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討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る

前回の『ええじゃないか』騒動の記事で、岩倉具視らの陰謀により、慶応三年(1867)十月十三日、討幕派の薩長両藩に『討幕の密勅』が下ったことに少しだけ触れておいた。

武力討幕派の薩摩長州両藩にとっては、もし将軍徳川慶喜が土佐藩の建白による大政奉還を決断するとなると武力で幕府を倒す大義名分がなくなってしまうばかりか、新政府の主導権を土佐に奪われかねないことになる。そこで、朝廷より「討幕の密勅」を受けて、武力討幕を進めようとするのだが、大政奉還される前日の十月十三日出された「討幕の密勅」は、朝廷の出す「詔書」として正式な手続きを経たものではなかったことが明らかになっている。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この勅書は明治天皇も摂政二条斎敬の手も経ずに書かれており、偽勅である可能性が限りなく高いと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

倒幕の密勅

この「討幕の密勅」の読み下し文はWikipediaでも読めるが、次のURLに口語で要約されている。読めばわかるが、驚くほど過激な内容になっている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

読み下し文はこうなっている。

「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族(ごうぞく=一門)の強を恃み、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万止むべからざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。此れ朕の願、敢へて懈る(おこたる)ことなかれ。」

要するに慶喜を暗殺せよと天皇が命じたことになるのだが、慶喜が将軍に着任したのは慶応二年(1866)の十二月五日だから着任してまだ10か月と日が浅く、ここまで恨まれるほどのことは何もしていないと思われる。要するに薩長は討幕ありきで、その為には慶喜を殺すしかないという考えなのだ。

この密勅は慶応三年(1867)十月十三日に薩摩藩に、その翌日に長州藩にも下され、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も下りている。

しかしこの討幕の密勅は、あとで記すが、十四日に将軍・徳川慶喜から大政奉還の上表が出されたために、中止されることになったという。

次に薩摩・長州とは別の立場をとる土佐藩の動きを追ってみよう。
土佐の坂本龍馬、後藤象二郎らが、天皇のもとに徳川及び諸藩が力を合わせて国内を改革する必要を唱え(「公儀政体論」)、彼らの働きかけで前藩主山内容堂は、15代将軍徳川慶喜に対し、政権を返還するよう建白した。
慶喜はこれを受け容れて、同じ十月十四日に朝廷に大政奉還を申し出て、朝廷はこれを受理し、これにより家康以来265年続いた徳川幕府はついに幕を閉じることになるという流れだ。

船中八策

龍馬が唱えた維新国家のグランドデザインは『船中八策』と呼ばれ、原文は次のようなものであったとされている。
「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。」

この『船中八策』の最初に書かれているのが『大政奉還』であり、龍馬の構想する維新国家は、まず幕府が大政奉還したうえで朝廷を中心とした統一国家を作り、上下両院の議会政治により討議すること、憲法を作ることなどが書かれている。

後藤象二郎や山内容堂がこれを受け容れ土佐藩の藩論としたのは、薩長による武力討幕を回避するためは、これ以外に方策はないと考えたのであろう。土佐藩が幕府に大政奉還の建白をしたのは十月三日で、十月六日には芸州藩も同様な大政奉還の建白をしているようだ。

553px-Taisehokan.jpg

この建白に対する幕府の対応は驚くほど早かった。徳川慶喜は十月十三日に十万石以上の諸藩の重臣を二条城に集めて大政奉還の諮問を行い、朝廷に大政奉還を申し出たのは十月十四日なのだ。

徳川慶喜は土佐藩などの大政奉還の建白をどう受け止めたのだろうか。もちろん薩長の武力討幕派の動きについては耳に入っていたはずだし、もし幕府と薩長とが戦えば双方が消耗して外国勢力の思う壺となり徳川家の存続どころではなくなる。一方、徳川幕府が大政奉還を受け容れれば、薩長による倒幕の大義名分がなくなり、内乱が回避され徳川家も安泰となる。徳川家としては、この選択の方がはるかにベターだと考えたのだろう。

Shogun-Tokugawa_Yoshinobu.jpg

しかし将軍慶喜は、大政奉還をしても徳川家の政権の実権を捨てることまでは考えていなかったようだ。朝廷側にとっては、幕府からいきなり政権を返上されても明治天皇の年齢は当時数えで16歳に過ぎず、朝廷に政権運営能力があるわけではない。慶喜には、大政奉還後にやがて組織されるであろう諸侯会議で、その後も政治的影響力を発揮できるという読みがあったようだ。

慶喜生前談話集である『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』という本には、「予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだ。」という趣旨のことが書かれていることが次のURLに紹介されている。
http://www2.dokidoki.ne.jp/quwatoro/faq2/faq2.cgi?action=answer&no=24

要するに、徳川慶喜は「船中八策」にあるように「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」と考えたのだ。さらに『昔夢会筆記』には、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)らは、慶喜を朝廷の摂政という形にしてそのまま実権をとり続けさせたいと思っていたことが、書かれているようだ。

 徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還の上奏文とその口語訳が次のURLで読める。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu10.htm

「臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慚懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上  慶喜」

最初に記したように、朝廷はこの大政奉還により十月二十一日に『討幕の密勅』の中止を指示している。そして、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し、二十三日には外交権がまだ江戸幕府にあることを認める通知が出ているという。大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の動きにより、次の新政権に徳川慶喜が擁立される可能性は少なからずあったようなのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0#cite_ref-2

しかし武力討幕派の薩摩・長州両藩は慶喜の復権を認めるつもりはなく、密かに強引なる政変決行の準備をしていたのである。

慶応三年(1867)十二月八日、岩倉具視は自邸にて薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し協力を求め、翌朝の朝議のあとに、待機していた尾張・土佐・薩摩・越前・安芸の五藩の兵が京都御所の九門を閉鎖し、御所への立ち入りを藩兵が厳しく制限した中で、親王、公卿のほか五藩の諸侯を集め、明治天皇(15歳)が『王政復古の大号令』を下したという。その宣言は次のようなものであった。

「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。」

この宣言により江戸幕府は廃止され、京都守護職・京都所司代も、摂政・関白も廃止され、徳川慶喜は将軍職を辞職し、新たに設けられた総裁、議定、参与の三職にも徳川慶喜は選ばれなかったのである。また「小御所会議」では徳川慶喜の内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることまでも決めたとある。このような重要な決定が、慶喜不在で行われたというのだ。これは慶喜がとった大政奉還策に対して武力討幕派がこれを覆すクーデターのようなものではないか。

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小御所会議の様子はWikipediaなどに書かれている。
この会議で山内豊信(容堂)ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。特に山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。
そのやりとりの後で、岩倉具視らは徳川慶喜が「辞官納地をして誠意を見せるべき」と主張し両者譲らず、会議の休憩が宣言される。その休憩中に西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べて岩倉を勇気付け、このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決したのだそうだ。(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

一方的に御所警備の任を解かれ追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちは二条城に集まり、口々に「薩摩を討つべし」と騒いだという。慶喜の配下には幕兵5千余、会津3千余、桑名千五百余の1万近くの充分な兵がいて、一方の武力討幕派の方は薩摩藩の兵3千、長州の兵2千5百で、慶喜がその気になって戦えば勝つ可能性は高かったと思われる。しかし慶喜は戦おうとはせず、大阪に退き下がってしまった
この時に大久保利通は慶喜が抵抗もせずに、あっさりと大阪に退いたのに驚いたのだそうだ。大久保はこの時に慶喜との戦いに敗れることまで想定して、天皇を連れて広島あたりまで逃げることまで練っていたという説もある。

坂本龍馬

以前このブログで4回に分けて土佐藩の坂本龍馬が暗殺された原因を考えたことがあるが、龍馬の暗殺は十一月十五日で、十月十四日の「大政奉還」と十二月九日の「王政復古の大号」令の間に起こっているのだ。前回の記事に書いた『ええじゃないか』騒動もこの時期に起こっていることに、もっと注目してもいいのではないだろうか。

幕府から権力を奪うことになった大政奉還の方策を考えた坂本龍馬を憎いと考えた佐幕派が龍馬の命を狙ったとするのか、大政奉還の建白によって新政府に向かう主導権を土佐藩に奪われることを怖れて武力討幕派が狙ったとするのか、ほかにも諸説があるのだが、このような歴史の流れを知れば知るほど、私には武力討幕派が一番怪しいように見えてくるのだ。
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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか

前回の記事で、フランス公使ロッシュの献策により、慶応3年(1867)5月に朝議の場で徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得、井伊大老の調印した通商条約の不備を補完して対外公約を果たし、これにより幕府は、諸外国から苛烈な要求をする原因を封じることに成功したことを書いた。

徳川慶喜はその2ヶ月前に大坂で各国の公使と謁見しその席で兵庫開港を確約したのだが、この時の慶喜は各国公使に好印象を与え、これまで討幕勢力を支援してきたイギリスの公使・パークスも慶喜を高く評価して次のような感想を書きとめている。

イギリス公使・パークス

わたしは将軍がどのような地位をしめることになろうと、可能な限りかれを応援したいと思っている。」
「この大阪訪問によって、とりわけつぎのような好ましい結果が生まれることを、わたしは信じて疑わない。それは、われわれ諸外国の代表が、以前よりもいっそう深い関心を将軍に対してもつようになることである。」
じっさい、将軍は、これまでわたしが知り合った日本人の中で、もっともすぐれた人物であるように思われる。おそらく、かれは、歴史にその名をとどめることになるであろう。」
(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄4 慶喜登場』p.409より)

これまで討幕派を支援していたイギリスの公使が、徳川慶喜という人物に謁見した途端に幕府・将軍に心を寄せることになることは、薩長にとっては面白くないことであることは言うまでもない。

この謁見のあと、西郷隆盛らがイギリス公使館の対日政策に関わっていたアーネスト・サトウを訪ねている。サトウの著書にはこう記されている。

アーネスト・サトウ

「私は、西郷やその一派の人々の訪問をうけたことを覚えている。彼らは、我々と将軍との接近について、大いに不満であった。私は、革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一たん開港されるとなると、その時こそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.255)

慶喜は慶応3年(1867)6月6日付で、「慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)から兵庫港を開港し、江戸・大坂両市に外国人の居留を許す」との布告を出しているのだが、いったん兵庫港が開港されて外国人が居留するようになれば、諸外国は平和を求めることになり、薩長の討幕運動は外国からの支持を得られなくなってしまうことをサトウは西郷らに伝えたのであろう

その後の薩摩藩の動きを見ていると、このサトウの言葉に触発されたことが窺えるのだ。
徳川慶喜が兵庫開港の勅許を得ようとした5月の朝議(四候会議)で結論を先延ばしにする工作を行っていたのだが慶喜に押し切られてしまい、その会議の直後に薩摩藩は武力討幕の方針を固めている

一方徳川幕府は、前回記事で記したとおり、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備していた。幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようである。

慶応3年(1867)8月に薩摩藩の西郷隆盛らが再びアーネスト・サトウを訪ねてきた際に、サトウが西郷らに話した内容が前回紹介した『幕末期東亜外交史』に出ている。フランスは、イギリス大使のパークスが慶喜びいきになったのを見て、共同で薩長を倒そうとサトウに持ちかけてきたというのだ。その本にはこう記されている。

仏人はサトウに、幕府の薩長取り潰しを仏英協力して援助してやろうではないかと、話を持ち掛けてきた。サトウは『串戯(じょうだん)でしょう。長州一藩さえ抑え切れぬ幕府など、援助しようにも方法がつかぬではないか。』とやりかえしたので、仏人も二の句がつけなかったようなわけです。しかしかかる論を公然とイギリス人にもちかける位ですから、フランスは、きっと幕府を援けて、諸侯をつぶす策をめぐらしていることは勿論で、幕府は『両三年のうち、金を集め機械を備え、仏(フランス)の応援を頼み、戦を始め候所存』とみえる。その時は、仏は、軍隊をくり出して幕府を援助するだろうから、諸侯の方でも、仏に負けない大国を背後に備えないと、危ないことになろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041865/141

「仏に負けない大国」とは、イギリスを指していることは言うまでもない。
そうサトウが述べた後に西郷らに対してイギリスに相談したいことがあれば言ってもらいたいと持ちかけた際に、西郷隆盛が語った有名な言葉がある。
日本政体変革の処は、いずれとも、我々尽力致すべき筋にて、外国の人に対し、面皮もなき訳と返答いたし置き申し候。」
要するに、日本の革命はわれわれ自身の手で行うことをサトウに宣言したのだ。

西郷隆盛

西郷が国許の桂に宛てた手紙に、この会談でサトウが西郷らに何を言い西郷がどう考えたかについて、こう記録されている。
譬(たと)え仏の援兵を相発し候時は、英国より押し付け候儀は相調(ととの)い申すべく、その節は英国においても戦争のため警護出兵いたすと申し触らし、同敷(おなじく)軍兵を差し出し候えば、必ず仏国の援兵は差し出し候儀は相叶い申さず候に付き、右のご相談も候わば承るべしと、却(かえ)って彼(サトウ)の方より申し出候に付、是は大幸の訳、其の時機に至りては御相談申すべしと相答え候ては、又英国に使役せらるる訳に相成り候のみならず、全く受太刀に落ち来り、議論も鈍り、此の末の処下鳥(したどり。負け犬というほどの意)に相成り候儀、自然の勢いに御座候故…」(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄5 外国交際』p.273-274)

サトウの言う通りに幕軍に対抗するためにイギリスの出兵を依頼してしまっては、たとえ幕府軍に勝利しても、わが国はイギリスに支配される国になってしまうことは西郷にはわかっていたのだ。しかしながらイギリスは、わが国が内乱状態に陥ることを期待していたからこそ、薩長を挑発し続けたのではなかったか。

大政奉還

そしてその2カ月後には、徳川慶喜は朝廷に政権を返上しているのだが、この時代の歴史はいくら教科書を読んでも、なぜ慶喜が大政奉還を選択したかがさっぱりわからない。

たとえば、標準的な高校の教科書である『もう一度よむ山川日本史』では、その前後の歴史についてこう記されている。

「長州再征の失敗後、徳川(一橋)慶喜が15代将軍となったが、幕府の力はすっかり衰えた。土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎らは、欧米列強と対抗するためには、天皇のもとに徳川氏・諸大名・藩士らが力をあわせて国内を改革する必要を強く感じた(公議政論)。彼らのはたらきかけで、前土佐藩主山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に政権を朝廷に返上するよう進言した。慶喜もこれを受け入れ、1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出た。しかし同じころ、薩長両藩の武力討幕派は、岩倉具視ら急進派の公家と手をむすんで討幕の密勅をえた。そして彼らの主導によって、同年12月9日、いわゆる王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士などからなる新政府が発足し、二百数十年つづいた江戸幕府は滅亡した。」(『もう一度よむ山川日本史』p.216)

ほとんどの教科書には、イギリスやフランスの動きにも兵庫開港問題にも何も触れておらず、これではなぜ薩長が討幕を急いだかが見えてこないし、幕府と討幕派との内戦が始まってもおかしくない緊迫感が全く伝わってこない。これでは慶喜が朝廷から兵庫開港の勅許を得てからわずか5カ月で大政奉還を申し出たかが理解できないのは当然だと思う。

そもそも将軍慶喜が土佐藩の大政奉還建白を受けいれた意図はどこにあったのだろうか。

徳川慶喜

次のURLに徳川慶喜の『大政奉還上表文』の原文と現代語訳が出ている。
http://www.geocities.jp/sybrma/259taiseihoukan.html
重要なのは次の文章である。
「最近は、外国との交際が日に日に盛んになり、ますます政権が一つでなければ国家を治める根本の原則が立ちにくくなりましたから、従来の古い習慣を改め、政権を朝廷に返還申し上げ、広く天下の議論を尽くし、天皇のご判断を仰ぎ、心を一つにして協力して日本の国を守っていったならば、必ず海外の諸国と肩を並べていくことができるでしょう。私・慶喜が国家に尽くすことは、これ以上のものはないと存じます。しかしながら、なお、事の正否や将来についての意見もありますので、意見があれば聞くから申し述べよと諸侯に伝えてあります。」
内容的には、慶応4年(1868)3月に公布された明治天皇の『五箇条の御誓文』の内容によく似ているのである。

開国の真実

今まで何度か紹介した鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう解説されている。
「大政奉還1ヶ月前の慶応三年(1867)九月には、幕府開成所教授津田真道が著書『日本国制度』を提出し、大政奉還後の政治体制のあり方について論じている。徳川慶喜が考えた大政奉還とは。『自らの力で開国を成し遂げ、慶喜が中心となってイギリス型の近代的議会主義へ転換すること』だったのである。
 イギリスは、共和国のフランスやアメリカと異なり、国王を元首とする立憲君主制で、国王は『君臨すれど統治せず』の原則により政治責任をおわない。首相が政治上の指導者である
 イギリス立法府は上院と下院からなる二院制で、上院は世襲議員や僧侶から構成され、イギリスには今も貴族制度が残っている。
 だから、当時の日本が天皇制や公家制度など古(いにしえ)からのしがらみを遺しながら近代化を図るには、イギリスを手本として、天皇を国家元首とし、大君(将軍)を政治上の指導者とし、一万石以上の大名を世襲の上院議員とすれは、容易にイギリス型公議政体に移行できる。
 徳川慶喜は『刀槍の時代の次は議会の時代』と考えた
のである。」(『開国の真実』p.308-309)

アーネスト・サトウが予想していたように、徳川幕府がフランス軍の協力を得て、薩長等の討幕勢力を征伐する選択もあったのだろうが、徳川慶喜はそれを選択せず、平和的に政治体制を変革することを選んだのである。
慶喜は、大政奉還を奏上しても朝廷には政権を運営する能力も体制もないので、徳川家が天皇の下で新政府に参画すれば実質的に政権を掌握することができると考えていた可能性が高い。事実朝廷からは、上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会同召集までとの条件付ながら、緊急政務の処理が引き続き慶喜に委任され、将軍職も暫時従来通りとされている。つまり慶喜による政権掌握が実質的に続くことになったのである。

もし、慶喜が大政奉還ではなく倒幕勢力を征伐することを選択していたとしたら、恐らくイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する大規模な戦いが始まっていたことであろう。
以前にこのブログで書いたが、幕末期にわが国に大量に輸入されたミニエー銃は、従来のゲペール銃と較べ、飛距離と命中精度と破壊力が飛躍的に向上し、アメリカの南北戦争では62万人もの戦死者が出たという。
幕府軍と薩長との間で本格的な内戦が起こってしまっていたら、殺傷力の高い武器で多くの人命が失われていただろうし、国土は荒廃し人々は疲弊して、どちらが勝利しても我が国が独立国であり続けることは難しかったと考える。

英邁な徳川慶喜はそのような事態になることが分かっていたからこそ、討幕派の機先を制して「大政奉還」を奏上し、討幕の名目を奪って内乱が起こることを防ごうとしたのではなかったか。

一方の討幕派は、大政奉還に対抗して薩摩藩および長州藩に宛てて秘密裏に徳川慶喜討伐の詔書を下している。
この「討幕の密勅」について書き出すとまた長くなってしまうので、次回に記すことといたしたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国
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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

幕末の動乱期にわが国が独立を維持できた背景を考える~~GHQが封印した歴史 3
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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語
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ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4
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アメリカはいかにしてスペインからフィリピンを手に入れたか~GHQが封印した歴史6
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【ご参考】
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大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか

前回の記事で徳川慶喜が1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出たことを書いたが、その同じ日に正親町三条実愛(おおぎまちさんじようさねなる)邸にて薩摩の大久保利通、長州の広沢真臣(さねおみ:当時は兵助)に討幕の密勅が手渡され、薩摩藩および長州藩はその請書を提出している。

この『討幕の密勅』はかなり過激な内容になっていて、次のURLにその読み下し文が出ている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

討幕の密勅

「詔す。源慶喜は累世の威をかり、闔族(ごうぞく=一門)の強をたのみ、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めておそれず。万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)におとしいれて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕今民の父母となる、この賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報ぜんや。これ朕が憂憤の在る所、諒闇(りょうあん=天皇の喪服期間)にして顧みざるは、万やむを得ざればなり。汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ。
慶応三年十月十四日、正二位・藤原忠能、正二位・藤原実愛、権中納言・藤原経之、奉る。」

簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえと天皇が命じた文書なのだが、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も同時に下りている。

ところが、この『討幕の密勅』は正式な手続きを経て作成された詔書ではなかった。
Wikipediaによると、天皇の命令文書である詔書は次のような手続きを経て作成されるものだという。
「1.天皇は、作成された原案を承認すれば、自らの手で日付の一字を記入する(御画日)。
2.摂政・関白は、写しが送られてくると朝廷会議を開催して検討し、妥当と決すれば施行を奏上する。
3.天皇は、可の一字を記入して許可する(御画可)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

ところがこの『討幕の密勅』は、
明治天皇の御画日も御画可も欠き、摂政二条斉敬の手も経ていないものであった。二条斉敬は慶喜の従兄で親徳川派だったため、密勅の内容を知ればこれを許さなかったと思われる。後に正親町三条実愛は、密勅は二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で、自分と中御門経之・中山忠能・岩倉具視だけが知っていたと証言している。」
とWikipediaに解説されている。

三条実愛
【三条実愛】

そもそも当事者である三条実愛自身が後日「二条摂政にも賀陽宮朝彦親王らにも極秘で」と証言しているのだから、この詔書は本物でなかったことは明らかである
要するに、岩倉具視ら天皇の側近の一部の者が、自己の野心を遂げるために、天皇や摂政に無断で書かれたものでありながら天皇の命令であるとして広められた文書なのである。

国立国会図書館デジタルコレクションに『大久保利通文書』全10冊が公開されている。
その第二冊に慶応3年10月から明治元年の大久保利通に関わる文書が掲載されているのだが、慶応3年10月8日付で薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵の3名連名で中山前大納言*、正親町三条大納言、中御門中納言宛に『討幕の宣旨降下を請う書』と『討幕の宣旨降下を請う趣意書』を提出している
*中山前大納言:中山忠能(ただやす)。明治天皇の外祖父
**中御門中納言: 中御門経之。妻は岩倉具視の実姉。

『討幕の宣旨降下を請う書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/17
『討幕の宣旨降下を請う趣意書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/18

討幕の密書請書 毛利家文庫
【討幕の密書請書】

そして10月14日付で大久保ら6名の連署で中山前大納言、正親町三条大納言、中御門中納言と岩倉具視宛に『討幕の密勅請書』を差出しているのだが、登場人物の大半が同じであることに注目して良い。要するに自作自演なのだ。
少なくとも薩摩藩にとっては詔書が正式な手続きで出されたかどうかはどうでもよく、朝廷からの討幕の要請が正式に出されたかのように振舞って、それを薩摩藩が引き受けた体裁をとっておけば、「討幕」の大義名分がたつと考えたのだろう。その勢いで討幕勢力を糾合させ、王政復古に持ち込む戦略だったのだと思う。
『討幕の密勅請書』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075746/24

一方、慶喜が朝廷に提出した大政奉還上表』については、翌15日の朝議で勅許が決定して慶喜には大政奉還勅許の沙汰書が授けられている。そして、10月21日には、薩長両藩に対しては討幕の実行延期の沙汰書が下されている
はっきり言ってこの時期の朝廷は二条摂政や賀陽宮朝彦親王*ら親幕府派の上級公家によって主催されていて、大政奉還がなされても、朝廷の下に開かれる新政府は慶喜主導になることが当然予想されていた。討幕派はいずれそれを引っくり返すために、早くから武力討幕の準備を着々と進めていた。
*賀陽宮朝彦親王:中川宮、維新後久邇宮

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、大政奉還の2ヶ月前の8月20日に木戸孝允と坂本龍馬が密談をしたことが紹介されている。しばらく鈴木氏の著書を引用させていただく。

「この日、木戸孝允は坂本龍馬に、
『…どうか大政返上のことも、七、八分まで行けば、その時の状況で十段目は砲撃芝居以外にはやり方がないだろうと思う』
と話し、坂本龍馬は大いに感服して同意
した。そして坂本龍馬は、9月24日、オランダのハットマン商社から購入したライフル銃1千挺を土佐藩で兵制近代化を進める板垣退助に届けた。
 木戸孝允は坂本龍馬に、アーネスト・サトウ(イギリス公使館員)から示唆された、
『幕府が大政奉還により公権力の名分を失った後に、私闘として武力で幕府を倒す』という『二段階革命論』を吹き込んだ

