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義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか

「眠れる獅子」と形容され、世界から一目置かれていた清国であったが、日清戦争で予想に反してわが国に完敗したあとは、弱肉強食の列強諸国が清国に猛然と牙をむき出して利権獲得に動き出している。
清国は三国干渉によって、日本から遼東半島を奪還したのだが、その代償は随分高くついたようだ。

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まずロシアは、1896年に露清密約を結んで満州を結びウラジオストックに至る鉄道敷設権を獲得し1903年より営業を開始したが、この東支鉄道がその後ロシアの対満侵略の経路となり、日露戦争を導く重要な役割を果たすことになった
東支鉄道は清国内に設置されたが、その土地も収入も免税とされ、その所有地はロシア側が絶対的かつ排他的な行政権を有するものとされていたという。

またドイツは、1897年に山東省で2名のドイツ人宣教師が殺害されたのを口実に、膠州湾を占領し、翌年にロシアと内応して膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権と鉱山採掘権を獲得している。
ドイツの膠州湾占領を見たロシアはすかさず艦隊を派遣して、遼東半島の旅順と大連を占領し、1898年には遼東半島全域を租借地として獲得している。このことは、3年前に露・独・仏の三国干渉によりにわが国から遼東半島を取り戻した清は、その干渉の報酬として遼東半島をロシアに差し出したことになる。

またフランスはロシアと提携して清を圧迫し、1898年に広州湾の租借権を得ている。
三国干渉に参加しなかったイギリスも、同年に九龍半島と威海衛の租借権を得ている


列強の勢力範囲

このように清国は自国の領土をやりたい放題に列強に蚕食されているのだが、清の政治家はなぜ抵抗しなかったのかと誰でも思う。

菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。
「…康有為一派を中心とする光緒帝の進歩的な国政改革の企てはあったが、西太后はクーデターによって光緒帝を幽閉し、朝廷の実権は守旧的な諸王大臣によって占められてからは、もっぱら以夷制夷(いいせいい)の古いやり方一本で、その日その日をゴマ化している有様だ。そのため、列強の侵略に対して、中央地方を通じて、猛烈な排外、仇教の風が起こったのも当然であった。」(『大衆明治史』p.226)

以夷制夷とは「夷を以って夷を制す」ということで、中国が周辺民族対策に用いた伝統的政策である。それは、外敵同士を戦わせることで、自らは何もしなくとも外敵の圧力をそごうというものだが、そのような政策が出来るのは、自国が外敵と対等以上に戦う力があることが前提になることは言うまでもない。

外敵同志を戦わせるつもりが、いつのまにか自国の中を外国人勢力が跋扈するようになってしまったのだが、そのようなことを庶民が好ましく思わなかったは当然であろう。
1899年に山東省に起こった義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を唱えて排外活動を始め、それが見る見るうちに清国全土に拡がって行ったのである。

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彼らの排外活動とは具体的にはどのようなものであり、なぜ短い期間にそれが拡がったのだろうか。再び菊池寛の文章を引用する。

義和団というのは、一種の宗教的な秘密結社であって、彼らはみな集まって拳棒を練習して、その術に長じていたので拳匪(けんぴ)とも言われている。神術を得れば、槍も鉄砲も傷つけないと信じていて、呪文を唱えながら勇敢に戦うのである。
 彼らの唱える『仇教、滅洋』の口号は、外人の横暴に憤慨していた当時の支那民衆をうまく捉え、勢力が増大するとともに、諸所の教会堂を焼き、宣教師、教民を虐殺した。しかも、保守派で占められていた朝廷が、これらの暴徒を義民として庇護するや、義和拳匪は北支一帯に蔓延し、遂に天津居留地を攻撃し、北京の各国公使館区域を包囲するに至った。これが北清事変の発端である。」(同上書 p.226)

要するに西太后は、テロ活動に走る義和団を取り締まるのではなく義民とみなして、彼らによって国権を回復しようと図ったのである。そのために、急速に義和団が膨張し、過激化していったということだ。

そして1900年6月10日には20万人ともいわれる義和団が北京に入城している。当時北京には日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギーの計11ヶ国の公使館があったというが、それらの公使館のある区域が暴徒に取り囲まれてしまい、北京に至る鉄道や通信網までが破壊されて、約4千人の人々が孤立無援の状態になってしまった

「日本陸戦隊の外に、各国は各々7~80名位の陸戦隊を持っていたので、外国兵全部で430名ばかりだが、これでは兵力は絶対に足りない。支那側は拳匪のほかに、官兵も加わり甘粛提督董福祥の兵3万も北京を包囲しているので、城門から一歩も踏み出せなかった。殊に、イギリスのシーモア中将が、各国陸戦隊2千余名を率いて、天津から救済にやってきて、途中で拳匪にさんざんにやられてからは、北京は全く孤立無援に陥ったのである。
 日本公使館の杉山書記生が支那兵に殺害され、またドイツ公使が支那当局と交渉に赴く途中で殺されるなど、事態は完全に悪化し、各国の救援隊が大挙してやってくるまで、60日間も籠城をし続けなければならなかったのである。」(同上書 p.227)

日本公使館の杉山書記生が殺害されたのが6月10日、ドイツ公使が殺害されたのが6月20日。そして6月21日に、清国は列国に宣戦布告している。

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Wikipediaによると、当時公使館区域には外国人925名と中国人クリスチャン3000名ほどがいたのだが、各国公使館の護衛兵と義勇兵はあわせても481名だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

6月19日に24時間以内の国外退去命令が出され、翌日から攻撃が開始されている。
わが国の籠城者の中に、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴五郎中佐(北京公使館付武官)がいた。
籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦にあたって実質総指揮を担ったのは柴五郎であったという。

籠城は8月14日まで続いたのだが、籠城組の食料や弾薬はそれまでどうやって調達したのか、また彼らが生きているということをどうやって連絡したのかと誰でも疑問に思うところだ。

菊池寛の文章を続けよう。
「…米や麦が真先に無くなってしまった。そこではじめは食糧を半分に制限したが、やがて粥になり、その粥も1日2回になり、最後には青草をかじり、犬猫や鼠まで見つけて食べる始末である。馬も流弾で仆れるものから食べ、二百頭いた馬も、ほとんど食い尽くしてしまった
 …
 拳匪たちは、れいの呪文を唱えては、城壁を乗り越え、勇敢に攻めてきたが、やがていくら呪文を唱えても、鉄砲の弾丸には敵わないと分かってからは、あまり無茶な突撃はせず、城壁と土嚢を境として睨みあいの状態が続いたのである。
 …
 1ヶ月も対峙していると、そこに一種の情が湧いてきて、
『お互いに、御苦労なことだな』
 といった応酬が交わされるという始末である。
 何しろ対手は金に目のない支那人であるから、馬蹄銀という支那の大きな銀貨をそっとやると、西瓜や卵などを持ってくる。そのうちには、鉄砲を売りに来る者まで現われてくる。そこで一計を案じた籠城組は、彼らに金をやって密偵を募り、外部との連絡、殊に天津にある列国の主力軍との連絡を計ろうということになった
 二十余回、こうした密偵を派遣したが、皆失敗したが、最後に張徳麟という男が首尾よく使命を果たして帰ってきた。」(同上書 p.228-229)

張徳麟という人物は、この時には名前を名乗らなかったのだが、7月23日に柴五郎はこの男に暗号文書を渡して天津にいる福島少将に届けてその返事をもらってくることを依頼したところ、8月1日にしっかりとその役割を果たして帰ってきたのである。

「当時、北京天津間の通信途絶して久しく、北京籠城軍は全滅ではないかとの悲観論が行なわれていたが、籠城軍健在との報は、天津の各国人を勇躍させたのである。そのための救援軍の派遣も、これからテキパキと決まり、日本軍を主体とする強力な連合軍が、北京に向かうということになったのである。」(同上書 p.230)

柴五郎
 
北京籠城を体験した人物がいくつかの手記を残しているようだが、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、柴五郎本人が口述し明治35年(1902)に出版された『北京籠城』という本が公開されている。
例えば、外部との連絡に成功したことは、次のURLのページ以降に記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774462/72

張徳麟という人物は、その時は名前も告げず金も受け取らずに飄然と去っていったそうだが、義和団の変が終わったのちに、民政官をしていた柴中佐の許を訪れたのだそうだ。
その時、何故日本軍の密使を勤めたかと動機を訊ねられて、彼はこう答えたという。
「自分は義和団の一人として事変に参加したが、戦争が長引くにつれてだんだん疑問が湧いてきた。支那がこうして列国の外交団を苦しめているのは、つまり全世界を対手に喧嘩をしているようなもので、いまにこれはヒドイ目に合う。これは何とか早く収まりをつけねばならぬが、それには一番信頼のできる日本軍を助けるのが早道だと考えたからです」(同上書 p.231)

この人物はその後もわが国に協力し、昭和11年には観光のために来日もしたのだそうだが、詳しいことは分からない。しかし、張徳麟という人物がいなければ、籠城したメンバーが健在であることがわからず、救出行動が遅れて助からなかったと思われる。

絶望的状況にあった4千名の救出しようにも、各国の思惑は様々であったようだ。菊池寛はこう書いている。
「それまでは各国とも本国から大軍を呼び寄せて、北京を救い、名誉とともに賠償の甘い汁を吸おうと思って、互いに牽制し合って、策動を続けていた。しかし北京の危機は一日の急を告げている。最短日間に、最大限の兵力を支那に運び得るものは、正に日本を置いて外に一国もないのだ。人一倍野心もあり、支那に最も近いロシアでさえ、その極東兵力を旅順や大連から派遣するには一定の限度があって大したことはできない。」(同上書 p.232-233)

少し補足すると、イギリスはボーア戦争、アメリカは米比戦争を戦っていたために、大量派兵ができないという事情があったようだ。
また、わが国の籠城者のなかで公使館一等書記官であった石井菊次郎氏の回想によると、この時のロシアは、他の列強国がわが国に救援要請することをことごとに妨害したのだそうだ。ロシアは満州を狙っていたので、北京の籠城組が殲滅された方が好都合だという考えであったという。

しかし、籠城組が生存しているとの知らせは英国などの世論を刺戟し、各国は短期間で派兵の可能なわが国の出兵を強く促してきたという。
ところが、わが国は三国干渉でひどい目にあっているので、出兵したあとでまた文句をつけられてはたまらない。
何度も慎重な態度を示したが、イギリスから4回にわたっての出兵要請がなされるに及んで、遂に列国の希望と承認のもとに第5師団の派兵を決定している

では籠城していた各国人はいかにして救出され、救出の後に各国の兵隊はどんな行動をとったのか。
驚くような話がいろいろあるのだが、次回に記すことにしたい。

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明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか
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福沢諭吉は、どういう経緯で『脱亜論』を書いたのか
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日清戦争開戦前の5ヶ月間の動きを追う
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三国干渉に直面したわが国の外交交渉はいかなるものであったのか
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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。

北清事変連合軍兵士

すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。

義和団の乱

対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。しかしながら士気は高く、頑強に抵抗してきたために、清朝軍および義和団に多くの死傷者が出たようだ。

一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。

連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、8月14日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した
 印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後3時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達していが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う
 救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
 北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵*したのであった。」(『大衆明治史』p.235-236)
*蒙塵(もうじん):変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと

このような記述を読むと、それほど激しい戦闘ではなかったような印象をうけるのだが、この北京の戦いにおける連合国側の死傷者は450名でうち280名が日本人だったという。

日本兵が死守した粛親王府の一部
 
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に北京篭城組で後に東京帝大教授となった服部宇之吉氏の『北京籠城日記』という本が公開されている。
巻頭に何枚かの写真があるが、日本軍が防衛を担当し死守した粛親王府の一部の写真があり、次のURLで誰でも見ることが出来るが、ひどく破壊されているのに驚く。真夏の暑い時期に、少ない武器と食糧で、睡魔と闘いながら60日以上籠城を続けたことはすごいことである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020210/7

ところで北京を制圧し、最初に連合国軍がしたことを書かねばならない。
再び、菊池寛の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」(同上書 p.237-238)
*戎克(ジャンク):木造帆船

菊池寛

各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
 戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」(同上書 p.238-239)
*「今度の通州事件」:昭和12年(1937)7月29日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。

菊池寛はこう書いているが、いずれも暴行の現場を目撃したという証言ではない。当時の外国人はどう書いているか、目撃証言の記録があるかを知りたかった。
いつものように国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の検索機能を使って、北清事変について詳しく記した書籍を探していると、北清事変の翌年である1901年に博文館から出版された『北清戦史 下』という本の『第9 所謂文明国の暴行』にかなり具体的に詳しく記されているのが見つかった。
「英国新聞記者の談」の一部を引用するが、次のURLで詳細を読むことが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

「英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
『…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…
…私が始終見た残酷なる処行の一例を申せば、私は10歳か11歳の童子を露兵がフートボールの様に蹴り上げて居るのをみました。露兵が赤児を銃槍の尖(さき)から尖へ投り渡したという話も聴きましたが私は観ませんでした。…

露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵15人が11歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。』」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。」

『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』

ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
ウッドハウス瑛子の『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本がある。G.E.モリソンという人物はオーストラリア人ジャーナリストで、当時は『タイムズ』の北京特派員として「北京籠城」を余儀なくされたメンバーの一人であり、この本は彼の日記や手紙などをもとに義和団事件の詳細が描かれている。

モリソン

モリソンの記録によると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀250万両と「1個師団を1年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮万寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌15日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。

北京城列国占領区域図

列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。

一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』には、こう記されている。
「ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は8月19日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ
『男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている
。」(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)

また8月28日付のロンドンタイムズ社説には「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している。…列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお蔭である…日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と書き、8月18日付のスタンダード紙社説には「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない…」と書かれているそうだ。(同上書 p.222-223)

実質的に公使館区域の籠城戦を指揮した柴五郎中佐は各国から賞賛され、英国のビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与されたのだそうだが、このような記録を読むと、全体として日本軍は勇敢に戦い、軍紀も守られていたからこそ世界から賞賛されたのだと考えるのが自然である。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(180百万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(130百万円)、ついでフランス(106百万円)、イギリス(65百万円)と続き、わが国は第5位(50百万円)だったという。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。

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柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたという。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』の記者・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということだ。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、歴史の教科書や通史やマスコミの解説では、このあたりの事情にほとんど触れることがないのは、「日本人に知らせたくない史実」「戦勝国にとって都合の悪い史実」を封印しようとする勢力が国内外に存在するということだと思う。

北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているのだが、封印された史実の大半は、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い話であると考えて良い。
私のブログで、今までそのような史実をいくつか紹介してきたが、こういう史実が国民に広く知られるようになれば、「わが国だけが悪かった」とする偏頗な歴史観は、いずれ通用しなくなる日が来ると考えている。
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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

幻の映画、「氷雪の門」
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア

義和団は北京や天津だけで暴動を起こしたわけではなく、清の朝廷が彼らを義民として庇護したことからたちまち勢力範囲を拡げて、満州地区にも波及していった。

かねてから満州全域への進出を狙っていたロシアは、建設中の東支鉄道(東清鉄道ともいう)保護を名目にシベリア方面と旅順から大軍を送り込み、1900年7月13日から満州侵攻を開始したのだが、このタイミングに注目したい。

前回まで2回に分けて北京の公使館区域が義和団と清兵に囲まれて、柴五郎らが籠城戦を戦ったことを書いたが、ロシアの満州侵攻はその最中の出来事なのである。
北京に20万人ともいわれる義和団が入城して6月に公使館区域を取り囲み、清国が列国に宣戦布告したのが6月21日。8ヶ国連合軍が天津を占領したのが7月14日。そして連合軍が北京に到達し総攻撃を開始したのが8月14日だ。清国にとっても他国にとっても、こんな時期に満州に兵を送るような余裕はなかったであろう。

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宮脇淳子著『世界史からみた満州帝国』にはこう記されている。
「ロシアの東清鉄道敷設は、1897年夏、ハルビンを起点にはじまっていた。工事開始直後から、土地の強制収奪に反対する農民の自衛組織と、鉄道建設によって生活の糧を奪われる運送業者が、ロシアに対するゲリラ戦を展開していた。
 満州に移住した中国人たちの郷里、山東で起こった義和団運動の報が1899年秋に伝わると、工事妨害の小競り合いは、清国正規軍もまきこんだ外国人排斥の大暴動に転化し、教会がおそわれ、鉄道の組織的破壊がはじまった。このときロシアの陸軍大臣クロパトキンは『願ってもない好機だ、これで満州を押さえる口実ができた』とウィッテに語ったという。
 こうして東清鉄道の保護を謳った177000のロシア軍は、6方面からいっせいに満州に侵攻した。そのはじまりとなった『アムール川の流血事件は、偶然その地に語学留学中であった日本軍人石光真清(いしみつまきよ)の手記にくわしい。ロシア軍は、7月、ロシア領ブラゴヴェシチェンスクに住んでいた清国人3000人を虐殺してアムール川に投げ込み、さらに対岸の清国領の黒河鎮(こっかちん)と愛琿(あいぐん)城を焼き払い、避難する市民を虐殺した。ロシア軍はこれから、8月にチチハル、9月には長春、吉林、遼陽、10月には瀋陽を占領したのであるが、各地でロシア軍によるすさまじい殺戮がつづいた。」(PHP新書『世界史からみた満州帝国』p.136)

