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吉野の山村から明治という時代を動かした、森林王・土倉庄三郎を振り返る

明治40年(1907)に大阪朝日新聞社から出版された『人物画伝』という本があり、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、ネット上で誰でも読むことが出来る。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778156

この本は、明治時代に活躍した国内外の政治家や実業家や文化人など97人の事績をまとめたもので、その当時の国民はほとんど知っている名前ばかりなのだろうが、今ではほとんど知られていない人物の名前が少なからず存在する。

土倉庄三郎像

以前にこのブログで「吉野の森林王」・土倉庄三郎を紹介したことがあるが、この人物の事績がこの『人物画伝』に掲載されている。私は、3年前に土倉庄三郎のことを調べて奈良を旅行するまでは、この人物のことを全く知らなかった。

土倉翁没後100年記念事業

今年は土倉庄三郎が亡くなって100回忌にあたり、翁が生まれ育った奈良県吉野郡川上村では『土倉庄三郎翁 没後100周年記念事業』が企画され、先日、菩提寺である川上村の龍泉寺で100回忌法要が行われ、川上村総合センターやまぶきホールで記念式典が行われて両方の行事に参加してきたのだが、式典ではホールの通路にまで多くの人が座るほどの大盛況であった。
没後100年も経ったにもかかわらず、今も地元の人々からかくも敬愛され続けている土倉庄三郎はどのような人物なのか。

土倉翁100回忌
冒頭に紹介した『人物画伝』では、土倉庄三郎について以下のように記されている。

富豪(かねもち)が公共に尽くすということは、今日でこそ随分思い切ってやるものもあるが、つい先だってまではなかなかこういう人物は少なかった。その時分から大和の土倉、伊勢の諸戸と言えば有名なもので、殊にこの点では近畿の双璧と称(とな)えられていた。…彼つねに人に語って言う、予の希望は全財産を三分し、一部を子孫に、一部を国家の有用事業に、一部を教育事業のために、最も完全に使用するにあると。…彼は、この言を着々として事実に著しつつあるは見上げたものである。彼はこの主義から、これまで少なからず人材のために資を擲(なげう)ったのである。人もし大和大台ケ原山の付近に行って見よ。こんな山奥によくこんな立派なと思うくらいの小学校が、あちこちにあるのを見るだろう。これみな彼が、彼の事業の為に衣食しつつある樵夫(しょうふ:きこり)らを教育するために建てたる学校である。なおまた彼は古くから女子教育の必要を認め、女子教育のために金を出したことは少なくない。成瀬仁蔵君が女子大学を創設する時、その遊説費を負担したのは即ち彼であった。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778156/86

この文章によると、明治の時代には、天下国家の為に私財を投じるような人物は何人かいたようだが、その点において土倉翁は特に有名な人物であったようだ。
昨今のわが国では、政治や企業などでしかるべき地位にありながら、公私混同して無駄な税金の使い方をしたり、蓄財に走ったり、節税の為に資産を海外に移すような話ばかりが目立っているのだが、少なくとも明治・大正時代においては、私財の大半を世の中の為に惜しみもなく使う土倉翁のような人物が何人もいたことを知るべきである。

成瀬仁蔵はわが国における女子高等教育の開拓者の一人で日本女子大学の創設者であるが、当時は「女性に学問は要らない」「女性に高等教育を授けると害になる」と考えられていた時代であり、女子大学設立のための寄付金を集めるということは大変なことであったことは想像に難くない。
『人物画伝』では成瀬の「遊説費を負担した」と控えめに記されているが、記念式典で来賓の挨拶をされた日本女子大学の佐藤和人学長は「土倉庄三郎の支援がなければ日本女子大学は創立できなかった」と述べられた。具体的にはどのような貢献をして成瀬仁蔵を援けたのだろうか。

