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豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、
「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康をしりぞけようと兵をおこしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。」(『もういちど読む 山川日本史』p.150)と簡単に記されているのだが、秀吉の死から関ヶ原までの2年数か月のことをもう少し詳しく記している本を探してみた。

近世日本国民史家康時代 上巻

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、徳富蘇峰の『近世日本国民史家康時代 上巻』が公開されている。蘇峰は秀吉を取り巻く諸将の関係について、こう解説している。
秀吉自らが、織田氏の諸将の不統一を利用したのみでなく、その統一を攪乱せしめて、更にこれを利用した。家康はただ秀吉の故智を襲いたるまでだ。…
如何なる場合にも、党派は発生するものだ。殊に秀吉の天下は、にわかに製造したものであったから、なおさら党派が生じやすかった。しかも秀吉の生存中は、如何なる党派も、秀吉という一大看板、一大勢力のもとに掩(おお)われていたが、一たび秀吉去れば、あたかも雪融けて、群草萌え生じる如く、あらゆる徒党が発生した。…
徳川党とか、前田党とか、その個人的勢力を基本とする以外に、秀吉の治下には概して文吏党と武将党とがあった。文吏党といえば、五奉行を中心とする党派だ。武将党といえば、非五奉行を旗幟とする党派だ。しかし誤解するなかれ、文吏党と言うたとて、必ずしも文弱党ではなく、武将党と言うたとて、必ずしも武愚党ではない。双方にも文武の名将は少なからずいた。而して文吏党は、淀殿に近く、武将党は、北政所に近く、その結果は更にまた、正室党と側室党とを生ずるに至った。
秀吉は萬機を親(みずか)らした。五奉行は、その秘書官が、然らざれば秘書官の毛の生えたものに過ぎなかった。しかも天下の政務は、五奉行をとおして行われた。殆んどすべての利権はここに集まった。利権の集まる所は権力の集まるところだ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/37

五奉行とは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5名を指し、浅野、石田、増田の3名が一般政務の処理に当たり、長束が財務、前田が御所・朝廷・公家・寺社といった特別部門を担当していたとされる。

五奉行中にて、最も秀吉に近きは、言うまでもなく浅野長政だ。彼は秀吉と尾州以来の関係で、しかも北政所と義理上の兄妹だ。彼が如何に他人の企て及ぶべからざる特殊の位置を占めつつあったかは、以て知るべしだ。しかるに、五奉行中少なくとも石田は、彼の下風に立つを、いさぎよしとしなかった。而して増田は概して石田と提携し、互いに比周して、以て浅野に対抗した。ここに於いて五奉行中に、浅野派と石田派との両派が自然に対立した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/39

前田利家

では武将党はどうであったか。
武将党の首領は…前田利家であった。彼は、秀吉夫婦は、微賎時代からの友人であれば、彼は北政所と良好の関係であったことは勿論のことだ。しかのみならず、利家は石田、増田等に対して、頗(すこぶ)る不快を感じていた。…
武将派と文吏派との確執は、朝鮮役において、いな朝鮮役のために、一層の刺戟を与え来たった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/42

一方徳川家康は諸将間の対立のなかで、当初は中立の立場を取り、特定の党派に加担することなく、またいずれかの党派からも輿に担がれることを許さなかったという。

豊臣秀次

そして文禄2年(1593)に豊臣秀吉に秀頼が誕生し、その2年後の文禄4年(1595)に、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで粛清される事件が起こっている。
秀次に謀反の意志があると報告したのは、奉行衆の石田三成、増田長盛、前田玄以らであったとされるが、その時秀次は謀反の意志がない旨の誓紙を提出している。しかし秀吉はそれでは納得せず、秀次は高野山に送られて切腹を命じられ側近と共に自害させられたのだが、後に秀次の眷属までもが斬首されたという。
この事件の原因については諸説があるが、秀吉が秀頼を後継者とするために、秀次の一族を粛清しようとしたとする説が一番すっきり理解できる。
石田三成らはこの事件の後に加増されたのだが、一方で多くの敵を作ることとなり、そのような大名達をのちに徳川家康が取りこんでいくことになるのだ。
http://homepage2.nifty.com/kenkakusyoubai/juraku/ziken.htm

この秀次事件の後の政治危機を克服するために、秀吉は、有力大名が連署する形で「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して政権の安定を図ろうとした。
その内容は大名間の無届婚姻・誓紙の交換停止などであったが、この連署を行なった六人の有力大名(徳川家康前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元・小早川隆景)が、豊臣政権における「大老」であると、後世みなされることになる。

そして慶長3年(1598)の5月頃から秀吉は病に伏せるようになり、5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。また、7月4日に伏見城に諸大名を呼び寄せて、徳川家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼し、そして8月18日に秀吉はその生涯を終えている

石田三成

石田三成ら文吏党にとって秀吉の死がどのような意味を持っていたかについて、徳富蘇峰の解説を引用しておく。
「…文吏党から見れば、秀吉の生存中こそ、秀吉という巨頭を戴き、ローラーを転ずる如く、一切の障碍を排除して進むを得たが、秀吉を喪った以後は、これを個人的に打算しても、これを総体的に打算しても、家康、利家の力に敵すべくもあらぬ。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/46

太閤の遺命により朝鮮に出兵した軍隊が引き揚げを終えるまで、喪を極秘にすることになっていたという。

「…慶長3年8月18日に於ける、秀吉の死は、一時家康等に対してさえも、喪を秘した。而してその表向きの発表は、在朝鮮の諸将の帰朝後で、慶長4年2月29日に、初めて正式の葬儀を行なった。しかもそれは表向きのことで、秀吉の遺命を受けたる執政者は、何れも左の通りなる、誓詞の連判をした。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/48

秘密であったはずの秀吉の死を誰が家康に知らせたかというと、意外なことに、石田三成が家臣の八十島道與に秀吉の死を密告させたようだ。三成は、重要情報をいちはやく家康に知らせることで恩を売ろうとしたと理解するしかないだろう。

秀吉は五大老と五奉行の合議制で幼い秀頼を支えることを望んでいたのだが、それぞれが「誓紙」の連判を押したところで、「誓った」相手である秀吉はもうすでにこの世にはいない
そもそも家康は、秀吉の遺命に従って秀頼の後見役に収まるような人物ではなかった。
秀吉の死後、家康は掟を破って秀吉恩顧の大名の露骨な取り込を始めている
徳富蘇峰はこう記している。
「彼は秀吉の御法度を無視して、恣(ほしいまま)に伊達政宗の女(むすめ)を、その第6子忠輝に娶り、姪松平康成の女(むすめ)を養い、福島正則の子正之に帰し、その外曾孫たる小笠原秀政の女(むすめ)を養いて、蜂須賀家政の子至鎮(のりしげ)に配すべく約束した。
『諸大名縁組の儀、御意を以て、相定むべきこと』とは文禄4年8月2日付、家康、利家等の名にて、天下に発布せられた秀吉の法度である。而して秀吉百歳の後も、之を遵守すべきは、慶長3年8月5日の家康等の誓紙によりて、保障せられたものである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

当然の事ながらこのような家康の動きを警戒して慶長4年(1559)1月19日に家康を詰問している。
その際の家康の対応が興味深い。
「…家康は、已(すで)に媒酌人よりその旨を届け出で、公許を得たものであろうと速了したと答えた。ここに於いて奉行等は、徳川・伊達結婚の仲介者、今井宗薫を召して糺問したが、自分は町人で、武家の法度などは存ぜぬと申し訳した。政宗は、宗薫の才覚にて、予は関知せずと言うた。福島正則は『我等儀太閤御爪の端にて候う間、内府公*と縁辺取組、万端御意を得候はば、以来秀頼公御為にも然るべき儀と存じ、かくの如くに候なり。』と答えた。[関原記]蜂須賀は、家康より仰せ掛けられたから、それに応じたまでの事と答えた。かくの如く三将分疏、ついにその要領を得なかった。」
*内府公:家康のこと
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/54

徳川家康

家康を五大老から除名すべきだとする議論が他の大老や奉行等から起るのだが、それに対し家康は謝罪するどころかこう逆襲したという。
「…予が婚約を告げずして結んだのは、手落ちであったにせよ、これを以て予に逆心ありとするは、誰を証人としての弾劾か。またこれを理由として、予を十人衆―即ち五大老・五奉行―より除くべしとは、これ秀頼公を補佐せしめんとの、太閤の遺命に背反するではないかと。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/56

このような家康の動きに対して前田利家は家康との一戦を覚悟し、双方兵を集めたのだが、調停が入って最悪の事態は回避できたものの、この時すでに池田輝政、福島正則、黒田如水、黒田長政、藤堂高虎等、豊臣系の大名の多くが家康側に集まったという。

しばらくして前田利家は病に伏すこととなり、家康が利家を見舞うために大坂を訪れ、家康はその夜、藤堂高虎の屋敷に宿泊したという。三成はこのタイミングで家康を襲撃する計画を立てていたが、家康の元には三成らと対立する武将が集まっており、夜襲を思いとどまったという。
http://hirohabe.cocolog-nifty.com/tiger/2014/12/17309-3d22.html
慶長4年(1599)閏3月3日に前田利家は63歳でこの世を去ると、今度は福島政則・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長らの七人が石田三成襲撃を企て、大坂で決起した。
三成はこの企てを察知して大坂を脱出し、家康のいる伏見城に身を投じている。
家康は七将を宥め、10日には三成を居城の佐和山へ謹慎を申し渡している。

伏見城

利家と三成がいなくなれば、伏見も大坂もいよいよ徳川家康の一人舞台となる。
「而して石田ありてこそ奉行であったが、石田去って後の奉行等は、まことに腑甲斐(ふがい)なきものであった。彼らは唯だ家康のために駆使鞭撻せらるる吏僚に過ぎなかった
権現様、向島へ御移りなされ候うてから、ご威光弥増し、毛利、島津、景勝、佐竹、その他縁引きにて申込、毎日大名衆、御礼に参られ候う。[酒井河内守日記]
向島移転、かくの如し。いわんや伏見城に入りたる後においてをや。世人が家康を称して、天下殿と言うたのも、決して偶然ではない。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/75

その後上杉景勝、前田利家を引き継いだ前田利長、毛利輝元らが帰国して五大老制は崩れ、名実ともに家康の独断専行に移行していく。
北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、西の丸を自分の居所として居座り、今度は五奉行の実力者であった大野治長と浅野長政を謀反の疑いで排除するなどやりたい放題だ。

家康は、大老の筆頭として豊臣政権の政務を執行するのだが、その権限を用いて政敵を追い落とし、屈服させては恩を売るなどして、将来の覇権確立に向けて着々と準備を進めていったのである。
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徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯

前回の記事で、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がいかにして政敵を排除して権力を掌握していったかについて書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、家康の政治スタンスをこう表現している。

徳川家康
徳川家康

家康の眼中には、秀吉の遺言は勿論、いわゆる大老奉行等が血をもって誓うたる、秀吉の法度を守るべしとの起請文も廃紙同様であった。彼は随意に他の大名と誓約を取りかわした。彼はその子秀忠の妻を、随意に江戸に還らしめた。彼は一度は大老、及び奉行等に制止せられたにかかわらず、ほしいままに他の大名と婚約を実行した。要するに法度は、彼を制約せずして、彼は却って法度を左右した。
手短く言えば、彼は取りも直さず、傲然として秀吉に代わったのだ
。…

家康は随意に私党を樹てた。随意に私恩を売った。秀吉の法度によれば、秀頼の成人迄は、現状維持であった。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/76

家康は、秀吉の法度を平気で蹂躙したとあるが、具体的にはどのような事をしたのか。その一部を紹介しよう。

「しかも家康は、慶長4年2月、堀尾吉晴の己(おのれ)のために周旋したる徳として、越前府中の五万石に封じ、本領遠州浜松の十二万石をその子忠氏に譲らしめた。これは吉晴もて、加賀の前田氏に備えしめんが為であった。また細川忠興が、家康と利家の間を朝廷したるを徳として、豊後杵築五万国を与えた。而して森忠政が、伏見の騒動に際して、他に先んじて兵を率いて、家康を援護した功に酬ゆべく、美濃の兼山より川中島四郡の地、十二万七千石に移封した。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/77

