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アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉

アイスランド南部のエイヤフィヤトラヨークトル氷河の火山が14日噴火し、火山灰が風に乗って南東方向に広がり16日には欧州北部の上空を覆ってしまった。

アイスランド噴火

ジェットエンジンが火山灰を吸い込むとエンジンが停止する危険性があるため、英国をはじめ欧州各国で空港が閉鎖されたり、旅客機の運航が停止されたりしている。

4/17(土)の日経新聞朝刊に気象庁・火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長のコメント欄が目に入ったのでなんとなく読んでみると、すごく気になることが書いてあった。

「… アイスランドでは1783年に大きな噴火が起き、8ヶ月ほど続いて酸性雨や冷害などの影響で凶作になった。牧草が枯れ家畜が死んだり世界の気温が下がったりした。」 「日本で天明の大飢饉が起こったのも、この噴火が影響と言われている。今回の噴火も、仮に(噴火口の)割れ目が広がるなどして長く続くと、日本に同様の影響が出ることも考えられる。」(引用終わり)

天明の大飢饉アイスランドの噴火の影響だったとの記事は初めて読んだ。浅間山の噴火が原因だという説明を何度か読んだことがあるが、日経新聞の藤井氏のコメントが正しいとすれば、今回のアイスランドの火山爆発が長引けば日本の農業にも深刻な影響を与える可能性があるということになる。地球の裏側の出来事がそんな影響を及ぼすものだろうか。

天明の大飢饉をネットで調べてみると、いろんな記事が見つかった。確かにこの時期は火山爆発の多い年だ。

天明の大飢饉

Wikipediaなどの記事をまとめると、まず1783年6月8日にアイスランドのラキ火山が爆発し溶岩の噴出は5カ月続いた。次いでアイスランドのグリームスヴォトン火山も1783年から1785年にかけて噴火している。噴煙は高度15kmまで達し成層圏まで上昇した粒子が地球の北半分を覆い、日射量を減少させて、北半球に低温化・冷害を生起しフランス革命の遠因になったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある、と書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89

ところで天明の大飢饉は天明2年(1782)から8年(1788)の7年間にかけて発生した飢饉である。
日本では天明3年3月12日に岩木山が噴火した記録があるが、浅間山は天明3年5月9日から8月5日まで約90日間活動し、7月28日には江戸で降灰があった記録や、8月3日には銚子の降灰があったなどの記録があるようだ。

浅間山噴火

ここまで調べてみると次の疑問点が浮かび上がる。
<疑問点1>天明の大飢饉はアイスランドや浅間山の噴火の1年前(天明2年)から始まっているのにもかかわらず、なぜ火山の噴火が飢饉の原因だというのか。
<疑問点2>なぜアイスランドの噴火が地球の裏側の日本にまで影響を与えることになるのか。
<疑問点3>浅間山やアイスランド噴火が終わってから、飢饉がそれから何年も続いたのはどう説明できるのか。

<疑問点1>は火山以外の原因なのだろうが今のところよくわからない。<疑問点2>は、いろいろ調べていくと「エアロゾル」と「日傘効果」という言葉に辿り着いた。

この点についてたとえばWikipediaの解説によると、
エアロゾル」とは大気中を漂う塵や埃などの微粒子のことを言うが、エアロゾルが多いほど地表に届く太陽放射の量を低下させるのと、エアロゾルを凝結核として作られる雲が増加し、同様に地表に届く放射量を減少させると考えられている。

「火山の噴火の場合、二酸化炭素などの温室効果ガスがエアロゾルとともに放出され、気温の低下が著しくなる。また、火山の大噴火の場合はエアロゾルが成層圏まで達し、成層圏の強い風によって地球全体にエアロゾルが拡散するために、地球規模で地上気温の低下が起こる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%82%98%E5%8A%B9%E6%9E%9C

また、次のサイトではアメリカに影響が出たのは噴火の翌年であったことが分かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AD%E7%81%AB%E5%B1%B1

「北アメリカの1784年の冬は、長く、寒かった。ニューイングランドでは大雪になり、チェサピーク湾では氷点下の日が記録的に続いた。チャールストン湾 (en) ではスケートができるほどだった。南部も雪雲に襲われ、ニューオーリンズではミシシッピ川が凍りつき、メキシコ湾にも氷が浮かんだ。」
と影響がアメリカ大陸にも及んだことが記されているが、これはひょっとするとアイスランドのラキ火山よりも浅間山の噴火の影響の方が大きかったのかもしれない。

<疑問3>についてはたとえば気象庁の解説によると
http://www.data.kishou.go.jp/obs-env/cdrom/report/html/4_1bis.html

「通常、対流圏のエーロゾルは発生から1~2週間で雨により大気中から除去される。しかし、激しい火山噴火によって火山ガスが成層圏に入り込み、そこで火山ガスがエーロゾルに粒子変換されると、対流圏に降下して降水によって除去されるまでに1~2年間を要する。すなわち、この間の気候に影響を与えることとなる。最も新しいところでは、1991年にフィリピンのピナトゥボ火山が噴火して、気候に大きな影響を与えた。近年、この百数十年間において、大規模火山噴火によりしばしば大気が数年にわたり混濁したことがわかってきた」と書いてある。

成層圏に入り込んだエーロゾルの除去にはかなりの年数がかかるのである。
1783年のアイスランドのラキ火山の噴火はその後数年にわたってヨーロッパに異常気象をもたらし、フランスでは1785年から数年連続で食糧不足が発生したらしい。
アイスランドと日本の2か所で起きた大きな火山爆発が大量のエーロゾルを長期間成層圏に送り続け、それが次第に広域に拡散していき、長い間太陽の直射日光を弱め、それが原因となって世界中に異常気象をもたらしたということなのだろう。

ということは、今回のアイスランドの火山爆発が長引けば、いずれは日本の農作物にも影響がくる可能性が高いということになる。

このまま火山活動が長引けば、間違いなく欧州は食糧不足となるだろう。もしそのようなことが起こると世界各国は自国民のための穀物を優先することは確実である。

ところが我が国の穀物自給率は28%しかないのだ。もし今年は我が国の農業に火山の影響がなかったとしても、有り余る農業適地を持ちながら減反政策で休耕地だらけにしている我が国が、市場から穀物を買い漁ろうとすれば世界中から非難を浴びることになるのではないか。いくらお金を積んでも買えないということが起こらないだろうか、などと心配になってくる。

江戸時代に何度か飢饉があったが、南部藩などでは人間の肉まで食べたという悲しい記録が残されているそうだ。本来自国民の食糧を他国に依存しすぎることは非常に危険なことなのだが、その怖さが忘れられてしまっている。

根拠のあやしい温暖化対策や子供手当などに税金を投入するべきではないだろう。今年は、国民の安心安全のために食糧自給率を引き上げる手を打つチャンスの年ではないのか。
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【ご参考】
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「稲むらの火」のものがたりと安政南海地震の津波の真実

小学生の頃だったと思うが、「稲むらの火」という物語を読んだ。
この物語のあらすじは、概ね次のようなものである。

五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けはじめた。
稲むらの火は天を焦がし、山寺ではこの火を見て早鐘をつきだして、海の近くにいた村人たちが、火を消そうとして高台に集まって来た。
そこに津波がやってきて、村の家々を瞬く間に飲み込み、村人たちは五兵衛の着けた「稲むらの火」によって助けられたことを知った、という物語である。

ラフカディオハーン
この物語は、ラフカディオ・ハーンが書いた「A Living God」という作品を読んで感激した和歌山の小学校教員・中井常蔵氏が児童向けに翻訳・再構成したものだが、わが国では昭和12年から昭和22年までの国定教科書に掲載されていたほか、アメリカのコロラド州の小学校でも1993年ごろに英訳されたものが教材として使われたことがあるそうだ。 中井常蔵氏の「稲むらの火」の全文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/inamura.htm
ラフカディオ・ハーンの「A Living God」の日本語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/ikerukami.htm

いずれも主人公は「五兵衛」と書かれているが、モデルとなった人物が濱口梧陵 (儀兵衛)で、場所は今の和歌山県の湯浅港に近い有田郡広川町で、安政元年(1854)の安政南海地震の時の出来事と言われている。

私の子供の時は素直にこの話を和歌山で実際に起こった話と信じていたのだが、数年前に何年振りかに読んだ時にちょっと話が出来過ぎているように思えた。そして、今回の東日本大震災の津波の映像を見て津波の早さや破壊力に驚いて、この「稲むらの火」で、地震からわずかの時間でやってくる津波の被害から村民全員が助かったということがどこまで真実なのか、ちょっと調べてみたくなった。

もし真実をそのまま書くのであれば、地震の起こった時期や場所を特定し、登場人物は実名を用いると思うのだが、ハーンの文章は地震の場所を特定せず日本の「海岸地方」とし、時期も「明治よりずっと以前」としか書いていない。主人公であるはずの濱口儀兵衛を「五兵衛」と書き、年齢は当時34歳であったにもかかわらず「老人」としている。
ハーンのこの作品は安政南海地震の史実を参考に書かれたものであるとしても、創作部分が相当含まれていることはこの物語の場面設定から推測されるが、ではどこまでが事実でどこまでが創作なのだろうか。

ハーンの作品をもとに書かれた「稲むらの火」をそのまま実話だと考えている人が多いのだが、ネットでいろいろ調べると、濱口儀兵衛が書いた手記が見つかった。
次のURLに濱口儀兵衛の手記の口語訳が掲載されているが、この手記を読むと、「稲むらの火」の物語はほとんどが作り話だということがわかる。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/goryosyuki.htm

安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日の二日連続で起こった。儀兵衛は4日の地震で、2m程度の津波を目撃する。そして、翌日の午後4時頃に前日よりもはるかに大きな地震が起こる。地震を警戒して家族に避難を勧め、儀兵衛が村内を見に行くところから手記の一部を引用させていただく。

「…心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。
  私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。
  その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。

  そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。…」

と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されているのは意外であった。つづいて「稲むらの火」が登場する。

「…しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。
  ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。
  なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。
  この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。
  このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。…」

稲むら

というように、「稲むらの火」は津波の前に人を救うために点されたのではなくて、津波の後で、安全な避難場所に繋がる道を指し示すために用いられたのである。
当時は電気がなく、まして地震の後なので家の明かりもなかったのであれば、夜はほとんど何も見えない暗闇の世界であったはずであり、儀兵衛が点した「稲むらの火」が「安全を得るための道しるべ」となって多くの人の命を救ったことは間違いないだろう。

ところで、この時の地震は「安政南海地震」と命名されているのに、濱口儀兵衛の手記では嘉永7年と書いている。実は嘉永7年も安政元年もともに西暦の1854年で、地震の23日後の11月27日に「嘉永」から「安政」に改元されているので、本来ならば正しい年号で「嘉永南海地震」とでも名付けるべきであったろう。
最初に命名した学者が誤ったために、未だに「安政南海地震」と呼び続けられているのはおかしな話だ。

この地震は駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という規模の地震とされ、この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あったそうだ。
甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせ、伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたという記録まで残っているらしい。

いろいろ調べると濱口儀兵衛はすごい人物である。彼の実話の方がはるかに私には魅力的だ。

濱口ごりょう

濱口儀兵衛は、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む濱口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広町)に生まれ、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交があったそうだ。

耐久高校

濱口家の本家を相続する前年の嘉永五年(1852年)に、外国と対抗するには教育が大切と、私財を投じて広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いたが、これが現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。

その2年後に安政南海地震が起こり廣村は多くの家屋や田畑が流されてしまう。

濱口儀兵衛はこの津波の後に村人の救済活動に奔走し、自分の家の米を供出しただけでなく、隣村から米を借りるなど食糧確保に努め、道路や橋の復旧など献身的な活動をし、さらに将来のための津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策のために、紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、5年後に高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防を完成させている。その廣村堤防の建設費の銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったとのことである。

広町堤防

この堤防は昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海津波地震でも見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を津波から救うことになるのである。

儀兵衛は幕末に梧陵と名を改め、紀州藩の勘定奉行や藩校教授や権大参事を歴任し、明治4年には大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)になり、前島密が創設した郵便制度の前身を作っている。その後、再び和歌山に戻って明治13年(1880)に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで明治18年(1885)に客死してしまう。

濱口梧陵が津波から多くの人々を救ったことは今も地元の人々から感謝されおり、広川町では毎年11月3日に感恩祭・津波祭りが行われ去年は108回目を迎えたとのことだ。 ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた人物のモデルは、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶべきすごい人物だ。

今回の東日本大地震の混乱が一段落すれば、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考え、被災地が立ち直るための投資と工事が進められねばならない。その時に地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。

今の政治家や経営者の中から、100年経っても、地元の人々から神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。

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飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。

天武天皇

日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。

671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に争いが生じ、翌年に美濃・近江・大和などを舞台に壬申の乱が起こるのだが、乱は大海人皇子方の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮で即位された。その天皇が第四十代の天武天皇である。

天武天皇は八色の姓を定めて、旧来の豪族を新しい身分制度に組み込み、天皇中心の国家体制を作られ、律令や国史の編纂事業が開始されたなどと教科書に書かれている。

日本書紀」の巻廿八と巻廿九が天武天皇の時代の記述で、前半には壬申の乱が詳細に書かれている。後半を読んでいると、この時期に地震が多かったのであろう、確かに何度も地震の記述が何度もでてくるのである。
数えた人がいるらしく、「日本書紀」には天武4年(676)から天武14年(686)までに16回もの地震の記録がなされているそうだ。天智天皇の時代の記録は1回だけだそうだから、かなり多いのはどういうことなのか。

そのうちの大半は「地震があった」「大きな地震があった」程度の記述で被害がほとんどなかったのかもしれず、日本の正史である「日本書紀」にわざわざ記録するほどの価値がない地震が含まれているかもしれないなのだが、記述内容からしてかなり大きい地震が何回かあったことは間違いない。

たとえば天武7年12月についてはこのように具体的に書かれている。

「この月、筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡がこわれて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気付いて大いに驚いたという。」(講談社学術文庫 全現代語訳「日本書紀」(下)p.276-277)

筑紫の国とは現在の福岡県の内、東部にある豊前国を除く大部分を指している。
「丈」というのは約3mなので、地割れは6m× 9000mにも及んだというから、かなり大きなものである。

また、天武13年10月にはもっと大きな地震が日本を襲い、土佐国(現在の高知県)では津波による被害が出ている。

「十四日、人定(いのとき:夜10時頃)に大地震があった。国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃(約一千町歩)がうずまって海となった。古老は『このような地震は、かつてなかったことだ』といった。
この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(同書 p.299)

日本書紀が書かれた当時は「津波」という言葉はなく、巨大な波が発生するメカニズムについてはわかっていなかったのであろうからやむをえないが、この記述における被害の原因が「津波」であることは明らかであろう。
土佐とは今の高知県のことだが、1000町歩が海水につかってしまったと書いてある。
「町歩」という広さは1ヘクタールであるから、1000町歩は10平方キロメートルということになる。わかりやすく言えば、甲子園球場の760倍程度の面積が水につかったということだ。

「日本書紀」にはその後の復興ことなどは一切書かれていないが、津波のメカニズムがわかっていないので、ひたすら神仏に祈ることしかなかった時代である。

次に東北地方の地震の古い記録を見てみよう。
貞観年間(859-877)には、富士山や阿蘇山のほか出羽国鳥海山、薩摩国開聞岳が噴火し、貞観11年(869)には、今回の地震とよく似た三陸大地震が発生し、大きな津波の被害が出ている。

「日本三大實録」にその記録がある。原文は漢文になっているが、次のURLで現代語訳が読める。
http://tarikiblog2.blog22.fc2.com/blog-entry-327.html

「5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。」

と、これを読むと、つい先日の地震のことを書いているようにも思えてくる。

津波画像

ここでは「海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。」と訳されているが、「日本三代實録」の原文ではこの部分は「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」となっており、とんでもなく大きい波が来たことを形容しているだけで、「津波」という言葉が当時は存在しなかった。この筆者には、大地震の後に大きな波が引き起こされると言う認識はなかったはずである。

Wikipediaによると、「津波」という言葉が最初に文献に登場するのは、「駿府記」に慶長16年(1611年)に起きた慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2

今は”tunami”という日本の言葉が国際的に使われているが、英語でこの言葉を最初に使ったのが前回の記事で書いたラフカディオ・ハーンの”Living God”という作品であり、これが「稲むらの火」の物語につながった。

日本のような地震国においても大きな津波被害が出るような地震は何百年に一度という周期で起こるものであり、一人の人間の命の長さからすればサイクルが長すぎて、海抜の低い地域で海の近くに住む人も、津波災害を一生に一度も経験することがないケースが大半なのだ。

