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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~ その1

先日友人と飲んでいたら、たまたま坂本龍馬の暗殺に誰が関わったかが話題になった。友人は私の知らない話をいろいろ披露してくれて少し興味を覚えたので、龍馬の暗殺事件についてちょっと調べてみた。

坂本竜馬②

坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋の二階で暗殺されたのは慶応三年(1867)11月15日だが、誰が殺したかについては当時から諸説がある。

当初は新撰組が疑われていたが、後に京都見廻組の佐々木只三郎外数名であるとし、龍馬を斬ったのはその中の今井信郎であるというのが今では定説になっている。

佐々木只三郎

上の写真は佐々木只三郎だが、京都見廻組とは幕末期に幕臣により結成された京都治安維持のための組織で、新撰組とともに反幕府勢力を専門に取り締まっていた。

今井信郎

上の写真が今井信郎だが、戊辰戦争を生き抜き箱館戦争で取り調べを受けた今井信郎の明治3年の証言では、自分は見張り役だったと主張し、禁固刑を経て釈放されている。

ところが今井は、明治33年に甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じて、自分が龍馬を斬ったことを詳細に話していることや、大正7年に死去する前に書き残した「家伝」には龍馬の額を真横に払うまでの具体的な経緯が書かれている。また今井はこの事件の件で京都守護職から褒状を貰ったという妻の証言もあるようだ。
今井の供述内容は、次のサイトにかなり詳しく掲載されている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000004.php
では誰が京都見廻組組頭の佐々木只三郎に龍馬の暗殺を命令したのだろうか。このことは今井には知らされていなかったようで、今井証言では「お指図(幕府の重職者からの命令)」があったと語っており、命令したのは京都守護職の会津藩主松平容保か実質的な政策決定者の手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)の可能性が高いと言われている。下の写真は松平容保である。
松平容保

ちなみに手代木直右衛門は京都見廻組組頭の佐々木只三郎の実兄であり、また手代木が死の数日前に語った証言が書かれた「手代木直右衛門傳」には「弟が坂本を殺した。当時坂本は薩長の連合を諮り、土佐の議論を覆して倒幕に一致させたので幕府の嫌忌を買っていた。某諸侯の命を受けて坂本の隠れ家を襲って惨殺した」と書かれているそうだ。

また大正4年に、同じ京都見廻組であった渡辺一郎が死ぬ直前に「懺悔したい。」と言い出し「坂本氏を暗殺したのは自分である。生涯隠し続けようと思っていたが、これを打ち明けて心置きなくこの世を去りたい。」と語ったそうだ。これも、京都見廻組説を補強するものであるが、龍馬を斬ったのは2人ということなのか。

しかし、今井の証言には信憑性がないという人もいる。
土佐出身の谷干城は、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた人物だが、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っているそうだ。谷干城は、土佐藩主山内容堂公や龍馬と異なり武力討幕強行派で、京都で薩摩の西郷隆盛や小松帯刀と武力討幕の密約を交わしていた人物である。谷干城の言葉もまた、そのまま信用することはリスクがある。

龍馬暗殺に関する史料や意見を素直に読めば、今井だけではなく京都見廻組の関係者複数の証言があることから、少なくとも実行犯は京都見廻組であることはかなり確度が高いと考えてよいと思う。

そこで次の問題は、龍馬の暗殺が京都見廻組の単独犯行であったかどうかだ。

もともと京都見廻組は寺田屋事件で龍馬が幕吏数人をピストルで殺傷したとして行方を追っていた。記録では京都見廻組は増次郎という人物に龍馬の居場所を探らせていたが、その報告があったという記録がないそうだ。
ならば、龍馬の直接近江屋の二階を目指して京都見廻組が入り込むのはどこか不自然ではないか。誰かが龍馬を裏切って、「才谷」という龍馬の変名と居場所を教えた黒幕がいるのではないかということになる。龍馬が近江屋に居所を移したのは、事件のわずか3日前のことだ。

そこで出てくるのが薩摩藩黒幕説だ。

大政奉還

かって坂本龍馬が同盟を仲介した薩摩・長州の二藩には、大政奉還のその日に倒幕の密勅が出されている。大政奉還後徳川慶喜を新政府に迎えて穏便に軟着陸させようとした龍馬と、大政奉還の後は幕府は求心力を失い武力討幕がやりやすくなったと考えた薩摩藩とはあまりにも方針が違いすぎて、薩摩が今後は龍馬が邪魔になると考えたのではないか。
龍馬の死後2日後に薩長は出兵協定を交わして結束を固め、12月9日の小御所会議で強引に王政復古のクーデターを仕掛けているのだが、このままいけば、新政府の「大功」が龍馬に奪われかねないとの考えが薩摩藩になかったか。

西郷隆盛

また明治に入って西郷隆盛が龍馬暗殺容疑のあった今井信郎の助命運動に乗り出したそうだが、これは不可解である。
さらに薩摩藩は京都見廻組との接点もあった。薩摩と会津は文久三年(1863)に薩会同盟を結んでおり盟友関係にあり、また京都見廻組の佐々木只三郎と懇意な薩摩藩士が何人かいて、居場所を伝えたことは考えられる。
薩摩黒幕説は、証拠は乏しいがなかなか説得力がある。

龍馬暗殺については、紹介した以外にも多数の説があり、何が歴史の真実であるかは正直なところよく分からない。調べれば調べるほどいろんな説が出てきて、正反対の主張する人もいてまとめるのに随分苦労した。

黒幕については、土佐藩、紀州藩など他にも様々な説がある。今回はとても書ききれないので、次回にその他の黒幕説をまとめることとしたい。
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2

前回は、坂本龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組の可能性が高いことと、黒幕がいるとする諸説の中で薩摩藩黒幕説について書いた。今回は別の黒幕説を書こう。