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この『アムール川の流血事件』は、当時の日本人ならほとんどの人が知っていたのだと思う。旧制第一高等学校の寮歌のひとつに『アムール川の流血や』という歌があるそうだ。
次のURLに歌詞全文とその解説が出ているが、この歌詞はロシア軍を多数の清国人を虐殺したこの事件のことを描いている。たとえば2番までの歌詞はこのようになっている。
「1.アムール川の流血や  凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は   怪雲空にはびこりつ
2.コサック兵の剣戟(けんげき)や 怒りて光散らしけむ
二十世紀の東洋は 荒浪海に立ちさわぐ…」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/M37P29amurukawa.html

旧制の第一高等学校(一高)は現在の東京大学教養部の前身だが、この歌を作詞したのは当時一高生であった栗林宇一で、事件の翌年である明治34年(1901)に、一高の第11回寮祭の記念の歌としてこの歌が披露されたという。このような寮歌が唄われたということは、この流血事件を知った多くの学生が、ロシアのひどいやり方に憤慨したからであると思う。

江東64屯

Wikipediaに解説されているが、かつてアムール川の東側に広さ3600㎢ににおよぶ中国人居留区があり、中国黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側一帯に64ヶ所の村落があり、江東六十四屯(こうとう・ろくじゅうしとん)と呼ばれていたそうだ。
1858年に締結された愛琿(アイグン)条約で、清の領土であったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%85%AD%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B1%AF

曠野の花

宮脇氏の著書に名前が出てきた石光真清という人物は日本陸軍の軍人で、たまたまアムール川沿いのブラゴヴェシチェンスクをロシア留学の地に選んだのだが、すぐ近くで清国市民が大虐殺されるこの事件が起こり、その後に東亜の戦乱に巻き込まれ、ロシア革命後は再びシベリアにわたって諜報活動に従事することになる。
彼の手記が中公文庫に収められており、4冊中の2冊目『曠野の花』の「アムール河の流血」に、この大虐殺に参加したロシア人の知り合いから聞いた話が記されている。

石光真清は7月16日の出来事をこう記している。
ブラゴヴェシチェンスク在留の清国人狩りが一斉に行われ、約3千人が支那街に押し込まれ、馬に乗った将校が「ロシアは清国の無謀な賊徒を討伐することになった。お前たち良民はここにいると危険だから安全な土地へ避難させてやる。討伐が済んだら元の家に帰るが良い。…」とふれ歩き、大勢の清国人を引き連れて黒龍江(アムール)沿いに向かう

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石光真清の文章をしばらく引用する。
「(将校は)到着すると直ぐ河岸に集め、静かにしろと命令しました。そして銃剣を構えた兵隊がぐるりと取り巻いて……取巻いてと言っても河岸の方をあけたままで、じりじりと包囲を縮めて行きました。将校が馬を走らせて指揮していました。勿論抜剣して……命令に服さん奴は撃ち殺せと怒号していました。えらい騒ぎでした。命令に服するも服さないもあったものではありません。どうしてと言ったって、なにしろ銃剣や槍を持った騎兵が退れ退れと怒鳴りながら包囲を縮めて、河岸へ迫ってゆくのですから堪りません。河岸から人間の雪崩が濁流の中へ押し流され始めたのです。わあっという得体の知れない喚声が挙がるともう全部気狂いです。人波をかき分け奥へもぐり込もうとする奴もいれば、女子供を踏み潰して逃れようとする者、それを騎兵が馬の蹄で蹴散らしながら銃剣で突く、ついに一斉に小銃を発射し始めました。叫喚と銃声と泣声と怒号と、とてもとても、あの地獄のような惨劇は口では言えません。二隊に分けたと言っても全部で二千名近い人間を一束にして殺そうというのです。…子供を抱いて逃れようとした母親が芋のように刺し殺される。子供が放り出されて踏み潰される。馬の蹄に顔を潰された少年や、火の付いたように泣き叫ぶ奴等が、銃尻で撲り殺される。先生先生と縋り付いて助けを乞う子供を蹴倒して、濁流ヘ引きずり落す。良心を持っている人間に、どうしてこんなことが出来るのでしょう。良心なんてない野獣になっていたのでしょうか。子供の泣き顔を銃尻で潰す時に、自分の良心も一緒に叩き潰してしまったのでしょう。…」(中公文庫『曠野の花』p.39-40)

そして8月に入ってロシア軍は、露満国境を徹底的に掃討しようと企て、3日に黒河鎮に上陸し、たちまち城内を確保し火を放って焼き払い、逃げ遅れた市民を片端から虐殺して火炎の中に投じ、次に愛暉城を包囲し、ここでも逃げ遅れた市民をことごとく虐殺して、火を放って焼き払ったというという。
清国の官吏は数日前に逃亡し、軍人も撤退してしまっていた。市民のうち裕福な者だけが財物をまとめて逃げたのだが、約3万人の市民の大部分が自分の家々に踏みとどまっていたそうだ。しかし黒河鎮の人々が虐殺された話が伝わると、一斉に斉斉哈爾(チチハル)公路を南に向かって避難し始めたのである。

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石光真清の文章を続けよう。
「…従って斉斉哈爾公路には蟻の行列のように、二万幾千人の避難民が家財を持って殺到した。大半が未だ付近にうろうろ犇(ひし)めき合っている時分に、早くもロシア軍は城内に火を放ち、渦巻く猛煙の中で大虐殺の修羅場を展開したのである。
 ロシア軍は城内に取残された市民を片端から虐殺したばかりではない。勢いを駆って市民の避難路へ追跡攻撃を始めた。既に清軍の影もなく、武器ひとつ持たぬ彼ら避難家族の大群を目がけて射撃したから堪らない。その惨状はブラゴヴェヒチェンスクや黒河鎮における虐殺に劣らなかった。…
 こうしてブラゴヴェヒチェンスク対岸の清国の都市村落はことごとく焼払われ、その住民は徹底的に殺された。…」(同上書 p.45-46)

かくして江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、ロシアが軍事的にこの地を占領したのだが、ロシアはその後も、満州に居座り続けるのである。
ちなみにネットで「江東六十四屯」をキーワードに検索を試みると、中国系のサイトが随分たくさんヒットし、写真や記録などが数多く残されているようである。

余談だが、その後清国は何度かこの地の返還をロシアに要求しているもののロシアは応じず、清国が滅亡した後も同様で、江沢民総書記とエリツィン大統領の時代に、中華人民共和国は正式にこの地に対する主権を放棄することを承認したのだそうだ。
しかしながら、中華民国(台湾国民政府)は法律上は江東六十四屯に対する主権をまだ放棄しておらず、中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今でも中国領として表示されているという。

このロシアの満州進出に脅威を覚えたイギリスは、義和団事件で日本軍が勇敢に戦い、規律正しかったことを評価し、ロシアを牽制するためにわが国に接近しようとした。
当時のわが国は、ロシアと妥協してその侵略政策を緩和させるべきだという日露協商論(伊藤博文、井上馨ら)と、日本と利害を同じくする英国と結んで、実力でロシアの南侵を阻止すべしとする日英同盟論(桂首相、小村外相ら)の二つの考えがあったが、日露協商交渉は失敗に終わって明治35年(1902)1月に日英同盟が締結されている
この同盟は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものであるが、2年後の日露戦争の時はこの同盟があることによって、イギリスは表面的には中立を装いつつもロシアと同盟国であるフランスの参戦を防止させ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等でわが国を支援したのである。このイギリスの支援がなければ、わが国が日露戦争で勝利することは難しかったのではないかと思う。

この日英同盟締結の交渉を推し進めた小村寿太郎らは、ロシアは満州占領だけでは満足せず、次に韓国を侵略することは必至であると考えていたのだが、その後のロシアの動きを見てみよう。

日英同盟を締結した2ヶ月後にロシアは3回に分けて満州から撤退するという満州還付条約を清国と締結し、第1回目の撤兵は実施したものの、翌1903年4月に二度目の撤兵を行なうという約束を実行せず、むしろ奉天から満韓国境方面に兵力を増強し、さらに森林保護を理由に韓国の龍岩浦(りゅうがんほ:鴨緑江河口)を軍事占領している

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次のURLに、5月8日付の『東京朝日新聞』の記事が掲載されている。
http://ww1-danro.com/sib/ryugampo.html

朝鮮圧迫せらる  露国が撤兵期日前後において朝鮮境上に著しく増兵したることは疑わざる事実なるが、さらに信ずべき筋より聞き得たる所によれば、本社京城特派員の露兵入韓の報道以後において、大東溝に露兵来着の報ありて先月来宿舎の用意道路の掃除をなし準備を整えおれり。 而して鴨緑江の左岸なる龍岩浦と名づくる一朝鮮部落には既に若干の露兵進入したり。 また安東県よりも、数日中に二千人の露兵義州に入るべしとの報道地方官に達したれば、同地にてはこれがために甚だ混雑を極め居れリ。 露国人がかかる多数の軍隊を鴨緑江左岸に入るるの趣旨那辺にあるかは明白ならざれども、露人のいう所によれば、義州の東南数里にある白馬山の森林を伐採しかつこの地方の要害を占領すると同時に、鴨緑江口に運輸通信部を設け何等かの運動を開始せんとするものの如し」

ロシアは龍岩浦を軍事占領した後、7月には韓国に龍岩浦租借条約を結ばせている。我が国は、韓国に強く抗議した結果、韓国はこの契約の無効を声明したが、ロシアはこれを無視し、龍岩浦に要塞工事を起こし、ポート・ニコラス*と改称して龍岩浦の占領の既成事実化を進めて行った。
*ポート・ニコラス:当時のロシア皇帝であったニコラス2世の名前を冠したもの

では、何のためにロシアは龍岩浦を占領したのか。森林ならばロシアのシベリアには無尽蔵にある。何も他国を侵略してまで森林が必要であるわけがない。私には、先ほど紹介したURLの解説が一番納得できる。

当時の軍艦の燃料は石炭であり、後に開発された石油推進の軍艦に較べて、航続距離が5分の1程度しかなかったのだそうだ。当時のロシアは旅順とウラジオストックに軍港を持っていたが、戦闘速度(13ノット以上)で戦艦が移動するためには、石炭庫の積載量は不足しており、ロシアが朝鮮半島に勢力を拡大していくためには、新たな基地の獲得が不可欠であったという。
しかしそのことはわが国からすれば、朝鮮半島がいずれロシアの支配下となることは確実で、そうなれば日本海の制海権がロシアに奪われ、次はわが国がロシアに狙われてもおかしくない、ということになる。

ロシアの朝鮮半島への侵略意図がいよいよ確実なものとなって、明治36年(1903)8月に、わが国は対露直接談判を開くに至った。
わが国がロシアに主張したのは
清韓両国の独立と領土保全の尊重
② 満州を日本の利益外とするなら韓国も露国の利益の範囲外として相互に承認すること。
③ 中立地帯を設けるなら韓国側だけではなく、満韓境界の両側50㌔を中立とすること。
④ 日本が韓国に軍事援助を行う権利を認めること
だったが、ロシア側は満州の独立と領土保全にはふれずに、わが国が韓国に派兵することを禁止し、更に韓国北部を中立化することで、満州におけるロシアの自由行動を安全ならしめようとしたという。

談判は翌年1月まで5ヶ月に及んだが、ロシアは頑として自らの主張を譲らず、その一方で極東のロシア軍には動員令を下し、満州には戒厳令を敷くなど、急ピッチでわが国との戦争の準備を進めて行った。
わが国は1月13日に最終提案を行なったのだがロシアからは何の回答もなく、わが国は2月4日に対露断交と開戦を決定し、2月6日に露国に国交断絶を通告したのである。

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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

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日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか

明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定したのだが、その御前会議が終わった後の夕刻6時に、枢密院議長・伊藤博文は、金子堅太郎を官舎に呼び寄せて、「これから直ぐにアメリカに行ってもらいたい」と告げたという。

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に金子堅太郎本人が口述した『日露戦役秘録』という本が公開されているが、この時の金子堅太郎伊藤博文の会話を読んでいると、この時期のわが国の状況や、伊藤博文の悲壮な決意が伝わってきて引き込まれる。ちょっと引用しておこう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/15

伊藤博文

「伊藤公の言われるには、
この日露の戦争が1年続くか、2年続くか、また3年続くか知らぬが、もし勝敗が決しなければ両国の中に入って調停する国がなければならぬ。それがイギリスはわが同盟国だから嘴(くちばし)は出せぬ。フランスはロシアの同盟国だからまたしかりで、ドイツは日本に対しては甚だ宜しくない態度を執っている。今度の戦争もドイツ皇帝が多少唆(そそのか)した形跡がある。よってドイツは調停の地位には立てまい。ただ頼むところはアメリカ合衆国一つだけである。公平な立場において日露の間に介在して、平和克服を勧告するのは北米合衆国の大統領の外はない。君が大統領のルーズベルト氏とかねて懇意のとは吾輩も知っているから、君直ちに往って大統領に会ってそのことを通じて、又アメリカの国民にも日本に同情を寄せるように一つ尽力してもらえまいか。これが君にアメリカに往って貰う主な目的である。』
と沈痛な態度で申されました。」

ところが、金子堅太郎はアメリカとロシアとの関係が親密であることを理由に断るのである。伊藤公はその説明を求めると、金子はこう答えたという。

金子堅太郎

「それは閣下も御承知の通り、アメリカが独立して間もない1812年に英と米の戦いのおりには、ヨーロッパ各国はみな英を助けたが、ひとりロシアだけは合衆国側に立って影になり日向になり援助したために、あの戦いも相引きになって講和条約が出来た。爾来アメリカの人は非常にロシアを徳としている。そのつぎは1861年から65年までの5ヵ年続いた南北戦争、これは合衆国の南部と北部が奴隷廃止のことから兄弟争いをして戦うようになって、非常な激戦であった。その時はイギリスは全力を挙げて南方を助け、兵器弾薬は勿論、軍艦まで造って渡した。…のみならず…イギリスの艦隊がニューヨーク湾に入って、ニューヨークの市民を恐喝しようとした。しかるにロシアは直ちに艦隊を派してニューヨークの港の口に整列させて、イギリスの軍艦が大西洋からニューヨーク港に入ることが出来ぬようにして、イギリスの艦隊の示威運動を阻止した。…」

金子は、他にも貿易関係で米ロが親密である事、また前大統領のグランド将軍の長女がロシア第一公爵の妻となっているほか、シカゴ、ニューヨークなどの富豪の娘がロシアの貴族と結婚していることなどを理由に、自分が粉骨砕身努力してもこの任務が成功する見込みがない。私がアメリカに往っても使命を汚してしまうだけなので、どうか他の方に命じて欲しいと具体名をあげて頼んでいる。

しかし、伊藤は引き下がらない。
「『君は、成功不成功の懸念の為に往かないのか
『さようでございます。』
『それならば言うが、今度の戦いについては一人として成功すると思うものはない。陸軍でも海軍でも大蔵でも、今度の戦いに日本が確実に勝つという見込みを立てて居るものは一人としてありはしない。この戦いを決める前にだんだん陸海軍の当局者に聞いてみても成功の見込みはないという。
しかしながら打ち捨てておけば露国はどんどん満州を占領し、朝鮮を侵略し、遂には我が国家を脅迫するまで暴威を振るうであろう。ことここに至れば、国を賭して戦うの一途あるのみ。成功不成功などは眼中にない
かく言う伊藤博文の如きは栄位栄爵生命財産はみな、陛下の賜物である。今日は国運を賭して戦う時であるから、わが生命財産栄位栄爵悉く陛下に捧げて御奉公する時機であると思う。…ゆえに、君も博文とともに手を握ってこの難局に当たってもらいたい。かくいう伊藤はもしも満州の野にあるわが陸軍が悉く大陸から追い払われ、わが海軍は対馬海峡で悉く打ち沈められ、いよいよロシア軍が海陸からわが国に迫った時には、伊藤は身を士卒に伍して鉄砲を担いで、山陰道から九州海岸に於いて、博文の命あらん限りロシア軍を防ぎ敵兵は一歩たりとも日本の土地を踏ませぬという決心をしている。…
成功・不成功などという事は眼中にないから、君も一つ成功・不成功は措いて問わず、ただ君があらん限りの力を盡して米国人が同情を寄せるようにやってくれ。それでもしアメリカ人が同情せず、またいざという時に大統領ルーズベルト氏も調停してくれなければ、それはもとより誰が往ってもできない。かく博文は決意をしたから、君も是非奮発して米国に往ってくれよ』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/19

と満腔の熱意で伊藤に説得され、金子堅太郎はとうとうアメリカ行きを承諾している。

金子はそのあと、日露戦争に勝てる見込みはどの程度あるのかを探るために、参謀本部の児玉源太郎大将を訪ねている。児玉は30日間、参謀本部で作戦計画を練っていたのだが、金子はその児玉に「一体、勝つ見込みがあるのかどうか。第一にそれを聞きたい」と尋ねたところ、児玉はこう答えたという。

