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田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか

学生時代に田沼意次(たぬまおきつぐ)を学んだ時に、「賄賂政治」をしたなどと書かれていてあまり良いイメージを持っていなかったのだが、最近では田沼時代が評価されてきているようだ。

たとえば一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』を読むと、昔の教科書とは異なる書き方になっていることに気付く。

田沼意次

「…10代将軍家治は直接には政治を指導せず、この時代に権勢をふるったのは田沼意次であった。意次は600石の小身から身をおこして大名となり、側用人、ついで老中として20年間も幕政の中心にいたので、この時代を田沼時代とよんでいる。
意次は幕府の財政を救うため、大商人たちの経済力を利用してそれまでにない積極的な政策をとった。幕府直営の座を設けてと銅や鉄を専売にしたり、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上・冥加金を徴収したり、俵物とよばれる海産物の増産につとめて中国に輸出するなど、幕府の収入の増大をはかった
しかし下総の印旛沼や手賀沼の干拓事業は、途中で大洪水にあって失敗し、武蔵・上野に反物や綿糸の検査料を徴収しようとしたことも、産地の農民が一揆をおこして抵抗したため廃止となった。
意次が新しい計画をたてると、その利権をえようとする業者が暗躍し、役人のあいだにも公然と賄賂がおこなわれて、政治はみだれ、新事業も健全な発展をみることができなかった。」(『もう一度読む 山川の日本史』p.186)

昔の教科書では、田沼時代に賄賂が横行したこと以外は印旛沼や手賀沼の干拓事業のことが少し書かれていた程度の印象しかないのだが、明和7年(1770)には幕府の備蓄金が171万7529両となって5代将軍綱吉以来の最高値となり、幕府の財政基盤の確立に成功したことは評価して良いだろう。

Tanuma Okitsugu

外国人による日本研究の先駆者で同志社大学で教鞭をとり、瑞宝章を受勲したジョン・ホイットニー・ホール氏は『Tanuma Okitsugu』において『意次は近代日本の先駆者』と評価しているという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

しかしながら、天明3年(1783)の浅間山噴火などを契機として大凶作となり、米価が高騰して各地で百姓一揆が起こる政情不安な時に、意次の実子である若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺され、それ以降田沼意次の力が衰えていく。

田沼意次の失脚についてWikipediaにはこう記されている。
天明6年(1786)8月25日、将軍家治が死去。…8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。
その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された
。長男の意知は一昨年に暗殺されており、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。…
その2年後にあたる天明8年(1788)6月24日、江戸で死去。享年70。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

田沼意次の末路は随分苛烈なものとなったのだが、田沼が失脚した後、天明7年(1787)に徳川家斉が第11代将軍に就任し、松平定信が老中首座となっている。その後定信が主導する反田沼派が井伊直幸、水野忠友、松平康福らの田沼派の老中や大老を一掃し、田沼派路線を否定して幕風紀粛清、重農主義に回帰する等の寛政の改革に乗り出したのだが、むしろ財政は悪化して田沼時代の資産を食いつぶす形になったという。

このあたりの激しい権力闘争を理解するために、田沼意次がどういう経緯で600石の小姓から老中にのし上がることが出来たかを振り返っておこう。

田沼意次は、第八代将軍徳川吉宗の小姓であった田沼意行(たぬまおきゆき)の長男として享保4年(1719)に生まれ、享保19年(1734)には、後に将軍となる徳川家重の小姓に抜擢されたのだが、その年の年末に父が死去し父の遺跡600石を継いでいる。

延享2年(1745)に家重が第九代将軍に就任し、それに伴って意次は本丸に仕えることとなり、寛延元年(1748)に1,400石を加増され、宝暦5年(1755)には更に3千石を加増され、さらに宝暦8年(1758) 1万石の大名に取り立てられている
宝暦11年(1761)、将軍家重が死去した後も、世子の第十代将軍徳川家治の信任は厚く、明和4年(1767)にはさらに側用人へと出世し5千石の加増を受け、さらに従四位下に進んで2万石の相良城主となり、明和6年(1769)には侍従にあがり老中格。安永元年(1772)には相良藩5万7千石の大名に取り立てられ、老中を兼任している。

なぜ意次がこのような破格の出世を遂げることが出来たかについては、家重、家治の2代にわたり将軍からの信頼が厚かったことがあるのだが、この2人がどのような経緯で将軍となり、またどのような人物であったのかを知ることがポイントになる。

