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武士であることを捨てた弓の名人、那須与一

元暦2年(1185)2月19日、平家軍は四国屋島の入江に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えるも、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、陸から大軍が来たかに見せかけて浅瀬を渡って奇襲攻撃をかけた。世にいう「屋島の戦い」の始まりである。平家軍は船で海に逃れるも、源氏の兵が少数であることを知り、態勢を立て直した後、海辺の源氏と激しい矢戦となる。

屋島

夕暮れになって休戦状態となると、沖から一層の小舟が近づき、見ると美しく着飾った若い女性が、日の丸を描いた扇を竿の先端につけて立っていた。

義経は弓の名手・那須与一を呼び、「あの扇の真中射て」と命ずる。平家物語巻第十一の「扇の的」の名場面である。

那須与一1

「…これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。今一度本国へ帰さんと思しめ召さば、この矢はづさせ給ふな」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱つて、扇も射よげにこそなつたりけれ。輿一鏑を取つて つがひ、よつ引いてひやうど放つ。小兵といふ條、十二束三ぶせ、弓は強し、鏑は浦響く程に長鳴りして、あやまたず扇の要際、一寸許りおいて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ揚りける。春風に一揉み二揉みもまれ て、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、夕日の輝くに、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられけるを、沖には平家舷(ふなばた)をたたいて感じたり。陸には源氏えびらをたたいて、どよめきけり。…」

平家軍の挑発を断れば源氏軍の士気は下がり、射損じては逆に平家軍を勢いづかせてしまう。失敗が許されない緊迫した場面で、那須与一は見事に扇の的を射抜くという話なのだが、この話を高校の古文の授業で読んだ時に、「本当にこんな話があるのだろうか」と疑問に思った。すでに屋島の戦いは始まっており、もう何人も討ち死にしている状況下にもかかわらずである。

また平家物語では与一と扇の的までの距離は「七段ばかりあるらんとこそ見えたりけれ」とある。
1「段」は6「間」で、1「間」は6「尺」。1「尺」は30.3cmであるから、7段は76.35mという計算になるが、こんな距離で波に揺られて動く的を射ぬけるのだろうか。 この問題については、中世の頃の一段は9「尺」であったという説もあり、この説であれば19.09m程度の距離となる。
どちらが正しいかよくわからないが、現在の弓道競技では遠的競技の射距離は60m、近的競技の射距離は28mなので、76.35mとすればかなり長く、一方19.09mでは近すぎて挑発にもならないような気がするので、射距離の問題は私は前者に軍配を上げておこう。

平家物語那須与一

しかし、そもそも何人も犠牲者の出ている戦いの最中に、こんな悠長な場面がありうるのだろうか。

あまり知られてはいないが、平家物語では那須与一が扇の的を射抜いた後、その船の上で踊り始めた平家の武士をも射ぬいてしまうのだが、何故平家軍はこの時に那須与一に復讐をしなかったのか。

Wikipediaによると、那須与一の名前は後世の「軍記物」である「平家物語」や「源平盛衰記」には出てくるものの、「吾妻鏡」など同時代の史料には名前は出て来ないために、学問的には与一の実在すら証明できないと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E4%B8%8E%E4%B8%80

私には、「平家物語」の那須与一の物語そのものが、後世の創作のように思えるのだ。那須与一が描かれている「平家物語」の成立時期は通説では1230年代とされ、作者すらわかっていない「平家物語」は「物語」ではあっても決して歴史書ではない。
「吾妻鏡」にも書かれていない内容を、「平家物語」や「源平盛衰記」にあるからと歴史的真実だ考えることは危険ではないのか。

ところで、平家物語巻第十一には、屋島の戦いの「扇の的」の場面で、那須与一は「二十許んの男子なり」と書かれている。いくら「物語」だとしても、年齢までは創作することはないだろう。
那須与一という人物が源氏方の軍人にいたことは間違いないのだろうと思うが、それから後の那須与一についてはどうなったか。

Wikipediaの記事を読むと、「頼朝の死後に赦免され那須に戻った後に出家して浄土宗に帰依し、源平合戦の死者を弔う旅を30年あまり続けた」と書いてあるところに非常に興味を覚えた。なんと弓の名手は仏門に入ったのである。

