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江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える

前回の記事で、慶長18年(1613)に全国に出された禁教令で、各地で追放処分を受けたキリスト教信徒たちの多くは長崎に避難して、長崎では教会が復活しミサも行なわれるようになったことを書いた。

家康は、晩年にはキリスト教に対し比較的厳しい態度をとったのだが、日本人信徒に対しては厳しくとも、外国人に対してはどちらかというと寛大であった。その理由は、家康自身が外国貿易のメリットを捨てきれなかったからであろう。

ところが、大坂夏の陣の翌年である元和2年(1616)の1月に、鷹狩りに出た先で徳川家康が倒れ、4月17日に駿府城において死亡してしまう。

徳川秀忠

家康の後を継いだ第二代将軍・徳川秀忠は、その後江戸幕府の対外政策を一変させている
同年の8月には支那商船を除くすべての外国商船が寄港できる港は長崎と平戸だけとなり、いかなる大名もキリシタンを召し抱えたり、領内に置くことが禁じられ、宣教師およびその補助者または従僕と交際するものは生きながら焚かれるか、または財産が没収され、これを隠匿するものは、婦人・小児および5人組までも同罪とした。また江戸、京都、大坂、堺などには外人の滞留を禁じられ、イギリス人、オランダ人もこの地方からの撤退を命ぜられている

レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』にはこう解説されている。
「この間に、特に江戸や京都の皇都、ならびに皇帝の直轄領である上方の諸州で、猛烈な迫害が始まった。奉行中の首席で、性質の温順な人物である板倉殿(板倉勝重)は、きっと新主の意に適うと信じて、無慈悲になった。彼の同僚もまた、彼に倣って、苛酷になった。諸侯も大体、政庁(幕府の意)の命令に従った。…
 長崎もこの例に漏れなかった。全町悉くキリシタンなるこの町では、爾後禁令の条項に照らして司祭を留め、天主堂を置き、公然と礼拝することは厳禁された。」(岩波文庫『日本切支丹宗門史』中巻 p.7)

しかしながら長崎では、幕府の禁教令が出ていた環境下にもかかわらず、なお数十名の司祭らが留まっていて、山の中などで潜伏するなど人目を避けて活動していたという。

山本秀煌氏の『日本基督教史. 下巻』によると、修道会派によって対応が異なっていたようだ。
「日本内地に潜伏したる各派宣教師の意見は二途に分かれて一致せず、たがいに相反目していた。耶蘇組(イエズス会)の司祭らは時宜にしたがうを可なりとし、昼はなるべく潜伏して他出せず、夜半人定*てのち、出て宗務を行なった。しかるに、フランシスカン、ドミニカン、アウガスチン派の宣教師らは時勢に辟易して陰匿するのは怯懦であり、不義である。よろしく公然教務を行なうべしと唱え、白昼出て横行し、宗務を公行するに憚らなかったため、そのことが何時しか江戸に聞こえ、将軍の憤怒を招くに至った。」
*人定て:寝静まって
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/153

そして翌元和3年(1617)1月1日、参賀に来た肥前大村藩の藩主・大村純頼(すみより)をみて、将軍・徳川秀忠はこう詰問したという。
聞く、長崎地方には今もって外国船教師の徘徊するものありと、卿よろしく速やかにこれを海外へ駆逐し、怠慢の罪を購うべし

大村純頼は、幼少の頃よりキリスト教を奉じる環境で育ったことから宣教師を虐待するに忍びず、領内に潜伏していることを知りながら看過してきたのであるが、将軍秀忠の怒りを買った後の対応もまた甘かった。
「…純頼は、宣教師に諭して若干名をマカオに去らしめ、またその余は隣邑に散在せしめて長崎地方に一人の宣教師もあらざるとの証とし、かつ2人の宣教師を捕えて之を獄に投じた。これは1つは幕府に対し、たとえ一人にても宣教師を許き出して嫌疑を避け、かつその責を塞がんためでもあった。また1つは、かくのごとくにして、今なお潜伏している宣教師を恐怖せしめて、領内より遁走せしめんが為であった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/153

大村純頼は、捕えた2人の宣教師を死罪にしたくなかったようなのだが、幕府より「直ちに死刑に処すべし」との命令を受けるに至り、涙を呑んで斬首刑に処したとある。しかしながらこの宣教師二人の処刑は、長崎では逆に多くのキリスト教徒の信仰を奮い立たせることになったようだ。
長崎付近で潜伏していたドミニコ会のアロンゾ・ナヴァレット司教とアウグスチノ会の聖ヨセフ司教は、二人の宣教師の殉教を聞いて立ち上がり、死を覚悟で公然と布教を再開し、伝え聞いて集まった三千人の教徒たちは、賛美歌を歌ってその声は天地に響いたという。