徳川家重

江戸幕府の公式記録である『徳川実記』には、徳川家重について「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とあり、さらに「御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが、万機の事ども、よく大臣に委任せられ、御治世十六年の間、四海波静かに万民無為の化に俗しけるは、有徳院(吉宗)殿の御余慶といへども、しかしながらよく守成の業をなし給ふ」と書かれている。生来虚弱の上言語不明瞭であったらしいのだが、要するに徳川幕府ですら第九代将軍の家重が政治家としては無能であったことを認めているようなものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D

家重は八代将軍吉宗の長男であったのだが、次男の宗武は幼少より聡明で将軍後継者に推す声もあったようだが、結局吉宗は家重を自分の後継者としている

徳川吉宗

その理由については、吉宗が長幼の序を重んじたという説や、家重の嫡男・家治が聡明であったのでその将来に期待したなどという説もあれば、吉宗が将軍職を譲ってからも幕政に影響力を保持しようとしたという説もあり、家重は言語不明瞭ではあったが頭は良かったという説もある。いずれの説が正しいかは読者の皆さんの判断にお任せすることにして、吉宗の後継を誰にするかで、家重の兄弟間で揉め事があったことは押さえておくべきである。

徳川吉宗には長男が家重で、ほかに聡明な二男・宗武(むねたけ)や四男・宗尹(むねただ)がいて、この二人のいずれかを新将軍に推す動きがあったという。特に宗武は本人も将軍となることを欲していたようである。
しかし吉宗は、家重を将軍とすることを決めたことに不満を持っていた次男の宗武を3年間登城停止処分とし、次期将軍に宗武を推した老中・松平乗邑も突如罷免している

また徳川吉宗は、次男の宗武、四男の宗尹を養子に出さずに部屋住みのような形で江戸城内に留めて、田安徳川家(初代当主:宗武)、一橋徳川家(初代当主:宗尹)を創設し、後に家重の二男の重好も別家として取立てて清水徳川家が創設され(田安・一橋・清水の三家を御三卿と呼ぶ)、徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担わせている。
つまるところ吉宗は、自分の後継者決定に関わるトラブルを、それぞれの子孫から将来的に将軍が生まれる可能性があることを示すことで解決しようとしたと理解すればよいのだろうか。

徳川家治

では、第十代将軍の家治はどんな人物であったのか。
Wikipediaによると家治は幼少より聡明で、祖父である大御所の徳川吉宗の期待を一身に受けて育ち、吉宗は死ぬまで家治に帝王学等を直接指導したとある。
そして家治は、宝暦10年(1760)に父・家重の隠居により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、父の死後はその遺言に従って田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元の死亡の後は幕政を老中に任命した田沼に任せるようになり、自らは好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなったという。

ところが、安永8年(1779)、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代を自分の養子にしている。
そして天明6年(1786)に家治が50歳で急死したため、15歳の豊千代が第11代将軍・徳川家斉となり、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された陸奥白河藩主の松平定信を老中首座に任命した
のである。

松平定信

そしてこの松平定信が寛政の改革を行ない、田沼派の老中や大老が追い出したのだが、なぜ松平定信が激しく田沼派を追い出そうとしたかを考えると、血のつながりの問題に辿りつく。重要なポイントであるのだが、松平定信は、吉宗の後継を誰にするかで揉めた田安徳川家の初代当主である宗武の七男なのである。田安家にせよ一橋家にせよ、無能で何を言っているかもわからないような家重を支えた田沼らを、快く思っていない可能性は高かったはずだ。

田沼の悪評は田沼悪人説の根拠となる史料も田沼失脚後に政敵たちにより口述されたものなのである。もし世に言われるほどの賄賂を受け取っていたのなら、柳沢吉保の六義園のように、何か形になるものがあってもおかしくないのだが田沼には何もないのである。また、意次が失脚した際に巨万の財産が没収されたというような話もないのだという。
伊達藩主の伊達重村が昇進のために老中筆頭の松平武元と側衆の田沼意次と大奥老女高岳に金品を用意して面会を申し込んだ記録が『伊達家文書』に残されているのだそうだが、それによると松平武元と老女高岳は受け取り、田沼意次は「わざわざ御出にもおよばず」と断っているという。

江戸時代

日本近世史の権威であった故・大石慎三郎氏は「田沼意次に関する汚職談には歴史学の問題として信頼するに足るものは一つもないのみならず、その主要なもののなかには明らかに先学の過誤にもとづくものさえある有様である」と書いておられるのだ。(中公新書『江戸時代』p.207)

