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戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか

以前このブログで、応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次いで飢餓難民が京に流入し、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返して、室町幕府は有効な対策を打たないまま応仁元年(1467)に『応仁の乱』が起きて市街戦がはじまると、両軍に雇われた足軽たちが狼藉を繰り返したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html

応仁の乱は10年間続きその間に飢饉も起こっているのだが、なぜか土一揆は姿を消している。
藤木久志氏の『土一揆と城の戦場を行く』にはこう記されている。文中の「尋尊(じんそん)」という人物は奈良興福寺の180世別当である。

尋尊
【尋尊像 (興福寺蔵)】

「…尋尊(じんそん)は、こう証言する。
彼らを傭兵として雇った東西両軍ともに、彼らにまともな兵糧=食糧や給与を支払う力がない。だから、その代わりに戦場の市街での打破・乱入、つまり富家の略奪を公然と許可しているのだ、と
つまり足軽と号する』というのは、兵粮の代わりの公然たる略奪の免罪符で、『おれは足軽だ』といいさえすれば、略奪は思いのままで、その戦場には、物取も悪党も乱暴人も流民(きがなんみん)たちも殺到して、切ないサバイバルの手段にしていたのであった。その盗品は、彼らと結託する戦場の商人たちに売られて、郊外の『日市』で売りさばかれていた。」(『土一揆と城の戦場を行く』p.21)

『真如堂縁起絵巻』応仁の乱
【『真如堂縁起絵巻』応仁の乱

食糧が乏しかったにもかかわらず、応仁の乱の10年間に土一揆の記録が無い理由は、それまで「土一揆」を起こしていた主要勢力が両軍の「足軽」に入り込んだからなのだが、彼らにとっては「土一揆」を起こすよりも「足軽」という立場で掠奪する方がリスクも低く、経済面のメリットが多かったということなのだろう。

東南アジアの夏の平均気温推移

しかし、文明九年(1477)に『応仁の乱』が終わっている。それから後はどうなったのだろうか。
以前このブログで紹介したが、1420年代から1530年代の約110年間を『シュペーラー極小期』といい、太陽の活動が低下していたことが分かっている。太陽活動が活発であったかどうかは古木の年輪に含まれる放射性炭素C14の測定値で分かるのだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-462.html

広域の飢饉発生年とその要因 1481~1601年

太陽活動が低下することにより穀物等の収穫量が減少し、全国各地で飢饉が発生したのだが、戦国大名は、自国領も含めて周辺の国々の食糧の絶対量が不足している年にどのような対策を行ったのだろうか

北条氏綱像 (箱根町 早雲寺蔵)
北条氏綱像 (箱根町 早雲寺蔵)】

北条早雲―氏綱―氏康と三代続いて名君と評価されている後北条氏の治世について田家康氏は著書でこう述べている。

「後北条氏の治世とは、近隣諸国との武力抗争だけではなく、飢饉時に爆発しそうになる領民のエネルギーをいかに抑制するかが大きな課題であった。
 興味深いことに、彼らの家督相続はすべて飢饉の年に起きている。伊勢盛時…は、1518年(永正十五)…の9月には隠居し、家督を嫡子の氏綱に譲っている。…1518年は関東諸国だけを見ても、上野で『今年諸国大飢饉』、甲斐で『天下人民餓死』とある。…
 家督を継いだ氏綱がまず行ったのが、領国内の年貢賦課の改革、役人の不正排除、目安制度(直訴)の創設であった。まずは農民の不安や不満の解消に手を付ける必要があったのだ。
 続く氏綱から氏康への相続は、1539年夏に始まる冷夏・長雨傾向が1541年まで続いた時期であった。甲斐の『妙法寺記』には1541年について、『此年春餓死ニ至リ候、人馬共ニ死ル事無限、百年ノ内ニモ御座キ候ト人々申来リ候、千死一生ト申候』と餓死者が多発した様子を記録している。
 1541年(天文十)七月十九日に氏綱の死去により家督を継いだ氏康にとっても、当初の重要課題は先代と変わらず飢饉対策であった。天候不順により農地は荒れ果て天文の飢饉となっていた。加えて、軍役の徴発が重くのしかかったことで、『退転』『欠落(かけおち)』『逃散(ちょうさん) 』といった農民の離村が急増していたのだ。氏康は手始めに両国の検地を実施し、不作地を特定した上で農民からの課税減免要求に応えている。さらに、1543年(天文十二)二月三日の虎印判状で、金銭を納めれば軍役を免除しその代わりに『郷中に罷り帰り、作毛すべし』と農作業の奨励を発した。」(『気候で読み解く日本の歴史』p.181-183)

北条氏綱や氏康が領内の農民の不満への対策に取り組んでいたことが紹介されているが、北条軍が他国に攻め入る場合は話が別である。天正二年(1574)五月に北条軍が下総に攻め込んだ時には稲の苗代を悉く掘り返し、収穫期の夏麦を刈り取っている。また八月に上総に攻め込んだ時には、収穫前の米を刈り取り味方の兵粮にしている。このような事例は北条軍だけではなかった。

