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日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国

日露戦争でロシアに勝利した5年後の明治43年(1910)にわが国は韓国を併合したのだが、この経緯について一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』にはこのように記されている。

「日露戦争のおわりごろ、三民主義をとなえる孫文を指導者として、清朝打倒の革命をめざす中国同盟会が東京で発足したことに象徴されるように、それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。
 しかし日本は、列強の植民地政策をまねて、東アジアにおいて勢力拡大をはかった。日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約をむすんだ日本は、韓国を保護国として統監をおき、韓国の外交・内政・軍事の実権をつぎつぎと手中におさめていった。
 韓国では、韓国軍の解放に反対して義兵運動を展開するなどはげしく日本に抵抗したが、日本は軍隊を出動させて鎮圧した。1909(明治42)年には、前韓国総監伊藤博文がハルビンで韓国の民族運動家に暗殺される事件がおこった。日本政府は1910(明治43)年、ついに韓国併合をおこなって(韓国併合条約)、韓国を日本の領土とし、朝鮮総督府をおいて植民地支配をはじめた。この後、はたらき口をもとめて日本内地に移住する朝鮮人が多くなった。」(p.253)

わが国は西洋列強をまねて韓国を植民地支配したと書いてあるだけで、この教科書で韓国の事は1950年の朝鮮戦争まで何も書かれておらず、これではわが国の韓国統治がどのようなものであったかさっぱりわからない。
ただ、多くの朝鮮人が日本内地に移住したと書かれていて、多くの読者は、西洋列強が植民地を搾取したのと同様に、わが国も韓国を搾取したような印象をもつことだろう。

わが国の韓国統治について述べる前に、わが国が併合する前の「李氏朝鮮」という国がどのようであったかということから述べることにしよう。

1895年の首都ソウルの南大門
【1895年の首都ソウルの南大門】

次のURLに当時の李氏朝鮮の写真が紹介されているが、このいくつかを見ればこの国がいかに貧しく、日韓併合後に近代都市に生まれ変わったことを瞬時に理解できる。上の画像は1895年の首都ソウルの南大門である。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html

イギリスの旅行家・イザベラ・バードが1894年から1897年にかけて4度にわたり朝鮮を旅行し、首都ソウルについてこのように記している。
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民はおもに迷路のような横町の『地べた』で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。悪臭ぷんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。…」(『朝鮮紀行』講談社学術文庫p.59)

併合前の敦義門
【併合前の敦義門】
上の画像はソウルに存在した敦義門(とんぎもん)の画像だが、ソウルの中心部においても人々が「地べた」で生活していたことがわかる。

撤去前の敦義門
【撤去前の敦義門】

この門は老朽化と道路建設のために、日韓併合後の1915年に撤去されたのだが、たまたま撤去される前の敦義門の写真がWikipediaに出ている。短期間のうちに古い住居が撤去され、道路に鉄道が敷かれていることに驚かざるを得ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A6%E7%BE%A9%E9%96%80

併合前ソウル全景

このような都市改造は都心部の一部だけに行われたものではなさそうだ。ソウルの全景写真を見比べれば、ソウル全体が短期間の間に近代都市に生まれ変わったことが誰でも理解できる。

併合後のソウル全景
【併合後のソウル全景】

なぜ李氏朝鮮が貧しい国であったのかについて、加耶大学客員教授の崔基鎬氏はこう解説している。
「1392年の李朝開国は、高麗の重臣であった李成桂が、明との戦いで遼東地方奪回に出陣し、秘かに敵と通じて、威化島(鴨緑江下流の島)で軍を翻し(回軍)、逆にときの高麗王(禑王[ぐおう])と上官の崔瑩(さいえい:総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を簒奪した結果によるものである。
 敵国であった明の協力で打ち立てた国であるから、その後の李朝が明の隷属国家に転落したのは必然である。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収された。李朝は専制王権制度に体制を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたるまで連綿と持ち続けた国際的自尊心を放棄し明の属国として堕落が始まった
 このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。こうして李朝は、搾取と虐政の中にあり、国王は名ばかりでなんら政策も施さず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。」(『歴史再検証 日韓併合』p.19~20)

朝鮮銀行前
【朝鮮銀行】

貧しかった韓国の首都が近代化するために莫大な建設投資がなされたことは、当時の画像を見れば明らかなのであるが、ではこの国の近代化のための資金はどうやって捻出されたのか。

「わが国が韓国から搾取した」という説がまことしやかに教育機関やマスコミなどで広められているのだが、併合前と併合後の写真を見れば、「こんな貧しい国から搾取して、これだけの近代化が可能であるはずがない」と、誰でも疑問を感じるところであろう。

京城郵便局
【京城郵便局 「京城府勢一斑」(昭和13年 京城府庁)より】

しかしながらこのような写真がマスコミなどで紹介されることは皆無と言って良く、ほとんどの国民は、学校やマスコミなどが垂れ流す歴史叙述に洗脳されてしまっている。
韓国の近代化は、わが国の莫大な資金援助や民間投資がなければ不可能であったのだが、このような「韓国にとって都合の悪い真実」は、戦後の長きにわたりわが国ではタブーにされていると言ってよく、そのことは今も変わらない。

では、わが国の巨額の財政支援がいつの時期から始まったのかというと、1904年の第一次日韓協約による目賀田財政顧問の着任以降だという。

目賀田種太郎
【目賀田種太郎】

中川八洋氏の著書にはこう解説されている。
「朝鮮はもともと予算の編成能力すらなく、目賀田顧問の指導監督で初めてできた予算では、その歳入は1906年度で748万円しかなかった。これで韓国を近代国家として運営するに必要な3千万円以上の予算を組むには、日本から差額すべてを持っていくほかなかった。1907年度には合計2700万円を日本政府は朝鮮に支出した。1908年度はさらに増えて合計で3100万円という巨額な支出を日本は強いられた。
併合後の1911年度以降は『補充金』と呼ばれる日本政府からの持ち出し(=日本人の税金)は同年度の1235万円とそれ以前の平均2500万円の半分となったのは、残りの半分を日本で発行した公債や日本からの借入金で補えるようにしたからであり、日本から約2千万円前後を調達した状況は変わらなかった。それは、朝鮮人の税・印紙収入の倍に及んでいた。
つまり朝鮮は、…その財政の過半から3分の2を日本に支出・調達させた
。」(『歴史を偽造する韓国』p.15~16)

当時の1円の現在価値については諸説があるが、次のURLによると「明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらい」で、今の1円の2万倍程度の重みがあったようだ。とすると、現在価値にして毎年4千億円程度を支援し続けていたことになる。
http://manabow.com/zatsugaku/column06/

そればかりではない。わが国の領土となれば、国を護るために軍隊を駐留させることが必要となる。
大正3年に出版された山県明七氏の『財政十年』に明治39年から44年の軍事費が記されているが、当時のお金で毎年8~15百万円を別途支出していたことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951877/134

中川八洋氏はこう解説している。
日本持ちの駐留日本軍の費用はすべて無視するとして、…立替金、日本政府の直接支出、補充金、公債未償還だけでも21億円になる。日本で調達した公債の未償還額は、発行した公債(1910~1944年)21億6566万円から、償還分7億2595万円を差引いた額である。朝鮮は約3分の1しか償還していない。この未償還の約14億4千万円は、敗戦と同時にすべて、朝鮮側の『もらい得』となった。日本にとっては一方的な巨額損失である。」(同上書 p.16~17)

建設中の水豊ダム
【建設中の水豊ダム

一方で、わが国の企業による投資も朝鮮半島で積極的に行われた。たとえばダム建設には莫大な資金が注ぎ込まれている。
「朝鮮の電力が飛躍的に伸びたのは、その第1期ともいうべき、赴戦江(鴨緑江の支流)の4つの発電所のうち3つが本格稼働した1930年であった。この3つの発電所だけで、19万kWの出力であった。4つあわせて20万kWの工事・建設費は5500万円(1926~32年)で、むろん日本の私企業が負担した。第2期の飛躍年は、同じく鴨緑江の支流の一つ、長津江で4つの発電所のうち2つが本格稼働した1936年であった。2つあわせて26万kWもあった。4つの発電所全部(33万kW)の工事・建設費は6500万円であった
第3の飛躍期が、…水豊発電所(70万kW)と、4つの虚川江発電所(合計34万kW、7000万円)の建設であった。…
 朝鮮に遺した日本の私企業の水力発電所の遺産がいかに桁はずれかは、戦前日本のベスト4が、千住発電所の12万kW、信濃川発電所の16万5千kW、黒部川第三の8万1千kW、奥泉発電所の8万7千kW、であったことで一目瞭然である。…
 水豊ダムは、幅900m/高さ106m/容量323万㎥という巨大ダムであった。その人造湖の表面積は345㎢で琵琶湖の半分を超えた。…工事費は1940年12月末現在で2億3700万円であった。」(同上書 p.38~40)
少し補足すると、水豊発電所の発電規模は当時の世界最大級であり、1940年当時の日本国内の水力発電規模は280万kWであったのでその4分の1に当たる規模になる。

京城駅
【京城駅 「朝鮮写真画集 第一輯」(昭和4年 朝鮮写真画集社)】

ダムだけではない。鉄道も建設している。
「朝鮮の鉄道は、1899年9月18日に『仁川―鷺梁津』間(32km)に開通したのが始まりである。この鉄道は、朝鮮が『京城(ソウル)―仁川』間(73km)の鉄道敷設権を1896年に米国人モールスに与えたのを日本の『京仁鉄道合資会社』が買い取ったのである。そして1900年7月8日に、京仁鉄道は全線が開通した。日本で『新橋―横浜』間(31km)の鉄道が開通してから28年の後であった。
『京城(ソウル)―釜山』間の京釜鉄道については、日本が1901年に国策会社の『京釜鉄道株式会社』を設立して敷設することとなった。1905年1月1日には全線が開通した。…この京釜鉄道株式会社は、先述の京仁鉄道合資会社も、1903年に買収して、両線は同一の会社で運営されるようになった。そして日本政府は1906年にこの京釜鉄道株式会社と京仁鉄道合資会社のすべてを買収したのである。その額は建設費を厳格に計算して約3500万円となった。この買収のすべての財源はまた、日本本土の日本人の税金であった。この1906年の朝鮮一国の税・印紙収入は全部で784万円であった。朝鮮がどんなに逆立ちしてもこのような巨額の資金はどこにもなかった。」(同上書 p.24)
他にも日本陸軍が建設し1906年に開通した京城と新義州を結ぶ京義本船や1905年に開通した京城と馬山浦を結ぶ馬山浦線があり、両線の建設費は3138万円だったという。