 …
こうして事態はどんどん進んでいった。討幕の密勅が下った薩摩藩では、藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])、西郷隆盛らに率いられた薩摩藩兵三千人が四隻の汽船に分乗して11月13日鹿児島を出発し、長州藩領三田尻港を経由して京都を目指した。…
長州藩では奇兵隊・游撃隊など諸隊千二百人が六隻の軍艦に分乗して11月25日藩地を出発し、芸州(広島)藩からは11月28日に藩兵三百人が入京し、11月末には薩摩・長州・芸州藩兵約五千人が京阪神地方に集結
して事態はいよいよ緊迫の度を深めた。」(『開国の真実』p.317-318)

兵庫港が開港される日は慶応3年12月7日(西暦1868年1月1日)で、そのまま開港されてしまえば、将軍慶喜のリーダーシップを内外に印象付けるとともに、貿易が開始されることで諸外国は平和と安全を望むようになる。討幕派が政変を起こすとすれば、少なくとも兵庫開港から遠く遅れない時期に起こさなければならないと考えていたのである。そして11月末には薩長等の討幕軍が畿内に集結してクーデターの舞台が整った。

岩倉具視
岩倉具視

兵庫開港の翌日の12月8日に岩倉具視は薩摩・土佐・芸州・尾張・越前五藩の重臣を自邸に集めて王政復古の断行を告げ、協力を求めている。
そして翌12月9日、朝議が終了して公家衆が退出した後、待機していた五藩の兵が御所の九門を封鎖し、御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条摂政や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳の参内が禁止されたという。
そうした中、岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、慶喜の将軍職辞職勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、江戸幕府の廃止、摂政関白の廃止などを決定し、天皇のもとに新たに総裁、議定、参与の三職を置くことを定めている。

夕刻行われた小御所会議について、再び鈴木荘一氏の著書の解説を引用させていただく。

山内容堂
山内容堂

「このように世上騒然とするなか、12月9日、朝廷において小御所会議が開かれた。
 参加者は、15歳になる明治天皇ならびに公卿衆、大名としては尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)、土佐藩の山内豊信(容堂)、薩摩藩の島津忠義、芸州(広島)藩の浅野茂勲(しげこと)の5人である。徳川慶喜は除外されていた。会議では、まず議定中山忠能が『徳川慶喜の官位拝辞と所領四百万石の没収』いわゆる『辞官納地』を主張した。これを聞いた山内豊信(容堂)は怒りを顕し
『なんたることを言われるか。およそ本日のことは頗る陰険にわたっている。徳川慶喜は祖先より受け継いだ将軍職を投げうち、政権を奉還された。その忠誠は誠に感嘆に耐えない。また徳川慶喜の英明は天下に聞こえている。すみやかに徳川慶喜を朝議に参加させて意見を述べさせるべきである。二、三の公卿たちはなぜ今日のような武断を行い、あえて天下の乱階(らんかい)を開こうとされるか』
と反論した。堂々たる正論である。誰も反論することは出来なかった。
その直後、勢いに乗った山内豊重(容堂)の口が滑った。山内豊重(容堂)は、更に続けて
『この暴挙を敢えてした二、三の公卿の意中を推しはかれば、幼冲の天子を擁して、権力を私(わたくし)しようとすもの!』
と断定し、岩倉具視を厳しく糾弾したのである。…(略)…
 突然、矢面に立った岩倉具視は、まなじりを上げて反撃に出た。岩倉具視は、
『御前でござるぞ、お慎みあれ。『幼い天子を擁して』とは無礼にもほどがあろう』
と山内豊信(容堂)を一喝した。岩倉具視は、さらに続けて、
『徳川慶喜が本当に反省しているなら、自ら官位を退き、土地を朝廷に還納すべきである。朝議参加はそれからのことである。』
と声を励まし居丈高に主張した。

…(略)…
しかし越前藩の松永慶永(春嶽)、尾張藩の徳川慶勝、芸州(広島)藩の浅野茂勲は、徳川慶喜の出席を求める山内豊信(容堂)の意見に同調した。山内豊信(容堂)の意見が正論であり常識的だったからである。議論は深夜におよび、膠着した。そして一時休憩となった。
この休憩時間に、薩摩藩士岩下左次右衛門が西郷隆盛に意見を求めると、筒袖・へこ帯に刀を差しただけの姿で警備にあたっていた西郷隆盛は、
『短刀一本あれば片付く事ではないか。このことを岩倉公にも一蔵(大久保利通)にも、よく伝えてくれ』

と言い放った。西郷隆盛『山内豊信(容堂)が会議再開後も慶喜の出席を求めて抗論するなら明治天皇の御前であっても山内を刺殺すべき』と言った。
…(略)…
西郷の意向を聞いた岩倉具視は『なるほど』と唸り、山内刺殺の決意を固め、短刀を懐に入れた。
西郷の意向と岩倉の決心を聞いた山内豊信は、論争は最早これまで、と観念し沈黙した。
 こうして朝議は徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めた。

 結局…、イギリス型公議政体への移行を理想とした徳川慶喜の大政奉還は、
『武力討幕派に隙を見せただけ!』
 という不毛な結末に終わった
のである。」(同上書 p.318-321)

二条城二の丸御殿

こんなひどいやり方で、小御所会議で徳川慶喜の『辞官納地』が決定した時、慶喜は京都の二条城にいた。当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいて、討幕を目指す薩長軍も約5千人が京都にいて、幕府軍と一触即発の情勢であったという。

慶喜が、その後どう対処したかについては次回に記す事としたい。

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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった

前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。
当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろうか。

国立国会図書館デジタルコレクションに大正7年刊の『徳川慶喜公伝.』が公開されている。その巻4に、幕府軍の反応が記されている。(文中の「公」は慶喜を意味している。)

徳川慶喜公伝

「旗本の将士をはじめ、会津・桑名・彦根・津・大垣諸藩は、王政復古の発令を聞くや、皆結束して二条城に集まり、松平肥前守、松平越中守もまた入城す。…中にも会桑二藩の士・遊撃隊の兵士等は、烈火の如くに憤り、頻りに討薩を論じて止まず。皆曰く『将軍家既に政権を奉還あり。朝廷にても今後の大事を公議世論に依りて定めんとて諸大名を召されたれば、万機の事、諸大名会同の上に決し給うべきを、俄に今日の事に及ばれしは何事ぞや。よしや改革を急がるるの事情ありとも、在京の諸大名何ぞ五藩*に限らん。然るに諸藩に謀らず、将軍家をも疎外(そがい)して、かかる大変革を行われしは、嚮(さき)に将軍家に下されたる御沙汰にも背き、諸大名を召されたる御趣旨にも合わず、これ全く薩藩が二三の公卿と謀り、幼冲の天皇を擁して私意を遂げんとするものなり。打捨て置かば徳川家は夷滅さられ、天下は擾乱(じょうらん)せん。彼等既に兵力を以て禁闕(きんけつ:皇居)**を擁する上は、とかくの議論は無用なり。ただ速やかに討薩の表を上りて、君側の奸を除かざるべからず』と。公は固くこれを制して暴動を禁じ給いければ群議の間に日は暮れたり。若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守重固**らは、公の決断し給わざるを慨嘆し、板倉伊賀守***に迫りて、『嗚呼将軍家の御心底こそ甲斐なけれ。御決心さえあれば会桑はいうに及ばず、満城の将士孰れも公憤に募れり。一戦して薩賊を撃捷すべきは易々たるのみ』と、或は怒り、或は泣きて之を訴う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/156
*五藩:王政復古の大号令のあとの朝議に参加した薩摩・土佐・芸州・尾張・越前の五藩
**竹中丹後守重固(しげかた):江戸幕府後期の旗本。幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍し、慶応3年(1867)若年寄並陸軍奉行に就任。
***板倉伊賀守:板倉勝静(かつきよ)。幕末の江戸幕府の奏者番・寺社奉行・老中首座。


竹中重固
【竹中重固】

このように、幕府軍の兵たちは暴発寸前となっていたのだが、徳川慶喜がそれをさせなかったことが記されている。

では討幕軍の立場で書かれた書物では、幕府軍はどのように描かれているのか。明治43年刊の『大久保利通伝 中巻』に、この時の幕府軍の様子や、京都が天下分け目の戦いの戦場となることを恐れて、逃げ惑う民衆で京都が大混乱したことが記されており、『徳川慶喜公伝.』の記述が決して誇張でないことが確認できる。

二条城二の丸御殿

「…幕兵及び会・桑等の幕府党は、悉く二条城に集まりて、城の内外に屯集したり。幕府党は、この大変革をもって薩藩士たる利通および西郷らが二三の京紳に結び、幼帝を擁して第二の徳川氏たらんと謀るものなりとて、激昂すること最も甚しく、あるいは直に薩邸を襲撃せんと唱え、殆んど制止すべからざる形勢となり。動乱の機は、まさに旦夕に迫れる状況なりき。京師の市民は、元治元年の兵火に懲りしが今日は之にまして、天子と将軍家との天下分目の戦争なりとて、上下貴賤の別なく、人心恟々として安する所を知らず、あるいは近郷に匿れ、あるいは南都に逃れる等、非常の混雑を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781139/164

蛤御門の変の大火

文中の「元治元年の兵火」とは1864年に薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐した「禁門の変(蛤御門の変)」を指している。この時長州勢は、長州藩屋敷に火を放って逃走し、また会津勢も長州藩士が隠れているとされた家屋に火を放ったため、またたく間に火が拡がって、北は一条通から南は七条通りの広い範囲が焼け、本能寺も東本願寺も焼けてしまう大火災となり京都の27千世帯が焼失したという。(「どんどん焼け」)上の画像は『京都大火略図』で図の右側が北にあたり、赤い部分がこの時に焼失した地域を示している。
Wikipediaによると禁門の変の時の幕府軍は約3200名とあり、王政復古の大号令の時は幕府軍だけでもその3倍はいたので、京都の民衆が大火を恐れて逃げ惑ったのは当然の事なのだ。

話を、二条城に集まった幕府軍の話に戻そう。
小御所会議の翌日(10日)に、尾張藩の徳川慶勝、越前藩の松平慶永(春嶽)が二条城に向かい、慶喜に対して、将軍職辞職と辞官納地が朝議で決定したことを諭達したのだが、その会議で決まったことはすでに二条城の兵士達にも洩れ伝わっていたという。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第65巻』に、松平春嶽に同行した越前藩の中根雪江の手記が引用されており、中根雪江はその時の二条城の様子をこのように記録している。

中根雪江
【中根雪江】

「…今日御城中之形勢、旗本幷(ならびに)会桑之諸士、多くは甲冑を帯し、抜身(ぬきみ)の槍(やり)を立て、草鞋を穿(うがち)ながら御座敷処々に充満して、強暴之声焔尤甚し。二候(徳川義勝、松平慶永)御平服にて、其中を御押分け被成候而之御往来、甚(はなはだ)危殆にて、御伴せし吾輩に於て、懸念を極めたり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/190

松平春嶽
【松平春嶽】

また松平春嶽の手記も残されていて、徳富蘇峰の著書に引用されている。これを読むと、二条城が戦闘の準備に入っていたことは確かである。

「実に二条城の形勢畏るべし。今にも剣にて突殺さるるやに覚え申し候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/195
「さて、城中の塩梅(あんばい)は、やはり慶喜公はじめ、薩長土藩の士と、戦端を専ら開くことを主張せらるる様、憶測なれど考えられ候。いかんとなれば、老中はじめ藤堂その外御譜代大名、紀州その他の諸大名、兵隊の書付調べ、また玉薬、即ち弾薬の調べこれあり、慶喜公手元にては、鉄砲弾薬の調べこれあり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/196

松平春嶽はここで内乱となることは避けるべきだと考え、慶喜公に対して、ここで幕府から戦端を開いては朝敵となり、300年続いた徳川家も消えてしまうことになると述べ、慶喜の考えを問うたのだが、慶喜には幕府軍から戦端を開く考えはなく、将軍職辞職と辞官納地の件については異存ないが、すぐにでも暴発しそうな幕軍の人心を鎮めてから請けることにしたいと答えたという。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

その翌日の二条城の様子が『徳川慶喜公伝. 巻4』に出ている。
11日に至りては、二条城内外の紛擾益(ますます)甚だしく、討薩の声喧しくして、殺気彌(いよいよ)揚がり、会薩の二藩士市中に行逢いて刃傷(にんじょう)に及ぶもあり、戦乱の爆発は必至の勢となる。中にも老中格松平豊前守、若年寄兼陸軍奉行竹中丹後守等は過激なる挙兵論者にして(七年史戊辰始末)板倉伊賀守の沈重なるさえ、書を関東の同列に飛ばして、歩騎砲の三兵及び軍艦の西上を促し足る程なりき(稲葉家文書)。此の日公は親しく諸隊長を引見して曰く『我等割腹せりと聞かば、汝ら如何ようにもなすべし。我等斯くてあらん間は決して妄動すべからず』と、厳に達せらる (昔夢会筆記) 。されども公は尚心安からず思召し、命じて旗本の兵五千余人、会藩の兵三千余人、桑藩の兵千五百余人を城中に集めて、外に出づるを禁じたり。城門の通行は入る者よりも出づる者を取締りしは、専ら暴挙を伏せがんとの用意なるべし。たまたま薩藩の兵城下に迫る由風説ありて、何人の指図ともなく、大手廻りの土塀に矢狭間を切り開きしかば、目付の驚きて制止せる事あり。また薩藩の兵、竹屋町押し寄せたりという風説ありし時、衆益々忿怒し、相争うて出でんとす。会藩士手代木直右衛門・中根雪江・酒井十之丞を見て『先んずる時は人を制す。今之を討たずんば戦機を失わん。卿ら如何に思う』と血眼になりて詰問せしかば、両人はその虚伝なるを説き、且つ『闕下に乱階を開かば朝敵も同様なり』と弁論して、纔(わずか)に宥むることを得し事あり。然れども将士の憤怒は極度に達し、一戦して薩藩に報いんと、殆んど狂せるが如く、叱咤・慷慨、殺気天を衝く (丁卯日記*) 。公もさすがに薩長が朝廷を擁して革新の政を布きたる手段には、不満の情おわしたらんも、天下・国家のためにこれを容忍せられ、極めて少恩なる復古令に甘従し、激昂に激昂を重ねたる幾万の家臣を抑制し、断乎として挙兵の衆議を却け給えり。此の際における公の苦衷は、唯公の知る所にして、後人の推測の及ぶところにあらざるべし。」
*『丁卯日記(ていぼうにっき)』:越前藩の中根雪江の日記。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/158

このように徳川慶喜は、城門から出る者を取締り、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、断固として挙兵することを許さなかったのである。

松平春嶽の手記によると、
「慶喜公言う、家来ども頻(しき)りに兵端を開き候よう申し聞き候えども、余は朝廷に対し恐れ入り奉り、且つは祖先の汚名を千歳に流すことは、決て致さず候間、」とあり、慶喜は幕府が朝敵の汚名を蒙りたくないとの思いが強かったようなのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/197

板倉勝静
【板倉勝静】

老中筆頭の板倉勝静(かつきよ)も記録を残している。板倉自身の考えが書かれているのだろうが、慶喜も同様な考えであったのだと思う。
簡単に意訳すると、
「薩摩は天皇を擁しており、薩摩を討伐しようとすることは、朝廷に向かって発砲することになる。こちらから戦端を開けば、彼らの術中に陥って我々は朝敵とされてしまうことだろう。決して軽挙妄動すべきではない。
そのうえ二条城では幕兵の鎮撫は難しく、またこの城は防御に適した城ではない。そのうえ、狭い地域に住宅が密集している京都で火が放たれば、またたく間に拡がって都の大半が焼けてしまうことになり、多くの犠牲者が出ることが避けられない
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/208

かくして二条城では京都から大坂に向かうことが決議され、12日になって慶喜は二条城を離れて大坂城に向かっているのだが、慶喜が喧噪の京都を去ったのは他にも理由がありそうだ。
「王政復古の大号令」で武力討幕派が政権の中枢を握ったことは確かなのだが彼らは少数派であり、多くの諸侯は平和解決を望んでいたのである。その点については次回に記す事と致したい。

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西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
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江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府

前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。

武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず、諸侯の大多数は平和解決を望んでいたという。では彼らはどう動いたのか。

山内容堂
【山内容堂】

9日の『王政復古の大号令』の出た夕刻に開かれた小御所会議で、『短刀』で発言を封じられた土佐藩の山内容堂は、12日に意見書を朝廷に奏上している。

鈴木荘一氏の『開国の真実』に、その内容が要約されているので紹介したい。

「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)

この意見書を原文で読みたい場合は、『国立国会図書館デジタルコレクション』で徳富蘇峰の『近世日本国民史 第65巻』に出ているので参照いただきたいが、蘇峰の解説がわかりやすいので引用させていただく。

「公議と言うは、衆議である。衆議と言うは、多数決である。多数決と言えば、武力解決派から見れば、俗論である。故に彼等は口には公議を唱えるも、決して多数の俗論に一任するを欲しない。されば山内容堂の意見書は、直ちに彼らの弱点を撞いて、多数もて彼等の横暴を制せんと試みたのだ。…
 徳川慶喜はもとより諸侯の列に就くべき順序となりている。されど辞官、献地等のごとき問題は、単に命令もて、之を催告すべきものではない。すべからく松平春嶽に一任して、その宜しきを得せしめよ。朝廷はただ速やかに公議政体の実を挙げ、改革本来の目的に向かって進むべし
との意見だ。思うにこの意見は、穏和派のそれを代表したるものと見て大過なかるべく、土佐一派は、上に容堂あり、下に後藤象二郎ありて、専ら此事に周旋、奔走しつつあった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/212

このような意見書を出したのは土佐藩だけではなかった。
土佐が意見書を奏上した日と同じ12日に、阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩を糾合し、連名の意見書を二条城に届けている。

徳富蘇峰はその意見書の原文を紹介したのち、こう解説している。
あたかも申し合わせたるが如く、山内容堂の意見書と符合している。これは一面朝廷に向かって、寛裕、公平に、二条摂政、徳川内府等を措置せんことを勧告すると同時に、他面には岩倉、薩摩藩に対しての抗議である。而していわゆる『衆議の帰す所』は、山内容堂にとりても、彼らにとりても、その尤も味方とする所にして、彼等が公議もしくは衆議の一点張りもて、その楯(たて)ともなし、矛(ほこ)ともなし、これを以て最上唯一の武器としたるは、如何に多数が、彼等の味方であったかがわかる。
…もし、今日の議事法もて之を律せば、諸藩会議の結果は、おそらく穏和党の勝利に帰したであろうと察せられる
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228725/214

薩長にとっては幕府方の会津桑名兵を挑発して、両藩を叩くことで旧体制を粉砕する目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで方針転換を余儀なくされることとなった。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

一方、徳川慶喜は、巻き返しをはかるべく様々な手を打っている。

鈴木荘一氏は『開国の真実』で、こう解説している。
「慶喜は既に12月9日頃、京都から江戸に急報を発し幕府陸軍部隊と幕府海軍の艦隊に来援を命じている。いずれも幕府が手塩にかけて育てた陸海の精鋭である。大坂城へ入った後も、慶喜は大坂から江戸に急使を遣わして更なる援軍を要請し、シャノワン等フランス軍事教官団にも大坂城への参集を求めた。援軍の要請を受けた江戸では緊迫した京都情勢が充分に伝わっておらず、リグン部員の動員は手際よくいかなかったらしいが、開陽、富士山丸、蟠龍丸など新鋭軍艦は12月下旬頃までに大坂港に集結したようだ。こうして慶喜は、大坂城を拠点として軍事的優位の確立を図った
 徳川慶喜は外交面でも手を打った。12月16日、イギリス、フランス、オランダ、プロシャ、イタリアの六ヶ国の公使を引見し、その席で小御所会議の結論を非難し、
『旗本・譜代諸藩は薩長の暴戻の罪を責め『兵を挙げる外なし』と自分に迫るが、自分から乱階を開くのは好ましくないから、ひとまず下坂した。自分は全国民と同心協力して正理を貫こうと願っているので、諸外国は日本の内政に干渉してはならない。自分は外交責任者として外国との条約を守る』
 と自分の立場を述べ、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせた。国際社会から認められた政権が正統政権とみなされる。徳川慶喜はこうして岩倉具視や大久保利通等に対し外交的勝利を勝ち取った。

『納地』の問題も、大久保利通等の『徳川家の領地をすべて取り上げる』という主張はうやむやになってしまい、結局、徳川家と諸大名が所領の一定割合を朝廷費用のために献上する、という話にスリ替わった。しかも献上する費用の分担率は、徳川慶喜が主宰する諸大名会議で決定する、というように骨抜きとなった。こうなれば幕府にとって実害はない。
徳川慶喜は朝廷からの『辞官納地の諭書(さとししょ)』への返事として、ためらうことなく諒解の意思を示し、『辞官の儀は前内大臣と称すべく、政務御用途の儀は天下の公論を以て御確定あそばさるべし、との御沙汰の趣、謹んで承りぬ』
との『請け書』を朝廷に提出した。暮も押し詰まった12月28日のことである。」(同上書 p.323-324)

大阪城

このようにして徳川慶喜は二条城から大坂城に移って見事に巻き返しに成功したのだが、その後なぜ武力解決派が勢いづいたのか。その点については、大坂・京都から江戸に視点を移す必要がある。

当時幕府の幹部は大坂に詰めていて、江戸には佐幕藩の藩兵が市中取締りの警護にあたっていた。
一方薩摩藩は三田の薩摩藩邸を根拠地として倒幕・尊王攘夷の浪士を集めて、放火や掠奪・暴行を繰り返して幕府に対する挑発行為を繰り返していたという。

鈴木荘一氏の解説を続けよう。
「慶喜の大政奉還によって武力討幕の名分を失った西郷隆盛は、江戸市中攪乱により武力討幕のきっかけを作ろうとした
 相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。…
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だったこと
である。」(同上書 p.325-326)

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、幕府より薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたために強く取り締ることはしなかったのだが、それを良いことにして薩摩藩の非合法活動が一段と活発化していく。

「12月22日夜、江戸市中警護に当たっていた庄内藩屯所が銃撃された。翌23日未明には江戸城二の丸で不審火があり、薩摩藩の仕業による放火と噂され、同夜、三田の吹貫亭という寄席で休息中の庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれる事件があり、薩藩浪士の仕業と見られた。
 幕府の弱腰を哄笑するような薩摩浪士の相次ぐ挑発に、隠忍自重してきた幕府も遂に堪忍袋の緒が切れ、老中淀藩主稲葉正邦は酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じた。
 庄内藩兵、上ノ山藩兵、岩槻藩兵、鯖江藩兵等からなる幕府軍は、12月25日早朝、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟薩摩藩邸への攻撃を開始した。薩摩藩邸焼打ちである
。」(同上書 p.326-327)

薩摩藩邸焼打ち
【薩摩藩邸焼打ち】

京都では徳川慶喜が幕府軍から戦端を開くことを決して許さなかったのだが、江戸の幕府軍は何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしてしまったのである。

事件の詳細が大坂城に伝わったのは12月28日で、この時徳川慶喜は、薩摩討つべしと沸きあがる城内の声を抑えることができなかったようだ。

『昔夢会筆記』

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第66巻』に、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』が引用されている。

「此の時予(慶喜)は風邪にて寝衣のまま幕中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず。此のままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。

予は『此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ』と制止したり。…
 されども、板倉、永井等は、頻りに将士激動の状を説きて『公もし飽くまでも其の請を許し給わずば、畏けれども公を刺し奉りても、脱走しかねまじき勢いなり』という。予は…制馭力の及ばざるを嘆ぜしが、江戸にて藩邸を討ちし後は、尚更城中将士の激動制すべからず。遂に彼らは君側の姦を払う由を、外国公使にも通告して、入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦いを開きたり。
…予は終始大坂城中を出でず、戎衣をも着せず、唯嘆息し居るのみなりき。此の際の処置は、予ももとより宜を得たりとは思わざりしも、今にていえばこそあれ、当時の有様にては、実にせんすべも尽き果てて、形の如き結果に立ち至りしなり
。」(『昔夢会筆記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/162

