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明治維新と武士の没落

明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日本全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。

そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし、諸藩の土地と人民を明治政府の所轄としたのだが、この段階では旧藩主がそのまま知藩事に留まっていたので、江戸時代と実態的には変わっていなかった。

次いで明治政府は、明治4年(1871)に藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣するという大改革を断行している(廃藩置県)。

山縣有朋

さらに明治5年(1872)には、2月に山縣有朋が陸軍大輔となり、11月に山縣の徴兵論が採用されて「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられている。この詔は原文ではこう書かれていた。

徴兵の詔

「朕惟ル(おもんみる:思い巡らす)ニ古昔郡県ノ制全国ノ丁壮(ていそう:若者)ヲ募リ軍団ヲ設ケ以テ国家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ当リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ式ヲ斟酌シ全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ体シ普ク之ヲ全国ニ告諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」

この詔の方針に基づき徴兵告諭が出され、翌明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されたのだが、ポイントは「四民平等、国民皆兵」で、20歳に至る者を陸海両軍に充てて、士族(元武士階級)の採用に限定しないことを明記している点にある。このことは士族においては、生存権にかかわる重大問題であったはずだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』の解説がわかりやすい。この本は国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、誰でもPCで読むことができる。
明治5年の正月の調査によれば、士族の総数は40万8千戸、その家族を合わせれば190万人という大多数が、封建組織の瓦解と共に、深刻な生活問題に直面したわけである。
  しかも彼等は、今まで生活の本拠となっていた藩がなくなったばかりでなく、明治5年に発布された徴兵令のため、その本来の職能である軍役からもはなれることになり、いよいよその存在の意義を失うことになったのである。
 … 
 元来、幕末期における武士の生活難は維新の一原因と言われるくらいであるから、相当激しいものであった。軽輩の武士は、家禄だけでは生活できないから、内職を営み、そのために地方に特産物が発達したと言われる。仙台の仙台平、甲州の郡内織など、みなこの下級武士の妻子が従事して名産としたものである。
 維新から明治にかけて、全国的の兵乱のため物資は高くなり、藩札その他、財政の混乱から、ただでさえ苦しい武家の家計は、ますます不如意となっているところへ、版籍奉還廃藩置県の大変動を受けたわけである。
 そのために彼等が受けた打撃は、第一に家禄の削減であった。政府としても、藩に代わって禄を全士族に与えるとすると、年2500万円という巨額に達し、これは全歳出の3割6分に当たるのである。今まで通りの知行を与えてはやり切れなくなったので、各々その数分の1に削減している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/77

ではどの程度減らされたのかというと、
「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も100石に減らされている」とあるが、最も悲惨であったのは朝敵であった徳川の旧幕臣であったようだ。
徳川慶喜は明治元年の江戸城明け渡しの後、800万石を70万石に大幅に減らされて、駿府に移封されている。その収入ではとても膨大な家臣団を養えないので、駿府に赴いた者は15000人程度だったことがWikipediaで解説されているが、実収は激減した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%96%8B%E5%9F%8E

下級武士の収入までもがそこまで減らされてしまっては生活が成り立つはずがない。その上に新しい税まで課せられたという。
菊池寛は、前掲書で徳川の旧幕臣の生活のことをこう記している。

「静岡における彼等の生活は、嘗て実収1万石を得ていた者でも、250石の収入となってしまった。以下、小録に至るまで、順次低下するのであるから、どんなに惨めな生活だったか分るのである。今日有名になっている静岡の茶業は、実にこれら飢餓に瀕した旧幕臣が辛うじて発見した生活法に由来するものである。
 家禄削減に続いて、明治6年、政府はこれらの家禄に、新たに税を課することになった。しかもその率は高くて、全体からいって1割2分というのである。収入は激減する上に、その激減したものに、こんな高率な税を課したのであるから、彼等の生活はほとんど致命的な窮乏へ追い込まれたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78

中條景昭

少し補足しておく。
今は一面茶畑となっている静岡県の牧之原台地は、以前は荒廃地であったのだが、徳川慶喜とともに駿河に移住した中條景昭(ちゅうじょうかげあき)ら約250戸の元幕臣たちは牧之原に転住したのち、1425町歩の開墾に精力を注ぎこみ、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達して、明治6年(1873)から茶芽を摘みはじめとある。
度重なる苦労と失敗を重ねながらも、静岡牧之原の茶葉の品質向上に成功させて、『静岡茶』を有名ブランドに育てあげたのは、徳川の旧幕臣であったのだ。
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup03.htm

しかし、このような成功例はごく一部に過ぎなかった。
明治政府は家禄の奉還を願い出た士族に家禄の数か年分の公債を与えて、士族が生業に就くことを促したというのだが、生活を立て直すにはあまりに公債が少なすぎて、家財道具を売るものや、娘を芸娼妓に売ったりする者も少なくなかったという。

士族は、ただ収入が激減しただけではない。徴兵令が出て軍役が国民全体の義務とされたことから、彼等の仕事までもが奪われ、さらに、明治9年(1876)には廃刀令が出されて、彼等の持っていた誇りと特権が悉く剥奪されていったのである。

こんなに悲惨な境遇に追いやられた士族が、明治政府に不平・不満を持つことは至極当然なことだと思うのだが、なぜ明治政府は彼等をここまで追い詰めたのだろうか。
彼等の失業対策が必要になることは初めからわかっていたのだから、四民平等・国民皆兵の考え方で徴兵制により兵士を集めるのではなく、士族を優先して兵士を集めれば良かったのではないかと誰でも考えるところで、明治政府内においても西郷隆盛や谷干城らは山縣有朋の徴兵制の主張に反対したようだ。

大衆明治史

それにもかかわらず、山縣有朋が徴兵制を強く主張した根拠はどこにあったのだろうか。山縣と同様の主張をしたのが大村益次郎なのだが、両名が徴兵制を主張した理由について、菊池寛は『大衆明治史』でこう解説している。

大村益次郎にしても、山縣有朋にしても、徴兵制をあくまでも主張した根拠は、全く同じ経験に出発したものと言われる。即ち、共に奇兵隊長として四境戦争*に臨み戊辰戦争に転戦した経験がある。
 奇兵隊長、高杉晋作は、
砲火による戦闘は、団体の訓練が主で、一個人の格闘力の如き問題ではない。ところが個人的格闘力を誇りとすべき筈の門閥武士は、太平の久しい優柔の風に慣れて堕落し、活発な元気と強健な体躯は、却って下士、足軽百姓町人の階級に見るようになっている。これらの精鋭を選び、軽快な武装と銃器を与え、団体的な訓練を施せば、よく洋夷にも対抗出来よう』
 と述べ、一般四民から募集したのが、有名な奇兵隊
である。これが四境戦争*で、幕兵を向うに廻して、どんなに目覚ましい働きをしたかは、大村も山崎もその隊長として、充分に見届けたのであった。奇兵隊はいわば徴兵制の立派な見本を見せたわけである。…
 また、士族だけで、新興日本が必要とする兵員全部を供給することが出来ぬし、また終身兵制の士族全部に支給する費用は、当時の財政としては、とても支弁しきれたものではないのである。…」(『大衆明治史』p.108-109)
*四境戦争:幕末期に江戸幕府が長州藩攻撃のため起こした戦争のうち、第二次長州征伐を長州側では四境戦争と呼ぶ。兵力では圧倒的に幕府軍が優っていたが、長州軍が勝利した。

長州奇兵隊

山縣らは、奇兵隊が幕府兵を破った経験から銃や大砲を用いる戦いには武士は不要であり、明治政府の乏しい歳入を勘案しても、武士を優先して雇うわけにはいかないと考えたのだが、そのために多くの武士が失業したことに頭を痛めた一人が西郷隆盛である。彼が、征韓論を強く唱えたのは、士族を本来の軍役に就かせる目的があったと考えられている。

しかしながら、その征韓論が認められなかったために、江藤新平、板垣退助、西郷隆盛らが下野し、その後、不平を持つ士族が、明治7年(1874)に佐賀の乱、明治9年(1876)に熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱を起こしている。

鹿児島暴徒出陣の図

そして明治10年(1877)には、ついに西郷も明治政府に反旗を翻したのである。
西郷の率いる1万3千の兵が鹿児島を発って北に向かうと、各地の士族が続々合流し、僅かの間に3万に膨れ上がって、西南戦争が始まっている。
西郷軍は鎮台のある熊本城を目指したが、武士が負けるはずがないと高をくくっていた百姓や町人上がりの新政府軍に敗れてしまい、不平士族の最後の墓場となってしまった。

ところが、不平士族たちの反抗はそれからも続いたのである。
菊池寛は『明治文明綺談』でこう解説している。
「…これから後は、彼等の反抗は思想的なものに代わり、自由民権を唱えることによって、藩閥政府攻撃の火の手を掲げるようになった征韓論に敗れて野に下った、後藤象二郎、江藤新平等によって民選議員設立の建白書が提出されて以来、焦慮憂鬱に閉ざされていた失意の士族は猛烈な勢いでこれを政府攻撃の手段とした。…
 政府としては、一難去ってまた一難である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/82

この難局を明治政府が如何にして切り抜けただろうか。
このテーマは次回に記すことに致したい。
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明治政府は士族をどう活用しようとしたのか

前回は、明治維新のあとで士族の収入が激減した上に徴兵制が開始され、さらに廃刀令が実施されて、彼等の誇りや特権が剥ぎとられたばかりでなく、生活もままならなくなり、家財道具を売る者や、娘を売る者が出てきたことを書いた。

歴史書では「不平士族」という言葉で表現されているが、働く場所が奪われ、収入が9割以上カットされた上に、収入に12%もの新税を課せられては、士族が不平を持たないことのほうが余程不自然である。
また明治政府は、士族のうち家禄を自主的に奉還したものに対しては、起業資金を与える目的で年収の数年分の秩禄公債を与えたことが日本史の教科書などに記されているが、「年収の数年分」といっても、士族の家禄が大幅にカットされたことを勘案すれば、藩に仕えていた時代の数か月分の収入程度の資金に過ぎなかったはずだ。

明治政府は、もしかすると、旧士族が反乱を起こすことぐらいのことは始めから覚悟の上ではなかったか。
廃藩置県後、もし明治政府が藩に代わって従来と同様の禄を全士族に与えるとすると、全歳出の36%も士族の為に払わなければならなくなる。どうせ大幅に禄をカットするしかないのなら、士族を干せるだけ干すことによって不満分子を炙り出し、反乱を起こさせて士族の人数を減らしておくことの方がベターだという考えだったのかもしれない。
もし無理をして士族を日本軍に登用し、近代兵器を貸与したりすれば、いずれ明治政府にとってかなり危険な存在になりうることぐらいのことは想定していたとしても不思議ではない。

田原坂

明治政府が士族を冷遇したことから、各地で相次いで士族の反乱が起こり、明治10年(1877)には明治維新の最大の功労者の一人であった西郷隆盛を首領とする、鹿児島県士族ら約4万人が明治政府に反対して兵をあげ、8ヶ月にわたって九州各地で激しい戦闘が繰り広げられている。この西南戦争は最後の士族の反乱となり、近代兵器を持つ百姓や町人上がりの新政府軍が西郷らの士族の兵士に勝利したことは、教科書などにも記されている。

一方、この時期には明治政府の要人が士族によって命を狙われる事件が相次いでいる。
国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに『明治以降大事件の真相と判例』という書籍が、ネットに公開されている。
その本で、西南戦争の頃に士族が起こした事件を見ていくと、明治7年(1874)1月14日には、征韓論が認められなかったことに不満を持った高知県の士族9名が岩倉具視に斬りこみ、岩倉は巧みに身をかわして濠の中に転がり込んで助かったという記録が出ている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280641/51

