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信州の諏訪大社を訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行1日目

長野県中部の諏訪湖の近くにある「諏訪大社」に是非行ってみたいと思って、諏訪から南信州を巡る二泊三日の旅程を組んで先日行ってきた。しばらく、この旅行のレポートを書くことにする。

旅行に行く前に事前に下調べをしたのだが、恥ずかしながら「諏訪大社」に「上社前宮」「上社本宮」「下社春宮」「下社秋宮」の4宮もあることを、これまで知らなかった。諏訪湖の南に上社の2宮があり、諏訪湖の北に下社の2宮があるのだが、大阪から行くにせよ、東京から行くにせよ、諏訪方面に行って4宮を見学するだけで、半日はかかるコースだ。

うなぎ小林

早朝に大阪の自宅を出て、11時頃にあらかじめネットで調べていた「うなぎ小林本店」という店で早めの昼食をとった。
11時に開店の店なのだが、開店待ちのグループが私のほかに5グループほどあった。
四万十川の天然鰻を備長炭の炭火でふっくらと焼き上げてあってタレも旨くて満足だった。
http://www.tamatebako.ne.jp/kobayashi/index.html

昼食を終えて、最初に「上社前宮」に向かう。
この場所は諏訪信仰発祥の地であるとの伝えがあり、古来は栄えたようであるが、他の3宮に比べると規模がかなり小さくて訪れる人も少なく、土産物を売る店舗も見当たらない。

古くはこの前宮で全ての祭祀が執り行われていて、現人神(あらびとがみ:生き神)である「大祝(おおほおり)」と呼ばれる神職として、諏訪家が代々ここに「神殿(こうどの)」と呼ばれる住居を構えていたという。
ところが室町時代に諏訪家一族で抗争が起こり、祭祀を司る「大祝諏訪家」と嫡流で武士であった「諏訪惣領家」とに分裂。戦国時代に入って惣領家が諏訪頼満の時代に大祝家を滅ぼし、惣領家が大祝をも務めて祭政一致のもと武力と権力を強め、「大祝」がこの場所から居住地を移したのちは、前宮は急速にさびれていったのだそうだ。
「諏訪大社と諏訪神社」というHPによると、「上社前宮」は、明治時代の半ばまでは「上社本宮」の摂社扱いとされ、「上社」は「本宮」1社だけであったという。
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/maemiya.htm

上社前宮十間廊

上の画像は「十間廊(じっけんろう)」という建物で、中世まで諏訪の祭政が行われた政庁の場なのだそうだ。昭和32年に火災で焼失し、その後再建されたとのことである。
この場所で、毎年4月15日に「御頭祭(おんとうさい)」という諏訪神社古来の行事が執り行われるという。このお祭りのレポートは先程紹介した「諏訪大社と諏訪神社」というHP に詳しく解説されている。
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.htm

上社前宮

諏訪大社「上社前宮」の拝殿は、「十間廊」から150mほど登ったところにあった。
御祭神は「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」で、「上社前宮」の御祭神である「建御名方命(たけみなかたのみこと)」の妃神だそうだ。また、御祭神は諏訪地方の土着の神様であるミシャグジ神とする説も有力だ。ミシャグジとは木や石に降り着く精霊・霊魂で、諏訪地方の土着の神様らしい。

現在の本殿は昭和7年に改築されたものだが、伊勢神宮の式年遷宮で不要となった古材(あるいは余材)を拝領して建てられたという。

上社前宮御柱

拝殿を取り囲むように4本の「御柱」が立っていて、上の画像は二之御柱と三之御柱が写っている。この柱は上社も下社も7年目に執り行われる有名な「御柱祭」で新調されることになる。
拝殿は森の中にあり左手には小川が流れて、この場所で小鳥の鳴き声やせせらぎの音を聞きながら何分かいるだけでなんとなく清浄な気分になれる、そんな場所である。

神長官守矢家史料館入口

「上社前宮」から「上社本宮」に至る途中に、「神長官守矢史料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)」という、ユニークな史料館がある。
守矢家は古代から明治時代の初めまで、諏訪上社の「神長官」という役職を代々勤めてきた家なのだそうだ。
現人神(あらびとがみ)である「大祝(おおほうり)」の下で実際の神事を取り仕切っていたのが「神長官」をはじめとする「五官祝(ごかんのほおり)」で、守矢家は上社の「五官祝」の筆頭であったのだ。
資料館の中には守矢家に伝わる貴重な古文書や史料が多数保管されており、そのうち155点が長野県宝、50点が茅野市の有形文化財に指定されている。