このように慶喜は、この時も戦うことを望まなかったようなのだが、周囲がそれを許す状況ではなかったために、京に向かって薩摩を討つことを認めてしまったという。

しかしながら、幕府軍は動かなくとも武力解決派を追い詰めることは可能であったはずだ。

福地源一郎
【福地源一郎】

海外留学を経験した福地源一郎は29日に、同志を代表してこのような意見書を若年寄の平山省斎に提出している。
「…唯今の如く、阪城に御座あって、海は軍艦を以て兵庫、大阪の両港を封鎖し、陸は西宮より街道に沿いて胸壁を築き、淀川の通路を止め、守口、枚方に堡寨(ほうさい:とりで)を築かせて、厳に之を守りたまうべし。然る時は京都に駐在せる薩長の兵は、居ながらにして屈し、戦わずして走るか、然らずば討て出るに相違なし。是れ上策と仕り候う
 もしこの策を御採用なくば、将軍家には断然直ちに御東帰遊ばされ、阪城には伝習兵ならびに会・桑の逞兵を置かれて留守せしめ、枚方を限りに備えを厳にし、淀川を扼し、軍艦を以て摂海の出入りを止めらるべし。是れ関以西を敵地と見做してその動静に応じ、逸を以て労を俟つ謀にして中策と仕り候うなり。
両條とも御採用なされ難くて、是非とも引兵御上京との御議ならば、鳥羽、伏見、淀の諸所に兵を分て、分期攻入の策は尤も宜しからず。須らく山崎街道の一口より突入たまうべし。京都へ攻め入るの用兵道路はこの外に候わず。是を下策と仕り候うなり。只今の御軍配の如きは、殆んど無策と候えば、右三策の内を選びあそばさるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/164

平山省斎
【平山省斎】

福地の意見の通り、兵庫と大阪の両港を封鎖し、街道の通路を止めれば京都の武力解決派はそのうち干上がっていたはずだったのだが、大坂城中は主戦論一色でこのような意見を相手にする者がおらず、福地は「死を決して」この意見書を平山省斎に提出したという。しかしながら、この平山という人物は強硬な主戦派で、出した相手が悪すぎたようだ。

幕府には人材はいたのだが、慶喜の周囲に冷静に戦略を練ることができ、慶喜を支える知恵者がいたのだろうか。
もし福地源一郎のような人材が慶喜の近くに仕えていて、慶喜が早い時点からその意見を取り入れて京都を経済的に締上げ、かつ武力解決派の挑発に最後まで乗らなかったとしたら、その後のわが国の歴史は随分異なるものになっていたかも知れない。

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戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
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明治期の危機を乗り越えた東大寺
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洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い

前回の記事で、江戸の幕府軍が何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしたとの報告が大坂城に届き、城内の将士たちに薩摩討つべしとの声が高まって抑えることができなくなり、ついに慶喜も薩摩を討伐することを認めたことを書いた。

慶喜は必ず勝てるとは考えていなかったようだが、城内の将士たちは、江戸で薩摩藩を懲らしめることに成功したのだから、京都でも戦えば幕府軍が勝てると単純に考えたのだろう。
一方、薩摩を中心とする新政府軍は、勝算があったわけではなかったが、士気は極めて高かった。

徳富蘇峰は『近世日本国民史 第66巻』で、こう述べている。
「…数を以てすれば、大阪対京都は、ほとんど十対一である。而して質を以てすれば、大阪側には、フランス教師直伝の伝習兵がある。更に大阪側は、二百六十年の伝統に依りて、既成の惰力を利用すべき便宜がある。彼等が必勝を期したのも、決して無理ではなかった。
 これに反して如何に京都側は、勤皇の正気に燃えるも、多勢に無勢。一挙直ちに大阪側を撃滅すべき見込みは、到底立つべき様もなかった
。此の如く勝算無きに拘らずなお武力解決の初一念を抛(なげう)たなかったのは、畢竟此れにあらざれば、復古の鴻業は到底成立すべからざるを認めたからだ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/141

戊辰戦記絵巻 長州兵
【戊辰戦記絵巻 長州兵】

幕府軍は兵の数では新政府軍を圧倒的に上回っていたものの、会津・桑名その他の諸藩兵や新選組の武器は刀槍を中心とする旧式の軍隊で、銃も保有していたが旧式のゲベール銃が大半であったという。
一方薩摩・長州軍は新型の銃機を大量に保有していた。以前にもブログで書いたが、新型の銃(ミニエー銃など)は、旧式のゲベール銃よりも飛距離、命中精度、破壊力が格段に優っていて極めて殺傷力の強い武器であった

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

竹中重固
【竹中重固】

もっとも幕府の歩兵の一部はフランスの訓練を受けた伝習隊で、彼らは最新鋭の銃を装備していたのだが、指揮官の竹中重固*(しげかた)は近代的軍事については無知であったし、大量の最新銃器を持つ薩長軍と戦って勝てる戦術を練っていたわけでもなかったのである
*竹中重固(しげかた):戦国時代の軍師竹中半兵衛の子孫。陸軍奉行

このような幕府軍の甘さに危機感を持つ兵士もいたようだ。
徳富蘇峰の同上書に桑名藩士・中村武雄の手記が引用されているので紹介したい。
「(慶喜)親書して薩藩の罪を責め、遽(にわか)に出兵の令を下し給いけり。時に戊辰正月元日なり。嗚呼敵の計る所に陥り、その勝算をも定めず、卒然出兵に決し給いしは、何らの軽忽なることにや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/185

1月1日、慶喜は朝廷に提出するために「討薩の表」を作っている。
徳富蘇峰の同上書にその内容が紹介されているが、簡単に意訳すると、
「先月9日以来のことは、すべて薩摩の奸臣どもの陰謀であり、各地の騒乱・強盗の類もまた彼らの仕業である。したがってこの奸臣ども引渡しを命じて頂きたい。万一御採用頂けない場合は、止む無く誅戮を加える」
とあり、その文章のあとでこれまでの薩摩藩の罪状が列記されている。

鳥羽伏見方面戦闘図 「鳥羽離宮公園高札」

さらに慶喜は1月3日付で外国公使に対しても、討薩にあたり船の取締りを厳しくする旨の公文を発し、そして会津藩を先鋒とする部隊は鳥羽街道を進み、桑名藩を先鋒とする部隊は伏見街道を進んで、京へ向かっていった

この動きを阻止するために薩・長軍は鳥羽街道と伏見奉行所方面を封鎖していた。
そして3日に鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と幕府軍先鋒との間で小ぜり合いが起こり、街道の通行を求める幕府軍に対し薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答したのだが、何度か押し問答を繰り返しているうち、午後5時頃薩摩軍は砲撃を開始し、同じ頃に伏見の薩摩兵も戦端を開いて、ついに全面的な戦争となったのである。

幕府軍は再三攻勢を掛けるのだが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やしていくばかりであった。奇兵隊の参謀としてこの戦いに参加した長州藩の林半七(友幸)は、伏見の戦いをこう語っている。

鳥羽伏見の戦い 1

「伏見では戦争は市街で始まった。伏見の市街は碁盤の目同様だから、何れから来るも知れぬ。それで長州は南の方へ向かって撃つ。薩摩は横の方から西へ向かって砲撃した。此の如く南は長、西は薩で丁度十文字に撃った。先方の兵隊は騒動するばかりで、怖れて出て来ぬが、士官がヒョイヒョイと進んで来るから、皆に撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。」
「伏見の戦争は市街戦だ。長兵は馬関戦争で実戦に慣れているから、市民が逃走して空き家になっている家から畳を引き揚げ、道端へ七八枚重ねて横に立てかけて楯となし、それを右側と左側と差い違いに六七間毎にやって、その間から撃ったので、怪我人や死人の数が割合に少ない。畳の上へ頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだった。その中に向こうの陣屋が焼けだしたから、此方は暗中より向こうを狙撃することが出来た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/206

午後8時ごろには薩摩藩砲兵が放った砲弾が伏見奉行所の弾薬庫に命中し奉行所が炎上し、周囲の民家にも火が放たれて、新政府軍は炎を照明にして猛烈に銃撃したため幕府軍はこらえきれずに退却を開始し、深夜0時頃には新政府軍は伏見奉行所に突入し、幕府軍は堀川を越えて中書島まで撤退し、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちたという。
幕府軍は狭い街道で縦隊突破を図るばかりで、優勢な兵力を活かすことができなかったのだが、そもそも指揮官が逃亡するような軍が戦に勝てる筈がない。

一方、新政府軍は綿密な計画を立てていたようだ
西郷隆盛が1月3日付けで大久保利通に宛てた書状を読むと、万が一のことを考えて天皇陛下を山陰方面に御遷幸することまで計画していたことが分かる。その書状には、初日の勝利をみて、御遷幸の件を当分の間見合わすことを記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/213

仁和寺宮嘉彰親王
【仁和寺宮嘉彰親王(中央)】

そして4日には仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍に任ぜられ、錦の御旗*が授けられている
この旗は岩倉具視と薩摩藩が事前に作成していたものだが、使用に際して前日に朝廷の許可を取っていることは確かなようである。この旗が新政府軍に渡されたことで慶喜は明らかに朝敵とされ、その後幕府軍で裏切りが相次いでいる。
*錦の御旗(にしきのみはた):朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える旗

錦の御旗

5日には伏見方面の幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが、乱戦の末に敗退し、鳥羽方面の幕府軍も富ノ森を失い、現職の老中であった稲葉正邦の淀藩を頼って淀城に入って戦況の建て直しを図ろうとしたのだが、淀藩は朝廷と戦うことを嫌って幕府軍の入城を拒んだという。

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6日には幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山に布陣したが、対岸の大山崎を守備していた津藩が寝返り、津藩から砲撃を受けて幕府軍は総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れたという。

そして、その夜に徳川慶喜は僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊していた幕府軍艦開陽丸で江戸に退却し、幕府軍は戦闘意欲を失って大坂を放棄してしまう。

このように幕府軍は人数では新政府軍を圧倒していたのだが、わずか4日で惨敗してしまっている。敗因は徳川慶喜に戦意が乏しかったことや、幕府兵の士気が新政府軍よりも劣っていたことも重要なポイントではあるが、最大の敗因はやはり幕府軍の戦術の稚拙さにあったのだと思う。
幕府軍の多くは刀槍を武器とし個人的に武勇を誇る旧式の武士の集まりで、銃を持っている場合も多くが旧式のゲベール銃であった。遠方から高い精度で敵を狙い撃つ新式のミニエー銃を大量に保有する新政府軍に対しては、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では勝てないことは以前このブログで書いた第二次長州征伐で証明されていたことなのである。幕府軍は同じ誤りを繰り返してしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

鳥羽伏見の戦い

前述したとおり幕府軍には最新鋭シャスポー銃で武装した幕府伝習隊も加わっていたのだが、その武器の威力を充分に発揮することができなかったのは、旧式の部隊である会津藩、桑名藩の藩兵を幕府軍の先鋒にしたからではなかったか。
会津藩、桑名藩の藩兵は士気も高くよく戦ったとはいえ、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では敵に余程接近しなければ相手を倒すことができない。一方新式のミニエー銃ならば遠方から正確に相手を狙い撃つことができる。まともにぶつかれば旧式の部隊では勝てるはずがないのだ。
幕府軍が新政府軍と互角以上に戦うためには、最新鋭の銃を持つ伝習隊を先鋒とし、市街戦で戦う戦術をはじめから立てておかなければならなかったのだが、幕府軍の指揮官はそのような戦い方を知らなかっただけではなく、途中で戦術の変更をする能力もなかった。

戊辰物語

岩波文庫に『戊辰物語』という本がある。この本は東京日日新聞が昭和3年(1928)に明治維新を経験した古老からの聞き書きを連載した記事をまとめたものだが、この本の鳥羽伏見の戦いを読めば、幕府軍の敗因がわかりやすい。

「洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の合戦
 三日から四、五、六と、鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人一人名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様(戊辰絵巻)、例の新選組の創設者庄内の清河八郎を、文久三年の四月十三日に、芝の赤羽橋で暗殺した京都見廻組頭の剣客佐々木只三郎などもこの一戦でやられた。はじめ鎧に陣羽織で働いたが、鎧などは何の役にも立たぬのを知って、真裸になって進んで、すぐやられた。」(『戊辰物語』p.30)

もし、幕府軍が江戸で薩摩藩の挑発に乗っていなければ、慶喜は幕府・諸藩の今までの体制を維持したまま新政権に参加する話が進んでいて、その中で主導権を取れた可能性が高かったはずだ。
慶喜は薩摩討伐には賛成ではなかったのだが、城内の将士たちがその許可を強く求めて城内が殺気立ち、慶喜の命令に従おうともしないので、腹を立てて彼らに「勝手にせよ」と言ってしまったことが、大失敗となってしまったのである。しかし慶喜も、幕府軍がここまでひどい負け方をすると考えていなかったのではないだろうか。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は晩年このことをこのように述べている。
「やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては益(ますます)驚かせ給い、あわれ朝廷に対して刃向うべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事ここに至るまじきを。吾が命令を用いざるが腹立たしさに、如何ようとも勝手にせよと言い放ちしこそ一期の不覚なれと、悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/76

鳥羽伏見の戦いで敗れたとはいえ、幕府兵の戦死者は280名に程度にすぎず、幕府にはまだまだ充分な武器や兵士が残されていた。
慶喜が江戸城に戻ると、小栗忠順、水野忠徳ら多数の家臣が城内で主戦論を主張しており、中にはフランスの協力を得て新政府軍と戦おうとする者もいた。
非戦論者は大久保忠寛、勝海舟などがいたが、極めて少数であったという。

慶喜が東京でどう動いたかは、次回に記すことにしたい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

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江戸無血開城の真相を追う

慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れて、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸に還るのだが、江戸城の家臣も大坂城と同様に主戦論を主張する者が大半であった。

渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。
陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんというものあれば、軍艦を以て直に大阪を衝かんというものもあり(海舟日記)、又関八州占拠の策を献じ、軍隊の新組織法を建白し(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等嫌疑)、或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王)を奉じて、兵を挙げんというものもあり(彰義隊戦史)、或は君上単騎にてご上洛あらば、士気奮いて、軍機忽ちに熟せんと激語する者もあり(海舟日記)。老中等も是等の説にや同じけん。…
主戦派の人々は激論に激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては鶏声を聞かざれば已まず。(海舟日記)。正月17日若年寄堀内内蔵頭(貞虎、信濃須坂藩主)は、身要路に居て此の難局を処理する力なく、御委任を全くすること能わずとて、遂に殿中に自刃せり。其の意、死を以て幕議を恭順に定めんとするにありという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/214

小栗忠順
【小栗忠順】

またWikipediaにはこう記されている。
「慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗(忠順)は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は『新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する』という挟撃策を提案した…。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86

小栗上野介らが提案した策は、後にこの策を聞いた長州藩の大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかった」と恐れたほどのものであったようなのだが、徳川慶喜は小栗の案をしりぞけ、15日には小栗を罷免してしまっている
江戸城では朝敵とされようが、錦の御旗が敵方にあろうがかまわず薩長を討つべしとの考え方が大半であったようなのだが、そのなかで徳川慶喜はともかくも恭順論を貫き通したのである。

福地源一郎
【福地源一郎】

主戦論者の中には、外国の支援を得て戦おうとする意見も少なくなかったようだ。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に福地源一郎の回顧録である『懐往事談』の文章が引用されている。
故に或は仏国に税関を抵当として外債を起こし、以て軍資に充て、援兵を乞うべしと言えば直に同意し、米国より廻船の軍艦を、海上にて歎き受取るべしと言えば、異議なく左袒*し、横浜の居留地を外国人に永代売渡にして、軍用金を調達すべしと言えば、これ以て名策なりと賛成したるが如き、今日より回顧すれば、何にして余はここまで愚蒙にてありしかと、自から怪しまるる程なりき。」
*左袒(さたん):同意して味方すること
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/41

わが国の領土を売却して軍資金を捻出し、フランスやアメリカとともに薩摩・長州と戦おうというのだが、薩摩・長州にはイギリスがついていた。そんなことをしていれば、両軍から多数の死傷者が出たことは確実で、またどちらが勝利したとしても借金の返済が出来ないために多くの国富や領土を外国に奪われるところであったのだが、こんなバカな話が江戸城で真面目に議論されていたことを知るべきである。

ロッシュ
【仏公使 ロッシュ】

もちろんフランスは黙ってはいなかった。フランス公使ロッシュは1月18日に将軍に謁見を申し入れ、19日に登城している。この時の慶喜との会話が如何なるものであったのか。徳富蘇峰の同上書に徳川慶喜の『昔夢会筆記』が引用されている。

「…(ロッシュ曰く)『此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし』と、いとも熱心に勧告したり。予は『好意は謝するに余りあれども、日本の国は他国に異なり、たとい如何なる事情ありとも、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。祖先に対して申し訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず』と断言せしに、ロッシュ大に感服したるさまにて後言う所なかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/45

また慶喜は、19日に在江戸諸藩主を恭順の意を伝えて協力を要請し、20日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請を行い、23日には、徳川家人事を大幅に変更し、庶政を取り仕切る会計総裁に恭順派の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁に同じく恭順派の勝海舟を抜擢している。
そして27日には、慶喜は紀州藩主の徳川茂承らに、朝廷に隠居。恭順を奏上することを告げ、2月9日には鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、翌日には松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じ、そして12日には江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺に移って、その後謹慎生活を送っている

では、新政府軍の西郷隆盛や大久保利通は慶喜をどうするつもりであったのだろうか。
西郷が大久保宛に書いた2月2日付の書状を見ると、「…慶喜退隠の歎願、甚以不届千万。是非切腹迄には、参不申候ては不相済」とあり、西郷は慶喜を生かしておくつもりはなかったようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/93

また、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした新政府の東征軍は、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍し、駿府で行われた3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日と決定している。
そして勝海舟は、差し迫る東征軍との江戸における内戦を避けようと、西郷との交渉を考えていた。勝は、西郷が徳川家の歎願を受けいれなかった場合や、屈辱的な条件を要求してきた場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防ぎ、焦土とする作戦であったようだ。

勝海舟
勝海舟

3月10日付の『海舟日記』にはこう記されている。
「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を挙て進まんとせば、城地灰燼、無辜死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼暴挙を以て我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/75

勝は江戸湾にあらかじめ船を用意して、火災が起こった際に避難民を救出する計画まで立てていたようだが、ここまで覚悟して西郷との交渉に臨もうとしていたのである。

一方の新政府軍だが、不案内な江戸城下で戦うとなると大量の負傷者が出ることが想定されるので、西郷の命を受けて、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)が横浜の英国公使官へ向かい、公使パークスに面会をして傷病兵の為に病院の世話を依頼している。薩摩藩からすれば、これまで英国の支援により最新鋭の武器を大量に購入してきた経緯があり、京都で負傷者の治療を要請したこともあるので、今回の戦いの負傷者のための病院の世話ぐらいなら引き受けてくれるだろうと軽く考えていたのだが、この時のパークスの反応は西郷の想定を大きく越えるものであったようだ
徳富蘇峰の前掲書に、渡辺清の談話が紹介されている。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス

パークスは如何にも変な顔つきを致して、これは意外なることを承る。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は、恭順ということである。恭順している者に、戦争を仕掛けるとは、如何という
 木梨いう、それは貴君の関する所ではない。吾々はどこまでも戦えという命令を受けてきた。ともかく用意してくれといったところが、そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも恭順即ち降参という者に向かって戦争せねばならぬということは無いはず。その上いったい今日は誰から命を承けて来られたか。大総督から。それは如何なることか。…いったい今日貴国に政府は無いと思う
…もし貴国で戦争を開くなら、居留地の人民を統括している領事に、政府の命令が来なければならぬ。それに今日まで何の命令もない。また素より命を発するに際しては、居留地警衛という兵が出なければならぬ。その手続きが出来た以上に、戦争を始むるべき道理。かくありてこそ、始めて其国に政府があるというものである。しかるに、それらの事は一つもしてない。それゆえ、自分は無政府の国と思う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/178

こんな調子でパークスは激怒して途中で面談を中止してしまい、木梨と渡辺は品川に戻ってこのことを西郷に報告したのだが、さすがに西郷も、官軍側に手落ちがあったことを認めざるを得ず、渡辺にこう述べたという。

「自分も困却している。かの勝安房が、急に自分に会いたいと言い込んでいる。これは必ず明日の戦争を止めてくれというじゃろう。彼じつに困っている様子である。そこで君の話を聞かせると、全くわが手元に害がある。故にこのパークスの話は、秘しておいて、明日の打ちいりを止めねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/181

西郷隆盛
西郷隆盛

江戸城無血開城については西郷隆盛勝海舟の二人がクローズアップされて、まるでわが国を救った英雄のように描かれることが多いのだが、実は西郷はパークスが激怒したことを知って考え方を改め、二人が談判を始める前から江戸城総攻撃を中止する肚を固めていて、勝と談判に及んだということなのである。

以前このブログで、イギリス公使館のアーネスト・サトウが西郷に対し、『兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう』と述べたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

兵庫港はすでに慶応3年12月7日に開港しており、サトウの言葉を借りると、諸外国のわが国における関心事は、開港地における平和と安全の維持に関心が移っていたのである。
したがって、横浜や神戸など開港地に近い場所で幕府軍と新政府軍が戦う状態が長引くことは外国の干渉を招く危険が高かったのだが、前述したとおり、幕府軍にはフランスの支援を得て新政府軍と戦おうと考える者が少なからずいた事実がある。
当時神奈川にはイギリス兵2大隊、フランス兵1大隊がいたという。もし幕府が正式にフランスの軍事支援を要請していたら、イギリス軍はおそらく新政府軍を支援したことであろう。もしそうなっていたらわが国は、それから後も独立国家であり続けることは難しかったのではないだろうか。

『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 
【『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 】

西郷隆盛勝海舟の談判によって江戸城の無血開城が決定し、当時人口100万人を超えていた世界最大級の都市であった江戸が、戦火に巻き込まれることから救われたことは間違いがない。二人とも立派な人物であったことは私も同意するところなのだが、江戸無血開城はこの二人の歴史的大英断によって成し遂げられたという見方は単純にすぎる。そもそも徳川慶喜という人物が最後の将軍でなければ、江戸城無血開城が実現することはなかったのであり、慶喜にもっと着目すべきだと思う。

徳川慶喜
【徳川慶喜】

慶喜は、自らをそして徳川家を犠牲にして大政奉還したのち、ひたすら朝廷に恭順し、大坂城、江戸城で徹底抗戦を主張する大多数の幕臣達に抗し、鳥羽伏見の戦いを止めることは出来なかったが、江戸に入ると主戦派の幹部を罷免し、恭順派の勝海舟らを幹部に抜擢し、またフランスの支援の申し出を断り、一貫して戦うことを避けようとしたことは何のためだったのか。
英仏軍が駐留するなかでその両国の干渉を排除して平和裏に政権交代を成し遂げさせるということは、当時の世界においては奇跡に近い出来事であったと思う。それが実現できたことは、徳川慶喜の決断によるところが極めて大きかったと私は考える。
慶喜が徳川幕府の最後の将軍であったことはわが国にとっては非常に幸運なことであり、彼のお蔭でわが国は独立を維持できたという見方はできないか。

鈴木荘一氏は著書『開国の真実』の最後をこう締めくくっている。

「確かに幕府主戦派の主張どおり、幕府は全力で戦えば決して簡単には負けなかったかも知れない。
しかしイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する構図の下での内戦が激化すれば、やがてイギリスやフランスをはじめ外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けただろう。
徳川慶喜はそのことに気付いていたようである

条約勅許を獲得し兵庫開港を実現して『第一の開国』を完成させ、更にイギリス型議会制度を想定して大政奉還を断行した徳川慶喜としては、人情においては、自分の手で日本近代化を成し遂げたかっただろう。
しかし徳川慶喜は自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、みずから恭順謹慎して政権を捨てた。
徳川慶喜のこの無欲の心こそ、1860年代当時の厳しい国際情勢下において、わが国が独立を護る唯一の道だった
のである。」(『開国の真実』p.334)

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
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明治維新と武士の没落
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明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
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江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
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静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
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徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争

前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。

木梨精一郎
【木梨精一郎】

「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている
 なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。

このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。

もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。

そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。

パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。

外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。

遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城

萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。

パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)

横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。

諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。

パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。

イギリス公使・パークス
【イギリス公使 パークス】

またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)

このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。

一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。

鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。

最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。

滝善三郎切腹の図
【滝善三郎切腹の図】

Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132

そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。

Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。

この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。

しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュ神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。

堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】

そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。

ロッシュ
【ロッシュ】

Wikipediaの解説がわかりやすい。
ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71

英国外交官の見た明治維新

新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。

「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)

フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。

このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている

ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。


榎本武揚
【榎本武揚】

以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D

旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。

その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。

陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】

また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。

慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

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大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。
歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があったのかを問うと、必ずしもそうではなかったということが往々にしてある。もし「敗者」側に「正義」があったとしても、「勝者」は歴史叙述の中で「敗者」を悪しざまに描くものなのである。

