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豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、
「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康をしりぞけようと兵をおこしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。」(『もういちど読む 山川日本史』p.150)と簡単に記されているのだが、秀吉の死から関ヶ原までの2年数か月のことをもう少し詳しく記している本を探してみた。

近世日本国民史家康時代 上巻

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、徳富蘇峰の『近世日本国民史家康時代 上巻』が公開されている。蘇峰は秀吉を取り巻く諸将の関係について、こう解説している。
秀吉自らが、織田氏の諸将の不統一を利用したのみでなく、その統一を攪乱せしめて、更にこれを利用した。家康はただ秀吉の故智を襲いたるまでだ。…
如何なる場合にも、党派は発生するものだ。殊に秀吉の天下は、にわかに製造したものであったから、なおさら党派が生じやすかった。しかも秀吉の生存中は、如何なる党派も、秀吉という一大看板、一大勢力のもとに掩(おお)われていたが、一たび秀吉去れば、あたかも雪融けて、群草萌え生じる如く、あらゆる徒党が発生した。…
徳川党とか、前田党とか、その個人的勢力を基本とする以外に、秀吉の治下には概して文吏党と武将党とがあった。文吏党といえば、五奉行を中心とする党派だ。武将党といえば、非五奉行を旗幟とする党派だ。しかし誤解するなかれ、文吏党と言うたとて、必ずしも文弱党ではなく、武将党と言うたとて、必ずしも武愚党ではない。双方にも文武の名将は少なからずいた。而して文吏党は、淀殿に近く、武将党は、北政所に近く、その結果は更にまた、正室党と側室党とを生ずるに至った。
秀吉は萬機を親(みずか)らした。五奉行は、その秘書官が、然らざれば秘書官の毛の生えたものに過ぎなかった。しかも天下の政務は、五奉行をとおして行われた。殆んどすべての利権はここに集まった。利権の集まる所は権力の集まるところだ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/37

五奉行とは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5名を指し、浅野、石田、増田の3名が一般政務の処理に当たり、長束が財務、前田が御所・朝廷・公家・寺社といった特別部門を担当していたとされる。

五奉行中にて、最も秀吉に近きは、言うまでもなく浅野長政だ。彼は秀吉と尾州以来の関係で、しかも北政所と義理上の兄妹だ。彼が如何に他人の企て及ぶべからざる特殊の位置を占めつつあったかは、以て知るべしだ。しかるに、五奉行中少なくとも石田は、彼の下風に立つを、いさぎよしとしなかった。而して増田は概して石田と提携し、互いに比周して、以て浅野に対抗した。ここに於いて五奉行中に、浅野派と石田派との両派が自然に対立した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/39

前田利家

では武将党はどうであったか。
武将党の首領は…前田利家であった。彼は、秀吉夫婦は、微賎時代からの友人であれば、彼は北政所と良好の関係であったことは勿論のことだ。しかのみならず、利家は石田、増田等に対して、頗(すこぶ)る不快を感じていた。…
武将派と文吏派との確執は、朝鮮役において、いな朝鮮役のために、一層の刺戟を与え来たった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/42

一方徳川家康は諸将間の対立のなかで、当初は中立の立場を取り、特定の党派に加担することなく、またいずれかの党派からも輿に担がれることを許さなかったという。

豊臣秀次

そして文禄2年(1593)に豊臣秀吉に秀頼が誕生し、その2年後の文禄4年(1595)に、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで粛清される事件が起こっている。
秀次に謀反の意志があると報告したのは、奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以らであったとされるが、その時秀次は謀反の意志がない旨の誓紙を提出している。しかし秀吉はそれでは納得せず、秀次は高野山に送られて切腹を命じられ側近と共に自害させられたのだが、後に秀次の眷属までもが斬首されたという。
この事件の原因については諸説があるが、秀吉が秀頼を後継者とするために、秀次の一族を粛清しようとしたとする説が一番すっきり理解できる。
石田三成らはこの事件の後に加増されたのだが、一方で多くの敵を作ることとなり、そのような大名達をのちに徳川家康が取りこんでいくことになるのだ。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm

この秀次事件の後の政治危機を克服するために、秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ろうとした。
その内容は大名間の無届婚姻・誓紙の交換停止などであったが、この連署を行なった六人の有力大名(徳川家康前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が、豊臣政権における「大老」であると、後世みなされることになる。

そして慶長3年(1598)の5月頃から秀吉は病に伏せるようになり、5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。また、7月4日に伏見城に諸大名を呼び寄せて、徳川家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼し、そして8月18日に秀吉はその生涯を終えている

石田三成

石田三成ら文吏党にとって秀吉の死がどのような意味を持っていたかについて、徳富蘇峰の解説を引用しておく。
「…文吏党から見れば、秀吉の生存中こそ、秀吉という巨頭を戴き、ローラーを転ずる如く、一切の障碍を排除して進むを得たが、秀吉を喪った以後は、これを個人的に打算しても、これを総体的に打算しても、家康、利家の力に敵すべくもあらぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/46

太閤の遺命により朝鮮に出兵した軍隊が引き揚げを終えるまで、喪を極秘にすることになっていたという。

「…慶長3年8月18日に於ける、秀吉の死は、一時家康等に対してさえも、喪を秘した。而してその表向きの発表は、在朝鮮の諸将の帰朝後で、慶長4年2月29日に、初めて正式の葬儀を行なった。しかもそれは表向きのことで、秀吉の遺命を受けたる執政者は、何れも左の通りなる、誓詞の連判をした。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/48

秘密であったはずの秀吉の死を誰が家康に知らせたかというと、意外なことに、石田三成が家臣の八十島道與に秀吉の死を密告させたようだ。三成は、重要情報をいちはやく家康に知らせることで恩を売ろうとしたと理解するしかないだろう。

秀吉は五大老と五奉行の合議制で幼い秀頼を支えることを望んでいたのだが、それぞれが「誓紙」の連判を押したところで、「誓った」相手である秀吉はもうすでにこの世にはいない
そもそも家康は、秀吉の遺命に従って秀頼の後見役に収まるような人物ではなかった。
秀吉の死後、家康は掟を破って秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めている
徳富蘇峰はこう記している。
「彼は秀吉の御法度を無視して、恣(ほしいまま)に伊達政宗の女(むすめ)を、その第6子忠輝に娶り、姪松平康成の女(むすめ)を養い、福島正則の子正之に帰し、その外曾孫たる小笠原秀政の女(むすめ)を養いて、蜂須賀家政の子至鎮(のりしげ)に配すべく約束した。
『諸大名縁組の儀、御意を以て、相定むべきこと』とは文禄4年8月2日付、家康、利家等の名にて、天下に発布せられた秀吉の法度である。而して秀吉百歳の後も、之を遵守すべきは、慶長3年8月5日の家康等の誓紙によりて、保障せられたものである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

当然の事ながらこのような家康の動きを警戒して慶長4年(1559)1月19日に家康を詰問している。
その際の家康の対応が興味深い。
「…家康は、已(すで)に媒酌人よりその旨を届け出で、公許を得たものであろうと速了したと答えた。ここに於いて奉行等は、徳川・伊達結婚の仲介者、今井宗薫を召して糺問したが、自分は町人で、武家の法度などは存ぜぬと申し訳した。政宗は、宗薫の才覚にて、予は関知せずと言うた。福島正則は『我等儀太閤御爪の端にて候う間、内府公*と縁辺取組、万端御意を得候はば、以来秀頼公御為にも然るべき儀と存じ、かくの如くに候なり。』と答えた。[関原記]蜂須賀は、家康より仰せ掛けられたから、それに応じたまでの事と答えた。かくの如く三将分疏、ついにその要領を得なかった。」
*内府公:家康のこと
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

徳川家康

家康を五大老から除名すべきだとする議論が他の大老や奉行等から起るのだが、それに対し家康は謝罪するどころかこう逆襲したという。
「…予が婚約を告げずして結んだのは、手落ちであったにせよ、これを以て予に逆心ありとするは、誰を証人としての弾劾か。またこれを理由として、予を十人衆―即ち五大老・五奉行―より除くべしとは、これ秀頼公を補佐せしめんとの、太閤の遺命に背反するではないかと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/56