少し考えればわかる事だが、田沼意次を失脚させた側である松平定信らにとっては、田沼時代の政策を批判してその評価を下げることが、相対的に自らの評価を高めることにつながることになるのである。いくら公式記録に書かれていることであっても、政敵側が編集した文書を長きにわたり鵜呑みにしてきた日本史研究者の研究姿勢に問題はなかったか
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

『明暦の大火』の火元の謎を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
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押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html




田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか

天明4年(1784)3月24日、田沼意次の長男である田沼意知(おきとも)が江戸城内において、新番組の佐野政言(さのまさこと)に斬りつけられ、その8日後に死亡している。
田沼意知は天明3年(1783)に若年寄に抜擢され、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、34歳という若さで命を奪われてしまった。

イサーク・ティチング

Wikipediaにはこの暗殺事件について、こう記されている。
「江戸市民の間では佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に田沼意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた』という落首を世界に伝え、『田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである』と書き残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E7%9F%A5

オランダ商館長が田沼意次・意知による政策を高く評価していたことがこの一文からもわかるのだが、この人物が、田沼意知の暗殺に関してさらに驚くべきことを書いていることを最近知った。

田沼意次の時代

日本近世史の権威・大石慎三郎氏の『田沼意次の時代』にイサーク・ティチングの記録が一部紹介されている。大石氏の文章をしばらく引用したい。文中の「佐野善左衛門」は「佐野政言」のことである。

日本風俗図誌

「…佐野善左衛門はまったく自分の私怨からの行為と申し立てているのだが、世間はそうはとらなったようである。たとえばオランダの長崎商館長であるチチングは、その著『日本風俗図誌』のなかで、この事件についてつぎのように書いている。
『この殺人事件に伴ういろいろの事情から推察するに、もっとも幕府の高い位にある高官数名がこの事件にあずかっており、またこの事件を使嗾(しそう)*しているように思われる。』もちろんその高官の1人が、自分が若いとき、懐に剣を忍ばせて田沼意次を刺そうと機会を窺ったことがあるという松平定信である。チチングの記述はさらにつぎのように続いている。
もともとこの暗殺の意図は、田沼主殿頭と息子の山城守(意知)の改革を妨げるために、その父親の方を殺すことにあったとさえいわれる。…しかしながら、父親の方はもう年をとっているので、間もなく死ぬだろうし、死ねば自然にその計画もやむであろう。しかし息子はまだ若い盛りだし、彼らがこれまで考えていたいろいろの改革を十分実行するだけの時間がある。のみならず、父親から、たった一人の息子を奪ってしまえば、それ以上に父親にとって痛烈な打撃はありえないはずだ、ということである。こういうわけで、息子を殺すことが決定したのである』というのである。」(『田沼意次の時代』p.87)
*使嗾:指図してそそのかすこと。けしかけること。

島津重豪

では、イサーク・ティチングはどのような交流があり、このような情報をどこから得ていたのだろうか。Wikipediaによると
「…日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ著『ベンガル航海記』に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。そこには、将軍の義父がティチング氏と始終文通を行い、ティチング氏の目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0

もしティチングが、島津重豪から田沼意次暗殺事件には松平定信らが関わっていることを知らされていたのであるなら、その情報は真実に近いと考えるべきではないか。
なにしろ松平定信は江戸幕府の老中として11代将軍家斉を支えた人物であり、家斉の岳父である島津重豪には幕府の裏情報が耳に入っていてもおかしくない立場であるし、ティチングの著書『日本風俗図誌』は彼の死後1820年にパリで出版されており、真実を歪める動機は存在しないのだ。

そもそも、松平定信らが田沼意知を暗殺してでもやめさせようとした「改革」とは、どのような内容のものであったのか。次に田沼父子の「改革」について見てみたい。

諸藩が年貢収入のみに財政を依存していたのに対し、江戸幕府は鉱山収入と貿易収入などがあって財政状態は良かったのだが、元禄の末年頃になると次第に厳しくなり、八代将軍吉宗の頃には、旗本の給与が遅配するような状態に陥ったという。
そこで、財政再建策として年貢の増徴と新田開発を積極的に行った(享保の改革)のだが、年貢率の引き上げに農民の不満が高まり、各地で百姓一揆が頻発することとなる。

