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アッツ島、キスカ島を占領する目的はどこにあったのか~~『キスカ戦記』を読む1

京都にいる親しい友人から、近所に「キスカ島撤退作戦」を体験した中村さんという方がおられるとの情報が入り、その方の話を友人と一緒に聞くことになった。

中村さんは大正14年(1925)のお生まれで91歳という高齢ではあるが、大変お元気で、言葉もしっかりしておられたのに驚いた。
2時間近くお話を伺ったが、私にとってはこんなに長時間にわたって戦争の体験談を直接聞いたのは初めての経験で、いろいろ勉強になることが多かった。しかしながら、中村さんは日本軍がキスカ島占領して8カ月後の昭和18年(1943)2月にキスカ島に派遣された方であり、キスカ島での任務は半年程度と短く、奇跡の撤退を経験した当時は18歳の海軍一等水兵であり、立場上知りえないことが多々あったことはやむを得ないことである。

キスカ島占領から撤退にいたるまでの詳細ならびに軍の方針や戦略的なことなどはこの本を読んで確認してほしいということで、キスカで任務にあたったメンバーの貴重な体験談や作戦に関与した幹部の証言等が綴られた『キスカ戦記』(原書房刊)を中村さんからお借りすることとなったのだが、この本の「まえがき」に、この本が昭和55年(1980)に発刊された経緯が記されている。

キスカ戦記

「…この間、幾多の日米両戦士の生命を失った死闘が続けられていましたが、僅かに公刊戦史がその経緯を述べ、個別の私記あるいは特定の戦闘に関する断面が喧伝さているのみで、大多数の人々の生々しい体験については記録されておらず、その全貌はあたかも霧の中に埋没された儘のようになっておりました。戦後この作戦に参加し生き残った人々が相集いキスカ会を結成、毎年恒例として東京を始めゆかりの地において慰霊祭を施行して参りましたが、年々当時の青年も壮年もやがて老年ともなり櫛の歯の抜けるようにこの世を去りつつあり何時かは消える運命にありますが、一昨年厚生省当局のお骨折りでアリューシャン列島戦跡慰霊巡拝団派遣を機に、特別会員徳永正三氏等から、元気な者が残っている間に各自の体験を記し、遺しておこうではないかとの強力な発案があり、総会出席者全員の同意する処となり、会の事業としてとりかかることになったのであります。…」(『キスカ戦記』p.5)

この本が出版されてからすでに36年が経過し、「奇跡」と言われるキスカ撤退を経験した最も若い世代にあたる中村さんがすでに91歳なのだから、この本を執筆したメンバーのほとんどは既にこの世を去っていることだろう。軍隊で責任ある立場にいた人の話を直接聞くことのできる時代はとうの昔に過ぎ去ってしまっているのだ。

しかも初版の定価が2600円というのは当時としてはかなり割高で、この本が一般の読者にどの程度売れたかについては良く分からない。

戦後の長きにわたり、わが国のマスコミは『軍隊は悪』とのイメージを拡散し続け、そのために私も含めて戦争を知らない世代の多くは、あの戦争の最前線で苦労をされた兵士のことについて関心を持たないまま過ごしてきた。新聞やテレビは、空爆や原爆の悲惨な体験談を紹介することはあっても、兵士としてこの戦争を体験した人の貴重な話を紹介することはほとんどなかったと言って良く、この『キスカ戦記』が出版された2年後(昭和57年)の宮沢談話以降は、マスコミと教科書の左傾化が進行していくばかりだった。

しかしながらキスカの作戦に加わった主要メンバーが『キスカ会』を立ち上げて、メンバーが健在なうちに体験談を本に纏めておいたことには意味があったと思う。
本というものはいわばタイムカプセルのようなもので、当時のマスコミが兵士の体験談を意図的に採りあげなかったにせよ、本にしておけばいずれ世の中が変わって誰かが読み、いくつかの文章が紹介される可能性が残る。『キスカ会』がこの本の出版を決意したのも、そのような思いが少しはあったのではないだろうか。

そして昨今、学校やマスコミを通じで戦後垂れ流され続けてきた歴史叙述に嘘が多いことが、ようやく国民に広く知られるようになり、通説とは異なる視点から太平洋戦争のことを考えようとする人が明らかに増加傾向にある。

このような時期に、91歳の中村さんが私にこの大切な本を預けられたことの意味を考えてみるのだが、中村さん自身は軍隊の責任ある立場ではなかったために、キスカ島で起こった出来事を、正確にその背景から語ることは難しい。しかしながらこの本には、然るべき立場の人が思いのたけを記しておられる。どうかこの本の内容の一部でもブログに紹介していただいて、キスカ島で国を守るために共に戦った兵士たちのことを若い人に伝えてほしい。そういう思いで中村さんは大切な本を私に託されたのではないだろうか。

私の筆力でどの程度のことが伝えられるかはわからないし、何回の連載になるかも不明だが、しばらくこのブログで、日本軍がキスカ島を占領してから奇跡の撤退を果たすまでの経緯を、この作戦に参加した兵士の手記などをなるべく引用しながら記すことにしたい。

キスカ島はアリューシャン列島西部のラット諸島に位置する島で1741年にヴィトゥス・ベーリングによって発見され、1867年にロシアからアラスカを購入した際にアラスカ本土と共にアメリカ領となっている。

アリューシャン列島

まず地図でこの島の位置を確認しておこう。アラスカのハイテン岬から髭のように長く伸びたアリューシャン列島の西部にキスカ島があり、さらに約300km西にアッツ島がある。
キスカ島の面積は277.7㎢で、わが国の西表島(289.6㎢)よりも狭いのだが、わが国はなぜこんな狭い島を攻略したのだろうか。その経緯を知るためには、太平洋戦争で日本軍の快進撃が続いた頃にさかのぼる必要がある。

わが国は昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃以降太平洋の西海岸に展開し、12月20日頃から潜水艦からの攻撃による連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。そして翌年の2月24日にはカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油精製所への砲撃に成功し、これまでほとんど本土を攻撃されたことのない米国政府・国民に大きな衝撃を与えたという。

このような状況を受けて米軍は首都東京を攻撃する計画を練るのだが、米陸軍航空軍の長距離爆撃機の行動半径内に日本を収める基地がないため、同盟国の領土に着陸させるプランが検討されるに至る。

昭和17年(1942)4月18日に米軍は航空母艦に搭載した米空軍のB-25爆撃機16機によって、日本本土に対する初めての空襲が実行され(ドゥーリットル空襲)、東京、川崎、横須賀、名古屋などが爆撃されて、民間人が87人死亡したほか、潜水母艦1隻が小破し、監視艇5隻が沈没する等の被害が発生した。

B-25爆撃機
【B-25爆撃機】

ドゥーリットル空襲で用いられたB-25爆撃機の航続距離は4300kmで、往復を考慮すると作戦行動範囲は2170kmとされるのだが、この空襲においてB-25は空母に戻らず、日本列島を横断して中華民国国軍の飛行場に着陸したのだ。

ドゥーリットル空襲の規模は決して大きなものではなかったのだが、日本陸軍は二度目の本土空襲を防ぐために、支那派遣軍に命じて浙贛(せっかん)作戦を実施。5月中旬から9月にかけて、中国側の着陸基地を破壊し占領した。

アリューシャン列島地図

またすでに内定していたミッドウェー攻略作戦の実行が急がれることとなる。
ミッドウェー島はハワイの北北西2100kmにある環礁で、その中に多数の島々がありミッドウェー諸島ともいう。ちなみにミッドウェー島から東京までの距離は4100kmである。

ミッドウェー島
【ミッドウェー島】

そして5月5日にミッドウェー作戦とアリューシャン諸島占領作戦が認可され、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、宇垣纏参謀長の指揮下で艦艇約350隻、航空機約1000機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成されたのである。

アリューシャン諸島占領作戦はミッドウェー作戦と同時に行われたのだが、その作戦を同時に実施した目的はどこにあったのだろうか。『キスカ戦記』にはこう記されている。

「陸、海それぞれの公刊戦史は、この間の事情を次のように伝えている。
『アリューシャン攻略作戦が決定された経緯については問題はなかったけれども、その作戦目的については関係者の回想は必ずしも一致していない
すなわち、福留繁軍司令部第一部長は『本作戦はミッドウェー作戦内定に付随して新たに企画されたもので、ミッドウェー作戦を実施しても米艦隊が出撃して来るとはからないので、その出撃強要を一層助長する手段として採用した』と回想しており、ミッドウェー作戦の補助作戦の意味を含めている。また、
 富岡定俊軍司令部第一課長は、戦術的にミッドウェー作戦の牽制作戦の意味を持たせたと回想している。また
 軍司令部第一課の航空主務であった三代辰吉部員は、米ソの連絡を妨害してシベリアを基地とする米航空部隊の本土空襲を予防する点を重視し、アリューシャン西部要地に大型機を進出させて哨戒すことは、気象などの関係から実施困難で、航空兵力の消耗が大きいことを予想して反対であったと回想している。
 連合艦隊司令部の関係者は、米国が大型機をアリューシャン西部に進め、わが本土を空襲する企図を先手を打って押さえるとともに、敵の北方進攻略を未然に防ぐのが目的で、ミッドウェー作戦の補助作戦とする考えは全くなかったと回想している』」(『キスカ戦記』p.7-8)

アリューシャン諸島占領作戦で日本軍が占領しようとしたのはアッツ島とキスカ島なのだが、アッツ島から東京までは3200km、キスカ島から東京までは3500kmだ。
太平洋には島らしい島はわずかしかなく、米軍機に日本本土への空襲をさせないために、日本列島に最も近いアメリカ領の島を押さえることは戦略上必要であるとの判断が優先されたのだが、占領期間はいつまでなのか、航空基地をつくるかどうかで意見が割れていた。

中沢佑
【中沢佑海軍中将】

当時第5艦隊参謀長であった中沢佑海軍中将はこの作戦に関しこう述べたという。
「…私は(要地占領を夏期のみ、航空基地を造成しないという連合艦隊参謀の案に承知せず)、自分の信念に基づいて根本方針を主張した。その結果、連合艦隊は、守備隊は冬季に入るも撤収しない、但し有力なる航空基地は置かず、僅かの水上航空兵力を置くこととした。<これが妥協の産物であった>
 連合艦隊司令部の幕僚にも、海洋中の島嶼(とうしょ)占領は恰(あたか)も陸戦における要地占領の如く考え、制空、制海権を確保するにあらざれば、占領の意義なきのみならず、却って、補給の負荷となることを理解していないものがあったことを遺憾に思う」(同上書 p.9)

一旦はミッドウェー、アリューシャン両作戦は海軍だけで実施することが決定されたのだが、ドゥーリットル空襲によって再び方針が変更される。

「軍令部はこれが対策として本土東方哨戒を厳にするため、哨戒基地を前進するにはミッドウェー攻略を最も有効な手段と認め、連合艦隊のミッドウェー作戦に釈然としていなかっ作戦課も、一転してその攻略ならびに攻略後の保持対策に熱心になった。
 一方、陸軍部は両作戦〈ミッドウェー、アリューシャン〉に陸軍兵力を出さない方針であったが、この空襲により哨戒基地前進の必要を認め、なるべく早く返すよう考慮する条件で陸軍兵力の派出を海軍部に通告し、21日それを決定した。」(同上書 p.10)

この度重なる方針変更が、両作戦の準備にかなりの混乱を招いたようだ。

『キスカ戦記』に海軍少佐の向井一二三氏の手記がある。向井氏は施設本部から『キスカ島基地設営計画』なる機密文書を手渡されて驚いたという。
「そこにはGF(連合艦隊)司令部の短期進駐の方針とは全くかけ離れて、半永久的根拠地設営ともいうべき厖大な資材と施設計画が用意されていた。陸戦隊固有の兵器・弾薬・糧食・医療品、その他の軍需品と併せて1万屯(トン)級と7千屯級と二隻の輸送船が充当されているのを見ても如何に厖大な計画であったかがうかがえるだろう。熾烈な敵の砲爆撃を顧慮して案画されたものとは到底思えない」(同上書 p.21)

また海軍軍医大尉としてキスカ島に向かった小林新一郎氏の手記には、
「…1千名もの兵器、器材から被服糧食その他およそ戦いと人間生活に必要な、ありとあらゆる物資の、しかも幾月分かを準備しなければ、不毛の地と予想される彼地において生きていくこともできない。
 これらの夥(おびただ)しい量の物資を、短時日で搭載することがいかに困難であるか、まったく想像を絶するものがあった
。直接その任にあたった甲板仕官、浅井少尉らの苦労たるや到底筆舌に尽くし得ない所であった。

目指す敵地!勿論攻略せずにはおかない。しかし、…果たして補給は完全に出来るだろうか。余りにも飛び出した部隊は全体としての戦略的弱点を形成しはしないだろうか。戦術の何物かを生かじった私はふっとそんな不安が胸に湧いて、じーっと地図を見つめたまま動かなかった。…」(同上書p.28-29)

米軍の空母や大型機の基地を撃滅して本土空襲を防止することが当初の目的であったはずなのだが、ミッドウェー島やアッツ島、キスカ島を攻略し占領して基地を設営するとの色彩が強められていったのである。

『キスカ戦記』では、両攻略作戦発動についてこう纏めている。
わが戦争指導部と実戦部隊は、根本的思想の統一と理解を欠いたまま、戦場方面に対する貧弱な智識――敵情、兵要地誌、天候、気象など――を克服できぬまま、あわただしく両作戦の準備に着手し、相当な無理を押して兵力特に水上部隊、航空部隊の移動、集中を行い、5月25日を先陣に両作戦部隊は基地を出撃、運命の大作戦の幕を切って落としたのである。連合艦隊司令長官山本五十六大将も、海軍記念日の5月27日、主隊を率いて出撃した。」(同上書 p.10)

一方、米軍は日本軍の暗号電文を解読し、ミッドウェーとアリューシャン列島に日本軍が進撃するとの情報がいち早くニミッツ太平洋艦隊司令長官に報告されていたのだが、そのような事態を知る由もなく、わが国の攻略部隊は必勝の意気に燃えて次々と出撃して行ったのである。
<つづく>
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【ご参考】
太平洋戦争関連はいろいろな記事を書いてきました。マスコミなどで伝えられていない歴史に興味のある方は、ちょっと覗いてみてください。

太平洋戦争緒戦の日本軍の強さは米英軍の予想をはるかに超えていた
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なぜ日系人だけが強制収容所に送られたのか~~米国排日8
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強制収容所の日系人が米軍を志願した理由は何だったのか~~米国排日9
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GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
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尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
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戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった
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『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html


ミッドウェー海戦大敗後、キスカ島上陸に意味はあったのか~~『キスカ戦記』を読む2

アリューシャン列島の西部にあるキスカ島、アッツ島等の攻略はミッドウェー作戦と同時に行われた。
キスカ上陸作戦の前に、第二機動部隊によるダッチハーバー航空攻撃が昭和17年6月4・5日に行われ、日本軍は七機を失ったが、米軍の哨戒飛行艇PBY六機、陸軍重爆B26、B17三機、P40戦闘機二機を葬っている。

ミッドウェー・アリューシャン列島攻略概念図

しかしながら、前回の記事の最後に触れたとおり米軍は日本軍の暗号電文を解読しており、アリューシャン方面には最低限の戦力を送るにとどめて、主力をミッドウェーに集中して日本軍を待ち構えていた
ミッドウェー海戦のことは別の機会に書くこととして、この戦いの結果をキスカ島に向かう船上で知らされた海軍軍医大尉・小林新一郎氏の手記を紹介しよう。

小林氏は昭和17年(1942)6月6日に船が反転して西に(キスカ島と反対方向に)向かっていることに気付いたのだが、どうしたことかと思っていると、先任副官の柿崎大尉がいきなりノックもせずに小林氏の部屋に入ってきた。