このような家康の動きに対して前田利家は家康との一戦を覚悟し、双方兵を集めたのだが、調停が入って最悪の事態は回避できたものの、この時すでに池田輝政、福島正則、黒田如水、黒田長政、藤堂高虎等、豊臣系の大名の多くが家康側に集まったという。

しばらくして前田利家は病に伏すこととなり、家康が利家を見舞うために大坂を訪れ、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊したという。三成はこのタイミングで家康を襲撃する計画を立てていたが、家康の元には三成らと対立する武将が集まっており、夜襲を思いとどまったという。
http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2014/12/17309-3d22.html
慶長4年(1599)閏3月3日に前田利家は63歳でこの世を去ると、今度は福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が石田三成襲撃を企て、大坂で決起した。
三成はこの企てを察知して大坂を脱出し、家康のいる伏見城に身を投じている。
家康は七将を宥め、10日には三成を居城の佐和山へ謹慎を申し渡している。

伏見城

利家と三成がいなくなれば、伏見も大坂もいよいよ徳川家康の一人舞台となる。
「而して石田ありてこそ奉行であったが、石田去って後の奉行等は、まことに腑甲斐(ふがい)なきものであった。彼らは唯だ家康のために駆使鞭撻せらるる吏僚に過ぎなかった
権現様、向島へ御移りなされ候うてから、ご威光弥増し、毛利、島津、景勝、佐竹、その他縁引きにて申込、毎日大名衆、御礼に参られ候う。[酒井河内守日記]
向島移転、かくの如し。いわんや伏見城に入りたる後においてをや。世人が家康を称して、天下殿と言うたのも、決して偶然ではない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/75

その後上杉景勝、前田利家を引き継いだ前田利長、毛利輝元らが帰国して五大老制は崩れ、名実ともに家康の独断専行に移行していく。
北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、西の丸を自分の居所として居座り、今度は五奉行の実力者であった大野治長と浅野長政を謀反の疑いで排除するなどやりたい放題だ。

家康は、大老の筆頭として豊臣政権の政務を執行するのだが、その権限を用いて政敵を追い落とし、屈服させては恩を売るなどして、将来の覇権確立に向けて着々と準備を進めていったのである。
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徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯

前回の記事で、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がいかにして政敵を排除して権力を掌握していったかについて書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、家康の政治スタンスをこう表現している。

徳川家康
徳川家康

家康の眼中には、秀吉の遺言は勿論、いわゆる大老奉行等が血をもって誓うたる、秀吉の法度を守るべしとの起請文も廃紙同様であった。彼は随意に他の大名と誓約を取りかわした。彼はその子秀忠の妻を、随意に江戸に還らしめた。彼は一度は大老、及び奉行等に制止せられたにかかわらず、ほしいままに他の大名と婚約を実行した。要するに法度は、彼を制約せずして、彼は却って法度を左右した。
手短く言えば、彼は取りも直さず、傲然として秀吉に代わったのだ
。…

家康は随意に私党を樹てた。随意に私恩を売った。秀吉の法度によれば、秀頼の成人迄は、現状維持であった。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/76

家康は、秀吉の法度を平気で蹂躙したとあるが、具体的にはどのような事をしたのか。その一部を紹介しよう。

「しかも家康は、慶長4年2月、堀尾吉晴の己(おのれ)のために周旋したる徳として、越前府中の五万石に封じ、本領遠州浜松の十二万石をその子忠氏に譲らしめた。これは吉晴もて、加賀の前田氏に備えしめんが為であった。また細川忠興が、家康と利家の間を朝廷したるを徳として、豊後杵築五万国を与えた。而して森忠政が、伏見の騒動に際して、他に先んじて兵を率いて、家康を援護した功に酬ゆべく、美濃の兼山より川中島四郡の地、十二万七千石に移封した。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/77

家康は論功行賞や信賞必罰を独断で決定したことが記されているが、それだけではなかった。

家康は慶長4年の2月には、大老、奉行等の抗議のため、私婚取消の誓紙を書きつつその4月には、伊達政宗と互いに結納を取交わした。而して同年の冬には、その養女を、加藤、福島、蜂須賀三氏に嫁すべく、新たに婚約を結んだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/78
と、まさにやりたい放題である。