家康は論功行賞や信賞必罰を独断で決定したことが記されているが、それだけではなかった。

家康は慶長4年の2月には、大老、奉行等の抗議のため、私婚取消の誓紙を書きつつその4月には、伊達政宗と互いに結納を取交わした。而して同年の冬には、その養女を、加藤、福島、蜂須賀三氏に嫁すべく、新たに婚約を結んだ。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/78
と、まさにやりたい放題である。

豊臣秀頼
【豊臣秀頼】

こんな調子で家康は、いよいよ大坂城に乗りこんでいる。
宇喜多秀家や毛利輝元らが帰国したのち家康は、秀頼公に重陽の賀儀を伝えることを口実として、慶長4年(1599)9月7日に大坂に下っている。その際に、家康を暗殺する陰謀があったとして、大野修理と土方勘兵衛を常陸に流し、浅野長政を領地の甲斐に追いやっているのだが、本当にそのような陰謀があったのならば関与したメンバーを生かしておくことは不自然だ。徳富蘇峰が示唆しているように、この陰謀は家康の自作自演であった可能性が高いと思う。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/83

浅野長政
【浅野長政】

この時に家康は、浅野長政らを追いやっただけではなく、陰謀の背後には加賀の前田利長があるとして、さらに前田征伐の準備にとりかかろうとした
前田利長
前田利長

その情報を聞いた前田利長は驚き、家康の要求通りに芳春夫人(前田利長の正室)を人質に出している。またこの事件の調停にあたった細川忠興も、前田利長とともに謀るところありとの噂が流れたために、三男の細川忠利を人質として江戸に送っている。

家康はしばらく大坂の石田正澄(三成の実兄)邸に入っていたが、9月下旬に北政所が大坂城西の丸を出て京都に移ると、空いた西の丸を自分の居所としている。
大坂城

そして慶長5年(1600)の正月を迎えると、諸大名は本丸で秀頼に年賀を述べたあと、西の丸の家康にも年賀の儀礼を行なったのだそうだ。

上杉景勝
上杉景勝

さて、家康の次の攻撃目標は、会津の上杉景勝だった。
景勝は2年前の正月に、秀吉の命により会津百二十万石に国替えとなり、砦の修復や道路の修復などに取り組んだ後、慶長5年(1600)2月からは新城の建築に着手していた。
この動きをみた戸沢政盛(出羽仙北郡の領主)と堀秀治(越後春日山城主)が「上杉は謀反の準備を行なっている」と訴えるに至る。
そこで家康は景勝に詰問する書状を発し、弁明の為に上洛することを命じたのであるが、景勝はこれを拒否し、特に側近の直江兼続は家康に強く反発し、家康を非難するような書状を送っている。これを世に「直江状」と呼ぶ。

直江状

Wikipediaに「直江状」の書状の内容と口語訳がでているが、口語訳の一部を紹介しよう。
「一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。」
「一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6

家康は5月3日に到着したこの書状を読んで激怒し、上杉討伐を決定して、伊達政宗をはじめ諸大名に会津出兵の指令を出している。前田玄以や長束正家らによって征伐の中止が嘆願されたが、家康は聞く耳を持たなかった。
そして自らも6月16日に大坂城を発って遠征の途につき、伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられているが、伏見城に残された徳川軍勢は1800程度だったのだそうだ。

東海道53次で江戸から京都までの所要日数は男性で13~15日程度と言われているが、家康の軍勢は随分旅人よりも遅いペースで東海道を下っている。家康が江戸に到着したのは7月2日で、途中鎌倉などを見学したりしたという。
江戸に5万8千以上の兵が集まり、徳川秀忠を総大将とする軍勢を会津に向けて派遣したのが7月19日、家康が会津に向かったのが7月21日なのだが、家康がこんなにゆっくりと兵を進めたのは、佐和山城にいた石田三成の挙兵を誘おうとしたためである。

家康の軍勢が大坂を発ってから三成に接近した時期のことを、江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』の『東照宮御実紀』巻四ではこう記されている。

石田三成、この時未だ佐和山にありしに、その謀臣島左近、今夜佐和山より急に水口の御旅館へ夜討ちをかけんと言う。三成聞きてそれにも及ばず。かねて長束に諜(しめ)し合わせ置きたれば、長束水口にて謀(はかりごと)を行なうべしという。左近、天狗も鳶と化せば、蛛網(くもあみ)にかかるたとえあり。今夜の期を過すべからずと、是非に三成を勧め、三千人にて、蘆浦(あしのうら)観音寺辺より大船二十余艘に取りのり、子刻(ねのこく)に水口まできてみれば、はや打ち立て給う御跡なりしゆえ、あきれはてて帰りしという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/40

『東照宮御実紀』の記述には作り話や誇張が多く割り引いて読む必要があるところだが、家康が伏見や大坂の守りを手薄にして上杉討伐に動くことは、石田三成をはじめとする反徳川派にとってはクーデターを挙行する願ってもないチャンスであったことは間違いがない。家康はわざとそのお膳立てをしたのである。
徳川家家臣の戸田氏鉄が記した『戸田左門覚書』には、「十八日石部御泊り。この時長束大蔵、内府公を我城へ入り奉り、打ち申さんと謀るよし、世間に言い、雑説也」と書かれているが、家康が水口城に入らなかったのは水口城主の長束正家を警戒していたと解釈するしかないだろう。

石田三成
石田三成

家康が期待した通りに、石田三成が動き出した。挙兵を決意した三成は、家康に従って関東に行こうとした大谷吉継を味方に引き込み、7月17日には毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布している。
安国寺恵瓊の活躍もあって、大坂に吉川広家、小早川秀秋、宇喜多秀家、蜂須賀家正、長宗我部盛親、小西行長、島津義弘、鍋島勝茂など多くの西国大名が参陣し、総勢十万に近い兵力が結集したのだが、この兵力はおそらく家康の予想を上回るものであったと思われる。

大谷吉継
大谷吉継

蘇峰はこれだけの武将が集まった西軍をこう評している。
「…彼らの中には、多数に圧せられ、余儀なく脅従したものもあった。形勢を観望して、当面を誤魔化したものあった。両股(ふたまた)を掛けたものもあった。味方顔をして敵に内通したものもあった。要するに十万に垂(なんな)んとする大衆を擁しても、その実は十万人の心にて、まず烏合の衆というより、他に適評はなかった
関原(せきがはら)役を語る者は、西軍の運動の著々(ちゃくちゃく)機を失し、その統一なきを咎(とが)むる者が多い。しかも平正に観察すれば、真剣に西軍方で、心も、身も働かしたのは、唯だ石田三成と、大谷吉継二人であった。しかも吉継は、病廃の余であったから、真に一人前の仕事に耐えたものは、三成ひとりであったと言わねばならぬ。それにしては、能くもあれ程のことが出来たかと、むしろ感心する方が、至当の判断であろう。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/133

また西軍は、家康に従って東下している諸将の妻子を人質として大坂城に収容している。そして、会津の上杉景勝、常陸の佐竹義宣、岐阜の織田秀信なども西軍に加わり、家康を東西から挟み討つ状況を形成したのだが、それからあとのことは次回に記すことにしたい。
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石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか

前々回の記事で、会津の上杉景勝に謀反の噂がたち、徳川家康は弁明のために上洛を勧告したのだが景勝はそれに応じず、そこで家康は上杉征伐の兵を集めて会津に向かい、その途中で石田三成が反徳川の大名を集めて挙兵したことを書いた。

徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、徳川家康会津征伐には三成の挙兵を誘う意図があったと書き、家康が当初より三成の挙兵を想定していたと判断する根拠についてこう記している。

徳川家康
徳川家康

「彼(家康)が予期した証拠は、6月17日伏見城に於いて鳥居元忠と語り、いざとなれば貯蔵の金銀塊を弾丸に使用せよと言ったのでわかる。6月18日大津城にて京極高次と、事変勃発に際して、密かに約するところあったのでわかる。6月20日伊勢白子にて松平康重が、三成謀反の企てありと告げたるに際し、予はつとに之を知っていると答えたのでわかる。6月23日堀尾吉晴を浜松から越前国府に帰らしめ、上方の形勢を監視せよと命じたのでわかる。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/157

徳川家康が、ゆっくりと東海道を進み、会津に向かうのにも随分時間をかけたのは、京都と大阪の守りを手薄にしておけば、石田三成ら反徳川勢が何時挙兵してもおかしくないと考えていたことを知れば納得できる。

石田三成
石田三成

そして家康が予想した通りに、石田三成が動き出した。三成は大谷吉継を味方に引き込んだのち、7月17日に毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布し、7月18日には西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守っていた伏見城に、毛利輝元の名で開城を勧告している。元忠は開城を拒否したために19日から伏見城の戦いが始まったのだが、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に包囲されながらも元忠はわずか1800の兵で奮戦し、8月1日に討死して伏見城は落城している。

鳥居元忠
【鳥居元忠】

その後、三成は家康に味方する細川幽斎の居城・田辺城を制圧するため丹波国に1万5千の兵を差し向け、伊勢国平定に3万の軍勢を送り込み、三成自身は美濃方面を抑えるため8月10日に大垣城に入り、さらに岐阜城の織田秀信を西軍に引き入れることに成功している。

このような三成らの動きは、1週間遅れではあるが着々と家康のもとに伝えられ、会津征伐は急遽中止されることとなる。家康は7月25日に会津征伐に従軍した諸大名を招集し、今後の方針について軍議 (小山評定)の結果、三成迎撃で評定が決定すると諸大名は、7月26日以降福島正則の居城である尾張清洲城を目指したのである。
ところが家康は清州には向かわず8月6日に江戸に戻ってしまい、8月中は江戸に留まったのである。これはなぜだったのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は諸客将の態度については、当初より多少の懸念をした。その証拠には、彼が福島正則を途中より呼び返しその心底を確かめたことにてわかる [慶長年中卜斎記] 。あるいは一説には、黒田長政を呼び返し、彼に向かって正則の心底を質し、長政の保障にて、やや安心したりとある[黒田家記]。いずれにしても家康の心配は一通りのことではなかったことがわかる。
 それもそのはずだ。石田が張本人とは言えど、向こう方では秀頼公の名を以てし、内府(家康)の誓詞蹂躙を理由としている。而してさらに啗(くら)わしむるに、大封をもってしている。もし開戦の名義を論ぜば、西軍が言正名順(げんせいめいじゅん)である。東軍はただ主将と仰ぐ家康が有力者という以外、而して西軍の石田が、諸客将の怨府であるという以外、何らの理由はないのだ。家康が自重したのも、決して偶然ではあるまい。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/200

福島正則
福島正則

会津攻めに集まった武将の中には、福島正則、黒田長政、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、寺沢広高ほか、かつて秀吉に仕えた者が少なからずいたのだが、家康にとってみれば、家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状が交付された状況下で、彼らが徳川の為に働いてくれるという確信が持てなかったと考えるしかないだろう。
そこで家康は、使者として家臣の村越茂助を清州城に送り込んだのだが、豊臣系の諸将は憤激して「内府(家康)は何故出陣しないのか」と詰め寄ってきたという。
そこで茂助が何と言ったかについて、家康の侍医であった板坂卜斎の記録にこう書かれている。
「茂助申し候(そうろう)は、(家康公の)御出馬有るまじくにてはなく候えども、各々手出しなく、故に御出馬なく候う。手出しさえあらば、急速に御出馬にて候わんと申しければ、福島(正則)扇をひろげ、茂助が面を二三度仰ぎ、御尤もの御掟、やがて手出しをつかまつり、注進申し上ぐべしと申され候よし。」(慶長年中卜斎記)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/198

意訳すると、茂助は、「家康様が出陣されないのは、各々方が未だに出陣なされないからであり、各々方が敵と戦い、家康様の味方であることを明らかにされれば、出陣なさるでしょう」と述べたのだが、福島正則らが即座にその言葉に納得して美濃への進撃を確約したという。

家康は、1か月間も江戸に留まっていた間に、諸将宛に毎日何通もの書状を書いていた。Wikipediaにその間に出した100通を超えるその書状のリストがあるが、自ら豊臣系武将の繋ぎ止めや西軍への調略による切り崩しを図っていたことが見えてくる。豊臣系諸将に出陣を促すために清州城に村瀬茂助を送り込んだときに、福島正則が即座に村瀬の言葉に反応して進撃を確約したのも、家康が正則宛に出した多数の書状が効いていたのではないだろうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