神長官守矢家資料館内部

また江戸時代後期の博物学者である 菅江真澄の記録に基づいて、上社で毎年4月15日に行われる「御頭祭(おんとうさい)」が江戸時代ではどのようなものであったかが復元されている。
今の御頭祭では剥製が用いられるのだが、江戸時代の御頭祭では、先ほど紹介した前宮の十間廊に、75頭の本物の鹿の首などが供えられたのだそうだ。生きるための食糧を狩猟することで得ていた時代の儀式が、今もこの地に残されていると理解すればよいのだろうか。
この史料館の展示物ではもちろん剥製などを使っているが、見ていてなかなか迫力がある。上の画像はスタッフの方から許可を得て撮影させてもらった御頭祭の展示物である。
守矢家の敷地の中に7世紀半ばの古墳があり、また諏訪の土着の神様であるミシャグジ神を祀る小さい神社もある。日本神話につながっていくスタッフの話も興味深く、広い敷地の中に長い諏訪の歴史が凝縮されていることを感じて結構楽しめた。

上社本宮回廊

次に諏訪大社4宮で最大規模の「上社本宮」に向かう。
東参道から境内に入ると「布橋」と呼ばれる全長67mの屋根付回廊がある。上の画像は「布橋門」と呼ばれるその入り口でその右には本宮二之御柱が立っている。

上社本宮弊拝殿

布橋を過ぎて左側に主要な国の重要文化財である弊拝殿、左右の片拝殿がある。いずれも天保6年(1835)に上棟式がなされ、諏訪立川流の2代和四郎富昌という有名な工匠の代表作なのだそうだ。

上社本宮神楽殿

布橋の北側には神楽殿がありこの場所で様々な神事が年間を通して行われるのだが、諏訪大社のHPで年間行事を確認すると、下社は農耕的な神事が多いのに対し、上社の神事は蛙狩神事や御狩神事など狩猟的な神事が多いのに特徴があるようだ。
http://suwataisha.or.jp/

法華寺

「上社本宮」の東側に法華寺があり、ここに、以前このブログで「忠臣蔵」のことを書いた際に紹介した、吉良上野介の孫の吉良義周(よしちか)の墓がある。
なぜこの墓に「世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」との解説がなされているのか、興味のある方は是非次のリンクを覗いてみてください。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-153.html

諏訪大社の宝物館や諏訪市博物館にも立ち寄り、そこに古文書や武具や道具や絵図などの展示があったのだが、昔の諏訪大社上社の境内図などの展示を見ると明らかに五重塔が書かれていた。

上社神宮寺

自宅に戻ってからいろいろ調べると、上社にも下社にも神宮寺があり、上社には五重塔、下社には三重塔があったようだが、いずれも明治時代の廃仏毀釈の時に仏教施設が撤去されたようである。このことを書きだすとまた長くなるので、別の機会に改めて書くことにして、ネットでみつけた「木曽路名所図会」(秋里籬島著、西村中和画、文化2年[1805]刊)の第四巻にある「上諏訪神宮寺」の絵を紹介しておこう。この絵の右にある寺が吉良義周の墓がある法華寺で、右下にある鳥居から右が上社本宮の境内である。

高島城

「上社本宮」から6kmほど進むと「諏訪高島城」がある。この城は明治8年(1875)に廃城となり、現在の建物は昭和45年(1970)に復元されたものである。厳寒のこの地は、江戸時代に流人を監禁する場所としてよく利用され、先ほど書いた吉良義周はここで監禁されて衰弱し、21歳の生涯を終えている。

高島城に続いて「下社秋宮」に向かう。

下社の御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、後兄八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)である。 下社の「春宮」と「秋宮」は、その名の通り、毎年春から夏には春宮に、秋から冬には秋宮に御神霊が遷宮する。その遷宮の儀式が毎年8月1日の「御舟祭(おふねまつり)」と2月1日の「遷座祭」なのだそうだが、「遷座祭」は大きなお祭りではないそうだ。
今年ももうすぐ「御舟祭」で、この大きなお祭りで御神霊が春宮からこの秋宮に遷されることになる。