上杉謙信像(上杉神社蔵)
上杉謙信像(上杉神社蔵)】

上杉謙信の場合、越後の足軽や雑兵らを引き連れ、他国を侵略し、食料の略奪を繰り返した。越後からの関東出兵は、長雨による飢饉となった1560年(永禄三)八月に始まる。関東出兵は1574年まで12回に及んだが、うち8回は秋から翌年夏にかけてであり、関東平野で越冬している。越後は雪国ゆえ水田二毛作といった麦の裏作はできない。このため、春以降の領内の食料不足を見据え、『口減らし』をすべく温暖な関東平野で過ごしている上杉謙信は北陸や北信濃にも出兵しているが、こちらは秋の収穫期を狙っての短期間の軍事行動であり、長期遠征で越冬するのは関東に対してだけだった。
 上杉軍は、後北条氏の領内の農産物を奪っただけではない。1566年(永禄九)二月に常陸小田城を落とした際、『景虎ヨリ、御意ヲモッテ、春中、人ヲ売買事、廿銭程致シ候』と上杉謙信公認のもとで、戦争奴隷の人身売買を行った記録がある
 武田軍も同様だ。武田信玄は1541年(天文十)に甲斐の当主となり、1573年(元亀四)に三河の陣中で没するまで生涯32回の他国への軍事侵攻を行う中で、広域の飢饉が発生した後に必ず外征している。1544年の冷夏・長雨の翌春に南信濃の伊那郡に遠征、1577年以降の干ばつ時に北信濃の川中島までを支配した。1561年にインフルエンザと思われる疫病が関東で流行した際に川中島で軍事作戦を展開し、1566年の冷夏・長雨時には上野を侵略している。
 武田軍の足軽・雑兵にとっても、戦場は出稼ぎの場であった。戦場で乱取りが常態化していたことは、高坂弾正(春日虎綱)による『甲陽軍艦』から読み取れる。…
高坂弾正は、こうした乱取りができるのも『信玄公矛先の盛んなる故なり』と認識し、『国々民百姓まで悉く富貴して、安泰なれば、騒ぐさまひとつもなし』と領内の雰囲気を描いている。乱取りで得た戦利品によって領民の生活が豊かになっており、それゆえ甲斐では武士から領民まで外征を歓迎していた。」(同上書 p.185-186)

雑兵たちの戦場

東日本の例を挙げたが、西日本も同様であった。藤木久志氏はこう解説している。

「(島津家家老の上井覚兼は)…天正10年(1582)末、肥前で有馬氏を助けて、龍造寺の千々岩城を攻め落としたときの戦果報告を、『敵二、三百討ち捕る』『執る人などは数を知らず』『分捕りあまた』と書き留めていた。
 その時の島津軍の動きを(イエズス会宣教師の)フロイスも同じように記していた。『彼らは大勢の敵兵を殺し、捕虜にし、その地を蹂躙し掠奪した。だが山頂にいた指揮官と若干の兵士たちは(早く)戦利品をもって帰りたいと野望するのあまり、(敵を)思う存分に撃破するに必要な一両日を待ちきれず、最良(の獲物である城)を放棄したまま…目標を達することもなしに、引き揚げてしまった。』と」(『雑兵たちの戦場』p.16)

このように雑兵たちの中には、戦いに勝つことよりも戦利品を持ち帰ることの方を重要視していた者が多かったようなのだが、戦利品は食糧や財物ばかりではなく、人間も対象にされたことを書かねばならない。九州では大量の日本人が奴隷として海外に売却されたことがフロイスの記録に残されている。このことは今までこのブログで何度も書いてきたので繰り返さない。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

今回の記事の冒頭で、応仁の乱の頃に興福寺の尋尊(じんそん)が、雑兵には兵粮が与えられない代わりに戦場の市街での乱取りが大目にみられていたことを記していることを紹介したが、それから100年以上たっても同様であったことをルイス・フロイスが別の著書で書いている。

ヨーロッパ文化と日本文化

岩波文庫の『ヨーロッパ文化と日本文化』という本の第7章で、フロイスはヨーロッパ(ポルトガル)の戦争と日本の戦争の違いをこう記している。

「38 われわれの王や体調は兵卒に報酬を支払う。日本では戦争の続いている間、食べたり、飲んだり、着たりすることは各人が費用を賄わねばならない。
 39 われわれの間では土地や都市や村およびその富を奪うために戦う。日本では戦争はほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために行われる
40 われわれの間では、馬、単峰駱駝(ドロメダリオ)、駱駝等が兵士らの衣類を運ぶ。日本では各人の百姓fiaquxosが彼の衣料や食糧を背中につけて運ぶ。」(『ヨーロッパ文化と日本文化』p.115-116)

戦国時代の戦争は、決して戦国大名や家臣たちのものではなく、その根底には村人たちの戦争参加があった。軍全体でみると、中核となる騎馬兵は全体の1割程度で、残りの9割は村の出身者が戦争の時に集められた「雑兵」であったのだが、彼らには兵粮がなく、懸命に戦っても恩賞があるわけでもなかった。それゆえに、ある程度の掠奪や暴行を許容しなければ、彼らを軍隊につなぎとめて作戦に利用することができなかったのである。

真如堂縁起絵巻
【『真如堂縁起絵巻』】

「雑兵」といっても、刀などの武器は当然保有していた。その気になれば、武器で脅迫して民間人から食糧や財物を巻き上げることは容易であったはずだ。
戦国大名は、敵地に侵攻する際に「雑兵」たちに敵地の作物を刈り取らせ、容赦のない掠奪を行なわせたのだが、これは敵地の経済力にダメージを与える狙いがあったにせよ、ただでさえ太陽活動が低下していた時期にそうした行為が各地で繰り返されることによって被害地域は食糧不足となり、いずれ飢饉に陥ることとなる。

隣国同士がこんな戦いを続けていたのでは、お互いが消耗するばかりだろう。かといって、お互いが争わないことを約したとしても、軍備を怠っていると別の敵に狙われて食糧不足に陥りかねない。
昔も今も同様だが、侵略意思のある国が存在するかぎりは、どの国も自国を守る備えが不可欠で、特に絶対的に食糧が不足しているような状況下で他国の食糧を奪いあうような争い事が始まれば、そう簡単には終わらなくなる。