東日本大震災

だからこそ、しっかりと災害の記録がなされることが必要なのだが、せっかく昔の記録が残されていてもそれが次世代に充分に伝えられなければ意味がない。
いずれ津波の怖さが忘れ去られてしまって、海抜の低い土地に住居や様々な施設が次第に建てられるようになる。そしてまた巨大地震が起こり、あとの津波がその集落を襲った時に再び大きな被害が出ることになる。津波災害の歴史は今までその繰り返しではなかったか。

古い記録は確かに読みづらいが、今回の地震では幸いにも大量の画像や映像が残っているはずだ。画像や映像を教材にすれば誰でも即座に津波の怖さを理解できるので、それらを使って地震の後の津波の怖さを世代から世代に伝えられるようにし、大きな地震があった時にどう行動すべきであるか、町や都市の設計はどうあるべきかを考えてその環境を整えていくことは、今回の大震災を体験した世代の責務だと思う。
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震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波

明治29年(1896)6月15日の三陸地方の夜は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎えて多くの村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわであった。またこの日は旧暦の5月5日でもあり端午の節句を親戚家族で祝う家が多かったという。
その日の夜7時32分頃に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表によれば震度2~3程度のもので、この地震に気がつかなかった人が多かったそうだ。しかし揺れは5分近く続いたという。

地震としての被害は全くなかったそうなのだが、地震後30分を過ぎた午後8時頃に、北海道から宮城県に至る太平洋岸一帯に突如として大津波が襲う。

明治三陸大地震

この津波が北陸地方を中心に大被害をもたらし、この時の死者は岩手県で18,158人、宮城県で3,452人、青森県で343人、北海道で6人と合わせて22,000人近い数字にも及んだ。

津波の高さは、岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現・宮古市)で14.6m、同郡船越村(現・山田町)で10.5m、同郡重茂村(現・宮古市)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現・釜石市)で8.2m、気仙郡吉浜村(現・大船渡市)で22.4m、同郡綾里村(同)で21.9mと軒並み10mを超える到達高度を記録したという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E4%B8%89%E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87

津波の高さ

岩手県綾里村の津浪は、38.2mという想像を絶する高さであったそうだ。
ネットで探した綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には驚くべき内容が記されている。
〈綾里村の惨状〉
「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告)

「その屍たるや道路に満ち沙湾に横たわり酸鼻言うべからず。晩暮帰潮に随って湾上に揚るもの数十日、親の屍にすがりて悲しむものあり子の骸を抱き慟哭するものあり、多くは死体変化し父子だも尚その容貌を弁ずる能はざるに至る。頭足、所を異にするに至りては惨の最も惨たるものなり。」

明治三陸大津波伝承碑

改めて書くが、これだけの大津波の被害が出ておりながら震度は2~3だったと言うのだ。 大きな揺れではなかったから、人々は津波を警戒しなかったところにとんでもない津波が来たために大きな被害が出たのだ。

山下文男氏の「津波てんでんこ」という本を読むと、津波の後、岩手県の釜石町長が郡役所に提出した報告書には「起災前、一、二回の震動アリタリト云フガ、甚ダ微弱ニシテ、知覚セザルモノ多キニ居レリ」と書かれているそうだ。(p.33)
また当時の文書や記念碑の記述を見ると、事前の地震について記述しているものは大変少なく、いきなり津波の記述になっているものが大半だそうだ。このことは、地震の揺れそのものは大したことはなかったことを意味している。

こんな小さな地震でも大きな津波が来ることがあることを今回調べて初めて知ったが、明治の三陸大津波の時の地震の震度がこんなにレベルであったことをどれだけの人が知っているのだろうか。

このように、地震の規模に比して不相応に大きな津波を発生させる自信を「津波地震」と呼ぶそうだが、どうしてそのような事象が起こるのだろうか。

Wikipediaによると、こう説明がなされている。
「海底において地震が発生し、海底面に地震断層による地殻変動が現れると、それは海水の上下動を呼び起こし、津波を発生させる。通常は、津波を発生させる地震は大規模な地震であり、体感もしくは強震動地震計などにより、津波を引き起こした地震による揺れ(地震動)を感知することができる。一般的に断層運動の大きさ(モーメントマグニチュード)が大きいほど、地震動も津波の規模も大きくなる。
しかしながら、断層運動によって、地震動(揺れ)と津波(海底面の地殻変動に よる海水の上下動)がそれぞれ生じるのであって、地震動が津波を引き起こすわけではなく、地震動と津波は原因は同じだが別の現象であるともいえる。よって 地震動と津波の大きさがリンクしない場合もあり、極端なケースになると、体感もしくは地震計によって観測した地震動は比較的小規模であるにも関わらず、大きな津波が発生する場合もある。このタイプの地震を津波地震と呼称する。」

「大きな地殻変動が通常の地震よりも長い時間をかけて発生することで、有感となるような短周期の地震動をあまり生じさせることなく大きな津波を発生させるこ とで、津波地震となる。一般に地震断層の破壊伝播速度は、通常の地震ではおおむね秒速2.5~3km程度であるとされる。しかし津波地震では秒速1km程度の場合が多い。このような地震では強震動をあまり生じさせないが、津波の波源域は津波が拡散するよりも早く数分以内の短い時間で広がるため、津波が大きくなる。破壊伝播速度がこれよりさらに十分遅い場合は、津波の波源域が広がる前に津波が拡散してしまい、大きな津波も発生しなくなる。」

私は長い間「震度」と「マグニチュード」とは良く似たものだと解釈していたが、調べると「震度」とは「ある地点の地震の揺れの程度」を意味し、「マグニチュード」は「震源から放出される地震波のエネルギーの大きさを間接的に表現したもの」で尺度は何種類かあるようだが、日本では気象庁が定めた尺度を用いているそうである。
ということは、同じマグニチュードの地震であっても、震度の測定地点が震源からその地点までの距離が近いか遠いか、震源が深いか浅いか、伝播経路やその地点周辺の地盤条件等によって、地点の震度は変わると言うことである。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/sindo.htm

もし震源地の地盤が軟らかければ、大きなマグニチュードの地震であっても震度が低くなることがあるということは重要なことだと思うのだが、あまりこういう事実は伝えられていないような気がする。
冒頭に書いた明治三陸大津波をもたらした地震の震度はわずか2~3程度であったのだが、マグニチュードは8.6程度と推定されているそうだ。「津波地震」の怖さは、もっと良く知られる必要があると思う。

「津波地震」の事例としては、この明治三陸地震津波のほかに、慶長10年(1605)駿河湾から徳島沖まで伸びる南海トラフを震源とする慶長大地震もそうらしいのだが、この地震の記録は残念ながらほとんど残されていない。

はじめに「津波てんでんこ」という本を紹介したが、この「てんでんこ」という言葉は、「てんでばらばらに」という意味だそうだ。では「津波てんでんこ」というのは、津波が来た時は、家族や友人のことは一切構わずに、一刻も早く逃げなさいという教えなのだそうだ。 多くの災害では親は子を助けたり子が親を助けたりするのだが、津波の時はそのような行動をとると共倒れになるケースが多い。地域単位で犠牲を最小限にするためには、一人ひとりが「てんでんこ」になって少しでも高い所に逃げることによって、共倒れの悲劇を防ぐことがベストの選択になると言う昔からの言い伝えなのだ。

YOMIURI ONLINEではこの「てんでんこ」の考え方で釜石市の小学生が高台に登って助かったとの3/28付けの記事が掲載されている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110328-OYT1T00603.htm?from=y10

今回の東日本大震災で多くの犠牲者が出たが、もしマグニチュードが同程度でありながら震度が3程度の「津波地震」であったとしたら、どれだけの人々が高台に逃げようとするだろうかと考えるとぞっとする。

津波画像

津波の画像を何度かテレビで見たが、津波のスピードはかなり早く、津波に気付いてから高台に登るのでは間に合いそうにない。

地震予知が正確にできる時代が来れば話は簡単だが、当面そのような時代が来そうにない。ならばせめて、海面や海中や海底のどこが適切かよくわからないが、海にいくつかのセンサーを設置して、津波の発生をとそのエネルギーや津波速度等を測定して、どの程度の津波がいつ頃どこに到達するかを正確に予想することが出来ないものだろうか。それが出来れば、多くの人の命を救うことが出来るのではないか。

次のURLを読むと、青森県から宮城県に至る三陸海岸各地に「大津浪記念碑」が建てられているそうだ。

写真の記念碑にはこう書かれている。

「高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽(わらく)、想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、此処(ここ)より下に 家を建てるな。
 明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、僅かに 前に二人後ろに四人のみ 幾歳(いくとせ) 経る(へる)とも要心あれ。」
http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-1606.html

明治29年、昭和8年の大津波の生存者が後世のためにこのような石碑を建てたにもかかわらず、津波を知らない世代がこの場所より下に家を建てていく。そして今回もまた大災害が繰り返されてしまったのだ。

これからは被災地の復興がわが国の課題となるが、今度こそはこの石碑を建てた先人の警鐘を受け止めて住民が安心して暮らせるよう、高台に学校や役場や住宅を建てて海の近くに低地は公園のほか農業用地、太陽光発電プラント、漁業関係者がいざという時に避難可能な高層の津波シェルターなどを配置するなどの再興プランをしっかりと立てて、今後もし津波が来ても、それが津波地震による津波であったとしても、後の世代がこのような悲惨な結果にならないように智恵を絞ることが、この怖ろしい津波を体験した世代の責務だと思う。
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「昭和三陸津波」の記録を読む

昭和8年(1933)3月3日の午前3時ごろ、東北地方の太平洋沿岸に震度5の地震が襲った。 震源は日本海海溝付近でマグニチュードは8.1と記録されている。

これといった地震の被害はなかったが、この地震から20分から40分後にまたもや大きな津波が沿岸を襲い、被害は岩手県中心に流失全半壊、焼失約六千戸、死亡・行方不明が三千人以上と言われている。この地震は前回書いた明治29年(1896)の大津波からわずか37年後のことであった。

昭和三陸津波

前回の記事で紹介させていただいた「津波てんでんこ」(新日本出版社:山下文男著)に、「岩手県昭和震災誌」という本の文章が引用されている。

「人々は夢もなかばに驚いて起き出て、あるいは陰惨の空を仰いで、あるいは海を臨んで天災のなきかを懸念した。しかし、暫くして余震はおさまり、天地は再びもとのひっそりした夜にかえった。ようやく胸を安んじてまた温かな床に入り、まどろみかかろうとする時、海上はるかに洶湧(きょうゆう)した津波は、凄まじい黒波をあげわが三陸地方を襲った。

 見よ!ほのぼのと明けはなれゆく暁の光の下に展開された光景を。船端を接して停泊せる大小一万の船舶は、今やその片影さえとどめていない。軒を連ねて朝に夕に漁歌に賑わいし村落は、ただ一望、涯なき荒涼の砂原である。亘長八〇里(314㎞)、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の眺め豊かな海浜には哀れ幸いなくして死せる人々の骸(むくろ)が累々として横たわり、六親を奪われ、家なく、食なき人々の悲しい号哭(ごうこく)の声に満ちた」

では、この昭和8年の三陸大津波の波の高さはいか程だったのか。

前回書いた明治三陸大津波の時に最も大きい波を記録した岩手県綾里村の白浜の津波の高さは38.2mであったが、この時の記録は28.7mとかなり下回るが、やはり大きな数字である。
単純に双方の津波の高さを割ると昭和8年の津波の高さは明治29年の記録を100とすると75程度という計算になるが、山下文男氏によると他の被災地も波の高さの関係はその数字に近い値になるという。
例えば、田老村では明治が14.6mに対し昭和が10.1m、重茂村では18.9mに対し12.4m、釜石では7.9mに対し5.4mという具合である。

また山下文男氏は、浸水を除いた被災戸数についても、明治の数字を100とすると75程度の数字になるそうなのだが、死者数についてはどうかというと、これは津波の高さや被災戸数を考えると異常に少ないことを指摘しておられる。
明治の津波の死者は前回の記事で書いたが2万1千人であったが、昭和の津波では約3千人であった。確かに死者の数は、津波の高さや被害戸数の割には、幸いにも大きく下回っている。

死者の数が少なかったのは「不幸中の幸い」とも言えるが、この経緯について山下文男氏はこう書いている。

「明治の大津波から既に三七年も経って風化しかけてはいたが、それでも、ほとんどの家に、一夜にして家財を烏有に帰し、先祖の命を奪った津波の恐怖についての悲しい『津波物語』があって、親子の間で語り合われることが少なくなかった。…

 その体験者や津波の恐ろしさを聞き知っている賢い大人たちが、地震の後、氷点下4度から10度という厳寒の明け方にもかかわらず、自ら海岸に下がって海の様子を監視していた。そして異常な引き潮を見ると同時に、大声をあげたり、半鐘を叩いたりして集落に危急を告げて住民たちの避難を促した。この危急を告げる叫び声や半鐘の早鐘で、どれだけ多くの命が救われたか数知れない。」(「津波てんでんこ」p.89)

「大船渡町では、消防の夜警たちが、震度5の地震の後、津波が来るかもしれないと直感、海岸通りを走って避難を呼び掛けている。そのためもあって大船渡では、明治の津波の時の死者110人に対して、55分の1の2人にとどまっている。」(同書p.90)

一方、明治の津波の時に死者769人を出した唐丹村(現釜石市唐丹町)の本郷という地区では、325人もの死者を出している。
「何故に斯くの如く多数の死亡者を出せしかその原因を探るに、本郷には明治二十九年の津波の遭遇者が少なく、ために海岸に下りて警戒する者少なく、大概平然として就床しあり、あるいは談笑しあり…。あの大地震の際不安を感じ、家財を背追いて高台に逃れしも、一度家へ来たりし時、古老曰く『晴天に然も満潮時に津波来るものにあらず』と頑迷なる言により安心をなし床にもぐりしと。警戒者も少なく(その後、引き潮を見て津波の襲来を教えてくれた人がいたけれども)寝つきし人なれば聞こえざりきか」佐々木典夫編「津波の記録」-昭和八年の三陸津波  (同書p.91)

また、明治の津波で1800人以上が溺死した田老村(現宮古市田老町)も津波監視活動が見られず、昭和の津波でも900余人の死亡・行方不明者を出した地域だ。この地域では、明治三陸津波の体験談として「津波の前には井戸水と川の水が引いて空っぽになる」という話がまことしやかに伝承されていたらしい。そのために、昭和の津波の時に、せっかく逃げる準備をしながら、わざわざ井戸と川の様子を見に行って、変化がないのを確認して油断したという話が残っているそうだ。

岩手県は明治・昭和の津波襲来の浸水線を標準として、それ以上の高所に住宅を移転させることを決定し、津波後わずか二年そこそこの間に、岩手県だけでも集団的移転を含む約3000戸の高所移転が実現したそうだ。

例えば先程紹介した釜石市唐丹町本郷はこの時に山を崩して団地が作られ、この高台に移転した住宅は先月の東日本大震災の津波でも無傷だったようだ。ところが、土地がないためにその後低地に住宅が開発され、その50戸近くは今回津波の被害を受けたが、津波警報を受けてほとんどの住民が高台に避難し、犠牲者は1名が出ただけだ。

釜石市本郷

写真では高台にある住居は無傷で、低地の家が全壊している。

田老堤防

しかし現宮古市田老町は、昭和の地震の後、住宅の高所移転よりも防潮堤の建設という独自の道を選択した。戦争による工事の中断はあったが、昭和33年(1958)に、高さ10m、全長1350mという大防潮堤が完成。その後2433mまで延長されたのだが、先月の津波は非情にもその防潮堤の高さを超えて、田老町はまたもや大きな被害が出てしまったようだ。

田老堤防津波後

今回の地震で田老町の津波の高さは37.9mというとんでもない高さだったそうだが、過去の記録では明治29年が14.6mに対し昭和8年が10.1mとなっていたので、10mの堤防を作ると言う選択は正しかったのか。 次のURLで3月11日の午後三時過ぎに撮影した、津波が宮古市田老地区の防潮堤を乗り越えていく瞬間の画像が出ている。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110406/dst11040622210068-n1.htm

「岩手日報」の記事にもあるように、どんな大きな津波が来るかはわからないのだから、防潮堤などの施設だけでは津波を防げないと考えるべきなのだろう。
http://www.iwate-np.co.jp/ronsetu/y2011/m04/r0402.htm

漁業を営む人々にとっては、海に近い方が楽であることはわかるのだが、すべてを一瞬にして失う津波の怖さを思えば、野中良一前田老町長の提言のとおり「生産と生活の分離」「(土地利用の)規制」は必要なことだと思う。また、今回の津波で判明した特に危険な場所は、「規制」するだけでは遠い将来にわたって徹底することに限界があるので、国や地方が土地を買い上げるということも検討すべきではないだろうか。