下社秋宮神楽殿と狛犬

秋宮の境内中央に国の重要文化財の神楽殿がある。この建物も「上社本宮」の弊拝殿などを建築した二代立川和四郎富昌が同時期に造ったもので、国の重要文化財に指定されている。
両脇にある狛犬は青銅製の物としては日本一の大きさと言われているものだが、この狛犬は昭和5年に完成した後、第二次世界大戦で金属回収の国策の為に供出することを余儀なくされたためにしばらく狛犬がなかったのだそうだが、戦後35年に株式会社間組の神部社長が献納した旨のことが銅版に書かれていた。

下社秋宮弊拝殿と左右片拝殿

その奥にあるのが、弊拝殿・左右の片拝殿で、これらは安永10年(1781)初代立川和四郎富棟の製作によるもので、国の重要文化財に指定されている。

本陣岩波家

このすぐ近くに、江戸時代に参勤交代の大名が利用した「本陣岩波家」がある。昔の本陣はもっと広かったのだが、岩波家の内紛絡みで土地が分割され、皇女和宮が宿泊した部屋の道具や備品はこの本陣に残されているが、部屋自体は明治初期に岩波本家から分家した子孫が経営している「聴泉閣かめや」という旅館に残されているという。

本陣岩波家 庭

建物はかなり老朽化しているにもかかわらず十分な補修が出来ていないために、昔の面影を失っている部分もあるが、大名らが宿泊した部屋から見える庭は今も良く手入れされており、素晴らしい景観を残してくれているのはありがたいことだ。

続いて「下社春宮」に向かう。

下社春美や弊拝殿と左右片拝殿

鳥居をくぐって幅広い石畳の向こうに弊拝殿・左右の片拝殿がある。この建物は安永9年(1780)に高島藩の御用大工大隅流の伊藤長左衛門の作で、立川流の秋宮の弊拝殿と時を同じくして請け負われ、二重楼門造りという同じ図面をうけて大隅流と立川流とが腕を競い合ったものといわれている。そしてその結果は、大隅流の方が1年ほど早く完成し、建築費用も安かったのだそうである。

下社春宮の柱の彫刻

軒の装飾彫刻があまりに見事なので画像に収めておいたが、今の宮大工でここまで彫れる人が存在するのだろうか。

春宮の西に接して砥川という川が流れ、細い橋を渡っていくと「万治の石仏」がある。

万治の石仏

高さ2mくらいの半球状の自然石の上に仏頭を乗せた極めてユニークな石仏で、一度見たら誰しも忘れられない表情をしていて、見ているうちになんだか不思議に癒されてくる。
古くから地元の人々は浮島の阿弥陀様としてこの石仏を大切にしてきたそうだが、昭和49年(1974)の諏訪大社御柱祭を見るために、この地を訪れた芸術家・岡本太郎氏がこの石仏を絶賛したことから、それ以降観光客が訪れるようになったという。
胴体に万治3年(1660)と書いてあることから、「万治の石仏」と呼ばれるようになったが、その建立や背景については、何も記録がないので良くわからないのだそうだ。

浜ノ湯夕食

あいにく雨が降ってきたので宿泊先の上諏訪温泉「浜ノ湯」に向かう。
広い湯船にゆったりと浸かって、あちこち観光した疲れも吹っ飛んだ。
食事もおいしく頂けたし、行きたいところはほぼ予定通りに行けたし、大満足の一日だった。
(つづく)
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御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目

ホテルの朝食前に諏訪湖畔の散歩に出た。雲がかかって山の景色は見ることができなかったが、国の重要文化財である「片倉館」は見ておきたかった。
「片倉館」は諏訪に製糸業を起こした片倉財閥の2代目、片倉兼太郎氏が昭和3年(1928)に造った温泉施設で、レンガ造りのお城のような立派な建物だ。

片倉館

この建物は片倉財閥の創立50周年を記念して建てられて今も大衆浴場として営業しており、中には大理石の彫刻などが多数あるらしいのだが、営業時間は朝の10時からなので中に入ることはあきらめた。

朝食を終えてチェックアウトし、朝一番で諏訪大社下社「御柱祭」の最大の見せ場である「木落し」の舞台となる「木落し坂」を訪ねることにした。

木落し坂

「御柱祭」とは正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭であり、長野県指定無形民俗文化財に指定されているお祭りだ。
最近では平成16年(2004)、平成22年(2010)に行われており、次回は平成28年(2016)の春に執り行われる。