池田輝政
池田輝政

8月22日に東軍の池田輝政軍と福島正則軍は木曽川を渡り、織田秀信(信長嫡孫)が守る岐阜城を攻撃し、翌23日にこれを落城させ、続いて犬山城も落としている。その知らせを聞いた徳川家康は9月1日に、ようやく3万2千の兵を率いて江戸を出発し、東海道を西に向かいだしたという。

地図

一方の石田三成はどういう戦略で臨んでいたのか。『近世日本国民史家康時代. 上巻』に8月6日付で三成が真田昌幸宛に出した書状が引用されている。
「…上方勢壱萬ばかり語らい上り候(そうろう)とも、尾三(尾張・三河)の間にて、討ち取るべき儀、誠に天の与えに候。しかれば、会津、佐竹、貴殿は、関東へ袴著て乱入あるべくと存じ候。…[古今消息集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960837/194

石田三成は尾張と三河国境付近で東軍を迎撃し、背後より上杉・佐竹軍と東軍を挟撃する目算であったようなのだが、そのためには早急に美濃・伊勢を平定し尾張に達していなければならなかった。もしそのプラン通りに尾張を先に押さえていれば、清州城には30万石の備蓄米が有事の為に用意されていた。この清州城を最前線の要としていれば、西軍は有利な戦いが出来たと考えられる。

美濃・三河の城

しかしながら、西軍は圧倒的に戦力で優っていたにもかかわらず伏見城を落すのに10日以上かかり、それに続く伊勢攻略においても安濃津城は落城させたが、長島城で強力な抵抗に遭い、伊勢攻略半ばで東軍の襲来に合わせて美濃へ向かわざるを得なくなった。
背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、軍勢を徳川軍に対してではなく山形方面の最上義光領へと向けていたし、佐竹義宣は重臣たちの猛反対により少数の兵を織田秀忠軍に派遣したにとどまった。
先ほどの家康の書状リストを見ると、最上義光宛には家康は今井宗薫らを使者として10通、佐竹義宣の弟・蘆名盛重にも本多正信が使者となって1通の手紙を送っており、上杉軍、佐竹軍を関東に向かわせない工作をしていたことは確実だ。

上杉軍、佐竹軍から背後を狙われて挟撃される危険が去り、東軍は先に清州城に入城しその拠点とし、さらに木曽川を越えて岐阜城、犬山城をわずか1日で落してさらに西に進んでいる。

緒戦で防御の要となる拠点を失った西軍は、8月11日に入城していた大垣城にからさらに防衛ラインを下げて美濃の関ケ原付近とし、各地に散っていた武将たちに関ヶ原への集結を呼びかけることとなるのだが、そもそも石田三成が描いていた戦略はどのようなものであり、勝機はあったのだろうか。

真実の日本戦史

鞍掛五郎氏は長期戦になれば西軍が有利であったと述べておられる。
「…関東・東北方面に目を転じてみたい。西軍の中心は上杉景勝。さらには佐竹義宣、岩城貞隆、多賀谷重経、相馬義胤、蘆名義広、秋田実季、小野寺義道ら20万石を越える勢力となっている。
これに対する東軍の備えはというと、伊達政宗、最上義光、南部利直、戸沢政盛、六郷正乗らで百万石ほど、宇都宮を拠点に、結城秀康、蒲生秀行、里見義康、小笠原秀政らと、家康家臣で50万石ほど、その他、小大名多数が、備えとして残された。
長期戦となり、佐竹家が積極的に動き出した場合は、東北・関東での主導権は西軍に握られるものと推測でき、戦いが長期化すればするほど、西軍に有利となる。
総合的に考えて、毛利家を引っ張り出したことで徳川を凌駕する兵力を揃え、なおかつ朝廷と秀頼を手にしていることで政治的有利な立場にある西軍は、不敗の状態にあった。あとはどこかのタイミングで講和を結び、家康を政治的に無力化すればそれで終わりである
。」(宝島SUGOI文庫:家村和幸監修『真実の「日本戦史」』p.150-151)

石田三成は太閤検地においては検地尺を定めるなど大きな実績を残し、豊臣秀吉もその行政能力を高く評価した人物だった。家康との戦いに於いては西軍の勝機は充分にあり、確実に勝利できるだけの戦略をしっかり練っていたのだが、彼の思惑通りには味方の武将が動かなかった。
徳川家康は、西軍の武将にも内応を呼びかける多数の書状を送り届けて西軍の切り崩しをはかったのだが、その効果は小さなものではなかったのである。

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天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか

前回の記事で、石田三成を中心とする西軍は兵力で東軍を凌駕し、朝廷と秀頼を手にしており政治的に有利な立場にあって、充分に勝機があったにもかかわらず、三成の思惑通りに味方の武将が動かなかったことを書いた。

そもそも天下を二分するような重要な戦いにおいて、もし敗れる側に着いたら、所領すべてを失うだけでなく一族や家臣の命の保証もない。どちらも烏合の衆であったことは同じなのだが、どの武将も勝つ可能性の高い側に着こうとするのが当たり前のことではないか。

石田三成側に東軍を凌駕するほどの武将が着いたのは、多くの武将が西軍の方が有利と判断していたことを意味するのだが、ではなぜ西軍の武将が三成の思惑通りに動かなかったのだろうか。前回記事に少し触れたが、家康による様々な工作が無視できないようなのだ。

石田三成のプランでは背後から東軍を挟撃する予定であった上杉景勝は、家康の工作により軍勢を山形方面の最上義光領に向けさせられ、東軍は清州城を先に拠点として確保し、さらに岐阜城、犬山城を落城させて、さらに西に向かった。

毛利輝元
【毛利輝元】

東軍に岐阜城を落されて、石田三成は8月26日に使いを大坂に遣わして毛利輝元の出馬を要請したのだが、この使者が東軍に捕えられたために、書状が輝元に届かなかった。
三成は輝元に再度書状を送って再び出馬を要請したところ輝元の応諾を得て、9月12日か13日に輝元は秀頼を奉じて佐和山城に向かう予定であったが、今度は大坂城中で増田長盛が東軍に通じているという噂が流れたために、輝元は出馬を引き延ばして戦機を逸してしまったという。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/215

また、家康は豊臣家臣間の対立を利用するのがうまかった。
秀吉の晩年には、正室の北政所(木下家定の実妹:ねね)に近い武将と、側室の淀殿(浅井長政の娘:茶々)に近い武将との対立が激しかったようなのだが、家康はそれを見逃さず、北政所とそれに近い武将を取りこんでいった。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。
「石田(三成)と不倶戴天の七将*の如きも、敢て悉(ことごと)くとは言わぬが、その大半はみな北政所党であった。加藤、福島、浅野の如きは、その色彩もっとも濃厚のものだ。
思うに家康は、おもむろにこの豊臣氏の内部より出で来たる破綻を、多大の興味をもて、看取したのであろう。而して彼はあくまで超然たる態度を持しつつ、しかもこの争いを調停するよりも、これに油を注いだのであろう。関ヶ原戦役の前後の局面を観察するには、この事件の背後に、両夫人あるを忘却してはならぬ。
北政所にせよ淀殿にせよ、彼女らはもとより豊臣氏の天下を百世に保持するの一事においては依存なかった。
いな、それが彼女らの本望であった。しかも豊臣氏の天下を転覆して、これを徳川氏に手渡したのは、この両夫人をもって殊勲者とせねばならぬ。その働きの方面については、北政所と淀殿とは互いに異なっているが、しかも彼女らの一挙一動が、期せずして徳川氏の利益となった一点に於いては両(ふたつ)ながら差別がない。」
*七将:福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政(資料によっては、蜂須賀家政、藤堂高虎が加わる)朝鮮出兵の査定などで石田三成に強い恨みを抱き、関ヶ原の戦いでは七将は東軍の中核となって戦った。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/218

小早川秀秋
小早川秀秋

教科書などで関ヶ原の戦いの解説を読むと、小早川秀秋が西軍を裏切って東軍に寝返ったことが書かれているのだが、蘇峰によると秀秋の裏切りの背後には北政所の意向が絡んでいる可能性が高いという。

「秀秋の背後には高台院(北政所)があった。彼女は当初より石田三成らの行動を是認していない。彼女は当初より、家康に倚りて豊臣氏を支持せんとしていたのであった。

元来小早川秀秋は、いずれの点から観察しても、石田等に組みすべき者ではない。彼は北政所の姪にて、万事その指揮を奉ずる一人だ。而して北政所は、当時家康と親しく、その縁辺、もしくは懇意の人々は、いずれも東軍の重(おも)なる連中だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/219

東軍の浅野幸長と黒田長政が連署にて小早川秀秋に宛てた8月28日付けの書状が残されている。
そこにはこう書かれている。
「尚なお急ぎ御忠節尤もに存じ候。以上。
…貴様いずかたに御座候とも、この度御忠節肝要に候。二三日中に内府(家康)公御著に候條、その以前に御分別この処に候。政所様へ相つづき御馳走申さず候ては、叶わざる両人に候間、かくの如く候。早々返事示し待ち候。くわしくは口上に御意得べく候。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/220

このように浅野と黒田の御両人が、秀秋に対して「早く、どちらに着くか態度を決めよ」と催促したのだが、思うに浅野と黒田は家康の指示によりこの手紙を書いたのではないだろうか。しかしながら、この時点では秀秋はどちらに着くかついてまだ決めていなかったようである。

西軍の宇喜多秀家や大谷吉継も、秀秋が東軍と内応しているのではないかと直前まで疑って監視していたようなのだが小早川秀秋には西軍では3番目に多い8千(一説では15千)の兵を擁しており、彼が味方であるのか敵であるのかは両軍にとって重大事であったことは当然である。

一般的な歴史の概説書では、小早川秀秋の裏切りは書かれても他の武将のことはあまり書かれていないのだが、土壇場で石田三成を裏切ったのは秀秋ばかりではなかったのだ。

前回の記事で関ケ原前後に家康が大量の書状を各方面に送っていることを書いた。Wikipediaにそのリストがあり、書状の中身までは紹介されていないが、備考欄のコメントから判断して、西軍の取り崩しを狙ったものと思われる書状を列記しておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%89%8D%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E6%96%87%E6%9B%B8

家康の書状
【家康が関ケ原の戦い直前に西軍の取り崩しのために出状したリスト】

書状は多くの場合は使者を伴い、家康や東軍の武将の使者が書状を持参したともなれば内通しているのではないかとの噂が拡がることは必定だ。また西軍の武将にとってみれば、裏で東軍と繫がっていれば、西軍が敗れた場合にも所領没収などの最悪の事態を防げる可能性がある。実際に、言葉では「西軍に味方する」とは言いながら、東軍と両天秤にかけるような武将が少なからずいたようである。

石田三成
【石田三成】

石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書簡が残されているが、これを読むと三成の悩みや不満が吐露されていて興味深い。

関ケ原陣形

たとえば、長束正家や安国寺恵瓊が南宮山に陣を取ったことに関してこうコメントしている。
「…ことのほか敵を大事に懸けられ候て、よし敵はいぐん候とも、なかなかあい果たすべきてだてもこれなく、とかく身の取りまわし積りばかりにて候。陣所は垂井の上の高山に、山取りの用意に候。彼の山は、人馬の水もこれあるまじきほどの高山にて、自然の時は、掛合にも、人数の上り下りもならざる程の山にて候。味方中も不審つかまつるべく候。敵も其の分たるべく候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/223

要するに石田三成は、長束正家や安国寺恵瓊が高い山に陣を取ったのは、戦うためではなく身の安全を保つためだと評しているのだが、この二人を戦う姿勢に変えることこそが三成の役目であるはずではなかったか。大した武功のないたかだか20万石足らずの三成にはそれが不可能であったようなのだ。

「…敵方へ人を付置き聞き申し候。佐和山口より出でられ候衆のうち、大人数もち、敵へ申し談ぜらるる子細候とて、この中相い尋ね候。それ故に勢州へ出陣せられる者も申し留め、各々面々在所在所に相待たれ候ようにと、申し談ずなどと申し。この二三日は頻りにかげの口これあり、敵方いさみ候いつる。しかるに江州の衆、悉く山中へ出だされ候とて、かげの口違い候ように、敵を申し候とて、ただ今申しきたり候。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/225

名前を伏せているのでわかりにくいところだが、「佐和山口より出でられ候衆のうち、大人数もち」というのは、小早川秀秋のことだと思われる。ほかにもいろんな武将が東軍と繫がっていたとの噂がたっていたようだ。