豊臣秀頼
【豊臣秀頼】

こんな調子で家康は、いよいよ大坂城に乗りこんでいる。
宇喜多秀家や毛利輝元らが帰国したのち家康は、秀頼公に重陽の賀儀を伝えることを口実として、慶長4年(1599)9月7日に大坂に下っている。その際に、家康を暗殺する陰謀があったとして、大野修理と土方勘兵衛を常陸に流し、浅野長政を領地の甲斐に追いやっているのだが、本当にそのような陰謀があったのならば関与したメンバーを生かしておくことは不自然だ。徳富蘇峰が示唆しているように、この陰謀は家康の自作自演であった可能性が高いと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/83

浅野長政
【浅野長政】

この時に家康は、浅野長政らを追いやっただけではなく、陰謀の背後には加賀の前田利長があるとして、さらに前田征伐の準備にとりかかろうとした
前田利長
前田利長

その情報を聞いた前田利長は驚き、家康の要求通りに芳春夫人(前田利長の正室)を人質に出している。またこの事件の調停にあたった細川忠興も、前田利長とともに謀るところありとの噂が流れたために、三男の細川忠利を人質として江戸に送っている。

家康はしばらく大坂の石田正澄(三成の実兄)邸に入っていたが、9月下旬に北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、空いた西の丸を自分の居所としている。
大坂城

そして慶長5年(1600)の正月を迎えると、諸大名は本丸で秀頼に年賀を述べたあと、西の丸の家康にも年賀の儀礼を行なったのだそうだ。

上杉景勝
上杉景勝

さて、家康の次の攻撃目標は、会津の上杉景勝だった。
景勝は2年前の正月に、秀吉の命により会津百二十万石に国替えとなり、砦の修復や道路の修復などに取り組んだ後、慶長5年(1600)2月からは新城の建築に着手していた。
この動きをみた戸沢政盛(出羽仙北郡の領主)と堀秀治(越後春日山城主)が「上杉は謀反の準備を行なっている」と訴えるに至る。
そこで家康は景勝に詰問する書状を発し、弁明の為に上洛することを命じたのであるが、景勝はこれを拒否し、特に側近の直江兼続は家康に強く反発し、家康を非難するような書状を送っている。これを世に「直江状」と呼ぶ。

直江状

Wikipediaに「直江状」の書状の内容と口語訳がでているが、口語訳の一部を紹介しよう。
「一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。」
「一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6

家康は5月3日に到着したこの書状を読んで激怒し、上杉討伐を決定して、伊達政宗をはじめ諸大名に会津出兵の指令を出している。前田玄以や長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが、家康は聞く耳を持たなかった。
そして自らも6月16日に大坂城を発って遠征の途につき、伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられているが、伏見城に残された徳川軍勢は1800程度だったのだそうだ。

東海道53次で江戸から京都までの所要日数は男性で13~15日程度と言われているが、家康の軍勢は随分旅人よりも遅いペースで東海道を下っている。家康が江戸に到着したのは7月2日で、途中鎌倉などを見学したりしたという。
江戸に5万8千以上の兵が集まり、徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣したのが7月19日、家康が会津に向かったのが7月21日なのだが、家康がこんなにゆっくりと兵を進めたのは、佐和山城にいた石田三成の挙兵を誘おうとしたためである。

家康の軍勢が大坂を発ってから三成に接近した時期のことを、江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』の『東照宮御実紀』巻四ではこう記されている。

石田三成、この時未だ佐和山にありしに、その謀臣島左近、今夜佐和山より急に水口の御旅館へ夜討ちをかけんと言う。三成聞きてそれにも及ばず。かねて長束に諜(しめ)し合わせ置きたれば、長束水口にて謀(はかりごと)を行なうべしという。左近、天狗も鳶と化せば、蛛網(くもあみ)にかかるたとえあり。今夜の期を過すべからずと、是非に三成を勧め、三千人にて、蘆浦(あしのうら)観音寺辺より大船二十余艘に取りのり、子刻(ねのこく)に水口まできてみれば、はや打ち立て給う御跡なりしゆえ、あきれはてて帰りしという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/40

