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戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。


板垣退助像

慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政府は同日の小御所会議で激論の末、徳川慶喜を新政府に加えず、さらに慶喜に内大臣の官職と領地の返上を命じている。当然旧幕府側はこの措置に強い不満を抱いた。

鳥羽伏見の戦い

そして翌年の1月に、薩長を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間で、京都の近くで武力衝突が起こり、新政府軍はこれに勝利した。世に言う「鳥羽伏見の戦い」で、「戊辰戦争」はこの戦いよりはじまる。

新政府軍は徳川慶喜を朝敵として江戸へ軍を進め、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟との交渉により、江戸は戦火を交えることなく新政府軍に占領された。

しかし一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗して各地で新政府軍と戦ったのだが、彼らの中には徳川政権の聖地日光廟で決戦を行なおうとするメンバーがいた。
慶応4年(1868)4月12日に下総市川の国府台を出発し北上を開始した旧幕府側の歩兵隊約2千名は、日光に向かう途中の宇都宮で新政府軍と激突した。

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Wikipdiaの「宇都宮城の戦い」によると、「この歩兵隊は、当時最新鋭の火器を具しフランス式歩兵兵術で訓練された精鋭伝習隊を中心とし、これに歩兵第七連隊や桑名藩隊、回天隊、新選組等が参加、軍総監と軍参謀をそれぞれ大鳥圭介と土方歳三が務めていたとされる。旧幕府軍は下総国松戸小金宿で大鳥率いる本隊と土方率いる別動隊の二手に分かれ、宇都宮城を東西から挟撃するため、それぞれ下野国壬生・鹿沼および真岡へと向かった。」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

宇都宮城

この「宇都宮城の戦い」における旧幕府軍残党勢力と、東山道総督府軍を中心とする新政府軍との戦いは、当初は旧幕府軍が優勢であったが最終的には新政府軍が勝利し、その結果、宇都宮城二ノ丸御殿や三ノ丸の藩士邸宅、宇都宮二荒山神社をはじめ、城下の建造物の多くが焼失したそうだ。

新政府軍の猛攻を受けて、これ以上の宇都宮城の維持は難しいと判断した大鳥圭介は、指揮下の軍勢に宇都宮城から脱出して日光への退避を指示し、このあとは戦いの舞台は日光に移り、旧幕府軍は徳川家の聖地である日光廟を背景に日光山に陣を張ったという。

この時に、旧幕府軍の大鳥圭介らと対峙したのが、新政府軍の板垣退助であった。

板垣退助

板垣は鳥羽伏見開戦の直後に土佐藩迅衝隊の大隊司令に任命され、江戸に向かって新政府軍に加わり、東山道先鋒総督府参謀として関東地方を中心にゲリラ戦を展開している旧幕府の大鳥圭介率いる旧幕府伝習隊の討伐を命じられていたという

『我が愛すべき幕末』というサイトに『板垣退助と日光東照宮』という記事がある。
関連する部分を引用させていただく。

「板垣は土佐藩兵を率いて江戸を出発すると、壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)において、大鳥らが日光東照宮のある日光山を本拠として立てこもっているとの情報を得ました。日光東照宮と言えば、江戸幕府を樹立した徳川家康の祖廟を祀り、文化財的にも非常に貴重な建築物です。板垣はそのような貴重な建物がこれから戦火によって焼失してしまうことを憂い、鹿沼という場所において、日光の末寺を探させ、そこの僧侶を呼び出して次のように言いました。

『日光にはただいま危機が迫っている。敵が日光に立てこもる限り、我々はこれを攻めなければならないが、そうなれば焼討ちにもかけねばなるまい。東照宮を尊敬するのならばいさぎよく撃って出て、今市(現在の栃木県今市市)で勝敗を決すべきではないか。あくまで日光に拠って戦うというのは東照宮(家康公)への不敬にあたるし、建築も兵火からまぬがれない。おぬし、この理を説いて徳川の将を説得せよ』

 板垣は大鳥ら旧幕府軍を日光から下山させ、貴重な建築物である東照宮を焼失から防ごうと考えたのです。
 この板垣の言葉に動かされた日光の末寺の僧侶は、日光の本山へと向かい、そして大鳥ら旧幕府軍の将兵達は板垣の発した言葉に動かされ、最終的に日光山を下山することを承諾しました。
 旧幕府軍が去り、後に日光東照宮に入った板垣は、兵士達に乱暴狼藉を働くことを厳しく禁止し、自らは旧来の作法にのっとって、神廟に拝礼の儀式を行ないました。その板垣のとった立派な態度は、東照宮の僧侶達を感激させたと伝えられています。」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/bakumatsu13.htm

板垣を「日光の恩人」であると説明する文章はだいたいこのように書かれているのだが、旧幕府軍の大鳥らが下山したのは板垣の説得によるものと解釈することは正しいのだろうか。

大鳥らが宇都宮から日光への逃避行をしている間に、旧幕府軍には士官・兵士の脱走が相次ぎ、脱走の際に大量の軍資金が持ち逃げされていたようだ。さらに小銃の弾薬が不足していたし、その補給の目途も立たなかった。その上、勇猛な桑名藩兵が4月25日に藩の事情により離脱していたことも大きかったと思われる。

戊辰戦争について詳しく調べておられる『上杉家の戊辰戦争』というホームページで「野州戦争* 第三章:板垣退助と大鳥圭介、今市の地で激突」を読むと、このあたりの事情がかなり詳しく記されている。(*野州=下野国[現在の栃木県]のこと)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/utunomiya/imaichi.htm

新政府軍にすれば、堅固な石垣に囲まれた日光山に篭る大鳥軍を撃破するためには、土佐藩兵から多くの犠牲者が出ることが避けられない。
また旧幕府軍からすれば、日光山は堅固な要害ではあったにせよ、補給の当てがない状態で新政府軍と戦っても勝てる見込みはなく、日光山で玉砕することが避けられない状況にあったようだ。

『會東照大権現』というホームページの『野州戦史料』には、戊辰戦争の野州戦争に関わった人々が書き記した記録の原文が多数紹介されている。
http://www.geocities.jp/aogiri40/siryou.html