討幕の密勅

徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月14日に薩摩藩・長州藩に対して「討幕の密勅」が下されたことを学んだのだが、この密勅をよく読むと「幕府を倒せ」とは一言も書かれていない。ポイントとなる部分は「汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ」だが、簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえという命令文書である。しかしながら、大政奉還が成就してこれまで権力の中枢にあった「徳川幕府」は存在しないのだから、普通に考えると「討幕」という言葉はありえない。
「徳川家を全滅させよ」というのはつまるところ私闘以外の何物でもなく、しかもこの密勅は正式な手続きを経ていない「偽勅」であったことが今ではわかっているのだ。
この「偽勅」に対して「討幕の密勅」などという言葉を未だに歴史学者が用いるのは、学会という特殊な集団においては「薩長中心史観」が主流であるということの証左なのだろう。

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
【聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)】

12月9日は岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定したのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かっている。

山内容堂
【山内容堂】

諸侯の大多数は平和解決を望んでおり、12日には土佐藩の山内容堂が朝廷に以下のような意見書を奏上した。
「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)
その同日に阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩連名の同様の意見書が二条城に届けられて、薩長は方針転換を余儀なくされることとなった。

開国の真実

幕府方の会津桑名兵を挑発して、旧体制を粉砕するきっかけを得ようとした目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで薩摩藩は、次いで江戸市中攪乱により内乱のきっかけを作ろうとした
鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説している。

相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だった
ことである。」(『開国の真実』 p.325-326)

薩摩藩邸焼打ち事件
【薩摩藩邸焼打ち事件】

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、それまで薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたのだが薩摩藩の非合法活動が一段と活発化し、12月22日には庄内藩屯所が銃撃され、23日未明には江戸城二ノ丸で不審火があり、同夜には庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれて、隠忍自重してきた老中淀藩主稲葉正邦もついに堪忍袋の緒が切れ、酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じ、12月25日早朝に旧幕府軍は、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟である薩摩藩邸を焼打ちしてしまったのである。

大阪にいた慶喜はこの報告を聞いた後も「此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ」と、当時旧幕臣の大多数が主戦派に傾いていたのを斥け、ともかくも恭順論を貫くことを命じたのである。

教科書などでは戊辰戦争の緒戦の鳥羽伏見の戦いについて「1868年1月、薩摩・長州軍藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、兇徒の近くで武力衝突が起こった。これに勝利を収めた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。」などと開戦責任を曖昧にしているが、当時の記録を読むと、慶喜に上京を命じておいて京に向かう警護の行列に新政府軍が一方的に発砲したのが真相であり、この時旧幕府軍には戦う意思はなかったようなのだ。

維新前後の政争と小栗上野の死

国立国会図書館デジタルコレクションで関連書籍を探していると、『維新前後の政争と小栗上野の死』という本が目にとまった。著者の蜷川新(にながわあらた)氏は法学者・外交官を歴任し、旗本小栗上野介の義理の甥にあたる人物だという。今日ではこのような視点に立った記述が紹介されることはほとんどないのだが、一部を引用させていただく。

岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の為に危険視した。もしも大阪を根拠として、京都にある薩軍に反抗せられたならば、交通路は絶たれ、京都の薩軍は甚だ危うしと心配した。彼らは一大権略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉らは流石に智者である。即ち一策を案じ、慶喜に軽騎上京を命じ、会桑*に向かっては、その本国に帰還すべきを命じた。この命は、天皇の大命として伝えられた。
 慶喜としては、この大命に反くを得ない。慶喜の立場は困難に陥った。上京せざれば、反逆者の如くに取扱わるべく、軽率に上京すれば、危険身に迫るべきは当然であった。慶喜を擁護する者より見れば、武士の習いとして、その主と仰げる慶喜を見殺しにするを得ざるは当時の武士的道徳であった。親藩たる会桑は、慶喜を守護して上京すべしということに一決した。これ武士として正しい考慮であった。薩長を討伐するがためではなく、唯だ警護者として随伴するにすぎなかった。岩倉等一味の権略陰謀甚だしきに対しては、これより以外に取るべきの途はなかったであろう。
 慶喜は命により上洛した。慶喜は戦闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかった。勿論武士であるが故に、武器は各人何れも携帯して行った。しかるに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した。而して付近の高地をあらかじめ占領し、発砲を以て徳川方に挑戦した。これ天人ともに怒らざるを得ない暴状ではないか。彼らは此の機会を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであろう。」
*会桑:会津藩、桑名藩のこと 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/124

薩摩軍は慶喜の上洛を待ち伏せて大砲を打ち込んだとあるが、その点については会津藩の永岡清治が『旧夢会津白虎隊』でこのように記している。文中の「伏水」というのは京都市伏見区の地名で明治12年に「伏見」の表記に統一されている。

鳥羽伏見の戦い

田中玄清*は正午淀を発し、伏水に向かう。元来この行は従軍とは思わず、警備の心得なり。余等伏水駅端の街路に憩いし時、商賈両三人来たり。桃山の半腹を指さし、此処には大砲一門、彼処には二門と兵児三四百人戎装して備えりと、一々これを説示し且つ言う。伏水奉行所には会兵、肥後橋にも会兵、奉行所の北及び御香宮などには薩長固め大砲を並び塁を積み関門を設け行人は議して而して之を拒否す。竹田街道には土州これを警衛すと告ぐ。尋て雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に当たり大砲二発聞こゆるや否や伏水鳥羽共に天地震撼するばかりなり。」
*田中玄清(はるきよ):会津藩家老。幕末の藩主・松平容保に仕えた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925910/75

戊辰物語

会津藩の記録をそのまま信じるわけにはいかないとも思うのだが、彼らが「警衛の心得」で臨んでいたことは真実だと思われる。
岩波文庫の『戊辰物語』は、明治維新の動乱を経験した古老からの聞書きを編集した「東京日日新聞」の連載記事をまとめた本だが、ここにはこう記されている。

「鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人ひとり名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様で、…」(『戊辰物語』p.30)

槍や刀で立ち向かうしかないような陣形をとっていたために旧幕府軍は銃撃戦で大敗したわけだが、そのような陣形をとっていたということは、旧幕府軍は薩長軍との戦いにはならないことを前提にしていたということであろう。
大阪にはフランス教師直伝の伝習兵がいて、ミニエー銃などの最新兵器も大量に保有していたのだから、はじめから薩長との戦いを覚悟していたのなら、近代的兵器を活用できる陣形を取るのが自然である。そうしていればこんなに無様な負け方をすることはなかったであろう。

慶喜は戦う意思はなかったのだが、ならば鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、何のための戦いであったのか。

西郷隆盛

西郷隆盛は当時「此度の創業幸いに我勝たば、主として統一を図るべし。彼勝たば、徳川氏の中興正になり、天下靡然として一に期せん。皇国の独立は期して待つべし。故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し。その勝敗の如きは論ぜずして可なり。兎も角も一戦を賭して、日本の統一を図るにあり」と述べたそうだが、大政奉還がなされたにもかかわらず、徳川方と一戦を交えて勝利して、徳川の経済基盤を奪取し薩長が権力を掌握することにこだわっていたようなのである。のちに慶喜は「辞官納地」も許容したので、それでもなお徳川軍を討伐しようとした薩長の意図は、薩長主導で政府を作ることにあったと考えるしかない。

蜷川新
【蜷川 新】

蜷川新氏は『維新前後の政争と小栗上野の死』で挑発をし続けた薩長を非難しているのだが、この文章を読むと、これまで教科書やテレビの解説などで何度も耳にしてきた歴史叙述に随分偏りがあることに誰しも気づかざるを得ない。不平士族の問題もこのような視点から見直すべきなのだと思う。

大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府はその時に消滅したのである。『徳川の中興』なぞ断じてあらしむべきものではなかった。然るに西郷は、戦の勝敗にて徳川の中興生じて可也と言明したのである。これ果たして忠誠の言というを得ようか。王政の復古は、既になったのである。進んで為すべきは、各藩何れもその権力を朝廷に奉還すべき一事であった。慶喜は既にこれが範を示したのである。しかるに、他の藩主藩臣に一人としてこの精神なし。島津も毛利もその藩臣も、そのまま藩として引き続き存在し、依然として地方の権力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであった。かくして、天下の統一成ろう筈なし。しからば西郷には『統一』の言のみあって、統一の実を完(まっと)うするの誠意なかりしものと言うべきではないか。統一を欲するならば封建の廃止でなければならなかった。幕府既に亡びたる後において、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、当時の緊急事業では断じてなかった。伏見鳥羽の戦なぞは国家国民の為に避く可かりしものであり、かかる無益の流血なくして至当の公議を竭(つく)し、諸侯を廃し、王政復古を至誠を以て進行すべきであった。
 もしも徳川方にして、執拗に封建の存続を図り、日本国をして世界の大勢に順応せしむるを阻止する所為もありしとせば、薩長及び公卿らが唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、当然執るべきの処置であった。しかしながら、徳川幕府は国家の為に自ら消滅し去ったのである。幕府方に確にこの正しき行道あり。しかるに、薩長の人々が、幕府亡びしのちの徳川方を圧迫し、故さらに戦乱を起こさしめたるが如きは、何ら是認すべき理由はないのである。…
 自ら権略陰謀これ事とし、王政復古成れる後に於いて、内乱を煽動挑発し、しかる後に、兵力を以てこれを平らげ『王政復古の功労者は我らなり』と宣伝するものありとせば、国民はそれら権謀の徒の弄策を正しからずとして裁判せざるをえないであろう。これ国民的公判である。
 伏見開戦の責任者は、薩長方にある。而して其の初めは私闘であった。それ故にもしも『喧嘩は両成敗なり』というならば、徳川方も薩長方も同じ様に罰せられるべきはずであった。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた。而して徳川方の敗北にあらざりしも『形勢不利也』として徳川方はその兵を引き揚ぐるや、この総退却者を以て『逆賊也』と公然宣布せらるるに至った。国民よりしてこの史実を今日において科学的に判断せしむれば、いずれが正、いずれが非なりとなすであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/125

錦の御旗
【錦の御旗】

旧幕府軍には逆賊となる意思もなく、鳥羽伏見の戦いではただ武士の習いとして応戦しただけであったのだが、この戦いが始まった3日後に錦の御旗が掲げられて、旧幕府軍は『逆賊』とのレッテルが貼られてしまった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は明治維新後に広まった言葉なのだが、このような言葉が全国で広まったということは、明治維新政府側が卑怯な手段を用いて政権を掌握したことを、明治人の多くが認識していたということではないのか。
教科書などで描かれているわが国の近代史は、明治維新から150年も経ったにもかかわらず、未だに薩長勢力にとって都合よく描かれていると考えるのは私ばかりではないだろう。ここ数年来ようやく明治維新を見直す著作の出版が相次いでいるが、教科書などの江戸幕末から明治初期の叙述が全面的に書き直される日は来るのだろうか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期の歴史は薩長にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていません。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html

徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html

徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-459.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html





攘夷論者が、実行できないことがわかっていながら「攘夷」を唱え続けた理由

戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』という檄文の全文とその大意がWikipediaに紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

討薩檄

この有名な檄文を読み始めると、冒頭から興味深いことが書かれている。

『初め、薩賊の幕府と相軋(きし)るや、頻(しきり)に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷(てんけん)を僥倖す。天幕の間、之が為に紛紜内訌、列藩動揺、兵乱相踵(つ)ぐ。然るに己れ朝政を専断するを得るに及んで、翻然局を変じ、百方外国に諂媚し、遂に英仏の公使をして紫宸に参朝せしむるに至る。先日は公使の江戸に入るを譏(そし)つて幕府の大罪とし、今日は公使の禁闕に上るを悦んで盛典とす。何ぞ夫れ、前後相反するや。是に因りて、之を観る。其の十有余年、尊王攘夷*を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在ること昭々知るべし。薩賊、多年譎詐万端、上は天幕を暴蔑し、下は列侯を欺罔し、内は百姓の怨嗟を致し、外は万国の笑侮を取る。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。』
*尊王攘夷(そんのうじょうい):君主を尊び、外敵を斥けようとする思想

初め薩摩は尊王攘夷を主張し、幕府が開国したことを批判していたにもかかわらず、彼らが権力を握ると開国を是とし、英仏の公司を参朝させたりしていて、従来の主張と相反しているではないか。これまで彼らが尊王攘夷を主張してきたのは、ただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだと記されている。

下関戦争
【下関戦争】

『尊王攘夷』を唱えていた薩長が、『攘夷』の姿勢を改めた経緯について、一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』にはこう解説されている。

「長州藩ではその(四国連合艦隊下関砲撃事件)後、高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らの下級藩士が中心となって藩内の豪農や村役人らとともに手をむすんで軍事力を強め、藩論を尊攘から倒幕に転換させた。また西郷隆盛・大久保利通らの下級藩士が藩政の実権を握っていた薩摩藩も、しだいに反幕府の姿勢を強めた。両藩は薩英戦争や四国艦隊の下関砲撃で、欧米列強の実力を身をもって知り、攘夷の方針をあらため、軍事力の充実を目的としてイギリスに接近していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.215)

雲井龍雄
雲井龍雄

学生時代はこのような解説で納得してしまっていたのだが、攘夷が無理だと分かったのなら、幕府の行った開国を追認し協力する選択もあったはずだ。にもかかわらず、藩論がいきなり『倒幕』と変わったのは納得しがたいところである。
冒頭の『討薩檄』の中で雲井龍雄は、「其の十有余年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾けて、邪謀を済さんと欲するに在る」と述べており、「尊王攘夷」というスローガンは当初から幕府を衰退させるための謀略であったと断じているのである。

1820年代から1830年代にかけて水戸学における攘夷論が確立したのだが、これは儒学における華夷思想を素地としており、欧米諸国は卑しむべき夷狄(いてき)であるから、日本列島にその船が接近した場合、直ちに打ち払うべきだとする考えであった。
その後、国学の発展によって、わが国は神国であるというナショナリズムが次第に力を増し、勤皇思想もまた力を得ていったが、これが現実の外国勢力の脅威下で攘夷論と結びついて尊皇攘夷論が形作られたとされる。
尊王攘夷の思想が広まったのは、ペリー来航後に徳川幕府によって開港された後、安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結される頃からのことなのだが、そもそも攘夷論者たちが声高に『攘夷』を叫んでいた背景に、どのような意図があったのだろうか。

松平春嶽
【松平春嶽】

当時の記録にはどのようなものがあるのかと探していると、蜷川新氏の『維新前後の政争と小栗上野. 続』(昭和6年刊)のなかで、松平春嶽の『逸事史補』が引用されている部分があったので、紹介しておこう。

水戸烈公齊昭公は、頗る世上に攘夷の名あって、幕府にても、水戸でも、どこでも、みな攘夷家と称せり。余偶然、公に問う。方今外国頻りに渡来せりとても、攘夷は出来ぬことと存じ候。外国交際開ければ、今の世はむつかしきと存じ候旨申し候。烈公実は私も左様に存じおり候ゆえ、鉄砲を鋳造し、舟など朝日丸を造り、往々は外国へ我が舟を遣わし、交易するよう相成るべく候。春嶽殿などは御若年ゆえ、其の景況をもご承知相成るべく候。またそれに就いてご尽力をも成され候がよろしく候。私などは老年に相成り候あいだ、攘夷は私の株ゆえ、終身相止め申さず、そのまま死迄も攘夷家にて相済候心得なりと話されたり。是にて烈公のやはり攘夷家あらざることしるべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/32
当代一の攘夷論者であった水戸斉昭も、本音では攘夷は不可能であることがわかっていたのだが、攘夷論者としての評価が高かったので死ぬまで攘夷の主張を変えなかったというのである。

では、他の攘夷論者はどうであったのか。蜷川氏の解説を引用する。文中の「三條公」「條公」は三條実美公の事である。

三條実美
三條実美

「攘夷の強硬なる主張者である三條公の如きも、必ずしも、攘夷論者でないことは太宰府国幽閉中、五卿に奉仕したる尾崎三良男の談話でも想像し得られる。
『一日、條公に申し上げた。ただこれまでは、一図に攘夷攘夷と言うておりましたが、所詮今日のようなことでは行けますまい。到底彼を知り、己を知り、然るのち交わるなり、無礼をすれば打払うなりしなければならぬ。ただ頭まで外国だから打払うということは宜しくない。また出来もしない。どうせ、此後交わらなくちゃ本統のことは出来まいと思います。交わらぬで彼の事を何も知らないで、交際をすれば、始終彼にしてやられる。此処では外国の事情を知ることが必要であると思いますが、…随分その頃は、攘夷の盛んな時でありますから、そういうことを言うことは、随分忌むのであります。水戸の藩士などは、その頃そんなことを言うたならば、すぐ頭までも破ってしまう。…ところが條公も、イヤ私もそう思っている。今これを公然と言うことは出来ぬから、貴様何か考えがあるならば、貴様の考えでやって見れ。それならば今幸い間隙でありますから、長崎に行ってきましょう。長崎へ行ったところが、何ほども事情は分かりますまいが、先ず長崎へ行き、多少西洋人と交際をしてみたならば、他日廟議の為になることは、随分あろうと思いますから、暫く御暇を願いたい。そんなら行ってこいということで、私は長崎へ行きました。昔の人は、みな攘夷攘夷と思っていたところが、三條公に於いては、その頃は最早開国でなくてはいけないということは、十分に覚して居られた。』」(吏話速記録第七十七輯)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/32
と、三條公も攘夷は不可能であり、これからは開国を考えるべきとの認識があったようなのだ。また、最も頑強な攘夷論者と伝えられている澤 宣嘉(さわ のぶよし)卿も、同様の考えであったという。

維新前後の政争と小栗上野 続

ならば、なぜ攘夷論者たちは、実行が不可能であることを認識していながら、攘夷論を唱え続けたのだろうか。
この問題について、蜷川氏はこう結論付けている。
要するに、行われざるを知って、幕府に攘夷を迫ったのは、攘夷を倒幕の手段に用いたるものにして、攘夷即倒幕を意味していると解して差し支えない。

 もちろん、草莽の軽輩に至っては、純正なる攘夷論をふりかざして、驀地に攘夷を断行せんと意図したるものありといえども、それさえ、多少の討幕的政略が含まれていると見ねばなるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/33

このように蜷川氏は、実行できないことを分かっていながら繰り返し幕府に攘夷を要求することで幕府を衰退させ倒幕に導くという戦略であったとし、『討薩檄』を書いた雲井龍雄と結論はほぼ同じなのである。

西郷隆盛
西郷隆盛

薩摩藩士であった有馬藤太の回顧談をまとめた『維新史の片鱗』という書物には、慶応3年に藤太が攘夷について西郷隆盛に質問する場面があり、西郷が攘夷の目的について明確に述べているところを引用したい。

「それから西郷先生の所へ行って、攘夷の件について教えを請うと、
『ア、お前にはまだ言わなかったかね、モー言って置いた積りヂャッタが、アリャ手段というモンヂャ。尊王攘夷と言うのはネ、ただ幕府を仆(たお)す口実よ。攘夷攘夷と言うて他の者の士気を鼓舞するばかりヂャ。つまり、尊王の二字の中に討幕の精神が含まれている訳ヂや』

と言われたので、ここに初めて多年の迷夢が醒めて、攘夷と言うことは、為(せ)ぬものということが分かった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964354/29

しかしながら、それまで攘夷論を振りかざしていた連中が徳川幕府を倒して政権を掌握すると、今度は「攘夷」を引っ込めざるを得なくなってしまう。蜷川氏は明治新政府の豹変ぶりをこう解説している。

「薩、長、土、肥、越、芸の六藩主は、朝廷に建白し、外国使臣を朝廷に出入りせしむるの要を唱えた。政治家に一貫の主義などある筈なしといった風であった。政治家は果たして、左様な軽率なものでしかるべきであろうか。今日の国民は之を如何に観るや。
 政府は明治二年二月一七日を以て、『先般外国御交際の儀、叡慮の旨仰せ出され候については、万国普遍の次第を以て、各国公使等御取扱いなされ仕り候。中略。各国公使急に参朝仰せ付けなされ候につき、此の段相達すべく仰せ出され候こと。』と全国に布告した。
 日本と外国との交際は、旧幕府の為せる通りに、引き続き行われることとなったのである。二月二十八日京都に於いて、英仏蘭三国の公司は、天皇に拝謁することになった。江戸城中に外人を入れたりしがために、攘夷党の憤激せし事は、いつ早く全く忘れ去られた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/34

村山富市
【村山富市】

出来もしないことを主張し要求し続けることによって現政権の弱体化をはかる手法は、今までわが国で良く用いられてきた経緯にあるが、このようなやり方でもし政権が転がり込んできたとしても、これまで自らが主張していたことが何も実行できないことを白日のもとに曝け出すことになるだけだ。
平成6年(1994)に日本社会党の党首・村山富市氏が首相に指名されその所信表明演説で、それまでの日本社会党の政策をかなぐり捨てて、「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、「日米安全保障条約体制を堅持」すると発言して世間を驚かせ、翌年の参院選挙で同党の議席を大幅に減らしたことは記憶に新しい。

現実を直視せずに党利党略で不毛な議論を繰り返すような薄っぺらな政党に、国民の支持が広がる時代はもう来てほしくないと思うのは私ばかりではないだろう。国権の最高機関である国会で、国家・国民のために、国内外の諸問題について真摯で建設的な議論がなされる日が、一日も早く来ることを祈りたい。

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【ご参考】
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長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
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薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
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フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html






戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。
もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考えるほうが自然だと思う。
今回は雲井龍雄の書いた文章の内容を少し詳しく紹介したい。

雲井龍雄

檄文の冒頭部分は前回の記事で書いたとおり「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ」という内容で、原文は前回の記事で引用したので省略させて頂いてその続きから読んでいこう。
原文とその大意は前回紹介したWikipediaの記事に出ているが、文中の「大意」の部分は僭越ながら筆者が若干の修正を加えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

「皇朝、陵夷(りょうい)極まると雖も、其の制度典章、斐然(ひぜん)として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫(そぞろ)に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅(ほしいまま)に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥(みだ)りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
我が国には海外勢力による国防の危機があると言っても、わが国には固有の制度があり、それらが機能してきたことを知るべきである。しかるに、薩摩が権力を握ってからは急激で無理な変革を推し進め、長い歴史の中で培われてきた制度や慣習を破壊してしまった。この罪をどうして問わずにおれよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸藩の不逞の輩が、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。

「公家や皇族を捨て去り」という部分は分かりにくいが、孝明天皇・明治天皇の摂政であった親幕派公卿の二条斉敬(にじょうなりゆき)や、親幕派の賀屋宮朝彦親王らが王政復古時に朝廷から排除されたことを指していると思われる。

鳥羽伏見の戦い
【鳥羽伏見の戦い】

次に雲井龍雄は鳥羽伏見の戦いの官軍の戦いぶりについてこう述べている。
「伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。

引用部分の後半で、雲井龍雄官軍の乱暴狼藉が甚だしかったことを指摘しているのだが、この点について他にどのような記録が残されているであろうか。

戊辰戦争 裏切りの明治維新

星亮一氏の『戊辰戦争 裏切りの明治維新』(静山社文庫)に、『相馬市史』に解説されている『吉田屋覚日記』が紹介されている。この日記は相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代が記録したものだという。

「8月14日
官軍側の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.144)
分かりやすく言えば、彼らは分捕り品を販売して収入を得ていたわけで、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のようなものであった。

星亮一
【星亮一】

星氏はさらにこう解説しておられる。
「官軍に徴発された馬は、雨覆いもなく野外につながれたままだったので、数十疋も死んだ。また馬の飼料として、近在の青豆や野菜を採ったので、野菜が一切なくなるなど、農民は断腸の思いだった。
 酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りができなくなった。
 治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手であった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた

 病院の看護人にも大勢の女性が動員された。
 相馬藩はじっと耐えた。」(同上書 p.145)

仙台戊辰史

ネットで古い記録が残されていそうな本を探していると明治44年刊の『仙台戊辰史』という本が見つかった。仙台藩は、新政府から会津藩に対する追討軍への参加を命じられていたのだが、藩では次第に会津藩・庄内藩と協調して新政府と敵対すべきだとの意見が多数となっていく。なぜ、仙台藩で錦の御旗の官軍と戦おうという意見が広がっていったのか。

官軍の奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書の一部を引用する。文中で戸田は鎮撫使参謀の大山綱良(薩摩藩)と世良修蔵(長州藩)を強く批難しているが、戸田は建策したのちに姿を消したという。

世良修蔵
【世良修蔵】

「…人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にして、みだりに兵威を以て人民を圧服し給うの謂いにあらざるや明らかなり。…殿下御東下以来大山・世良両参謀の為すところを観察するに、殿下の為に痛嘆せずばあるべからざるものあり。請う、これを陳せん。寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。これ奥羽の人望を失うの基を開く一なり。
薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり。あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商賈を嚇怒し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類、両参謀知りて而して措て問わず。士民の怨みいつこにか帰す。これ殿下の人望を失うの二なり。
したがって討会*出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲笑するの類、その臣子たるもの誰が心に快とせんや。これ殿下の人望を失うの三なり。

