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義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか

「眠れる獅子」と形容され、世界から一目置かれていた清国であったが、日清戦争で予想に反してわが国に完敗したあとは、弱肉強食の列強諸国が清国に猛然と牙をむき出して利権獲得に動き出している。
清国は三国干渉によって、日本から遼東半島を奪還したのだが、その代償は随分高くついたようだ。

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まずロシアは、1896年に露清密約を結んで満州を結びウラジオストックに至る鉄道敷設権を獲得し1903年より営業を開始したが、この東支鉄道がその後ロシアの対満侵略の経路となり、日露戦争を導く重要な役割を果たすことになった
東支鉄道は清国内に設置されたが、その土地も収入も免税とされ、その所有地はロシア側が絶対的かつ排他的な行政権を有するものとされていたという。

またドイツは、1897年に山東省で2名のドイツ人宣教師が殺害されたのを口実に、膠州湾を占領し、翌年にロシアと内応して膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権と鉱山採掘権を獲得している。
ドイツの膠州湾占領を見たロシアはすかさず艦隊を派遣して、遼東半島の旅順と大連を占領し、1898年には遼東半島全域を租借地として獲得している。このことは、3年前に露・独・仏の三国干渉によりにわが国から遼東半島を取り戻した清は、その干渉の報酬として遼東半島をロシアに差し出したことになる。

またフランスはロシアと提携して清を圧迫し、1898年に広州湾の租借権を得ている。
三国干渉に参加しなかったイギリスも、同年に九龍半島と威海衛の租借権を得ている


列強の勢力範囲

このように清国は自国の領土をやりたい放題に列強に蚕食されているのだが、清の政治家はなぜ抵抗しなかったのかと誰でも思う。

菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。
「…康有為一派を中心とする光緒帝の進歩的な国政改革の企てはあったが、西太后はクーデターによって光緒帝を幽閉し、朝廷の実権は守旧的な諸王大臣によって占められてからは、もっぱら以夷制夷(いいせいい)の古いやり方一本で、その日その日をゴマ化している有様だ。そのため、列強の侵略に対して、中央地方を通じて、猛烈な排外、仇教の風が起こったのも当然であった。」(『大衆明治史』p.226)

以夷制夷とは「夷を以って夷を制す」ということで、中国が周辺民族対策に用いた伝統的政策である。それは、外敵同士を戦わせることで、自らは何もしなくとも外敵の圧力をそごうというものだが、そのような政策が出来るのは、自国が外敵と対等以上に戦う力があることが前提になることは言うまでもない。

外敵同志を戦わせるつもりが、いつのまにか自国の中を外国人勢力が跋扈するようになってしまったのだが、そのようなことを庶民が好ましく思わなかったは当然であろう。
1899年に山東省に起こった義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を唱えて排外活動を始め、それが見る見るうちに清国全土に拡がって行ったのである。

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彼らの排外活動とは具体的にはどのようなものであり、なぜ短い期間にそれが拡がったのだろうか。再び菊池寛の文章を引用する。

義和団というのは、一種の宗教的な秘密結社であって、彼らはみな集まって拳棒を練習して、その術に長じていたので拳匪(けんぴ)とも言われている。神術を得れば、槍も鉄砲も傷つけないと信じていて、呪文を唱えながら勇敢に戦うのである。
 彼らの唱える『仇教、滅洋』の口号は、外人の横暴に憤慨していた当時の支那民衆をうまく捉え、勢力が増大するとともに、諸所の教会堂を焼き、宣教師、教民を虐殺した。しかも、保守派で占められていた朝廷が、これらの暴徒を義民として庇護するや、義和拳匪は北支一帯に蔓延し、遂に天津居留地を攻撃し、北京の各国公使館区域を包囲するに至った。これが北清事変の発端である。」(同上書 p.226)

要するに西太后は、テロ活動に走る義和団を取り締まるのではなく義民とみなして、彼らによって国権を回復しようと図ったのである。そのために、急速に義和団が膨張し、過激化していったということだ。

そして1900年6月10日には20万人ともいわれる義和団が北京に入城している。当時北京には日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギーの計11ヶ国の公使館があったというが、それらの公使館のある区域が暴徒に取り囲まれてしまい、北京に至る鉄道や通信網までが破壊されて、約4千人の人々が孤立無援の状態になってしまった