山本秀煌氏は同上書でこう解説している。
殉教者の一挙一動は教徒に至大の感化を与えてこれを激励し、先に迫害の苛責を恐れて転宗を誓った者も再び悔改して憚るところなく、苛責は勿論死刑をもなお辞せざるの態度を示したので、奉行所の官吏も教民の熱狂に委縮して袖手傍観して敢て手を下さなかったが、江戸よりの催促に応じ、やむなく僅かに宣教師を隠匿する17~8名を捕え、窃にこれを殺戮してその責を塞いだ。また大村においても宣教師の殉教以来次第に転宗者の復帰する者の数を増し、新たに洗礼を受ける者もまた加わった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/157

こんな具合で、宣教師を斬首しても、宣教師を匿った者を死罪にしても、信徒たちが棄教することには繋がらなかったのだが、江戸幕府はその後もキリスト教への弾圧の手を緩めることはなかった。
外国人宣教師で死罪となった者は少なくて、ほとんどは大村の獄中に繋がれたそうだが、日本人の信徒に対する弾圧については徹底していたという。

山本秀煌氏はこのように解説している。
日本人の各地において苛責斬殺された者は数百人にのぼり、あるいは斬罪、烙刑、磔刑に処せられ、あるいは火責、水責、笞打、石抱、釣責の拷問にかかり、あるいは手指を截られ、足腿を断たれ、あるいは赤色の十字形を彫刻せられた…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/161

ところで、江戸幕府が急にキリスト教の取締りを強化した理由はどこにあるのだろうか。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』で、こう解説している。
「当時の日本は、欧州の事情に精通したとは言わぬが、…若干の知識を有していた。その証拠は、幕閣から外人に対したるかけ引きを見てもわかる。しかしそれよりも適切なるは、眼前にマカオやルソンが、ポルトガル人やスペイン人のために、侵略・占領せられていることだ。かかる実物教訓を、鼻の先に突きつけられて、なお呑気に構えいるべき筈がない。
かつ欧州の一大厄難であった30年戦、すなわち2千万のドイツ人口を7百万に減少せしめたる戦争は、1618(元和4年)にはじまり、1648年(慶安元年)に終わった。
 されば秀忠、家光の時代は欧州はその戦争最中であった。…
 されど、それより重大なる理由は、外患ではなく、内憂であった。徳川幕府は言うまでもなく、幕府中心主義を以て立った。日本国の存亡よりも、幕府の存亡が彼らに取りては第一義であった。…
 今かりに外国と勝手に交通するとせよ。いわゆる外様の大名は、外国の勢力と相結託する危険はなきか。…あるいは外国の勢力と結託して、内乱を起こすものが無いとも限らぬ。あるいは外国に根拠を設け、策源地を作り、そこから機会を見て、日本に事をおこし、もしくは起こさしむる者も無いとは限らぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/142

蘇峰は、そのまま外国人の流入を放置していれば、当時の情勢からすればマカオやルソンがその「策源地」となり、わが国を再び戦乱に巻き込んで次第に外国人に侵略されていった可能性を示唆しているのだが、そのような戦略を考えている外国人が存在していてもおかしくない。以前このブログでも紹介したが、当時の宣教師が本国に向けて日本の武力征服する方法について記した書翰がいくつか存在するのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

キリシタン伝道の興廃

国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで昭和5年に刊行された姉崎正治氏の『切支丹伝道の興廃』という書物を読むと、禁教令が出て幕府の取締りが厳しくなり、長崎で2名の外国人宣教師が斬首された後にも、マカオからはイエズス会、マニラからはフランシスコ会の宣教師らが次々とわが国への潜入に成功していることが記されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918428/291
また山本秀煌氏の『日本基督教史』では、これだけ厳しい取り締まりをしていたにもかかわらず宣教師が侵入して欠員を補充し、迫害があったにもかかわらず3千人を教化し得たことが書かれている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943940/167
将軍秀忠の時代の殉教者は300人程度とされているが、3千人もの信徒を獲得したというのなら、キリスト教信徒数は増えていたということになる。幕府にとってみれば、いくら弾圧しても減らないキリスト教信徒は、さぞ不気味な存在であったに違いない

デマルカシオン

このブログで、ローマ教会が15世紀に、スペインやポルトガルに対し異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利を授与する教書を相次いで出していることを書いたが、その教書のおかげで、西欧諸国は何の罪の意識もなく、異教徒を虐殺したり奴隷にして売飛ばす手法でその領土と富を奪い取り、世界を植民地化してキリスト教世界に変えていったのである。そして1529年のサラゴサ条約で、スペインとポルトガルが征服するべき領土が分割され、その分割線は日本列島を真っ二つに分断していたことを知らなければ、この時代に西洋諸国から多くの宣教師や商人が渡来したことが理解できないだろう。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

