スカイラインは大した距離でもないのだが通行料が1250円もする。ETC割引はなく、入口で通行料を支払うことになるが、次のURLに2割引きの割引券があるので、旅行される前には用意されると良い。
http://www.iseshimaskyline.com/waribiki.pdf

伊勢志摩スカイライン展望台

朝熊山の展望台からは宿泊した答志島が良く見えた。画像の中央にある比較的大きな島が答志島で、その右奥に小さく霞んで見える三角形の島が、三島由紀夫の『潮騒』の舞台となった神島である。その向こうには渥美半島が見え、天気の良い時には富士山も見えることがあるのだそうだ。

金剛證寺仁王門

この展望台のすぐ近くに金剛證寺の駐車場がある。すぐに仁王門がある。
この寺は6世紀半ばに欽明天皇が僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めとされているが、定かではない。天長2年(825)に弘法大師が真言密教の道場として当寺を中興したとも言われているが、以降衰微して、応永年間(1394~1427)に仏地禅師が臨済宗建長寺派の寺院として再興し、17世紀の初めには臨済宗南禅寺派に変わったのだそうだ。

この寺が伊勢神宮の丑寅(北東)に位置することから、室町時代には「伊勢神宮の鬼門を守る寺」として信仰を集め、「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り」とされ、伊勢志摩最大の寺となったという。

金剛證寺本堂

堂宇のいくつかが文化元年(1804)に焼失してしまったが、本堂は焼けずに残ったようだ。
この本堂は慶長14年(1609)に姫路藩主・池田輝政が寄進し、元禄14年(1701)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院が修理したとされ、現在国の重要文化財に指定されている。ちなみに伊勢市の江戸時代以前の建物で国指定重要文化財は旧慶光院客殿と、金剛證寺の本堂の2つだけだ。

朝熊金剛證寺 

『伊勢参宮名所図会』に文化元年の火災で一部の堂宇が焼失する前の金剛證寺の境内が描かれている。随分多くの参拝客が描かれており、境内の中に神々を祀る社がいくつかあったことが確認できる。

時間の都合で行かなかったが、金剛證寺の境内から15分ほど歩くと朝熊山経塚群(国史跡)という埋経(まいきょう)遣跡があるという。
埋経というのは、後世に伝えるために経文などを経筒に入れて地中に埋めることをいうのだが、この朝熊山経塚群から平安時代末期の平治元年(1159)や承安3年(1173)の銘のある経筒が発見されて現在国宝に指定され、金剛證寺の宝物館にあるのだそうだ。
その経筒の銘には伊勢神宮の神官であった荒木田家、度会家の名前が書かれていて、この時代は末法思想の広まりにより、神官も埋経を行なっていたことがわかり、興味深い。昔は伊勢神宮も神仏習合で、今とは随分異なる世界であったようだ。
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/daItemDetail?mngnum=730443&pageCur=5

前回の記事で明治初期の伊勢の廃仏毀釈のことを書いたが、この時に廃仏毀釈の対象となったのは宮川と五十鈴川に挟まれた地域にある寺院で、五十鈴川よりも東にある金剛證寺は対象にはなっていなかったと思われるのだが、度会府の橋本實梁(さねやな)知事は、この寺にも圧力をかけた記録がある。
前回紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』にこんな記述がある。
「古来、当地方の習俗に、死亡者の頭髪を、朝熊山の金剛證寺に納めたが、府知事は、なおこれをも禁止し、もし犯す者は、罰科に処する旨を布令した。かくのごとく、府知事は、様々な方法を以て、仏教に迫害を加え、様々な手段を施して、僧徒を困苦せしめた…」(p.148-149)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/86

金剛證寺奥の院

その習俗が今も続いているかどうかは分からないが、この寺は他の寺とは異なる風景を見ることが出来る。
ここは金剛證寺の奥の院だが、随分多くの人々が集まっているので何があるのかと観察していると、僧侶に塔婆を書いて頂く順番を待っておられるようであった。
Wikipediaによると、朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず葬儀ののちに朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習があるそうで、この奥の院に繋がる参道には巨大な塔婆が林立していた。

130209asama-4.jpg

普通の寺の塔婆は大きくても高さが2.0mまでで、厚さは1cmくらいだと思うのだが、この寺の塔婆は全てが柱のような角塔婆で、大きいものは高さ8mもあって、参道に巨大塔婆が建ち並んでいる光景は一見の価値がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E8%AD%89%E5%AF%BA

