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後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか

前回は、奈良県吉野郡川上村で匿われていた後南朝の皇子の命が奪われた事件のことを書いた。この事件は「長禄の変」と呼ばれていて、決して川上村だけに残された伝承ではない。今回は、後南朝の歴史をもう少し詳しく記すことにしたい。

教科書や通史では、南北朝時代の戦乱が続いたのち、明徳3年(1392) に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について和約(「明徳の和約」)が成立して、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られたことが記されていても、それから後も対立が続いたことについては何も書かれていない。しかし実際には15世紀の後半まで対立が続いたのだが、和約が成立していたにもかかわらず、何故こんなに長い間対立が続いたのかと誰でも思う。

足利義満像
【足利義満像】

Wikipediaの解説をしばらく引用する。
「そもそもこの和約は義満ら室町幕府と南朝方でのみで行われ、北朝方はその内容は知らされず合意を約したものでもなかったようである。そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や両統迭立などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。北朝の後小松天皇は南朝の後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷した(『南山御出次第』『御神楽雑記』)。
…゜
なおも北朝方は、1412年(応永19年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。称光天皇には嗣子がなく、1428年(正長元年)の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び約束を反故にした。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を15世紀後期まで続けた。これを後南朝という。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E5%92%8C%E7%B4%84

後小松天皇
【後小松天皇像】

要するに「明徳の和約」は、室町幕府が南朝方から神器を奪い取るために仕掛けた方便に過ぎず、北朝方には、恐らく「両統迭立(りょうとうてつりつ)」などの条件を遵守する意思はなかったのである。「明徳の和約」に従えば、後小松天皇の次の天皇は南朝方でなければならなかったのだが、この約束は最初から反故にされてしまった。

騙された南朝方は黙ってはいなかった。応永21年(1414)に、南朝最後の天皇後亀山上皇とその皇子小倉宮を支持して伊勢国司の北畠満雅が挙兵したのだが、この時は室町幕府が南朝方に勝利し和解している。
しかしその14年後の正長元年(1428)、称光天皇の崩御によって持明院統の嫡流は断絶したにもかかわらず、北朝の傍流である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとしたことをきっかけに、北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと考える南朝側は激しく反発したのである。北畠満雅は再び小倉宮聖承(後亀山の皇子小倉宮恒敦の王子)を担いで伊勢で挙兵し、幕府軍と戦って敗死したという。

赤松家系図

その後、嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐(あかまつみつすけ)が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺するという大事件が起きている(嘉吉の乱[かきつのらん]) 。
赤松満祐は領国の播磨で幕府方討伐軍に討たれて、以降赤松氏は没落するのだが、この赤松氏の残党がのちに復活を果たすこととなる。

三種の神器
【三種の神器(イメージ)】

嘉吉の乱の後第7代将軍に就いたのはわずか8歳の足利義勝だったのだが、嘉吉3年(1443)に赤痢を発症して亡くなってしまう。そしてその2ヶ月後に、南朝皇族を担いで日野有光らが後花園天皇の暗殺を企てて御所に乱入し、天皇暗殺は果たさなかったものの、三種の神器の剣と神璽(しんじ:勾玉[まがたま])を奪い比叡山に逃れる「禁闕の変」を起こしている
日野有光という人物は室町時代の公卿で、応永28年(1421)には権大納言となり、娘は称光天皇の妃となったが、称光天皇の崩御後は不遇となったために南朝方に接近し、この事件で討たれたという。この時奪われた神器については、剣はのちに発見されたようだが、神璽は持ち去られたままとなった。

この事件についてはいくつかの記録が残されているようだが、たとえば『大乗院日記目録』嘉吉3年(1443)九月の記録にはこのような記述があるという。
廿四日、夜、内裏炎。悪党の所為なり。神璽等紛失。南方金蔵主、日野一品入道父子*、その他済々、山門ならびに京都において、殺害されおわんぬ。その夜、主上は密かに左大臣亭に行幸。賢所これに同じ。宝剣紛失。翌日出現。今度の儀、大略は赤松党の所為なり。第参拾七か度炎上。神璽失せおわんぬ。」(森茂暁『闇の歴史、後南朝』[角川選書]p.179-180)
*日野一品入道父子:日野有光・日野祐光父子

「悪党」たちは禁裏に火をかけて比叡山に向かい、僧兵たちに蜂起を呼びかけ東塔根本中堂と西塔釈迦堂にたてこもったが、幕府は朝廷に要請して、「朝敵を討て」との後花園天皇の綸旨を手にして比叡山に届けたことにより僧兵たちは動かず、「悪党」たちは敗北した。