キリスト教がわが国に伝来した後、宣教師らは商人と結託してキリスト教の布教を認めた地方大名に武器や火薬を売り込み、キリシタン大名がその武器や火薬を買うために大量の日本人が奴隷に売られて海外に連れ去られた。そして宣教師らの教唆によって神社仏閣が徹底的に破壊されていった。
彼らの最終目的は、わが国を植民地化し、キリスト教を奉ずる国に変えることにあったのだが、そのような宗教が広まることは、当時の大半の日本人にとっては甚だ迷惑なことであったはずだ。

確かに、無垢なキリスト教徒に対する江戸幕府の処刑は随分残酷なものがあったのだが、処刑された人数より2桁も3桁も多くの善良な人々が奴隷にされて外国に売られていた状況を放置し、キリシタン大名が強大化していくことを放置されていれば、いずれわが国は西洋の植民地にされ、わが国の伝統的文化的遺産の大半をこの時期に喪失していた可能性が小さくなかったと考えるのは、私ばかりではないだろう。

キリスト教もイスラム教も一神教であるが、一神教は異教徒や異文化の存在を容認しないところがある。過去の歴史の中で、自らが奉じる宗教や文化を広めるために、神の名においてテロ行為や他国の侵略や異教徒国家の転覆をはかる過激な局面が少なからずあったし、今もそれが世界の一部で続いているように思われる。この原理主義的な動きを封じることが難しいところは、テロ行為や国家転覆に繋がる行動を取りながら、自分のしていることを正しいと信じて疑わない信徒が存在する点にある。

キリスト教がこれ以上わが国に広まることの危険性を認識していた江戸幕府が、キリスト教の影響を排除するためにとった政策は確かに残酷なものではあったが、わが国が西欧諸国の植民地とならないためには、このような政策をとる以外にはなかったかもしれない。
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日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
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キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html



徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える

元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。

徳川家光

家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国に在留する外国人は長崎(ポルトガル人)と平戸(オランダ人)に限られることとなった。

では家光は、日本人のキリスト教に対してはどのような施策をとったのか。
家光が将軍の位についた年の12月4日に、江戸の札の辻(東京都港区)で多くのキリスト教信徒の処刑が行われている。

原主水

その処刑の中心人物は原主水(はらもんど)という武士で、以前は徳川家康に仕えていたのだが、慶長17年(1612)に江戸・京都・駿府をはじめとする直轄地に対してキリスト教禁教令が出され、キリスト教徒であった原主水は10名の旗本とともに殿中を追われることになった。しかしその後も布教を続けたために慶長19年(1614)に捕えられ、その時も棄教を拒んだために手足の指が切られた上に額に十字の烙印を押される身となったのだが、その後は教会に出入りして神父らを助けて、非合法活動であったキリスト教の布教に従事していた。

原主水らの殉教

ところが密告者があり、原主水、外国人宣教師をはじめ約50名が捕えられ、処刑の日には3つの組に分けられて江戸の町を引き回された後、火刑に処せられることとなった。
処刑される前に原主水は「キリストの為に死する時きたり、天国に行くことを喜び、進んで刑場に着す。これ我が勝利を得たる者にて、こよなき幸福なり」と述べたそうだが、他のキリシタンもほとんどが同様な態度で死んでいったという。(ヴイリヨン 著『日本聖人鮮血遺書』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1019243/206

キリスト信徒の世界では、あらゆる迫害を耐えて信仰を守り、キリストの為に命を捧げることを「殉教」と呼ぶのだが、家光の時代には数多くのキリシタン殉教者が出ている。
彼らの多くが処刑に抵抗せず従容として死に就いていった理由は、「殉教者」が聖なるものとして信徒から非常に尊崇されていたからである。だから処刑の後に多くのキリスト教信徒が、殉教者の遺骸や遺品を持ち去ろうとするので、またまた信徒が捕えられて処刑されることになる。
江戸では12月29日にはさらに37人が火炙りなどで処刑された記録があるが、この様にしてキリスト教信徒が各地で処刑されたようだ。この年には一説では天領だけで4~500人が殉教したというが、詳しい記録が残っているわけではなさそうだ。

学生時代に鎖国に至る歴史を学んだ際に、江戸幕府がキリスト教を禁教にした理由も、また鎖国に踏み切った理由も、いま一つ納得できなかった。

教科書などを読んで分かりにくい主な原因は、戦後の書物は西洋諸国の暗部を記述しない点にあると思うのだが、その理由は、その点を詳述してしまうと戦後に戦勝国が広めようとした歴史観と矛盾することになり、それでは困る勢力が今も内外に強い影響力を保持しているからではないかと考えている。