斬奸状

そして、西南戦争で西郷隆盛がこの世を去った翌年の明治11年(1878)5月14日には、大久保利通が石川県と島根県の「不平士族」6名によって暗殺されている。(紀尾井坂の変)
『明治以降大事件の真相と判例』に彼等の書き残した斬奸状が掲載されており、そこには彼等にとって「斬るべき者」の名前が列挙されている。
「木戸孝允、大久保利通岩倉具視、是れ其の最も巨魁たる者、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の如き、亦許す可らざる者、其の他、三条實美等、数多の奸吏に至っては、則ち斗屑の輩、算するに足らず。其の根本を断滅せば、枝歯随って秋落す。」とあり、木戸が病気で死んだので大久保を狙ったと明確に記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280641/60

大久保が殺害された紀尾井坂の変に刺激されて、同じ年のまた同年の秋には伊藤博文の暗殺を企てた高知県の士族がいたが、これは未遂に終わっている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281115/71

一方で、士族の明治政府に対する反抗は次第に思想的なものとなり、自由民権を唱えることによって藩閥政治攻撃が年々激しくなっていったという。

しかしながら、明治政府が失業士族に対し何もしなかったわけではないのだ。さすがに、失業中の士族の家禄を増やすことについては考えなかったが、失業士族が生業に就くことを真剣に考えていたことは確かなのである。

明治文明綺談

前回の記事で紹介した菊池寛の『明治文明綺談』を再び引用しよう。

「工業に鉱業に、また牧畜農業に、当時漸く西洋の近代産業の組織を移入したが、そのためには莫大の数の技術者と労働者が必要となった。しかもこの大量の需要に対して、直ちに応じられるのは、当時失職して、社会の下積みになっていた20万を超える旧武士だけである。今日の言葉で言えば、労働力の再編成であるが、どうしても日本の近代産業を急に発達させるためには、政府としても真剣にこれらの士族の授産に乗り出さざるを得なかったのである。…
明治政府が士族転業のためにやった施策はたくさんあるが、その主なものは大体3つあると思う。資本の貸与、移住開墾の奨励、国立銀行の設立奨励である。…
 これらのうち、最も力がそそがれたのは、移住開墾の奨励であって、東北地方、北海道が移住地として指定されている。…
 その他政府が士族就業のために払い下げたりした土地は、山林などを含めて明治17年までに十万町歩に達したというから、その努力は多とすべきであろう。これらに従事した帰農士族の成績は、遺憾ながら不満足なものであった。比較的成功したのは北海道開墾ぐらいであったろう。しかし彼らによって、不毛の原野が相当開墾され、日本の耕牧地の面積が大いに増加したという功は没せられないと思う。
 また資本を貸して、士族の独立生計を維持させるという計画に基づき、明治22年までに、政府が極めて寛大な条件で貸した金は、総額530万円に達し、これによって職を与えられた士族の数は、全国に亘って数万の多きに達したと言われる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/83

明治政府の中で、士族の転業について知恵を絞ったのは、意外にも、岩倉具視大久保利通なのだそうだ。
大久保利通

大久保は殖産興業のために官営の模範工場を多数設立したが、それにはいずれも軌道に乗せてから士族に払い下げることを意図したものだそうだ。菊池寛は同上書でこう解説している。
「例えば明治5年に、有名な富岡製糸場が設けられ、各府県から工女を募集した時、政府はこれを主として士族の子女にかぎったのである。彼女等は単なる女工ではなく、新しい技術を覚えるための伝習生であったのである。
 その他、紡績、機械、製糸、燐寸(マッチ)製造など、明治になってはじめて起こった産業の多くが、これら士族によって技術労力共に運転されたということは注目してよいと思う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/84

国立銀行も同様な目的で100以上設立されたわけだが、多くの武士の転職がスムーズにいかなかったこともまた事実である。とは言え、明治時代にわが国の産業、金融の基礎が士族たちによって築かれたことは無視すべきではないだろう。

菊池寛

菊池寛は同上書で続けてこう述べている。
「大体において、政府の必死の努力にもかかわらず、次第に社会の下積みに沈んでいく士族が多くなったということは事実のようだ。新しい社会に、どうしても生活できぬのである。『士族の商法』というように、彼等は先天的に、この激甚なる資本主義の社会に伍して進む能力が欠けていたのである。
 しかし士族はインテリであって、その中には時勢をみるに敏なるものも少なくなかった。
 明治の実業家で、純粋に武士出身の者を拾ってみると、五代友厚、荘田平五郎、中上川彦次郎などがある。本格的な侍ではないが、それに準ずるものに、岩崎弥太郎、渋沢栄一、安田善次郎、藤田伝三郎などの名がある。
いずれも、今までの商人上がりの実業家の型を破った豪快味を持っていて、真に腕一本、その智嚢を資本にして、巨富を成したものばかりである
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/85

少し補足すると、大阪株式取引所・大阪商工会議所を創設した五代友厚は薩摩藩、三菱の大番頭となった荘田平五郎は臼杵藩、三井中興の祖と言われた中上川彦次郎は中津藩、三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎は土佐藩、第一国立銀行や東京証券取引所などの設立・経営に関わった渋沢栄一は幕臣、安田財閥の祖・安田善次郎は富山藩、藤田財閥の祖・藤田伝三郎は長州藩の出身である。
他には日産コンツェルンの創始者鮎川義介(長州藩)、三越百貨店創立者の日比翁助(久留米藩)、第二代住友総理事の伊庭貞剛(伯太藩)、三井物産の設立に関わった益田孝(幕臣)など、武士出身者で経済界の重鎮になった人物が目白押しなのである。

ところが、今の歴史書にはほとんどこの重要な事実が記述されず、『士族の商法』を揶揄するにとどまっているのだが、大多数の敗者に焦点を当てることが、公平な観点からの歴史記述と言えるのであろうか。

たとえば『もう一度読む 山川日本史』には、
「…金禄公債が低額であった士族の打撃は大きく、なかには、官吏・教師・新聞記者などになって新しい生活をはじめたものもあったが、なれない商売に手をだして『士族の商法』といわれるように失敗したりした者も多かった。政府は士族が新しい仕事をはじめる資金を貸しつけたり、土地を安く払い下げて開墾にあたらせたり(士族授産)したが、大部分の士族は急速に没落していった。」(p.221~222)
と、商売の世界では大部分の士族が没落したことを強調しているだけだ。この文章では明治時代の経済界をリードした大半の人物が士族であったとは誰も読み取ることが出来ないだろう。

どんなに厳しい時代であっても、伸びるべき人物は伸び、沈むべき人物は下層に沈む。
また、どんな世界であっても、競争が公平に行われてさえいれば、実力のある者が頭角を現すようになる。
明治期に歴史に名を刻むような著名な経済人を多数輩出したのだが、そのほとんどが士族であったという史実には、もっと注目して良いのではないだろうか。
しかも、彼等の出身を調べると、薩長土肥ばかりを優遇したわけではなさそうだ。明治初期に政府と敵対した藩や幕臣からも経済界の重鎮となった人物が少なからず出ていることは、明治時代の経済施策においては、概ね公平な競争が行なわれたと考えて良いだろう。

また、厳しい競争の中から勝ち残った経営者の多くが士族であったことは、欧米列強の圧倒的な軍事力・技術力・経済力に負けない国づくりを目指す明治政府にとっても望ましいことだったと思う。明治維新期には敵対した藩出身者であったとしても士族であれば、幕末期にわが国が欧米列強に経済的・軍事的に飲み込まれない国家であるために奔走した価値観を共有できたはずだからである。
明治維新後のわずかな期間に、わが国が欧米列強と伍すことのできる国家に成長することが出来たのは、国を愛し、視野が広く、かつ有能な士族出身者が経済界で存分に活躍できたことと無関係ではないと思うのだ。

岩倉具視

先程、岩倉具視も士族の転業に知恵を絞ったと書いたが、岩倉はこの問題について、「士族は日本の精神なり。…国勢の盛衰に関する心力を有す、日本の精神にあらずして何ぞや。」と言い、士族のような「高尚なる種族」を度外視して外人と競争しても、二三十年の間はどうしても敵わないという主旨の意見書を再三にわたり提出しているそうだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/83
一度は士族に殺されかけた岩倉だが、新しい明治国家の中で、誇り高い士族たちにどのような役割を与えるかについて真剣に考え続けていたのである。

あらゆる改革には多数の犠牲者が生まれることはやむを得ないことだが、いつの時代においても為政者たる者は、改革の犠牲となった者たちも努力次第で、誇りを持って働くことができるチャンスを切り開くことができる社会を実現すべく、知恵を絞って欲しいものである。

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。
良かったら覗いてみてください。

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
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永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html

大晦日の「年越の祓」と「除夜の鐘」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-58.html

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-20.html

震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船

前回まで2回続けて、明治時代の士族の話を書いた。
菊池寛の著書『明治文明綺談』に、士族の中でも最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣であったと書かれていたので、具体的にその当時のことが書かれている本を国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で探していると、『歴史の教訓』という本が目にとまった。
歴史の教訓

著者の塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)は旧幕臣の家に生まれ、明治元年に徳川家と共に静岡藩に移住して藩士となりそこで悲惨な生活を体験し、のちに横浜毎日新聞に入社して新聞小説家として一世を風靡した人物である。渋柿園というのはペンネームで、本名は靖(しずむ)であったという。

東亜堂書房の「縮刷名著叢書」の第18編として大正4年に出版されたこの本の最初に、『五十年前』という作品が収められている。
その前書きの部分で塚原が、「維新の当時、――慶応3年の暮れから翌4年、すなわち明治元年にわたる江戸の変遷の有様を、私が見たとおり、否、むしろ出会ったままのそのままを少しも飾らずに、小説気を離れて話して見よう」と記しているとおり、ここに記されている内容は、少しは誇張があるとしても作り話などではなく、旧幕臣として自らが見聞きし体験したことをそのまま記したものである。これを読むと、誇り高き旧幕臣達が、想像を絶する悲惨な境遇に置かれたことを知って、誰しも驚愕せざるを得ない。

文章を紹介する前に、塚原ら徳川家臣団が静岡に移住するまでの経緯を纏めておく。

慶応4年(1868)4月11日に江戸城が無血開城されたのち、閏4月29日に関東監察使三条実美は、6歳になる田安亀之助(後の徳川家達)による徳川宗家相続を認める勅旨を伝達し、5月24日には駿府70万石に移封されることが発表されている。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したわけだが、それまでは800万石であった石高が70万石になったということは一気に91.3%もの減封になる。
当時の徳川家の家臣の数は旗本が6千人ほど、御家人が2万6千人ほどで、合せて3万人強。70万石にまで石高が減らされては大名として養える藩士の数はせいぜい5千人程度と見積もられていたのだが、駿府に移住することを希望した者が1万5千人程度もいたという
単純に計算すると、家臣一人当たりの石高は267石(800万石÷3万人)から、140石(70万石÷5千人)程度になるつもりが、47石(70万石÷1.5万人)まで減ってしまったことになる。
前回および前々回の記事で紹介した菊池寛の『明治文明綺談』によると、「52万石の福岡藩などでも、3500石以上の大身は10分の1に、600石ぐらいの者も、100石に減らされている。生活最低線が100石というわけである」と解説されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/78
徳川家の旧家臣団は藩主を入れた一人あたりの石高の平均値が、菊池寛の算定した生活最低線の半分以下であったことになる。これでは彼らが相当厳しい生活を余儀なくされることは誰でもわかる。

塚原渋柿園2

ところで、徳川家臣たちに選択肢がなかったわけではない。塚原の『歴史の教訓』にはこう記されている。(原文は旧字・旧かな)