龍馬の出身である土佐藩にも、黒幕とされている人物がいる。良く名前が出てくるのは後藤象二郎だ。

後藤象二郎

大政奉還のアイデアは龍馬のものであることは今では多くの人が知っているが、当時土佐藩参政であった後藤象二郎は、龍馬が発案した策をそのまま受け入れて、藩主山内容堂の承認を得た後、慶応3年10月3日に、徳川慶喜公に進言した。1カ月後に土佐に戻り、山内容堂から破格の賞与を授かり家老格に抜擢されるのだが、当時は大政奉還の発案は後藤によるものと考えられており、龍馬によるものであることを知る人は少数であったらしいのだ。

後藤象二郎説は、龍馬のアイデアのパクリが山内容堂公らに発覚するのを恐れて龍馬を暗殺したという話なのだが、もしそのことが理由ならば、龍馬の発案であることを知る者全員を消さなければ筋が通らない。

一方、政治的な動機や個人的な動機ではなく、経済的動機で龍馬が殺されたと考える説もある。龍馬が暗殺されることによって巨額の富を手にした人物が臭いという考え方である。 この説を述べる前に、「いろは丸」事件の説明が必要だ。

慶応3年4月23日、海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受け、武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」右舷が大破して沈没した事件があった。下の画像は、今年長崎で見つかった「いろは丸」を描いたとみられる絵である。

いろは丸

龍馬は万国公法を持ち出して紀州藩の過失を追及し、船の代金3万6千両と武器その他の積み荷代金4万8千両あわせて、8万4千両を弁済せよと主張し、政治力を駆使し、世論まで味方につけて勝訴するのだが、最近4回にわたって実施された水中考古学調査では「いろは丸」の積み荷には、龍馬が主張したミニエー銃400丁はなかったらしく、龍馬が偽りの申告で賠償金額をかなり上積みした可能性が高いと考えられている。龍馬はミニエー銃等の銃火器の損失は船の代金と同じの3万6千両もあったと主張していたのだ。次の画像は広島県福山市の鞆の浦にある「いろは丸展示館」である。

いろは丸展示館

紀州藩の岡本覚十郎は「後藤象二郎応接筆記」でこのように書いている。
「…予も、該船に乗り込みしに慥(たしか)に南京砂糖を積み入れありたり。しかるに、彼はこれを打ち消し、絶えて武器、銃砲なりと主張せるなり。」
沈没する前に岡本が目撃したのは「南京砂糖」だったのだが、龍馬が、あくまでも武器と銃砲だったと主張したというのだ。

しかし、船が沈没して証拠がなくなってしまい、紀州側に反証の余地がなくなってしまった。また途中から土佐藩の後藤象二郎も出席し、事件は海援隊と紀州藩の問題から、土佐藩と紀州藩の問題に発展する。紀州藩は交渉打開のため薩摩藩の五代才助に調停を頼んだが、そもそも五代は龍馬とも交流のある人物であり、すべてが龍馬の思うままに進んで6月に8万4千両の賠償金で両藩は一旦合意している。

ところが、紀州藩より賠償減額のための交渉の申し入れがあり、龍馬は海援隊の中島作太郎を派遣し紀州藩士岩崎轍輔との交渉にあたらせている。交渉は10月26日から始まり、10月28日に7万両に減額されて決着している。この時期の年表はこのサイトが詳しい。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1867.html
この年表では、土佐藩の受取り分の4万両は11月4日から22日までに「土佐商会」が受け取ったとはっきり書かれている。ちなみに龍馬暗殺の日は11月15日とかなり近い。

ネットでは賠償金は龍馬の手にあったと書いている人もいるが、長崎で交渉した中島作太郎が長崎を11月10日に出航し神戸に到着したのは22日で、龍馬に金が渡っていたことは考えにくい話だ。

「土佐商会」とは、土佐藩が慶応2年(1866)に土佐藩の物産を売りさばくと同時に必要物資を買い入れる機関として大阪と長崎に作った藩の商社であり、海援隊士の給与や活動資金を融通する窓口でもあった。慶応3年(1867)6月7日、土佐商会の主任として後藤象二郎から長崎の土佐商会の経営を任されたのが、あの岩崎弥太郎である。

ところで、いろは丸は海援隊が大洲藩から借りた船であった。少なくとも船の代金は大洲藩に支払わなければならないところだ。
「龍馬「伝説」の誕生」(新人物文庫)という本には、「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの金額が年賦で支払われることになっていたが、第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。
ネットで大洲藩が賠償金を受け取ったかを調べたが、受取ったことを大洲藩の正式な書類では確認できないらしく、受取っていない可能性の方が高そうだ。

ではこの7万両はどこにいったのか。まずは土佐商会に預けられたものと考えられるが、この金の行方を疑い、後藤や岩崎が私的流用したと考える人がネットでは随分多い。

龍馬が死んだ後海援隊は求心力を失い分裂。翌明治元年(1868)に海援隊は解散させられ、また長崎の土佐商会も閉鎖され、海援隊の事業と資産は後藤と岩崎に引き継がれ、明治新政府が藩の事業を禁止する前の明治2年10月に、土佐商会は九十九商会と改称して個人事業となり、明治4年の廃藩置県の時に、岩崎弥太郎は九十九商会の経営を引き受け、土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船3隻を買い受けたことから、三菱財閥の歴史が始まるのである。

経済犯罪は「誰が得をしたか」という観点から犯人が絞り込まれるのだが、いろは丸事件で一番得をしたのは岩崎や後藤で、二人が龍馬暗殺に関わっていたという説はかなり説得力がある話だ。

岩崎弥太郎

岩崎は龍馬が暗殺される少し前の10月28日から大阪に滞在し、龍馬が暗殺された後の11月22日に長崎に向かっている。岩崎が大阪に来た目的は後藤に会うためだが、長崎での紀州藩といろは丸の賠償金減額交渉に立ち会わずに、後藤と会って何をしていたのか。
岩崎は「岩崎弥太郎日記」を残しているそうだが、龍馬暗殺前後の10/29から11/17までが空白になっていると言う人もいれば、三菱グループが日記のこの部分を公開していないと書いている人もいる。いずれにしてもこの時、彼が大阪や京都で何をしていたかはよく分からない。