戦国時代がいつからいつまで続いたかについては諸説があるが、応仁の乱が始まった応仁元年(1467)から始まり豊臣秀吉が天下を統一した天正十八年(1590)まで123年続いたというのが多数説のようだ。室町幕府の中央政権としての機能が失われた明応二年(1493)の明応の政変以降という説を選ぶにしても100年近く続いたことになるのだが、なぜ戦国時代がこんなに長く争いが続いたのか、教科書などを読んでもよくわからなかった。

大坂夏の陣図屏風
【大坂夏の陣図屏風】

藤木久志氏は『雑兵たちの戦場』のプロローグで、雑兵たちが戦場に向かった背景についてこう解説している。
「戦場で濫妨狼藉の主役を演じていた雑兵たち。彼らはいったいどこからきたのか。
 凶作と飢饉のあいついだ戦国の世、懸命に耕しても食えない人々は傭兵になって戦場へ行った。戦場に行って、わずかな食物や家財や男女を奪い、そのささやかな稼ぎで、なんとか冬を生き抜こう。そんな雑兵たちにとって、飢えに見舞われる冬から夏への端境期の戦場は、たった一つのせつない稼ぎ場であった。そこには、村にいても食えない二、三男坊も、ゴロツキも悪党も、山賊海賊や商人たちも殺到して、活躍した。戦場に繰りひろげられた濫妨狼藉、つまり、掠奪・暴行というのは、『食うための戦争』でもあったようだ。」(『雑兵たちの戦場』p.7)
村の人々にとっては『食うために』は、戦争に行く選択しかなかったことを理解すれば、戦国時代が長く続いたことがなんとなく理解できる。

しかしながら、隣国同士が相手の食糧を奪い、田畑を破壊するような争いを繰り返していたのでは、人々が平和に暮らせる時代が訪れることがないことは誰でもわかる。
まして当時のイエズス会は、切支丹大名を育ててわが国の分断をはかり、最終的にわが国を植民地化する戦略を練っていた。もし、このままわが国の内乱が続いてわが国がバラバラのままで疲弊していったとしたら、わが国の一部が西洋の植民地にされていた可能性は決して小さくなかったと思われるのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

そうさせないために誰かが西洋勢力の魂胆を見抜き、武力で全国を統一して国同士の争いごとをやめさせることが必要だったのだが、そういう視点からこの時代を描いた書物は戦前には存在したものの、戦後はほとんど姿を消してしまっている。
戦後になって、戦勝国である西洋諸国にとって都合の悪い史実が封印されてしまい、長い間わが国の教育界やマスコミなどでタブー視されてきたのだが、いつになったらこの時代の歴史が全面的に書き直されることになるのだろうか。
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【ご参考】当時の記録はかなり残されていますが、なぜ専門家やマスコミは重要な史実を広く伝えようとしないのかと、不思議に思うことが良くあります。興味のある人は覗いてみてください。

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
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日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
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秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3
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わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
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農民たちが帯刀していた時代と秀吉の刀狩令

前回の記事で、凶作と飢饉が相次いだ戦国時代に、農民たちは「足軽」として雇われて戦場に行き、戦場では掠奪暴行を働いてそれを稼ぎとしていたことを書いた。

真如堂縁起絵巻

このブログで何度か紹介した『真如堂縁起絵巻』には戦場で稼ぐ足軽たちが描かれているが、この絵巻のほかにも、彼らが武器を用いて寺社だけでなく村の人々を脅して食糧や家財などを奪い取っていたことが数多く記録されている。当然の事ながら、何度かこのような被害を受けた側は、武器を持って自衛することを考えざるを得なくなるだろう。16世紀には農民といえども普通に帯刀していたことは、当時の記録などで確認できる。

刀狩り

藤木久志氏の『刀狩り』に、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスの『日本史』の一節が紹介されている。

「日本では、今日までの習慣として、農民を初めとしてすべての者が、ある年齢に達すると、大刀(エスパーダ)と小刀(アガダ)を帯びることになっており、彼らはこれを刀と脇差と呼んでいる。彼らは、不断の果てしない戦争と反乱の中に生きる者のように、種々の武器を所有することを、すこぶる重んじている。」(藤木久志『刀狩り』(岩波新書)p.8)
フロイスによると、男たちは耕作にはあまり熱心ではなかったが、年少の頃から大小の刀を帯び、眠る時だけ枕元に置いたという。

またWikipediaにはこう解説されている。
16世紀には、近畿や関東で庶民にも15歳の成人祝いを『刀指』と呼んで脇差を帯びる事が習俗となっていた。戦国時代の村では『おとな百姓』の家は村の3分の1に上る場合もあるが、名字もあり帯刀する別の階級で農業は他の『小百姓』に任せて、たえず戦争に参加し落ち武者狩りも行っていた。関東でも後北条氏の動員令でも、弓、槍、鉄砲は自弁で、村の武装は参戦可能で当然としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

上記の解説にある後北条氏の動員令の事例が、藤木久志氏の『刀狩り』にもう少し詳しく書かれている。
「村人をにわかに民兵として動員しようとした時、関東の戦国大名北条氏は『民兵として出陣するのは、侍(上層の村人)でも凡下(一般の村人)でもいい。自分で用意する武器は、弓・鑓(やり)・鉄砲の三種のうちなら、どれでもいい』とか『百姓はもとより、町人・商人・職人までも、弓・鑓・鉄砲・小旗などを支度して参陣してほしい』などと呼びかけていた。民兵には弓・鑓・鉄砲のうち、どれかの自弁をとくに重視していた。戦国関東の村には、弓も鑓も鉄砲も自弁できるだけの用意がある、とみられていたことになる
 国の危機が迫ると、北条氏は、村に住む十五歳から七十歳までの成人男子を、根こそぎで徴兵検査に出頭させようとした。そのとき、大名は、『弓・鑓を持てないような男は、鍬・鎌でもいい』とか、『弓・鑓を持たないものは、鎌を持って』とか『道具を持たぬ者は、棒をもって』といい、さらには『得道具(武器)のない者は手ぶらでもいい』とまでいって、徴兵検査には成人の男子がこぞって出頭するよう、けんめいに呼びかけていた。村や町の人々が持つ武器は、弓・鑓・鉄砲から、鍬・鎌・棒まで、おそらく階層によって、じつに多様であった。それだけ多彩な、しかも、戦闘にも使えるほどの武器が、村や町には日常的に蓄えられていた
 一方で目を引くのは、これら村にあてた大名の徴兵検査令はどれも、村人の装備に強い関心を示しながら、村人に刀や脇差で武装せよとは、まったく要求していない、という事実である。それらを身につけるのは当然とみて、ただ『腰さしの類のひらひら、武者めくように』と、その見てくれだけを気にしていた。武者の刀と百姓の刀は見かけが違うから、なんとか武者風に、というのであろう。」(同上書 p.28~29)