「日本陸戦隊の外に、各国は各々7~80名位の陸戦隊を持っていたので、外国兵全部で430名ばかりだが、これでは兵力は絶対に足りない。支那側は拳匪のほかに、官兵も加わり甘粛提督董福祥の兵3万も北京を包囲しているので、城門から一歩も踏み出せなかった。殊に、イギリスのシーモア中将が、各国陸戦隊2千余名を率いて、天津から救済にやってきて、途中で拳匪にさんざんにやられてからは、北京は全く孤立無援に陥ったのである。
 日本公使館の杉山書記生が支那兵に殺害され、またドイツ公使が支那当局と交渉に赴く途中で殺されるなど、事態は完全に悪化し、各国の救援隊が大挙してやってくるまで、60日間も籠城をし続けなければならなかったのである。」(同上書 p.227)

日本公使館の杉山書記生が殺害されたのが6月10日、ドイツ公使が殺害されたのが6月20日。そして6月21日に、清国は列国に宣戦布告している。

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Wikipediaによると、当時公使館区域には外国人925名と中国人クリスチャン3000名ほどがいたのだが、各国公使館の護衛兵と義勇兵はあわせても481名だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

6月19日に24時間以内の国外退去命令が出され、翌日から攻撃が開始されている。
わが国の籠城者の中に、英語・フランス語・中国語と数か国語に精通する柴五郎中佐(北京公使館付武官)がいた。
籠城組の全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、籠城戦にあたって実質総指揮を担ったのは柴五郎であったという。

籠城は8月14日まで続いたのだが、籠城組の食料や弾薬はそれまでどうやって調達したのか、また彼らが生きているということをどうやって連絡したのかと誰でも疑問に思うところだ。

菊池寛の文章を続けよう。
「…米や麦が真先に無くなってしまった。そこではじめは食糧を半分に制限したが、やがて粥になり、その粥も1日2回になり、最後には青草をかじり、犬猫や鼠まで見つけて食べる始末である。馬も流弾で仆れるものから食べ、二百頭いた馬も、ほとんど食い尽くしてしまった
 …
 拳匪たちは、れいの呪文を唱えては、城壁を乗り越え、勇敢に攻めてきたが、やがていくら呪文を唱えても、鉄砲の弾丸には敵わないと分かってからは、あまり無茶な突撃はせず、城壁と土嚢を境として睨みあいの状態が続いたのである。
 …
 1ヶ月も対峙していると、そこに一種の情が湧いてきて、
『お互いに、御苦労なことだな』
 といった応酬が交わされるという始末である。
 何しろ対手は金に目のない支那人であるから、馬蹄銀という支那の大きな銀貨をそっとやると、西瓜や卵などを持ってくる。そのうちには、鉄砲を売りに来る者まで現われてくる。そこで一計を案じた籠城組は、彼らに金をやって密偵を募り、外部との連絡、殊に天津にある列国の主力軍との連絡を計ろうということになった
 二十余回、こうした密偵を派遣したが、皆失敗したが、最後に張徳麟という男が首尾よく使命を果たして帰ってきた。」(同上書 p.228-229)

張徳麟という人物は、この時には名前を名乗らなかったのだが、7月23日に柴五郎はこの男に暗号文書を渡して天津にいる福島少将に届けてその返事をもらってくることを依頼したところ、8月1日にしっかりとその役割を果たして帰ってきたのである。

「当時、北京天津間の通信途絶して久しく、北京籠城軍は全滅ではないかとの悲観論が行なわれていたが、籠城軍健在との報は、天津の各国人を勇躍させたのである。そのための救援軍の派遣も、これからテキパキと決まり、日本軍を主体とする強力な連合軍が、北京に向かうということになったのである。」(同上書 p.230)

柴五郎
 
北京籠城を体験した人物がいくつかの手記を残しているようだが、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、柴五郎本人が口述し明治35年(1902)に出版された『北京籠城』という本が公開されている。
例えば、外部との連絡に成功したことは、次のURLのページ以降に記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774462/72

張徳麟という人物は、その時は名前も告げず金も受け取らずに飄然と去っていったそうだが、義和団の変が終わったのちに、民政官をしていた柴中佐の許を訪れたのだそうだ。
その時、何故日本軍の密使を勤めたかと動機を訊ねられて、彼はこう答えたという。
「自分は義和団の一人として事変に参加したが、戦争が長引くにつれてだんだん疑問が湧いてきた。支那がこうして列国の外交団を苦しめているのは、つまり全世界を対手に喧嘩をしているようなもので、いまにこれはヒドイ目に合う。これは何とか早く収まりをつけねばならぬが、それには一番信頼のできる日本軍を助けるのが早道だと考えたからです」(同上書 p.231)

この人物はその後もわが国に協力し、昭和11年には観光のために来日もしたのだそうだが、詳しいことは分からない。しかし、張徳麟という人物がいなければ、籠城したメンバーが健在であることがわからず、救出行動が遅れて助からなかったと思われる。