いろいろネットで調べてみると、那須与一は浄土宗開祖法然の弟子になっていることが分かった。

例えば、次のURLでは
http://hp.kutikomi.net/ayawaka/?n=diary9&oo=7

…『那須記』の「那須与一」の項に、「落髪申致上洛…」と、出家して京都に行ったことが伝えられており、京都府ニ尊院所蔵の『源空七箇條起請文』という古文書に、那須与一が、「源蓮(げんれん)」という名で記されているという。 彼は、1202(建仁2)年、34歳頃(推定年齢)に出家し、浄土宗を開いた法然に弟子入りし、その2年後には、早くも法然の高弟となったというのである。…(引用終わり)

法然

ちなみに浄土真宗を興した親鸞は同じ書に「綽空(しゃくくう)」という名で記されており、親鸞は与一の前年に法然のもとに入門しているので、与一とは一年違いの兄弟弟子にあたる。

では、なぜ与一は仏門に入ったのであろうか。

彼は義経の軍勢で活躍したが、義経は平家滅亡後に頼朝と不和になる。しかも、頼朝の腹心・梶原景時に攻撃された時は幕府軍を退け、有利な条件で和睦に持ち込んでいた。こうした経緯から、与一は武士として生きることをあきらめざるを得なくなり出家を選んだのだと考えられる。
幕府軍と戦って退けたことから、武士としても一流の人物であったことは確実だ。

神戸市須磨区に北向八幡宮という神社があり、与一はこの地で64歳で大往生を遂げたという。
墓所は京都の即成院だそうだが、那須氏の菩提寺である玄性寺(栃木県大田原市)にも分骨され、那須氏ではこちらを本墓としているそうだ。
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源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える

前回の記事で天長8年(831)から桜の花見が天皇主催の定例行事として宮中で行われるようになったことを書いたが、一度決められた「花宴」はその後も毎年のように行われて、以降1200年分もの京都の花見の記録が残されているのだそうだ。

花見が行なわれる日はほぼ満開に近い時期と考えられるので、記録されている日付すべてを太陽暦に読み替えて、時代ごとの気候変動を調べる研究が戦前から続いているのだという。

伊勢物語絵巻八二段
【伊勢物語絵巻八二段】

桜の開花が早いか遅いかについては開花直前の春先の気温に依存するところが大きく、このことから各年の3月の京都の平均気温がある程度推定できるというのだが、11世紀半ばの気温推定についてはデータが少ないので不可能だという。ちなみに1040年から1080年までの40年間は太陽活動の低下期であったことが分かっており、この期間についての記録で桜の満開日と推定できる記録は、わずか3例があるのみだという。

それ以降のわが国の気候はどうであったのか。
この時期のわが国の歴史を簡単に振り替えると、保元元年の(1156)の保元の乱、平治元年(1159)の平治の乱で平氏が勝利したのち、平清盛が武士として初めて公卿となり、仁安元年(1166)には内大臣、翌年には太政大臣に昇進し、一族も高位高官についただけでなく清盛の娘・徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮となって、一時は『平家にあらざれば、人にあらず』と伝えられるほどの栄華を極めたのだが、その後の平氏は治承・寿永の乱で敗れ続けて、政権はずいぶん短命で終っている。この理由は「貴族のような政治を行って、直属の家人以外には恩恵が及ばず、全国の武士に見限られた」とよく解説されるのだが、この時代の西国の異常気象を無視して論じているものが多い。

気候で読み解く日本の歴史

田家康氏の『気候で読み解く日本の歴史』によると、平氏政権の時代の天候についてこう解説されている。(日付は太陽暦に読み替え後)