そもそも岩崎弥太郎は土佐藩の公金100両を使い込んだ前科がある男だ。渋沢栄一とは違い、もともと志のない男である。後藤も岩崎もいろは丸の交渉には協力したのだから、自分にも取り分があり、龍馬の自由には使わさせないくらいの気持ちはなかったか。あるいは、龍馬がいなければ、この金が自由に使えるという気持ちはなかったか。

先日飲んだ友人は、後藤象二郎や岩崎弥太郎説の可能性が高いと考えていた。
私も、その説の説得力は認めるが、証拠がないのでどの説が正しいかは正直なところ良くわからない。
いろは丸事件で紀州藩側に遺恨を残し、龍馬暗殺は紀州藩が絡んでいるとする説も可能性があるようにも思う。

坂本龍馬像

しかし、この事件について明治政府は本気で犯人が誰かを調べつくしたのだろうか。私にはとてもそうは思えない。

追及できなかった理由があるのではないか。この事件の真相を知るものが明治政府の要人に近いところに何人もいたので、深く追及できなかったのではないかと考えるのは私だけだろうか。
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坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方

高知市の坂本龍馬記念館に、妻・お龍の若い頃の写真と晩年の写真が拡大されて展示されていた。この写真はネットでも容易に見つけることが出来る。

若き日のお龍

この若い頃の写真は、龍馬の京都での定宿で暗殺現場ともなった「近江屋」の主人(井口新助)のご子孫の家で、昭和54年に見つかった写真を複写したものだそうだ。
ちょっと痩せているが、今でも充分「美人」で通用する女性と思われる。

この写真は、傍らの洋風の椅子、背後の壁などから、明治元年から八年の間に浅草の写真家・内田九一のスタジオで撮影されたものだそうだ。内田九一という人物は幕末から明治にかけての写真家で、史上初の天皇の公式写真を撮ったとして有名な人物だ。

Meiji_Emperor.jpg

上の画像は内田九一が撮った明治天皇の写真だが、この写真は皆さんもどこかで見たことがあるのではないだろうか。

お龍のもう一枚の写真は、白髪混じりの晩年のものだ。
上の写真は、明治37年(1904)の12月に東京二六新聞に掲載されたものである。

晩年のお龍

お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなっているのだが、この写真はその1年1か月前のものだ。

晩年の写真は本人のものに間違いがないのだが、若い頃の写真は別人のものだとする説もあり、平成20年(2008)に高知県坂本龍馬記念館が警察庁科学捜査研究所に依頼をした。その結果「同一人物の可能性がある」との結論が出され、その旨の記者発表がなされているが、この件については坂本龍馬記念館のサイトに詳しく書かれている。
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/oryou.htm

しかし、警察庁科学捜査研究所は同一人物との断定をしたわけではない。ただ可能性があることを示唆したに過ぎない。
当時は写真を撮影料金は安価ではなかったので、お龍がこのような場所で写真を撮るようなことは考えられないとか、別の女性であると主張する説も根強くあるようだが、お龍の養女であった西村ふさも同じ写真を所有していたらしいという話もあり、この写真がお龍を写したものであるというのが多数説になっている。

晩年のお龍の写真を今の老人と同様に比較してはいけないのかもしれないが、この写真は65歳にしては晩年のお龍の写真はかなり老けた顔に見える。夫の龍馬が暗殺された後、お龍はどのような人生を送ったのかをちょっと調べてみた。

お龍の生涯についてはネットでいろんな人が書いているが、次のWikipediaの記事は内容も詳しく参考文献の紹介もある。龍馬死後のお龍について、他の記事も参考にしながらまとめてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D

坂本龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのは慶応3年(1867)11月15日だが、その時お龍は亀山社中の活動拠点のあった下関におり、龍馬が亡くなった知らせがお龍に届いたのは12月2日とのことで、お龍はしばらく気丈に振る舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供えて号泣したと言われている。

その後お龍は、龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

その後海援隊の菅野覚兵衛と結婚した妹・起美を頼るも、覚兵衛の米国留学が決まったために明治2年(1869)に土佐を離れ、その後は元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねてきたお龍を冷たく追い返したそうだ。

元海援隊士の間ではお龍の評判は悪かったらしく、田中光顕(元陸援隊士で宮内大臣まで出世)の回顧談によると、瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際に、妹婿の菅野覚兵衛までが、「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒は見られない」と拒否したらしい。
お龍は後年、腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語ったそうだ。

明治7年(1874)に旅館の仲居として働いた後、明治8年(1875)に西村松兵衛と再婚して西村ツルとなり、母の貞を引き取り妹の子・松之助を養子として横須賀で生活を始めるのだが、明治24年に母と松之助を相次いで亡くしている。

その後、坂本龍馬の活躍を書いた坂崎紫瀾の『汗血千里駒』がベストセラーになったこともあり、お龍にも取材が来るようになるのだが、明治30年に安岡秀峰という作家が訪ねた時には、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていたそうである。

晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたという。

その後、妹・光枝が夫に先立たれてお龍を頼るようになり3人で暮らし始めるが、やがて夫の松兵衛と妹・光枝が内縁関係となり、二人でお龍の元を離れて別居してしまう。

お龍は明治39年1月に横須賀の棟割長屋で亡くなった。死因は脳卒中だったらしい。

お墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあるが、長く墓碑が建てられず、田中光顕らの援助を受けて、お龍の死の8年後の大正3年(1914)に、妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となり、お龍の墓を建立したという。
お龍の墓

画像でもわかるとおり大きなお墓だが、この墓碑に使われた石は海軍工廠が寄付したドック建設用のものだそうである。

墓碑には夫の西村松兵衛の姓ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているのが確認できるが、何故施主が夫ではなく妹なのか。何故8年もたってから墓が建つのか。 結局、夫の西村家の墓にも、龍馬の坂本家の墓にも迎えられず、維新の元勲が資金を出して妹に墓標を作らせたと考えればよいのだろうか。