「人多く、禄すくなし、在来の臣下をことごとく扶持することができぬから、この際『朝臣*』となるか、『農商』に帰するか、また強いて藩地へ供せんというものは『無禄』の覚悟にて移住をしろ、とまずは縁切状、それを出された。
 そこで藩士は、この三者の一を選んで、身の処置をなさねばならぬ次第となった
。当面利害の点からいうと、その朝臣になると、禄高は従来取りきたりのまま(もっとも後には減らされたそうだが)、地面家作、その他残らず現在形のままで下されるという。これは至極割合の好い話であったが、なぜかこれには応ずるものがすくなかった。…(帰農商については)帰農はすくなくて、あるのはやはり千石以上の知行取り、即ち旧采地に引っ込むというのに多かった。中から下にかけて、即ち30俵40俵から200俵300俵の連中には帰商もかなりあったようだが、その多かったのは無禄移住。どこまでも藩地へ御供(おとも)というのであった。
 藩庁でも、朝臣の少ないのを案外に思って、無禄連の多いのに頗る困って、また諭達を出した。石を食うの砂を噛(かじ)るのとてそれは口でのみ言うべきことで、実際に行い得るわけのものではない。あちらへ行って、藩主にもご迷惑をかけ、銘々(めいめい)にも難儀に陥るようなことがあっては、つまり双方の為にならぬから、はやく今のうちに方向を決めて、前途の生計に困らぬようにしろ。―――こんな達しが二三度も出た。それでも、何でも御供をしたい!と、藩吏は甚だその処置に苦しんだらしかった
。」
*朝臣:新政府に帰順して政府に出仕すること
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/24

いくら収入が少なくても、永年付き合ってきた仲間と力を合わせて暮らしたいと思うのは、今よりも昔の方が強かったと思う。
塚原渋柿園は、この文章に続いて帰農帰商の失敗事例について書いている。非常に興味深い部分ではあるが、長いので省略して、無禄で徳川家と共に静岡藩に移住する決意をした人々が、船で静岡に向かう場面を記した部分を紹介したい。

私の家も同じくその無禄の一人だ。が、幸いに、私は部屋住まいながら広間組というものになった。で、父は当主の無禄移住で、家族を引き連れて彼の地へ行く。私はその組の同僚どもと、そのころ天野加賀守と加藤平内との率いていた草風隊(脱兵)の帰降して駿州田中へ送られるその護衛を彼地までして、そのまま田中城の勤番をしろと言うので、10月の中旬(日は忘れた)築地の本願寺に出かけた。すると那の広い本堂の中央に、脱兵も何十人と居る。私の仲間も二百人からいた。
 これより先、藩庁では、この移住者を輸送(私らはことさらにこれを輸送という)するために、米国の飛脚船を借入れたが、(移住者にして有福の者、また到底海路を行けぬという人達は、陸路を辿るも多かった)この時の船は『ゴールデン、エーヂ』、後に確か東京丸となった船だった。長さ七、八十間*(けん)に幅の十二、三間も有ったかと思う大船。それでもその会社の好意で、江戸の品川沖から駿州清水港まで三千両で貸切にしてくれたとかいう話。で、その船は台場の先に碇泊(かかっ)ている。これに乗る移住連…の人数は二千五、六百もあったろう。それも当主は男子だが、あとの家族は老人に子供、婦女に病人などという多くは足弱で、とても一人で身の始末もならぬという者だから、これを艀船(はしけ)で本船まで送るというのが、そもそもの大ごとだ(手荷物は極めて少数に限られていたが、それでも皆一品も多くと持って行く。その扱い方にも手数がかかった。)で朝から数十艘の小舟で幾百回というものを往返して、漸くその移住連の運搬を了って、さて最後に、私どもが本船に移った。時は今の夕6時過ぎ、その部屋は甲板の上に天幕(テント)を張って、船の中での露営というけしき、布団もなければ、湯茶一つない。
 それでも我々の方は只幾許かの身の余裕も取れる。ところがその下方の、かの下等室なる移住者の方と来たら、実に大変だ

 私も父や母や祖母や妹両人、それに老僕の仁平という者…これらのこの船に乗っていることは知っている。どんな様子だか是非見たいと、梯子の口まで行って見ると、驚いた!船中の混雑を防ぐためでもあろう、梯子はとってある。傍(わき)の手すりに捉まって、下を見ると、臥棚(ねだな)もなければ何もないがらんどうの板敷?の上に、実に驚く!鮨を詰めたと言おうか、目刺鰯(めざし)を並べたと言おうか、数かぎりも知れぬ人間の頭がずらりと並んで、誰もこれももう寝ているのであるが。その枕としているのは、何かと言うと、他人の足。―――自分の足もまた他の枕にされている。
 ところがご承知の、江戸の女―――むしろ我が日本の女?―――というものはみな船に弱い。隅田川の渡船でもちと風が強いと眩暈(めまい)がするという。しかるに生憎(あいにく)やこの日はやや暴風(しけ)模様で、波が高かった。
 既に築地から御台場向うの、二里近くもあろうという海上を艀船(はしけ)で揺られて、もう大概いきついているうえに。またこの、例の石炭臭い、ゴミ臭い、いやな臭いと、大勢の人いきれの腐った空気を吸わされるというのだから堪らない。あちでもこちでもゲーゲーと吐(や)る者がある。苦しんで呻(うな)る者がある。子供は泣く、病人はうめく。その中で、彼の黒ん坊の水夫はがなる。それに―――甚だきたないお話で恐れ入るが、便所―――もとよりこの大勢に、五ヶ所や十ヶ所の在来の便所で間に合う理由(わけ)のものではないから仕方もないのだが、かの梯子の掛るべき下方のところに、四斗樽を十四、五も並べて、それに人々が用を足すのだ。それでも男子はまだどうにかなろう。たださへもものつましい婦人方が、この大勢の見ている面前で、そんなことのなろうわけだか。…多くは皆然るべき御旗本御家人の奥様、御新造様、御嬢様、御隠居様とも言われた人達で。中には自家の勝手元にも出た事のない、かのやんごとなき側の人もいる。…」
*間(けん):尺貫法による長さの単位。1間=1.818m
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/28

こんな四斗樽も各々使わざるを得ないのでいずれは満タンとなるのだが、それが時々溢れ出し、その近くの人の寝ているところを流れていくのでたまらない。
樽が満タンになると、水夫が樽を甲板に引き上げて海に中身を投げ捨てて空にするのだそうだが、ある時釣り縄が切れて、その中身を頭上から浴びた者がいたということも書かれている。

こんな奴隷船のようなひどい扱いで二昼夜半も乗せられて、船は漸く清水港に着いたのだが、この船中で死人が四、五人、出産が五、六人出たのだそうだ。

この船を借入れたのは静岡藩だから明治政府には責任はないのだが、藩庁も安いから契約したものの、米国の船が、まるで奴隷を運搬するようなやり方で旧幕臣家族を運ぶとは考えてもいなかったのだろう。

奴隷船
以前このブログで、明治5年(1872)に大量の中国人苦力(クーリー)を載せアメリカに向かっていたペルー船籍のマリア・ルーズ号が途中で暴風雨に会い、横浜港口に横付けとなったが、この船から逃亡した中国人に虐待の痕があったことから英国軍艦がこの船を「奴隷運搬船」と判断し、わが国政府に対し「適切な処置をとることを切望」した事件について書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

わが国の特設裁判所は、人道に反する奴隷契約は無効だとして中国人苦力全員を解放し、清国政府からはわが国に感謝の意を込めて頌徳の大旆(たいはい)が送られたのだが、このような西洋諸国にとって都合の悪い史実は、戦後の歴史記述からはすっかり封印されてしまっているようだ。

大江卓宛大旆

当時のアメリカは南北戦争の後に奴隷が解放されて極度の労力不足を生じ、その穴埋めとして大量の中国人が買われていた時期であり、幕末から明治にかけて、多くの中国人を乗せた奴隷船が太平洋を航行していたことを知るべきである。
徳川家臣団を乗せたゴールデンエーヂ号の米国人船長からすれば、求めに応じて2500人の日本人を、中国人苦力と同じ運び方をしただけのことだったのだろう。

かくして、徳川家臣団は静岡に定住した。
無禄移住」とは言いながら、塚原渋柿園は静岡藩士としての収入はゼロではなかったのだが、僅かの収入を親に仕送りして、かなり惨めな生活が続いたようだ。
次回に、その生活ぶりについて書くことにしたい。
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【ご参考】
この出来事から4年後に、ペルー船籍のマリア・ルーズ号が修理の為に横浜港に横付けし、中国人の逃亡者が出たためにこの船が奴隷運搬船である事が判明。わが国がその船の中国人苦力たちを解放した出来事をこのブログに書いています。実はペリー来航の前年にも、中国人苦力を乗せた米船が石垣島に座礁し、石垣島の人々が中国人苦力を助けた歴史があります。是非覗いて見てください。

中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.html

戦国時代には多くの日本人が奴隷として売られた記録がありますが、奴隷の運搬方法は戦国時代からあまり変わっていないようです。
戦後のわが国の歴史記述には、日本人が奴隷に売られた史実やその記録が意図的に削られているようです。興味のある方はこんな記事も書いていますので、覗いて見てください。

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし

前回は、徳川家が駿府(静岡)に移封されることになり、徳川家とともに駿府に移住することを希望した誇り高き旧幕臣とその家族を乗せた米船は、奴隷を運搬するのと同様の方法で彼らを運んだことを書いた。劣悪な環境で二昼夜半帆船に揺られて清水港に着いたあとの彼等の生活はどんな具合であったのか興味を覚えて、引き続き塚原渋柿園の『五十年前』を読み進む。

たとえ無禄であっても徳川家をお供して駿府に移住(無禄移住)するという旧幕臣がかなりいたのだが、武士とはいえ収入がなくては生活が成り立たないことは言うまでもない。
塚原も無禄移住者の一人であったが、藩としても何も与えないわけにはいかなかったようで、わずかながら給料を支給していたようだ。塚原はこう記している。

清水湊

「私の給料というものは、1ヶ月に1人半扶持に1両2分という取前だ。(部屋住だから当主の半減)かねての約束だから、私はその金1両で自分を賄って、残余の1人半扶持と金2分をば親父に送った。その住む長屋のあばら素胴も、自炊も、酒が飲めぬのも仕方がないが、いかな駿州の田舎でも一両は実に食いかねた。據(よんどこ)ろなく、非番の折には、城内から一里半程の城の腰の海辺(今鉄道の通っている焼津の近傍)へ行って、青海苔を採って来て干して食う。あるいは藤枝の山手の太閤平、盃松などの谷に行っては蕨やぜんまいなどを摘んでは食う。…」とかなり苦労したようだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/32

「扶持(ふち)」というのは、主として下級武士に蔵米や現金のほかにあたえられた米で、「1人扶持」とは、武士1人1日の標準的生計費用を米5合と算定し、年にして1石8斗(5合×360日=1800合=1.8石)、俵に換算すると、1石=2.5俵なので、「1人扶持」は4.5俵(1.8石×2.5倍)、「一人半扶持」なら6.75俵(4.5俵×1.5倍)という計算になる。
現在価値にすると、1俵は約60kgで、米1kgを400円で計算すると「1人半扶持」は162千円程度(6.75俵×60倍×400円)、1ヶ月にすると13500円となる。
さらに塚原は1両2分の給金があったが、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によると、「慶応3年(1867)頃で1両で米が15~30kg買えた」とある。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/1ryou.pdf
従って1両の現在価値は、米1kgを400円で計算すると6千円~12千円となり、2分というのは1両の半分(3千円~6千円)を意味する。

