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家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。

国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818

徳川家康

外様大名に対しては、家康はこう述べたという。
「…大樹天下の政(まつりごと)を統領すれば、我なからん後の事、更に憂(うれい)とせず。ただし大樹の政策ひが事あらんには、おのおの代わりて天下のことはからうべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず。…」

第2代の将軍となった家康の嫡男の秀忠による政治が、もし道を外れて多くの人々が苦しむことになれば、誰でもその座に変わるが良い。天下は一人のためのものではなく、すべての人のためにある。誰が天下を治めようとも、人々の幸せに通じるのなら家康はそれを恨むことはないと、なかなか立派な事を述べている。

しかしながら、家康は2代将軍秀忠に対しては、
「天下の政において、いささか不道(ふどう)あるべからず。諸国の大名共へ、大樹の政治ひが事あらば、おのおの代わりて政柄(せいへい)を取るべしと遺言しぬ。もしまた諸国の大名、大樹の命に背き、参勤に怠る者あらんには、一門世臣というとも、速やかに兵を発し誅戮すべきなり。さらに親疎愛憎をもって、政事をみだるべからず。…」
と全く抜け目がない。

金地院崇伝

また、家康は自分の葬儀のことまで詳細に指示したようである。
黒衣の宰相と言われた金地院崇伝(こんちいんすうでん)が残した日記(『本光国師日記』)によると、徳川家康は金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を枕元に呼んで、自分の死んだあとのことをこう述べたという。
「御体をは久能へ納、御葬礼をハ増上寺にて申付、御位牌をハ三州之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守ニ可被為成との御意候」

すなわち家康は、自分の遺体を駿府城の近くの久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に建て、1周忌の後に日光に小さな祠を立てて関東の守り神として勧請することを指示したという。

そして家康は4月17日に駿府城にて75歳で逝去し、金地院崇伝の日記に記された通り、遺骸は直ちに駿河の国の久能山に移されて、仮殿竣工の十九日夜は、将軍秀忠以下、家康に近仕した家臣をはじめ数百人の葬列が続いて、柩を仮殿に移したという。

4月18日と19日の両日にわたって久能山でとり行われた葬事は、金地院崇伝が吉田神道(唯一神道)によって取り仕切ったのだが、このやり方に南光坊天海が異議を唱えている。

天海によると、家康公の本当のご遺言は、葬儀は吉田神道に偏することなく、山王一実の習合神道にて行うことであったと言うのだが、家康がこのような遺言をしたことは誰も知らず、おそらくは天海の創作であったのだろう。

徳川秀忠

ところが、第二代の将軍の徳川秀忠はこの天海の説を支持したという。
その理由は作家の今井敏夫氏の論文『二つの東照宮・久能山と日光』がわかりやすく書かれていて、全文をネットで読むことができる。ポイントとなる部分を引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「秀忠が天海の言を採り上げた理由には二つあった。一つは駿府の大御所政治の残影を払拭し、江戸将軍政治への一元化である。家康の生存中、秀忠は何事も駿府の指図を仰がねばならなかった。その駿府で側近として権勢を振るっていたのが本多正純である。家康没後の正純は幕府の閣僚に加わることになっていたが、秀忠は内心快く思っていない。秀忠には土井利勝、酒井忠世らのブレーンがおり、正純はむしろ排斥したい存在だった。政治嗅覚の鋭い天海は、この辺りの情勢を読み取り、新実力者土井利勝に運動したのであろう。
 二つには、駿府城主徳川頼宣の存在がある。頼宣は家康の十男で、当時十五歳であったが、晩年の家康が手元において訓育したほどだから、幼少から英邁の誉れ高く、すこぶる出来の良い男である。東海道の要衝を治め、徳川家の精神的象徴となる久能山の霊廟をひかえている。しかも家康廟の造営は頼宣であり、以降、祭祀とその守護にあたることになっている。」

将軍秀忠にとっては徳川頼宣は弟になるのだが、秀忠の嫡男である家光とは2歳しか離れておらず、しかも頼宣は英邁であり久能山の霊廟を守護する立場にある。いずれ家光の強力なライバルになることは目に見えていた。頼宣を早い時期にたたいておく必要を秀忠が認識していた可能性はかなり高そうだ。事実、秀忠は家康死去の3年後に、頼宣を紀州に転封している。 
家康が亡くなったことで、将軍秀忠が幕府の主導権を掌握し、嫡男・家光に跡目を継がせるためのかけひきが、家康の葬儀から始まったということだ。