児玉源太郎

「『さあ、まあ、どうも何とも言えぬが、五分五分だと思う』
『そうか』
『しかし、五分五分では到底始末がつかぬから、4分6分にしようと思ってこの両3日非常に頭を痛めている。4分6分にして6遍勝って4遍負けるとなれば、そのうちに誰か調停者が出るであろう。それにはまず第一番に鴨緑江辺の戦いで露国が1万で来ればこちらは2万、露国が3万で来ればこちらは6万と言うように倍数を以て戦うつもりで、今ちゃんと兵数を計算し、兵器・弾薬を集めてその用意をしている。一旦倍数を以て初度の戦いに勝てば士気が振るってくる。しかし、もしこれに負けたら士気が阻喪するから、今せっかくその計画をしている。』…
『それじゃ6遍だけ勝ち戦(いく)さ、4遍だけは負け戦で、僕が大雄弁を振るっている最中、4遍は負け戦さの電報を聞き、こそこそと裏のドアから逃げねばならぬねー。』と言ったくらいでありました。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/24

山本権兵衛

続いて金子は海軍省に行って、山本権兵衛海軍大臣に会っている。
この時山本は、海軍はもう少し可能性がある発言をしている。
「『まず日本の軍艦は半分沈める。その代りに残りの半分を以てロシアの軍艦を全滅させる。僕はこういう見当をつけている。』
『そうすると海軍の方は余程陸軍より良い方だね。児玉はこれこれ言った。』
といってさきの児玉の談話を話した。
『そうか、僕の方はそのつもりで半分は軍艦を沈める。また人間も半分は殺す故に君もアメリカに於いて、どうかそのつもりでおってくれ。』
と言って互いに手を握って山本海軍大臣に別れを告げた。

 これが、当時の日本政府の当局者の考えであった。この事はあまり人には言わなかったが、あの連戦連勝の電報を見た国民は最初から勝つ、最初からこの通りと思っていただろうが、それは大間違いで、政府当局者は今言うように陸軍は4分6分、海軍は半分の軍艦を沈める、伊藤公は負ければ身を卒伍に落として兵隊とともに戦うというのが当時の実情であった。かくの如き有様が日露戦争の初めであったが、その後ああいう良い結果を得ようと誰も思って居らなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/25

日露戦争の開戦は明治37年(1904)2月9日、仁川港内にあるロシア東洋艦隊コレアツ、ワリヤーク号を撃沈したことから始まるのだが、この戦争が海戦から始まったことは、海軍ではわが国の方が優勢であったことと無関係ではないだろう。

さて、金子堅太郎は2月24日に随行員2人を連れてアメリカに向かい、3月11日にサンフランシスコに到着したのだが、その前日の3月10日にルーズベルト大統領が日露戦争に関して局外中立の布告を出したことを知り、金子はかなり失望した。
金子の渡米の目的は、ハーバード大学同窓で懇意であるルーズベルトに会って、わが国に援助することを依頼することであったのだが、米大統領が厳正中立の布告を出した以上は、アメリカから良い返事を引き出すことは難しいと考えたのである


しかし渡米したからには、ルーズベルトに会ってみるしかない。
金子はシカゴからニューヨークを経由して3月26日にワシントンに着き、高平公使とともに3月27日に大統領官邸に出向いている。
約束の時間に到着すると、ルーズベルトが走ってきて玄関に佇立している金子の手を握り、「君はなぜ早く来なかったのか。僕は君を待っていた」と言ったというのだ。

金子とルーズベルトの対話を読むと多くの日本人が驚くことだと思う。再び金子の著書を引用する。ルーズベルトが出した「厳正中立の布告」に、金子が失望したと答えたあとの米大統領の言葉に注目したい。

セオドア・ルーズベルト

「そうだろう。君が失望したろうと思うから、僕は早く君が来たら説明しようと思っていた。実は日本の宣戦の布告が出て日露間に戦争が始まるや、アメリカの陸海軍の若い軍人は、今後の戦は日本に勝たせたいから、我々は予備になって日本の軍に投じて加勢しようという者が諸所に出てきた。以上のような意見を宴会で食後演説する者もある。そこでロシアの大使が困って、どうもお前の国の陸海軍の若い軍人どもは日本贔屓(びいき)と見え、日本軍に投ずるというような演説を彼処でもした、此処でもした。どうかああいうことは取締ってくれろと懇請せられたから、やむをえずあの布告をだしたのだ。しかしかく言うルーズベルトの肚の中には、日本に満腔の同情を寄せている。あれはロシア大使の交渉があったから大統領として外交上やむをえず出したのだ。僕の肚の中は全然違う。君に早くそういう内情を話そうと思って待っておったのだ。
 さて今度の戦争が始まるや否や、僕は参謀本部に言いつけて、日露の軍隊の実況、また海軍兵学校長に言いつけて、日露の軍艦のトン数およびその実況如何ということを、詳細に調べさせて、ロシアの有様、日本の有様を能く承知しているが、今度の戦は日本が勝つ。」

わが国の首脳は、開戦を決定したもののわが国の勝利を確信していたわけではなかったのだが、ルーズベルトは両国の兵力や情勢を分析したうえで、わが国が勝つと明言したことは驚きだ。さらに続けて、こう述べたという。

日本は正義の為に、また人道の為に戦っている。ロシアは近年各国に向かって悪逆無道の振舞いをしている。特に日本に対しての処置は甚だ人道に背き正義に反した行為である。今度の戦も、ずっと初めからの経緯を調べてみると、日本が戦をせざるを得ない立場になって居る。よって今度の戦は日本に勝たせなければならぬ。そこで吾輩は影になり、日向になり、日本のために働く。これは君と僕との間の内輪話で、之を新聞に公にしては困る。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/40

ついで金子は高平公使に連れられて、ジョン・ヘイ外務大臣と会っている。外務大臣は金子が十数年前に各国の議員制度を調べていた時に、親友のヘンリー・アダムス氏の晩餐会で金子と会ったことをヘイの方がよく記憶していた。

このヘイが話したことも金子を驚かせるに充分なものであった。
ヘイは、この戦いは「日本がアメリカの為に戦っていると言っても良い」と切り出したのである。金子はヘイの発言をこう記している。

ジョン・ヘイ

「私は外務大臣として支那に向かっては門戸開放、機会均等ということを宣言した。それはロシアが門戸開放せずして満州に外国人を入れぬ。満州においては機会均等ではない。満州はロシアの勢力範囲として、アメリカの商人も入れない。しかして日本は満州もやはり支那の一部であるから、門戸開放をしろ、機会均等をしろと言う。この結果が今日の戦争になったのである。つまりアメリカの政策を日本が維持するが為の戦いであるといっても良いから、今度の戦争はアメリカ人が日本にお礼を言わねばならぬ。のみならず日米の政策が今度の戦いについては一致しているから、アメリカは日本に同情を寄せるに疑いない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/44

金子は陸軍大臣のタフトとは旧知の仲なので、次に高平公使に連れられて次に海軍大臣に会いに行っている。海軍大臣のムーデーは、ハーバード大で金子と同窓生であったことをよく覚えていて、金子もすぐ学生時代を思い出して、二人は昔話で随分会話が弾んだようである。

金子の一連の報告が、日本政府を大喜びさせたことは言うまでもないだろう。

金子自身が述懐しているが、このような使命を持って外国に行く時に、そこに友達がいるのといないのとでは大違いである。

友達がなくして素手で外国に行って雄弁を揮って、俺は日本では元老だ、大臣だといって威張って見たところが三文の価値もない。真に頼るところのものはその国の親友であるということを痛感した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/46

金子がはアメリカに到着してしばらくはニューヨークに滞在していたが、ニューヨークでは親ロシアの富豪たちが賛成人になって数百名規模の大舞踏会が催されたり、ワシントンでは露国大師カシニー伯が毎日のように新聞記者を大使館に招いて優待し、宣伝戦を仕掛けていたという。

ロシア大使の主張は次のようなものであったという。
「わがロシアは少しも戦意がないのに、突然仁川においてわが軍艦を沈没させた。宣戦の布告をせずしてただ国交断絶だけで戦争を開始するという日本の態度は、国際法違反である。」
今度の戦争は宗教戦であって、耶蘇教(キリスト教)と非耶蘇教の戦いである。…ヨーロッパ、アメリカの耶蘇教国はこぞってこの非耶蘇教国の日本を撲滅しなければ、耶蘇教が東洋に伝播せぬ。よって欧米の耶蘇教国は連合してロシアを助けろ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/35

宣戦布告がなくとも国交を断絶しておれば戦端を開くことは国際法違反ではないのだが、ロシアは1808年には国交断絶もしないままフィンランドに出兵した国でありながら、臆面もなくこのような主張をなし、ニューヨークのヘラルド紙などはロシア大使の言うことをそのまま流していたという。
わが国は伝統的にこのような情報戦への対処が下手な国ではあるのだが、この時は外相の小村寿太郎が新聞紙上でロシアに反論したようだ。
しかし、繰り返し何度も行われるロシアの宣伝戦を長い間放置し、アメリカで反日世論が焚きつけられたあとで、わが国がアメリカに和平仲介を依頼した場合はどのような結果になったであろうか。
一般的な教科書では、「経済的にも軍事的にも、もはや戦争継続困難と判断した日本政府は、日本海海戦の勝利の直後、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトに和平の仲介を頼んだ(『もう一度読む山川日本史』p.252)」と書かれているが、年表で調べると日本海海戦の勝利が明治38年(1905)5月28日で、5月31日に小村外相が高平駐米公使に宛て米大統領に日露講和あっせんを依頼する旨打電し、翌6月1日に高平公使が大統領に和平の仲介を依頼。ルーズベルトがその依頼を承諾したのは、なんと6月2日なのである。
和平の仲介をわずか1日で米大統領が応諾したのは、伊藤博文の深謀遠慮によって、対露断交と開戦を決定した直後に金子堅太郎を渡米させていなければ、あり得なかったのではないかと思うのである。
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カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-262.html

日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html



なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか

前回の記事で、日露戦争開戦を決断した直後に伊藤博文がセオドア・ルーズベルト米大統領と親しい金子堅太郎を呼んですぐに渡米することを強く要請し、実際に金子がアメリカに渡り大統領に会うと、米大統領が「今度の戦いは日本が勝つ」と明言したことに金子が驚いたことを書いた。
大統領は日本が勝利する理由を詳細には述べなかったが、参謀本部や海軍兵学校長に日露の戦力や様々な情勢を詳細に調べた上での結論のようなのだが、ではアメリカはこの時点において日露戦争についてどのような分析をしていたかを知りたいところである。

前回記事で紹介した金子堅太郎の『日露戦役秘録』を読み進んでいくと、金子はある日、旧友のヘンリー・アダムスから晩餐会に招待される場面が出てくる。

330px-Henry_Adams.jpg

このヘンリー・アダムスと言う人物はピューリッツァー賞を受賞したアメリカの作家、歴史家で、Wikipediaによると曽祖父は第2代大統領のジョン・アダムスで祖父は第6代大統領のジョン・クインシー・アダムスだ。そして、父はアメリカ南北戦争当時に駐英公使を務めた歴史家、チャールズ・フランシス・アダムズで弟は歴史家・批評家のブルックス・アダムズというからすごい家系である。このヘンリー・アダムス金子堅太郎のハーバード大学時代の親友で、前回の記事で紹介した外務大臣・ヘイの知恵袋と言われていた人物なのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA

金子の著書の中に、ヘンリー・アダムスが晩餐会の挨拶のなかで、アメリカが日露戦争をどうとらえていて、この戦いがこれからどうなると考えているかについて述べている部分があるので、その部分を引用しよう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/46

「彼(ヘンリー・アダムス)の言うところによれば、今度の戦争はまったくロシアの宮中の大官と、陸海軍の軍人が結託して朝鮮を取ろうという策で、この戦(いく)さが画策されたのだ。それのみならず宮中の大官は、皇帝・皇后の信任を得て宮中に勢力のあるベゾブラゾフと軍人とを結託せしめて、実際兵を1万満州に送れば5万も送ったように言って日本を恫喝し、全く脅喝手段で日本を屈服させようという政策を執っている。また軍艦にしたところで、日本を脅威するために旅順に送るのである。これただ脅喝手段で刃血塗らずして朝鮮を取ろうというのが彼らの策略である。それ故に日本が朝鮮を渡して宜しく願いますと言って平和を乞わなければ、到底日露の問題は解決しない。のみならず、旅順にいる極東の太守アレキシーフという人は、宮中に非常に勢力のある人で、また貴族の仲間にも勢力のある海軍大将である。これが旅順に頑張っている。事実このアレキシーフの政略は、脅喝手段をもって海軍なり陸軍なりで、いざといえば戦さをすると脅喝したならば、日本はひと縮みになるから、それで往けると思ったのがこの人の政策である。ところが、国交断絶するや否や、仁川港においてワリヤークその他の軍艦が日本の軍艦の為に打ち沈められたという電報が来て、ロシアの宮中の大官も、皇帝も皇后も悉く恐怖の念に侵されて、非常に驚いた。こんなに負けるつもりはない。戦さをせずして、脅喝手段で嚇(おど)すつもりでおったのが本当の戦争になった。その時の宮中の驚きというものは非常なものであったということをこの人から聞いた。」

アメリカは、日露戦争の開戦直後におけるロシアの内情をかなり良く掴んでいたようである。
1902年から1903年にかけてロシアの極東政策が対日融和派と対日強硬派に意見が割れ、対日強硬派であるベゾブラゾフは日本に圧力をかけて朝鮮を手に入れようとし、ニコライ2世は強硬論の影響を受けて1903年に強硬派のアレクセーエフを極東総督に任じている。

300px-Alexeev_E_I.jpg

当時の極東はロシアの領土でもなく保護領でもない。にもかかわらず、政治・軍事問わず極東に関するあらゆる問題を管轄する極東総督を置き、アレクセーエフという人物に中国・韓国・日本など近隣諸国に対するロシア帝国の外交までも任せたのである。
開戦直前まで蔵相を務めていたセルゲイ・ヴィッテの『ウィッテ伯回想記』を読むと、このアレクセーエフの無思慮が、日露開戦に繋がったことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180407/191

しかし、なぜロシアは、わが国に圧力をかければ朝鮮が獲れると考えたのであろうか。
両国の開戦時の戦力を単純比較すると、確かに圧倒的にロシアが優勢であった。Wikipediaには「露・日 歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
海軍においても艦艇の保有トン数は45万トン対、26万トンであったが、ロシアの海軍は太平洋艦隊とバルチック艦隊に分かれていて、極東に於いてはわが国とほぼ同等の戦力であったとされる。

ロシア側では、日本と戦って負けるはずがないと、はじめから高を括っていたようだ。
4年間日本で過ごした陸軍武官ゲ・バノフスキー中佐は「日本軍が精神的基盤を自分のものにし、その上にあらゆるヨーロッパ式軍隊の機構を築いて、ヨーロッパの最弱小国に太刀打ちできるまでには、数十年、おそらく100年はかかることであろう」と報告していたというし、開戦8か月前に来日して陸軍などを視察したクロポトキン大将も「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う。われわれは13日間に40万の軍隊を満州に集結できるし、その用意もしている。これは日本軍を敗北させるのに必要な兵力の3倍である。来たるべき戦争は、戦争と言うよりも単に軍事的散歩にすぎない。」と豪語していたという。
日清戦争後の下関条約の後の三国干渉で、わが国が戦わずして領土を手放した前例があったこともロシアを強気にさせた要因の一つだろう。

では逆に、なぜアメリカは、ロシアの戦力の方が日本のそれよりも圧倒的に優っていたにもかかわらず、日本が勝つと考えたのか。
金子堅太郎を晩餐会に招待したヘンリー・アダムスの挨拶を続けよう。

「また、彼(ヘンリー・アダムス)は語を続けて一箇年この戦(いく)さが続けば、ロシアは必ず内から壊れてくる。東洋に往っている兵士も本気に戦さするつもりで往っているのではない。恫喝手段の道具になって往っているのであるから、1ヶ年日本が頑張っていれば、きっとセントピーターズブルグ*から内輪割れがする。…そうすれば必ずフィンランドまたはあの方面から内乱が起こって、とうとうロシアの方から講和談判をしなければならぬようになるから、そのことは今私が貴下(金子)に言っておくから、よく記憶してもらいたい。」
*セントピーターズブルグ:ロシア帝国の首都。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/47

ヘンリー・アダムスは、日本が勝つことをすでに確信していたのだか、その理由は、日本は挙国一致して戦っているが、ロシアは内乱が起こってもおかしくない危険な情勢で、人心も離散しているという分析のあとで、戦費調達の問題を述べている。