まとめると、塚原が藩から受け取っていたのは、現在価値に直して月あたり22千円~31千円程度で、本人は6千円~12千円程度で1ヶ月を生活し、残りを両親に与えたということになる。
当然この程度の収入では、二十歳の塚原がまともな食事をすることは難しく、非番の時には海や山で食べるものを探すという生活であったことを記している。

では、塚原の両親はどんな生活であったのか。

六十余州名所図会 駿河 三保の松原

「…ある日父の許から手紙が来た。その手紙によると、右の禅叢寺から岡清水という所に引っ越した。その家は右に三保の松原を見て、左に富士、頗(すこぶ)る好い景色であるから、家は汚く狭いが是非一日来て見てくれろ、とのことである。私も久しく逢わぬから是非行きたい。そこで田中から宇津谷(うつのや)を超え、安部川を渉って、日の薄暮に漸く父の家へ尋ね当てた。
 まず一同に挨拶して、其の好景色という景色を見ると。成るほど好景色!…絵も及ぶまじき眺望(ながめ)ではあるが。また其の家の汚穢(むさく)るしさといったら、筆にもは及ばぬほどの汚さだ
 私の江戸の市ヶ谷の住居も、決して美麗の、立派のというではないが。とにかく400坪程の地面があって、座敷から隠居所まで大小の間数が十一間、小禄ながら幕府の下士の家として相当なものであったのが。どうだろう。今見るその家と言ったら、6畳に2畳、三尺の台所に1つ竈。四谷の鮫が橋か芝の新網あたりにある田楽長屋という気色(けしき)の、しかも古い古いぶち毀れかかった建地の、天井もなくて、その板葺(こけら)の屋根も半分腐朽(くさ)っている。…実際これが自分の住居かと思ってみると、はなはだ面白くも思われないので『お母さま、実にひどい家ですなあ!』と私が言うと、『いえお前、そんな事言っておくれで無いよ。これでもお前、お泊りさん(移住者の異名)にしちゃ好い分のだよ。あの禅叢寺にいっしょに居た○○さんの家は、町ではあるが裏屋でね、△△さんの引っ越した先は村松の百姓いえの破壊(ぼろ)けた馬屋を直したのさ。これでもここは一軒だてさ。物置の差掛けでもこしらえりゃ当分の凌ぎにはなりますよ。ナニお前、どうせ凌ぎさ。』―――得意ではもとよりあるまいけれども、むしろこの家に、自ら慰めて、住むという心になられた母人の心がいじらしい、と私は思って、黙っていた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/35

塚原が東京にいた時には、敷地が400坪程度で、部屋の数が11間もあったのだが、静岡に移って住むことになった家は、天井もなく屋根も半分朽ちたような6畳に2畳と台所があるだけの小さな古家だった。しかし、こんなボロ家に住んだ塚原家は、徳川家家臣の移住者の中では良い方だったという。

「…母の口状ではないが、実際、乞食小屋でも一軒の家を我がものにして、親子夫婦、とやらかくやら凍餒(とうたい:凍えることと飢えること)の厄(やく)を免れていったのは、当時の移住者として上等の口だった。現にある人の如きは、真にその三餐(そん)の資(し)につきて、家内七人枕を並べて飢えて死に。死後その近隣に見出されて一村の大騒ぎとなったということも、そののちに聞いた。今日の人の目から見たならば、死ぬまでジッとして一家7人、頭を揃えて往生するなどは、人間として余りに意気地(いくじ)がなさ過ぎる。そこらににある芋大根を掘ってきてなり、命一つはどうにか?というでもあろうが。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/37

塚原渋柿園

塚原は、仲間の餓死事件に強いショックを受けたようである。

「とにかく旗本八万旗という、多数の、しかも世渡りにごく不慣れの人間が、一事に無禄の乞食となって他国にさまようというのだから、修羅や餓鬼の悪道に堕ちるのは当然の成り行きで(ある)。…私はこの餓死なる件について非常な教訓を受けている。何かと言えば、『不屈の精神も、食を得る手の働きが伴わねば、即ち経済的生活を得ねば、終にその貫徹を見ることができぬ』という、それである。想うにこれら凍餒の惨話を残した人々も、江戸を出る時、目的の半途で、こんな浅ましい最後の屍(しかばね)を人に見せようとは決して決して思わなんだに違いない。…惜しむべしその無能の手は、この目的や精神を貫き得るまでの年月を支うべく、生命保続の物質をその肉体に与えぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/38

苦しい生活を覚悟して家族とともに静岡に移住して来たからには、新しい時代をどう生きるかについての夢や希望があったはずなのだが、食べるものもまともに得られない状態ならば、生きるということすら難しい。
塚原は「無能の手」という言葉を用いているが、いくら生活が苦しくても、せめて海や山に行って少しでも栄養価のある食材を探すなり、工夫すればもう少し何とかなったはずだと、餓死した仲間のことを惜しんでいるのだと思う。

斗南藩

このようなひどい生活を強いられたのは旧幕臣ばかりではなかったようだ。
戊辰戦争で官軍に降伏した会津藩は23万石であったが、3万石に減封された上に、下北半島の斗南(となみ)に移封となり、2800戸、17300人余りが極寒の地に移住することとなった

海路で移住したメンバーは大きな問題はなかったようだが、陸路で移住を決意したメンバーは、宿泊に難色を示す旅籠が多い上に、駕籠の使用も認められず、移動中に飢えや寒さで絶命した人が少なくなかったそうだ。
その上、入植先での生活もかなり厳しいものであったという。Wikipediaによると3万石とはいっても、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9#.E6.96.97.E5.8D.97.E8.97.A9

『ぐるりんしもきた』には、「一人一日三合の扶持米は保証されていましたが、国産米に南京米を混ぜた粗悪なものでした。でんぷんを作ったり、海草の根を加工したり、松の木の白皮を食べたり農家の残飯を漁ったりしたと言いますから飢餓地獄そのものだったようです。冬に入ると餓死や凍死、栄養失調などで死者が続出しました。」と記されている。
http://www.shimokita-kanko.com/?p=2415

この様な史実を教科書に載せろとまでは言わないが、明治政府がこれら多くの人々の犠牲の上に成り立っていたことを知らなければ、明治という時代を公平な観点から評価できないと思うのだ。

いつの時代もどこの国でも、「勝者にとって都合の良い歴史」が編集されて公教育で広められ、「勝者にとって都合の悪い真実」が伏せられて、人々の記憶から消えていく。

よくよく考えると当然のことなのだが、勝者は「歴史」の叙述の中で、自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものなのだ。
だから勝者は、彼等にとって都合の良い「キレイごとの歴史」を拡散して国民を洗脳し、「勝者にとって都合の良い国民」を作ろうとする傾向にある。
そのために、幕末から明治にかけての歴史は、薩摩藩・長州藩を主役とし、その指導者は偉人として描かれて、それに抗した側は敵として描かれるか無視されることとなる。

歴史叙述においては、往々にして、道理に合わなくても勝てば正義になり、道理に合っていても負ければ正義でなくなってしまうものなのだが、明治維新からすでに147年が経ち、もう薩長両藩の影響を考えなくても良い時代であるにもかかわらず、未だに薩長中心史観で描かれた歴史が、公教育やマスコミで広められていることに疑問を感じざるを得ない。

このことは江戸幕末から明治時代の歴史記述に限ったことではなく、いつの時代においても同様のことが言えるのだが、どの時代を学ぶにせよ、勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、もっとさまざまな視点から、それぞれの時代を考察する必要があるのだと思う。

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【ご参考】
1月の話題で、このブログでこんな記事を書いています。
良かったら、覗いてみてください。

1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-139.htm
神峰山寺は毎年1月9日の「初寅会」には修験者によって「大護摩供」と「火渡りの神事」などが行われています。
本山寺の毘沙門天立像は日本三大毘沙門天(鞍馬寺、朝護孫子寺、本山寺)のうちの一つで、国の重要文化財に指定されており、毎年1月3日、5月第2日曜日、11月第2日曜日の午後1時から3時に御開帳となります。

出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-360.html
太山寺本堂を舞台に、1月7日に走り鬼と3匹の太郎鬼・次郎鬼・婆々鬼が松明(たいまつ)を持ち、太鼓の音に合わせて踊り悪霊を退治する行事(鬼追儺)が行われます。

若草山の山焼き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-140.html
今年は1月24日(土)に行われます

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼失し、焼死者が十万人余も出ました。

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」

前回まで、幕臣の家に生まれた塚原渋柿園が記した『歴史の教訓』という書物の中から、徳川家と共に静岡に無禄移住した士族たちが悲惨な生活をした体験談を記した部分を紹介してきた。

塚原が記している通り、徳川の旧幕臣には明治政府に帰順して「朝臣」として働くか、士族の身分を捨てて農業や商業に従事するか、徳川家と共に静岡に移住するかの3つの選択肢が呈示されていたのだが、大多数が「無禄移住」という一番厳しい選択をしてしまったのである。

明治新政府の官吏の道を選んだ場合は収入などの条件は良く、食べることに窮するようなことにはならなかっただろうが、やはり仲間を裏切るようなことはしたくないという思いの方が強かったのだろう。「朝臣」になった旧幕臣の割合は全体の「千分の1位(くらい)」だったそうで、千石以上の旗本に何人かいたレベルだったという。
帰農した者もいたが、千石以上の知行取りが旧采地に引っ込むというケースに限られていたらしく、この選択をしたメンバーも少なかったという。ただし、塚原の文章では、静岡に渡った士族たちの一部が生活に困ってお茶の生産を始めたことについては触れていない。
一方、商売人になった者は、中・下級の武士、すなわち家禄が30~40俵から200~300俵の士族の中に、かなり存在したことが記されている。

今回は、前回に引き続き塚原の文章を紹介しながら、主に江戸に残って商売をはじめた旧幕臣たちのことを書くことにしたい。

士族の商法

「さあその…連中は、これからめいめい商売というのを始めた。あるいは酒屋、あるいは米屋、小間物屋、そのほか種々雑多な新店というができたが、その内いちばん多かったのは汁粉(しるこ)屋、団子屋、炭薪屋に古道具屋というのであった。この道具屋の店(我が居屋敷の長屋などを店にしたもの)にある貨物(しろもの)は、多くはその家重代(じゅうだい)の器物で、膳椀から木具、箪笥長持、槍薙刀(やりなぎなた)の類、それらに一様の紋が揃って、金の高蒔絵の薩摩蝋燭に閃々(ぴかぴか)と輝くなどは、すさまじく、浅ましという形容詞は、こんな気色にでも使われる語(ことば)であろうと、覚えず涙も出た。が又その価(あたい)の廉(やす)いというのは肝も潰れる。惣桐の重箪笥の手摺れ一つつかぬのが金一分(今の25銭)。金蒔絵の紋散らしの夜具長持が同じく二朱(12銭5厘)などという相場だったが、これはその理由(わけ)で、当時いずれも品物は売るばかりで買う者はない。即ち供給余りがあって、需要がない。虚偽の文明が破れて、的実の実世界に入ったという現象を事実に見せたとでもいうのだろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/25

商売を始めたといっても、武士が不要な世の中に変わってしまっては、武家の先祖が代々大切にしてきた家具や武具が簡単に売れるはずがない。そこで仕方がないから売値がどんどん低くなる。
ちなみに「金1分」というのは、1両の4分の1で、1朱というのは1分の4分の1になる。前回記事で当時の貨幣価値に触れたが、「金1分」は現在の1,500~3,000円程度、2朱というのは750~1,500円程度だと思われる。
桐の箪笥はピンからキリまであり、その大きさによっても価格は異なるのだが、いくら中古でもこんな安い価格ではほとんど商売にならなかっただろう。もし「金1分」で桐箪笥が売れたとしても、せいぜい米が4~7kg買える程度のお金にすぎないのだ。