世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。…」
*討会:会津藩追討のこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/217

戸田主水という人物は仙台藩とつながっていたという説もあり、記されていることの真偽の判断は読者にお任せするが、ほかにも同様な記録が残されていることからすると、雲井龍雄の『討薩檄』に書かれているような官軍による乱暴狼藉がひどかったことは、ある程度は真実であったと理解してよいだろう。
多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。

討薩檄
討薩檄

雲井龍雄の『討薩檄』に話を戻そう。続いてこう記されている。
「井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り*、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。」
*三綱五倫:三綱とは. 臣下の王に対する忠; 子の親に対する孝; 妻の夫に対する烈. 五倫とは. 父子有親(孝行); 君臣友義(忠誠); 夫婦有別(男女の役割); 長幼有序(上下の秩序); 朋友有信(信義)

【大意】
徳川の勲臣を臣下に討たせたり、徳川の親族に宗家を討たせたり、諸藩の親子兄弟を討たせたりしている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、こういうことは人道に反することであり、今上陛下の統治に傷をつけることになる。その罪を問わなくてはならない。

そう記して、最後に雲井龍雄はこう結んでいる。

「右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。」

【大意】
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。

以上が『討薩檄』の内容なのだが、この檄文の存在や戊辰戦争で官軍が乱暴狼藉を働いた記録が残されていることを知ったのはつい最近の事である。
教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)と、キレイごとが書かれているだけだ。

最近になってようやく薩長史観とは異なる視点で描かれた歴史書が出版されるようになってはきたが、明治維新からもう150年も経つというのに、教科書やマスコミなどの明治史の解説では未だに薩長本位で、これでは東北出身の方は納得できないだろう。

維新雑史考

そんなことを考えながら面白そうな本を探していると、昭和9年に出版された高梨光司著『維新雑史考』に、戊辰戦争に関する薩長本位の歴史叙述に苦言を呈しておられる文章が見つかった。高梨氏は官軍による乱暴狼藉の事例を紹介したのちに、こう記されている。

然るに従来の薩長本位の戊辰戦記には、これらの事に関し、何ら記せざるのみならず、東北人の手になるものと雖も、概ねこれに触れるを避けたかの観がある。或いは他に憚るところあって、かくせりやとも思わるるが、歴史的事実は飽くまでその真相を伝うべきであり、その結果が当年の官軍なるものの不名誉に帰するも、致し方あるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232273/82

この本は明治維新から66年後に刊行されているのだが、それから84年経った今も大半の歴史書が薩長史観で叙述されているのは、戦後の日本史学者の怠慢であると言うしかないだろう。
いつの時代もどこの国でも、勝者は「歴史」の叙述の中で自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものであり、勝者にとって都合の良い歴史を広く伝えようとするのは当たり前のことなのである。

勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、さまざまな立場の人々が書き残した記録を読み比べながら、本当は何があったのかを考察することが重要だと思うのだが、教科書などのわが国幕末から明治までの歴史が全面的に書き換えられる日は来るのか。

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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
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洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
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江戸無血開城の真相を追う
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。

仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。

罪第一等 徳川慶喜、
罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、
罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)
罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、
罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)

「朝敵」の認定を受けた藩は西日本が多かったのだが、これらの藩を含め佐幕派の諸藩は早々と抵抗を諦めて赦免を求めることとなり、鳥羽伏見の戦いの後は西日本ではほとんど戦闘行為に至っていない。

しかしながら、いくら藩主が謹慎し恭順の意を示しても許されなかった藩があった。それが会津藩なのだが、なぜ会津藩は戊辰戦争で戦うことを余儀なくされたのだろうか。幕末の動きを少し振り返っておこう。

松平容保
松平容保

文久2年(1862)に会津藩主・松平容保(かたもり)は京都守護職となり、更に新撰組を麾下に置いて会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担うこととなった。
文久3年(1863)には薩摩藩と連携して長州藩を八月十八日の政変で京都から追放し、元治元年(1864)には池田屋事件で謀議中の尊攘派志士を襲い、蛤御門の変では長州藩兵と戦い、二度にわたる長州征伐にも関与した
。職務上やむを得なかったとはいえ、新政府からすれば新選組や会津藩に対し多くの同志を殺傷されたことの恨みがあったことだろう。
慶応3年(1867)の大政奉還のあと王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生し、今度は会津藩が京都から追放されて大阪城に退くこととなった
新政府は大阪城にいた徳川慶喜に上京を命じ、会津・桑名兵に対しては本国への帰還を命じている。そこで将軍の上京のために会津兵・桑名兵が守護することとなったのだが、慶応4年(1868)1月2日にその隊列の上洛を待ち伏せていた新政府軍が大砲を打ち込んで徳川方に挑戦したのが鳥羽伏見の戦いである。以前このブログで書いたように、会津藩も桑名藩も徳川慶喜も鳥羽伏見では戦う準備はしておらず、戦う意思は持ち合わせてはいなかったところに一方的に戦いを挑まれたのだが、1月17日に新政府は仙台藩に会津藩の追討命令を出している。原文は明治44年刊の『仙台戊辰史』に出ているが現代語に訳すと次のようなものであろう。
「会津藩松平容保はこのたび徳川慶喜の反謀に与(くみ)し、錦旗に発砲し、大逆無道の行いであったので征伐軍を発することとなった。貴藩が一藩の力で (会津藩の)本城を襲撃したいとの出願をしたことは、武道を失わない憤發の心がけ、神妙の至りであり、主上も御満足に思し召しである。よって(貴藩の)願いの通り、(会津征伐を)仰せ付けるので、すみやかに追討の功をあげるよう御沙汰する。 戊辰正月」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/146
しかしながら仙台藩は会津藩を討伐することを出願したこともないのに、このような命令が届いたのは何かの間違いであろうとしてすぐには動かなかった。

一方、会津藩は必死に和平の道を模索していた。
松平容保は2月4日に藩主を辞任して家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り、2月16日に会津藩を朝敵とする勅命が下ると会津に向かい会津鶴ヶ城外の御薬園(おやくえん)に入り恭順謹慎
して、朝廷の命を待った。

会津藩首脳も朝廷ほか尾張、紀州、加賀、肥後、土佐など二十二藩に対し『嘆願書』を呈出し和平の周旋を懇願したが、良い返事をもらえなかった。こうした中、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)は、松平容保に深く同情し、朝廷との周旋を決意した。
また、別ルートで仙台藩から米沢藩に使者が使わされ、新政府の奥羽鎮撫使が来たら、会津藩の嘆願を周旋して奥羽での戦乱を避けることで合意していた。

九条道孝
【九条道孝】

3月22日、新政府に敵対姿勢を続けていた会津藩、庄内藩を討伐する目的で奥羽鎮撫総督および新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日に奥羽鎮撫総督の九条道孝は参謀の世良修蔵(長州藩)、大山綱吉(薩摩藩)らとともに仙台藩・米沢藩をはじめとする東北諸藩に対して会津・庄内の征討を命じている

しかし奥羽鎮撫使のメンバーはとんでもない連中であったことが記録されている。
『仙台戊辰史』に、仙台到着数日前からの彼らの行動が詳細に記されている。文中の大山格之助は参謀の大山綱吉で、三好監物は仙台藩の重臣、慶邦公は陸奥仙台藩藩主の伊達慶邦、伹木土佐は仙台藩の奉行である。

大山綱吉(格之助)
【大山綱吉(格之助】

「東名浜に上り総督の一行は山本久米蔵の家に宿す。この日東名浜に江戸の商賈某の貨物を満載せし商船の碇泊しあるを見て、薩の参謀大山格之助は商人を尋問したる末、これ敵地のものなり、宜しく分捕りすべしと、貨物及び船を奪い、商人を追放して数千金を得、大白を挙げて之を祝せしかば、仙台藩は勿論、各藩より来れる者および付近の人民は大いに驚きたり。19日夜半三好監物東名浜に出迎えしが、総督一行は21日松嶋を遊覧し観瀾亭に宿陣せしかば翌23日払暁慶邦公は伹木土佐らを従え儀を整えて松嶋に至り総督に謁せしに左の命あり

仙台中将
右早々人数差出し、会津へ討ち入るべき事
策略等の儀は、参謀に申談すべき候事

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/175

これを読めば、彼らにとっては「朝敵」会津を討伐するよりも商人の荷物を奪うことや、松島を観光することの方が優先であったことになる。新政府が東北に送り込んだのはこの程度の人物であったのか。

世良修蔵
世良修蔵

『仙台戊辰史』には、奥羽鎮撫使がほかにもひどいことをしたことが書かれている。
「薩長兵の入国以来、公然として仙台藩士を侮辱する意味の俗謡を謡いつつ、街衢を横行し酒を被りて、士人を凌辱し、隊を組みて市井に乱暴するも、天朝の軍人たりというの故を以て、有司も之を咎むるを得ず。甚だしきに至りては良家の婦女子を捉えて、終身拭うべからざる辱めを与え、之を誇りとするさえありしをや。しかもこれ等のこと、啻に無頼走卒のみならず、大山、世良及び隊長と称する者またこれを敢えてして顧みざるに至りては、大藩の威厳を傷つけざらんとする仙台藩少壮の士の忍び得るところに非ず。朝命を畏み奉ずるにおいて人後に落ちざらんとする赤誠の士も、天朝を代表すと称する総督府参謀輩の兇威に対し武士の面目に於いてこれに反抗せざるを得ざるに至りしは、勢いの已むべからざるに属す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/177

上杉斉憲
【上杉斉憲】

こういうわけで奥羽鎮撫使の行状が許せないとする者が仙台藩の若手藩士を中心に増加していったのだが、米沢藩主上杉斉憲(なりのり)が奥羽鎮撫使に使者を送り和平の斡旋を申し述べた際には奥羽鎮撫使参謀の世良修蔵が激怒し、「会津追討に異議があるのなら、米沢藩も同罪として追討する」と脅したという。

伊達慶邦
伊達慶邦

同じ頃仙台藩主伊達慶邦(よしくに)も会津藩謝罪の周旋をしたいと告げ、会津謝罪の条件を問うと、仙台藩が和平工作をしていることに世良修蔵がまた激怒し、「会津藩の謝罪の条件は、松平容保斬首、会津鶴ケ丘城開城」という過酷な条件を提示している。もしここで会津追討をためらえば仙台藩も朝敵にされるおそれがあった。
そこで仙台藩主の伊達慶邦は会津藩境に大軍を送って世良の顔を立て、同時に会津藩に早期降伏を進めて和平の道を探ろうとし、家老級3名の切腹と領地削減を条件に会津藩が新政府に降伏する旨の話を取り纏めて、仙台・米沢藩主連名で『会津藩寛典処分嘆願書』とさらに奥羽各藩家老による『奥羽各藩家老連名嘆願書』を4月12日に奥羽鎮撫総督九条道孝に呈出したのだが、世良修蔵はそれをも拒絶し、仙台・米沢両藩で会津藩の征討を再度厳命したのである。

なぜ世良はここまで執拗に会津討伐を要求するのか不審に思い、仙台藩が世良参謀の周辺を探索させると、世良が出羽に遠征中の大山参謀に宛てた閏4月19日付けの密書が手に入った。そこには驚くべきことが書かれてあった。全文は次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/243

ポイントになる部分は「京師(京都)へあい伺い、奥羽の実情、篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て逆襲の大策に致したく、大総督府西郷様へも御示談致し候うえ、大挙奥羽への皇威の赫然致し仕りたく存じ奉り候。米仙(米沢藩と仙台藩)の朝廷を軽んずる心底、片時もはかり難き奴に御座候」で、要するに世良は奥羽を全面的に武力制圧することを主張していたのである。

日頃から傲慢粗暴の振舞いで仙台藩士の恨みをかっていただけでなく、いつか仙台藩を朝敵として讒訴しかねない男を見過ごすわけにはいかず、仙台藩軍事局はこの世良修蔵を捕らえて糾問することとした。
閏4月20日午前二時ごろ、仙台藩士赤坂孝太夫・福島藩士遠藤条之助が福島の金沢屋で遊女と寝ていた世良修蔵を急襲して捕縛し、部屋にあった閏4月15日付の大山参謀からの密書を持ち帰った。その全文も『仙台戊辰史』に収録されている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/246

その密書には「奸計(悪だくみ)をもって総督府へ迫り奉り…仙台の者ども、甚だ姦物(悪者)にして、ついては両君将(仙台・米沢藩主)を京都へ呼び寄せ、両三年の間差し留め候」などと書かれている。
仙台藩は、奥羽鎮撫使は仙台藩も米沢藩もいずれ追討する考えであることを悟り、口封じのため世良を斬首したのだが、このあとで奥羽人の怒りが爆発することになる。

奥羽諸藩は薩長を糾弾し、奥羽鎮撫使総督ではなく直接京都の太政官に宛てて建白書を呈出して、会津藩寛典処分を願い出ることとした

奥羽越列藩同盟

閏4月22日奥羽列藩重臣会議が開かれて仙台藩、米沢藩、秋田藩、盛岡藩、二本松藩など奥羽二十五藩による奥羽列藩同盟*が結成され、同盟の建白書が起草された。そこには、世良や大山の悪事のことや、会津藩は家老級3名の切腹と領地削減にて降伏を申し出たにもかかわらず、参謀の世良がこれを拒否したことは王政復古の妨害になることなどが主張されている。
*奥羽列藩同盟:5月4日に越後長岡藩、6日には新発田藩などの北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/258

この建白書の主張は正論なのだが、正論であったがゆえに、薩長と奥羽越列藩同盟諸藩との戦争は避けられなくなったのである。

仙台戊辰史

『仙台戊辰史』は仙台藩の立場から書かれているので誇張部分もあるだろうが、前々回の記事で紹介した奥羽鎮撫総督府の戸田主水の内部告発文書においても、大山・世良の両参謀は強く批難されている。
寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。」
世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。」

「鎮撫使」というものは、読んで字のごとく、人民を鎮めて安心させることが本来の仕事であるはずなのだが、明治新政府が奥羽鎮撫使参謀として送り込んだ人物は、二人とも会津藩に対する強い復讐心で凝り固まっていて、戦わずして鎮めようとするような意思は毛頭なく、しかも東北の人々から信頼を失って当然と言える行為を繰り返したことは重要なポイントである。
一般的な教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)とあるのだが、この文章を普通に読めば、会津藩も東北諸藩もずっと新政府に抵抗し続けたと理解するしかない。
しかし、この教科書のような説明では、会津藩も新政府に恭順の意思を示していて、東北諸藩は和平に向けて新政府との仲介をしようとしたところを奥羽鎮撫使参謀が拒絶したという真実を読み取ることは不可能だ。

会津藩は「朝敵」とされていたが、東北諸藩は「朝敵」とされていたわけでもないのに、自らが「朝敵」の汚名を受けるリスクを覚悟で会津藩を助けようとしたのは何故なのか。
この理由は、奥羽鎮撫使が東北で信頼を失う行為を繰り返したことも大きな理由の一つではあるが、これだけでは東北諸藩が連盟を組むことはつながらない。ただ会津藩を援けるというだけではなく、自藩の存亡にかかわる危機感を共有していなければ連盟を組むということはありえないと思うのだ。

仙台藩や米沢藩が会津藩を援けようと動いても、奥羽鎮撫使参謀は拒絶し、仙台藩や米沢藩に会津討伐を命じるばかりだったのだが、それがあまりに執拗であった。しかも奥羽鎮撫総督府の兵は動かず、ただ命令があるだけだ。
明治政府からすれば、奥羽鎮撫総督府のメンバーが構成された当時は、江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍は江戸に存在していたために新政府が東北地方に兵力を割ける状態ではなかった。そのために奥羽鎮撫総督府の兵力はわずかに570名程度で、奥羽諸藩の鎮撫は、奥羽諸藩の兵力でもって行う方針で臨まざるを得なかったという事情があったようなのだが、こんな少ない兵力で奥羽を統一するという新政府の方針に無理があったと言わざるを得ず、奥羽諸藩からすれば新政府の援軍なしで会津と戦えというのはさぞ不愉快なことであったろう。

罪のない会津藩が朝敵にされるようでは、自藩もいつ朝敵にされてもおかしくない。もしかすると新政府は奥羽諸藩同志を戦わせて疲弊させてから、いずれ奥羽全体を武力討伐する魂胆があるのではないかと疑いつつ、世良の密書でそれが明らかになって一気に爆発したということということではなかったか。

会津藩も、「朝敵」と名指しされた他藩と同様に新政府に対し恭順謹慎していたのだから、新政府が会津藩が降伏することを許していれば戊辰戦争で東北地方が戦禍に巻き込まれることはなかったはずである。
会津征伐にこだわり、東北諸藩に会津征伐をさせるのは新政府の方針であったのかもしれないが、そうだとすると奥羽鎮撫使の両参謀とその部下が仙台藩で信頼を失う行為を繰り返してはいけなかったはずである。
明治政府は会津藩に対する戦略を誤ったのか、奥羽鎮撫使参謀の人選を誤ったのか、その両方なのかのいずれかなのだろうが、いずれにせよ、私怨で住民を争いに巻き込むべきではなかったと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html






【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。

東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。

当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。
「満座人皆万才ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉不止」(出席者全員が万歳を唱え、悪逆人に天誅を加えたことに快哉を叫ぶ声が止まなかった)

白石城姿図
【白石城姿図】

しかしながら、参謀を殺害したことによって、東北諸藩は奥羽鎮撫総督府を相手に交渉することはできなくなったことは言うまでもない。白石会議では今後は東北諸藩の総意として、太政官に直接建白することを決議し、また各藩が一致団結するための盟約書の作成にとりかかっている。

戊辰戦争

佐々木克氏の『戊辰戦争』に、5月3日に奥羽25藩で調印された『白石盟約書』の内容が紹介されている。これを読むと、それまで奥羽鎮撫使が東北諸藩にどのような酷いことをしてきたかがある程度推測できる条項があるので、いくつかを引用させていただく。

「一、 強を負うて弱を凌(しの)ぐなかれ、私を計りて利を営むなかれ、機事を漏洩するなかれ、同盟を離間するなかれ。
一、 城堡の築造、糧食の運搬は、止むを得ずといえども、漫(みだ)りに百姓をして労役し愁苦にたえざらしむるなかれ
   …
一、 無辜を殺戮するなかれ、金穀を掠奪するなかれ、凡そ事不義に渉らば厳刑を加うべき事。
右の条々違背あらば、則ち列藩衆議し、厳譴を加うべき者也。」(佐々木克『戊辰戦争』p.118-119)

翌4日には、この同盟に越後長岡藩が加盟し、6日には新発田藩等北越同盟5藩が加入して、合計31藩による奥羽越列藩同盟が成立したのだが、この同盟を終始リードしたのは仙台藩と米沢藩で、仙台藩がタカ派で米沢藩がハト派であったという。

佐々木克氏の前掲書に、閏4月20日ごろに仙台藩の玉虫左太夫、若生文十郎が起草したという行動計画書の要旨が出ているが、驚くようなことが書かれているので紹介しておこう。

「総括
(18)参謀の惨酷残暴により奥州二州が愁苦に堪えかねてこの様な運びになったことを太政官始め天下列藩へ訴え公論をきく。
(19)仏・米・魯国を引きつけ海軍や兵器の手配を整える。仏米両国への接触は会津藩が担当する。
(20)東北諸藩はもちろん、西南諸藩まで同志のものへ密使を派遣し、東西協力の策略を打ち合わせ、敵の内部を切り崩す。
(21)旧幕臣や海軍と密策をめぐらし同時蜂起の手配をする。これも会津藩の担当とする。

(22)京都・江戸両地につめている藩士を帰還させる。
(23)秋田藩に異論があるようだが米沢藩が説得する。同様に八戸藩は南部藩の江幡五郎が説得に当たる。」(同上書 p.128-129)
原文は『仙台戊辰史』に出ており、次のURLにある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/262

東北諸藩だけでなく旧幕臣や海軍や全国の同志と連携し、さらに外国の力を借りて戦うことが堂々と書かれているのだ。そして実際に外国と交渉した記録が残されているのだが、どのような交渉を行ったのだろうか。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

上の画像は2016年9月18日付の北海道新聞の記事だが、重要な内容なので引用したい。

「戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は『戊辰戦争が長引いていれば実現していた可能性がある』とみる。
 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったとみられていた
 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側ではゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
 それによると『シュネル*(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ』などと書かれているという。
 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点確保に向けた意図が読み取れる。
 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)

*シュネル:会津藩と米沢藩の軍事顧問を務めていたヘンリー・スネルか、新潟で武器商を営んでいた弟のエドワルド・スネルだと思われる。
http://blog.goo.ne.jp/gooasagao/e/8c89179e6325546433c03b3362ad96ef

幕末の会津藩・庄内藩領

上の画像は同日の北海道新聞に掲載された北海道の地図だが、会津藩と庄内藩は北海道に結構広い領地を持っていた。もしこの地域にプロイセンの軍事拠点が出来ていたら、明治の歴史は大きく変わっていたことは確実だ。
http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/4685933.html

ビスマルク
【ビスマルク】

少し補足しておくと、当時の信書は船便であったためにプロイセンに届くのに2か月もかかる時代であった。駐日代理公使フォン・ブラントが「会津・庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を最初に出したのは7月31日だったのだが、その手紙がビスマルクの手元に届いたのは10月初め頃と考えられる。ビスマルクは10月8日に一旦これを却下したのだが、後にゴーサインを出した。その後会津・庄内藩から蝦夷地を99年間貸与する話が出て11月12日に再びブラント公使が本国に手紙を出したが、その時点では会津藩も庄内藩も降伏していたためにプロイセンの出る幕がなかったという流れである。

このような史実は殆んど通史などには書かれていないのだが、Wikipediaに興味深い記事がある。

越後には慶応4年(1868年)3月9日に開港された新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府は開港延期を要請したがイタリアとプロイセンは新政府の要請を無視し、両国商人は新潟港で列藩同盟へ武器の売却を始めた。このため新潟港は列藩同盟の武器の供給源となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89

エドワルド・スネル
【エドワルド・スネル】

安政5年(1858)に江戸幕府が締結した日修好通商条約で、下田・箱館のほかに五港を開港することが決められたことは教科書などにも書かれているが、新潟の開港が遅れていた。
新潟港は、当初は1860年1月と定められていたが、水深不足や国内の政治情勢で開港が遅れ、公式には明治2年(1869)1月1日を開港日としているのだが、工事は前年に完了しており戊辰戦争の最中に列藩同盟はこの港で武器の購入交渉を開始していたようなのである。
列藩同盟の武器の調達に関与した人物の一人が、北海道新聞の記事に出てきた「シュネル」という人物で、兄のヘンリー・スネルは会津藩・米沢藩の軍事顧問で、弟のエドワルド・スネルは武器商人で、出身はプロイセンだったようだ。このスネル兄弟の存在が、奥羽越列藩同盟の結成の大きな要因になったことは確実である。

徳富蘇峰の『近世日本国民史 奥羽戦争篇〔第72冊〕』に、新潟港開港と列藩同盟の動きに関する記述がある。

「奥羽・越の連盟中には外交上の知識の持ち合わせある者もあり、その連盟の成立を条約各国に告げ、その公認を要め、堂々と交際せんことを期した。当時安政条約*の結果として、戊辰の春**より新潟は開港せられ、普魯西(プロイセン)領事等滞在したれば、仙台藩玉虫左太夫らの発議により、その案文を草し、5月30日各藩代表者の仙台の松井邸会議の際これを検定した。」
*安政(5カ国)条約:安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ条約の総称。 その後ポルトガル(1860年)およびプロシア(1861年)とも同様の条約を結んだ。
**戊辰の春:1868年の春

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

徳富蘇峰の前掲書に、プロイセンに宛てて列藩同盟の成立を知らせ、その公認を求めるための書状の案文が紹介されている。

「わが大日本国徳川氏累世継承の政権を、天朝に復してより、天子幼冲、万機草創、而して奸臣隙に乗じ、私意を挟み、もって朝憲をほしいままにす。これゆえにその令するところ、一に至誠惻怛の意に出づるあるなく、もっぱら残酷殺伐の威を逞しうし、もって天下諸侯を圧服す…」と新政府を非難したのち、
わが奥羽越列藩、君臣上下、其此の如きを察し、公議一定、同盟相結び、以て大義を天下に伸ばし、而して強暴の来者撃て、もって之を斥け、その去る者必ずしも追わず、もって皇国を維持し、而して天下聖明の治を待たんのみ」と各藩の態度を示し、
「…敢えて告ぐ。望むらくは領事館執事、僕輩の至衷を諒とし、之を各国諸公使に伝え、もってその他なきを明らかにせられよ。…」と述べて、列藩同盟を公認することを求めている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/98

