HOME   »  「鎖国」への道
Category | 「鎖国」への道

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える

前回の記事で、慶長18年(1613)に全国に出された禁教令で、各地で追放処分を受けたキリスト教信徒たちの多くは長崎に避難して、長崎では教会が復活しミサも行なわれるようになったことを書いた。

家康は、晩年にはキリスト教に対し比較的厳しい態度をとったのだが、日本人信徒に対しては厳しくとも、外国人に対してはどちらかというと寛大であった。その理由は、家康自身が外国貿易のメリットを捨てきれなかったからであろう。

ところが、大坂夏の陣の翌年である元和2年(1616)の1月に、鷹狩りに出た先で徳川家康が倒れ、4月17日に駿府城において死亡してしまう。

徳川秀忠

家康の後を継いだ第二代将軍・徳川秀忠は、その後江戸幕府の対外政策を一変させている
同年の8月には支那商船を除くすべての外国商船が寄港できる港は長崎と平戸だけとなり、いかなる大名もキリシタンを召し抱えたり、領内に置くことが禁じられ、宣教師およびその補助者または従僕と交際するものは生きながら焚かれるか、または財産が没収され、これを隠匿するものは、婦人・小児および5人組までも同罪とした。また江戸、京都、大坂、堺などには外人の滞留を禁じられ、イギリス人、オランダ人もこの地方からの撤退を命ぜられている

レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』にはこう解説されている。
「この間に、特に江戸や京都の皇都、ならびに皇帝の直轄領である上方の諸州で、猛烈な迫害が始まった。奉行中の首席で、性質の温順な人物である板倉殿(板倉勝重)は、きっと新主の意に適うと信じて、無慈悲になった。彼の同僚もまた、彼に倣って、苛酷になった。諸侯も大体、政庁(幕府の意)の命令に従った。…
 長崎もこの例に漏れなかった。全町悉くキリシタンなるこの町では、爾後禁令の条項に照らして司祭を留め、天主堂を置き、公然と礼拝することは厳禁された。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史』中巻 p.7)

しかしながら長崎では、幕府の禁教令が出ていた環境下にもかかわらず、なお数十名の司祭らが留まっていて、山の中などで潜伏するなど人目を避けて活動していたという。

山本秀煌氏の『日本基督教史. 下巻』によると、修道会派によって対応が異なっていたようだ。
「日本内地に潜伏したる各派宣教師の意見は二途に分かれて一致せず、たがいに相反目していた。耶蘇組(イエズス会)の司祭らは時宜にしたがうを可なりとし、昼はなるべく潜伏して他出せず、夜半人定*てのち、出て宗務を行なった。しかるに、フランシスカン、ドミニカン、アウガスチン派の宣教師らは時勢に辟易して陰匿するのは怯懦であり、不義である。よろしく公然教務を行なうべしと唱え、白昼出て横行し、宗務を公行するに憚らなかったため、そのことが何時しか江戸に聞こえ、将軍の憤怒を招くに至った。」
*人定て:寝静まって
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/153

そして翌元和3年(1617)1月1日、参賀に来た肥前大村藩の藩主・大村純頼(すみより)をみて、将軍・徳川秀忠はこう詰問したという。
聞く、長崎地方には今もって外国船教師の徘徊するものありと、卿よろしく速やかにこれを海外へ駆逐し、怠慢の罪を購うべし

大村純頼は、幼少の頃よりキリスト教を奉じる環境で育ったことから宣教師を虐待するに忍びず、領内に潜伏していることを知りながら看過してきたのであるが、将軍秀忠の怒りを買った後の対応もまた甘かった。
「…純頼は、宣教師に諭して若干名をマカオに去らしめ、またその余は隣邑に散在せしめて長崎地方に一人の宣教師もあらざるとの証とし、かつ2人の宣教師を捕えて之を獄に投じた。これは1つは幕府に対し、たとえ一人にても宣教師を許き出して嫌疑を避け、かつその責を塞がんためでもあった。また1つは、かくのごとくにして、今なお潜伏している宣教師を恐怖せしめて、領内より遁走せしめんが為であった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/153

大村純頼は、捕えた2人の宣教師を死罪にしたくなかったようなのだが、幕府より「直ちに死刑に処すべし」との命令を受けるに至り、涙を呑んで斬首刑に処したとある。しかしながらこの宣教師二人の処刑は、長崎では逆に多くのキリスト教徒の信仰を奮い立たせることになったようだ。
長崎付近で潜伏していたドミニコ会のアロンゾ・ナヴァレット司教とアウグスチノ会の聖ヨセフ司教は、二人の宣教師の殉教を聞いて立ち上がり、死を覚悟で公然と布教を再開し、伝え聞いて集まった三千人の教徒たちは、賛美歌を歌ってその声は天地に響いたという。

山本秀煌氏は同上書でこう解説している。
殉教者の一挙一動は教徒に至大の感化を与えてこれを激励し、先に迫害の苛責を恐れて転宗を誓った者も再び悔改して憚るところなく、苛責は勿論死刑をもなお辞せざるの態度を示したので、奉行所の官吏も教民の熱狂に委縮して袖手傍観して敢て手を下さなかったが、江戸よりの催促に応じ、やむなく僅かに宣教師を隠匿する17~8名を捕え、窃にこれを殺戮してその責を塞いだ。また大村においても宣教師の殉教以来次第に転宗者の復帰する者の数を増し、新たに洗礼を受ける者もまた加わった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/157

こんな具合で、宣教師を斬首しても、宣教師を匿った者を死罪にしても、信徒たちが棄教することには繋がらなかったのだが、江戸幕府はその後もキリスト教への弾圧の手を緩めることはなかった。
外国人宣教師で死罪となった者は少なくて、ほとんどは大村の獄中に繋がれたそうだが、日本人の信徒に対する弾圧については徹底していたという。

山本秀煌氏はこのように解説している。
日本人の各地において苛責斬殺された者は数百人にのぼり、あるいは斬罪、烙刑、磔刑に処せられ、あるいは火責、水責、笞打、石抱、釣責の拷問にかかり、あるいは手指を截られ、足腿を断たれ、あるいは赤色の十字形を彫刻せられた…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/161

ところで、江戸幕府が急にキリスト教の取締りを強化した理由はどこにあるのだろうか。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』で、こう解説している。
「当時の日本は、欧州の事情に精通したとは言わぬが、…若干の知識を有していた。その証拠は、幕閣から外人に対したるかけ引きを見てもわかる。しかしそれよりも適切なるは、眼前にマカオやルソンが、ポルトガル人やスペイン人のために、侵略・占領せられていることだ。かかる実物教訓を、鼻の先に突きつけられて、なお呑気に構えいるべき筈がない。
かつ欧州の一大厄難であった30年戦、すなわち2千万のドイツ人口を7百万に減少せしめたる戦争は、1618(元和4年)にはじまり、1648年(慶安元年)に終わった。
 されば秀忠、家光の時代は欧州はその戦争最中であった。…
 されど、それより重大なる理由は、外患ではなく、内憂であった。徳川幕府は言うまでもなく、幕府中心主義を以て立った。日本国の存亡よりも、幕府の存亡が彼らに取りては第一義であった。…
 今かりに外国と勝手に交通するとせよ。いわゆる外様の大名は、外国の勢力と相結託する危険はなきか。…あるいは外国の勢力と結託して、内乱を起こすものが無いとも限らぬ。あるいは外国に根拠を設け、策源地を作り、そこから機会を見て、日本に事をおこし、もしくは起こさしむる者も無いとは限らぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/142

蘇峰は、そのまま外国人の流入を放置していれば、当時の情勢からすればマカオやルソンがその「策源地」となり、わが国を再び戦乱に巻き込んで次第に外国人に侵略されていった可能性を示唆しているのだが、そのような戦略を考えている外国人が存在していてもおかしくない。以前このブログでも紹介したが、当時の宣教師が本国に向けて日本の武力征服する方法について記した書翰がいくつか存在するのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

キリシタン伝道の興廃

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで昭和5年に刊行された姉崎正治氏の『切支丹伝道の興廃』という書物を読むと、禁教令が出て幕府の取締りが厳しくなり、長崎で2名の外国人宣教師が斬首された後にも、マカオからはイエズス会、マニラからはフランシスコ会の宣教師らが次々とわが国への潜入に成功していることが記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918428/291
また山本秀煌氏の『日本基督教史』では、これだけ厳しい取り締まりをしていたにもかかわらず宣教師が侵入して欠員を補充し、迫害があったにもかかわらず3千人を教化し得たことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/167
将軍秀忠の時代の殉教者は300人程度とされているが、3千人もの信徒を獲得したというのなら、キリスト教信徒数は増えていたということになる。幕府にとってみれば、いくら弾圧しても減らないキリスト教信徒は、さぞ不気味な存在であったに違いない

デマルカシオン

このブログで、ローマ教会が15世紀に、スペインやポルトガルに対し異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利を授与する教書を相次いで出していることを書いたが、その教書のおかげで、西欧諸国は何の罪の意識もなく、異教徒を虐殺したり奴隷にして売飛ばす手法でその領土と富を奪い取り、世界を植民地化してキリスト教世界に変えていったのである。そして1529年のサラゴサ条約で、スペインとポルトガルが征服するべき領土が分割され、その分割線は日本列島を真っ二つに分断していたことを知らなければ、この時代に西洋諸国から多くの宣教師や商人が渡来したことが理解できないだろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

キリスト教がわが国に伝来した後、宣教師らは商人と結託してキリスト教の布教を認めた地方大名に武器や火薬を売り込み、キリシタン大名がその武器や火薬を買うために大量の日本人が奴隷に売られて海外に連れ去られた。そして宣教師らの教唆によって神社仏閣が徹底的に破壊されていった。
彼らの最終目的は、わが国を植民地化し、キリスト教を奉ずる国に変えることにあったのだが、そのような宗教が広まることは、当時の大半の日本人にとっては甚だ迷惑なことであったはずだ。

確かに、無垢なキリスト教徒に対する江戸幕府の処刑は随分残酷なものがあったのだが、処刑された人数より2桁も3桁も多くの善良な人々が奴隷にされて外国に売られていた状況を放置し、キリシタン大名が強大化していくことを放置されていれば、いずれわが国は西洋の植民地にされ、わが国の伝統的文化的遺産の大半をこの時期に喪失していた可能性が小さくなかったと考えるのは、私ばかりではないだろう。

キリスト教もイスラム教も一神教であるが、一神教は異教徒や異文化の存在を容認しないところがある。過去の歴史の中で、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名においてテロ行為や他国の侵略や異教徒国家の転覆をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。この原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や国家転覆に繋がる行動を取りながら、自分のしていることを正しいと信じて疑わない信徒が存在する点にある。

キリスト教がこれ以上わが国に広まることの危険性を認識していた江戸幕府が、キリスト教の影響を排除するためにとった政策は確かに残酷なものではあったが、わが国が西欧諸国の植民地とならないためには、このような政策をとる以外にはなかったかもしれない。
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html


徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える

元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。

徳川家光

家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国に在留する外国人は長崎(ポルトガル人)と平戸(オランダ人)に限られることとなった。

では家光は、日本人のキリスト教に対してはどのような施策をとったのか。
家光が将軍の位についた年の12月4日に、江戸の札の辻(東京都港区)で多くのキリスト教信徒の処刑が行われている。

原主水

その処刑の中心人物は原主水(はらもんど)という武士で、以前は徳川家康に仕えていたのだが、慶長17年(1612)に江戸・京都・駿府をはじめとする直轄地に対してキリスト教禁教令が出され、キリスト教徒であった原主水は10名の旗本とともに殿中を追われることになった。しかしその後も布教を続けたために慶長19年(1614)に捕えられ、その時も棄教を拒んだために手足の指が切られた上に額に十字の烙印を押される身となったのだが、その後は教会に出入りして神父らを助けて、非合法活動であったキリスト教の布教に従事していた。

原主水らの殉教

ところが密告者があり、原主水、外国人宣教師をはじめ約50名が捕えられ、処刑の日には3つの組に分けられて江戸の町を引き回された後、火刑に処せられることとなった。
処刑される前に原主水は「キリストの為に死する時きたり、天国に行くことを喜び、進んで刑場に着す。これ我が勝利を得たる者にて、こよなき幸福なり」と述べたそうだが、他のキリシタンもほとんどが同様な態度で死んでいったという。(ヴイリヨン 著『日本聖人鮮血遺書』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019243/206

キリスト信徒の世界では、あらゆる迫害を耐えて信仰を守り、キリストの為に命を捧げることを「殉教」と呼ぶのだが、家光の時代には数多くのキリシタン殉教者が出ている。
彼らの多くが処刑に抵抗せず従容として死に就いていった理由は、「殉教者」が聖なるものとして信徒から非常に尊崇されていたからである。だから処刑の後に多くのキリスト教信徒が、殉教者の遺骸や遺品を持ち去ろうとするので、またまた信徒が捕えられて処刑されることになる。
江戸では12月29日にはさらに37人が火炙りなどで処刑された記録があるが、この様にしてキリスト教信徒が各地で処刑されたようだ。この年には一説では天領だけで4~500人が殉教したというが、詳しい記録が残っているわけではなさそうだ。

学生時代に鎖国に至る歴史を学んだ際に、江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由も、また鎖国に踏み切った理由も、いま一つ納得できなかった。

教科書などを読んで分かりにくい主な原因は、戦後の書物は西洋諸国の暗部を記述しない点にあると思うのだが、その理由は、その点を詳述してしまうと戦後に戦勝国が広めようとした歴史観と矛盾することになり、それでは困る勢力が今も内外に強い影響力を保持しているからではないかと考えている。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

では、戦前の書物ではどう解説されているのか。
やや長文だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』(昭和10年刊)の解説を引用したい。

「…当時の耶蘇(キリスト)教徒が、ややもすれば日本主権者の命令を無視して、独自勝手の運動をしたのは、当局者の目に余る事実であった。いわば当時の宣教師そのものが、この点について、甚だ不謹慎であった。されば耶蘇教徒の災難は、半ば自ら招きたるものであるというのが、むしろ公平の見解であろう。
[耶蘇教禁圧の主な理由]
(第一)耶蘇教は、日本の国法を無視すること
(第二)耶蘇教は、日本の神仏を侮蔑、攻撃し、平地に波乱を起こさしむること
(第三)耶蘇教は、社会の落伍者を収拾し、自然に不平党の巣窟となること
(第四)耶蘇教は、スペインの手先となりて、日本侵略の間諜となること
(第五)外国の勢力を利用せんとする、内地の野心者の手引きとなるのおそれあること。
以上はおそらくは幕閣が耶蘇教禁圧のやむべからざるを認めた理由であろう。これは幕閣としては杞憂であったか、真憂であったか。いまにわかに断言すべきではないが、しかもこれを一掃的に杞憂であると抹去すべきではない。
[宣教師らの反抗運動]
特に幕閣をして、禁教の手を厳重ならしめたのは、宣教師らの反抗運動であった。彼らは退去を命じられればたちまち逃走した、隠匿した。しからざれば一たび退去し、更に商人の服装をして渡来した。しかして彼らを厳刑に処すれば、信者は踴躍(ようやく)してこれに赴き、しかして就刑者の或る者は、直ちに天子に等しき待遇を受け、しからざるも、殉教者として尊崇せられた。信徒らはその流したる一滴の血さえも、これを手巾(ハンカチ)に潤し、神聖視した
[不得止一切無差別渡航禁止]
かかる状態に際しては、幕閣たるものは、根本的にこれを杜絶(とぜつ)するの策を考えねばならぬ。いやしくも船舶が交通するにおいては、如何に宣教師渡航禁止の法律を励行するも、これを潜る者あるは、事実の証明するところで、今さら致し方がない。商売は商売、宗教は宗教との区別は、秀吉以来、家康以来、既にしばしば経験したところだ。しかもそれがことごとく水泡に帰した。こちらでは区別をするが、あちらでは区別をせぬ。さればその上は、一切無差別に、通航を禁止するしか他はないのだ
[余儀なき鎖国]
必ずしも徳川幕府の為に、耶蘇教禁止の政策を弁護するのではない。しかも彼等の立場として、まことに余儀なき次第と言わねばならない。しかしてさらに、より以上の必要は、幕府自身の自衛だ。幕府の憂いは、内には不平党の召集だ。ほかには外国の干渉、および侵襲だ。しかしてこの両者の導火線は、いずれも耶蘇教と睨(にら)んだからには、これを禁止するは、幕府の自衛策として必須である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/138