京釜線工事

上の画像は『鹿島の軌跡』第10回に掲載された京釜線の建設工事の写真だが、山に木がないのが気になる。実は、日本統治以前は朝鮮半島の山はほとんどが「禿山」であったようだ。
http://www.kajima.co.jp/gallery/kiseki/kiseki10/index-j.html
わが国は、その植林事業にも多くの投資をしているのだが、植林をする前に、山の土砂が崩れないように砂防工事が必要となる。
総督府は、例えば、1933年から42年の10年間で。152千町に砂防工事を施して、木を5億本も植えた。この砂防工事費に、4274万円を投入している」(同上書 p.34)のだそうだ。
禿山が多かったのは、焼き畑農業も原因の一つだが、人々がオンドルで薪を燃やして暖を取ったことが最大の原因と言われている。日本が禿山にしたという説もあるようだが、李氏朝鮮時代から朝鮮半島の山々に木がなかったことは多くの西洋人が書いているようだ。
たとえば、1885年から86年にかけて朝鮮半島を旅行した複数のロシア人が記した『朝鮮旅行記』にはこう書かれている。
「谷間および山の周辺の植生は貧弱である。…極めて稀には灌木や草も目につく。この地方はほぼ全域にわたり地表が露出している。草さえも、燃料のため刈り取られるからである。」(『朝鮮旅行記』p.29)
「到るところ禿山と砂質土壌で、所により小川の畔に疏らな灌木の茂みも見かけるが、これとても朝鮮人は刈り倒している。」(同上書 p.58)

伊藤博文

また学校も建設した。金完燮(キム・ワンソプ)氏の『親日派のための弁明』には、こう解説されている。
「1906年、初代統監として朝鮮近代化の基礎を築いた伊藤博文は、教育事業に多大な関心を寄せていた。朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育が始まったが、伊藤が就任した1906年まで、11年たっても全国で40にもみたないというのが実情だった。
これを知った伊藤は着任早々、大韓帝国の官僚を集めた席で、「これまであなたがたはいったいなにをしていたのか」と叱責し、学校建設事業を最優先して改革をすすめた。その結果、1940年代には1000を超える各種学校ができていた
。」(『親日派のための弁明』p.104)

校洞尋常小学校
【校洞尋常小学校 「京城府勢一斑」より】

ソウルに京城帝国大学が設置されたのは1924年に設置されたことだが、わが国の旧制大学としては6番目*に設立された大学であることはもっと広く知られて良いと思う。
*東京帝国大学(1886)、京都帝国大学(1896)、東北帝国大学(1907)、九州帝国大学(1911)、北海道帝国大学(1918)についで建設された。

京城帝国大学
【京城帝国大学 「恩頼 朝鮮神宮御鎮座十周年記念」(昭和12年 朝鮮神宮奉賛会)より】

ほかには橋や港湾や道路などをと建設しているが、そのような話はいくらでもあるので割愛しておこう。

たとえば英国のインド統治では、インドから本国費(ホーム・チャージ)という名で、インド人から徴収した税金の25%程度をイギリスに貢納させ、英国は本国からの財政支出は一切行わなかったのだが、わが国は全く逆で、税収をはるかに上回る財政援助を韓国に与え続けたのである。

今回の記事の冒頭に『もういちど読む 山川の日本史』を引用したが、わが国の韓国統治が欧米の植民地支配をまねたものであるという記述は、どこかの国に忖度して書かれたものとしか思えないのだ。

しかしながら、せっかくわが国の政府や民間企業が朝鮮半島の近代化ために莫大な投資してきたものの、敗戦後はこれらの投資に対するわが国の請求権を放棄させられたうえに、巨額の資金支援を要求されることとなったのである。
その点については、次回に記す事と致したい。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-307.html

日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-328.html

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

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なぜ韓国はいつまでたっても「反日」をやめられないのか

前回の記事でわが国政府や民間企業が、朝鮮半島の近代化のために莫大な投資を行ってきたことを書いた。そして敗戦後、わが国はこれらの投資に対する一切の請求権を放棄させられた上に巨額の資金支援を要求されることになったのだが、普通に考えれば、戦勝国でもない韓国がわが国に対して賠償請求できるとは思えないし、また、わが国が朝鮮半島に残した資産の対価を一切請求できないということもおかしなことである。

わが国では、両国の交渉経緯についてはあまり知らされていない現状にあるのだが、その経緯に触れる前に、わが国と民間企業が朝鮮半島にどれくらい投資したのかをまとめておこう。

ソウル 東大門通り
【日本統治前のソウル 東大門通り】

次のURLに、GHQ資料などを基に産経新聞が試算した、昭和20年8月15日時点でわが国が朝鮮半島に残した資産の推定値が出ている。この記事ではこの記事では891.2億円で、平成13年時点での現在価値として16兆9300億円と試算している。

「■朝鮮半島に残した日本の資産■
(GHQ資料など/1ドル=15円)
昭和20年8月15日時点
 朝鮮半島全体              891.2億円
 北朝鮮                 462.2億円
 韓国                  429.0億円
―――――――
現在価格
 朝鮮半島全体  891.2×190=16兆9300億円
 北朝鮮       462.2×190= 8兆7800億円
 韓国        429.0×190= 8兆1500億円
―――――――
(注)「190」は国内外の企業間取引の価格を測るモノサシである総合卸売物価指数。昭和9年から11年までの平均を「1」とした場合、平成13年は「666」。これを昭和20年の「3.5」で割った数値(日銀調べ)

「その内、日本が韓国に残してきた資産は8兆1500億円。韓国政府が1949年3月に米国務省に提出した「対日賠償要求調書」によると、金や美術品など現物返還要求分を除いた要求総額は314億円(1ドル=15円)で、現在の価値に換算すると5兆9600億円。(北朝鮮地域の財産も一部含めた額)8兆1500億円-5兆9600億円=2兆1900億円。
請求権を行使してしまうと韓国側が2兆1900億円も支払い超過になってしまう。」
(産経新聞 平成14年9月13日)
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/6054774.html


ソウル 全景
【日本統治の頃のソウル全景】

朝鮮半島にわが国が残した資産の評価額が終戦当時で891.2億円という数字も、日韓併合の頃から終戦直前までの物価上昇と円安によりドルベースの円資産価値は相当目減りしてしまっている。もしこれらの資産価値を投資時期別に現在価値で試算しなおしたとすれば、16兆9300億円と言う数字が1桁大きくなってもおかしくないと思うのだが、ここでは議論しないことにしよう。
http://shouwashi.com/transition-consumerprice.html

http://shouwashi.com/transition-exchangerate.html

韓国は、わが国が半島に投資した資産の対価を要求してくることぐらいは初めからわかっていたはずなのだが、当時の韓国には、こんなに巨額の資金を支払う力はなく、調達することも困難な状況にあったことを知る必要がある。

立教大学の林采成氏の『1950年代韓国経済の復興と安定化』という論文に、当時の韓国の歳入の数字が出ているが、1950年は960百万ファン*(5.3百万ドル)に過ぎなかった。1950年の歳入規模は1ドルが360円として19億円程度ということになる。終戦時にわが国の朝鮮半島に残した資産が冒頭の産経新聞の記事のとおり891.2億円だとして、もし対価を払うための資金調達が可能であったとしても、韓国はこの歳入規模では金利も支払えないことは明らかなのである。
*ファン: 1953年に100旧ウォン→1ファンとした。1962年に10ファン→1ウォンとした。

そこで韓国は、わが国が半島に残した資産をうまく取り込み、さらに賠償金がとれる立場を得ようと、早い段階から動いていたことに注目しておきたい。

李承晩

1948年8月に李承晩が北緯38度線以南を実効支配地域とする大韓民国政府樹立を宣言して初代大統領に就任し、1949年には韓国はGHQに『対日賠償要求調書』を提出している。1951年にはサンフランシスコ講和会議に戦勝国の一員として参加することを要求したのだが、これは連合国に拒否されている。韓国は戦勝国ではないのだから連合国が講和会議への参加要求を断ったことは当然の事であるのだが、そんなことで当初の方針を変える国ではなかった。

そののち日韓の国交正常化交渉が始まったのだが、韓国は会議の冒頭から日本に賠償金の支払いを求めている。
:
Wikipediaに昭和27年(1952)2月20日の第1回請求権委員会における韓国代表の発言が紹介されている。
韓国の林松本代表は『日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる』と述べ、日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、韓国は連合国と同等の権利を持ち、朝鮮半島に残された日本財産没収の正当性を主張した。韓国は、日本国との平和条約第14条*の『日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきこと』、また各連合国が日本の財産を差し押え、処分する権利を有することなどを請求権の根拠とし、自らを連合国の一員と位置づけることで日本から利益を得ようとしていた。」
*平和条約第14条:サンフランシスコ講和条約第14条(後述)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84

前回記事で紹介した日韓併合前と併合後の写真を思い出して頂きたいのだが、李氏朝鮮時代の朝鮮半島は想像を絶する貧しさであった。わが国は韓国の税収をはるかに上回る財政援助を与え続け、さらにわが国企業の投資を促してこの国の近代化の為に力を尽くしたのだが、そのことを韓国が素直に認めてしまっては、わが国が半島に残した財産を没収し、賠償金を獲得することの正当性を主張する論理が成り立つはずがない。
だから韓国は「日本だけが悪かった」とするGHQの歴史観に飛び付き、「韓国も日本に酷い目に遭った」というストーリーを描いて、日本から賠償金を得る権利があると主張する戦略に出た
のだが、その点については後述する。