このように戦国時代の農民たちは帯刀しているのが普通で、中には高価な鑓や鉄砲などを持っていた者もいたのだが、おそらくこれらの武器は、落ち武者狩りや、そのあとで開かれる日市などで安く手に入れたものが大半ではなかったか。

椎葉村

国立国会図書館デジタルコレクションに昭和6年に出版された柳田国男の『日本農民史』が公開されている。日向の山奥にある椎葉村*(しいばそん)の戦国時代の様子が描かれているので紹介したい。文中の「サムライ」は名字もあり刀を指す、おとな百姓を意味している。椎葉村には、おとな百姓たちの家は3分の1ほどあったという。
*椎葉村:宮崎県内陸部の九州山地、耳川上流部の源流域に位置する村。日本三大秘境の一つ。

日本農民史

戦国時代に入って戦争が忙しく、サムライは傍ら農業を営む余裕が無く、また分捕り高名の方が楽で面白くて利益が多かったので、耕作は老幼婦女と下人の最も貧弱なる者に一任し、自分等は武器を執って、常に近傍の攻め取っても差し支えない者の領分を侵略することばかり心掛けた。彼らの上に戴く総領主の実力が、一々彼らを統制することが出来なくなると、この種無名の小さな戦争が愈々(いよいよ)多くなった。今日伝わっている多くの合戦記、関東地方で言えば関東古戦録の類、または…続群書類従の合戦部にあるような地方史に、野武士という無茶者の出て来るのは、即ち農を怠り武道に専らになった地士(じざむらい)のことで、彼らは概して名分に疎く、通例は大戦の後などに、負けて落ち行く者を苦しめて、首を取ったりした。言わば追いはぎを兼業したようなものであった。…此の如き連中までも勘定に入れると、足利時代の末頃には、実は非常なる武士の数であった。それが何れも居村に還ればトノサマと呼ばれ、それ程ではなくとも一領の主であった。但し、彼らの生活は至って質素なものであった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181083/44

ここには、教科書や通史をいくら読んでも見えてこない戦国時代の本質が、わかりやすく描かれている。この時代については時代小説や映画などのイメージが強烈で、どうしても戦国大名同士の争いにばかり着目してしまうところなのだが、大名が一切関与していない世界で近傍の村同士が分捕り合戦を繰り返すような小さな争いごとが、あちこちで発生していた時代であったようなのだ。
また、この時代に各地で起った百姓一揆や一向一揆には、彼らの持つ大量の武器を用いて暴動を起こしていたことを知らないと、本質を見誤ってしまうことになる。

相手の物を奪い取る意思を持つ人間同士が武器を持って争う戦いや、武力を背景に自らの要求を押し通そうとする動きに対して為政者側が抜本的対策をとらないでいると、より武力を強化しながらエスカレートしていくことになる。
このような勢力を抑え込むためには、より強力な武力を背景にして、相手の武器を没収するなどして無力化させることがどこかで必要となるはずだが、戦国時代は大名同士が戦っていてそれぞれが大量の足軽を必要としていたので、自国の一国だけで実施しても自国の軍事力を弱めてしまうことになるだけだ。誰かが全国一斉に武士以外の武器の利用を統制することが必要だったのだが、それを成し遂げるためには全国統一の目途がたてることがまず必要で、それを成し遂げたのが豊臣秀吉であることは言うまでもない。

刀狩令

秀吉の刀狩令は天正十六年(1588)七月に出され、北は北陸の加賀前田家から南は九州の薩摩島津家まで、当時の秀吉の勢力圏ほぼ全域に令書の原本や写しなど約20点ほどが今に伝えられているという。

Wikipediaに、その内容が紹介されているが、教科書などで紹介されているのはこの部分である。
「第1条 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する
第2条 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
第3条 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E7%8B%A9

この刀狩令は大名や領主に対して出されたものであるが、原文には第1条のあとに、なぜ百姓の武装を禁止するのか、大名らにその必要な理由を説得している部分がある。藤木久志氏の前掲書に現代語訳で紹介されている。
諸国の百姓たちがよけいな武具をたくわえて、年貢を納めるのを渋ったり、一揆を企てたり、領主たちに向かって不法をたくらむ。そんな百姓はもちろん秀吉が成敗(処刑)する。それにしても、百姓たちが武具をもてば、つい田畠を作るのを怠けるようになって、それだけ領主の取り分(知行)が減ることになる。それでは困るだろう。だから、そうならないよう、大名(国主)や領主(給人)や秀吉領の役人(代官)は、それぞれ責任をもって、百姓たちから武具をすべて没収して、秀吉のもとへ進上せよ。」(同上書 p.40)