近世日本国民史 徳川幕府鎖国編

では、戦前の書物ではどう解説されているのか。
やや長文だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』(昭和10年刊)の解説を引用したい。

「…当時の耶蘇(キリスト)教徒が、ややもすれば日本主権者の命令を無視して、独自勝手の運動をしたのは、当局者の目に余る事実であった。いわば当時の宣教師そのものが、この点について、甚だ不謹慎であった。されば耶蘇教徒の災難は、半ば自ら招きたるものであるというのが、むしろ公平の見解であろう。
[耶蘇教禁圧の主な理由]
(第一)耶蘇教は、日本の国法を無視すること
(第二)耶蘇教は、日本の神仏を侮蔑、攻撃し、平地に波乱を起こさしむること
(第三)耶蘇教は、社会の落伍者を収拾し、自然に不平党の巣窟となること
(第四)耶蘇教は、スペインの手先となりて、日本侵略の間諜となること
(第五)外国の勢力を利用せんとする、内地の野心者の手引きとなるのおそれあること。
以上はおそらくは幕閣が耶蘇教禁圧のやむべからざるを認めた理由であろう。これは幕閣としては杞憂であったか、真憂であったか。いまにわかに断言すべきではないが、しかもこれを一掃的に杞憂であると抹去すべきではない。
[宣教師らの反抗運動]
特に幕閣をして、禁教の手を厳重ならしめたのは、宣教師らの反抗運動であった。彼らは退去を命じられればたちまち逃走した、隠匿した。しからざれば一たび退去し、更に商人の服装をして渡来した。しかして彼らを厳刑に処すれば、信者は踴躍(ようやく)してこれに赴き、しかして就刑者の或る者は、直ちに天子に等しき待遇を受け、しからざるも、殉教者として尊崇せられた。信徒らはその流したる一滴の血さえも、これを手巾(ハンカチ)に潤し、神聖視した
[不得止一切無差別渡航禁止]
かかる状態に際しては、幕閣たるものは、根本的にこれを杜絶(とぜつ)するの策を考えねばならぬ。いやしくも船舶が交通するにおいては、如何に宣教師渡航禁止の法律を励行するも、これを潜る者あるは、事実の証明するところで、今さら致し方がない。商売は商売、宗教は宗教との区別は、秀吉以来、家康以来、既にしばしば経験したところだ。しかもそれがことごとく水泡に帰した。こちらでは区別をするが、あちらでは区別をせぬ。さればその上は、一切無差別に、通航を禁止するしか他はないのだ
[余儀なき鎖国]
必ずしも徳川幕府の為に、耶蘇教禁止の政策を弁護するのではない。しかも彼等の立場として、まことに余儀なき次第と言わねばならない。しかしてさらに、より以上の必要は、幕府自身の自衛だ。幕府の憂いは、内には不平党の召集だ。ほかには外国の干渉、および侵襲だ。しかしてこの両者の導火線は、いずれも耶蘇教と睨(にら)んだからには、これを禁止するは、幕府の自衛策として必須である。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/138

戦後の歴史書が分りにくい理由は、わが国を植民地化することを執拗に狙っていた国のことがほとんど紹介されていない点にあるからだと考えているが、江戸幕府が自衛のために、また、外国の干渉を排除するためにキリスト教の禁教が不可欠であったことは、この点を理解しないと見えてこないのである。

この当時わが国と接触があった西洋諸国は、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスの4か国であるが、この中で最大の恐怖は、メキシコやフィリピンを植民地化したスペインであろう。

Spanish_Empire_Anachronous_0.png

スペインがわが国に対してどの程度の野心があったかについてはスペインの公文書で明記されている訳ではなさそうだが、その敵国であるオランダやイギリスから、スペインに野心があることをわが国に警告していた記録がある。
また、スペインも、わが国の沿岸を勝手に測量したり、わが国の禁令を破って宣教師を潜入させるなど、スペイン人の野心を疑わせる行為を繰り返していたので、江戸幕府が警戒したことはむしろ当然の事であった。

徳富蘇峰はこうも述べている。
禁教と鎖国は至近至切の関係がある。鎖国せねば禁教が徹底的に行われず、禁教するには鎖国が第一要件だ。しかし鎖国は禁教のためと思うべきではない。世間に発表したる理由は、耶蘇教禁圧のためというが、その実は決してそれのみではない。徳川幕府は、日本の大名もしくは個人が、外来の勢力と接触するを甚だ危険に思った。そはその勢力をもって、幕府に当たらんことを懼(おそ)れたからだ。これは幕閣としては杞憂であったか、否か。当時の大名には、それほどの気力あるものもなかったようだが、しかも幕閣の立場としては、相当の遠慮というべきであろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/144