1160年代の終わりから、桜の満開日は遅くなる傾向にあった。『醍醐寺雑要』の記述を追いかけると、1167年~1175年にかけての9年間のうち1172年を除いて桜の満開日は4月20日過ぎである。3年続いて4月20日以降になるのは1173年~1175年以降では1548年まで待たねばならない。ところが一転して『明月記』によると1180年(治承4)の満開日は4月7日と早かった。10世紀のもっとも早い年である955年(3月30日)と961年(3月28日)とまではいかないまでも10世紀の平均日よりは早いことから、1180年3月の京都の平均気温は7℃を超え、ヒートアイランド現象の要因を除いた現在の気温と変わらない暖かさであっただろう。
 春先の暖かさが降水量の少ない夏へと続き、翌1181年にかけて養和の飢饉をもたらす。荒川秀俊*博士は、この年の京都での水不足について古い文献を調べ上げた。荒川博士は5月1日から8月31日にかけて『山槐記』『吉記』『玉葉』のいずれかに雨の記述がある日を数えていった。その結果、7月は全く降らず、8月も驟雨が4日降っただけであった。そして明治以降での3回の干ばつ発生年(明治16年、大正13年、昭和14年)での雨天日数とも比較し、1180年(治承4)では7月に晴雨不明の日が7日あるものの、明治以降の干ばつ発生年と比較しても雨天日数が少なかったことをつきとめている。
明治以降の干ばつ八青年の場合、5月から8月にかけての降水量は300ミリ台の後半であり、現在の平均値の約半分しか降らなかった。1180年の場合、雨天日数や8月に驟雨しか降らなかったことを勘案すると、降水量は明治以降の3回の干ばつ年よりも少なかったであろうと、荒川博士は結論付けている。」(『気候で読み解く日本の歴史』p.90~91)
*荒川秀俊(1907~1984):昭和期の気象学者。予報技術の発展に貢献したほか、古文書により気象・災害と歴史的事件の関係を研究。

方丈記

1180年は源平合戦とも呼ばれる治承・寿永の乱が始まった年なのだが、この年は春が暖かく、夏にほとんど雨が降らず農産物が大凶作となり、さらに秋には台風が上陸して翌年にかけて養和の大飢饉が起きていることに注目する必要がある。この飢饉の悲惨さについては、例えば鴨長明の『方丈記』にこう記されている。テキストと現代語訳は次のURLを参照願いたい。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/houjyouki.html

「又、養和の頃とか、久しくなりて覚えず。二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或は春・夏 日でり、或は秋・冬 大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀 ことごとくならず。むなしく春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬收むるぞめきはなし。これによりて国々の民、或は地を捨てて境を出で、或は、家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。

京の習ひ、何わざにつけても、みなもとは、田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへむ。念じわびつゝ、さまざまの財物、かたはしより捨つるが如くすれども、更に目見たつる人もなし。たまたま換ふる者は、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり

 前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふに、あまりさへ、疫病うちそひて、まさざまにあとかたなし。世の人、みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。果てには、笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものども、歩くかと見れば、即ち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはんや、河原などには、馬・車の行き交う道だになし。」

餓鬼草子
【餓鬼草子】

では、どの程度の餓死者が出たかというと、仁和寺の隆暁法印が額に『阿』の文字を書いて回ったところ、その数が「4万2千3百余り」になったと書かれている。その前後や、周辺地を考慮すれば、亡くなった人の数は計り知れない。
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/houjyouki/08.html

この『方丈記』の記録は決して誇張されたものではなく、他にも多くの記録が残されているようだ。先ほど紹介した田家氏の『気候で読み解く日本の歴史』にはこう解説されている。

「大きな干ばつが発生すると飢饉は翌年の収穫まで続く。収穫が多少なりとも得られれば、その年の暮れまでは何とか過ごすことが出来る。問題は年明けになって食料が尽きた後だ。奈良時代から江戸時代に至るまで、干ばつなり冷害なりで飢饉が起きると、餓死者が大量に出るのは翌年春以降という傾向がある。1180年(治承4)の干ばつによる飢饉は1181年(養和元)から1182年(寿永元)まで続いた。『百錬抄』には1881年6月の記述に『近日、天下飢饉、餓死者その数を知らず。僧綱有官の輩すら其の聞あり』、『皇帝紀抄』の安徳天皇の項には、『今年、天下飢饉、道路に餓死者充満す。開闢以来此の程の子細無し』とある。」(同上書 p.91~92)

また吉田経房の日記『吉記』養和2年(1182)2月には強盗や放火が起こり、飢者が人間の肉を食べたことなどが記されている。3月には道路に死体が充満していたことや、源氏が各地で謀反をしたことなどが記されている。下のURLはその原文である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1236604

以仁王像
【以仁王像】

分かりやすいように干ばつが発生する前後の源平合戦を振り返ってみよう。
治承4年(1180)の4月に以仁王が平家追討の令旨を発し、5月に源頼政、以仁王が挙兵したが、平家の追討を受けて源頼政は自害し、以仁王は戦死したとされる。
しかしながら、以仁王の令旨は各地の武士に配られて、源頼朝は相模・伊豆・武蔵の武士団へ呼びかけ、8月に挙兵して相模国石橋山で大庭景親らと交戦し敗北したものの(石橋山の戦い)、さらに勢力を拡大して10月に先祖ゆかりの鎌倉に入りそこを本拠地とした。
東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣し、両軍は富士川で対峙したのだが、目だった交戦がないままに、平氏軍は敗走する (富士川の戦い)