かくして天海は将軍・秀忠を味方につけた。
そして、江戸城で家康の神号を決める論争が始まった。
金地院崇伝は神号を「大明神」とすべきだと主張し、天海は「大権現」とすべきだとしたのだが、天海は、「大明神」は秀吉を祭祀した「豊国大明神」と同じで不吉であると主張して崇伝を論破し、祭祀の主導権を握ることに成功したのである。

南光坊天海

家康の神号は「東照大権現」に決定され、11月になると天海は日光の地に社殿の建築を開始する。天海が主張していた通り日光では山王一実神道が採用されて、薬師如来を本地仏とする神仏習合で祀られることになった。造営は元和3年(1617)4月の1周忌に合わせて進められ、わずか5カ月ほどで落成したという。 (『元和御造営』)

ここで家康の遺言を思い出していただきたいのだが、家康は「一周忌も過候て以後日光山に小き堂をたて、勧請し候へ」と指示していたことである。そのために、最初に造営された日光東照宮の規模はかなり小さく、現在残されている豪華絢爛な日光東照宮とは全く異なっていたようだ。
『仮名縁起』の「元和御造営御宮の図」に描かれた拝殿は五間×三間*しかなく、奥宮の家康廟も白木の塔であったという。もし日光東照宮が元和御造営のままであったなら、世界遺産に指定されることは考えられないところだ。
*間(けん):1間=6尺=1.818m

久能山から日光へ、家康の遺体が本当に運ばれたかどうかはよくわからない。死後1年も経過して、かなり腐敗していただろうから、運んだとしても遺髪とか爪のようなものであったのかも知れないが、『徳川実記』には、「久能の宮の奥で神秘の事を取り計らった」と記されているそうだ。
そして元和3年3月15日に久能山から日光に向かって霊柩を運ぶ1300人もの行列が出発し、4月8日にその霊柩は日光東照宮の奥院に埋葬され、14日に御神霊を仮殿に移し、17日に正遷宮の儀式が執り行われたという。

しかしながら日光東照宮はその18年後に荘厳な社殿への大規模改修が行われることになった。なぜ建築して日の浅い東照宮を建て替えるに至ったのか。

その経緯が、先ほど紹介した今井敏夫氏の『二つの東照宮・久能山と日光』にわかりやすく書かれている。
再び引用させていただく。
「久能山東照宮は1年7ヶ月を要して完成した。屋根は桧皮葺(のち銅版葺)ながら、概観は壮麗。細部にわたり彫刻・絵画・色彩金箔を施し、本田の左右・背面は黒漆で仕上げ、その華麗さは目を奪った。にわか造りの元和の日光東照宮とは比べものにならない。東照宮は御三家の尾張、紀伊、水戸にも勧請され、続いて上野寛永寺、南禅寺金地院、仙波喜多院、坂本日吉にもそれぞれ豪壮・華麗な社殿が造営された。天海にすれば、自分が支配する日光東照宮が元和創建の社殿では見劣りがしてならない。そこで大造営をしたいが、まだ秀忠や崇伝が健在であり、『日光に小廟を建てよ』という家康の遺言は無視することはできない。しかし、寛永9年秀忠が没し、翌10年には金地院崇伝も亡くなると、もはや家康の遺言や当時の真相を知る者がいなくなった。
 三代目家光は自分を将軍にしてくれた祖父家康を崇敬すること甚だしく、…そんな家光の性格を見抜いて、天海は日光東照宮の大造営を勧めたのである。家光は当然のこと、幕府首脳も徳川政権の力強さを天下に知らしめす一大事業を行う必要があった
。かくして寛永大造営は、天海、家光、幕府首脳のそれぞれの思惑が一致したことから興されたのである。」

かくして日光東照宮は、わずか1年5ヶ月という短い工期で、五間×三間の小さな拝殿から豪華絢爛の建造物に生まれ変わったのである。
『日光山東照大権現様御造営御目録』という文書に、この寛永の大造営の総工費が「金56万8千両、銀百貫匁、米千石」であったことが記されていることが日光東照宮のホームページで紹介されている。
http://toshogu.jp/shaden/

日光東照宮

現在のお金でいくらになるかは、数百億円から数兆円まで諸説があるが、『日光山東照大権現様御造営御目録』の総工費には、大工や職人らの人件費をどこまで織り込んでいるかよく分からない。
『日本史まるごとHowマッチ』という本に、建物建築費2,500億円・内外装人件費3,500億円・内外装材料費2,000億円で合計8000億円と試算されていることが次のURLに紹介されている。動員されたのは大工・木挽き職人170万人、雑役280万人と書かれているが、この数字が正しいかどうかは見当もつかない。
http://d.hatena.ne.jp/fushikian15301578/20121001