「…何とぞ諸侍心揃い候わば、敵陣は二十日のうちに破り候わん儀は、いずれの道にも多安かるべき儀に候えども。この分にては結句味方に不慮出来(しゅったい)候わん体眼前に候。よくよく御分別肝要に候。羽兵人(島津義弘)小摂(小西行長)なども、その申さるる様に候えども、適慮これありとみえ申し候。拙子儀は存知のたけ残らず申し候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/226

みんなが同じ心で戦えば20日もすれば勝てる戦いなのだが、味方同士が猜疑しあっていて、この分だと味方で何があってもおかしくないと三成自身が書いていることは注目して良いだろう。

また、三成は長盛に対してこんなことも書いている。
度々申し入れし如く、金銀米銭遣わさるべき儀も、此の節に候。拙子なども似合いに、早手の内有たけ、この中出し申し候。人をも求め候ゆえ、手前の逼塞ご推量あるべく候。しかれば此の節に極り候と存じ候あいだ、其の元も心得あるべき事。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/227

この際、持てるものすべてを振りまいて、人心を収攬せよと長盛に忠告しているのだが、天下分け目の大勝負にはそれが不可欠であろう。少なくとも豊臣秀吉が生きていたら、大盤振る舞いをする局面ではある。

石田三成が増田長盛に宛てた書状の全文は、蘇峰の『近世日本国民史』に解説付きで紹介されているのだが、これを読むと三成が西軍の武将をよく観察し、敵と内通している武将や二股をかけようとしている武将が少なからずいて、形勢が厳しいことを認識していたことがわかる。

しかしながら、三成にはそのことを洞察することはできても、局面を挽回する力がなかった。

徳川家康
徳川家康

味方の人心を収攬し、敵方を疑心暗鬼に陥れる能力においては、はるかに徳川家康が優っていた。
戦いで勝利するためには、兵力や戦略で優位であることが必要であることは言うまでもないが、家康は調略と情報戦によって、西軍有利な状況を覆したのである。

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日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
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宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
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徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
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家康のキリシタン弾圧と、キリシタン武将・宣教師らにとっての大阪の陣
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江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
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関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き

前回の記事で、石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書状の一部を紹介したが、西軍の諸将の中には東軍と通じている武将が少なからずいたし、高い山に陣を取って、戦うためよりも身の安全を保つことを優先する武将もいた。

この書状の中に、前回の記事で紹介しなかったが、非常に重要な部分がある。『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に紹介されている書状の該当部分を徳富蘇峰の解説とあわせて引用したい。

石田三成像 龍潭寺
石田三成像 龍潭寺】

「『一 (毛利)輝元御出馬これなき事、拙子体は尤もと存じ候。家康上られざるには入らざるかと存じ候へども、下々は、この儀も不審にて申す事に候事。』
三成は9月12日まで、未だ家康の出馬を知らなかったであろうか。さりとは余りに敵情偵察が遅鈍であると言わねばならぬ。しかし三成の言葉は、輝元の出馬せざるを回護するが如くして、その真意は、輝元の出馬せざるについて、少なからざる不満を漏らすにあった。三成の所謂『下々の申す事』は、西軍中の世論とも言うべき意味合いである。彼は下々の申す事に託して、自己の思惑を陳べたのである。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/226

復習をかねて少し補足すると、慶長5年(1600)の6月に、謀反の噂があった上杉景勝を征伐するために徳川家康は大坂城を発ち、7月21日に江戸から会津に向かっていた。
家康が予想していた通り石田三成が挙兵を決意し、7月17日には毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させるとともに前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布したのち、西軍は兵を東に進めて8月1日に宇喜多秀家らが伏見城を落城させている。

石田三成挙兵の情報は約1週間で家康に伝わり、東軍の軍議の結果石田三成を迎撃することが決定して上杉征伐が中止されるに至る。

石田三成の計算では、その東軍の西進を送らせるために上杉景勝が東軍の背後を襲撃する手はずだったのだが、そうさせないために家康は出羽国山形の最上義光を動かして上杉と戦わせ、東軍が上杉景勝から背後を狙われることがないように手を打っていた。
そして東軍は西に向かって先に清州城に入城してその拠点とし、一方家康は江戸に戻って東軍への指示や西軍への調略による切り崩しを図っていた
のだった。
一方西軍の大将である毛利輝元は、大坂城中で増田長盛に東軍との内通の噂が立った*ために大坂に留まることとなり、関ヶ原には毛利秀元と吉川広家を出陣させている。
*毛利輝元が大坂にとどまったのは淀殿に出馬を拒否されたとの説もある。

石田三成の増田長盛宛書状の引用部分は、「家康が西に向かうことが出来ないので、西軍の大将である毛利輝元が来なくても(バランス上は)問題ない」と三成が認識していたことを示唆しているのだが、とすると石田三成は未だに家康は上杉景勝から背後を攻められて戦っており、到底関ヶ原には間に合わないと踏んでいたのか、家康が東京から西に向かっているという事実を知らなかったのかのいずれかということであれば、蘇峰の指摘する通り西軍は「余りに敵情偵察が遅鈍である」と言わざるを得ないのだが、別の解釈もありうるだろう。
もしかすると三成が、東軍と内通しているとの噂があった長盛に対して、わざと嘘を書いたのかも知れないのだ。増田長盛が家康と繋がっていたことはどうやら真実のようで、Wikipediaには家康に三成の挙兵を内通し、三成への資金援助要請も渋って対東軍への保身工作も講じていたことが記されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B

三成が上記の書状を書いた2日後の9月14日に、家康が美濃の赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町)にある安楽寺に設営された本陣に到着し、赤坂が随分賑やかとなった。

日本外史

江戸時代後期に成立した頼山陽の『日本外史』ではこう記されている。
「西軍の偵騎、走って大垣に報じて曰く『赤坂に白旗多し。内府(家康)来たるに非ざるを得んや』と。秀家・三成ら、陽に大言して曰く、『彼方に上杉・佐竹を憂へ、䠖跙(しそ)として進まず。焉(いずく)んぞ遽(にわ)かにここに来るを得んや。』」(岩波文庫『日本外史(下)』p.358)

頼山陽
【頼山陽】

このように著者の頼山陽は、西軍の諸将は、「(上杉や佐竹を警戒して)家康がこんなに早くここに来れるはずがない」と考えていたことを記している。

ところが、しばらくして西軍の斥候から家康が到着したことは確実との情報が届いて、もともと烏合の衆である西軍に動揺が走ったことは言うまでもない。事態を憂慮した石田三成の家老・島左近は戦勝による士気の回復をはかるため、東軍に奇襲攻撃をかけることを三成に進言したという。

徳富蘇峰は同上書で『関東軍記大成』という書物を引用している。その書物にはこう記されているという。
島左近この時石田に向かって、味方の兵士かように騒ぎ立ちては、合戦の勝敗測り難し。某(それがし)人数を出して敵をひっかけ、一手二手切り崩さんに、手間は入るべからず。敵内府(家康)を後ろ盾にして、足長に働き申さんは、必定なりと言いけるに。(宇喜多)秀家、(石田)三成両人ともに、左近が計(はかりごと)を許容あるによって、左近此の時稲葉兵衛、伊東頼母らを下知して、柵外に兵を進めけるに。蒲生備中も、左近に次ぎて、馳せ赴く。秀家の家人明石掃部、長船吉兵衛らは、西口より笠縫堤へかかりて、兵士を進め、木戸村、一色村に伏兵を残し、其の余隊は、三成が先鋒と一手になりて、馳せかかれり」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/230

杭瀬川の戦い
【「関ケ原合戦図屏風」】

杭瀬(くいせ)川は大垣城と美濃赤坂の中間部に流れる川であり、当時は周辺に森林が生い茂っていて、島左近は森林の中に伏兵を忍ばせ、残る部隊で対岸を渡り、東軍の中村一栄隊を挑発すると小競り合いが始まる。間もなく有馬豊氏隊も加わって乱戦となり、島左近はある程度戦った後、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣出すことに成功する。そこで島左近が忍ばせていた伏兵が中村・有馬両隊を襲撃し、さらに宇喜多隊の明石掃部が参戦して東軍の40人ほどを討ち取ったという。(杭瀬川の戦い)

杭瀬川の戦い地図
藤井治左衛門 著『関原戦史』p.105
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020199/61

かくして関ヶ原の戦いの前哨戦では西軍が大勝したのだが、この小さな戦いが行なわれた場所については、この川の川筋がその後変化しているために特定されておらず、古戦場を示す立札などはどこにもないのだそうだ。

この戦いの翌日に関ヶ原の本戦が行なわれたのだが、なぜ西軍が野戦で東軍と戦うことになったのかが昔からの疑問だった。少なくとも大垣城で東軍を迎え撃てば、西軍が簡単に負けることはなかったはずなのである。

大垣城
【大垣城】

三成は8月10日に西軍の拠点である大垣城に入った。しかし関ケ原本戦の前日の9月14日に大垣城を出て関ヶ原に向かっている。その理由は、家康が美濃赤坂を出て大垣城に向かうのではなく、さらに西へ向かう動きを見せたからだという。

この点については徳富蘇峰の解説がわかりやすい。
「…彼らは家康が到着をしたのを見、而して万障を排して前進するを聴き、いずれとも其の対策を定むべき一時となった。
佐和山城は、石田の本拠だ。大垣城を守りて、佐和山城を失うは、石田としてはあたかも手を保たんがために、首を失うの類だ。石田その人としては、是非とも途中に於いて、家康の西上軍を食い止めねばならぬ。石田既に然り、その他の宇喜多、小西の諸将が、この議を賛したのも、決して不思議はない。蓋し家康は、その行動を秘密にせず、むしろ西軍をして、これを知らしむべく努めたようだ。そはこの野戦において、西軍の首脳に大打撃を加え、彼らをして一敗地に塗(まみ)れしむるは、東軍として、最も得策であるからだ。即ち家康としては、西軍が城を出づれば、尤も妙、しからざればこれに頓着なく前進すべく、いわば両途(ふたみち)かけたのだ。
この際に於いて、西軍には籠城説がなかったが、夜襲説はあった。そは島津義弘が、その姪・島津豊久を使いとして、三成に勧めたのだ。今は赤坂の敵営を偵察せしめたるに、敵兵は疲労のあまり、甲冑を枕として眠る者がある。もしこの際家康の本営を斫(き)らば、必ず奇功を奏するであろう。もし之を可とせば、吾請う先鋒たらんと。しかも三成は既に関ヶ原退却の議を決していたから、その議に賛成するを躊躇した。その側らにあった島左近は曰く、夜襲は寡兵が多兵を相手とする際のことだ。我が軍は多く、敵は少ない。よろしく正々堂々の大野戦にて、勝ちを期すべしと。豊久は、不快満腹にて辞し去った。[落穂集]」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/234

かくして西軍は9月14日の午後7時に大垣城を出て関ヶ原に向かった。東軍に気付かれないよう、松明を点さずに雨の中を進軍したという。途中長束正家、安国寺恵瓊に翌日の戦略を告げ、烽火を合図に東軍の背後を衝くことを指示した後、大谷吉継とも協議したと記録されている。

果たして西軍が夜襲をかけて勝機があったかどうかはわからない。西軍の動きは東軍の斥候によって逐次家康に報告されていた。家康は西軍が大垣城を出たことの報告を受け、即座に関ヶ原への進軍を命じている。

徳川家康

頼山陽の『日本外史』に、その報告を受けた時の家康の反応が描かれている。
「…内大臣哂(わら)って曰く、『敵、我が術中に堕つ』と。乃ち令を軍中に下し、諸将を部署す。…」(同上書p.362)

家康は城で戦うよりも、野戦で戦うことを強く欲していたようだ。そうするために東軍は佐和山に向かう動きを見せて、西軍をうまく大垣城から関ヶ原に誘き出すことに成功したのである。

かくして両軍は中山道、北国街道、伊勢街道が交差する要衝・関ヶ原に集結し、いよいよ決戦の火蓋が切られようとしていた。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明暦3年1月18日(1657)から1月20日にかけての「明暦の大火」で、江戸市街の約6割が焼失した。この大火の火元は本妙寺とされているのだが、本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。この大火は江戸幕府はどう関わっていたのか。

「『明暦の大火』の火元の謎を追う」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-119.html

また慶応2(1866)年1月24日未明、伏見奉行所の役人に坂本竜馬が襲撃された事件(「寺田屋事件」)が起っている。
伏見には、今も「寺田屋」という宿が存在するのだが…。