龍馬を失ってからのお龍の人生は、「自分が龍馬の妻である」ということを支えにして生きようとしたのかもしれないが、そのことが彼女の人生を非常に淋しいものにしたと思われる。
本人自身が周りの人から愛される努力をしなければ、本当の幸せを掴むことはできないのは、いつの時代も同じだと思う。
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お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分

前回は龍馬が亡くなってからのお龍の人生を辿ってみた。
お龍が坂本家からも海援隊メンバーからも嫌われていたことから、お龍の人生があのような淋しいものになったのはお龍の性格に問題があったのだとは思うが、お龍自身が坂本家についてどう語っているかも知りたくなった。

ネットで「わが夫坂本龍馬」(一坂太郎著:朝日選書)という本を取り寄せて読んでみた。
この本には、安岡秀峰が晩年のお龍から聴取した回顧談をまとめた「反魂香」や、その後川田瑞穂が聴取して著した「千里駒後日譚」という文章の一部を、読みやすいように一坂太郎氏の解説とともにまとめたものである。

前回も書いたように、お龍は龍馬暗殺の後しばらくは三吉慎蔵らの世話になり、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

SakamotoGonpei.jpg

上の画像は坂本権平だが、私が気になったのはなぜお龍が坂本家を飛び出したのか、坂本権平夫婦に問題はなかったのかという点だ。
お龍の不幸の始まりは、龍馬の死も大きいが坂本家を出て行ったところにもポイントがあるようにも思う。
普通の女性ならば、誰かに養ってもらうしか生きていけない時代だったのだから、少々のことは我慢するのが普通ではなかったか。
坂本家も、お龍が一人でどうやって生きていくのかと心配して、説得して引きとめるべきではなかったのか。 どちらも悪かったのかもしれないが、お龍の言い分はどうなのか。

坂本家を出た点について、お龍は次のように語っている。(「わが夫坂本龍馬」p168)

「ところが私は義兄(権平)および嫂との仲が悪いのです。

なぜかというと、龍馬の兄というのが、家はあまり富豊ではありませんから、内々龍馬へ下る褒賞金をあてにしていたのです。

が、龍馬には子はなし、金は無論私より他に下りませんから、私がいては、あてが外れると言って、殺すわけにもゆきませんから、ただ私の不身持*をするように仕向けていたのです。
*不身持(ふみもち)…異性関係にだらしのない様子

すでに、坂本は死んでしまうし、海援隊は瓦解する。私を養う者はさしずめ兄より他にありませんから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違いない、その時はおりょうは不身持ゆえ、龍馬に代わり兄が離縁すると言えば赤の他人。褒賞金はこの方の物という心で始終喧嘩ばかりしていたのです。

これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるのでしょうが、元来きかぬ気の私ですから、

『なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる。私しゃあ金なぞはいらない。そんな水臭い兄の家に誰がいるものか。追い出されないうちに、こちらの方から追ん出てやろう』

という了見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借りました。」

と書かれてある。

またお龍は、龍馬の姉の乙女からは親切にしてもらったと言っている。次の画像が乙女の写真だ。
坂本乙女

「姉さんはお仁王という綽名(あだな)があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。
私が土佐を出る時もいっしょに近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは、乙女姉さんでした。」

お龍はこう言っているが、お龍が坂本家を出た理由については、他にもいろいろな説がある。

一坂太郎氏は同上の著書の中で、
「また、権平は、おりょうを龍馬の「妾」として扱ったという話も伝わる」(p163)と解説しており、ちょっと気になってネットでいろいろ検索していくと

「しかし、そのお龍はその開放的な性格のために権平とそりが合わず、厄介視されたらしい。一説では、権平がお龍を「自分の妾」であると人に語ったので、お龍は居たたまれず、坂本家を去ったと伝えられている(「坂本竜馬の未亡人」-『報知新聞』明32・5・23付)。」

という新聞記事も見つかった。龍馬の「妾」として扱ったのか、権平が「自分の妾」と語ったのかはどうも話が違いすぎて違和感がある。

このようにいろんな説があるが、海援隊メンバーからもお龍の評判が悪かったことを考えると、お龍の回顧談についてもお龍の言葉をそのまま信用出来るものかどうかはわからない。お龍が自分自身を正当化するために、権平夫婦を悪しざまに言っているだけなのかも知れないし、龍馬あるいは権平の「妾」として扱ったという説も、もともとはお龍の口から出ているのではないだろうか。

坂本権平は龍馬の兄とは言っても、龍馬は五人兄弟の末っ子で龍馬とは年齢が21才も年上だ。
龍馬の母親は龍馬の11歳の時に亡くなったが、龍馬の父親の坂本八平が亡くなったは安政2年(1855)、龍馬が21歳の時だ。

それ以降坂本家の家督は長男の坂本権平が継いだのだが、龍馬にとっては権平は親の様な存在であったであろう。

坂本龍馬の全書簡を集めた「龍馬の手紙」(講談社)という本を見ると、あれだけ多く現存している龍馬が書いた手紙も、権平宛てに書いたものは少なく、慶応2年の12月4日付ので寺田屋騒動の事を詳しく伝えた手紙(権平および家族一同宛)、同じ日付で権平宛てに書いた坂本家に伝わる甲冑か宝刀を分けて欲しいと催促する手紙(権平宛)と、慶応3年6月24日付の坂本家伝来の宝刀を受け取った旨を書いた手紙(権平宛)と8月8日付の坂本家の二尺三寸の刀を所望する手紙(権平宛)、10月9日付の消息を伝える手紙(権平宛)くらいで、この中でお龍の事が少しでも書かれているのは家族に宛てた寺田屋騒動の手紙で、龍馬がお龍に助けられたことを少し書いているだけである。