今度こそ、数百年後に大きな津波が来ても人的被害がほとんどない町づくりを目指してほしいと思う。
そのためには住居や主要施設は高台に作ることを徹底し、低地は公園の他、一部の施設は残るも、津波に対して強い構造であり屋上や最上階に避難が出来る施設とし、津波避難シェルターも何箇所かに設置すべきだろう。
その上で津波の怖さと、そして津波の時にどう行動すべきかを、今後数百年にわたって新しい世代に伝承していく仕組み作りと、津波発生後の地域別の波の高さ、到達時刻の予測精度の向上が不可欠だと思う。
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関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た大災害であった。

関東大震災1

多くの犠牲者が出たが、火災による死者が最も多く9万1千人を数え、東京本所被服廠跡では4万4千人が無残の焼死を遂げたそうだ。次のURLには、東京本所被服廠跡の写真が掲載されているが、大空襲でもあったかのような悲惨さで、とても正視できるものではない。
http://ktoh-n.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16-1

なぜそんなに火災による死者が多かったのかというと、お昼頃であったために多くの家庭で主婦が炊事のために竈(かまど)で火を使っているところに多くの木造家屋が倒壊したこと。さらに具合が悪いことに、この日は能登半島近くの台風の影響もあり、関東地方の風がかなり強かったという。

多くの焼死者が出た東京本所被服廠跡とは今の横網町公園のことだが、地震のあった前年に被服廠は赤羽に移転し、跡地を東京市が買い取って公園として整備したそうだ。

近くの人々がこの場所を絶好の避難場と考えて家財道具を背負って集まってきたのだが、午後4時ごろにこの公園に地震の火災が「火災旋風」となってこの公園を襲い、人々が持ちこんだ家財道具にも飛び火して、人々は逃げ場を失って焼死してしまった。

火災旋風」とは、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで局地的に生じる上昇気流のことで、Wikipediaによると、

「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。」とある。

また「個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、 被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。 火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%BD%E6%97%8B%E9%A2%A8

2008英国バンガーの農園の火災旋風

上の画像はネットで見つけたイギリスの火災旋風の画像だが、関東大震災の時の火災旋風の大きさは100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後と推測されている。またこの風により、何百人もの人々が空中に巻き上げられ、石垣に顔と歯が叩きつけられたりしていたという証言もがあるようで、この現象は想像を絶するエネルギーを伴うものであり、「旋風」というよりも「竜巻」と表現した方が適切のような気がする。
http://www.fdma.go.jp/ugoki/h2108/2108_24.pdf

関東大震災焼失地域

上の図は関東大震災の翌日の午前九時の段階で焼失した場所を赤く塗りつぶしたものである。焼失地域はこの日のうちに更に拡大したのだが、黒い○で囲った場所は焼けなかった。 この場所は神田和泉町と佐久町なのだが、この町内の人々は避難することよりも共同で消火活動に当たることで、町を火炎から守ったのだ。

『被害の激しかった下町地区の中で、ぽっかりと島のように白く浮かび上がる地域がある。一日午後四時ごろ、南風に煽られて神田方面から燃えてきた火は神田川南岸に及び、佐久間町一帯にも盛んに火の粉を振りまいた。この時町内の人々は結束して、避難よりも延焼を防ぐ努力を優先した。続いて夜八時ごろ、秋葉 原駅方面から襲ってくる火に対してもひるむことなく消火活動を続け、二日午前一時ごろには火をくい止めた。更に二日午前朝八時には蔵前方面から猛火で延焼 の恐れが出てきたが、長時間にわたる必死の消火活動の末、午後六時ごろまでに完全に消し止めた。実に丸一日以上に及ぶ町内の人々の努力が実り、この町を火災から守ったのであった。』(「新編 千代田区史」)

この防火活動の感動的な物語が、「伝えたいふるさとの100話」というサイトに出ている。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato027.htm

町の大人たちが頭から水を浴び、ガソリンポンプ車を使って徹夜で火を食い止めた物語は多くの人に読んで欲しいと思う。こんな大規模な火事になれば電気はもちろんのこと、水道も断水して使えない。消防車も使えなくなる条件下で、住民がこのように団結して火と格闘して町を守ったことは、教科書に載せるなどして後世に伝えられるべきではないかと思う。

防火守護地

神田和泉町にある和泉小学校の脇には、この時の町の人々の消火活動を讃えた「防火守護地」と書いた石碑が建てられているそうだ。

関東大震災時に「火災旋風」により東京だけでなく横浜でも同様に多くの焼死者が出たのだが、詳しい事は良くわからなかった。

横浜火災地図

この時の横浜の火災区域の地図が見つかったが、横浜の市街地の大半が焼けていることがわかる。
次のURLでは東京と横浜の火災旋風の発生起点とその移動を示した図面が紹介されているが、「発表禁止」という赤い文字が横浜の図面にあるそうだ。おそらく長い間公表されてこなかったのではないだろうか。真実を一般に公表しないのは、昔も今も良く似ている。
http://www.ailab7.com/senpuu.html

以上かけ足で関東大震災における火災を振り返ってみたが、今のわが国の都心部でこの大震災の教訓がどれほど活かされているかと考えると不安な気持ちになってしまう。
日本人の悪い癖で、嫌な思い出はなるべく早く忘れてしまおうとして、大きな被害が出た原因が充分に追及されないまま何世代かが入れ替わってしまって、今では、ほとんどの人は普段から何の準備も対策もしていないのが現実ではないか。

大正期よりかは家屋が燃えにくくなっているという人もいるかもしれないが、阪神大震災の時にも神戸市長田区で小規模ながら火災旋風が見られたらしい。
もし関東大震災のような地震が風の強い日に発生し、古くて木造の家屋が密集している地域の家屋を多数倒壊させたとしたら非常に怖い事が起こる。消防車は全国平均で人口10万人当たりに4.7台、東京では2.5台なのだそうだが、この台数では大規模火災の鎮火は難しいのではないか。

昔はいざという時に使える貯水池や貯水槽などがあったし、井戸のある家も少なくなかった。地域の消火用具も持っていたし、なによりも地域共同体が健全に機能して住民の団結があり、地域での防火訓練も実施されていた。それらがいざという時には、火災の延焼を食い止めるために機能することが期待できたが、それらのほとんどを喪失してしまった今は、住んでいる街をどうやって火災から守ることができようか。

大火災が発生すれば停電や断水が起こる可能性が高いし、消防署は一部を消火する能力しかない。水道が使えたとしても、あちこちで火災が起これば大量の水が消火のために必要となり、水量不足となって蛇口からちょろちょろと出るだけでは使いものにならないだろう。
そのような悪条件下でも、住民が団結して、自主的に消火活動ができる地域が都心部にどれだけ存在するのだろうか。

先程のWikipediaには、最後に非常にいやなことを指摘している。

「東京湾を震源とする南関東直下地震が、 夕方6時ごろに発生した場合、都内数千箇所で火災が起こると試算されている。風速15mの風が吹いていた場合、東京の住宅街・オフィスビル周辺などに巨大な火災旋風が発生するおそれがある。ただし、1923年の関東大震災は、夏場の昼に地震が起き、火災旋風も発生している。火災が密集すれば季節に関係なく 発生する可能性がある。」

今回の東日本大震災で東北地方の人々は何度も津波を経験し、同じ過ちを繰り返してきていると思った人がいたとしても、それは東京も横浜も同じなのである。また、関東大震災の被災経験から学ぼうとしない他の大都市も同じである。

東日本大震災を機に、都市の防災対策はどうあるべきか、あまりにもわが国の重要機能が集中している首都圏の脆弱さをどう改善させていくか、首都圏の機能分散化も含めて考えるべきだと思う。

次回は、関東大震災と津波などについて書いてみたい。

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関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)

前回は関東大震災時における火災のことを書いたが、被害は火災ばかりではなかった。

震源に近い三浦半島から伊豆半島にいたる相模湾沿岸では、地震そのものによる家屋の被害のみならず、山崩れや土石流及び津波の大きな被害も記録されている。

まず、山崩れや土石流による被害はどうであったか。

関東大震災根府川集落

神奈川県足柄下郡片浦村(現在の小田原市)の根府川集落で、白糸川上流で発生した土石流により64戸の家屋が埋没し、406人が死亡したそうだ。上は、土石流により倒壊した根府川集落の写真である。
また、近くの熱海軽便鉄道の根府川駅では背後の山が崩れて、停車中の列車を海中に押し流して死者が300人出たそうだ。
他にも足柄下郡米神で土石流による民家埋没で死者62人、横須賀でがけ崩れによる民家埋没で100人を超えるなどの記録があるが、伊豆半島では伊豆山は山崩れでその七分を失い、多賀村、網代村の被害は激しかったとする記録だけで死者についてはよくわかっていないようだ。実際は、関東大震災による山崩れ・土石流に起因する死者が1000人近くいたと考えられている。

大震災殃死者供養塔

現在のJR根府川駅近くの岩泉寺というお寺に『大震災殃死者供養塔』が大正14年に建立されそこには
「大正十二年九月一日午前十一時五十八分俄然大震災アリ同時ニ山津波起リ老若男女二百餘人殃死セリ甚タ悲惨ノ至リニ堪ヘス茲ニ遺族一同共ニ丹梱ヲ協セ殃死者菩提ノ為大供養塔ヲ建立シ以テ永ク精霊ヲ祭ル者也」
と彫られているそうだが、死亡者数が「二百餘人」というのは、他の記録と比べれば少なく見える。また、なぜ伊豆半島の被害については記録らしいものが残されていないのが意外である。この問題はあとで考察することにして、次に津波のことを書こう。

この時の津波の高さは沿岸部一帯で低い所で2~4m、神奈川県の逗子で6~7m、静岡県の伊東で5~7m、熱海で12mとの記録があり、東京湾の津波は0.3~0.8m程度だったそうだ。

東京では津波襲来の流言が想像以上の早さで流布してパニック状態になった話を昔読んだことがあるが、結果として東京湾の津波は小規模で良かった。
津波の被害が大きかったのは東京都よりも神奈川県や静岡県である。

以前このブログで紹介した山下文男氏の著書『津波てんでんこ』に、『神奈川県震災誌』という本が紹介されている。

「津波は地震後約二十分後に鎌倉町、腰越津村、川口村の海岸を襲い、鎌倉町乱橋材木座に於いて家屋三十戸、長谷稲瀬川川尻に於いて二十四戸、同坂ノ下に於いて二十六戸流出し、以上の各所を通じて溺死三十名を出せり。なお当時は由比が浜海岸に於いて海水浴をなしいたる者百名内外ありしが、その生死は明らかならず。腰越津村には、七里ガ浜県道護岸十町が震災により大破し、更に海嘯の襲来を受けて壊滅し、これがために民家の倒壊せるもの少なからず。川口村には片瀬の山本橋及び江ノ島橋の流出あり。江ノ島及び片瀬に於いて溺死七名の外、当該桟橋を通行中なりし約五十名は橋梁とともに流されて行方不明となれり」(『神奈川県震災誌』)

これによると津波の被害者がかなり出たことは確実で、地元の鎌倉市がまとめた『鎌倉震災誌』という本には、「理学博士・中村左衛門太郎」氏の「発表」として、由比が浜の海水浴客についてはこう書いている。

「この日天候不良のため海水浴をする者ほとんどなく、また海岸にいたものも地震に脅え、引き続く海嘯の襲来を予知することができたので、何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかった。」(『鎌倉震災誌』)

同じ場所で起こったことを書いているはずなのだが、なぜ『神奈川県震災誌』と『鎌倉震災誌』の記述内容が異なるのか。

別に『大正震災誌』という本には「折から海水浴に出かけていた老若男女三百名は波にのまれて行方不明になった」と書かれており、『藤沢市史』でも、「…大つなみの襲来は、湘南海岸各村に深刻な被害をもたらした。鎌倉、腰越とともに川口村もその対象となり、江ノ島桟橋の通行者約五〇名と、片瀬海岸での遊泳者七名が犠牲になった。」と書いてあり、『鎌倉震災誌』のこの部分はどう考えても不自然だ。

『鎌倉震災誌』には、鎌倉町の被害は全壊1455戸、半壊1549戸、埋没8戸、津波流失113戸、全焼443戸、半焼2戸、死者412名、重傷者341名なのだが、震災前の鎌倉町の全戸数は4183戸というから大変な被害だ。

鎌倉由比ヶ浜

ネットで津波被害を受けた由比が浜の写真(鎌倉市中央図書館蔵)が見つかったが、この津波で江の電長谷駅や由比ヶ浜駅以南はほとんど崩壊してしまったという話はこの写真で納得できる。記録によると、鎌倉大仏で有名な高徳院にも津波が押し寄せて庫裏が全壊し、長谷寺も庫裏や大黒堂・阿弥陀堂・念仏堂・書院などが全壊したそうだ。

鎌倉大仏

鎌倉の大仏は今でこそ露座の仏像であるが、当初は文永5年(1268)に完成した大仏殿の中にあった。その後何度か倒壊・再建を繰り返し、明応7年(1498)の大地震と津波で大仏殿が倒壊した後はずっと露座になった状態だったのだが、関東大震災の津波で大仏像が35.8cm前に仏像が移動した記録があるそうだ。津波は何度も鎌倉を襲っているのだ。

鎌倉町の地域別被害の実数と鎌倉大仏の被害の写真を次のURLで見ることができるが、由比ヶ浜地区の住民が74名も亡くなっているのに、由比が浜の観光客が避難して全員無事であったということはありえない。
http://www.kcn-net.org/oldnew/sinsai02.html

もう一度『鎌倉震災誌』を良く読むと「死者・行方不明になった者は全くなかった」と書いているのではなく「…何れも速やかに避難し、行方不明になった者は全くなかった」と表現しており「死者がいないとは書いていない」と言いわけが出来る文章になっている。もし、そう言うつもりで書いたのであれば、「公式記録にバカなトリックは使うな」と言いたいが、被害を小さく見せるために何らかの圧力がかかったのかと勘ぐりたくなる。

鎌倉町の津波の高さは約三〇尺(約10m)であったのだが、この高さでこれだけの被害が出ている。ならばそれよりも津波が高かった熱海(12m)の被害はどうだったのか。

静岡県の被害については『静岡県震災誌』という本が作られたそうなのだが、被災状況については具体的な数字が書かれていないようである。でもかなり死者があったはずだが、記録が残されていないようなのである。たとえば熱海についてはこんな具合である。

「…海浜に避難せる者は、再び山の手方面に逃れんとして、溺死を遂げたるもの少なからず。熱海町新浜、清水、和田の家屋は全部が海上に漂い、あるいはこれに縋り、あるいは樹木に取り付き、救助を求めるもの海陸相応じ、阿鼻叫喚の声に満つ。…また伊豆山は山崩れのために埋没してその七分を失い、多賀村、網代村もまた被害激甚を極めたること、熱海、伊東に異なることなし。」とどこにも数字がない。

以後の災害対策を考える上では、市町村の地域別に被害世帯数、犠牲者数等の正確な記録を残すことは一番大切なことだと思うのだが、なぜこの程度の記録しか残っていないのか。 以前紹介した『津波てんでんこ』で、著者の山下文男氏はこのように書いておられる。

「関東大震災の際の津波による死者数や地すべり被害=山つなみによる死者数の記録は、概して不確かなものばかりであまり明確にはされていない。
 例えばここに『土方梅子自伝』(早川書房)というのがある。これによると、当時の華族・近衛秀磨の鎌倉の自宅で、子息の英俊が「家もろともに津波に呑まれてなくなられた」との知らせがあったと記されている。こうした犠牲者は他にもかなりあったと思うのだが、それらが果たして津波による犠牲者として数えられているのかどうか?いろいろと考えざるを得ない。」

「最近は熱海の海岸などにも「津波注意」のパネルや看板が見られるようになったが、この地域が鎌倉、熱海、伊東という、全国的な温泉地であり、観光海岸であることも、長い間「津波」を語り難くし、風化を早める原因の一つになっていたように思う。1984年のことだが、筆者が「関東大震災と津波」(『暮らしと政治』)という論考を書いた折にも、熱海の観光業者の方から抗議めいた手紙をもらっている。」

あまりに多くの焼死者が出たために、火災ばかりが注目されてしまい津波や土石流の被害者の事実が注目されなかったという面もあるのだろうが、一方で津波の真実を広められては困ると考える人が少なからずいて、そういう調査をすること自体を望まなかったし、津波対策のために移転することも望まなかったのではないか。