「…副官は部屋に入るなり荒々しく、
『寝ちゃおれんよ! 軍医長!』と言った。その顔はこわばり、眼は血走っていた。
『どうしたんだい! 一体!』」と起き上って聞いた。
向かい合った副官の顔から容易ならぬことが起きたに違いないと直感して、息を飲んで次の言葉を待った。
ミッドウェー沖で大海戦だ。しかも思いがけないことばかりだ。これを見ろ!』といって差し出した電報綴に軍機の朱書が目についた。しかもその内容は、
赤城沈没。加賀大破炎上。蒼龍大破。飛龍被弾。』
 と思いがけない悲報である。断片的な戦況報告から全体の様子を判断することは不可能であるが、ミッドウェーへ向かったわが空母部隊が全滅に瀕していることは確かだ。…我らが精鋭中の精鋭空母部隊が致命的な損害を受けたことを知って、心臓の凍る思い、目の前が真っ暗になる思いがした。

 ハワイ空襲もこの精鋭があったればこそ、印度洋作戦もまた然り、今次の東太平洋作戦も頼むはこの4隻の空母部隊であった。その精鋭が、われわれの頼みの綱がミッドウェーの海底深く消えてしまったのだ。…『誰にも言わないでくれよ』といって先任副官は出て行った。彼も余りのことに呆然となって度を失い、自分の胸一つに包み切れず、せめて私の所へ苦しみを分けに来たのであろう。誰にこんなことが話せるものか。話したりして何になろうか。ただ心配させ、士気を沮喪させるに過ぎない。つつみ切れないほどの重荷であるけれど、われわれ幹部だけの胸に秘めておこうと決心した。」(『キスカ戦記』p.46)

炎上する空母加賀
【炎上する空母・加賀】

ミッドウェー海戦で大敗をしたことが判明した時点で、アリューシャン攻略に意味があるのかと誰でも考えるところだが、この点については『キスカ戦記』にこう記されている。

「…空母全滅、機動部隊大損害の大敗を喫した状況が明白となるや、山本連合艦隊司令長官は、ミッドウェー攻撃を中止するとともに、アリューシャン攻略の延期を決意し『直ちに反転西航しつつ後命を待て』と下命したのである。」(同上書 p.36)

小林新一郎氏の手記にあるように、北方部隊はこの命令により反転して西に向かって進んだのであるが、翌日になってこの命令が覆されたという。

「明けて6日8時、中沢第五艦隊参謀長は①ミッドウェー作戦が不成功に終わった今、西部アリューシャンだけを攻略しても哨戒戦の前進には無意味であり、②有力な兵力を失った現在、アリューシャンに手を広げるのも意味がない、との判断から、連合艦隊司令長官宛
『AL作戦*は此の際中止し、捲土重来のことと致したし』と作戦の中止を具申
した。
 これに対し、連合艦隊参謀長は残存鑑定の中から有力な部隊を増援してAL作戦をしたいとの意思表示と意見を求められ、連合艦隊司令部の意向を知った第五艦隊司令長官細萱中将は、AL作戦の再興を決意し、増援部隊の来着を待たずに作戦実施を下命した。このため攻略作戦実施は当初の予定より一日遅れることになった。
 かくして北方部隊は急ぎ再び反転、目的地に急進した。

 このような事態から、当初予定したアダック島に対する攻撃破壊作戦は取り止められ、水上機動部隊はアッツ攻略指揮官の指揮を解かれてキスカ方面に進出し作戦周辺海域(ベーリング海と推定…公刊戦史)の索敵を命ぜられた」(同上書 p.36-37)
*AL作戦:アリューシャン攻略作戦のこと

中沢第五艦隊参謀長の指摘の通り、ミッドウェー海戦で大敗してしまったのなら西部アリューシャン列島を攻略してもあまり意味がないと思えるのだが、なぜそのような考えが覆されるに至ったのか。

キスカ戦記

この点について、第五艦隊参謀の久住忠男氏は『キスカ戦記』の序文でこう述べている。
「私にとってもっとも強い印象が残っているのは、ミッドウェーの悲報から、アリューシャン攻略作戦決行に至るまでの那智作戦室での運命の岐路に立った約12時間だった。大本営、連合艦隊、第五艦隊の間の意見交換は、二転三転の末、決行することに決まった。この決定を待ちあぐんでいた私は、『壮烈無比』(アリューシャン作戦第五法の隠語)の発信を力を込めて電信室に命じた。いまも、あのときの情景がありありと思いだされる。もしあのときミッドウェーのショックで全軍が退却していたとすると、戦局はどうなっていたであろうか。機をみるに敏なアメリカはもっとも距離が短く、抵抗力の少ない北方の作戦ルートをとって、もっと早く、直接日本本土に進攻し、ソ連もこれに呼応してもっと早く参戦していたかもしれない。」(同上書 p.1-2)

確かに、ミッドウェー海戦で敗れた日本軍がアリューシャン作戦を中止してしまえば、アメリカに太平洋の制空権、制海権を手中にし、日本列島の近くまで空母を近づけることがさらに容易となる。前回記事で書いたが、ミッドウェー島から東京までの距離は4100km、アッツ島から東京までは3200km、キスカ島から東京までは3500kmで、ドゥーリットル空襲で用いられたB-25爆撃機の航続距離は4300km*だ。
もし米軍に制空権、制海権を奪われてしまえば、米軍は太平洋上の空母から爆撃機を飛ばしてわが国の主要各都市に空襲を行い、いずれ上陸し進攻してくることを覚悟せねばならない。
*のちのB-29爆撃機の航続距離は6600km

そうさせないために、アリューシャン作戦を予定通り実行することが決定したのだが、キスカ島の占領に関しては、米軍とどのような戦いがあったのだろうか。
再び海軍軍医大尉・小林新一郎氏の手記を引用することとしたい。

大発

「6月7日午後9時。…『陸戦隊集合!』は令せられた。第三種軍装に鉄兜、小銃そのほかそれぞれの武装を整えた舞三特600の将兵は、まったくの暗闇の中を音もなく混雑もなく粛然として所定の上中甲板に整列した。…司令向井少佐は階段の中途に立ち止まって、荘重なさびのある声で、
『大命を奉じてキスカ島を攻略するッ!』『各隊予定の通り行動せよ!』と命令された。…大きなデリックが動き、器械がガラガラと回っては大発*を釣り上げて舷外へ下ろしていく。ガラガラと回る機械の音は闇の海上に響き渡り、蒸気を噴出する。あたりは余りにも静寂である。それを破っての騒音はあまりにもよく響き渡る。陸地はすぐそこである。この物音に敵が気付はしないかとひやひやする。…特務隊長天野大尉の乗っている一号艇を見つけて二号艇、三号艇<私の艇>と順にその背後につく。われわれの背後には主計隊の乗った四号艇がいつの間にか就いていた。四隻単縦陣を作ったまま陸地に向かう。
 闇の中に目をならして見ると、左手に岩山がある。あれが左方の突出端で、その入江がわれわれの上陸地点レナード・コープ(白糸浜と命名した)である。思ったより狭い入江である。針路を真っ直ぐにそこにとる…真正面の海岸で闇を貫いて青い信号火箭(や)がパーッと打ち上げられた。
 ああ、上陸成功!時に〈午後〉10時29分」(同上書 p.46-47)
*大発:大発動艇の略(上画像)

要するに、日本軍は米軍からは何の抵抗もなく無血で上陸したのである。キスカから約300km西にあるアッツ島も、日本軍は無血上陸を果たしたという。

では、ミッドウェー海戦の敗北とキスカ島、アッツ島の無血上陸のことを、わが国の新聞などではどう報じたのだろうか。

ミッドウェー新聞報道

上の画像は昭和17年6月11日付の朝日新聞だが、見出しは「東太平洋の敵根拠地を強襲」「ミッドウェー沖に大海戦 アリューシャン列島猛攻」とあり、この記事を読んで日本軍がミッドウェーで完敗したとは誰も思わないだろう。

ミッドウェー海戦で日本軍が大敗北を喫したのは6月6日なのだが、この戦いの報道はその5日後のことで、それまではミッドウェー海戦における日本軍の敗北が伏せられていたことを意味する。
前述したとおり、アリューシャン攻略作戦においては戦いらしい戦いは無く、6月6日にアッツ島、6月7日にキスカ島に上陸し無血占領に成功したのだが、この成功が無ければどのような新聞紙面になっていたかを想像してみよう。

もし、ミッドウェー海戦で大敗北を喫したのち、山本五十六連合艦隊司令長官や中沢第五艦隊参謀長の意見が通って北方部隊を帰国させていたとしたなら、戦わずして北方部隊が戻ったかの説明がつかなくなり、ミッドウェー海戦の大敗北を長い間隠蔽し続けることは難しかったと私は思う。

大本営が、どうしても国民にミッドウェー海戦での大敗北を隠したいのであれば、アリューシャン攻略だけでも成功させるしかなかったであろう。第五艦隊参謀の久住忠男氏は『キスカ戦記』の序文には一言も述べていないのだが、そのような観点からの判断もあったのかもしれない。

しかしながらキスカ島もアッツ島も米国領であり、自国の領土がわが国に占領されている状態をアメリカがいつまでも放置する筈がなかった。わが国が占領してわずか4日目の荷揚げ作業が続く最中に米軍機による最初の集中爆撃があり、その後何度も米機の空襲を受けることとなる。こんな極寒の孤島で空襲が続けば、食糧などの補給活動が困難となることは言うまでもないだろう

キスカ島の兵士たちは、補給が厳しいこの島で、どうやって生き延びることが出来たのか。その点については、次回以降に記すこととしたい。

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【ご参考】
戦争関連はいろいろな記事を書いてきました。マスコミなどで伝えられていない歴史に興味のある方は、ちょっと覗いてみてください。

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
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アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影
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「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか
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アメリカがGHQの中の左翼主義者の一掃をはかった事情
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スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
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キスカ上陸後、すぐに米軍の反撃が始まった~~『キスカ戦記』を読む3

前回は昭和17年(1942)6月7日に日本軍がキスカ島に無血上陸したことを書いたが、米兵がいなかったわけではなかった。上陸後2名がすぐに捕まり、残りの8名も大浜海岸に投降してきて捕虜としたが、全員戦意はなかったという。

上陸したのち、すぐに機材の陸揚げがはじまったのだが、これが大変だったようだ。
海軍大尉の柿崎誠一氏の手記によると、
揚陸海岸はたちまち物資の山となり、それを内陸に運ぼうにも湿地のため堅固な道路を開設せねばならなかった
 それこそ、陸戦隊員・設営隊員さらには捕虜まで総動員し、昼夜兼行で作業を実施したが、なかなか思う通りには進まなかった。」(『キスカ戦記』p.40)

「昼夜兼行」といっても、6月のキスカ島の昼は長い。設営隊員であった北村富造氏の手記には、
白夜のキスカ島は夜でも明るく、午前二時には起床である。それから十六、七時間というもの荷揚げ作業の連続であった。食事は一日四回。眠る時間は四時間」(同上書 p.57)
と記されている。

では、キスカ攻略部隊の兵士たちは具体的にどんな作業をしていたのだろうか。兵装隊長・海軍少尉であった菅恭彦氏の手記を紹介しよう。
現地はいわゆるツンドラ地帯で、木は一本もなく、野菜も育たず、全部内地から運ばねばならなかった
 木柱をつないで無線のアンテナを立て、長波・中波・短波のアンテナを張り、多数の無線機を設備した。
 谷あいにディーゼル発電所を造り、配電設備を架設して、指揮所・無線通信所・電波探信儀・兵舎等に電気を供給した。発電所は占領期間中、一度も爆撃の被害を受けず完全に任務を全うした。
 敵の無電をキャッチして敵の方位を測定するため無線方位探知機を山上に設備したが、この建物は金属を一切使用しない木造であった

 また、キスカ湾の入口には、敵潜水艦の侵入に対する警戒のため水中聴音機を設置した。」(同上書p.55)

軽巡洋艦 木曽
【軽巡洋艦 木曽】

しかしながら、キスカ島を占領して5日目の6月12日に、早くも米軍機による集中爆撃を受け、それ以降何度も空からの攻撃が行われて、基地を整備する作業は中断されてなかなか進まない。しかも、難を避けるために軽巡洋艦の木曽をはじめとする水上艦隊は18日にキスカを去って北千島に戻ってしまい、キスカ島にはわずか数隻の輸送船と陸上部隊だけが残されたという。
そして6月19日には油槽船日産丸が爆撃されるに及んで、20日には大型輸送船白山丸、球磨川丸2隻についても揚陸作戦を中止して内地に引き揚げることとなり、食糧は陸揚げしたものの、この離島で守備に当たる防備部隊には不可欠の資材を積み残したまま帰投してしまった。キスカ湾に残されたのは爆撃で焼けた日産丸と、三隻の駆潜艇のみとなったという。

海軍は兵士を避難させる事よりも船を避難させることを優先させたわけだが、このことは兵士たちにとっては、さぞ不愉快でありまた心細かったことだろう。海軍主計大尉の小林亨氏の手記には、表現は抑えられているが素直な思いが書かれている。

戦いで守ること〈防御〉、防御力のない地上部隊の対空専守防衛ほど人的心理を害するものは無い。戦いは、まさに死を知らずして猛烈に勇奮することに〈こそ真骨頂が〉あると思われる
 21日。曇天時々晴。荷揚げ作業が〈したくても〉無いので、全員防空壕掘りに力を注ぐ
 土中生活に徹底することが目下の急務である。意思なき敵爆弾によって不可抗力的に聖天せしめられては、なんとしても死にきれぬ。」(同上書 p.76)

軽巡洋艦の木曽をはじめとする水上艦隊や2隻の輸送船が去っていった後のキスカ島には、どれだけの兵力が残されていたのだろうか。
軍医の小林新一郎氏の手記にはこう記さている。

兵力としてはわが舞三特が600の1コ大隊で、これが陸上兵力として計算に加えることのできる唯一のものであった。
 東港空支隊の基地員も約200はいた、が飛行機のない航空隊くらい意味のないものはないし、地上火器を持たない素手の基地員は陸上兵力としては加算できない。そのほかに、舞三特付属として基地設営のための工員が約300名いたが、これとても全くの丸腰で兵力としての数に入れることはできない
 有する兵器はどうか。
 まず飛行機であるが、神川丸〈特設水上機母艦、キスカ攻略部隊協力の水上機部隊に編入され、16日キスカに入港した〉の観測機4機――内1機は不時着して修理中を更に爆撃され大破――であるが、これがボーイング等の大型機に対しては全く無力である
次に大切な対空火器であるが、これも誠に心細いもので、舞三特米岡高射隊の有する四門の中、何とか射撃できるようになっているのが僅かに二門である。…
 高杉山の十三粍(ミリ)機銃四門が景気よく火を吹いて頼もしげであった。ところがこれが〈後日〉撃墜された大型機の装甲板に対して300米(メートル)の距離で射撃してみて、これを貫通し得なかったのにまったく驚いた。
 こうした心細い状態で、しかも敵中に深く突出して孤立無援の状態に取り残されたのが当時のキスカ島部隊であった。
 頼みとする友軍は遠く後退し、自らの実力は言うに足りず、後援続かざる絶海の孤島に、待つあるを恃(たの)む能わずして、ただ 来たらざるのみを恃まざるを得ない状態になってしまった
。」(同上書 p.73-74)

水上戦闘機
【水上戦闘機】

しかしながら、しばらくしてキスカ島に増援部隊が送られることとなり、7月5日に水上機母艦千代田と輸送船アルゼンチナ丸が濃霧の中を入港した。千代田には水上戦闘機が6機搭載され、アルゼンチナ丸には、ミッドウェーに上陸予定であった800名の将兵が新鋭の高角砲や重砲を携えていたという。ところが、そのあとに続く駆逐艦3隻が、入港を目前にして米潜水艦の砲撃を受けて1隻は沈没し、2隻は現地では修理不能のために濃霧の中を北千島に戻されたという。
その後も、毎月のように輸送船・潜水艦など数隻が米軍の攻撃を受けて沈没させられたり破壊されたりしている。