諏訪大社上社と下社の「御柱祭」は別々に行われ、「木落し」の趣は上社と下社で随分異なる。
上社の「木落し」は目処梃子(めどてこ)と呼ばれるカタツムリの角のようなⅤ字型の柱が御柱の前後にあり、これに氏子がしがみ付いて左右に揺らしながら傾斜角度30度の坂80mを下る。
下社の「木落し」は、最大傾斜40度の坂100mを氏子たちが御柱に馬乗りになり轟音を響かせながら坂を突き進んでいく。
上の画像は下社の木落し坂を下から見上げて写したものだが、この急坂の上から6~8トンの御柱が秋宮の四本、春宮の四本の計八本も落とされるのだ。
テレビなどで何度か「御柱祭」の画像を見たことがあるが、放送されるのはほとんどがこの下社の「木落し」であるように思う。

下社の木落しの動画がYoutubeで見つかった。これはすごい迫力だ。
http://www.youtube.com/watch?v=AN7A7CTewr0&feature=player_detailpage

木落し坂2

木落し坂の上に登って下を見ると、足が立ちすくむほどの急坂だ。この坂を氏子たちは御柱に乗り、何度も振り落されながら、再び左右から飛び付いて御柱の上に乗ろうとする。非常に勇気のいることだが、それをしないとこの巨木を制御することが難しくなる。
人が乗ることによって御柱と斜面との摩擦を大きくでき、柱を坂の下で止めることが可能となるのだ。もし御柱が横を向いて転がりはじめたら、見物客を巻き込む大惨事になる危険がある。

参考までに上社の木落しの動画も紹介しておこう。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=9EI6sojnKpQ
上社の木落しは目処梃子(めどてこ)のVの字を維持して美しく坂を下りることが重視されているように見える。

木落し坂を後にして、岡谷市にある「旧林家住宅」に行く。

旧林家住宅

レーヨンなどの化学繊維が開発されて次第に製糸業は凋落していくのだが、明治から大正、昭和の初めにかけて、生糸は日本の貿易輸出の中心で、日本の近代化を支えた花形の産業であった。明治42年にわが国は世界一の生糸輸出国となり、最盛期には外貨の5割を生糸で稼いでいたという。
諏訪地方は最盛期には、わが国の生糸の3割、輸出の5割を生産し、大いに繁栄していたのだが、その栄華の時代を偲ばせる建物が諏訪湖周辺にいくつか残されている。最初に書いた「片倉館」もそのうちの一つであるし、この「旧林家住宅」もその代表的なものである。

この住宅は、岡谷の製糸業発展の礎を築いた一人であり、鉄砲火薬店の経営や、福島県常磐単行の採掘など幅広く事業を手掛けた実業家・林国蔵の居宅で、平成14年に国の重要文化財に指定され、また平成19年には近代化産業遺産にも認定されている。

旧林家欄間

建築には最高級の資材を用いて当時の最高レベルの建築技術で建てられたとの説明があり、欄間の彫刻や仏壇の彫刻もまた素晴らしいものであった。
圧巻は離れの2階にある座敷。壁・天井・ふすまの全てに「金唐紙」が貼られている。

旧林家金唐紙

西洋建築の壁を飾る美しい装飾の皮を「金唐革」というが、「金唐紙」とは「金唐革」を真似て和紙で作られた壁紙のことで、ウィーン万国博覧会で出品して好評を得て外国にも輸出されるようになり、バッキンガム宮殿の壁にも「金唐紙」が使われたと言われているようだ。
しかし、いつしか「金唐紙」は作られなくなり製造法さえ忘れられて、この「金唐紙」を残す和室は、わが国ではここだけはないかとの説明であった。
建物だけでなく家具や調度品も素晴らしいものばかりで、説明員の方から詳しい説明を受けながら、結構楽しむことができた。

次に向かったのは高遠町の歴史博物館。高遠町の歴史についての資料の展示のほかに、正徳4年(1714)に江戸城大奥の大年寄の絵島が高遠の地で幽閉された事件(「絵島事件」)に関する資料が展示されているほか、絵島が幽閉されていた屋敷が復元されている。
「絵島事件」のことを書きだすとまた長くなるので、また別の機会に書くことにする。

次に、昼食の場所に選んだ「かんてんぱぱガーデン」に向かう。

かんてんぱぱガーデン

「かんてんぱぱ」というのは、伊那食品工業の登録商標だが、坂本光司氏の「日本でいちばん大切にしたい会社」という本に、この会社の事が詳しく書かれているのを読んで感激したことがある。