龍馬が家族に宛てて書いた手紙は大半が姉の乙女宛で、乙女宛の手紙にはお龍のことがしばしば書かれていて、お龍が姉の乙女と親しくなれるよう、龍馬がお龍を気遣っていることが読みとれる。
また龍馬の手紙の文体も、乙女宛の文章はかな交じりの読みやすい文章だが、権平宛てのものは最後の消息を伝える手紙以外はすべて「一筆啓上仕候。」からはじまる漢文調の固苦しいものばかりだ。
乙女とは仲が良かったが、権平とは気軽に何でも話せる関係でもなかったのではないか。

お龍にとってみても、権平は義兄といっても26才も年上で、自分の父親の楢崎将作は義兄の1歳年上に過ぎない。父親と変わらない年齢の義兄がお龍にとって気軽に付き合える存在ではなかったことは言えるだろう。

龍馬が最も心を許した友の一人である三吉慎蔵宛の手紙に、慶応三年5月8日付で、自分にもしもの事があれば、下関に居住するお龍について、

「愚妻儀本国(土佐)に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わされるべく候よう、万々御頼み申上げ候」

と、坂本家から迎えが来るまで、長府城下の三吉家で世話してほしいと頼んでいるが、坂本家にはお龍の行く末については何も書いてはいないようだ。

三吉慎蔵は龍馬との約束を守り、龍馬暗殺後しばらくお龍を引き取った。その際長府藩主はお龍に扶持米を与えたという話もある。

しかし龍馬が三吉慎蔵宛の手紙で約束したように国本の坂本家からお龍を迎えに来たということはなかったと思われ、慎蔵がお龍を龍馬の土佐の実家にまで送り届けたのではないかと考えられている。

龍馬は国事で奔走し大きな仕事を成し遂げたが、お龍に対する坂本家の対応やお龍の行く末までは考えが及ばなかったようである。
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龍馬の二番目の姉・栄はなぜ「龍馬伝」に出てこなかったのか

今年の五月に高知方面を旅行したときに、龍河洞の帰りに「龍馬歴史館」を訪ねて、坂本龍馬の一生の出来事を蝋人形で再現させた展示物を見てきた。

龍馬歴史館

その中で、「龍馬脱藩・姉栄の自殺」という展示があった。
姉の栄が刃物で自殺をしようとする人形で、解説にはこう書いてあった。

栄の自殺

「…兄の権平は龍馬の不穏な空気を怪しみ、万一過激な行動を取ったら家を危うくする恐れがあると心配して龍馬から刀を取り上げ『龍馬が何を言ってきても相手にならないように』と親戚にも警戒を呼びかけた。

武士が丸腰で道中できない。このとき、焦る龍馬に次姉栄は家伝の刀肥前忠広を与えた。
龍馬は勇躍して沢村とともに脱藩したが、栄は責任を取ってその夜のうちに自殺した。

大きく羽ばたいて土佐を出た龍馬の陰に悲劇の女性がいたことを忘れることはできない、3月24日の出来事であった。

龍馬に刀を与えたのは栄ではなく乙女だったという説もあり、この話は今も謎に包まれている。」(引用終わり)

しかし、大河ドラマの「龍馬伝」では龍馬が脱藩した後にこのような場面はなかったはずだ。そもそも、NHKの「龍馬伝」のオフィシャルサイトでは、次女の栄がキャストから欠落している。
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/cast/index.html
なぜこのような重要でドラマチックな事件を、なぜストーリーから削ってしまったのかとその時は思った。

栄の自害の話は、司馬遼太郎の「竜馬が行く」の第二巻にも書かれている。
司馬遼太郎

ここでは、栄は龍馬に、嫁ぎ先であった柴田家伝来の陸奥守吉行の刀を渡し、その後それが問題になり栄は責任を取って自害したこととなっているが、「龍馬歴史館」の解説とは刀や自殺の時期は異なるものの栄が責任を取って自害したことは同じである。

高知旅行の二日目は桂浜の近くの「坂本龍馬記念館」を訪ねたのだが、その横に龍馬の姉の坂本栄の石碑があり、右に「龍馬脱藩に刀を与えて自決した次姉」と書いてあった。
坂本栄の碑

石碑の建立は昭和62年の春で、字は高知県出身で元日本芸術院長の有光次郎氏の筆によるものである。

NHKが歴史を捻じ曲げることは昔から良くあることなので、旅行の時はそれ以上深くは考えなかったのだが、最近このブログで龍馬やお龍の事を調べているうちに、姉の栄のことが分かってきた。

結論から言うと、NHKの「龍馬伝」の脚本には何の問題もなく、間違っているのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や「龍馬歴史館」などの方である。次女の栄が龍馬に刀を渡した後に自害したというのは後世の作り話であった。

ではどうして、これが作り話と言えるのか。

この件について書いているサイトはいろいろあるが、たとえば「涼やかな龍の眼差しを」というサイトがわかりやすい。
http://erinkoryo.blog48.fc2.com/?mode=m&no=66
龍馬の父親は坂本八平で、母親との間に子供が五人いたことは坂本家の家系図でわかっている。
坂本八平の子供(龍馬の兄弟・姉妹)を年齢順に書くと、
長男:権平、長女:千鶴(高松順蔵妻)、次女:栄(柴田作衛門妻)、三女:乙女(岡上樹庵妻 後離別)、次男・龍馬となる。

昭和63年3月に高知市山手町丹中の竹藪の中で栄の嫁ぎ先である柴田家の墓石と隣り合わせに発見された墓石が、龍馬の姉の栄のものではないかというニュースが「高知新聞」などで報道された。

SakamotoEiNoHaka002.jpg

その墓石には「柴田作衛門 妻」「坂本八平 女」と2行で刻まれ、戒名が「貞操院栄妙」となっていたことから、この墓は栄のものであることが今では確実視されている。

この墓には被葬者の没年は弘化2年(1845年)9月13日となっていたのだが、この年は龍馬の脱藩よりも17年も以前の話で、栄は嫁いですぐに若くして亡くなったということが確実となった。
したがって、栄は柴田家を離縁された事も疑わしく、龍馬に刀を渡したこともあり得ない話だということになる。