土倉翁リレー対談

式典会場で販売されていた『日本の山林王 土倉庄三郎抄伝』にはこう記されている。
「成瀬は…(明治)29年に(梅花高等女学校の校長を)辞し、女子大学創設案を発表した。そのとき、庄三郎はただちに賛同し、大阪の広岡浅子とともに最初の発起人となった。このため30万円という巨額の基本金つくりを計画し、各地に寄付金を募りはじめた。しかし、日清戦争後の不況期で、ことが容易にすすまず、もし失敗すれば出資者には元金を戻し、これまでの入費は庄三郎と広岡浅子で決済するという条件をつけている。こうした決断は、後の万金の寄付よりも力強く、募金にハズミがかかり、同30年には貴衆両議院を帝国ホテルに招待し、庄三郎自らが座長となり、女子大学創立の趣旨を発表し世論の喚起につとめ、その後も長く同校の発展につくしている。」(『日本の山林王 土倉庄三郎抄伝』p.14)

庄三郎のこのような努力が実を結び、明治33年(1900)になって日本女子大学が誕生したのだが、庄三郎自身も同大学の設立のために5千円の寄付をしたという。
明治30年頃の1円の現在価値は今の2万円程度という説を採用すると、今日の貨幣価値にして1億円にも相当する大金である。(次のURLによると当時の小学校教員やお巡りさんの初任給は月8~9円、一人前の大工さんやベテラン技術者で月20円ぐらいだったという)
http://manabow.com/zatsugaku/column06/

土倉リレー対談 同志社

また庄三郎は明治15年(1882)に、同志社大学の設立にも深く関わっている。
息子たちの進学の相談で新島襄と出会い、民間大学設立の夢を語る新島に賛同して5千円を寄付したという。

庄三郎が巨額の支援をしたのは教育分野だけではなかった。

.板垣退助

板垣退助が明治11年(1878)に『愛国社』を再編し、全国的に国会開設の運動を展開していた時に、庄三郎は愛国社の中枢部にいて経理担当の実力者となり、その活動を支援したという。当時「自由民権運動の台所は大和にあり」と言われていたのだそうだが、それほど庄三郎は多くの資金をこの自由民権運動に支援したようである。明治15年(1882)に板垣退助が洋行しているが、そのために2万円余りを寄付したことが記録されている
ほかにも山縣有朋、井上馨、伊藤博文ら、多くの政治家や社会活動家が「土倉詣で」を行ない、庄三郎は彼らを資金面で支えたとされる。

吉野の桜

ほかにもいろいろあるのだが、記念式典の基調講演で森林ジャーナリスト・田中淳夫氏が最初に紹介されたのは吉野の桜の話である。

以前このブログで、吉野山の廃仏毀釈のことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

吉野山勝景絵図

上の図は江戸時代後期に描かれた『吉野山勝景絵図』だが、かつて吉野山は修験道の聖地であり、数多くの寺や宿坊が存在していたことがわかる。
しかしながら、明治4年(1871)から6年(1873)にかけて、吉野山の神仏分離を徹底して山全体を金峰神社とせよとする明治政府の指令が繰り返され、明治7年(1874)には吉野一山は、金峯山寺の地主神金精明神を金峰神社と改めて本社とし、山下の蔵王堂を口宮、山上蔵王堂を奥宮とすることに定められて仏像仏具は除去されてしまったという。すなわち、現在国宝に指定されている金峯山寺の蔵王堂までもが神社にされてしまったのである。
しかしながら蔵王堂の巨大な蔵王権現像は動かすことができなかったのでその前に幕を張り、金峰神社の霊代として鏡をかけて幣束をたて、僧侶身分のものは、葬式寺をつとめる一部の寺院を除き全員還俗神勤したという。
こんなことをしたために訪れる観光客が激減してしまい、吉野山の人々が生活に困っていたところに、大阪の商人が吉野山の木を買い取る話を持ち込んできたので人々はそれを了承し、その跡地に植えるスギ、ヒノキの苗を購入するために吉野山の総代が庄三郎を訪ねてきたのだが、話を聞いて庄三郎は、土倉家が全部買い取るから、商人に直ぐに返金するよう進言したという。かくして吉野の桜は守られたと伝えられている
また庄三郎は、明治35年(1902)に吉野山にある如意輪寺にある後醍醐天皇の御霊殿と幽香殿などの修理が行われた時にも、2万円の寄付をしたことが記録されているという。

