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明治維新と武士の没落

明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日本全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。

そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし、諸藩の土地と人民を明治政府の所轄としたのだが、この段階では旧藩主がそのまま知藩事に留まっていたので、江戸時代と実態的には変わっていなかった。

次いで明治政府は、明治4年(1871)に藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣するという大改革を断行している(廃藩置県)。

山縣有朋

さらに明治5年(1872)には、2月に山縣有朋が陸軍大輔となり、11月に山縣の徴兵論が採用されて「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられている。この詔は原文ではこう書かれていた。

徴兵の詔

「朕惟ル(おもんみる:思い巡らす)ニ古昔郡県ノ制全国ノ丁壮(ていそう:若者)ヲ募リ軍団ヲ設ケ以テ国家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ当リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ式ヲ斟酌シ全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ体シ普ク之ヲ全国ニ告諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」

この詔の方針に基づき徴兵告諭が出され、翌明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されたのだが、ポイントは「四民平等、国民皆兵」で、20歳に至る者を陸海両軍に充てて、士族(元武士階級)の採用に限定しないことを明記している点にある。このことは士族においては、生存権にかかわる重大問題であったはずだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』の解説がわかりやすい。この本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、誰でもPCで読むことができる。
明治5年の正月の調査によれば、士族の総数は40万8千戸、その家族を合わせれば190万人という大多数が、封建組織の瓦解と共に、深刻な生活問題に直面したわけである。
  しかも彼等は、今まで生活の本拠となっていた藩がなくなったばかりでなく、明治5年に発布された徴兵令のため、その本来の職能である軍役からもはなれることになり、いよいよその存在の意義を失うことになったのである。
 … 
 元来、幕末期における武士の生活難は維新の一原因と言われるくらいであるから、相当激しいものであった。軽輩の武士は、家禄だけでは生活できないから、内職を営み、そのために地方に特産物が発達したと言われる。仙台の仙台平、甲州の郡内織など、みなこの下級武士の妻子が従事して名産としたものである。
 維新から明治にかけて、全国的の兵乱のため物資は高くなり、藩札その他、財政の混乱から、ただでさえ苦しい武家の家計は、ますます不如意となっているところへ、版籍奉還廃藩置県の大変動を受けたわけである。
 そのために彼等が受けた打撃は、第一に家禄の削減であった。政府としても、藩に代わって禄を全士族に与えるとすると、年2500万円という巨額に達し、これは全歳出の3割6分に当たるのである。今まで通りの知行を与えてはやり切れなくなったので、各々その数分の1に削減している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/77

ではどの程度減らされたのかというと、
「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も100石に減らされている」とあるが、最も悲惨であったのは朝敵であった徳川の旧幕臣であったようだ。
徳川慶喜は明治元年の江戸城明け渡しの後、800万石を70万石に大幅に減らされて、駿府に移封されている。その収入ではとても膨大な家臣団を養えないので、駿府に赴いた者は15000人程度だったことがWikipediaで解説されているが、実収は激減した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%9F%8E

下級武士の収入までもがそこまで減らされてしまっては生活が成り立つはずがない。その上に新しい税まで課せられたという。
菊池寛は、前掲書で徳川の旧幕臣の生活のことをこう記している。

「静岡における彼等の生活は、嘗て実収1万石を得ていた者でも、250石の収入となってしまった。以下、小録に至るまで、順次低下するのであるから、どんなに惨めな生活だったか分るのである。今日有名になっている静岡の茶業は、実にこれら飢餓に瀕した旧幕臣が辛うじて発見した生活法に由来するものである。
 家禄削減に続いて、明治6年、政府はこれらの家禄に、新たに税を課することになった。しかもその率は高くて、全体からいって1割2分というのである。収入は激減する上に、その激減したものに、こんな高率な税を課したのであるから、彼等の生活はほとんど致命的な窮乏へ追い込まれたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78