4月26日の『日光山東照宮記』によると

廿六日の早天に、別当僧大楽院、卒爾に東照宮神体、並在世の宝器類を荷て山中に入り、栗山村に退き、兵威を避けんと擬して、一社当直の人共に荷を持たしめ奔出つ。」
とあるように、日光東照宮では最悪の事態を考慮して御神体や宝物類を運び出し、3日かけて会津若松城の三の丸南方の東照社に安置したことが記されている。それほど戊辰戦争の戦渦に巻き込まれる可能性が高かったのである。

大鳥圭介

また同じホームページで、旧幕府軍の大鳥圭介が記した『南柯紀行』の4月29日の記録を読むと、大鳥軍のこの日の軍議が二つに割れたことが記されている。

「兵隊中議論二種あり、甲は今此に弾薬兵粮の儲(たくわえ)もなく、持久せば不日困迫に至るゆえ一旦会津境内に入り一体の規律を調え薬粮を備え而して後再び帰り来るを良とすと、乙曰く今眼前に敵兵の来るを見て一戦も為さず会領に入るは武人の恥ずるところなり、薬弾は乏しと雖も血戦して神廟の前に死せば是れ元より願う所の墳墓の地なれば遺憾なしと云。両説共に理あり。乍去乙は真に愉快の見識なれども衆人の行いがたきところにしえ、歩兵共にて殊更土崩瓦解を免れず、故に予は甲説の方穏やかにして全隊を取締るにも最も良しと思えり、因て本日早朝各隊の士官を集会し各別に異見も之れなき故に、今より先ず傷者を運出する手筈を為し今晩にも爰許出発可然と各隊へ令を伝えり。」
http://www.geocities.jp/aogiri40/0429.html

谷干城

かくして、大鳥軍は抗戦を続けるために、29日の夜半から会津藩を目指して脱出を開始しのだが、新政府軍の谷干城(土佐藩)が記した『東征私記』を読むと、その29日の記録はこうなっている。

明日日光を進撃に決議せり。余四五輩を師い物見として関門より五六丁進行の所、赤衣の僧両人従僕五六人を連れ扇を振い来る。蓋し発砲を恐れてなり。余の前に来り恭しく礼して隊長に面談を乞う。余云、我れは土州の軍目付なり、何にても我れ承るべしと云。僧云、然れば暫く此の方へ御出て被下度とて、傍らの明き屋に入り、密(ひそか)に余に語りて云、拙僧は日光の櫻本院、安居院の両人なり。何分暫時の所御進軍御差止め被下度、山内にて戦争に及び候ては険難の地故御怪我も少かるまじ、且神廟寺院も如何相成るやも不計万々心痛に付、是非共暫く御止り被下度と達々相頼み申すにつき、余応じて云、我輩朝命を奉じ賊徒討伐の為来れり、貴僧如何計り懇願すとも、賊の籠りたるを知りながら私に軍を止むることは出来ず、人を損ずるは戦地の習い固より顧る暇なし、併し神廟に放火するは全く不忍所なり、…貴僧彼輩を督責して云べし、進で官軍に当る歟(か)又は軍門に降参する歟、速に索を可決、居ながら官軍を引受て神廟を汚すに至るべからずと。」

このように、新政府軍が翌日に日光を攻撃することは軍議で決定していたのである。
二人の僧侶が現われて、「日光への進軍を思いとどまって欲しい」と懇願してきたが、谷干城は「賊軍が立て籠もっていることを知りながら進軍を止めることはできない」と答えた上で、「日光に残って官軍と戦って神廟を汚すな」と言ったのである。新政府軍は進軍を止めると答えたわけではないのだ。

大鳥軍が日光山を退去したことを知らされないまま、閏4月1日に新政府軍は旧幕府軍との交戦を想定して進軍をはじめたのだが、日光山に到着してみると、予想に反して日光山はもぬけの殻だったというのが真相である。

日光東照宮

かくして、日光東照宮や二荒山神社や輪王寺などの寺社はギリギリのところで戦火から免れたのだが、このような事情を知ると、板垣が旧幕府軍を説得して日光の社寺を兵火から守ったという通説が正しいとは、誰も思えないだろう。新政府軍は旧幕府軍の日光退去を条件に戦闘をやめたわけではなく、軍議通りに日光に進軍したところ、相手が退去したあとだったので戦争にならなかっただけのことなのだ。

板垣退助率いる新政府軍が旧幕府軍に圧力をかけたことが、結果として旧幕府軍を神域から退去させ、日光を戦いに巻き込まれることから防いだ、とでも書くべきところなのだろう。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-173.html

東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-174.html


古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1

栃木県の宇都宮に行く用事があったので、ついでに一泊して日光に行ってきた。
中禅寺湖方面は紅葉が見ごろを迎えていたため渋滞が避けられないので諦めて、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺のほか、古い日光の姿を残している場所を求めて、観光客のあまり行かない場所をルートに入れてみた。

深夜バスで早朝に宇都宮駅に着いてレンタカーを借りて、最初に向かったのは開山堂と瀧尾(たきのお)神社である。いずれも無人なので次のURLの地図などを参考にして、瀧尾神社をカーナビの目的地に設定して出発した。
http://www1.ocn.ne.jp/~mtnikko/kaizanndoutakinoo.html

開山堂と観音堂

神橋(しんきょう)のT字交差点を右折し、道なりに進むと稲荷川を渡る橋があるが、その橋の手前を左折して細い道を500m程度進むと、観音堂(県指定有形文化財)と、日光を開山した勝道上人の霊廟である開山堂(国重文)がある。
駐車場のスペースはこのあたりに4台程度あるだけだが、早く来た甲斐があって停めることができた。

観音堂には将棋の駒がたくさん奉納されているが、よくみると、将棋の駒はすべて「香車」ばかりである。観音堂の案内板を読むと「将棋の駒の香車が戻らずに直進する駒なので、妊婦がこの駒を持ち帰り、自宅の神棚に祀ると、無事出産できるという安産信仰」だと解説されていた。無事に出産すると新しい駒をつけて返納するので、駒は増え続けることになる。
観音堂の本尊は聖観世音菩薩で仏教施設なのだが、石の鳥居が正面にあるのが面白い。
神仏混淆の名残なのだろうが、昔はこのような祠が全国各地にあったのだろう。