この刀狩令は、大名・領主にとってはともかくとして、農民にとっては自衛のための武装権が奪われて、村の防衛については大名や領主を信頼して委ねることを意味し、武器を使って何度も掠奪行為などを繰り返してきた者に対しては、稼ぎの手段を奪われることでもある。天正10年(1582)や天正12年(1584)には各地で飢饉が発生した記録があり、武器を奪われることに関して農民側の抵抗はかなりあったはずなのだが、実態はどうであったのか。

徳富蘇峰

徳富蘇峰は『近世日本国民史』で、秀吉の刀狩令を以下のように高く評価している。
「…天下の百姓は、何時でも土匪(どひ)となり、強賊(ごうぞく)となる便宜を持っていた。この弊風が一掃せられたのは、もとより鉄砲の流行が、その重(おも)なる原因の一であったに相違ない。されど秀吉の刀狩りも、またあずかりて力ありだ。
 刀狩は単に百姓、町人より武器を取り上ぐるのみでなく、彼らをして、野武士の気分を蝉蛻*(せんぜい)せしめ、純乎(じゅんこ)**たる農夫の気分たらしめた。すなわちこれがために、城下に集まり、食禄を得て、ひたすら戦争の業に従う武士と、地方に散在して、農業に従う百姓と、截然(せつぜん)区別せられてきた。すなわち秀吉の所謂(いわゆ)る『諸奉公人は、面々恩給をもってその役を勤むべし。百姓は田畠開作を専らにつかまつるべき事』との、両者の分業を画定(かくてい)した、法規となった。徳川幕府は、要するに秀吉のこの遺制を拡充し、徹底せしめたにほかならぬ。

およそ秀吉の平和促進運動中、未だかくの如き痛快に、かくの如き有効なるものはなかった。惟(おも)うに秀吉は、信長に負うた債務を、利息を付けて、家康に弁済した。秀吉が信長に負う所あるが如く、家康の秀吉に負う所は、尚より多大であった。徳川幕府は、一から十迄、ほとんど秀吉の踏襲者たるに過ぎなかった。」
*蝉蛻:外形のみで中身のないこと。迷いから覚め悟りの境地に達すること。
**純乎:全く混じりけのないさま

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960831/32

ルイスフロイス像

ルイス・フロイスの記録によると、秀吉はキリシタンの叛乱を警戒して九州地区では厳しく武器を没収していたと記されているようだ。
藤木久志氏の『刀狩り』に、フロイスの『日本史』の記述が紹介されている。
「①暴君関白(秀吉)は、かねてよりこうした(叛乱の)恐れを抱いていたので、彼は長崎の住民からだけではなく、下(シモ:九州)の全地方の兵士以外の全員から、武器を接収するように命じた。そのために、おびただしい数の役人を投入して、その実行に当たらせ、皆の者が一つも隠すことなく、あるだけの武器を差し出すように、また、それを拒む者は、磔(はりつけ)にし処刑する旨、大々的に触れ歩かせた。この命令は、非常な厳しさをもって遂行され、当時(人々を)襲った最大の不安の一つ(と見なされる)ほどであった。こうして無数の武器が徴収された
関白のこれらの役人が徴集した刀・脇指・槍・鉄砲・弓・矢は、長崎の村で発見されただけでも、刀剣が四千振り、槍が五百本、弓が五百張以上、矢は無数、鉄砲三百挺、および鎧百領以上(に達し)、有馬領からは、一万六千以上の刀剣と、その他無数の武器が(徴集された)。
③こうして下地方のキリシタンたちは、彼らがもっとも重んじていたもの、すなわち武器を失うことになった。彼らはこのことを無上に悲しんだが、結局どうにもならなかった。」(同上書 p.100-101)

藤木久志氏の著書に各地の事例が紹介されているが、地域によって没収された武器はさまざまで、薩摩の島津領では刀・脇指三万腰が秀吉に納められたという。キリシタンの多い大村領や有馬領だけ特別に厳しかったかどうかについてはよく判らないが、多くの地域では農民の保有するすべての武器を調べ上げて、根こそぎ没収するというものではなかったようである。
藤木氏によると「ごく機械的に形だけ行われたかに見えた、一人あたり大小一腰を出せという方式は、実は中世百姓の帯刀権を原則として剥奪する(帯刀を原則として武士だけにかぎる)という、象徴的な行為であったことになる。刀狩りを画期として、百姓の帯刀を原則として免許制にする。このたてまえを創り出すことに、刀狩令の真の狙いがあった」(同上書p.86)とあり、実際には農村にはかなりの武器が残されたという。

では、刀狩令後も足軽・雑兵たちによる掠奪は続いたかどうか気になるところだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の前に戦場となった伏見城周辺の村に、城攻め用の竹木を調達するのだといって、戦場で掠奪をこととする「濫妨人(らんぼうにん)」という雑兵たちが、集団で押しかけて来たことが醍醐寺の日記に記されているのだという。藤木氏はこう記している。
「『濫妨(雑兵たち)に、地下人(じげにん:村人)が武具をもって(集団で)出合い、これを防ぐ』とか『南里の竹伐りを、郷民が発起(一揆)して取り返す』というのがその一例である。また『濫妨人百四、五十人が、伏見の城攻め用だから、竹を伐らせろといって押しかけてきたが、村の侍たちが出動して、寺の門を閉めて戦い、早鐘を撞くと郷民が武器をとって蜂起した。これに恐れをなした賊徒どもが、助けてほしいと懇望したので、危害を加えず見逃してやった』という。」(同上書 p.107)

刀狩令によれ雑兵たちによる略奪が減って農民たちは豊かになり、武器を持って賊徒を自力で追い払うだけの実力と武器が蓄えていたのである。藤木氏によると、秀吉の刀狩令を単純に百姓の武装解除令とみる通説は、根底からの見直しが求められているという。戦国時代の歴史が抜本的に書き替えられる日は来るのだろうか。
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源頼朝が挙兵後約2ヶ月で南関東を制圧し、その後争いが鎮静化した理由を考える
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大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか
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源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか
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飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
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室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
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戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由
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刀狩令の後も村に大量の武器が残されていながら、村を平和に導いた秀吉の智慧