絶望的状況にあった4千名の救出しようにも、各国の思惑は様々であったようだ。菊池寛はこう書いている。
「それまでは各国とも本国から大軍を呼び寄せて、北京を救い、名誉とともに賠償の甘い汁を吸おうと思って、互いに牽制し合って、策動を続けていた。しかし北京の危機は一日の急を告げている。最短日間に、最大限の兵力を支那に運び得るものは、正に日本を置いて外に一国もないのだ。人一倍野心もあり、支那に最も近いロシアでさえ、その極東兵力を旅順や大連から派遣するには一定の限度があって大したことはできない。」(同上書 p.232-233)

少し補足すると、イギリスはボーア戦争、アメリカは米比戦争を戦っていたために、大量派兵ができないという事情があったようだ。
また、わが国の籠城者のなかで公使館一等書記官であった石井菊次郎氏の回想によると、この時のロシアは、他の列強国がわが国に救援要請することをことごとに妨害したのだそうだ。ロシアは満州を狙っていたので、北京の籠城組が殲滅された方が好都合だという考えであったという。

しかし、籠城組が生存しているとの知らせは英国などの世論を刺戟し、各国は短期間で派兵の可能なわが国の出兵を強く促してきたという。
ところが、わが国は三国干渉でひどい目にあっているので、出兵したあとでまた文句をつけられてはたまらない。
何度も慎重な態度を示したが、イギリスから4回にわたっての出兵要請がなされるに及んで、遂に列国の希望と承認のもとに第5師団の派兵を決定している

では籠城していた各国人はいかにして救出され、救出の後に各国の兵隊はどんな行動をとったのか。
驚くような話がいろいろあるのだが、次回に記すことにしたい。

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明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか
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福沢諭吉は、どういう経緯で『脱亜論』を書いたのか
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日清戦争開戦前の5ヶ月間の動きを追う
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日清戦争で日本軍は、陸も海も連戦連勝だった
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三国干渉に直面したわが国の外交交渉はいかなるものであったのか
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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。

北清事変連合軍兵士

すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。

義和団の乱

対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃連合軍」が中心で連合軍よりもかなり劣っていたようだ。しかしながら士気は高く、頑強に抵抗してきたために、清朝軍および義和団に多くの死傷者が出たようだ。

一方の連合軍は、装備でははるかに優っていたものの、軍隊としてまとまっていたわけではない。菊池寛は『大衆明治史』でこう記している。

連合軍は各国とも功名を争って、はじめから統一を欠いたが、通州を発する頃から競争はますます激しくなり、8月14日各国軍は一斉に北京城外に達し、各城門を破って先を争って入城した
 印度兵が公使館区域の水門をくぐって午後3時頃英国公使館へ達したのが一番乗りということになっている。これに対して真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を戮殺し、その屍を踏んでわが公使館に達していが、いかにも日本軍らしい、やり方であったと思う
 救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであった。
 北京開城とともに、西太后は暮夜ひそかに宮殿を抜け出し、変装して古馬車に乗じ、西安へ蒙塵*したのであった。」(『大衆明治史』p.235-236)
*蒙塵(もうじん):変事のために難を避けて、都から逃げ出すこと

このような記述を読むと、それほど激しい戦闘ではなかったような印象をうけるのだが、この北京の戦いにおける連合国側の死傷者は450名でうち280名が日本人だったという。

日本兵が死守した粛親王府の一部
 
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に北京篭城組で後に東京帝大教授となった服部宇之吉氏の『北京籠城日記』という本が公開されている。
巻頭に何枚かの写真があるが、日本軍が防衛を担当し死守した粛親王府の一部の写真があり、次のURLで誰でも見ることが出来るが、ひどく破壊されているのに驚く。真夏の暑い時期に、少ない武器と食糧で、睡魔と闘いながら60日以上籠城を続けたことはすごいことである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020210/7

ところで北京を制圧し、最初に連合国軍がしたことを書かねばならない。
再び、菊池寛の文章を引用したい。文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。
 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」(同上書 p.237-238)
*戎克(ジャンク):木造帆船

菊池寛

各国の兵隊が行なった悪事は掠奪ばかりではなかった。菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。しかも若い婦人に対して、一人残らず行なわれた行為は、人間業とも思えぬものがあったと語っている。今度の通州事件*は一世の憤激を買ったが、この時フランス兵が通州に入城してやった蛮行は、さらに大規模なものであったそうである。これが支那兵や安南の土民兵ならいざ知らず、文明国を誇るフランス人ばかりの安南駐屯兵がやったのだから、弁解の余地もない。
 戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」(同上書 p.238-239)
*「今度の通州事件」:昭和12年(1937)7月29日に日本居留民が通州で中国人部隊に大量虐殺された事件。