戦後の歴史書が分りにくい理由は、わが国を植民地化することを執拗に狙っていた国のことがほとんど紹介されていない点にあるからだと考えているが、江戸幕府が自衛のために、また、外国の干渉を排除するためにキリスト教の禁教が不可欠であったことは、この点を理解しないと見えてこないのである。

この当時わが国と接触があった西洋諸国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国であるが、この中で最大の恐怖は、メキシコやフィリピンを植民地化したスペインであろう。

Spanish_Empire_Anachronous_0.png

スペインがわが国に対してどの程度の野心があったかについてはスペインの公文書で明記されている訳ではなさそうだが、その敵国であるオランダやイギリスから、スペインに野心があることをわが国に警告していた記録がある。
また、スペインも、わが国の沿岸を勝手に測量したり、わが国の禁令を破って宣教師を潜入させるなど、スペイン人の野心を疑わせる行為を繰り返していたので、江戸幕府が警戒したことはむしろ当然の事であった。

徳富蘇峰はこうも述べている。
禁教と鎖国は至近至切の関係がある。鎖国せねば禁教が徹底的に行われず、禁教するには鎖国が第一要件だ。しかし鎖国は禁教のためと思うべきではない。世間に発表したる理由は、耶蘇教禁圧のためというが、その実は決してそれのみではない。徳川幕府は、日本の大名もしくは個人が、外来の勢力と接触するを甚だ危険に思った。そはその勢力をもって、幕府に当たらんことを懼(おそ)れたからだ。これは幕閣としては杞憂であったか、否か。当時の大名には、それほどの気力あるものもなかったようだが、しかも幕閣の立場としては、相当の遠慮というべきであろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/144

家康の時代に、幕府は鉱山採掘や、航海、造船の技術をスペインから得ようとしたことがあったが、彼らは宣教師ばかりを送り込んできた。江戸幕府から禁教令が出されても、スペイン人はフィリピンのルソンから宣教師を送り続けたという。

そこで、フィリピンからの宣教師の潜入をストップさせるために、江戸幕府がフィリピンの征伐を検討していたことが2度ばかりあったようだ。

再び徳富蘇峰の文章を引用する。文中の「彼」というのは、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功があり、肥前島原領主となった松倉重政のことである。

松倉重政

「彼は寛永7年(1630)、自力にてルソンを征服せんと幕府に請うた。彼は耶蘇教の根本療治は、ルソンを退治するにある。もし某(それがし)に十万石の朱印を賜い、ルソンを領することを許されなば、独力にてこれに当たらんと申し出でた。かくて彼は吉岡九左衛門、木村権之丞に20人の足軽をつけ、絲屋随右衛門の船に乗せて、偵察に赴かしめた。彼らは11月11日に出帆し、木村は途中に死し、吉岡はマニラに入り、翌年6月に帰朝したが、松倉は前年吉岡らの出帆後いくばくもなく、11月16日に逝き、壮図は空しく彼とともに葬り去られた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/145

松倉重政は、吉岡九左衛門らを乗せた船が出帆してわずか5日後に亡くなったために、この計画は消滅してしまったのだが、この7年後に江戸幕府は再びフィリピン征伐を計画している。

寛永14年(1637)に、幕府はルソン征伐を企てた。これは宣教師の根拠地を覆すと同時に、彼らが琉球を経て、密貿易を行なうを杜絶するためであった。而して幕府は、寛永15年(1638)」の冬、遠征軍を出す計画を立て、末次平蔵をして、兵士輸送の為に、蘭(オランダ)人から船舶を借るべく交渉せしめた。蘭人もその相談に乗りかかり、さらに戦艦をも供給すべく準備したが、島原の一揆の為に、中絶した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/146

では、もし江戸幕府がフィリピン征伐に動いていたとしたら、江戸幕府が勝利した可能性はどの程度あったのだろうか。

当時スペインやポルトガルが多くの国々の領土を簡単に侵略できたのは、弓矢しか武器を持たない国が大半であったからなのであって、わが国だけは鉄砲伝来の翌年に鉄砲の大量生産に成功し、16世紀の末期には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、フィリピンの国防は日本人の傭兵部隊に頼り、武器も日本から輸入していたことを知る必要がある。
もし日本から傭兵と武器を調達できなければ、スペイン人はそう長くは戦えなかっただろうし、徳川幕府軍が日本人傭兵やフィリピンの原住民と繋がれば、スペイン人を追い出すことは、それほど難しくはなかったと考えられる
のだ。
なぜなら、当時のスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしており、フィリピンを守るためにわざわざ本国から軍隊を派遣するような余裕は考えにくく、もし長期戦になった場合に武器の補充は容易ではなかったからである。

以前このブログで書いたが、フィリピンでは1603年にスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功した記録がある。しかし、その3年後の1606年には、スペイン人は強すぎて多すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとする動きが起こっている。

山田長政

シャム国では1621年に山田長政率いる日本人を中心とする部隊が、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けている
また同じ1621年には、オランダとイギリスの艦隊が日本行のポルトガル船とそれに乗っていたスペイン人宣教師を江戸幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めている
この時2代将軍秀忠は、このオランダ・イギリスの申し出を拒否したばかりではなく、逆に『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』との禁令を発し、オランダ・イギリス両国に大きな衝撃を与えることになったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html
この様な史実を知ると、「日の沈むことのない帝国」と言われたスペインも、またオランダもイギリスも、それほどの強国であったとは思えなくなる。

93-se-kaigainiyuhi1.jpg

菊池寛の『海外に雄飛した人々』(昭和16年刊)という書物に、英国人のバラード中将が、次のような発言をしていることが紹介されている。

ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72

現在はともかくとして、少なくとも当時の日本人は非常に勇敢であり、江戸幕府がその気になればこの時期に東南アジアから白人勢力を排除できたということを、英国の軍人が述べていることは驚きだ。

江戸幕府がキリスト教を禁じ鎖国に至る流れについての歴史叙述については、戦前に出版された書物の方が、当時の世界の動きを良く伝えていてはるかにわかりやすい。
戦後の書物では世界の動きをほとんど触れずに、キリスト教徒を激しく迫害したことや江戸幕府の偏狭さを記して禁教から鎖国が論じられることが多いのだが、これではなぜ江戸幕府がキリスト教を禁じ、鎖国するに至ったのかがスッキリ理解できるはずがないと思う。

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら、覗いてみてください。

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html


台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html


日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html


日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き

江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。

このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が相次いで起こっている。

具体的な事件を説明する前に、当時の列強の動きを記しておこう。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』から、徳富蘇峰の著した『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』の文章をしばらく引用する。

「…(イギリスとオランダは) 1619年(元和5年)6月12日、にロンドンに於いて、両国防禦条約を締結した。これはイギリス・オランダ両国各自の東インド商会が、共同してモロッカ諸島の貿易を営み、香料の3分の2はオランダ人、3分の1はイギリス人の所得とし、両商会より各10隻の戦艦を出して、防御艦隊を組織し、もってスペインポルトガル両国の艦隊に当たり、その植民地を侵し、両国の利益を拡張するためであった。
その結果、平戸はいよいよ両国艦隊の根拠地となった。かくて元和6年7月、両国艦隊10隻のうち、おのおの4隻ずつ、平戸に入港した
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/127

自国の利益拡大の為に勝手に平戸を軍事拠点にされて、いきなり戦艦を送り込まれたわが国にとってはとんでもない話なのだが、その元和6年(1620)に平山常陳(ひらやまじょうちん)なる人物が船長を務める朱印船が、日本人船員の外ポルトガル人とスペイン人を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、イギリスおよびオランダの船隊によって拿捕されるという事件が起きている。(平山常陳事件)

この事件の顛末は徳富蘇峰の同上書にも記されているが、Wikipediaなどにも概要がまとめられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%B8%B8%E9%99%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

イギリス平戸商館は「日本入国を禁じられている宣教師を乗船させた」として朱印船の積荷を没収してしまったのだが、平山常陳らは「乗っていたのは宣教師ではなく商人である」とし、積荷の没収を「海賊行為」であるとして長崎奉行に訴えた。
双方の言い分が対立し2年がかりで調査が行われた末、証言により朱印船に2名の宣教師が乗っていたことが判明し、元和8年(1622)7月13日に長崎で平山常陳と二人の宣教師が火焙りとなり、朱印船の船員12名が斬首されている。

この事件は、徳川幕府のキリスト教徒に対する不信感を決定づけるものとなり、平山常陳らが処刑された翌月の8月5日には、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑される事件が起きている。世に言う「元和の大殉教」だが、わが国のキリスト教の歴史の中で最も多くの信徒が同時に処刑された事件なのだそうだ。

元和大殉教図

この処刑の様子を実見した者がマカオで描いたという「元和大殉教図」が、イエズス会本部であったローマのジェス教会に保管されている。
ネットで見つけた画像を拡大して紹介しておくが、処刑されたのは宣教師や信徒であり、女性や子供が多く描かれているのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員が処刑されたからだという。

イギリス・オランダ勢力とスペイン・ポルトガル勢力との覇権争いは我が国だけで起こったことではなく世界各地で行われていて、当時海外にいた多くの日本人もこの争いに巻き込まれたことも書かねばならない。

以前このブログでも紹介したことがあるが、藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』にこんな記述がある。

「翌年(元和7年:1621)7月、両国(オランダ・イギリス)の艦隊は、台湾近海で捕えた、日本行のポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めた。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの東南アジア戦争に、イギリス・オランダの傭兵として、幕府公認の日本軍を動員しようというのであった
しかし、もともと友好・中立と交易の安全・自由を原則とし、国際紛争への介入に慎重だった幕府はこれを拒否した。そればかりか、7月27日付けで、幕府(2代将軍:徳川秀忠)は突然『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と言う…禁令を発した。」(『雑兵たちの戦場』p.275-276)

このように徳川幕府は日本兵の派遣を拒絶したのだが、オランダが諦めたわけではなかったのだ。その翌年にオランダは17隻の艦隊を派遣し、千百人の日本人傭兵やマレー人の傭兵を集めてポルトガル人の根拠地たるマカオを攻めているのだ。

このブログで何度か記したとおり、この時期には日本人商人以外に海外に奴隷として売られた日本人が数多くいて、彼らは勇敢に戦うと評価されて、それぞれの国で傭兵として好んで使われていたことを知らねばならない。

徳富蘇峰はこの戦いについて同上書にこう述べている。ちなみに文中の「耶蘇教」とは「キリスト教」のことである。

オランダ船

「翻(ひるがえ)って見るに、東洋におけるオランダとポルトガルとの競争は、すこぶる激甚であった。すなわち1622年(元和8年)6月、オランダの17隻の艦隊は、9百のオランダ人、千百の日本人、およびマレー人を率いて、ポルトガル人の根拠地たるマカオを攻めたが、ほとんどその半数は、あるいは、擒(とりこ)にせられ、あるいは死し、空しく失敗におわった。元来、此の挙に日本人の加入したるは、訝(いぶかし)しきの至りだ。そは1621年(元和7年)の布達にて、平戸から日本人の船員を伴い、若しくは軍需品を輸出するを、厳禁せられいたからだ。併しいずれにしても、日本人の参加したる事実は、相違ない
スペインもポルトガルも、耶蘇教徒として、徳川幕府の最も注目したるところであった。
而して幕府はマニラが、スペインの耶蘇教師の本場である如く、またマカオもポルトガルの耶蘇教師の本場たるを熟知した。さればポルトガル人に対しても、しばしば耶蘇教師の輸入について、戒飭(かいちょく)*を加えた。ポルトガル人も、固より之に恭順するを欲せざるではなかった。併しながら耶蘇教師の熱心は、如何ともする能わなかった。彼らはいかなる厳刑、酷罰をも意とせず、否むしろこれを本望として、禁を犯して入り来たった。その一例を挙げれば、
『1625年(寛永2年)マカオの使者は、常例の如く好遇せられた。しかるにイエズス会の司教パセコが、同年12月17日、口之津にて就縛(じゅばく)したるの報達し、彼が使者の一行の中に混して来たる由を聞くや、たちまち霹靂(へきれき)一下、万事休せんとした。しかも彼は禁令発布以前に渡航したる事情、明らかになりたる為め、首尾よく将軍―家光―に謁見を遂げた。』[ムルドック日本史]
とある。蓋しこのパセコは1614年(慶長19年)に追放せられ、翌年商人に扮して、又入国し、而して1626年(寛永3年)長崎において、殉教者となったのだ。これにて済んだが、しかも幕府のポルトガルに対する態度はいよいよ細心を加えてきた。」(『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』)
*戒飭:注意を与えて慎ませる事
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/148

この様に、江戸幕府が禁じていたにもかかわらず宣教師を送り込んできたのはスペインだけでなくポルトガルも同様であったのだ。そして、江戸幕府だけでなくスペイン国王も、宣教師がわが国に入国することを禁止している。
1628年に、スペイン国王のフェリペ4世(当時はポルトガル国王を兼務)も、今後15年間、フィリピンから日本に宣教師が入ることを禁止しているのだが、その効果はなかった。
わが国は寛永元年(1624)にスペインとの国交を断絶していたのだが、彼らはスペイン国王の命令をも無視して1632年(寛永9年)には、11人の宣教師が4組に分かれて、シナのジャンク船に乗ってフィリピンのマニラから入国し、さらに1637年には5名、1642年にはさらに4人の宣教師がわが国に密入国に成功
したという。

彼らが禁を冒して宣教師を送り込んだのは、キリスト教をわが国に広めることにより、わが国に対する干渉を容易とするためなのだが、その結果として多くの日本人が幕府に処刑されることとなった。

再び徳富蘇峰の文章を紹介する。
「徳川幕府耶蘇教迫害のはじめ(1614年[慶長19年])より、1635年(寛永12年)まで、日本人にして、耶蘇教を信奉したために、処刑せられたるもの、無慮28万人にのぼるという。[ムルドック日本史]また以て如何に幕府が、全力を挙げて禁教令を励行したかがわかる。然るにかかわらず、なお宣教師の入国の相絶えざるに於いては、幕府はただ断然日本国を周辺より隔離するのほかに手段はあるまい。鎖国令の出で来たるは、即ち必然の結論と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/149

わが国としては外国の干渉を排除するためにはキリスト教の禁教は不可欠であったのだが、いくら禁止しても商人に扮して宣教師が入国してくるのでは、海外貿易を厳しく制限していく以外に方法がなかったのである

ポルトガルについてはスペイン程ひどいやり方ではなかったので、幕府は、はじめのうちは手加減していたようだが、次第に取締りが厳しくなっていく。

朱印船

まず、寛永8年(1631)に、奉書船制度が開始され、朱印船朱印状以外に老中の奉書が必要となり、寛永10年に(1633)には、奉書船以外の渡航が禁じられるに至った。(第1次鎖国令)

出島

翌年第1次鎖国令が再通達され(第2次鎖国令)、長崎に出島の建設が開始された。
そして寛永12年(1635)には、中国オランダなどの外国船の入港を長崎のみに限定し、東南アジア方面への日本人の渡航も、日本人の帰国も禁じられることとなった。(第3次鎖国令)
また寛永13年(1636)には、貿易に無関係なポルトガル人と妻子をマカオに追放し残りのポルトガル人を出島に移して隔離した。(第4次鎖国令)

鎖国

出島では、一切邦人との雑居を禁じただけでなく、この出島から本地に接続している橋を渡ることが許されたのは、年に二度、すなわち入港と出港の時のみに限られたという。
そして寛永16年(1639)には、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、この年から嘉永7年(1854)の日米和親条約締結までの期間を、わが国では「鎖国」と呼んでいるのだが、この「鎖国」という言葉が広く使われるようになったのは明治以降の事であり、この当時の東北アジア諸国においても「海禁政策」が採られており、わが国だけが国を閉ざした訳ではないのだ。

江戸幕府がポルトガル人を追放したために、せっかく完成した出島は無人状態となってしまったのだが、寛永18年(1641)にオランダ東インド会社の商館が平戸から出島に移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人がこの地に住むようなったという。

しかしながら、ポルトガルはわが国との交易をここで諦めたわけではなかったようだ

ジョアン4世

1640年(寛永17年)にポルトガルはスペインから独立してブラガンサ公・ジョアン4世がポルトガル国王に就任したのだが、マカオのポルトガル人はこれを機にこれで日本との交易が再開されることを期待したという
彼らは直ちに新国王に使節を送ってその即位を祝福するとともに日本との通商の重要性を説き、その再開のために本国から日本に向けて特使の派遣を請願している。

この請願が認められて、首都のリスボンから使節を乗せて2艘の船が出港し、正保4年(1647)に長崎に入港したのだが、江戸幕府は、この船を、九州大名より徴発した5万人で包囲し、追い払っている