前回の記事で、天正十六年(1588)七月に出された秀吉の刀狩令によってすべての農民の武器を没収されたわけではなく、現実には大量の武器が村に残されていたことを書いた。
藤木久志氏によると、「百姓の帯刀権や村の武装権の規制として」刀狩りが行なわれたが、「村の武力行使を制御するという秀吉の意図は、刀狩令とはまったく別のプログラムに委ねられた。村の武器を制御するプログラムは、村の喧嘩停止令(けんかちょうじれい)が担うことになった。」とある。(岩波新書『刀狩り』p.119)

豊臣秀吉
豊臣秀吉

では『喧嘩停止令』とはどんな法令なのだろうか。
秀吉が制定した『喧嘩停止令』は制定法の形では見つかっておらず、いつ成立したかなど詳細についてはわかっていないのだが、農民の武力行使を制御することを目的とする法令が存在していたことは、当時の記録から確実であるという。注目すべきは、刀狩令が出る以前から、この法令の判例が存在している点である

藤木氏の著書に『喧嘩停止令』の3つの判例が紹介されている、それぞれの事例をまとめると
① 天正二十(1592) の夏は炎天が続き、摂津の鳴尾村と瓦林村(兵庫県西宮市)が用水(北郷井水)をめぐって激しく争い、近隣の村を巻き込んで、互いに弓・鑓を揃えて大がかりな合戦となり、数多くの死傷者を出した。その紛争は秀吉の知るところとなり、『天下ことごとく喧嘩御停止』の法に背いたとして、鳴尾村の13人、瓦林村の26人が処刑された
② 河内(大阪府)の観心寺が、寺領の柴山の利用をめぐって、近隣の7つの村々と争っていたのだが、あるとき、ある村の百姓たちが、山で薪を刈る寺衆にたいして「日々に追い立て、打擲・刃傷に及ぶ」という激しい攻撃を加え相手を傷つけたことが、天正十五年(1587)春に秀吉の奉行によって『当御代喧嘩停止』の『御法度に背いた』とみなされ、村々は山の立ち入りを禁止とされた。
③ 日照りが続いた天正十七年(1589)の夏に、近江(滋賀県)の中野村と青名・八日市の村人たちが武装して用水を奪い合う争いとなった。秀次の奉行によって、その「刃傷」が問題となり、『喧嘩御停止の旨にまかせて』、3つの村の惣代各1名(計3人)の処刑が執行された。

藤木氏はこう解説している。
秀吉の喧嘩停止の法は、村々による山野河海の紛争の場で、武器を用いて集団で争い『刃傷』する、『村の戦争』を禁止する法であった。もともと中世の村々では、生活に関わる紛争は、村の自力で武器を持ち出して決着をつけてきた。その日常の紛争処理の作法が『刃傷』(武器による死傷)の回避を理由として、制御されようとしていた。刀を持って争えば百姓の身命があぶない。秀吉の刀狩りはこの説得とともに行われていた。…
 村々には大量の武器があり戦争も起きる。その現実を直視しながら、村の四季の生活にはいつも日常であった、山野や用水の争いの現場で、百姓たちが集団でその武器を使い、人を死傷することを抑止しよう。村にある武器を封じ込め、その使用を凍結しよう。そこに、この武器制御のプログラムの狙いがあった。それは『村の戦争』を『村の平和』に転換させるプログラムでもあった。いまこれを、あらためて秀吉の喧嘩停止令と呼ぼう。
 つまり、刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法ではなかった。だからこそ喧嘩停止令は。村に武器があるのを前提として、その剥奪ではなく、それを制御するプログラムとして作動していた。百姓の手元には武器はあるが、それを紛争の処理としては使わない。武器で人を殺傷しない。そのことを人々に呼びかける法であった。」(同上書 p.124-125)

徳川秀忠
【徳川秀忠】

では、秀吉が制定した『喧嘩停止令』はどのように書かれていたのだろうか。
先述したとおり秀吉が定めた法令は見つかっていないが、徳川幕府第2代将軍徳川秀忠が慶長十五年(1610)に制定した『覚』四カ条の第二条がWikipediaに現代文訳とともに紹介されている。

「郷中にて、百姓等、山問答・水問答につき、弓・鑓・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷を成敗いたすべき事。(山野や用水などでの争いが弓や槍、鉄砲などの武器を用いた闘争に発展した場合はその村ぐるみで処刑される)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%A7%E5%98%A9%E5%81%9C%E6%AD%A2%E4%BB%A4
この条文は、発生した判例から判断して、秀吉の『喧嘩停止令』を成文法として継承したものと考えられている。

徳川家光
【徳川家光】

また第三代将軍の家光は、寛永十二年(1635)の10月に『覚』三カ条の第三条で秀忠の条文を修正している。これもWikipediaに出ている。

「井水・野山領境などの相論つかまつり候時、百姓、刀・脇指をさし、弓・鑓をもち、まかり出るにおいては、曲事たるべき事(山野や用水などでの争い時において刀や脇差、弓や槍を用いて武力行使に及ぶ行為は違法である
付けたり、何ごとによらず、百姓、口論をいたし候時、他郷より荷担せしめば、本人よりその科(とが)を重くすべき事(いかなる場合もよその村々がこの争論に加担した場合、加担した村のほうを重罪とする)」