では、誰が栄の自害説などを唱え出したのだろう。

龍馬のことを最初に書いた小説である明治16年の坂崎紫瀾作「汗血千里駒」では、乙女が龍馬に刀を渡したことになっているそうだ。

ネットでいろいろ調べると、最初に栄が刀を渡したと言いだしたのは昭和37年(1962)の司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が最初で、それ以降、栄が刀を渡して後で責任を取って自害した説が広まったということらしい。
http://erinkoryo.blog48.fc2.com/?mode=m&no=66

では、司馬遼太郎は何を根拠に栄が龍馬に刀を与えたという説を唱えだしたのか。
上記のサイトによると、坂本家の本家に嫁いだ内田さわという女性の孫にあたる、宍戸茂という人物が司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の連載を知り、祖母(内田さわ)から聞いた話を匿名で、「このエピソードは、(坂本家が龍馬の)脱藩に加担したことになるので、門外不出として(隠されてきた)坂本家の秘密」として司馬遼太郎に伝えた話らしいのだ。

その後宍戸茂は、昭和41年に発表した「『長路』喜寿編」という作品の中で、龍馬に刀を与えたのは乙女ではなく栄であることを書いているそうだ。

「龍馬歴史館」が建てられたのは昭和63年(1988)11月で、「坂本龍馬記念館」の隣の坂本栄の碑が建立されたのは昭和62年(1987)春だから、いずれも司馬遼太郎や宍戸茂の説に引っ張られたものであることは確実だ。
栄のものらしき墓が発見され、栄の墓であることが確実視されたのはそのあとの話なのでこれはやむを得ないだろう。

歴史小説の作家はフィクションなしには小説は書けないだろう。
したがって小説を読む読者は、歴史的事実に近い内容が書かれているがフィクションも多いことを注意する必要があることはわかる。
しかし、博物館や記念館の展示物は見学者はすべて歴史的事実であると考えるのが普通ではないか。後日展示内容に誤りがあることが判明した場合は、あるいは別に有力な説が生まれた場合は、展示内容を訂正するか、解説文に但し書きを入れるような配慮があるべきではないだろうか。そうでなければ、誤った歴史理解が広がっていくだけである。
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3

以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。

そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったのは今井信郎だというのが定説になっていることを書いた。しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。どちらが正しいのだろうか。

明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じ、自分が龍馬らを斬ったことを詳細に語った記事が「近畿評論第17号」という雑誌に掲載された。その記事の一部を次のURLで読む事が出来る。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000004.php

今井信郎

今井信郎は仲間の三人とともに、松代藩士を騙って近江屋の二階に上がってからの部分をしばらく引用させていただく。

「6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、早速機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」 と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。
そこで、ソレと手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。

この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。」(引用終わり)

かなり具体的に書いており、本人でなければわからないような生々しさがある。 しかしながら、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた土佐出身の谷干城は、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っている。

谷干城は明治39年(1906)11月に「近畿評論を駁す」と題する演説を行ったそうだが、谷干城の遺稿の中にその演説内容が書き込まれている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000005.php

谷干城40

長文なので、全文は上のURLで読んで頂きたいが、谷干城が暗殺現場で見た龍馬と中岡について述べているところを引用させていただく。

「坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬ら れ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。」

「一体どういう状況であったかと(中岡に)聞いてみると、…(中岡が)坂本を訪ねて談話していると、『十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい』と何者かが訪ねてきた。
そこで取次の従僕(藤吉)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。」

「この人(今井信郎)の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この 2つがまず致命傷だった。」

「傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。」

「今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。」(引用終わり)

では、谷干城は暗殺の仕掛け人は誰と考えているかというと、「この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、紀州人が新選組を使って実行したのであろう。」と、書いているのだ。

今井は実行犯として、谷は最初に現場に行きまだ生きていた中岡から一部始終を聞いた人物として語った内容が書かれているはずなのだが、なぜこんなに話が違うのか。
最初に龍馬を斬ったのか、中岡を斬ったのか。体のどこを斬ったのかということからして一致していない。「近畿評論」の記事のとおりに中岡慎太郎が脳天を三度も斬られたのなら、中岡が谷干城に事件の一部始終が語れることはなかっただろう。

いろいろ調べると、「近畿評論」の掲載記事を寄稿した結城礼一郎が、大正13年(1924)になって、この記事の一部は捏造したものであることを認めた『お前たちのおぢい様』という手記を書いている。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000006.php

そこには
「…今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。…本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。」と、正直に書かれているが、自分が記事を書いてから24年間も黙っていたのは卑怯なことだと私は思う。

とにかくこれで、龍馬暗殺の一部始終については「近畿評論」よりも谷干城の言っていることの方が信憑性がありそうだということははっきりしたが、次の疑問は『お前たちのおぢい様』で結城が書いているように、なぜ谷干城が「近畿評論」を読んでムキになって、今井信郎を「売名の徒」とまで罵ったのだろうか。

谷干城は事件当初から坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与したのは新撰組が実行犯、黒幕は紀州藩と考えていたようだ。
また翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で捕えた元新撰組長の近藤勇の処遇をめぐり薩摩藩と対立し、谷の強い意向でその年に近藤勇は斬首され、その後に京都三条河原でさらし首にされたとされている。

近藤勇

近藤勇の斬首を強く主張したのは谷干城ではなく徳川家側という説もあるようだが、いずれにしろ、坂本龍馬暗殺を新撰組実行犯と考えていた谷にとっては、この事件に関しては近藤勇の斬首により心の整理がついて終わったものになっていたのに、それから32年もたって京都見廻組のなかから実行犯と名乗る人物が出てきたのを頭から認めたくなかったから、「近畿評論」の記事を読んでムキになったということか。