この戦いは米の収穫期に起きているのだが、この年は西国では米は大凶作であったことが分かっている。一方源氏の本拠地である東国は、干ばつ被害については西国ほどひどい状況ではなかったようである。再び田家氏の著書を引用する。

富士川の戦い

「同年8月23日、源頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、2カ月後の10月20日(11月9日)の富士川の戦いで平維盛の軍勢を破る。『平家物語』や『源平盛衰記』では武田信義の一軍が富士川に馬で乗り入れたところ、水鳥が一斉に飛び立ち、その水音に平氏軍は驚いて大混乱に陥り退却したエピソードで語られている。荒川博士は、平氏軍の撤退とはこの年の干ばつによる凶作で西日本が食糧不足に陥ったためではないかと考えた。駿河まで出陣したものの、兵糧が不足したことで軍内に厭戦気分が高まり、撤退したのではないかとみる。平氏が拠点とする西日本が深刻な干ばつと飢饉に見舞われたのに対し、頼朝が兵を募った東日本は…『干ばつに不作なし、雨年に豊作なし』の土地柄である。荒川博士の描く構図は、1180年の干ばつが東日本と西日本の農業生産にまったく逆の状況をもたらし、これが治承・寿永の乱で頼朝が勝利する背景であったとする。」(同上書 p.91)

大干ばつの西国で、平氏が食糧を調達することも兵士を集めることも容易でなかったことは間違いないだろう。
Wikipediaによると、頼朝挙兵の報が福原にもたらされたのは9月1日(9月21日)で、清盛は9月5日(25日)に関東に追討軍派遣を決定している。しかし追討軍の編成は遅々として進まず、福原を出立したのは9月22日(10月12日)で、京を発したのは29日(10月19日)と随分日数がかかっている。追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めて7万騎の大軍となるも、所詮は寄せ集めで士気は非常に低かったようだ。
その追討兵が10月20日(11月9日)に富士川の西岸に布陣したのだが「兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった」という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

平家方の兵糧の欠乏は士気の低下を招いただけではなく、兵糧の足りている源氏に逃亡しようと考える者もいたという。権中納言中山忠親の日記『山槐記』の治承4年11月6日条には、「或る者」からの情報としてこう記されている。
「兼ねてまた諸国の兵士、内心皆頼朝に在りて、官兵互いに異心を恐る。暫く逗留せば後陣を囲み塞がんと欲すと云々。忠景等此の事を聞き、戦わんと欲するの心なきの間、宿の傍らの池の鳥、数万にわかに飛び去る。其の羽音雷を成す。官兵皆軍兵寄せ来たると疑い、夜中に引き退く。上下競い走る。」

九条兼実
【九条兼実】

平氏がかき集めた「駆武者」のなかには、軍に入れば食えることを期待して入った者もかなりいたのではないか。九条兼実の日記『玉葉』の11月5日の記録には
「所残之勢、僅不及一二千騎。武田方四万余云々。依不可及敵対、竊以引退。是則忠清之謀略也。於維盛者、敢無可引退之心云々。而忠清立次第之理、再三教訓。士卒之輩、多以同之。仍不能黙止、自赴京洛以来、軍兵之気力、併以衰損。適所残之輩、過半逐電。凡事之次第非直也事云々」とある。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920201/228
平家軍が敵の武田軍に対して劣勢であったために、平家軍の侍大将・伊藤忠清は大将軍の平維盛に退却を献策し、他の武士たちもそれに賛同したため、維盛もその策を受けいれざるを得なかった。平家軍の士気は衰え損なわれて、富士川に対陣で残った兵も過半が逐電(逃亡)したという。
兵糧が乏しかったのならかき集めた兵が逃亡することは当然だと思う。

かくして源頼朝は挙兵後わずか2ヶ月で南関東を制圧し、その後しばらく鎌倉に根拠地として幕府の基礎を固めていくことになる。

そして翌年(治承5年[1181])には閏2月には平清盛が没し、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平家軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平家軍が大勝した。しかしながら西日本はこの年も干ばつとなり、平家は都を中心とした専守防衛対策を堅持することとなる。またこの年は東日本も凶作であったため、頼朝も守りをかためることとなり、その後源平の合戦は寿永2年(1183)まで膠着状態にとなっている。