しかしよくよく考えると、数千億円程度ならば安いと考える人がいてもおかしくない。
平成23年のデータだと、日光市を訪れた観光客は862万人。うち日光に宿泊した観光客は276万人なのだそうだ。観光客が平均3千円、宿泊客が平均15千円を日光市で支出したとすると、毎年673億円が日光市のホテル・旅館、社寺、商店、飲食店などの収入になる。日光東照宮が、ほぼ400年にわたって日光周辺の繁栄に貢献してきたことは間違いがないことだ。
日光神橋

ところが、今のわが国の公共事業にはどう考えても無駄だと思われるものが少なくない。
次のURLに、学者・ジャーナリストからなる「21世紀環境委員会」が『無駄な公共事業100』を選定し公表しているが、1件で数千億円にも及ぶ案件が満載だ。工事の中には地元は殆んど潤わず、建築を受注した業者ばかりが潤うような案件がいくつかありそうだ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one_of_bassers/koukyoujigyou_100.htm

高級官僚の天下りポストを作るために、閑古鳥の鳴くようなハコモノを建てたり、車がほとんど通らない道路を建設することに、今までどれだけの多くの血税がつぎ込まれてきたことであろうか。文化的に魅力の少ない地方が少々便利になった程度では、都会から観光客を呼べるはずがないのだ。
地方が潤わないような工事に税金を使うくらいなら、地方の貴重な文化財の価値を失わないようにすることや、地方にわが国の最高の職人を集めて、将来の国宝となりうる建造物をいくつも建造することに支出する方が賢明ではないか。
今のわが国に歴史的価値のある文化財が豊富なのは、過去の為政者が、風光明媚な場所にそれぞれの時代の最高の建築物や絵画などを後世に残そうとしてきたことが大きいのだと思う。そのような姿勢が、今のわが国に少しくらいあっても良いのではないだろうか。
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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
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メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
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教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
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伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

前回の記事で、秀吉の死の半年後である1599年2月に、スペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがわが国におけるキリスト教の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとの書翰をイエズス会総会長に送っていることを書いた。

キリスト教宣教師たちにとって天敵とも言うべき秀吉が死んだあとに生じたわが国における混乱は、スペインにとってはわが国を武力征伐する絶好のチャンスであったはずだったのだが、この時期のスペインはイギリスとの戦争(英西戦争)の真っ最中であり、国内ではネーデルランド(オランダ)の反乱が続いていて、わが国を攻めるどころではなかったと思われる。

しかしわが国に滞在していた宣教師たちは、秀吉の死を、日本に再びキリスト教を広める好機だと捉えて布教活動を活発化させたことが記録に残されている。五大老の筆頭であった徳川家康は、当時はキリスト教に比較的寛容であったことから、秀吉が出した『伴天連追放令』は有って無きがごとくのようだったという。

日本切支丹宗門史

フランスの日本史家のレオン・パジェスは1598-1599年の情勢をこう述べている。
「…家康は政治的の見地から、異国との通商をかち得んがために、決して(キリスト教に対して)不愛想にはしなかった。政策や一般の取締りを変更したり、太閤様の遺命を蹂躙したことが際立たないように、彼は、正式に認可を与えた訳ではないが、宗教上の事には故意に目をつぶった。そこで京都の付近のキリシタンは、自由になったものと考えて、あるいは天主堂を復興したり、あるいは公然儀式を行なった。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史 上巻』p.25)

徳川家康

このように家康は海外貿易の利権を重んじたために、当初はキリスト教に対して寛大であり、その当然の帰結として、この時期にキリスト教信者が各地で激増したという。

「当時、帝国全土宗門は目覚ましい勢いで拡がりつつあった。数多の宣教師たちは、秘かに旧の伝道所に帰っていた。有馬や大村の領内には天主堂が再興され、各所に新しい信者の団体が出来た。1599年の2月から9月までの8ヶ月間に、約4万人の未信者が洗礼を受けた。」(同上書 p.29)

そして関ヶ原の戦いが起こった慶長5年(1600)の頃の情勢については、パジェスはこう記している。
当時、日本にはイエズス会の司祭・修士合わせて109人あり。うち14人は本年到着した者であった。彼等は30か所の駐在所、また伝道所に分散していたが、うち6か所が主要なるものであった。彼等の肝煎りで50か所の天主堂が再建され、5万人の新しいキリシタンが洗礼をうけた
長崎教区の大駐在所には、伝道所の教師を加えて30人の宣教師がいた。…
大駐在所の大村と、それに付属する伝道所には4人の司祭と7人の修士とがいた。国中あげてカトリック教信者で、他国から来て洗礼を受けた者が600人あった。…
5つの伝道所の付属する大駐在所のある有馬には、14人の伝道師がいた。この地は人口7万、全部がキリシタンであった。なお600人の他国者が洗礼を受けた。…
志岐と天草の島では、当時司教のいた志岐の駐在所とこれに付属して3箇所の伝道所があって、6人の司祭と10人の修士がいた。国中あげてキリシタンで、他国者300人が洗礼を受け、諸方の伝道所のあるところに新しい7つの天主堂が建立された。…
肥後では、宇土の大駐在所に、いくつかの伝道所が付属していて、5人の司祭と7人の修士がいた。既に1万人の信者がいたが、更に17千人の新受洗者ができた。…」(同上書 p.37)