この事件に関与した南朝皇族の名前は史料により異なるが、『看聞日記』*には「南方謀大将、源尊秀と号す」とあり、『康富記』には「後鳥羽院後胤と云々。鳥羽尊秀と号す」とあり、また『東寺執行日記』には「高秀」と記されているという。前回の記事で書いた川上村の金剛寺で祀られている皇子は「尊秀(たかひで)王」だったが、同一人物であるかどうかについては諸説がある。
*『看聞日記』:第102代・後花園天皇の実父にあたる伏見宮貞成親王の日記。

さて、禁闕の変で三種の神器の一つである神璽が失われたのだが、どこにあるかが長い間わからなかったという。しかし、それが吉野にあることが長禄元年(1457)12月に判明する。

大乗院寺社雑事記

興福寺大乗院尋尊の日記『大乗院寺社雑事記』の長禄元年12月13日の条に、こんな記録がある。
「備中物語る。去る二日、吉野川上において、南方の宮兄弟打たれおわんぬ。頭においては、吉野にて茶(だ)すと云々。神璽南方に御座と云々。但し在所を知らざるものなりと云々。」
(同上書 p.213)
前回の記事で、川上村で匿われていた尊秀王、忠義王が赤松家の旧臣により惨殺されたことを書いたのだが、この日記によると、2人の皇子が討たれた時には、まだ神璽のありかが分かっていなかったようだ。

興福寺別当経覚の日記『経覚私要抄』の長禄2年(1458)4月16日の条にこんな記録がある。

「神璽事、先年内裏焼失の時、賊人これを取り、今に出現せず。しかるに今春、二宮川上において打ち奉りて後、一宮奥に引き籠らる。神器においては川上母公所に預けらる。この段、小川弘光存知せしめ、悪党を入れ盗み取りおわんぬ。よつて小川男の所に置き奉り、京都に注進せしむるの間、近日京都へ入れ奉るべきの由、御下知これあり。当国衆徒・国民等防御せしめ、入れ奉るべきの由、仰せ付けらるの間、越智ならびに五人衆以下警護せしめ送り奉るべきの由、これを経営す。もつてのほかの煩ひなり。一天下霊宝出現、まずもつて珍重珍重。」(同上書 p.214)

この文章によると一宮(尊秀王)はしばらくは生きていたようなのだが、「小川弘光」という人物が、神璽が川上村にあることをつかみ、そこで翌年の4月に「悪党」を入れて、神璽を奪い取ったと書かれている。

かくして、神璽は15年ぶりに京都に戻ったのであるが、前述した嘉吉の乱で6代将軍足利義教を討ってお家断絶となった赤松氏の一族である上月満吉(こうづきみつよし)が後南朝の2皇子を討つ1年ほど前に、決死の覚悟で川上村に向かった記録(『上月記』)が残されている。この『上月記』は上月満吉ら赤松家の一門・旧臣たちが命を賭してお家再興をはかった行動の「末代之証拠」として、事件後21年を経た文明十年(1478)にその経緯を記した注進状で、以下の文章は康正2年(1456)11月3日の出来事を記録している部分である。

「右、御やかたさまへ、ちよくぢやう(勅諚)ならびに上意として、おほせいだされ、御やくそく(約束)のしさい(子細)ありて、南方よしの(吉野)山なんてい(南帝)の両宮へまかりむかひ候。もし御ほんゐ(本意)のごとく仕り候とも、二たび(度)かへるべき事かたく候。」(同上書 p.215)

「御やかたさま」は、赤松一門・旧臣たちが家督として擁立しようとしていた赤松正則のことと推定されている。ここには後花園天皇の勅諚や将軍足利義政の意向に基づき、2皇子が討たれる1年少し前に上月満吉が川上村に向かったのは、ある「約束」があったと明記されている。
この「約束」とは、南帝の2皇子を討ち神璽を取り返した暁には、赤松家を再興させるという内容であったことはほぼ間違いないだろう。