しかし、谷干城がなぜ新撰組実行犯と考えたかという部分についてはあまり論理的ではなく、ほとんど初めから犯人を決めつけているようにも読める。事件直後なら新撰組を疑うのもわかるが、新撰組には龍馬暗殺の時間帯は伊東甲子太郎を襲う密議の最中で、主要なメンバーにほぼ完璧なアリバイがあることが後日判明しているのだ。
薩摩と土佐は最後まで新撰組説を唱えたといわれるのだが、ひょっとすると、犯人を新撰組だということにしたかったのかも知れない。薩摩や土佐のメンバーの誰かが疑われることを入口から遮断しようとしたことは考えられないか。

谷干城は龍馬が暗殺された慶応3年(1867)の5月21日に、板垣退助とともに西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と会い武力討幕を密約しているのだが、坂本龍馬の考え方は武力討幕ではなく、徳川慶喜を新政府の中に入れるという穏健なものであり、薩摩藩や谷の考え方とは異なる。武力討幕派にとっては、徳川慶喜が絶対拒否するとタカを括っていた大政奉還を承諾したので、その流れでは坂本龍馬のような穏健派に新政府のリーダーシップを握られてしまうことを懼れて、龍馬を排除しようと動いたのではないだろうか。

もし坂本龍馬の暗殺に薩摩藩が黒幕で関与していたという説が正しければ、彼らにとってはいろは丸事件にからめて紀州と新撰組を結びつけ、新撰組を龍馬暗殺の犯人に仕立て上げて処刑まで行えば将来にわたって陰謀が暴かれることはない考えたのではないか。

しかしながら薩摩関与説は、龍馬暗殺直後から噂され、その年の「肥後藩国事史料」にも12月11日「坂本を害候も薩人なるべく候事。」という記述があるそうだが、事件後1ヶ月も経っていないのに公文書で薩摩関与説の記録が残っているのはもっと注目して良いと思う。

ところで、谷干城が慶応3年(1867)5月の武力討幕の密約で会った大久保利通は、坂本龍馬とはあまり接点がなかったのか、性格的に合わなかったのか良くわからないが、大久保利通の日記には龍馬についての記録が全くないらしい。
その大久保が、龍馬・中岡が暗殺された翌日から4日連続で岩倉具視に手紙を書き、龍馬や中岡が死んだことや、下手人が新撰組らしいということを伝えているそうだが、これはちょっと不自然だ。

大久保利通

大久保利通は自らの目的のために、江藤新平、西郷隆盛などを葬り去った男だ。孝明天皇の死にも岩倉具視とともに関与していた疑いももたれているのは以前にも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

黒幕は、武力討幕派の中でも薩摩藩が一番臭うのだが、西郷は龍馬を評価し、龍馬との接点も多い人物で黒幕の中心にいたとは考えにくい。
龍馬と接点が少なくお互い評価もしていなかった大久保利通こそが龍馬暗殺の黒幕の中心ではないかと考える人もいる。動かぬ証拠があるわけではないが、この説は私にはかなりの説得力を感じている。
大久保が中心でないとしても龍馬暗殺の黒幕は少なくとも武力討幕派の中にいて、彼らのメンバーの多くが後の明治政府の中枢部にいた。だから、龍馬暗殺事件については徹底した原因追究がなされることがなかったし、できなかったのだと考えている。
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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」)

近江屋

前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。

「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。」

  「渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ今井氏は、それはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名 前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。
思うに、今なおある一 部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。
今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることにな り、惜しんでも惜しみきれないものである)」(引用終わり)

と、今井から出てきたのは戊辰戦争で死んだ2名の名前だけである。あと一人は、「生きている」ということしか言っていない。
しかし、結城が「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評がある」と書いている点に注目したい。事件から33年も経過したにもかかわらず、龍馬暗殺は明治政府の高官が関与していたという風評が存在したのである。

今井信郎

今井信郎は明治2年(1869)に函館戦争で新政府軍に捕らえられ、降伏人として兵部省の訊問を受け、その際に仲間とともに坂本龍馬殺害を自白したために翌年身柄を刑部省に移され取り調べを受けた。その調書によるとメンバーは7名で「佐々木唯三郎(明治元年没)を先頭に、後から直ぐに桂隼之助(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)、渡辺吉太郎(同左)、高橋安次郞(同左)が2階へ上がり、土肥仲蔵(明治元年自刃)、桜井大三郎(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)と私は下に控えていた二階に上がった」と書いてある。
メンバーの数が違うのが気になるが、この時も死んだ仲間の名前だけを出すことで生きている仲間を守る意図があったようにも読める。そもそも今井信郎の言っている事はどこまで信用できるのだろうか。

ところが、今井に関する「近畿評論」の記事が出てから15年後の大正4年(1915)に、元見廻組肝煎であった渡辺篤という人物が死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。

渡辺篤

この渡辺篤という人物は、今井が口述した桑名藩の渡辺吉太郎とは別人である。

また渡辺篤は、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言している。その記事が渡辺篤の死後に朝日新聞に掲載されたが、これは新聞記者の創作部分がかなり多いので省略する。

渡辺篤本人が書いた『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』という遺書は明治44年(1911)8月19日の日付となっており、「近畿評論」よりも11年後に書かれたということになるが、この原文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000007.php

そこで渡辺は
「…(慶応三年)11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、 横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。…」と書いており、現場に残されていた刀の鞘は世良敏郎のものだというのだ。

世良敏郎という人物は実在したようなのだが、渡辺は「書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。」と書いている。

こんな人物が刺客として送り込まれたことにやや違和感があるが、実在の人物を語っている点は注目して良い。渡辺篤の言うとおり今井信郎、世良敏郎と自分の3名でやったことが正しければ、今井信郎の証言は、生きている者に影響が及ばないために戊辰戦争で死んだメンバーの名前を挙げて、渡辺篤と世良敏郎を秘匿したということになる。

こんなことを考えていろいろ調べていると、暗殺の時刻も本や史料でバラバラであることがわかった。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では事件が起きた時間を慶応3年(1867)11月15日の午後9時と書いている。これは通説に従ったのだろうが、この事件は龍馬が峰吉という書生にシャモを買いに行かせている間に起こっている。しかし、当時はほとんどの店舗が夕食時間の前に売りきって商売を終えていなければならない時代だった。常識的に考えて、冷蔵庫もなければ電気もないような時代に、いくら京都でもこんな時刻にシャモが買えるような場所があったのだろうか。