開山堂の本尊は運慶作と伝えられる木造地蔵菩薩坐像で、勝道上人とその十大弟子の像も祀られているそうだ。毎年4月1日の開山祭が行なわれて、そのときに内部が公開されるのだという。

開山堂と杉並木

開山堂の奥に勝道上人の墓とされる五輪塔があるが、この辺りは大きな杉並木に囲まれて陽光はほとんど入らず、墓は苔むしていて、日光の長い歴史を感じさせる場所でもある。

仏岩

そのさらに奥には岩窟があり、日光を開山した勝道上人は、弘仁8年(817)3月1日に入寂し荼毘に付された後、この地に埋葬されたと伝えられている。岩窟には六部天と呼ばれる6体の石像が並んでいる。
この石像の上にある岩壁に、むかし仏の姿をした岩が並んでいたそうだが、地震で岩が崩壊れてしまって消失してしまったという。にもかかわらず、今もこの岩を「仏岩(ほとけいわ) 」と呼ぶのだそうだ。

さらに北に進んで、瀧尾神社の入口に到着した。
滝尾高徳水神社という小さな祠があり、その周囲に15台程度駐車できるスペースがある。

瀧尾神社の歴史を調べると、弘仁11年(820)に弘法大師空海が建立したとされ、かつては二荒山神社(新宮)、本宮神社(本宮)、とともに日光三社権現の一つで、六十六部聖が法華経を納める聖地であったというのだが、今は二荒山神社の別宮となっている。

白糸の滝

滝雄神社に続く石段の左に、白糸の滝と名付けられた高さ10m程度の小さな滝がある。

影向石

急な石段を登って行くと、弘法大師が神霊の降下を祈願したという影向石(ようごうせき)がある。

瀧尾神社鳥居

しばらく進むと、「運試しの鳥居(国重文)」と呼ばれる石造りの鳥居がある。
鳥居の中央には丸い穴があり、この穴に小石を3つ投げて、穴を通った数で運を試したということからこの名が付けられたのだそうだ。
無人の神社なのだが、参道は思いのほか綺麗に掃き清められていた。

滝尾神社楼門

これが瀧尾神社の楼門(国重文)だが、明治の神仏分離以前は左右に仁王像があり、中央には「女体中宮」と書かれた扁額があったという。

瀧尾神社拝殿

楼門をくぐると拝殿(国重文)がある。この建物は正徳3年(1713)に建てられたものだが、ずっと昔は倍くらいの規模があって、左側は谷下まであって、清水の舞台の様に高床が造られていたという。

瀧尾神社拝殿と本殿

拝殿の奥には本殿(国重文)があり、本殿の入口には唐門(国重文)がある。この建物も拝殿と同じ年に建てられたものだそうだ。
普通の神社の本殿は、背面に扉が設置されていることはないのだが、この本殿の背面には扉があり、ご神体である女峰山が遥拝できるようになっている。

瀧尾神社三本杉

また本殿の奥にはご神木の三本杉が祀られている(鳥居は国重文)。
この場所は弘法大師がこの場所で修業をしたときに、田心姫命(たごりひめのみこと)が現われた場所だと伝えられている。

瀧尾神社子種石

さらに進むと瀧尾稲荷神社や酒の泉や子種石がある。上の画像は安産を祈願すれば霊験があるという子種石だが、石の前の鳥居も国の重要文化財に指定されている。

瀧尾神社の散策を終えた後、再び細い道を走って神橋の交差点に戻り、レンタカーを輪王寺の近くの駐車場に入れて、徒歩で日光の中心部の散策をはじめることとした。

神橋

神橋の紅葉の写真を撮ってから、神橋から続く遊歩道を右に進んで150mほど進むと四本竜寺の観音堂(国重文)と三重塔(国重文)が見えてくる。地図は次のURLが参考になる。
http://www1.ocn.ne.jp/~mtnikko/sihonnryuji.html

前回の記事で、日光山は天平神護2年(766)に勝道上人によって開かれて四本竜寺が建立され、その後山岳信仰の場とし多くの行者が修行に訪れるようになったことを書いたが、日光山の草創の地はこの辺りであり、奈良、平安時代にはこの場所が日光の中心場所だったのである。

四本龍寺三重塔

四本竜寺の三重塔は、源実朝の供養のために、仁治2年(1241)に現在の東照宮の地に建てられたものを後にここに移したのだそうだが、貞亨の大火(1684)で焼失してしまい、翌年に再建されたものが現在残されている。

本宮神社拝殿

三重塔から続く参道に沿って本宮(ほんぐう)神社があるが、この神社の創建は、神護景雲元年(767)に勝道上人が二荒山(男体山)の神を祀る祠を建てたことに始まるとされる。上記画像は本宮神社の拝殿(国重文)である。

瀧尾神社の説明で触れたが、かつては二荒山神社(新宮)、本宮神社(本宮)と瀧尾神社が日光三社だったのだが、今では訪れる観光客はわずかしかいなくて、二荒山神社の別宮となっている。

本宮神社本殿と四本竜寺の三重塔

上の画像は本宮神社の本殿(国重文)なのだが、本殿の後ろに四本竜寺の三重塔が見えるところがいかにも日光らしいところである。
明治の廃仏毀釈が行なわれるまでは、このような風景が各地にあったと思うのだが、日光では神仏習合の名残ではないかと思われるところが少なくないのだ。

東照宮が遷座されるまでは、日光参詣の中心地は瀧尾神社や本宮神社であったのだが、江戸幕府が威信をかけて日光を再開発したことにより、日光の祈りの風景がすっかり変わってしまった。

瀧尾神社や四本竜寺や本宮神社には、東照宮や二荒山神社や輪王寺のような立派な建物はどこにもないのだが、大きな建物ではとても感じることのできない不思議なパワーがあり、癒されるのである。