全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-36.html

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-87.html

お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-88.html


関ヶ原の戦いの本戦で東西両軍はいかに戦ったのか

関ヶ原を東西に東山道*が貫通し、中央より西北に向かって北国街道、南東に向かって伊勢街道があり、関ヶ原の東には東山道と伊勢街道に挟まれて南宮山があり、東山道の南に松尾山が聳え、また北国街道の北には伊吹山から続く相川山があり、その山の麓に笹尾山と称する小山がある。
*東山道:江戸時代に五街道が整備されて、東山道は、中山道、奥州街道などに再編された


西軍の主力が大垣城を出て関ヶ原に向かったのは9月14日午後7時以降のことで、石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の順に、東軍に気付かれぬよう馬舌を縛り、松明を使わずに、大雨の中を南宮山を南に迂回して進んだという。
石田三成の隊が関ヶ原に着いたのは15日の午前1時頃、島津義弘の隊は午前4時頃で、その後に小西隊、宇喜多隊が到着し、関ヶ原駅の西に陣を構えている。

関ヶ原陣形と街道

すでに松尾山には小早川秀秋が、南宮山には毛利秀元、長曾我部盛親、長束正家、安国寺恵瓊がいたのだが彼らは、従来の位置を改めることはなかったという。

一方、東軍は14日に敵の夜襲があることを警戒し、篝火を焼き巡邏を厳しくし、斥候を遠くに派遣して不測の事態に備えていたようだ。そして14日の夜半に、敵兵は概ね大垣城を出ているとの情報を掴み、午前3時より東軍諸隊は中山道より行進を開始し関ヶ原に向かっている

東軍の先鋒の福島正則、黒田長政が関ヶ原に到着したのは15日の早朝であったが、この日は近くも良く見えないほど霧が深かったようだ。

しばらく徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』を引用する。

東軍の先鋒諸隊は、黎明に漸く関ヶ原に達した。されど夜来の秋雨は未だ晴れず、加うるに山間の濃霧は晦冥(かいめい)にして、呎尺(しせき)も弁じ難くある。福島隊の先頭は、宇喜多隊の後尾と、駅中の衢路(くろ)にて相(あい)混乱し、敵か、味方か彼我ともに驚くばかりであった。福島の兵は、宇喜多兵の小荷駄を擾乱して、斥候3名を出し、前面に赴かしめた。宇喜多隊もまた、斥候2名を発して来たらしめ、端(はし)なく斥候の衝突が起った。
かくて東軍は、既に西軍の前路を扼(やく)するを知り、其の行軍を中止して、いよいよその陣地に就いた。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/242

家康の侍医であった板坂卜斎が著した『慶長年中卜斎記』には、この日の天候についてこう記されている。
十五日小雨降。山間なれば霧深くして五十間*先は見えず。霧上がれば百間も百五十間先も、わずかに見ゆるかと思へば、その儘霧下りて、敵の旗少し計り見ゆることもあるかと思えば、その儘みえず。…」
*間(けん):間=6尺=1.818m。五十間は90.9m

メッケル

このような悪天候のなかで、東西両陣営が陣取った布陣について、Wikipediaにはこう記されている。
「東軍に先んじて関ヶ原に到着した西軍方は三成の拠る笹尾山、宇喜多秀家の拠る天満山、小早川秀秋の拠る松尾山、そして毛利秀元が布陣する南宮山のラインで東軍を囲む鶴翼(かくよく)の陣を敷くと同時に、実質的に関ヶ原における高所の大半を抑えた。 明治の世に軍事顧問として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原における両軍の布陣図をみて、即座に西軍の勝利を断言したという。しかし、東軍は鶴翼の「翼」の部分に相当する諸将の多くを内応させており、本来ならば圧倒的に不利である鶴翼の陣の奥深くに陣を置くことができたのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

関ヶ原の両軍の陣形に関してはこのメッケル少佐の逸話がよく出て来るのだが、この話は司馬遼太郎が『日本史探訪』の中でそう語ったことが広まったものであるらしい。
しかしながら、司馬の語るこの話の出典は不明で、メッケルが本当にそのように発言したということが確認されていないのだそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20130301/1362124787

陣形

鶴翼の陣」とは、自軍の軍隊を左右に長く広げた隊形に配置する陣形だが、前進してくる敵軍を包囲して攻撃を加えるのに適していると解説されることが多い。
もしメッケル少佐が西軍有利と発言したのが真実なら、西軍が「鶴翼の陣」の陣形で待ち構えていたことからそう判断したのだろうが、実際には家康による東軍の切り崩し工作によりこの陣形の南側の翼は全く機能しなかったばかりか、最後に西軍を裏切ったのである。

では、関ヶ原の戦いの本戦はどのように推移したのであろうか。

9月15日の午前8時ごろ、濃霧の中で東軍の井伊直政隊と西軍の宇喜多秀家隊との偶発的な遭遇戦が起こる。それから東西両軍の戦いが一気に本格化したようだ。

徳富蘇峰の前掲書を再び引用する。
「福島隊は…銃卒八百人を指揮して、中山道の左に進み、宇喜多隊を射撃した。秀家は前隊本隊を五段に展開して、これを防いだ。
 この時、朝霧なお未だ晴れなかった。自余の東軍は、福島隊の銃声を聞くや否や、藤堂、京極の二隊は進んで大谷の隊を攻撃し、寺澤廣高もまたこれに向うた。織田有楽、およびその子長孝、古田重勝、猪子一時、佐久間安政、同勝之兄弟、船越景直らは小西の隊を衝き、田中、細川、加藤、金森父子、および黒田、竹中の隊は石田の陣地を目がけて進撃した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/244

石田三成隊は木柵、鉄砲、大筒などを用いて必死に東軍部隊を抑えていたが、黒田長政隊の狙撃兵が石田隊先陣の島左近を負傷させ、石田隊の先陣が退却すると、石田隊は大砲の発射で黒田・細川隊に応戦したという。
大谷吉継隊には藤堂高虎隊、京極高知隊が襲いかかるも、大谷隊は3倍近い兵力の藤堂隊・京極隊を何度も押し返し、また小西行長隊には織田長益隊、古田重勝隊が攻撃した


関ヶ原の戦い

この激戦をこの地で体験した太田牛一は『慶長記』でこう記している。

敵身方押し分けて、鉄砲放ち、矢さけびの声、天をひびかし、地をうごかし、黒烟(けむり)立ちて、日中(にっちゅう)もくらやみと成り。敵も身方も入り合い、こを傾け、干戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う。切先より火焔をふらし。日本国二つに分けて、ここを詮度と生便敷(きびしく)戦い、数ヶ度の働き此の節也。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/246

Wikipediaによると開戦直後に激突した主な武将は次の通りである。わかりやすいように兵の数をカッコ書きしておく。
東軍・福島正則(6,000)対西軍・宇喜多秀家(17,220)
東軍・藤堂高虎(2,500)・京極高知(3,000)対西軍・大谷吉継(600)
東軍・織田長益(450)・古田重勝(1,200)対西軍・小西行長(4,000)
東軍・松平(3,000)、井伊(3,600)、本多忠勝(500)対西軍・島津義弘(1,588)
東軍・黒田長政(5,400)、細川忠興(5,000)対西軍・島清興(石田三成隊(6,900)先陣)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

兵の数だけを見れば東軍の方がやや多いようだが、地形的に有利な場所に陣を構えていたこともあって当初は西軍が優位に戦っていたようだ。もし松尾山の小早川秀秋隊1万5千と南宮山の毛利秀元隊1万5千、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6千6百ら、計4万7千の兵が東軍の側面と背後を攻撃していれば、西軍が勝利する可能性は充分にあったと思うのだが、小早川隊以下松尾山の諸隊は午前中には動くことなく、毛利・長宗我部・長束・安国寺らは徳川家に内応していた吉川広家に道を阻まれて参戦しなかったという。

小早川秀秋は、一旦は家康に味方をする決意であったというが、三成からは関白への叙任と上方2ヶ国の加増を持ちかけられ決心が揺らいでいたらしく、開戦以降は両軍から戦闘参加の催促の使者が訪れていたがぎりぎりまで戦況を見極めようとしていたようだ。しかし正午ごろに東軍から松尾山に向かって威嚇射撃を加えられてようやく秀秋は旗幟を鮮明にすることとなる。
秀秋より裏切りの命令が下されて小早川隊は山を降り、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃しはじめたのである。

大谷吉継

大谷吉継は小早川隊の裏切りを予め想定していて、温存していた6百の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返したのだが、そのタイミングでそれまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4千2百の西軍諸隊が、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いたために戦局が一変することとなる。大谷吉継は、秀秋を牽制するべき脇坂らが西軍を裏切ることは想定しておらず、敗北を悟って自刃して果てたと伝えられている。

宇喜多秀家

小早川、脇坂らの寝返りは西軍に大きな衝撃を与え、小西隊が崩れて、小西行長が敗走。次いで宇喜多隊も総崩れとなり、東北に向かって敗走したという。

石田三成

石田三成の隊は東軍を相手に粘り続けたが、小西・宇喜多の敗走を見るに及んで壊滅状態となり、三成も西北の山間に逃走したという。

最後まで戦場に踏みとどまったのは島津義弘隊で、1千5百の兵が一斉に鉄砲を放って、正面に展開していた福島隊の中央突破をはかっている。西軍の諸隊が悉く潰滅する中でまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、島津隊は強行突破に成功。松平・井伊・本多の徳川諸隊は執拗に追撃したが島津隊将兵の抵抗は凄まじく、井伊直政や松平忠吉らが相次いで撃たれたことから、家康から追撃中止の命令が出て深追いを避けたという。

一方、西軍が壊滅するさまを見ていた南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始し、浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが、長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無事に戦線を離脱し、毛利、安国寺隊は伊勢街道から大坂方面へ、長宗我部、長束隊はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡している。

午後4時頃に全ての戦闘が終り、かくして関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わったのである。

徳富蘇峰

徳富蘇峰は前掲書で、関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北についてこう評している。
「西軍の敗北は、必ずしも単一の原因ではない。たとえ小早川秀秋の裏切りなきも、もとより遂に敗北すべき運命であったろう。西軍には主将が無かった。西軍には統一がなかった。西軍には熱心なる戦闘的精神が無かった。彼等の大半は、家康の名を聴いて、未だ戦わざるに気死していた。しかして偶々戦闘につとめた者までも、互いに同心戮力するの協同心、及び協同作用が欠乏していた。例せば石田隊の苦戦に際しても、島津隊は傍観していた。すなわち西軍は首尾相済(すく)い、前後相相扶(たす)くる運動なく、ただ各隊各個の動作に止まった
かかる多大の欠点を具有したにかかわらず、公平に観察すれば、西軍は善く戦うた。関ヶ原の戦争は、西軍にとりては、決して恥辱ではなかった。石田隊、宇喜多隊、島津隊、大谷隊の如き、何れも東軍をして、辟易せしむるに足る程の手並みを示した。午前8時に開始したる戦闘が、正午を過ぎて未だ勝敗を決しかねたるを見れば、如何に西軍の抵抗が、頑強であったかがわかるであろう。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/259

蘇峰の指摘の通り、確かに西軍にはリーダーが不在でチームワークにも欠けていたのだが、その原因を探ると、西軍の武将に対する家康の切り崩し工作が随分効いていたことを指摘せざるを得ないだろう。西軍の中は東軍と内通して、西軍を裏切ったり、東軍に協力する兵士が多かったのだが、それにもかかわらず、石田、宇喜多、島津、大谷らの各隊は粘り強く戦いよく持ちこたえたことはもっと知られて良いのではないか。
8万と言われる西軍の諸兵のうち、東軍と戦ったのはたかだか3万3千程度に過ぎなかったというが、東西両軍を天秤に掛けて強い側につこうとしていた小早川秀秋が、正午を過ぎて東軍から挑発されるまでどちらが勝利するか見極めきれなかったほど、西軍が善戦していたということなのだ。

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家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
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関ヶ原の戦いの後の佐和山城と大垣城の落城

前回の記事で慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いの本戦の流れについて記したのだが、西軍は敗れたとはいえ石田三成、宇喜多秀家ほか多くの諸将は敗走して生き延びている。また大坂城や大垣城佐和山城などには西軍の将兵が無傷で多数残っていたのだから、この日の「関ヶ原の戦い」だけで東西両軍の争いが完全に決着したとは考えにくいところである。