この時に、江戸幕府が長崎奉行に対して用意した奉書が、徳富蘇峰の同上書に紹介されている。
「一 日本国数年御制禁の処、南蛮より度々伴天連を指し渡し、きりしたん宗門に引き入れ、日本人数多く滅ぼし、その上徒党を結び、新儀を企てるにつき、御誅罰の事
 一 宗門に事寄せ、邪術を以て異国に於いて国を取る例これあり。日本に対してもその志深く候よし。ころび候南蛮伴天連、この地に於いて白状について、いよいよ偽謀至極と思し召され候こと
一 この両条により、かの国より渡海船かたく御制禁のこと…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/156

Beerstraaten,_Battle_of_Scheveningen

私も長いあいだ、江戸幕府の「鎖国」政策が「引きこもり」のような印象を持っていたのだが、この様な経緯を知ると江戸幕府の判断も納得できるのである。もし江戸幕府が「鎖国」という選択をしなければ、わが国はスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地争奪戦に巻き込まれて、相当国力を消耗していたことに違いないだろう。1652年にはイギリス海峡の制海権をめぐってイギリスとオランダとの戦争が開始しているが、この二国の戦いは18世紀の終わり近くまで延々と続いたのである。(第1次~第4次英蘭戦争)

西洋列強が「大航海時代」とよばれる時代にキリスト教宣教師を先兵にして世界中を侵略し、現地人を奴隷にし、それぞれの文化を破壊したことを書かずして、この時代を叙述することにそもそも無理があるのだと思う。
戦後になって、西洋社会にとって都合の良いように描き直された日本史の歴史叙述が、全面的に見直される日は来るのだろうか。

*************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-379.html

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-380.html

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html




島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した

前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。

この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキリシタン弾圧を行なったことが知られている。

そして寛永14年(1637)10月に島原の乱が始まっているのだが、わが国の一般的な教科書ではどう描かれているかと思って『もう一度読む 山川の日本史』で確かめてみると、こう記されている。

島原の乱

「こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』p.160-161)

この文章を普通に読めば、島原・天草地方のキリシタン弾圧がひどかっただけでなく、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったものと理解するしかない。学生時代にはこのような記述を何も考えずに鵜呑みにしていたのだが、よくよく考えるといくつも疑問が湧いてくる。

島原の乱地図

このブログで何度か事例を記してきたとおり、禁教政策はこの地域だけではなく各地で行われていたし、信仰の篤い多くのキリシタンは、迫害を受けた場合に抵抗もせずに殉教の道を選んでいる。なぜ島原・天草のキリシタンは、他の地域のように殉教の道を選ばずに、幕府と戦うことを選択したのだろうか。
また3万7千人とも言われる反乱勢が12万以上の幕府軍と4ヶ月間も戦っているのだが、これだけ長期戦になったのは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に、当時平戸にいたオランダ商館長クーケバッケルがバタビヤ総督に宛てた書状が引用されている。これを読むと、島原藩の領主松倉重政がどのような政治を行ない、島原の乱を主導したメンバーがどういう連中であったかが見えてくる。

松倉重政

「…有馬の君主[有馬直純]は、陛下[将軍]の命にて、他国へ移封せられたが、彼は僅かに若干の臣下を伴い行(ゆ)いた。これに反して新たに有馬に封ぜられたる新領主[松倉重政]は、ほとんど悉(ことごと)くその旧家臣を率いてきた。これがために先領主の旧家臣らは、その歳入を奪われ、非常に困窮して、何れも百姓となった。この百姓は、ただ名のみで、その実は、武器の使用に熟練した兵士であった
 新来の領主は、彼らの旧禄を奪ったにとどまらず、さらに彼らおよび従来よりの純農民に課税し、彼らの負担し得ざる程の米穀の高を徴した。而してもし上納し得ぬ者あれば、日本人の蓑(みの)と称するものを着せ、これを首と体とに捲き締め、縄(なわ)もて両手を背後にしかと縛(しば)り、しかる後この着物に火をつけた。かくて彼らは火傷するばかりでなく、中には焼死する者もあった。この悲劇を蓑踊りと称した。
 この執念深き領主は、また婦女を赤裸にして、両足を縛りて、さかしなに吊るし、その他種々の仕方もて、彼女らを侮辱した。
 しかも人民はかろうじてこれに耐え忍んだだが、その嗣子にして江戸に住する領主[松倉重治]に至りては、さらにその上に重税を課したから、むしろ坐して餓死を待たんよりも、自殺するに若(し)かずと、まず自らの妻子を手刃するにいたった。
 長崎港の南方、有馬領の対岸に位し、退潮の時は、徒歩にても渡り得べき島がある。これが天草島だ。ここの農民もまた、その領主に虐げられた。彼らの領主[寺澤堅高]は、平戸の北方15哩(マイル)の唐津にありて、恒に誅求を事とした。而して彼らは有馬の農民と、互いに相呼応して、一揆を爆発せしめた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/187

このように、島原の乱を主導したのは旧領主の家臣であったことをオランダ人が記録していることは重要なポイントである。

外国人の記録だけではなくわが国にも史料があるようだ。たとえば『天草征伐記』には、一揆の中心メンバーの名前が記されているという。徳富蘇峰の同上書にその史料が紹介されている。

天草甚兵衛、同 玄札、大矢野作左衛門、千々輪五郎左衛門、芦塚忠右衛門、赤星内膳、この六人一所に集まり、暫らく物語した。大矢野作左衛門曰く、さてさて口惜しきことよ。このままにて餓死に及ぶとは。時に天草玄札曰く、この島(天草島)の領主寺澤志摩守(廣高)は善人であったが、今の兵庫頭(堅高)は、法令苛(きび)しく、無法に百姓に課役をかけ、福分の百姓も悉く貧しくなり、恨み骨髄に徹している。今この時に於いて、一揆を起こし、運を開くか、左なくば、潔く討死しては如何と。芦塚忠右衛門曰く、尤も妙だ。この島は種子島に近く、島中の鉄砲五六百梃もあらん。百姓共も修練して鹿猿を打つ猟師なれば、武士たりとて、これには及ぶべくもあらず。かつこの島民は本来切支丹なれば、この宗門に託して、不思議を現わし、一味徒党を以て、一揆を企つべしと。これにて評定一決した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/189

天草四郎

徳川幕府の正史である『徳川実記』にも首謀者の名前が明記されているようだ。
徳富蘇峰の解説によると、「徳川実記には、小西行長の遺臣にして、朝鮮役に軍功のありたる大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江深右衛門、山善右衛門、森宗意の5人が、主謀者となり、大矢野村庄屋益田甚兵衛の子四郎(後に時貞)といえる、16歳の少年を擁して愚民を煽動した」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/190

『天草征伐記』と『徳川実記』とは首謀者の名前が微妙に異なるのだが、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、そのまわりに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したという点は同じである。しかし、なぜ、戦後の教科書やマスコミなどの解説に、そのことをしっかり伝えないのだろうか。

島原の乱の起こる数年前から、天候異変や台風などにより農作物の不作が続き、農民たちが重い年貢の取立てに困窮していたことや、キリシタンに対する厳しい迫害があったことは史実である。だから、農民たちが年貢の減免を求めて蹶起したというのが国民の常識になってしまっているのだが、この説が作り話である事は当時の史料を読めば明らかなようである。

宗教で読む戦国時代

神田千里氏の著書である『宗教で読む戦国時代』に、当時の記録をもとに「一揆勢」の行動が紹介されているので紹介したい。

「…大矢野村で、大庄屋の小左衛門が百姓ら四、五十人を引き連れて栖本の代官のところに押しかけたことが天草での蜂起の発端であったが、代官のもとに押しかけた百姓たちは、自分達はキリシタンに立ち返る*と宣言したのみで、年貢を減免せよとは言っていない。…この事件についての別の証言では代官自身にキリシタンになるよう迫った、というから、これが百姓側の主要な訴えであったことは確かだと思われる。とすると、年貢の苛酷な取立てに憤った百姓の言い分としては、いかにも奇妙な感は免れない。いったい農民たちは代官に年貢を減免させたいのだろうか、それてもキリシタンに改宗させたいのだろうか。
 また一揆勢は他の村々や周囲の人々にキリシタンになるよう迫り、それに従わない村に対しては攻撃を加えた。天草御領村の住民たちに対して一揆は、キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになったという。(『御書奉書写言上扣』)…
通常の百姓一揆では一揆に加わらない村々に制裁を加えたことが知られているが、一揆に加わることとキリシタンに改宗することは別である。一揆勢が迫ったのは改宗であり、下手をすれば『異教徒』の村を敵に回しかねないことである。なぜ、このように、一揆勢力は改宗にこだわったのか。苛酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰を結束軸として立ち上がったという筋書きは、如何にもそれらしくは見えるものの、一揆勢の行動はこれでは説明できないだろう。」(『宗教で読む戦国時代』p.178-179)
*立ち返る:キリスト教を棄教した者が再び信者に戻ること

「まず一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。…有馬村では…新兵衛という者が逮捕された晩に、村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンになり、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町へ来襲した一揆は江東寺、桜井寺に放火している(『別当杢左衛門覚書』)…

 寺社への攻撃とともに僧侶や神官の殺害も見られる。先に見た有馬村の角内・三吉が逮捕された後、有馬村の住民たちは、信仰の取締りに赴いた代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すよう伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。また島原の町の水頭にある寺で火事があったとの報に、城内から侍三人が現場へ駆けつけたところ、火事ではなく寺の住持の首を切り三本の竹を組んだ上に指物にして載せて一揆が城へ向かう所であったという(『松竹吉右衛門筆記』)」(同上書 p.179-180)

このような寺社への放火は島原だけでなく天草大矢野島でも行われているのだが、こういう記録を読むとキリシタン連中が立ち上がったのは、重税に抗議したという政治的なものでは全くなく、極めて宗教的色彩の強いものであったと考えるしかない。

天草四郎陣中旗

寺社に火をつけたメンバーの証言も残されている。
「一揆の副将であったが幕府方に内通したために原城落城の後に生きのびた山田右衛門作の証言では、にわかに立ち帰った村の主だった者たちが、人数を動員して島原の在々所々の代官に加え、『他宗の出家、キリシタンにならないもの』を残らず切り殺して蜂起したのが乱の発端だったという(『山田右衛門作口書写』)。代官林兵左衛門を殺害したのち、佐志喜作右衛門、山善左衛門二人の名前で出された村々への廻状が『耶蘇天誅記』に収められているが、そこでは林兵左衛門が『デウス様』へ敵対したから殺害したことを述べ、早く村々の代官はじめ『ゼンチョ(異教徒)』を一人残らず殺害すべきことが指示されている
 寺社の放火、破壊、僧侶・神官の殺害が等しく『異教徒』を撲滅する行為の一環であったことがうかがえるが、これらの行為が島原藩や、天草地方を統治する唐津藩の苛酷な年貢徴収に対する抗議活動や反対運動と見なすことができないことは言うまでもない。」(同上書 p.180-181)

当時の島原・天草のキリシタン達は、「異教徒」や「異教施設」は世の中から排除すべき存在であると考え、そのために異教徒を殺すことも寺社を破壊することも正しいと考えたようなのだが、「一神教」というものは純粋化すればするほど異教徒に対して排撃的となり、神の名を借りて過激な行動を正当化することがよくある。
このことはキリスト教だけが問題なのでなくて、イスラム教においても同様なことが起きている。

島原の乱においては、このような過激なキリシタンが大量の武器を手にしたから厄介なことになったのだが、この戦いがどう進行し、幕府は如何にして鎮圧したのだろうか。
そのことを記述するとまた長くなってしまうので、次回に続きを書くことにしたい。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-375.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-379.html

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-380.html

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html

徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-385.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか

前回の記事で、島原の乱は年貢の減免を求めて農民たちが蹶起したのではなかったことを書いた。乱を主導したのは小西行長の遺臣たちで、代官のもとに押しかけた農民たちは、自分達は元のキリシタンに戻ると宣言し、他の村々や周囲の人々にも、キリシタンに戻ることを迫り、寺社に放火し、僧侶や神官を殺害するなど、宗教色の強いものであった。

厳密に言うと、島原では慶長19年(1614)に松倉重政が入封し、以降のキリシタン弾圧により島原の乱が起こる10年近く前に住民はキリスト教を棄教していた。また、天草では関ヶ原の戦いの後、寺沢広高が領主となり、島原と同様にキリシタン弾圧が行なわれ、ずっと以前から住民はキリスト教を棄教していたのである。
ところが、彼らは島原の乱が起こる直前の短期間のうちにキリシタンに立ち返ったのだが、何がそのきっかけになったのであろうか。

この謎を解く鍵が、島原の乱が勃発する直前の10月13日付けに書かれた『じゅわん廻状』と呼ばれる文書にあるようだ。この文書が、地域一帯に回付され、12日後の10月25日に島原の乱が起こっている。

原文は読みづらいので、神田千里氏の解説でその内容を紹介したい。
「まず『天人』が地上に降り、『ぜんちょ』(gentio、異教徒)はすべて唯一神デウスから火の『ぜいちょ』(juizo、審判)が下されることになったと述べられ、誰でもキリシタンになったものは自分達のもとに馳せ参じよ、特に村々の庄屋や乙名*は馳せ参じよ、との要請がなされている。さらに『天草四郎様』という人は『天人』であること、たとえ『異教徒』の僧侶であろうとキリシタンに改宗したものはデウスの審判から許されるが、キリシタンに改宗しない者は、デウスから『いんへるの』(inferno、地獄)に堕されると宣言している。要するに『天人』が来臨し、デウスの審判が行なわれることになったから、キリシタンになって馳せ参じよ、というわけである。」(『宗教で読む戦国時代』p.182)
*乙名(おとな):長老、村落の有力者

この『じゅわん廻状』の原文は、早稲田大学の大橋幸泰准教授の講義のレジメの「史料3」に紹介されており、誰でもネットで読むことができる。
http://www.f.waseda.jp/yohashi/nihonsikenkyuu/0703.pdf

キリスト教の世界では、この世の終末に近くなると主イエス・キリストが再臨して、異教徒が裁かれて地獄に堕ち、キリスト教徒は天に導かれて神の国を確立するという信仰があるようだが、熱心なキリシタン大名が統治する時代が長かった島原や天草の人々にとっては、領主が変わってキリスト教の棄教を迫られ、多くの仲間を「殉教」で失い、不作であるにもかかわらず過酷な課税をかけられて生活は苦しかったために、「この世の終末」が近づいてきており、キリストが再臨してキリスト教徒が救われるとの話に飛び付きたくなるような心理的状況にあったことは充分に理解できる。

さらに、島原の乱の起こる26年前に追放されたイエズス会のマルコス神父が、日本を離れる際に残した予言があったことが、神田千里氏の著書に紹介されている。
「その予言書には、26年後、すなわち乱の起こった年に必ず『善人』が生まれ、その者は習わないで字が読めるものである。天にも徴(しるし)が現われ、人々の頭に『くるす』(十字架)が立ち、雲が焼け、木に饅頭がなり、人々の什器をはじめ野も山も皆焼けるだろう、というものであった(『山田右衛門昨口書写』)。人々はこの予言にある『善人』とは天草四郎すなわち益田四郎であり、彼は『天の使い』に違いないと信じたと言う(同上)。…
事実天草四郎(益田四郎)については、この時期不思議な噂が立っていた。島原の町役人であった杢左衛門の証言では、このころ大矢野村の益田四郎はわずか16歳で近国でも評判になっていた。稽古なしに読書をし、経典の講釈を行ない、やがてキリシタンの世になる、と人々に改宗を勧めた。…(『別当杢左衛門覚書』)」(『宗教で読む戦国時代』 p.183)

天草四郎像

少し補足すると、天草四郎は関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされ、益田家は小西氏滅亡の後、浪人百姓として一家で宇土に居住していたという。

神田氏の著書には、ほかにも当時の島原や天草に残された数多くの記録を紹介しておられるが、これらを読むと、「一揆勢」が代官のところに押しかけたのは、年貢の減免を要求したのではなく、公の場でキリシタンに立ち返ることを宣言することであったことが理解できる。

最後の審判

この世の終末にイエス・キリストの再臨を信じる人々にとっては、表面的にせよ異教徒であり続けることは、自分自身が裁かれて地獄に墜ちてしまうことになる。だから、何としてでも元のキリスト教信者に戻りたいと願い、自分が異教徒ではない証(あかし)として、あるいは『天の使い』である天草四郎が異教や異教徒を撲滅する『審判』に協力するために、寺社に火を点けたり僧侶や神官を殺したりしたと理解すれば良いのだろうか。
そして、この「最後の審判」の後は、「異教徒」はこの世にいなくなり、キリシタンだけの世の中に生まれ変わることになる。