水上機母艦 千代田
【水上機母艦 千代田】

『キスカ戦記』の第7章に孫子の兵法書地形篇の一節が紹介されている。

「『地形には…挂(かい)なるものあり…挂なる形には、敵に備えなければ出でてこれに勝ち、敵もし備えあれば出でて勝たず、以て返り難くして、不利なり』と、また
『遠なる形には、勢い均しければ以て戦いを挑み難く、戦わば而ち不利なり』と。
 つまり、挂(かい)というのは、敵が無防備ならば遠征して勝利を得られるが、敵が防備を固めている場合の遠征はまず勝ち目がない。特に、敵に主導権がある場合は撤退困難で不利である。また本国から遠く離れている戦場には、彼らの戦力が同等ならば決して戦いを挑んではならない。遠隔であることの不利が、われに苦戦を強いるからである。
 アリューシャンの戦場はまさに挂(かい)なる形であり、遠なる形であった。無血占領は容易であったが、反攻の度合いが増大するに比例して撤退は困難となり、本国を遠く離れ、有勢なる敵と対戦するの不利は顕著となり、味方航空、艦艇戦力の衰えるにしたがって戦場は益々遠くなり、苦戦敗色の濃くなるのを如何ともすることができなくなっていった
。」(同上書 p.154)

孫子の兵法では、わが国の本土から遠く離れた絶海の孤島を占領することは、戦いを敗北に陥れる要素として戒めているのだが、大本営は、船の損害が多数出ているにもかかわらず、占領した2島を長期確保してわが国の北辺の防衛体制を強化するために、キスカ・アッツの2島に飛行場を建設する方針を決定し、地上防備兵力特に防空部隊の増強をはかりだしたという。

『キスカ戦記』に海軍水兵長の中村秀雄氏がキスカ島の飛行場建設のことを書いている。
昭和18年2月頃から飛行場建設が始まり、設営隊だけでなく、われわれも作業に出かけ、元気まかせに突貫工事に精を出した。今思えば時代遅れの工法で、いわゆるツルハシとスコップにモッコ、辛うじてトロッコで土砂運搬だから作業は遅々として進捗しない。」(同上書 p.142)

先日に私が友人と話を伺った中村さんは、昭和18年2月に対空防空部隊としてキスカ島に派遣され、武器弾薬の運搬と防空隊本部の防空壕掘りと弾庫掘りの作業などを行ったという。この季節のキスカ島は、日照時間はわずかしかなく、寒さが特に厳しかったという。

中村さんと同じ時期にキスカ島に入った、海軍一等水兵の芝田耕氏はこう書いている。

「上陸第一日目は機銃弾の運送作業で、吐く息が防寒帽の前の部分の毛の所一面に凍結して氷柱(つらら)が下ってくる。午後3時頃になると、あたりが暗くなり早くも夕方になる。朝、明るくなるのが9時過ぎで昼間が非常に短いので、作業時間が少ないために陣地構築は捗らず、居住のための幕舎の設営も出来ないので、キスカ湾大浜海岸の水上飛行機の木造格納庫で夜を明かすことになった。コンクリートの床の上に毛布を敷き、全員に配給された焼酎を飲み身体が温まった勢いで寝た。朝、目覚めると、格納庫の隙間から入った雪が、寝ている毛布の上に白くなって積もっている。」(同上書p.97)

その翌日はすごい吹雪で、格納庫がミシミシと音を出して揺れ出したので、風呂場に退避したのだが、朝起きて格納庫を見てみると、強風で屋根が吹き飛ばされて完全に倒壊していたことが芝田氏の手記に書かれているが、このことは中村さんも話しておられた。

このような作業をしている時に米軍機に襲われて被害が出たことも何度かあったようだが、中村さんの話ではキスカ島は雲や霧に覆われて視界が悪いことが多く、米軍機からも攻撃目標を確認できないまま適当に爆弾を落としていくようなことが多かったという。
今の爆撃機なら悪天候の中でも目的物を狙って破壊することが可能なのだろうが、当時の爆撃機は操縦士の視力に頼らざるを得なかったようで、「天気の悪い日には空襲は少なく、視界の良い日には空襲があると警戒した」のだそうだ。また、飛行機から爆弾が投下された時には、「(飛行機の飛ぶ方向で)自分のいる場所が安全かどうかある程度わかる」とのことで、危ないと判断した際には防空壕に入って敵機が去るのを待ったという。

キスカ島空襲回数
【キスカ島に対する敵空襲一覧表(一部)】B:爆撃機、P:戦闘機、Y:飛行艇 xは不明を示す

『キスカ戦記』の巻末に水上機母艦君川丸飛行長、古川明氏の提供資料により作成された「キスカ島に対する敵空襲一覧表」があり、キスカ島上空に現われた爆撃機、戦闘機の来襲機数と来襲回数が日別に出ている。この記録を見ていると、昭和18年3月以降にアメリカの爆撃機、戦闘機による空襲が激増していることがわかる。

キスカ島でツルハシやモッコを使って飛行場を造るのに手間取っている間に、米軍は隣のアムチトカ島に飛行場を完成させたことがその理由である。

B-25爆撃機
【米軍B-25爆撃機】

飛行場づくりに携わった海軍水兵長の中村秀雄氏はこう記している。
「…すぐ近くのアムチトカ島に米軍もまた飛行場を造っているとのことで…、悲しいかな、物量と機械力に物を言わせた敵は、あっという間に飛行場を造り上げ、われわれより一足先に一度に十機以上の戦闘機で襲ってくるようになった。長い間のわれわれの念願も全く無駄に終わってしまった
 …
 さて空襲はますます熾烈となり、時には眼前で艦砲射撃もしてくる。今思えば恐ろしいことだが、当時は全く捨身の心境であった。
 米軍機はB25、B24、B17爆撃機、戦闘機はカーチスP40、ロッキードP38などは、特にP38は奇襲で機銃掃射、小型爆弾攻撃を散々やった奴だ。
しかし、なんといっても艦砲射撃が一番気味悪かった。どこを狙っているのか、着弾しないと分からないのだから。次に恐ろしいのが時限爆弾だった。1トン爆弾級になると、一発で直径十メートル、深さ五メートルくらいの穴を作る代物だった。触発信管付の人馬殺傷用の小型爆弾も厄介者で、深さは僅か10センチメートルぐらいだが、破片が地表面十数メートルに四散する。」(同上書 p.142-143)

アリューシャン列島

日本軍より先に米軍がアムチトカ島に飛行場が完成させたことは重要である。アムチトカ島からキスカ島は110km、アッツ島へは440km程度と近く、3月からの米機の空襲は猛烈さを増すばかりであった。海軍主計大尉の小林亨氏の3月10日の日記には「敵戦爆28機来襲、飛行場にほとんど全弾命中せしめられ、戦死2、重軽症あわして約17、8名を出せり」(同上書 p.193)とある。

制空権、制海権を失えば、アッツ島やキスカ島に食糧や武器弾薬等を送り込むことがますます困難となることは誰でもわかる。

アッツ島沖海戦
【アッツ沖海戦】

3月27日には輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇し、アッツ島沖海戦が起こる。この本海戦に日本軍は敗れて、以後アッツ島は食糧不足が深刻化することとなる。
小林亨氏の日記を読み進んでいくと、4月14日にキスカ島からアッツ島へ潜水艦で食糧を送る指令が出たことが記されている。文中の「熱田島」はアッツ島であり、「鳴神島」はキスカ島のことを意味している。

「熱田島は糧食の不足に相当の逼迫を来たし、五艦司令部より鳴神島から潜水艦により〈熱田へ〉輸送するようにとのこと」(同上書 p.194)

キスカ島への補給も何度も米軍に襲われていたので、アッツ島に食糧を回すほどの余裕があったとはとても思えないのだが、アッツ島の食糧不足はそこまで深刻な状況になっていたということだろう。

そしてこのアッツ島海戦以降、日本軍は輸送船が米軍の北太平洋艦隊に攻撃を受けることを警戒し、霧の発生する季節までは、物資の輸送を潜水艦に託すことになったという。

『キスカ戦記』にはこう解説されている。文中の「集団輸送」というのは輸送船団を艦艇で護衛しながら物資を輸送することである。

「…細々とした潜水艦輸送に頼るほか無くなったわが輸送作戦は、ここに至って末期的様相を呈してきた。
霧の時期は6、7月せいぜい9月までである。だから、潜水艦輸送に転換してからは、補給のための集団輸送は遂に行われず、皮肉なことに霧を利用しての集団輸送が発動されたのは、キスカ撤収作戦においてであった。
 アリューシャンの要地占領から、撤収までの13ヶ月の間に失われた艦艇8隻、中・大破した艦艇10隻、沈没、擱座した輸送船9隻、人員の犠牲2000人以上に及び、海没した物量は数万トンに達したのである。
 正に血みどろの輸送作戦であった
。」(同上書 p.156-157)

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【ご参考】
第二次世界大戦についてこのブログでいろいろな記事を書いてきました。良かったら、ちょっと覗いてみてください。

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-449.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-446.html


補給に苦しみながら敵の上陸を許さなかったキスカ島の兵士たち…『キスカ戦記』を読む4

キスカ島の防衛のためには、航空戦力が不可欠であることぐらいはわかっていたはずなのだが、わが国には航空部隊や航空機を北方に差し向ける余裕はなかった。米国はアムチトカ島に航空基地を完成させると、それ以降米軍機によるキスカ島への空襲が激しさを増すことになる。

キスカの霧

『キスカ戦記』にはこう解説されている。
「キスカ在舶艦船を主な攻撃目標にしていた米航空機は、在舶艦船がいなくなり、わが航空兵力が逼塞すると見るや、対空部隊を主とする地上への攻撃とその鉾先を転じた。東西二十粁*、南北五粁、百平方粁の陸上にへばりついているわが六千足らずの守備隊に対し、延べ四千機にのぼる攻撃を加え、全占領期間四百二十日のうち百八十四日、五百四十回以上も執拗かつ猛烈な爆撃、銃撃を行なったのである。暴風雨、濃霧、吹雪以外の日はすべて敵機の洗礼を受けたといっても過言ではない
 わが、陸海防空部隊の奮闘、死闘は正にキスカ保持の源泉であり、花形であった。補給の断絶にあえぎ、弾薬の不足に悩まされながら、よくこれを克服した陸海高射部隊の協調と功績は、キスカ無血撤収の成果と共に永く青史を飾るものである。」(『キスカ戦記』p.225)
*粁:km

25mm機銃と兵士
【25ミリ機銃と兵士と犬と】

艦船も航空機もなく陸上施設も地下壕にもぐるようになって、米軍機の攻撃目標はもっぱら対空陣地となっていた。これだけの空襲を受けながらも、弾薬の補給の乏しい中で陸海高射部隊は良く持ちこたえたのである。では彼らはどのようにして、航空機と戦ったのか。

砲術長兼高射砲台長であった海軍大尉の柿崎誠一氏の文章がわかりやすい。
「…後期、敵の攻撃目標は専ら対空陣地に集中、しばしば正に一騎討ちの真剣勝負とも言うべき様相となった。
 水平爆撃には『間合い』が大切で、敵機が爆弾を投下する直前に射弾を炸裂させることが最も効果的で、たとえ直撃〈命中〉しなくても、敵機は人間の操縦するもの、さっと右か左に急変針するので爆弾は命中しない。早目に射撃すると立ち直りの機会を与え、爆弾投下後では意味がない。…
 経験を重ねるに従って間合いの取り方も冷静に判断することができるようになり、直進して来る爆撃機も余裕を持って勝負を挑むことができるようになった。
 霧にもめげず毎日の空襲で、勢い弾薬の消耗も甚しく…〈弾薬の不足〉は急を告げた。輸送に当たっての軍需品の大部は高射砲弾薬であり、次いで食糧品であったと思う。苦心して輸送揚陸した弾薬だから、無駄にはできないという気持ちで一杯であった。とりわけ、薬莢(やっきょう)の片隅に、国防あるいは愛国婦人会のひとたちが製作した印のついているのが多数目につくようになり、全隊員の心を引き締めた
 砲台周辺の地上弾薬庫は案の定、敵超低空爆撃の目標となったが、既に地下弾薬庫に移送ずみで事なきを得たのである。
 補給の不足は続き、射弾節約の指示を出さざるを得なくなった。こうして撤収時の最後まで射ち続けたが、〈撤収時の〉残弾はあと三~四日の戦闘分だけしか無かった。…
 公刊戦史によれば、キスカ撤収第一期作戦期間(昭和18年5月27日~6月21日)潜水艦によって輸送、揚陸された兵器弾薬のみでも125トンにのぼったと記録されている
。」(同上書 p.229-230)

松ヶ崎高角砲台長で海軍大尉であった三輪勇之進氏の文章を紹介しよう。
「(3月31日)…ほとんど毎日対空戦闘が続いた、そして今日こそは死んだ部下の恨みを晴らすことが出来た。一番砲の部下を失ってから残った砲台員は何か鬼神でも乗り移ったかのようだった。私は無数に孔のあいた砲を見ると無量の感慨に打たれずにはおられない。どの砲も爆弾の破片が、機銃弾のあとがある。ここにあがって来てから1年近くになる。一番砲の部下を思う自分の気持ちは言い尽くせぬものがあるが、砲台を襲った爆弾と機銃弾の数に比べるとわれわれの損害は不思議なほど少ない。天佑神助という外ない。そして攻撃精神のあるところ、天は決して見捨てないのだ。」(同上書 p.237)
そしてこの日、B24機が5機来襲し、その内の1機を撃墜し、敵の搭乗員の死体を土に葬り、木の十字架をたてて「アメリカ飛行士の墓、昭和18年3月31日戦死」という墓標をたてたことが記されている。

このようにして高射砲部隊は最後までよく戦い、米軍の上陸を許さなかった。米軍が、キスカ島からアッツ島へ攻略の重点を変えたのは、キスカ島の高射部隊にすさまじい敢闘精神があったからなのだと思う。

故郷の便り
【待ち焦がれた故郷の便り】

次に食糧の補給についてはどうであったのか。

キスカ島で海軍部隊全体の補給の任務にあたった海軍主計兵曹長の山田正治氏の手記によると、
止むなく本来の補給任務から一転、消費規制の手段を強めていかねばならなかった。一方、命によって島内の可食物の調査を行い、野草、海草の採取から、漁労班の編成による水産物の確保などに当たることになった。とはいっても、南方や中国大陸と違い、とれるものは種類、数量ともに絶対量は賄いきれぬから食い延ばし策を講ずるほかなかった。
まず主食三食のうち、一食をオジヤ(雑炊)とすることを提案した。相当の反対を予想していたにもかかわらず、各隊とも諒承してくれ、十月頃から実施することになった。…
陸軍の補給担当の田中主計少尉とも、お互いに肚を割って相談し合い、かれこれ融通しあった。陸海軍は犬と猿などと口さがない人たちは言う。そうでなくとも補給のメドが立たず、現有物資以外入手の途を閉ざされ、生命の維持の極限に置かれては、骨肉相食む状況だって起きないとはいえぬ。だがキスカに於いてはその気配はみじんもなく、とにかく、陸海両軍の保有物資を最高度に活用し、反撃の機を得るか、あるいは最後の一兵となるまでこの島を守り通す、すなわち島を枕に討ち死にするまでの籠城作戦となるかの方針は、陸海ピッタリと意気の合ったもので、これあればこそ奇跡の完全撤退が成功した所以でもあったと今にしてしみじみと陸海軍の意気投合、融和一体の成果を喜んでいる次第である。」(同上書 p.261-262)