サンフランシスコ講和条約に調印する吉田茂首相
サンフランシスコ講和条約に調印する吉田茂首相】

韓国側が強気に交渉できた背景を考えると、直前にわが国が締結したサンフランシスコ講和条約につきあたる。
昭和26年(1951)9月に開催されたサンフランシスコ講和会議で、わが国は自由主義陣営48か国と平和条約を締結し、平和条約は昭和27年4月28日に発効してわが国は主権を回復したのだが、サンフランシスコ講和条約にはこう記されている。

第二条
「(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1203A_U2A211C1000000/?df=2
第十四条
「(a)日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される

2項 (Ⅰ)…各連合国は、次に掲げる者のすべての財産、権利及び利益でこの条約の最初の効力発生の時にその管轄の下にあるものを差し押え、留置し、生産し、その他何らかの方法で処分する権利を有する。
(a) 日本国及び日本国民
 …」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1203A_U2A211C1000000/?df=5

第二条(a)を素直に読むと、わが国が朝鮮半島に残した膨大な国有財産の対価を得る請求権がわが国には存しないことになるのだが、Wikipediaによると1945年12月の米軍政法令第33条帰属財産管理法によって、米軍政府管轄地域における全ての日本の国有・私有財産は米軍政府に帰属していたと書かれている。
また、第十四条については連合国の一員ではない韓国に対しては適用されないはずなのだが、米軍に帰属することになったわが国の国有財産及び私有財産については、最終的に、どのような方法で韓国に払い下げられたのだろうか。

明治大学の大学院紀要第28集(1991.2)に発表された鄭俊坤氏の『解放後の韓国の政治・社会構造の再編成』という論文の中に詳しく記されているので、少し引用させていただく。

「これらの帰属財産の中で、帰属農地は…『新韓公社』が管理し、その他の帰属不動産は当該所在地の金融機関に管理を委任した。そして帰属事業体は顧問官を任命して(1945.12.31)管理したが、その管理件と運営権は朝鮮人長官に移管された(1947.3.31)。特に、帰属事業体は3551個にものぼり、…これらの帰属財産の中で、米軍政下で行われた払下げの実績を見ると、企業体513件、不動産839件、その他の財産916件、合計2568件であった。
 その後、帰属財産は『韓米財政および財産に関する協定』(1948.9.11)によって、韓国政府に移管された(約29万件)。韓国政府は『帰属財産処理法』(1949.12.19)を交付してそれを売却し…1958年にはほとんど終結した。
 とにかくこの帰属財産の処理は韓国経済を植民地経済から構造的に分離させようという措置であり、韓国経済構造の再編成の第一段階をなすものであった。しかしこれらの厖大な帰属財産の払下げには、官僚時特権と機会主義的勢力が関連し、一部の特権者に有利に売却され、その後の社会風土・企業体質を大きく汚染させた。…韓国においては、即ち、巨大企業の払下げによって早くも財閥が形成されていくことになった。…。」
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/handle/10291/11279?mode=full

この論文によると、サンフランシスコ講和会議が行われるまでにわが国の多くの国有財産や私有財産が韓国内で売却されてしまっていたことになる。
アメリカがわが国の国有・私有財産を韓国に移管した際にどの程度の対価を得たかは定かではないが、韓国はかなり安価でわが国が残した膨大な資産を得ていたことはほぼ確実だろう。

朝鮮戦争

というのは『帰属財産処理法』が交付されて半年後に朝鮮戦争が始まり(1950/6)、戦いが3年間も続いた。そんな最中に本来の資産評価額で売却されたとは考えにくく、鄭俊坤氏の記したとおり、「その後の社会風土・企業体質を大きく汚染」させるほど、「一部の特権者に有利に売却」されたとあるので、かなり安い対価で払い下げられたことは間違いないだろう。

そして、朝鮮戦争休戦後に開かれた昭和28年(1953)10月15日の日韓交渉で日本側首席であった久保田貫太郎の発言内容が先ほどのWikipediaの記事に出ている。
久保田主席曰く、
私有財産の尊重という原則に基いた対韓請求権は放棄していない。また韓国にあった日本の私有財産が没収されていないという解釈ではアメリカ軍政府の措置は国際法に合致しているが、韓国のように日本の私有財産は没収されたという解釈では米国が国際法違反をやったということになり、日本としてはそういう解釈はとりたくない。」

要するに、戦後アメリカが朝鮮半島に入って、わが国が残した全資産をアメリカ軍の帰属としたのだが、韓国はアメリカ軍が日本の全資産を没収したと主張し、わが国はアメリカが民間資産を没収していないと主張した。もし米軍がわが国の民間資産を没収していたとすればアメリカが国際法違反をしたことになり、わが国はその解釈は取らない。したがって、わが国には韓国に対する請求権があるとした。また、もし米軍に国際法違反があったとしても米国には請求しないと発言した記録があるようだ

どちらの主張が正しいかはアメリカ側の資料が見当たらないのでわからないが、米軍の帰属資産を韓国に払い下げる動きがあった早い段階で、わが国は米国に確認するなり交渉することが必要であったと思う。朝鮮戦争が勃発し半島情勢が大混乱する中で、わが国には半島に残した資産の大半が韓国内で払い下げられた事実を認識できていなかったのかもしれないが、米国も朝鮮半島の共産化を避けるために韓国の経済を発展させようと動いていた時代でもあった。結局わが国は、GHQの調査で52.5億ドル、大蔵省調査では軍事資産を除き53億ドルにもなる請求権を放棄することになるのである

日韓国交正常化交渉は、その後も韓国がわが国に賠償金を求める交渉が続き、何度も暗礁に乗り上げたが、昭和40年(1965)にようやく決着している。

日韓基本条約調印
日韓基本条約調印】

日韓基本条約』と同時に締結された『日韓請求権並びに経済協力協定』で、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金を受けることと引き換えに、韓国側はわが国に対する賠償金請求権を放棄しているのだが、当時の8億ドルは当時の韓国の国家予算3.5億ドルの2.3倍にもなる数字で、現在価値にすれば1兆円を優に超える水準であった。

また『日韓請求権並びに経済協力協定』の第二条では、「両締結国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が…完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」して「この協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。」と明記されている。
http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPKR/19650622.T9J.html

この条文を読めば、韓国人に対する補償義務は韓国政府にあることは明らかなのだが、韓国はわずかの戦時徴兵補償金*の支払いをしただけで、終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らは補償対象から除外し、資金の大部分を工場建設やインフラ整備などに使ったという。

宮沢喜一

わが国は、この条約締結以降は韓国の個人に対して謝罪や賠償に応じる理由は存在しなかったはずなのだが、バカな政治家が聖人面して謝罪してからおかしなことが何度も続いていることを知るべきである。
*戦時徴兵補償金:死亡者一人当たり30万ウォン(約2.24万円)とわずかで、個人補償の総額も、わが国が支払った無償協力金3億ドル(当時約1080億円)の5.4%に過ぎなかった。

河野洋平

今まで「日帝の植民地支配は、世界史上類例を見ない、最悪の植民地支配だった」という言葉を何度も聞かされてきたのだが、朝鮮半島は西洋の植民地とは全く異なっている。
西洋列国は植民地から多くの収奪を行なったが、わが国は朝鮮半島に巨額の投資をし、終戦後にそのすべてを失ったというのが歴史の真実なのである。そもそも、日本統治時代の35年間で朝鮮半島の人口が倍増しているのに「史上最悪の植民地支配」ということはありえないだろう。

植民地補償 韓国政府が引き受け(20050117読売新聞)
【植民地補償 韓国政府が引き受け(20050117読売新聞)】

では、なぜ正しい歴史がわが国に広く伝えられなかったのだろうか。

戦後GHQはわが国に「戦勝国にとって都合の良い歴史」を押し付けた。この歴史は「日本だけが悪かったという歴史」と言い換えても良いのだが、前述したように、その歴史観に韓国が飛びついた。

くり返しになって恐縮だが、韓国が、わが国が朝鮮半島に残した財産を没収しかつ巨額の賠償金を得ることを正当化するためには、わが国の統治がよほど酷かったという歴史を描いて交渉するしかなかったのである。
わかりやすく言うと、韓国は戦勝国と歴史観を共有し、日本を貶めることで交渉を優位に進めようとしたのが、そのことは戦勝国にとっては黙認することがベストの選択であったろう。

このブログで何度も書いてきたように戦争犯罪の多くは戦勝国側にあったのだが、それらの戦勝国の戦争犯罪を打ち消すためには、それ以上に酷い事をわが国が行っていたというストーリーを描くしかないはずだ。その役割を韓国が担ってくれれば、戦勝国は何もせずとも、自国の戦争犯罪が話題に上ることがない。彼らからすれば、韓国が強気の交渉をしてくれればくれるほど日本国民が委縮して「日本人だけが悪かったとする歴史」に洗脳されていくことになり、「戦勝国にとって都合よい」歴史の固定化が進むことになり、好都合なことであったはずなのだ。

しかしながら、このような歴史観を見直す動きが出ている。
つい最近までは、主に韓国及び中国が、「戦勝国にとって都合の悪い真実」に蓋をする役割を果たしてきたのだが、戦後になってソ連の暗号文書が解読されてその研究が進み、最近のアメリカの研究では、日米の政権中枢に入り込んでいたソ連のスパイが両国を戦争に誘導し、戦域を拡大させて疲弊させ、終戦後に世界の共産国化をすすめようとしていたことが次第に明らかになってきている。わが国でもその説の正しさを裏付ける文書や記録が多数残されており、これからさらに米中対立が進むことによって、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が、「共産主義者にとって都合の良い歴史」と「今も続いている共産主義との戦いの歴史」とに割れていく可能性がある。

もし、そのような観点から「日本人だけが悪かったとする歴史」が、確かな事実をもとに根本から否定されることになると、韓国だけでなく中国・北朝鮮や、わが国を含め世界中の左翼の人々がその力を失う事になるだろう。
そうなっては困る人々は、今までの通説に異説が出るたびに『陰謀論だ』とか『歴史修正主義は許さない』などと強く反発してきた
のだが、いつまでそれが可能なのだろうか。