これらのことは深刻な大飢饉の影響を抜きに考えられないと思うのだが、教科書やマスコミなどで広められている歴史叙述には、多くの場合その視点が欠落している。
この時代の歴史が、『平家物語』の影響を脱する日は来るのか。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみててください。

祖谷の平家屋敷と平家落人伝説
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-62.html

「牛若丸と弁慶の物語」の虚構
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-198.html

源義経が奥州平泉で自害したというのは真実なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-60.html

謎に包まれた源頼朝の死を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-61.html


大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか

前回の記事で、源頼朝や木曽義仲が平氏打倒のために挙兵した治承4年(1180)は大干ばつのために西日本は大凶作となり、平氏は関東に追討軍を送り込んだものの、10月の富士川の戦いでは平氏軍は兵粮不足で逃亡者が続出し、まともに戦える状況ではなかったことを書いた。

「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)
【「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)】

その翌年の治承5年(1181)は、閏2月に平清盛が没した後、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)において平氏軍と源行家軍との間で行われた墨俣川の戦いで平氏軍が大勝している。前年の大凶作のあとだけに、兵粮米の調達にかなり苦労したようだ。

源平合戦の虚像を剥ぐ

川合康氏が『源平合戦の虚像を剥ぐ』で、このように解説している。
「治承5年2月、尾張国まで進出してきた源行家を中心とした反乱勢力を美濃・尾張国境の墨俣川で迎撃するために、2月7日に『官使・検非違使を美乃国に遣わし、渡船等を点じ、官軍に渡すべしの由、同じくもって宣下す』という宣旨が発給され」(『玉葉』治承5年2月8日条)、それをうけて伊勢国留守所は2月20日に『早く宣旨状に任せて、二所太神宮・神戸・御厨・御園ならびに権門勢家庄園・嶋・浦・津等を論ぜず、水手・雑船などを点定し、尾張国墨俣渡に漕送すべき事』という下文を出している(治承5年2月20日『伊勢国留守所下文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3952>)
 伊勢国内において伊勢神宮領・権門勢家領を問わず徴発を命じており、これなどは典型的な一国平均賦課の形態といえよう。なお、このときに水手・雑船だけではなく、兵粮米の徴集もおこなわれていたことは、じっさいに伊勢神宮領で徴発を完了した2月24日の『大神宮司庁出船注文』の一艘に『兵粮米積む』と記載されていることから明らかである。(治承5年2月『大神宮司庁出船注文』<書陵部署象壬生古文書『平安遺文』8-3956>)」(講談社学術文庫『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.127-128)

このように、諸国の国衙機構を通じて、国内の荘園・公領を問わず平均に賦課されることを「一国平均役」と呼ぶそうだが、このような調達方法には限界があり、その不足分を賄うために富裕者(有徳人)を対象とした賦課も行なわれた。

「治承5年2月7日、『京中の在家、計らい注せられるべきの由、仰せ下さる。左右京職の官人、官使、検非違使等これを注す』という内容の宣旨が出され(『玉葉』治承5年2月8日条)、京中在家の検注(屋敷地の規模や住人の調査)が左右京職の官人・検非違使らに命じられている。…
京中在家の検注の目的は、京都に屋敷を有する住民のうち『富裕の者』を調査・把握し、その者を対象に兵粮米を賦課しようとするものであって、同時にまた院宮・諸家の備蓄米の徴発をも実施し、京都住民の飢餓の窮状を救おうとするものであった
 …
このような有徳役による兵粮米の徴発は、治承5年5月には大和国においても実施されている。そこでは、『国中有徳者』にたいして兵粮米賦課をおこなっていた『官兵の使』が、賦課を逃れようとする『有徳者』の屋敷に乱入し、倉を検封するなどの実力行使におよんだことが知られるのである(『吉記』治承5年5月4日条)。」(同上書 p.129-130)

平氏はこのようなやり方で兵粮を集め、墨俣川の戦いでは平氏軍が大勝したのだが、前年の干ばつによる大凶作のため各地で餓死者が出ているなかで、こんな強引な徴発方法を繰り返そうとして公卿たちの反発を買うこととなる。