山田正治氏によると、6月に種を植えて小松菜と馬鈴薯を育てようとしたが、この島では小松菜はトウが立って食い物にはならず、馬鈴薯は指の頭のようなものが多数できただけで、種芋と同程度しか採取できなかったそうだ。ただ芹(セリ)に近い野生の植物は、食用に使えることがわかり、野草の群生地を探しては採集して帰ったそうだが、時折やって来る敵機の襲撃に何度も身を隠しながら、植物を採集することは決して容易なことではなかっただろう。

キスカ島 大漁に沸く
【キスカ島 大漁に沸く】

一方海産物は、季節によってある程度収穫できたようだ。海軍兵曹長の森勇氏はこう記している。
キスカ港は、水温は低いけれど不凍港で、コンブも密生し、舟も走れないほどの所もあります。ウニ、イクラ、タラ、アイナメ、タコ、オヒョウ、アンコウ、黒鯛など実に多くおり、釣るのは至って簡単、針に赤いボロ切れをつけただけで、すぐ釣れるのです。
黒鯛釣りは難しい方で、向島と松が崎の中間の岩場で深さ二十米(メートル)位のところでないと釣れない。中には三瓩(キログラム)以上もある大物も釣れ、刺身にすると一番おいしかったがサビが無いものだから唐辛子をつけて食べたりした。」(同上書 p.267)
ところが、9月になるといっぺんに冬がやって来て、風速30m以上になるという。

キスカ富士と霧
【キスカ富士と霧】

また、森勇氏はキスカ島の霧のことをこのように書いている。
キスカは…、全くの霧の島で、濃霧(ガス)がかかると十米(メートル)先はもう見えない。良く晴れて、キスカ富士(1300m)の頭が見えるのは年に7日もあれば良い方で、島一帯はほとんど年中霧に被われ、たとい晴れ間が出ても何分か経つと激変してガスがかかってくる。時には、文字通り一寸先も見えなくなり、昼か夜かもわからなくなる始末でした。」(同上書 p.267)
そして、このキスカ島の濃霧が、後に多くの兵士たちの命を救うことになるのである。

さて、前回の記事で3月27日に起きたアッツ沖海戦のことを書いた。輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇して日本軍が敗れて輸送が中止されたのだが、そのためにアッツ島の武器弾薬不足・食糧不足が深刻となっていった。

キンケイド提督
【キンケイド提督】

米軍のアリューシャン戦線の最高指揮官キンケイド提督は当初はまずキスカ島攻略の計画を立てていたのだそうだが、方針が変更されたのだという。
『キスカ戦史』の解説にはこう書かれている。
「キスカ攻略の為にキンケイドが中央に用意した兵力、艦艇、資材は到底補給する余裕がないとの理由で中央から否決され、キンケイドはキスカ攻略を渋々断念せざるを得なかった。かくて、後日、中部太平洋から反撃を展開するに当たって採り入れられた飛び石作戦の発想がキンケイドの頭に浮かんだ。キスカを無力化するには、兵力僅少、防備不全なアッツを攻略すればよい。アッツは日本本土に近いのだ。だが、一個連隊も持って行けば2日、3日でアッツは攻略できる。そう踏んだキンケイドは大事をとり圧倒的兵力で一挙にアッツ奪回作戦、秘密作戦名ランド・クラブ(陸蟹[おかがに])を決行した。」(同上書 p.280)

アッツ島上陸
【米軍のアッツ島上陸】

米軍は5月12日に陸軍第7師団1万1千名を上陸させたのだが、日本軍はこの時点で米軍のアッツ島上陸を想定していなかったようである。
Wikipediaによると、軍司令部第一課長山本親雄大佐は、「敵が五月アッツ島に上陸するとは考えていなかった。来てもまずキスカ島であろうと考えていた」と回想しているのだそうだ(『戦史叢書21』p.268)。当時キスカ島には約6000名の守備隊がいたが、アッツ島の守備隊は2650人とキスカ島の半分以下で、米軍の上陸兵の4分の1に過ぎなかった

アッツ島の守備隊は必死の抵抗を続けたのだが、5月30日に司令官山崎保代陸軍大佐以下残存兵300名が玉砕し、アッツ島は米軍の手に落ちた。そしてその情報は、キスカ島の兵士達にも入ってきた。

水兵長の河西要氏の手記には、アッツ米軍上陸から陥落までのニュースを知った時の心境が綴られている。多くの兵士たちは死を覚悟したのである。
「12日の昼飯時である。アッツ島に敵大部隊上陸を始めたとの入電。すわとばかり、皆随身兵器を身につけた。話では、百余隻の大船団をもって上陸中であるという。そんな大船団で来ているのなら、その一部が今、明日中にもこのキスカに押し寄せてくるに違いないと皆ひかに覚悟したのであった。
 空襲のない昼休みは、誰も5分でも6分でも昼寝をするのが常であったが、この日は誰いうとなく、手箱を整理したり、身の周りを整理したりしていた。私も千人針の中に母の写真とお守りを入れ、鉄カブトの下にしめる白木綿の鉢巻に日の丸を書き、再び逢うこともないであろう初恋のひとが送ってくれた白梅の押し花と歌を縫いこみ、いつ戦死しても恥ずかしくないよう下着も着替えて死出の支度を整えた
 だが3日たち4日過ぎても敵はキスカにやってくる様子はなかった。アッツの苦戦の状況を聞くたびに腹わたを抉られるように辛かった。どうか、あと5日頑張ってくれ、必ずやわが艦隊が救援に行き、敵艦艇を撃滅してくれるだろう。私たちはそう祈り、そう願った。しかし、それはむなしい祈りであり願いにすぎなかった。
 5月29日、アッツ玉砕を知り皆泣いた。同じくこの孤島を守る私らであり、同じ司令官の下に命をかけている兄弟部隊の玉砕だもの、この雄々しくも悲しい最期を聞いてなんで泣かれずにおられよう。私は霧雨の降りしきる原に出て黒百合の花を摘み、二十五粍(ミリ)機銃の打ちがら薬莢に挿し、手製の神棚に飾りアッツの英霊のみたま安かれと、涙ながらに祈りを捧げた。」(同上書 p.282)

アッツ玉砕新聞記事

5月30日に大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて「玉砕」の表現を使って、新聞もそれを報道した。国民に守備隊の全滅を知らされたのは、アッツ島の戦いが最初なのだそうだ。
大本営は「山崎大佐は常に勇猛沈着、難局に対処して1梯1団の増援を望まず」と報道したのだがこれは真実ではなく、実際には山崎大佐は5月16日に補給と増援の要請を行っていたのである。しかし若松只一第三部長から船を潰すから成り立たぬという意見があり、さらに海軍も尻込みしたために大本営は18日にアッツ島放棄を決定してしまったのである。確かに、16日に増援部隊を北千島から送り込んだとしても、アッツ島まで1200kmもの距離の移動に5日近くはかかるだろうし、戦いの大勢が決したあとでは多大な犠牲が避けられず、燃料も逼迫しておりその後の補給も難しいので、冷静に考えればアッツ島に増援することは厳しいと判断せざるを得ない。しかしながら、山崎大佐の要請を見送ることは、アッツ島守備隊の兵士たちを見殺しにすることを意味する。

樋口季一朗

大本営のその通告を受けた北方軍司令官の樋口季一郎中将は、アッツ島増援中止を認める代わりに条件を付けたという。Wikipediaに樋口季一郎の回想が引用されている。

「“参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く『北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい』と。
私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった
。” ――『戦史叢書21 北東方面陸軍作戦(1)アッツの玉砕』 p.412」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

樋口季一郎は、アッツ島に援軍を出さないことを了解するかわりに、キスカ島を守っている6000名の兵士たちを何としてでも無事に撤収させたいと考え、その実現のために、海軍は無条件で協力するという条件を取り付けたのだが、アッツ島が陥落したために、キスカ島は制海権も制空権を完全に米軍に掌握された戦域で孤立無援の状態となっており、わが国の船が島に近づくことすら容易なことではなくなっていたのだ。

5月20日にキスカ島の放棄が決定し、キスカ島の守備隊を撤退させることが正式に決まったものの、米軍に包囲された島に残された6千人近い兵士たちの撤退がなぜ成功したかについては、次回以降に記すことと致したい。

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【ご参考】
今回の記事で、北方軍司令官の樋口にアッツ島への増援中止を通告した大本営参謀次長の秦彦三郎は終戦時には関東軍の参謀長であったが、ソ連が対日参戦した直後に非常におかしな動きをしている。当時の軍部には秦彦三郎以外にも、ソ連の工作にかかっていたかソ連びいきの幹部が多数いたことを知るべきである。

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
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共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html


潜水艦によるキスカ島守備隊撤収が途中で中止された理由…『キスカ戦記』を読む5

前回の記事で書いた通り5月20日にキスカ守備隊の撤退が決定し、翌日に陸海軍中央協定で、キスカ島の撤収につき次のように定められたという。

鳴神(キスカ)島守備隊は成るべく速やかに主として潜水艦に依り逐次撤収に努む。尚海霧の状況、敵情等を見極めたる上状況により輸送船、駆逐艦を併用することあり。」
そしてこの撤収作戦は「ケ号」作戦と名付けられたという。

幌筵島

キスカ戦記』の解説にはこう記されている。文中の幌筵(ほろむしろ)とは、千島列島の最北端の占守島の南にある島の名で、占守島と幌筵島の間の海峡を幌筵海峡と呼ぶ。片岡湾はその海峡の占守島側にある。

幌筵海峡・片岡湾

「…連合艦隊司令長官は、アッツ玉砕の日、5月29日ケ号作戦の発動を令すると共に、第十九潜水隊と伊一五五潜を北方部隊に追加した。かくて北方部隊の残存及び増加潜水艦十三隻がケ号作戦の任を負ってこの困難な作戦に従事することとなった。
 …
 元海軍少佐、坂本金美氏の著書『日本潜水艦戦史』によると『5月30日、北方部隊指揮官はケ号作戦実施要領を発令した…
一、 潜水艦は幌筵片岡湾とキスカ島間を往復し人員輸送に任ず。…特令なければ陸海軍指揮官は左の人員を予定の乗艦地に待機せしむるものとす
 旗艦型(伊9、伊7) 100名
 伊 35型      80名
 伊169型      60名
 伊 2型       40名
(陸海軍半数)
二、 キスカ島における乗艦は夜間迅速に行う。敵出現の場合は砲撃、煙幕展張等により、敵の妨害を排除するほか、潜水艦は作業を中止して極力攻撃に努むるものとす。…』」(『キスカ戦記』p.303-304)

伊号第9潜水艦
【伊号第9潜水艦】

Wikipediaには潜水艦の艦艇類別のデータが詳しく紹介されている。例えば伊号第9潜水艦は全長113.7mで、幅は9.55m、竣工時定員は100名とかなり大型である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8F%B7%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6

これらの13隻の潜水艦を何度も往復させて6000人のキスカ島守備隊を撤収させようという作戦なのだが、アッツ島陥落以降は再び米軍によるキスカ島空襲の激しさが増している。

五警主計長の小林亨氏の日記にはこう記されている。文中の熱田はアッツ、鳴神はキスカのことである。

「5月31日半晴。熱田島の戦況は緊急輸送隊の失敗により我に利あらざる状況成り。『陸軍と協同、ケ号作戦を実施すべし』との連合艦隊命令は、何を意味するかは知らざれども、鳴神島の運命も近くほぼ熱田と同じこととならん。鳴神島と運命を共にせんと覚悟して来るものなれば全力を尽くさんものと思う。
6月1日快晴。…熱田島の攻撃一段落と鳴神近の飛行場完成のためか、敵機の空爆は〈再開され〉その激しさを増してきた。…熱田の先例にか、鳴神の将士の意気は消沈せり。
6月2日快晴。明け方から敵機の乱舞にまかしている。本日の損害は、南高地の七粍機銃一破壊死傷十数名をだした
6月4日霧天にして雲高50米(m)足らず。…伊2潜予定通り入港。糧食、酒保物品、郵便物等若干を揚陸。紘の百日目の写真を送り来る。…帰還を予定せず、手紙類すべて焼却す〈この日伊2潜は人員42、遺骨13、その他を収容していった〉。
6月16日いつもながらの晴天。海上は霧一面に立ちこめおるに陸上には夏の陽かんかんと照る。伊9潜は多分敵哨戒機にやられたらしい。伊24潜はアッツ島付近にてやられたことならん。伊156潜は日中入港。郵便物揚陸せり。

6月22日霧天…、昨夕伊7潜は七夕湾沖にて敵哨戒艇と交戦、司令、艦長、航海長、先任主計長等戦死。…かくの如く本島に対する輸送根絶の現状況においては食い延ばしをやるほかなし。」(同上書 p.305-306)

敵軍に作戦が洩れないように『ケ号作戦』の意味は一般の兵士達には知らされておらず、小林亨氏の日記には、自身が『ケ号作戦』の意味を知ったのは6月29日と、随分あとのことである。

伊7
【伊号第7潜水艦】

小林亨氏の日記に記されている伊7潜(伊号第7潜水艦)が、のちにキスカ島守備隊の運命を変える作戦変更に繋がったので、少しこの潜水艦の動きを追っておこう。

伊7潜は5月27日にキスカ湾に入港し、銃弾や糧食を揚陸した後、航空隊員を中心に60名と遺骨28柱を収容して6月1日に幌筵に帰投した。
そして6月4日に幌筵を出発し、9日にキスカ湾に入港。銃弾や糧食を揚陸した後、収容能力一杯の101名を載せて13日に幌筵に帰投している。
そして6月15日に幌筵を出発し、20日にキスカ島七夕湾に入港する予定であったのだが、濃霧のためその日は入港が出来ず、翌日も霧はかかっていたものの入港に差支えないと判断し、浮上して七夕湾に向って航行して湾に入る直前に、霧で見えざる敵艦から猛砲撃を受け、司令塔に命中して艦長以下7名が即死してしまった。
伊7潜は敵の砲音、瞬時ひらめく閃光をたよりに砲戦をもって10分余反撃したことにより、敵艦は去ったものの司令塔の8割が粉砕されてしまった
という。
キスカ島でできる限りの修理を受け、潜航は出来ないが水上航行は出来る程度まで回復したので、艦長亡きあとの艦長職務を執行していた関口大尉は、この半身不随の艦を操って敵封鎖陣を突破し、横須賀に回航することを決意したという。

キスカ島地図

キスカ戦記』の陸軍大尉佐賀廉太郎氏の手記にこの潜水艦のことが書かれているので引用する。

「22日夜、20:00、決然として(伊7潜)は七夕湾を出港して行った。
 ああ、だが何たる悲運、出航後間もない21:15またもや敵哨戒艦と遭遇、満身創痍の身になお3度にわたる攻撃を受けながらも果敢に応戦しつつ七夕湾に反転帰投を図った。初回砲撃によって艦橋、司令塔に数弾を受け死傷続出するなか、最大戦速をもって航走、2千米(メートル)に接近してきた敵の第二次砲撃にもかかわらず、敵に多数の命中弾を与えながら、自らも各部に連続被弾、火炎、浸水、艦体傾斜の死相を呈した。
 敵は執拗にも後方4千米より砲撃を開始しつつ至近距離に迫り砲弾を集中した。
 交戦半刻、敵は去ったが、艦は最悪の事態となった。この時まで先任将校関口大尉、機関長、航海士松田少尉以下80名が戦死
。…」(同上書 p.314)
生存者は43名で、五警水警隊により救出され、伊7潜は復旧の望みはなく、味方の手によって爆破沈没させられたという。