菊池寛はこう書いているが、いずれも暴行の現場を目撃したという証言ではない。当時の外国人はどう書いているか、目撃証言の記録があるかを知りたかった。
いつものように国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』の検索機能を使って、北清事変について詳しく記した書籍を探していると、北清事変の翌年である1901年に博文館から出版された『北清戦史 下』という本の『第9 所謂文明国の暴行』にかなり具体的に詳しく記されているのが見つかった。
「英国新聞記者の談」の一部を引用するが、次のURLで詳細を読むことが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

「英国ロンドンの『デーリーエキスプレス』の軍事通信員ジョーヂ・リンチ氏が実際目撃して、わが『神戸クロニクル』の記者に語りたるものを摘録せん。…列国の暴行を述べて曰く、
『…北京まで進んでみると連合軍中最も品行の善いのは日本軍であるということを発見しました。殊に◎州(判読不能)に於いて露国兵の如きは実に乱暴狼藉を極めたです。私は高壁の下に倒れている支那婦人を幾人も見ました。それは露兵の為に乱暴せられるのを免れんがために、高壁から飛び下りて腰を抜かしているのです。私の見た時にはこれ等の哀れむべき夫人は未だ生きて呻いておりました。…
…私が始終見た残酷なる処行の一例を申せば、私は10歳か11歳の童子を露兵がフートボールの様に蹴り上げて居るのをみました。露兵が赤児を銃槍の尖(さき)から尖へ投り渡したという話も聴きましたが私は観ませんでした。…

露兵は始終剣を銃の先に嵌めていてかって鞘に収めたことはないので。その銃槍をもって絶えず支那人を突きまくるのです。彼らは快然として行軍する。その途中出会うもの、いやしくも生き物であれば皆突いてみようとしたです。露兵15人が11歳の女子を輪姦して殺したのは隠れもない事実です。言いたくは無いことですが、フランス兵も非常に暴虐を働きました。』」
また、こんな記述もある。
米国ブレブステリアン派の派遣宣教師イングリス夫人が香港の日々新聞に投じたるところを見るに、また露兵の暴行見るに忍びず、仏兵またこれに次ぎ、英兵は露仏両国の軍隊に北京の富を奪われむことを懼れて掠奪隊を組織したるなどの事実を記載せり。なお夫人は言えり。北京陥落の以後は掠奪の状態一変して、遠征軍中の文武官は『掠奪の為に当地に来たれり』と言うに憚らざるに至れりと痛言せり。以て外国兵の暴行を知るべし。」

『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』

ではわが国の軍隊は、どうだったのか。
ウッドハウス瑛子の『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』という本がある。G.E.モリソンという人物はオーストラリア人ジャーナリストで、当時は『タイムズ』の北京特派員として「北京籠城」を余儀なくされたメンバーの一人であり、この本は彼の日記や手紙などをもとに義和団事件の詳細が描かれている。

モリソン

モリソンの記録によると、日本軍は速やかに金庫と食糧を確保し、馬蹄銀250万両と「1個師団を1年間充分に養えるくらいの米とその他の食料を確保」したことは記されているが、他国の軍隊のように、個人で宝石や絵画などを掠奪したようなことはどこにも書かれていない。
日本軍は西太后の離宮万寿山を占領したのだが、連隊長の命令で夏宮殿の装飾品や宝石には手を付けさせなかった。楼門に日章旗を掲げて日本軍占領を表示して引き揚げたのだが、その後にロシア軍が入ってそれらを掠奪したことが記されている。
また、東洋の宝ともいうべき紫禁城は、柴五郎が北京陥落の翌15日に皇城の三門を押さえ、他の一門をアメリカ軍が押さえ、日米共同でこの城を守ったので、破壊と掠奪を免れたとある。

北京城列国占領区域図

列国は皇城を除く北京城内を各国受持ち区域に分割して、日本が受け持った地域は柴が行政警察担当官に任命され、清国人の協力のもとに秩序回復に努め、北京でいち早く治安が回復したという。日本人は、乱を起こした義和団のメンバーも「彼らは兵士と同等であり、処罰すべきではない」として匿い、その寛容さにモリソンは感激している。