中條景昭

少し補足しておく。
今は一面茶畑となっている静岡県の牧之原台地は、以前は荒廃地であったのだが、徳川慶喜とともに駿河に移住した中條景昭(ちゅうじょうかげあき)ら約250戸の元幕臣たちは牧之原に転住したのち、1425町歩の開墾に精力を注ぎこみ、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達して、明治6年(1873)から茶芽を摘みはじめとある。
度重なる苦労と失敗を重ねながらも、静岡牧之原の茶葉の品質向上に成功させて、『静岡茶』を有名ブランドに育てあげたのは、徳川の旧幕臣であったのだ。
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup03.htm

しかし、このような成功例はごく一部に過ぎなかった。
明治政府は家禄の奉還を願い出た士族に家禄の数か年分の公債を与えて、士族が生業に就くことを促したというのだが、生活を立て直すにはあまりに公債が少なすぎて、家財道具を売るものや、娘を芸娼妓に売ったりする者も少なくなかったという。

士族は、ただ収入が激減しただけではない。徴兵令が出て軍役が国民全体の義務とされたことから、彼等の仕事までもが奪われ、さらに、明治9年(1876)には廃刀令が出されて、彼等の持っていた誇りと特権が悉く剥奪されていったのである。

こんなに悲惨な境遇に追いやられた士族が、明治政府に不平・不満を持つことは至極当然なことだと思うのだが、なぜ明治政府は彼等をここまで追い詰めたのだろうか。
彼等の失業対策が必要になることは初めからわかっていたのだから、四民平等・国民皆兵の考え方で徴兵制により兵士を集めるのではなく、士族を優先して兵士を集めれば良かったのではないかと誰でも考えるところで、明治政府内においても西郷隆盛や谷干城らは山縣有朋の徴兵制の主張に反対したようだ。

大衆明治史

それにもかかわらず、山縣有朋が徴兵制を強く主張した根拠はどこにあったのだろうか。山縣と同様の主張をしたのが大村益次郎なのだが、両名が徴兵制を主張した理由について、菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。

大村益次郎にしても、山縣有朋にしても、徴兵制をあくまでも主張した根拠は、全く同じ経験に出発したものと言われる。即ち、共に奇兵隊長として四境戦争*に臨み戊辰戦争に転戦した経験がある。
 奇兵隊長、高杉晋作は、
砲火による戦闘は、団体の訓練が主で、一個人の格闘力の如き問題ではない。ところが個人的格闘力を誇りとすべき筈の門閥武士は、太平の久しい優柔の風に慣れて堕落し、活発な元気と強健な体躯は、却って下士、足軽百姓町人の階級に見るようになっている。これらの精鋭を選び、軽快な武装と銃器を与え、団体的な訓練を施せば、よく洋夷にも対抗出来よう』
 と述べ、一般四民から募集したのが、有名な奇兵隊
である。これが四境戦争*で、幕兵を向うに廻して、どんなに目覚ましい働きをしたかは、大村も山崎もその隊長として、充分に見届けたのであった。奇兵隊はいわば徴兵制の立派な見本を見せたわけである。…
 また、士族だけで、新興日本が必要とする兵員全部を供給することが出来ぬし、また終身兵制の士族全部に支給する費用は、当時の財政としては、とても支弁しきれたものではないのである。…」(『大衆明治史』p.108-109)
*四境戦争:幕末期に江戸幕府が長州藩攻撃のため起こした戦争のうち、第二次長州征伐を長州側では四境戦争と呼ぶ。兵力では圧倒的に幕府軍が優っていたが、長州軍が勝利した。

長州奇兵隊

山縣らは、奇兵隊が幕府兵を破った経験から銃や大砲を用いる戦いには武士は不要であり、明治政府の乏しい歳入を勘案しても、武士を優先して雇うわけにはいかないと考えたのだが、そのために多くの武士が失業したことに頭を痛めた一人が西郷隆盛である。彼が、征韓論を強く唱えたのは、士族を本来の軍役に就かせる目的があったと考えられている。

しかしながら、その征韓論が認められなかったために、江藤新平、板垣退助、西郷隆盛らが下野し、その後、不平を持つ士族が、明治7年(1874)に佐賀の乱、明治9年(1876)に熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱を起こしている。