しかしながら、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には、次のように記されている。

石田三成は、小西行長らとはかつて家康をしりぞけようとしたが、家康は1600(慶長5)年、美濃の関ヶ原の戦いでこれを破った。三成方に付いた大名は処刑されたり領地を没収され、また秀頼も領土を減らされて一大名となった」(同上書p.150)
と、まるで関ヶ原の戦いで全てが決着したかのように書かれているのだが、西軍がさしたる抵抗もせず、簡単に東軍に降伏するぐらいなら初めから戦わない方がましではないか。

実際には激しい西軍の抵抗があったのだが、今回は、佐和山城大垣城がどのようにして東軍の手に落ちたかについて書くこととしたい。

9月16日に徳川家康は、前日の関ヶ原の本戦で西軍に属しながら東軍に寝返った小早川、脇坂、朽木、赤座、小川を呼んで、石田三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じたという。さらに東軍の田中吉政、井伊直政を加えて、合計約1万5千の大軍で近江に向かわせている

では、関ヶ原の戦い当時の佐和山城の守りについてはどのような状態であったのか。

石田三成を中心に

国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に、中日新聞の前身である新愛知新聞社の編集局長であった尾池義雄氏が昭和2年(1926)に著した『石田三成を中心に:関ケ原大戦の真相』という本が公開されている。その本には、関ヶ原の戦いの後、佐和山城を守っていた石田一族のことについてこのように記されている。

「留守の将士はみなこれ石田一門である。勝てば勝ち、敗くれば死は免れぬところである。これ位の覚悟は彼等にはあった。三成出征後の戦況や如何にと日夜鶴首してその報道を待っていたが、関ヶ原の大敗を聞くや、中にも正継(まさつぐ:三成の父)、正澄(まさずみ:三成の兄)は早くも決意した。この上は城を支持したとてそれは単に幾許かの日を延ばすに過ぎない。帰するところは落城あるのみ。いたずらに支持して多年忠勤の士卒を殺すは情として忍びざるところである。むしろこれを放還して我等数輩のみで死守して以て潔く死するに如くはないというが銘々の同一意向であった。ここに於いて凝議の結果、士卒を集めてその旨を諭し、死を共にしたき者のみを留まらしめて嬰守することとなった。それでも留まって死を冀(こいねがっ)た者はおよそ2千8百人であった
 味方が関ヶ原に大敗した以上、敵は洪水の如く押し寄せて来るは必定である。正継等は直に部署して城を固めたが、果たして17日には数万の大軍が山下に押し寄せた。小早川秀秋・朽木元綱、脇坂安治、小川祐忠らは篝(かがり)尾口より責めかかった。
正午の頃秀秋の先鋒平岡頼勝らは切通しより城壁に迫って戦ったが、ここを守る者は津田清幽*父子であったので、拒戦防闘大いに敵を悩まして敗走させた。…」
*津田清幽:石田三成の重臣。佐和山城の戦いでは、子の重氏とともに奮戦し、小早川隊を退けた。以前家康に仕えたことがあり、東軍方の使者と交渉の任に当たった。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174160/210


佐和山城地図

しかしながら篝尾口を守っていた山田上野は支えきれず、本丸に援兵を請うのだが、その時に本丸から派遣された弓・鉄砲頭の中に長谷川守知という人物がいた。
前掲書で尾池氏はこう記している。

「…長谷川守知が裏切ったのである。しかも秀秋の隊に向かって内応の矢文を発した。…けだし守知の叛意は当日俄に萌したのではない。彼は実にさきに京極高次と約するところあって大阪らの援兵と称して佐和山に入っていたのであった。」
石田正継は長谷川守知を討とうとしたが、水道から脱出して秀秋の隊に逃げていったという。城内の2千8百人の中には、東軍に内通していた者が何人か紛れ込んでいたようなのである。

そしてその日の夕刻に、家康よりの使者・船越景尚が田中吉政とともに佐和山城を訪れて、「関ヶ原の戦いで西軍は敗れた。速やかに降参せよ。」という家康の命を津田清幽に伝えている。

石田正澄は「某(それがし)一人の死を以て士卒の生命に換えたまわることなら明日にでも城を渡すべし、村越直吉殿を城中に遣わされよ」と答えて、家康もそれに快諾したというのだが、その翌日に、正澄と家康との約束があるのを知っていたか知らなかったのかはよく分からないが、田中吉政の兵が佐和山城内に突入している。再び尾池氏の著書を引用する。

翌18日の朝に至って、吉政の兵は天守閣の門を破り、内城に突入する。清幽の子の重氏らは奮戦激闘してこれを退治して門を鎖す。そうこうするうちにまたもや裏切りする者があって、火を本丸に放ったので、正澄・正継らは如何ともせむ術なく、天守閣に駆け登り銘々に妻子を殺して自盡した。ともかくも一死を以て女童士卒の生命を救うことになっていた折柄のできごとであるから正澄の無念はけだし非常であったろう。それよりは罪なき女童があったら一命を棄つる当座の光景はどんなであったろう。佐和山城内のこの瞬時の光景はまた一大悲劇であった。三成の夫人宇多氏もまた正澄らの妻子と共に最期を遂げたのである。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174160/211

この佐和山城の悲劇は、『信長公記』を著した太田牛一が『慶長記』に記している。徳富蘇峰の著書『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されている。

佐和山には、石田隠岐守(三成の父正継)、宇田下野守(三成の岳父)、石田木工頭(三成の兄正澄)、子息右近太夫、たて籠もり抱え難く見及び、上臈、子供呼び並べ、是にて腹を伐るべき也。思い定めて恨みとも思うべからずとて、心づよくも一々妻子さし殺し、算を乱すあり様、目も当てられぬ様体也。これを見て、女の墓なき者、瞳(どう)と悲しみ叫ぶ声、佐和山もくづるる程と覚えたり。…」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/265

かくして東軍の違約により石田三成の居城・佐和山城は落城し、助かるはずであった多くの命が失われたのだが、敗者の城ゆえにその後徹底的に破壊されて、城址には今はほとんど何も残されていないという。

次に、関ヶ原本戦直前まで西軍の前線司令部であった大垣城はどうなったのか。

大垣城

大垣城は9月14日に石田三成らが退去して関ヶ原に向かった後は、本丸に福原長堯*、熊谷直盛、二之丸に垣見一直、木村勝正、三之丸に相良頼房、秋月種長ら約7千5百の兵が城を守っていた。
*福原長堯(ふくはらながたか):豊臣秀吉に仕えた武将。妻は石田三成の妹。官位=右馬助

では東軍は、この大垣城に対してどう布陣していたのだろうか。

昭和5年に出版された『大垣市史 上巻』にはこう記されていいる。
「…この城に対する守備として、曾根の砦に水野勝成・西尾光教を、長松の砦に一柳直盛りを置きしが…
水野勝成はこの役(関ヶ原の戦い)西軍と激戦せんと欲し、分に過ぎたる兵員を率いたれば、本軍の西上に従属せんことを請いしが、許されず。空しく曾根の一城を守らしめられたるを以て、意甚だ満たざりき。たまたま領家村の郷士久世助兵衛、9月14日夜、西尾光教の陣に来たり、『今宵石田・宇喜多らの諸将は皆大垣城を出でて関ヶ原へ赴き、福原右馬助をはじめ僅少の勢にて留守せる由』を報じければ、光教大いに喜び、直ちに勝成らと大垣城攻撃の事を議し、その夜未明に光教・勝成ら助兵衛を嚮導としてまず兵を発せり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/163

水野勝成の実父の水野忠重は、徳川家康の叔父に当たる人物で関ヶ原本戦の2か月前に西軍方の加賀井重望に暗殺された経緯から、勝成は父の仇を討ちたくて多くの兵を引き連れて来たのだが、家康に命じられて大垣城の備えに配置されたことが不満だったようだ。
ところが、西軍の将兵の大半が関ヶ原に向かって大垣城の守りが手薄との情報が入り、水野勝成は西尾光教らとともに大垣城を攻撃して戦功を挙げようとしたのである。

水野勝成
【水野勝成】

14日の夜中に勝成らは大垣城に迫り、銃撃戦ののち三之丸を破って二之丸に迫ったが、西軍の頑強な抵抗に遭い、15日未明に城下に放火し、城北にある林村に一旦退き、使いを送って戦況を家康に報告させている。
しばらくして関ヶ原で東軍が大勝した情報が入り、それが大垣城内にも伝えられて城内の西軍の士気が沮喪していくことになる。

そして16日に水野勝成は、大垣城の三之丸を守っていた秋月種長の家老・秋月三郎左衛門にこのような書状を送っている。

「…曰く『昨日の軍に三成討死、諸大将達大方討死候なり。然れば此城計にて本意を遂げらるべきことに非ず。今此の時に候間、よくよく秋月殿へ申され候え』と。三郎左衛門はもとより望むところなれば、即ちこの由を種長に告げ、再三これを諌めければ、種長終に同心し、さらばとて相良・高橋にこの事一味あるべきやと言えば、頼房は大坂にありしときより心を家康に帰し、陳情書を井伊直政に送りし程にて、大いに悦びて之を賛したれば、高橋元種もまた相違なく同意せり。
 この夜相良頼房、秋月種長、高橋元種*連署して、密書を勝成に送りて曰く『もし、罪を宥され領有を全くするを得ば、城将数名を誘致し、以て帰順の意を表せん。請うこの意を井伊兵部**に致せ』と、勝成すなわち之を本営に稟議し、密かに答書を送りてこれを許す
。」
*相良頼房(肥後の戦国大名・相良義陽の次男)、秋月種長(筑前の戦国大名・秋月種実の長男で相良頼房の妹の婿)、高橋元種(秋月種長の弟)はいずれも大垣城の三之丸を守備していた。
**井伊兵部(井伊直正):徳川家康の重臣。関ヶ原の戦いでは東軍指揮の中心的存在。直政の工作により京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/164

水野松成は石田三成が討死したと嘘を伝えたのだが、大垣城を守る西軍にはそもそも確認するすべはない。
西軍敗北の報を受け、相良頼房は重臣の犬童頼兄の助言もあり、秋月種長及び高橋元種と相談の上、かねてより音信を取っていた井伊直政を通じ、家康への内応を密かに連絡したのである。連絡を受けた直政は家康に報告し、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じたのだが、大垣城本丸・二の丸に陣取る福原長尭らの戦意は高かった。

そこで頼房・種長・元種の三将は、9月17日頃軍議と偽って籠城中の諸将を集め、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・豊統父子を暗殺し二の丸を制圧している。

おあん物語

ところで、大垣城で家族とともに籠城した武将のなかに山田去暦という人物がいたのだが、東軍から「愈々明日には落城すると思うが山田去暦殿は、かつて家康公の手習い師匠であったので逃げるなら見逃そう」という矢文が届いて、家族とともに城を脱出したという。その娘が、後にこの籠城生活のできごとを語ったのを書きとめた『おあむ物語』という書物が残されていて、大垣城に複製が展示されていた。

次のURLにその全文があるが、初めて読んだときには驚きを禁じ得なかった。
http://www.j-texts.com/kinsei/oan.html
たとえば、こんなくだりがある。

おあん物語

「味かたへ、とった首を天守へあつめられて、それぞれに札をつけて覚えおき、さいさい くびにおはぐろを付ておじゃる。それはなぜなりや。むかしは、おはぐろ首は、よき人とて賞玩した。それ故、しら歯の首は、おはぐろつけて給われと、たのまれておじゃったが くびもこはいものではあらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった。」

戦後の恩賞のために、少しでも身分の高い武将に見えるようにお歯黒を塗るという役割が女性や子供たちに与えられていたことは大垣城を訪れた時に初めて知ったが、この『おあむ物語』には、天守に集まっては鉄砲玉を鋳造した話や、味方が取ってきた敵兵の首を並べて、目の前で弟が射殺されて冷たくなっていく話などが描かれていて、小説や映画やテレビドラマ等では絶対にわからない戦国時代の武士の世界を垣間見ることが出来る。