闇の歴史、後南朝

森茂暁氏は著書でこう解説しておられる。
「上月満吉は康正2年12月20日吉野山に入った。大和国宇智郡に到着した30人の名前があげられている。上月満吉の顔も当然そのなかにあった。すぐに攻撃というわけにはいかなかった。神璽のありかも調べなければわからない。赤松の人達は南方宮に取り入り『隙をうかゞひ』(『赤松記』)つつ、情報の収集につとめた。かくして1年後の長禄元年12月2日の夜、『大雪ふり、御油断の時刻を伺ひ、両宮(一宮・二宮)へ二手に成り、一度に攻め入』(『赤松記』)った。上月満吉は、吉野山河野郷にいる二宮の襲撃に加わった。事に直接かかわった仲間は8名だったが、満吉は『二宮頸を討ち奉る』役割を果たした。
上月満吉が、長禄の変の後二十余年も経った文明10年になって、事件を回想し注進状をしたためたのは、自身がこのような役割を果たしたことと、それがひいては赤松家の再興をもたらしたことを後世に書き残しておきたかったからであろう。」(同上書 p.216)

多くの読者が気になったのでないかと思うのだが、『経覚私要抄』にも『大乗院寺社雑事記』にも『上月文書』にも、また『闇の歴史、後南朝』の著者である森茂暁氏も、川上村で討たれた皇子の名前を記していない。

この時代は、当然の事ながらカメラもなければビデオもない時代である。しかも、南北朝時代がはじまってからすでに120年の年月が過ぎていた。北朝方や室町幕府が南朝方の皇子の顔や名前を誰も知らなかったから書きようがなかったなかったのではないだろうか。
もっと言えば、北朝方や幕府にとっては、南朝方が一宮、二宮と呼ぶ二人の子供が、本当に皇統を継ぐ人物であったかについては確認しようがなかったであろう。
しかしながら、後醍醐天皇には数多くの皇子がいて、Wikipediaでは21人もの皇子が記載されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
これだけの数の皇子がいれば、南北朝合一から66年が経過しても「南朝の皇胤」が相当数生存していた可能性が極めて高かったであろうし、南朝方が「南朝の皇胤」を担いで挙兵したという情報に幕府や北朝方が怖れたことは当然のことだと思われる。

しかしながら、長禄の変で殺害された「一宮・二宮」の父親はいったい誰なのか。そんな基本的なことがいまだに分かっていないようだ。なかには中村直勝氏のように、二人が皇胤であることを疑っている学者もいるようだ。

森茂暁氏は、同上書でこう述べておられる。
長禄の変で殺害された一宮・二宮がどのような系譜の南朝皇胤か明確なことはわからない。注進状には『一宮は吉野奥北山御座、二宮は同河野郷。この間、大山を隔つ。通路ありといへども、七八里』とみえる程度にすぎない。その在所より、一宮を北山宮、二宮を河野宮と呼んだであろうことは容易に推測できる。さらに進んで、北山宮を『尊秀王』、河野宮を『忠義王』とする伝もあるようだが、これを裏付ける確かな史料はみあたらない。」(同上書 p.218)

朝拝式

「裏付ける確かな史料が見当たらない」と記されているが、そもそも南朝と別れて120年も経った北朝方に、討たれた皇子が南朝皇胤であることを裏付ける確かな史料などが見つからないことは当然だろう。
前回の記事で、川上村の金剛寺では毎年2月8日尊秀王を鎮魂する朝拝式が558年も続いていることを書いたが、もし長禄の変で惨殺された「一宮・二宮」が南朝皇胤でなかったとしたら、川上村でこんな伝統行事が長く続くはずがないとも考えられるのだ。
川上村の伝承の通り、尊秀王、忠義王とする説が正しいかどうかについては、今となっては確認の仕様がなく、読者の皆さんの判断に委ねるしか仕方がない。

しかしながら、南北朝の合一のあとも南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)との対立が続いたことについては、多くの記録が残されており、史実であることは確実なのだが、なぜ、この後南朝の時代の歴史が通史から抹消されてしまっているのか。

このブログで、いつの時代もどこの国でも、為政者が自らにとって都合の良いように歴史を編集してきたことを何度も書いてきたが、室町幕府にとっても北朝方にとっても、反幕府勢力が「南朝の皇子」を担いで挙兵するようなことが何度もあっては困る事であり、南北朝の合一でもって両統の対立がなくなったことにすることが好都合であったことは容易に想像がつく。
彼らにとっては、南朝皇胤は存在しないことが望ましいと考えたはずだ。だから上月満吉ら赤松家の一族は、後花園天皇の勅諚や将軍足利義政の意向に基づき、長禄の変で2皇子を惨殺したのである。
そして、室町幕府や北朝方は後南朝との血なまぐさい争いを残さないために後南朝の歴史を闇に葬り、公式には南北朝の合一以降は北朝に統一されたとする物語を描いて拡めたのだと考えている。
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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-13.html

金閣寺と足利義満の野望
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七夕の由来
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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