しかし、そのために被害の大きかった地域のほとんどが、たいした津波対策がなされないまま危険な地域にびっしり家屋や商業施設などが建てられてしまっている。
直接大きな被害があった地域ですらこんな状況なのだから、他の地域も同様に、大きな津波が来ることは「想定外」で開発がなされてきたのだろう。これでは有効な地震対策をとることは困難であり、結果として数十年単位で同じ誤りを繰り返すことになるのだと思う。

大きな災害を経験した国民はこの国で未来を生きる人々に対する責任があるのだと思うのだが、関東大震災を経験した世代は火炎旋風の怖さや津波の被害の事実をどれだけ我々に伝えてくれたのだろうか。どんな教訓を残し、それが今の町づくりにどれだけ活かされているのかと思うと、今の世代にはほとんど何も伝えられていないのではないかと不安になってくる。
せめて今回の東日本大震災を機に、それぞれの地域で過去の震災被害を学び、どうすれば被害が小さくできるかのか、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考えて、できることから実行してほしいものだと思う。
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若狭湾の400年前の津波の記録と原子力発電所の安全性について

5月27日の日経の朝刊に、今から400年以上前に若狭湾津波とみられる大波で多数の被害が出たとの記録があるという記事が目にとまった。

記事によると、
「…敦賀短期大学の外岡慎一郎教授(日本中世史)が4月上旬、敦賀市の依頼を受けて調べたところ、京都の神社の神主が戦国~江戸時代に書きつづった日記『兼見卿記(かねみきょうき)』に、1586年に『丹後、若狭、越前の海岸沿いで家々が波に押し流されて人が死亡した』といった内容の記述があった」
「…また当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも『山のような波が押し寄せて家や人が流された』といった記述が見つかった。」と書いてある。

早速この時の地震に関するルイス・フロイスの記録を探してみた。



該当部分は「完訳フロイス日本史3」(中公文庫)の第60章にあった。
少し長くなるが、重要な部分であるので紹介したい。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、…突如大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫p196-197)

とここまでは、フロイス自身が体験した地震のことを書いている。フロイスは主に堺に居住していたので津波については体験していない。この文章に続いて、フロイスらが目撃者などから聞いた近江や京都や若狭や美濃や伊勢などの情報が付記されている。

それぞれ興味深いのだがすべてを引用すると長くなるので、若狭の津波に関する記録だけを紹介したい。
「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

東京大学の「大日本史料総合データベース」にアクセスすると、同時期の様々の史料を記録された日付けを絞込んで読む事が出来る。この地震の記録は新聞で紹介された「兼見卿記」だけではなく多くの史料で確認できるので、もし興味のある方は次のURLで確認することができる。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
このデータベースで、フロイスがイエズス会のインド管区長ヴァリニャーノに宛てた書簡が「イエズス会日本書簡集」にでているが、ほぼ上に紹介した「フロイス日本史」と同様の文章だ。フロイスは地震の日付けを11月1日と書いているが訳注では(11月29日の誤記)と書かれ、若狭の記述部分の「長浜」は「(小浜」の誤記か)と訳注が付されている。

Wikipediaによると、この日の地震は「天正大地震」とよばれ、震源地は岐阜県北西部でマグニチュードは7.9~8.1と推定されている。現在の愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県に相当する地域に跨って甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、この地震は複数の断層がほぼ同時に動いたものと推定されている。
具体的な被害として紹介されているのは、越中国木舟城が倒壊、飛騨国帰雲城が山崩れで埋没、美濃国の大垣城が全壊焼失、近江長浜城が全壊など城郭の損壊が中心である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87

敦賀原発

フロイスの若狭国についての文章に戻るが、この現象は地震による「津波」であることは、誰でもわかる話だと思う。しかし、関西電力はこの記録が存在するのを知りながら「信憑性がない」と社内で判断し、地元民には「若狭湾は、津波による大きな被害の記録がない」と説明して、14基もの原子力発電所若狭湾に建設してしまった。
これでは関西電力は、近隣住民の安全よりも、原子力発電所を建てることにすべてを優先させたと言われても仕方がないだろう。また建設を許可した国にも、このような重要な史実を看過した責任はないのだろうか。

福井県の原子力発電所

若狭湾に限らず、他の原発においても今後何も起こらないという保証は何もない。本来原子力のような、万が一の事態が発生した場足に国全体あるいは世界全体に多大な影響を及ぼすような物質を扱う場合には、過去の地震や津波などの記録を調査してそのレベルの災害にも耐えられる設計をしておくことが基本だと思うのだが、どこの原発も充分な検証がなされているのか。 過去の自然災害が耐えられる設計がなされていたとしても、もし「想定外」の地震や津波や火災があった場合においても、住民に被害を及ぼさないための二重三重の安全対策がなされているのだろうか。

今年度における政府全体の原子力予算は4330億円で、内約2300億円が研究開発などの原子力推進のために使われ、その内の核燃料サイクル関連の予算は520億円。一方で安全関連の予算は570億円なのだそうだが、この数字を見ても原子力推進にお金をかけ過ぎているように見える。

以前、他国と日本の原子力関連予算を調べて驚いたことがある。

原子力予算問題点

原子炉の数が多い国は①アメリカ104基②フランス58基③日本54 基の順なのだが、原子力を考える会の「よくわかる原子力」というHPを見ると日本の原子力関連研究開発予算が他国比突出している。何故原子炉の多い国よりも日本の予算がべらぼうに多いのか。次のデータはやや古いが、日本の予算はアメリカの約8倍、フランスの約7倍もあるのだ。
http://www.nuketext.org/mondaiten_yosan.html

慶応大学の岸博幸氏は、今回の福島の原発事故については東電に責任があることは言うまでもないが、政府にも重大な責任があり、双方の責任を安易な電気料金の値上げや増税で処理するのではなく、東電は徹底的なリストラをし、政府も今まで蓄積してきた「原子力埋蔵金」を放出して返済原資に充てるべきであると説いている。
http://diamond.jp/articles/-/12124

岸博幸

その「原子力埋蔵金」は岸氏によると、「政府が原子力推進を当面の間棚上げにすれば、そして特にもんじゅや六ヶ所村再処理工場に代表される“核燃料サイクル”を断念すれば、数兆円単位の資金」があるのだそうだ。ほかにも「(財)原子力環境整備促進・資金管理センターには、電力会社が積み立ててきた2種類の積立金(再処理積立金、最終処分積立金)が合計約3兆5千億円」あり、さらに原子力関連の独立行政法人や公益法人は様々あって、それら法人の剰余金は賠償金に使えるとしている。

岸氏は続けて「甚大な原発事故が起きた以上、国民感情を考えれば原子力推進などとても無理なはずですので、予算の執行を停止して、原子力推進のための予算のうち全額は無理でも例えば半分を賠償に転用するのは、原発事故の責任を負うべき政府として当然の対応ではないでしょうか。」と説いているが、全く正論だと思う。

今回の原子力災害に関しては消費者には何の責任もなく、ただの被害者にすぎない。したがって、電力料金の値上げや増税で被災地の被害者の賠償金原資の捻出をはかるというの議論はどう考えてもおかしい。
ペナルティを課すべき対象は、第一義的には原子力推進を図って来た東電や政府ではないのか。この際原子力利権そのものに大きなメスを入れなければ、問題解決をすることにはならないと思う。
岸氏が主張する通り、政府さえその気になれば数兆円単位の賠償原資の供出が可能であり、東電も役員報酬や管理職の給与カットや厚生施設売却などまだまだやるべき事がある。また、既存の原発の安全対策にも大きな追加投資が早期に必要なはずだ。
そういう議論をほとんどせずして、電気料金の値上げや消費税増税の議論が先行すべきではないと思う。

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『明暦の大火』の火元の謎を追う

明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼け、特に江戸開府以来の古い市街地はほぼすべてが焼失し、焼死者が十万人余を数えたという大火災が発生した。世に言う「明暦の大火」である。

むさしあぶみ

この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。
作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさしあぶみ』の「明暦の大火」の記述の一部を原文で読むことができる。
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg146.html

そこには、
「…去年霜月の比より今日にいたるまて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこ(粉)おちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急をのがれてうちすてたる車長持ハ。辻小路につミあひひしめく間に。猛火さきさきへもえ渡りしかバ目の前に京橋より中橋にいたるまで。四方の橋一度にどうど焼落る。…」
と、前年の11月以来80日ばかり雨が降らず、空気が乾燥していたうえに当日は朝から強い風が吹いて、炎が「車輪のように」渦を巻き地を這うように延焼していった様子が記されている。

以前このブログで、関東大震災の時に東京で「火災旋風」が発生したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

火災旋風

Wikipediaによると「火災旋風」とは、「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻」で、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで螺旋状に局地的に上昇気流が起こる。
関東大震災の火災旋風の大きさは高さが100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後の火災旋風が発生したと推測されているのだが、「車輪のごとくなる猛火」という表現から「明暦の大火」でもこの火災旋風が起こったことが推測される。
『むさしあぶみ』には、次のような記述もある。

「おびたゝしき旋風ふきて。猛火さかりになり。十町廿町をへだてゝ飛こえ飛こえもえあがりもえあがりけるほどに。前後さらにわきまえなく。諸人にけまどひて焔にこがされ煙にむせび。…あそこ爰の堀溝に百人弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしといふ所もなし。」

1町は109.09mであるから、火炎が1~2km近く飛び越えて延焼していったというのは誇張もあるかもしれないが、火炎が長距離を飛ぶことは火災旋風の典型的な現象で関東大震災でも実際にあった事なのである。

meirekitaika1657地図

次のURLで明暦の大火で焼失した地域が特定されているが、炎は江戸城の御濠を飛び越えて江戸城の天守閣や本丸御殿などを焼き払い、江戸城で焼けなかったのは西の丸だけであった。さらに火災旋風は隅田川をも飛び超えて、対岸の深川地区をも延焼させていることがわかる。大きな公園や川があっても、火災旋風が起これば風向き次第で火はそれくらいの幅を飛び越えて行くものなのだ。
http://imai-aud.co.jp/Bieyasu.htm

隅田川

この明暦の大火を「振袖火事」とよく言われるのは、恋の病で臥せったまま2年前の1月18日に死んでしまったウメノという若い女性の振袖がキノという手に女性わたり、キノも翌年の1月18日に亡くなり、その振袖が今度はイクという女性の手に渡ったのだがイクも次の年の同じ日に死んでしまった。そこでこの振袖を本妙寺で供養することとなり、火の中に投げ込んだところ、つむじ風によって振袖が舞い上がり、本堂に飛び込んで燃え広がったという言い伝えがあることによる。
この「振袖火事」の物語は言うまでもなく後世の作り話なのだが、この明暦の大火の出火元については江戸本郷丸山町の本妙寺とほとんどの本に書かれている。上の地図で見ると、火元は3か所あるようだが、最初の火元は本妙寺だ。

ところが、この大火の火元とされている本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。重要な部分を引用してみる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/

「…しかし、本当は本妙寺は火元ではない。幕府の要請により(本妙寺が)火元の汚名をかぶったのである。
理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は 火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、 当山に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には 客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、 十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の 触頭(ふれがしら)*に任ぜられている。
(*触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申達する役)
これはむしろ異例な厚遇である。
さらに、当山に隣接して風上にあった老中の 阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が 大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余に わたり 奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる 本妙寺火元説を覆するものである。」

阿部家と本妙寺地図

本妙寺の主張は、本当の火元は老中の阿部忠秋であり、本妙寺は幕府の要請により本妙寺が火元を被ったと言っているのだ。当時の風向きと阿部忠秋家と本妙寺との位置関係をしめす地図が、本妙寺のHPで紹介されている。それぞれはほとんど隣同士にあり、老中の阿部邸のほうが風上に位置していることがわかる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/ezu.htm

明和9年(1772)の目黒行人坂の大火の時には、火元となった大円寺は無宿者の放火であったにもかかわらず50年間再建が許されなかったのだそうだが、本妙寺がこの時に何の罪も問われなかったのはどう考えてもおかしなことだ。
またこの明暦の大火の後に69の寺院が移動を命ぜられたのだが、火元となった本妙寺が本郷から動かなかったのも理解しがたい。

そもそも阿部家の菩提寺は浅草蔵前の浄土宗西福寺で、本妙寺の檀家ではなかったようだ。
また幕府は、明暦の大火の後に、大火の犠牲者となった人々を供養する目的で、両国に回向院という寺を設立している。ならば、阿部忠秋家が供養料を奉納すべき寺院は回向院ではないのか。
この阿部家の供養料は半端な金額ではなかったらしいのだが、檀家でもない阿部家が何故260年余にわたり本妙寺に奉納したかは大きな謎である。

本妙寺のHPにはさらに詳しいレポートがリンクされている。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/hurikaji.pdf

これによると
「大火の処理にあたっては、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守等が中心となって協議の結果、この大災害が阿部家の失火が原因とあっては、阿部忠秋が老中という幕府の中枢にあることを考えると、大衆の怨恨の的になることは必至であり、ひいては幕府の威信の失墜は免れず、以後の江戸復興等の政策遂行に重大な支障を招く結果につながりかねない。阿部家の責任を追求するより、大混乱を静め、江戸を復興させ、幕府の威信を保つことが大切であるとの結論にたっし、阿部家と隣接して風下にあった本妙寺に理由を説明して、阿部家に代わって失火の火元という汚名を引受けることを要請し、本妙寺も幕府の要請に応じて火元の汚名を引き受け、幕府の威信の失墜を防ぎ、その後の政策遂行に支障をきたさないよう協力し、ひいては、阿部一族を失火の責任から救うという結果につながったわけである。」との説明だ。

明暦の~1

この説明では明暦の大火は阿部家の失火が原因であり、その責任を被った本妙寺が優遇されたことはある程度説明がつくのだが、つい先程指摘したように火元がほかに二箇所ある。本妙寺が焼けた翌日に、風上の火の気のない場所で二箇所も新たな火災が発生したのは極めて不自然な事で、普通に考えれば放火があったと考えるべきだと思うのだが、当時の幕府の記録では放火犯を捕まえた記録はない。
『徳川実紀』には正月二十四日に神田の牢人有賀藤五郎という人物を挙動不審で捕まえているが、その牢人を処罰した記録はないそうだ。

そこで幕府が放火に関与しているのではないかという説もあり、それが結構有力説となっているようだ。

先程の本妙寺のレポートにも紹介されているが、江戸災害史研究家の黒木喬氏によると、明暦の大火は江戸幕府が関与し、その黒幕は松平信綱だと推定しておられるのだがこのレポートは結構面白い。この説は、新人物文庫の『仕組まれた日本史』の中でも黒木氏本人がレポートしておられるので、内容を紹介してみよう。

久世広之という人物がいる。将軍家綱に仕え老中まで上り詰めた大名で、延宝七年(1679)に71歳で没し四谷の別邸に葬られたのだが、後に広之の子の重之が本妙寺を菩提寺にし、広之の戒名を「中興檀越自證院殿心光日悟大居士」としている。「中興檀越」という字は、久世広之が本妙寺の中興に大きく貢献した檀家であったことを意味する。子の久世重之も老中にまで上り詰めた人物だが、何故広之が「中興檀越」なのか。

久世広之がスピード出世を遂げたのは、都市計画を担当していた老中松平信綱に目をかけられてからだと言うから興味深い。

慶安五年(1652)に広之は江戸府内の巡検を行い、『承応録』によると、旗本で屋敷を持たぬ者が600人いて、この日の巡検で約400人分を確保したという。翌年には築地奉行が任命されて、不足する武家屋敷地を造成するために、赤坂・小石川・小日向などの山の手方面の水田や木挽町海岸の埋め立てが開始され、明暦元年(1655)には広之は寺社奉行・町奉行・勘定頭とともに宅地点検を実施するなど、松平信綱の都市政策に深くかかわっていたようなのだ。

そして明暦二年の七月十一日には、六月に任命されたばかりの屋敷小割奉行を加えたメンバーが信綱邸に集結しているのだが、この日に松平信綱が江戸城に登城していないこともわかっている。余程重要な都市計画の大綱が信綱邸で議論されたのではないかと黒木喬氏は推定している。明暦の大火はこの会議から半年後に起こっている出来事なのだ。

黒木氏の表現を借りると、
「昔も今も都市計画の実行は補償費がばかにならない。日本橋人形町にあった吉原遊郭の浅草移転だけで一万五百両(一説では一万五千両)が支出されている。計画を迅速に達成するには、大きな火事がおこって、きれいさっぱり焼けてくれるのが一番よいのである。」

実際に幕府が放火に関与したとの証明はできないが、きれいに焼けて欲しいぐらいのことを強く期待していてもおかしくないし、そう解釈しないと説明できないことが多すぎるのである。