伊那食品工業は「自分で考えたものは自分で創り、自分で売る」という主義で、大手スーパーには商品を一切卸していない。販売は、直営店とネット・通販が中心の様である。
何よりも社員の幸せを第一とし、過去一度もリストラをせず、同業者と戦わず、大きな販路が目の前にあっても無理な成長を追わず、しかし成長への種まきを怠らない経営を続けて、寒天メーカーという斜陽産業のなかで48年連続して増収増益を果たしてきた凄い会社だ。今では国内の寒天マーケットの8割を占め、世界の寒天マーケットのトップ企業なのだそうだ。

地方の多くの製造メーカーが目先の売上高増加の為に大手スーパーに商品を卸して次第に価格主導権を奪われ、厳しい仕入れ価格を要求されて品質を落とし、独自の商品開発をすることを忘れて成長力を失ってしまった。リストラを余儀なくされてしまってた企業も少なくないのだが、大手流通に自社商品を流す戦略は正しかったのか。

伊那食品工業は地方の製造業がこれから進むべきモデルを示しているように思う。
製造メーカーが良いものを作ることにこだわり続け、消費者と直接つながる売り方に徹していれば、大手流通業者から買いたたかれることもないので無理してコストを下げて品質を落とすこともなく、着実に適正水準の利益を自社に蓄積することができる。
地元に利益を蓄積できてこそ、地元の人の多くを採用することができ、地元の人々に地元で幸せに暮らせる環境を提供できるのだと思う。

今の時代は良いものを作っていれば、大手流通ルートに乗らなくともネットで繰り返し何度も買ってくれる消費者がきっと出てきて、評判が高まるにつれ売上が全国に広がっていく。
宅配料金を加えても近隣のスーパーの価格よりも割安で、味や鮮度に勝る商品の味を覚えた消費者は、いずれ多くの農産物や海産物やその加工品などをネットで生産者から買うようになるだろう。これからは今まで拡大路線を走ってきた大手スーパーや卸業者等が次第に売上を減らして凋落していき、宅配にかかわる運送業者と、都心部の消費者を掴むことに成功した地方の生産者が潤っていく時代になるのではないだろうか。

「かんてんぱぱガーデン」は伊那食品工業の本社・北丘工場一帯の緑地の中にあり、広さは3万坪もあるという。その中にレストランや美術館やホールや健康パビリオンやショップなどがあり、駐車場は200台以上のスペースがある。この日はマイカーや観光バスで驚くほどの観光客が集まっていた。
http://www.kantenpp.co.jp/garden/index.html

私が入ったレストランは「寒天レストランさつき亭」。昨日はカロリーを摂りすぎたので、低カロリーの寒天料理を食べることにした。

寒天レストラン

上の画像は「寒天麺梅かつお」だが、これで128kcal。ざるそば1枚が441kcalでカロリーはその3割以下だが、これだけで充分お腹一杯になった。

次に向かったのは、伊那の名刹「光前寺」。
この寺の歴史は古く、寺伝によると平安時代の貞観2年(860)に本聖上人によって開山されたという。戦国時代に武田家・羽柴家などの武将の保護を受け、江戸時代には徳川家から六十石の寺領と十万石の大名格を与えられて隆盛を極めたが、明治初期の廃仏毀釈によって、多くの末寺を失ってしまう。
今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には多くの堂宇が残っており、広い境内全体が名勝指定を受けている。

光前寺三門

上の画像は参道の途中にある三門で、嘉永元年に再建されたものだ。また、参道の左右に或る石垣の隙間から、時々緑色に光るヒカリゴケが見えることがある。

この三門のすぐ右に国の重要文化財である弁天堂があったのだが、写真を撮るのを忘れてしまった。室町時代の建築物で、光前寺の建築物の中で最も古いものだそうだ。

本堂を左に折れると、この地で飼われていた早太郎という犬が怪物を退治したという伝説があり、「霊犬早太郎」の墓石があり、そのすぐ近くに長野県宝の三重塔がある。

光前寺三重塔

この塔は文化3年(1806)の建築で、南信濃唯一の塔なのだそうだ。

光前寺ヒカリゴケ

客殿の庭園に向かうと、本坊の外縁の床下にヒカリゴケが太陽光に反射して美しく光っていた。あまりいい画像が撮れなかったが、これだけ大きなヒカリゴケの群生を見たのは初めてだ。