庄三郎がこのように巨額の資金を寄付した記録には枚挙にいとまがないのだが、庄三郎はこのような巨額の資金を自ら稼いで捻出し、その収入源のほとんどが林業によるものであった。当時、林業の収入が大きかったのは、庄三郎の様々な工夫があったようだ。

記念式典で基調講演をされた田中淳夫氏は著書でこう解説されておられる。

土倉翁イベント田中淳夫基調講演

「林業にとって、もっとも重要な作業は何だろうか。
すぐに頭に浮かぶのは、樹木の伐採だろう。だがそれ以上に重要なのは木材の搬出である。伐採だけなら、オノやノコギリがあれば個人でも可能だ。しかし倒した大木を人里まで運ばなければ木材として利用しようがない。しかし木材は重くてかさばる。動力機のない時代、木材を運ぶには多くの人力と斜面や川の流れを利用した大がかりなシステムが必要だった。だから林業の要は、木材の搬出にあるのだ。」(田中淳夫『樹喜王 土倉庄三郎』p.78)

吉野川掘削

庄三郎は、木材の搬出の合理化に徹底的に取り組んだのである。例えば吉野川の水路を開削して川幅を広げ、大きな筏を組んで大量に木材を流せるようにしたという。上の画像は、以前川上村を旅行した際に撮影したものだが、矢印の部分が庄三郎が岩を削らせた部分である。当時はダイナマイトも重機も存在せず、ノミとゲンノウだけで岩を削っていったのだからすごいことである。

また庄三郎は道路建設にも力を尽くしている。
現在の国道169号線にあたる東熊野街道を、荷車の通れる道にするために資産の3分の1をつぎ込んだと噂され、山林をかなり処分したらしいのだが、詳しいことはわからない。
道路の完成後、木材の運搬だけでなく、人々の往来や物資の運送が増加し、川上村の生活が一変したという。

土倉リレー対談かわかみ社中

ピーク時には大財閥の三井家にも匹敵する財力を持っていたという庄三郎だが、林業で大きな富をもたらしたのは、木材搬出コストの削減だけではなく、高品質の杉を育てる技術が大きかった。

杉の年輪

上の画像は川上村にある『山幸彦のもくもく館』の展示物だが、右から2つ目の吉野杉は年輪幅が非常に緻密でかつ年輪の幅がほぼ一定している。どうしてこんなきれいな年輪になるのかと不思議に思ったのだが、それは土倉翁が確立させたという吉野の造林技術と関係があるという。

吉野杉の森

吉野林業では1haの育林地に1万本前後と他の地域の倍近い苗木を植える。密植すると苗は早く上に伸びて幹がまっすぐで真円に育ちやすく、しかも年輪が密になる。そして間伐を繰り返して良い木だけを残していく。そして、間伐木のうち利用できるものは木材として売却する…それを繰り返していくのだそうだ。

このような努力が実を結んで、吉野材は品質だけでなく安定供給、運送コストの面で全国を席巻したのだという。

吉野林業全書

上の画像は、1896年に出版され、山から市場までの吉野林業のあり方がイラスト付きで纏められた『吉野林業全書』だが、この本の刊行に当たり庄三郎は5000円を援助したと伝えられている。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが可能だ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842441


しかしながら、かつては林業の先進地域として栄え、8千人の人々が住んでいた吉野郡川上村も、過疎化・高齢化が進んで人口も1325人まで減少してしまっている。

木材自給率の推移

ここまで急速に人口減少した背景には、昭和30年代に木材輸入の自由化が段階的にスタートしたことが大きい。昭和30年(1955)には木材の自給率は94.5%であったのだが、その後昭和39年(1964)に木材輸入が全面自由化され、さらに円高が進んで海外製品が大量に輸入されて、平成12年(2000)には自給率は18.2%にまで低下してしまった。
その後自給率は改善し、最近は3割を超えているようだが、外国材との競合にさらされて価格は低い水準に止まり、林業が厳しい環境にあることは変わらない。
http://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/23hakusyo_h/all/a51.html