キスカ島の兵士たちは潜水艦が何度もキスカ島に到着しては、傷病兵らを収容して帰投していったことは知っていたが、これをキスカ島守備隊の撤退作戦の一部と理解されずに、足手纏いとなるメンバーを潜水艦で優先的に帰還させ、精鋭だけを残そうとしているととらえ、玉砕準備の一環であると考えた兵士が多かったようだ。確かに逐次撤退の場合は、最後に精鋭部隊を残すしかないので、そう捉えられても仕方がないだろう。

海軍軍医大尉の小林新一郎氏は、この作戦は全員が撤収するために行われている作戦の一部ではないかと考えながらも、複雑な胸の内をこう書き記している。

「…しかし、撤収作戦の一部と玉砕準備の人員整理とどう違うのか。作戦が順調に続けられて全員を撤収し終えて初めて撤収作戦と言える。途中でそれが不可能となり、あるいは中止し、あるいは完了する前に敵の上陸を見るならば、それはやはり玉砕前の人員整理にすぎない。どう考えようと結果は同じではないか。何故ならば、潜水艦によって総員6千名の撤収を完了するということは、それに要する日数からいっても、敵の作戦のテンポから考えても到底できない相談であったからである
…現在敵と交戦中の部隊が敵の目をくらまして、全員一斉に引き上げるというのは不可能である…撤退を援護する殿(しんがり)部隊がどうしても必要であることは戦術の常識である。少なくとも五~六〇〇名位の部隊が残らなくてはなるまい。…殿部隊はキスカの土となる運命を覚悟しなければならないであろう…
キスカ島に最初に足を入れたわれわれ舞三特は、キスカ戦の最後を飾って花と散る運命を担わなくてはならぬと心の奥深く観念
して、私と最後まで運命を共にする最小限度の医務隊員の人選をあれこれ考えていた。」(同上書 p.308~309)
と、小林新一郎氏はキスカ島に最後まで残って米軍と戦う運命を覚悟していたのである。

潜水艦による撤収が試みられた作戦を第一期撤収作戦と呼ぶが、この作戦を総括すると、往路で弾薬125トン、糧食100トンの守備隊への輸送に成功し、復路で主に傷病兵や航空隊員、設営隊員等約800名を撤収したのであるが、貴重な潜水艦3隻(伊9、伊24、伊7)を失ってしまったのである。
小林新一郎氏の記している通り、潜水艦による逐次撤退は効率が悪くて日数がかかりすぎる。こんなペースでは、米軍の上陸前にキスカ島に多くの兵士を残して、アッツ島と同様の事態となりかねない。

キスカ島から幌筵島へ参謀が派遣されて一挙撤収の要望が伝えられたが、当初は大本営や第5艦隊司令部は水上艦艇による撤収は、もし敵と遭遇すれば大被害が避けられないことから消極的であったという。しかし、相次いで潜水艦を失った事から作戦が変更されることとなり、新しい作戦部長に中沢佑(たすく)中将が就任した。

中沢佑
【中沢佑中将】

キスカ戦記』の解説を引用する。
「ここで目を転じて、当時の軍司令部第一部長の中沢中将の回想を、中沢佑刊行会編『海軍中将中沢佑』に見ると、
『大本営は私が作戦部長に就任前キスカ守備隊を撤退することに方針を決め、連合艦隊は5月29日、潜水艦を以て漸次守備兵力を北千島に転進することを発令した。〈中沢中将の作戦部長就任は6月15日
しかしその作戦においては、我が兵力の損失(潜水艦3隻を失う)多きにも拘らず撤収兵力僅か830名にすぎなかった。
そこで私は、第5艦隊参謀長として年余にわたり、北東方面海域に作戦した体験に基づき、この際天象(霧)を利用して断固水上艦隊を以て一挙に撤収を策すべきことを主張し、部下に命じて連合艦隊司令部と連絡し、第5艦隊兵力を以て敢行することとなった』と記されている。
一方、公刊戦史によれば、中沢中将が作戦部長に就任した頃は、既に連合艦隊と第5艦隊の間には具体的な計画が進行検討中であった。察するに古賀連合艦隊司令長官の最も希望した水上艦艇による一挙撤収作戦は、中沢軍司令部作戦部長就任により万難を排しても実施することが決定的になったものと言えよう。
だが、…連合艦隊参謀長福留中将から中沢軍司令部作戦部長に宛てた書簡は、『一回限りですぞ』と申し入れている感が強い。まこと、失敗を許されない伸るか反るかの大作戦であった。」(同上書 p.317)

作戦は変更されたものの、キスカ島周辺の海には米国艦隊が警戒任務に当たっており、空からの攻撃も警戒しなければならない
中沢中将らの作戦は、この地方特有の濃霧に紛れてキスカ湾に突入し、素早く守備隊を収容したあとに直ちに北千島に向かうというものであるが、確かに当時の戦闘機・爆撃機の性能からして、霧が深ければ敵から空襲を受けるリスクはかなり低かった。とはいえ、伊7潜水艦の場合は、霧がかかっていて見えない敵艦からの砲撃を受けて大破した事例がある。このことは、敵艦がレーダーを装備していたことを意味するのだが、当時のわが国の巡洋艦、駆逐艦クラスでレーダーを装備している艦はほとんどなく、もっぱら肉眼と双眼鏡による見張り能力に頼っていたのである。しかし濃霧の中では肉眼に頼って敵艦を探すどころか、岩礁や船との衝突を避けて航行することも困難だ。

軽巡洋艦阿武隈の艦橋見張り所
【軽巡洋艦阿武隈の艦橋見張り所】

そのことを考えると、潜水艦よりはるかに大きい水上艦艇を連ねて一気にこの計画をやり遂げるためには、視界がゼロに近い濃霧がキスカ島に発生することと、日本艦隊にレーダーがどうしても必要だったのである。

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「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
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なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む
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南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
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キスカ島を目前にして撤収部隊は北千島に引き返していった……『キスカ戦記』を読む6

前回の記事で、潜水艦によるキスカ守備隊の撤退は効率が悪い上に3隻もの貴重な潜水艦を失ってしまったため、水上艦艇による一挙撤収に方針が変更されることとなったのだが、この作戦が成功するためには、キスカ島周辺に視界がゼロに近い濃霧が発生することと、艦隊にレーダー装備が必要であったことを書いた。

キスカ戦記』の解説にはこう記されている。文中の「電探」とは、「電波探信儀」の略語で、「レーダー」のことである。

高速駆逐艦 島風
【高速駆逐艦 島風】

「第五艦隊は周到な準備を整え、電探を装備した新鋭駆逐艦島風の増強を得、水雷部隊の木村昌福少将を特に南方戦線より招致して撤収部隊司令官に任じた。
 駆逐艦11隻を以て一挙撤収を断行し、木村昌福(まさとみ)少将は島風に坐乗して陣頭指揮をする決意であったが、この案は採用とならず、さらに軽巡阿武隈、木曽の二艦と応急収容部隊として特巡粟田丸を加えた大艦隊が収容部隊に決定された。
 7月7日ケ号第二期作戦は、水雷部隊の幌筵(ほろむしろ)出撃を以て開始された。…」(『キスカ戦記』p.317)

軽巡洋艦 阿武隈
【軽巡洋艦 阿武隈】

少し補足すると、島風は通信等を受信した際に発信元をつきとめる逆探知も可能なレーダーを装備していた。上記の引用部分で「この案は採用とならず」とあるのは、木村昌福司令官が坐乗したのは島風ではなく阿武隈となったことを意味している。逆探知の可能なレーダー装備を要望したのは木村司令官本人であり、島影は収容部隊に加えられていた。
また、ケ号作戦は6月29日に発動され、最初に気象通報に従事する潜水艦部隊が幌筵から出撃し、水上部隊の出撃はその1週間後の7月7日で、キスカ島には当初は7月11日に到着の予定であった。

とは言いながら、アッツ島陥落後はキスカ島周辺の制空権も制海権も米軍に握られてしまっていた。
たとえ濃い霧がキスカ島周辺を覆っていたとしても、米艦隊には霧を見通すことが可能なレーダーが装備されていたので、濃霧で空襲は避けられても、米艦のレーダー網を掻い潜ってキスカ湾に突入し、兵士たちを収容し、島を脱出して北千島に帰投することは誰が考えても容易なことではない。


北海守備隊の参謀であった藤井一美氏はキスカ島から潜水艦で幌筵島の第五艦隊司令部に派遣され、撤収作戦会議に参加した時のことをこう記している。

キスカ島にあった峯木少将〈北海守備艦隊司令官〉は、会議出席の私に、
『今回の撤収作戦は、海軍側の非常な努力によって実施されることになったが、アッツ島なきあと、敵のキスカ島に対する封鎖はまことに厳重なるものがある。撤収のため、キスカ島に接近するや、敵艦隊と衝突することは必至である。その際は、陸軍としては一兵たりとも撤収を考えず、敵上陸部位の撃破に任ずるから、どうぞ海軍は全力を挙げて敵艦隊の撃破に任じてもらいたい。』
と言うように命じられた。
 このことを作戦会議でとくと海軍側に伝えたところ、木村司令官から回答があり、
『撤収作戦中、敵艦隊に遭遇すれば掩護に任ずる艦隊の主力はむろんその撃破に従事するであろう。だが、撤収を主任務とする小生麾下の戦隊は、一艦でも二艦でもキスカ島に突入し、一兵でも多くの陸戦部隊の収容に任じたい。海軍部隊の撤収は遠慮してもらう
というのであった。この相互理解の精神はおのずと陸海将兵のあいだに流れ、うるわしい精神的結合となった。」(同上書 p.346)

木村昌福
【撤収部隊司令官 木村昌福少将 】

アッツ島の際は、海軍は陸軍からの要請に対して救援部隊や増援部隊を送る協力が出来ず、補給さえも行うことができずに同島を放棄することに至ったことで、分かりやすく言えば、陸軍に対して「借り」があった。今度はその「借り」を返さなければならなかった。成功するかどうかはともかく、海軍は、何が何でもキスカ撤退作戦を実施しなければならない立場にあったと考えて良い。
木村司令官が、海軍を後回しにして陸軍部隊の収容を優先することを明言したのは、本人にもアッツ島に対して海軍が陸軍に迷惑をかけたという思いがあったのだと思う。

しかしながら、木村司令官が「一艦でも二艦でもキスカ島に突入し」と述べているとおり、いくら霧が深くても、全員が撤収できるなどとは当初から考えていなかったのである。そして、もしキスカ湾に突入する艦艇が少なければ、多くの兵士が島にとり残されることとなり、アッツ島と同様に、最後まで米軍と戦って玉砕するしかなかったのである。

キスカ島の守備隊の兵士たちはそこまでは考えず、撤収することが決まって期待に胸を膨らませた。

兵士たちのやることはいろいろあった。海軍水兵長の八木恒雄氏の手記を紹介しよう。

「(7月)7日の昼頃30分にわたり艦砲射撃があり配置についた。私は指揮所へ行ったが霧のため敵艦の姿が見えず、ただ各隊へ連絡を取るだけだった。
 撤収作戦の発表があったのはその夜だった。待ちに待った内地へ帰れる機会が来たのだ。喜色満面誰しもほっとしたものだ。11日夕方待機海岸に集結せよとのことで、官品、慰問袋などキスカ島にある物は全部放棄、不用品は焼却。この焼却作業が大変だった。霧のかかっている間に燃やし、晴れてくると消し、敵に絶対悟られないよう焼却するのである。
 …撤収の際、下士官、兵が携行できるものは、小銃、鉄カブト、雑のうの三品だけである。…
 弾薬は池の端に穴を掘って全部埋め、探照燈、自動車、兵器も全部処分した。…
 11日撤収当日は、物干にシャツなどをブラ下げ、ストーブには濡らした粉炭を焚き、如何にも兵員がいるふうによそおった。…
 いよいよ出発時刻となり、持つ物を持ち、最後に今まで愛用していたゴム長に重油を注ぎ、毛布にも重油をたっぷり浸し、米兵に使用されぬようにと処置したもの
である。
 これを全員がやったのである。…」(同上書 p.327-328)

また陸軍大尉・平松清一氏の手記にはこう記されている。
「とにかく、撤退作戦の準備は進められた。今まで敵の目から隠されていた洗濯ものが兵舎外で大っぴらに風にはためき、各砲には軍服を着た人形が大勢取りつき、煙突からは終日煙が棚引くようになった。汚れた軍服は人形用となり兵士たちは予備品のま新しい軍服を着用に及び時ならぬ新兵さんが現出する。格好は新兵でも顔はヒゲ面で妙な感じだ。
 …
 撤退後敵が上陸侵入の時、少しでも損害を与えるよう装置するため、色々の工作や準備を整えた。地雷やダイナマイトを利用することも指示した。…」(同上書 p.332-333)

しかしながら、キスカの兵士たちは指示のあった11日に、キスカ湾内の指定の場所で夜遅くまで待ったのだが、収容部隊は入港せず、その日は行動中止が発せられた。
翌12日も13日も14日も同様に、指令通りに集合待機したのだが不発に終わり、15日には撤収作戦中止が伝えられて、艦隊は北千島の幌筵島に反転しまったのである。キスカ島の兵士たちが落胆したことは言うまでもない。

キスカ島地図

海軍水兵長の河西要氏の手記を紹介しよう。待機を命じられて3日目(7月13日)のキスカ島は濃霧で視界が悪く、レーダーで探索したところ艦船6隻を捉えたので、いよいよ収容部隊の入港が近いと周囲が期待している場面から引用する。

「ところが、入港してくる筈の艦がまだ見えない。いぶかっていると防備衛所から、
『十万0千まで近付いて右に移動している』と報告が入る。ますます変だなあと思った時である。ドカーンという物凄い艦砲射撃の砲声が聞こえた。
 敵だ!三斉射もやった頃、司令は、
『この作戦中止。迅速にもとの配備に復し戦闘を開始せよ』と命令
した。
 撤退の喜びに湧いた夢は消えた。二、三分後に、またも四斉射があり、松が崎近くに弾着するのが見える。この夜は一睡もせず総員配備についた。いよいよ敵はキスカに上陸するのだと覚悟した。
 次の日、敵艦隊は再び近接し、わが艦隊のくる様子はなかった。五日目にはもう諦めた。日本艦隊は千島に帰投してしまったとの無電連絡があったそうだ。からっぽになった兵舎に帰った私らは、玉砕を待つだけしかないのだ。食糧も残り少ないと聞く。
 ケ号作戦は失敗したのだ。そう決まると、今までイライラして待っていた時とは反対に、かえって心が静まりのびやかな気持ちで最後の日を待てるような気になった
。」(同上書 P.324)

アリューシャン列島

それにしても、キスカ島では霧が出ていたにもかかわらず、収容部隊が一度もキスカ湾に突入しなかったのはなぜだったのか。
記録によると、11日はキスカ島に近づくにつれて霧が晴れてしまい、突入を断念。第2回目の13日も、翌14日も途中で霧が晴れたために断念し、15日は燃料補給の為に反転して北千島の幌筵島に向かったとある。

手ぶらで根拠地に帰ってきた木村少将への批判は凄まじかったようで、直属の上官である第5艦隊司令部のみならず、果ては連合艦隊司令部、更に大本営から「途中一部天候の良いところがあっても、キスカには霧があった。なぜ突入しなかったのか」「水雷戦隊に肝なし」などと非難を浴びたという。当時の厳しい燃料状況からすれば、少々の危険を冒してでも断行しなければならないという考え方が強かったようだ。
しかしながら、霧が一部でも晴れていたなら空襲に曝されるリスクがある。仮に空襲を受けなかったとしても、先ほどの河西要氏の手記の通り、13日のキスカ島は濃霧の中で米艦による艦砲射撃があり、集合場所に近いキスカ湾の北にある松が崎に着弾している。この日に強引に突入していたら敵との衝突が避けられず、大きな被害が出ていたことであろう。