この様に九州では、秀吉の死後にキリスト教が急激に広まっていったのだが、この年大阪にも駐在所が2箇所出来、京都にも天主堂と駐在所が出来、近隣各地からも宣教師の要望があったが、新たに派遣する余裕がなかったために、京都、大阪の宣教師を訪問させたことなどが記されている。                                                 
関ヶ原合戦屏風

しかし、豊臣政権下で秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら(いわゆる武断派)との対立が激化し、この年の9月15日に美濃国不破郡関ヶ原を主戦場として、両派が激突した(関ヶ原の戦い)。
この戦いの結果次第で今後のキリスト教の布教に大きな影響が出ることは確実な情勢であり、キリシタン大名たちは、徳川家康を総大将とする東軍につくか、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍につくか、あるいは中立の立場を取るか、相当迷ったはずである。

歴史の教科書などでは「キリシタン大名」といえば、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠、高山右近ぐらいしか名前が出てこないのだが、実際はキリシタン大名は驚くほど多かった。

日本基督教史

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で大正14年に出版された山本秀煌著『日本基督教史. 上巻』という本が公開されていて、この本に、当時のキリシタン大名がこの関ヶ原の戦いにどちらの側についたかが纏められているので引用しておく。

「 西軍に属せる者。  藩翰譜、三河風土記、切支丹大名記による
美濃岐阜の城主、  織田秀信。  信長の嫡孫三法師
肥後宇土の城主、  小西行長。  関ヶ原にて奮闘
丹波福知山の城主、 小野木縫殿。 丹後田邊の城を囲み細川藤孝を攻む
筑後久留米の城主、 毛利秀包。  輝元の叔父、大津に京極高次を攻む
筑後山下の城主、  筑紫廣門。  大津を囲み、京極高次を攻む
対馬列島の領主、  宗 義智。  その陣代柳川某伏見攻撃に加わる
阿波徳島の城主、  蜂須賀家政。 その子至鎮東軍に従う
豊後佐伯の領主、  毛利高政。  本姓森大阪城に在りて濱の櫓を守る
元の府内の領主、  大友義統。  九州豊後に至り故旧を集めて東軍と戦う

東軍に属せる者
近江大津の城主、  京極高次。  大津城を守るのち開城
信州高遠の城主、  京極高知。  関ヶ原にて奮闘す
伊賀上野の城主、  筒井定次。  同上
豊前中津の城主、  黒田長政。  同上
同  長政の父、  黒田孝高。  九州において西軍に属する諸城を降す
下野宇都宮の城主、 浦生秀行。  居城において上杉に当たる
田邊城主忠興の嗣子、細川忠隆。  関ヶ原にて奮闘す
丹後峰山の城主、  細川興元。
陸奥弘前の城主、  津軽為信。  上杉軍を牽制するの任に当たる
肥前唐津の城主、  寺澤廣高。  関ヶ原にて奮闘す
日向飫肥の城主、  伊東祐岳。  九州において島津氏を撃つ

中立の態度を取りし者 
丹波篠山の城主、  前田玄以。  その長子右近秀似は西軍に属せしと言う
肥前大村の城主、  大村喜前。  本国にあり
肥前有馬の城主、  有馬晴信。  本国にあり
若狭小浜の城主、  木下勝俊。  本国にあり
五島宇久の城主、  五島純玄。  その伯父玄雅なりという説あり。

以上列挙するところによって観れば、東軍に与せるキリシタン大名はその数においても戦闘力においてもはるかに西軍に属せるそれに勝っていた。さればこれをもって禁教令の遠因と為すのは根拠なき妄説と言わざるべからず、而して西軍敗戦の結果、織田信秀、毛利秀包、筑紫廣門、木下勝俊は改易もしくは遠流、大友義統は死一等を減じて常陸へ流され、小西行長、小野木縫殿は梟首せられた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/226