秀忠の条文と較べると、刀・脇差が追加され鉄砲が外されたほか、よその村が紛争に加担した場合はより罪が重くなることが付け加えられている。

このような法令が出来ていて違反者が厳しく処罰されることがわかっていると、いくら農民たちが武器を保有していても、紛争を解決する手段として武器を使うことを自主的に回避するようになるであろう

藤木氏はいくつかの事例を挙げておられるが、たとえば徳川秀忠の『覚』が出る前の慶長十一年(1606)の近江(滋賀県)の例を紹介しよう。

この年の初春に三上村(滋賀県野洲市)の下人が山仕事の帰り道で、近くの北佐久良村の者に、刈り取った柴と山道具を奪われてしまう。三上村の男たちは報復することを主張したが、村の長老たちは「復讐すれば互いに『あたまを打ちわられ』大怪我をすることになり『喧嘩御停止のみぎり』があるので、困ったことになる」ことを説明して、おとなしく裁判に訴える途を選ぶことにしたという。

次に徳川時代の事例をひとつ紹介したい。これを読めば、村には相当武器が残っていたことがわかる。しばらく藤木氏の著書を引用する。

「それは1641年(寛永十八)冬にはじまり、越後の魚沼地方四ヵ村と陸奥の会津地方七ヵ村の百姓たちの間で、六ヵ年にわたって争われた、銀山の帰属をめぐる、国境の争いである。
 その翌1642年に会津川の村々はこう主張していた。国境を越後側の村々に占拠された。そのため、これを自力で排除しようとしたが、それでは『天下の御法度』に触れるので、自粛して引き揚げた、と。1642年の段階で、『村の戦争』を自粛させた『天下の御法度』といえば、その7年前に発令されていた、家光の喧嘩停止令のほかにはありえない。
 しかしこの主張に反論して、越後側の村々はこう訴えていた。会津方が『千四、五百人引き連れ、鉄砲百四、五十挺、弓五、六十張、鳥毛ついの鑓百本ほど、長刀八振、段々に備えを立て、まかり出』たが、越後方は『御公儀おそろしく…ひっそく(自粛)』していた、と。」(同上書 p.130-131)

藤木氏の著書にはこの事件の結末については記されていないが、いずれにせよ豊臣秀吉が『喧嘩停止令』を出して以降、わが国では村同士が紛争を武力で解決することを次第に自粛するようになっていったことが読み取れる。

島原の乱
【島原の乱】

この事件が起こる4年前の寛永14年(1637)に有名な島原の乱が起っている。

島原の乱については以前このブログで4回に分けて書いたが、この乱では一揆勢37千人が大量の鉄砲と弾薬をもって原城に立て籠もり、山田右衛門作覚書によると「城内に鉄砲の数五百三十挺」あったという。『刀狩令』のあとでもこんなに大量の武器が残されていたのは意外であったので、一般的な教科書に秀吉の刀狩についてどう記されているかを確認してみた。

たとえば『もういちど読む山川の日本史』では、「刀狩とは農民から武器をとりあげることである。秀吉は、農民が刀や弓などの武器をもつと、一揆を起こす原因にもなるとと考え、1588年(天正16)年刀狩令を出して、すべての武器を没収した。これによって兵農分離がすすみ、さらに1591(天正19)年には身分統制令をだし、武士・農民・町人などの身分や職業を固定する方策を進めた」(p.144)と書いてある。
少し調べればこの通説に矛盾する記録をいくつでも容易に見つかるのでこの説が誤っていることは明らかである。秀吉の「刀狩令」に関しては、いずれ書き替えられることにならざるをえないだろう。

少し考えればわかる事だが、そもそも「すべての武器を没収する」ことは実施困難だ。隠そうと思えばいくらでも隠せるものを集めることには所詮限界があり、武器を没収するという施策だけでは武器を用いる紛争を終わらせることはできないと言って良いだろう。
為政者が村同士の争いごとに武器使用を停止させるためには、武器を没収することよりも、紛争を解決する手段として武器を用いた者を厳しく処分することのほうが有効であり、農民出身の秀吉がそのことに気付いて、いちはやく『喧嘩停止令』を出した意義は大きいと思う。

村々はこの法令と『刀狩令』によって次第に平和を取り戻していくのだが、その結果としてわが国ではそれ以降の武器の進化が停滞していくこととなる。また、百姓に対して武器を用いて食糧などを掠奪する行為を禁じたのであるから武士は襟を正さざるを得なくなり、掠奪のためなどに武器を用いるような行為をなすことは許されないこととなり、明治以降も兵士達は高い規律を求められることとなる。

しかしながら、西洋列強諸国ではその後も戦争が続き、武器の性能をより進化させつつ、自国の軍事力を拡大させる方向に進んでいったのである。
江戸時代の後半には、西洋列強諸国の軍事力はわが国を凌ぐレベルになっていたが、兵士達の規律という点に焦点をあてると、西洋諸国の軍隊は、わが国よりもかなり野蛮であったと言わざるを得ない。

アーネスト・サトウ22-23歳

例えば文久3年(1863)の薩英戦争では、英戦艦アーガス号に乗船していた英公使官通訳のアーネスト・サトウはこう記している。
提督は直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよとの信号をわが艦(アーガス号)と、レースホース号およびコケット号に向けて発した。この信号を受けるや、私たちはみな拿捕船内に突進して、掠奪を開始した。私は日本の火縄銃と円錐形の軍帽(陣笠)をせしめたが、士官連中の中には一分銀や渡金二分金などの貨幣を見つけた者も数名いた。水兵たちは鏡、酒瓶、古筵の切れ端など、持てるものは何でも掠めた。およそ1時間もこうした乱暴が行なわれた後、汽船に穴をあけて火を放ち、それから命令を受けるために戦線へ馳せつけた。」(岩波文庫『一外交官の見た明治維新(上)』p.107-108)