商いをして生計を成り立たせるためには、売れないものを並べるのではなく、売れるものを並べる必要がある。そこで誰でも考えるのは、人通りの多いところで食べるものを売ることだ。塚原の文章を続けよう。

溜池

「それから夜になる。この新米商人衆が大道(だいどう)へ露店(みせ)を出す。その場所は、山の手では四谷の大横町辺、赤坂の溜池最寄、市ヶ谷の堀端通り、神楽坂下などが一番多かった。気の利いたのは桟留(さんどめ)の袷に小倉の帯、新しい目倉縞の前垂(まえだれ)で、昨日までの大髷(おおたぶさ)を急に剃(すっ)っこかした月代(さかやき)*の広い天窓(あたま)を、白地の手ぬぐいで眉深(まぶか)に吉原冠り**というものにした、体裁だけは頗(すこぶ)る巧いが、その客応対の調子というものは実におかしい。やはり殿様檀那様の頭横柄でなければ、堅苦しい馬鹿丁寧で、いや聞くも気の毒のもの、哀れなものだった。また中には焼摺木(やけすこ)に、黒木綿の紋付などで、カンテラの油烟(ゆえん)に燻(くす)べられているのもあった。それで重い荷物を大風呂敷に引背負って、据わらない腰つきでひょろひょろと出掛けるなど、之を要するに目も当てられない為体(てい)。…しかし、それらは細々でも、利潤(もうけ)が皆無でも、手に豆をこしらえ損でも、資本をかけぬ労働組の方だったから、後々までも格別損耗をしなかったが、酒屋、米屋、汁粉屋、蕎麦屋、炭薪屋、もしくは小金貸などと来た者は、十中の九分九厘まで苛酷(えら)い目に出遭って、めいめいが所持金、即ち資本(この時帰農商の人々には、班長から高割で、幾許(いくら)かの涙金が出たか?とも記憶している)を瞬く間にすって、多くは見る影もなくなった。」
*月代(さかやき):成人男性の髪型の一つで、頭髪を前額側から頭頂部にかけて半月形に、抜き、または剃り落としたもの。
**吉原かぶり:手ぬぐいのかぶり方で、二つ折りにした手ぬぐいを頭にのせ、その両端を髷(まげ)の後ろで結んだもの。遊里の芸人や物売りなどが多く用いた。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/25

吉原かぶり

資本をかけないで客の応対するような仕事を選んだ者は失敗しても傷が浅かったようなのだが、商品を販売した連中は随分酷い目に遭ったという。
では、どんな失敗をしたのだろうか。その点について、塚原はかなり具体的に書いている。

「私の知っている市ヶ谷の本村、蓮池の先手与力の某(なにがし)は、この金貸(かねかし)を始めた。私、ある時行って見ると、大勢の借人(かりて)が入替り立替り来る。それらがまたみな砂糖だ酒だ菓子だ反物だというを持ってくる。その家の細君が意気揚々と『塚原さん、商売はお金を貸すのに限りますよ。お金貸はいいものですよ。割の良い利を取って、手堅い証文を入れさした上に、こういう様に毎日いろいろな品物を貰います。これを始めてから菓子に酒に鶏卵に鰹節に魚というを買ったことはございませんよ。真正(ほんとう)に好い商法!』と説き誇る。その買わぬは良かったが、肝腎の貸した金はみな倒されて、この年の内に五、六百両をカラにして、後には夫婦乞食になったとか噂をされた
また牛込神楽坂辺で汁粉屋を始めた人は、日々勘定を〆上げてみると、儲かる儲かる!儲かって仕方がないほどにただ儲かる。どうしてこう商売というものは儲かるものかと主人も怪しんで、さらに家内の会議を開いて、その理由を探求してみると、儲かるわけかな。団子でも汁粉でも雑煮でも、その肝腎の餅なり米粉なりの代が入っていない。それはみな知行所から無銭(ただ)で来ている物だからみな無代(ただ)にして、薪炭も同じく無代(ただ)にして、新たに買い入れた小豆と砂糖の代だけで算盤を執ったのだから、それで儲かったとはじめて知れて、さすがに主人公(あるじ)。これではならぬ、それにしても米の値段は幾らだろう。と皆に聞いたが、その席にいた者は誰一人、それを知っていた者は無かったという笑話(しょうわ)がある。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933646/26

いくらしっかりした証文を交わしたとしても、商売の基本がわからずに赤字を垂れ流している連中に金を貸してしまっては、その金が回収できないのは当然だ。
現金商売の場合は、ある程度売上げが続くのであれば、余程価格設定を誤って人件費も払えないような大赤字にならない限りは、途中で価格調整をして事業を継続させるぐらいのことはできたはずなのだが、士族たちは商売で利得を得る方法がわからないまま、短期間で事業を破綻させてしまったようである。塚原は続けて、この様な事例を挙げている。

「またある人は、錢勘定をするに、五十(四十八文)と百(九十六文)だけはようやく分かったが、その間の二十四文、三十二文、六十四文の七十二文のというのになるとさぁ滅茶苦茶で、釣り銭となると良いように錢を掴(つか)んで、お客に勘定をしてもらったという奇談もある。
そのほか酒屋は主人から先に飲みつぶれ、古着屋は奥様からべんべら*を引っ張りたがるという。とにかくこんな光景(ありさま)だから到底永続のしようがなくて、早いのは三月か四月、よくもったのでも一年と辛抱したのは稀で、皆潰れてここに「士族の商法」という套語(とうご)**の濫觴 (らんしょう) ***を開いたのであった。」
*べんべら:薄っぺらな絹の衣服  **套語:決まり文句  ***濫觴:物事の始まり

このように釣り銭の計算ができなかったり、ついつい店の商品に手を出してしまうようでは、いつの時代においても、事業を成り立たせることは出来ない相談だ。

山路愛山

塚原渋柿園と同様に、幕末に幕臣の家に生まれて静岡に移住した評論家の山路愛山は、明治41年に上梓した著書『現代金権史』において、多くの士族が商売に失敗した理由について興味深い指摘をしている。

「元来武士と町人はその素養全く反対也。第一武士の生活は社会的にして個人的にあらず。町人の生活は個人的にして社会的にあらず。これそもそも根本的の相違なり。…武士は金はどうして儲かるものか知らぬが本色なり。左様のことに頓着しては武士の本懐を遂ぐべき邪魔になるなり。…しかるに町人はどこまでも個人的也。自分一人富みさえすればそれにて済むことなり。…武士と町人は生れ落ちてよりすぐに心の行方が違うなり。この相違より次に来たるものは金銭に対する心掛けなり。石田三成は奉公人(武士をいう)は主人より与えられるものを遣(つか)いて残すべからず。遣い残すは盗人なり。遣過ごして借銭するは愚人なりと言えり。これは武士道の極意なり。…武士も禄を遣い残し金持ちになりては浮世に執着多く、潔く戦死もなるまじきなり。されば武士は小判を這い虫同様に心得、つとめて利得に遠ざかるをもってその理想とし、貧は士の常なりといいて貧に甘んずるは武士の本色なりとしたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800504/12

現代金権史

山路愛山が指摘しているとおり、武士たる者は利得に遠ざかることを理想とし、蓄財することは「盗人」であるとの考え方に染まっていた士族たちが大半であったのなら、そのような連中がいきなり商売を始めても、手許に資金が残ったらそれを単純に「儲けだ」と考えて、蓄財して「盗人」扱いされないように使ってしまう習性をすぐに矯正できなかったのは仕方のないことであったろう。
明治政府は、士族たちには素養のない商売の道に飛び込ませるのではなく、田畑を与えて農業でもさせていたほうが、はるかに脱落者が少なくてすんだのではなかったか。
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【ご参考】

このブログでこんな記事を書いています。よかったら覗いてみて下さい。

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼失し、焼死者が十万人余も出ました。この大火の原因は江戸幕府にあるという説があるのだが、これは結構説得力がある。

全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-36.html
慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に坂本龍馬を伏見奉行が捕縛ないしは暗殺しようとした事件がありました。この寺田屋は全焼したことが確認されていますが、今も「寺田屋」が営業していることが問題です。

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html
坂本龍馬は「寺田屋事件」で、お龍に助けられたとされています。そのお龍は後に龍馬の妻となりましたが、すぐに龍馬は暗殺されてしまいます。お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなりましたが、晩年は淋しい人生でした。

若草山の山焼き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-140.html
今年は1月24日(土)に行われます

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地

前回まで、徳川の旧幕臣達が明治維新によって悲惨な生活を強いられていたことを書いてきた。確かに転業に失敗し没落した者が多かったのだが、彼らを救うには彼らが生活できる程度の収入の得られる仕事がなければならなかった。そこで、手付かずの原野の開拓に第二の人生を賭けようとした人物が士族の中から現われた。

海舟座談

岩波文庫の『海舟座談』に、旧幕臣達が士族の身分を捨てて茶畑の開墾を始めた経緯について述べているところがある。

明治2年(1869)、戊辰戦争が終結した頃に勝海舟は二人の旧幕臣の訪問を受けている。
この2人の人物は中條(ちゅうじょう)金之助(景昭)と大草多起次郎(高重)といい、大政奉還後は徳川慶喜を警護する精鋭隊の中心メンバーであり、江戸開城の際には仲間と共に江戸城内で自決するつもりであったが勝海舟の説得で思いとどまり、駿府(静岡)に移住して徳川家康を祀る久能山八幡宮を守護する任務(新番組:精鋭隊を改称)に就いていた経緯にある。
しかし、明治新政府軍が駿府を攻めに来るわけでもなく、暇で仕方がないので、今後の身の振り方を勝に相談しに来た場面である。

牧の原地図

「…また二人(中條・大草)がやってきて言うには、こう二年も待って居ましても、何事もありませず、その上ただ座食していては、恐れ入りますし、皆ナが無事で、ケンカばかりして困りますが、金谷*という所は、まるで放ってありますから、あれを開墾したいと申しますが、どうでしょうかと言うから、それは感心な事だッテ、たいそう賞めてやってネ、その代り食い扶持はやはり送りますと言って、それから仕送りを続けた。」(岩波文庫『海舟座談』p.127-128)
金谷:静岡県島田市金谷。牧之原公園やお茶の郷博物館がある

Iesato_Tokugawa.jpg

明治2年7月に静岡藩知事徳川家達の命が出て、牧之原台地の開墾のために中條・大草らが転住したそうだが、当時徳川家16代の徳川家達はわずか6歳であり、そのような判断が下せる年齢ではなかった。命を下したのは藩の幹事役であった勝海舟や山岡鐡舟あたりが絡んでいたと思われるが、彼らに食い扶持を送り続けるためには、藩が新番組のメンバーに命令を出す必要があったのだろう。
かくして旧幕臣の200余名が士族という身分を捨てて、牧之原台地の開墾のために動きだしたのである。

昭和二年に静岡市市史編纂課が著した『静岡市史編纂資料. 第6卷』にはこう記されている。

「…当時牧の原は耕種する者なく、茫漠たる棄地であったから、今この地を開拓せんとするは、上は富国の義を賛し、下は力食の実を挙げんとするのにあったのだ。ここにおいて新番組二百有余名は、中條景昭、大草高重、其の他18名を幹事として、金谷以南の原野を受け、二百二十五戸の同志ここに移住して、賜地大縄反別一千四百二十五町歩の開墾を初め、茶種を撒き付けた。…翌(明治)三年沼津に移住せし士族(元彰義隊大谷龍五郎外80匹戸)がこれに加わって移住し、合計三百余戸となり、爾来専ら開墾に従事して、同二年より四年に至るまで、徳川家より年々金1万七百円を下付されたという。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/162