「明暦の大火後、道路の拡張、武家屋敷・寺社・町屋の移動、広小路・火除地の設定など、矢継ぎ早に都市改造が断行された。手際が鮮やかだったのは、すでに基本計画が立案されていたからだろう。」となかなか説得力がある。

久世広之は、大火後に江戸城再建の総奉行として活躍し、寛文二年(1662)には若年寄に就任し、その翌年に老中に就任している。
一方本妙寺は寛文六年(1667)に日蓮宗勝劣派の触頭(ふれがしら)職になっているのだが、日蓮宗勝劣派には五派あって、その中で一番大きいのは妙満寺派の五百八十余寺、ついで八品派三百二十余寺、興門派二百九十余寺、本成寺派百八十寺、本際寺派十余寺の順なのだが、本妙寺は少数派の本成寺派に属していながら触頭職に昇進しているのも奇妙なことである。
大火の火元とされながら、また老中の久世広之が檀家でもなかった時期に、なぜ本妙寺が異例の昇進を遂げたかは、老中久世広之らのつながりがなくしてあり得ないと考えるのが自然だろう。

黒木喬氏も書いておられるが、松平信綱も久世広之も、この大火で火災旋風がおこって、江戸城の天守閣も本丸御殿や焼けてしまうとは想定していなかったことだろう。

江戸城

江戸城の天守閣はこの「明暦の大火」で焼失した後は、二度と建てられることはなかったのだが、江戸の都市計画の実行は淡々と進められたのである。

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軍部が情報を握りつぶした「昭和東南海地震」

真珠湾の奇襲攻撃に成功してからほぼ3年が経過した昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に、M7.9の巨大地震が起っている。地震の震源は和歌山県新宮市付近で、断層の破壊は北東方向に進んで浜名湖付近まで達したという。

東南海地震震度

内閣府『防災情報のページ』にはこう記されている。
「…海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。…震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県の御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波は伊豆半島から紀伊半島までを襲った。」
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1944-tounankaiJISHIN/

三重県津市や四日市市、静岡県御前崎市、長野県諏訪市で震度6を記録し、近畿から中部までの広範囲で震度5を記録したのだが、Wikipediaに都道府県別の被害が纏められている。
それによると死亡・行方不明者は全国で1223名で、愛知県438名、三重県406名、静岡県295名の3県で全体の93%を越えている。また、住居の全壊は静岡県が6970軒、愛知県が6411軒、三重県が3776軒で、この3県が全体の95%を越えている。

これだけ大きな被害が出たというのだが、この大地震に関してはあまり記録が残されていないようなのだ。その理由についてWikipediaにはこう解説されている。

「当時、日本は太平洋戦争の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が日本の国民や敵国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。また翌8日が真珠湾攻撃3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。地震についての情報は、(1面ではない)紙面の最下部のほうにわずか数行程度、申し訳程度に記載されただけで、しかも『被害は大したことはない』『すぐに復旧できる』といった主旨のこと、つまり実態とは大きくかけ離れた虚偽の内容が書かれたにとどまる。
また、被害を受けた各地の住民は、被害について話さないように、とする戦時統制に基づく通達が行政側からまわった。例えば学徒動員され、半田市の中島飛行機の工場で働いていた少女は、同世代の友人が崩れ落ちてきた屋根の下敷きになって死亡するのを目撃し自身も死にかけたが、そうした出来事・被害状況を『決して人に話さないように。話すことはスパイ行為に等しい』などと、教師から指示されたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%9D%B1%E5%8D%97%E6%B5%B7%E5%9C%B0%E9%9C%87


ここで、この時期に日本軍はどのような戦況にあったかを簡単に振り返っておこう。
昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てと出撃潜水艦の多くを失う壊滅的敗北を喫し、西太平洋の制海権と制空権を喪失。7月にはサイパン島で3万人が玉砕し、11月24日以降米軍は、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から新型爆撃機B-29で、日本本土への戦略爆撃を開始している。
ネットで東京が米軍に空襲された日を調べると、11月24日、27日、29日、30日、12月3日、6日と、随分高い頻度で繰り返し攻撃されているのだが、そんな最中に「昭和東南海地震」が発生しているのである。

昭和の動乱

この地震に関する記録はあまり多くないことを先ほど記したが、当時の小磯内閣で外務大臣を務めた重光葵(まもる)が、著書『昭和の動乱』に少しだけこの地震のことを記している。

重光葵

「…かくして、日本は国を挙げて日々焦土と化して行った。この惨状に直面しながら、食糧品を探し求める人々の声は悲痛であった。それにも拘らず、当時軍の主張した玉砕説は、当然のことのように考えられて、天皇の命ずるところとあらば、火の中にも飛び込む気持ちは、全国民にあった。
 空襲は、初期においては、名古屋一帯の工業地域に集中せられたため、同地域における軍需生産は多大の損害を受けたが、恰(あた)かもその際に起こったこの地方の大地震による損害は、空襲によるものよりも遥かに大で、豊橋地区は全滅し、ある種の精密工業は、恢復不可能の程度に破壊されるに至った。連日の空襲に加うるに、大地震の天災は、日本人にとってはまことに不吉のものであった。
 空襲と地震とによって、我が軍需工業は再び立つ能わざる致命的損害を受けた。にも拘わらず、軍需大臣以下の政府機関は勿論、工業経営者も労働者も、戦場における勇士の如くに、その職場に踏みとどまって災厄と闘った。飛行機工場の地下移転も考案され、幾分実現されたが、これは既に遅過ぎた。
 血と汗の奮闘で製作した飛行機及び船舶を初め多くの軍需品が、工場より送り出されたが、その少なからざる部分は、戦場に到着する前に海中に沈むか、また空襲により破壊された。」(中公文庫『昭和の動乱 下』p.270-271)
と名古屋一帯の工業地域が、「地震」で大損害を受けたと記されている。「津波」という言葉が用いられていないのだが、「軍需品が…海中に沈む」という言葉で伝えようとしたのだろう。

総務省のホームページに名古屋市における空爆の状況が纏められているが、名古屋市が本格的に空襲されたのは地震の後のことである。
「東区大幸町の三菱重工業名古屋発動機は、全国発動機生産高の40%以上を生産していたが、昭和19(1944)年12月13日から翌年4月7日までに、7回の目標爆撃を受けて壊滅した。米軍資料によると、それらの爆撃により、全屋根面積の94%に破壊又は損傷を与えたとする。
 三菱重工業名古屋航空機、愛知航空機なども繰り返し爆撃された。工場疎開も行われたが、疎開先での生産は、その損失を回復するに至らなかった。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_06.html

そのような軍需工場に対する爆撃だけでなく、住宅地にも焼夷弾が投下されて多くの被害が出た記録は残されているのだが、重光葵は空襲による被害よりも地震による被害の方がはるかに大きかったと書いていることに注目すべきだろう。

ではこの地震による被害は具体的にどのようなものであったのか。
山下文雄氏の著書『津波てんでんこ』にやや詳しく書かれているので紹介したい。

津波てんでんこ

「この地震のため5万7千戸以上の住宅が全半壊、流失し、1200余の人々が死亡行方不明になっていたのである。…それどころか、日本航空産業の心臓部であった東海地方、特に愛知県で、飛行機工場の密集する名古屋の南部が大被害を受け、海軍の主力戦闘機、いわゆるゼロ戦を製作している三菱航空の道徳工場や、海軍の攻撃機などを制作していた半田市の中島飛行機山方工場などが倒壊し、動員されていた少年、少女たちが多数圧死する大惨事にもなっていた
 もっとも、これらの工場被害は、地震のためとはいえ、多分に人災の要素をもっていた。右の中島飛行機山方工場など、もともと明治時代に、軟弱な埋め立て地に建設した鋸形の紡績工場を接収し、飛行機工場にてんようしたものであった。しかも飛行機を製作するためには一定の広さを必要することから、転用に当たって、無謀にも中にあった柱を取り除いたりしていた。山方工場の当時の関係者から直接聞いた話によると、鋸で挽いて柱を切り取ったのだという。むろん、建物の耐震性に厳しい地震学者などには一切タッチさせなかった。こんな建物が震度6~7の地震に耐えられるはずがない。あっという間に倒壊して、右の山方工場だけでも97人の中学生や女学生(勤労学徒)を含む150人が圧死したのであった。」(『津波てんでんこ』p.110-111)

東南海大地震新聞報道

ところがわが国は、地震でこんなに大きな被害が出たことを国民に伝えようとはしなかったのである。山下氏は同じ著書でこう書いている。

「その12月8日。当日は米英に宣戦布告した『開戦記念日』、当時の言葉で言うと『大詔奉戴日』、つまりは宣戦布告についての天皇の詔勅が下った日とあって、新聞各紙は一面トップに天皇の大きな写真を掲載、それを飾るように特攻隊の出陣式の模様や、レイテ島に於ける斬込隊の武勇談などを満載していた。その裏の、ほんの片隅にあった『きのふの地震』(毎日新聞)、『昨日の地震―震源は遠州灘』(東京朝日新聞)などという小さな記事に、果たしてどれだけの読者が気付き、関心を持ったろう?いずれにしろ、これが戦時報道管制下でわずかに許された、前日12月7日に起こった東海大地震に関する記事であった。」

静岡新聞がこの地震に関する特集を2002年に連載していて、誰でもその記事をネットで読むことが出来る。地震被害の大きかった静岡県に本社を置く新聞ですら、僅か数行の記事しか書かれていないのは驚きだ。

「『昨日縣下に強震』『罹災者救助、復舊に萬全期す』。見出しも新聞の段数で縦二段、と目立たない扱い。県内の被害状況は短くまとめられている。
 それによると、『縣下一体にわたり道路の亀裂、堤防の崩壊等あつたが人的並びに家屋の損害は清水市以西に多く、発震と同時に数カ所に火災を発生した。いずれも即時消火し火災の被害は極めて軽微であつた。西遠地方の国民学校中には被害を生んだ処もあり学童も多少負傷した』となっている。」
http://www.at-s.com/news/article/others/36.html

しかしながら、この新聞記事が嘘であることは、当時の地元の読者は分かっていたはずだ。なにしろ静岡県では295名の死亡・行方不明者があり、6,970軒の住居が全壊したのだが、肝腎の津波のことを一言も報じていないのである。

情報統制はこの日以降も続き、山下氏の著書によると、地震被害の実態を新聞記者に伝えた人物が憲兵隊に連行されて拷問された話や、工場の休憩時間中に地震の怖さを話した女工が「敵に有利にデマを飛ばしたということになり」憲兵の取締りを受けたことなどが記されている。

東南海大地震調査概報

では、報道機関への情報の発信元となる中央気象台(現気象庁)はどのような記録を残しているのだろうか。
昭和20年2月20日発行の「東南海大地震調査概報」の表紙には「厳重注意」の但し書きがあり、肩には『極秘』の文字がある上、本文にもこう書かれていた。
『本報告ハ極秘事項ヲ含ムヲ以テ之ヲ厳重ニ保管シ其ノ保管状態ニ変動ヲ生ジタル場合ハ遅滞ナク発行者ニ報告シ用済後不用トナリタル場合ハ直チニ発行者ニ返却スベキモノトス』
http://www.at-s.com/news/article/others/38.html

尾鷲市津波の後

こんな具合に、軍はこの地震被害の情報を隠蔽しようとしたのだが、肝腎のアメリカでは日本の中部で関東大震災よりも強大な地震があり、津波が発生して軍需工場に壊滅的打撃を与えたことがニューヨーマタイムズ紙などでトップ記事で報じられたという。どうやらこの地震による津波がハワイやアメリカの太平洋岸に達して、これらの解析で震源地や地震の大きさを掴んでいたようなのである。
またアメリカは地震の3日目に偵察機を飛ばして、高度1万メートルから被害状況を調査していたようだ。その時に撮影した写真が米国公文書館に残されている。

三重県尾鷲市

上の画像は米軍偵察機が12月10日に撮影した三重県尾鷲の写真だが、○印の部分に津波で陸に打ち上げられた船が写っていることがわかる。記録によると尾鷲の津波の高さは5m~10mにも及び、そのために平地の家屋はほとんど全滅したのだそうだ。

ところで、この地震についてネットでいろいろ調べていくと、地震がアメリカによって人工的に起こされたのではないかという議論があることを知った。
その論拠としている資料はいくつかあるが、たとえば2005年4月に米国で公開された『地震を使った対日心理戦争計画』と題する米軍機密文書(1945年、CIAの前身である米戦略事務局OSSによって作成)で、それによれば第二次大戦末期の1944年にカリフォルニア大学のバイヤリー教授を中心とする地震学者たちが総動員され、 「日本近海のどこの海底プレートに強力な爆弾を仕掛ければ、人工的に巨大な津波を起こせるかシュミレーションを繰り返した」と書かれている。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=247223

この地震がわが国にとって戦意を高揚させるべき「開戦記念日」の前日に起こったことや、アメリカが直ちに偵察飛行機を飛ばして被害を調査していることや、地震の数日後にB29から撒かれたビラに「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」と毛筆で書かれていたとする情報も確かに気になるし、1945年1月9日の読売東京の朝刊には「日本本土沿岸の軍海域に天文学的数量の炸薬を設置して一挙にこれを爆発させることによって人工地震をおこさせよう」とする研究が行われていることが報じられているのも気になるところである。

人工地震記事

その1月9日付読売東京の記事にはこう書かれている。
「ランネーの計算によれば、大阪沿岸の海底約4千平方呎(フィート)に仕掛けて相当の地震を発生させるには五億トンの爆薬が必要であり、多数の潜水艦がこの爆薬を約六百万トン鋼鉄の筒に入れて、爆雷と同様三千呎の海底に沈下させなければならぬという。
しかもこんな苦労をして地震を起こしたとしても果たしてどの程度の地震が起こるか測定することは不可のだという結論が出てご破算、さすがのヤンキーもフームと唸っているという。」
アメリカに人工地震という構想があったことは確かだとしても、当時は原爆も完成しておらず、津波を起こすのに5億トンもの爆薬が必要であったというのである。ちなみに広島の原爆はTNT火薬に換算して20キロトンで、2万トンのTNT爆薬を一瞬に爆破した時の破壊力であったというが、その2万5千倍の火薬が必要だという計算になる。

それほどの量の火薬がアメリカにあったかどうかはともかくとして、潜水艦にそんな大量の爆薬を積み込んで海底深く沈める作業にアメリカが膨大な日数と労力をかけるとはとても思えないし、しかも津波実験が成功するかどうかもわからない。普通に考えれば、大量の火薬をそんな使い方で費やすよりも、空襲で用いることのほうがはるかに自然ではないか。
「地震のつぎには何をお見舞いしましょうか」というビラが撒かれたことが真実であったとしても、それはアメリカが仕掛けた「情報戦」とも呼ぶべきもので、自然災害をわが国民に対する恫喝の格好の手段として利用したのではないかと考えるのが妥当だと思う。

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【ご参考】このブログで地震についていろんな記事を書いてきました。
地震の被害は、観光地などでは死活問題となるため、多くの情報が握り潰されています。

よかったら関東大震災の事例を読んでみてください。

関東大震災の教訓は活かされているのか その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-265.html


地震がなかったにもかかわらず三陸海岸を中心に日本列島を襲った大津波~~チリ津波

今年の台風や地震の規模も被害も半端なものではないが、自然災害の怖さを振り返る良い機会なので、わが国の記録に残されている自然災害をしばらくいくつか紹介していきたい。

以前このブログで「震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波」という記事を書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html

明治29年(1896)6月15日に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表では震度2~3程度のものであったが、10mを超える大津波が三陸海岸の各地を襲い、岩手県を中心に多くの死者が出た。

明治三陸大津波伝承碑

特に岩手県綾里村の津浪は38.2mという想像を絶する高さのもので、綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には驚くべき内容が記されている。
〈綾里村の惨状〉
「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き足を折り実に名状すべからず。村役場は村長一名を残すのみ。尋常小学校、駐在所みな流失して片影を止めず」(岩手県知事より内務大臣への報告)

この明治三陸大津波の原因となった地震のマグニチュードは8.6程度と推定されているが、「震度」というのは「ある地点の地震の揺れの程度」を意味し、「マグニチュード」は「震源から放出される地震波のエネルギーの大きさを間接的に表現したもの」である。
同じマグニチュードの地震であっても、震源から震度の測定地点までの距離が近いか遠いか、震源が深いか浅いか、伝播経路やその地点周辺の地盤条件等によって、地点の震度は変わってくるものであることは良く考えればわかることなのだが、明治三陸大津波の原因となった地震の震源地は日本列島から遠かったために、東北の人々は震度が小さい地震を警戒しなかったことから多くの津波の犠牲者が出てしまったのである。