金剛證寺の観光を終えて、次に天長2年(875)に弘法大師が金剛證寺の奥の院として建立したと伝えられる庫蔵寺(こぞうじ)に向かう。
伊勢志摩スカイラインを出て地道を走るのだが、道路わきに桜が植えられていて綺麗な所が何箇所かある。鳥羽レストパークまでは問題なく走れるが、それから後はかなり細い山道になるので、車を降りて1キロばかり歩いて目的地に着いた。

庫蔵寺本堂

この寺は九鬼嘉隆が鳥羽城築城の地鎮と安全を命じたとされ、代々鳥羽藩の祈願所であったようだ。
本堂は永禄4年(1561)に建立と古く、国の重要文化財に指定されている。
本堂の裏の小高いところには鎮守堂があるが、この建物も慶長11年(1606)年建立と古い建物で、国の重要文化財だ。鎮守堂は文化財が傷まないように覆屋で覆われていた。
ついでに言うと、鳥羽市における国の重要文化財は、この庫蔵寺の本堂と鎮守堂の2件だけである。

庫蔵寺コツブガヤ

境内には国の天然記念物に指定されている樹高約25m、周囲4.15mのコツブガヤの大木がある。樹齢は約400年で、普通のカヤよりも種子が小粒なのだそうだ。全国でコツブガヤの成育が確記されているのは、宮城県白石市小原にある1本とこの木だけなのだそうである。
また庫蔵寺の周囲にはイスノキ樹叢があり、この樹叢は三重県の天然記念物に指定されているという。

観光客は他には誰も来ていなかったが、周囲に人家のない寂しい山寺で、住職や地域の人々は文化財を護ることに今までも大変な努力をされて来ただろうし、またこれからもご苦労が多いことだと思う。

地域の人口が減り高齢化が進んでは、地域の信仰の場を支える人々から得られる収入は先細りとならざるを得ず、いくら価値のある文化財であったとしても、これから先、その価値を維持していくことは容易ではないだろう。

地域の文化財や伝統文化は、その地域の人々の信仰と経済の豊かさによって代々支えられてきたのだが、景気対策としての様々な規制緩和施策によって、その地域の生産・流通に携わる人々が安価な海外製品や安価な原料を用いた代替品との競合を余儀なくされ、地元企業の多くは廃業し、そのために地域で働く場所の多くを失なって、若い世代が故郷を捨てて都会に定住したまま戻ってこない。この流れを放置したままで、素晴らしい地方の文化財や価値ある伝統文化をどうやって後世に残すことができるのだろうか。

前回の記事で、明治初年に度会(わたらい)府に橋本實梁知事が着任してすぐに伊勢神宮の御膝元の地で仏葬を禁止し、寺院が経済的に成り立たなくなるようにしてから、徹底的な廃仏毀釈を決行したことを書いた。
橋本知事のようにストレートに寺院の収入を減らすような施策ではないが、景気浮揚の目的でなされてきた施策の多くは、地方の文化財や伝統文化を支えてきた人々の経済基盤を徐々に破壊し、そのために若い世代が故郷を離れ、結果として寺院や神社の収入が先細りになっていった。
結果として、橋本知事が廃仏毀釈決行の前に寺院の収入を奪ったことと同様のことが、全国的に地域経済の収入源が失われていくことで、現在進行しているというのは言い過ぎだろうか。

長い年月をかけて地域の人々により守られ育まれてきた多くの素晴らしい文化財や伝統文化を、未来を生きる世代のために残すことは、現在を生きる者の務めではないのだろうか。

私ができることは、田舎に行っては時々社寺を巡ったり、地元の店舗で食事や買い物をしたり、産直があれば野菜を買い込んだり、ネットで田舎の生産者から旬の農産物や加工品を直接買うことぐらいだが、このような買い方をすると、スーパーなどで買う商品よりもはるかに新鮮で旨いものが安く手に入ることを多くの人に知ってほしいと思う。
生産者の話を聞くと、大手流通に商品を流すのと、直接消費者に販売するのとは収入のレベルが全然違うのだそうだ。大手流通が利幅を取り過ぎているということが、地方の衰退を招いた要因の一つなのだろう。

都会の消費者が、少しでも多くの食料品や加工品などを田舎の生産者や地元販売業者から直接買うようになれば、田舎の生産者がもっと元気になれる可能性を感じているのだが、そうすることで、地方の文化財や伝統文化や豊かな自然を、未来に生きる世代のために残すことに繋がってほしいものである。

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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