宣教師らは、キリシタン大名が東軍に付くにせよ、西軍に付くにせよ、どちらかが敗れることによって、敗れた側のキリスト教布教の基盤の多くを失ってしまう可能性がある一方、勝利した側には加増されることぐらいのことはわかっていただろう。どちらが勝利するかわからない場合は、一方に偏り過ぎずリスク分散を図るのが鉄則だと思うのだが、関ヶ原の戦いでキリシタン大名が見事に3つのグループに分散したことは、偶然であったのか、それとも宣教師たちの関与があったのかはよくわからない。

この戦いにおいて徳川家康が率いる東軍が勝利し、家康は、西軍に加わった大名を徹底的に厳しい処分を下している。改易 (領地を取り上げる)、転封 (国替――領地を他に移す)という方法で、家康が西軍大名の全員から取り上げた領地はおよそ90家、590万石にも及んだという。例えば毛利輝元は大阪城にとどまっていて関ヶ原の戦いには加わらなかったのだが、それでも8ヶ国・120万石の領地の大部分が取り上げられ、長門・周防の2ヶ国・36万石に減らされている。

小西行長

西軍に加わったキリシタン大名については先程引用した『日本基督教史. 上巻』に記されている通りだが、なかでも小西行長の運命は、武将としては悲惨なものであったようだ。

「関ヶ原の役、西方総敗軍の日、行長の兵もまた潰ゆ。行長遁れて伊吹山中に匿(かくれ)る。人あり此の落ち武者こそは西軍にその人ありと知られたる小西行長の成れの果てで在ると聞き、小西殿とは異国、本朝に名を轟かしたる名将ではないか。勝負は時の運で負けたりとて恥ずべきではない。然るに、何故この場合いさぎよく自殺せずして、かく見苦しき様にておはするぞいう。行長聞きてわれ…耶蘇の門徒にて天主の教を尊信するのであるが、この宗は自殺を重く戒むるをもってかくながらえて居るのだが、如何せん四面皆敵に塞がるれば逃げ行く方もなし。いざ速やかに我に縄かけて領主に引渡したまえとて、キリストの教えに悖って自殺するよりも、キリスト教の為には寧ろ甘んじて武士にあるまじき恥辱をも受けんと決心して捕虜となったのはいと憫なる次第である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/230

自殺を戒めるキリスト教を奉ずるが故に切腹できず、捕えられた行長は市中引き回しののち京都の六条河原において三成・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と共に斬首され、そして、徳川方によって首を三条大橋に晒されたという。

では行長の家族や家臣たちはどうなったのか。引き続き、『日本基督教史. 上巻』の文章を引用したい。
「関ヶ原の敗報至るや、家臣等これ(行長の子)を広島に送り、毛利氏に帰宅してこれが保護を乞うた。しかるに、毛利輝元は西軍の総大将として12州の大兵を擁し、大阪城にありながら、上方勢破るると聞くや、狼狽為すなく、一戦をも交えずして、直ちに家康に降参し、その領地広島に退いて、恭順の意を表し、戦慄恐懼措くにあたわずといった風で、ひたすら意を用いて家康の恩命に接せんことを嘆願しつつあった折だから、家康の意を迎えるに急にして、…卑劣にも行長の遺孤(子供)を欺き、…安全の地に移すと声言して、広島をつれ出して、家臣をして道にてこれを殺害せしめた。そうしてその首を家康に献じた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/232

一方東軍に加わったキリシタン大名は、家康からその功を賞せられ、例えば黒田長政父子は豊前中津180千石から筑前525千石と大幅に増封され、以後福岡を居城として小西行長に代わりキリスト教の保護に努めた。また浅野幸長、寺澤廣高、京極高次、京極高知も増封されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/235

では、関ヶ原で中立の態度をとったキリシタン大名はどうなったのか。
Wikipediaによると、前田玄以は、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行っている。また豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかったことで、丹波亀山の本領を安堵されたようだ。
また有馬晴信は、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵されたという。
大村喜前の場合も、西軍の小西行長の宇土城を攻めたことが、本領安堵につながったようだ。

南蛮屏風

キリスト教宣教師たちにとっては、関ヶ原の戦いで布教基盤の多くを失ってしまう可能性があったのだが、キリシタン大名が東軍、西軍、中立派にうまく勢力が分れた上に、中立派を装っていた有馬晴信と大村喜前が、同じキリシタン大名である小西行長の居城を、関ヶ原の戦いの直後に攻撃したことが幸いして、結果として大きなダメージを受けずに済んだのである。
彼らは、天下分け目の戦いの後でも、九州地域におけるキリスト教が優勢な状況を維持することができたのだが、このような彼らにとって望ましい状況が、多くのキリシタン大名がそれぞれの判断で行動した結果なのだとすると、少々出来過ぎた感がしないでもない。
もしかすると、彼ら宣教師の中にこのような結果を生むための戦略を練った知恵者がいて、キリシタン大名の何人かはその指示に従って動いたということではなかったのだろうか。