しかしながら、明治4年(1871)の廃藩置県の結果、家禄奉還につき8万円が明治政府から下付されると同時に牧之原は浜松県の管轄となってしまった。徳川家や静岡藩との関係が断たれてしまって、以降の開墾費は下付されなくなってしまうのだが、各自応分の資力を出し合って開墾を進めていくことにより、明治4年(1871)頃の開墾地は200町歩であったのが、明治10年(1877)には500町歩に増加したという。
ちなみに「町歩」というのは1辺の長さが1町(60歩)の正方形の面積を指したが、1891年の度量衡法により300,000アールが3,025町歩と定められ、逆残すると1町歩は9,917㎡となり、1ha(10,000㎡)にかなり近い数字である。同様に100町歩はほぼ1㎢と考えて良い。

明治天皇

明治11年(1878)に明治天皇が、北陸・東海地方御巡幸のあと11月4日に静岡に立ち寄られ、中條と・大草両名を行在所にお召しになり、二人がリーダーとなって牧之原台地を開墾してきた労をねぎらっておられる。(原文は旧字旧かな)
「其の方ども、己巳(明治二年)以来拓地のことに尽力し、同志協力勉励。牧ノ原開墾の儀は、全く其の方ども率先の功少なからず奇特に思召され候。同志中へ金一千円下賜候事。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/163

『静岡市史編纂資料. 第6卷』の本文には、彼らがいかに苦労したかについて余り記していないのだが、文中に大草多起次郎が残した記録の原文が掲載されていて、これを読むと彼らの苦労を垣間見ることができる。
もともと何もない場所であったから、道路を作り水路も作り家も建てた。江戸幕府の直轄領の中でも開墾しにくい場所だからこそ長年放置されてきた場所を、建築や土木工事の経験のない旧幕臣達が、刀を鍬に持ち替えて開拓していったことはすごいことだと思う。

大草高重はこう記している。
「明治2年7月中、旧藩知事の命により、開墾方と称し、不肖高重も中條景昭とともに率先し、二百余名を遠州榛原郡牧ノ原へ転住するに際し、水利の便否をはかり、居宅の地を占め、自らこの家屋を造営し拓地に従事し、右開墾費用として藩庁より年金1万2千5百円を給与あり。同4年、廃藩浜松置県の際、右開墾方の称を廃し、該費用金等今後下付あい成らざる旨、同県庁より申し渡されたり。然りと雖も、将来の活治を企画するにより、各自応分の資力を尽くし…専ら茶樹を播布するも、その事業に疎く、加うるに該地は数百年不毛の原野にして、極めて瘠せ地なれば成木もまた晩し。漸く同6年に至り、尠(すこ)しく茶葉を摘採するを得る。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/165

私財まで投じて苦労して開拓してきたが4年たって、ようやく僅かの茶葉を摘み取ることができたとある。
しかしその頃には、それまで官有地であった土地が浜松県から各人に下付され彼等の私有地となっていて、そのためにメンバーの中には土地を売ったり、質に入れたりするものが出てきてメンバーの人数も大幅に減っていたようだ。そこで、中條らは再び勝海舟を訪ねている。『海舟座談』にはこう記されている。

「アチラ(中條ら)からまたそう言うてきた。こう御厄介になって開墾が出来ましたが、どう致しましたら宜しかろう、と言うから、それならば言うが、皆ンな三位さま[家達公]の御恩だから、地面は三位さまのもので、お前方はそれを作っているのだと、そう思いなさいと言うた。ダガ、その地面を売るものもあるしネ、質に置くものもあるしネ、今では百人位しか残っていないよ。それでは売ってはすまんと言うから、何に構わない、お前方が勉強したから出来たのだし、アンナ荒地がそれでも売れる程になったのは、お前方の尽力だからだと、そう言って遣ったのサ。ダガ、実に、済まないのサ。二重質に置くものもあるしネ。それはチャンと知っているが、黙っているのサ。何かの時に抑えるつもりだ。大隈(重信)なども、行って見て、感心して、よくあんなに開けたと言ったよ。それで陛下がお召しになって、御賞美になった。それで始末がつけてあるのだ。」(『海舟座談』p.128)

みんなで苦労して開拓したのに、随分多くのメンバーが土地を売るなりして牧之原を離れて行った。ようやく茶を収穫できるようになったのだが、中條らは残ったメンバーだけで収穫したものを売って収入を得ることについて、家達公や離れて行ったメンバーに対して「申し訳ない」という気持ちがあったということのようだ。
勝海舟は、お前たちの努力で開拓して土地が売れる程になったのだから、そんなことは気にしないで売ればよいとアドバイスした。明治天皇が静岡に立ち寄られたのも、おそらく勝が舞台裏で動いていたのだろう。

中條らは土地を開墾し茶葉を作る事に懸命であったが、茶葉をどこにどうやって売るかについてどこまで考えていたのかということが気になった。それまでのわが国の茶の需要は、その時点に存在していた各地の茶畑で充足していた中に新たに500haもの茶畑が出来たのだから、需給バランスが崩れて価格が暴落するリスクはなかったのかと考えたのだが、『静岡市史編纂資料. 第6卷』を読み進むと、明治3年頃は茶と絹の外国人の需要が高く、これらの生産を奨励したことが記されている。
「明治3年3月13日の『もしほ草』に『茶と絹糸を奨励せよ』と題して、
日本の茶ならびに絹糸は、外国人の好く品なれば、江戸近所の諸侯も、茶および桑を広野に植え付けて、盛んならんことを望む。しかる時は貧民もこれにつかわれて生活し国々も富栄にいたるべし。
明治4年静岡県…参事南部廣矛は藩政の後を承けて、茶園の開墾に留意し、開墾の助成をなし、あるいは茶実を下付して播種させ、また県庁に勧業係を置いて殖産興業を行なった。次いで頻年横浜の茶況好良となるにしたがって、県民はますます茶園を増殖するに至り、殊に安倍郡下いたるところに茶園を設けて、茶園に従事しない者はない位であった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176974/166

金谷 広重

実は、牧之原の茶畑は徳川の幕臣だけで開拓したものではなかった。
明治3年(1870)に大井川の渡渉制度・川越し制度が廃止され、大井川の両岸にいた約1300人の川越え人足も職を失い、その救済活動が興って、33人の川越え人足と家族が入植牧之原南部への入植が認められたとの記録もあるようだ。
その後、茶業不況などもあり、士族の一部は牧之原を去り、一方で農民たちは茶園面積を増やし経営規模を拡大していったという。
その後茶葉の品質向上が図られ「深蒸し茶」製法が考案されて、芳醇な香りをもつ「静岡牧之原茶」のブランドが発展していった。

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東洋一と呼ばれる広大な牧之原台地の大茶園は、今では5000ヘクタールにもなり、全国の生産面積の4分の1近い広さなのだという。日本のお茶の4割以上は静岡県で作られているのだそうだが、この静岡の茶業の歴史に旧幕臣達が礎を築いた史実はもっと広く知られて良いのだと思う。

今井信郎

余談だが、明治11年に中條景昭らの勧めで静岡県榛原郡初倉村坂本(島田市)に入植し、牧之原台地の開墾に参加した旧幕臣がいた。この人物は幕末には京都見廻組のメンバーで、坂本龍馬が暗殺された現場にいた今井信郎である。
今井は「龍馬を斬った男」として有名な男だが、私はこの事件が京都見廻り組の単独犯行とは考えにくく、おそらく真犯人は別にいると考えている。この点については、ブログで4回に分けて書いたので繰り返さない。

中條景昭像

大井川や島田市街を見渡す高台に、牧之原台地の茶畑を開拓した中條景昭の像が建っているようだ。丁髷(ちょんまげ)姿で帯刀しているのに驚いてしまったが、彼は生涯頭の丁髷を切らなかったのだそうだ。
明治29年1月19日に、中條は生涯を捧げた牧之原の一番屋敷にて77歳で死去し、その葬儀には勝海舟が葬儀委員長を務めたという。仲間たちは中條の死を悲しんで三七21日の間、墓参を続けたと伝えられている。
中條の墓は初倉村(現島田市初倉)種月院にあり、その墓のすぐ後方に「龍馬を斬った男」今井信郎の墓碑があるという。種月院には牧之原開墾先駆者の記念碑もあり、中條と今井の略歴が刻まれているそうだが、一度は行ってみたい場所である。

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【ご参考】
もうすぐ阪神淡路大震災から20年になります。
地震に関していろんな記事を書いてきましたが、関東大震災のあとは地震対策や津波対策がほとんどなされていないばかりか、復興を優先したために多くの事実が隠蔽されてきています。

関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

関東大震災の教訓は活かされているのか。~~その2(山崩れ・津波)
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-24.html

このブログで、龍馬の暗殺事件について4回に分けて書きました。今井信郎についても考察しました。
良かったら覗いて見てください。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html


厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。
明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ)藩」に改めている。

また明治三年の正月には戊辰戦争の処罰として命じられていた旧会津藩士の謹慎が解かれて、五月の版籍奉還で、藩主の容大は嬰児でありながら知藩事に任命されている。
当時旧会津藩士とその家族は当時約二万人いたのだが、その大半が斗南藩に移住することになったという。

柴五郎
柴五郎

会津藩士たちの移住先がこのような厳寒の地に決定した経緯について、会津人・柴五郎の遺書にはこう記されている。この人物のことは以前このブログで書いたが、明治三十三年(1900)の北清事変において公使館区域の籠城戦を指揮して世界から賞賛された軍人である。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

「(慶応四年)九月二十七日、会津藩主にたいし、祖先の祀(まつり)をなすため南部の地を割きて三万石を賜うの恩命あり。その初め猪苗代か陸奥の国かについて意向を訊ねきたれるも、猪苗代は旧領の一部にて経済的にも精神的にも受け入れること能わずとの議多く、未知の地とは申せ宏大なる陸奥に将来を託するが良からんとの議まとまりて、徳川慶喜、松平容保以下の罪を免ずとの詔勅下る。松平容保は実子慶三郎(当歳)に家名を譲り、慶三郎を改めて松平容大(かたはる)と称え、十一月四日華族に列せられる。藩士一同感泣して聖慮の変わらざることを喜べり。

会津藩は(慶応三年現在)旧領三十万石、増封五万石、第一回職封五万石、第二回職封五万五千石、これに加え二千俵、さらに月一万両を賜う。これらを石高に換算すれば、約六十七万九千石の大藩なりき。今回陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封され、わずか三万石を賜う。まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり。されど新領地は半歳雪におおわれたる痩地にて実収わずか七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、この時だれ一人知る者なし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.50~51)

会津藩士たちは斗南藩という厳寒の不毛の地に流刑されたとする解説をよく見かけるのだが、これは事実とは異なる。会津藩は旧領の猪苗代という選択肢があったのだがこれを捨て、未知の地ながら面積の広大な旧南部藩の土地に将来を託すことを選んだのである。

では、なぜ旧領地の猪苗代を捨てたのであろうか。その点について、柴五郎はこう述べている。
猪苗代は旧領地なるうえ、狭小にして藩士を養うにたらず、しかも会津落城後、経済、人心ともに荒廃して、世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり。権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし。このとき蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。」(同上書 p.88)
前回の記事でも書いたが、鶴ヶ城落城のあと農民たちが各地で蜂起しヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起き、会津武士たちは領民から支持されていなかったことは明らかで、旧領では藩を立て直すことは難しいと判断したのであろう。