奥羽越列藩同盟旗
奥羽越列藩同盟旗】

薩長政府の非道を訴えたのは、奥羽越列藩がプロイセンとの貿易を開始するために、新政府ではなく奥羽越列藩こそが新潟港で諸国と貿易を行う正統性があることを認めさせようとしたのだろう。
彼らは、「独立」という言葉は用いていないが、奥羽越列藩が中心になって薩長の勢力を朝廷から追い出すか、東北地方から追い払うなどして、新しい「皇国」を作ろうと考えたことは間違いなさそうだ。

北白川宮能久親王
輪王寺宮公現法親王

6月16日に輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を奥羽越列藩同盟の盟主として迎えている。
Wikipediaによると「輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、『動座布告文』と『輪王寺宮令旨』を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。」とある。また10月18日付のニューヨークタイムズは「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」と報道したという。輪王寺宮が『東武皇帝』として即位したという話もあるようだが、詳しいことは分かっていない。
しかし「輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされ」ていて、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が残されているようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F

安政6年(1859)「新潟湊之真景」
【『新潟湊之真景』安政6年(1859)】

戊辰戦争中の新潟港の話に戻そう。
当時新潟港には、プロイセンのほかアメリカ、イギリス三国の領事が二隻の軍艦で来ていたという。各藩の全権と奥羽列藩との貿易交渉が開始されたのだが、各藩は軍需品の輸入に関心を持っていて、特に米沢藩と会津藩は武器輸入を新潟港に頼るしか方法がなかったので関心の度合いが強かったという。

プロイセン領土の拡張

幕末期以降イギリスが薩長倒幕側、フランスが幕府側について武器を供給したことは有名な話だが、徳川慶喜が大政奉還したのちフランスの対日方針が変わり、戊辰戦争の途中でフランス公使のロッシュが日本を去っていった。プロイセンのスネル兄弟は戊辰戦争の東北諸藩の動きを見て我が国で大量の武器取引ができるチャンスがあると判断し、ビスマルクも北海道の会津藩・庄内藩領を足がかりにして領土の拡張ができると考えたのだろう。

会津藩・庄内藩がプロイセンとこのような交渉をしたことを『売国奴』だと考える人が少なからずいると思うのだが、新政府に対して謹慎し恭順の意思を示していたにもかかわらず、ここまで両藩を追い詰めた薩長側にも大いに問題があったことは指摘せざるを得ない。

いずれにせよ、東北の戊辰戦争に早く決着がついたことは、わが国にとっては幸運であった。
もし戊辰戦争が長引いていたら、プロイセン(ドイツ)が北海道に軍港を作っていた可能性が高かったし、そうなっていたらわが国は日清・日露を全力で戦うことができず、今の北海道のかなりの部分が外国の領土になっていてもおかしなことではないのである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html

江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html

大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-490.html

イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-495.html





兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。

白河城
【白河城】

奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。

白河地図

白河は、古くは「白河の関」が置かれた奥州の玄関口で、猪苗代湖の南から会津若松を攻略するための要地であり、白河藩は慶応三年(1867)に阿部氏が棚倉藩に移封されたのち幕領とされ、城郭は二本松藩丹羽氏の預かりとなっていて、当時は二本松藩のほか仙台、棚倉、三春などの諸藩兵が新政府から駐屯を命じられていた。
仙台藩家老の坂英力が会津藩家老梶原平馬に、宇都宮方面からの新政府軍が白河城に入城する前に白河を奪うべきだとの書状を送り、閏四月十九日には城に駐屯していた仙台藩兵を須賀川まで後退させわずかの兵しか残っていない状態にして、会津藩は閏四月二十日に急襲して白河城を占領し、また同じ日に仙台藩は奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵を斬首し、九条道孝総督・醍醐忠敬参謀らを軟禁している。

当時新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたのだが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令でそのまま白河へと前進し、二十五日に新政府軍の先遣隊が城に奇襲をかけたのだが、無理な強行軍の疲労と弾薬不足もあり、会津軍に撃退されている。

西郷頼母
【西郷頼母】

この間、閏四月二十二日に仙台で奥羽列藩同盟が結成され、二十六日に白河口総督として会津藩家老西郷頼母(たのも)が、副総督として同若年寄横山主税(ちから)が千余人と砲二門を率いて白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着し、白河城の奥羽同盟軍は総勢二千五百~三千人、砲十門の大部隊となった

一方、新政府軍は二十八日に白河南方の白坂に結集し、その兵力は薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍(おし)藩による七百人、砲八門であったという。

五月一日の朝から戦闘が始まった。
単純に兵力を比較すると圧倒的に同盟軍が優勢であったのだが、白河本町の庄屋川瀬才一の『白河戦争見聞略記』にはこう記されているという。

「五月朔日卯の上刻(午前六時)、官軍勢五百余人、九番丁関門外迄寄せ来れり。この兵の過半は前夜に来りて潜伏したりと云う。此日官軍より突然打ち出したるその炮戦烈しき是を聞くもの驚愕肝を冷さざるなし。此日官軍は関東口・米村口・棚倉口・原方口と四方に手を分って討ち入るゆえ、会津勢は手配りも案外に相違し大いに周章狼狽して大一番に棚倉口を破られ、挟み撃ちならんと心付き、桜町および向寺町に放火して東西に走せ、南北に散乱するの混雑、蜘蛛の巣(子)を散らすが如し。関東口、米村口、原方口の三方は一度に破られ会津勢は引揚げに、登り町に放火せり。斯の如くして此日皆破られ惣崩れとなりたり。この日の戦死者は六百八十余人なり。」(星亮一『奥羽越列藩同盟』p.112)

と、新政府軍が圧勝したのだが、この戦いを会津藩側の立場から記されている『会津戊辰戦史』で読んでみよう。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本だとされている。

会津戊辰戦史

卯の上刻(午前六時)西軍棚倉口桜町方面より大砲小銃を発すること頗る烈しく、純義隊以下の諸隊殆んど危うし。
「西兵返戦して三面より猛撃す。仙台の将佐藤宮内、坂本大炊赴き戦う。大炊逢隈川を渡りて西に進む。弾丸その頭を貫きて斃る。仙将瀬上主膳衆を励して戦う。日向茂太郎之に死す。東軍支うること能わず。米村の堤防に拠って戦いしも、忽ち砲兵十余人皆斃(たお)れ頗(すこぶ)る苦戦の状あり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/183

横山主税
【横山主税】

副総裁横山主税自ら采配を振って衆を励し、稲荷山に登るや忽ち弾丸に中(あた)りて斃る。戦い猛烈にして遺骸を収むるに遑(いとま)あらず。…諸将殊死して戦うと雖も遂に利あらず。仙兵は根田、小田川の方面に退き、その他は白河の市街に退きしが、混乱状態に陥りて収拾すべからず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/184

ライフリング

東北軍が大敗を喫した理由は兵器の差が大きかった。
以前このブログで書いたとおり、長州藩や薩摩藩は幕末の早い時期から、ミニエー銃などの最新の武器を購入していた。ミニエー銃には銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施されていて、銃弾はロケットの様に円柱の先が尖った形になっているので、銃弾が発射されると鋭い回転が与えられ、銃身に螺旋状の溝がなく球形の弾を用いる従来の銃(マスケット銃)よりも飛距離と命中精度に格段の差があったのである。
辰戦争で新政府軍の主力小銃はイギリス製のエンフィールド銃(ミニエー銃の一種)であったのだが、会津藩など東北諸藩はマスケット銃で新政府軍と戦ったのである

Wikipediaにミニエー銃の発明が世界の戦争を変えたことがわかりやすく記されている。

高い命中率と1,000ヤード*まで延長された射程を実現したエンフィールド銃は、歩兵運用の基礎条件を大きく変えてしまった。
エンフィールド銃を装備した部隊と従来のマスケット銃を装備した部隊が交戦した場合、マスケット銃側は有効射程の100ヤード(マスケット銃の命中率は50%)まで接近するためだけに、最大で900ヤードに渡る死のロードを友軍の屍を乗り越えつつひたすら進まねばならなかった

マスケット銃が運用されていた当時の主力兵科である戦列歩兵の前進速度は60m/分(イギリス式)であったため900ヤードの距離を進むためには13分以上かかるが、この間にエンフィールド銃は30〜40回の射撃が可能であるため仮に1,000人のマスケット銃兵を相手にした場合でもエンフィールド銃装備の部隊は理論上25人の小部隊で無傷のまま相手を全滅させてしまう事ができた
また、エンフィールド銃がもたらしたもうひとつの変化は、マスケット銃の球弾に比べて複雑な形状の弾丸が高速で回転しつつ人体へ命中すると、弾体が極度に変形しつつ人体内部へくい入ることで、マスケット銃よりも格段に酷い銃創が作られる現象だった。
しかし当時の用兵者の多くはこの事実を認識せずに戦場に臨んだため、身を以ってエンフィールド銃の威力を経験させられたクリミアのロシア兵やインドのセポイ達の犠牲にも拘わらず、その後の南北戦争や戊辰戦争における戦いでも18世紀的な密集陣形を取らされた多くの兵士が即死した。」
*ヤード:1ヤード=3フィート=91.4cm
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83

上記記事には、戊辰戦争に於ける会津藩に、新政府と比べて武器の性能が劣っているとの認識があり、新式装備の調達を目指していたが、新政府軍(特に長州藩兵)が会津殲滅を目指している事をいち早く知った外国商人達から積極的な協力が得られないまま新式銃器の入手が大幅に遅れ、何も届かないうちに開戦したことが脚注で記されている。東北諸藩で最新兵器が届いたのは、新政府軍が通過した後の事だという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83#cite_note-9

戊辰戦争

かくして政府軍は奥羽侵攻の要である白河城を一日で占拠したものの、それ以上の追撃戦に移ることは出来なかった。その理由について佐々木克氏の『戊辰戦争』にはこう解説されている。

「上野の山にたてこもる彰義隊はまだ掃討されず(上野戦争は五月十五日)、北関東の旧幕兵ゲリラも、まだ完全に制圧していなかったから、戦力の増強が出来なかったのである。戦線が伸びれば、会津藩を拠点に、三斗小屋から黒磯、あるいは五十里湖から日光、今市に進出しようとする大鳥圭介をはじめとする旧幕兵らに退路を遮断される危険があった。しかも北越では、五月二日、河合継之助と岩村精一郎の慈眼寺会談が決裂して、長岡戦争が始まった。政府軍全体が苦境におかされていた時期であった。」(『戊辰戦争』p.138-139)

新政府軍に銃弾などの補給がほとんど行われていなかったので、同盟軍は白河城から南下して旧幕府勢力に加勢し白河城の新政府軍を孤立させるなど、戦い方がいろいろあったと思うのだが、同盟軍の全軍をコントロールするような指揮官がおらず、新政府軍の銃器と戦う戦術も拙かった。

細谷十太夫
【細谷十太夫】

『会津戊辰戦史』に仙台藩衝撃隊長であった細谷十太夫の戦いぶりが記されているので引用させていただく。

「五月二十一日…仙台藩衝撃隊長細谷十太夫小田川に進む。西兵已に七曲の山上にあり、十太夫部下六十七名に命じ盡く刀を抜き一斉に突進して西兵を衝かしむ。西兵辟易して退く。…十太夫は五月一日の敗報を聞き憤慨に堪えず、一刀を佩び皆黒装なり。十太夫常に部下に謂って曰く、敵は銃隊なれば遠きに利あり。我が隊は之に反して近きに利あり。故に一、二人斃るる者ありとも顧(かえりみ)ることなく進んで敵を衝(つ)けと。毎度此の如くなれば、銃丸多くは空しく頭上を過ぎ命中すること少なく、向う所前なく、人その勇武を称して烏(カラス)組と云う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/188
夜襲が中心だったとはいえ、このように敵の射程圏内に集団で突入するような戦い方を繰り返していたら、たとえ兵の数が優位であっても勝てるとは思えないのだが、細谷十太夫本人はこのやり方で生き残り、日清戦争では陸軍少尉となり、後に竜雲院という寺の住職となって戊辰戦争、日清戦争の戦没者を弔ったという。

列藩同盟を結んだ諸藩の白河方面への軍隊結集が遅れていたのでこのような小競り合いがしばらく続いたようだが、ようやく諸藩の兵が集まって列藩同盟軍は五月二十六日に約二千の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけている。しかしこの日も城を攻略できず、さらに二十七日、二十八日と連続して攻撃をかけたのだが新政府軍に撃退されてしまう。

一方新政府軍は五月十五日の上野戦争の勝利ののち、ようやく板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城増援に向かい、白河城の政府軍勢力は一挙に千五百~千六百名に増強されている。
同盟軍はその後も何度か白河城を攻撃するのだが、戦果はなかった。これまで多くの犠牲者を出してきても、同盟軍の戦い方は相変わらずだったようだ。

例えば佐々木克氏は前掲書でこう述べている。
「六月十二日、同盟軍は四たび白河城政府軍を攻撃した。だが今回も戦果はなかった。とくに仙台藩兵の拙戦がめだった。100メートルほどしか飛ばない和銃や丸玉のヤーゲル銃で遠くから発砲し、近づいていっては政府軍のエムピール銃やミニエー銃の300メートルはある射程の中に入って打撃を受けた。この日の戦闘で仙兵死60、不肖25、二本松死8、負傷18、棚倉死15、負傷14、相馬死1と多くの死傷者を出して、貴重な戦力を消耗した。(会津藩の死傷者は不明)」(同上書 p.140)

新政府軍進路

同盟軍がこのような戦い方を繰り返す一方、六月十六日には平潟に新政府軍千五百名が上陸し、その後も続々と派兵されて七月中旬には新政府軍は三千の兵を擁するようになり、戦線が磐城から北方向へと拡大していく。
戦況が新政府に傾いていき、同盟軍は自藩の自衛の為にいつまでも白河に兵を出せなくなって、秋田藩や新庄藩などが列藩同盟から離反していくこととなる。そして七月十四日を最後に列藩同盟軍は白河周辺から撤退し、百日以上続いた白河口の戦いは終結した

この戦いで同盟軍は幹部多数を失い大量の死者を出したというが、新政府軍の死傷者は少なかったという。
列藩同盟軍はこの戦いの敗北をきっかけに雲散霧消し、勝機を逸してしまうことになるのである。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html





激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。

新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五月二十七日にようやく土佐藩からの増援が到着し、その後六月七日に薩摩藩、二十二日に長州藩、二十三日に東征大総督参謀の鷲尾隆聚と阿波藩が到着して、積極的な軍事行動に移る態勢が整うに至る。

秋田映季
【秋田映季】

板垣退助率いる新政府軍が北上して、六月二十四日に白河城の東にある棚倉城が落城すると、二十六日には三春藩は藩主の秋田映季(あきすえ)自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順したという。ところが三春藩はその重要な事実を列藩同盟の諸藩に伝えず、むしろ援軍を求めるなどしてできるだけ諸藩に感づかれないように行動したのである。
翌日には守山藩も新政府側に帰順し、新政府軍は戦線を一気に北に押し上げて、岩代国安達郡の地に十万七百石を領する二本松藩のすぐ近くに迫ってきた。

新政府軍進路


ところが、二本松藩の主力兵は予想以上に長い間白河周辺に釘付けとなっており、藩の部隊が白河から戻るよう指令したとしても帰路を新政府軍に遮断されてしまっており、二本松藩は戦力が極めて乏しい状態で藩を守らなければならない状態に陥ったのである。

二本松城
【二本松城】

そこで二本松藩は七月二十七日に、少年兵にも動員をかけたという。
この藩では危急の際には年齢を2歳加算する『入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)』という制度があり、この時に動員をかけられた最少年齢の隊士の実年齢は12歳であったという。Wikipediaによると、少年兵には全員にミニエー銃を持たせたというから、銃の性能は新政府軍のものと変わらなかった。少年隊の奮闘については後述することとして、まず『二本松の戦い』がどのような戦いであったかを振り返っておこう。

『二本松藩史』によると、三春藩の防衛のために三春藩領に応援に出ていた二本松藩兵が、三春藩の裏切りにより新政府軍に包囲されて討ち取られたことが記されている。文中の「西軍」は「新政府軍」を意味している。

七月二十六日払暁西軍四方より来り三春藩領内小野新町を攻撃す。時に我が藩兵三春藩応援として銃士隊長大谷與兵衛等率いるところの約二個小隊同地にあり。衆寡敵し難く、苦戦して三春の援軍を待つ。三春藩急に西軍に降り、西軍を嚮導して我が隊を包囲す。我が兵錯愕、軍遂に潰ゆ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/131
三春藩の新政府軍に寝返ったことは、この時二本松藩の誰もが知らなかった。

次の場面は、二本松藩領の本宮にいた二本松藩兵が、新政府軍と戦っている糠沢の兵を援護すべく阿武隈川を渡ろうとしたときのことである。『二本松藩史』にはこう記されている。

「未だ糠沢の敗報を耳にせず、進んで之を応援せんと欲し、大谷、青山の二隊まず川を渡りて前進す。高木に達すれば一部隊の西進し来るを見る。おもえらく我が兵の背進せるなりと、近づけば即ち敵兵なり。三春兵西軍を導き、該村高木寺の要處に拠って我を射撃す。我が兵応戦奮闘すと雖も、敵は既に地の利を占め、我は隊伍未だ整わず。遂に苦戦に陥り、全体潰え走る。敵兵進撃本宮に迫る。本宮守備薄し。隊長成田助九郎、丹羽主膳、上田清左衛門等諸隊を率い川を隔てて防ぐ。高木の敗兵また来たり合し、力闘奮戦頗る敵軍を苦しむ。藩兵未だ来り援けず。列藩の援軍また到らず。午の中刻(午後一時)本宮遂に敵軍に占領せらる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/134

二本松城
【二本松城】

本宮を抑えた新政府軍は、続いて二本松城を攻め落とす方針を取った。
二本松藩では新政府軍の接近に伴って、戦うか降伏するかについての軍議が二十七日に開かれ、意見が真っ二つに割れたのだが、『二本松藩史』によると家老丹羽富穀(にわとみたけ)はこう述べたという。

「(昨日)三春藩信に背きて西軍を城中に引く。その所為神人ともに怒るところ。我にして今、その顰(ひそみ)に倣わ*ば、人これを何とか言わん。たとい西軍に降り、一時社稷を存せんも、東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか良く孤域を保たん。それ降るも亡び、降らざるもまた亡ぶ。亡は一のみ。むしろ死を出して信を守るに若かずと議輙(すなわ)ち決す。」
*顰に倣う:善し悪しも考えずに、人のまねをする
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176680/142

ここで二本松藩が三春藩と同様に同盟諸藩を裏切って生き延びようとしても、今後末永く東北諸藩を敵に回すことになる。二本松藩のような小さな藩が周囲の諸藩から怨まれてどうやって存立することが出来るのか。ここで死を賭して信義を守ることこそが、生きる道だと説き、二本松藩は新政府軍と戦うことを決意し、藩中の老幼子女たちを避難させたという。

残念ながら東北諸藩の多くは、同盟諸藩を裏切ってでも生き延びようとしたのだが、二本松藩は、兵力が不足していて勝つことが難しいことを知りながら、決死の覚悟で戦線に就いたのである。

板垣退助
板垣退助

二本松藩がいかによく戦ったかを、新政府軍を率いた板垣退助(土佐藩出身)の伝記『板垣退助君伝 第1巻』を読んでみよう。
ここで、「賊軍」と書いているのが「二本松藩兵」を意味し、「君」とあるのは「板垣退助」、「薩」「長」「土」は「薩摩」「長州」「土佐」、を意味している。

「二十九日、薩兵を先方となし、君土軍を帥いてこれに続き、彦根・大垣・忍・館林の諸兵を先鋒となし、天明進んで二本松に向かう。賊街口大壇を扼し、山に沿いて柵を結び、叢林に伏して乱射す。弾丸雨の如し。薩兵多く斃る。土軍次で進む。官賊咫尺(しせき)*の間に相撃ち、戦最も激す。」
*咫尺:距離が極めて近いこと
「既にして兵を三面に分かち、一は左方より山を踰えて城背に出で、一は正面より進み、一は右方の山に入て林中の賊を追う。諸兵斉しく進む。賊潰えて城に入る。時に長兵海軍と共に、小浜より来て城の東北に薄(せま)る。賊徒狼狽、みな必死を分とし、窃(ぬすみ)に民家に伏し、躍り出でて官兵の不意を打つ。飛蛾の火に投するが如く、多く之に死す。…
蓋し一藩挙げて身命を擲ち、鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)*斃れて而してのち已し者、二本松を以て最と為す
。その域に、家に、屠腹する者、域を出で、家を出でて討死する者、此々相接す。刀折れ矢尽き、城を枕にして倒るとは之を謂うなり。」
*鞠躬尽瘁:心身ともに捧げて全力を尽すこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/173

野津道貫
野津道貫

また、この戦いに隊長として参戦した薩摩藩の野津道貫(後の元帥陸軍大将)は、二本松藩の戦いをこのように語っている。
「薩藩兵、一個大隊、速見十郎太に引率され、奥羽街道を前進し来ると、二本松の東方約十丁許の丘陵上に、兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて、我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃が頗る正確で、一時我軍は全く前進を沮碍された。我軍は正面攻撃では奏効せざることを覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退するすることを得たが、おそらく戊辰戦争中第一の激戦であったろう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139562/181
野津は軍を迂回させて大壇口進軍の際に、番所前の茶屋にて待ち構えていた六番隊大砲方の山岡栄治、青山助之丞2名の襲撃を受け、部下9名を斃され、本人も手傷を受けたと書いている。明治三十一年、同地を訪れた野津はこの二名を称賛し、明治三十三年には二勇士戦死之碑を建立したという。

このように敵将である板垣退助も、野津道貫も二本松藩の勇敢な戦いぶりを高く評価したことに注目しておきたい。

では列藩同盟のリーダーであった会津藩や仙台藩は、どう動いたのであろうか。
実は両藩とも大軍を割ける状態ではなく、派遣された援軍も二本松城にたどり着く前に新政府軍によって半壊の被害を受けて撤退してしまい、城内にいた仙台藩兵も会津藩兵も途中で城を脱出し、最後は二本松藩兵のみが残って戦ったのが真実である。特に仙台藩は、弾薬欠乏を理由に数千もいた兵を二本松藩から引いたのだが、要するに自藩の防衛を優先しただけのことであろう。

Wikipediaは、この戦いの最後をこう解説している。
「29日の正午、二本松にこもる重臣らは抵抗をついに断念する。城に自ら火を放つと、家老の富穀以下7名は次々と自刃して城と運命をともにした。この時、城内と城外が新政府軍によって隔てられ、城外にあった二本松少年隊に指示を送ることができなかったことがさらなる悲劇をもたらす。激戦の最中に二本松少年隊の隊長と副隊長が相次いで戦死し、指揮できる者がいない中、二本松少年隊40名は最前線に放置される事態に陥っていた。彼らは戦場をさ迷ううちに1人ずつ離れ離れになり、ついに新政府軍との戦闘に巻き込まれて1人1人命を落としていく

この落城により、二本松藩は家老以下18名の上級職全てが戦死した。二本松藩の死者は218名に及び、その中には13歳から17歳までの少年兵18名も含まれている。会津藩は39名、仙台藩は19名の死者を出し、対する新政府軍は17名の死者に留まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

二本松少年隊
【箕輪門の近くの『二本松少年隊群像』】

この戦いで少年兵の一員として14歳で参加した水野好之氏が大正六年に記した『二本松戊辰少年隊記』の全文が、次のURLで紹介されている。新政府軍が接近してくるところに少年隊が大砲を発射する場面からの引用である。文中の『隊長』は木村銃太郎という当時二十二歳の青年で、藩命で江戸の江川太郎左衛門に弟子入りして西洋式砲術を究めて帰藩し、戊辰戦争では門下生を率いて二本松城の南にある大壇口へ出陣していた。
http://nihonsi.web.fc2.com/warfare/nihonmatu/nihonmatu.htm