風光明媚な場所に美しい日光の自然と調和する建物が建てられ、千年以上の長きにわたり人々の信仰を集めてきた「聖地」は、無人ではありながら、今も地元の人々により参道が綺麗に掃き清められて、参拝者の訪れを待ち続けているかのようである。
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【ご参考】
このブログで、神仏習合の風景を訪ねて記事に何度か書きました。
良かったら覗いて見てください。

東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-217.html

吉備路の古社寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-95.html

香住から但馬妙見山の紅葉と朱塗りの三重塔を訪ねて~~香住カニ旅行2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html


紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2

前々回の記事で、輪王寺が明治政府の神仏分離令で大揺れに揺れ、徳川幕府という大スポンサーを失った日光の百十ヵ寺の僧侶は無給で暮らすことを余儀なくされ、80余名の僧侶たちは、満願寺(現在の輪王寺)の本坊で合宿して暮らしたことを記したが、明治4年(1871)5月にはその満願寺の本坊が全焼してしまった。その本坊の跡地が今は輪王寺の宝物館となっているようだ。

輪王寺逍遥園

最初に逍遥園に入ったのだが、この庭は本坊庭園の遺構で、江戸時代初期に小堀遠州によって作庭されたと伝えられている。
10月下旬だというのに結構紅葉していたのは嬉しかった。日光の紅葉は関西よりも2週間以上早いようだ。

東日本では最大の木造建築物である三仏堂(国重文)が50年ぶりの大修理中のために、仮囲いで覆われていたのは残念であったが、ほとんど解体された工事現場を見てもそれ程面白いものではない。完成するのは平成30年の予定だという。

今はごく一部を観ることができるだけだが、「三仏」というのは木造千手観音坐像、木造阿弥陀如来坐像、木造馬頭観音坐像で、これらは二荒山神社の御祭神にあたる日光三所権現の本地仏である。

木曽路名所図会 日光

三仏堂は今では輪王寺の中心施設であるが、明治時代初期までは二荒山神社本社の東側(現社務所)にあったようだ。
『木曽路名所図絵』巻之六に江戸時代の日光の絵が描かれているが、日光東照宮の五重塔と新宮(二荒山神社)の間に三仏堂と相輪橖(そうりんとう)があったことが分かる。
前々回の記事で記したとおり、明治に入って神仏分離令が出され、三仏堂は相輪橖とともに二荒山神社の東側から輪王寺の境内に移されたのである。

輪王寺糸割符灯籠と相輪橖

上の画像の中央にあるロケットのようなものが相輪橖(国重文)だが、これは寛永20年(1643)に慈眼大師天海が比叡山延暦寺にある伝教大師最澄建立の相輪橖を模したものと伝えられている。塔内に千部の経典を収蔵されているという。
その横には慶安元年(1648)に生糸貿易をになう糸割符(いとわっぷ)仲間が、徳川家康による生糸貿易の特権付与に対する謝意を表して東照宮に寄進した唐銅製灯籠(糸割符灯籠)もある。

輪王寺護摩堂の紅葉

相輪橖の左には大護摩堂があり、中では護摩壇に火が点っていて、ちょうど護摩祈願が行なわれているところであった。ここでは朝7時半、午前11時、午後2時に毎日護摩祈禱が行なわれていることが案内されていた。
大護摩堂の近くの紅葉が見ごろを迎えていたので、思わずシャッターを押した。

日光東照宮五重塔

輪王寺から東照宮に向かう。
日光東照宮の石の鳥居(国重文)をくぐるとすぐに五重塔(国重文)が見えてくる。
慶安2年(1649)に大老酒井忠勝が寄進した塔が落雷で焼失したために、文政元年(1818)に酒井忠勝の子孫である老中酒井忠進(ただゆき)によって再建されたという。
東照宮は徳川家康を祀る神社なのだが、その境内地に仏教寺の建造物である五重塔が建てられているのは、神仏分離を進めようとした明治政府にとっては看過できなかったに違いない。この五重塔も輪王寺に移せと命じられていたのだが、日光山の総代・彦坂諶厚(ひこさかじんこう)や日光の住民らの努力によって、三仏堂と相輪橖のみが輪王寺に移され、日光は神仏分離令の影響を最小限に止めることができたのである。

日光東照宮 神庫

五重塔の近くで昼食をすませたのち、日光東照宮の表門をくぐる。
最初に眼に入ってくるのは三神庫(さんじんこ:上神庫、中神庫、下神庫)で、いずれも国の重要文化財に指定されている。中には千人行列の装束や道具が納められているのだそうだ。
上の画像は上神庫だが、切妻にあるゾウの彫刻が目にとまった。調べるとこの絵の下絵は幕府御用絵師の狩野探幽の筆によるものだそうだ。

日光東照宮 三猿

上神庫の向かいには、神厩(しんきゅう:国重文)があり、猿の一生を描く欄間彫刻がある。有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の欄間もここにある。

日光東照宮 陽明門

右に曲がると国宝の陽明門が見えてくるのだが、残念ながら、昨年から工事に入っていて完成するのは平成31年3月末なのだそうだ。輪王寺の三仏堂の工事もそうなのだが、観光の目玉であるような重要な施設の工事については、日光全体で日程を調整してずらして欲しいものである。

日光東照宮 経蔵

上の画像は陽明門の手前にある輪蔵(経蔵:国重文)で、残念ながら内部は公開されていないが、扉の奥には八角形の回転式の書架があり、昔は天海版と呼ばれる一切経数千巻が納められていたそうだが、今はお経が残されているのだろうか。

日光東照宮 本地堂

左に折れると鳴龍(なきりゅう)で有名な本地堂(薬師堂:国重文)がある。以前は狩野永真安信が描いた竜の絵があったそうだが、残念ながら昭和36年(1961)に焼失してしまい、現在の天井絵は日本画家の堅山南風(かたやまなんぷう)の筆によるものだそうだ。
絵の下で拍子木を打つと、その反響音が竜の鳴き声の様に聞こえるのが面白い。

本地堂のご本尊は、東照宮の本地仏である薬師如来で、輪蔵とともに明らかな仏教施設であり、いずれも明治の神仏分離令が出た際に、輪王寺に移すように命令されたのだが、五重塔と同様の経緯で移転を免れている。