話を大垣城の攻防戦に戻そう。
東軍に内応した味方の裏切りにより二ノ丸を制圧された後、福原長尭は本丸で頼房らを迎撃したのだが、再び『大垣市史』を引用する。

「…(福原)長尭の士250人、四方へ5人ずつ配置し、自ら50人を率いて駈り出し、防戦甚だ力めたれば、寄手大勢なれど鉄門を破る能わず。…よってその後は仕寄り*を付けて攻撃せしに、城兵火箭を発してまた之を焼く。勝成・頼房ら交互して蕞爾たる一本丸を攻むること2日3夜に亘るも、長尭死守して屈せず
 既にして家康の命あり。曰く『戦いを止め説き降すべし。』と。勝成すなわち22日、近辺の禅僧2人を遣わして長尭を諭す。長尭曰く『苟(いやしく)も士卒の死を宥(ゆる)されなば、謹んで城を致さん。請うその証として人質を遣わされよ』と。勝成、光教と議してこれを許し、光教の臣・谷清兵衛を遣わせり。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/165

そして23日に福原長尭は約束通り兵器を東軍に交付して城を明け渡し、名を道蘊と改めて伊勢の朝熊山に蟄居したのであるが、その報告を受けた家康の反応を書かざるを得ない。

長尭の城を致すや、勝成・光教らこれを家康に報告し、長尭を赦すを請う。聴かれず。すなわち使を発し(28日)旨を諭して自裁せしむ。長尭使者に対面し、『某(それがし)ことは三成縁者のことなれば、公の御遠慮至極なり。』とて、少しも騒がず。朝熊山の麓、永松庵という禅寺にて切腹す。此処に墓所ありて、順道蘊禅定門、慶長5年10月2日とありと言う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209596/165

家康は決して福原長尭の出家を赦さなかった。そして長尭は、三成の親族として、従容として切腹して果てたのである。

関ヶ原の本戦もそうなのだが、関ヶ原の後の掃討戦においても、東軍は決して実力で勝利したのではない。表現が難しいところだが、東軍は勝つために手段を選ばなかったから勝利したという側面が少なからずあるのだ。
西軍は敗れはしたものの、少なからずの武将が命を懸けて、東軍に正面から戦い挑んだことは、記憶にとどめておきたいものである。
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石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが捕縛され京都で斬首されたこと

関ヶ原の戦いに大勝したとはいえ、西軍の首謀者である石田三成、宇喜多秀家、小西行長、安国寺恵瓊、島津義弘らの行方が不明であったので、徳川家康は、田中吉政にその捜索を命じている

慶長年中卜斎記
【慶長年中卜斎記】

最初に発見されたのは小西行長だが、家康の侍医であった板坂卜斎が記した『慶長年中卜斎記』に行長が発見された経緯などが記録されていて、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されている。

小西行長は、関ヶ原本戦から4日後の9月19日に伊吹山の東にある糟賀部村で関ヶ原の庄屋・林蔵主に発見され、林は行長から次のように声を掛けられたという。

「…必ず近く来たり候え、頼み候わんと御申し候。近くへ参りて何の御用と申しければ、吾は小西摂津守なり。内府*へ連れて行き、褒美を取れと御申し候。…我らは自害するも易けれども、根本吉利支丹(キリシタン)なり。吉利支丹の法に自害はせずと様々仰せられ候。在所の百姓も聞き候まま、さらば御供申すべしとて、我が宿へ御供申し、家康公様御本陣へ、小西殿を御供申すに、自然道にて、人に奪われ候ては如何あるべきと存じ、竹中丹後守殿家老を呼び…」
*内府:朝廷の官名「内大臣」の漢名で、徳川家康を指す。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/271

キリシタン大名の行長は、キリスト教の教義では自殺を禁じられているために、切腹したくてもすることができない。そこで行長は庄屋の林蔵主に、自分を捕まえて家康に差し出して褒美をもらうようにと述べたという。
林は竹中重門(たけなかしげかど:竹中半兵衛の嫡男)の家老に事情を話し、ともども行長を護衛して、草津にいた東軍の村越直吉に引き渡し、ご褒美として金貨10枚を賜ったことが記されている。

稿本石田三成

次に捕縛されたのは石田三成だが、日本史学者渡辺世祐著が著し明治40年(1907)に上梓された『稿本 石田三成』にはこう記されている。

「初め三成の伊吹山に逃れし時は、近臣なお多く従いたりしかば、三成は、これ等を諭して皆立ち去らしめたり。然るに、渡邊勘平・磯野平三郎・藍野清介の三人は最後までもと強いて従いしが、三成はこれ等とともに江州浅井郡の草野谷に出て大谷山に遁れ暫く潜伏せるが、やがて三士をも諭して運よくば、再び、大坂にて会合せんと約して、去らしめたり。これより、単身山路を分けつつ伊香郡に入りて高野村に出で古橋村の法華寺の三殊院に逃れ善説に身を投ぜり。善説は三成が幼時の手習師匠なり。かく一時三殊院に匿れしも村民等の知る所となり、身を措くに困却せしが、この地三成の旧領地にして平素情をかけし百姓・与次郎太夫という者あり。志篤きものなりしかば、密に三成を請じて、その近傍成る山中の岩窟に潜ましめ、毎日食事を運べり。…しかるに、三成が与次郎太夫に頼れること、この村の名主に聞こえしかば、直ちに与次郎太夫を召し出して三成を捕え、(田中)吉政の陣所に致さんことを諮り。与次郎太夫大いに驚き、直ちに帰りて、この趣を三成に報ぜり。三成、病気にて起居。意に任せざりしかば与次郎太夫のこれまでの厚誼を謝し、天運尽きぬと覚悟し、吉政の家臣に報ぜしめたり。ここにおいて吉政の家臣、田中長吉訴に従い、来たりて三成を捕え、乗り物に乗せて同郡井ノ口に送りぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/181

少し補足すると、古橋村の法華寺という寺は石田三成の母の菩提寺であり、三成が手厚い保護を与えていた寺だという。
また、田中吉政石田三成とは旧知の仲で、豊臣秀次の失脚後秀吉に仕えて三河国岡崎城主となっているのだが、秀吉の死後は徳川家康に接近して関ヶ原の戦いでは東軍に所属し、前回の記事で記したとおり、石田三成の居城・佐和山城を搦手(からめて)から突入して落城させた人物でもある。
三成を捕まえたのは田中吉政の家人の田中長吉(伝左衛門)だったのだが、三成はよほど佐和山城の家族のことが気になったのだろう、長吉に三成の兄・石田正澄のことを訊ねている。長吉が、正澄は妻子を刺して自身も自殺したことを話すと、三成は「それですべてが終わった」「なんとかして大坂城に入り、もう一度挙兵がしたい」と述べたという。(『武功雑記』)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/110


三成は捕縛されて22日に大津に送られて家康と面談した後に本多正純に預けられ、三成は正純に対して挙兵した理由と西軍の敗因についてこのように語ったという。
「吾れ世のさまを見るに、徳川殿を打ち亡ぼさずば、終に豊臣家のためによからじと思いて、宇喜多秀家・毛利輝元をはじめ同心なかりし者をしいて、かたらいて遂に軍をば起こしたりき。戦いに臨んで二心ある輩ありて、辺撃せしかば、勝つべき軍に打ち負けぬるこそ口惜しけれ。吾れ打ち負けしは、全く天命なりと答えて嘆息せり。正純、また、智将は人情を計り、時勢を知るとこそ申せ、諸将の同心せざるもしらず、軽々しく軍を起こされ、軍敗れて自害もせで、からめられしは、公にも似合わざる事なりというに、三成忿(いか)りて、汝は武略は露もしらざるなり。大将の道は、かたるとも耳には入るまじとて物もいわざりしと。(常山紀談、校合雑記、板坂卜斎覚書)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/184

本多正純に痛いところを衝かれて黙ってしまったのだが、三成からすれば小早川秀秋らの裏切りが無ければ、関ヶ原の本戦で充分に勝利できたと言いたかったのであろう。

話は前後するがこんなエピソードもある。家康は会見する前に大津の陣の門外に畳を敷いて三成を座らせて生き曝しにしたという。するとその前を、三成を良く知る諸将が通って行く。諸将の反応は様々だ。

福島正則
【福島正則】

「福島正則、打過ぎけるが、馬上に三成を見て、汝無益の乱を起こし、今その有様は何事成るぞと、大声叱咤せしかば、三成毅然として、吾れ運拙く、汝を生捕りて、かくなさざりしを憾とすと答えぬ。
黒田長政、正則に続いて、その前を打通りしが三成を見て、徐(おもむろ)に馬より下り、子、不幸にも、かくなられしこそ本意なくあらめと言い、三成の服装の穢れたりしを見て、己が着用せし羽織を脱ぎて、これを着せしめ、よく労りたりという。」
次に西軍敗北の原因を作った小早川秀秋が前を通ったという。さすがに、三成は黙ってはいられなかったようだ。
三成、秀秋の来るを見るや、吾れ、汝が二心あるを知らざりしは、愚かなり。されども、太閤の恩を忘れ、義を棄てて約に違い、裏切りしたる汝は、武将として恥ずる心なきかと。声を励まして秀秋を罵りしかば、秀秋、赤面して退けりと言う。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/185

9月23日には京都において安国寺恵瓊が奥平信昌(京都所司代)の兵によって捕らえられ、大津に護送されている。

そして小西行長、石田三成、安国寺恵瓊の3名は、その後大坂・堺を引き回されることになるのだが、三人の着ている服が破れて醜かったので、家康が3人に小袖を与えたという。その3人の反応が対照的だ。

「今その儘の姿にて、京・大坂を引き廻すは吾等同様に武士の翻意とせざる所なればとて、小袖を三人に与えたり。行長と恵瓊とは、これを喜び、家康の恩に感ぜしが、三成はこれを誰の与ふるところぞと問う。傍らにありし人、これは江戸の上様よりと答う。三成、それは誰の事ぞというに、徳川殿なりと答えしかば、三成、何に徳川殿を上様というべきや、上様は秀頼様の外にはなき筈なりと言いあざ笑いしたりと伝う。三成のあくまでも、秀頼に奉事することを念とし、家康に屈せざる状、その一挙一動に現われたり。(イツマデ草抜粋・常山紀談・関ヶ原合戦記)」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/186

10月1日に3人は京都六条河原にて斬首されたのだが、三成は次のような辞世の句を残したと言われている。

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」

筑摩江というのは三成の故郷・近江にある入江で、そこで漁師が芦の間で点す篝火のようにはかなく消えていく自分の命を詠っている。

石田三成
【石田三成】

いつの時代もどこの国でも、歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。
石田三成は徳川家に正面から敵対したがために、悪し様に描かれることが多い人物なのだが、「勝者にとって都合の良い歴史」では、勝者に敵対した人物をそのように描かざるを得ないと考えて良い。その理由は、もし三成を立派な人物だと描けば、処刑したことに正当な理由を失い、処刑した権力者の方が悪者になってしまうからなのである。だから、権力者は敵対する人物を徹底的に悪く描いて、その人物像を世の中に広めようとするのだ。
三成のマイナスイメージの多くは、徳川幕府の意向により創作されて広められたものであり、そのような観点で記された「歴史書」をもとに多くの小説やドラマが創作されて、今も広められ定着しつつあるのだが、実際には石田三成という人物はどのような人物であったのか。

先ほど、三成が関ヶ原から落ちのびて、古橋村の法華寺の三殊院に匿われたことを書いたが、この時には田中吉政がこんなお触れを出していた。
「石田三成、宇喜多秀家、島津義弘を捕らえたものには永久に年貢を免除する。捕らえることかなわず、討ち果たした場合には当座の褒美として金子百枚を与える。
もし、匿う者があれば本人はもとより、一族およびその村の者も厳重に処罰する。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/180

にもかかわらず百姓・与次郎太夫は、日々三成に食事を運び、村の人々はその秘密を守ったのであるが、では古橋村の誰が、三成が匿われていることを訴え出たのか。

『稿本 石田三成』には、こう記されている。
「…今日古橋村に伝うるところによれば、三成のことをば与次郎太夫の養子が名主に訴え出でしかば、終に三成を捕うるに至れり。されば、この時よりして現今に至りても、一村養子を忌むの風あり。また、如何なる故か知らざるも、4月に三成の捕われしことを追想し一日は村民、すべて畏縮し、頗る敬意を表するという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/182

隣村の出身であった与次郎太夫の養子が、名主に三成が隠れていることを密告したために三成が捕縛され処刑されたことから、それ以降古橋村では他村からの養子縁組をしない慣習ができたというのである。これはすごい話である。