さて、一揆勢の蜂起は島原藩の予測をはるかに超えて広がっていった。翌10月26日の早朝にはさらに7ヶ村の立ち返ったキリシタンたちが蜂起し、一揆勢に押されて島原藩の軍勢は島原城に籠城したという。

一方、島原の蜂起を聞いた数日後に、天草地方も多くの住民がキリシタンに立ち返って、蜂起している。
天草四郎を戴いた一揆軍は11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利を討ち取り、さらに唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃し、落城寸前まで追い詰めたという。
しかしながら、九州諸藩の討伐軍が近づいていることを知って島原半島に移動し、島原領民の旧主有馬家の居城で廃城となっていた原城に籠城している。
この原城で島原と天草の一揆勢が合流したのだが、幕府側の記録では37千人程の勢力が、大量の鉄砲と弾薬を保有してこの場所に立て籠もったのである。

板倉重昌

幕府は御書院番頭であった板倉重昌を派遣し、重昌は九州諸藩による討伐軍を率いて原城を包囲して、12月10日、20日に総攻撃を行ったのだが、城の守りは固かった。そして寛永15年(1638)1月1日に再度攻撃を試みるも失敗に終わり、総大将の板倉重昌は一揆勢から鉄砲の直撃を受けて戦死している。

さらに幕府は討伐上使として老中・松平信綱らを派遣し、西国諸侯の増援を得て12万以上の軍勢で、陸と海から原城を完全に包囲し、兵糧攻めでじっと勝機を待つこととした。

松平信綱

その際松平信綱は籠城する一揆勢に対して、この度の反乱の意図を問い質しているのだが、面白い部分なので神田氏の解説を引用する。
原城に籠城する一揆に対して幕府総大将の松平信綱は、なぜ籠城して幕府軍に反抗するのか、その理由を矢文(やぶみ)で問い質し『天下』すなわち将軍への遺恨によるのか、それとも『長門守(ながとのかみ)』すなわち島原藩主松倉勝家への遺恨によるのか、もし謂われのある遺恨であれば相談するにやぶさかではない、と宣言した(『新撰御家譜』正月中旬松平信綱矢文)。これに対して城中から回答があり、『上様』へも『松倉殿』へも遺恨はない、『宗門』のことで籠城しているのであり、『宗門』を認めてほしい、との回答があったという(『新撰御家譜』正月十四日堀江勘兵衛書状)。原城からの一揆の矢文とされるものがいくつか伝わっているがどれも、『宗門』すなわち信仰を認めてほしいとの要求で一致している
 そのうちの一つは次のように述べている。『現世のことについては、我々は『天下様』(将軍)に背くつもりはありません。もし謀反人などが出た場合には、討伐軍の一手はキリシタンにお任せ下さい。一命を軽んじてご奉公申し上げることを『天主』(デウス)に誓います。しかし『後生の一大事』については、天使様のご命令を守ります』と。(『新撰御家譜』正月十九城中矢文)」(同上書 p.192-193)

前回の記事で、島原の乱は極めて宗教的な動機によるものであることを書いたが、わが国に残されている史料の多くがそのことを裏付けているのである。
にもかかわらず、わが国の通史ではこの乱の原因を島原藩、唐津藩のキリシタン弾圧と苛政にあったとしてきたのだが、そのようなスタンスで書かれているのは、ほとんどがキリスト教徒の立場からの書物である。
例えば『日本基督教史. 下巻』では
先代の苛税に苦しみつつあった農民らは、この上更に新税を納むるの資力なく、遂に食物に窮し、終に草根、菜蔬を採って辛うじて生命を維ぐに至り、空しく餓えて死せんよりは、一挙領主に反抗して死を速ならしめんことを希い、終に騒乱を爆発するに至った。」
とわが国の通説に近い内容になっているのだが、この書物では一揆勢が大量の鉄砲と銃弾を以て戦った事にはほとんど触れていないのである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/230

原城包囲の図

またオランダ商館長のクーケバッケルは、長崎奉行の要請を受けて、船砲五門を陸揚げして幕府軍に提供し、さらにデ・ライプ号とベッテン号を島原に派遣し、海から城内に艦砲射撃を行なっている。
しかし、キリスト教国であるオランダが、なぜキリシタンの反乱を鎮圧する幕府側に協力したのであろうか。Wikipediaはこう解説している。
当時オランダとポルトガルは、蘭葡戦争(1603~1663)を戦っており、日本との貿易を独占して敵国ポルトガルを排除しようとするオランダの思惑もあったとされる。また、中世研究家の服部英雄は一揆勢力がポルトガル(カトリック国)と結びつき、幕府側はオランダ(プロテスタント国)と結びついた。このあとの鎖国でのポルトガル排除はオランダとの軍事同盟の結果と考察している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1

原城地図

島原・天草で蜂起したキリシタン達が原城跡に籠城したということは、常識的に考えて、どこかの勢力の支援を待つということである。では彼らがどこの支援を待っていのたかと言うと、この地域のキリスト教化に関わったイエズス会やポルトガルかスペインの可能性が高そうだ。次のURLで写真が出ているが、原城阯からはイエズス会のロヨラやザビエルの像が描かれたメダル等、キリシタンの遺品が多数出土している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~sitijyou/harajo-3.htm

島原の乱

神田千里氏は中公新書の『島原の乱』で松平信綱がオランダ船の砲撃を要請した理由について、信綱自身がこう述べたと書いている。
拙者が異国船を呼び寄せたのは、一揆の指導者たちが、我々は『南蛮国』と通じているのでやがて『南蛮』から援軍がやってくる、などといって百姓を騙しているから、その『異国人』(つまりオランダ人)に砲撃させれば『南蛮国』さえあのとおりではないかと百姓も合点がいき、宗旨の嘘に気が付くのではないか、と思った」(中公新書『島原の乱』電子書籍29/58)

江戸幕府は、一揆勢の背後にはポルトガルがいると考えたのだろう。島原の乱の頃はポルトガルとオランダの両国は交戦中であったので、江戸幕府はオランダなら協力要請に応じてくれるという計算をしていたのではないか。百姓らにとってはポルトガル人もオランダ人も同じ『南蛮人』で区別がつかないと思われるので、オランダの艦船から原城を砲撃させることは、一揆勢に対して大きな心理的打撃を与えることになると松平信綱は考えたようだが、それなりの効果があったと思われる。

実際にポルトガルやイエズス会、あるいはスペインが背後でどう動いたかどうかは、具体的な記録がないのでよく分からないのだが、少なくとも江戸幕府はかなり早い時期から、島原の乱の背後に外国勢力やそれにつながる日本人キリシタンが存在し、その連携によりこの乱が全国に広がることを怖れていたようだ。

たとえば江戸幕府は、11月13日に山形城主保科正之、庄内藩主酒井忠当、四国松山藩主松平定行、今治藩主松平定房ら奥羽や四国の諸大名に国元への帰国を命じている。その理由は「天草蜂起による不慮に備える」ためであったというが、いずれもキリシタンの多い地域である。
特に警戒されたのはキリシタンの多い長崎で、中心に出島があり、ポルトガル商館があった。幕府方は兵力のかなりを割いて、日見峠など長崎につながる場所の警戒に当たったようだが、蜂起の直後に一揆の指導者の一部が戦列を離れ、商売人等に変装して、長崎に行っていた記録や、全国のキリシタンに蜂起を促そうとした記録があるという。

また、オランダ船レイプ号が有馬に到着した際に、幕府の作戦本部の司令塔であった上使戸田左門は、オランダ商館長に対しマニラ攻略の可能性を問いただしたという記録があるのだそうだ。(『オランダ商館日記』1638年2月24日[寛永15年1月11日])マニラはスペインの拠点であるルソン島にあるが、江戸幕府は、スペイン、ポルトガル両国とも敵であり、その拠点を叩きたいと考えていたようだ。

このように江戸幕府は、ポルトガルやスペインが島原に援軍を差し向けることを警戒していたようだが、当時の船の推進力は風であり、冬の季節は長崎からマカオに進めることができても、逆の方向は春以降まで不可能であった。もし一揆勢がもう少し持ちこたえていたら、外国勢力を巻き込んでもっと大規模な戦いになっていてもおかしくない。

mai01_convert_20130628083656.jpg

また、当時のわが国にはキリシタンがまだまだ各地にいて、この反乱が全国に飛び火するのを恐れていたのは幕府だけではなかったようだ。
服部英雄氏の『原城の戦いを考え直す――新視点からの新構図』という論考が次のURLにあるが、その中に熊本藩主細川忠利が仙台藩主伊達忠宗に11月12日付に出した書状が紹介され、そのなかで領内の転びキリシタンの動きを警戒せよと忠告していることがわかる。
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p178-197.pdf

細川忠利は細川忠興とガラシャの間に生まれ、幼少時にキリスト教の洗礼を受けた人物である。また書状の相手先である伊達忠宗の父・伊達政宗は、慶長遣欧使節を送り、あわよくばスペインと同盟を結んで、徳川政権にとって代わろうとした時期があった。この点については、以前このブログで詳述したので省略する。

このような史料を読んでいくと、教科書に書かれた「島原の乱」に関する叙述がかなり嘘っぽいことに誰でも気付くことになるだろう。

戦後GHQが、戦勝国にとって都合の悪い史実が書かれた大量の書物を焚書扱いにし、西洋諸国は良い国で、キリスト教は良い宗教で、日本だけが悪い国であったというスタンスで描かれた歴史に書き換え、そのような歴史叙述が、学校やマスコミを通じて広められたために、史実ではないことが日本人の常識となっていることが少なくないのである。

『島原の乱』に関する歴史叙述が、世界史の大きな流れを踏まえて、全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
伊達政宗には天下取りの野望があったことが、ローマ教皇に奉呈された日本のキリスト教徒の連書状を読めばわかります。興味のある方は覗いて見てください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。



島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか

前回の記事で、島原の乱の「一揆勢」が短期間のうちにキリシタンに立ち返り、社寺を破壊し僧侶や神官を殺害した経緯は、キリスト教の教義にある「最後の審判」と関係がありそうなことや、彼らが原城に籠城したのはポルトガルなどの外国勢力の支援を期待していた可能性があり、少なくとも江戸幕府はそのように考えていたことなどを書いた。

「一揆勢」が原城に籠城して3カ月も持ちこたえることができたのは、彼らが武器と弾薬を大量に保有していたからなのだが、では、彼らはこれらをどうやって調達したのだろうか。

島原の乱

「一揆勢」の突然の蜂起を鎮圧するだけの兵力がなかったために、島原藩は領民に武器を貸し与えて鎮圧しようとしたのだが、中にはその武器を手にして一揆軍に加わる者もいたという。しかし、そんなやり方で調達できる武器と弾薬はたかが知れている。
通説では「一揆勢」が島原藩の倉庫や富岡城から武器や弾薬を奪ったと書くのだが、そもそも島原藩の武器倉庫が無防備な状態にあったとは考えにくく、富岡城が落城したわけでもないのに大量の武器が奪えたことも考えにくい。大した武器を持たずに、城内の武器庫から大量の鉄砲・弾薬を奪えたとしたら、余程島原城や富岡城を守る兵士の中に多数の内応者がいたということしかありえないが、もしそうだとしても、満足な訓練もしてこなかった者が、鉄砲のような武器を使いこなせるはずがないのだ。
はじめから「一揆勢」がかなりの武器・弾薬を持っていて、しかも、かなりの訓練を受けていなければ、農民を中心とする部隊が正規軍を相手に戦えるはずがないのだが、それを頭から否定する論者に、かなり臭いものを感じている。

以前このブログで、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰の内容を紹介したことがある。そこには、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであり、そのためにはどのような方法を取るべきかが詳細に記されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

このクルスの考え方でイエズス会あるいはポルトガルスペインが戦う準備していたと考えると、全てが矛盾なく説明ができるのだが、私見を述べる前に、まずクルスの書簡のポイント部分を振り返っておく。文中の国王(陛下)はスペイン王フェリペ3世(当時スペイン王はポルトガル王を兼務し、ポルトガル王としてはフィリペ2世と呼んだ)を意味している。

16世紀日本地図

日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。

隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう

金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ

われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.140-142)

このようにクルスは、キリスト教を受けいれた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしているのだが、少なくとも当時の九州には有力なキリシタン大名が多数いて、その条件は整っていた。

ではどうやって勝利するというのか。クルスの文章は島原の乱の起こる38年も前に記されたものだが、この時点で島原の乱の舞台となった天草に注目しているのは驚きだ。

島原の乱地図

「このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)

そのような拠点を確保したうえで、シナ[中国]をまず征服すべきだと説いている。
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服の事業のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。このシナ征服については、…次の3点だけを提言したい。
(1) シナを改宗させるためには、征服による以外に手段があるとは到底考えられない
(2) シナ征服を成就し得る武力は、日本から調達する以外にありえない
(3) このようなスペイン人と日本の国々との結束を見る者は、主がその信仰の大規模な宣布のためにそれを命じ給うたことを信ずることが出来よう。そして当地に充分基礎を固めた都市を所有することが、このような結果を作るきっかけとなる。…」(同上書p.149-150)

クルスはスペイン人なので、スペインが日本に拠点を持つべきだと最初に述べているが、ポルトガル人も同様に拠点を持つべきであるとし、九州が日本から離反する際には、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長が志岐港を差出すことを確実視していることに注目したい。前回および前々回に記したとおり、島原の乱を主導したメンバーには小西行長の遺臣が多数いたこともあわせて考えるべきだと思う。

小西行長像

「…日本人はポルトガル人のことを、何ら征服の意図をもたずにマカオに居留していると思いこんでいるので、このような企てが成就する可能性は大きい。その上、この下(シモ:九州)が上(カミ)から離反すると信じられているが、もしそうなれば、下の殿達がポルトガル人にそのような基地を与えることは疑いない。またアウグスチノ津守殿(小西行長)が諸手をあげて志岐の港を彼等に与えることは間違いない。…」(同上書 p.150-151)

このブログで何度か書いてきたが、わが国の為政者はスペインにわが国を占領しようとする意図があることを読みとっていた。しかしポルトガルについてはそれほど警戒していなかったとクルスは述べている。その上でクルスは、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということにも言及している。彼の考えでは九州はポルトガルに任せるのが良いとしている。

ナウ船

「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…」(同上書 p.154)

クルスの書翰がその後イエズス会でどのように取り扱われたかは知る由もないが、わが国のキリシタン大名を使ってまずシナを攻めることについては、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、秀吉の時代からスペイン国王に提案していたことを知るべきである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html
そして、シナと朝鮮半島がポルトガルかスペインの植民地とすることに成功すれば、次はわが国が狙われることになることは言うまでもないだろう。

彼らはまずシナを征服し、大陸で布教を拡げようと考えていたことは確実だが、征服するための武力については「日本から調達する以外にありえない」とクルスは断言している。では、彼らはシナに送り込む日本兵および武器・弾薬をどうやって調達するつもりであったのだろうか

もちろん徳川幕府が諸藩に命じてポルトガルとともに中国を攻めることはあり得ないことなので、彼らはキリシタン大名に頼らざるを得ないと思うのだが、もしキリシタン大名がポルトガル支援に前向きであったとしても、幕府の許可なくしては不可能だし、幕府の許可が出るとも思えない。

とすると、ポルトガルは徳川幕府の支配の及ばない地域をわが国の領土の中に確保するしか方法がない。すなわちキリシタン大名が支配する九州の一部をわが国から独立させるか、キリシタン大名の支援を得てポルトガルが支配する地域を九州に作らなければ、堂々と日本兵をシナに派兵できないのである。そのためには、彼らはどこかの時点で幕府と戦わざるを得ないことは誰でもわかる。

クルスの書翰で特に気になるのは、キリシタン大名達がポルトガル人に基地を提供することは確実で、特に小西行長天草島の志岐港を与えることを確実視している点である。なぜこ小西行長の名前が出せたのだろうか。イエズス会と小西行長は、シナの侵略とその協力について相当話を進めていた可能性を感じさせる部分である。

もし彼らが、徳川幕府の支配の及ばない地域を確保し、さらに日本の武力を用いてシナを征服するためには、ポルトガルが大量の武器・弾薬をいざという時の為に蓄えていたと考えるのが自然ではないか。その武器が島原の乱に使われたとは考えられないか

ヴァリニャーノ

少し時代は遡るが、天正8年(1580)に大村純忠はキリシタンを優遇する過程で、領内の長崎の土地(現:長崎港周辺部)と茂木(現:長崎市茂木町)をイエズス会に寄進している。そしてイエズス会東インド管区の巡察師ヴァリニヤーノが同年の6月に日本準管区長コエリョに宛てて長崎を軍事拠点とせよという指令を出している