光前寺庭園

庭園は夢窓国師により築かれたとされる築山式枯山水で、今の季節は緑が美しい。境内の空気と湿度が私には心地よく感じられ、庭を眺めているだけで癒される場所だ。
花の咲く季節や、紅葉の季節にはまた違う楽しみ方になるだろう。
参拝者には和菓子とお茶が付いていて、落雁が素朴な味でおいしかった。

この光前寺のすぐ近くに、国の重要文化財に指定されている「旧竹村家住宅」がある。

旧竹村家住宅

この住宅はもともと天竜川東岸の駒ケ根市中沢大津戸(おんど)という場所にあったのだが、重要文化財に指定後に駒ケ根市が譲り受けてこの場所に移築したものだそうだ。
竹村家は江戸時代に代々名主を務めた家柄で、この家が建築されたのは江戸時代中ごろとされているが、こんなに大きな茅葺の家は珍しい。
隣には「駒ケ根郷土館」があり、建物は大正期に建てられた旧赤穂村役場を移築したもので、民俗文化財などが数多く展示されている。

次に向かったのは「元善光寺」。

元善光寺

推古天皇十年(602)に信州麻績の里(おみのさと:現在の長野県飯田市座光寺)の住人である本多善光公が、阿弥陀三尊像を安置したのがこの寺の起源で、その後本尊は水内郡芋井郷(みのちぐんいもいごう:現長野市)に移築されたと伝えられている。その移築先が長野市にある「善光寺」で、飯田市にあるこの寺は「元善光寺」と呼ばれるようになった。
宝物殿には雪舟筆の「寒山拾得図」や釈迦涅槃像などの寺宝が展示されている。

4年前に長野市の「善光寺」に行ったのだが、昔から長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ「片詣り」と言われてきたのだが、これでようやく両方を詣ることができてスッキリした気分になれた。

下伊那地域は古墳群が多く、弥生時代から中世までの遺構なども多く発見されているし、古い寺社も数多くある。また歌舞伎や人形浄瑠璃や獅子舞など地域の文化も興味深い。
7年に一度春に行われる飯田市の「お練り祭り」には長さ25m・高さ3.2mの日本一の獅子が登場するそうだが、いちど見てみたいと思っている。

予定の観光を終えて、宿泊先である昼神温泉の「お宿山翠」に向かう。
昼神温泉は昭和48年(1973)に旧国鉄のトンネル調査時に良質のお湯が湧出し、それ以来開発が進んで今では40件宿泊施設があり、年間70万人近くの観光客が訪れるのだという。
「美人の湯」とも言われているが、泉質は無色透明のアルカリ性単純硫黄泉で、独特のヌメリ感があるもののさらさらしていて、入浴すると肌がツルツルになる。

お宿山翠

お風呂も良かったし、食事も美味しくいただけたし今日も大満足の一日だった。
(つづく)

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昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目

旅館の朝風呂につかってから、昼神温泉の「朝市」に出かける。
観光地で「朝市」を行なっているところは少なくないが、昼神温泉の朝市の規模は思ったよりも大きかったし、朝の6時だというのになかなかの賑わいだった。昼神温泉の朝市は朝の4月~10月は6時から8時まで、11月~3月は6時半から8時までの短い時間なのだが、毎日欠かさず開催されているというのがすごい。

昼神温泉朝市

地元の農産物やその加工食品などをたくさん並べておられて、浴衣姿の観光客が袋をいくつもぶら下げて宿に戻っていく。私もブルーベリーやトマトやトウモロコシやジュースなどを買い込んだが、販売しておられる方の表情を見れば、温泉の宿泊施設と地元の生産者とが共存共栄の関係になっていることがよくわかる。

昔は有名な温泉地に行くと、土産物屋や饅頭屋や飲食店などがいくつも並んで賑わっていて、浴衣姿の観光客がいろんな店に入って買い物をしたりする風景が情緒を感じさせたのだが、最近はどこでも大きなホテルや旅館が建てられて、建物の中に大きな食事処や土産物コーナーや喫茶コーナーや大浴場などを作ってしまったために、観光客が外に出て買い物をしたりする必要がなくなってしまった。
宿泊施設の中にそういう施設を作ることは観光客の利便性を高めるためではあるのだが、そのために街を歩く観光客が激減し多くの土産物屋などの商売が成り立たなくなって、昔のような温泉地の情緒を失いつつある観光地は少なくない。
昔は宿泊施設と地元の土産物屋や飲食店とは共存共栄の関係にあったと思うのだが、今では多くの観光地で、せっかく多くの観光客が集まっても、潤うのは宿泊施設ばかりで、地元の店舗はあまり恩恵を受けなくなってしまっている。