日光ではこのような神仏習合の姿をそのまま残していることは非常に興味深いのだが、Wikipediaによると「本地堂と経蔵の2棟は東照宮と輪王寺との間で帰属について係争中であり、財団法人日光社寺文化財保存会が文化財保護法の規定による『管理団体』に指定されている」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE#cite_note-28

日光東照宮 袖塀

陽明門の両脇には花鳥の彫刻が美しい袖塀(そでべい:国宝)がある。

日光東照宮唐門

陽明門をくぐると、正面に東照宮の本社がある。本社は、唐門(国宝)と東西透塀(すきべい:国宝)に囲まれた空間に、本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造(ごんげんづくり)の構造になっている。

日光東照宮 唐門 意匠

白い胡粉塗りの唐門の彫刻も凝っている。中央に多くの人物が彫られているが、古代中国の舜帝の朝見の様子を描いているのだという。舜帝は中国の古伝説上の聖王だが、この彫刻は家康こそが舜帝に比すべき人物であり、徳川幕府が目指すべき政治は舜帝の治世であることを意味していると理解されている。

日光東照宮 眠り猫

本社の見学を終えて、家康の墓所である奥社に向かう。
入口の坂下門(国重文)手前の東廻廊には、左甚五郎作とされる眠り猫の彫刻がある。

日光東照宮 奥宮 御宝塔

200段余りあるという石段を登って行くと、銅鳥居(国重文)や銅神庫(国重文)、鋳抜門(国重文)などがあり、一番奥に家康公の神柩をおさめた八角九段の基盤の上に立つ宝塔(国重文)がある。

奥社参道を歩いていた時には気が付かなかったのだが、陽明門-唐門-拝殿-本殿-奥宮拝殿-奥社宝塔は一直線上に並んでいるのだそうだ。この配置は、どう考えればよいのだろうか。普通は本殿の奥に墓がある事などは考えにくいことである。

東照宮配置図

作家の今井敏夫氏『二つの東照宮・久能山と日光』という論文がネットで公開されており、その点についてわかりやすく書いておられる。しばらく引用させていただく。
http://jimotononeco.jimdo.com/2013/06/18/20130618/

「日光東照宮の社殿を注意深く見学された人ならば、奇妙なことに気づかれるだろう。それは本殿の背後に扉と后拝(こうはい)、それに階(きざはし)が付いていることである。どんな神社にいっても、本殿の背後に扉がある神社などは、まず見ることがない。同じ東照宮でも、久能山、上野、和歌山、世良田、川越、日吉(坂本)、滝山などの東照宮本殿の背後には扉や后拝は一切見られない。神社の本殿は云うまでもなく、神が鎮座する場所であり、拝殿はそれを拝む所である。拝殿と本殿は東照宮の場合は〃石の間〃で隔てられているが、この隔絶は厳格なもので、例え将軍であろうと本殿内には立ち入ることはできない。
神君・東照大権現(家康)が鎮座する、その本殿の背後に扉があるということは、これは本殿に神君がいないということになるのではないのか
。つまり、本殿が筒抜けの格好になってしまう様式である。
 それでは拝殿において何に向って拝んでいるのか。…そう、家康の廟所、つまりお墓に向って拝んでいることになるわけである。また、本殿の裏側の端垣(透塀・元禄時代までは回廊があった)には北唐門があり、奥宮の廟所の前には拝殿もある。これらはすべて南向きにほぼ一直線上に並んでおり、まことに不思議な社殿の配置といえる。
 久能山東照宮と比較するとよく分かる。本殿は地形上やや南西に向って建てられているが、廟所は明らかに西を向いており、本殿とは一直線上の位置にない。本殿の背後の扉もなければ后拝もない。吉田神道(唯一神道)では、神を本地とするので、墓所を拝礼するなど忌み嫌うところから、当然の建築上の配置であった。久能山東照宮はまったく「大明神造」にふさわしい伝統的な神社的要素の強い社殿形式であった。
日光東照宮では山王一実神道による仏教色の強い社殿形式が必要であり、社殿と墓所の関係は密接にしなければ意味がない。拝殿・本殿・北唐門・廟所を正中線上に並べで参拝の形式をとり、家康の神号「東照大権現」の本地である薬師如来の本地堂を建て、経堂等を配置している。…」
 
今井氏の表現を借りると「寛永大造替の東照宮本殿は、日吉神社本殿と天台仏堂を総合して造られたもので、これこそ山王一実神道の社殿形式」ということになるが、もともと神仏習合の思想で建てられた東照宮を厳密に神仏分離などできるはずがないし、神仏分離を徹底させれば東照宮の建造物の多くを除去することになってしまう。

明治政府は東照宮の本地堂、経蔵、五重塔、鐘楼や仁王像などの移転を命じたのだが、もし政府の言いなりで移転させたり、あるいは破壊してしまっていたら、この時に日光の魅力のかなり多くを失っていたことは確実なのだと思う。
<つづく>

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唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html



日光二荒山神社から国宝・大猷院へ~~日光観光その3

日光東照宮の拝観を終えて、上新道を歩いて二荒山神社の楼門に向かう。

二荒山神社 楼門

楼門をくぐり、鳥居を過ぎると右側に社務所があるが、前回記したとおり、かつてはこのあたりに三仏堂があり、明治初期の神仏分離により輪王寺の境内に移築されてしまったのである。

前回の記事で、江戸時代の日光を描いた『木曽路名所図会 巻之六』の挿絵を紹介したが、拡大してもう一度見てみよう。

木曽路名所図会

画像の右にある「仁王門」は現在の東照宮の表門*で、「大塔」は東照宮の五重塔である。
左端の「新宮」は現在の二荒山神社の本殿であり、その右に「三仏堂」が描かれていることがわかる。
*表門:東照宮の「表門」には仁王像が存置されており、明治の神仏分離までは「仁王門」と呼ばれていた。「仁王」とは寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神であるため、神社である東照宮には相応しくないとの理由で呼称のみを変えたと考えられる。