一番ひどかったのがロシアの担当地域だった。『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』には、こう記されている。
「ロシアの管轄下に置かれた区域の住民は、他の区域の住民に比べて一番ひどい目にあった。軍紀がいきとどいていないため、ロシア兵は暴徒と化して、いたるところで暴行略奪の限りを尽くし、虐殺・放火・強姦など血なまぐさい事件が続出した。
たまりかねた北京市長の聯芳は8月19日、マクドナルド英公使のもとに苦情を訴え出た。聯芳は…ロシア兵の残虐行為の実例を数多くあげ
『男は殺され、女は暴行されています。強姦の屈辱を免れるために、婦女子の自殺する家庭が続出しています。この地区を日本に受け持ってもらえるよう、ぜひ取り計らって下さい」とマグドナルドに哀願した、とモリソン日記はいっている
。」(『北京燃ゆ/義和団事件とモリソン』p.238)

また8月28日付のロンドンタイムズ社説には「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している。…列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱をまぬがれえたのは、ひとえに日本のお蔭である…日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」と書き、8月18日付のスタンダード紙社説には「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と誰しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に価するものであり、かつ他の追随を許さない…」と書かれているそうだ。(同上書 p.222-223)

実質的に公使館区域の籠城戦を指揮した柴五郎中佐は各国から賞賛され、英国のビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与されたのだそうだが、このような記録を読むと、全体として日本軍は勇敢に戦い、軍紀も守られていたからこそ世界から賞賛されたのだと考えるのが自然である。

義和団鎮圧と北京公使館区域救出に最も功績のあったわが国であったが、後に開かれた北京列国公使会議で最も多額の賠償金を要求したのはロシア(180百万円)であり、次は北京救出に1兵も出さなかったドイツ(130百万円)、ついでフランス(106百万円)、イギリス(65百万円)と続き、わが国は第5位(50百万円)だったという。
ロシアとドイツが醜い争いをした中で、わが国は一番功績を挙げたにもかかわらず、多くを要求しなかったことは、清国人の心も動かしたという。その後わが国に留学する清国学生が急増したのだそうだ。

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柴五郎とともに籠城戦を戦ったマグドナルド英公使は、1901年にソールズベリー英首相と会見して、日英同盟の構想を説いたという。その後彼は日英同盟の交渉の全てに立ち会い、同じく籠城組の『タイムズ』の記者・モリソンが、日本という国を賞賛してそれを後押ししたということだ。
日英同盟は、「北京籠城」で運命を共にした者同士の強い信頼の絆がなくては、決して成立しなかったと思うのだが、歴史の教科書や通史やマスコミの解説では、このあたりの事情にほとんど触れることがないのは、「日本人に知らせたくない史実」「戦勝国にとって都合の悪い史実」を封印しようとする勢力が国内外に存在するということだと思う。

北清事変にかぎらず、戦前には国民の間に広く知られていた史実の多くが戦後になって封印されてしまっているのだが、封印された史実の大半は、第二次世界大戦の戦勝国にとって都合の悪い話であると考えて良い。
私のブログで、今までそのような史実をいくつか紹介してきたが、こういう史実が国民に広く知られるようになれば、「わが国だけが悪かった」とする偏頗な歴史観は、いずれ通用しなくなる日が来ると考えている。
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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

幻の映画、「氷雪の門」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-138.html

終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-186.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア

義和団は北京や天津だけで暴動を起こしたわけではなく、清の朝廷が彼らを義民として庇護したことからたちまち勢力範囲を拡げて、満州地区にも波及していった。

かねてから満州全域への進出を狙っていたロシアは、建設中の東支鉄道(東清鉄道ともいう)保護を名目にシベリア方面と旅順から大軍を送り込み、1900年7月13日から満州侵攻を開始したのだが、このタイミングに注目したい。

前回まで2回に分けて北京の公使館区域が義和団と清兵に囲まれて、柴五郎らが籠城戦を戦ったことを書いたが、ロシアの満州侵攻はその最中の出来事なのである。
北京に20万人ともいわれる義和団が入城して6月に公使館区域を取り囲み、清国が列国に宣戦布告したのが6月21日。8ヶ国連合軍が天津を占領したのが7月14日。そして連合軍が北京に到達し総攻撃を開始したのが8月14日だ。清国にとっても他国にとっても、こんな時期に満州に兵を送るような余裕はなかったであろう。