幌筵島に戻った木村少将は、周囲の批判を意に介せず、濃霧が発生するのをじっと待ったという。
燃料はあと一回分が残されているだけだった。
7月17日連合艦隊参謀長は、軍令部との打ち合わせにおいて、連合艦隊の方針として次のような所信を明らかにしている。
一挙撤収・今一回全力撤収作戦実施・断行

一方、キスカ島への補給が途絶えて久しい。守備隊に残された食糧や弾薬は日に日に減っていくばかりだった。米ヶ丘放射台長で海軍大尉の柿崎誠一氏は、こう記している。

伊7号潜の悲壮な戦闘を最後として、水上艦艇による一挙撤収まで、一隻の補給も行われない間、現状の高射砲弾薬で、撤収企図を秘匿するためにも、対空戦闘は続けねばならない。しかも、上陸直前を思わせる戦爆連合空襲の様相が益々激しくなってきており、残弾も連日の戦闘で残り少なくなりつつある。高射砲部隊員の闘魂旺盛なりといえども、如何せん弾薬がなければ戦いはできない
 万一の場合の、対上陸戦闘時の予想消耗弾薬量だけは、何とか確保することとし、その他は極力、引き延ばしを計らねばならなかった。そうは言うものの、陣地目がけて来襲する敵機に対しては、敢然と戦いを挑まねばならず、射撃指揮官の最大の心痛は戦闘後の残弾数であった。現に、撤収艦隊入泊、砲台を離れるにあたって残った弾薬は、数は記憶していないが、わずか三~四日分であったのである。」(同上書 p.355)

食糧も同様な状況にあり、キスカ守備隊の兵士たちは一日も早く収容部隊がキスカ湾に突入してくれることを祈りつつ、それまでなんとか食いつないでいくしかなかったのだ。

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レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか
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キスカ守備隊員の手記による奇跡の完全無血撤退作戦成功……『キスカ戦記』を読む7

前回の記事で、キスカ島守備隊の兵士たちは7月11日から14日まで4回もキスカ湾に集結して撤収部隊の到着を待ったのだが、一度もその艦影を見ないままに作戦の一時中止が伝えられ、艦隊は燃料補給の為に反転して北千島に帰っていったことを書いた。
撤収部隊がキスカ島に接近していながらキスカ湾への突入を断念したのは、途中で霧が晴れたために空襲に遭う危険性が高まったことがその理由だが、もし霧が深かったとしても、霧を見通すことが可能なレーダーを装備していた米艦艇がキスカ島の哨戒にあたっていたので、砲撃戦となり大きな犠牲が出る可能性があった。

キスカ島には、撤退作戦の一時中止が伝えられた時点で三週間以上も補給が行なわれておらず、守備隊に残された食糧や弾薬はかなり乏しくなっていた。
そのうえ陸軍では、米軍のキスカ島上陸後に食糧を利用されないようにと、米などを土中に投棄する作戦命令が出ていたらしく、そのために食糧を台無しにしてしまった部隊があったようだ。

キスカ戦記

『キスカ戦記』の中から、陸軍曹長の田中繁広氏の手記を紹介しよう。

「…一時(撤退)作戦の中止が伝えられ、防空壕に隠した糧秣を引っ張り出して、天日に乾かして食糧を確保するなど『投棄せよ』との作命〈作戦命令〉が、日ならずして『確保せよ』と変わる有様。幸いわが中隊は、防空壕に米一俵を隠しておいたので助かったが、或る中隊は、作命どおり、糧秣を水溜りに投棄したので回収できず、その日から食料に困った。これも、かつてノモンハンの戦場を体験したわが中隊の歴戦者が、あの戦場で一粒の米もなく、乾パンと水だけで過ごした数十日の苦しみが忘れられず、命令に反して採った処置が幸いだった訳。」(『キスカ戦記』p.363)

その後もキスカ島には食糧の補給が行なわれず、わずかの食糧を更に2週間以上も食いつないだことになるのだが、7月22日になってキスカ守備隊の兵士たちに待ちに待った朗報が入る。

次に海軍水兵長の河西要氏の手記を紹介しよう。

7月22日朝食後、総員集合がかかり、27日から第2回目のケ号作戦*が開始されると伝えられた。今後は、どんなに状態が悪い場合でも作戦は決行するとの艦隊の決意だと聞き、本当に嬉しかった。だが、入港予定日などは何も分からない。無線封止だろうから連絡のあるはずもなく、われわれは27日から海岸に出て待機することになった。とはいえ、前回の失敗のことを思うと私にはどういうものか、帰れる希望は湧かなかった。この島に、結局は取り残される可能性の方が、遥かに多いように思えるのだった
 命より名こそ惜しけれ武士(もののふ)の
  道に乞うべき道しなければ
 どうせ長からぬ命、良い死に場所を得ていることに、感謝の念すら湧いて来るのだ。
 案の定、27日、味方は来なかった。28日は入港するかもしれぬというので、特に身ごしらえを念入りにして指揮所に行ったが、敵艦の砲撃を食ったり、夜間爆撃など、さんざんやられ、がっかりしてガランとした兵舎に戻るしかなかった。『敵はこの作戦を知っているのではあるまいか?』皆が心配顔でそう言った。」(同上書 P.358)
*ケ号作戦:キスカ守備隊撤収作戦

アリューシャン列島

河西氏は27日の夜に起こったことについて何も書いていないのだが、この日の出来事は重要なことなので補足しておこう。再び陸軍曹長・田中氏の手記の文章を引用するが、田中氏が26日と記録しているのは、キスカ島は日付変更線に近いためか、日本側の記録と1日のずれが生じているようだ。

7月26日、七夕湾南方海上にあって(22:30ごろ)一大海戦があり、てっきりわれわれを収容に来てくれたわが海軍と、米艦隊との遭遇戦と思い、翌27日、何らかの情報があるかと本部に問い合わしても、戦況全く不明とか、『ああ、わが艦隊も全滅せしか』とガッカリして海岸に行って見れば、浜辺に打ち上げられた残骸は全て米軍の物ばかりで、わが軍の物らしきは一品も見当たらぬ、どうやらこの海戦は勝戦らしいが、なんの連絡もないのは不思議と思うのも当然。ところが、米艦隊の同士討ちで、大損害を出した末アダックの基地に引きあげたとか。原因は濃霧の夜間、米監視船が、自軍の主力艦隊を、てっきり日本艦隊と思い込み発砲したのが事の起こり。わが方にとっては全く『天佑』そのもの、…」(同上書 P.363)

田中氏の手記にある、「米艦隊の同士討ち」というのはあとで判明したことで、27日の夜に何が起こったかはキスカ守備隊や収容艦隊のメンバーには知りようがなかった。
ちなみにキスカ島からアダック島の基地までは約400kmも離れている。敵の主要艦艇が補給のために基地に向かったのであれば、すぐにはキスカ島に戻れないことは言うまでもない。

陸軍少佐の藤井一美氏が、後に米軍の戦史を調べてこの日の出来事をこう解説しておられる。
「7月27日の夜10時過ぎ、キスカ島の将兵は、南西海上で盛んな砲声の轟き、はげしい光芒のひらめくのを見た。…
アメリカ軍の戦史を見ると、電波探知機の誤探による砲撃とあるが、いずれにしても、夜間霧中、レーダーは日本艦隊を補足したものと思い込み、これに猛攻撃を加え、多くの弾薬と燃料を消費してしまった。この補給のため、28日から29日にかけて米艦隊は包囲を解かざるを得ない破目となった。今にして想えば、その限られた四十数時間の隙に、わが収容艦隊は、そんなこととは露知らず、キスカ島鳴神(キスカ)湾に突入したのである。なんという偶然のもたらした成功の一因だろうか。」(同上書 P.404)

キンケイド提督
【キンケイド提督】

Wikipediaに米海軍の動きが纏められている。該当部分を引用させていただく。先ほど記したとおり、アメリカの日付は日本と1日のズレがある。

「7月26日、濃霧の中ミシシッピーのレーダーが15海里の地点にエコーを捕捉した。アイダホ、ウィチタ、ポートランドの艦隊各艦からも同様の報告を得たキンケイド中将は直ちにレーダー射撃を開始させ、約40分後に反応は消失。しかし、不思議なことに重巡サンフランシスコと艦隊の全駆逐艦のレーダーにはこの戦いの最初から最後まで全く反応がなかった。これは現在ではレーダーの虚像による誤反応を日本艦隊と見間違えたという説が一般的であり、勿論日本軍にも全く損害は出ておらず、一方的にアメリカ軍が無駄弾をばら撒いただけであった。この際アメリカ軍が消費した砲弾は36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発に上ると言われている。…7月28日(ケ号作戦実行日)*、敵艦隊を撃滅したと確信したキンケイド中将は弾薬補給のため一時、艦隊を後退させる。この時、キンケイドはキスカ島に張り付けてあった哨戒用の駆逐艦まで率いて後退してしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%B3%B6%E6%92%A4%E9%80%80%E4%BD%9C%E6%88%A6
*7月28日(ケ号作戦実行日):日本側の日付は7月29日

軽巡洋艦 阿武隈
【軽巡洋艦 阿武隈】

次に、再び河西海軍水兵長の手記を紹介しよう。

「29日、朝食をしていると、先任下士官が外で、『オーイ』と皆を呼んでいる。また早朝から爆撃かと外へ飛びだしたが、外は静かで、珍しく晴れた朝だ。先任下士官の指さす南高地の上空を見ると、今まで見たこともない雲が、渦巻きのようになっているではありませんか。ほかには一点の雲もないというのに。
『今日は艦(ふね)が入るぞ!』
 その雲を見ながら山崎兵曹が言った。私も、その不思議な雲を見た瞬間、そんな気持ちになっていた。
 九時頃までに二回対空戦闘があったが、十時二十分頃には、五、六米(メートル)先は何も見えなくなっていた。そして、十一時頃、撤退作戦行動開始が下令された。
 松が崎防備所からは、
『敵駆逐艦らしい音源あるも、霧のため近接せぬ模様』
『敵駆逐艦の音源次第に遠ざかり○○粁(キロメートル)』
『聞こえなくなった』
と情報が伝えられてくる。と、追っかけるように、
『松が崎○○度方向、○万○千、三隻以上らしい感度あり』
 の報告。いよいよ来たぞ!待ちに待った胸が躍る。
各見張所に視界状況を問い合わすと、
『霧深く、海上視界百米(メートル)内外』
 との答えだ。そして十二時頃、
『○○度○○粁、真っすぐキスカ湾に向かってくる。感度よりして五隻なること確実なり。』と、続いて、
『さらに二隻以上の感度あり』
 と言ってきた。味方であることは間違いない。だが、この濃霧をおかして入港できるだろうか?そうした私の危惧をはねのけるように司令は下令した。
『南高地!ラジオピーコン電波送れ!』
 私は夢中で送話器をとるとそれを伝えた。電波を送れば、艦隊は、電波の誘導で、真っ直ぐ入って来れるのだ。
『一番艦五千(米) 』と報告があったと思ったら、
『海面の霧は次第に薄らぎつつあり、視界千二百』
 と見張所からの吉報が入る。その時、今度は電探*から『○○度○○粁、感度あり』との報告。しまった、敵機かと思った丁度その時、海上に轟く二発の砲声を聞いたのである。『ああ、駄目だ。またしても裏切られた』そう思って私はがっかりした。
 一分か二分の重苦しい沈黙があたりを包んだ。と、今度は松が崎見張所の電話のベルが鳴る。電話口にでると
『一番艦見ゆ!阿武隈らしい』続いて、
『二番、三番艦見ゆ。一番艦入港。大発艇は艦に向かい発進しました!』

 と歓喜一杯の声が飛び込んできた。

大発動艇
【大発動艇(略して大発、大発艇という)】

 司令の命令が飛ぶ。伝える私の声も思わず熱気が入る。
『各砲台、機銃隊に残っている者も、兵器破壊!終わり次第速やかに海岸に集結せよ!』
 伝達し終わって湾内を見ると、一番艦、二番艦はすでに入港し、三、四、五、六番艦は向島と松が崎の間に進入しつつある。
 又も、電探からの電話が鳴る。
『○○度○○粁、哨戒機らしい!』との急報だ。
 各隊は皆撤収のため海岸に集合しているが、電探だけは、敵機の感度があったので、まだ陣地で任務を遂行しているのだ!
 今、敵機が出現したら、第五艦隊の主力がそっくり壊滅させられ、大発に満載されて湾内を走っている引き揚げ部隊も、海岸に待機している丸腰の各隊将兵も一挙にやられてしまう。危機感で背筋が凍るようであり、反対に頭の中は火のように熱くなった。

 向井副長は、口をぎゅっと引き締めたまま一言も発されない。と、またも電話が鳴る。
『電探より、八○度○○粁、少し遠ざかりました』
 との報告。それに続いて、戦闘指揮所の外に立って見張りをしていた佐藤兵曹が、
『一番艦出港します。二番艦も出港しはじめました!』と叫ぶ。それでも副長はまだ黙っている。
 収容艦隊はどんどん出ていってしまう。私たちや電探員たちは、このまま、ここに取り残されてしまうのではないか!? ふと不安になり気が落ち着かない。そして、
『電探より。九○度○○粁』と報告が入ると、それを待ちうけていたように副長は凛然と命令した。
『電信員引き上げ!』
 私がその命令を伝達し終わるや否や、小隊長が、
『戦闘指揮所爆破用意!』
と下令。火縄に点火した私たちは、小銃片手に駆け上がった。松が崎や、向島の山々には霧がかかっているが、海面はすっきりと晴れている。今まで穴倉のような戦闘指揮所の中で、電話と取り組んでばかりいた私は、この光景を夢ではないかと思いながらまじまじと見た。
最後の大発艇が私たちを待っていてくれた。電探の人たちも来ていた。私たちが、この島を最後に離れたのである。小銃を持っている者は海に投げよとの命令があり、身を守るただ一つの兵器も海中に投げ棄てた。ああ、もうキスカの島ともお別れかと思うと、長い間の苦闘のあとが懐かしく思い出された。」(同上書 p.358-360)
*電探:「電波探信儀」の略。レーダーのこと。

キスカ島の少年電探員
【キスカ守備隊の少年電探員】

少し補足しておこう。
河西氏が海上に轟く二発の砲声を聞いて、『ああ、駄目だ。またしても裏切られた』と書いている場面があるが、この砲声は、一番艦の阿武隈がキスカ湾の入り口近くにある小キスカ島を敵艦と誤認し、魚雷を発射したものであったという。このことは、この日の霧がよほど深かったことを意味しているのだが、ここで不思議なことが起こる。

キスカ島地図

再び陸軍曹長・田中氏の文章を引用したい。
「…さては、敵襲かと思いきや、これはわが艦隊が発射せる魚雷という。濃霧の中、隠密航海を続けている撤収艦隊が、小キスカ島を敵艦と見誤って発射せるもの。ところが、この魚雷の爆発のおかげならんか、今まで濃霧に覆われていたキスカ湾に奇跡的現象が起こった。爆発の直後、霧が何ものかに吸いとられるように天空に向かって移動を始め、ポッカリとドーナツ型にキスカ湾のみ晴れ上がったから、なんとも不思議。そこへ、わが水雷部隊が続々と入港してきたのだ。思わず万才を叫びそうになる。…」(同上書 p.363-364)

制空権も制海権も米軍にとられていた状況下で、たまたま敵の主要艦が補給の為にアダック島に向かっているタイミングに、キスカ島周辺に米機が飛べないほどの濃い霧が出て、撤収艦隊がキスカ湾に突入を決意する。ところが、濃霧であったはずのキスカ湾の視界が急に開けていって、水雷部隊のキスカ湾入港が無事に完了したというのだ。もし霧が深ければ、座礁や衝突の危険があったのだが無事に湾内に入ることができ、待ち構えていたキスカ島守備隊員5200名を、大発のピストン輸送によりわずか55分という短時間で収容し、全速力でキスカ湾を離脱したという。