家康の時代に、幕府は鉱山採掘や、航海、造船の技術をスペインから得ようとしたことがあったが、彼らは宣教師ばかりを送り込んできた。江戸幕府から禁教令が出されても、スペイン人はフィリピンのルソンから宣教師を送り続けたという。

そこで、フィリピンからの宣教師の潜入をストップさせるために、江戸幕府がフィリピンの征伐を検討していたことが2度ばかりあったようだ。

再び徳富蘇峰の文章を引用する。文中の「彼」というのは、関ヶ原の戦いや大坂の陣で功があり、肥前島原領主となった松倉重政のことである。

松倉重政

「彼は寛永7年(1630)、自力にてルソンを征服せんと幕府に請うた。彼は耶蘇教の根本療治は、ルソンを退治するにある。もし某(それがし)に十万石の朱印を賜い、ルソンを領することを許されなば、独力にてこれに当たらんと申し出でた。かくて彼は吉岡九左衛門、木村権之丞に20人の足軽をつけ、絲屋随右衛門の船に乗せて、偵察に赴かしめた。彼らは11月11日に出帆し、木村は途中に死し、吉岡はマニラに入り、翌年6月に帰朝したが、松倉は前年吉岡らの出帆後いくばくもなく、11月16日に逝き、壮図は空しく彼とともに葬り去られた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/145

松倉重政は、吉岡九左衛門らを乗せた船が出帆してわずか5日後に亡くなったために、この計画は消滅してしまったのだが、この7年後に江戸幕府は再びフィリピン征伐を計画している。

寛永14年(1637)に、幕府はルソン征伐を企てた。これは宣教師の根拠地を覆すと同時に、彼らが琉球を経て、密貿易を行なうを杜絶するためであった。而して幕府は、寛永15年(1638)」の冬、遠征軍を出す計画を立て、末次平蔵をして、兵士輸送の為に、蘭(オランダ)人から船舶を借るべく交渉せしめた。蘭人もその相談に乗りかかり、さらに戦艦をも供給すべく準備したが、島原の一揆の為に、中絶した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/146

では、もし江戸幕府がフィリピン征伐に動いていたとしたら、江戸幕府が勝利した可能性はどの程度あったのだろうか。

当時スペインやポルトガルが多くの国々の領土を簡単に侵略できたのは、弓矢しか武器を持たない国が大半であったからなのであって、わが国だけは鉄砲伝来の翌年に鉄砲の大量生産に成功し、16世紀の末期には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、フィリピンの国防は日本人の傭兵部隊に頼り、武器も日本から輸入していたことを知る必要がある。
もし日本から傭兵と武器を調達できなければ、スペイン人はそう長くは戦えなかっただろうし、徳川幕府軍が日本人傭兵やフィリピンの原住民と繋がれば、スペイン人を追い出すことは、それほど難しくはなかったと考えられる
のだ。
なぜなら、当時のスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしており、フィリピンを守るためにわざわざ本国から軍隊を派遣するような余裕は考えにくく、もし長期戦になった場合に武器の補充は容易ではなかったからである。

以前このブログで書いたが、フィリピンでは1603年にスペイン人数名が日本人傭兵400人を引き連れて、支那人1500人以上の暴動の鎮圧に成功した記録がある。しかし、その3年後の1606年には、スペイン人は強すぎて多すぎる日本人を警戒するようになり、フィリピンから日本人を放逐しようとする動きが起こっている。

山田長政

シャム国では1621年に山田長政率いる日本人を中心とする部隊が、スペイン艦隊の二度にわたるアユタヤ侵攻をいずれも退けている
また同じ1621年には、オランダとイギリスの艦隊が日本行のポルトガル船とそれに乗っていたスペイン人宣教師を江戸幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めている
この時2代将軍秀忠は、このオランダ・イギリスの申し出を拒否したばかりではなく、逆に『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』との禁令を発し、オランダ・イギリス両国に大きな衝撃を与えることになったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html
この様な史実を知ると、「日の沈むことのない帝国」と言われたスペインも、またオランダもイギリスも、それほどの強国であったとは思えなくなる。

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菊池寛の『海外に雄飛した人々』(昭和16年刊)という書物に、英国人のバラード中将が、次のような発言をしていることが紹介されている。