百姓一揆

九代将軍家重の時代になるとさらに百姓一揆が激しくな
り、寛延3年(1750)の伊予大洲藩、宝暦4年(1754)の越後久留米藩、郡上八幡藩などでは大規模な一揆が起り、いずれも農民側が勝利するに至っている。

以前このブログで郡上八幡の一揆のことを書いたが、この郡上一揆で領主金森頼錦は領地没収、お家断絶となり、ほかにも多くの幕府や藩の役人が処罰され、一揆を行なった農民も14人が死罪となったのだが、この評定に田沼意次が列座していたという。

郡上踊り

有名な「郡上踊り」の10の曲目の中に「ヤッチク」という歌があり、この歌詞を読むと「郡上一揆義民伝」になっている。
今も郡上八幡の人々は毎年郡上踊りで「ヤッチク」を踊りながら、257年も前のこの一揆で犠牲になった人々に今も感謝し、その霊を慰めているのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

郡上一揆の評定を経験した田沼意次は、年貢の増徴のような直接税の引上げではなく、商品の流通に課税して税不足を補おうと考えた。すなわち、同業者組合である株仲間を奨励して商人に専売制などの特権を与えて保護し、運上金*、冥加金**を税として徴収することで税収を増やそうとしたのである。
*運上金:農業以外の各種産業の従事者に対して、一定の税率を定めて課税したもの
**冥加金:営業などの免許の代償として支払う税。初年度は多額で以降は少額となる。


ついで意次は通貨の一元化にも取り組んでいる。
この点については大石慎三郎氏の著書による解説がわかりやすい。
「そもそも江戸時代の通貨制度は、三貨体制といって、金・銀・銭といったおのおの独立した貨幣より成り立っていた。金は両・分・朱の4進法による鋳造定量係数貨幣で、その主成分は金であった。銀は銀の塊そそのものを重量の単位である貫匁ではかられる秤量貨幣で、その主成分は銀であった。銭は貫・文という十進法単位でよばれる鋳造定量の計数貨幣で銅が主成分であった。…
ところでこの三貨のうち金と銀とは、日本経済の基幹活動に利用される高額貨幣であり、…金は江戸を中心とする関東、および東国、中部地方、銀は京・大坂を中心とする畿内、および西国・日本海地域で通用するといった、通用区域にちがいがあった。」(同上書 p.113-114)

高額通貨の通用区域が異なるということは経済圏が異なることを意味し、したがって金・銀の交換比率は時々刻々変動し、それにつれて銭の相場も変動していたことになる。

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通貨の一元化のために田沼意次は「明和五匁銀」「南鐐二朱判」という銀を素材としながら通貨金の計算値である「朱」で表示した通貨を作り、南鐐100両に対し、金125両の相場が建てられたのだが、両替商から猛烈な抵抗を受けたという。田沼意次失脚後、松平定信によって新通貨の鋳造は中止されたのだが、田沼のやろうとしたことは時代の要求に沿うものであり、松平定信が解任された後に、鋳造が再開されたのだそうだ。

大石氏はこう述べておられる。
田沼政権は巨大商人資本と結託しているということがよくいわれるが、通貨政策で見るかぎり、巨大商人資本の利益を擁護し、それと結託しているのは松平定信ということになる。」(同上書p.120)
また、
宝暦―天明期は、天明の飢饉以降を除けば、江戸時代でもっとも物価の安定した時期をなしている。したがって、この時期は庶民生活も安定した時期ということになるが、ただ一つ気になることがある。それは金銀銭三貨のなかで、庶民大衆の通貨というべき、銭の相場が下がるということである。…
 寛文から元禄にかけて、庶民経済が大きく拡大(したため)…銭の需要がとみに増し、元禄以降は不足気味となり、金一両に錢四貫文という幕府の希望公定相場に対し、銭高が目立つことが多かった。そこで幕府は明和2年(1765)頃から、江戸の亀戸、武蔵の川口、京都の伏見、肥前の長崎など広い範囲で鋳銭を続け…た。また明和の銭の増鋳は、従来のように銅が主材ではなくて、鉄銭であったことも相場を下落させる要因であった。」(同上書 p.120-121)