鹿児島暴徒出陣の図

そして明治10年(1877)には、ついに西郷も明治政府に反旗を翻したのである。
西郷の率いる1万3千の兵が鹿児島を発って北に向かうと、各地の士族が続々合流し、僅かの間に3万に膨れ上がって、西南戦争が始まっている。
西郷軍は鎮台のある熊本城を目指したが、武士が負けるはずがないと高をくくっていた百姓や町人上がりの新政府軍に敗れてしまい、不平士族の最後の墓場となってしまった。

ところが、不平士族たちの反抗はそれからも続いたのである。
菊池寛は『明治文明綺談』でこう解説している。
「…これから後は、彼等の反抗は思想的なものに代わり、自由民権を唱えることによって、藩閥政府攻撃の火の手を掲げるようになった征韓論に敗れて野に下った、後藤象二郎、江藤新平等によって民選議員設立の建白書が提出されて以来、焦慮憂鬱に閉ざされていた失意の士族は猛烈な勢いでこれを政府攻撃の手段とした。…
 政府としては、一難去ってまた一難である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/82

この難局を明治政府が如何にして切り抜けただろうか。
このテーマは次回に記すことに致したい。
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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。
クリスマスが近づいてきましたが、戦国時代にキリシタンの兵士たちが、敵味方と合同でクリスマスを祝っています。
関連記事と合わせて読んで頂ければありがたいです。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


明治政府は士族をどう活用しようとしたのか

前回は、明治維新のあとで士族の収入が激減した上に徴兵制が開始され、さらに廃刀令が実施されて、彼等の誇りや特権が剥ぎとられたばかりでなく、生活もままならなくなり、家財道具を売る者や、娘を売る者が出てきたことを書いた。

歴史書では「不平士族」という言葉で表現されているが、働く場所が奪われ、収入が9割以上カットされた上に、収入に12%もの新税を課せられては、士族が不平を持たないことのほうが余程不自然である。
また明治政府は、士族のうち家禄を自主的に奉還したものに対しては、起業資金を与える目的で年収の数年分の秩禄公債を与えたことが日本史の教科書などに記されているが、「年収の数年分」といっても、士族の家禄が大幅にカットされたことを勘案すれば、藩に仕えていた時代の数か月分の収入程度の資金に過ぎなかったはずだ。

明治政府は、もしかすると、旧士族が反乱を起こすことぐらいのことは始めから覚悟の上ではなかったか。
廃藩置県後、もし明治政府が藩に代わって従来と同様の禄を全士族に与えるとすると、全歳出の36%も士族の為に払わなければならなくなる。どうせ大幅に禄をカットするしかないのなら、士族を干せるだけ干すことによって不満分子を炙り出し、反乱を起こさせて士族の人数を減らしておくことの方がベターだという考えだったのかもしれない。
もし無理をして士族を日本軍に登用し、近代兵器を貸与したりすれば、いずれ明治政府にとってかなり危険な存在になりうることぐらいのことは想定していたとしても不思議ではない。

田原坂

明治政府が士族を冷遇したことから、各地で相次いで士族の反乱が起こり、明治10年(1877)には明治維新の最大の功労者の一人であった西郷隆盛を首領とする、鹿児島県士族ら約4万人が明治政府に反対して兵をあげ、8ヶ月にわたって九州各地で激しい戦闘が繰り広げられている。この西南戦争は最後の士族の反乱となり、近代兵器を持つ百姓や町人上がりの新政府軍が西郷らの士族の兵士に勝利したことは、教科書などにも記されている。

一方、この時期には明治政府の要人が士族によって命を狙われる事件が相次いでいる。
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに『明治以降大事件の真相と判例』という書籍が、ネットに公開されている。
その本で、西南戦争の頃に士族が起こした事件を見ていくと、明治7年(1874)1月14日には、征韓論が認められなかったことに不満を持った高知県の士族9名が岩倉具視に斬りこみ、岩倉は巧みに身をかわして濠の中に転がり込んで助かったという記録が出ている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280641/51