ヨーロッパ諸国民の立場から言えば、徳川幕府が300年間日本人の海外発展を禁じてしまったのは、もつけの幸いであるというべきである。もし、日本が、秀吉の征韓後の経験にかんがみ、盛んに大艦や巨船を建造し、ヨーロッパ諸国と交通接触していたならば、スペイン・ポルトガル・オランダなどの植民地は、あげて皆日本のものとなっていたであろう。否、インドをイギリスが支配することも出来なかったかもしれない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/72

現在はともかくとして、少なくとも当時の日本人は非常に勇敢であり、江戸幕府がその気になればこの時期に東南アジアから白人勢力を排除できたということを、英国の軍人が述べていることは驚きだ。

江戸幕府がキリスト教を禁じ鎖国に至る流れについての歴史叙述については、戦前に出版された書物の方が、当時の世界の動きを良く伝えていてはるかにわかりやすい。
戦後の書物では世界の動きをほとんど触れずに、キリスト教徒を激しく迫害したことや江戸幕府の偏狭さを記して禁教から鎖国が論じられることが多いのだが、これではなぜ江戸幕府がキリスト教を禁じ、鎖国するに至ったのかがスッキリ理解できるはずがないと思う。

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フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
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台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
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日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える
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日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html


わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html




徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き

江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。

このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が相次いで起こっている。

具体的な事件を説明する前に、当時の列強の動きを記しておこう。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』から、徳富蘇峰の著した『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』の文章をしばらく引用する。

「…(イギリスとオランダは) 1619年(元和5年)6月12日、にロンドンに於いて、両国防禦条約を締結した。これはイギリス・オランダ両国各自の東インド商会が、共同してモロッカ諸島の貿易を営み、香料の3分の2はオランダ人、3分の1はイギリス人の所得とし、両商会より各10隻の戦艦を出して、防御艦隊を組織し、もってスペインポルトガル両国の艦隊に当たり、その植民地を侵し、両国の利益を拡張するためであった。
その結果、平戸はいよいよ両国艦隊の根拠地となった。かくて元和6年7月、両国艦隊10隻のうち、おのおの4隻ずつ、平戸に入港した
。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/127

自国の利益拡大の為に勝手に平戸を軍事拠点にされて、いきなり戦艦を送り込まれたわが国にとってはとんでもない話なのだが、その元和6年(1620)に平山常陳(ひらやまじょうちん)なる人物が船長を務める朱印船が、日本人船員の外ポルトガル人とスペイン人を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、イギリスおよびオランダの船隊によって拿捕されるという事件が起きている。(平山常陳事件)

この事件の顛末は徳富蘇峰の同上書にも記されているが、Wikipediaなどにも概要がまとめられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E5%B8%B8%E9%99%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

イギリス平戸商館は「日本入国を禁じられている宣教師を乗船させた」として朱印船の積荷を没収してしまったのだが、平山常陳らは「乗っていたのは宣教師ではなく商人である」とし、積荷の没収を「海賊行為」であるとして長崎奉行に訴えた。
双方の言い分が対立し2年がかりで調査が行われた末、証言により朱印船に2名の宣教師が乗っていたことが判明し、元和8年(1622)7月13日に長崎で平山常陳と二人の宣教師が火焙りとなり、朱印船の船員12名が斬首されている。

この事件は、徳川幕府のキリスト教徒に対する不信感を決定づけるものとなり、平山常陳らが処刑された翌月の8月5日には、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑される事件が起きている。世に言う「元和の大殉教」だが、わが国のキリスト教の歴史の中で最も多くの信徒が同時に処刑された事件なのだそうだ。

元和大殉教図

この処刑の様子を実見した者がマカオで描いたという「元和大殉教図」が、イエズス会本部であったローマのジェス教会に保管されている。
ネットで見つけた画像を拡大して紹介しておくが、処刑されたのは宣教師や信徒であり、女性や子供が多く描かれているのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員が処刑されたからだという。

イギリス・オランダ勢力とスペイン・ポルトガル勢力との覇権争いは我が国だけで起こったことではなく世界各地で行われていて、当時海外にいた多くの日本人もこの争いに巻き込まれたことも書かねばならない。

以前このブログでも紹介したことがあるが、藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』にこんな記述がある。

「翌年(元和7年:1621)7月、両国(オランダ・イギリス)の艦隊は、台湾近海で捕えた、日本行のポルトガル船とスペイン人宣教師を幕府に突きだし、マニラ(スペインの拠点)・マカオ(ポルトガルの拠点)を滅ぼすために、2千~3千人の日本兵を派遣することを幕府に求めた。イギリス・オランダ対スペイン・ポルトガルの東南アジア戦争に、イギリス・オランダの傭兵として、幕府公認の日本軍を動員しようというのであった
しかし、もともと友好・中立と交易の安全・自由を原則とし、国際紛争への介入に慎重だった幕府はこれを拒否した。そればかりか、7月27日付けで、幕府(2代将軍:徳川秀忠)は突然『異国へ人身売買ならびに武具類いっさい差し渡すまじ』と言う…禁令を発した。」(『雑兵たちの戦場』p.275-276)