北清事変連合軍兵士
【北清事変連合軍兵士】

また、明治33年(1900)の北清事変では、北京にある11か国の公使官が存在する区域が暴徒に取り囲まれて、各国の4000名もの人々が孤立無援の状況に陥り、わが国はイギリスの再三にわたる要請を受けて第五師団を派兵し、連合国軍に加わって北京籠城組の救出成功に導いたのだが、そののち連合国軍の掠奪行為がはじまる。
「国立国会図書館デジタルコレクション」に公開されている菊池寛の『大衆明治史・下巻』にはこう記されている。なお文章に出てくる「下島氏」というのは、混成旅団の衛生部員として従軍していた下島空谷という名の医者で、芥川龍之介と交流のあった人物である。

「その北京へ入城した各国の兵隊は、そこで何をしたであろうか。まず掠奪であった
『西洋の兵隊の分捕というものは、話にもならぬ位ひどかったもので、戦争は日本兵にやらせ、自分達は分捕専門にかかった、といっても言い過ぎではなかったほどでした』
と下島氏は語っているが、中でもひどいのはフランスの兵隊で、分捕隊といった組織立った隊をつくり、現役の少佐がこれを指揮して、宮殿や豪家から宝物を掠奪しては、支那の戎克*を雇って白河を下らせ、そっくり太沾に碇泊しているフランスの軍艦に運ばせたというが、その品数だけでも莫大な量だったという。
 英国兵も北京や通州で大掠奪をやり、皇城内ではロシア兵はその本領を発揮して、財物を盛んに運び出している。

 若き日の下村海南氏も、事変後すぐに北京の町に入ったが、『気のきいたものは、何一つ残っていなかった。持って行けないような大きな骨董類は、みんな壊してあった。』と言っているから、どんな掠奪を行なったか分かると思う。
 ドイツ兵は天文台から有名な地球儀を剥ぎとって行き、これが後にベルリンの博物館に並べられて、大分問題を起こしている。
 有名な萬寿山など、日本兵は北京占領後、手回しよく駆けつけて保護しようとしたが、この時にはもう素早いフランス兵が入っていて、黄金製の釣鐘など姿を消しているのである。後に日本軍が撤退すると、今度はロシア兵が入ってその宝物を掠奪し、英軍は更にその後に入って、大規模に荷造りをして本国に送るという始末である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/35
*戎克(ジャンク):木造帆船

この時の各国の兵隊がやったことは掠奪ばかりではなかった。
菊池寛の文章を続けよう。
「また下島氏の談によれば、通州におけるフランス兵の暴行は言語に絶するものがあったという。通州入城後、フランスの警備区域で支那の婦人たちが籠城したという女劇場に行ってみると、そこには一面の女の屍体の山であったという。

戦後、戦跡視察に出かけた田口鼎軒博士は、この通州を訪れた時のことを、次のように書いている。
『通州の人民は皆連合軍に帰順したるに、豈はからんや、露仏の占領区に於いては、兵が掠奪暴行をはじめしかば、人民は驚きて日本軍に訴えたり。日本守備隊はこれを救いたり。故に人民はみな日本の占領区に集まりて、その安全を保ちたり。余は佐本守備隊長の案内を得て、その守備隊本部の近傍に避難せる数多の婦人老人を目撃したり。彼等はみな余を見て土袈裟したり。佐本守備隊長は日本に此の如き禮なしとて彼らを立たしめたり。彼らの多数の者は身分ありしものなりしが、その夫、もしくは兄弟の殺戮せられたるが為に、狭き家に雑居して難を避け居るものなり。
 余の聞くところを以てするに、通州に於いて上流の婦女の水瓶に投じて死したるもの、573人ありしと言えり。その水瓶とは支那人の毎戸に存するものなり。かの司馬温公が意志を投じて之を割り人名を救いたりという水瓶これなり。露仏の兵に辱めらると雖も、下等の婦女に至りては此の事なし。故に水甕に投じて死したる婦女は、皆中流以上の婦女にして、身のやるせなきが為に死したることを知るべし。…』」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/36

このような連合軍兵士たちの悪行については英国の新聞記者も多数記録しており、真実であることは確実なのだが、第二次大戦後のわが国では、戦勝国にとって不都合な真実はことごとく封印されてしまっており、国民がこのような史実に触れる機会がほとんどないのは残念なことである。
興味のある方は、国立国会図書館デジタルコレクションに『北清戦史. 下』が公開されているので、それを読まれることをお勧めしたい。
次のURLに英国デイリーエクスプレス紙の軍事通信員ジョージリンチ氏が各国の軍隊の悪行を伝えているのだが、ここでは「連合国軍中最も品行の良いのは日本軍である」と明確に書いていることは注目して良い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774475/113

太平洋戦争の終戦後においても、大陸から引揚げてきた多くの日本人が満州や朝鮮半島で随分酷い目に遭っているのだが、他国の軍隊はどこの国も似たり寄ったりで、日本軍の方がはるかに規律を保っていたことは少し調べればわかることだ。

こういう史実を知れば知るほど、『喧嘩停止令』を最初に定めた豊臣秀吉の偉大さを認識せざるを得なくなってくる。
掠奪行為を為すために、あるいは紛争を解決するために武器を使用する者を厳しく処罰することで武器使用の自粛を導いてきた長い歴史の過程で、わが国では武器を保有する者には他国よりも高い規律が求められるようになっていったと理解すればよいのだろうか。
何度も飢餓に襲われて、各地で争いごとが続いた16世紀にわが国を統一し、その権力を適切に用いて村々を平和に導いた秀吉のことを、もっと高く評価しても良いのではないかと思う。

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島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
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島原の乱の一揆勢が原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
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島原の乱の「一揆勢」は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
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島原の乱を江戸幕府はどうやって終息させたのか
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義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
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北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
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義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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