斬奸状

そして、西南戦争で西郷隆盛がこの世を去った翌年の明治11年(1878)5月14日には、大久保利通が石川県と島根県の「不平士族」6名によって暗殺されている。(紀尾井坂の変)
『明治以降大事件の真相と判例』に彼等の書き残した斬奸状が掲載されており、そこには彼等にとって「斬るべき者」の名前が列挙されている。
「木戸孝允、大久保利通岩倉具視、是れ其の最も巨魁たる者、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の如き、亦許す可らざる者、其の他、三条實美等、数多の奸吏に至っては、則ち斗屑の輩、算するに足らず。其の根本を断滅せば、枝歯随って秋落す。」とあり、木戸が病気で死んだので大久保を狙ったと明確に記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280641/60

大久保が殺害された紀尾井坂の変に刺激されて、同じ年のまた同年の秋には伊藤博文の暗殺を企てた高知県の士族がいたが、これは未遂に終わっている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281115/71

一方で、士族の明治政府に対する反抗は次第に思想的なものとなり、自由民権を唱えることによって藩閥政治攻撃が年々激しくなっていったという。

しかしながら、明治政府が失業士族に対し何もしなかったわけではないのだ。さすがに、失業中の士族の家禄を増やすことについては考えなかったが、失業士族が生業に就くことを真剣に考えていたことは確かなのである。

明治文明綺談

前回の記事で紹介した菊池寛の『明治文明綺談』を再び引用しよう。

「工業に鉱業に、また牧畜農業に、当時漸く西洋の近代産業の組織を移入したが、そのためには莫大の数の技術者と労働者が必要となった。しかもこの大量の需要に対して、直ちに応じられるのは、当時失職して、社会の下積みになっていた20万を超える旧武士だけである。今日の言葉で言えば、労働力の再編成であるが、どうしても日本の近代産業を急に発達させるためには、政府としても真剣にこれらの士族の授産に乗り出さざるを得なかったのである。…
明治政府が士族転業のためにやった施策はたくさんあるが、その主なものは大体3つあると思う。資本の貸与、移住開墾の奨励、国立銀行の設立奨励である。…
 これらのうち、最も力がそそがれたのは、移住開墾の奨励であって、東北地方、北海道が移住地として指定されている。…
 その他政府が士族就業のために払い下げたりした土地は、山林などを含めて明治17年までに十万町歩に達したというから、その努力は多とすべきであろう。これらに従事した帰農士族の成績は、遺憾ながら不満足なものであった。比較的成功したのは北海道開墾ぐらいであったろう。しかし彼らによって、不毛の原野が相当開墾され、日本の耕牧地の面積が大いに増加したという功は没せられないと思う。
 また資本を貸して、士族の独立生計を維持させるという計画に基づき、明治22年までに、政府が極めて寛大な条件で貸した金は、総額530万円に達し、これによって職を与えられた士族の数は、全国に亘って数万の多きに達したと言われる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/83

明治政府の中で、士族の転業について知恵を絞ったのは、意外にも、岩倉具視大久保利通なのだそうだ。
大久保利通

大久保は殖産興業のために官営の模範工場を多数設立したが、それにはいずれも軌道に乗せてから士族に払い下げることを意図したものだそうだ。菊池寛は同上書でこう解説している。
「例えば明治5年に、有名な富岡製糸場が設けられ、各府県から工女を募集した時、政府はこれを主として士族の子女にかぎったのである。彼女等は単なる女工ではなく、新しい技術を覚えるための伝習生であったのである。
 その他、紡績、機械、製糸、燐寸(マッチ)製造など、明治になってはじめて起こった産業の多くが、これら士族によって技術労力共に運転されたということは注目してよいと思う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/84

国立銀行も同様な目的で100以上設立されたわけだが、多くの武士の転職がスムーズにいかなかったこともまた事実である。とは言え、明治時代にわが国の産業、金融の基礎が士族たちによって築かれたことは無視すべきではないだろう。

菊池寛

菊池寛は同上書で続けてこう述べている。
「大体において、政府の必死の努力にもかかわらず、次第に社会の下積みに沈んでいく士族が多くなったということは事実のようだ。新しい社会に、どうしても生活できぬのである。『士族の商法』というように、彼等は先天的に、この激甚なる資本主義の社会に伍して進む能力が欠けていたのである。
 しかし士族はインテリであって、その中には時勢をみるに敏なるものも少なくなかった。
 明治の実業家で、純粋に武士出身の者を拾ってみると、五代友厚、荘田平五郎、中上川彦次郎などがある。本格的な侍ではないが、それに準ずるものに、岩崎弥太郎、渋沢栄一、安田善次郎、藤田伝三郎などの名がある。
いずれも、今までの商人上がりの実業家の型を破った豪快味を持っていて、真に腕一本、その智嚢を資本にして、巨富を成したものばかりである
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/85