しかしながら、移住先の下北半島の地は、恐山山地の噴火による酸性の火山灰土壌の不毛の地であった。誰もそのことを知らないままこのような土地に移住することを決めてしまったために、ここに移住した会津人たちは悲惨な生活を余儀なくされることになるのだ。

斗南藩領

明治三年四月十六日に正式に移住命令が下り、先発役人が下北半島の田名部(たなぶ:現在のむつ市東部)に到着したのは五月二日だったという。
国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、昭和十二年に出版された『佐井村誌』という書物に『斗南藩』のことが比較的詳しく記されている。上の画像はネットで見つけた斗南藩の地図だが、田名部と佐井の地名が出ているので参考にしてほしい。
『佐井村誌』には斗南藩へ移住した人々についてこう記されている。

『佐井村誌』

「田名部にては同夜(五月二日)戸毎に軒提灯を吊るして祝意を表した。斗南移住に際して帰農して会津に踏み止まった者、東京へ出でし者、北海道へ渡った者等、合して一千二百戸程あり、実際に斗南へ移住した者は二千八百余戸であった。この人々は五月頃より、海路または陸路を選んで新封の北地に下った。海路によった人々には新潟へ出て汽船で大湊または野辺地へ着いた者と、棚倉または仙台に出て帆船にて八戸に着いた者とがある。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/54

会津の人々は田名部の寺や町家等に分宿したのち各村々に散っていった。
彼らには一人一日三合宛の扶持米が支給されていたのだが、前年が凶作であったため内地米が払底していたので質の悪い輸入米が支給されていて、寄生虫が原因で死者が多数出たことが記されている。

彼らは開墾して農作物を生産しようとするのだが、俄百姓であるゆえ思うようにいかない。
また土地が痩せていたので、収穫は乏しかったという。

山川浩
【山川浩】

『佐井村誌』には彼らの苦労がこう記されている。
田名部、大畑移住の者は山に入って蕨や葛の根を掘り澱粉として食べ、大間、佐井移住の者は海に入って改装や貝類を拾うて食べた。昆布の根を搗き砕いて、おしめとして粥を炊いて食べた。おしめは凶年に於ける地方人の食料である。…大間、佐井移住の者にはこの困難に耐えかねて、北海道または越後方面へ脱藩するものもあった。あるいはまた、斗南移住の拙なりしを憤慨して、その責任は山川氏*にありとして、山川斬るべしとの声さえ起った。…袷綿入れを重ね着しても、なお寒さを感ずる師走月に、単衣のままの者も少なくなかったというから、衣食住ともに随分困窮したことが窺われる。」
*山川氏:会津藩家老山川重固の嫡男・山川浩のこと。明治三年に斗南藩大参事となる。廃藩置県後谷干城の推薦により陸軍に入り、西南戦争などで活躍した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/55

下北半島の冬の寒さは会津の人々にとっては想定外の厳しさであり、しかも物を買う金銭的余裕は全くなかったので、全て自分で工夫するしかなかったという。

柴五郎の遺書には、田名部に移住した頃の家族の生活についてこのように記している。

「父上は炉のかたわらにて習いおぼえたる網結その他の手細工をされ、兄嫁は毎日朝より夜にいたるまで授産所にて機織りして工銭を稼ぐ。薪は晩秋拾い集めたる枯枝を使いたるも足らず、積雪の中を探し求む。炭には焚火の消し炭を用い、行火(あんか)には炭団(たどん)を作るに苦心せり。売品を購う銭の余裕全くなし。
 用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲み上げ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中で氷となり溶かすに苦労せり。玄米を近所の家のうすにて軽く搗きたるに大豆、馬鈴薯などを加え薄き粥を作る。白き飯、白粥など思いもよらず。馬鈴薯など欠乏すれば、海岸に流れたる昆布、若布(わかめ)など集めて干し、これを棒にて叩き木屑のごとく細片となして、これを粥に炊く。方言にてオシメと称し、これにて飢餓をしのぐ由なり。色茶褐色にして臭気あり、はなはだ不味なり。…
 冬は山野の蕨の根を集めて砕き、水にさらしていくたびもすすぐうち、水の底に澱粉沈むなり。これを米糠をまぜ塩を加え団子となし、串にさし火に焙りて食う。不味なり。少しにても砂糖あらば…など語る。
 この冬、餓死、凍死を免るるが精一杯なり。栄養不足のため痩せ衰え、脚気の傾向あり。寒さひとしお骨を噛む。」(中公新書『ある明治人の記録』p.62~63)

柴五郎は誇張して書いている訳ではなく、栄養失調と寒さの為に餓死したり、病死した者が少なくなかったようだ。

ある明治人の記録

柴家は、春になって畠を作って菜類、豆類を植えるも、虫に食いつくされ、わずか二十歩の水田も失敗し、やせた大根と小さな馬鈴薯が獲れただけだった。しかし山に入れば芹、蕨、蕗、あさつきなどが豊富に獲れ、薪も充分に集まり、山桑を獲って背負えるだけ背負って売りに行けば二十四文の稼ぎになった。
しかしながら、二年目の冬も昨年同様の状態で過ごさなければならない状態だったという。

「秋も過ぎ、怖ろしき冬再び来りても、わが家は先年の冬と同じく満足なる戸障子なく、蓆さげたる乞食小屋なり。陸奥湾より吹きつくる寒風、容赦なく小屋を吹き抜け、凍れる月の光さしこみ、あるときはサラサラと音立てて霙舞い込みて、寒気肌を刺し、夜を徹して狐の遠吠えを聞く。終日いろりに火を絶やすことなきも、小屋を暖むること能わず、背を暖むれば腹冷えて痛み、腹暖むれば背凍りつくがごとし。掌こごえて感覚を失うこと常なれば、時折火にかざして摩擦す。栄養悪きうえ、終日寒風吹き抜ける小屋にて、寝具なく蓆を被りて、みの虫のごとく、いろりの周囲を囲みて寝るほかなし。」(同上書 p.71~72)

一時は学校も通わずに農作業を手伝う日々を過ごしてきたが、六月以降は兄の友人宅に寄寓して通学し、休日に配給米を持ち帰ることになった。しかし柴五郎には草履も下駄もなく、さすがに冬になって裸足で凍結した山野を馳せ帰るのは厳しかったようだ。しかし柴家には履物すら買う金銭的余裕がなかったという。

こんな厳しい生活を余儀なくされながら、柴家はなぜこの地域から離れようとしなかったのだろうか。
離れたくても家族が移住するのに必要な資金がなかったことも理由の一つだろうが、この問いのヒントになる言葉が柴五郎の遺書に残されている。柴五郎は一年目の冬に、不味い犬の肉を食べようとしなかった時に、父から次のような叱責を受けたことを書き残している。

「『やれやれ会津の乞食藩士ども、下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ。生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ。ここはまだ戦場なるぞ。』と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲み込みたること忘れず。『死ぬな、死んではならぬぞ。堪えてあれば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに一矢を報いるまでは』と自らを叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。」(同上書 p.75)
柴家に限らず、斗南藩に移住した多くの会津藩士にとっては、この厳寒の地は『戦場』であり、会津武士がこんなところで死ぬわけにはいかない。なんとかここで生き抜いて、いつか薩長の連中を見返してやるという心意気だったようだ。

しかしながら、明治四年の年の七月に廃藩置県があり、斗南藩は斗南県となったと思いきや、九月には斗南県は他の諸県とともに弘前県に合併され、さらに同月に青森県に改称されてしまった。また廃藩置県によって全国一斉に旧藩主に対し知藩事の職を免じられ、斗南藩主の松平容大は旧藩主松平容保ともども東京に去ることとなった。
藩士たちにとっては、すでに藩は消滅し、お家復興の夢もなくなり、支えるべき藩主も去ってしまい、藩役員も身分を失ってしまった。

『佐井村誌』には、廃藩置県以降の斗南藩についてこう記している。
「(廃藩置県)の時に、旧藩士に一日男一人四合、女子供一人三合の割合にて、引き続き扶持米を交付した。六年三月に至りて、扶持米を廃止することになり、特別を以て手当米並びに転業資金を給与された
一、他管下へ送籍望之者は一人につき二俵金二円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金十円宛差遣候こと。
一、管内自立望之者へは、一人につき米五俵金五円宛て差遣、さらに今般別段の評議を以て為資本一戸につき金五円宛差遣候こと。
 廃藩後、他府県へ転去る者少なからずあったが、愈々扶持米を廃されたので、右の手当金を貰って続々として他府県へ去った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1219696/56

松平容大
【陸軍大尉時代の松平容大】

『佐井村誌』を読むと、殆んどの会津人が旧斗南藩から去ったような印象を受けるのだが、現地に残ったものも少なくなかったようだ。
Wikipediaによると「明治5年(1872年)に広沢(安任)らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した」と記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E8%97%A9

柴五郎は藩政府の選抜により青森に派遣され明治六年(1873)に陸軍幼年学校に入校。明治十年(1877)には陸軍士官学校に進んでいる。そしてその年に西南戦争が起きたのだが、この内乱の勃発に会津人の血が騒いだようだ。

そもそも会津戊辰戦争が起きたのは、柴五郎が九歳の時であった。
慶応四年(1868)八月二十三日の朝に新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打され、会津藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだのだが、この時に柴五郎の母、祖母、姉妹も自決したのである。

会津藩は新政府に対して恭順の意を示していたにもかかわらず、新政府がそれを受け入れずに戦いを仕掛けてきて、そのために多くの会津人の命が失われ、その後も悲惨な境遇に追いやられた。そのため、西南戦争が起きた時は薩摩に一矢を報いるチャンスと考える会津人が少なからずいたことは間違いがない。

柴五郎は遺書にこう記している。文中の山川大蔵は、前述した斗南藩の大参事であった人物である。
はからずも兄弟四名、薩摩打ち懲らしてくれんと東京にあつまる。まことに欣快これにすぐるものなし。山川大蔵、改名して山川浩もまた陸軍中佐として熊本県八代に上陸し、薩軍の退路を断ち、敗残の薩軍を日向路に追い込めたり。かくて同郷、同藩、苦境をともにせるもの相あつまりて雪辱の戦いに赴く。まことに快挙なり。千万言を費やすとも、この喜びを語りつくすこと能わず」(同上書 p.118)

西郷隆盛

そして西南戦争で西郷がこの世を去り、さらに翌年には大久保利通が暗殺された。

この二人の死について柴五郎は遺書にこう記している。
「余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し『天下の耳目を惹(ひ)かざれば大事ならず』として会津を血祭りにあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すこと能わず。結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。」(同上書 p.120~121)

柴五郎に限らず、西郷と大久保の死に留飲を下げた者は他にも多数いたはずである。少なくとも会津の多くの人々にとっては、戊辰戦争が決着した後も、薩長との争いは、心の中で綿々と続いていたと言っても良いのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで柴五郎について、こんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-554.html

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-555.html






明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。
この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったようだ。

明治文明綺談

菊池寛の『明治文明綺談』(昭和18年刊)にはこう解説されている。

「つまり廃藩置県の結果、各藩の常備兵は自然に消滅することになる。そのため、全国一途の兵制が建てられることになり、東京、大阪、鎮西、東北の四ヶ所に鎮台が置かれ、各地に分営が置かれることになる。この鎮台弊をどこから採用するかということになると、各藩の藩兵が消滅したのであるから、広く国民一般から募集せざるを得なくなるわけだ。徴兵制によらなければ、鎮台に必要なる兵員を満たすわけにはゆかぬのである。
 しかし徴兵制は、直ちに要路者の全部の賛成を得るまでには至らなかった。
 百姓町人から徴兵せずとも、士族だけからでも必要な人数は得られるではないか、というのが薩摩出身の政治家たちの世論であった。嘗て大久保利通が、大村益次郎の所説に反対したのは、全く士族徴募論を採ったからである。西郷隆盛は公然とは反対しなかったが、徴兵に就いて不満を持っていたことは察しられよう。戦争は侍がやるものとは、彼の終生易(かわ)らぬ信念だったからである。だから、後の西南戦争でも、『百姓出身の兵隊を殺す出ないぞ。民兵が降参してきたら、許してやれ』と言って、あくまでも軍人は武士であるという信念はかえなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/103