現在の日光は次のURLの地図が、比較的分かりやすいので、上の画像と見比べて頂きたい。
http://www.mapandnews-japan.com/big_map/toshogu01_big.html

map-toshogu01.gif

誰でも疑問に思うのは、かなり昔から二荒山神社の本殿の近くに仏教施設である三仏堂が建てられたのはなぜかという点である。

『木曽路名所図会』には三仏堂は「日光三社大権現の御本地堂なり」と解説されている。
「日光三社」とは、前々回の記事で書いたとおり二荒山神社(新宮)、瀧尾神社と本宮神社(本宮)である。そして三仏堂にある三つの仏像は、木造千手観音坐像(新宮本地仏)、木造阿弥陀如来坐像(瀧尾神社本地仏)、木造馬頭観音坐像(本宮本地仏)なのである。

神仏習合思想の一つである「本地垂迹説」では、日本の八百万(やおよろず)の神々は、さまざまな仏が化身として日本の地に現われたと考え、その化身として現れた仏を「本地仏」と言い、仏となって現われた神を「権現(ごんげん)」と言う。
日光では男体山を御神体とし大巳貴(オオナムチ)命を祀る新宮(現二荒山神社)と、女峰山を御神体とし田心姫(タキリビメ)命を祀る瀧尾神社と、太郎山を御神体とし味耜高彦根(アジスタカヒコネ)命を祀る本宮神社の三社の本地仏が一堂に存置されているのが三仏堂なのである。
かつては二荒山神社を「日光三社権現」と称されたのだが、このことは、この三仏堂が「新宮」と呼ばれていた場所のすぐ近くにあったことと無関係であるはずがないだろう。神仏習合の考え方からすれば、二荒山神社の本殿や拝殿の近くに三仏堂があることは、理に適っていることなのだ。

ところで、二荒山神社で1200年以上の長い歴史のある「弥生祭」という伝統行事がある。その日程や神輿の巡行ルートを調べると、4月14日には二荒山神社の拝殿から別宮である瀧尾神社に神輿1基が出て、16日に二荒山神社に戻って来る神輿を迎える神事が行われ、17日には本宮神社に3つの神輿が渡御して戻ってくる神事が行われる。
http://www.futarasan.jp/yayoi/nittei.html

明治の神仏分離で三仏堂は輪王寺の敷地に移転されてしまったのだが、三仏堂は日光で最大の建物であり、東日本全体でもこの建物より大きな木造建築物は存在しない。
少なくとも神仏分離令が出るまでは、弥生祭における三つの神輿は三仏堂においても何らかの儀式が行われていなければ不自然だと思うし、また、この三仏堂が年間を通して多くの参拝者を集めていたことは想像に難くない。
二荒山神社は、明治の神仏分離のために日光の社寺の中では最も変質してしまったのだが、もし三仏堂が今もこの場所に残っていたとしたら、二荒山神社の観光客は現在の十倍以上あってもおかしくないだろう。

二荒山神社 本社拝殿

社務所の隣に拝殿(国重文)がある。

二荒山神社 本殿と化灯籠

参拝を済ませて、その西側から二荒山神社の神苑に入ると、右側に本殿(国重文)が見える。本殿の透塀(国重文)の脇にある鎌倉時代に奉納された銅灯籠(国重文)は別名「化(ばけ)灯籠」と呼ばれ、この灯籠に明かりを灯すと周りのものが2重に見えたり、灯籠そのものが様々な姿に変化したと懼れられ、警固の武士たちが刀で切りつけた刀傷が無数に残されている。

二荒山神社の観光を終えて、徳川第三代将軍家光公の廟所である大猷院(たいゆういん)に向かう。
家康は神となったために、日光東照宮は明治の神仏分離以降は神社とされたのだが、大猷院は東照宮とかなりよく似た建造物でありながら、輪王寺の管理下にある仏教施設であるというのはどうもピンとこない。

家光は祖父家康を崇敬し、死後は東照宮の近くに葬ることと、廟所は祖父家康を権現として祀る東照宮を凌いではならないと遺言したという。そのために大猷院は、東照宮よりは規模が一回り小さくなっている。

大猷院 仁王門2

上の画像は仁王門(国重文)だが、お目当ての一つであった二天門(国重文)が改修工事中であったのは残念だった。

大猷院 夜叉門

上の画像は夜叉門(国重文)と左右の廻廊(国重文)だが、夜叉門には四体の夜叉(やしゃ)像が置かれている。
下の画像は、烏摩勒伽(うまろきゃ)といい、金色の弓矢を携えて霊廟鎮護に当たっている夜叉で、正月の縁起物として神社などで授与される破魔矢(はまや)発祥の仏様なのだそうだ。

大猷院 烏摩勒伽

夜叉門をくぐると、いよいよ大猷院の中心部分になる。

大猷院 唐門

唐門(国重文)にはふんだんに金箔が貼られているのだが、漆黒が多く用いられてためか、東照宮の唐門よりも随分シックな印象を受ける。

大猷院 拝殿

唐門をくぐると、国宝の拝殿・相の間・本殿と続く。上の画像は拝殿で、下の画像は、逆光になってしまってうまく撮れなかったが、相の間と本殿を写したものである。

大猷院 相の間・本殿

参拝客が入れるのは拝殿までであったが、拝殿から相の間、本殿を見通すことができる。

拝殿には、教科書などでよく紹介されている狩野探幽の唐獅子図があり、天井には龍の絵が描かれ、秀光の鎧が展示されているなど見ごたえ十分である。金箔で囲まれたすごい空間なのだが、内部の撮影が禁じられていたので、日光山輪王寺のホームページの画像のURLを紹介しておく。
http://rinnoji.or.jp/precincts/taiyuin_before/naibu
構造的には東照宮にかなり似ているが、漆黒の中に輝く金銀の装飾は、東照宮に引けを取らぬ豪華絢爛で一見の価値がある。