少し補足すると、大阪株式取引所・大阪商工会議所を創設した五代友厚は薩摩藩、三菱の大番頭となった荘田平五郎は臼杵藩、三井中興の祖と言われた中上川彦次郎は中津藩、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎は土佐藩、第一国立銀行や東京証券取引所などの設立・経営に関わった渋沢栄一は幕臣、安田財閥の祖・安田善次郎は富山藩、藤田財閥の祖・藤田伝三郎は長州藩の出身である。
他には日産コンツェルンの創始者鮎川義介(長州藩)、三越百貨店創立者の日比翁助(久留米藩)、第二代住友総理事の伊庭貞剛(伯太藩)、三井物産の設立に関わった益田孝(幕臣)など、武士出身者で経済界の重鎮になった人物が目白押しなのである。

ところが、今の歴史書にはほとんどこの重要な事実が記述されず、『士族の商法』を揶揄するにとどまっているのだが、大多数の敗者に焦点を当てることが、公平な観点からの歴史記述と言えるのであろうか。

たとえば『もう一度読む 山川日本史』には、
「…金禄公債が低額であった士族の打撃は大きく、なかには、官吏・教師・新聞記者などになって新しい生活をはじめたものもあったが、なれない商売に手をだして『士族の商法』といわれるように失敗したりした者も多かった。政府は士族が新しい仕事をはじめる資金を貸しつけたり、土地を安く払い下げて開墾にあたらせたり(士族授産)したが、大部分の士族は急速に没落していった。」(p.221~222)
と、商売の世界では大部分の士族が没落したことを強調しているだけだ。この文章では明治時代の経済界をリードした大半の人物が士族であったとは誰も読み取ることが出来ないだろう。

どんなに厳しい時代であっても、伸びるべき人物は伸び、沈むべき人物は下層に沈む。
また、どんな世界であっても、競争が公平に行われてさえいれば、実力のある者が頭角を現すようになる。
明治期に歴史に名を刻むような著名な経済人を多数輩出したのだが、そのほとんどが士族であったという史実には、もっと注目して良いのではないだろうか。
しかも、彼等の出身を調べると、薩長土肥ばかりを優遇したわけではなさそうだ。明治初期に政府と敵対した藩や幕臣からも経済界の重鎮となった人物が少なからず出ていることは、明治時代の経済施策においては、概ね公平な競争が行なわれたと考えて良いだろう。

また、厳しい競争の中から勝ち残った経営者の多くが士族であったことは、欧米列強の圧倒的な軍事力・技術力・経済力に負けない国づくりを目指す明治政府にとっても望ましいことだったと思う。明治維新期には敵対した藩出身者であったとしても士族であれば、幕末期にわが国が欧米列強に経済的・軍事的に飲み込まれない国家であるために奔走した価値観を共有できたはずだからである。
明治維新後のわずかな期間に、わが国が欧米列強と伍すことのできる国家に成長することが出来たのは、国を愛し、視野が広く、かつ有能な士族出身者が経済界で存分に活躍できたことと無関係ではないと思うのだ。

岩倉具視

先程、岩倉具視も士族の転業に知恵を絞ったと書いたが、岩倉はこの問題について、「士族は日本の精神なり。…国勢の盛衰に関する心力を有す、日本の精神にあらずして何ぞや。」と言い、士族のような「高尚なる種族」を度外視して外人と競争しても、二三十年の間はどうしても敵わないという主旨の意見書を再三にわたり提出しているそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/83
一度は士族に殺されかけた岩倉だが、新しい明治国家の中で、誇り高い士族たちにどのような役割を与えるかについて真剣に考え続けていたのである。