イエズス会の世界戦略

高橋裕史著『イエズス会の世界戦略』にその指令が翻訳されている。
「キリスト教会とパードレたちの裨益と維持の為に、通常ポルトガル人たちのナウ船が来航する長崎を十分堅固にし、弾薬、武器、大砲その他必要な諸物資を供給することが非常に重要である。同じく茂木の要塞も、同地のキリスト教徒の主勢力が置かれている大村と高来の間の通路なので、安全にしてよく調えることが大切である。…第1年目の今年は、それらの地を奪い取ろうとする敵たちからの、いかなる激しい攻撃にも堅固であるよう、要塞化するために必要な経費を全額費やすこと。それ以後は、それらの地を一層強化し、大砲その他必要な諸物資を、より多く共有するために、ポルトガル人たちのナウ船が支払うものの中から毎年150ドゥガドを費やすこと。…」(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』p.222)

イエズス会マカオ要塞阯

こうして長崎に築かれたイエズス会の城塞は、天正16年(1588)に豊臣秀吉が長崎を直轄領にした際に破壊されたと思っていたが、1590年のオルガンティーノの書簡によると「火縄銃や弾薬、その他の武器で有馬の要塞の防御工事を行ない、有馬にはいくつかの砲門があった」とあり、さらにフランシスコ会のサン・マルティン・デ・ラ・アセンシィオンの報告によると、長崎は再び軍事要塞化されていたとある。上の画像はマカオに残っている17世紀に造られたイエズス会の要塞の址である。

フスタ船

高橋氏の『イエズス会の世界戦略』にアセンシィオンの報告の一部が引用されている。
イエズス会のパードレたちはこ町[長崎]を一重、二重もの柵で取り囲み、彼らのカーサの近くに砦を築いた。その砦に彼らは幾門かの大砲を有し、その港[長崎]の入口を守っていた。さらに彼らは一艘のフスタ船を有し、それは幾門かの大砲で武装されていた。…イエズス会のパードレ達は、長崎近辺に有している村落のキリスト教徒たち全員に、三万名の火縄銃兵を整えてやることができた。」(同上書 p.225-226)

このような記述を読むと、イエズス会は来たるべき戦いの為に、多くの武器弾薬を準備し、長崎近隣の信徒達に火縄銃の訓練をさせていたことが明らかである。

高橋氏の著書では江戸時代におけるイエズス会の動きについては何も書かれていないのだが、この様な大量の武器弾薬をもし江戸幕府が分捕っていたらそれなりの記録があるはずなのだが、そのような記録は存在しないようだ。
また、イエズス会による火縄銃の訓練がいつまで続けられたかは想像するしかないが、江戸幕府がキリスト教の弾圧を高めたくらいで彼らが諦めて武器・弾薬ごとポルトガルに持ち帰ることは考えにくい。また、徳川幕府の記録では、島原の乱の乱徒は「三万七千名」と記されているそうだが、アセンシィオンの報告では、キリスト教徒たち「三万名の火縄銃兵」が訓練を続けたようなのだが、この数字が近いのは偶然ではないのではないか。

私の考えだが、この訓練で用いられていた大量の武器は島原か天草か、ポルトガル船など何箇所かに分散して隠されていて、訓練は江戸時代に入ってからも何らかの形で続けられていたのではなかったか。そう考えないと、島原の乱の「一揆勢」が島原藩や唐津藩などの正規軍を一時圧倒したことの説明は困難だと思う。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加





【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-379.html

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html

島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか

島原の乱が、単純な百姓一揆とは異なる重大事件であったことは前回まで縷々記してきたが、では江戸幕府は、大量の鉄砲と弾薬を持って立て籠もった「一揆勢」をどうやって鎮圧したのであろうか。

前々回の記事で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことを書いたが、一揆鎮圧のために外国の援助を求めることについては熊本藩主・細川忠利らから批判があったようだ。
しかし、熊本藩の記録『綿考輯録』によると幕府軍の総大将松平信綱は、オランダ船を呼び寄せて砲撃させたのは、『南蛮国』の援軍を心待ちにしていたキリシタン達に対し、同じ『南蛮国』であるオランダから砲撃させて、籠城勢の希望を砕くためであったと答えたという。

原城包囲の図

確かに、幕府軍が攻め急ぐ理由はなかった。単純に戦力を比較すると「一揆勢」37千人に対し幕府方は125千人もいて、すでに原城を取り囲んでいたのである。
普通に勝負すれば幕府方の勝利は確実なのだが、拙速で相手を窮地に追い込んでしまうと、死を恐れない一揆勢が大量の武器・弾薬を用いて最後の戦いを挑んでくることになる。そうなると、幕府側も多大な犠牲を避けられなくなってしまう。
松平信綱は、正面作戦をとらずに相手の戦意を挫く戦略で臨んだようである。

前々回の記事で、松平信綱は「一揆勢」に対し、なぜ籠城して幕府軍に反抗するのかと「矢文」で問いただしたところ、幕府にも藩主にも遺恨はない、ただ「宗門」を認めて欲しいとの返事があったことを書いた。
この返事に対して松平信綱は、キリシタンだけは決して承認しなかったという。

寛永15年(1638)1月21日に「一揆勢」から、城中の大将分3名を成敗される代わりに残りの籠城者は助命して欲しいとの申し入れがあったのだが、松平信綱ら幕府上使はそれを拒否し、さらに男子はすべて成敗されても良いから妻子を助命して欲しいとの申し入れをも拒否したことが、『肥前国有馬高求郡一揆籠城之刻日々記』に記録されているそうだ。

さらに2月1日に松平信綱は、熊本藩に逮捕された天草四郎の親族に書かせた手紙を天草四郎の甥・小兵(こへい)に持たせて原城内に派遣し、一揆に対して申し入れを行わせている。
その手紙の内容が、神田千里氏の著書に要約されているので紹介したい。
第一に去年・今年に原城内から逃げ出した『落人』は命を許され、金銀を与えられ、今年は在所で年貢を免除され、耕作に励んでいること。第二にキリシタン宗旨の者は全員処刑することに決められているが、以前『異教徒』であったのに無理強いにキリシタンにされた者は『上意』により助命するので、『異教徒』を城外に解放すべきこと、ただしキリシタンは殉教を選ぼうと関知しないこと、第三に一時改宗したものの、後悔して今は元の『異教徒』に戻りたいと思っている者もまた、助命すること、第四に天草四郎は、聞くところによればわずか十五、六歳の子供であり、人々を唆(そそのか)した張本人だとは思っていない、もし側近たちが擁立しているだけなら、四郎本人であろうと助命する、との四点である。」(『宗教で読む戦国時代』p.196)

原城に籠城している「一揆勢」には、「キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになった(『御書奉書写言上扣』)」人々や、戦争の惨禍を逃れるために避難した一般住民も含まれていたようだ。松平信綱は、キリシタンと異教徒とを区別し、キリシタンは許さないが無理やりキリシタンにされて後悔している者は許すと明言して、「一揆勢」を分裂させようとしたのである。

原城攻図

このような心理戦が功を奏してかなりの者が幕府軍に投降したという。
たとえば『池田家・島原陣覚書』には、「正月晦日に水汲みにかこつけて幕府軍に投降した者もおり、この者は、城内には投降を希望する者も多いが、監視が厳しいので投降が出来ないでいると語った」と記されているという。
神田千里氏の同上書には「一揆勢」の投降の事例がいくつか紹介されており、投降者は合計で1万人を超えていたと推測しておられるのだが、正確な人数については記録が残っていないので分らないようだ。

また神田氏の著書に、「一揆勢」に敵対した住民数多くいて、当初から幕府方に味方したことが記されている。
島原地方でみてみれば、島原城下町の住民は…町のリーダーたちを中心に藩側に味方し、島原城に籠城していた。また島原半島の北方、『北目』とよばれる地域の山田、森山、野井、愛津の4ヶ村は代官の桂田長兵衛、新甚左衛門に率いられて、一揆方の千々石村と戦っている。(『島原一乱家中前後日記覚』『別当杢左エ門覚書』)」(同上書 p.199)
天草地区でも同様に多くの住民が熊本藩に逃げてきたのだそうだが、このような住民間の対立があった史実を知ると、「島原の乱」は苛酷な年貢の取立てに起因するという通説がおかしいことに誰しも気づくことになるだろう。キリスト教徒の方は認めたくないこととは思うが、島原の乱」は宗教一揆であったと理解すべきなのである。

ところで寛永15年(1638) 2月21日に、原城から夜襲をかけてきた城兵を幕府兵が討ち取り、松平信綱の命令により城兵の死骸の腹を検分させたところ、海藻を食べていることがわかったという。兵糧攻めの効果が出て、「一揆勢」の食糧が尽きかけていることが明らかになったことから、松平信綱は2月28日に総攻撃を決定したのだが、佐賀藩の鍋島勢が抜け駆けをして、予定の前日から総攻撃が開始され、諸大名も続々攻撃に参加した。
兵力的に圧倒的な討伐軍による総攻撃により原城は落城し、天草四郎は討ち取られて、乱は一気に鎮圧に向かった。

しかしながら、この「島原の乱」における幕府方の犠牲は小さくなかったようだ。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』の解説を引用する。
「…寛永14年(1637)12月20日の総攻撃には、(原城)城中の手負死人は17人であった。[山田右衛門作覚書*]これに反して、…(幕府方は)立花勢のみでも、主なる士28人討死、手負69人、雑兵手負あわせて380余人あった。2月21日、城中よりの夜襲に際しては、城中の手負死人430人、この内132人は城中に引き取った。[山田右衛門作覚書]而して征討軍の損傷は、比較的少なかった。
最後における、即ち2月27日、28日の総攻撃に於いては、諸方の討死1127人、手負7008人、合計8135人であった。[島原天草日記]而してこの役においては、牧野伝蔵、馬場三郎左衛門、榊原飛騨守、林丹波、石谷十蔵、松平甚三郎、井上筑後守ら、幕府から差遣したる目付その他の負傷者もあった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/236
*山田右衛門作:島原の乱において原城に立て篭もり、「天草四郎陣中旗」を描いた人物とされる。途中で一揆軍に疑問を感じ幕府軍に内通した。

天草四郎陣中旗

幕府方の死傷者については諸説あり、Wikipediaには「『島原記』によれば死者1,130人・負傷者6,960人、『有馬一件』によれば死者2,800人・負傷者7,700人、『オランダ商館長日記』では死者5,712人」と記されているという。

幕府方でも多くの犠牲が出たのは、「一揆勢」の鉄砲と弾薬がその原因なのだが、山田右衛門作覚書によると、
城内に鉄砲の数五百三十挺あり、玉薬正月末よりきれ申候あいだ、打ち申さず候。しかしながら、少しは嗜み、27日に打ち申し候」とある。弾薬は1月末から節約して、最後の総攻撃となった2月27日に再び用いたということだろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/233
また米についても正月十日頃より乏しくなってきたとあり、「一揆勢」が敗北するのは時間の問題であったようだ。

原城を陥落させた総攻撃で、天草四郎を討ち取ったのは肥後熊本藩の細川忠利配下の陳佐左衛門であった。細川勢は27日に原城の詰の丸の東端を乗り破り、28日に天草四郎の居場所を突き止めている。徳富蘇峰の同上書に『細川系譜家伝録』が引用されているので紹介したい。
「28日遅明、忠利出でて焼跡を見る。賊魁(ぞくかい)四郎廬舎(ろしゃ)あり。すなわち使いを信綱、氏鐡*に遣わして曰く、本丸已(すで)に焦土となる。しかも四郎が廬舎石壁を構うるを以て、未だ焼き尽くさず。即ち今火箭を放たんと欲すと。吉田十右衛門をして、之を射らしめた。陳佐左衛門四郎の首を斬獲す。午刻に及び城悉く平らぐ。諸軍凱歌を唱える。(『細川系譜家伝録』)」
*信綱、氏鐡:松平信綱(幕府軍上使)、戸田氏鐡(幕府軍副使)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/230

服部英雄

さて、この天草四郎の首は、見せしめのために晒されたのだが、その場所が興味深い場所なのである。
九州大学大学院の服部英雄教授の『原城の戦いを考え直す――新視点からの新構図―――』という論考にこう記されている。
「…天草四郎の首はポルトガル商館前に晒された。『オランダ商館日記』1638年6月15日条では『もっとも主要な人々の首4つは、約4千の他の人々の首とともに長崎に運ばれ、そして(若干は)棒に刺して梟しものにされた』とある。
 主要な首4つとは天草四郎とその姉、いとこ渡辺小左衛門、また有家監物である。(『長崎志』265頁他)その場所については出島橋または大波戸と書かれている。」(P.196)
http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/17117/p178-197.pdf

では、なぜ江戸幕府は天草四郎の首を、ポルトガル商館前に晒したのだろうか。前々回の記事で、江戸幕府は一揆の背後に外国勢力があると睨んでいて、原城に籠城した「一揆勢」は外国の援軍を待っていると考えていたことを書いた。

服部教授は、その外国勢力はポルトガルであったとし、こう解説しておられる。

首謀者たちの腐敗した首が、長崎大波戸の出島橋、すなわちポルトガル商館の前に晒された。この橋を渡る人間はポルトガル商館出入りの者のみだ。くわえてここは西坂のような獄門場ではない。すさまじく、重苦しい示威だった。敵対国への強烈な見せしめだった。
 そしていわゆる『鎖国』へ。ポルトガルは日本から放逐される。一方オランダは出島という場所に制限はされたが、通商が許された
。もし『鎖国』(海禁)がキリスト教の布教を恐れての措置だけだったのなら、明らかにキリスト教国であるオランダとの貿易は許されるはずはない。
…もっとも重要視されたのはオランダの持つ、対ポルトガル・軍事同盟者としての役割だった。オランダは明らかにキリスト教国であるにも関わらず、ポルトガルを排除し得る武力として、通商が許された。」

出島

今回の記事の冒頭で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことに触れた。この経緯は前々回の記事に書いたので繰り返さないが、この島原の乱を契機として江戸幕府はポルトガルと国交を断絶することとなり、寛永18年(1641)にキリスト教の布教を行なわないことを条件にしてオランダ商館やオランダ人を出島に強制的に移転させ、西欧諸国の中でオランダ一国に通商を許す時代が長らく続くことになるのである。
江戸幕府は、オランダがポルトガルやスペインと対抗関係にある事を利用して、ポルトガル、スペイン両国とキリスト教勢力を追い出したわけだが、もし江戸幕府が島原や天草の地をキリシタンの金城湯池のまま放置していたとしたら、この時代に九州がポルトガルかスペインの植民地になっていてもおかしくなかったし、中国大陸攻略の後はキリスト教国化した九州勢力とともにわが国本土が狙われていたことだろう。
オランダという新興国の「武力」を用い、微妙なバランスでわが国の独立を維持しようとした江戸時代の初期の外交政策は、もう少し評価されても良いのではないかと考える。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ



このエントリーをはてなブックマークに追加



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-377.html

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html

家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-379.html

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-380.html

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html

徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-385.html



島原の乱平定の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル

前回の記事で江戸幕府は、島原の乱の「一揆勢」のバックに外国勢力がいると考え、その国はポルトガルであるとしていたことを書いた。だからこそ江戸幕府は天草四郎の首を、長崎の出島にあったポルトガル商館の前に晒し、ポルトガルと国交を断絶するに至ったのである。

実際に島原の乱の「一揆勢」がどこの外国勢力と繋がっていたかどうかについては、ポルトガル側には決定的な史料はないようなのだが、江戸幕府がそう判断していたことが重要なのだ。

宗教に限らず思想についても言えることなのだが、特定地域の住民の多くが外国勢力に強く憧れを持ち、自国がその勢力に征服された方が良いと考える程洗脳されていたとしたら、その外国勢力にもしわが国を侵略する意思がある場合には、その地域住民を味方に付けることで容易にその目的を果たすことができる

前々回の記事で紹介したイエズス会のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰を読むと、わが国は関ヶ原の戦い以前から、スペインが我が国を侵略する意思を持っていたことを認識し、警戒していたことがわかる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-388.html

ヴァリニャーノ

またイエズス会東インド管区の巡察師であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会フィリピンの準管区長ライムンド・プラドに書き送った書翰にも、日本人はフィリピンのスペイン人が日本を侵略する意図を持っていることを深く疑っているので、フィリピンから日本に修道士を送るなと警告している。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