昼神温泉の朝市は、温泉の近くに住む農家の方が、高齢化・過疎化が進み遊休荒廃地が拡大していく中で、地域の活性化と温泉観光客のために何かできないものかと、昭和56年1月から村営鶴巻荘の前に箱を並べ、毎日曜日の朝のみ持ち寄りの農産物等の販売を始めたことが予想以上に反響を呼んだことから始まったのだそうだ。

昼神温泉朝市2

しかしながら、ただ余剰農産物を販売するだけでは村おこしにはならないので、昭和59年に農産加工センターを建設し、「漬物」「味噌」「菓子」などの製造をはじめ、その後はメンバーのアイデアで「五色もち」「柿酢」「阿智のふるさと漬」などのヒット商品を生み出し、今では地元で働くことを希望してUターンする若者も出てきたという。

長野県阿智村智里東農事組合法人の方が書いた「朝市で築く生きがいの里活動」という文章を読むと、昼神温泉朝市がどうやって拡大し、活性化していったが良くわかる。
http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f89/17.htm

新製品の開発などが軌道に乗るまでは苦労の連続であったとは思うが、この成功事例は、観光地に近い他の農村地帯の村おこしの参考になるのではないだろうか。前回の記事で伊那食品工業のことを書いたが、地方の生産者が成功するためには、消費者に直接販売することに力を注ぐことが重要なのだと思う。

この日の当初の旅程は、ロープウェイに乗って富士見高原で遊ぶ予定であったのだが、時折雨が降る天候のために取りやめ、最初に信濃比叡広拯院(しなのひえいこうじょういん)というお寺に向かうことにした。

信濃比叡広拯院伝教大師像

昼神温泉のある場所は長野県阿智村だが、この村に櫻井三也(さくらいみつなり)さんという宮大工がおられる。私と同世代の方だが、この方が棟梁になってこのお寺が建築されたことをネットで知って、今回の信州旅行で是非訪れてみたいと思っていた。

伝教大師(最澄:767-822)は比叡山を開いたわが国の天台宗の開祖だが、「叡山大師伝」という書物に、伝教大師が弘仁8年(817)に東国教化のために東山道の神坂峠(みさかとうげ)を超えて美濃から信濃に入られた際、あまりに急峻な峠道に難儀され、旅人の便宜を図るために、美濃側に「広済院(こうさいいん)」、信濃川に「広拯院(こうじょういん)」という布施屋(旅行者の一時救護・宿泊施設)を建てたという記録があるのだそうだ。

広拯院月見堂

美濃側の「広済院」の位置は特定されていないが、信濃側の「広拯院」は現在の「広拯院月見堂」が、その跡だと言われている。上の画像が「広拯院月見堂」だ。

信濃比叡根本中堂

伝教大師の足跡が明らかであるこの「広拯院月見堂」の近くに、浄財を集めて新たな天台宗の宗教施設が建てられることとなった。比叡山延暦寺から「信濃比叡」の称号を授かり、比叡山にあるものと同一の伝教大師像が建てられて、平成17年には櫻井三也さんらによってこの根本中堂が完成したのだ。

根本中堂彫刻1

根本中堂はなかなか立派な建物だった。
モデルとなる建物がない建物の図面を描き、必要な資材を集め、均整のとれた美しい出来栄えで完成させ、柱の彫刻もなかなか見事なものである。これから何百年もの間通用するだけのものを残そうとする宮大工の心意気を感じた。

根本中堂天井

この建物の建築にどれだけの資金が必要だったかは聞かなかったが、伝教大師の聖地でもあることから、全国の天台宗の寺院や信者の方から多くの浄財が集まったそうである。根本中堂の中には、浄財を奉納された方の芳名帳が掲示されている。

宮大工の櫻井さんの会社(三清建築)のHPで櫻井さんのプロフィールが読める。
http://miyadaiku.info/

櫻井さんは観光旅行で訪れた英国で、古い建築物や道具を大切にする習慣を目の当たりにして古民家を守る必要性を痛感され、古民家のある景色を守る古民家再生事業実行委員会委員長をも務めておられるという。