あらゆる改革には多数の犠牲者が生まれることはやむを得ないことだが、いつの時代においても為政者たる者は、改革の犠牲となった者たちも努力次第で、誇りを持って働くことができるチャンスを切り開くことができる社会を実現すべく、知恵を絞って欲しいものである。

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。
良かったら覗いてみてください。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

大晦日の「年越の祓」と「除夜の鐘」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-58.html

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-20.html

震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船

前回まで2回続けて、明治時代の士族の話を書いた。
菊池寛の著書『明治文明綺談』に、士族の中でも最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣であったと書かれていたので、具体的にその当時のことが書かれている本を国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で探していると、『歴史の教訓』という本が目にとまった。
歴史の教訓

著者の塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)は旧幕臣の家に生まれ、明治元年に徳川家と共に静岡藩に移住して藩士となりそこで悲惨な生活を体験し、のちに横浜毎日新聞に入社して新聞小説家として一世を風靡した人物である。渋柿園というのはペンネームで、本名は靖(しずむ)であったという。

東亜堂書房の「縮刷名著叢書」の第18編として大正4年に出版されたこの本の最初に、『五十年前』という作品が収められている。
その前書きの部分で塚原が、「維新の当時、――慶応3年の暮れから翌4年、すなわち明治元年にわたる江戸の変遷の有様を、私が見たとおり、否、むしろ出会ったままのそのままを少しも飾らずに、小説気を離れて話して見よう」と記しているとおり、ここに記されている内容は、少しは誇張があるとしても作り話などではなく、旧幕臣として自らが見聞きし体験したことをそのまま記したものである。これを読むと、誇り高き旧幕臣達が、想像を絶する悲惨な境遇に置かれたことを知って、誰しも驚愕せざるを得ない。

文章を紹介する前に、塚原ら徳川家臣団が静岡に移住するまでの経緯を纏めておく。

慶応4年(1868)4月11日に江戸城が無血開城されたのち、閏4月29日に関東監察使三条実美は、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認める勅旨を伝達し、5月24日には駿府70万石に移封されることが発表されている。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したわけだが、それまでは800万石であった石高が70万石になったということは一気に91.3%もの減封になる。
当時の徳川家の家臣の数は旗本が6千人ほど、御家人が2万6千人ほどで、合せて3万人強。70万石にまで石高が減らされては大名として養える藩士の数はせいぜい5千人程度と見積もられていたのだが、駿府に移住することを希望した者が1万5千人程度もいたという
単純に計算すると、家臣一人当たりの石高は267石(800万石÷3万人)から、140石(70万石÷5千人)程度になるつもりが、47石(70万石÷1.5万人)まで減ってしまったことになる。
前回および前々回の記事で紹介した菊池寛の『明治文明綺談』によると、「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も、100石に減らされている。生活最低線が100石というわけである」と解説されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78
徳川家の旧家臣団は藩主を入れた一人あたりの石高の平均値が、菊池寛の算定した生活最低線の半分以下であったことになる。これでは彼らが相当厳しい生活を余儀なくされることは誰でもわかる。

塚原渋柿園2

ところで、徳川家臣たちに選択肢がなかったわけではない。塚原の『歴史の教訓』にはこう記されている。(原文は旧字・旧かな)

「人多く、禄すくなし、在来の臣下をことごとく扶持することができぬから、この際『朝臣*』となるか、『農商』に帰するか、また強いて藩地へ供せんというものは『無禄』の覚悟にて移住をしろ、とまずは縁切状、それを出された。
 そこで藩士は、この三者の一を選んで、身の処置をなさねばならぬ次第となった
。当面利害の点からいうと、その朝臣になると、禄高は従来取りきたりのまま(もっとも後には減らされたそうだが)、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという。これは至極割合の好い話であったが、なぜかこれには応ずるものがすくなかった。…(帰農商については)帰農はすくなくて、あるのはやはり千石以上の知行取り、即ち旧采地に引っ込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち30俵40俵から200俵300俵の連中には帰商もかなりあったようだが、その多かったのは無禄移住。どこまでも藩地へ御供(おとも)というのであった。
 藩庁でも、朝臣の少ないのを案外に思って、無禄連の多いのに頗る困って、また諭達を出した。石を食うの砂を噛(かじ)るのとてそれは口でのみ言うべきことで、実際に行い得るわけのものではない。あちらへ行って、藩主にもご迷惑をかけ、銘々(めいめい)にも難儀に陥るようなことがあっては、つまり双方の為にならぬから、はやく今のうちに方向を決めて、前途の生計に困らぬようにしろ。―――こんな達しが二三度も出た。それでも、何でも御供をしたい!と、藩吏は甚だその処置に苦しんだらしかった
。」
*朝臣:新政府に帰順して政府に出仕すること
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/24