在日朝鮮人がTBSを支配

わが国の大手マスコミは、通説に矛盾するような史実を国民にほとんど伝えようとしてこなかったのだが、おそらく今後ともマスコミは通説を擁護する立場を崩さないであろう。
次のURLに、10年ほど前に発表され、過去何度も話題となり、最近になって再び話題となっている『TBSが在日韓国・朝鮮人に乗っ取られた経緯』という記事が引用されている。これを読めば、TBSに限らず大手マスコミの偏向報道が年々ひどくなってきた背景がよくわかる。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4714935.html

しかしながら、マスコミがいくら偏向報道を続けて国民の洗脳状態を続けようとしても、嘘で固められた歴史叙述はいずれ国民の支持を失い、根拠が明確に示された真実の歴史に置き換わっていくことになると思う。

既に若い世代の多くの人々は新聞を購読せず、ネットを含む様々なメディアの中から、納得できる情報や解説を自分で選択することが普通になっている。わが国のマスコミが国民を洗脳して、世論をコントロールできる時代はすでに終わっているような気がする。

いずれ国民の多くが真実の歴史に目覚める日が来ると思うのだが、それが一日も早く訪れることを祈りたい。
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【ご参考】
このブログで、『共産主義者にとって都合の悪い歴史』をいろいろ紹介してきました。
一部の記事を紹介しますが、興味のある方は覗いてみてください。

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

戦勝国による「歴史の書き替え」が始まった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-406.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-449.html

日本共産党が在日朝鮮人と連携し武装闘争に走った時代を忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-450.html

朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-266.html

朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-272.html

スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html


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わが国はどういう経緯で朝鮮半島を統治することになったのか

前回の記事で、第二次大戦後に韓国が、朝鮮半島に残したわが国の資産を没収したうえで巨額の賠償金を得ることを可能にするためには、わが国の統治がよほど酷かったという歴史を描いて交渉するしかなかったということを書いた。韓国は、戦勝国が描いた「日本だけが悪かったとする歴史」に飛び付いたのだが、わが国を貶める目的で描かれた歴史叙述の殆んどは虚偽であり、鵜呑みすべきでないことは言うまでもない。
では実際の歴史はどうであったのかを振り返ることにしたい。

韓国では明治43年(1910)からはじまる日本の朝鮮総督府時代のことを「日帝三十六年」と呼び、「韓国が有史以来、独立を失ったのは、後にも先にも日帝三十六年の時代だけで、それ以前はずっと独立・主権国家である」とよく主張するのだが、真実の歴史は李氏朝鮮は中国(清国)の属国にすぎず、独立国と呼べるものではなかった

日清戦争 宣戦の詔書

以前このブログで日清戦争のことを書いたのでこの経緯については省略するが、この戦いの目的は、わが国が朝鮮を独立国として清国に認めさせるための戦いであったことは、両国の宣戦詔勅を読めば明らかである。
それぞれのポイントとなる部分の原文と現代語訳が次のURLに出ている。
https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/3719328.html

【日本の宣戦布告文】
「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ
(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)
【清国の宣戦布告文】
朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト二百余年、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ近ク十数年、該国時ニ内乱多ク朝廷ハ小ヲ宇ムヲ懐ト為シ、畳次兵ヲ派シテ前往勘定セシメ竝ニ員ヲ派シテ該国都城ニ駐紮セシメテ時ニ随ツテ保護セリ
(朝鮮は我々大清の属藩たること二百年あまり、年々朝貢をしていると内外に知れ渡って十数年。内乱が多いので、兵を派兵して平定し、また都城に駐屯させて保護している)

下関条約第1条

この戦争でわが国が勝利し、終戦後に両国間で結ばれた下関条約の第一条にはこう記されている。
「第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缼ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ
https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%9D%A1%E7%B4%84

そもそも李氏朝鮮という国は、1392年に李成桂が高麗王位を簒奪して高麗王と称したことからはじまるのだが、すぐに明(みん)に使節を送ってその臣下となり、朝鮮の国号と王位を下賜されている。要するに国家成立した当初から、中国の属国であったというのが歴史の真実なのである。

では中国は李氏朝鮮という国とどのように接していたのだろうか。黄文雄氏の著書にはこう解説されている。

朝鮮の朝貢使節が北京詣でをする際は、諸侯の礼さえ受けられない粗末な待遇だった。そもそも中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、下国のなかの下国であった。朝鮮国王の言動が中国皇帝の逆鱗に触れたときは厳しく処罰され、貨幣鋳造権停止の処分を受けたこともある。
 天朝の朝貢秩序は、ただ単に正朔(せいさく)を奉じて冊封を受けるだけの『虚礼』ではない。属国、冊封国は、宗主国へ定期的に朝貢使節を送り、回賜(返礼)を頂かなければならなかった。これは朝貢貿易と呼ばれるもので、現在韓国では、『進貢よりも回賜の方が多かった。中国との宗属関係は形式的なもので、実質的には貿易の実益を狙った経済活動だった。政治的な隷属関係ではない』とするのが通説だが、それは事実と異なる。最近の研究によれば、清朝宮廷からの回賜は、進貢のわずか十分の一だったことが明らかになっている。朝鮮は中国に搾取される一方の最貧国であった。」(『日本植民地の真実』p.166)

朝鮮外交をめぐる交渉も李朝朝廷ではなく清国を通して行われていた。朝鮮の国事人事までも、清政府が決めるのである。たとえば李朝政府がメルレンドルフを外務協弁(補佐官)から解任するときには、清末の最高実力者であった李鴻章の承認を得て行った。その後任に海関総税務司を兼任していたアメリカ人ヘンリー・メリルを送ったのも李鴻章である。
 1885(明治18)年、イギリスが朝鮮半島の巨文島を占領したときも、李朝にではなく、イギリス駐在清国大使の曽紀沢に通告を行った。そして曽は、李朝政府に連絡することもなく占領を了承している。国土の変更ですら清国大使の裁量次第だったのである。」(同上書 p.168-169)

袁世凱
袁世凱

当時の属国状態の象徴的事件は、清国から派遣されていた袁世凱(えんせいがい)による大院君の逮捕と朝鮮支配である。袁世凱は清国内では一介の武弁(武官)にすぎなかったが、朝鮮では国王も服従するような強大な権限があった。
 袁世凱支配下の漢城(ソウル)はじつに悲惨であった。清兵3千人が市民を掠奪、暴行し、両班(ヤンパン)の家にも侵入して女性を凌辱する。女性たちは強引に酒席で妓生(キーセン)にされ、乱暴狼藉される。李朝の高官でさえ、清国の領事や軍人から殴る蹴るの暴行を受け、何も言えず泣き寝入りしていた
。朝鮮はあくまでも事大(属国)に徹し、なす術がなかったのである。」(同上書 p.170)

このように李氏朝鮮は、以前は清国の属国というよりも西洋の植民地統治に近かったのだが、わが国が日清戦争に勝利することによって、五百十余年ぶりに明・清の束縛を脱して晴れて独立国家となったのである。

ジョルジュ・ビゴーによる風刺画
【ジョルジュ・ビゴーによる風刺画】

自国を守れるだけの力量や気概があれば良かったのだろうが、当時の李氏朝鮮は非常に貧しい国であり、兵力も乏しく、清国やロシアが攻め入ったら簡単に滅ぼされていたことは確実であったし、実際にロシアは朝鮮半島の領有を明らかに狙っていた。
朝鮮半島南端から対馬まではわずか50kmの距離しかなく、もし朝鮮半島がロシアに占領されたならば、いずれロシアがわが国の生存を脅かす存在になることを怖れて、わが国は朝鮮が近代国家に改革され、自立した国家となることを熱望していた
のである。

日清戦争を機に朝鮮半島における清国の影響を排除することに成功したわが国は、朝鮮の近代化改革(『甲午改革』)を推進しようとしたのだが、当時の李氏朝鮮という国がどれほど前近代的な国であったかは、わが国が提案した近代化策の一部を読むだけでなんとなくわかる。

1. 今後は清暦を廃止し、開国紀年を用いる
2. 貴賤門閥に拘らず人材を登用する
3. 人身売買の禁止
4. 貴賤の別なく寡婦の再婚を許す
5. 平民にも軍国機務処に意見を提出することを許し、卓見の持主は官吏に採用する。
6. 官吏の不正利得を罰する
7. 司法権限によらぬ捕縛や刑罰の禁止
8. 駅人・俳優・皮工など賤民身分の廃止
9. 拷問の廃止
10. 租税の金納化 …

このような提案が207項目もあったというのだが、この国はその後も内紛が続いて改革はうまく行かなかった。また日清戦争勝利後の三国干渉でわが国がロシアに譲歩したことが韓廷内の対立を一層深刻化させることとなり、朝鮮は貴重な時期に独立を忘れて大院君派*と閔妃派**との内部の暗闘に明け暮れることになるのである。
*大院君(たいいんくん):李氏朝鮮で、直系でない国王の実父に与えられる称号。ここでは26代高宗の父・興宣大院君を指す。李朝末期の朝鮮王朝の実権を握り、激しい排外、攘夷策をとった。
**閔妃(びんひ): 26代高宗の王妃。閔氏一族を登用し守旧事大 (親清) の政策をとり,政権を義父大院君や親日開化派と争った。


閔妃
閔妃

ロシアは閔妃と結託して親日内閣を倒し、親露派で朝鮮を支配しようと画策するに至る。明治28年(1895)にロシアは親日派一掃のため、日本人教官に訓練された二大隊(「訓練隊」)の解散と武器の押収を命じたのだが、この動きに訓練隊の将兵は激昂し、日韓の有志と共に王宮に入り、閔妃を殺害して権力を奪還したという。(乙未[いつび]の変)
通説では、日本人が閔妃を暗殺したとされているのだが、ロシア側の記録でも、韓国側の複数の記録でも朝鮮人の禹範善が暗殺したことが記述されているし、禹自身も自供している事実をなぜ無視するのであろうか。
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20101116/1289860727