キスカ守備隊および撤収艦隊にとってはまさに「天佑神助」というしかないような偶然が相次いで起こり、かくしてキスカ守備隊は敵軍に気付かれることなく、奇跡的に無傷で北千島に戻ることが出来たのである。

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艦隊乗艦員の手記によるキスカ島守備隊撤退作戦……『キスカ戦記』を読む8

前回はキスカ島守備隊の兵士たちの手記を中心に紹介したが、今回は守備隊撤収のためにキスカ湾に突入した艦隊乗艦員の手記を紹介することにしよう。

ベーリング海での作戦行路

第1回目は、「6月25日、キスカは霧」という艦隊気象長の天気予報を信頼して、6月22日に全艦隊が北千島にある幌筵(ほろむしろ)を出撃したのだが、幌筵からキスカ島までは直線距離で1500kmも離れている。
気象衛星など最新機器を用いた今日の天気予報でも、数日先の天気などはあまり当てにならないものだが、レーダーも使わずにそんなに遠い場所の天気予報となればなおさらのことである。しかしながら、この作戦が成功するかどうかは艦隊がキスカ島の近くに到達した時点で、この島が霧で覆われていることが重要であった。
したがって、艦隊出撃の決断のきっかけとなる天気予報を出す艦隊気象長の責任は極めて重大であった。

『キスカ戦記』に艦隊気象長・竹永一雄氏の手記が出ているので紹介しよう。まず第1回目の出撃の場面である。

「…艦隊はキスカのはるか南方海上の霧の中で、私の予報した霧がキスカにかかるのを待っていた。
 ところが目標の25日はおろか、その後もキスカは毎日晴れ上がり、霧ひとつかからない。実は、この作戦のため、あらかじめ二隻の潜水艦と五隻の気象観測船をキスカ周辺に配置して霧の観測をやらせていたが、報告のため電波を出させていたのが命とりになって全部撃沈されてしまうという致命的な打撃を受け、あの広大な北太平洋で、観測所は私の乗艦とキスカ基地だけしか無くなってしまった。これでは予報は当たる方が不思議なくらいである。現在と違って、北方に関する気象の資料に乏しく、レーダーなど勿体ないのであるから推して知るべしである。
私は一日に四回、かじかんだ手で、艦の動揺に悩まされながら天気図を書いていたが、霧がでるかでないか全く見当がつかない。しまいには、艦内神社に神頼みをしたり、鉛筆を立てて占って見たり、正に苦悩の果てのノイローゼ気味であった。」(『キスカ戦記』p.389)

この時は1週間以上待っても霧はかからず、前々回の記事で書いた通り、燃料不足のために北千島に引き返したのだが、竹永大尉は「上司からはドヤされるし、兵学校出の士官連中からはサンザン殴られるしで生きた心地はなかった。なんどか海に飛び込んで死のうと思ったが…死にきれなかった苦い思い出は今も忘れない。」と書いている。竹永大尉の記している通り、観測所がたった2箇所だけで、1500kmも遠方地点の3日後の天気を予測するというのはそもそも無理な話である。

しかしながら、撤収作戦が再度実施されることとなり、二度目も竹永大尉の天気予報に基づき、7月25日に全艦隊が出撃したのである。竹永氏は再び艦内で苦悩する。

「ところが、なんたること、はじめに予想していた低気圧は一日早くキスカを通り過ぎてしまった。それからは、また霧が発生しない。みんなイライラして私を責めたてるが、私だってどうしようもない。またまた、燃料が心配されるところまで追いこまれた。私も今度こそは真剣に自殺の方法をあれこれ考えていた。
 ドタン場の29日、待望の低気圧がアリューシャンに出てきたではないか!私は大声を上げて参謀長の許へ飛んで行って、
『霧が出ます!』
と報告した。
 全艦隊がキスカに接近すると、予想通りのすごい霧である。それこそ、ウドン粉の中に顔を突っ込んだようで、一寸先も見えないのだ。
そして一時間半後に世紀の撤収作戦は成功した。私は一時に気が緩んでぐったりしていた。」(同上書 p.390)

しかしながらここまで霧が深いと、前方に何があるか、味方の艦艇がどこにいるかも分からなくなって、船の航行が極めて危険なものとなる。

駆逐艦「響」
【駆逐艦 「響」】

『キスカ戦記』に駆逐艦響(ひびき)に乗船していた海軍水兵長・石井仁行氏の手記にはこう記されている。

「…28日は、是が非でも突撃してくれることを願う次第なり。夜に入って視界は益々悪くなってきた。一寸先も見えぬとはこんなことをいうのだろう。
 突如、旗艦より『触傷を受く!』との電話あり、刻々詳報伝えられる。大要は左(以下)の如し、
 触突(追突)艦、計四隻。うち三隻触傷を受く。三隻中、一隻は微傷にて作戦参加可能。他の二隻は、目下浸水しつつあるも戦闘航海に支障なし、出し得る最大速力12ノット*。
 速力12ノットではキスカ島突入はとてもおぼつかない。突入を目前にして警戒隊の二隻に損傷を蒙りたるは実に残念である。明日の突入は如何になるにや。
 28日。『突撃しばらく見合わせ』の信号来たる。
 霧中航行中、触傷艦発生の突発事故を招きたるは、思うに神霊の教導を暗示するようである。このまま引き返したら、水雷戦隊の名誉は勿論、帝国海軍の面目玉にかかわるは歴然たり。陛下の艦を損傷せしめてなんでおめおめ帰れよう。」(同上書 p.391-392)
ノット:1時間に1海里(1.852km)進む速さ。12ノットは時速22.2km。

海防艦国後
【海防艦 「国後」】

この時に損傷を受けたのは実際には五艦あり、海防艦国後(くなしり)の艦首が先頭を進んでいたはずの巡洋艦部隊の阿武隈(あぶくま)の左横腹に衝突し、それを見ていた木曽は辛うじて阿武隈との衝突を免れたものの、後方を進んでいた第二十一駆逐隊の若葉、初霜が操艦間に合わず衝突したところに後続の長波が激突してしまった。損害の大きかった若葉と初霜は艦隊から離脱を余儀なくされ、幌筵(ほろむしろ)島に帰されてしまったという。

キスカ富士と霧
【キスカ富士 (晴天時)】

しかし、霧の中の航海で心配なのは艦船同士の衝突だけではない。敵との遭遇もありうる。
また島の周囲には多くの岩礁が散在しており、これにぶつかる危険もあった。
接岸航行のためには海図上の的確な位置を知る必要があったが、十一時三十分ごろ霧が流れて、一分程度キスカ富士の姿が見えたという。そのおかげで、艦隊の位置が確認できコースに乗ることが出来たのだそうだ。

そして、最後の燃料補給が行なわれた。もう突入するしかない。
そして夜間訓練中に放送が入る。再び駆逐艦響に乗船していた石井水兵長の手記を引用する。

「…『訓練止め。夜戦に備え!』が令さる。続いて『明日、キスカに突入』と伝う。通信士の太く澄んだ声が、伝声管を響かせた。通信士は、
『最近における敵の情勢。天気の良い日は毎日大型、小型八機編成でキスカを銃攻撃しあり。一日の延機数八十機。敵艦艇動静、甲巡三隻、駆逐艦五隻乃至(ないし)六隻にてキスカ島近海を哨戒、砲撃す。天候霧雨にて突撃に絶好の機会なり、終り』
 この声を聞き終わった時の嬉しさ、天にも昇る思いだ。
 わが水雷戦隊は一路キスカに向かい航行を開始す。正に天佑神助とやいわん、濃霧は視界を遮り、本作戦成功疑いなしの予感、果たして的中するや否や。当直までの一刻を、明日の突入に備え休むべく居住区へ降りて行く。どすんどすんと外舷に打ち寄せる波の音が激しくなってきた。艦は高速でぐんぐん突っ込んで行きつつあり。
 明くれば二十九日。〇一・〇〇総員配置に就き本作戦における最後の訓練をなす。…
〇九・〇〇、…刻々キスカに近づきつつあり、幸いにして、いまだ敵哨戒機に発見されておらぬ模様。艦首方向零度。左回りしつつ湾口に近づきつつあり。
 …
『一三・〇〇湾口突入、一三・三〇入港予定』と艦橋伝声管は報じ来る。余すところ二時間あまり。乗員各々配置に就き、いずれも白鉢巻も勇ましい戦闘服装なり。
 刻一刻、緊張の時は刻む。私も短刀を懐中に闘魂を新たにす。敵機の通信電波を待ち受くるも、基地発信電波のみにて、敵の発信電波なし。敵哨戒機果たして何処にありや。わが水雷戦隊の突入を感知せざるは敵の油断もさる事ながら、実に天佑神助というの外なし。
 一三・〇〇、遂に突入!湾口突入。視界良好になりし模様なるも、艦全体不気味な沈黙を守っておる。
 突如!旗艦より『左三十度方向に敵艦発見!』と報じ来る。一秒、二秒――― 二分、三分以後敵情に関しなんら報ずるところなし。
 遂に海戦か!私は佐藤兵長と顔を見合わせた。他の面々も決意の色濃くありありと現われるも、互いに快心の笑を浮かべるのみにて語らず。わが水雷戦隊はなおも堂々の進撃を続行す。続いてまた『左五十度方向に敵艦』と船橋伝声管は叫ぶ。
 しばらくして、敵艦と報じたるは、島の誤りなりと伝えてきた。されど、一同黙して語らず、一時たりとも油断は許されず。錨地まであと二十分、艦は黙々と進む。

大発動艇

 一三・三〇、予定通り投錨を完了す!既に大発艇は、キスカ島守備の勇士たちを乗せ、堂々と整列するわが水雷戦隊の各艦目ざして驀進し来たる。
 視界は良好となり、各艦の収容作業一目瞭然に映し出され、いささか気がかりなり。しかし、霧は空低く垂れこめ、敵機も余程の超低空飛行せぬ限り発見される恐れなし。
 わが乗艦響(ひびき)より見れば、眼下に停止せる大発には、陸軍守備隊員が鈴なりに乗っている。あっと見る間に、一斉に銃を海中に投じて艦によじ登ってくる。一刻を争う時である、急がねばならないのである。
 大発の処分は、最後に残った勇士がツルハシを振って穴をあけ海没せしめた。全員乗艦完了。大発の沈没を見守りつつキスカに訣別した。
 一五・〇〇旗艦を先頭に、わが水雷戦隊は堂々と進発を開始す。ああ、この厳然たる偉容を目のあたり見るとき、帝国海軍の一員として、国防の第一線に活躍できる身の幸福を誰か思わぬ者があろう。」(同上書 p.392-393)


かくして、陸軍2410名、海軍2773名、合計で5183名を収容した艦隊は全速力でキスカ島を離れ、7月31日から8月1日にかけて幌筵に帰投、キスカ守備隊員たちは、当時わが国の国土であった北千島の土を踏むことができたのであった。

キスカ島から潜水艦で司令部のある幌筵に渡り、第五艦隊司令長官にキスカ島守備隊の撤収を進言した藤井一美陸軍少佐は、巡洋艦木曽に乗艦して、この撤退作戦が大成功に終わったのを見て感激し、涙したという。

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藤井氏はこの作戦について、『キスカ戦記』で次のように纏めておられる。
「こうして、天佑ともいうべき海霧の状況、敵封鎖艦隊の引揚、指揮官の名察、陸海軍の協同など、この作戦が成功した要因をあげることができるが、私は、最後の原因としてアッツ島玉砕勇士英霊の加護があったことを信ぜざるを得ない。
 キスカ島周辺における米艦隊の包囲解除という驚くべき錯誤は、7月29日であり、この日にわが艦隊が突入を決行し作戦は成功した。奇しくもこの日は5月29日というアッツ島守備隊玉砕2カ月後の命日である

 また、キスカ突入の前夜、敵艦隊のレーダーに写り、その弾薬と燃料の消費を強いたのも、山崎部隊の霊魂が創り出した、幻の日本艦隊であったように思われてならないのである。
 兵家の言に『戦場の実相に処し、正しい判断を誤らず常に自らの必勝を信じて一致団結、精魂を傾けるところに戦勝の道は開け、神仏の加護もある』とあるが、このことをつくづく知った次第である。」(同上書 p.405)

「アッツ島の戦い」について少し補足すると、アッツ島守備隊の兵力は2650人とキスカ島の半分以下にすぎなかった。日本軍は、米軍が最初に上陸するのはアメリカ本土に近いキスカ島であろうと考えていたので、キスカ島に多くの守備隊を置いたのだが、米軍は防備不全なアッツ島に11000人の兵を送り込んで2、3日で奪取したのち、キスカ島を孤立させて攻略する作戦に出た。

北海守備第2地区隊長 山崎保代
【部隊長 山崎保代】

米軍がアッツ島に上陸を開始したのは5月12日のことだが、アッツ島の守備隊は必死の抵抗を続け米軍を手こずらせた。しかしながら、28日には守備隊のほとんどの兵が失われ陣地は壊滅し、翌29日に山崎部隊長以下残存兵300名が最後の突撃を行ない玉砕したのである。
しかし、アッツ島の守備隊は勇敢に戦った。圧倒的な兵力差がありながら、18日間戦い抜き、米軍には戦死者が600人、戦傷者が1200人出たという。

藤井氏の文章の「キスカ突入の前夜、敵艦隊のレーダーに写り、その弾薬と燃料の消費を強いたのも、山崎部隊の霊魂が創り出した、幻の日本艦隊」というくだりは、前回の記事で書いた7月27日の夜の出来事を指している。この日に米艦隊が、レーダーの誤反応を日本艦隊と見間違え、濃霧の中で36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発を撃ちまくり、弾薬補給の為に400kmも離れたアダック島の基地に戻って行ったことを指している。確かに、日本軍に対する異常なまでの恐怖心がなければ、米軍がこんな無駄な弾薬の使い方はしないのではないかと私は思う。

「アッツの英霊のご加護」という言葉は、藤井氏だけが書いているのではない。『キスカ戦記』を読むと、何人かが同様のことを書いておられる。

例えば海軍上等兵曹の森勇氏は
アッツ島で玉砕された方々のご守護によって内地の土を踏むことができた私らは、心から玉砕された方々のご冥福をお祈りせずにはおれません。」(同上書 p.379)

また海軍上等主計兵の伊藤正俊氏は
「幌筵へ帰投航海の途中、アッツ島沖合を通過するとき島のほうから『万歳』の声が聞こえ、アッツ島の英霊がわれわれを守ってくれたと艦内の話題になったが、奇しくも撤退成功の日、7月29日は、アッツ島玉砕の2ヶ月目の命日であった」(同上書 p.382)
とあるので、多くの兵士が藤井氏と同様な思いを懐いていたようなのだ。

アッツ島沖合で英霊たちが『万歳』と叫ぶことはなかったと思うのだが、多くの兵士がそう感じたほど、不思議なくらいに幸運な偶然が重なったことは事実なのである。

「歴史にイフは禁物」という言葉に逆らって恐縮だが、もしアッツの守備隊が米軍の当初の目論見通り2~3日で米軍に敗北を喫していたとしたら、その後はどのような展開になっていたかを考えてみたい。その場合は、おそらく米軍のキスカ島上陸はもっと早く実行に移されて、キスカ守備隊の多くは生きて帰ることが難しかったと思うのだ。

アッツ島玉砕のあと、米軍は2ヶ月以上もキスカ島への空襲や艦砲射撃を執拗に繰り返し、キスカ守備隊が撤退した後も2週間にわたって無人の島の爆撃・砲撃を続けたのだが、このことは、アッツ島の守備隊が米軍との兵力差をものともせず、18日間を戦いぬいて玉砕したことと無関係ではないだろう。
米軍は、アッツ島の守備隊に対して何度も降伏を勧告したのだが、彼らはそれに応じることなく、最後まで戦いを挑んできたことに驚き、そして死をも恐れずに戦う日本兵に怖れを抱いたのだと思う。だから7月27日には濃霧の中で「幻の日本艦隊」に対し大量の弾薬を費消して、肝腎な時にアダック島の基地に補給に戻ることを余儀なくされたとは言えないか。