田沼意次

田沼意次が第9代将軍家重によって1万石の大名に取り立てられたのが宝暦8年(1755)。第10代将軍家治に重用され側用人に出世したのが明和4年(1767)、老中首座の松平武元が死去し、幕閣において政権を握ったのは安永8年(1779)で、重商主義的な政策を採ったのは天明元年(1781)からのことである。
幕政を主導していた時代を「田沼時代」と呼び、「宝暦―天明期」がその時代であると理解されているのだが、銭の相場の低下の問題は江戸幕府の通貨政策だけで議論することは公平ではない。水戸藩が農民を扶助する名目で、明和5年(1768)以降、大量の「太田鋳銭」(鉄銭)を製造したことも考慮に入れる必要があるだろう。水戸藩の農民が、銭安の原因がこの通貨にあると判断して鋳銭工場を焼き払った事件があったそうだが、その後も水戸藩は鋳造を続けたという。幕府はこの「太田鋳銭」が錢の通貨安に繋がっていると判断し、明和9年(1772)に鋳銭禁止令を出しているのだが、そもそも幕府が通貨供給量を統制できずして、銭通貨の価値を維持することは困難であろう。

大石氏は続けて、こう記しておられる。
「安永3年(1774)、田沼意次は老中と側用人を兼ねるが、この年幕府は錢相場下落による庶民の難儀を救うため、幕府が行なっていた鋳銭を中止するとともに、真鍮錢の鋳造量を半減するなど、銭安相場を直すために、あれこれ努力するが成功せず、銭の異常安のもと庶民の怨嗟の声につつまれて田沼政権は崩壊している。しかしその後に出てくる松平定信時代にも一時若干改善されるが、それも再度おそってくる銭安相場のなかで退陣している。錢安相場は江戸時代後半期の宿痾(しゅくあ)であった。」(同上書 p.121-122)

また、印旛沼・手賀沼を開拓したことは教科書にも記されていたのだが、田沼はその開拓資金を江戸幕府からではなく、殖産興業として町人資本の出資によって実施したことも画期的なことだと思う。

前回の記事にも書いたのだが、明和7年(1770)には幕府の備蓄金が171万7529両となって5代将軍綱吉以来の最高値となるまでに江戸幕府の財政は改善したのであるが、彼は年貢を増やすことはしなかった。

天明の大飢饉

田沼意次にとって運が悪かったのは、明和9年(1772)の明和の大火で江戸の中心部が焼けて多額の出費を余儀なくされ、さらに天明3年(1783)に浅間山の大噴火したのち凶作が続き、天明の大飢饉(1782-1788)と呼ばれる食糧難の時代が続いたことを考慮に入れる必要がある。田沼意次が失脚したのは飢饉の最中である天明4年(1784)なのだが、相次ぐ大災害にかこつけて妄言を撒き散らす政敵に足元をすくわれたと考えている。

大石氏の著書に田沼意次の遺書が紹介されている。その最後の部分を紹介したい。

「借金がたとえば千両できたとすると、その金利はたいてい10%は必要だから、翌年は知行地が100両分減ったことになる。もし借金が大きければその割合に減る分はふえるものであるが、たとえ領地高が半分になってもその理が弁えず、大借金になって建て直す方法がなくなるものである。このことをよく心得て常々心を用い、いささかの奢りもなく、無益の支出ははぶき倹約を怠らぬように。もしやむを得ない儀で少しでもやりくりが悪くなったら、そのことを深く心にとめてとりしきり、役人たちにも厳重に申し付け、余裕金が相応にできるよう、少しの油断もなく心掛けること。
もっともそうかといって、領地の百姓に年貢など無体に強く申し付け、それで財政の不足を補おうなどと筋違いのことは決してしてはならない。すべて百姓町人に無慈悲なことをするのは、御家の害、これにすぎるものはないのだから、いくえにも正道をもってすべてのことに臨むべきである。」(同上書p.248-249)

法人減税を進めながら大衆課税を強化し、本来やるべき歳出カットの努力をしないどこかの国の政治家や官僚に、是非読んで戴きたいような文章である。
田沼意次は「賄賂政治家」と描かれることが多いのだが、調べていくと極めて全うな考えを持った政治家であり、真の悪人は、息子の意知を暗殺したうえ、嘘のプロパガンダで意次を政界から葬り去った松平定信の一派の方ではなかったか。

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【ご参考】
田沼意次が生きていた時代に、郡上八幡の大規模な農民一揆や、天明の大飢饉がありました。
昨年の夏に郡上八幡を訪ねてきましたが、落ち着いた美しい街並みが良かったです。郡上踊りの「ヤッチク」の歌詞は是非読んで頂きたいと思います。

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

アイスランドの火山爆発と天明の大飢饉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-117.html




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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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