ところで今井信郎は「五ツ頃」と明治3年(1870)の「刑部省口書」で述べているが、江戸時代の刻(とき)では五ツとは午後8~9時頃を意味する。
http://www.viva-edo.com/toki.html
今井を取材して結城礼一郎が書いた明治33年(1900)の「近畿評論」の記事では「晩」とだけ書かれている。

また明治45年(1912)の谷干城の遺稿では、中岡が坂本を訪ねたのが「今夜」で、龍馬と話している最中に何者かが訪ねてきて二人を斬った。龍馬が死んだのは事件翌日の午前1~2時頃と書かれている。

渡辺篤は、先程引用した文章では龍馬の宿に踏み込んだ時刻を「夕暮れ時」と書いているが、渡辺篤の死後に渡辺の証言の記事を書いた朝日新聞では「未明」と書かれている。朝日の記者は渡辺についての記事を書きながら、何故渡辺の文書に書かれた時刻を無視したのだろうか。

ネットでいろいろ調べると、事件とは直接関係のない土佐藩士の寺村左膳という人物が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺の件を日記に書き留めているのが見つかった。その日記に書かれている暗殺時間はやはり夕刻なのだ。
この日記には、「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたとあり、寺村左膳は龍馬の暗殺された11月15日は昼から芝居見物をしており夕方五時頃に芝居が終わって帰ると、家来が両名の暗殺のことをあわてた様子で伝えたと記されている。
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/d3a14b234de2ce9fe1a3f790c60d5230

となると時刻は渡辺篤の遺書に書かれているのが正しいということになるのだが、この『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』は何故かあまり重視されていない。

もし夕刻の時刻が正しいのならば、京都の中心部で人通りも多く、旅館の主人も女中も宿の中にいたはずだから、もっと多くの証言が得られてもおかしくない。
しかし、同じく近江屋にいたはずの書生の証言もなければ、近江屋の主人や女中の証言すらないことが不思議であるが。そのような者の証言は、本で探してもネットで検索しても見当たらず、存在しない可能性が高そうだ。
当初から新撰組が夜に暗殺したことにストーリーを決めて、そのストーリーに合わない証言ははじめから取る意思がなく、関係者に緘口令を敷いたことは考えられないか。

最初に紹介した「近畿評論」で結城礼次郎がいみじくも書いているように、「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評」が明治33年頃にも根強くあったのであれば、もっと以前からそのような風評があったと考えるのが自然である。

もし武力討幕派あるいは明治政府の中に龍馬暗殺に関与する者がいたとしたら、谷干城はその風評を少しでも打ち消そうと考える立場だ。
坂本龍馬・中岡慎太郎が斬られたと聞いて真っ先に近江屋に駆け付けたのが谷であったのも何かひっかかる。谷は穏健派の龍馬と違い武力討幕派で中岡と同じ考え方だ。

谷干城2

谷干城が語った中岡慎太郎から聞いたという話は、倒幕派が疑われないために、かなり谷の創作がなされてはいないか。また本当に中岡慎太郎は一部始終を語れるような状態だったのだろうか。中岡の状態が話が出来るようなものであったとしても、その話を聞いたのが武力討幕派の数人であれば、いくらでも創作が可能であったはずだ。
以上の理由から、私には谷の言っている事は、一部真実が含まれるとしても、全体的にはあまり信用できないのではないかと考えている。

龍馬暗殺についての通説について、重要な部分で引っかかるところが他にもいくつかある。
ひとつは、龍馬や中岡が知らない人物を、何故、宿の中に入れてしまったのかという点。
今井信郎の証言では松代藩士、谷干城(中岡慎太郎)の証言では十津川藩士だが、素性のわからない人物は警戒して当たり前ではないのか。中に入れるとすれば、龍馬か中岡のいずれかが知っている人物しかあり得ないのではないか。

中岡慎太郎

その点に注目して、下手人は京都見廻組ではなく土佐藩や薩摩藩が直接やったという説もある。あるいは、中岡慎太郎が京都見廻組を呼び込んで龍馬暗殺に関わっていたという説もある。後者の場合は龍馬と中岡が斬りあったことになり、目撃者を消すために藤吉も斬られたということになる。

もう一つ引っかかるところは、もし京都見廻組が京都守護職の指示により龍馬や中岡を仕留めたのならば「暗殺」ではなく「公務」であり、記録に残っていないのはおかしくないかという点である。
だから、幕府方が関与したとする説は私にはピンとこないし、明治政府が新撰組を犯人として近藤勇を処刑したこともおかしなことである。

坂本龍馬2

結局前回書いたのと結論は同じだが、龍馬暗殺の黒幕は武力討幕派の中におり、おそらく大久保利通、岩倉具視あたりが中心メンバーにいるのではないかと考えている。確たる証拠はないが、証拠がないのはどの説をとっても同じことである。

武力討幕派は後の明治政府の中心勢力となり、谷干城もそのメンバーの一人である。 また今井信郎も新聞も、権力批判に繋がることは軽々には語れなかったし、書けなかった。 だから信頼できる資料が何も残らない状況になってしまった。
そのために、坂本龍馬の暗殺については様々な説が出ており、将来決着するとも思えない。しかしよくよく考えると、誰が犯人かがわからないような状況の方が、明治政府にとっては望ましかったのではなかったか。

もうすぐ「龍馬伝」が終了する。
天下のNHKが、通説を覆すようなストーリーを書くようなことはおそらくないだろう。 今井信郎は出てくるそうだが、黒幕については様々な可能性を匂わすようなナレーションが入る程度で終わるのではないだろうか。

小説やドラマで多くの人が歴史に関心を持つことは非常に素晴らしいことなのたが、小説やドラマで描かれるたびごとに、真実と異なる歴史が拡がって定着していくようなことはないようにして頂きたいものである。
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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

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    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

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    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史