IMG_6087.jpg

宮脇淳子著『世界史からみた満州帝国』にはこう記されている。
「ロシアの東清鉄道敷設は、1897年夏、ハルビンを起点にはじまっていた。工事開始直後から、土地の強制収奪に反対する農民の自衛組織と、鉄道建設によって生活の糧を奪われる運送業者が、ロシアに対するゲリラ戦を展開していた。
 満州に移住した中国人たちの郷里、山東で起こった義和団運動の報が1899年秋に伝わると、工事妨害の小競り合いは、清国正規軍もまきこんだ外国人排斥の大暴動に転化し、教会がおそわれ、鉄道の組織的破壊がはじまった。このときロシアの陸軍大臣クロパトキンは『願ってもない好機だ、これで満州を押さえる口実ができた』とウィッテに語ったという。
 こうして東清鉄道の保護を謳った177000のロシア軍は、6方面からいっせいに満州に侵攻した。そのはじまりとなった『アムール川の流血事件は、偶然その地に語学留学中であった日本軍人石光真清(いしみつまきよ)の手記にくわしい。ロシア軍は、7月、ロシア領ブラゴヴェシチェンスクに住んでいた清国人3000人を虐殺してアムール川に投げ込み、さらに対岸の清国領の黒河鎮(こっかちん)と愛琿(あいぐん)城を焼き払い、避難する市民を虐殺した。ロシア軍はこれから、8月にチチハル、9月には長春、吉林、遼陽、10月には瀋陽を占領したのであるが、各地でロシア軍によるすさまじい殺戮がつづいた。」(PHP新書『世界史からみた満州帝国』p.136)

M37P29amurukawa.jpg

この『アムール川の流血事件』は、当時の日本人ならほとんどの人が知っていたのだと思う。旧制第一高等学校の寮歌のひとつに『アムール川の流血や』という歌があるそうだ。
次のURLに歌詞全文とその解説が出ているが、この歌詞はロシア軍を多数の清国人を虐殺したこの事件のことを描いている。たとえば2番までの歌詞はこのようになっている。
「1.アムール川の流血や  凍りて恨み結びけん
二十世紀の東洋は   怪雲空にはびこりつ
2.コサック兵の剣戟(けんげき)や 怒りて光散らしけむ
二十世紀の東洋は 荒浪海に立ちさわぐ…」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/M37P29amurukawa.html

旧制の第一高等学校(一高)は現在の東京大学教養部の前身だが、この歌を作詞したのは当時一高生であった栗林宇一で、事件の翌年である明治34年(1901)に、一高の第11回寮祭の記念の歌としてこの歌が披露されたという。このような寮歌が唄われたということは、この流血事件を知った多くの学生が、ロシアのひどいやり方に憤慨したからであると思う。

江東64屯

Wikipediaに解説されているが、かつてアムール川の東側に広さ3600㎢ににおよぶ中国人居留区があり、中国黒竜江省黒河市の対岸にあるロシアの都市ブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)の南側一帯に64ヶ所の村落があり、江東六十四屯(こうとう・ろくじゅうしとん)と呼ばれていたそうだ。
1858年に締結された愛琿(アイグン)条約で、清の領土であったアムール川左岸の外満州はロシアに割譲されたが、対岸の「江東六十四屯」と呼ばれる地域には大勢の中国人居留民がいたため、アムール川左岸でもこの部分だけはロシア領ながら清の管理下に置かれることになったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%85%AD%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B1%AF

曠野の花

宮脇氏の著書に名前が出てきた石光真清という人物は日本陸軍の軍人で、たまたまアムール川沿いのブラゴヴェシチェンスクをロシア留学の地に選んだのだが、すぐ近くで清国市民が大虐殺されるこの事件が起こり、その後に東亜の戦乱に巻き込まれ、ロシア革命後は再びシベリアにわたって諜報活動に従事することになる。
彼の手記が中公文庫に収められており、4冊中の2冊目『曠野の花』の「アムール河の流血」に、この大虐殺に参加したロシア人の知り合いから聞いた話が記されている。

石光真清は7月16日の出来事をこう記している。
ブラゴヴェシチェンスク在留の清国人狩りが一斉に行われ、約3千人が支那街に押し込まれ、馬に乗った将校が「ロシアは清国の無謀な賊徒を討伐することになった。お前たち良民はここにいると危険だから安全な土地へ避難させてやる。討伐が済んだら元の家に帰るが良い。…」とふれ歩き、大勢の清国人を引き連れて黒龍江(アムール)沿いに向かう