スギの苗を植えてから伐採するのに50年近くかかるというのに、いきなり木材輸入が自由化されて海外製品が大量輸入され、さらにドルが変動相場制に移行して急激な円高となった。こんな激しい環境変化に対応することはどんな経営者でも難しかったと思う。昭和30年代以降のわが国の施策は林業従事者を切り捨てたに等しかった。

しかしながら、よくよく考えると、わが国の国土の3分の2は森林である。林業で生計を立てられないような施策がこれからも続けば、いずれ森が荒れ、地域の文化が失われ、緑豊かな美しい景観を守れなくなるだろう。
すでに北海道をはじめ各地で海外資本により広大な森林や水源が買われていると報じられているが、こんなことがこれからも続けば、わが国の国土でありながら、国土のかなりの部分が外国人に支配されるという日が来てもおかしくない。外国人参政権などを安易に認めてしまっては、いずれ各地でとんでもないことが起こることになるだろう。
http://www.sankei.com/premium/news/160509/prm1605090005-n1.html

首都圏や都市部にばかり若い人口が集中することは、国土の面積の大半で人口減少・高齢化が進むことでもあり、「国防」という観点からみると決して望ましいことではなく、昔のように田舎が元気である状態を取り戻す施策がこれからますます必要になるのだと思う。

林業は樹木を売るためだけでなく、環境を守り地域の文化を守り、さらには国土を守ることにもつながることを知るべきである。山で働く人々の収入が乏しくては、山に残る人々は少なくなるばかりであり、人々がいなくなれば山は荒れて文化も伝統も消滅してしまうことになる。
国もようやく平成22年(2010)に「公共建築物等木材利用促進法」を制定し、公共建築物に国産材を使う動きが出てきたが、大手建設業者もコンクリートのマンションばかりではなく、国産の木を使った木造の戸建て住宅にもっと力を入れて欲しいものである。

現在は吉野に限らず、いずこの山村も経済的に厳しく、人口減少や高齢化が進行し疲弊している。しかしながら、かつては山村が輝いていた時代があり、土倉庄三郎は吉野郡川上村という小さな山村で、明治という時代を動かしたのである。

土倉翁リレー対談古瀬

土倉翁の座右の銘は「守不移」。移らないことを守る、他所へは移らないという意味だそうだ。
事実土倉翁は住所を移さず、川上村を愛し、村民と共に苦楽を共に過ごされた。
川上村では、土倉翁を顕彰しその精神を学び次世代に伝えようと、龍泉寺の古瀬住職が中心となってNPO法人芳水塾が立ち上がり、活動を始めておられる。

川上村だけでなく多くの山村の人々が土倉翁の事績を知って、以前の輝きを取り戻されることを祈りたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら、覗いてみてください。

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html

『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む
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自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯
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一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像
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吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社
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後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎

松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、
「歌書よりも軍書に悲し吉野山」
という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。
『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。

教科書には何も書かれていないのだが、明徳3年(1392)に南北朝が合一されて平和が訪れたわけではなく、南朝の皇統の子孫は反幕勢力に担がれて、南北朝の争いは応仁の乱(1467)に至るまで何度も続いたというのが真実である。南北朝合一後に、南朝の再建を図った皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室のことを「後南朝」という

前回の記事で書いた土倉庄三郎の住んでいた吉野郡川上村には、若くして命を奪われた後南朝の皇子の悲しい歴史が残されている。庄三郎の座右の銘である「守不移(移らないことを守る、他所へは移らない)」は、このような川上村の歴史と決して無関係ではないのだろう。