古橋村は三成の領地であったのだが、以前この地が飢饉に襲われた時に三成は年貢を免訴したばかりか、村人たちの為に米百石を分け与えたとの話があるという。

ネットでいろいろ調べると、三成が領民から慕われていたことを示す確かなものが、佐和山城址の法華口に残されているようだ。

石田地蔵
【石田地蔵】

上の画像は「石田地蔵」と呼ばれるものだが、三成の死後、領民たちが三成とその一族・家臣の霊を慰めるためにひそかに地蔵を作り、入山を禁止されていた佐和山のあちこちに置いたのだそうだ。
江戸時代に井伊藩がこれらの地蔵の一部をここに集めたというが、昔は5百体近くの地蔵があったというから驚きである。
http://94979272.at.webry.info/200810/article_15.html
仙琳寺という寺の境内にも多くの「石田地蔵」が残されているようだ。次のブログが参考になる。
http://blog.livedoor.jp/nozomunozomi/archives/65908198.html

井伊直政
【井伊直政】

関ヶ原の戦いに勝利し石田三成の領地を引き継いだのは井伊直政だが、佐和山城に入城してからわずか2年後の慶長7年(1602)に、関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま破傷風がもとで世を去ったという。
井伊直政が亡くなった当初、領民たちの間で三成の怨霊が城下を彷徨っているという噂が広まり、このことが家康の耳に入って佐和山城は徹底的に破壊され、代わりに彦根城が建築されたのだが、逆に領民たちは三成らの霊を慰めようとして、入山が禁止されていた佐和山に多くの地蔵を造って祈ったということのようだ。

石田三成が死んで415年以上の年月が過ぎたのだが、「石田地蔵」は今も地元の人々によって、美しく着飾り、花が供えられていることに驚くのは私ばかりではないだろう。
また長浜市石田町では、石田三成の法要が400年以上続けられていることもまたすごいことである。
石田三成は敗者でありながら、今も地元の人々に敬愛され続けている人物であることを知るべきである。

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西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い

前回の記事で、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が処刑されたことを書いたが、大坂城には西軍の大将・毛利輝元が大軍とともにいた。もし輝元が家康と戦う意志があったなら、この城はそう簡単に抜ける城ではなかったはずだ。

西軍の主将であった毛利輝元は大坂城で家康をどう迎えたのだろうか。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。

「肝腎の輝元は、大坂における主将とは言いつつも、ほとんど木偶人と一般であった。彼は本来家康とともに天下を争わんとする意気込みなく、ただ安国寺恵瓊に勧誘せられて、得々として大兵を率い、大坂に出掛けたのであった。而して彼は爾来、恵瓊の反対派とも言うべき、吉川(きっかわ)廣家、福原廣俊のために説破せられ、西軍の主将でありつつ、かえって局外中立の姿をなしていた。
されば家康は、一兵を損せず、一発の銃弾を放たず、手に唾して大坂城を収め得た。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/273

毛利輝元
毛利輝元

毛利輝元は全く戦わなかったのであるが、前掲書に大坂城に家康が入城するまでの動きが纏められている。

「家康は9月20日、西軍諸将の邸の伏見にあるを焼かしめた。22日福島正則、池田輝政、浅野幸長、藤堂高虎、有馬豊氏らをして、葛葉(くずは)に至らしめた。毛利輝元は、誓書を井伊直政、本多忠勝、及び福島正則、黒田長政に遣(おく)り、西の丸を退き、二心なきを表せんと請うた。家康は23日、正則、輝政、幸長、長政、高虎に、西の丸を収むべきを命じた。25日5人連署して、書を輝元に遣り、直政、忠勝の9月14日の誓書の虚偽なく、かつ家康の輝元における、毫も心に介するなきを告げた。ここに於いて輝元は西の丸を退き、木津の邸に移った。増田長盛もまた本領の郡山に屏居した。正則らは葛葉より大坂に至り、西の丸を収め、本丸に赴き、秀頼に謁した。26日家康大津を発し、淀に宿し、27日大坂城に入り、秀頼に謁し、自ら西の丸に居り、秀忠を二の丸に置いた。
かくの如く9月1日に江戸城を出発し、同27日に大坂城に入った。如何に平昔(へいせき)よりして、潜勢力を養うていたとはいえ、未だ1箇月を経ざるに、天下の局面を一変したのは、実に異常の出来事だ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/274

江戸城から大坂城まで徒歩で移動するだけでも2週間以上はかかる距離なのだが、さらに天下分け目の関ヶ原の戦いがあり、さらにその掃討戦が続き、それらに勝利するために情報を収集し、諸将に的確な指示命令を出し、西軍の内応者にも多数の文書を出してそれが功を奏している。
関ヶ原の前哨戦から掃討戦に至る家康の采配は、非常に緻密であり無駄がない。
西軍の大将・毛利輝元相手に戦わずして大坂城を開城せしめたのも、どういう手順を踏めばうまくことが運ぶかが良く練られた上で行動していることが見て取れる。

戸田氏鉄
【戸田氏鉄】

徳川家康に仕えた戸田氏鉄(うじかね)が著した『戸田左門覚書』には、家康が大阪城に入った状況についてこう表現されている。
大坂に於いて西の丸に御座なされ候。その節天下の大名、内府*公へ出仕すること、あたかも太閤の如し。」
*内府:徳川家康のこと

しかしながらよくよく考えると、関ヶ原の戦いで東軍が勝利したとはいえ、表向きの天下人は豊臣秀頼であり徳川家康はその大老という立場である。もし西軍の主将・毛利輝元が、秀頼を擁して大坂城に居座り続けるという選択肢もあったと思うのだが輝元は無抵抗で大坂城を開城し、輝元が抜けたあとに家康が西の丸に入ったことで、大坂城に於いて家康は、太閤秀吉のような存在になったのである。

大坂城
【大坂城】

冒頭で、毛利輝元が家康に誓約書を出して西の丸を退いたことを書いたのだが、どういう経緯があって輝元は無抵抗で大阪城を退いたのだろうか。

輝元は、家康に毛利家の領地安堵の意向があることを保障する本多忠勝と井伊直政の誓紙を得たので、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切って、無条件で大坂城を出たのであるが、その後家康は、輝元の所領安堵の約束をいきなり反故にして、毛利氏を改易し、領地を総て没収とすると通告し、一方で毛利家の家臣で関ヶ原では東軍に内応していた吉川広家に対しては、毛利の領地の一部である周防・長門の2ヶ国を与えると沙汰したのである。

徳富蘇峰は同上書で、こう解説している。
「…平たく言えば、家康は立派に毛利を欺いた。かかる場合に欺いた家康が不徳であるか、欺かれた毛利が不明であるか。いずれにしても毛利は、家康から一杯食わされた。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/276

この話は、吉川広家が家康に対して自分自身に加増予定の周防・長門を毛利輝元に与えるよう嘆願し、家康がそれを受けいれて10月10日に決着したのだが、そのために毛利領は現在の山口県、広島県、島根県(120万石)から山口県(36万石)と一気に7割もカットされてしまったのである。

関ヶ原陣形と街道
【関ヶ原陣形図】

関ヶ原本戦では、毛利輝元は西軍の総大将でありながら大坂城に止まり、毛利秀元(輝元の養子)、安国寺恵瓊、吉川広家の3名が関ヶ原に向かって南宮山に陣を構えたのだが、東軍と密かに内通していた吉川広家が、秀元、恵瓊の出陣を阻害したために、毛利家は戦わずして関ヶ原を去ったのである。にもかかわらず徳川家康は、毛利家の所領を大幅に減封し、安国寺恵瓊を死罪としたのである。

Wikipediaに関ヶ原の戦後処理の詳細がまとめられているが、小早川秀秋らとともに西軍から東軍に寝返った赤座吉家(越前今庄)、小川祐忠(伊予今治)が改易されているのをみると、戦況を見てから東軍についたような者には結構厳しい処分を断行しているようだ。
また大坂城にいて何もしていなかった豊臣秀頼についても、豊臣氏の直轄地である蔵入地の多くが没収され、領地が222万石から65万石に減らされているのだが、豊臣秀頼は天下人であったにもかかわらず、大老の徳川家康によってかなりの領土を奪い取られたことを知るべきである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%87%A6%E7%90%86

毛利氏の徳川氏との交渉は、まるでどこかの国の外交のように性善説で臨んで円く収めようとしたのだが、結局のところ家康から好きなだけ毟り取られて終わってしまったのである。しかし、九州の島津氏は、家康に対してもっとまともな交渉をしているので紹介したい。

島津義弘関ヶ原
【島津義弘】

関ヶ原本戦の最後に東軍に包囲され、敵中突破を敢行して敗走した島津義弘は、伊賀路を経て9月18日に住吉に至り、22日に堺より乗船して29日に日向細島に到着し、10月2日に富隈にて兄・義久に関ヶ原の顛末を報告した後は、桜島で自ら謹慎したという。

当主である兄の島津義久は、関ヶ原に参加はしなかったが、西軍・小西行長の留守居よりの救援の要請を受けて肥後に兵を出し、また九州における関ヶ原掃討戦において西軍方を支援した経緯にあった。

徳川家康
【徳川家康】

家康は立花宗茂を降伏させたのち、九州の全大名に島津義久討伐を命じ肥後水俣に進軍させ、一方、島津義久は兵を総動員して北上させ、薩摩・肥後国境に軍を進めている。
ところが家康は、冬季を口実に、翌年まで軍事行動を中止させている。それはなぜなのか。

徳富蘇峰はこう解説している。
家康は島津氏の武力を認識していた。…今や島津氏は、自ら死地に陥りたるを悟り、薩隅の二州に、虎の嵎を負う如く、その必死必生の勢力を以て、その討伐軍を迎えんとす。是れ決して尋常一様の敵ではない。家康にして力取せんとするは決して容易の業ではない。強いて之を行なわんとせば、多大の犠牲を払わねばならぬ。家康が中止を命じたのは、洵(まこと)に知慮ある仕業と言わねばならぬ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/296

島津義久
島津義久

家康は、島津義久の態度を見ながら懐柔しようとしたのだが、島津義久も駈引きでは負けていなかった。百姓に課役を与えて方々で築城を開始して、いざという時は全力で戦う姿勢を示したのである。家康は何度か義久に謝罪に来させようとしたのだが、義久は決して動かず、慶長6年(1601)年8月7日には一種の戒厳令とも言える15か条の『御先代軍法掟の事』を布令している。
最初の3か条を紹介すると、
「一 諸士何遍申付けの儀、相応の儀においては、難渋致すべからず。もし異儀及ぶものは、その沙汰すべきこと
一 武具油断なく調うべきこと
 一 出陣の時、二十五石取の衆は、自分で賄うべきこと…」
最初の条は、(生活に)難渋した場合はいつでも申し出でよと言うことを裏から述べたものと解釈されているようだ。金で敵方に内応するようなことが無いようにと配慮したのだろう。

このように島津義久が闘う意志を示し、「自分の国は命懸けで守る」という姿勢を貫いたことが、家康の態度をどう変化させたのか。徳富蘇峰は前掲書でこう解説している。

島津氏の家康に対する、我より進んで降参を求めず、却って家康をして、妥協を促がさしむるに至った。言わば、家康の秀吉に対する態度を、そのまま家康に向かって応用した。これは島津氏の深謀遠慮のためか。はた辺鄙の地にありて上国の形勢に通ぜず、徒に疑倶を懐きて、躊躇したるためか。それはいずれにしても、島津氏は、毛利氏の如く、容易に家康の命令通りに、唯命是従的には動かなかった。彼は徳川氏に向かって叩頭した。しかもその叩頭振りは、島津氏の自発的にして、決して徳川氏の注文通りには参らなかった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797/301

島津忠恒
【島津忠恒】

島津義久は、家康からの直接の本領安堵の確約がない限りは上洛に応じられないとして粘り続けたことから、とうとう家康が折れるかたちで慶長7年(1602)3月に直筆で起請文を書き、薩摩・大隅・日向諸県郡60万石余りの本領安堵が決定され、その後義久の名代として甥の島津忠恒*が12月に上洛して謝罪と本領安堵のお礼を家康に伝えて、島津氏も徳川氏の統制下に入ったのである。
*島津忠恒:島津義弘(島津義久の弟)の三男。のち島津家久に改名。

島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に加担し、終始西軍として戦ったにもかかわらず、関ヶ原以前の状態を存続した。西軍に加担しながら本領安堵された武将は他にもいるが、東軍に内応し寝返った連中などそれなりの理由がある者ばかりである。
関ヶ原の戦いの敗者でありながら、徳川家康から本領安堵を勝ち取った島津家の交渉力のすごさを知るべきである。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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