いくら収入が少なくても、永年付き合ってきた仲間と力を合わせて暮らしたいと思うのは、今よりも昔の方が強かったと思う。
塚原渋柿園は、この文章に続いて帰農帰商の失敗事例について書いている。非常に興味深い部分ではあるが、長いので省略して、無禄で徳川家と共に静岡藩に移住する決意をした人々が、船で静岡に向かう場面を記した部分を紹介したい。

私の家も同じくその無禄の一人だ。が、幸いに、私は部屋住まいながら広間組というものになった。で、父は当主の無禄移住で、家族を引き連れて彼の地へ行く。私はその組の同僚どもと、そのころ天野加賀守と加藤平内との率いていた草風隊(脱兵)の帰降して駿州田中へ送られるその護衛を彼地までして、そのまま田中城の勤番をしろと言うので、10月の中旬(日は忘れた)築地の本願寺に出かけた。すると那の広い本堂の中央に、脱兵も何十人と居る。私の仲間も二百人からいた。
 これより先、藩庁では、この移住者を輸送(私らはことさらにこれを輸送という)するために、米国の飛脚船を借入れたが、(移住者にして有福の者、また到底海路を行けぬという人達は、陸路を辿るも多かった)この時の船は『ゴールデン、エーヂ』、後に確か東京丸となった船だった。長さ七、八十間*(けん)に幅の十二、三間も有ったかと思う大船。それでもその会社の好意で、江戸の品川沖から駿州清水港まで三千両で貸切にしてくれたとかいう話。で、その船は台場の先に碇泊(かかっ)ている。これに乗る移住連…の人数は二千五、六百もあったろう。それも当主は男子だが、あとの家族は老人に子供、婦女に病人などという多くは足弱で、とても一人で身の始末もならぬという者だから、これを艀船(はしけ)で本船まで送るというのが、そもそもの大ごとだ(手荷物は極めて少数に限られていたが、それでも皆一品も多くと持って行く。その扱い方にも手数がかかった。)で朝から数十艘の小舟で幾百回というものを往返して、漸くその移住連の運搬を了って、さて最後に、私どもが本船に移った。時は今の夕6時過ぎ、その部屋は甲板の上に天幕(テント)を張って、船の中での露営というけしき、布団もなければ、湯茶一つない。
 それでも我々の方は只幾許かの身の余裕も取れる。ところがその下方の、かの下等室なる移住者の方と来たら、実に大変だ

 私も父や母や祖母や妹両人、それに老僕の仁平という者…これらのこの船に乗っていることは知っている。どんな様子だか是非見たいと、梯子の口まで行って見ると、驚いた!船中の混雑を防ぐためでもあろう、梯子はとってある。傍(わき)の手すりに捉まって、下を見ると、臥棚(ねだな)もなければ何もないがらんどうの板敷?の上に、実に驚く!鮨を詰めたと言おうか、目刺鰯(めざし)を並べたと言おうか、数かぎりも知れぬ人間の頭がずらりと並んで、誰もこれももう寝ているのであるが。その枕としているのは、何かと言うと、他人の足。―――自分の足もまた他の枕にされている。
 ところがご承知の、江戸の女―――むしろ我が日本の女?―――というものはみな船に弱い。隅田川の渡船でもちと風が強いと眩暈(めまい)がするという。しかるに生憎(あいにく)やこの日はやや暴風(しけ)模様で、波が高かった。
 既に築地から御台場向うの、二里近くもあろうという海上を艀船(はしけ)で揺られて、もう大概いきついているうえに。またこの、例の石炭臭い、ゴミ臭い、いやな臭いと、大勢の人いきれの腐った空気を吸わされるというのだから堪らない。あちでもこちでもゲーゲーと吐(や)る者がある。苦しんで呻(うな)る者がある。子供は泣く、病人はうめく。その中で、彼の黒ん坊の水夫はがなる。それに―――甚だきたないお話で恐れ入るが、便所―――もとよりこの大勢に、五ヶ所や十ヶ所の在来の便所で間に合う理由(わけ)のものではないから仕方もないのだが、かの梯子の掛るべき下方のところに、四斗樽を十四、五も並べて、それに人々が用を足すのだ。それでも男子はまだどうにかなろう。たださへもものつましい婦人方が、この大勢の見ている面前で、そんなことのなろうわけだか。…多くは皆然るべき御旗本御家人の奥様、御新造様、御嬢様、御隠居様とも言われた人達で。中には自家の勝手元にも出た事のない、かのやんごとなき側の人もいる。…」
*間(けん):尺貫法による長さの単位。1間=1.818m
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/28