最初に後醍醐天皇の時代から後南朝の歴史を簡単に振り返っておこう。

後醍醐天皇

元弘3年(1333)に後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒したのち、天皇親政の理想のもとに、翌年に年号を建武と改めて、公武両政治を折衷したような政治を目指そうとした(建武の新政)のだが、討幕に協力した御家人たちは所領の増加や地位の向上を望んでいたものの充分に叶えられたわけではなく、新政に対する不満が次第に高まっていった。

建武2年(1335)に北条高時の子である時之が関東で起こした乱(中先代の乱)の鎮圧のために鎌倉に向かった足利尊氏は、これを機会に武家政治の再興をはかろうとして新政府に反旗をひるがえした。朝廷は尊氏追討のために新田義貞を遣わしたが、尊氏は新田軍を破り、翌延元元年(1336)に京都に攻めのぼったのである。

これに対して、奥州から北畠顕家らが尊氏を追撃して九州に追いやったのだが、尊氏は九州の兵力を纏めて東上し、湊川で楠木正成を破り、ふたたび入京して持明院統の光明天皇をたて、建武式目を定めて、京都に幕府を開いている。

後醍醐天皇は京都を脱出して吉野山に逃れ、政権は吉野と京都に分立することとなった。吉野におかれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と呼び、後醍醐天皇の建武の新政はわずか3年で崩壊してしまった。

吉水神社南朝皇居

後醍醐天皇に味方することは、足利幕府の怒りを買って平和な吉野が戦乱に巻き込まれることを怖れる声もあったようだが、太平記巻十八によると吉水院の住職であった宗信法印が蔵王堂に300人余りを集めて説得し、後醍醐天皇を迎え入れたという。上の画像は吉水神社(旧・吉水院)書院(国重文)の中の後醍醐天皇の玉座と伝えられている間である。

しかしながら後醍醐天皇は、延元4年(1339)に夏風邪をこじらせて病床につかれ、肺炎を併発されて看病の甲斐なく8月16日についに崩御されてしまう。

玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ

という天皇の遺言が残されている。玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都をさしている。後醍醐天皇は、この地に留まりながらもいつかは京都に帰るという思いをずっと抱いておられたのである。

南北朝系図

後醍醐天皇の崩御のあと、南朝の有力武将が次々と戦死し、貞和4年(1348)には四條畷の戦いで楠木正成の子、楠木正行、正時兄弟が足利方の高師直の軍勢に討ち取られている。
さらに高師直は吉野にも軍勢を進めたため、南朝の後村上天皇は賀名生(あのお:奈良県五條市)へ逃れた。高師直の軍勢は吉野行宮に火を放ったが、風に煽られ蔵王堂はじめ多くの寺院宝塔が焼け、灰燼に帰したという。

かくして北朝方が圧倒的優位に立ったのだが、今度は足利直義と高師直との対立が表面化し、観応年間には観応の擾乱とよばれる幕府の内紛が起きている。
政争に敗れた直義は南朝に帰順し、山名時氏など守護の一部も南朝に属して戦い、京都争奪戦が繰り広げられて南朝は息を吹き返すことになる。

こんな具合に南北朝の争いは50年以上に及んだのだが、明徳3年(1392)には楠木正勝が敗れ河内千早城が陥落するなど南朝を支持する武士団が潰走して、南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝方優位は決定的なものとなった。
第三代将軍足利義満は、明徳の乱で勝利したのち、南朝との本格的交渉を開始し和睦を成立させ、南朝の後亀山天皇は京都へ還幸して北朝の後小松天皇に譲位し、以後皇位を交代で承継することで和約し、三種の神器を差し出して明徳3年(1392)に南北朝が統一されたことはどこの教科書にも書かれているのだが、その後北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との約束を一切守らなかった。
南北朝統一後は、大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)が交互に天皇の位につく(両統迭立[りょうとうてつりつ])という約束であったのに、後亀山殿は皇太子すら立てることもできなかったし、南朝は国衙領を支配しても良いという約束も守られなかった
という。