『東照宮御実紀』の記述には作り話や誇張が多く割り引いて読む必要があるところだが、家康が伏見や大坂の守りを手薄にして上杉討伐に動くことは、石田三成をはじめとする反徳川派にとってはクーデターを挙行する願ってもないチャンスであったことは間違いがない。家康はわざとそのお膳立てをしたのである。
徳川家家臣の戸田氏鉄が記した『戸田左門覚書』には、「十八日石部御泊り。この時長束大蔵、内府公を我城へ入り奉り、打ち申さんと謀るよし、世間に言い、雑説也」と書かれているが、家康が水口城に入らなかったのは水口城主の長束正家を警戒していたと解釈するしかないだろう。

石田三成
石田三成

家康が期待した通りに、石田三成が動き出した。挙兵を決意した三成は、家康に従って関東に行こうとした大谷吉継を味方に引き込み、7月17日には毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布している。
安国寺恵瓊の活躍もあって、大坂に吉川広家、小早川秀秋、宇喜多秀家、蜂須賀家正、長宗我部盛親、小西行長、島津義弘、鍋島勝茂など多くの西国大名が参陣し、総勢十万に近い兵力が結集したのだが、この兵力はおそらく家康の予想を上回るものであったと思われる。

大谷吉継
大谷吉継

蘇峰はこれだけの武将が集まった西軍をこう評している。
「…彼らの中には、多数に圧せられ、余儀なく脅従したものもあった。形勢を観望して、当面を誤魔化したものあった。両股(ふたまた)を掛けたものもあった。味方顔をして敵に内通したものもあった。要するに十万に垂(なんな)んとする大衆を擁しても、その実は十万人の心にて、まず烏合の衆というより、他に適評はなかった
関原(せきがはら)役を語る者は、西軍の運動の著々(ちゃくちゃく)機を失し、その統一なきを咎(とが)むる者が多い。しかも平正に観察すれば、真剣に西軍方で、心も、身も働かしたのは、唯だ石田三成と、大谷吉継二人であった。しかも吉継は、病廃の余であったから、真に一人前の仕事に耐えたものは、三成ひとりであったと言わねばならぬ。それにしては、能くもあれ程のことが出来たかと、むしろ感心する方が、至当の判断であろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/133

また西軍は、家康に従って東下している諸将の妻子を人質として大坂城に収容している。そして、会津の上杉景勝、常陸の佐竹義宣、岐阜の織田秀信なども西軍に加わり、家康を東西から挟み討つ状況を形成したのだが、それからあとのことは次回に記すことにしたい。
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石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか

前々回の記事で、会津の上杉景勝に謀反の噂がたち、徳川家康は弁明のために上洛を勧告したのだが景勝はそれに応じず、そこで家康は上杉征伐の兵を集めて会津に向かい、その途中で石田三成が反徳川の大名を集めて挙兵したことを書いた。

徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、徳川家康会津征伐には三成の挙兵を誘う意図があったと書き、家康が当初より三成の挙兵を想定していたと判断する根拠についてこう記している。

徳川家康
徳川家康

「彼(家康)が予期した証拠は、6月17日伏見城に於いて鳥居元忠と語り、いざとなれば貯蔵の金銀塊を弾丸に使用せよと言ったのでわかる。6月18日大津城にて京極高次と、事変勃発に際して、密かに約するところあったのでわかる。6月20日伊勢白子にて松平康重が、三成謀反の企てありと告げたるに際し、予はつとに之を知っていると答えたのでわかる。6月23日堀尾吉晴を浜松から越前国府に帰らしめ、上方の形勢を監視せよと命じたのでわかる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/157

徳川家康が、ゆっくりと東海道を進み、会津に向かうのにも随分時間をかけたのは、京都と大阪の守りを手薄にしておけば、石田三成ら反徳川勢が何時挙兵してもおかしくないと考えていたことを知れば納得できる。

石田三成
石田三成

そして家康が予想した通りに、石田三成が動き出した。三成は大谷吉継を味方に引き込んだのち、7月17日に毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布し、7月18日には西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守っていた伏見城に、毛利輝元の名で開城を勧告している。元忠は開城を拒否したために19日から伏見城の戦いが始まったのだが、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に包囲されながらも元忠はわずか1800の兵で奮戦し、8月1日に討死して伏見城は落城している。