このように徳川幕府は日本兵の派遣を拒絶したのだが、オランダが諦めたわけではなかったのだ。その翌年にオランダは17隻の艦隊を派遣し、千百人の日本人傭兵やマレー人の傭兵を集めてポルトガル人の根拠地たるマカオを攻めているのだ。

このブログで何度か記したとおり、この時期には日本人商人以外に海外に奴隷として売られた日本人が数多くいて、彼らは勇敢に戦うと評価されて、それぞれの国で傭兵として好んで使われていたことを知らねばならない。

徳富蘇峰はこの戦いについて同上書にこう述べている。ちなみに文中の「耶蘇教」とは「キリスト教」のことである。

オランダ船

「翻(ひるがえ)って見るに、東洋におけるオランダとポルトガルとの競争は、すこぶる激甚であった。すなわち1622年(元和8年)6月、オランダの17隻の艦隊は、9百のオランダ人、千百の日本人、およびマレー人を率いて、ポルトガル人の根拠地たるマカオを攻めたが、ほとんどその半数は、あるいは、擒(とりこ)にせられ、あるいは死し、空しく失敗におわった。元来、此の挙に日本人の加入したるは、訝(いぶかし)しきの至りだ。そは1621年(元和7年)の布達にて、平戸から日本人の船員を伴い、若しくは軍需品を輸出するを、厳禁せられいたからだ。併しいずれにしても、日本人の参加したる事実は、相違ない
スペインもポルトガルも、耶蘇教徒として、徳川幕府の最も注目したるところであった。
而して幕府はマニラが、スペインの耶蘇教師の本場である如く、またマカオもポルトガルの耶蘇教師の本場たるを熟知した。さればポルトガル人に対しても、しばしば耶蘇教師の輸入について、戒飭(かいちょく)*を加えた。ポルトガル人も、固より之に恭順するを欲せざるではなかった。併しながら耶蘇教師の熱心は、如何ともする能わなかった。彼らはいかなる厳刑、酷罰をも意とせず、否むしろこれを本望として、禁を犯して入り来たった。その一例を挙げれば、
『1625年(寛永2年)マカオの使者は、常例の如く好遇せられた。しかるにイエズス会の司教パセコが、同年12月17日、口之津にて就縛(じゅばく)したるの報達し、彼が使者の一行の中に混して来たる由を聞くや、たちまち霹靂(へきれき)一下、万事休せんとした。しかも彼は禁令発布以前に渡航したる事情、明らかになりたる為め、首尾よく将軍―家光―に謁見を遂げた。』[ムルドック日本史]
とある。蓋しこのパセコは1614年(慶長19年)に追放せられ、翌年商人に扮して、又入国し、而して1626年(寛永3年)長崎において、殉教者となったのだ。これにて済んだが、しかも幕府のポルトガルに対する態度はいよいよ細心を加えてきた。」(『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』)
*戒飭:注意を与えて慎ませる事
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/148

この様に、江戸幕府が禁じていたにもかかわらず宣教師を送り込んできたのはスペインだけでなくポルトガルも同様であったのだ。そして、江戸幕府だけでなくスペイン国王も、宣教師がわが国に入国することを禁止している。
1628年に、スペイン国王のフェリペ4世(当時はポルトガル国王を兼務)も、今後15年間、フィリピンから日本に宣教師が入ることを禁止しているのだが、その効果はなかった。
わが国は寛永元年(1624)にスペインとの国交を断絶していたのだが、彼らはスペイン国王の命令をも無視して1632年(寛永9年)には、11人の宣教師が4組に分かれて、シナのジャンク船に乗ってフィリピンのマニラから入国し、さらに1637年には5名、1642年にはさらに4人の宣教師がわが国に密入国に成功
したという。

彼らが禁を冒して宣教師を送り込んだのは、キリスト教をわが国に広めることにより、わが国に対する干渉を容易とするためなのだが、その結果として多くの日本人が幕府に処刑されることとなった。

再び徳富蘇峰の文章を紹介する。
「徳川幕府耶蘇教迫害のはじめ(1614年[慶長19年])より、1635年(寛永12年)まで、日本人にして、耶蘇教を信奉したために、処刑せられたるもの、無慮28万人にのぼるという。[ムルドック日本史]また以て如何に幕府が、全力を挙げて禁教令を励行したかがわかる。然るにかかわらず、なお宣教師の入国の相絶えざるに於いては、幕府はただ断然日本国を周辺より隔離するのほかに手段はあるまい。鎖国令の出で来たるは、即ち必然の結論と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/149