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石光真清の文章をしばらく引用する。
「(将校は)到着すると直ぐ河岸に集め、静かにしろと命令しました。そして銃剣を構えた兵隊がぐるりと取り巻いて……取巻いてと言っても河岸の方をあけたままで、じりじりと包囲を縮めて行きました。将校が馬を走らせて指揮していました。勿論抜剣して……命令に服さん奴は撃ち殺せと怒号していました。えらい騒ぎでした。命令に服するも服さないもあったものではありません。どうしてと言ったって、なにしろ銃剣や槍を持った騎兵が退れ退れと怒鳴りながら包囲を縮めて、河岸へ迫ってゆくのですから堪りません。河岸から人間の雪崩が濁流の中へ押し流され始めたのです。わあっという得体の知れない喚声が挙がるともう全部気狂いです。人波をかき分け奥へもぐり込もうとする奴もいれば、女子供を踏み潰して逃れようとする者、それを騎兵が馬の蹄で蹴散らしながら銃剣で突く、ついに一斉に小銃を発射し始めました。叫喚と銃声と泣声と怒号と、とてもとても、あの地獄のような惨劇は口では言えません。二隊に分けたと言っても全部で二千名近い人間を一束にして殺そうというのです。…子供を抱いて逃れようとした母親が芋のように刺し殺される。子供が放り出されて踏み潰される。馬の蹄に顔を潰された少年や、火の付いたように泣き叫ぶ奴等が、銃尻で撲り殺される。先生先生と縋り付いて助けを乞う子供を蹴倒して、濁流ヘ引きずり落す。良心を持っている人間に、どうしてこんなことが出来るのでしょう。良心なんてない野獣になっていたのでしょうか。子供の泣き顔を銃尻で潰す時に、自分の良心も一緒に叩き潰してしまったのでしょう。…」(中公文庫『曠野の花』p.39-40)

そして8月に入ってロシア軍は、露満国境を徹底的に掃討しようと企て、3日に黒河鎮に上陸し、たちまち城内を確保し火を放って焼き払い、逃げ遅れた市民を片端から虐殺して火炎の中に投じ、次に愛暉城を包囲し、ここでも逃げ遅れた市民をことごとく虐殺して、火を放って焼き払ったというという。
清国の官吏は数日前に逃亡し、軍人も撤退してしまっていた。市民のうち裕福な者だけが財物をまとめて逃げたのだが、約3万人の市民の大部分が自分の家々に踏みとどまっていたそうだ。しかし黒河鎮の人々が虐殺された話が伝わると、一斉に斉斉哈爾(チチハル)公路を南に向かって避難し始めたのである。

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石光真清の文章を続けよう。
「…従って斉斉哈爾公路には蟻の行列のように、二万幾千人の避難民が家財を持って殺到した。大半が未だ付近にうろうろ犇(ひし)めき合っている時分に、早くもロシア軍は城内に火を放ち、渦巻く猛煙の中で大虐殺の修羅場を展開したのである。
 ロシア軍は城内に取残された市民を片端から虐殺したばかりではない。勢いを駆って市民の避難路へ追跡攻撃を始めた。既に清軍の影もなく、武器ひとつ持たぬ彼ら避難家族の大群を目がけて射撃したから堪らない。その惨状はブラゴヴェヒチェンスクや黒河鎮における虐殺に劣らなかった。…
 こうしてブラゴヴェヒチェンスク対岸の清国の都市村落はことごとく焼払われ、その住民は徹底的に殺された。…」(同上書 p.45-46)

かくして江東六十四屯から清国人居留民は一掃され、ロシアが軍事的にこの地を占領したのだが、ロシアはその後も、満州に居座り続けるのである。
ちなみにネットで「江東六十四屯」をキーワードに検索を試みると、中国系のサイトが随分たくさんヒットし、写真や記録などが数多く残されているようである。

余談だが、その後清国は何度かこの地の返還をロシアに要求しているもののロシアは応じず、清国が滅亡した後も同様で、江沢民総書記とエリツィン大統領の時代に、中華人民共和国は正式にこの地に対する主権を放棄することを承認したのだそうだ。
しかしながら、中華民国(台湾国民政府)は法律上は江東六十四屯に対する主権をまだ放棄しておらず、中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今でも中国領として表示されているという。

このロシアの満州進出に脅威を覚えたイギリスは、義和団事件で日本軍が勇敢に戦い、規律正しかったことを評価し、ロシアを牽制するためにわが国に接近しようとした。
当時のわが国は、ロシアと妥協してその侵略政策を緩和させるべきだという日露協商論(伊藤博文、井上馨ら)と、日本と利害を同じくする英国と結んで、実力でロシアの南侵を阻止すべしとする日英同盟論(桂首相、小村外相ら)の二つの考えがあったが、日露協商交渉は失敗に終わって明治35年(1902)1月に日英同盟が締結されている
この同盟は、締結国が他国(1国)の侵略的行動(対象地域は中国・朝鮮)に対応して交戦に至った場合は、同盟国は中立を守ることで、それ以上の他国の参戦を防止すること、さらに2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務づけたものであるが、2年後の日露戦争の時はこの同盟があることによって、イギリスは表面的には中立を装いつつもロシアと同盟国であるフランスの参戦を防止させ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等でわが国を支援したのである。このイギリスの支援がなければ、わが国が日露戦争で勝利することは難しかったのではないかと思う。