北朝が南朝との約束を反故にして皇位を独占したために、それからも南北朝の対立は続いたのである。
山深い吉野の地にはその後も南朝の皇子を援けてきた歴史があり、そのことを村人は「誇り」としてきたのだが、このような史実を学ぶ機会は今までほとんどなかったと言って良い。そしてその歴史の舞台となるのが、前回の記事で紹介した土倉庄三郎の住んでいた吉野郡川上村なのである。

樹喜王 土倉庄三郎

先日開催された『土倉庄三郎翁没後100年記念式典』で基調講演をされた田中淳夫氏の著書に、後南朝の歴史と川上村との関係がよく解る記述があるので引用させていただく。

「しかし、後小松天皇は皇太子に弟(後の称光天皇)を立てた。そのため1410年、後亀山殿は隠棲していた嵯峨野から密かに吉野に戻る挙に出た。その後の彼の血統を後南朝と呼び、二朝並立が繰り返されたのである。
後南朝は、時の政権に不満を持つ勢力に担がれることで、一定の勢力を保ち続けた。1443年9月に、北朝の後花園天皇の内裏を襲撃し、三種の神器のうち神璽(しんじ:勾玉[まがたま])を奪取する『金闕(きんけつ)の変』を起こす。同年、後亀山殿の曾孫(そうそん)の尊義王が亡くなり、その子、尊秀王*(自天王)と忠義王が皇胤(こういん)を継いだ。彼らは川上郷に分散して居を構えた。
とろが赤松家の旧臣が神璽の奪還をめざして川上郷に潜入した。当時赤松家は断絶していたが、旧臣たちは神璽の奪還で武功を上げ再興を果たそうとしたのだ。
1457年(長禄元)12月2日の大雪の夜、彼らは18歳の尊秀王と12歳の忠義王が滞在していた御所を8人で襲い、2人を惨殺して首を取り、神璽を奪った
。(この経緯は赤松側の資料による。川上村の伝承では、忠義王は病没したとある。)
川上郷の民は、彼らを追跡し、雪に阻まれて脱出が遅れていた旧臣たちを格闘の上に倒し神璽と皇子の首を取り戻す。そして村人は尊秀王の首を金剛寺に葬ったという。
この事件を『長禄の変』と呼ぶが、追跡に関わった郷民が『筋目(すじめ)』と呼ばれる血筋となる。土倉家は、とくに少ない一番筋の系譜だったという。
なお取り戻した神璽は、東吉野の小川にある皇子の母の在所に隠したが、翌年三月末に赤松側が再び乱入して奪い取られてしまった。
奉じていた皇子が二人とも亡くなり神器も奪われた川上郷では、この年以降、皇子の鎧や兜、長刀、太刀など遺品を祀る朝拝式を執り行い続ける。それは555年の時を超えて、今も続く。近年まで朝拝式に参加できるのは、筋目だけであった。」(『樹喜王 土倉庄三郎』p.209-210)
*尊秀王(たかひでおう):地元では「自天王(じてんのう)」と呼ばれる。後世の系図によれば父は空因といわれ、空因の父は小倉宮(後亀山天皇の子)という説もあれば後聖院宮(後亀山天皇の弟の子)という説があるが、皇胤であることを疑う研究者もいる。

尊秀王系図

森林王・土倉庄三郎の先祖は『長禄の変』で赤松家の旧臣から、尊秀王の首と神璽を取り戻したメンバーのうちの一人で、代々「筋目」とされて村人から敬われてきたのである。そして川上村では、この地で若くして亡くなられた尊秀王の遺品を祀り、今も毎年2月5日に金剛寺で朝拝式が行われ、この儀式が長禄2年(1458)から558回も絶えることなく続けられているというのはすごいことである。