木村銃太郎
【木村銃太郎】

「大砲の位置を換へ集團見掛けて發射せしに、見事に其頭上に而も三發迄も爆發す。
敵は俄(にわか)に散乱して左右の山林に駆け入り、巧みに所在を暗ますかと見る間に、大砲小銃を雨霰と打出しぬ。大砲の髙きものは附近の松林に命中し、凄(すさま)じき勢いもて松の木を中断し、低きものは眼前の畑地道路に落ちて土砂を巻き揚ぐ。小銃の遠きものは『クーン』、夫より近きものは『シウー』、最も近きものは音無くして耳邊を掠め去る。敵の動作は敏活なり、巧みに正法寺町の民家に隠れて射擊最も勉む。
之を見下せる吾等は、『悪(にく)むべき仕業かな、目に物見せて呉れんす』と大砲にて其民家を射擊すれば見ん事命中し、其五軒を打貫く(今尚壁に貫通の跡あり)。敵の狼狽して四散する様(さま)手に取る如し、一同之に力を得ドット鯨波の聲を揚げつつ益(ますます)奮闘す。
今迄暁霧に眠れる霞城の天地は忽ち叫喚(きょうかん)大叫喚修羅の街とぞ化しにける。血を迸らして倒るるあり負傷して呻くあり、鬨の聲と銃砲の聲と相和して山野に轟(とどろ)く。互の眼は血走り、口は噤(つぐ)みて物云う事も意の如くならず、火藥に汚れし両の手は墨もて染めたらんが如く、其の手もて顔に流るる汗を拂うにより少年隊の面々の顔は目ばかり光る海坊主に異らず。古書に見えたる『流血杵(しょ)を漂わす』*も目のあたり。
余等の命と頼みたる彈丸除けの疊も今は敵彈の爲に四分五裂して用をなさず、已を得ず、畑中に全身を露わして應戰(おうせん)最も勉めたり。然れども砲彈の雨注には堪え難く、傍(かたわら)の竹藪に驅け入る。竹藪に一彈入るや、竹幹に當りて所謂外れ丸となり、カラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て、危険更に増さりぬ。
余鐵砲を取直して打たんとすればこは如何に、曩に竹藪に駈け入りし時敵彈に引金を打貫かれて用をなさず、如何せんとためらうに、不圖(ふと)見附けたるは、砲車の側に横たわれる一大木材なり、一抱(かかえ)もありて長さは四、五間に余れり。是れ屈竟の物なりと、直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いさ戰況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云う聲あり、周章驅け行きて見るに彈丸は左の二の腕を貫通して働をなさず、豫(かね)て用意の白木綿にて傷口を巻きまいらす、今は是までなりと、退却の用意に大砲の火門に釘を打込み、隊長自ら小高き所に上りて合圖の太鼓を打ち鳴らせり。
之を聞き傳へし少年隊は我後れじと集合すれば、敵は愈々肉薄し來りて危險云ふべからす。少年隊の集れるもの何人にして、死傷せるもの何人なるかは、咄嵯(とっさ)の場合とて知るに由なし。味方の陣地如何にと一瞥すれは、何時の間に退却せしにや、吾等少年隊數人の外には人影を認め得す。隊長悠々迫らす、余等に何事をか訓示せんとせしに、狙擊に遭ひて、腰部を貫かれ、尻へにとうと倒れたり。」
*流血杵を漂わす:血で血を洗う争いによって多くの血が流されること

二本松藩は戦う前に降伏する選択肢もあったのだがそれを拒絶し、少年兵から老人部隊まで動員して全藩をあげて新政府側の大軍と戦い抜いたのである。仙台藩も会津藩もほとんど二本松藩を支援できなかったことから奥羽越列藩同盟が頼りにならないものであることが明白となり、この戦いののちに、新政府軍に降伏する藩が相次ぐことになる。

相馬藩は八月六日に新政府軍に降伏したのだが、藩の人々はその後地獄のような生活を余儀なくされるようになり、安易に降伏したことを後悔したのではないだろうか。
藩主の相馬誠胤(ともたね)はただの人に転落し、領地の南半分は新政府軍の直轄地となり、新政府軍が仙台を攻撃する間の糧食その他一切を引き受けさせられている。ちなみに相馬藩の表高は六万石であったが、官軍の仙台出兵に関わる五十四日間の食糧だけで一万三千石を消費し、藩兵の仙台出兵応援では延べ三十万三千人を動員し、さらに二千石の米を消費し、藩の米の備蓄は底をついたという。

吉田屋覚日記

そればかりではない。相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代の日記『吉田屋覚日記』にはこんな記録が残されている。
「八月十四日
 官軍方の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」
このように、官軍の分捕りは正当とされていて、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のように分捕っては換金して収入を得る連中が少なくなかったようなのだ。吉田屋の商売になくてはならない船も二隻が分捕られ、これを取り戻すのに六百両かかるとの日記の記録もある。

星亮一氏は、さらにこう解説しておられる。
酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りが出来なくなった。
 治安の悪化にもおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手だった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた。

相馬藩はじっと耐えた。
官軍の心証を悪くしては、領地もすべて取り上げられるかもしれない。
絶対服従の態度を見せ、この領地を相馬藩に安堵してもらうことが大事だった。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.145)

戊辰戦争ののち奥羽各藩は国替えの処分が行われ、相馬藩はその処分が免れてはいるが、それは商人たちがこぞって新政府に献金したことによるという。その金額は二万両を超え、その結果相馬商人は一文無しになり、町は寂れて相馬地方の中心が隣の原町に奪われたという。
相馬藩の武士たちが、もし二本松藩のように新政府軍と戦っていたとしたら、領民をここまで苦しめることはなかったであろう。

榊山潤
【榊山 潤】

話は三春藩の裏切りに戻るが、戦後「三春キツネに騙された」という俗謡が流行ったという。三春地方は戊辰戦争後長いあいだ嫌われて、榊山潤氏著『田舎武士の目』には、
「いまはどうか知らないが、(第二次)大戦までは、二本松の人は三春の人との縁組みを避けた。三春の者は嘘つきで、信用できないという言葉を、私が二本松に疎開していたころにもよく聞いた。会津の人ならすぐ信用するが、三春の人は信用しないのだ。その当時の怨みが、そんな風に長く尾をひき消えずにいるということも、辺鄙な土地に住む人間感情の微妙な点であろう。確かに二本松は、三春の裏切りによって、ひどい目に遭った」と書かれている。
この怨みは今も完全には消えていないようで、平成の大合併の頃に、二本松市と三春町の合併話が成立しなかったのも歴史的な経緯と無関係ではないのだろう。

もっとも列藩同盟の盟主であり、兵力もありながら小藩を十分に支援してこなかった仙台藩が、自藩を責められることがないように三春藩を悪者に仕立てたという解釈も成り立つのだが、三春藩が常に悪者にされてしまうのは、列藩同盟に参加していながら自藩領を護ってくれていた同盟軍を欺いて新政府方につき、二本松藩ほか列藩同盟の多くの兵士を死に至らしめた事実が重たいようだ。

少年隊の丘
【少年隊の丘】

二本松藩は「二本松の戦い」で218名の死者を出したのだが、武士や少年隊たちの犠牲によって領土と領民の生活はほぼ守られたのである。また藩主は養嗣子の丹羽長裕が後を継ぐことを許されている点も、戦わずして新政府に屈した相馬藩とは大いに異なる。
二本松藩の武士や少年兵は武士道精神を発揮して名誉ある最期を遂げ、そして地域の人々から、彼らは今もなお敬愛され顕彰されているのである

二本松少年隊顕彰碑
【二本松少年隊顕彰碑】

二本松城は明治5年(1872)に破却されたが、昭和57年に箕輪門と附櫓が復元され、箕輪門の近くには『二本松少年隊群像』が建てられ、霞ヶ城公園の頂上付近の平坦地は砲術道場で学ぶ少年たちが稽古をした場所だと伝えられていて、昭和15年、このゆかりの地に立派な『二本松少年隊顕彰碑』が地元の人々によって建立され、碑には出陣した少年隊士62名全員の名が刻まれている。そして明治百年にあたる昭和43年(1968)になるとさらに副碑が建立され、この場所を『少年隊の丘』と名付けられたという。

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白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた
大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退助君伝. 第一巻』が公開されていて、PCなどでこの件に関する板垣の主張を読むことが出来る。文中の「仙」「米」は仙台藩、米沢藩を指す。

板垣退助
板垣退助

抑(そもそ)も会津は根本にして、仙米等は枝葉なり。枝葉尽きて根本存する者は或いはこれあり。根本既に倒れ枝葉枯落せざる者、いまだかつてこれ有らざる也。いま北越の信いまだ確なるにあらずといえども、其官軍の勝を得たる、蓋し疑うべからず。この機に乗じて直進して会津を打つ、寧ろ千載の一遇と言わざるべけんやと、是に於いて議ようやく決す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/178

板垣は新政府軍が仙台藩や米沢藩に勝利したとしても会津藩が残っている以上東北戊辰戦争は終結しない。また仙台方面に兵を進めてもすぐに厳寒の季節に入り、戦争が長引くことになるだろう。そのことによって、会津藩に周到な準備をする時間を与えてしまうことになることは問題だ。相手の準備が出来ていないうちに会津を討つべきであり、今こそがその好機だと主張したのだが、この判断は新政府軍にとっては正しかった。

会津・庄内両藩 資金調達でドイツに打診

以前にもこのブログで書いた通り、会津・庄内藩は北海道の両藩の領地をプロイセンに貸与して、同国から大量の武器・弾薬を購入する交渉を開始し、本国のビスマルク宰相が秋にはそれを認可していたのである。もし新政府軍が会津攻略を後回しにしていたら、戊辰戦争はもっと長引くこととなり大量の犠牲者が出て、戦いが終わった後はドイツが北海道のかなりの部分を領有していてもおかしくはなかったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-549.html

一方、会津藩は新政府軍と戦う準備を進めていた。
三月には軍制改革を行い、十五歳から十七歳の少年は白虎(びゃっこ)隊、十八歳から三十五歳までの精鋭部隊を朱雀(すざく)隊、三十六歳から四十九歳までを青龍(せいりゅう)隊、五十歳から六十五歳までを玄武(げんぶ)隊と名付け、さらに身分によって士中隊、寄合組隊、足軽隊などを編成した。
このようにしてかき集めた会津軍の総兵力は約六千人で、そのうちの約七割にあたる精鋭部隊を、勢至堂口、中山口、大平口など会津につながる藩境の要所に分けて配置したという。

母成峠

会津に向かうのにどの道から入るかについては、新政府軍の中でも議論があったのだが、八月二十一日に約二千二百の新政府軍は、会津藩防衛線の弱点である母成峠(ぼなりとおげ)を衝き、約八百の旧幕府軍を破った(母成峠の戦い)会津藩からすれば、わずか一日で防衛線が破られることは想定外であった。

会津藩軍事局が母成峠陥落の急報を受けたのは八月二十二日午前五時だという。
しかしながら、有力部隊を藩境に配置していたために会津城下には精鋭兵がいなかった。
この時会津城下にいた将兵は、藩主の近臣や軍事局のほか、君則護衛の任にあたっていた白虎隊の少年たち約八十名と、鶴ヶ城警護にあたっていた玄武隊の老人たち約百名のほか、前月に結成されたばかりの敢死隊約二百五十名、僧侶からなる奇勝隊約百名にすぎず、城下はガラ空きの状態だったのである。

戊辰戦争 会津

新政府軍の会津進撃を止めるためには、日橋川にかかる十六橋を破壊する必要があった。この橋を破壊すれば新政府軍の大砲は動けない。
十六橋の破壊と戸ノ口原防衛のため、奇勝隊、敢死隊、砲兵三番隊のほか白虎士中二番隊三十七名が出陣を命じられたのだが、薩摩軍の銃撃を受けて十六橋の破壊ができないまま日が暮れる。
大正六年に出版された『会津戊辰戦争』にはこう記されている。東軍とは旧幕府・会津軍を指す。
「夕陽既に没すれども朝来の雨未だ止まず。満天墨を流せるが如きもなお戦を収めず。…東軍今や弾尽き或いは硝薬湿りて用をなさず。即ち銃を棄て白刃を翳(かざ)して戦う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582/114

夜が明けると新政府軍の精鋭三千余人が総攻撃を開始し、会津藩戸ノ口原防衛隊総勢三百数十人は一気に蹴散らされ、奮闘した白虎士中二番隊もたちまち過半を失い、生存者は飯盛山へ逃れて行く。しかし、そこで見た光景に彼らは息を呑む。城下のあちこちから火の手が上がり、鶴ヶ城周辺にも火の手が迫っていた。

会津白虎隊十九士伝

『会津白虎隊十九士伝』の西川勝太郎伝にこう記されている。この本はGoogleブックスで全文を無料で読むことが出来る。

「…城既に陥るや否や、公既に殉するや否や、未だ知るべからず。我が刀折れ城陥り公殉せるを見て、而して後従容義を取り生を捨つるも亦晩しとせずと。衆又其の言に従う。因って相携えて城に入らんと欲す。而して一人の其の捷路を弁ずるものなく、深邃の山谷を跋渉し、偶々不動瀑畔に出で、新堀に入れば、瀧澤峠の敵兵狙撃甚だ急なり。因って匍匐し洞窟を経て飯盛山に登り、城郭を展望すれば黒煙天に漲(みなぎ)り砲声地に震う。君慨然衆に謂って曰く。今や殉すべきの秋(とき)なりと。衆遂に之に従う。そもそも十九士のその死所を得しものは君の力なりと謂うも誣言*にあらず。」(『会津白虎隊十九士伝』p.20)
*誣言(ふげん):わざと事実を曲げて言うこと。またその言葉。
https://books.google.co.jp/books?id=0ji6R7q742QC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false


飯沼貞吉
【飯沼貞吉】

実はこの時に自刃を決行した白虎隊は20名なのだが、喉を突いて死のうとした飯沼貞吉(のちに貞雄と改名)のみが一命をとりとめた。その飯沼氏が生前に伝え残した『白虎隊顛末略記』という記録もネットで読むことが出来る。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/tenmatu.htm

手持ちの食糧もなくなり何か食べたくても、近くに民家もなく食糧を乞うこともできない。そんな中、敵と遭遇し射撃を受けたために南方の山腹に副って退き、ようやく危機を脱して飯盛山に登って足を止めると、城下は炎に包まれており、街道は敵兵で充ちていた。
飯沼氏によるとここで死ぬか、戦うかで激論があったのだが、最後に語った篠田儀三郎の言葉に全員が納得したという。

「最早斯くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀、元より不可と云うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ縄目の耻辱を受る如き事あらば、上は君に対して何の面目やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲に自刃し、武士の本分を明にするにあり。」

会津鶴ヶ城
【会津鶴ヶ城…天守閣の破損の痕は戊辰戦争の砲弾によるもの】

白虎隊は城が燃えているのを見て自刃したという話が広がっているのだが、それは後世の創作のようだ。先ほど飯盛山で死ぬか戦うかで激論があったと書いたのだが、その点について『白虎隊顛末略記』では、「今や焔は天を焦がし、砲声山岳を動かすも、決して城落たるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るに如すと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う」とある。
城が燃えていたら、こんな激論をするはずがないのだ。彼らは城が燃えていないことを認識しつつも、敵に生け捕らえられて辱しめを受けるよりもこの地で潔く死ぬことを決意したのである。

話を八月二十三日の朝に戻そう。新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると、鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打された。この早鐘が鳴った時には藩士家族は鶴ヶ城の三の丸に避難することが定められていたのだが、藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだという。

このブログで1900年の義和団事変の際に北京の公使館区域が孤立し、籠城戦にあたって実質総指揮を執った柴五郎中佐のことを書いたことがあるが、彼は会津人で彼の母、祖母、姉妹はこの日に自決したという。

柴五郎
柴五郎

柴五郎は彼が九歳の時のこの日の出来事について、遺書にこう記している。

「…幼な心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出でたり。
 これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して立ち去りたり。ああ思わざりき。祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼なかりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慙愧にたえず、思いおこして苦しきことかぎりなし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.24)

西郷頼母
西郷頼母

筆頭家老の西郷頼母の家族もこの日に自決したのだが、この人物の事も書いておきたい。
西郷頼母は、藩主・松平容保が京都守護職に就任することに反対したことで容保の逆鱗に触れ蟄居を命じられたのだが、その後政局が動き松平容保が朝敵第二号とされて大総督府が会津征討に動くと、西郷頼母は五年ぶりに藩政に呼び戻されている。

西郷は主戦派に抗しつつ新政府に対し絶対恭順する藩論を取りまとめたのだが、奥羽鎮撫使から拒絶されて和平の道は絶たれ、会津藩は戦わざるを得なくなってしまう。
そして西郷は白河口総督を命じられ、奥羽戊辰戦争の天王山ともいうべき白河口攻防戦で奥羽同盟軍は二千五百~三千人もの大軍を率いながら大敗してしまう。この戦いのことはこのブログでも書いたが、同盟軍が大敗した原因は主力小銃の性能の格差が大きかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-550.html

その後西郷頼母は早期降伏論を主張し続けたのだが、会津家中では西郷の考えに強い非難があり、西郷は自分の身の安全をはかろうとする私的な動機から主張しているものと考える藩士が多かったという。

西郷千重子
【西郷千重子肖像画】

そして八月二十三日の朝が来て、城から半鐘が打ち鳴らされた。
頼母の妻・千重子は、嫡男の吉十郎11歳を鶴ヶ城に送り出し、召使いに暇を与えて避難させたのち、邸に残っていた家族や親族全員が自決したのだという。
千重子は家族全員*を一室に集め、八歳の三女田鶴子を刺し、次に四女常盤を刺し、更に二歳の赤子季子を刺殺したのち、わが胸を突いて果てたのである。
*家族で自決したのは妻千重子(34)、妹眉寿子(26)、妹由布子(23)、長女細布子(16)、次女瀑布子(13)、三女田鶴子(8)、四女常盤(4)、五女季子(2)の8人。隣の部屋で姑律子(58)と外祖母(77)が自決し、ほかに親族など12名が西郷邸で自決したという。

千重子の辞世が残されている。

なよ竹の 風にまかする 身ながらも
 たわまぬ節は ありとこそ聞け


千重子は、西郷頼母が早期降伏論を唱えたのは決して私的な動機からではなく、会津の領民を救うという公的な動機に基づくものであったことを、一族が西郷邸で自決することによって伝えようとしたのであろう。
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龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
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津山城址と千光寺の桜を楽しむ
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「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
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又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
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桜の咲く季節に京北の歴史と春を楽しんで
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会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。

新島八重
【新島八重】

前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。
Wikipediaによると会津藩の砲術師範であった山本覚馬の妹・八重は、「鉄砲を主力に戦うべきと考え、刀や薙刀で戦うとした婦女隊には参加せず、断髪・男装して家芸であった砲術をもって奉仕し、鶴ケ城籠城戦では自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した」と書かれている。八重はこの戦いで捕虜となった夫と生き別れ、後に同志社創立者の新島襄の妻となった人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E5%85%AB%E9%87%8D

北出丸の狭間塀から撃ち出される銃弾の嵐に見舞われて土佐先鋒隊の板垣退助は薩摩二番砲隊長・大山巌に応援を求め、北出丸に砲撃を開始されたものの大山巌自身が右大腿部貫通の銃創を受けて後送されたという。

鶴ヶ城城址公園マップ

鶴ヶ城を守る兵士は少数ではあったが、会津は北出丸の新政府軍の猛攻をなんとか防ぎきり、午後二時頃には藩境を守っていた会津藩の有力部隊が鶴ヶ城の危機を聞いて相次いで帰城し、鶴ヶ城の防衛力が回復して長期籠城戦に入っていく。

しかしながら兵力で勝る新政府軍は会津城下を包囲し、大砲で鶴ヶ城を狙い撃つ作戦に出た。
『防長回天史. 第6篇中』には、二十六日に鶴ヶ城の東南にある小田山を占領し大砲を設置したことが記されている。

二十六日 薩、肥の兵小山田を奪うてこれに拠り、肥藩はアームストロング式砲を備え、かつ山麓の火薬庫を占領す。山は城の東南十余町に在りて、城内を瞰射するに最も良好の砲兵陣地たり。爾来この高地より発射する弾丸は城中の建造物を破壊し人馬を傷つけかつ屡々火災を起こさんとせり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2169815/53

会津戦争

アームストロング砲の射程距離は3kmを超えるのだが、地図で確認すると小田山の中腹にある小田山公園から鶴ヶ城の距離は1.4km程度に過ぎない。会津城下に有力部隊がいなかったから仕方がないこととはいえ、小田山を新政府軍に奪われたことは会津側にとっては痛恨の極みであったことに違いない。

『会津戊辰戦史』には、二十七日のことをこう解説している。文中の「西軍」とは「新政府軍」の事を指している。
「この日西軍東北より齊しく城を攻撃し、小田山の砲台より大砲を連射すること益々烈しく、屋瓦飛び柱壁砕け烟塵室に満ちて昼なお暗く、火屡々(しばしば)起こりしといえども幸いに消し止めることを得たり。然れども死傷相次ぎ、或いは城の支え難きを察し慷慨して自刃する者あり。謀議の士は黒金門に会し軍議に日を累ぬるも良策の施すべきものなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

続いて二十八日の記録である。
「城の東北より西北に亙(わた)りて数万の敵兵数十の塁壁に拠り、日夜銃砲を発して孤城を攻撃す、電光空に閃き萬雷地に震う。郭内外の邸宅市店は兵火または放火のために一空荒野となり、戦没したる壮士、流弾に斃れたる婦女は骸を晒し屍を横(よこた)えて収めることを得ず。流血淋漓(りんり:したたり流れるさま)腥風(せいふう:血なまぐさい風)鼻を撲(う)ちその惨状は目も当てられず。西兵の残暴なる農商の家見るところの財貨剽窃せざるなく、これを牛馬に満載して運搬し去り、あるいは鶏牛を掠奪しあるいは無辜の民を殺戮しあるいは婦女を姦し憚るところなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/315

会津鶴ヶ城

上の画像は鶴ヶ城の天守閣だが、大砲が命中して城壁がボコボコの状態なのになぜ城が焼け落ちなかったのだろうかと長い間疑問に思っていた。『会津戊辰戦史』を読み進んでいくと、その疑問が氷解した。女性陣も、城の中で精一杯味方の為に戦っていたのである。

近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る
【近世会津軍記 官軍野戦砲を発して若松城の天守をうち破る】

「守城以来しばしば落下し来たりし焼弾は径六寸ばかりの円弾に孔あり。ここより火を噴出して殿屋を焼かんとし水を注ぐも消滅せず。ここにおいて衣類をもってこれを覆いて水を注げばたちまち消滅す。奥殿に仕えし老女伊東牧野以下の侍女力を尽くして綿衣あるいは布団の綿を出し毎にこれを水中に浸し、此の弾の落下するときは婦人等馳せ集まりて之を覆いて消滅せしむるを常とし危険を感ぜざるに至れり。(七年史、若松記、内田藤八筆記)
 籠城中夜に入れば榴弾の中天に交錯するもの、あたかも秋空に蜻蛉の飛翔するが如し。児童ら慣れて之を畏れず。常に屋外に出て之を望み互いに叫んで曰く。今夜は蜻蛉多しと。(海老名季昌談)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/328

あるいはこんな記録もある。文中の「照姫」は会津藩主・松平容保の義姉である。

本丸の大書院、小書院、その他金の間等はみな蒲生氏の時建築するものにして頗(すこぶ)る宏壮なり。敵の囲みを受けしよりあるいは病室となしあるいは婦人小児を収容せり。戦酣(たけなわ)なるに及び病室は殆んど立錐の地なきに至り、手断ち足砕けたる者、満身糜爛(びらん)したる者、雑然として呻吟す。然れども皆切歯扼腕、敵と戦わんとするの情を為さざる者なし。而して西軍の砲撃益々激烈なるに及びては、流弾は病室または婦人室に破裂して全身を粉韲(ふんさい)せられ肉塊飛散して四壁に血痕を留むる者あり。その悲惨凄愴の光景、名状すべからず。(古河末東所聞)

八月二十九日城外進撃の時は一日に百数十人の負傷者を出し、病室最も繁劇を極め繃帯に供する所の白布一時欠乏するに至れり。照姫は奥女中をして貴重の衣帯を出しこれを解きてその白布を以て繃帯と為さしめ、あるいは傷病者の衣衾に宛てしむ。故に兵卒にして葵章の衣を着け、あるいは壮士にして婦人の美服を着くるに至り、三軍の将卒これを聞いてその殊遇に感激し士気大いに振えり。(村井弦斎筆記)

傷病者に窮する食物は奥女中以下の婦人之に任じ、照姫自ら之を監督す。本丸の西隅に炊事場を設け婦人集合して、水を汲む者、米を洗う者、飯を炊く者、各分業して之を為す。炊事場には石竈十数個を設置し精米を炊き、これを奥女中室に遞送し、若年寄格の女中等藩士の婦人を指揮して摶米を製し、之に羹蔬魚肉鳥肉牛肉等を添い、之を盆に載せ表使女中先頭に立ち侍女二人之に従い、幾個の縦列を作り整然序を追うて病室に運ぶを常としたり。(納富氏日記巻之三、丸山幸之助、山室重明談、村井弦齋筆記)一斉攻撃の前後には飯を炊くこと昼夜を分かたず、十数個の石竈一刻も火を絶ちたることなかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210828/326