ロシアは先年ユダヤ人をキシネフその他で虐殺している。ところが、ヨーロッパのユダヤ人は吝嗇で金持ちで、金権を握っている。ロシアは軍費を今はフランスから借りているけれども、これは長くは続かない。そうすると結局フランス・イギリス・ドイツにいるユダ人から借りなければならぬから、早くユダヤ人を懐柔して、金権を握っているユダヤ人に対してロシアに金を貸すなということを言えと彼(ヘンリー・アダムス)は忠告した。
 これがすなわちシフというユダヤ人がヨーロッパにおいて、高橋是清と談判して、第一公債、第二の公債をシフの手を経て募集したことと符合している。日露戦争についてはユダヤ人はロシアには一文も貸しておらない。ユダヤ人がロシア人に貸さないのに反して、日本には莫大な軍費を貸した。これはユダヤ人がロシアに於いて非常な虐待を受けた復讐であると思う
。」

Russian_pogrom_map.gif

少し補足すると、帝政ロシアの末期に各地でユダヤ人の虐殺事件が発生している。上記地図の白い地域はユダヤ人強制移住区で赤い点が、虐殺事件が起きた場所のようである。次のURLにこの地図や、事件現場の写真が多数紹介されている。
http://matome.naver.jp/odai/2138007344688035201

キシネフ(Kishineu)は現在のモルドバ共和国の首都だが、日露戦争開戦の前年である1903年の4月に、この都市で50人近くのユダヤ人が殺害されたほか数百人が負傷し、多くのユダヤ系商店や住宅が破壊されたという。ユダヤ人のヤコブ・シフがなぜ日本に資金支援したかは、このような事情を知ってはじめて腑に落ちる話である。
以前このブログで樋口季一郎が昭和13年(1938)の3月に多くのユダヤ人難民を救った事を書いたが、この樋口が前年12月の極東ユダヤ人大会で述べた演説の中に「キシネフのポグロム」という言葉が出てくる。2年前に次のURLの記事を書いたときには、この言葉の意味が解らなかったが、ロシアがユダヤ人を虐殺し多くの犠牲者が出た1903年4月にキシネフで起きた虐殺事件のことを指しているようだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

ヘンリー・アダムスの話を続けよう。ポイントはロシアの弱みがどこにあり、どうすればロシアに勝てるかを具体的に述べている部分である。

「なお、日本に忠告したいことがある。それは早くフィンランド、およびスウェーデンの地方に日本から密使を送って、フィンランド人を煽(おだ)て、スウェーデン人を煽動して、その地方に内乱を起こさせ、そうしてロシアの背後を衝け。シベリアに兵を送ろうとしても、フィンランド・スウェーデンの国境に内乱が起これば、その方に兵を遣らねばならぬから、日本とフィンランドと両方に兵を分割して送ることはロシアの痛手である。そうすればロシアに内乱が必ず起こる。その煽動の費用は二三百万円もあったらよかろうと思う。軍艦一艘沈めたと思えば安いものじゃないか。…早くあそこに密使をやってかき回せ、ということをヘンリー・アダムスが私に言った。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176348/48

明石元二郎

更にアダムスは、このことを日本政府に伝えよと言うので、金子は桂総理大臣と小村外務大臣に書面で詳しく伝えたという。
そして金子は、わが国はこのアダムスの献策にもとづいて明石元二郎陸軍中佐をフランスに滞在させ、明石はフィンランド、スウェーデン、ノルウェーに手を廻してかき回したことを聞いたし、そのことは明石元二郎の伝記にも記されていると述べている。

明石の工作活動によりロシア国内の反戦、反政府運動に火がついて、ロシアの対日戦争継続の意図を挫いたことは有名な話だが、このアイデアがヘンリー・アダムスの献策がきっかけになっていたということは、金子の『日露戦役秘録』を読んで初めて知った。ここまで読み進むと、日露戦争の本質は何であったのかと考えこんでしまう。

前回の記事で米大統領が金子に対し、日露戦争は「日本に勝たせなければならない」と言い、米外務大臣もこの戦争は「日本がアメリカの為に戦っていると言っても良い」と述べた事を書いた。
金子堅太郎は、大統領も外務大臣も、陸軍大臣も海軍大臣も、日本を応援していることを素直に喜んだのであるが、よくよく考えると、イギリスにとってもアメリカにとっても、わが国がこの戦争に勝利することは、自国の国益に叶う事であったのである。

イギリスにとってはロシアの南下を防いでインドと中国における自国の利権を守ることとなり、アメリカにとっては、将来満州に経済進出していくために、邪魔なロシア勢力を満州から排除することが出来る。両国にとっては日本がロシアに勝てば、戦わずして満足な結果を得ることになるのだ。だからイギリスは光栄ある孤立政策を捨ててわが国と同盟を結び、日露戦争でわが国の後ろ楯となって第三国の参戦を阻止し、またアメリカは金子堅太郎にわが国にロシアに勝つ秘策まで授けたのではないだろうか。

もちろんわが国はロシアの侵略から自国を守るために戦ったのであり、「英米の代理戦争」という言葉は使いたくないのだが、なぜ途中から別の国が参戦せず日露二国だけで戦うことができたのか、なぜロシアは戦争を継続するための資金が枯渇したのか、なぜロシアで内乱が起こったのかということなどを考えていくと、英米の巧妙なアジア戦略が垣間見えて来るのである。
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中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
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中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html


日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か

前回及び前々回の記事で金子堅太郎の『日露戦役秘録』を紹介したが、この本を読むと、アメリカは日露戦争に重大な関心を持ち、日本が戦争に勝つために裏で動いていたことが見えてくる。

そもそもロシアのような大国が戦争を始めようとすれば、欧米列強だけではなく周辺諸国が多大な影響を受けることになることは誰でもわかる。それぞれの国が、どちらの国が勝つかを予測した上で、自国の国益の為にその戦争にどう対処すべきかを考えることは当然のことなのだと思う。

このシリーズの最初に義和団の暴徒が北京に入城して、各国の公使館区域の人々が暴徒に取り囲まれて60日近く籠城したことを書いた。
英国の籠城組の中に英国の『タイムズ』の北京特派員であったG.Eモリソンという人物がいて、この人物が、のちにわが国を賞賛する多くの記事を書き、そのことが日英同盟締結を後押ししたことをこのブログで書いたが、このモリソンが書いた記事や日記等をもとに著されたウッドハウス瑛子さんの『日露戦争を演出した男モリソン』という本を読むと、日露戦争についての各国のスタンスの違いがよく分かる。

IMG_6377.jpg

まずフランスの立場だが、フランスはロシアに巨額の投資をしているので、ロシアが戦争で財政難になることを嫌って戦争に反対していた。
またイギリスは、もしフランスがロシアとの同盟に基づいて日露戦争に参戦すると、日英同盟のとりきめによってイギリスは露仏を相手に戦うことになってしまう。1903年当時の英国の分析では日本とロシアが戦えば日本が負けると考えており、イギリスも当時は日露戦争に反対していたようである。


ところが、『タイムズ』のG.E.モリソンは日露戦争が起こることを熱望していたために、彼は英国では書きたいことを記事に書くことが許されなかったようだ。

モリソン

彼の書いた記事は何度も没になり、彼は日記や親しい友人あての書簡に、その不満を表明している。
たとえば11月3日に彼は友人宛にこう書いている。
もし、日本が開戦に踏み切らなければ、私は自分が今まで極東でしてきた仕事はまったく水泡に帰した、と嘆くだろう。」
「…ロシアにとって一大危機のこの時期に、こともあろうにイギリスが戦争阻止に乗り出して来るとは。何と驚くべき外交ではないか。われわれは、ロシアがどんなにお礼を言っても、言い足りないくらいの多大なサービスを提供しているのだ。ロシアの新しい戦艦が到着してしまえば、ロシアは制海権を握り、それで日本は終りだ。」(東洋経済新報社『日露戦争を演出した男モリソン 上』p.159)

モリソンが「日本は終りだ」と書いているのは、日本のことを心配しているのではない。日本が負けて、ロシアが制海権を奪ってしまえば、アジアにあるイギリスの植民地の多くが危うくなり、そうなるといずれ英露が戦わねばならなくなる日が来ることを懸念しているのである。

一方で、日露戦争を起こさせようと裏で工作している国があったという。それがドイツである。
ウッドハウス瑛子さんは前掲書でこう解説しておられる。
「…ドイツは、自国のロシア側国境の安全をはかるため、ロシアにはその鉾先を極東に向けてもらいたかった。そのためには日露開戦が望ましい。
 当時、ドイツが東部国境に神経をとがらせていたのには、それなりの充分な理由があった。実は、ロシアがドイツに戦争を仕掛けようとしていたのである
。ロシアは極東では高圧的な態度で、日本のような取るにも足りない国は威嚇してやりさえすれば引っ込む、とたかをくくっていたが、西側に対してはそうではなかった。ロシアが本気で相手にしたい国は、実は西方にあった。それはゲルマン騎士団の統一が成って、こつぜんと目の前に現れたドイツ帝国であった。」(同上書 p.160)

当初はロシアが極東ではなく対独戦に向けて準備していたことは、のちに日露戦争の講和会議でロシアの全権大使となったヴィッテの回想記にも書かれているので間違いがないだろう。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』でこの回想記を誰でも読むことが出来るのはありがたい。ヴィッテはこう書いている。

実際この当時のロシアは、戦争準備と言う点では極東よりも西部国境の方面のために忙殺されていたのである。西部方面では日々今にも何事か起こるであろうという予感に悩まされ、早くも西部戦線における統帥者の人選が緊急問題とされていた。そうして、対ドイツ軍の総司令にニコライ・ニコラエヴィチ大公、対オースタリー軍の総司令に陸軍大臣クロパトキン将軍が任命されるであろうということは、既定の事実とされていた。…
我々は西部国境で開戦の避けがたいのを信ずるあまり、極東に対しては何等言うに足るほどの戦争準備をしなかったことは事実である。」(『日露戦争と露西亜革命』:ウィッテ伯回想記 上巻 第19章)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181544/181

しかしドイツはロシアとの戦争はなんとしてでも避けたかった。それがゆえにドイツは、ロシアの鉾先を極東に向けさせようとしたのである。

日露戦争を惹起するためにドイツはロシアと日本に様々な手を打っていることが、先ほど紹介した『日露戦争を演出した男モリソン』に詳しく書かれている。

たとえば独皇帝ウィルヘルム2世(カイザー)は露皇帝ニコライ2世(ツァー)にこの様な私信を送っているという。随分親しげな表現になっているのは、二人は従兄弟の関係にあり、昔から「ウィリー」「ニッキー」と相手を呼んでいたという仲だという。

300px-Kaiser_Guglielmo_II.jpg

ロシアの偉大な使命は、アジアを教化すること、および伝統的なキリスト教文明と十字架を守ることだという点に、君が速やかに同意してくれたことを、うれしく思っている。ヨーロッパはこの件で君に感謝しなければならない。…君が天から与えられた偉大な使命を遂行している最中に、他の国が背後から君を攻撃するようなことは、私が絶対にさせない。それは、私の当然の義務であり、教会のアーメンと同じくらい確かなことだと私が保証する…」(『日露戦争を演出した男モリソン 上』p.166)

カイザーは自らを「大西洋提督」と名乗り、ツァーを「太平洋提督」と呼んでおだてて、日本の軍備拡張、対清勢力の増大等の情報をツァーに与えて刺激し、ロシアの対日軍備増大を促して、ドイツの武器を売り込んだという。

そして、日英同盟が成立して日本側の開戦体制が軌道に乗ったのを見届けてからは、カイザーはますます露骨にロシアを戦争へと煽りはじめたという。
1904年1月3日付でカイザーがツァーに送った私信では、日露戦争を起こさせることを意図して、「朝鮮を獲れ」とけしかけているのである。

「…ロシアは自国通商の出口たる不凍港を太平洋に求めなければならないという必然性を当地ドイツでは誰もが当然のこととして了解している。…ロシアにはウラジオストック港旅順港の存在する沿岸地帯を所有する資格がある。さらに、二港への物資輸送の鉄道を敷設するため、その奥地をも君が自分の支配下に置くのは当然のことだ。ウラジオストック渡と旅順の間には舌状の半島(朝鮮)があり、これがひとたび敵の手に渡れば、これは新しいダーダネルス(海峡)になる。…そんな事態の発生を君は絶対に許してはならない。…朝鮮は当然ロシアのものであり、またそうなるはずだ。これは公平な心を持つすべての者にとって自明の理である
しかし、いついかなる方法で君が朝鮮を手に入れるかは、君と君の国が決めることであり、他者の介入すべき問題ではない。…朝鮮が究極的には確実に君のものであるということは、満州の占領と同じく、すでに決定済みの結論である今日、ドイツにはそんなことを気にする人間はいない。…」(同上書 p.171)

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そしてロシアは、3回前の記事『義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア』で書いたとおり1903年(明治35)5月に鴨緑江河口にある龍岩浦(りゅうがんほ)を軍事占領し、その後要塞工事を開始したのである。
それに驚いたわが国は、対露直接談判を開いてロシアの侵略を止めようとしたのだが、ロシアは一方で極東のロシア軍には動員令を下し、満州には戒厳令を敷くなど、急ピッチでわが国との戦争の準備を進めるのであった。
わが国は翌年(1904)1月13日に最終提案を行なったのだがロシアからは何の回答もなく、わが国は2月4日に対露断交と開戦を決定し、2月6日に露国に国交断絶を通告して、2月8日午後6時頃、東郷平八郎大将率いる連合艦隊が大連湾の南東に到着し、旅順港外に碇泊していたロシア艦隊に魚雷を発射して損害を与えた旅順口攻撃で日露戦争が始まった。

ロシアが朝鮮半島に踏み込めば日本はそれを許さないことぐらいは、ドイツは分かっていたはずなのだが、ドイツはそれをロシアにけしかけて、自国がロシアとの戦争に巻き込まれないようにしたということになる。

この朝鮮占領をけしかけた話がヴィッテの回想録には記されていないのは、既にヴィッテが左遷されていたためだろうが、それまでにドイツが様々な形で日露の対立を仕掛けていることについては、このヴィッテ回想録の第9章などに詳しく書かれている。ヴィッテはドイツの開戦工作を総括して次のよう述べている。

ヴィッテ

「…ドイツ皇帝とドイツの外交家が、当時あらゆる手段を弄して、ロシアを極東の冒険事業に誘導したことは疑いのない事実であった。ドイツはわれわれの力を極東に集中させて西方国境の安全を期したのである。関東州の占領はあのすさまじい日露戦争を起こさせた。我々はこの戦争で非常に屈辱的な敗戦を味わった。ドイツはこれによって、自分の目的を完全に達し得たことであろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181544/92
このようなドイツの動きをしっかり書いているようなわが国の通史が、どこに存在するのだろうか。

一方、日露戦争が起こることを熱望していた『タイムズ』のG.E.モリソンは、日本人記者に接触して多くの情報を提供し、日本の新聞を通じて日本人にロシアと戦う事を決意させようとしていたという。
モリソンは時事新報社の亀井陸良記者と親しくなり、モリソンから入手したモスクワ情報を亀井が時事新報に書き、亀井から入手した日本情報をモリソンが『タイムズ』に書いた。
そのことにより時事新報の声価が高まり、日英両国の国論が喚起されたという。

1903年11月1日、2日に2回にわたり『モリソン氏征露論』が大阪朝日新聞に掲載されている。その小見出しは次のようなものであったという。
「日本はその地位のために戦わざるべからず/戦わざるは戦うて敗るると結果同一なり/露国戦意なしとは愚論なり/日本海軍主力の戦齢を忘るるなかれ/露国に対し要求すべき所如何/この要求と同時に兵を朝鮮に進むべし/旅順陥落は戦争の終局なり/和議の条件/この講和条約に対する列国の態度/満州の戦後経営/日英同盟の効力/交戦中清国の態度/英国平和を勧告するの風説」
小見出しだけでも、日本国民を戦争に駆り立てようとする檄文であることが分かる。

この時期は、ロシアが撤兵することを約束した10月8日が過ぎていて、この頃から国民の間に主戦論が高まり、この『モリソン氏征露論』が、世論の動向に大きなドライブをかけたといわれている。

日露戦争に巻き込まれたくなかったイギリスは、極東の状況が悪化の一途を辿るに及んで方針を変えざるをえなくなる。
もし、日露戦争で日本が敗れれば極東での尖兵を失い、イギリスはロシアと対抗せざるを得なくなる。しかしそのためには膨大な海軍費が必要になるが、イギリスにはそのような金はない。そこでランスダウン英外相は日本海軍補強の為に動いている。

当時、アルゼンチンが発注しイタリアで建造されていた2隻の巡洋艦が、アルゼンチンが不要としていることを察知したイギリス海軍が日本に情報を伝え、ロシアと買い取り競争になる前に一足早く日本が買い取った。この二隻は「日進」と「春日」で東郷艦隊に編入され、のちに日本海海戦で活躍することになる。
他にもイギリスは、わが国の為にいろいろ動いているのだが、それらは同盟国であるわが国に対する誠意というよりも、当時の国際情勢を観察・分析した上で自国の為に判断したものだと考えた方がよさそうだ。

『日露戦争を演出した男モリソン』に英国のバルフォア首相がランスダウン外相に宛てた12月28日付の書状と12月29日付の同首相の閣議宛書簡が紹介されているが、この文章を読めば、イギリスの本音がよくわかる。