こんな四斗樽も各々使わざるを得ないのでいずれは満タンとなるのだが、それが時々溢れ出し、その近くの人の寝ているところを流れていくのでたまらない。
樽が満タンになると、水夫が樽を甲板に引き上げて海に中身を投げ捨てて空にするのだそうだが、ある時釣り縄が切れて、その中身を頭上から浴びた者がいたということも書かれている。

こんな奴隷船のようなひどい扱いで二昼夜半も乗せられて、船は漸く清水港に着いたのだが、この船中で死人が四、五人、出産が五、六人出たのだそうだ。

この船を借入れたのは静岡藩だから明治政府には責任はないのだが、藩庁も安いから契約したものの、米国の船が、まるで奴隷を運搬するようなやり方で旧幕臣家族を運ぶとは考えてもいなかったのだろう。

奴隷船
以前このブログで、明治5年(1872)に大量の中国人苦力(クーリー)を載せアメリカに向かっていたペルー船籍のマリア・ルーズ号が途中で暴風雨に会い、横浜港口に横付けとなったが、この船から逃亡した中国人に虐待の痕があったことから英国軍艦がこの船を「奴隷運搬船」と判断し、わが国政府に対し「適切な処置をとることを切望」した事件について書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

わが国の特設裁判所は、人道に反する奴隷契約は無効だとして中国人苦力全員を解放し、清国政府からはわが国に感謝の意を込めて頌徳の大旆(たいはい)が送られたのだが、このような西洋諸国にとって都合の悪い史実は、戦後の歴史記述からはすっかり封印されてしまっているようだ。

大江卓宛大旆

当時のアメリカは南北戦争の後に奴隷が解放されて極度の労力不足を生じ、その穴埋めとして大量の中国人が買われていた時期であり、幕末から明治にかけて、多くの中国人を乗せた奴隷船が太平洋を航行していたことを知るべきである。
徳川家臣団を乗せたゴールデンエーヂ号の米国人船長からすれば、求めに応じて2500人の日本人を、中国人苦力と同じ運び方をしただけのことだったのだろう。

かくして、徳川家臣団は静岡に定住した。
無禄移住」とは言いながら、塚原渋柿園は静岡藩士としての収入はゼロではなかったのだが、僅かの収入を親に仕送りして、かなり惨めな生活が続いたようだ。
次回に、その生活ぶりについて書くことにしたい。
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【ご参考】
この出来事から4年後に、ペルー船籍のマリア・ルーズ号が修理の為に横浜港に横付けし、中国人の逃亡者が出たためにこの船が奴隷運搬船である事が判明。わが国がその船の中国人苦力たちを解放した出来事をこのブログに書いています。実はペリー来航の前年にも、中国人苦力を乗せた米船が石垣島に座礁し、石垣島の人々が中国人苦力を助けた歴史があります。是非覗いて見てください。

中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

戦国時代には多くの日本人が奴隷として売られた記録がありますが、奴隷の運搬方法は戦国時代からあまり変わっていないようです。
戦後のわが国の歴史記述には、日本人が奴隷に売られた史実やその記録が意図的に削られているようです。興味のある方はこんな記事も書いていますので、覗いて見てください。

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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