谷干城40
【谷干城】

西洋諸国と同様に、わが国においても国民皆兵の徴兵制が必要であることを唱えたのは大村益次郎山縣有朋であったのだが、もし徴兵制が実施されると士族は本来の職能である軍役から離れて存在意義を失うことになるは言うまでもない。
この動きに最も不満を懐いたのは、薩長土三藩出身の近衛兵であったという。菊池寛の前掲書に谷干城の隈山詒謀録(わいざんいぼうろく)の次の一節が引用されている。文中の「桐野」は桐野利秋、「山縣大輔」は山縣有朋(当時兵部省の大輔)を指している。

「初め三藩の獻兵は皆、維新戦功の弊にして、此を以て朝廷の基礎を固め、廃藩を断じ、此の兵は長く徳川の旗本八萬旗の如きものとなり、頗る優待さるるものの如く考えし者多かりしが、飛鳥尽きて良弓収まるの譬えの如く、少々厄介視せらるるの姿となり、且つ近衛兵の年限も定り、一般徴兵の制に依る事に決したれば、長州の外は藩士共不快の念を抱ける如し。
 殊に桐野は徴兵主義に不満なりし。西郷は寡黙の人なり。故に明言はせざるも、矢張り壮兵主義なりしが如し。…この時、桐野が不平は殆んど絶頂に達せり。余に対し、山縣大輔を罵りて曰く、彼れ土百姓を衆めて人形を作る、果たして何の益あらんや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/104

このようにかなり険悪なムードが漂っていたようなのだが、維新の軍功があった桐野らの主張が遠ざけられるに至った理由はどのあたりにあったのだろうか。

「近衛将校である桐野利秋の家などには、兵隊たちが集って昔の同輩のつもりで酒を酌み、喧噪することは、鹿児島におけるのと変わらなかった。その気概はとにかく、これでは新時代の陸軍の軍紀は維持できない。藩の強兵も、遂には驕兵のそしりを免れなかった。
さすがの西郷も、この三藩の駕御には閉口し、『これらの兵は誠に王家の柱石』ではあるが、自分としては之を指導するのは、『破裂弾中に昼寝いたし居る』気持がすると、当時外遊中の大久保利通への手紙に書いている。
 こうした士族世襲兵の驕慢にして制馭しがたかったことは、同時に徴兵論者の主張をいよいよ有力なるものとした。また終身兵制が夥しい費用のかかることも、指揮者はみな認めていた。曾我祐準将軍が『国軍は縦に養うて横に使うようにせねば国庫は堪え能わぬ』と言ったのは、常備兵を少なくして、予備兵を多くするという意味で、その間の消息をよく物語っていると思う。
 要するに全国画一、四民平等の徴兵制度によって、国民皆兵主義を実行するにあらざれば、これからは諸外国との紛争に於て、国防を全うすることは出来ぬという確信は、軍部責任者の等しく堅持するところであった。それは明治4年12月、兵部大輔山縣有朋、兵部少輔河村純義、兵部少輔西郷従道三人連署して奉った建議の中で力説されていることであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/104

山縣有朋
山縣有朋

明治5年2月に兵部省は陸軍、海軍の二省に分かれ山縣は陸軍大輔となり、さらに熱心に徴兵制採用の急務を説いている。
そして明治5年(1872) 11月に「全国徴兵の詔(みことのり)」が発せられ、同日に太政官は「徴兵に関する告諭」を発している。

古代からわが国においては国民皆兵が行われていたのだが、兵農分離が進んだのち武士階級が生まれて実権を掌握するようになっていった。この告諭では「後世の雙刀を帯び武士と称し、抗頭坐食し、甚だしきに至ては人を殺し、官其罪を問わざる者の如きに非ず」と、武士階級に批判的に述べたあと、「世襲坐食の士は其禄を減じ、刀剣を脱するを許し、四民漸く自由の権を得しめんとす。是れ上下を平均し、人権を斎一にする道にして、則ち兵農を合一にする基なり」と四民平等の明治維新の理想を表明し、最後にこう結んでいる。

「…人々心力を尽くし、国家の災害を防ぐは、則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち人々其役に就かざるを得ず。是に由て之を観れば民兵の法たる固より天然の理にして、偶然作為の法に非ず。…西洋諸国、数百年来研究実践を以て兵制を定む。故を以て其法極めて精密なり。然れども政体地理の異なる、悉く之を用うべからず。故に今、その長ずる所を取り、古昔の軍制を補い、海陸二軍を備え、全国四民、男児二十歳に至る者は、悉く兵籍に編入し、以て緩急の用に備うべし。郷長、里正厚くこの趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保護の大本を知らしむべき也。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/105

軍人の徴募制度には、国民に軍務を服する義務を課す徴兵制と、当人の自由意思に任せる志願制度とに分かれるが、前者の場合は、肉体的にも精神的にも思想的にも、兵役に従事させることが難しい人物も国家権力によって軍隊に召集されることになり、そのようにして集められた軍隊で危険な戦場で戦えるのかという問題が残る。また後者の場合は、応募する者が固定化して昔の武士のように特権階級化し、老後の生活保障まで考えると莫大な費用が掛かるばかりか、応募が少なければ国防のために必要な人数が集まらない懸念もある。
英米など多くの国は志願制度をとっているのだが、山縣らは、兵役は全国民が一様に負担する義勇奉公の制度があるべき姿であると考えた。
先に紹介した「徴兵に関する告諭」に、徴兵制度を国民に納得させるために、次のような文章を織り込んだのだが、そのことが大問題となっている。

凡そ天地の間一事一物として税あらざるはなし。以て国用に充つ。然らば則ち人たるもの、固より心力を尽し、国に報ぜざるべからず。西人之を称して血税とす。其生血を以て国に報ずるの謂なり。且つ国家に災害あれば人々其災害の一分を受けざるを得ず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/106

「血税」という言葉は、兵役でもって国に報いるという意味で比喩的に用いていることは言うまでもないのだが、多くの日本人がこの文章を誤読してしまったという。

菊池寛
【菊池寛】

菊池寛の解説を続ける。
(その文を)「そのままに読んでしまって、血税とは、軍隊に入って生血をとられることだと誤解してしまったのである。また中には『血税とは血を搾り取ることで、東京や横浜には外国人が沢山来ていて、日本の若い者の血を絞って、葡萄酒をつくっているそうだ』などと真面目になって言いふらすものがあり、大いに一般の恐慌を引き起こしたものである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/107

この話は笑い話ではなく、各地で実際に血税騒動が起こったようだ。『日本史広辞典』によると「73年3月の三重県牟婁郡神内村一揆から74年12月の高知県幡多郡蜂起に至る19件が確認されている。73年の北条県(現、岡山県)、鳥取県会見郡、名東県(現、香川県)等の一揆は、数万人が参加する大規模なものであった。」(p.721)と解説されている。

亘理章三郎 著の『軍人勅諭の御下賜と其史的研究』(昭和7年刊)には、美作で竹やり小銃などを携え三千人が蜂起したことなどの記録の紹介の後、山縣有朋が監修した『陸軍省沿革史』の一節が引用されている。
「徴兵令の発布せらるるや因州の久しき慣習其性を成し、四民兵役の義務を弁知せず、特に徴兵令中に載せたる血税の文字は偶々俗心に不快の文字を与え、為に或る地方に於ては争乱を惹起するあるに至れり。故に徴兵令実施後数年間は、兵役を忌避する者多く、兵数往々欠員を生ずることありしが、当局百方苦心の結果漸次其弊なきに至れり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/47

徴兵免役心得

このように、陸軍省の正史において『血税騒動』で兵役忌避者が出たことの記述があることは注目に値する。

では、明治6年(1873)1月に徴兵令が交付されて以降どの程度の兵士が集まったのであろうか。
菊池寛の前掲書によると「山縣が当時理想とした兵員数は十二師団、三十万であった」のだが、「明治八年の調査によれば、歩兵二万六千人、騎兵二百四十人、砲兵二千百六十人、工兵千八十人、輜重兵三百六十人というから微々たるものである」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/107

普通に考えて、士族ではない一般の男性のほとんどは、軍隊に喜んで入隊するとは思えない。徴兵制について農民や商人たちがどのようにして抵抗したのか少し気になるところである。

亘理章三郎著の前掲書に、兵役忌避に関する明治10年2月1日の太政官達第17号が引用されている。これを読めば、軍隊に行きたくない人々がどのようにして兵役を逃れようとしたかが垣間見える。

「兵役は国の大事。人民必ず服せざるべからざるの義務に候処、人民未だ全く之に通暁せず。徴募の際動(やや)もすれば遽(にわ)かに他人の養子となり、又は廃家の苗跡(みょうせき)を冒し、甚だしきは自ら其肢体を折傷する等を以て規避する者往々有之。是れがため遂に定員の不足を生ずるに至り、不都合少なからず候條。猶一層精密に注意し管下人民へも丁寧説諭し勤めて是等の規避を防ぎ候様致すべく相達候事。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/51

他人の養子となったり、廃家の跡目を継いだり、自分で腕や脚を折ったり傷つけてたり、他の資料では、目に毒を入れたり、犯罪をおかして囚人となったりして徴兵を逃れようとした人物が少なからずいたことがわかる。

「血税騒動」については、菊池寛は「一般の教育程度が低いところから起こる誤解やデマであって、やがて一掃され」と記しているが、1年10ヶ月近く騒動が続いたことの説明としては説得力がない。おそらく民衆は、そのような言葉尻を捕らえて、明治新政府の施策に反対しようとしたのではないだろうか。

当時徴兵忌避者が如何に多かったかは、徴兵の対象となる男性の数が増加しているにもかかわらず、徴募に応ずべき人数が逓減しているデータを観れば見当がつく。次のURLに亘理章三郎著の前掲書に内外兵事新聞の統計データが出ている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464377/53

しかしながら、山縣有朋がこだわった徴兵制によって集まった軍隊が成果を挙げる時が来る。菊池寛は次のように解説している。

西南戦争田原坂
【西南戦争 田原坂激戦之図】

「その成果は、久しからずして、国民の前に現れることになった。則ち『百姓町人』の兵隊は、佐賀の乱に、台湾征討に、神風連の乱に、さては西南戦争に、当局の期待に背かぬ働きを示したのである。百姓町人の出身でも、これに正しい精神教育を施し、新しい武器を与えて訓練すれば、立派な近代的軍隊をつくることが出来るという、大村や山縣の確信を事実によって裏書きしたのであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041877/108

わが国の徴兵制の採用は軍事上の大革新であったのだが、これを実現させ軌道に乗せるのには山縣有朋の信念と頑張りがなければ難しかったと思われる。明治政府にとってこのハードルはかなり高かったのだが、この大改革を成し遂げることにより多くの成果を挙げることが出来たことを知るべきである。

日露戦争の動員兵力は100万人を超えていたが、この数字は徴兵制を採用していなければ動員不可能であったと思われ、またこれだけの軍隊を集めることができたからこそ、大国ロシアに勝利することが出来たのであろう。教科書などには大村や山縣のような先覚者の頑張りについては殆んど何も記されていないが、もう少し詳しく記述しても良いのではないだろうか。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















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