そう考えていくと、「奇跡」と言われたキスカ島の全軍完全撤退を成功させたのは、アッツ島守備隊の勇気ある戦いがその重要な要因の一つであるという見方ができるわけで、そのことをキスカの兵士たちの多くが感じて、「アッツ島の英霊」のおかげで自分たちは内地の土を踏むことが出来たと感謝したということなのだろう。

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無人のキスカ島に上陸した米軍に多くの死傷者が出た事情……『キスカ戦記』を読む9

昭和18年7月29日、濃霧の中でキスカ島守備隊の撤収作戦が敢行され、艦隊は守備隊5183名全員を収容後キスカ湾を全速で離脱し、その後も深い霧に包まれて無事に空襲圏外に無事に脱出して、7月31日から8月1日にかけて北千島の幌筵(ほろむしろ)に全艦無事に帰投している。

米軍上陸前に投下された伝単

一方、米軍はキスカ島守備隊が撤退したことを把握していなかった。
前回記事にも書いたが、7月27日の夜に米艦隊が、レーダーの誤反応を日本艦隊と見間違え、濃霧の中で36センチ砲弾118発、20センチ砲弾487発を撃ちまくり、弾薬補給のためアダック島に戻っていたのである。日本軍はそのことを知らなかったのだが、たまたま7月29日のキスカ島に深い霧が出てキスカ守備隊全員撤収を成し遂げた。補給を終えた米艦隊は7月30日にはキスカ島に戻って島の封鎖を再開し、その後2週間にわたり無人となった島に艦砲射撃を繰り返している。もちろん爆撃機や戦闘機による空襲も続けられていた。上の画像は、日本軍の戦意を喪失させるために米軍機から大量に撒かれたビラである。

キスカ島に向かう前にアダック島に碇泊している米艦隊
キスカ島に向かう前にアダック島に碇泊している米艦隊】

米軍はキスカ島上陸とする作戦に向けて着々と準備を進め、予定通り8月15日に100隻余りの艦艇を動員し、34426名の兵士を送り込んで島の西海岸に上陸を果たしているのだが、その動員した兵力が、直近までキスカ島に残っていた守備隊兵力の6倍をはるかに上回る規模であったとは驚きだ。

キスカ島上陸

上の画像は米軍のキスカ島上陸時のものだが、兵士の表情がどことなく不安げで闘志があまり感じられないのは私だけだろうか。

ドナルドキーン自伝

日本文学・日本文化研究で名高いドナルドキーン氏は、米軍より日本語通訳のために必要だとして、無人のキスカ島に渡ったメンバーの一人である。中公文庫の『ドナルドキーン自伝』にはキスカ島上陸時のことがこう記されている。

「8月、アメリカ軍はキスカ島を攻撃した。これも日本軍が占領していた島だった。数週間にもわたって、写真分析班は日本の部隊が動いている形跡は何もないと言い続けていた。彼らの判断では、日本軍はすでに島を離れていた。しかし偵察機の操縦士たちは、現在も高射砲の攻撃を受けていると主張した。操縦士の言葉が信用され、作戦は予定通り進められた。上陸直前になって、ケーリーと私は真っ先に上陸するように命じられた。日本兵が事実残っているかどうか確認するためだった。これは決死隊の任務に等しかった。幸運なことに、操縦士は間違っていた。島には、1人の日本兵もいなかった。私たちは、地下の司令部を見つけた。テーブルのまわりに置かれた座布団は、アメリカ国旗で作られていた。黒板には英語で『おまえたちは、ルーズヴェルトの馬鹿げた命令に踊らされている』と書いてあった。
 私たちに続いて、アメリカの部隊が上陸した。戦うべき相手がいなくて、誰もがほっとした。しかし数日後、別の衝撃が私たちを襲った。海軍の通訳の中でも一番無能な男が、標識を見つけたといって私の所へ持ってきた。『もちろん大体の意味は分かるが、幾つか不確かなところがあるのでね』というのだった。
標識の文字は、この上なく明快だった。――ペスト患者収容所。ペストの血清を送るように要請する電文が、急遽サンフランシスコへ向けて打たれた。それからの数日間というもの、私たちはペストの証拠である斑点が現れていないか不安な面持ちで身体を眺めまわしたものだった。その後何年もたってから、キスカに駐屯していた日本軍軍医の妻が明らかにしたところによれば、彼女の夫はアメリカ軍が見つけることを予期して、その標識を書いた。つまり、冗談だったのだ。しかし、誰も笑わなかった。」(『ドナルドキーン自伝』Ⅰ-9)

キスカ指令室の落書き

ドナルドキーン氏がキスカ島で見た、日本軍の落書きと思しき写真がAlaska’s Digital Archivesに残されている。URLを紹介しておく。
http://vilda.alaska.edu/cdm/singleitem/collection/cdmg21/id/10290/rec/51

キスカ戦記』には、撤収する前に上陸後の米軍を攪乱する目的で、軍服を着せた人形を高射砲の砲座にくくりつけたり、食卓上に食事を準備しているように見せかけたり、洗濯物を大っぴらに風にはためかせたり、地雷やダイナマイトを仕掛けたり様々な仕掛けをしたことが書かれていたが、「ペスト収容所」というのも日本軍が考えた仕掛けの一つなのだろう。

ドナルドキーン氏は何も書いていないのだが、米軍のキスカ島上陸時に少なからずの被害が出ている。Wikipediaによると戦死者122名、行方不明191名、駆逐艦1隻大破と、無人島に上陸したにしては結構大きな被害である。
駆逐艦の大破は触雷によるものだそうだが、戦死者が多かったのは別の理由である。なぜ無人の島に上陸した米軍にこれだけの戦死者が出たのか。
この間の事情は、Wikipediaの解説がわかりやすい。

戦艦ペンシルバニア
【戦艦ペンシルバニア】

当時アメリカ軍は前例(アッツ島での玉砕)により、『撤退作戦の失敗が重なれば日本軍は直に徹底抗戦に出るだろう』と考えていたことに加え、撤退作戦前日にレーダーの誤認を日本軍の艦艇と勘違いし砲撃し、撃退したと思い込んでいた。その後、弾薬補給のため一日だけ警備ががら空きになっていた日に、(アメリカ軍の事情はもちろん知る由もない)日本海軍が救出作戦を行っていたため、アメリカ軍としては『前日に日本軍艦を砲撃し、撃退した』ので、次の日もノコノコと日本軍が救出作戦を試みるなど、予想が出来なかったのである。もちろん弾薬補給の後、アメリカ軍は翌日には海上封鎖を再開していた。
アメリカ軍は勿論日本軍が撤退したとは知らなかったため、通常通り艦砲射撃を行い、上陸作戦を行った。そのため上陸後、周囲を警戒するが、『いるはずの日本軍』が一向に攻撃を仕掛けてこないので兵士たちは疑心暗鬼に陥ってしまった。『いつ不意を付かれて襲われるか分からない』と更に兵士達の緊張状態が高まった結果、動く物を無差別に日本軍兵士と勘違いし同士討ちが起きたのである。アメリカ軍は前述の通り日本軍の撤退を知らなかったため、同士討ちが起きても仕方ない状況だったと言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B8%E4%BD%9C%E6%88%A6

キスカ島の日本軍は犠牲者を出さずに米軍に多大な損害を与えたことになるのだが、戦後のわが国では、このような戦勝国アメリカにとって都合の悪い史実はあまり知らされてこなかったし、また、日本軍の兵士たちが、人間的に温かみのある存在であったことについても描かれることはほとんどなかったと言って良い。

キスカ島に残された米空軍勇士の墓

キスカ島に上陸した米軍の兵士が、日本軍がたてた米軍のパイロットの墓を発見してカメラに収めている。上の画像は米国ではネットで多くの人が紹介しているようで、ネット検索で容易に見つけることができる。
墓標にはこう記されているのが読める。
“Sleeping here, a brave air-hero who lost youth and happiness for his Mother land. July 25 - Nippon Army.”
http://greatestgeneration.tumblr.com/post/43684663217/a-grave-marker-on-kiska-island-in-the-aleutians#.WCb6v9XfOUk

この墓は昭和18年の7月にたてられたものだが、同年の3月にも米軍兵士の墓をたてた記録が『キスカ戦記』に出ているので紹介しておこう。

昭和18年3月17日にキスカ島松が崎高角砲台の1番砲が被弾し23名の死傷者が出た。それから毎日のように対空戦闘が続き、3月31日に撃った弾が敵機5機のうち1機に命中し、キスカ湾上空で空中分解をはじめて回りながら海中に墜ち、敵機搭乗員の1人は黒焦げになってすぐ近くの谷間に落ちていたという。

松が崎砲台長・海軍大尉の三輪勇之進氏の手記にはこう書かれている。
「一番砲の戦友が死んだ時、砲台員は『敵の奴ら落ちて来てみろ、ただでは捨てておかんぞ』という言葉を繰り返した。私も敵を捕らえて一寸刻みに斬り殺したいと何度思ったかわからない。だが、黒焦げになって落ちてきた敵飛行機搭乗員の死体は誰が言い出すともなく土の中に葬られた。そして木の十字架をたて『アメリカ飛行士の墓、昭和18年3月31日戦死』という墓標が建てられた。鬼畜のような敵アメリカ人、戦友の命を奪った敵の端くれ、その死体を葬るよりほかに鬱憤の晴らし方を知らぬ部下の気持ちが私にはよく判った。それは武士道というものをも超えている。私も私の部下もこの自分自身の気持ちを持て余しながらどうすることもできないのだ。」(『キスカ戦記』p.238)

無名戦士の墓

以前このブログで、南京陥落に際して日本軍の死者だけでなく中国兵の死者の墓標を立てたことを写真付きで紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

日本兵は、仲間を何人も殺してきた憎むべき敵の兵士の亡骸を丁重に葬ってきたことについて、もっと広く知られて良いと思うのだが、戦後の長きにわたりわが国では、日本軍人のいい話が、マスコミや教材などで封印され、軍人は悪い存在だとして貶められてきた。しかしながら、憎き敵兵の墓標を立てて仲間と共に弔う軍人が「邪悪な存在」であろうはずがないではないか。

このブログで何度か書いてきたが、いつの時代もどこの国でも、勝者は勝者にとって都合の悪い史実を封印し、勝者にとって都合の良いように歴史を書き替えるものである。
そして戦後のわが国でマスコミや教育機関を通じて広められてきた歴史叙述は、所詮は第二次大戦の戦勝国にとって都合の良いように描かれたものであると言って良い。

中国軍が、わが国を戦争に引きずり込むために大量日本人居留民を虐殺した話や、都市空襲や原爆投下、シベリア抑留など戦争犯罪の重さはむしろ戦勝国側にあると思うのだが、多くの戦争犯罪に手を染めた彼らが「戦勝国にとって都合の良い歴史」を描くためには、日本に勝利することに大義があったというストーリーにするしかなく、そのためには日本軍はよほど邪悪な存在でなければそれが成り立たないことは、少し考えれば誰でもわかる。

「戦勝国にとって都合の良い歴史」を広めようとする側にとっては、日本の軍人のなかに国民の英雄が何人も存在したり、兵士が肯定的に描かれることは拙いことであり、そのために、戦前は教科書で英雄とされた乃木希助や東郷平八郎が、最近の標準的な教科書では名前すら記載されなくなってしまっている。司馬遼太郎が、小説の中で史実を無視して乃木希助を「愚将」と貶めて描いたのも、同様な理由で、何らかの圧力があったのではないかとも思う。

しかしながら、終戦後70年以上が経過し、戦勝国間の関係が大きく変化してきた。アメリカは財政的な理由からアジア太平洋地域に対する軍事関与を控えようとする動きがあり、一方で東アジアにおける中国の強引な海洋進出を警戒する動きもある。
中国にとってはわが国の国民の大多数がいつまでも『自虐史観』に洗脳されている状態が好都合なのだろうが、アメリカはその逆を考えることになるだろう。「戦勝国にとって都合の良い歴史」は、次第に一枚岩ではなくなっていくことになる。
ここ数年来、東京裁判史観を否定する書籍がわが国で相次いで出版されているのだが、それもその動きの一部であるのかもしれない。

最近の近現代史出版物

また、最近の歴史研究の動きは、近い将来に東京裁判史観を覆す可能性を秘めている。
第二次大戦前後にアメリカ国内に多数いたソ連のスパイやエージェントがモスクワの諜報本部と交わした極秘通信をアメリカ陸軍省特殊情報部が傍受していて、1946年以降に解読に成功した文書を『ヴェノナ文書』と呼ぶが、近年この研究が進んで、日米の政権や軍部の中枢部にソ連のスパイやエージェントが多数暗躍していたことが明らかとなり、日米戦争を惹き起こしたのはソ連のスパイたちであったという視点に立って、アメリカでは近現代史の見直しが進んでいるという。

このような研究成果が今後どの程度わが国に紹介されるかどうかはわからないが、いずれ「日本の軍国主義者が世界征服を狙って大東亜戦争を引き起こした」とする東京裁判史観は否定され、近現代史は全面的に見直される流れが強まることになるのだろう。

キスカ戦記

随分脱線してしまったが、キスカ島の話に戻そう。
京都にいる友人の紹介により奇跡のキスカ撤退作戦を経験された中村さんという方から体験談を拝聴する機会があり、その際に貴重な『キスカ戦記』という本を預かって、兵士たちの手記を読みながらここまで連載を続けてきた。

25mm機銃と兵士

私にとってはこれだけ多くの兵士たちの手記を読むのは初めての経験であったが、読み進んでいくと彼らの苦悩が痛いほど伝わってきて何度も涙がにじんだ。
ひと昔前なら、私自身もマスコミの垂れ流す歴史観に洗脳されていたので、戦争原因を作った日本軍兵士の手記などに見向きもしなかったと思うのだが、今回キスカ守備隊兵士たちの手記を読んで、その男らしさに感動し、最前線で身命を賭して戦われたことに感謝したい気持ちになった。

戦争となって最前線に派兵された兵士たちが、充分な闘志もなく、簡単に戦いに敗れてしまっていたとしたら、戦後のわが国はどうなっていただろうか。ドイツや朝鮮半島と同様に戦後日本列島は戦勝国に分断され、今も白人に支配されている国に成り下がっていてもおかしくなかったのではないか。

北清事変連合軍兵士

以前このブログで、義和団事変のあと英仏露独などの連合軍に統治された北京では、日本軍が統治した地域以外はいたるところで連合軍兵士による略奪や強姦が起こったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html
わが国が第二次大戦敗戦後にこの時の北京のような修羅場にならなかったのは、日本軍兵士が勇敢に戦ったことと無関係だとは思えないのだ。

マスコミなどが垂れ流してきた「日本軍人を邪悪な存在」とする従来のイメージを一旦リセットして、このシリーズで紹介した『キスカ戦記』の兵士たちの手記を多くの人に読んで頂きたいと思う。軍国主義臭のない、愛国心溢れる昔の日本人兵士たちの生の声が、なぜわが国のマスコミなどでほとんど伝えられてこなかったかについても考えて欲しい。

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【ご参考】ソ連のスパイやエージェントはわが国の政府や軍部の中枢にも根を張っていたことは、多くの史料で確認できますが、戦後のわが国では、「戦勝国にとって都合の悪い史実や史料」などは長い間封印されてきました。

興味のある方はこのブログの「戦争と共産主義」カテゴリーの記事をいくつか覗いてみてください。

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-411.html

日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-412.html

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-449.html

日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-450.html

【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。




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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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