この日英同盟締結の交渉を推し進めた小村寿太郎らは、ロシアは満州占領だけでは満足せず、次に韓国を侵略することは必至であると考えていたのだが、その後のロシアの動きを見てみよう。

日英同盟を締結した2ヶ月後にロシアは3回に分けて満州から撤退するという満州還付条約を清国と締結し、第1回目の撤兵は実施したものの、翌1903年4月に二度目の撤兵を行なうという約束を実行せず、むしろ奉天から満韓国境方面に兵力を増強し、さらに森林保護を理由に韓国の龍岩浦(りゅうがんほ:鴨緑江河口)を軍事占領している

ryuganpo.gif

次のURLに、5月8日付の『東京朝日新聞』の記事が掲載されている。
http://ww1-danro.com/sib/ryugampo.html

朝鮮圧迫せらる  露国が撤兵期日前後において朝鮮境上に著しく増兵したることは疑わざる事実なるが、さらに信ずべき筋より聞き得たる所によれば、本社京城特派員の露兵入韓の報道以後において、大東溝に露兵来着の報ありて先月来宿舎の用意道路の掃除をなし準備を整えおれり。 而して鴨緑江の左岸なる龍岩浦と名づくる一朝鮮部落には既に若干の露兵進入したり。 また安東県よりも、数日中に二千人の露兵義州に入るべしとの報道地方官に達したれば、同地にてはこれがために甚だ混雑を極め居れリ。 露国人がかかる多数の軍隊を鴨緑江左岸に入るるの趣旨那辺にあるかは明白ならざれども、露人のいう所によれば、義州の東南数里にある白馬山の森林を伐採しかつこの地方の要害を占領すると同時に、鴨緑江口に運輸通信部を設け何等かの運動を開始せんとするものの如し」

ロシアは龍岩浦を軍事占領した後、7月には韓国に龍岩浦租借条約を結ばせている。我が国は、韓国に強く抗議した結果、韓国はこの契約の無効を声明したが、ロシアはこれを無視し、龍岩浦に要塞工事を起こし、ポート・ニコラス*と改称して龍岩浦の占領の既成事実化を進めて行った。
*ポート・ニコラス:当時のロシア皇帝であったニコラス2世の名前を冠したもの

では、何のためにロシアは龍岩浦を占領したのか。森林ならばロシアのシベリアには無尽蔵にある。何も他国を侵略してまで森林が必要であるわけがない。私には、先ほど紹介したURLの解説が一番納得できる。

当時の軍艦の燃料は石炭であり、後に開発された石油推進の軍艦に較べて、航続距離が5分の1程度しかなかったのだそうだ。当時のロシアは旅順とウラジオストックに軍港を持っていたが、戦闘速度(13ノット以上)で戦艦が移動するためには、石炭庫の積載量は不足しており、ロシアが朝鮮半島に勢力を拡大していくためには、新たな基地の獲得が不可欠であったという。
しかしそのことはわが国からすれば、朝鮮半島がいずれロシアの支配下となることは確実で、そうなれば日本海の制海権がロシアに奪われ、次はわが国がロシアに狙われてもおかしくない、ということになる。

ロシアの朝鮮半島への侵略意図がいよいよ確実なものとなって、明治36年(1903)8月に、わが国は対露直接談判を開くに至った。
わが国がロシアに主張したのは
清韓両国の独立と領土保全の尊重
② 満州を日本の利益外とするなら韓国も露国の利益の範囲外として相互に承認すること。
③ 中立地帯を設けるなら韓国側だけではなく、満韓境界の両側50㌔を中立とすること。
④ 日本が韓国に軍事援助を行う権利を認めること
だったが、ロシア側は満州の独立と領土保全にはふれずに、わが国が韓国に派兵することを禁止し、更に韓国北部を中立化することで、満州におけるロシアの自由行動を安全ならしめようとしたという。

談判は翌年1月まで5ヶ月に及んだが、ロシアは頑として自らの主張を譲らず、その一方で極東のロシア軍には動員令を下し、満州には戒厳令を敷くなど、急ピッチでわが国との戦争の準備を進めて行った。
わが国は1月13日に最終提案を行なったのだがロシアからは何の回答もなく、わが国は2月4日に対露断交と開戦を決定し、2月6日に露国に国交断絶を通告したのである。

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【ご参考】
このブログで、第二次大戦の戦勝国にとって都合の悪い出来事をいろいろ書いてきました。良かったら覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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