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日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
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徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯

前回の記事で、徳川家康は当初はキリスト教に比較的寛容であったことを書いた。
寛容ではあったが、家康がキリスト教を信仰していたわけでもない。どちらかといえば警戒していたのだが、かといって秀吉の禁教令を棄てたわけでもなかった。

ではなぜ家康は、当初はキリスト教に寛容であったのか。
徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』でこう解説している。文中の「耶蘇教」というのはキリスト教のことである。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

彼は宗教と貿易が、至近至密の関係にあるを看取し、対外貿易を隆盛ならしむるには、外教の伝来をも黙許せねばならぬ事情を、洞察したためである。坊主悪ければ袈裟まで憎いの反対で、外国商船の来たるを望むのあまり、外国船教師の来たるのをも、甚だしく拒まなかった。いわば、耶蘇教は、外国貿易には付属物だと考え、これを奨励せざるまでも、これを容認したのであろう。

関ヶ原役において、オランダ船リーフデ号の水先案内者安針(アダムス)より、18個乃至20個の大砲を購い、少なからざる便益を得た家康は、いかに外国貿易が、必要であるかを自覚するに余りあった。…彼は外国貿易と、交通とが、一国の富を増殖し、生活を向上し、かつ知見を開発する上において、少なからざる利益有るべきを会得し、極力これを奨励せんとした。しかしてこれがために、やむをえず、耶蘇教師の表向き国法と抵触せざる範囲における、行動を認容した

しかし家康は本来、耶蘇教に好意を持っていなかった。彼は用心深き性質であった。ゆえに、耶蘇教については、少なからざる注意を払うて、その国内に及ぼす利害得失を監視していたに相違ない。ただ当分の内、貿易に欠くべからざる付属物として、貿易奨励のため、これを認容していたにすぎぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/21

LiefdeAlone.jpg

少し補足しておく。
慶長5年(1600)の3月に、豊後国の臼杵にオランダ船・リーフデ号が漂着した。その船は5隻からなる船団を組んで、1598年にロッテルダムから出航しインドに向かったのだが、悪天候のために他の船と離れてしまって漂流している内に、22カ月もの航海でようやくわが国に漂着したのである。出航時には110人も乗り込んだ船だったが、漂着時には生存者はわずか24名だったという。その中にイギリス人のウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)オランダ人のヤン・ヨーステン(日本名:耶楊子)という人物がいて、家康はこの二人をのちに江戸幕府の外交顧問として採りたてることになる。

ところで、このオランダ船・リーフデ号の漂着をポルトガル人やスペイン人は喜ばなかった。彼等は、乗船していたオランダ人やイギリス人の処刑を要求したのだそうだが、家康はウィリアム・アダムスらを大阪に招いて西洋諸国の事情を問いただしている。

徳川家康

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第13 家康時代 下巻』に、『アダムス書簡』に記されている家康とアダムスとのやり取りの場面が引用されている。

大君(家康)はさらにポルトガル、スペインがオランダを敵視する理由と、その戦争の模様とを尋ねた。予(アダムス)はいちいち明細に答えたが、大君はすこぶる満足の様子であった。…予らは牢にある三十余日、もとより十字架上の刑を予期した。何となれば、ポルトガルの耶蘇会(イエズス会)徒らは、予らを誣(し)いて盗賊となし、予らを誅戮(ちゅうりく)せば、オランダ人も、英国人も、再び大君の威に恐れて、日本に来たることなかるべし、と讒訴(ざんそ)したからだ。
 しかも大君はこれを斥(しりぞ)けた。オランダ人やイギリス人は汝らの敵であるも、日本人には何等の損害を与えたことがない。汝らの敵国人であるからとて、日本の大君は、これを殺すべき理由がない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818/150

徳川家康がアダムスに対し、ポルトガルやスペインがオランダを敵視する理由を尋ねたということは、ポルトガル、スペイン、オランダの三国がそれぞれ敵対関係にあることを敏感に感じとっていたのだろう。アダムスがどう説明したかまでは記されていないのは残念だが、このブログで書いてきたように、太陽の沈まない国・スペイン帝国では属領のネーデルランド(オランダ)やポルトガルで紛争が激化していた時期であったことを知るべきである。