大猷院の建物配置図

拝殿で僧侶の説明を受けている時にやたら寒く感じたのだが、普通の寺では本尊は南を向いて祀られるので本堂の正面は南向きになっていることが多い。しかしながら、この大猷院の拝殿や本殿は鬼門の方向である北東を向いているので、昼からは陽光が全く入らないことになる。寒く感じたのはそのためであろう。
ではなぜ鬼門の方向に向いているのかと言うと、北東方向には家康公を祀る東照宮の奥宮があるからだという。これは48歳で没した家光が、祖父である家康を敬愛していて、生前に「死してのちも朝夕東照大権現の側でお使え奉る」と遺言していたことによるのだと言われている。
ところが拝殿や本殿は北東に向いていても、本殿の奥壁の裏にもう一つ部屋があって、そこには釈迦三尊画像が後ろ向き(南面)に掛けられているのだそうだ。

大猷院 皇嘉門

上の画像は、奥院の入口にある皇嘉門(国重文)である。東照宮とは違い大猷院の奥の院は公開されていないため、この門は常時締められているのだが、天井には天女が舞う姿が描かれ、奥院には唐銅宝塔と拝殿があるのだという。

この大猷院は、家光の嫡子である4代将軍家綱によって、翌年の承応元年(1652)2月から大棟梁・平内大隅守応勝の指揮により造営工事が始まり、承応 2年(1653)年 4月 4日に建立されたというが、こんな豪華絢爛の建物がわずか1年 2ヶ月という短期間で完成したことは驚くべきことだ。木造建築の技術に関しては、江戸時代の方が今よりもはるかにレベルが高く、優れた技術者が多かったと思われる。
4月 9日からは家光の命日である20日にかけて、3回忌の法要が盛大に執り行われたのだそうだ。

ヴィラ・リバージュ

朝から瀧尾神社、四本竜寺、本宮神社、輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院と随分歩いて疲れてしまった。他にも見たいところがないわけではなかったが、良い時間になったので、土産物を買ってから、宿のヴィラ・リバージュに向かうことにした。

ヴィラ・リバージュ夕食

夕食は、地酒や地ワインを楽しみながら、自家菜園の無農薬有機栽培で育てた採れたての野菜の盛り合わせや、日光の清流で育ったイワナや霧降高原牛のサーロインステーキなど、出てくる料理がどれも美味しく、大満足だった。
<つづく>
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日光の秋を求めて憾満ヶ淵から田母沢御用邸へ~~~日光観光その4

日光旅行の初日は、瀧尾神社、四本竜寺、本宮神社、輪王寺、東照宮、二荒山神社、大猷院と周ってきたが、東照宮や大猷院が造営される前の日光を描いた絵はないものかと、ネットで探してみた。
ひと昔前なら、万巻の書を手当たり次第に紐解かなければわからないことが、検索キーワードをいくつか選ぶだけで、ネットで簡単に探すことのできる便利な世の中になっているのはありがたい。

日光山古絵図

日光山輪王寺宝物殿にある、元和3年(1617)に制作された東照宮造営前の日光山を描いた三幅の『日光山古絵図』が見つかった。
中央に三仏堂が大きく描かれ、その隣には三重塔がある。
左幅には中禅寺湖の二荒山神社中宮祠や立木観音等が描かれ、右幅には神橋から四本竜寺、本宮神社。道伝いに観音堂、開山堂があり、その先に瀧尾神社が描かれている。
http://www.rinnoji.or.jp/keidai/homotu/past/109-nikkounokoezu/109-nikkonokoezu.html

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトで右幅の大きな画像を見ることができる。開山堂や瀧尾神社の仁王門などの絵は、建物の特徴を良く捉えていて興味深い。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_nikkosan.htm

nikosan_k01.jpg

この絵を見ると、日光東照宮が造営される以前の日光中心部の観光の中心は、二荒山神社や三仏堂や四本竜寺、本宮神社、開山堂、瀧尾神社であったことが誰でも分かる。前回の記事で書いた、毎年4月に行われる二荒山神社の「弥生祭」の神輿の巡行ルートそのものなのである。一度、「弥生祭」を見てみたいものである。

憾満の路

旅行の二日目の朝を迎えて、いつものように早目に起床して、近くを散歩することにした。
宿の方から教えて頂いたルートで、大日橋という橋を渡って途中から大谷(だいや)川沿いを歩くことになるのだが、このルートも結構見どころがあって楽しめた。
地図は次のURLに詳しく書かれているのが参考になる。
http://www.nikko-kankou.org/pamphlet/pdf/nikko_walking.pdf

日光の紅葉

大日橋を渡って振り返ると、紅葉が綺麗だったので思わずシャッターを押した。バックに見える山は二荒山神社の御神体である男体山である。

しばらくは日光・宇都宮道路沿いを東に進み、途中で左折して大谷川の方向に向かう。

化け地蔵2

川沿いに出ると、江戸時代に慈限大師天海の門弟らが「過去万霊・自己菩提」のために刻んだという、苔むしたお地蔵さんが多数並んでいる。
当初は100体余りあったお地蔵さんは、明治35年(1902)の大洪水のためにいくつかが流出してしまい、現在は74体が残っているだけだという。このお地蔵さんを「並び地蔵」と呼んでいるのだが、数えるたびごとに数が違うので「化け地蔵」とも呼ばれているそうだ。

華厳の滝から流れて来る大谷川の激しい水流が、男体山の溶岩を削って美しい渓谷になっている。このあたりは「憾満ヶ淵(かんまんがふち)」と名付けられ、紅葉の名所なのそうだが、訪れた日は色づき始めたばかりだった。

憾満ヶ淵

憾満ヶ淵は古来不動明王の現われる霊地とされ、東照宮を創建した慈眼大師天海の弟子の晃海大僧正が承応3年(1654)にこの地を開き、慈雲寺を創建して霊庇閣(れいひかく)という護摩壇を建て、天下泰平を祈ったと伝えられている。
霊庇閣は洪水のために流出してしまったらしいのだが、昭和46年(1971)に輪王寺によって復元されたものが建っている。
そしてその霊庇閣の大谷川対岸の岸壁に「カンマン」と梵字が刻まれているらしいのだが、見落としてしまった。その梵字が「憾満(かんまん)ヶ淵」という名の由来で、次のURLに岸壁に刻まれた梵字の写真が出ている。
http://www1.ocn.ne.jp/~mtnikko/kannmann.html