しかし、スペインはわが国を侵略する意図があることを疑われていたにもかかわらず、徳川時代に入ってからも、無断でわが国の沿岸を測量したり、禁止をしても宣教師を何度も送り込み布教を続けるので、江戸幕府がさらに警戒を強めたことは当然の事であった。

出島

一方ポルトガルについては、スペインのような過激な行動をとることがほとんどなく、はじめのうちは江戸幕府もそれほど警戒していなかった。
しかし、元和9年(1623)にポルトガル船が宣教師を入国させようとしたことが発覚してしまい、その船の大捜索が行われて一切の文書が開封され、キリスト教に関係する書類や十字架などはことごとく海中に投ぜられたという事件があった。
その後幕府は長崎に出島を造らせ、寛永13年(1636)年5月以降はポルトガル人をこの島に隔離し、ポルトガル人が出島に架かる橋を渡るのは年2回に限ることとして管理を強めたのである。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/150

その翌年に島原の乱が起こり、ポルトガル人は賊徒に援助を与えたとの嫌疑により、寛永16年(1639)に全ての通商を禁止されるに至ったのであるが、幕府がポルトガルを疑ったことは正しかったのだろうか。

以前このブログで、スペイン人は幕府の禁教令を無視して、フィリピンのマニラから宣教師を何度も送り込もうとするので、江戸幕府は寛永14年(1637)にマニラ征伐を企て、寛永15年(1638)の冬に遠征軍を出すためにオランダから船舶を借りるべく末次平蔵に交渉させ、オランダもその計画に乗り掛かったことを書いたことがある。
ところがこの計画は、幕府がマニラ征伐を企てたその年に島原の乱が起こったために、遠征軍を出す事が立ち消えになっているのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html
読者の方から、島原の乱の黒幕は実はスペインで、幕府軍のマニラ征服を中止させるために仕組んだ可能性がないかというご意見を戴いたのだが、結果としてスペインにとって望むべき結果になったのであり、確かにその可能性はありそうだと思って国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で戦前の本を探してみる。

フィリップ4世

昭和17年に出版された奈良静馬著『西班牙(スペイン)古文書を通じて見たる日本と比律賓(フィリピン)』によると、スペインと島原の乱の賊徒がつながっていたことを匂わせている。
1632年7月8日、フィリピン太守タボラがフィリップ4世に送った手紙で、日本にはキリスト教処刑反対を叫んで内乱勃発の兆しがあるということを報告し、『彼等(日本人)には人を軽侮する念と自負心とがある、少しくらい革命の起こるのも悪いことではない』と述べているを見ても、1637年に起こった島原の乱が決して一朝一夕に起こったものではなく、常にルソンのスペインと相呼応して計画されたものであることが知らるるであろう。島原の乱についての詳細はここに説かないが、この乱が如何に大仕掛けであり、如何に徳川幕府をてこずらせたかは、3万以上の者が殺戮されているのを見てもわかる。乱後、幕府のキリスト教に対する態度が、いよいよ峻烈を極め出したのもむしろ当然で、この乱の起こる2年前の1635年2月16日、スペイン王フィリップ4世は、早くも日本の空気を察して、宗教宣伝者の日本渡航禁止の勅令を出した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041580/116

またオランダは「一揆勢」とのつながりはなかったとしても、ポルトガルが背後にいると幕府に伝えて、ポルトガルに変わってわが国との交易を独占しようと狙っていた可能性も小さくないと考える。とすると、ポルトガルは濡れ衣を着せられただけだったという可能性が高い。

マカオ地図

いずれにせよ、島原の乱ののちに江戸幕府が、100年近く続いた自国との交易を急に制限しようとしたことについて、ポルトガル人は納得できなかったようだ。
特にポルトガルの拠点であったマカオは、わが国との貿易で繁栄していて、わが国との交易が禁止されると経済的に大打撃を蒙ることが確実であった。

徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』で、こう解説している。
「…ここにおいてマカオにおいては、その驚愕大方ならず、如何にしてこの禁令の解除を乞うべきかと評定し、一切貨物を積み込まず、単に使節の船として、4人の主なる使節に、立派なる献上品を携帯せしめ、日本に送ることとした。最近未だポルトガル船から、宣教師を日本に送った事実なく、また島原賊徒に与(くみ)したる事実なく、しかもマカオと日本の通商断絶は、マカオのためのみならず、日本のためにも不利益なるを、陳情すべく派遣した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/152

ポルトガルの使節は1640年(寛永17年)に、長崎に到着したのだが、日本の警備船がその船を取り囲み、一切の船具、武器などは取り去られ、使節のメンバーはほとんどが出島に監禁されてしまったという。

将軍家光の命令書の内容についての『通航一覧』の記録が、徳富蘇峰の同上書に引用されている。一部を新字新仮名で紹介しておこう。
「…かれうた(ポルトガル)渡海御禁制のところ、その趣を書き載せざること、偽謀の至りなり。しかれば、乗り来たる類(やから)、悉く斬罪に行わるべしと雖も、その船を破却し、頭分の者並びに従類はこれを誅戮(ちゅうりく)すべし。この趣を本国へ告知すべきため、下々の輩少々身命を助け、これを追い戻すべし。自近以後、万一船を渡すに於いては、いずれの湊たりというとも見合、死罪に処すべきの旨、これを相含むべきものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/153

このように、ポルトガルの親書に渡海禁制の事が書かれていなかったので、彼らを使節としては扱わず、13人をマカオに帰して、残りの61人は全員が斬首されたという。

ところが、こんな事件があったにもかかわらず、ポルトガルはわが国との交易再開を諦めなかったのである。

たまたま使節のメンバーが長崎で処刑された1640年(寛永17)に、本国で大きな動きがあった。
ポルトガルは1580年以来スペインに併合されていたのだが、スペインのフェリペ4世は増大する戦費の調達の為ポルトガル商人に重税を課し、ポルトガル貴族から権力を奪い、またポルトガルの軍隊を相次ぐスペインの対外戦争に駆り出されたりしたことから、ポルトガル人の間にスペインに対する反感が拡がっていったという。

ジョアン4世の即位

そしてわが国で島原の乱が起きた1637年に、ついにポルトガルの各都市で反乱がおき、1640年のカタルーニャの反乱をきっかけにポルトガルはスペインからの独立を果たし、ブラガンザ公がジョン4世としてポルトガル王に就任しているのである。

ポルトガルがスペインから独立したとのニュースがマカオにも到達し、ポルトガル人は再びわが国に使節を送り込んでいる。再び徳富蘇峰の解説を引用する。

「この報がマカオに着するや、彼らの元老等はこれがために、ひとたび断絶せられたる日本との通交が回復せられ得べしと考え、直ちにポルトガル王に使節を送りてその即位を賀し、マカオ市民の忠誠を致し、而して日本との通商の重要なるを具申し、リスボン(ポルトガルの首府)から、特使を日本に派遣せられんことを請願した
 この請願は聞き入れられ、前回マカオの使節が、極刑に処せられたる苦き経験あるにもかかわらず、リスボンから二艘のポルトガル船は、使節を乗せて、1647年(正保4年)7月16日(西暦)長崎に入港した。その使節の使命の要領は、従来ポルトガルはスペイン王に併治せられだ、今や全く別王に支配せらるることとなった。さればスペインの野心に対して鎖国し、ひいてポルトガルに及んだのは致し方なしとするも、今日になりては、その事情全く変更したれば、改めてポルトガルとは通商を回復せられたしというにほかならなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/154

徳川幕府はこのポルトガル船を、九州大名から徴発した5万人にて包囲したという。

江戸幕府から長崎奉行に渡された奉書にはこう書かれていたという。
「一 日本国数年御禁制のところ、南蛮よりたびたび伴天連(宣教師)を指し渡し、きりしたん宗門に引き入れ、日本人数多くほろぼし、その上徒党を結び、新儀を企てるにつき御誅罰の事
一 宗門に事寄せ、邪術を以て異国に於いて国を取る例これあり。日本に対してもその志深く候(そうろう)よし。ころび候南蛮伴天連この地に於いて白状について、いよいよ偽謀至極と思し召され候事
一 この両条により、彼の国(ポルトガル)より渡海船かたく御禁制の事。…」
彼の船渡海御停止たるのあいだ、この外は何事を申立て候とも、かって以て御承引あるまじき事
右の通りに候あいだ、自今以後いよいよ彼の国より、日本渡海の船御制禁候旨、仰せ出だされ候。この趣具(つぶさ)にこれを相含め、帰帆を申しつくべきもの也。
正保四年丁亥七月十三日」

南蛮船

この奉書に書かれているように、江戸幕府はポルトガルがキリスト教を布教することによりわが国を侵略する意図があることを疑っていたわけだが、その根拠を「ころび候南蛮伴天連この地に於いて白状」したことによるとしている。この棄教した「南蛮伴天連」が誰であるかは今となっては知る由もないが、ポルトガルが独占していたわが国との貿易利権を奪い取るための謀略があったのではなかったか。

島原の乱前後の歴史を調べていくと、戦後の長きにわたり学校やテレビ番組などで広められてきた歴史叙述の多くが嘘である事が見えてくる。
戦前の教養書などでは、普通に記されていた史実が、現在の教科書などではほとんどが無視されているわけだが、その理由がどこにあるのかを考えることも必要だ。

このブログで何度も書いているのだが、いつの時代もどこの国でも、歴史叙述というものは、勝者にとって都合よく書き替えられ、勝者にとって都合の悪い史実は無視されたり、時には史実が捻じ曲げられて叙述されるものである。
特に戦後に入ってからわが国の歴史は、戦勝国にとって都合よく書き替えられ、戦勝国やキリスト教にとって都合の悪い史実はほとんど記されていないのが現状である


別の言い方をすると、真実をありのままに書くと西洋が世界を侵略する動きにわが国も巻き込まれ、西洋諸国によって多くの国民が奴隷にされ、わが国の多くの文化財が破壊され、さらに、このような欧米諸国による世界侵略が20世紀まで続いていたことに触れざるを得ない。そのことを今の日本人の多くが認識すれば、「日本だけが悪い国であった」という偏頗な歴史観が日本国内で通用しなくなることは確実だと思うのだが、そうなると困る勢力が、国内外に今も存在しているということなのだろう。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加



島原の乱に懲りた江戸幕府はオランダに対しても強気で交渉した

島原の乱の苦い経験に余程懲りたのであろう。江戸幕府は、島原の乱平定の後相次いで訓令を下している。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に原文が掲載されているので、読み下して紹介しておこう。

寛永15年(1638)5月2日に
一 五百石以上の船、停止と、この以前仰せ出だされ候。今もって其の通りに候。然れども商売船はお許しなされ候。その段心得なすべき事。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/241

キリスト教禁教

同年9月20日には
「一 伴天連門徒、累年御制禁たりと雖(いえど)も、断絶する無く、この度九州に於いて悪逆を企ておわんぬ。これによりいよいよ諸国これを相改む。彼の宗門これありて訴人致すやからは、たとい同宗なりとも、その咎を許され、公儀よりご褒美をくださるべき旨、これを仰せ出ださる。この趣を在国大名へ老中より奉書並びに相添えご褒美の覚書、これを差し遣わさる。…
  覚
一 ばてれん*の訴人  銀子二百枚
一 いるまん*の訴人  同百枚
一 きりしたん*の訴人 同五拾枚 又は三拾枚、訴人によるべし。
右訴人致し候やからは、たとい同じ宗門たりというとも、その宗旨をころび申出るにおいては、その咎を許し、ご褒美御書付のごとく下さるべき旨、仰せ出ださるものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/242
*「ばてれん」「いるまん」はいずれもキリスト教宣教師だが、「ばてれん」は司祭職で、「いるまん」はその補佐。「きりしたん」はキリスト教信徒を意味する。

このように江戸幕府は、キリスト教の信仰を棄てない者に懸賞金を付けて衆人環視させようとしたのだが、それでも充分ではないとして、寛永16年(1639)7月5日には、さらに、このような法令を出している。

「條々
一 日本国御制禁なさるる、きりしたん宗門の義、その趣を存じながら、彼の法を弘める者。今に密々差し渡しの事。
一 宗門の族(やから)徒党を結び邪義を企つれば、すなわち御誅罰の事。
一 伴天連(ばてれん)同宗旨の者、かくれ居る所へ、彼の国よりつゝけの物送り与うる事。
右これにより自近以後、がれうた*渡海の義これを停止せられおわんぬ。この上もし差し渡すにおいては、その船を破却し、乗り来たる者は悉(ことごと)く斬罪に処すべきの旨、仰せ出ださるところなり
。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/244
*がれうた:貨物船という意味。主としてポルトガル、スペイン船を対象にしたもの。

良く知られているように、江戸幕府はすべての国との交易を閉ざしたのではなく、オランダと中国とはある制限の下に交易を許していた。

オランダ船

たとえば、オランダ人に対しては次のような申し渡しをしているが、中国に対しても同様な申し渡しがあったようだ。

「覚
一 切支丹宗門の儀、堅く御禁制の上、いよいよその旨を守り、彼の法を弘むる者乗せ来たるべからず。違背致し候わば、その船中ことごとく曲事たるべし。自然隠し乗せ来たるにおいては、同船のものたりというとも、これを申し上ぐべく、きっとご褒美下さるべきのものなり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/245

このように、オランダも中国もキリスト教の布教につながる宣教師などの渡来が厳禁され、それに違反する行為の密告を奨励してその取締りの徹底を期していたのである。

よくよく考えると、オランダもキリスト教を奉じる国であり、1568年から1648年にかけて宗主国スペインとの間で独立戦争を戦いつつ、東インドに進出してポルトガルから香辛料貿易を奪い、1624年には台湾島を占領するなど植民地を拡大していった国である。
なぜ江戸幕府は、危険な国であったはずのオランダとの交易を許したのかと誰でも疑問に感じるところだが、江戸幕府は島原の乱の直前にオランダとの外交交渉で勝利していることを知って納得した。

以前このブログでタイオワン事件(ノイツ事件)のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

簡単にこの事件の概要を振り返っておこう。

1624年にオランダが台湾島を占領し、台南の安平(アンピン)をタイオワンと呼び始め、タイオワンに寄港する外国船にいきなり10%の関税をかけはじめたのだが、その港はそれまで朱印船貿易の台湾における拠点であった。
新参者のオランダに対しわが国の朱印船はその関税支払いを拒否したことから、寛永2年(1625)には初代台湾総督ソンクが千五百斤の生糸を日本人から没収するなど様々なトラブルが起こり、オランダは寛永4年(1627)6月12日に第三代台湾総督のペーテル・ノイツを特使として日本に向かわせて、台湾を占領した事情を徳川幕府に説明し、幕府から日本商船の台湾渡航を一時禁止してもらおうとした。それを知った朱印船船長の浜田弥兵衛が先に日本に戻り、オランダ人の無法な仕打ちを長崎奉行や江戸幕府に訴えたことから、ノイツらは将軍との謁見も許されず、早々に日本を立ち去ることを命じられている。ノイツらオランダ人の弥兵衛に対する怒りは相当なものであったという。

一方、寛永5年(1628)に浜田弥兵衛を船長する船が台湾に着くと、船の荷物はオランダ人に没収された上、弥兵衛や船員は謀反人として捕えられてしまう。ところが浜田弥兵衛は十数人の部下と共に、ノイツ総督の部屋を訪ねて武器の返還と出航の許可を求めに行き、断られたタイミングで弥兵衛はノイツに飛びかかり素早く剣を抜き、ノイツを捕縛することに成功する。

浜田弥兵衛

この日から6日間ノイツは縛られたまま弥兵衛たちと交渉を続け、没収した商品の返却と、日蘭両国がそれぞれ人質を出して、相手の人質を乗せて両国の船がともに日本に向かい日本到着後に人質を釈放することで6月3日に和解が成立した。

ところが無事に両国の船が長崎に着くと、今度は江戸幕府が長崎奉行に命じてオランダ船の人質を監禁し、大砲などの武器を取り上げたばかりではなく、平戸にあったオランダ商館の帳場を閉じ、オランダ人の商売を禁じた上、その後入港してきたオランダ船まで取り押さえてしまったのである。

日本側の怒りを鎮めるために寛永9年(1632)にノイツ総督が派遣されて、オランダの人質が解放され、オランダとの貿易も再開されたのだが、このノイツは牢に入れられ、解放されたのはなんと寛永13年(1636)と、島原の乱の前年である。この年に日光東照宮の社殿が落成し、その式典にオランダのバタビア総督から日光廟に青銅製の大燭台やそのほかの珍しい唐物を献上したのを機会に、江戸幕府はノイツを牢から放してやり、この事件はようやく解決したのである。