徳川初期の海外貿易家

大正5年に出版された川島元次郎著の『徳川初期の海外貿易家』という書物では、家康がアダムスらを登用した背景をこう解説している。

「(家康は)宇内の形勢を考察し、リーフデ号乗組みの蘭英人(オランダ人、イギリス人)は、早くわが国において通商および宗教上に侮るべからざる勢力を有する葡西(ポルトガル、スペイン)両国人の讐敵にして、二者相容るべからざる関係に立てるを洞察し、葡西人牽制の政策上、この新来の外人を厚遇するの利なるを看破したりけん、…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951020/201

すなわち家康は、アダムスらを優遇することが、スペイン・ポルトガルを牽制することにつながると考えたわけだが、さすがに戦国時代を勝ち抜いた人物だけあって、人の使い方が見事である。
家康はアダムスに大型船の建造を命じ、のちに250石の旗本に取り立てて帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に領地も与えたという。

三浦按針

アダムス自身が、自らが受けた待遇について記した文章が、徳富蘇峰の前掲書に引用されている。
大君は予を遇すること甚だ厚く、英国の大名にも比すべき地位を賜い、八、九十人の百姓を、従僕として給せられた。かかる貴き地位を外人に与えることは、予が最初である。
予がかく大君の信用を得たから、前に予を敵視したる葡西人らの驚きは、大方ではなく、いずれも媚びを呈し、友として交わらんことを希(ねご)うている。予は怨みを棄てて、彼らのために尽力している。(『アダムス書簡』)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818/171

家康はリーフデ号の高級船員であったオランダ人のヤン・ヨースティンも厚遇したのだが、彼らの協力を得て、江戸幕府とオランダとの交易が開始され、後にイギリスとも交易が始まることとなった。

家康の時代には日本人が盛んに南方の各地に往来するようになり、外国の船もわが国に訪れて、外国貿易が一層盛んに行われるようになるのだが、慶長14年(1609)、肥前日野江藩(後の島原藩)主有馬晴信の朱印船の乗組員がマカオに寄港したおり、ポルトガル船の船員と取引を巡って騒擾事件を起こし、マカオ総司令アンドレ・ペソアが鎮圧して晴信側の家臣と水夫ら約60人が殺されるという事件があった。(マカオの朱印船騒擾事件)
これに怒った有馬晴信は徳川家康に仇討の許可を求め、そこへアンドレ・ペソアがマードレ・デ・デウス号に乗って長崎に入港したため、晴信は多数の軍船でこの船を包囲しデウス号を攻撃し、船長は船員を逃して船を爆沈させている。(マードレ・デ・デウス号事件)

その後有馬晴信は、デウス号撃沈の功績による旧領(当時鍋島領)回復を試みたがなかなか実現しないために、老中本多正純に与力として仕えていたキリシタンの岡本大八に接近。大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、自分が老中の仲介となるのでそのための資金を無心したという。晴信は、老中の働き掛けがあれば旧領の回復は可能と考え、結果として6000両もの金銭を大八に騙し取られてしまう。(岡本大八事件)

その後、大八の犯罪が露見し、慶長17年(1612)3月21日に安部河原で火刑に処せられたのだが、この同日に江戸幕府は公的に幕府直轄地に対してキリスト教の禁教令を布告して大名に棄教を迫っている。そして翌慶長18年(1613)2月19日には、禁教令を全国に拡大し、金地院崇伝に「伴天連追放之文」を起草させている。

高山右近

そして、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、翌慶長19年(1614)11月には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されている。高山右近もこの時にマニラに送られている。

家康が突如キリスト教を禁じた理由は、通説では、岡本大八のようなキリシタンが幕府の中枢近くにいることに家康が驚いたというものだが、私にはこの説にあまり説得力を感じない。なぜ一人の収賄事件でキリスト教を全面禁止し、主要なキリシタンを国外追放することにまで発展したのか、あまりピンと来ないのだ。

徳川家康金地院崇伝に書かせたという「伴天連追放之文」が、徳富蘇峰の前掲書に引用されているのだが、これを読んでも、なぜ家康が急にキリスト教を禁止したという肝心な点が見えてこない。

「かの伴天連の徒党は、みな件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を損い善を損す。刑人あるを見れば、載(すなわ)ち欣(よろこ)び載(すなわ)ち奔 (はし) る。自ら拝し自ら礼し、これをもって宗の本懐となす。邪法にあらずして何ぞや。実に神敵仏敵なり。急に禁ぜざれば、後世必ず国家の患(うれい)あらん。ことに号令を司りこれを制せざれば、却って天譴を蒙らん。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/78