当時の朝鮮では異常な事件がその後も相次いでいる。
閔妃暗殺事件の翌月には、親露派は王宮を襲撃して国王をロシア公使官に奪い去ろうとしたのだがこの時は親衛隊によって阻まれた。

露館播遷
【露館播遷】

しかしながら翌1896年には、ロシアは武力を背景に国王を奪い取ってしまったのである。中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』にはこう解説されている。

「…1月、騒乱鎮圧で首都の警備が手薄になった虚に乗じて、ロシア公使ウェーバーは公使館防衛の名目でロシア水兵百名を引き入れ、親露派と謀って国王を王宮から奪取してロシア公使官に移した(2月11日)。この事件を国王の『露館播遷(ろかんはせん)』と言うが、背後には米国の後援もあった。
 政局は一変して、金弘集・魚允中らは惨殺され、多くの親日派は日本に亡命した。この時殺害された大臣たちは、四肢を切り裂かれ肉を食われるなどの異常な光景が現出したとF・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』は記している。
 国王はロシア公使官より詔勅を下し、親日派の逮捕を命じ、断髪令その他の改革事項の撤廃を宣言したため、朝鮮の混乱は極に達した。この異常な変乱で日本人三十余名が殺害され、十余万円の財産が被害を受け、わが国の勢力は失墜した。国王と共に朝鮮政府もロシア公使官内に入り、朝鮮政局は完全にロシアの掌握する所となった。
 ロシアは兵力を以て親露内閣を保護し、二人の顧問によって財政と軍事を掌握した。二十人のロシア士官で韓国軍隊を訓練し、武器弾薬はウラジオストックより輸入した。更にロシア語学校を創設し、咸鏡道の鉱山採掘権を獲得するなど、着々と勢力を扶植した。このようにして国王が露館にあった1年間、ロシアは朝鮮に対する保護政治の実を挙げた。またロシアの利得獲得は他の列強を刺戟し、国王の露館滞在中、朝鮮は多くの利権を列強に譲渡する結果になった。
 朝鮮国王と政府がロシア公使官の中に遁入してしまった結果、朝鮮の政策はロシア公使官に於いて決定されるという奇観を呈し、朝鮮政局の前途は甚だ憂慮すべき状況となった。
」(『大東亜戦争への道』p.71~72)

わが国はこれ以上のロシアの南下を阻止するため、結局ロシアと協商して、明治30年(1897)2月に国王は1年ぶりにロシア公使官から王宮に戻ったのだが、ロシアはわが国との約定を無視して、朝鮮と密約を結び、ロシア人の軍事教官を韓廷に送り込んだり鴨緑江の伐採特許を獲得したりしている。そのような状況下の9月に、朝鮮国王は皇帝と称し、国号を大韓と改め、形式は独立国の体裁を整えたものの、実質はロシアの属国であった。

イザベラ・バード

この時期に朝鮮半島を旅行したイザベラ・バードは『朝鮮紀行』でロシアが支配した時代を、親日派が組閣した時代と比較してこう記している。
「ロシア公使館に遷幸〈せんこう〉して以来国王が享受した自由は朝鮮にとっては益とならず、最近の政策は、総じて進歩と正義をめざしていた日本の支配下で取られた政策とは、対照的に好ましくない。
 昔ながらの悪弊が毎日のように露見し、大臣その他の寵臣が臆面もなく職位を売る。国王の寵臣のひとりが公に告発されたときには、正式の訴追要求がなされたのに、その寵臣はなんと学務省副大臣になっている! 1895年10月8日[乙未事変]の反逆的将校や、武力で成立した内閣の支配からも、心づよくはあっても非人道的なところの多かった王妃の助言からも、また日本の支配力からも解放され、さし迫った身の危険もなくなると、国王はその王朝の伝統のうち最悪な部分を復活させ、チェック機関があるにもかかわらずふたたび勅命は法となり、国王の意思は絶対となった
 …人が理由もなく投獄され、最下層民の何人かが大臣になった。金玉均を暗殺した犯人が式部官に任命され、悪事をつづけてきて有罪の宣告を受けた者が法務大臣になった。官職をこっそり売買したり、国庫に入るべき金を途中で着服したり、貧乏な親戚や友人を「箔づけ」して官舎に住まわせるためにほんの数日間だけしかるべき官職に就けたり、高官が少しでも非難されたらすぐに辞任するという習慣がはびこったりした結果、国政はつねに混沌とした状態にあった。善意の人ではありながらも優柔不断な国王は、絶対的存在であるのに統治の観念がなく、その人柄につけこむさもしい寵臣のおもちゃであり、貪欲な寄生虫にたかられ、しかもときには外国の策士の道具となっている。そして常設しておくべき機関を壊すことによって政府の機能を麻痺させ、私欲に駆られた官僚の提案する、金に糸目をつけない計画を承認することによって、経済財政改革を一過的で困難なものにしている。こんなめちゃくちゃな政治のやり方は、ロシア公使館にのがれて自由を得るまでの国王には決して見られなかったものである。」(同上書p.538-539)

竜岩浦

このようなロシアのやり方が韓国民の反発を招くようになり、ロシア勢力は一旦韓国から引き揚げて南下政策の矛先を満州に向けたのだが、1903年になると再び対韓侵略の意図をもって動き出した。ロシアは森林保護を名目に鴨緑江河口の竜岩浦を軍事占領し、わが国の抗議を無視して軍事要塞の建設を開始したのである。

ロシアと我が国の交渉は決裂して1904年に日露戦争が始まったのだが、この戦争については以前このブログで記したので、本記事末尾にリンクした参考記事を読んで頂ければ幸いである。今回は、日露戦争に関連して日韓関係で補足すべき点について記しておきたい。

中村粲氏の前掲書を再び引用させていただく。
(1904年)2月、我国が対露開戦劈頭(へきとう)に戦勝するや、韓国は俄(にわか)に態度を親露から親日に一変させ、ここに日韓議定書が結ばれた
 右議定書は(1)韓国は施政改善に関して日本の忠告を容れること、(2)韓国の危機に際して日本は軍事上必要の地点を収容できる――等を骨子とした。これは日韓関係を一変し、明確に保護化への第一歩を印した点で頗(すこぶ)る重要な意義を有した。
 かくして併合への歴史的過程は日露開戦を契機として始まり、戦争と共に進行していった。韓国の不安定な政情が日露戦争を誘発し、その戦争が韓国併合を促進するという、何とも因果な歴史的運命にこの国は飲まれて行ったのである。
 …
 もしこの議定書がなければ、我国は朝鮮半島から満州へ軍を進めることはできず、対露戦争の遂行は不可能だったであろう。日露戦争は日本ではなく、ロシアの勝利に終わっていたに違いない。…日韓議定書が日本による保護化への道を開いたことは事実であるが、それが同時に韓国をロシアの永久支配から救い出す結果にもなったのであると――。歴史を深く見つめるならば、韓国の本当の悲劇は、この国が漸く日露開戦するに及んで親日に転じた事実の中にあることが分かるのではあるまいか。」(同上書 p.121)

韓国政府は、日韓議定書を結ぶ1ヶ月前の1月21日に、日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言したばかりであったのだが、2月9日の仁川沖海戦で日本の艦隊が露艦ヴァリャーグとコレーエツおよび露船スンガリーを攻撃してこれを爆沈させると、韓国は親日に一変して、2月23日に日韓議定書を締結したのである。
そして半年後の8月22日に第一次日韓協約を締結して韓国は日本政府の推薦する財政と外交の顧問を受け容れることに同意した。

目賀田種太郎
目賀田種太郎

わが国が財政顧問として朝鮮半島に派遣したのは、大蔵省主税局長を長年務めた目賀田種太郎だが、彼は紊乱した朝鮮の財政整理に力を尽くし、最初に通貨の改革を行ったという。

中村粲氏は前掲書でカナダの新聞記者F.A.マッケンジーの文章を紹介しておられる。
「朝鮮では貨幣の濫鋳(らんちゅう)が甚だしく、朝鮮の貨幣は世界の悪貨のうちでも最たるもので、良貨、良い偽造貨、悪い偽造貨、粗悪すぎて暗いところでしか通用しない偽造貨の4つに分類できるとさえ言われていた。目賀田は貨幣濫鋳の弊を除くため竜山と仁川の典圜局(てんえんきょく:造幣局)を閉鎖し、我が第一銀行京城支店をして韓国政府の国庫事務を取扱わせ、同行が朝鮮で発行する銀行券を無制限に通用させるなど、非常な決意と苦心で貨幣整理を断行し、世界最悪と言われた朝鮮の通貨を健全な基盤に置くのに成功した。目賀田の改革は一時的には混乱を伴ったにせよ、長い目で見て朝鮮の国家に益をもたらしたことは認められて然るべきであろう(F.A.マッケンジー『朝鮮の悲劇』)。」(同上書p.122)

では、アメリカやイギリスの首脳はわが国の朝鮮半島の保護国化をどう評価していたのだろうか。
「(米国)ルーズベルト大統領は日本の韓国保護国化に何の干渉もしなかった。それは『韓国は自分を守るために一撃すら与えることが出来なかったから』(ヘイ国務長官宛短信)なのである。英外相ランズダウンもまた『韓国は日本に近きことと、一人で立ちゆく能力なきが故に、日本の監理と保護の下に入らねばならぬ』と書いたが、韓国問題についての世界の共通認識の所在が、これでほぼ推察できるのではあるまいか。」(同上書p.122~123)

英米にすればロシアの南下は阻止したいところだが、貧しく気概のない国に自ら関与しては膨大な時間と労力と資金を無駄に費やしてしまうことになるばかりとなる。日本がこの国を近代国家に変革するために尽力してくれるのならば、ロシアの南下を防ぐことに役立つだろうと静観するのがベストの選択であったのだろう。

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【ご参考】このブログで北清事変から日露戦争の時代についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-323.html

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-324.html

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-325.html

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-326.html

なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-327.html

日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-328.html

乃木将軍は「愚将」であったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-329.html

世界は乃木率いる第三軍が旅順要塞を短期間で落城させたことを賞賛した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-330.html