バルフォア

(日露戦争)でたとえロシアが勝ったとしても、その力は戦前より弱まっているはずである…ロシア艦隊は戦争で消耗し、その主力は日本監視のため、東洋に縛り付けられる。その結果、西洋ではロシアは戦略的に他と結びついてイギリスに対抗する、というわけにはいかなくなるだろう。」(同上書 p.206)
日本からの対英要求のいっさいは、イギリスの現在および将来の利害に照会してのみ、考慮されるべきである」(同上書 p.206)

つまるところ、欧米列強は自国にとってプラスかマイナスかという自己中心の視点で判断して戦略的に動いてきたし、そのスタンスは今日に至るまでの戦争や、外交交渉などにおいても大きく変わることはないのではないか。
以前このブログでも書いたが、わが国が日露戦争で勝利したあとは、アメリカは掌を返したように、人種問題を煽ってカリフォルニア州の日本人移民を排斥し、彼らが苦労して築いた経済基盤を奪い、さらに第一次世界大戦後は、英米が中国人に排日思想を植え付けて暴動を起こさせ、中国で日本企業が築いた経済基盤を奪い取ったのである。

しかしながら、どこの国も自国の国益を中心に動いているという普通の国ではあたりまえの視点が、戦後のわが国では欠落してしまってはいないだろうか。政治家や高級官僚にそのような視点がなく真実の歴史知識が乏しければ、まともな外交交渉が出来るとは思えないのだ。
わが国が、自国のことよりも他国のことを配慮し、自国の安全保障や必要な食糧を他国に委ねるような国であり続けては、自国のことしか考えない国々から、富を毟り取られるばかりではないか。

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-262.html

日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

乃木将軍は「愚将」であったのか

明治37年(1904)5月1日、留守近衛師団長であった乃木希助中将が宮中に参内し、翌日に第三軍司令官に任ぜられた。第三軍の任務は、ロシアの極東進出の最先端であり最大拠点でもある旅順の奪取にあった。参謀長には陸軍切っての砲術の権威と言われた伊地知幸助少将が命ぜられている。

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日清戦争に勝利したわが国は、下関条約で遼東半島、台湾、澎湖諸島などを獲得したのだが、遼東半島は露独仏の三国干渉により遼東半島は一旦清に返還されたのち、ロシアがその三国干渉の報酬として清から奪い取ったことはこのブログで既に書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-312.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

そしてロシアは遼東半島の旅順の地に難攻不落の要塞を築き、旅順港を太平洋艦隊の根拠地とした。
この旅順要塞があるために日本海軍はこの港には近づけず、またロシアの太平洋艦隊はこの湾内に閉じこもったまま出てこない。日本海軍は三たび旅順港閉塞作戦を敢行したがうまくいかず、陸軍に強く要塞攻略を要請してきたのである。

既にロシアはバルト海にあるバルチック艦隊を日本海に送ることを公表していたので、海軍としては出来るだけ早く太平洋艦隊を全滅させ、その上でバルチック艦隊を迎え撃たねば海戦での勝ち目はない。もしロシアに日本海の制海権を奪われれば、陸軍も海軍も糧食・弾薬が尽きて、日露戦争でわが国が勝利する可能性はなくなってしまう。
わが国がこの戦争に勝つためには、旅順要塞を陥落させたうえで、陸上からの砲撃によりロシア太平洋艦隊を撃ち沈めることが求められていたのである。

5月26日に乃木、伊地知ら第三軍司令部が新橋駅を出発し、一行は6月5日には遼東半島の塩大墺に上陸し、それから約1か月余り第三軍の主力は旅順の敵と対峙したのであるが、敵地に乗り込んでみると、そう簡単にはこの要塞を攻略できないことがわかってきた。

菊池寛は『大衆明治史』で、こう解説している。
「第一、旅順の前衛陣地ともいうべき金州南山を攻めたところが、その防備や築城が予想外に良くできていることが分かった。陥落はさせたが、わが死傷四千五百という大きな犠牲が雄弁にこれを物語っている。この分では旅順はクロパトキンが『これを陥すには、欧州最強の陸軍でも3ヶ年はかかる』と豪語しているように、想像以上に堅固に出来ていることが測定された。これまで、参謀本部で描いていた攻撃計画が、重大な変更を加える必要に直面したのである。
第二には、砲弾の不足であった。第二軍は金州南山で予想に数倍する砲弾を費消してしまったので第三軍としてはこれに莫大なる砲弾を貸してやっているのである。勿論、内地の砲兵工廠は全力を挙げて製造しているのだが、とても間に合うものではなかった。砲弾の不足は日露戦争の旗艦を通じての慢性的現象だったのである。
第三には、常陸丸、佐渡丸の撃沈が、第三軍にとって大打撃を与えている。攻城材料を満載した常陸丸はウラジオストック艦隊のゲリラ戦で沈められ、佐渡丸はどうやら撃沈は免れたが、大切な地図も攻城計画も焼き捨てなければならなかった
だから乃木軍は、その攻囲の出発から悪条件の下にあったと言える。6月26日、左翼第11師団が、旅順の前衛陣地に最初の砲火を浴びせるまで、乃木軍は地味な守備陣地の構築に専念していたのである。…」(『大衆明治史』p.305-306)

東鶏冠山北保塁

では、旅順要塞とはどんな建造物であったのかを確認したくなった。『泰弘さんの【追憶の記】です…』というサイトで、旅順周辺の戦跡絵葉書の写真が多数紹介されている。上の画像は旅順要塞の代表的堡塁である東鶏冠山北堡塁の外観で、下の画像がその内部である。
http://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/28251829.html

東鶏冠山北堡塁内部

岡田幹彦氏の『乃木希助』に東鶏冠山北堡塁の概要が書かれていた。
「…形状は大体長方形、長い方の一辺が約百メートル、短い方が約七十メートル。この堡塁を厚さ一、二メートルのコンクリートで固めた頑丈な胸墻(きょうしょう:胸壁)が蔽っている。この胸墻こそ、当初第三軍の打ち出す砲弾をことごとくはじき返す魔物であった。
 この堡塁の周囲には、幅六メートルから十二メートル、深さ七ないし九メートルの壕(ごう)が掘られている。壕内には恐るべき仕掛けがあり、側壁には軽砲、機関銃が備えられ、敵兵が壕をわたり堡塁内に突入せんとするときなぎ倒せるようにつくられている。また水の入っていない壕底には鉄柵や鉄条網が設置され、敵兵が壕内を駆け回るのを遮断するしくみになっている。さらに堡塁の外側には電流を通じた鉄条網がはりめぐらされ地雷が埋められるとともに、塹壕が掘られそこにも兵士が配置されていた。
 堡塁内には野砲八門、速射砲九門が備えられていた。またここにはコンクリート造りの小兵舎、地下室、地下道まで作られている。

 まさに科学技術と築城術の粋を尽くした人工の極致ともいうべき恐るべき防備と強大な戦力を備えた近代的城塞であった。この一個の堡塁の戦力だけでも驚くべきものがあるが、旅順はかくの如き本格的防御陣地たる堡塁及びこれよりやや防備の劣る砲台を幾十となく幾重にも築いた世界無比の要塞であったのである。
 日本側はこれほど鉄壁の防備を誇る旅順要塞の内状を少しも察知し得ないばかりか、…敵戦力を大幅に低く見誤ったのだから話にならず、難戦苦戦を免れなかったのは無理もない。兵力四万七千、備砲約五百門のロシア軍に対するわが戦力は余りにも少なく、第一回総攻撃が五万、第二回が四万四千、第三回は第七師団が投入されたため少し増えて六万四千、火砲は後に少し増加されたものの約三百門にしか過ぎなかった。おまけに日本軍は常に砲弾不足に悩まされた。…」(『乃木希助』p.103-104)

旅順要塞地図

次のURLに旅順要塞の地図が出ているが、東鶏冠山北堡塁は全体の中のわずかな部分にすぎない。こんな大規模で堅牢な城塞に籠城している敵と戦うという認識もなく、わずかの兵力・火力でわが日本軍は戦いに臨んだのである。
http://holywar1941.web.fc2.com/kindai2/kindai-nitiro4.html

そし8月19日早朝に第1回総攻撃が開始され、第三軍の二百余門の大砲は2日間にわたり火を噴いた。そして3日目に歩兵部隊の進撃が開始されたが、砲撃で破壊されたと想定していた堡塁は依然として健在であり、守兵はほとんど無傷であったという。

日本軍は敵陣からの銃砲劇をかいくぐって堡塁に突入しようとし、8月22日には盤龍山東堡塁および西堡塁を奪取し完全占領に至るも、24日には砲弾が底をついたため、乃木は無念の涙をのんでやむなく攻撃中止を命令している。
この第1回攻撃では総兵力5万余中1万6千人もの死傷者が出たという。この攻撃以降多くの犠牲者を出して失敗したことから、「乃木は無能だった」とする説が拡がったのだが、岡田幹彦氏は前掲の著書でこう反論しておられる。

乃木希助 高貴なる明治

「まず第一にあげられるべきことは、…参謀本部の旅順軽視である。児玉を始め幕僚らは旅順要塞の恐るべき実体を何一つ知らず、これを短期の強襲作戦で陥落しうると誤断したことである
 第二に旅順を軽視したがゆえに、参謀本部は要塞攻撃の本格的研究及び準備を怠った。それゆえ第三軍司令部は要塞攻撃を開始してから欧米諸国の攻城教範の翻訳に急いでとりかかる始末であった。
 第三に兵力の絶対数不足である。第三軍は少なくとも十万以上の兵力を必要としたが、その半数ほどしかなかった。実際の第三軍の猛烈な戦闘ぶりからいえば、後に加えられる第七師団をはじめから投入していたなら、第一回総攻撃のとき旅順を落していたに相違ない。…
 第四に兵力の不足以上に重大な問題が、砲弾の不足であった。…それに加えて攻城砲の砲撃力の弱さである。このときもっとも口径の大きい砲で十五センチだが、この砲弾では、一、二メートルの厚さのコンクリートの胸墻を全く破壊できず空しくはね返されたのである。」(同上書 p.112-113)

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、日露戦争に砲兵司令部の高級部員として出征した佐藤鋼次郎が著した『日露戦争秘史』が公開されているが、この本の第2章から第3章を読むと、当時のわが国の参謀本部の考え方は「歩兵万能主義」が主流で、砲兵の力に依存しないで、「如何なる要塞も陣地も強襲にて攻略し得るもの」と考えられており、また旅順要塞の調査はかなり杜撰で近代的な攻城戦法を理解せず、要塞戦に必要な準備がなされなかったばかりか砲弾もわずかしか渡されなかったことが述べられている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942283/20

8月30日に今後の要塞攻略方法についての会議があり、その席で乃木は正攻法への切り替えを主張した。そして塹壕を掘り進み、安全な攻撃路を作り、堡塁の近くに突撃陣地を構築する突貫工事が始まったという。
また9月14日には28センチ榴弾砲が到着した。大本営では、旅順要塞の頑丈な胸墻を破壊するためには口径22センチ以上の大砲が必要との結論に達し、当時各地の主要な海岸に備え付けられていた榴弾砲を旅順に送ったのである。
10月26日に第2回総攻撃が始まり、まず28センチ砲18門が一斉に火を噴き、次いで中小200余門が、東北正面の諸目標を目がけて火を噴いた。この砲撃は4日間続いたという。

30日に歩兵部隊が投入されたが、旅順要塞の堅固さは日本軍の予想をはるかに上回り、奪取し得た堡塁は2つだけだったという。31日には再び砲弾が欠乏したために攻撃中止が命じられている。
この戦いに参加した日本軍44千人のうち死傷者は3800人。ロシア軍は32千人の内死傷者は4500人だという。
砲弾不足で再び敗北したにもかかわらず、乃木が正攻法に転じた効果が出て、死傷者も死傷率も大幅に改善したのである。

11月26日に第三回総攻撃が開始された。
歩兵部隊は次々に突撃陣地から胸墻をよじ登って堡塁内に突入したが、ロシア軍は全力で防戦した。
この攻撃では、地下道を掘り堡塁の地下に爆薬を仕掛ける戦法が初めて試みられたが、東鶏冠山北堡塁では胸墻の一部の爆破に成功し、日本軍はその爆破口から突進したが、堡塁内のロシア軍の反撃はすさまじく、機関銃を乱射し手榴弾の雨を降らせて、ここでも攻撃は挫折した。

同日夕方5時、各師団の攻撃が失敗に終わったことを知った乃木は、中村覚(さとる)歩兵第二旅団長の熱心な意見具申により、夜間に刀および銃剣を以て敵陣に攻め込む奇襲を決意し、目印の白い襷(たすき)をかけた3千人の全将兵にこう訓示したという。
「今や陸には北遼に敵軍の大増加あり、海にはバルチック艦隊の来航近きにあらんとし、国家の安危ほとんどかかって我が攻囲軍の成否如何にあり。この時にあたりこの独立隊突撃の壮挙を敢行す。予は死地に臨まんとするこの隊に対し、嘱望の実に切実なるものあり。諸氏が一死を以て国恩に報ずるは、まさにこの時にあり。ねがわくば努力せよ。」(『歩兵第十五聯隊日露戦役史』明治42年刊)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774483/78

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白襷隊は午後9時より松樹山方面の敵陣に突入したが、ロシア軍は火砲、機関銃、小銃などにより決死隊を撃退し、白襷隊は中村隊長が重傷を負って倒れ、約2千の死傷者を出して敗退したという。

しかし、この決死隊はロシアに甚大な衝撃を与えたという。岡田幹彦氏の前掲書に、ロシア側の記録が引用されているので紹介したい。
「…実にこの精気に強き分子たる日本軍が精気の弱き露軍を屈服せしめたるなり
余は敢えて屈服という。されど1905年1月1日の開城を指すに非ざるなり。その前年の暮、即ち、11月26日における白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余輩をして精神的屈服を遂げしめる原因なれ
この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことはもはや従来の露国文学には、その適切なる修飾語を発見するを得ず。ただ敵味方合して五百余門の砲台は殷々として須弥崑軸(しゅみこんじく:天地の意)を振わしたりといわんのみ。しかもその天地の震動に乗じ、数千の白襷隊は潮のごとく驀進して要塞内に侵入せり。総員こぞって密集隊、・・・白襷を血染めにして抜刀の形姿、余らは顔色を変えざるを得ざりき。
余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く。屈服。
」(『乃木希助』p.130-131)

司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、第三軍司令官の乃木を無能と言い、白襷隊の突撃を兵の無益な消耗と評したが、果たしてそうであったのか。
兵士の死傷者が多く出た原因は司令官ではなく、近代攻城戦をどう戦うかを知らず、乃木に充分な兵力と火力を与えずに戦地に送り込んだ参謀本部にあったはずだ。
充分な武器や火力がなかったから白襷隊という戦いを挑むしかなかったのだが、このロシア軍将校はこの白襷隊が「白襷を血染めにして抜刀」して闘う姿を見て、そこまでして国のために命をなげうつ日本兵の愛国心の強さに「顔色を変え」、精神的に「屈服」したということだろう。

司馬の小説では旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更したと描かれているが、これは史実ではないと思われる。目標を203高地に変更したのは乃木自身のようだ。
司馬遼太郎の小説の影響で、戦後では乃木は愚将であったというのが国民に広く浸透してしまっているのだが、そもそも兵士というものは、無能な司令官の下で命を懸けて戦えるものではないだろう。
なぜ乃木の死後に乃木神社が作られたのか。世界が日露戦争における乃木の働きをなぜ賞賛したかをもっと考えるべきではないかと思う。

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世界は乃木率いる第三軍が旅順要塞を短期間で落城させたことを賞賛した

前回は明治37年(1904)11月26日の白襷隊の攻防戦のことまでを書いた。その翌日の午前10時に乃木の率いる第三軍は東北正面の総攻撃を中止し、戦線は西に移動したという。
乃木の27日の日記には「日夕、二〇三攻撃を第一師団に命ず」と書かれている。「二〇三攻撃」とは旅順の旧市街地から北西2kmほどのところにある丘陵である「二〇三高地」を攻撃せよとの意で、「二〇三高地」と呼ぶのは山頂が海抜203mであることによる。

203高地

国立公文書館『アジア歴史資料センター』のサイトに日露戦争に関する公文書が多数紹介されている。その中には乃木が11月27日に出した東北正面の攻撃を中止して二〇三高地を奪取せよという命令や、同じく乃木が11月29日に出した、軍はあくまで二〇三高地の占領を目指せとの命令がある。いずれも乃木大将の自筆のもののようだ。
http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou08_detail.html
司馬遼太郎の『坂の上の雲』の影響で、児玉源太郎が乃木に代わって指揮を執って203高地を攻略したという説が拡がったのだが、Wikipediaによると、そのような説は「司馬作品で発表される以前はその様な話は出ておらず、一次史料にそれを裏付ける記述も一切存在しない」と書いている。さらに「乃木擁護論」とその論拠が紹介されているが、誰でもこれを読めば、司馬遼太郎の説の誤りに納得できると思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