鳥居元忠
【鳥居元忠】

その後、三成は家康に味方する細川幽斎の居城・田辺城を制圧するため丹波国に1万5千の兵を差し向け、伊勢国平定に3万の軍勢を送り込み、三成自身は美濃方面を抑えるため8月10日に大垣城に入り、さらに岐阜城の織田秀信を西軍に引き入れることに成功している。

このような三成らの動きは、1週間遅れではあるが着々と家康のもとに伝えられ、会津征伐は急遽中止されることとなる。家康は7月25日に会津征伐に従軍した諸大名を招集し、今後の方針について軍議 (小山評定)の結果、三成迎撃で評定が決定すると諸大名は、7月26日以降福島正則の居城である尾張清洲城を目指したのである。
ところが家康は清州には向かわず8月6日に江戸に戻ってしまい、8月中は江戸に留まったのである。これはなぜだったのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は諸客将の態度については、当初より多少の懸念をした。その証拠には、彼が福島正則を途中より呼び返しその心底を確かめたことにてわかる [慶長年中卜斎記] 。あるいは一説には、黒田長政を呼び返し、彼に向かって正則の心底を質し、長政の保障にて、やや安心したりとある[黒田家記]。いずれにしても家康の心配は一通りのことではなかったことがわかる。
 それもそのはずだ。石田が張本人とは言えど、向こう方では秀頼公の名を以てし、内府(家康)の誓詞蹂躙を理由としている。而してさらに啗(くら)わしむるに、大封をもってしている。もし開戦の名義を論ぜば、西軍が言正名順(げんせいめいじゅん)である。東軍はただ主将と仰ぐ家康が有力者という以外、而して西軍の石田が、諸客将の怨府であるという以外、何らの理由はないのだ。家康が自重したのも、決して偶然ではあるまい。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/200

福島正則
福島正則

会津攻めに集まった武将の中には、福島正則、黒田長政、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、寺沢広高ほか、かつて秀吉に仕えた者が少なからずいたのだが、家康にとってみれば、家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状が交付された状況下で、彼らが徳川の為に働いてくれるという確信が持てなかったと考えるしかないだろう。
そこで家康は、使者として家臣の村越茂助を清州城に送り込んだのだが、豊臣系の諸将は憤激して「内府(家康)は何故出陣しないのか」と詰め寄ってきたという。
そこで茂助が何と言ったかについて、家康の侍医であった板坂卜斎の記録にこう書かれている。
「茂助申し候(そうろう)は、(家康公の)御出馬有るまじくにてはなく候えども、各々手出しなく、故に御出馬なく候う。手出しさえあらば、急速に御出馬にて候わんと申しければ、福島(正則)扇をひろげ、茂助が面を二三度仰ぎ、御尤もの御掟、やがて手出しをつかまつり、注進申し上ぐべしと申され候よし。」(慶長年中卜斎記)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/198

意訳すると、茂助は、「家康様が出陣されないのは、各々方が未だに出陣なされないからであり、各々方が敵と戦い、家康様の味方であることを明らかにされれば、出陣なさるでしょう」と述べたのだが、福島正則らが即座にその言葉に納得して美濃への進撃を確約したという。

家康は、1か月間も江戸に留まっていた間に、諸将宛に毎日何通もの書状を書いていた。Wikipediaにその間に出した100通を超えるその書状のリストがあるが、自ら豊臣系武将の繋ぎ止めや西軍への調略による切り崩しを図っていたことが見えてくる。豊臣系諸将に出陣を促すために清州城に村瀬茂助を送り込んだときに、福島正則が即座に村瀬の言葉に反応して進撃を確約したのも、家康が正則宛に出した多数の書状が効いていたのではないだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

池田輝政
池田輝政

8月22日に東軍の池田輝政軍と福島正則軍は木曽川を渡り、織田秀信(信長嫡孫)が守る岐阜城を攻撃し、翌23日にこれを落城させ、続いて犬山城も落としている。その知らせを聞いた徳川家康は9月1日に、ようやく3万2千の兵を率いて江戸を出発し、東海道を西に向かいだしたという。