圧倒的に劣勢であった奉天会戦に日本軍が勝利できたのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-331.html

日本海海戦で日本軍が圧勝した背景と東郷平八郎の決断
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-332.html

ポーツマス会議のあと、講和条約反対・戦争継続の世論が盛り上がった事情
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-333.html

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日露戦争の頃から日本軍に好意を示した韓国民衆がかなり存在した

前回の記事で、わが国が日清戦争で勝利して清国勢力を朝鮮半島から追い出すと、今度はロシアが介入してきたのでわが国は日露戦争を戦って勝利し、ロシア勢力を朝鮮半島から排除したことを書いた。わが国は韓国を近代化させるために保護国化したのだが、その点について、アメリカやイギリスは干渉しなかったことは重要なポイントである。もしこのような大国の干渉があれば、今までと同様にこの国は強いと思った国に靡いていたことであろう。

第二次日英同盟

日露戦争中の明治38年(1905)8月12日に、わが国はイギリスとの間で第二回日英同盟協約が締結されているが、その第三条で明確にイギリスはわが国の朝鮮半島保護国化をいち早く承認した。本文中の「大不列顛國」とは、グレート・ブリテン国、すなわち英国のことである。

「第三條 日本國ハ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルヲ以テ大不列顛國ハ日本國カ該利益ヲ擁護増進セムカ爲正當且必要卜認ムル指導、監理及保護ノ措置ヲ韓國ニ於テ執ルノ權利ヲ承認ス但シ該措置ハ常ニ列國ノ商工業ニ對スル機會均等主義ニ反セサルコトヲ要ス」
https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/M0000000000001743561

小村寿太郎

中村粲(あきら)氏の『大東亜戦争への道』によると、日露戦争後のポーツマス講和会議に参加した全権大使の小村寿太郎に対し、米大統領、英外相はこう述べたという。
「…日露戦争が日本の勝利に終わるや、もはや韓国保護化をさえぎる一物とてなかった。ポーツマス会議を終えた小村にルーズヴェルトは言った。『将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし』と。ランズタウンの如き『英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する』とまで言い切った。11月、第二次日韓協約(韓国保護条約)が調印され、韓国の外交権は日本の掌握するところとなった。」(『大東亜戦争への道』p.125)

イザベラ・バード

イギリスもアメリカもこの国がわが国の保護国となることを希望した点については、このブログで何度か紹介したイザベラ・バードの『朝鮮紀行』の最後に意味深なことを書いている。
イギリスは見当がつかなくもない理由から、朝鮮情勢には積極的に関わらなくなっている。他のヨーロッパ列強はこの地域の保護になんら関心を示していない。」(講談社学術文庫『朝鮮紀行』p.571)

こういう書き方になるのは、欧米の列強はこの国に関わっても何のメリットもないと判断していたと理解するのが自然であろう。
この半島を植民地にしたところで、物を運ぶ道路も鉄道も港湾も橋もない。山は禿山で河川には堤防が無く、洪水の危機に曝されていたし。学校はわずかしかなく、しかも文人階級の子弟に漢文を教えていただけで、ほとんどの国民は読み書きができなかったのである。
植民地化の「うま味」を得るためには最初に莫大なインフラ投資を行わなければならないのだが、欧米列強がこの半島に関心を示さなかった理由はそのあたりにあったと思われる。

では、なぜこの国は前近代的で貧しい状態が長く続いたのであろうか。その理由を知るためには、この国の身分制度を理解する必要がある。次のURLに李氏朝鮮時代の支配階層の画像が沢山出ているので参考にされると良い。
http://hinode.8718.jp/photo_korea_yangban.html

李氏朝鮮時代の身分制度は、良民(両班[ヤンバン]、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられていて、支配階層が両班であったのだが、李氏朝鮮時代末期には相当多数が戸籍上は両班であったという。京城帝国大学の四方博教授は、1858年には大邱、慶尚道の総人口の48.6%が両班であったと発表しておられるが、支配階層がこんなに多くてはまともな国が成立するとは思えない。
http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10718895994.html

実態は、納税を回避するために常民や奴婢の数字が統計上は少なめに出ていたのではと考えるのだが、両班身分の割合がかなり高かったことは、当時の記録を見ると納得せざるを得ない。イザベラ・バードは1894年から1897年にかけて、4度にわたり最末期の李氏朝鮮を訪れているが、この国の身分制度の問題点について前掲書にかなり具体的に記している。

韓国では、特権階級の両班は働いてはいけなかった。この絵でも、農民を働かせ、自分は寝そべっている姿が描かれている。
【韓国では、特権階級の両班は働いてはいけなかった。この絵でも、農民を働かせ、自分は寝そべっている姿が描かれている】

「朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集められるだけかき集めて引き連れていくことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」(同上書 p.137)

笞刑 WHIPPING PRISONER 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた。
【笞刑 1903年 朝鮮伝統の刑罰であり男女の区別なく行われた】

非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男はにせの負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎日笞〈むち〉で打たれる。あるいは捕らえられ、金が用意されるまでは両班の家に食うや食わずで事実上監禁される。借金という名目で取り立てを装うとはまったくあっぱれな貴族であるが、しかし元金も利息も貸し主にはもどってこない。貴族は家や田畑を買う場合、その代価を支払わずにすませるのがごく一般的で、貴族に支払いを強制する高官などひとりもいないのである。」(同上書 p.138)

1903年 漢城(ソウル)両班の男性

朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。一般大衆は、ほんとうの意味での愛国心を欠いているとはいえ、国王を聖なる存在と考えており、国王の尊厳が損なわれていることに腹を立てていた。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈〈ばっこ〉していた。
 このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階級が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。『搾取』と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じてのならわしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」(同上書 p.343-344)

両班

「地方行政官のなかにはこういった従者を何百人も持つ者があり、その費用は疲弊したこの国が払うのである。当時はひとつの道(ド)に44人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとてみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2400ドルかかる。総勢1万7600人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に『搾取』するのである。その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭100枚を要求した。郡守はそれを200枚に、また郡守の雑卒が250枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭250枚のうち50枚を雑卒が、100枚を郡守が受け取り、知事は残りの100枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。こういった役得料を廃止し郡守を減給する勅令が最近発布された。徳川(トクチョン)の庁舎の荒廃ぶりと一般民の住まいの不潔さとみすぼらしさは、まさしくここにきわまれりといったところだった。」(同上書 p.423-424)

こんな連中の支配する国が豊かになるはずがないのだが、わが国はこのような国の抜本改革に当初から取り組もうとした。しかしながら、それを実行すべき官僚たちの大半は因習と慣例の両方から堕落していたために改革は困難を極め、イザベラ・バードも述べているように、「朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねば(p.563)」ならなかったのである。

わが国は朝鮮半島に人的および財政的支援を実行するだけでなく、前近代的な身分制度や慣習を次々と撤廃していったのだが、この急激な改革に旧支配層が抵抗したことは当然のことである。
では、これまで両班に搾取されていた人々や知識人は、わが国が主導した改革をどう受け止めたのであろうか。

朝鮮の悲劇

日露戦争初期に朝鮮北部を訪れたカナダの新聞記者であるF.A.マッケンジーはこう述べている。
「北部の住民たちは、ロシア人に好意を持っていなかった。ロシア人には規律と自制が欠けていたからである。彼らはとくに、しばしば起こるロシア軍兵士と韓国女性との衝突によって不和を来した。私は、戦争の初期に、主として北部地方をずっと旅行したが、その最初の数週間の間、私はどこでも、韓国の国民からは日本軍に対する友好的話題ばかりを聴かされた。労務者や農民達も友好的であった。彼らは、日本が自国の地方官僚どもの圧政をただしてくれるようにと望んでいたからである。また、上流階級の人びとの大部分、とくになにほどか外国の教育をうけたような人たちは、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から推して、自国の遠大な改革の実施は外国の援助なしには遂行しがたいと確信しており、そのため日本に心を寄せていた。」(東洋文庫『朝鮮の悲劇』p.107~108)

李容九
李容九

日露戦争が始まった1904年の秋李容九(りようきゅう)は、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであり、さらに日本と韓国が軍事同盟を結ぶことがロシアに対抗し韓国の富国強兵を図る方法であると主張し、一進会を設立してその会長となっている

その頃の韓国政府のスタンスはわが国に非協力的であったために、わが国が満州に兵を送り込むために計画した鉄道建設が遅れていたのだが、一進会が京城から新義州までの鉄道建設に立ち上がり、北進隊を組織して日本軍に協力したという。

1910年 日韓併合までに完成した路線
日韓併合までに完成した路線】

中村粲氏はこう解説しておられる。
ちなみに、京義鉄道敷設工事に参加した一進会員は、黄海道、平安南道、平安北道を合わせて十五万人に上った。また北鮮から満州へ軍需品をチゲ(荷物を背負う道具)で運搬するのに動員された会員は十一万五千人で、この鉄道建設隊と輸送隊を合わせると、百万会員のうち二十六、七万人が動員されたことになる。そして鉄道工事の費用は領収雇金二万六千四百十円、会員自費金額十二万二千七百四円という数字が残っており、大部分が会員の自弁であったことを窺わせる。
 戦争の危険、事故や病気、多大の出費、加えて反日的朝鮮官民による迫害など、様々の艱難辛苦を冒して日本軍に協力した一進会の捨身の行動は、自国と東亜の復興をこの一戦に賭ける深い信念と憂情あってこそ、はじめて可能だったのである。」(『大東亜戦争への道』p.124)

一進会は「日本が朝鮮侵略のために作った御用団体」などと書かれることが多いのだが、もしそれが事実であったならば、会員の自弁で鉄道建設の為に働いたりはしないと思う。
わが国がこの国のインフラ整備のための建設工事を順調に進めることができたのは、一進会の会員でなくとも親日的な韓国民が少なくなかったと理解するしかない。
もちろん反対する勢力もあった。「義兵運動」と呼ばれる反日的な活動が激しくなったのは明治40年(1907)に韓国軍隊が解散された以降だという。