また徳富蘇峰の前掲書には、日本に来ていたある宣教師の報告(スペインのセビリア市インド文書館所蔵)が引用されている。

「数年来当地(日本)にある一人のイギリスの航海士(アダムス)は諸国の語に通じ、宣教師らに対し、親友たるがごとく装(よそお)えども、その実甚だしき異教徒にして、重大事件においては、悉くわれらの敵だ。…さきに耶蘇教徒および宣教師に対して、甚だ惨酷なる迫害の起こったのも、彼が国王(家康)に説いて、宣教師の日本にあるは、日本国民を救済するためではなく、多数の信徒を得、スペイン人と共謀して、日本を征服し、ペルーおよびノビスパン*の如くなさんとするにありと言い。国王はこれを信じ、この一事が、迫害の一原因となったとは、当人の英人の口から、われらの親しく聞いたところである。」
*ノビスパン:北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領地を指す名称
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/75

しかし、キリスト教の宣教師たちはわが国を侵略するために派遣されたという説は、すでに1596年のサンフェリペ号事件の時に豊臣秀吉らには知られていたものであり、家康が17年間もこのことに気付かず、アダムスも来日後13年間もこのことを家康に伝えなかったということは考えにくいところである。

では、なぜ家康がキリスト教に対する施策を急変させたのか。

徳川幕府は慶長18年(1613)12月27日以降京都、伏見、大阪、堺のキリスト教信徒(外国人、日本人)の名簿の作成を命じているのだが、蘇峰はその背景についてこう解説している。

徳富蘇峰

耶蘇教徒が、頻りに大阪と交通する傾向があったから、特にこの際において、禁教令は発布せられ、かつ励行せられたものであろう。現に高山右近の如きも、秀頼より大阪に迎えんとしたが、退去の後*にて及ばなかったということだ。
 大阪の陣**に際しては、耶蘇教徒の在城者は少なくなかった。これは追放の結果、ここに至ったのか、もしくは家康が追放しなかったらば、更に多くの耶蘇教徒が入城したであろうか。それはいずれも想像に過ぎぬ。しかし、大阪事件の破裂に先立ち、家康が耶蘇教徒に、一打撃を加えおくの必要を感じたことは、間違いあるまい。」
*「退去の後」:慶長19年(1614)に高山右近が国外追放された後の意
**大阪の陣:江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。大坂冬の陣(慶長19年:1614)、夏の陣(慶長20年:1615)

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/84

豊臣秀頼は、キリシタン武将を集めて江戸幕府と本格的に対決する準備をしていたという。同上書で蘇峰は、パジェーの『日本耶蘇教史』には次のような記述があることを紹介している。

豊臣秀頼

秀頼は新たに軍兵を募り、50人の部将を聘した。その内には豊後の旧主ドン・フランシスコ*の子息、右近**殿の子息もあった。明石掃部***、およびその部下の外に、尚五畿内および北国の追放耶蘇教徒の、秀頼に加担せしもの少なくなかった。中にはジュスト右近**殿の旧臣も混じていた。而して六旒(ろくりゅう)の大旗に、神聖なる十字架と、救世主の像、または聖ヤコブの像を描きたるものを用いた。耶蘇教徒に充ちたる、秀頼の軍隊は、其間に多くの宣教師があった。彼等はいずれも教役を行なわんがために来集した。」
*ドン・フランシスコ:大友 義鎮(宗麟)
**右近、ジュスト右近:高山右近
***明石掃部:備前保木城主の明石飛騨守景親(行雄)の子、明石全登

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/84

1280px-The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

もし家康がキリスト教に対して寛大な状態のままで、豊臣家との戦いに突入していたらどのようなことになっていただろうか。
江戸幕府は、外国勢力からの軍事資金や武器支援と勇猛なキリシタン武将を味方につけた豊臣軍を相手に戦うことととなり、最終的に江戸幕府が勝利したにせよ、かなり苦しい戦いを強いられたことは間違いないことだろう。
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【ご参考】
有名な「方広寺鐘銘事件」は、慶長19年(1614)の出来事で、家康が金地院崇伝に「伴天連追放之文」を起草させたのが慶長18年、高山右近らが国外追放を受け、大坂冬の陣が起こったのが慶長19年だ。これらの事件は全部繋がっている。
この方広寺という寺は、創建以来約400年の間に、大仏は5回潰れ大仏殿は3回倒壊した寺なのだが、この寺を訪れて、この寺の歴史について書いてみました。

東大寺の大仏よりもはるかに大きかった方広寺大仏とその悲しき歴史
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-86.html


家康は外国貿易を広めたが、ではスペインやポルトガルはわが国から何を買い求めていたのか。鉄砲や日本刀などの武器が多かったのだが、同時に大量の「日本人」も取引されていたことが、戦後の歴史叙述からは欠落してしまっています。興味のある方は覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html




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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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