11月27日から始まった二〇三高地をめぐる戦いは壮絶を極めたようだ。
日本軍は何度も突入を繰り返し、11月30日午後6時には山頂東北部に突き進みこれを占領するも、ロシア軍は次々と増援隊を出して逆襲をかけ、弾薬、手榴弾の不足に苦しみ、12月1日朝にやむなく山麓まで後退した。しかし日本軍は日没を待って突撃を再開し、激戦の末午後10時ごろ山頂の散兵壕の一部を奪取し、一時は二〇三高地の両山頂を占領したものの、東北部は奪取されて西南部はその一部を確保したにとどまった。
ちなみに、満州軍総参謀長の児玉源太郎が旅順に着いたのは12月1日のことなのである


地理学者で『日本風景論』を著した志賀重昂(しがしげたか)が第三軍司令部に従軍していて、この戦いの壮絶な光景を『旅順攻囲軍』(明治45年刊)という本に記しており、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが出来る。

「…さて二〇三高地を眺むると、山頂には敵兵頑強に踏張(ふんば)りて、我を瞰射(かんしゃ)し、我また山下より二八センチ砲を間断なく射撃し、命中正確にして弾の地に落つる毎に敵兵は空中に飛びて粉砕さるる。かくて敵味方の大小弾丸は数限りもなく打ちに打ち続けられたることとて、二〇三高地は元来素直なる二子山(ふたごやま)なりしに、二子の上に幾百の極小なる山が出来て、凸凹(でこぼこ)の多い醜い山となり、その形を一変した。もっとも、初め七日間はこの凸凹も判然と見えたるが、味方の屍(しかばね)の上に敵の屍が累(かさ)なり、その上に味方の屍が累なり、その上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、敵味方の屍が五重になって赤毛布を敷き詰めたる様になりしより、七日目以後には再び従前の素直なる形に返った様に見えた。こは屍を平面的に敷きたることになるが、味方が山の西南嘴を占領して陣地を作らんとせし時は、土嚢が無くなりたる故、屍を積みに積みて、累々と高く胸墻(きょうしょう)を築きたるなど、殆んど小説を読むの感がする。ナント十一月二十七日夜より十二月六日朝まで全九昼夜の間、一小地点に於いて間断なく戦闘、否な短兵接戦し、格闘し、爆薬の投合いをなせしとは、世界の歴史に比類はない…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774533/108

ではなぜ、日露両軍はここまで激しく戦ったのだろうか。それは、山頂から旅順港が見渡せ、制圧すれば旅順港の敵艦に砲撃を仕掛けることが可能となるからだ。
11月30日の攻撃で203高地の西南の山頂に達した旭川師団の生き残りの兵から、山頂の西南角から、待望の旅順港内が見えるという報告が入ったという。
その報告を受けて、第7師団の白水参謀、総司令部の国司参謀、海軍の岩村参謀が観測将校として、決死の面持で飛び出していったのだそうだ。目的は敵の戦艦がどの地点にあるかを確認するためである。

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菊池寛は『大衆明治史』にこう書いている。
「雨と降る弾丸を冒してその突角部にたどりつき、遥かに見れば、旅順の町は一望の下にあり、港内には目の上の瘤(たんこぶ)ともいうべき、旅順艦隊が七隻、その他船舶が歴々と手に取るように見えるのである。転げるようして山を降りるや山麓の重砲陣地にかけこみ、それから十分後には二十八センチ砲はじめほとんど此処に集中したと思われる重砲が、今までにない正確さを以て、旅順市の中枢部と敵艦に向かって雨と注がれた
 その日の夕方、
『ポペータ艦上に白煙湧く。四十五度傾斜、ポルタワは沈没、海底に膠着す』といった、快報が続々と達した。
 この砲火に居たたまれなくなって港外へ逃げ出したセパストポーリ号を除き残りの六艦は撃沈あるいは擱座(かくざ:座礁)して全く殲滅されたのである。」(『大衆明治史』p.318-319)

菊池寛の文章では日付があいまいだが、明治38年刊の『日露戦役史. 前編』(早稲田大学編輯部編)には、重砲陣地から放った砲弾が旅順港の敵艦に命中したのは12月3日と5~7日で、5日には白玉山の南方火薬庫にも命中して大爆烟を揚げ、6日にはポルタワが沈没したことなどが記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774293/464

大激戦203高地占領

このような砲撃は二〇三高地を完全占領してこそできた話で、二百三高地は12月5日の夜に日本軍が奪取に成功したのである。

11月26日から12月6日まで11日間に及んだ第三回総攻撃で、日本軍は総兵力6万4千人中1万7千の死傷者を出している。これに対し、ロシア軍は3万2千人中死傷者は4千5百人だったという。

二百三高地を奪取したとはいえ、旅順要塞は少しもゆらぐことはなく、いまだに鉄壁の堅城であることには変わりなかったし、ロシア軍が降伏する気配もなかった。
しかしながら、旅順の太平洋艦隊が全滅したことにより、多大な犠牲を払って強襲する必要がなくなったので、乃木率いる第三軍は坑道掘削作業に全力を挙げ、坑道に大量の爆薬を仕掛けて爆発させると同時に突入する作戦で臨んでいる。旅順要塞は二十八センチ砲でも攻略しきれなかったほど堅牢であったのだ。
そして第三軍は12月18日に東鶏冠山北堡塁を10時間の激闘で陥落させ、28日には二龍山堡塁を17時間の激闘で奪取し、12月31日には松樹山堡塁を30分で陥落させている。

かくして日本軍は旅順要塞の三大永久堡塁を奪取したのだが、次の難関はその背後に控える東北正面の最高地点にある「望台」と呼ばれる陣地の奪取である。この「望台」を日本軍は翌1月1日の午後3時に占領したという。
そしてこの直後に、ロシア関東軍司令官ステッセル中将はついに降伏を決意して第三軍に降伏を申し入れ、翌2日に旅順要塞はついに落城したのである。

1月5日にステッセル中将と乃木は旅順近郊の水師営で会見した。二人は互いの武勇や防備を称え合ったのち、ステッセルが乃木の2人の息子の戦死を悼んだところ、乃木は「私は二子が武門の家に生れ、軍人としてともにその死所を得たることを悦んでいる。」と答えたという。

水師営

この会見の最後に両社が対等に並んだあの有名な記念撮影が行なわれている。敗れた側のロシア将校も全員が武装し帯刀することを許して、武士の名誉を保持させたことは有名な話だが、これは明治天皇の聖旨によるものだったようだ。

世界は旅順の陥落に驚愕し、さらに水師営の会見における乃木のステッセルに対する仁義と礼節にあふれた態度に感嘆して、上の記念写真とともに全世界に喧伝されたという。

とは言いながら、日本軍に多くの犠牲者が出た。
日本軍は全部で13万人の兵力を投入したが、そのうち戦死者が1万5千人、負傷者が4万5千人だったという。一方のロシア軍は4万7千人のうち、死傷者および病者は半数を超え、開城時健全な戦闘員は2万名に満たなかったのだそうだ。

しかしこれだけの犠牲者が出たにもかかわらず、世界は日本軍が半年足らずで旅順要塞を奪取し、犠牲者も少なかったことに驚いたのである。

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1854-1856年のクリミア戦争で、ロシア軍と英・仏・オスマン帝国連合軍が戦った。その戦争の最大の戦闘が「セヴァストポリ要塞戦」であったのだが、この要塞に英・仏連合軍がこの要塞を落すのに349日もかかっており、犠牲者は英国軍で3万3千人、フランス軍に8万2千人も出ているのである。しかるに旅順要塞の規模ははるかにセヴァストポリ要塞を上回っており、乃木軍はそれよりも少ない犠牲で、しかも短期間で勝利したことを評価されていたようなのである。

平間洋一氏の『日露戦争が変えた世界史』に、旅順陥落後にレーニンが機関誌『フペリヨード』第2号に寄稿した文章が紹介されているので引用したい。
「…ロシアは6年のあいだ旅順を領有し、幾億、幾十億ルーブルを費し、戦略的な鉄道を敷設し港を造り新しい都市を建設し、要塞を強化した。この要塞はヨーロッパの多くの新聞が難攻不落だと褒め称えたものである。軍事評論家たちは、旅順の力は6つのセヴァストポリに等しいと言っていた。ところが、イギリスとフランスがセヴァストポリを占領するのにまる1年もかかったが、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、8か月*で占領したのである。この軍事的打撃は取り返しのつかないものである。…旅順港の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。戦争は限りなく拡大し、新しい膨大な戦争、先生にたいする人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいてくる。」(『日露戦争が変えた世界史』p.63-64)
*乃木が第三軍司令官に任命されたのは明治37年5月だが、旅順要塞に対する本格攻撃を開始したのは8月で、乃木軍はそれから約5ヶ月で落城させた。

前回の記事で、ロシアの満州軍総司令官であったアレクセイ・クロパトキンがこの旅順要塞について『これを陥すには、欧州最強の陸軍でも3ヶ年はかかる』と豪語していたことを紹介したが、その点については他の欧米諸国も同様の認識であったのである。だから世界は日本軍が予想以上に短期間で旅順を占領したことに驚愕し、乃木の戦術に学ぼうとしたのである。

平間洋一氏の前掲書に、世界の日本軍に対する評価が紹介されている。
「英国国防委員会が…1920年に編纂した『公刊日露戦争史』…に、『結論として旅順の事例は今までと同様に、塁堡の興亡の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらせられた。作戦準備、編成、リーダーシップ、作戦のミスや怠慢などにどんな欠陥があったとしても、この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう。』と書いている。
また日露戦争に観戦武官として参加したイアン・ハミルトン大将は、日本から学ぶべきものとして、兵士の忠誠心の重要性をあげ、われわれは『自国の子供たちに軍人の理想を教え込まねばらない。保育園で使用する玩具類に始まって、教会の日曜学校や少年団にいたるまで、自分達の先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、愛情、忠誠心、伝統および教育のあらゆる感化力を動員し、次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである』と説いた
一方、フランスのフランソワ・ド・スーグリエ将軍も、旅順攻撃戦は『精神的な力、つまり克服しがたい自力本願、献身的な愛国心および騎士道的な死をも恐れぬ精神力による圧倒的な力の作用となる印象深い戦例』であると、日本兵の生命を顧みない忠誠心を讃えた(マイケル・ハワード『ヨーロッパ諸国より見た日露戦争』)。このように、ヨーロッパでも日本軍の突撃精神や犠牲的精神が高く評価され、見習うべき優れた特質であると受けとめられていた。このため、10年後に起きた第一次世界大戦では、日露戦争の戦訓を学んだヨーロッパ諸国の軍司令官たちの脳裏に、この突撃精神がよみがえり、突撃を繰り返し多くの犠牲者を出したのであった。」(『日露戦争が変えた世界史』p.59-60)

司馬遼太郎

このように乃木将軍率いる第三軍の旅順攻略戦について世界が高く評価していたことは、当時の記録を読めばわかるのだが、それではなぜ司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、史実を一部歪めてまでして乃木のことを愚将と描いたのか、少し考えこんでしまう。

わが国では、戦後の長きにわたって「先の大戦ではわが国だけが悪かった」とする「戦勝国にとって都合の良い歴史」がマスコミや教育機関で広められて、いつの間にかその歴史観が日本人の常識になってしまっている。
今の一般的な教科書である『もう一度読む 山川の日本史』には、政治家の名前は出てきても、乃木希助の名前も東郷平八郎の名前も出てこないのだ。私にはこのような歴史の叙述が公平で正しいものだとはとても思えない。

昔を振り返ってみても、子供の頃に日本の軍人が英雄や偉人として描かれるような読み物を読んだりドラマなどを見た記憶がなく、大人になってからも、テレビ番組や映画で観るものは日本の軍部を否定的に描いたものが大半だったと思う。

樋口季一郎

以前このブログで、オトポール事件で迫害されたユダヤ人を助け、敗戦後に占守島の戦いでソ連軍に痛撃を与えて、ソ連の北海道侵略から守った樋口季一郎中将のことを書いたのだが、このような人物の功績がテレビドラマや小説や映画などで国民に広く知らされることがないのは何故なのか。

日本軍人を国民の英雄として描かせたくない国内外の勢力が存在して、教育界やマスコミや出版界に対して今も圧力をかけている可能性を強く感じているのだが、彼らからすれば、日本国民が「自虐史観」で洗脳されている状態が長く続くことが望ましく、そのためには日本軍人が肯定的に描かれることは、絶対にあってはならないと考えているのであろう。

司馬遼太郎が乃木を愚将としたのは司馬の持論であるのかもしれないが、何らかの圧力がかかって司馬が乃木を否定的に描いたという可能性はないのだろうか。
もし司馬のような一流の人気作家が作品の中で乃木を英雄として描けば、国民に与える影響は相当大きなものになっていたはずだ。それをさせないために、司馬本人や出版社などに対して強い圧力があってもおかしくない時代が、戦後からずっと続いていることだけは確かな事なのである。
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占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html



圧倒的に劣勢であった奉天会戦に日本軍が勝利できたのは何故か

旅順の攻略を終えた乃木率いる第三軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了している。

旅順遼陽奉天地図

この奉天会戦は日露陸戦最後の大会戦となったのだが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢であった。
日本軍の兵力は約二十五万、火砲約千門に対し、ロシア軍は兵力約三十七万、火砲千二百門。またロシア軍は砲弾量も圧倒的に日本軍よりも多く、奉天地区には強固な防御陣地を構築していたという。普通に考えれば、日本軍がロシア軍に勝つことは奇跡に近いことであったのだが、なぜ日本軍はこの大戦に勝利することができたのであろうか。

児玉源太郎

日本軍の作戦は児玉源太郎総参謀長が中心となって立案したものだが、このようなものであったという。

「1.まず、最右翼(東側)の鴨緑江軍が動き、ロシア軍総司令官クロパトキンの注意を向け、次いで隣の第一軍の攻撃を開始させ、出来る限り敵の予備軍を右翼に引きよせる。
2.右翼が動き出し敵軍をひきつけるのに成功したならば、最左翼たる第三軍に大きく迂回運動させ、敵の右翼(西側)を脅かし、ロシア軍を牽制する。
3.左右の行動が功を奏するや、中央に位置する第二、第四軍を進出させ中央突破を決行し、勝利を一気に決する。」(岡田幹彦『乃木希助』p.174-175)

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しかしこの作戦は圧倒的に兵力の少ない日本軍にとってはかなり危険なものであった。常識的に考えて、ロシア軍を包囲する戦略であるならば、ロシア軍より兵力が多くなければならないだろう。

菊池寛の『大衆明治史』にはこう書かれている。
「…第三者とも言うべき人の批評に、野津大将の第四軍に従軍したドイツのカール親王の従軍記がある。
『日本の左翼軍の迂回前進に伴い、第四軍も自然、左翼を張り出さねばならなくなった。然るに右翼にいる第一軍もますます右翼に延長していくので、第一軍の左翼と、第四軍の右翼との間には少なくとも7キロメートルの隙間が出来た。而も第四軍はその手許には予備歩兵一連隊、徒歩せる騎兵二連隊、砲兵一大隊しかもっていないのだ。もし露軍がこの隙間を狙って突破して来たら、日本軍はどうなるだろうと、思わず慄然とした。』
と書いている。
 要するに、わが包囲陣は全般的に兵力が少なく、しかも所々に綻びが出来ていたのである。露軍に猛烈な戦意があって、随所に突破戦術に出られたら、日本軍は四部五裂の惨状を呈したかもしれないのである。」(『大衆明治史』p.325-326)

ところが、児玉がどこまで考えていたかはともかく、この作戦は成功したのである。それはなぜか。

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菊池寛はこう解説している。
「…クロパトキン大将が最も頭痛に病んだのは、旅順を陥(おと)した乃木軍がどの方面から現われるかという、第三軍の動静だった。第三軍は旅順戦の創痍全く癒えず、必ずしも偉容を張っていたわけではなく、総司令部の松川少将など『総司令部としては第三軍に大きな期待は持っていないよ』などと放言して、乃木の津野田参謀を口惜しがらせたこともあるくらいだ。
 しかし、これがロシア軍にしてみれば、あの難攻不落の旅順を陥した兵団だと知れば、大いに警戒を要する相手なのである。
『天帝よ。願わくは、乃木軍の対戦だけは許して下さい』
 そう言って、無智なロシア兵が神に祈っているのを見たと、外国従軍記者は書いている。
 とにかくクロパトキンは乃木軍については、神経衰弱のようになって、気にしていたのである。そこへ諜報が入った。即ち乃木軍に属する第十一師団の兵隊が右翼(敵の左翼)に現われたというのである
 この斥候の報告は正しかった。たしかに、彼が認めた日本兵の襟の連隊番号は、第三軍の第十一師団に属する連隊だったからである。
 これを知ったクロパトキンは、これこそまさに第三軍の主力だと思って、自己の指揮下ににあった予備兵を全部そっちへ移動してしまった。
 しかるに、第十一師団は十一師団でも、それは第三軍に属するものではなく、新編成の鴨緑江軍だったのである。つまり鴨緑江軍は奉天戦のために新たに編成されたもので、第三軍から第十一師団を分離させ、これに後備第一師団を加えた二ヶ師団からなる兵団だった