震度3でもこれだけ多くの津波被害が出たのであるが、わが国では、震度がゼロであったにもかかわらず大きな津波被害が出た事例が存在する。

昭和35年(1960)に南米チリで起こった地震で発生した津波が太平洋を渡り、各国に深刻な被害をもたらしたのである。

気象庁(1961):チリ地震津波調査報告.気象庁技術報告第8号
【気象庁(1961):チリ地震津波調査報告.気象庁技術報告第8号】

山下文男氏の『津波てんでんこ』にはこう解説されている。

「一般に『チリ津波』と呼ばれているこの津波は、1960年(昭和35)5月23日午前4時10分(日本時間)南米チリ沖で起こった、M=8.5とも9.0ともいわれる、世界の地震史上も最大級の巨大地震に伴って発生した大津波であった。地元のモチャという島など、25m級の高さの津波によって1700人が溺死、あるいは行方不明という大被害だったが、津波には国境も領海もないから、そのまま太平洋を西北に進んで途中ハワイのヒロ島などを襲って61人もの命を奪い、更に、西へ西へと進んで地震から21時間後、則ち、24日の早朝には1万7千kmをまるでジェット機並みのスピードで走り切って日本列島の太平洋岸に襲い掛かった。明治三陸津波と同様、津波のランク〔4〕とされている近代日本最大級の大津波であった。
事前の地震を感じなかったことから『音もなくやってきた津波』などともいわれ、全国の沿岸住民に大きな衝撃を与えた。」(『津波てんでんこ』p.157)

17千kmを21時間で進む速さは時速810km、秒速225mという計算になるが、当時のわが国においては、そんなに遠くから大きな津波がやって来るということは想定していなかったようだ。この津波はわが国にどのような被害を与えたのだろうか。山下氏の文章を続けよう。

「津波は、北海道から沖縄に至る全国の沿岸線に、ほとんど隈なく押し寄せ、当時、米軍の占領下にあった沖縄を含め、全国で住宅3891戸が全半壊、39869戸が流失あるいは浸水して142人が死亡行方不明になった。なかでも被害が大きかったのは岩手県と宮城県の沿岸部で、この度も三陸海岸が最大の被災地になった。」(同上書 p.158)

大船渡市地図

津波による被害が大きかったのはリアス式海岸の奥にある港で、最大の被害が出たのは岩手県大船渡市で死亡行方不明者が53人、家屋の流出半全壊が880戸。次に被害が大きかったのは宮城県の志津川町(現:南三陸町)で、死亡行方不明者が37人、家屋の流出半全壊または浸水が1329戸あったという。

リアス式海岸と言っても津波に対して突き出た岬のような地形は、船首のように波を切ることが出来るので被害は小さい。大船渡市の地図を見ればわかるが、西北西方向に津波が進む場合に、綾里崎と碁石岬に切り分けられて逃げ場を失った津波は、山に囲まれた狭い地域に流れ込み、奥まった大船渡湾に迫るにしたがって津波の高さが高くなって破壊のエネルギーが増すことになるのだ。しかしながら同じ規模の津波が同じ場所を襲ったとしても、津波の進行方向が異なると被害の規模は大きく異なることになる。大船渡市の場合で、津波の進行方向がたとえば東北東であれば、大船渡湾に入り込む津波の規模は小さくなり、被害ははるかに小さかったと考えられるのだ。

チリ津波に襲われた大船渡市
チリ津波に襲われた大船渡市】

『津波デジタルライブラリィ』に、当時の大船渡小学校の教諭と生徒が記したチリ津波体験記『くろいうみ』が公開されている。当時、同小学校の校長であった紀室泰治氏は『発刊の辞』のなかで、津波当日のことを次のように述べておられる。

「誰もが夢うつつの快いまどろみの中にあって、街はひっそりと静まりかえって、深い眠りから覚めやらぬ二十四日早暁午前四時三十分、それこそ何等の前兆もなく、全く突如として大津波が襲来したのでありました。非常を告げ、暁の空気をふるわして、けたたましく鳴りひびくサイレンの音にも、海岳の方角から聞えてくる『津波だ、津波』と絹を裂くような叫び声にも、誰もが一様に『地震もなかったのにまさか津波がくるなんて』と信じかねる程でした。
人々のそんな考えには何の躊躇もすることなく、怒り狂った逆巻く大津波は物凄い勢いで疾風のように襲いかかって、繁華を誇った街を片っ端から無惨にも木葉微塵に打ち砕き、救いを求める血の出るような悲痛なる叫び声にさえ、何とも手の下しようもなく、全く一瞬にして阿鼻叫喚の修羅場と化してしまったのであります。」
http://tsunami-dl.jp/document/076#section-696e0b07bb3d17ac688471233e539fe5

『くろいうみ』に寄稿している先生や生徒の記録を読めば、誰もが津波が来ることを知らされていなかったことがわかるのだが、当時の気象庁は何をしていたのだろうか。
気象庁は、チリの大地震のあと津波が発生し、ハワイで猛威を奮ったことについては電報で情報を入手していた。そして検潮儀の記録では、午前2時25分には伊豆大島、2時30分には北海道の浦河などで津波の第1波の到着が確認でき、大船渡にも午前3時10分ごろの第1波の到着が確認できたという。

大船渡港民家に乗り上げた漁船
【大船渡港民家に乗り上げた漁船】

そんな状況であったにもかかわらず、気象庁の反応は鈍かった。
山下氏は前掲書でこのように記している。

「札幌管区気象台が『ツナミノオソレ』の予報を出したのは24日午前5時00分。
 仙台管区気象台が『ヨワイツナミ』の予報を出したのは同5時15分。
 つぎが直接気象庁による発表で5時20分。内容はつぎのようなものであった。
 『23日午前4時頃、チリ中部海岸におきた地震により、日本の太平洋岸では弱い津波があります。なお、北海道および三陸沿岸では津波の勢力が集まる関係で、相当な津波になる恐れがあります。』
 『相当な津波になる恐れ』というが、この頃になると、もう大船渡市(岩手県)や志津川町(宮城県)などでは、実際に、5m前後の大津波(第2波)に襲われ、全く寝耳に水で、惨憺たる情況になっていた。」(同上書 p.163-164)

実は、この津波が起きる5年も前に東京水産大学の三好寿氏によって、「チリで生じた津波が、日本近海で警戒すべきである」との注意喚起がなされていたという。そして三好氏は気象庁の会議室での講演においても同様の事を指摘したとのことである。

気象庁は、そんな遠くで発生した津波がもし日本に到達したとしても、大きな被害は出ないと高をくくって三好氏の指摘を無視したわけだが、津波で大被害が出てから事後で津波予報を出したことが当然非難されることになる。その時の気象庁の言い訳は次のようなものであったという。

「気象庁は、後でこそ『このこと(ハワイからの電報)が十分に活用されず予報の遅れたことは、関係者一同の知識の足りなかったことと経験が足りなかったために、津波強度を過少に推定したことによるもの』とし、『誠に遺憾に堪えない』と謝罪の意を表明したが、当初は『前例がない』とか『気象官署津波業務規定による業務のこと』『技術の限界』などと弁解に終始して、なかなかこの大失態を認めようとしなかった。」(同上書 p.164)

河北新報 チリ津波

大事故が起こったあとの当事者の言い訳として、「前例がない」とか「想定外」とか「技術の限界」という言葉が今も良く用いられるのだが、今後同様な事故が発生した場合にいかにすれば被害を最小限にできるかという発想よりも、自分や組織に責任が及ばない目的で発されることが多いように思う。

チリ津波のように、自国から遠く離れた海域で発生して押し寄せてくる津波を「遠地津波」と呼ぶのだそうだが、実は「遠地津波」は過去も何度か記録されており、明治10年(1877)にチリ沖から押し寄せてきた津波は釜石で3mの津波高を記録し、千葉県の房総半島で死者を含む被害が出た記録はあるというが被害は限定的であった。また平成19年(2007)8月15日にはペルーでマグニチュード8.0の地震があったが、わが国には北海道から沖縄までの太平洋側に高さ10~20cm程度の津波が到来したという記録があるだけである。

昭和35年のチリ津波は、わが国において記録に残されている「遠地津波」のなかで最初に大被害を出した事例であったのだが、気象庁はそれ以来「遠地津波」の発生とその情報を重視するようになったという。そのことは良いことには違いないのだが、津波を警戒する情報を出しても何も被害が出ないことが続くうちに人々が、「遠地津波」の怖さを忘れてしまうことが心配だ。地震がなくとも、あるいは小さな地震でも、震源地が遠ければ津波が襲ってくることがありうることを、小さい子供にもしっかり教えておくことが重要である。

ネットではチリ津波についての写真や記録の多くが紹介されているが、今年は災害の多い年であるからこそこれらの内容に目を通して頂き、多くの人々の記憶にとどめていただきたいものだと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-303.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html






敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」

以前このブログで「軍部が情報を握りつぶした『昭和東南海地震』」という記事を書いた。この地震は昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に起きた、和歌山県新宮市付近を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震のあと津波が発生し、全国で死亡・行方不明者は1223名、壊れた家屋が57千戸以上とされる大災害であったのだが、この情報が漏れることを恐れた軍部が情報を統制したため、詳しい記録が残されていないという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-420.html

そして、その地震からわずか2年後の昭和21年(1946)に、今度は潮岬南南西約50kmを震源とするマグニチュード8.0の地震が発生している。今回はこの地震のことを書いておきたい。

終戦の年である昭和20年(1945)の米の収穫高は例年にない凶作であったうえ、海外からの引揚げ者や復員兵の増加によって昭和21年(1946)に入ると食糧事情は急速に悪化し、配給米の遅配や欠配が続いたという。お金があれば闇米を買うことは可能であったが、庶民の手の届くような価格ではなかったようだ。都市部では餓死者が続出し、もっとも悲惨であったのは戦災孤児や空襲被災者たちで、彼らは食料と交換できるお金も品物も持ち合わせていなかった。
5月19日には皇居前に25万人が集結し、政府の食糧配給遅延に抗議する集会が開かれている(食糧メーデー)。

そのような暗い年の12月21日の夜明け前に、西日本を襲ったのが『昭和南海地震』である。地震のマグニチュードは昭和東南海地震(M7.9)を上回る規模であり、この時も津波が発生して死亡行方不明者が1443名、住宅全半壊が28274戸、流失浸水が30330戸、焼失が2598戸と多くの被害が出たのだが、人々の生活がそれぞれ自分の事で精一杯であったため、罹災者には国民的な支援が届かなかったという。

この地震においても津波が発生し、和歌山、高知、徳島の三県で多くの津波被害者を出したのだが、この地震で最大の被害が出たのは高知県で、679名の死亡行方不明者、住宅全半壊が13853戸もあったという。山下文男氏の『津波てんでんこ』に、津波の被害の大きかった須崎町(現須崎市)、多ノ郷村(現須崎市)の事例が解説されている。この地域の被害が大きかった原因の一つは、その地形とその産業にあったという。

高知県須崎市
【須崎湾】

「V字形の湾がくの字形になって入り組んだ須崎湾では、侵入してきた津波が、まず湾奥の真正面にある多ノ郷村を直撃し、破壊の限りを尽くした後、反転して、湾の入り口近くにある須崎町に背後から襲いかかり、惨憺たる被害をもたらした。
『(津波)が、貯木材、家屋などを逆巻きながら、須崎駅近辺に不気味な音をたてて、ゴロゴロ、ガラガラ、バリバリ、ベリベリと猛りたって急速に迫るや、まだ明けやらぬ暗がりの中、子は親を叫び、親は子を叫び、助けを求める悲痛な無限地獄を現出し、夜が白々と明けてゆく頃には、須崎駅付近に三十何名かの死体が横たわっていたことは涙なくして見ることが出来ない悲惨な光景であった』(『南海大震災誌』)」(『津波てんでんこ』p.142)

昭和南海地震須崎港

須崎湾奥にあった貯木場の木材が津波の引き波で市街地に流入したことが津波の被害を増大させたことは、須崎市が刊行した体験談集『海からの警告』にも多数事例が出ていて、津波のために凶器と化した木材によって多くの犠牲者が出たようだ。須崎市のホームページを見ると、今では木材が固縛されたり、津波バリアが築かれるなど対策が施されているようだが、このような対策は海沿いにある貯木場で全国的に行われているのであろうか。
http://www.city.susaki.lg.jp/life/detail.php?hdnKey=429

次に、高知県の次に被害の大きかった和歌山県の事例を見てみよう。和歌山県では269名の死亡行方不明者、家屋流出325戸、浸水11820戸、住宅全半壊が3411戸出たという。

和歌山県田辺市新庄町
【田辺市新庄町】

最大の被害地は新庄村(現田辺市)だそうだが、地図で確認すると大きなV字形の田辺湾の最奥部に当たる位置にある。湾の中に入り込んだ津波が、山に囲まれて次第に狭くなる地形の中で行き場を失い、次第に波高となって破壊力が増していくことになるので、このような地形は津波の被害が出やすいのである。

昭和南海地震 新庄村
昭和南海地震 新庄村】

前掲書によると新庄村の630戸のうち地震による倒壊は古い家屋2~3戸に過ぎなかったが、津波で79戸が流出し、401戸が浸水。全半壊が85戸を数え26人が死亡行方不明になったという。(p.137)

広川町
【広川町】

和歌山には新庄村と同様に歴史的に津波被害が良く出る地域として広川町(旧広村)がある。
地図で確認すると、広川町もV字型の湾の最奥部の位置にある。
安政南海地震の時に、五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けて村の人々が高台に集まったことで村人を救ったという話は作り話であることを以前このブログで書いたが、この物語のモデルである濱口梧陵は津波対策の為に紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防の建設に着手し、建設費の銀94貫のほとんどを自費で賄ったと伝えられている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-19.html

安政南海地震津波と昭和南海地震津波の浸水域比較 赤線が広村堤防
【安政南海地震津波と昭和南海地震津波の浸水域比較 赤線が広村堤防】

この広村堤防は昭和19年(1944)の昭和東南海地震の時はその役割を果たしたが、昭和21年の昭和南海地震の時は津波の高さが5mと高く、堤防のある地域の被害は一部の家が浸水した程度にとどまったが、堤防のない地域で22名の死者が出たという。上の地図は気象庁のホームページのもので左が安政南海地震津波の浸水域で右が昭和南海地震時の浸水域である。薄い赤線が、濱口梧陵が建設した広村堤防であり堤防により津波被害を小さくすることが出来たことは明らかである。
https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/tsunami/inamura/p7.html

津村建四郎
【津村建四郎】

この広川町に生まれて子供の頃に昭和南海地震を体験した地震学者の津村建四郎さんが平成2年(1990)に行われた「第1回全国沿岸市町村津波サミット」で、みずからの体験をもとに語られた講演の内容が山下文雄氏の本に出ているので紹介したい。文中の「紡績工場」は気象庁地図にある「日東紡績」で、「八幡さま」は「広八幡神社」だと思われる。

「みなさん、津波を発生させる恐ろしい地震と、そんなに恐ろしくない地震の見分け方をお教えしましょう。ぐらぐらといつまでも揺れ続けている地震が海底で起こった場合は津波が発生する恐れがあると考えてください。私が子どもの時分に体験した昭和の南海地震はものすごい地震で、しかもかなりの時間、揺れ続けていました。揺れ自体は、5分後くらいにはおさまり、その後非常に静穏な時間がありました。『大地震があったら逃げろ』と教えられてはいましたが、やはりその時点では逃げなかったのです。その後、深閑とした時間が15分くらいあり、余震もあまり感じられませんでした。そのうち沖からゴーッという凄い音がしてきました。近所の人が『津波だ!』という叫び声をあげました。その途端『逃げろ!』という感覚がよみがえってきました。冬の午前4時20分ですから、真っ暗です。しかし地元ですから、どの道をどう行けば八幡さま(避難場所)への最短コースかは分かっていました。
 みなさん、家族そろって避難するという訓練をやっておられるかも知れませんが、実際に暗闇の中で津波が押し寄せて来るという状況の中では、家族そろって避難するなどということはまず出来ません。ですから、今、考えると、一人ひとり、子どもに至るまで、一人で逃げのびる方法を教えておくべきだったと思っています。私も路地を必死になって逃げました。家族ばらばらになり、早い者勝ちで逃げました。
 逃げる途中にある紡績工場のすぐ側には小さな小川が流れています。平素は2~3mの高さで、川底にはチョロチョロ水が流れているところです。私が紡績工場のすぐ側を通過した時には、数メートルの橋の上で、津波が足のくるぶしぐらいまで上がり始めた時でした。そこを必死になって突っ切りました。数十メートル行きますと、やや小高くなったところがあり、そこに辿り着いて助かりました。私の姉は、ほんの1~2分の差でしたが、水が橋の上の方まで来ていたので、川を突っ切ることができず、田園の中を必死になって逃げたそうです。腰ぐらいまで水につかりながら逃げのびました。もっと後れた人が、ここでたくさん亡くなりました。紡績工場のすぐ隣の社宅には、地方から来た、地元以外の人も大勢いらっしゃいました。亡くなった方々はそういう人たちが多かったようです。ですから常に津波が来た場合のことを頭に入れておくだけでなく、津波が押し寄せて来て非難するときは、どのルートを辿って逃げるのが安全なのか、普段から、そのルートを自然に行けるよう(子どもたちに)教えておく必要があると思います。」(同上書p.138-140)