中村粲氏の解説を続けよう。
「解散した軍隊が義兵に合流し、ここに義兵運動は武器と組織を得て、各地で激しい反日抗争を展開するに至った。…
 1907年から日韓併合翌年の1911年までの間に、我軍と交戦した義兵は14万人を超え、交戦回数も2850回、死亡した義兵は1万4千名以上にのぼる。…
 だが民衆のエネルギーだけでは、国家の近代化や独立が達成できるものではない。民衆のエネルギーは、正しい時期に、有力な指導者を得て、正しい方向に健全な形で結集されるのでなければ、決して民族独立の原動力にはなりえないのである。」(同上書 p.127~128)

義兵運動
【義兵】

「義兵」といっても組織化されたものではなかったようだ。F.A.マッケンジーは自ら「義兵」と接触して取材した時のことを著書に記している。

「彼が私に語ったところからすると、彼らはじっさいなんら組織されてはいないということが明らかであった。ばらばらの各一軒のいくつかが、きわめてルーズなつながりで一緒になっていたのである。各地の富裕な者が基金を提供し、それを、彼が、一人二人と散開している義兵にこっそりと渡し、彼らがそれぞれ自分のまわりに味方を集めるのであった」(前掲書 p.202)

義兵運動」の資金源は明確には書かれていないが、旧支配層から出ていたことはおおよそ見当がつく。武器は朝鮮軍の旧式のもののほかに中国製の銃があったことが前掲書に記されているが、外国の関与があった可能性がありうる。彼らはただわが国に対して抵抗しただけで、彼らが目指す国家像のようなものは見えてこない。

在朝鮮「一進会」李容九会長による日韓併合希望の電報:訳文
【「一進会」李容九会長による日韓併合希望の電報:訳文】

一方、一進会には彼らの理想を実現させようとする意思が明確にあった。
一進会が目指していたのは日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であった。一進会は1909年に伊藤博文がハルビン駅で暗殺された後、『韓日合邦を要求する声明書』を提出しているのだが、Wikipediaにそのポイントとなる部分の翻訳が出ている。

日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。…今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%80%B2%E4%BC%9A

一進会
【一進会】

このように一進会は日本に協力することで韓国の近代化を推進しようとし、日韓が対等の立場で合邦することを求めたのだが、当時の総理大臣であった李完用はこの上奏文を大韓帝国第2代皇帝に純宗にも上げずに握り潰したという。
また、この声明に対して大韓協会、西北学会などがただちに反対を表明し、伊藤博文の後を継いだ朝鮮統監の曽禰荒助は、両派の衝突が起って治安が乱れることを懸念し、一進会の集会・演説を禁止して活動を弾圧した。

一方、日本政府は二国間の国力の差を考慮すると、対等の合邦は国民の理解を得ることは難しいとの判断から一進会の請願を拒否し、その後わが国が韓国を飲み込む形で併合することとなる。

日韓併合は明治43年(1910)のことだが、韓国統監府は親日派・非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、朝鮮の全ての政治結社を禁止し解散させている。一進会もこの時に解散を命じられたのだが、元会員の間には失望が広がり、その後三・一運動に身を投じる者も少なからずいたという。

わが国は、朝鮮半島を貧しくさせた身分制度を廃止し、この国の近代化のために莫大な投資をし多大な犠牲を払ってきたのだが、日露戦争後に旧支配層だけでなく一般の民衆レベルにまで反日運動が拡がって行ったことはなぜなのか。

おそらく日本側にも原因があるのだろう。F.A.マッケンジーは前掲書にこういうことも書いている。
「上流階級の人びとの大部分、とくになにほどかの外国の教育をうけたような人たちは、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から推して、自国の遠大な改革の実施は、外国の援助なしには遂行しがたいと確信しており、そのために心を寄せていた。ところが、戦勝につぐ戦勝がつづくにつれて、日本軍の態度はしだいに懇切さを減じて行った。日本軍についてやって来た日本人商人どもはかなりの数にのぼり、彼らには軍隊のような自制心はさっぱり見られなかった。…軍隊自身もまた、しだいに、韓国民に対して横柄な態度をとるようになってきた。北方の住民たちにとっては、自分がロシア人と交際があると疑われることは、ただちに死を意味した。」(『韓国の悲劇』p.107~108)

伊藤博文

以前このブログで、伊藤博文暗殺事件のことを書いたが、伊藤の体内に残っていたのはフランス製騎馬銃の弾丸で、犯人とされた安重根が保持していた拳銃のものではなかった。安重根が使用した拳銃はロシア陸軍に納入されていたベルギーのクンフト社製のもので、普通に考えると暗殺の真犯人はロシア側にいる可能性が濃厚だ。
当時のウラジオストックには多くの韓国人が住んでおり、ロシアの特務機関の影響下にある「韓民団」という組織に参加している者がいて、安重根はその一人であったという。

その後中国やアメリカで反日運動が拡大する動きがあるが、どの国がどういう意図でその運動を広めたかについても、戦後の歴史叙述では完全にタブーにされてしまっている。
わが国の朝鮮半島統治の歴史については、このようなタブーを打ち破って世界史的視野で考えないことには、いくら議論をしても真実に辿りつくことは難しいと思うのだが、このような視点から史実に基づいて朝鮮半島の歴史が広く議論される日が来ることを祈りたい。

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【ご参考】このブログで伊藤博文暗殺事件、中国の反日運動に関してこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html

伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html

なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

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日露戦争後に朝鮮半島を訪れた荒川五郎の『最近朝鮮事情』を読む

前回の記事で、この時期に朝鮮半島を訪れたイザベラ・バードが、この国には内部からみずからを改革する能力がなく、外部からの改革が必要であると書いたことや、米国も英国も日露戦争の後で韓国に関与するつもりはなく、日本が保護国とすることを希望していたことを書いた。

最新朝鮮事情

ではこの時期に朝鮮半島を訪れた日本人の記録はないのだろうかと思って探してみると、当時衆議院議員であった荒川五郎氏が朝鮮半島を訪れてレポートした、『最近朝鮮事情』という本が明治39年(1906)5月に出版されていることがわかった。
Kindle版も出ているが『国会図書館デジタルコレクション』に公開されているので、PCやタブレットがあれば誰でも無料で全文を読むことが可能だ。この本に書かれている韓国の状況を現在と比較すると、この国が今も基本的に変わっていないと思うところがあって興味深い。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869

京城 独立門
【迎恩門の柱礎(左側の2本) 右側の門は1897年に作られた独立門】

荒川氏は、日清戦争でわが国が勝利し。清国の勢力を追い出して独立国の体裁を整えた以降のこの国のことをこう述べている。

「●以前から朝鮮は殆(ほとん)ど支那の付属国と言うても可(よ)い有様で、無論支那はその政策をとって居たので、朝鮮に於ける支那の勢力と云うものは実に非常なものであった。
●ところが日清戦争で全くその勢力が転倒し、迎恩門を倒して独立門を建てるという仕誼(しぎ)となり、朝鮮の内政も大改革が行われ、朝鮮の国は大韓国と云う豪義な国となり、国王様は大韓国皇帝陛下と御立派にならせられ、皇太子様が立てられる、大韓国大皇后様も定められると云う、エライ有様になった。

●ところがこの大韓国は他の国とは違うて、その王室は決して国民とその休戚*を共にすると云うことは無く、只(ただ)貴族のみは王室と利害を共にして居るようであるが、それでも国王の信任を得たものはその恩沢にも預かって利益も享(う)けるが、その他はそうで無い。であるから、誰も彼も国王に取入ろうとして、種々に魂胆をめぐらし、運動やら紛争軋轢実に醜状を極め、隨(したが)ってその間に立って次女や宦官、官妓、巫女(ふじょ)などが旨いことをやるのである。
常民に至っては気の毒なもので、税を納めたりその他尚義務と云うものはあるけれども、権利と云うては更に無い、王室の普請やその他慶び事や弔い事など、その入用を割りつけられたりなど色々虐められることはあるが、更に王室の恩沢を蒙(こうむ)ると云うとは無い、それは実にあわれのものである。
●だから常民共が王室を見ると旅人も同様で、王室に大事があろうが一向平気なもの、更に気にもかけない。かの二十七年の王宮の事変**の時も、又三十七年、今の王宮である慶運宮が焼けたときでも、京城の人民等はガヤガヤ王門の外に集まって来て、例の長煙管で煙草をふかしながら、互いに笑いあい語り合うて面白そうに見物して居ると云う有様である。
かく云う風で上のものも下のものも、皆唯(ただ)自身の事ばかりを考えて、更に国家という観念は無い。朝廷ではドンドン租税も取り立てるが、それは国家の用にするのでは無い。国王も大臣も観察使も郡守も、皆自身の為のみを思い、吾が家を富まそうと勉めるのみである。
常民もまた国の為など云う観念は毛頭も無いので、余計に儲ければそれだけ又余計に取り立てられて手元には残らないからというので、惰(なま)けられるだけは惰け、遊ばれるだけは遊び、田や畑や山や林やなど、これを仕立てたり、手をかけて、確実な財産を作ろうなどという考えは無いらしい。この点が即ち朝鮮の今日の有様を致す所以であろうか。
●…朝鮮では階級の制度が厳格で、それは王族宮家を別にして、両班、常民、奴婢の三種に分かれて居って、己(おのれ)より以下の階級の者に対しては圧政をしても別にあやしみもせず、これを当然の事と心得て居る
両班とは朝鮮の貴族で、東班西班の両族からなって居る。東班は即ち文班で、西班は武班である。両班とも生まれながら官吏となる特権を有し、納税の義務もなく、窮すると即ち常民から衣食の料などを取り立てる権利がある。今は武班よりも文班が重んぜられて居る。」
*休戚(きゅうせき):喜びと悲しみ。幸と不幸。
**二十七年の王宮の事変:明治27年(1894)に起きた閔氏政権を倒すクーデター。大院君が日本に協力を得て政権を握るも、近代化政策を拒否し1ヶ月で摂政の座を下ろされ、東学党の農民兵を呼び込んで日本を追い払おうとしたことが日清戦争に発展した。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/43