…果たして日本軍はその方面の鴨緑江軍をまず動かし始めた。その中に第十一師団がある。これぞ乃木軍の主力、というので総予備隊をそっちへ移動したさいに、わが乃木軍は急進また急進、敵の右翼を大きく迂回し、氷雪の野を、戦史に有名な大繞回(にょうかい)運動を敢行し、奉天城を大きく後方から包むという態勢を採ったのである。」(同上書 p.331-332)

クロパトキンが日本軍の北上に気付いたのが2月28日、それが乃木軍であることを知ったのは3月1日だった。そこでクロパトキンは乃木の北上を阻止しようと、最終的には10万以上の大兵力を振り向けたのだが、それほど彼は乃木軍の戦力を過大に評価し恐れていたようだ。乃木の第三軍の兵力は3万8千であったという
満州軍総司令部は、右を衝いたあと左の乃木軍を動かしてロシア軍を狼狽させたタイミングで、3月1日に一気に中央を突破しようとしたのだが、戦力の優るロシア軍に前進を堅く阻止され、多くの死傷者が出て戦いの見通しが立たなくなった。この行き詰まりを打開するために、総司令部は乃木の第三軍を東清鉄道南武線に向かって進撃させ、ロシア軍の退路を断つ任務を与えている。ロシア軍は3月6日に乃木軍に大攻勢をかけたのだが、乃木軍は辛うじてロシア軍を撃退した。
そこでクロパトキンは3月7日の夕方に、優勢に戦っていた中央の第一軍と第三軍の戦線を縮少して乃木軍に振り向けている。このクロパトキンの決断が奉天会戦の帰趨を決することになった。3月8日に満州軍総司令部はロシア軍の退却に気付いて、直ちに追撃開始を命令した。

ロシア軍は兵を増やしても乃木軍を撃退することが出来ず、クロパトキンは日本軍に東西より包囲され退路を断たれることを怖れた。9日にはロシア軍の総退却を決意し、10日には最後の激戦が展開されたが、追撃戦では日本軍は砲弾の大半を使い果たしてしまっており、将兵の疲労もあって、敗走するロシア軍に大打撃を与えるには至らなかったという。

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、『クロパトキン回想録』が全巻公開されていて、2巻に奉天会戦のことを記したところがある。少し引用してみよう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782304/144
奉天会戦は全然わが軍の不利に終われり。…我が第二軍は1905年3月7日に既に側面および背面に敵の迂回を受け、…現状を脱せんがためには将卒の多大なる努力を要せり。然るにわが軍の努力発揮せられず。7、8、9日の3日間に軍の状況は益々危急に陥り、乃木軍は我が第二軍の大部を包囲せり。
3月7、8両日における両軍の戦況および位置を対比し、主として敵の精神上我に勝れるを見、もって予は7、8両日既にわが軍の敗戦を予知し、適時鉄嶺に向かい退却するに決心せり。これにより、おそらく将来の歴史家は、奉天会戦を叙するにあたり、予の持久力なきを非難すべし。


早い話が、ロシア軍は途中までは優勢であったのだが、乃木軍を恐れるがあまり、この軍に退路を断たれることを恐れて退却を急いだのである。ロシア軍が乃木軍を恐れた理由は、クロパトキンが記している通り、死をも恐れずに前進してくる乃木軍将兵の敢闘精神なのだ。

弾薬不足の為に多くの敵兵を最後に逃してしまったが、この奉天会戦でロシア軍は兵力37万人のうち、死傷者6万、捕虜2万2千ほか失踪者を含め合計9万人の損害を出し、片や日本軍は兵力25万人のうち死傷者7万人であったという。
また、日本軍の死傷者のなかで、乃木軍は18500人と各軍中最大の犠牲者を出したという。そしてこの乃木軍のすさまじい奮戦がなければ、奉天会戦における日本軍の勝利はなかったと考えて良いだろう。

乃木大将と日本人

この戦争に従軍したアメリカ人記者のS.ウォシュバンは、いかにロシア軍が乃木を恐れていたかについて著書にこう記している。
軍人として、また軍隊として、この奉天における乃木大将とその部下ほど恐れられたものは絶無だといっても過言ではない。会戦当初から、襲いくるのは乃木その人に外ならずとの恐怖が、露軍の陣営いたるところに蔓(はびこ)り、幾他の流言は、この鬼神を欺く怪物接近のお伽話(とぎばなし)を、まことしやかに幾多の陣屋に伝達して、また幾度か風声鶴唳(ふうせいかくれい)となって消えるのであった。しかし、今度はいよいよ大鉄槌が振りかかった。音に聞えた日本第三軍が、既に彼らの右翼を迂回して、全速力をもってその退路を遮断しているという事実は、野火のごとく稲妻(いなずま)のごとく全露軍の頭上に閃いた。いよいよ襲撃ぞとなると、乃木大将が何処にどうして討ってくるかは疑う余地もなかった。かの物すごき山砦(さんさい)の包囲戦を経て来ては、野戦のごときを物の数とも思わない旅順口の老兵が、露軍の側面に接触して、突如として出現したのである。そして露軍の知らぬ間に、既に深くその側背(そくはい)に迫っていて、第一回の突撃に、露軍の防御工事は、紙屑の如く揉み潰されてしまったのだ。日本軍は巧みに覚えたロシア語の喊声(かんせい)を揚げ、日本語の『万歳』の声も打ち交えて『我らは旅順の乃木軍ぞ』と叫んで追撃した。
この戦慄すべき喊声が露軍の側面に鳴り響くと同時に、勝敗の数は既に決していた。絶望は火の如く蔓延して、やがて全軍こぞっての退却となった。あるいは周章狼狽のあまりの退却ではなかったかも知れないが、とにかく、頽勢(たいせい)また如何ともしがたいとの確信に麻痺し切った軍勢の、頑強たる後退であったのだ
。」(講談社学術文庫『乃木大将と日本人』p.39-40)
これを読めば、日本軍を辛うじて勝利に導いたのは、乃木軍の存在が極めて大きかったことがわかる。

奉天入城

しかし、日本軍の弾薬は底を突き、これまでに多くの将兵を失ってしまって補充も厳しい。これから先、露軍を追走したくとも、わが国には北満州の詳細な地図も持っておらず人家の少ない地域では食糧や兵器の補給は容易ではない。国民は連戦連勝に謳歌して、盛り上がっていたのだが、満州では陸軍がみだりに大兵力を動かせるような状況ではなかったのである。

奉天会戦後の状況について、沼田多稼蔵の『日露陸戦新史』という本に詳しく書かれている。これも『近代デジタルライブラリー』で読むことが出来る。
「三月上中旬における外交の関係を見るに、露国政府は暗に駐米独仏大使を介し米国大統領をして日本政府より講和の提議を為さしめんとするの意あるがごとく、これに対し米国大統領は、戦勝者が和議を呈出するが如きは絶対に不可能なりとし、帝国政府もまた、もとより彼に先んじて和議を呈出するの意なしと雖も、深く米国大統領の好意に信頼し、韓国、旅順、満州の善後策および償金に関する政府の意見を開陳せり。しかれども、三月下旬に至るも平和の曙光を見ざるのみならず露国は更にその軍隊を増遣し、バルチック艦隊の東航を継続し、以て雌雄を招来に決せんとするものの如く、鋭意シベリア鉄道の輸送行程増大を計画し、中央シベリア線を複線となし、新たに車両数千両を注文し、なおシベリア水路をも軍事輸送に併用せんとするもののごとし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/942003/131

意外にもロシア側で奉天戦の後で講和を探るような動きがあったようなのだが、アメリカから「戦勝者から講和を申し込むようにすることは不可能」と断られて、いよいよロシア軍はバルチック艦隊と日本海軍との戦いで最後の決着をつけようと動き出したのである。
ロシア軍にすれば、その決戦に勝利すれば日本海の制海権を奪うことができ、満州の日本軍への補給が遮断できる。そうすれば日露戦争にロシア軍が逆転勝利する可能性が残されていたのである。

日本海海戦については次回に記すことにしたい。
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岡山市北区の林原美術館が所蔵する古文書から「本能寺の変」にかかわった戦国武将たちの書状が新たに確認されましたが、このブログで、光秀の動機は四国攻めであったという説を3年前に紹介しています。良かったら覗いて見てください。

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html




日本海海戦で日本軍が圧勝した背景と東郷平八郎の決断

乃木希助率いる第三軍が旅順要塞に対する第2回総攻撃を開始する11日前の、明治37年(1904)10月15日にバルチック艦隊はリバウ軍港から出航している。
ロシア海軍は、バルチック海にある精鋭の艦隊を極東に派遣して、旅順港にある太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できるとの考えであったのだが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離がある苛酷なものであった。

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そもそも、バルチック艦隊は出航して間もなくトラブルを起こしている。
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、佐藤市郎氏の『海軍五十年史』という本が公開されている。そこにはこう書かれている。
出発前より、日本軍は丁抹(デンマーク)海峡に機雷を敷設したとか、北海には日本水雷艦艇がひそんでいるとかと、いろいろ噂がとんでいたので、悲壮な決意をもって壮途には就いたものの、水鳥の音にも肝をつぶし、薄氷を踏む思いであった。果たして北海航路の際には、英国漁船の燈火を見て、すはこそ日本水雷艇隊の襲撃と、盲(めくら)滅法に砲撃して漁船を沈めた上に、巡洋艦アウロラは同志討ちにあい、水線上に四弾をうけるという悲喜劇を演じ、英国の憤激と世界の嘲笑とを招いた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1872367/120
要するにバルチック艦隊の構成は世界最強を誇っていたが、極東への出航が急遽決定されて農民らを徴集し5カ月程度の準備期間があったものの、彼らの多くは戦闘員として充分に訓練されたレベルではなかったのである。

英国は自国の漁船が砲撃されたことを強く抗議し、後に賠償金を勝ち取っただけではとどまらなかった。菊池寛の『大衆明治史』によると、
英国は、とにかくバルチック艦隊は危険だという口実で、巡洋艦10隻を派して、艦隊の後を追って、監視の目を光らせて、スペイン沿岸まで併航した。もちろん、同艦隊の編成と行動は、詳細に英国政府と、同盟国日本政府に打電されているのである。」(『大衆明治史』p.345)と書かれている。

また、当時の艦船の燃料は石炭で、燃料効率が悪かったことから、航海には大量の石炭補給を何度も何度も繰り返さねばならなかったということを知る必要がある。
石炭資源開発株式会社の大槻重之氏の『石炭をゆく』というサイトには、
艦隊の一日の石炭使用量は三千トン、フルスピードの場合は一万トンという数字が記録されている。石炭貯蔵庫の容量の小さい船は数日おきに補炭しなければならず、その都度、大船団は停滞をよぎなくされた。
 石炭積込み作業は水兵に大変な労力負担になった。船間に渡した板の上を石炭籠を天秤でかついで運ぶ。作業のため波の小さい日を選ぶということは必然的に炎天下の作業になる。何れにしろロシア水兵が慣れているはずのない熱帯の海上である。熱病で死ぬ水兵が相次いだ。」と書かれている。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page141.html

植民地地図

この文章を読むと、バルチック艦隊の水兵は燃料である大量の石炭を運ぶという重労働を海の上でやっていたことが分かるのだが、当時の世界航路の石炭保有港は英国が支配しており、遠大な航路の大半は英国海軍の勢力下にあった。英国は日本の同盟国であるから、バルチック艦隊は英国が支配する港では石炭を補給することが出来ず、公海上で石炭船を探し求めての航海が続いたようなのだ。当然良質の石炭は手に入らない。

また、バルチック艦隊の航路を見るとスエズ運河を通った船ルートと、アフリカ南端の喜望峰を経由したルートと、二手に分かれているのにも驚く。
燃料効率が悪くかつ、燃料が手に入りにくかったのだから、最短距離で進むことが優先されるはずなのだが、二手に分かれたのは、吃水の深い戦艦は当時のスエズ運河を通ることが出来なかったということがその理由のようだ。

ロシアの同盟国であるフランス領マダガスカル島のノシベ港でバルチック艦隊は合流し、物資の補給を行なった後1905年3月16日にノシベ港を出港したが、この時点では乃木軍の活躍で既に旅順要塞は陥落しており、旅順港に停泊していた艦船も壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の目的達成は困難な状況になっていた。
そのうえ、インド洋方面ではロシアの友好国は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水・食料・石炭の不足はかなり深刻であったという。
そして1905年4月14日に同盟国フランス領インドシナ(現ベトナム)のカムラン湾に投錨し、そこで石炭などの補給を行ない、5月9日にはヴァンフォン沖で追加に派遣された太平洋第三艦隊の到着を待ち、いよいよウラジオストックに向けて50隻の大艦隊が出航した。

『近代デジタルライブラリー』に小笠原長生 著『撃滅 : 日本海海戦秘史』という本がある。
なぜバルチック艦隊の艦船が簡単に沈没したかについて書かれているが、その理由は、隣の国の客船セウォル号沈没とよく似たところがあって興味深い。
「…5月23日は早朝より各艦に最後の石炭搭載を行わしめ、出来うるだけ多量に積み入れるよう命令したので、中には定量の倍以上にも及んだものがあった。これがのち激戦となった際、脆く転覆する艦が続出した一つの原因をなしたのである。露国壮年将校中の腕利きといわれたクラード中佐は、その著『対馬沖会戦論』中に、
『我が良戦艦スウォーロフ。ボロヂノ。オスラービヤの三隻は砲火を以て撃沈せられた。かくの如きは近世の戦闘において甚だ稀有のことであるが、その原因たるや明白だ。即ちこの三艦は過大の積載をなし、復元力が欠乏していたからである。それも静穏の天候であったなら、ああまでならなかったろうが、波浪高く艦隊が動揺したので、水面近い弾孔より自由に浸水した結果だと思う。』
と論じている。のみならず積載過多のため、水際の装甲鈑は水中に没し、全く防御の役に立たなかったことも見逃せない一事であろう。何にしてもこうまですること為すこと手違いになってゆくのは、悲運といわば悲運のようなものの、国交に信義を無視した天譴ではあるまいか。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171597/56

バルチック艦隊

バルチック艦隊が石炭の調達に苦労した話は以前に読んだことがあるが、イギリスだけでなくアメリカも、バルチック艦隊に物資を供給した国に抗議した記録があり、そのためにバルチック艦隊の兵士はほとんど陸上に上がることが出来ず、海上での燃料運搬作業などで労力を削がれ、半年にもわたる大航海に相当疲弊していたことは重要なポイントだと思う

ここで日露の戦力を比較しておこう。
日本海軍は、戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12他
バルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6他
戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎなかった。
もし日本海軍が、この艦隊を一旦ウラジオストックに帰港することを許してしまえば、ロシア軍は万全の準備をして戦えるので、戦艦が日本軍の倍もあるロシアに分があったであろう

日本海軍としては、バルチック艦隊がウラジオストックに戻る前に決戦に持ち込むことができれば、相当疲弊した艦隊と戦うことになるので、緒戦の優勢が期待できる。

しかし、この時代には今のレーダーのようなものは存在しなかった。バルチック艦隊が今どのあたりを航海しているかはつかめず、ウラジオストックに戻るのに、対馬海峡を通るのか、津軽海峡を通るのか、宗谷海峡を通るのかもわからなかったのである。
そこでもし、それぞれの可能性を考えて日本海軍の戦力を分散させて数ヵ所で待ち構えていたとしたら、日本軍が勝利できなかった可能性が高かったと思う。

東郷平八郎

ここが東郷平八郎の偉いところだが、東郷は、異常な長旅の果てにわざわざ太平洋側を経由する可能性は低く、バルチック艦隊の戦力に自信があるならば必ず最短距離の対馬海峡を通ると確信し、全艦が対馬海峡で待ち伏せしていたのだ。
先ほど紹介した『撃滅 : 日本海海戦秘史』には、日本軍が対馬海峡に全勢力を集めていることが想定外であったとのロシア側の感想が紹介されている。
「…まさかに宗谷・津軽の二海峡をあれ程思い切って放擲(ほうてき)し、朝鮮海峡にのみ全勢力を集めていたとは思わなかったらしい。クラード中佐はこれに対し、『最も驚くべきは、我が艦隊にあって全日本艦隊と遭遇するが如きは、全く予想外で不意に乗せられたようなものだ。と言うている事だ。』と冷評し…」と書いてある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171597/60

日本海海戦

そして、運命の5月27日の朝を迎えた。
巡洋艦から敵艦発見の連絡を受け、東郷平八郎は午前6時21分に、「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」と大本営に打電している。

barutikku.jpg

両艦隊は急速に接近し、距離8000mにまでなったとき、東郷は左に舵を切ることを命じ、丁字型に敵の先頭を圧迫しようとした。
軍艦は、その構造上、敵は正面にいるよりも左右どちらかにいた方が、目標に対して攻撃できる大砲の数が多くなる。その反面、回転運動中は自軍からの攻撃は難しく逆に敵艦の正面の大砲の射程圏にとどまることになる。しかし回転運動中の日本海軍の位置は、敵艦の射程圏のギリギリのところであり、当然命中精度は低い