近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る
【近世会津軍記 弾丸のため櫓焼失し城兵困苦迫る】

このように会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったのだが、九月十四日になると新政府軍の総攻撃が始まり、一日に約二千五百発もの弾丸が撃ち込まれたという。

既に仙台藩は自藩防衛の為に兵を引いており、唯一頼みとしていた米沢藩は九月四日をもって新政府軍に降伏した。弾薬・食糧ともに残り少なくなっており、会津藩が戦争を継続することはもはや困難な状況になっていた。

会津軍記 会津藩降伏の図
【会津軍記 会津藩降伏の図】

一ヶ月にも及ぶ籠城戦の末会津藩主・松平容保は降伏を決意し、九月二十二日の朝には鶴ヶ城の北追手門に「降参」と書かれた白旗が掲げられて、会津戊辰戦争はついに幕を閉じたのである。

会津藩の立場から書かれた解説書を読むと、会津藩降伏後も新政府軍は戦死体の埋葬を許さず、会津藩将士の遺体は道端に打ち捨てられたまま腐乱にまかせて、鳥や獣についばまれたことが書かれていることが多いのだが、そのような状態がどの程度の期間続いたのだろうか。

前回記事で紹介した柴五郎の遺書によると、武士以外の者が若松に入ることを許されたのは十月末で、当時九歳の柴五郎は十一月に入ってから親族に連れられて自宅の跡を訪れ、八月二十三日に自決した家族の骨を拾ったとあるので2か月以上遺体は放置されていたことになる。柴五郎はこう書いている。

十月も末となり、武士以外の者も若松に入るを許さる。…
十一月に入りて、余は農家の子の姿なれば安全なりと思い、忠女、きさ女の両名にともなわれて二ノ邸の旧邸焼跡にいたる。赤く焼けたる瓦礫のみにて庭木もほとんど見当たらず、加勢の強かりしことを思わしむ。余焼跡に立ちて呆然たり。…
忠女、きさ女の腕に支えられてようやく起ち上れば、両女とも堪えかねて号泣す。…
『五郎さま、さあ、ご自分のお手にて皆様の骨をお拾いなされ』
用意の箸を余の手に持たしめて遺骨の細片を拾い集め、紙袋におさむ。これ、祖母、母、姉妹の変わりはてたる姿なりとは、いかにしても理解できざるも涙頬を伝いて落つ。」(中公新書『ある明治人の記録』p.39~40)

新政府軍が一か月以上にわたり会津若松に立ち入り禁止にしたことは事実のようなのだが例外もあるようだ。Wikipediaには戦死した藩士らが埋葬された史料が紹介されている。この史料が発見されたのは昨年の秋のことである。

会津藩士埋葬の史料発見

「『戦死屍取仕末金銭入用帳』の写しが会津若松市で見つかり、埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。 このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は近隣の60代女性が新政府軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

会津戊辰戦争で戦死した藩士の数は約二千四百人とされていて、埋葬された遺体はその二割強に過ぎないのだが、新政府により会津藩士の遺体埋葬の命令が出ているという重要なことが、どうして今まで伝えられて来なかったのだろうかと不思議に思う。
河北新報の記事によると、山本八重の父山本権八の遺体や、西郷頼母の家族の遺骨、白虎隊士と思われる遺骨もこの記録にあるのだという。
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201710/20171003_63036.html

ついでに、会津戊辰戦争の戦後処理についても記しておこう。
藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄となった。

会津藩を失った松平家は、元盛岡藩領に設置された旧三戸県五万二千三百三十九石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に三万石を与えられて、旧会津藩士とその家族約二万人のうち約一万七千人が明治三年閏十月までにこの「三戸藩」に移住し、約二千人が会津若松に残って帰農したという。

斗南藩地図

「三戸藩」という名前は明治三年六月に「斗南藩」に改められたのだそうだが、この地は火山灰地質の厳寒不毛の地で、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった。また、また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じ、とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられたという。

さきほど、会津藩は籠城組が老若男女一丸となって良く戦ったと書いたが、実際に戦ったのは士族だけで、農民は武士に対して冷ややかであったという。その点が二本松藩とは大いに異なる。

鶴ヶ城が落城すると農民たちが各地で蜂起し、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きたのだが、Wikipediaによると「会津藩内では会津藩を支持しない者が非武士で多く、会津藩に組する者がほとんどいなかった」とあり、その理由は「藩主が幕府での地位や対外的の面子のため資金として普段から重い税を課してきたことや支持もしていない争いの渦中に巻き込まれ」たことが大きかったようなのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89

この一揆は会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず勃発し、以後領内各地に波及して、年貢の免除や小作料の廃止などを要求して約2か月間にわたって各地の村役人や豪商の屋敷や家財道具を打ちこわし、帳簿類を焼き捨てたという。

板垣退助
板垣退助

会津の農民たちが、会津藩を支持していなかったことは、土佐藩の板垣退助の記録にも出ている。板垣は、一般庶民が難を避けようとして爭いの始まる前に逃散してしまい、藩が敗れても無関心でいる農民を見て次のような感想を述べている。

かくの如く一般人民に愛国心なき所以のものは、畢竟上下離隔し、士族の階級が、その楽を独占して、平素にありて人民と之を分かたざりし結果にほかならず。それ楽を共にせざる者は、またその憂をともにする能わざるは、理の常に然るところ、天下の雄藩たる会津にして、すでに然り。いわんや他の諸藩においておや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139576/196

会津の立場で描かれる戊辰戦争の歴史にはこのような史実を書かず、もっぱら会津武士の視点から描かれることがほとんどで新政府側は常に悪者にされるのだが、会津の人々がこのような歴史理解について再考することも必要ではないだろうか。

Wikipediaに重要なことが書かれているので引用したい。
会津藩戦死者に対する埋葬禁止の話の根拠とされる『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来』に記されている官命では、彼我の戦死者、つまり会津側と新政府側、双方の戦死者に対する一切の処置を禁止する内容となっており、会津藩の死者の埋葬のみを禁じたものではなく、死体からの金品剥ぎ取りを防ぐための一時的処置と考えられる。また戊辰戦争後に会津の民政を任され、遺体埋葬も担当した会津民政局に長州藩関係者は全くいない。このように長州に対する怨念には根拠が薄弱ではないのかという意見は、当の会津関係者の中からも提起されている。そして、その原因として、戦後一時的に忘却されていた戊辰戦争当時の怨念を呼び覚ます源泉となったという一連の歴史小説作品の影響が指摘されている。
とりわけ、戦後の《会津の語り》を規定したとされる司馬遼太郎作品が、旧長州藩(萩市)との和解をしづらくしたという意見があり、…司馬遼太郎・早乙女貢・綱淵謙錠・中村彰彦らの《会津もの》小説が新たな怨念の源泉を提供したとされる。マスメディアはこれらの小説を事実のように紹介したために、会津側住民に一方的な遺恨をもたらすこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%89%E5%8F%B2%E5%AD%A6

会津の人々が長州藩に対して抱く怨念は、小説やマスメディアなどで誤った情報が広がって焚きつけられたものであるならば、真実を広めることによって鎮めていくしかないだろう。

昨年11月4日の『時事ドットコムニュース』によると、前述した『戦死屍取仕末金銭入用帳』の発見を機に会津若松市と山口県萩市との和解を実現させようとする動きがあるのだそうだ。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017110400176&g=soc

会津藩も新政府に恭順の意思を示したにもかかわらず、長州藩出身で奥羽鎮撫使参謀であった世良修蔵に拒絶されて戦うことを余儀なくされ、会津戊辰戦争で会津側に多くの犠牲者が出たことから、会津の人々が長州を怨む気持ちは理解できる。
しかしながら、会津の人々が今も長州藩を怨む根拠の中には、少なからずの誤解があることもまた事実である。
今までの「怨讐(えんしゅう)を乗り越え」、「共に犠牲者を追悼」するという姿勢で双方が歩み寄り、明治維新150年という記念すべき今年に、両市の和解が実現することを祈りたいところである。

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五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
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住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺
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旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後

慶応四年(1868)三月から四月にかけて、江戸城を明け渡すことにつき明治新政府と旧幕府との間で交渉が行われ、徳川宗家の本拠たる江戸城が何の抵抗もなく無血裏に明け渡されたのだが、開城前に行われた交渉で徳川慶喜の名代・勝海舟が、西郷の提示した江戸城総攻撃を回避する諸条件の回答として提示した条件のひとつに、幕府が従来使用していた軍艦を引き渡すということが記されていた。

しかしながら、これらの軍艦を率いていた榎本武揚たちはこの条件に従わず、同じ年の八月十九日の深夜に品川沖から蝦夷の方面へ脱走してしまったのである。新政府は勝に抗議したようだが、無血開城したあとのことなのでどうすることもできなかったようだ。

開陽丸
開陽丸

Wikipediaによると、当時の幕府海軍が保有していた軍艦は、国内各藩の海軍力をはるかに上回り、『開陽丸』(排水量2590t、全長72.8m)や『富士山丸』(排水量1000t、全長56.4m)に匹敵する戦闘力を持つ軍艦を持つ藩は存在していないばかりか、東アジア各国の中でも最大規模の水準にあったという。
その幕府海軍の保有軍艦の内『富士山丸』、『朝陽丸』(排水量300t)、『翔鶴丸』(排水量350t)、『観光丸』(排水量353t)の4隻は新政府側に引き渡されたのだが、残りの軍艦『開陽丸』、『回天丸』(排水量710t)、『蟠竜丸』(排水量370t)、『千代田形』(排水量140t)の4隻および運送船4隻(『咸臨丸』『長鯨丸』『神速丸』『美が保丸』)を加えて品川沖を脱走したのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E5%BA%9C%E6%B5%B7%E8%BB%8D

ジュール・ブリュネ
【ジュール・ブリュネ】

脱走したメンバーには彰義隊や遊撃隊の生き残りや、旧幕軍事顧問団の一員であったジュール・ブリュネ砲兵大尉ら5人がフランス軍籍を捨てて参加しており、総勢2千余名が乗船して行動を共にしたという。

この事件は一般的な教科書などでは榎本武揚らが、旧幕府の海軍をひきいて箱館を占領して五稜郭に立てこもって戦った程度の事しか記されていないのだが、明治新政府にとってはかなり深刻な事件であったはずで、わが国に駐留していた外国人も強い関心を抱いていたことは明らかである。

アーネスト・サトウ
【アーネスト・サトウ】

岩波文庫の『一外交官の見た明治維新(上)』を読むと、著者のアーネスト・サトウ(当時英国公使館の通訳官)は幕府海軍の事を「徳川の海賊」と呼んで、この事件についてこう記している。(文中の「賊軍」とあるのは旧幕軍のこと)

「…徳川の海賊――降伏を拒んで、10月4日*に江戸城から脱走後、こう呼ばれていた――が、開陽丸、その他の僚艦を率いて箱館港に上陸したというのだ。
 賊軍は、1866年に派遣されてきたフランス陸軍教導団の一員によって指揮されていた。そのフランス士官は、賊軍が江戸湾から脱走した際に行動を共にしたのである。同士官が、公使の声明した局外中立に違反し、またフランスと友好関係を結んでいる日本の君主の主権に背いて賊軍に参加したということは、フランス公使館にとっても大きな頭痛の種であった。
 その後、箱館の近くで戦闘が行われ、官軍にも多数の戦死傷者があった。横浜の外国新聞は、箱館港を去る約15マイルの地点で天皇(ミカド)の部隊が勝利を博したことを伝えたが、しかし領事からの公信によれば、賊軍の方がはるかに優勢であった。」(『一外交官の見た明治維新(上)』p.231)
*10月4日: サトウの記録は全て太陽暦で記されていて10月4日は旧暦では八月十九日にあたる。

「箱館にいるイギリスとフランスの臣民を保護するため、サテライト号とペニュス号が、14日に同地に派遣された。イギリスの公使館アダムスは前者に便乗して行った。…
 18日に横浜へ帰ってみると、かねて予期したことながら、箱館は脱走した徳川の軍艦に占領され、清水谷(箱館府知事)は幕僚全員をつれて、同地を脱出したという情報が入っていた。察するに余りあるが、箱館の領事は肝をつぶすほど驚いた。サテライト号が現場へ向かって急行していたものの、これに大きな期待をかけることは出来なかった。」(同上書 p.234~235)


榎本武揚
榎本武揚

榎本武揚らが蝦夷に向かった目的は、単純に新政府に対して抵抗することではなく、新しい国を作ることにあったのだ。彼が記したという檄文を読んでみよう。
「王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り
之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。」
https://ameblo.jp/0358rainbow/entry-12351669454.html

私なりに意訳すると、
「政治の変革は私も希望しているが、今の政体は公明正大ではない。我が主君の徳川慶喜には朝敵の汚名を着せ、城地や倉庫は没収され、先祖の墓は破壊され、幕臣であったものは居宅すら保つことが出来ない。これは強い藩(薩長のこと)の私利私欲であり、まっとうな王政ではない。よって我々はこの地を去り、北海道を開拓して新しい国を作る」ということである。

房総沖で暴風雨に襲われて咸臨丸・美賀保丸の2隻を失ったが、8月下旬頃から順次仙台に到着し、榎本らは仙台城で伊達慶邦(だて よしくに)に謁見し、奥羽諸藩を鼓舞してともに行動することを勧誘したのだが、その頃は既に奥羽越列藩同盟は実質的に崩壊しており、新政府軍はすでに会津城を包囲していて会津軍の敗北は誰の眼にも明らかだった。
9月12日には仙台藩も降伏を決定してしまったので、榎本らは仙台に逃れてきた桑名藩主・松平定敬(まつだいら さだあき)や大鳥圭介、土方歳三などの旧幕軍の残存兵を艦に分乗させて、10月18日に宮古湾より蝦夷地に向かい、10月21日に箱館の北の鷲ノ木(わしのき)に約3千名が上陸している。

箱館戦争図
箱館戦争図】

箱館府知事清水谷公考(しみずだに きんなる)はわずかな兵力では戦えないと判断し、残兵を率いて青森に逃れ、榎本武揚らはわずか数日で箱館および五稜郭を占領してしまう。さらに松前城を陥落させたのち江差・舘村を陥れて松前藩主は津軽に逃れ、旧幕軍は北海道全域を占領するに至る。

そして12月には選挙が実施されて榎本が総裁に選ばれ、新しい政権が誕生した。わかりやすく言えば、日本列島に二つ目の政権が北海道に生まれたということである。
アメリカが最初にこの政権を承認し、続いてプロイセン・ロシアもそれに続いた

明治政府としてはこの政権を早く叩き潰したくても、海上戦力では圧倒的に旧幕軍が勝っており、普通に戦っては勝てる相手ではなかったのである。

ところが、旧幕軍に悲劇が起こる。11月14日に江差攻略のために江差沖に到着していた主力戦艦である開陽丸が、翌日の夜に強い風波に押されて座礁・沈没してしまったのである。そのため、旧幕軍の海上戦力の優位性が崩壊してしまう。

ストーンウォール号
【ストーンウォール号】

明治2年(1869)2月に新政府はアメリカからストーンウォール号(排水量1358t)を購入しているのだが、この軍艦はもともと江戸幕府が買い取りを約束した船であった。ところが、幕府が瓦解して戊辰戦争が始まると新政府、旧幕府の双方が引き取りを要求したので、アメリカは局外中立の立場からどちらにも売る気はないと宣言していた。
ところが開陽丸が沈没すると掌を返したようにアメリカは局外中立の方針を変更し、この船を新政府に引き渡したのである。開陽丸なき後はこの船がわが国最大の軍艦となっており、この時点で新政府軍は旧幕軍を圧倒する海軍力を保有するに至った

そこで旧幕軍は奇策を試みようとする。回天、蟠竜、高雄の3艦に外国旗を掲げて宮古湾に突入し、攻撃開始と同時に日章旗に改めてストーンウォール号に接舷し、陸兵が斬り込んで舵と機関を占拠しようとする計画を立て、3月25日に決行したのである。
しかしながら暴風雨のため蟠竜が離散し、高雄は機関故障のため脱落して回天だけで奇襲を敢行することになったのだが、回天は外輪船の為に横付けできず細い船首の高低差のある所から飛び移ることとなり、武器の標的となって多くの兵士が撃ち落され、回天も敵艦に包囲されて集中砲火を浴び、形勢不利と判断して回天は宮古湾を離脱したという。(宮古湾海戦)

箱館戦争

新政府軍は本格攻撃を開始するため、輸送船をチャーターして4月6日に1500名が青森を出発し、9日の早朝に乙部に上陸。新政府軍艦5隻は江差砲撃を開始し、旧幕軍は反撃を試みるも敵艦に砲弾は届かず松前方面に後退している。
4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2800名が上陸し、さらにストーンウォール以下の諸艦は海上より旧幕軍の陣地を砲撃し、箱館港内に進入して旧幕府の軍艦と交戦した。

国立国会図書館デジタルコレクションで『維新史 第5巻』にはこう記されている。
「5月4日夜、千代田形は暗礁に触れて進退の自由を失い、次いで回天もまた機関部を破損したので、旧幕府の海軍力は今や全く昔日の俤(おもかげ)を失うにいたった。これに反して、北征艦隊には新たに軍艦朝陽(排水量300t)が加わり、事務官権判事曽我準造も海軍参謀として青森に着し、軍容は頓(とみ)に整ったのである。
 ここにおいて官軍は5月11日の未明をもって総攻撃の期と定め、一隊は山背泊および寒川・大森浜に潜行して箱館の背後に迫り、本体は赤川・七重・桔梗野・亀田を攻略して、腹背より箱館の市街に突入した。土方歳三・春日左衛門らは自ら手兵を率いて防戦に努めたが、衆寡敵せずして遂に斃れた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917908/188

海上に於いても激戦が繰り返され、旧幕艦・蟠龍丸からの一弾が新政府軍艦朝陽の火薬庫に達して、一大轟音とともにその艦体が天空に四散したということもあったが、その蟠龍丸も弾薬を使い果たし、背後から砲撃を受けるに及んで、乗員は艦を棄てて五稜郭などに逃れたという。

黒田清隆
黒田清隆

もはや旧幕軍の敗色は濃厚であった。
ここにおいて、新政府軍の参謀黒田清隆は五稜郭に使者を送って降伏を勧告し、5月14日榎本武揚はそれを斥けているが、海事に関する国際法と外交について詳述した『海律全書』という2冊の本を使者に託して黒田に贈ったという。榎本の書状によるとこの本は彼がオランダ留学中に学んだ本で、我が国の海軍にはなくてはならない書物で、この本を兵火で失ってしまうには惜しいので差上げたいと記されていたという。

『海律全書』
【『海律全書』】

『海律全書』を受け取った黒田は榎本の人柄に感銘を受け、海軍参謀名で感謝の意と、いずれ翻訳して世に出すという内容の書状を添えて酒5樽を贈ったのだそうだ。

その後も新政府軍の砲撃が続も旧幕軍の砲台も陥落して、榎本は観念して降伏勧告を受け入れて箱館戦争は終わりを告げる。東京に護送され牢獄に収監された榎本に対し木戸孝允ら長州閥は厳罰を求めたのだが、なんとしてでも彼を助命しようとしたのが黒田清隆である。

榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)
【榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)】

黒田は、榎本から送られた『海律全書』の翻訳を福沢諭吉に相談したのだが、福沢はこの内容を理解しているのは留学で直接教えを受けた榎本しかいないと言ったという。この本に書かれている内容は当時のわが国にとって重要なものであり、この時代が榎本を必要としていたのだ。黒田はみずから頭を丸めて榎本の助命を訴えたという。

明治5年(1872)1月に榎本は特赦により出獄し、新政府の一員として生きる道を選んだ。
明治7年(1874)には榎本は駐露特命全権公使に任命され、あわせて日本最初の海軍中将に任命されてロシア帝国と樺太の国境画定交渉に携わっている。

日魯通好条約

安政元年(1855)の日魯通好条約において、国境は千島列島の択捉島と得撫島との間に定められていたのだが、樺太については国境を定めることが出来ず日露混住の地とされ、その後ロシアの樺太開発が活発化して暴行や窃盗が頻発するようになり、殺人事件も起こっていたという。

樺太千島交換条約

明治7年(1874)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど樺太放棄論に基づく訓令を携えて、榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴き、その結果翌明治8年(1875)5月に、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結している。

単純に面積だけで考えれば樺太をとる方が有利に見えるのだが、当時の我が国は北海道の開拓だけで精一杯で、樺太の開拓や防衛までは手が回らないだけでなく、頻発する紛争解決に負われる選択は避けたかったのだと思う。一方千島列島をわが国が領有すれば、豊富な水産資源も魅力の一つだが、周囲が海なので防衛しやすく、地政学上の観点からはロシア海軍をオホーツク海に封じ込め、将来太平洋に進出することを封じることが出来る。このことを駐日英公使のハリー・パークスが大久保利通に働きかけたという話もあるようだ。
http://www.sankei.com/premium/news/161125/prm1611250007-n4.html

国際法に強い榎本はロシアと対等に渡り合い見事に交渉をまとめて、樺太千島交換条約』が締結されたのだが、この条約に於ける「千島」には国後、択捉、歯舞、色丹の「北方4島」が含まれていないことを忘れてはならない。「北方4島」は過去において外国の領土に一度もなったことがない、わが国の固有の領土なのである。


Senryou.gif

第二次世界大戦の終戦間際である昭和20年(1945)8月9日にソ連は日ソ中立条約を無視して我が国に対し宣戦布告し、我が国のポツダム宣言受諾後の8月18日に千島列島に侵攻し、その後28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月3日から5日までの間に歯舞群島を占領し、一方的に自国に編入してしまった。

樋口季一郎
【樋口季一郎】

このソ連軍の千島列島侵攻に抗し、自衛のために千島列島の最北にある占守(シュムシュ)島で7日間戦った樋口季一郎中将のことを以前このブログで書いたが、この戦いがなければソ連は北海道まで攻め込んできたはずだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

北海道分割

モスクワの公文書館に保存されていた極秘文書のコピーを大量に持ち帰られた斉藤六郎氏の資料の中に『北海道・北方領土占領計画書』があり、そこには北海道の北半分と北方領土の占領が、ソ連極東軍・太平洋艦隊の任務であることが明記されているという。

我が国の終戦記念日は8月16日だが、ロシアの終戦記念日は9月2日で、旧ソ連では9月3日であったようだ。9月2日は我が国が東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ前方甲板上において降伏文書に調印した日であるが、それまでにソ連は北方領土の大半を占領してしまったのである。

我が国は1951年のサンフランシスコ平和条約で我が国は「千島列島」に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したのだが、「千島列島」には「北方4島」を含まないことは歴史的に明らかである。
しかしながらソ連はこの講和会議に出席したものの講和条約には署名しなかった。
ソ連からすれば、この条約に署名するよりも、署名しないまま「北方4島」の実効支配を継続した方が得策だとの判断があったのではないか。

かくして我が国の固有の領土であるはずの「北方領土」は、終戦後72年以上にわたりソ連あるいはロシアに占拠されたままの状態が続いているのだ。

北方領土に限らず竹島問題も尖閣問題も同様なのだが、国の領土に関わる重要な情報が国民に十分に知らされているとはとても思えない。教育機関やマスコミがどこかの国に忖度しているようでは、いつまでたっても領土問題の解決は困難だ。このままでは沖縄や対馬や北海道も、将来どこかの国に実質的に支配されることになるのではと心配するのだが、そうならないことを祈るばかりである。
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【ご参考】
このブログで樋口季一郎についてこんな記事を書いてきました。

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-187.html

帝国陸軍の左傾化と阿南陸相の自決との関係~~ポツダム宣言9
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-299.html

補給に苦しみながら敵の上陸を許さなかったキスカ島の兵士たち…『キスカ戦記』を読む4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-472.html

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-406.html

樋口の決断で開始した占守島の自衛の戦いは、秦関東軍参謀長の命令で止められてしまったのだが、この命令がなければ北方領土の問題は今は存在しないか、今よりもはるかにスケールの小さいものになっていたと思われる。
このブログでいろいろ書いてきたとおり、終戦時期には政治家や官僚や軍の上層部にはソ連に協力する者が少なからず存在したのだが、興味のある方は『戦争と共産主義』カテゴリーの記事も覗いていただくと嬉しいです。






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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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