日光東照宮 オランダ灯籠

タイオワン事件の経緯を知ると、江戸幕府がオランダに対し、外交交渉で決して負けていなかったことが理解できる。島原の乱で、オランダが「一揆勢」が籠城している原城に向かって艦砲射撃を行なって幕府に協力したことは、タイオワン事件で幕府がオランダとの間で優位に交渉を進めたことと無関係であるとは思えない。

西洋諸国の中で、オランダにだけわが国との貿易を許した江戸幕府だが、その交渉においてもオランダに対して強気の交渉を行なっていることはもっと広く知られて良いと思う。

徳富蘇峰の同上書にはこう解説されている。わかりやすいように、和暦の後に西暦年を付記しておいた。ちなみに文中の松平信綱は幕府より討伐上使として派遣され、島原の乱を鎮圧した人物である。

orandasyoukan-400.jpg

松平信綱は、島原よりの凱旋の途次、平戸に立ち寄り、オランダ商館を視察し、その宏壮城郭の如きを見て、すこぶる戒心するところあった。蓋(けだ)し平戸におけるオランダ商館は、慶長17年(1612)に第1回の建築を了し、元和2年(1616)には倉庫一棟、および埠頭を増築し、また商館を去る約一マイルの所に、木材貯蔵用の藁葺家屋を建築し、元和4年(1618)には、領主松浦氏の許可を得て、付近の家屋五十余戸を破壊し、本館を増築し、倉庫二棟、及び石造の火薬庫、病室、その他に充つべき家屋数戸を建築し、石塀をもてこれを囲んだ。その宏壮偉麗であったことは、英国商館長コックスが、驚嘆したほどでわかる
しかるにオランダ人は、これに満足せず、寛永14(1637)年、同16年(1639)には、さらに間口152フィート半、奥行45フィート、高さ24フィートの倉庫を増築した。されば当時の記録に『家倉を建て、或は2階、3階を揚げて、内には金銀珠玉を飾り、蔵は切り石をもって畳み上げ、つまりつまりに塀をかけ、その美々たる有様、奢りの至り、往還の人見るに目を驚かし、聞くにまして夥(おびただ)し』と評したのは、理(ことわ)りあることだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/246

平戸オランダ商館

平戸オランダ商館の跡地は国指定史跡となっていて、1639年に建築された倉庫が復元されているが、当時はもっと多くの建物があり、広大な敷地に建てられた城郭のような有様であったという。そして江戸幕府は、オランダに命じてこの大規模で建てられたばかりの倉庫を、破壊させているのである。
江戸幕府はどのような交渉を行なったのだろうか、徳富蘇峰の解説を続けたい。

「この寛永14年(1637)から16年(1639)に建築したる倉庫前面の破風に、会社の徽章を刻して、その左右に、耶蘇起源の年号*を割りて彫りたることが、幕府の咎めるところとなった。すなわち寛永17年(1640)9月25日、井上筑後守は、長崎奉行柘植平右衛門とともに平戸に来たり、翌日商館長以下重要館員と城内に召喚し、蘭(オランダ)人が幕府の禁令を顧みず、耶蘇生誕の年号を、倉庫の前面に彫刻するを咎め、爾後日曜日を守り、宗教の儀式を行うを禁じ、耶蘇教の年号を掲げたる倉庫は、北の新築倉庫をはじめとして、悉くこれを破壊すべきを命じた。
 日本の事情に通じたる当時のオランダ商館長カロンは、直ちにその命を遵奉し、入港中の蘭船乗組員200人を上陸せしめ、さらに約同数の日本人を使役し、即日倉庫の荷物を他に移し、破壊に着手し、5日にしてこれを終わった
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/246
*耶蘇起源の年号:西暦のこと。「耶蘇」はキリストのこと。

倉庫の破壊は寛永17年(1640)11月24日に行なわれたのだが、もしオランダ商館長のカロンが倉庫破壊にすぐに応じていなければ、オランダ人もポルトガルと同様に国外退去を命じられていたのではないだろうか。井上筑後守は、オランダが倉庫破壊に応じない場合は、威力を以てこれを強行する準備をしていたという。
しかしオランダは倉庫破壊に応じたものの、これから先日本との交易がどうなるかについては江戸幕府からの回答を長い間待たなければならなかった。

カロンに代わってオランダ商館長となったルメールが、寛永18年(1641)4月2日に江戸に呼ばれて徳川将軍家光に謁見したのち、老中から将軍の命を伝えられている。徳富蘇峰の同上書に、徳川実紀(『大猷院殿御実紀』巻四十六)の該当部分が紹介されている。

「4月2日。和蘭人2人拝し奉る。よて老臣井上筑後守政重仰せを伝う。蘭船この後長崎に着船互市すべし。天主教の徒、他の蛮船に乗り来たる事ありて、これを知らば、速やかに訴え出づべし。もし、匿し置いて後日露わるるにおいては、蘭船も通商を禁断せらるべしとなり。訳官これを伝えしかば、蘭人この後固く国禁を守り奉るべき由申して退く。[徳川実紀]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/248

とは言いながら、オランダは従来通りの活動が許されたわけではなかった。江戸幕府は、オランダ商館員以外のオランダ人は悉くジャワに放逐されたのち、寛永18年(1641)5月4日に商館員の一部を長崎に送り、6月17日には全員平戸を引き揚げさせ、狭い出島に閉じ込めたのである。

dejima10.jpg

徳富蘇峰はこう解説している。
「オランダ人はポルトガル人の後を襲(つ)いで、大いにその力を伸ばす望みを懐(いだ)いたであろう。しかも事実は全くポルトガル同様、出島に閉じ込められた。出島は扇の地形にて東西各35間余、陸に接したる北側96間余、南側118間余にて、総坪数3900余坪に過ぎぬ。周囲には板塀を廻らし、長崎の町とは、一の石橋もてこれを連絡している。橋のたもとに番小屋がある。…島内には、商館長以下の住宅、乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、また遊園を設け、牛、羊、豚等を飼養している。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/250

こんな狭い出島に閉じ込められた上に、オランダ人には自由がなかった。
出島の入口にはこのような制札が建てられていたという。
「禁制  出島
一 傾城*の外女入る事。
一 高野ひじりの外出家山伏入る事。
一 諸勧進**並びに乞食入る事。
一 出島廻り榜示杭より内、船乗り込むこと。附り 橋の下船乗り通る事。
一 故なくしてオランダ人出島より出る事。
右の條々これ相守るべきものなり。」
*傾城:遊女  
**勧進:仏教の僧侶が寺社の修理の為に必要な寄付を募る事


オランダ船の入港

出島には日本人の公用以外の出入りも禁止されており、日本人と話すこともままならなかったという。寛永19年(1642)にはオランダ東インド会社総督より老中にあてて待遇の改善を嘆訴したようだが、幕府は応じようとしなかったそうだ。
オランダ人にとっては、無条件に幕府に従うか、ポルトガルの様に追放されるかのどちらかしか選択肢は存在しなかったことになる。

今のわが国は、政治家も官僚も近隣諸国に振り回されているのが現状だが、徳川幕府は、17世紀初頭以来東インドを侵略してポルトガルから香料貿易を奪って黄金時代を迎えていた強国オランダを、長い間コントロール下に置いていたことはもっと広く知られるべきだと思う。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。この時代の日本人が勇敢に西洋人と戦った記事などをピックアップしました。良かったら覗いてみてください。

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-368.html

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-369.html

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-370.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した

Wikipediaによると「鎖国とは、江戸幕府が日本人の海外交通を禁止し、外交・貿易を制限した対外政策である。ならびに、そこから生まれた孤立状態を指す。実際には孤立しているわけではなく、李氏朝鮮及び琉球王国とは『通信』の関係にあり、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間に通商関係があった。」と記している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD

この記述は、学生時代に「鎖国」を学んだ内容にかなり近いのだが、よくよく考えるとおかしな解説である。前半の文章ではこの政策によりわが国が「孤立状態」になったことを匂わせておきながら、後半では「実際には孤立しているわけではなく」と矛盾していることを述べているのだ。

Wikipediaの記述を読み進むと、こうも書かれている。
「『鎖国』という語は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄(1760年~1806年)が、1801年成立の『鎖国論』」(写本)において初めて使用した。…実際に『鎖国』という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年、本格的に定着していくのは1858年以降とされている。さらに一般に普及する時期は明治時代以降である。」

分かりやすく言うと、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の時代には、「鎖国」という言葉が存在せず、この言葉が本格的に使われようになったのは江戸幕末期に「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に「鎖国」という言葉が広まったということなのだ。

学生時代に「鎖国」を学んだ際には、教科書に「鎖国令」という言葉が使われて、Wikipediaにも第一次から第五次まで五回に分けて「鎖国令」が出たことが解説されているのだが、実際には、江戸幕府は「鎖国令」という名の布令を一度も出していないのである。

では、家光の時代に出されたという五回の「鎖国令」とは、いったいどのような内容であったのか。上記のWikipediaの解説ではこう記されている。

「1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船*以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた
1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた
1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す
1637年~1638年(寛永14年~15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。」
*奉書船: 将軍が発給した朱印状に加えて、老中の書いた奉書という許可証をもった船

江戸幕府は「鎖国令」という名の布令は出していないにもかかわらず、後世の歴史家がこれらを「鎖国令」と呼んでいるだけの話なのだが、外国との貿易を制限し統制することと、国を閉ざすこととは異なることは言うまでもない。

国民の歴史

西尾幹二氏は『国民の歴史』で次のように述べているのだが、この指摘は全く正しいと思われる。
「第一『鎖国』という言葉は当時存在しなかった。幕府は『寛永十年の令』『寛永十六年の令』といった渡航禁止令や蛮族打払いの令を出しただけである。しかも、これら政策の立案者にも、実行者にも、国を閉ざすという意識がまったくといっていいほどなかった。『寛永の令』は国を閉ざしたものではなく、ポルトガルとの断交を意味したにすぎない
 そんなことは江戸時代史を学ぶ学者ならみな当然知っていることであり、知らなくてはならないことではないか。それなのに教科書から専門書に至るまで無反省に『鎖国』という文字を濫用するのはなんという学問上の思慮の欠落であろう。まず幕藩体制について『鎖国』という用語を日本のすべての歴史書からことごとく追放することを提言したい。
幕府がキリシタン禁止令を決めたこと、貿易を一手に国家統制下においたこと、日本人の海外渡航の自由を禁じたこと―――これらの事実はまちがいなくあった。しかしそれは『鎖国』という言葉では表現されていなかった。それらの事象が意味するものは日本の“守り”であると同時に“余裕”である。幕府が海外交渉のあるべきかたちを求めつづけ、必要とみて断乎実施した外交政策上の積極的な表現にほかならなかった。外国の怪しげな諸勢力が侵入するのを拒絶する自由独立の意志の表現であると同時に、17―18世紀にかけて主権国家体制をとり始めた西欧各国と歩調を合わせ、日本が統一国家としての体制を確立せんとしていた証拠である。…」(産経新聞社『国民の歴史』p.402)

もしわが国が、家光の時代に外国との貿易を厳しく制限していたのなら、その後の貿易高は大幅に減らなければおかしいところだが、「鎖国令」の後も、わが国の海外貿易は活発に行われていたようだ。

内田銀蔵

大正8年に出版された内田銀蔵氏の『近世の日本』に、「鎖国令」が出された後にわが国がどのような交易を行なっていたかが記されている。

「…いわゆる鎖国後におきましても、引き続いて日本に来ることを許されておりましたオランダ人およびシナ人に対して、直ちに貿易の額を制限するとか、渡航船の船数を限るということはしなかったのであります。いわゆる寛永の鎖国には、経済上の理由というものはない。そのゆえにいわゆる鎖国後しばらくの間は、長崎におきましてオランダ人およびシナ人の商売はなかなか盛んに行われていたのであります。その貿易に制限を置くようになりましたのは、その後この方から向うにやります品物の欠乏を告ぐることとなり、それからいたしまして貿易の額を限定し、あるいは渡航船の数を限るということになったのである。即ちそれはやや後のことであって、寛永*からそういうような制限をしたのではない。
 なお、この貿易のことにつきまして、簡単に申してみますと、当時シナ人はすでに南洋方面に頗(すこぶ)る移住しておりまして、東南アジアの各地において盛んに商売をしておった。この東南アジアの方に参っておったシナ人は、やはりシナ人として船を長崎によこして商売をすることを許されていた。そのゆえに、実はシナと通商関係を保ったということによりまして、日本はある程度まで東南アジア一帯の地と経済上の関係を持っておったのであります。彼等シナ人はシナ本土の貨物、ならびに東南アジアの産物を色々持ってまいりました。つぎにオランダ人は買い継ぎをしますことが頗(すこぶ)る得意でありまして、彼らは決してオランダ本国のものだけを持って参ったのではない。アジアの各地の産物を持って、日本に来たことであります。西洋の貨物も、オランダ以外で作った品をも持参したのである。」
*寛永:寛永元年(1624)~寛永21年(1645)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981125/50

貿易の相手国がオランダと中国の2国に限定されたものの、その2国については貿易の額や渡航船に関する制限はなく、わが国に西洋や東南アジアの産物が大量に運ばれてきて、盛んに交易がなされていたのである。

出島

当時の主な輸入品は、木綿、生糸、絹織物、砂糖、茶、香辛料、陶磁器などで、これらの商品をわが国は主に金、銀、銅で購ったわけだが、江戸幕府がポルトガル船の入港を禁止した「第5次鎖国令」以降の方が、わが国の対外貿易高は増加しているということを初めて知った時は驚いた。

大石慎三郎 江戸時代

大石慎三郎氏の『江戸時代』には、鎖国についてこう解説されている。

「戦国末期、ポルトガル船のわが国来航によって、極東の島国日本ははじめて世界史にとりこまれることになった(この段階の西欧人はメキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴きわまりない存在であった)。近世初頭は、世界史にとりこまれたという初体験のもとでどのように生きてゆくかという難問に、日本が必死の努力をもって対応した時代である。そして“鎖国”という体制はその解答であった。
“鎖国”という言葉の持つ語感から、われわれはわが国が、この行為によって諸外国にたいして国を閉ざして貿易、交通さえしなかったと誤解しがちであるが、鎖国の方がその前よりわが国の対外貿易額は増えているのである
。また江戸時代の“鎖国”なるものを誤解しないためには、国家というものはどんな時代でも密度の差異はともかくとして、必ず鎖国体制(対外管理体制)をとるものであることを承知しておく必要があろう。
 “鎖国”とは一度とりこまれた世界史の柵(しがらみ)から、日本が離脱することだけでなく、圧倒的な西欧諸国との軍事力(文明力)落差のもとで、日本が主体的に世界と接触するための手段であった。つまり“鎖国”とは鎖国という方法手段によるわが国の世界への“開国”であったとすべきであろう。…」(中公新書『江戸時代』p.19-20)

「鎖国」という言葉を読み下すと「国を鎖(とざ)す」となり、世界の中で孤立した状態を連想してしまうのだが、江戸幕府が寛永期に行った対外政策は、「国を閉ざす」というものではなく、わが国にキリスト教が流入し侵略の種を蒔かれることを阻止するために、貿易を幕府のコントロール下に置いたと考えるべきではないだろうか。

鎖国

「鎖国」に関して私が子供の頃から何度も聞かされてきたのは、「鎖国は日本の損失であった。もし日本が鎖国をせず、広く西洋文明を取り入れていたならば、もっと日本はもっと発展していたはずだ」という類の議論だが、このような偏狭な西洋文明至上主義的な発想でこの時代を論じることが正しいとは思えない。

もし戦国から江戸時代にかけて諸大名が自由に外国と交通できる状況が放置されていたら、早い段階でわが国の一部が西洋の植民地となっていたことだろう。大石慎三郎氏が述べている通り、この時期の西欧は「メキシコ、ペルーの例でわかるように、凶暴極まりない存在」であり、このブログで何度か紹介してきたように、わが国においてもこの時代に、多くの住民が奴隷にされ、寺や神社や仏像などが大量に破壊されたのである。
江戸幕府が寛永期に行った外交・貿易に関する諸施策については、マイナス面があったことは認めるが、マイナス面だけを見てプラス面を充分に考慮しない歴史叙述は誤りだと思う。