この時東郷平八郎司令長官の作戦担当参謀であった秋山真之は、自著の『軍談』にこう書いている。この本も『近代デジタルライブラリー』で公開されている。

300px-Akiyama_Saneyuki.jpg

「敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて、応戦したのが三四分遅れて二時十一分頃であったと記憶している。この三四分に飛んできた敵弾の数は、少なくとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦『三笠』に集中されたから、『三笠』は未だ一弾をも打ち出さぬうちに、多少の損害も死傷もあったのだが、幸いに距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。…午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾…、午後二時四拾五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分かれた時の対勢である。その間実に三十五分で正味のところは三十分にすぎない。…勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れておったために、この決勝を贏(か)ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941857/54

海戦は実はこの日の夜まで続いたのだが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲された。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、2隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。
一方日本側の損害は、水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名であった。(平間洋一『日露戦争が変えた世界史』による)
結果は日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。

日本海海戦における日本勝利のニュースは世界を驚嘆させ、殆んどの国が号外で報じたという。有色人種として自国のことにように狂喜したアジアやアラブ諸国、ロシアの南下を阻止したかった英米は日本の勝利を讃え、ロシアの同盟国フランスはロシアに講和を薦め、ドイツはこの開戦の勝利を機に対日接近を強めたようだ。

ところで、日本海海戦で命令に違反して戦場から離脱してマニラに向かったロシアの巡洋艦が3隻あったという。そのうちのひとつが「アウロラ」である。
この記事の最初に、バルチック艦隊がロシアのリバウ軍港を出発した直後に英国漁船を誤爆したことを書いたが、その時に同志討ちにあい、水線上に味方から四弾をうけたのがこの「アウロラ」で、日本海海戦の時は艦長が戦死するなど損傷を受けたのちに逃亡して、中立国であるアメリカ領フィリピンに辿りつきマニラで抑留されたのだが、この巡洋艦のその後の運命が興味深い。
1906年に「アウロラ」はバルト海に戻り、1917年に大改装のためにペトログラードに回航されると、二月革命が起こって艦内に革命委員会が設けられ、多くの乗組員がボルシェビキに同調したそうだ。11月7日(露暦10月25日)には臨時政府が置かれていた冬宮を砲撃し、さらにアウロラの水兵たちが、赤衛隊や反乱兵士とともに、冬宮攻略に参加して10月革命の成功に寄与したという。

アウロラ

1923年には革命記念艦に指定されて、ロシア革命のシンボルのひとつとしてサンクトペテルブルグのネヴァ河畔に今も係留・保存されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

一方、日本海海戦で東郷平八郎が座乗した、連合艦隊旗艦の戦艦三笠はその後どういう運命を辿ったのか
1921年のワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し、1923年の関東大震災で岸壁に衝突した際に、応急修理中であった破損部位から浸水しそのまま着底してしまう。
解体される予定であったが、国内で保存運動が起こり1925年に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。
第二次大戦後の占領期には、ロシアからの圧力で解体処分にされそうになったが、ウィロビーらの反対でそれを免れた後、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置されて、一時は「キャバレー・トーゴー」が艦上で開かれたという。
その後、物資不足で金属類や甲板の多くが盗まれて荒廃する一方だったが、英国のジョン.S.ルービン、米海軍のチェスター・ニミッツ提督の尽力により保存運動が盛り上がって昭和36年(1961)に修理復元され、現在は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として公開されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0_(%E6%88%A6%E8%89%A6)

わが国の歴史遺産として幾世代にもわたって残されるべき船が、占領軍によって娯楽施設にされその後荒れるに任されたことは、日本人の誇りを奪うために占領軍が押し付けた、日露戦争の英雄である乃木や東郷を顕彰しない歴史観と無関係ではなかったと思うのだ。

三笠記念艦

三笠」は日露戦争に勝利しわが国の独立を守った象徴として有志者により護られてきて、現在は三笠記念会メンバーの会費と見学者の観覧料により維持・管理されているのだが、観覧者が少なくては、それも難しくなる日がいずれ来るかもしれない。
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/mikasa_hozonkai/index.html

日本海海戦にもしわが国が敗れていたら、日本海の制海権がロシアに奪われて、満州や朝鮮半島だけではなく日本列島の北の一部も、ロシアの領土になっていておかしくはなかった。今の多くの日本人は、われわれの祖先が命を懸けて戦って勝利し、わが国を守ってくれたことに感謝することを、忘れてしまってはいないだろうか。
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ポーツマス会議のあと、講和条約反対・戦争継続の世論が盛り上がった事情

明治38年(1905)6月10日にわが国は米国大統領ルーズベルトの講和提議を正式に受諾し、これと前後してロシア政府もこの提案を受諾して、講和談判地は米国ニュー・ハンプシャー州のポーツマス軍港と決まった。
そして7月3日に全権委員として外務大臣小村寿太郎と駐米公使高平小五郎が任命されている。
下の画像は、日本の講和団で、前列の右側が小村寿太郎で、左が高平小五郎だ。
日本の講和団

日露戦争でわが国は、日本海海戦をはじめ個別の戦いでは連戦連勝できたのだが、ロシアがわが国に降伏したというわけではなかった。講和談判で多くの賠償金と領土が獲れるという国民の期待ばかりが盛り上がっていたのだが、それを裏切ることになることは、わが国の政府首脳には、はじめからわかっていたようだ。

今回は国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の中から、渡辺幾次郎著『日本戦時外交史話』の文章を紹介したい。
小村寿太郎

「この小村全権の使命が如何に大任で、困難であったかは、政府方面では悉く知っていた。井上馨は小村の暇乞いに対し、
 『君は実に気の毒な境遇に立った、今までの名誉もこんどで覆えさるるかもしれない。』
と語り、伊藤博文は
 『君の帰朝のときには他人はどうであろうとも、我輩だけは必ず出迎えに行く。』
と告げたという。7月8日、新橋駅出立の人気はすばらしいもので、送者は堵を為していた。小村は桂(首相)と馬車を同じうしたが、微笑しながら、
 『帰ってくるときには人気は、まるで反対でしょう』
と。桂は憮然として語(ことば)がなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/153

一方、ロシア側の全権代表は元大蔵大臣のセルゲイ・ヴィッテで、彼は講和会議に臨む方針を次のように定めていたそうだ。
300px-Sergei_Yulyevich_Witte_1905.jpeg

「一、 どんなことがあっても、我々が講和を望むような態度を見せないこと。ロシア皇帝陛下がわざわざ自分を講和全権にしたのは、別に講和そのものに重きを置いた訳ではなく、周囲の諸国が一般に戦争の継続を望まないようであるから、その意を容れたに過ぎぬという態度を示すこと。
「二、 自分は、大国ロシアの全権代表であるという顔をして大きく構えること、大国ロシアは最初からこんな戦争を重要視していないから、その勝敗については、少しも痛痒を感じない態度を示して相手を威圧すること。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/158

講和会議は8月10日から開始されたのだが、会議は紛糾したという。ヴィッテの発言内容を知れば、議事が進行しなかったことがよくわかる。

「露国は平和を希望するが、しかも代価の如何を問わず、平和を求むるの已むを得ざるに立ち至ったものではない。露国が続戦に必要の方法を得ることは、屈辱的平和を買うに比し一層容易である。…(日本はいろいろ要求しているが)もし、露国にして同様の地位にあらんか、露国は敵国の首府を占領せざる間は決して軍事賠償など要求しない。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/168
そこで小村がヴィッテに対して
「貴下の言は、あたかも戦勝国を代表するもののようだ。」と大笑いすると、ヴィッテは
ここには戦勝国もなく、したがって戦敗国もない。」と答えたという。

ヴィッテが賠償金の支払いや領土割譲に一切応じなかったのは、ロシア皇帝ニコライ2世が「一寸の土地も、1ルーブルの金も譲るべからず」と繰り返し何度も命じていたからであったが、この会議の情勢にセオドア・ルーズベルト米大統領は憂慮した。この会議がもし破談になれば、大統領自身だけでなくアメリカの威信にも傷がついてしまう。

わが国はすでに露海軍力制限要求や露国軍艦引き渡しの要求を撤回していた。残るは、実質的に日本が占領していた樺太の領土画定と、賠償金の問題に絞られていたが、その点については、ヴィッテは妥協の余地があるとの考えであった。『日本戦時外交史話』にはこう書かれている。
「ヴィッテは、…償金拒絶で談判を破裂せしめても世界の同情は我にある。しかし、サガレン(樺太)問題で破裂させては世界の同情は去る。サガレンは事実日本が占領していると電稟してその反省を求めたが、露国政府は依然動かなかった。ヴィッテに対しては償金問題で談判を打ち切れとの電命を下すにいたった。しかし、ヴィッテは、慎重をとった。日本側より難題を提起せざる限り、我より会議を打ち切るは大統領の不快を招く恐れがあるからといって、会議打ち切りには応じなかった。彼も何とか妥協を希望しているのであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/171

セオドア・ルーズベルト

そこでセオドア・ルーズベルト米大統領は、わが国に賠償金に関して譲歩を迫っている。
米大統領は大学同窓の金子堅太郎にこの様な信書を送っている。
「…想うに今日戦争を終結せしむるは日本の利益である。日本は既に満韓の支配権を得、また露国艦隊の殲滅により自国艦隊は倍大となり、かつ旅順・大連および満州鉄道を獲、あわせてサガレンをも占領した。すなわち金銭のため続戦するは、日本に取りて何等の利益なく、この上続戦するも、結局露国をして支払わしむべき金額以上の国帑(こくど:国の財産)を消費することは避けがたい。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/172

日本政府は米大統領の勧告に対し、賠償金の金額については一層の譲歩を認める旨の決定をしたが、ロシアは8月25日に、「一寸の地も、1ルーブルの金も日本に与うるを得ず、この既定方針は毫も変更するを得ず」と米大統領に回答したという。

27日に小村は非公式にヴィッテと交渉したが埒が明かず、談判を中止しポーツマスを引き揚げる決心をし、その旨日本政府に電報を打っている。それを受けて桂首相は28日に御前会議を開催し、次のように小村に電報を発している。
「…仮令(たとえ)償金割地の二問題を放棄するの已むを得ざるに至るも、この際講和を成立せしむることに議決せり
 よって貴官らは次回の会合において次のごとく宣言せよ。
 …帝国政府は人道および文明の大義に重きを置き、かつ、日露両国真正の利益に顧み、最後の譲歩として露国に於いて帝国の樺太占領の既成事実を確認する条件を以て、軍費償還に関するわが要求を全然撤回すべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1453712/176

495px-Treaty_of_Portsmouth.jpg

翌29日に開かれた会議は、わが国の譲歩で講和が成立したのだが、どうして連戦連敗のロシアにここまで強気の交渉が出来たのだろうか。

『近代デジタルライブラリー』の中に『日露戦争と露西亜革命:ウィッテ伯回想記』があり、その上巻に講和談判成功の理由を縷々述べている部分がある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1180407/276

簡単に言うと、ヴィッテ自身が行なったアメリカの世論工作やマスコミ対策等が功を奏した部分もあるが、米大統領が自分の面目の為に講和を熱望し、議論が行き詰ると日本に譲歩を迫ろうとしたこと、英独仏の主要国がこの会議において講和が成立することを欲していたこと、金融市場もキリスト教会も同様に講和を欲していて、日本人はこの大きな流れに逆行することはできず、最後は講和に進むことが講和談判をロシア有利に進めることが出来たと分析している。

ヴィッテは指摘していないが、この会議の開催中に露軍が満州に兵力を集めていたことも、ロシア有利に議論が進んだ要因のひとつなのだと思う。平間洋一氏の『日露戦争が変えた世界史』にはこう書かれている。
「…8月初旬の満州における日露の兵力は、日本軍25個師団に対し、ロシア軍は49個師団と2倍の兵力差となっており、9月には第21軍団、第22軍団の到着も予想され、日本軍の3倍の兵力が展開されつつあった(ロシア軍が最終的にハルピンまで送った兵力は129万4566名)」( 『日露戦争が変えた世界史』p.86)
このようにロシア軍の兵力増強を図っていたからこそ、ヴィッテは「戦争はまだまだこれからである」と何度も主張することが出来たのである。

この記事の冒頭に、7月8日に講和談判でポーツマスに向かう小村寿太郎が新橋駅を出立するところを多くの国民が見送った際に、小村は桂太郎首相に『帰ってくるときには人気は、まるで反対でしょう』と述べたことを書いたが、この講和条約に対するわが国の反応はいかなるものであったのか。

「講和条約の条文に領土の割譲も賠償金もないことが判明すると、『嗚呼(ああ)、嗚呼、大屈辱』(『万朝報』)、『この屈辱!』『あえて閣員元老の責任を問う』(『都新聞』)『天下不許の罪悪、日本に外交なし』(『報知新聞』)などと政府を攻撃したが、特に『大阪朝日新聞』(1905年9月1日)は『帝国の威信を傷つける屈辱の和約である。小村全権は努力を怠り違算して、この屈辱に甘んぜんとしている。このような条件で講和条約を締結するのは、陛下の聖意ではないので、陛下に対し講和条約の破棄を命じ給わんことを請い請い奉る』との社説を掲げた。
『万朝報』も社説で『帝国の光栄を抹殺し、戦勝国の顔に泥を塗りたるは我が全権なり。国民は断じて帰朝を迎うることなかれ。これを迎えるには弔旗を以てせよ』などと書き立てた
。…」( 『日露戦争が変えた世界史』p.85-86)

日比谷決起集会

このようなマスコミの論調に影響されて、全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれ、9月5日に東京・日比谷公園で開かれた決起集会では、遂に怒りで民衆が暴走し米国大使館やキリスト教会などが襲撃されて焼かれる事件が起きている(日比谷焼打ち事件)。日本政府は9月6日に戒厳令を敷いてこの騒動を収めたのだが、この騒動で死者が17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上出たという。

この事件で日本群衆の怒りがアメリカにも向けられたことが、米国における日本人排斥に繋がった一因となったという説があるが、実は米国東海岸で排日世論が少しずつ拡がりはじめたのは日露戦争で日本軍が旅順攻略戦で勝利した後の事である。
アメリカ東海岸のサンフランシスコ・クロニクル紙で1ヶ月に及ぶ排日キャンペーンが開始されたのは1905年の2月で、そして日本人の無制限移民に反対する動議がカリフォルニア州議会で可決されたのが3月1日だ。
以前このブログで『米国排日』シリーズの記事を書いたが、クロニクル紙でこんな内容の記事が書かれたという。

日本人はカリフォルニア、そして米国にとって一大脅威となった。日本人は白人の仕事に直ぐ慣れ、白人が生活出来ぬ安い賃金で働くので中国人よりも始末が悪い。日本人は米国人を嫌うが、米国人にも日本人を拒否する権利がある。』(1905/2/23)
日本人が悪いことをしたから排日運動が起きたのではない。良く働いて、白人の仕事を奪いつつ、一部の白人よりも豊かな生活をしていた事が排斥の原因となったのである。

米国の排日大阪朝日新聞

菊池寛は『大衆明治史』で、日露戦争後の英米における対日姿勢の変化を、次のように述べている。
「開戦当時は『負け犬』に味方するという米国人(ヤンキー)心理で日本を声援したけれども、その日本が思いのほかに強くてロシアを完膚なきまでにやっつけるのを見ると、今度は日本に対する強い警戒心が生まれてきたのであった。『日本にあまり強くなられては、極東における我々の権益は、ロシアに代った日本の脅威の前にさらされる』といった意向は、アメリカのみならず、英国方面に強く起こったのである。樺太割譲や償金問題で、日本が最後のドタン場で、あらゆる方面の牽制を受けなければならなかったのは、実にこうした英米の策動によるものだと考えられる。」(『大衆明治史』p.374)

要するにアメリカは、ロシアに満州を独占させないためにわが国とロシアを戦わせ、わが国が日露戦争に勝利すると講和のあっせんをしてわが国に恩を売って満州に自国の商業的利益を拡大することをはかったが、日露戦争にわが国が圧勝したためにその当てが外れてしまい、中国大陸に自国の拠点を持つというアメリカの戦略にとっては、わが国はむしろ邪魔な存在になってしまったということだろう。
オレンジ計画

教科書には絶対に書かれていないことだが、アメリカがわが国を仮想敵国とする「オレンジ計画」(対日戦争計画)の策定を開始したのは日清戦争後で、日露戦争が終結した翌年には「1906年版オレンジ計画」を策定し、その後何度も書きかえられて、1941年には正式に発動しているのである。

いずれ日本と戦わざるを得ないと考えていたアメリカにとっては、いくら日露戦争に日本が完勝したとしても、ロシアが日本に多額の賠償金を支払うことや、ロシアの艦船を日本が手に入ることは、認めたくなかったというのが本音ではなかったか。
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【ご参考】
日露戦争後、英米はどうやって日本を叩いたか、戦前の新聞や書物や最近翻訳された米国人弁護士の書物などを調べて、2年前にこのブログで記事を書きました。良かったら覗いて見てください。

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-262.html

日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html


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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史