平成23年(2011)3月11日の東北大震災の時は、関西でも随分長時間の揺れを感じたが、震度が低くても、揺れの長い地震は津波が来る恐れがあるので注意せよということだ。

徳島県海陽町浅川と牟岐町
【徳島県海陽町浅川と牟岐町】

徳島県もまた昭和南海地震の被害が大きく211人の死者が出たのだが、特に多くの死者が出たのが浅川村(現海陽町)の85人と牟岐町の53名で、いずれもV字形の湾奥に位置している。

昭和南海地震 浅川港
【昭和南海地震 浅川港】

浅川村住民の体験記をつづった『宿命の浅川港』にはいくつもの教訓的な体験談が収録されているという。再び山下氏の著書を引用する。
「辻肇(68歳)さんは『小さい頃から、津波が来るときには、一旦、潮が『ザーッ』と干いて(海が)からからになり、今度は怒涛のように押し寄せて来ると教え込まれとった。』けれども『目の前は、何分もたっとるのに、ちっとも干いとらなんだ。じっと見よったら『グッグッグッ』というような音がして水が浜の方へ盛り上がってきよった。『こりゃおかしい』と思って足早で帰った』『びっくりして庭へ降りたらもう水がきとった。』と語っている。
 津波は引き潮から始まるという知識は、一面的な思い込みに過ぎなかったことを示している。」(同上書 p.147)
「角田稼一郎という方の体験談だが、『家の中にあった井戸をのぞいてたけど水があったけん『津波やきいへんわ』という調子だった』。然し『まえに学校の先生に教えてもらうとったんは『地震が揺ったら必ず井戸の水が引く。それから津波が来る』ということやった』、と批判的に話している。
 …昭和の三陸津波の際、岩手県の田老村などにも同様の語り継ぎがあって、わざわざ井戸を覗きに行ったがために逃げ遅れてしまった人たちがあった。各地によくある、もっともらしい言い伝えだが、これも真に受けてはならない俗説の類であって、井戸水の干満など、当てにすべきことでもない。」(同上書 p.147-148)

私も小学校時代に津波の前に引き潮があるとか、井戸水が引く話を先生から教えて頂いた記憶があり、それが誤りであるとは思っていなかった。もしかすると津波に引き潮がある場合とない場合、井戸水が引く場合と引かない場合があるのかもしれないが、このような貴重な体験談は将来においても、人々の記憶に留めておくべきものだと思うのだ。

このような記録を集められた書物の多くは今では簡単に手に入らなくなってしまっているのだが、誰も読むことが出来ない状況が続くといずれ、貴重な体験談が忘れ去られてしまい、再び俗説がはびこることになってしまうのではないだろうか。自治体によってはHPに一部を公表しているところもあるようだが、先人が書き残した貴重な記録が、地元の人々だけではなくて、全国で幅広く読まれるように工夫していただきたいと思う。
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戦国時代の歴史を動かした天正地震

4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。

帰雲城趾

上の画像は帰雲城があったとされる場所に立つ『帰雲城趾』の碑だが、画像に写っている帰雲山は何度も山崩れを起こしているのか、今も地肌を見せたままである。

教科書などでは天正地震のことは何も書かれていないが、この地震で倒壊したのは帰雲城だけではなかった。Wikipediaによると美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、伊勢の長島城が倒壊、近江の長浜城が全壊などとかなり広範囲に大きな被害が出ている。

震源地については諸説があるが、太平洋側の伊勢湾と日本海側の若狭湾の双方に津波の被害が出ている。



その当時イエズス会宣教師としてわが国に滞在していたルイス・フロイス(1532~1597)の『日本史』には、この地震について次のように記している。

「本年1586年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかって人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほどすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは11月1日のことで、(我らの暦の)1月の何日かにあたるが、(突如)大地が振動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように振動し、四日四晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし、呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市だけで三十以上の倉庫が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した形で、日々過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。」(中公文庫『完訳フロイス日本史③』p196-197)

地震の日付は和暦で記しているのだが、同年の11月1日には地震の記録は外に存在しない。フロイスが単純に日付を誤って記したものと理解されている。

長浜城
長浜城

通常続いてフロイスは琵琶湖岸の長浜の事例を記している。
「近江の国には、当初関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を数える町がある。そこでは地震が起こり、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑み込まれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。」(同上書 p.197)

長浜地図

長浜には西浜千軒遺跡下坂浜千軒遺跡という湖底遺跡があり、この地震で湖に水没したと推定されている。
次のURLに、2011年9月12日に滋賀県立大の中井均准教授が指導する「琵琶湖水中考古学研究会」が、長浜市沖の西浜千軒遺跡の調査で、供養塔や仏塔の一部など430点が見つかったと発表したことの新聞記事をまとめている。このブログ記事によると。
「長浜市祇園町沖約100mの湖底・水深約1・2~1・5mで、東西38m、南北26mにわたって素潜りで調査し、方形区画や石積みを見つけた。 一石五輪塔(砂岩製)の一部や、石仏の上部など、墓地に使われたとみられる石があり、材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭に作られたとみられる。 文献で天正13年11月29日(1586年1月18日)に岐阜県中北部を震源とするマグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、これと時期が一致した」とある。
https://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/92dc366e3e9c269182cbd181fbcc0c16

長浜城からの琵琶湖の眺め
長浜城から西浜千軒遺跡方面を望む(画像の右)】

「琵琶湖水中考古学研究会」が撮影した写真は同会のFacebookホームページで公開されているが、今の湖岸から100m近く西に千軒近い集落があり、その集落が地震によって瞬時に水没したと理解すればよいのだろうか。
https://www.facebook.com/lakebiwaarchaeology/

さらにフロイスは京都の事例を記したのち、若狭湾で津波の被害が出たことを書いている。

「若狭の国には海に向かって、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行われていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。」(同書p.198)

高浜、小浜地図

 ところが、若狭湾には長浜という地名は存在しない。フロイスが琵琶湖に沈んだ長浜の話と混同したのかと誰でも考えるところだが、フロイスは「やはり長浜と称する別の大きい町」と、琵琶湖岸の長浜とは区別して書いている。小浜の地名を誤ったか、高浜の地名を誤ったかのいずれかなのだが、地形から判断すると、U字型をした湾の中心部にある高浜の方が津波の被害が出る可能性が高そうだ。Wikipediaによると、福井大学の山本博文教授は福井県大飯郡高浜町薗部の海岸から500mの水田で、14世紀から16世紀の津波跡を発見したと発表したという。平成27年5月19日の読売新聞の記事が次のサイトで掲載されているが、笠原川を遡った津波が、海の砂や貝殻を運んだ形跡が、かつて湿地帯であった水田の、深さ約1mに確認されたという。このあたりの標高を電子国土Webで確認すると1.5~3m程度で、さらに深さ1mというから津波の規模としては高浜では比較的小規模なものであったような印象を受ける。
http://jcpre.com/?p=8105

イエズス会のジアン・クラッセ(1618~1692)がわが国で布教活動をしていた宣教師たちの書簡に基づいて著した『日本西教史』にこの地震の津波のことが記されている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションに収められていて、誰でもPC上で読むことが出来る。津波の記事だけ紹介すると、
若狭の国内貿易の為にしばしば交通する海境に小市街あり。ここは数日の間烈しく震動し、これに継ぐ海嘯を以てし、激浪の為に地上の人家は皆一掃して海中に流入し、あたかも元来無人の境の如く全市を乾浄したり」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943460/344

クラッセは、おそらく当時日本にいたフロイスなどの書簡を参考にして記したものと思われるが、当時の宣教師の記録そのものが確証のない噂話を記したものである可能性も考えられる。

吉田兼見
【吉田兼見】

しかしながら、宣教師とは全く接点がなかったと思われる日本人による津波の記録も残されている。
吉田神道宗家・吉田家9代当主の吉田兼見が『兼見卿記』の11月30日条に、地震の後の津波の事を書いている。文中の「若州」は「若狭」と理解してよく、若狭湾で津波が発生した可能性はかなり高そうだ。
「廿九日地震ニ壬生之堂壊之、所々在家ユリ壊数多死云々、丹後・若州・越州浦邊波ヲ打上在家悉押流、人死事不知数云々、」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/kanemi.jishin.html

ところでこの天正地震が起こった時期は、秀吉は近江国の坂本の城にいた。
フロイスの記録によると、
彼は、その時手がけていたいっさいのことを放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。」(同上書p.199)とある。
この地震で大坂城は大丈夫だったのだが、弟の秀長の館は倒壊したという。

フロイスは、秀吉が「その時手がけていたいっさいのことを放棄し」たというのだが、秀吉は何を手がけていたのだろうか。
地震が起きた天正13年(1585)の秀吉の動きを見てみよう。
3月には紀州を平定し、7月には四国を平定し関白となり、8月には越中を平定している。
閏8月には家康が真田領に侵攻し、真田昌幸は上田城に籠城している最中に秀吉に支援を要請した。秀吉は支援を約束し、11月19日付の手紙には来年正月15日に家康を討伐するために出陣するので真田昌幸からも兵を出すように伝えたという。(松丸憲正氏所蔵文書)

そしてその10日後にこの天正地震が起きたのである。

秀吉

秀吉にとって、この地震のダメージは大きかった。
徳川征討軍で先鋒を期待されていた山内一豊の長浜城が倒壊し、大規模な地割れで長浜の市街地の一部が湖底に沈んだために多くの死者が出た。また徳川征討軍のための兵糧が蓄えられていた大垣城も倒壊してしまった。秀吉軍の他の武将も地震で大打撃を受け、家康征伐どころではなくなってしまったのである。一方、家康のいた三河以東は震度4以下で被害は少なかったのだという。

天下統一を目指していた秀吉は、地震によって家康打倒の強硬策から融和策への方針転換を迫られ、友好の証として妹の旭姫を送って家康を自陣営に取り込んだのである。さらに秀吉は、家康の上洛を実現させるために、実母を人質として家康に差し出している。

もしこの地震が起きていなければ、兵力で圧倒的に有利であった秀吉は家康を討伐していた可能性が高く、そうなると豊臣政権がその後も長く継続したかもしれないという認識が、最近広がりつつあるようだ。

地震は大地を動かすだけではない。時には為政者の運命を変えて、歴史をも動かすことがありうるのである。

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秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
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農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令
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刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-507.html









平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震

元暦2年(1185)3月に壇ノ浦の戦いで栄華を誇った平家は滅亡したのだが、それから約4か月後の7月に大地震が発生している。この地震は元暦年間に発生したので「元暦地震」と呼ぶ研究者もいるが、この地震の被害があまりに大きかったので翌月に「文治」と改元されたことから「文治地震」と呼ばれることが一般的だという。中世の日本においては、地震や疫病流行で改元されることが良くあったようだ。

この地震に関しては様々な記録が残されているが、『平家物語』の記述が具体的でわかりやすい。

「さる程に平家亡び、源氏の代になつて後、国は国司に随ひ、庄は領家の儘なりけり 。上下安堵して覚えし程に、同じき七月九日の午刻許り、大地夥しう動いてやや久し。赤県*の内、白河の辺、六勝寺**皆破れ崩る。九重塔も、上六重を振り落し、得長寿院の三十三間の御堂も、十七間までゆり倒す。皇居を始めて、在々所々の神社仏閣、怪しの民屋、さながら破れ崩る。崩るる音は、雷の如く、上る塵は煙の如し。天暗うして日の光も見えず、老少共に魂を失ひ、朝衆悉く心を尽す。又遠国近国もかくの如し。山崩れて河を埋み、海漂ひて浜を浸す。渚漕ぐ舟は波に揺られ、陸行く駒は足のたてどを失へり。大地裂けて水湧き出で、磐石破れて谷へ転ぶ。洪水漲り来たらば岡に登つてもなどか助からざらん。猛火燃え来たらば川を隔てても暫しは避んぬべし。鳥にあらざれば、空をも翔り難く、龍にあらざれば雲にもまた上り難し。只悲しかりしは大地震なり。白河、六波羅、京中に、打埋れて死ぬる者、いくらと云ふ数を知らず。四大種の中に水火風雨は常に害を為せども、大地に於いては異なる変を為さず。今度ぞ世の失せ果てとて、上下遣戸障子をたてて、天の鳴り地の動く度毎には、声々に念仏申し、喚き叫ぶ事夥し
六七十、八九十の者ども『世の滅するなど云ふ事は、常の習ひなれども、さすが今日明日とは思はざりしものを』と云ひければ、童部どもはこれを聞きて、泣き悲しむこと限りなし。」(高橋貞一校注『平家物語 (下)』講談社文庫 p.316-317)
*赤県:皇城に近い地。畿内。
**六勝寺:白川にあった法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のこと。法勝寺に九重塔があった。


この地震に関する記録は、政治の中心地であった京都で記されたものが殆んどであるため、地震の全体像が良くわからないのだが、「洪水漲り来たらば岡に登つてもなどか助からざらん」と書いてあることから、わが国のどこかで津波の被害が出た可能性が高い。
鴨長明の『方丈記』も、
「山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり。土裂けて、水湧き出で、巌割れて、谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよい、道行く馬は足の立ちどをまどはす。」(簗瀬一雄訳注『方丈記』角川ソフィア文庫 p.30)
と記されており、どこかで津波が発生したようである。

では、どこで津波が発生したのかと思って調べてみたのだが、当時の記録では津波被害があった具体的な地名は見つからなかった。しかしながら富山県黒部市にある新治(にいはる)神社で、この地震が原因とされる大津波で新治村が海没したとの伝承があるという。

黒部海物語

黒部市の過去イベントの解説によると、新治神社には、新治村が沈んだ様子と、80年後に海岸線が復旧した様子が描かれた2枚の絵図があるという。
https://www.city.kurobe.toyama.jp/event-topics/svEveDtl.aspx?servno=1371

新治神社地図

その絵図を一度見てみたいところだが、普通に考えて、津波で一時的に水に浸かることはあっても、水没したままの状態が数十年も続くことは考えにくいところである。また、この地震の原因について、琵琶湖西岸断層帯説と南海トラフ巨大地震説が有力だと考えられているのだが、いずれの説を取るにせよ、日本海沿岸の富山に津波が襲うという話が、私にはあまりピンと来ないのである。上の地図でマークしている地点が現在の新治神社なのだが、この地形を見て、津波に襲われやすい場所とは思えない。
地盤沈下があって集落ごと海に沈んだのであれば理解できるが、ここで「津波」があったという話は真実なのだろうか。地盤沈下で海没した伝承に、「津波」という尾鰭が後で付けられただけのような気がする。

京都大学名誉教授の三雲健氏の『元暦二年七月九日(1185年8月6日)の京都地震について』という論文が、次のURLでネットで紹介されている。
http://www.kugi.kyoto-u.ac.jp/dousoukai/pdf/1185-Genroku-eq2014121208.pdf

三雲氏のこの論文は、東京大学地震研究所助教の西山昭仁氏の文献資料研究を参考にこの地震における京都、滋賀、奈良、大坂の被害状況を比較したうえで、震源地についてこう推定しておられる。
「今回の地震の被害から想定される震度は、京都盆地内の左京、白河、東山地域で大きく、南東側の山科盆地がこれに次ぎ、西側ではあまり大きくなかったこと、さらに比叡山上や東側山麓の坂本で特に大きかったことなどから、震源地は京都盆地より東方にあった可能性が高いと考えている。さらに琵琶湖西岸南部沿岸の土地の沈降を考慮すれば、震源地はこの付近と考えるのが一つの有力な仮説と判断している。」(p.3)

近江国においては、比叡山延暦寺の中心部である東塔において壊滅的な被害が生じたことなどが紹介されているが、注目すべきは次の部分である。
史料{『山槐記』}によれば、この地震に際して、近江琵琶湖の湖水が北流して湖岸が三段ないし五段(33-55m)後退し、後日回復したことや、沿岸の何処かで三丁*の土地が水没したことを示すものと考えられる。この事実は琵琶湖沿岸において大規模な地変を起こした断層運動を示唆する貴重な記述と考えられる。」(p.3)
*丁=町:約109m