「…治承5年には養和*の大飢饉がひろがるなか、平氏はこのほかにも西海・北陸道などから運上物を点定して兵粮米にあてるなどの提案をおこなって、なんとか兵粮米を確保しようと躍起になるが、これは公卿たちの反対にあって実現せず(『玉葉』治承5年2月6日条)」、『兵粮已に尽き、征伐するに力なし』(同前)とか『凡そ官兵兵粮併しながら尽き了んぬ。更にもって計略なし』(『玉葉』治承5年3月6日条) と呼ばれた状況は、容易に打開しようがなかったのである。
大飢饉がさらに拡大した翌養和2年(1182)3月、左大臣吉田経房は『兵粮米の事、万民の愁い、一天の費え、ただ此の事に在るか』と日記に記している(『吉記』養和2年3月26日条)。こうした状況のなか、目立った軍事行動がなくなり、戦線が膠着化していったのは、むしろ自然のなりゆきであった。」(同上書 p.130)
*養和:治承5年(1181)7月14日に改元され、養和2年(1182)5月27日に寿永に改元された。源頼朝の源氏方ではこの元号を用いず、引き続き治承を使用した。

餓鬼草子
【餓鬼草子】

前回記事で紹介したとおり、鴨長明は『方丈記』でこの頃の京都の惨状を「乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に滿てり」「築地のつら、道のほとりに飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香、世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり」と書いている。食糧の絶対量が不足していて人々が飢餓で苦しんでいる状況下では、兵粮米が集まらないことは当然であろうし、強引に集めれば人々の恨みを買うことは誰でもわかる。

しかし、大飢饉の年が明けて寿永2年(1183)となると、平氏は木曽義仲を征討するため大規模な北陸道の遠征計画を立てている。前年は凶作ではなかったにせよ、4万とも言われる平氏軍の兵粮米を調達することは容易ではなかったはずだ。

川合康氏によると寿永2年に北陸道に進軍していった平氏軍は、往路の兵粮を北陸に向かう路次の地域で徴発することが朝廷から認められていたという。

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【川合康氏】

そのありさまが平家物語に出ていて、川合氏の同上書に引用されている。
片道給わりてければ、路次持て逢える物をば、権門勢家の正税官物、神社仏寺の神物・仏物をも云わず、押し並べて会坂関(おうさかのせき)より、是れを奪い取りければ、狼藉なる事おびただし。まして、大津・辛崎・三津・川尻・真野・高嶋・比良麓・塩津・海津に至るまで、在々所々の家々を次第に追捕す。かかりければ、人民山野に逃げ隠りて、遥かに是れを見遣りつつ、おのおの声を調えてぞ叫びける。昔よりして朝敵を鎮めんが為に、東国・北国に下り、西海・南海に赴く事、其の例多しといえども、此の如く、人民を費やし国土を損ずることなし。されば源氏をこそ滅ぼして、彼の従類を煩わしむべきに、かように天下を悩ますことは只事に非ずとぞ申しける。」(『延慶本平家物語』第三末「為木曽追討軍兵向北国事」)

平氏軍は源氏を討伐するのではなく、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したことが記されている。

川合氏はこう解説しておられる。
寿永2年は前年の収穫・納入で事態は少し好転したとはいえ、大軍勢の遠征をまかなう兵糧を畿内近国で確保することができなかった平氏は、朝廷公認のもとに、ここでいわば現地調達方式に切りかえたのである。三、四月が農村では冬作麦の収穫期にあたっていたという事実も、このこととけっして無関係ではないだろう
 しかし、やっとの思いで大飢饉をしのぎつつあった街道沿いの村々にとっては、たとえ朝廷の承認を得たものであったとしても、これは残酷な掠奪行為にほかならない。その意味で、村人たちが山野に避難しつつも、集落を見下ろす山の上から平氏の軍勢にたいし、『かように天下を悩ますことは只事にあらず』と大声で叫んだという『延慶本平家物語』の記述は、この時期の民衆たちの心情をよく描いているといえよう。
 しかし、このような路次追捕は、平氏軍による北陸道遠征に特殊なものとはならず、これ以後各地で展開するようになる。」(『源平合戦の虚像を剥ぐ』p.132-133)

源平倶利伽羅合戦図屏風
【源平倶利伽羅合戦図屏風】

こんな具合に平氏の北陸追討軍は進軍していったのだが、5月11日の越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れてしまう。義仲は篠原の戦いにおいても平氏軍に勝利して沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍していく。
平氏は都の防衛を断念して7月25日に安徳天皇らを擁して西国に逃れたのち、28日に木曽義仲が入京している。木曽義仲は京中の狼藉の取締りを委ねられたのだが、それがとんでもないことになる。