慈雲寺

上の画像は晃海大僧正が創建して阿弥陀如来と慈眼大師天海を祀った慈雲寺である。
当時の建物は、残念ながら明治35年(1902)の洪水時に流出してしまい、現在の本堂は昭和48年(1973)に復元されたものだという。現在は無住の寺になっているが、毎年7月14日に輪王寺により盂蘭盆会(うらぼんえ)の法要が営まれているのだそうだ。

浄光寺

含満大谷橋を渡ると、すぐ近くに浄光寺という天台宗の寺がある。
紅葉が美しかったので立ち寄ったのだが、案内立札を読むと1200年以上の歴史のある寺だという。
ここにはこう書かれていた。
「…日光開山の祖・勝道上人が日光一山の菩提寺として、仏岩(山内)に往生院を創設した。これが浄光寺の起源である。」
 
勝道上人が日光を開山したのは766年(天平神護2年)で、「仏岩」というのは、今回の日光の旅行で最初に訪れた、開山堂の近くにある岩のことである。たまたま立ち寄った浄光寺が、勝道上人と繋がるとは思わなかった。

案内はさらにこう続いていた。歴史のある寺だけあって結構古いものが残されているようである。
「延応2年(1240)には日光山本坊光明院(輪王寺の前身)と同時に、その六供浄光坊が創立され、後に往生院と合併した。寛永17年(1640)に当地に移され、現在はこの地の菩提寺である。本堂は、昭和48年に増改築されたが、内陣は江戸期のものをそのまま残している。本尊は、春日仏師作と伝えられる阿弥陀如来三尊坐像。…」

この浄光寺の境内には長禄3年(1459)の銘のある銅鐘(県文化財)がある。この鐘は、もとは本宮神社に奉納されたもので、銘文には「当将軍源朝臣成氏(しげうじ)公」とかかれており、古賀公方足利成氏を将軍としている点で、歴史資料としても注目されているという。

あまり時間をとるわけにはいかなかったので宿に戻ることにしたが、門前の右には庚申塔がいくつか建てられていて、珍しいのでシャッターを押した。

庚申塔

「庚申塔」は、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、日本各地に見ることができる。
「庚申信仰」とはどのようなものかというと、人間の体の中には三尸(さんし)という虫がいて、60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の日に人々が寝静まった夜、その虫が体内から出てきて天帝にその人の悪行を報告し、怒った天帝はその人を早死にさせてしまう。
そうならないために庚申の日は寝ないで夜通し起きていて、三尸(さんし)が体内から抜け出さないように、この夜を一緒に庚申待を過ごす人たちの集まりを「庚申講(講」と呼ぶそうなのだが、それが平安時代から、2ヶ月に1度の楽しい宴会の日となり、娯楽の乏しかった時代に全国に広がっていったと考えられている。
そして「庚申塔」は江戸時代の寛永期以降に盛んに建てられたのだそうだが、明治政府が庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心に撤去を進め、さらに高度成長期の道路拡張で多くが撤去や移転されてしまって、今では田舎町でしか見ることができなくなってしまっている。
このような「庚申塔」が、1200年以上の歴史を持つ寺の門前に何気なく残されていることが嬉しい。

東照宮や大猷院など権力者が残した豪華絢爛の文化財を観賞できるのも日光の魅力の一つではあるが、山を御神体として崇める地元の人々の信仰により、美しい自然だけでなく古い寺社や石仏が残されて、あちこちで歴史的景観を楽しむことができるところにも、日光の魅力を感じるのである。

40分程度の朝の散歩を終えて宿に戻って朝食をとり、早目にチェックアウトを済ませて、最後の目的地である田母沢御用邸(0288-53-6767)に向かう。

田母沢御用邸御車寄

田母沢御用邸は明治31年(1898)に、皇太子嘉仁親王(よしひとしんのう:後の大正天皇)の静養のため、東京赤坂離宮から紀州徳川家江戸中屋敷の一部を移築して翌年に完成され、その後3度にわたり増改築され、第二次世界大戦後に廃用となるまで大正・昭和の2代の天皇の避暑や明仁親王(今上天皇)・正仁親王(後の常陸宮)の疎開に利用された建物だという。

田母沢御用邸庭

大正時代は御用邸の敷地面積が107,000㎡もあったのだそうだが、戦後に御用邸が廃止となったのち庭園の一部が日光植物園に併合されてしまい、今は39,390㎡が日光田母沢御用邸記念公園となっており、平成19年(2007)に「日本の歴史公園100選」に選ばれている。

田母沢御用邸玉突台

いろんな部屋があるのだが、上の画像は御玉突所。
下の画像は「謁見所」で、大正天皇が公式儀礼で用いられた部屋だという。いずれの部屋も、大正期に増築された部分である。

田母沢御用邸謁見の間

田母沢御用邸内部3

ちょうど秋の特別企画で、江戸時代の「半尻」という公家の装束を着た子供の人形が展示されていた。

田母沢御用邸内部2

田母沢御用邸の部屋の数は106で建築床面積は4,471㎡もあり、とにかく広い。
建物の東側には研修室や研修ホールもあり、こんな贅沢な空間が半日1~2千円程度で借りることができるのは、随分割安だ。
http://www.park-tochigi.com/tamozawa/sisetu/

田母沢御用邸庭2

庭に下りて庭園を散策する予定だったが、部屋を見ているうちに随分時間が経ってしまい、11時に宇都宮で所用があるために、売店でお土産に「御用邸チョコレート」をいくつか買って旅行を切り上げることにした。

実は9年ほど前に日光で宿泊したことがあるのだが、その時は電車とバスを乗り継いで、中禅寺湖と華厳の滝と二社一寺を見ただけで終ってしまった。今回はカーナビのおかげで、随分有意義な旅行が出来たと思う。

日光の観光客の大半は短時間の滞在で、二社一寺の一部を観光するだけで帰ってしまうのだが、日光にはまだまだ見るべきところがある。
読者の皆さんには是非、二社一寺以外の日光をゆっくりと散策していただきたいものである。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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