わが国としては外国の干渉を排除するためにはキリスト教の禁教は不可欠であったのだが、いくら禁止しても商人に扮して宣教師が入国してくるのでは、海外貿易を厳しく制限していく以外に方法がなかったのである

ポルトガルについてはスペイン程ひどいやり方ではなかったので、幕府は、はじめのうちは手加減していたようだが、次第に取締りが厳しくなっていく。

朱印船

まず、寛永8年(1631)に、奉書船制度が開始され、朱印船朱印状以外に老中の奉書が必要となり、寛永10年に(1633)には、奉書船以外の渡航が禁じられるに至った。(第1次鎖国令)

出島

翌年第1次鎖国令が再通達され(第2次鎖国令)、長崎に出島の建設が開始された。
そして寛永12年(1635)には、中国オランダなどの外国船の入港を長崎のみに限定し、東南アジア方面への日本人の渡航も、日本人の帰国も禁じられることとなった。(第3次鎖国令)
また寛永13年(1636)には、貿易に無関係なポルトガル人と妻子をマカオに追放し残りのポルトガル人を出島に移して隔離した。(第4次鎖国令)

鎖国

出島では、一切邦人との雑居を禁じただけでなく、この出島から本地に接続している橋を渡ることが許されたのは、年に二度、すなわち入港と出港の時のみに限られたという。
そして寛永16年(1639)には、ポルトガル船の入港を禁止(第5次鎖国令)し、この年から嘉永7年(1854)の日米和親条約締結までの期間を、わが国では「鎖国」と呼んでいるのだが、この「鎖国」という言葉が広く使われるようになったのは明治以降の事であり、この当時の東北アジア諸国においても「海禁政策」が採られており、わが国だけが国を閉ざした訳ではないのだ。

江戸幕府がポルトガル人を追放したために、せっかく完成した出島は無人状態となってしまったのだが、寛永18年(1641)にオランダ東インド会社の商館が平戸から出島に移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人がこの地に住むようなったという。

しかしながら、ポルトガルはわが国との交易をここで諦めたわけではなかったようだ

ジョアン4世

1640年(寛永17年)にポルトガルはスペインから独立してブラガンサ公・ジョアン4世がポルトガル国王に就任したのだが、マカオのポルトガル人はこれを機にこれで日本との交易が再開されることを期待したという
彼らは直ちに新国王に使節を送ってその即位を祝福するとともに日本との通商の重要性を説き、その再開のために本国から日本に向けて特使の派遣を請願している。

この請願が認められて、首都のリスボンから使節を乗せて2艘の船が出港し、正保4年(1647)に長崎に入港したのだが、江戸幕府は、この船を、九州大名より徴発した5万人で包囲し、追い払っている

この時に、江戸幕府が長崎奉行に対して用意した奉書が、徳富蘇峰の同上書に紹介されている。
「一 日本国数年御制禁の処、南蛮より度々伴天連を指し渡し、きりしたん宗門に引き入れ、日本人数多く滅ぼし、その上徒党を結び、新儀を企てるにつき、御誅罰の事
 一 宗門に事寄せ、邪術を以て異国に於いて国を取る例これあり。日本に対してもその志深く候よし。ころび候南蛮伴天連、この地に於いて白状について、いよいよ偽謀至極と思し召され候こと
一 この両条により、かの国より渡海船かたく御制禁のこと…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/156

Beerstraaten,_Battle_of_Scheveningen

私も長いあいだ、江戸幕府の「鎖国」政策が「引きこもり」のような印象を持っていたのだが、この様な経緯を知ると江戸幕府の判断も納得できるのである。もし江戸幕府が「鎖国」という選択をしなければ、わが国はスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地争奪戦に巻き込まれて、相当国力を消耗していたことに違いないだろう。1652年にはイギリス海峡の制海権をめぐってイギリスとオランダとの戦争が開始しているが、この二国の戦いは18世紀の終わり近くまで延々と続いたのである。(第1次~第4次英蘭戦争)

西洋列強が「大航海時代」とよばれる時代にキリスト教宣教師を先兵にして世界中を侵略し、現地人を奴隷にし、それぞれの文化を破壊したことを書かずして、この時代を叙述することにそもそも無理があるのだと思う。
戦後になって、西洋社会にとって都合の良いように描き直された日本史の歴史叙述が、全面的に見直される日は来るのだろうか。

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このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
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キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
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江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
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徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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