九条兼実は木曽義仲や源行家の軍勢が入京して1ヶ月余りたった寿永2年9月の状況を日記『玉葉』に記している。原文は漢文だが、読み下し文が川合氏の著書に出ている。

9月3日
「凡そ近日の天下、武士の外、一日も存命の計略なし。仍(よ)つて上下多く片山田舎等に逃れ去ると云々。四方皆塞がり、…畿内近辺の人領、併しながら苅り取られ了んぬ。段歩残らず、また京中の片山および神社仏寺、人屋在家、悉(ことごと)くもって追捕す。其の外たまたま不慮の前途を遂ぐるところの庄公の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆もって奪い取り了んぬ。此の難市辺に及び、昨今買売(ばいばい)の便を失うと云々。天何ぞ無罪の衆生を棄つるや。悲しむべし、悲しむべし」(同上書 p.134)

9月5日
京中の万人、今においては一切存命するに能わず。義仲、院の御領己下、併しながら横領す。日々倍増し、およそ緇素貴賤(しそきせん)涙を拭わざるはなし。憑(たの)むところ只頼朝の上洛と云々」(同上書 p.135)

木曽義仲像(徳音寺所蔵)
【木曽義仲像(徳音寺所蔵)】

義仲軍は狼藉を取締るどころか京の食糧などを奪い取ること甚だしく、京の人々は頼朝の上洛により義仲が成敗されることを期待するようになっていく。頼朝は翌年に入京しているのだが、頼朝が引連れた軍(鎌倉軍)の場合はどうであったのか。

川合氏はこう述べている。
「…翌寿永3年(1184)1月に義仲軍を破って入京した鎌倉軍は、たしかに京中の治安維持には勤めようとするものの、たとえば生田の森・一の谷合戦に向かうさい、摂津国垂水東・西牧において『路次たるにより、追討使下向の時、雑人御牧に乱入し、御供米を取り穢し、住人らを冤陵(えんりょう)*す』(寿永3年2月18日『後白河院庁下文案』<春日神社文書、『平安遺文』8-4131>)と訴えられるような掠奪をともなって進軍した…」(同上書 p.135)
*冤陵:無実の者に暴力を加えて苦しめること

このように、源氏も平氏も掠奪をしていたのだが、このような行為は源平に限らずどの武将も良く似たもので、騎兵とは別に、軍の中に兵粮の稲の刈取りを組織的に行う歩兵が存在していたというのだ。

川合氏の解説を続ける。
このような部隊は、院政期においても確認することができ、たとえば康治元年(1141)10月に、目代(もくだい)・在庁官人らにひきいられた紀伊国衙の軍勢が大嘗会所役をめぐって大伝法院領に乱入したさいには『数百軍平』とともに『数千人夫』が催され、彼らは稲・大豆の刈取りや、在家・諸堂における資材や雑物の追捕・運搬活動に従事しているのである。(康治元年10月11日『紀伊国大伝法院三綱解案』<根来要書上、『平安遺文』6-2481>)
 治承・寿永内乱期の路次追捕が、たんなる場あたり的な掠奪ではなく、遠征を行うにあたり当初から予定されていた『合法的』軍事行動だったとすると、当然この時期の軍隊にも、兵糧の刈り取りや追捕活動を専門的におこなう補給部隊が組織されていたはずである。そして、目代ひきいる紀伊国衙の軍勢が発向したさいに、こうした活動に従事する存在として国内で人夫が徴発されていた事実をふまえるならば、おそらく治承・寿永内乱期においても、工兵隊と同様に、兵士役によって徴発された一般民衆が補給部隊を構成したものと思われる。」(同上書 p.136)

「兵粮の現地調達」については、大凶作のため飢饉が発生しているような状況では容易ではないことは誰でもわかる。こんな時期に進軍する兵士に必要な食糧を手配しようとすれば、現地でかなり強引に奪い取るしか方法はなかったと思うのだが、そうすることで政権に対する人々の信頼は急速に失われていったことであろう。
一度信頼を失ってしまえばそれを取り戻すことは容易ではなく、いずれ豊作となった際に人々が簡単に兵糧を差出すとは思えない。
その後平氏が短期間で源氏に滅ぼされたことや、源氏が鎌倉を本拠地としたことは、このような観点から考察することも必要ではないだろうか。

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