支配階層も民衆も自分の事ばかり考えて「国のため」という観念はなく、また王室に仕える貴族はともかくとして、民衆は王室に無関心であったという。
支配階層には納税の義務がないだけでなく、資金が不足するといつでも民衆から取り立てる権利を有していた。常民たちはいくら努力して富を蓄積しても支配階層に持って行かれてしまうので、仕事に精を出すことをしなくなってしまっていた。人々が働かないようでは、国が貧しくなることは当たり前のことである。
この国の近代化のためには、この国の身分制度にメスを入れなければならなかったのだが、この国の支配層が腐っていたのだから、このことを自力で成し遂げることは到底不可能であったろう。

では、この国の政治や外交については、当時においてどういう仕組みで動いていたのであろうか。
荒川氏はこう記している。

1903年 漢城(ソウル)両班の男性
【1903年 漢城(ソウル)両班の男性】

「●…王権が振るわず、紀律が紊(みだ)れて居るものであるから、ただ表面の組織がよいのみで、その実内面は全く秩序もなく、国を外国に開いてからは外務省にあたる外衙門を置き、次いで内務省に当たる内務衙門を置いて、議政六曹も空名となり、のち軍国機務所というを設けたが為、外衙門も内務衙門もまた空名となるという有様で、何が何やら更に分からないのである。
●法典でも六典條例や大典会通という成分律があって、これを誠実に実行したなら、世運の進歩に伴うて文明の政治に進むことが出来るのに、国王の意のままに勝手無紀律の事を行い、国王の一言即ち法典という有様で、この成文律は全く死文となって居る。ことに王言即ち法典というても、その実奸細の徒が賄賂を持って国王の歓心を買いなどして、以て其私勝手を為すので、真実は王言も其の精神ではないのである。

●…地方政府もまた似寄ったもので、…中央政府が腐敗するものであるから、これら地方官はただ人民の膏血を絞る道具となり、賄賂請託(せいたく)大に行われ、官職は公然売買せらるる有様で、随ってその弊を受ける人民こそ、実に天に号泣するの外訴える道も無く、憐(あわ)れの有様に陥って居るのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/45

また法律や条約を作っても守らないというのは今も同様で、これまでわが国が条約や合意内容をどれだけ無視されてきたかは説明するまでもないだろう。
内務・外務を司る役所は存在しても名前ばかりで、国王が勝手気ままな政治をなしていたのだが、政策決定には賄賂がおこなわれていたという。その点については地方政府も同様に賄賂がおこなわれ、官職が公然と売られていたのである。

笞刑
【笞刑】

また裁判については次のように記されている。

「●朝鮮の裁判は地方の小役人や郡守県令などが賄賂を取りあげる第一の方法で、悉(ことごと)く皆、賄賂の多少で民事の勝ちまけも刑罰の軽い重いもきまると謂(い)うてよいので、総て刑事は明律及び特別に定められた法令により、又民事は大典会通並びに裁判先例によりて処断するというのは殆ど只表面のみの有様である。
●殊に小役人が賄賂をとる弊害は実にお話にならない程で、全く無罪の人でも時に捉え来たりて賄賂を責め、もし思うように賄賂を出さなければ、これを実刑に処することがある。又怨みを結んだ者に対しても時としてはこの忌まわしい手段をとることがある
●近年になってはこれらの役得を測って、その金額を前納して、その賄賂のおかげで郡守県令になる者が多く、従って彼等はその償いを得る為に、罪も無い人民をヒドイ目に遭わす者があるようになった
●処罰ばかりでは無く、朝鮮では審問も一種の刑罰であることは、丁度我が旧藩の時の通りで、疑わしいと思えば証拠は無くてもスグ捕え来りてこれを審問し、疑うて居る通りに服罪しないと、酷い拷問をして、為に死に至る者が段々ある。そこで朝鮮では一度び捕らえられたら即ち刑罰を受けたと心得、審問も裁判も拷問も刑罰と同じ事に思うて居る位である。
●もし党派争いから裁判になるというと、拷問して拷問してその敵党をして服罪するか拷問死に死ぬるの他は無い有様に陥らしめるのである。又無罪と知りつつ只賄賂をとる目的で裁判にかけられた者がその賄賂を出さない時でもまた同様の呵責に逢い、酷い拷問を受けるのである。
●又裁判中捕らえ置くその牢獄も一種の処刑で、朝鮮の監獄は朝鮮の普通民家よりも一般に狭ま苦しく汚くて、空気の流通は悪しく、家族などが差入れをしてやらなければ、一粒の食を与えられないのが常で、たとい食物を与えられることがあっても、それは極少しでとてもそれで生命を繋ぐことはできず、少し長く繋がれると、大抵は病気にかかったり死んだりするのである。
●殊に驚くべきは民事の被告人でもこれを獄に繋ぐのである。何人でも大いに賄賂を使わねばこれをゆるして貰うことは出来ない。もし賄賂を促しても出さぬ時は、親類の者を捉えて来て賄賂の引き当てにすることがある。もしどうしてもその意に従わない時は、訴訟には勝つべき者でも、永く牢屋の中で月日を暮らさねばならぬ。
●こういう有様で、罪ある者も賄賂を納ればこれを逃れることが出来、罪の無い者でも賄賂を納めねば残酷な目に逢い、理があって勝つことが出来ず、無理無法をやっても太平で横行することが出来るという有様で、これではとても国力の伸張は望むことは出来ないのみか、日に益々萎靡(いび)するのみであるから、この今王三十五年の改革に、裁判制度も日本式に改めることになったのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/47

李氏朝鮮時代の監獄
【李氏朝鮮時代の監獄】

日本人や西洋人は「賄賂」に関して嫌悪感を抱くのだが、韓国や北朝鮮や中国は今も賄賂が横行しており、賄賂がないと何事も動かないとよく言われる。
ネットで「韓国 賄賂」をキーワードに検索すると膨大な事例がヒットするが、学校教員が保護者から受け取る包み紙だけで家が建つとか、お金があれば有罪が無罪になるというような話から、ゼネラルモーターズの正社員の地位を売るために480人が賄賂を支払っていたことが昨年末に発覚したことなど、日本人なら誰でも驚くような話がいくつも出て来る。
この国のエリート層には、昔の両班のように働かずに金が入る生活を理想とするような考え方が今も根強く残っていると考えれば良いのだろうか。

韓国W杯審判買収

その裏返しで、韓国の人びとは、賄賂で人を動かすことが出来ると考える傾向が強いようだ。
2002年のサッカーワールドカップで審判を買収したり、アメリカグレンデール市に従軍慰安婦像を置かせるために、市議を買収した話などは氷山の一角であろう。

セウォル号事件
【セウォル号事件】

2014年にフェリー船のセウォル号が転覆して300名以上の死者が出る痛ましい事件があった。この船はそもそも就航基準を満たしておらず本来は就航できない船であったのだが、海鎮海運側から約5千万ウォン(約5百万円)の賄賂を受け取った監督官庁の幹部が運行許可を出したことが問題となったという。
この事件がきっかけとなって韓国では2016年9月に「不正請託および金品授受の禁止関係法」という法律が施行されて、賄賂や接待文化が禁止されるようになったのだが、国会議員については対象外とされたことは理解に苦しむ話である。
もともと法律を守らない国なので、このような法律ができて賄賂や接待がなくなるかどうかは疑問が残るが、少しはこの国の悪弊が改善されることを期待するしかない。
http://toyokeizai.net/articles/-/130213

荒川五郎
荒川五郎

話題を荒川氏の『最近朝鮮事情』に戻そう。荒川氏はこの著書でいろんなことを観察して詳細に記録しているのだが、「朝鮮の党派」について書いているところは、今の韓国もその通りだと思った。

「●朝鮮には公党らしい党派は無いが、私党の類は沢山ある。…
●日本党とか、支那党とか、露国党とか、時により色々の名をつけるのだけれども、此れも、一時の便利都合の上からのことで、日本党とて永久の日本党でもなく、支那党とて何時までも支那党というワケではなし。
彼等の事大根性というも、別に根底のある根性でも無く、只(ただ)大国にたよって居れば自分の地位が安全であると云う所から、その時々の勢力ある、自分の都合のよいような方にたよるので、一定した主義では無い
●日本が一番勢力があれば、彼等はこれ迄の縁故や関係には拘わらないで日本について来る。しかし日本についても、そのうちで公使について居るのが地位が安全であるか、駐在軍司令官の機嫌をとった方が地位を得るによいかと、種々に思いを砕き、小策を弄し、お世辞追従をふりまくのである。もし彼等の追従お世辞でうまくおがみ倒されると、ツイ公使党とか司令官党とか云う党派ができるので、各国が互いに勢力を振えば各国党が出来、一国がその勢力をとっても、そのうちで種々の人党が出来るのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766869/48

韓国の告げ口外交

国が貧しくて、為政者も民衆も国を護る気概も無く武器もなかった当時なら、生き延びるためには強いと思う国に従属する以外に選択肢がなかったということは理解できるのだが、世界第11位のGDPの国に成長した今も、大国の権勢を笠に着て実力以上の国に見せようとする外交スタンスが続いていると考えるのは私ばかりではないだろう。

ティラーソン
【ティラーソン米国務長官と尹炳世(ユン・ビョンセ)韓国外相】

「虎の威を借る狐」のような外交を繰り返すことはつまるところ自国の価値を貶めることであるし、そんな国が嘘で固められた歴史で自国の立場を大声で主張し続けても、いずれその主張の嘘が露呈して、世界から相手にされなくなる日が来ることになると思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。
学校やマスコミで拡散されてきた歴史叙述のどこまでが正しいのか、考えるきっかけになれば幸甚です。

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-189.html

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-190.html

朝鮮戦争の緒戦で北朝鮮軍が韓国領の9割以上を制圧できたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-266.html

朝鮮戦争で、国連軍を勝たせないようにしたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-272.html

スターリンが朝鮮戦争に米国を誘導したことを示す極秘文書が発見されている
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-276.html

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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