地図

一方の石田三成はどういう戦略で臨んでいたのか。『近世日本国民史家康時代. 上巻』に8月6日付で三成が真田昌幸宛に出した書状が引用されている。
「…上方勢壱萬ばかり語らい上り候(そうろう)とも、尾三(尾張・三河)の間にて、討ち取るべき儀、誠に天の与えに候。しかれば、会津、佐竹、貴殿は、関東へ袴著て乱入あるべくと存じ候。…[古今消息集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/194

石田三成は尾張と三河国境付近で東軍を迎撃し、背後より上杉・佐竹軍と東軍を挟撃する目算であったようなのだが、そのためには早急に美濃・伊勢を平定し尾張に達していなければならなかった。もしそのプラン通りに尾張を先に押さえていれば、清州城には30万石の備蓄米が有事の為に用意されていた。この清州城を最前線の要としていれば、西軍は有利な戦いが出来たと考えられる。

美濃・三河の城

しかしながら、西軍は圧倒的に戦力で優っていたにもかかわらず伏見城を落すのに10日以上かかり、それに続く伊勢攻略においても安濃津城は落城させたが、長島城で強力な抵抗に遭い、伊勢攻略半ばで東軍の襲来に合わせて美濃へ向かわざるを得なくなった。
背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、軍勢を徳川軍に対してではなく山形方面の最上義光領へと向けていたし、佐竹義宣は重臣たちの猛反対により少数の兵を織田秀忠軍に派遣したにとどまった。
先ほどの家康の書状リストを見ると、最上義光宛には家康は今井宗薫らを使者として10通、佐竹義宣の弟・蘆名盛重にも本多正信が使者となって1通の手紙を送っており、上杉軍、佐竹軍を関東に向かわせない工作をしていたことは確実だ。

上杉軍、佐竹軍から背後を狙われて挟撃される危険が去り、東軍は先に清州城に入城しその拠点とし、さらに木曽川を越えて岐阜城、犬山城をわずか1日で落してさらに西に進んでいる。

緒戦で防御の要となる拠点を失った西軍は、8月11日に入城していた大垣城にからさらに防衛ラインを下げて美濃の関ケ原付近とし、各地に散っていた武将たちに関ヶ原への集結を呼びかけることとなるのだが、そもそも石田三成が描いていた戦略はどのようなものであり、勝機はあったのだろうか。

真実の日本戦史

鞍掛五郎氏は長期戦になれば西軍が有利であったと述べておられる。
「…関東・東北方面に目を転じてみたい。西軍の中心は上杉景勝。さらには佐竹義宣、岩城貞隆、多賀谷重経、相馬義胤、蘆名義広、秋田実季、小野寺義道ら20万石を越える勢力となっている。
これに対する東軍の備えはというと、伊達政宗、最上義光、南部利直、戸沢政盛、六郷正乗らで百万石ほど、宇都宮を拠点に、結城秀康、蒲生秀行、里見義康、小笠原秀政らと、家康家臣で50万石ほど、その他、小大名多数が、備えとして残された。
長期戦となり、佐竹家が積極的に動き出した場合は、東北・関東での主導権は西軍に握られるものと推測でき、戦いが長期化すればするほど、西軍に有利となる。
総合的に考えて、毛利家を引っ張り出したことで徳川を凌駕する兵力を揃え、なおかつ朝廷と秀頼を手にしていることで政治的有利な立場にある西軍は、不敗の状態にあった。あとはどこかのタイミングで講和を結び、家康を政治的に無力化すればそれで終わりである
。」(宝島SUGOI文庫:家村和幸監修『真実の「日本戦史」』p.150-151)

石田三成は太閤検地においては検地尺を定めるなど大きな実績を残し、豊臣秀吉もその行政能力を高く評価した人物だった。家康との戦いに於いては西軍の勝機は充分にあり、確実に勝利できるだけの戦略をしっかり練っていたのだが、彼の思惑通りには味方の武将が動かなかった。
徳川家康は、西軍の武将にも内応を呼びかける多数の書状を送り届けて西軍の切り崩しをはかったのだが、その効果は小さなものではなかったのである。

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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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