ところで、西尾幹二氏が「学問上の思慮の欠落」と痛烈に批判した「鎖国」に関する歴史叙述については、最近の教科書の世界ではかなり改善されてきているようだ。

オランダ船

例えば『もういちど読む 山川日本史』のp.160~162では、「鎖国令」という言葉は使われておらず、寛永12年(1635)に日本人の海外渡航と、国外にいる日本人の帰国が禁じられ、寛永16年(1639)にはポルトガル船の来航が禁止され、その結果、「朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地も長崎一港にかぎられ」、中国船からの輸入額が年々増加して次第に制限が加えられるようになったことが記されている。
『山川日本史』では、寛永期のこのような一連の政策を「鎖国政策」と表現してはいるが、注釈で「鎖国」という言葉の適否について議論がある事も述べた上で、「幕府はここ(長崎)を窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、…オランダ風説書によって海外の事情を知ることが出来た」と、昔の教科書と比べると、随分改善されていることは素直に喜びたい。

しかし、いくら教科書の叙述が代わったところで、多くの国民はその変化を知る機会を与えられているわけではなく、「鎖国令」が1639年に出されたという昔の教科書や参考書の記述をそのまま鵜呑みにして人が大半だと思う。高校や中学の教科書をこっそり変えられても、国民の常識とまでなってしまった「鎖国」のイメージは簡単には崩れない。
教科書の記述を全面的に変える時は、せめてマスコミなどでも大きく採りあげて、昔学校で教えていた内容が誤りであることを、何度も大きく伝えて欲しいものである。

**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加


【ご参考】
このブログで長崎の出島のことを何度か書きましたが、この出島にオランダ商館医として来日したドイツ人のシーボルトは来日した翌年に鳴滝塾を開設し、高野長英ら、多くの弟子を育てただけでなく、わが国が欧米に侵略されないように尽力しました。良かったら覗いてみてください。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる

出島は寛永13年(1636)に、ポルトガル人を収容させるために長崎の港内に人工的に造られた埋立地だが、ポルトガル船の日本への渡航が禁止されたのち、平戸にあったオランダ商館が移されて、寛永18年(1641)にオランダ人の居住地となった。

島の形状は縦65メートル、横190メートルの扇形で、面積は1.3ヘクタール程と狭く、その島にカピタン(商館長)の住まいのほか、商館で働く人々の住宅や乙名部屋、通詞部屋、札場、検使場、倉庫、番所など65軒の建物があり、カピタンのほか十数名のオランダ人が住んでいたのだが、閉じ込められていたという表現の方が正しいのかもしれない。

シーボルト

のちにオランダ商館医として来日し、鳴滝塾を開設して多くの弟子を育てたドイツ人のシーボルトが著した『日本交通貿易史』という本が、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されている。この本の第7章に、オランダ人が平戸から出島に居住されられた時のことが記されているので紹介しておこう。文中のル・メールはオランダ商館長である。

1641年5月11日、ル・メールは商館とともに平戸を発して長崎に至るべき命令を受けて、同月21日にこれを実行せり。出島という小島はその数年前にポルトガル人のため国立監獄の如きものとして築かれたるなるが、今はオランダ人の居住のために指定されたり
 彼らここに到着するや、またしても甚だしき侮蔑を受けたり。余は彼らの正統なる抗議を1642年総督ファン・ヂーメンが将軍の老中に宛てたる陳情書中に言いたるとおり、正しく翻訳して次に出だすべし。
『我らは長崎に到りしとき、ポルトガル人の住みし出島を居住地として指定され、ここにて監視され、何人とも話するを得ず、ポルトガルよりもなお悪し様に待遇せられ、何か悪事をなし日本国に取りて危険なる人物の如くに取り扱われしは。これ吾人を侮蔑し吾人に大損害を与えつつなされたるにて、吾人はこの島の借賃として5500両を徴めさせられたるが、これ、わが貿易の甚だしき損害なり。』
『右出島にて、また船の舷上にて神の奉仕を禁ぜられたるは我等を悒鬱(ゆううつ)ならしめ、また我らが古来の自由自主に反するなり。陸上にても舷上にても、我らの死者は海中に沈めねばならず、日本の土地はオランダ人には恵まれず。我が船舶は長崎に投錨するや、厳重に捜査せられ。船上の帆は封印せられ、櫂・舵は揚げられて、再び帆を張らねばならぬその日の確定するまで、陸上に蔵め置かる。船が検査を受けて荷卸しもすめば、我らの荷物および士官たちは検査官のため、何の訳なくに、犬の如くに棒にて打ちのめされ、そのため色々の悶着も起こることあり。我らは船の上において、そこに流鼠されたる如く、検査官に予めもうしいれずば、他の船にも陸地にも行くこと叶わず。』」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/95

ある程度誇張もあるのだろうが、オランダ人が長崎奉行から相当ひどい扱いを受けたことは読めばわかる。そのような扱いを受けながら、出島の賃借料を5500両も払わされたというのだから、オランダ人も我慢の限界だったのだろう。

オランダ領インド総督ファン・ヂーメンが江戸幕府の老中に宛てたる陳情書として長崎奉行に提出した文書の最後にはこう書かれていたという。

されば我らは日本より立退くか、またそこに留まるか決せざるべからず。いずれにせよ我らは次の年に地位高き人物に数個希珍物を添えてこれを長崎に送りて、将軍ならびに各高官閣下に敬虔なる訣別を陳べ、もしまた昔年の如き自由にて用命を受くる様にてもあらば、なお永く日本に往来して、我恭順なる恩謝を効すべし。…」

また、総督は長崎奉行に対してはこのように伝えたという。
もし陛下にして自国に於いてキリスト教国人に貿易を許さざる心積もりならば、我らはこれを諒として之に応ずべく、帰去・更来の準備は既に成り居るなり
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/96

このような書状を提出したということは、ここまで書いてもわが国から譲歩を引き出すことが出来ず、このような待遇が続くのであれば、オランダは日本を去る覚悟があったということであろう。

オランダ総督の陳情書は江戸に送られず長崎奉行で処理され、オランダ人の待遇も以降はかなり改善されたようだ。そして陳情書を出した翌年の1643年はシーボルトの前掲書には「オランダ人が出島にて経験せし利潤最も多き年のひとつにて、貿易史上の白眉とも言うべきなりしが。」と書かれている。
要するに、長崎奉行はオランダに充分な経済メリットを与えて、オランダをわが国に止め置こうとしたのである。

しかし、オランダ人の待遇が改善されたとはいえ、狭い小島で自由のない生活を強いられていたことには変わらなかった。

desima.jpg

シーボルトは前掲書にこう述べている。
商館の入口の前には厳重なる布令をうち、門番は長崎市街連絡をさえぎり、オランダ人は緊要なる理由なく、奉行の許可なくば門より出づるあたわず。日本人はオランダ人の家に宿泊すべからずして、そはただ公娼にのみに許さる。これに加え我らは国事犯人の如くに出島の内に厳かに監視され、日本人は彼らと日本語にて、しかも保証人(政府の隠密)なくば話しするを得ず、また彼らの家を訪問するを得ず。奉行の下人は倉庫の鎖錀を預かりて、オランダの商人は我が所有物の持ち主とも言い難き状況にありたり。しかるにオランダ人はすべてこれ一時の事柄にて、しばらくすれば過ぎ行くべきものならんとてこれを堪え忍び、長崎奉行、少なくもその下僚は、時々それを然かあるべきことの様に欺瞞して、オランダ人の希望を堅くせしめ。意気消沈し、不満に堪えざるに至れば、思い設けぬ貿易の利潤を啗(くら)わしてこれを励ますによりて、彼らはいつもつも今よりはよき時の来るべきを望みて、物質的利益もて自らを慰めたり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/100

このレベルでオランダ人の待遇が改善されたとは思えないのだが、長崎奉行は、彼らが不満を持ちそうなタイミングで儲けの良い取引をさせるなどして、うまくオランダ人を操っているつもりであったかもしれない。しかしながら、彼らは何度も不満を漏らしながらも、わが国との貿易で結構儲けていたのである。

シーボルトの前掲書にはこう記されている。
出島を通して日本となせし貿易は、この如き制限ありしに関わらず、長き年月オランダ領東インド会社に著しき利益を致し、金の輸出、銀の輸出も制限に制限を受けたれど、日本の銅は全インドを通じて価値騰貴したれば、日本銅の豊富なる輸出はこの損害を利潤にかえなしたり。銅の輸出は銀の自由に充分に輸出されし時代に於いても銀の輸出よりも利益有りたるが如く、今もなお輸入を棒銅に代えることは貨物を高価に金銭その物にて支払うよりも利益多きなり。」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122159/101

オランダがわが国から輸入したのは銅と樟脳が大半だったのだが、シーボルトによると、わが国から輸出される銅の品質が評価されて世界で高値で取引されるようになり、オランダはその銅で儲けていたのである。

adam-smith.jpg

日本の銅をヨーロッパに持ち込んだのはオランダの東インド会社であるが、住友グループ広報委員会のHPに、1776年に刊行されたアダムスミスの『国富論』の第1編第11章に、日本の銅のことが書かれている部分が紹介されている。

「金属鉱山の生産物は、もっとも遠くはなれていても、しばしば競争しあうことがありうるし、また事実ふつうに競争しあっている。したがって世界でもっとも多産な鉱山での卑金属の価格、まして貴金属の価格は、世界の他のすべての鉱山での金属の価格に、多かれ少なかれ影響せずにはいない。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山の銅価格にある影響を与えるにちがいない
http://sumitomo.gr.jp/magazine/feature02/index.html

18世紀には日本の銅の品質の良さが世界で知られていたわけだが、いくら高品質でも少量では、ヨーロッパの銅価格を動かすほどの存在にはなりえない。ということは、わが国は世界の銅相場を動かすほど大量の銅を海外に流出させていたということになるのである。
では、どの程度の取引がなされていたのであろうか。

日本伸銅協会のHPによると、「1697年(元禄10年)の銅の生産高は世界一の約1000万斤(6,000トン)で、長崎貿易の輸出量はその半分にも達する状況でした」と解説されている。
http://www.copper-brass.gr.jp/shindouhin/history.html

江戸時代の銅輸出実績

独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)が作成した「銅ビジネスの歴史」というレポートが公開されていて、わが国の銅の需給状況の変遷が詳細に纏められて、ネットで公開されている。
その第2章「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷」のp.54の表2-4に「江戸時代の銅輸出実績」が出ていて、元禄10年(1697)の銅輸出量はそれまでの年と比べて突出しており、890万斤(5340トン)もの輸出がなされていることがわかる。
http://mric.jogmec.go.jp/public/report/2006-08/chapter2.pdf

主要2銅山の生産推移

一方、わが国の銅の生産はどうであったか。
同じレポートのp.53の表2-2に「主要2銅山(足尾銅山、別子鉱山)の生産推移」が出ているが、この2つの銅山を合算した生産量は、1688~1701年の14年間で29,962トン、1年平均で2,340トンに過ぎなかったことがわかる。
元禄期の日本人は、オランダや中国が運んできた商品に飛び付き、その支払額はわが国の銅の生産能力を遥かに超えていた
のである。

JOGMECの同レポートによると「17世紀後半から18世紀前半までは、日本が世界第1位の銅生産国であったと推測できる」(p.54)とあるのだが、再生産が不可能な天然資源である銅を、国力の限界に近いところまで輸出して海外との交易を行なっていたわが国が、「鎖国令」のもとで国を鎖していたと考えることはおかしなことだと思う。

新井白石

拡大するばかりのオランダや中国との貿易を現状のまま放置しているとわが国の貴重な資源が枯渇してしまうことを怖れて、この取引に制限をかけようとしたのが新井白石である。

Wikipediaの「海舶互市新例」にこう解説されている。

「当時は鎖国中であったが、オランダと清とだけは長崎で貿易が行われていた。当然、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。新井白石は国外に流出した金銀の量を調査してその結果を宝永6年*4月1日に将軍徳川家宣に提出した。それによれば、わずか60年間で金239万7600両・銀37万4200貫**が国外に流出しており、そして100年間では日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅についても、45年間で11億1449万8700斤**に及んでいた。…
白石は、これを野放しにしておけば、あと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまう、と懸念して貿易制限を提案する。その後紆余曲折の末、1715年(正徳5年)、海舶互市新例(長崎新令)を定めた。」*宝永6年:西暦1709年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6%E4%BA%92%E5%B8%82%E6%96%B0%E4%BE%8B
*宝永6年:西暦1709年
**1貫:3.75キログラム  1斤:600グラム

Wikipediaの上記記事によると、この海舶互市新例によって、江戸幕府は年間の貿易枠を次のように定めたとある。わかりやすいように単位をトンで併記しておく。
清  国:年間30隻、取引額は銀6000貫(22.50トン)
オランダ:年間2隻、取引額は銀3000貫(11.25トン)

ところが、その後わが国の銅の生産量が大幅に減少していったため、この貿易枠がさらに削られていったのである。

江戸幕府の銅輸出許可割り当て

先程のJOGMECのレポートのp.54に江戸幕府の銅輸出の許可割り当てが出ているが、ピークの1697年には5340トンもあった銅の輸出が短期間で8割方カットされていることがわかる。しかし、それは銅の生産量が激減したことが背景にある。

先程紹介した主要2銅山の生産推移を見てみると、18世紀の終わりには足尾銅山の銅がほとんど採れなくなり、19世紀には銅の生産を中止していることは重要なポイントである。

この時代にわが国の産品で海外に輸出できる商品は貴金属と樟脳ぐらいしかなかったのだから、銅が採れなくなれば、貿易額が縮小されることは当然のことであった。
言葉を変えて言うと、わが国は、いわゆる「鎖国」後も、相手国はオランダと中国の2国だけではあったが、国富・国力の限界に近い水準まで貿易を行なっていたのである。

オランダ船の入港

もしわが国が徳川家光の時代に「鎖国」を選択せず、その後も独立国家を維持できていたとしても、貴金属の生産量で貿易量が制限される点については同じことで、普通の商品売買においては、貿易を自由にできるようにしたところで貿易高が大幅に拡大するわけではないのである。

前回の記事で、「鎖国」という言葉が本格的に使われるようになったのは幕末期で、18世紀までは「鎖国」という言葉すらなかったことを書いたが、つまるところこの言葉は、「開国」か「攘夷」かで国論が割れた時期に広められたと考えて良い。
わが国はオランダを除く欧米列強から見れば国を鎖していたのかもしれないが、わが国全体としては、家光の時代からずっと「鎖国」をしていたという表現が適切であるとは思えない。

しかしながら、日本史の教科書や通史には、江戸時代の「鎖国令」以降、世界の銅相場を動かすほどわが国の貿易高が拡大したという史実がどこにも書かれていない。わが国の一般向けの教養書では「江戸幕府は鎖国令を出して外交・貿易を制限し、世界の中で孤立していった」的な通説に矛盾する史実はほとんどが無視されていると言って良いのだが、その理由はどこにあるのだろうか。

このブログで、幕末の欧米列強は明らかにわが国を侵略する意図を持っていたことを何度か書いてきた。その意図を隠して彼らの為したことを正当化させるためには、わが国が問題国であり、その国を開国させることに義があったという物語を描こうとするはずだ。同様に明治維新を成し遂げたメンバーが彼らの改革を正当化するためには、江戸幕府が無能であり、討幕することに義があったと書こうとするだろう。

「鎖国」から「開国」につながる流れにおいて、江戸幕府を一方的に悪者にし無能とする歴史叙述は、欧米列強にとっても薩長にとって都合の良い歴史であって、戦後の長きにわたりわが国の学界やマスコミや教育界は、この視点に立った歴史叙述を無批判に受け入れ、拡散してきたとは言えないか。

このブログで何度か書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、勝者は自らにとって都合悪い史実を封印し、都合の良い歴史を編集して国民に拡散する傾向にある。したがって、勝者が広めようとした歴史叙述を学んでも、それが真実であるという保証はないのだ。
真実は、勝者が広めようとした歴史と、封印しようとした歴史の双方をバランスよく学び、その違いを知ることによって、少しずつ見えてくるものではないだろうか。
**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




このエントリーをはてなブックマークに追加

【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-156.html

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-158.html

ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-178.html

アメリカ人が王朝を転覆させたハワイ王国の悲劇と日本~~GHQが封印した歴史5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-180.html

アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-181.html

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

FC2カウンター
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。キーワードを含む全てのブログ記事のリストと、記事の最初の文章が表示されます。記事を探す場合は、カテゴリーで記事を追うよりも探しやすいです。
リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
最新記事
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
RSSリンクの表示
タグクラウド

年別アーカイブ一覧
RSS登録er
おすすめ商品
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
おきてがみ
QRコード
QRコード
ブログサークル
ブログサークル
ブログにフォーカスしたコミュニティーサービス(SNS)。同じ趣味の仲間とつながろう!
文字を大きく・小さく
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    人気ページランキング
    集計スタート時期が良くわかりませんが、おそらく2016年の夏ごろから現在までの記事アクセスランキングです。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史