尊秀王遺品

この「尊秀王の遺品」は国の重要文化財に指定されており、川上村のホームページに写真付きで紹介されている。
朝拝組が代々厳重に保管してきたことによりほとんど傷んでいないようである。
普段は拝観することができないが、朝拝式の日にだけ一般に公開されるのだという。
http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-03/j-03-1ran-101.htm

https://www.youtube.com/watch?v=rI4eCY8ts1E
「吉野杉と水源地の村【かわかみ】チャンネル」という動画サイトに、「後南朝・明治近代林業 川上村の歴史第3回」に朝拝式が少しだけだが紹介されている。「南朝を復活させたい」としながら夭折した皇子たちを鎮魂する厳粛な儀式であり、観光客向けのお祭りにはなって欲しくないと思う。

金剛寺本堂

この朝拝式が執り行われる金剛寺に3年前の5月に訪れた。無人の寺のようだが、境内は驚くほど綺麗に掃き清められていた。それが伝統の持つ力なのだろう。上の画像が金剛寺の本堂で、本尊に平安時代の様式の地蔵菩薩立像が祀られているという。

自天親王神社

本堂の右後方に自天親王神社があり、後南朝最後の尊秀王(自天王)とその弟の忠義王を祀っている。また本堂の左後方には忠義王の陵墓があり、境内には推定樹齢800年といわれているケヤキの大木がある。

朝拝式2

残念な事だが、川上村も過疎化・高齢化が進み、「筋目」だけで朝拝式を行う事が難しくなったために、9年前から「筋目」以外の参加も認め、川上村高原にある福源寺でも行われていた朝拝式を金剛寺一箇所に絞った上で、無形民俗文化財の指定を受けて保護されるようになったのだそうだ。次のURLに朝拝式の画像が数多く紹介されているが、かなり高齢者が多いことが誰でもわかる。100年以上前には、このメンバーの中に裃姿の土倉庄三郎がいて、もっと若い世代が数多くいたことだろう。
http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1241.html

前回の記事で記したが、庄三郎は生涯故郷の川上村を離れなかった。その理由は、林業で潤っていたこともあるのだろうが、「筋目」の中でも「一番筋」とされる血筋の家に生まれたことが大きかったのではないだろうか。

親から伝統を受け継いできた者が、もし子供や孫にそれを引き継ぐことが出来なければ、自分の代々の先祖の期待を裏切り深く悲しませてしまうことになる…。当たり前のことではあるが、「伝統を守る」ということは、地域の人々が代々大切にしてきたものを守り、その価値を減じることなく次の世代に繋ぐということを何世代にもわたって続けて行かなければできないことである。
川上村に限らず、わが国の多くの地方で文化財が守られ、地方の価値ある伝統文化が、過去何百年にも亘って承継されてきているのは、おそらく、先祖を大切にする日本人の宗教観・価値観と無関係ではないのだろう。

固有の文化や伝統を培い代々継承してきた地域は、川上村に限らず全国各地にあるのだが、グローバル化が急速に進んで地域経済が衰退したために、多くの地域でその文化や伝統を繋いできた仕組みが崩れてきている。

地域の文化や伝統は、これまではその地域経済の豊かさによって支えられてきたのだが、安価な海外製品や安価な原料を用いた代替品との競合を余儀なくされ、それまで地元の近くに数多くあった働く場所が都会資本の大企業に席巻されて多くは廃業し、あとを継ぐべき世代が収入を得るために都会に定住したまま戻ってこない。この流れを放置したままでは、素晴らしい地方の文化や伝統をどうやって後世に残すことができるのだろうか。

私には、地方に旅行しては地元の産品を買って、拙い文章でその地方の歴史などを書いて少しでも読者に伝えようと努力することしかできないのだが、少しでも地方を訪れる人が増え、ネットなどで地元の産品を産直や地元の業者から買う人が増えて、それぞれの地方の人々が次第に潤うようになってほしいと思う。

かつては豊かであり、素晴らしい伝統や文化を育んできた地方が、田舎の魅力とパワーを失わずに輝いていて欲しいし、その地域の伝統がこれからも末永く承継されていくことを祈りたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いて見てください。

祇園祭の「祇園」とは
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-14.html

戦国時代の祇園祭を見た宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-25.html

天神祭と大阪天満宮とあまり知られていないお寺のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.html


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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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