『山槐記』は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿である中山忠親の日記だが、琵琶湖について原文ではどのように記されているのだろうか。
国立国会図書館デジタルコレクションに『山槐記』の全文が公開されているので該当の部分を引用させていただく。
「近江湖水流北、水減自岸或四五段、或三四段、干後日如元満岸云々、同国田三丁地裂為淵云々」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949546/118

あの大きな琵琶湖の湖水が北に向かい、湖面が33-55mも後退したという話もすごいことだが、沿岸のどこかの土地が幅約300mにわたり水没したということも怖ろしいことである。

ネットで、氷河の崩落で観光客が大きな波に飲み込まれる動画が紹介されているが、この程度の氷が崩落するだけでもこれだけの波が生じるのであれば、300m以上の地盤の水没となるとはるかに巨大な波が発生することは容易に想像できる。

https://youtu.be/rMHXMWd1JlI

山容が崩落しても同様のことが起こりうるであろう。琵琶湖の南で起きた大きな地盤の水没が、「琵琶湖の湖水を北流」させたとは考えられないか。

今年の7月に、グリーンランド西岸の小さな島・インナースト島で高さ100mの巨大な氷河が接近し、もしこの氷河が島に衝突して崩落すれば、大規模な津波が発生して沿岸部が水没する恐れがあるとして島民に避難勧告が出されたことが報道されている。
http://news.livedoor.com/article/detail/15011936/

今までテレビなどでよく聞かされてきた地震の解説は、プレートの境界の近くで地震が起きると、陸側が跳ね上がって海側にせり出して津波の原因となるというものであったが、山容の崩落や、氷山の崩落、地盤の水没なども津波の発生原因となりうることを知るべきだと思う。

琵琶湖のような湖は、大きな自然災害が起こる可能性が低いとのイメージを今まで持っていたのだが、前掲の三雲論文の(追記)には重要なことが書かれている。

「上の西山論文に言及された琵琶湖西岸断層については、近年地質学的・古地質学的な調査研究が行われており、その概要を以下に述べる。
琵琶湖西岸断層系は7-8本の小断層からなる総延長約59kmの断層系である。このうち中部以南では、北北東—南南西走行の比良断層、堅田断層、比叡断層、膳所断層、および西岸湖底断層などがあり、最長の比良断層の長さは約16km、南部全体の長さは約40kmと見積もられている。これらの断層は何れも地形的には西側が東側に対して相対的に隆起する逆断層である
 最近、これらの断層については地形学的調査のほか、反射性弾性波探査、ボーリング調査、トレンチ調査などが行われ、これらの断層の実態が明らかになって来た(地震調査研究推進本部2003、2009)
 このうち弾性波探査から、堅田断層は深さ3kmまでは傾斜40度で西側に傾き、深さ3-5kmでは35度の傾斜で同様に西側に傾斜する。その最深部は京都盆地よりやや東側の下部まで達している可能性が考えられる。各種の地質学的調査のデータからは、この断層の最新の活動時期は、1060-1270年A.D.の間と見積もられており、西山論文に述べられた1185年元暦地震の発生は、これら最近の地質学的、地震考古学的研究成果を裏付けるものである(Kaneda et al.,2008)。」(p.4)

逆断層

逆断層というのは、水平に圧縮される力がかかって岩盤が急速に縦にずれ動き、上磐がのし上がって生じるものである。立命館大の熊谷道夫教授の調査によると琵琶湖は11年で20センチ以上動き、かつ琵琶湖の幅は約3センチ縮小しているのだそうだ。

また琵琶湖の周囲には水没した集落の湖底遺跡が数多く存在しているという。下の動画は毎日放送で6年前に放送された『特命調査班』のレポートだが、途中で登場される滋賀県立大学の林博通名誉教授の、琵琶湖の周辺には、過去の地震によって湖底に沈んだ集落の遺跡が100前後確認されているという解説には驚いてしまった。
https://www.dailymotion.com/video/xprm7p

琵琶湖湖底遺跡

前回の記事で、天正地震の際に琵琶湖岸の長浜で湖岸から100m前後の距離にあったかなり広い土地が湖に沈み込んだことを書いたが、これだけ大規模な地盤沈下で地表が湖底に沈んでしまえば、とてつもなく大きな波が生じて沈んだ地域を襲った後に、その勢いで、沈まなかった長浜の地域を襲うことになるだろうし、琵琶湖の他の湖岸各地に波が及ぶことになるだろう。
前回記事で、ルイス・フロイスが若狭の長浜に津波が襲ったと記録していることを書いたが、もしかするとフロイスは、近江の長浜と混同して、そのように書いたのではないだろうか。

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わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した

前回の記事で大規模な山の崩壊や地盤の崩壊で津波が発生し得ることを書いたが、今回はその事例について記すことと致したい。

島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。
平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドームが崩壊して大規模な火砕流が発生してしまう。ネットではその時の動画が紹介されている。
https://youtu.be/r0gFFJUsIrE



この災害は、地元消防団員や警察官、農民をはじめ、報道関係者など43人の犠牲者が出た大惨事であったのだが、歴史を紐解くと、江戸時代中期にもっと大きな災害が雲仙岳で起こっている。

東京大学地震研究所図書室のサイトに、に起きた「島原大変」に関する『大日本地震史料 巻之十』の記録が多数紹介されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001001

「島原山焼山水高波一件」という史料には、寛政4年(1792年)に「島原大変」が起こる前に何度も地震が起きていたことが記されている。文中の温泉嶽は雲仙岳で、前山は眉山、海嘯は津波を意味している。

「同(寛政)四年一月十八日戊午、肥前国温泉嶽ノ普賢山、鳴動シ、地頻ニ震動ス、二月四日穴迫ノ地鳴動シ、石砂ヲ渓谷ニ崩落シ、九日ニ至リ、火気ヲ発シ、二十九日、蜂之窪又火ヲ噴キ、四月一日ニ及ビテ、前山崩裂シ、泥水奔流シテ海に入リ、海嘯之ニ加ハリ、島原城下数十村ヲ蘯尽ス、肥後国熊本ノ海辺モ其害ヲ被レリ、」(『大日本史料巻之十』p.445)

また、「筆のすさび」という史料には、

「寛政四年壬子二月、肥前国雲仙嶽、大に火燃て、数日地震夥しかりし、同四月朔日の夜戌刻過、雲仙嶽の下の前山といへるが、島原城の上に当たりたる山、二ツに敗れ、火出で、同時に島原海中よりも火燃出、津浪、山のごとく湧上り来り、島原城下の町々、其外島原領の村々、佐嘉領の南海に臨める村々、天草島の海浜にある民屋、皆同時に没溺し、島原にて死亡の人、凡三萬余。肥後にても二萬余人といへり。其外諸国、皆それに準じて、夥しき死亡なり。其夜、海中に小き島七八十も出現したりとぞ。」(『大日本史料巻之十』p.460-461)

九十九島

この「島原大変」で上海にいくつも小島が出来て、「九十九島(つくもじま)」と呼んでいる。被害者数は過大に記しているようだが、周辺地域で津波被害が出たという記述はそのとおりであろう。

島原大変

国土交通省九州地方整備局がまとめた『日本の歴史上最大の火山災害 島原大変』というレポートがネットで公開されていて、その表紙に眉山山体崩壊前と崩壊後の絵が描かれている。今の眉山の形状を調べると、この絵は決して大げさではないことがわかる。
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

雲仙岳と眉山(右) Wikipediaより

上の画像はWikipediaに掲載されている雲仙普賢岳(左)と眉山(右)の写真だが、眉山の崩壊は雲仙普賢岳の崩壊よりもはるかに大きく、大量の土砂が海に流れ込んで、海岸線が約800mも押し広げられたという。

国土交通省のレポートの「まえがき」にはこう記されている。

「寛政四年四月一日(西暦1792年5月21日)、島原城背後にそびえる眉山の東側が大きく崩れました。山体崩壊です。この崩壊は、普賢岳の噴火活動中に起きた地震に因って引き起こされました。崩壊により大量の土砂が有明海に流れ込み、大きな津波を引き起こしました。津波は有明海沿岸の村々を襲い、およそ1万5千人の人々がなくなりました。これは『島原大変肥後迷惑』として、日本の火山災害の歴史において最大の死者を出した災害として記憶されてきました。」
http://www.qsr.mlit.go.jp/unzen/wlib/pdf/010101a.pdf

このレポートによると、寛政4年に崩壊した眉山は、もともとは3000年~5000年前に造られた溶岩ドームで、島原半島の台地は何度も山体の形成と崩壊を繰り返して作られたのだという。「島原大変肥後迷惑」という名前は、島原で眉山が山体崩壊を起こし(島原大変)、それに起因する津波が島原だけでなく、対岸の熊本(肥後)にも大きな被害を出す原因となったことから、そう呼ばれるようになったという。
この津波は「日没後、しかも大潮の満潮時近くに発生」し、「肥後・天草の沿岸各地を襲い…津波の遡上高は20~50mに達したと伝えられ、多くの家や田畑が波にさらわれました。これにより島原半島側でおよそ1万人、熊本県側でおよそ5千人の、あわせて1万5千人もが津波に流されたり土砂に生き埋めにされて亡くなりました」(p.13)とある。死因別には分類されていないが大半が津波の犠牲者のようである。

雲仙岳と有明海・島原湾

この被害者の数は、わが国の火山災害史上最多となるのだそうだが、ではどの程度の土砂が有明海に流れたのであろうか。国土交通省の推定によると、眉山の崩壊土量は3.25億㎥で、海に流れ込んだのは2.76億㎥というのだが、単純に考えると、一辺が651mの立方体の土砂が一気に海に流れ込んだことになる。

この衝撃で津波が発生して島原の対岸の肥後や天草に襲い掛かり、肥後の海岸で反射した返し波が、再び島原を襲ったと考えられている。

「島原大変」のような山体崩壊によって津波が発生することは多くなく、わが国では同様な事例は、江戸時代に北海道の渡島大島と駒ケ岳で起きたことが記録に残されている。

渡島大島と石崎地区

渡島大島は離島である上に無人島であるため、噴火活動についての記録はないが、寛保元年(1741年)八月二十七日に寛保岳の大噴火があり、噴火の翌日に、対岸の江差から松前にかけて大津波が襲い1467人の死者が出たという。
最も大きな被害がでたのが上ノ国町の石崎地区で、50件ほどのあった家屋が全戸流出し、住民の生存者は1名だけで、他は全員溺死したと伝えられている。

「北海道旧纂図絵」に描かれた渡島大島の噴火

『函館市中央図書館デジタル資料館』で『北海道旧纂図絵 巻7 』を閲覧すると、この津波の絵が描かれているページを見つけることが出来る。
http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/516eb5e51a5572427000144a

津波の原因について、気象庁は山体崩壊説を採っているようだが東大地震研究所は地震説を採っているという。渡島大島の写真を見ると、北側に大崩壊した形跡があるのだが、東大地震研によると、その山体崩壊のエネルギーでは寛保元年の津波の大きさを説明できないのだという。しかしながら、寛保岳の噴火の翌日に地震があった記録がないので、どちらが正しいかはよくわからない。

駒ケ岳と内浦湾

駒ケ岳については、寛永17年(1640年)に起きた噴火の際に山頂の一部が崩壊し、大小の岩塊が海に流れ込んで津波が発生したとされ、津浪が対岸に押し寄せて、700名余りが犠牲となったとされる。

徳川幕府の公式記録である『大猷院御実紀 巻四十四』の寛永十七年六月二十九日の条にこの記録が出ている。「大猷院」というのは、三代将軍徳川家光の法号である。

「この月十三日松前志摩守公廣が所領戸勝(十勝)より亀田にいたるまで、逆波のために打ち破られ、民家悉く漂没す。土民幷に蝦夷等五百余人溺死す。同日内浦嶽もえ出て。灰燼虚空にみち。十四十五両日の間すべて闇夜のごとしとぞ(紀年録。)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991117/300

テレビなどで解説される津波の解説はほとんどがプレート境界型地震の話で、山崩れによって津波が発生する可能性に言及することが少なすぎると考えるのは私ばかりではないだろう。地震が多く火山の多いわが国は、他国よりも山崩れによる津波が発生する可能性が高いと思われるし、もし起きた場合の被害は決して小さくないはずだ。しかしながら、その対策がほとんど何もとられていないのである。

近年で世界最大級の津波が、アメリカアラスカ州のリツヤ湾で1958年7月8日に記録されているが、津波の原因はマグニチュード7.7の地震により引き起こされた山体崩壊で、津波の高さは最大で524mに達したという。興味のある方は、次の動画が参考になる。
https://youtu.be/cj2IyBzJu0k

リツヤ湾

リツヤ湾を地図で確認すると、湾の入り口は狭く奥行12km、幅3kmと細長い湖で、周囲は山で囲まれている。
わが国で山体崩壊による津波が起きた雲仙岳のある有明海・島原湾も、駒ケ岳のある内浦湾も、リツヤ湾と同様に、周囲は山や陸地に囲まれて湾の入り口は比較的狭くなっている。このような地形は、普段の海は穏やかだが、もし山体崩壊や地盤沈下などで津波が発生すると、そのエネルギーは対岸に向かい、その帰り波はまたその対岸に向かうことになり、長い間内海の中に留まることが考えられる。
このような現象は海に限らず湖においても同様に起こるだろうし、山体崩壊だけでなく大規模で急激な地盤沈下(陥没)もまた同様の結果を招くことになるはずだ。

ネットでいろいろ検索していると1980年にアメリカワシントン州スカマニア郡にあるセントヘレンズ山が噴火時に山体崩壊を起こす動画が見つかった。この山体崩壊で山の標高は2950mから2550mに減少し、200軒の建物と47本の橋を消失させ、57人の犠牲者が出たという。
https://youtu.be/bgRnVhbfIKQ

同様の事がわが国でも起こる可能性があるのではないか。
富士山の大澤崩れは毎日ダンプカー48杯分の土砂が崩れているのだそうだが、富士山が山体崩壊した場合はどの程度の被害が想定されているのか。

静岡大学防災総合センターの小山真人教授が東京新聞に発表された『富士山の山体崩壊』というコラムがネットで読める。
小山教授は、富士山の北東側、東側、南西側の山体崩壊が過去に起きており、もし北東側が崩壊した場合は、最も被害が大きくなると述べておられる。
「大量の土砂が富士吉田市、都留市、大月市の市街地を一気に埋めた後、若干速度を落としながら下流の桂川および相模川沿いの低い土地も飲み込んでいき、最終的には相模川河口の平塚・茅ヶ崎付近に達する。このケースの被災人口を見積もったところ約40万人となった。事前避難ができなかった場合、この数がそのまま犠牲者となる。」
http://sk01.ed.shizuoka.ac.jp/koyama/public_html/Fuji/tokyoshinbun121031.html

富士山のような高い山が崩落すれば、猛烈なスピードで土砂が川や都市を埋め尽くしていくことになる。逃げることは殆んど不可能だ。
小山教授によると富士山の北東側の山体崩壊は1万5千年前に実際に起きており、相模川沿いを流れ下り、相模原市内の遺跡などにその痕跡があるのだという。

わが国には山体崩壊の可能性のある山は富士山以外にも多数存在するが、過去において山体崩壊を繰り返してきている山の土砂が流れるルートの周辺に住居などを建てることを制限することが必要ではないか。また、山体崩壊によって土砂が湾や湖に流れ込む可能性が高い海や湖の周辺地域も、住宅などの建築制限が必要だと思う。しかしながら、既に多くの人々が居住している場合の対策は難しく、せめて人口を他の地方に徐々に分散させていくことを誘導していくしかないだろう。平成3年の雲仙普賢岳の火砕流も、溶岩ドームがもっと巨大で島原湾に大量の土砂が流れ込んでいたとしたら、島原大変と同様に熊本にも被害が出た可能性が高かった。

西暦79年にポンペイの町はヴェスヴィオ火山の火砕流で埋まったと考えられているが、もし火砕流がポンペイを襲ったのなら、遺跡で肖像画などが焼けずに多数発掘されることはなかったと思うのだ。ヴェスヴィオ火山の噴火が引き金になって山体崩壊がおこり、一瞬にしてポンペイが土砂で埋まったのではないだろうか。
前々回の記事で、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、帰雲城と城下町が一瞬にして埋没したことを書いたが、同様のことがポンペイで起こっていたとは考えられないか。

山体崩壊は滅多に起こらないものではあるが、滅多に起こらないから何もしないのではなく、リスクの高い地域はある程度分かっているのだから、万が一起こった場合に少しでも人的被害が少なくなるような国土利用を推進してもらいたいものである。
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しばやん

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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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