上記HPの中から、櫻井さんの言葉をいくつか引用させていただく。
「減りつつある古民家は地域の宝。田舎らしい風景をみせることこそが、これからの観光だ」
「このままでは、日本から田舎らしい風景がなくなる。今動き出さねば次世代に技術も引き継げず、古民家が残せなくなる」
「100年の歴史を感じさせる柱や梁(はり)を見て育った人が帰って来るのは、家族に会うためだけではなく、建物に郷愁と愛着を感じているから。それがなくなれば、ふるさとへの思いは薄れる。Uターンや交流人口を増加させるためにも、古民家は残さねば」

いくら古い文化財が残されていても、その周りの古い街並みが消滅してしまっていれば、観光地としての価値は半減してしまう。古民家に住むことは不便なことかもしれないが、古い街並みを残すことが、将来的に大きな価値を生み、人々の郷土愛の拠り所になるという櫻井さんの考え方を大切にしていきたいものである。

信濃比叡広拯院の駐車場の近くに、門前屋というお店がある。
広拯院の尼僧から、根本中堂が完成してまだ日も浅い頃にこの店の玄関に白い蛇が現われ、今もその白蛇を門前屋で見ることができると聞いたので、ここでコーヒー休憩を取ることにした。
店主に白蛇を見せてもらったが、ウサギのように胴体が白く目が赤い、実に綺麗な蛇だった。撮影は遠慮したが、美しい蛇の写真は門前屋のHPで見ることができる。
http://shinanohiei-monzenya.com/meibutsu.html

次に、武田信玄公の終焉史跡とされる「長岳寺(ちょうがくじ)」に向かう。
この寺は平安時代の弘仁年間に伝教大師によって創建されたとされているのだが、詳しいことはよくわからない。

長岳寺

武田信玄は元亀三年(1572)の10月に、将軍足利義昭の求めに応じて織田信長を討つために甲府を発っている。そして遠江の三方ヶ原(みかたがはら)において徳川家康軍を圧倒的な強さで打ち破り、三河の野田城に進んだという。

長岳寺のパンフレットによると、信玄公は野田城攻めの最中に病が重くなり、三河からの帰途、元亀4年(1573)4月12日に信州国駒場(長野県下伊那郡阿智)の山中で亡くなり、信玄公の身代わりを甲州に送り、遺体は裏山で火葬に付した旨のことが書かれているが、信玄の墓が昔からあったというわけではなく、寺の境内にある信玄の供養塔が建てられたのは昭和49年とかなり新しいものである。

長岳寺供養塔

その供養塔が建てられた経緯が記された案内板を読むと、近くに信玄公火葬塚と伝えられる場所があり、そこに灰と骨粉が確認できたので、それをこの供養塔に収めたと説明されていたが、どうも釈然としない。その火葬塚の場所も書かれておらず、その骨粉が信玄の物であると断定する根拠もよくわからない。
信玄が亡くなった場所が、信州国駒場の山中でということについては、『小山田信茂宛御宿堅物書状写』という古文書で確認ができるようなのだが、この長岳寺に信玄の遺体が運びこまれたことが明記されているわけでもなさそうだ。

そもそも信玄公終焉の地については愛知県北設楽郡田口(現在・設楽町)・長野県下伊那郡根羽村・平谷村・浪合村・駒場(現在・阿智村)と諸説がある。中でも有力とされるのが阿智村駒場説と根羽村横畑説なのだそうだ。
信玄の墓とされているものも、根羽村横旗の信玄塚のほか、山梨県甲府市の大泉寺と恵林寺、長野県佐久市の竜雲寺や諏訪湖などもあるという。
私には、長岳寺の伝承をそのまま素直に信じて良いものとはとても思えない。

また信玄の死因についても、結核説やら胃がん説やら鉄砲で狙撃されたという説やらいろいろある。一人の武将の死がこれほど謎に包まれていることは珍しいことだと思う。

武田信玄

武田家の逸話や事績などが書かれている『甲陽軍鑑』によると、武田信玄は遺言として、「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」と述べたそうなのだが、信玄の死後わずか10日後の4月25日付の越中の河上富信という人物から上杉家家臣の河田長親に宛てた書状には「信玄が病気だという噂だが、死んだとも言われていて怪しい」という趣旨のことが書かれているそうだ。織田信長も徳川家康も、信玄が死亡した報告を受けていたという。
信玄の終焉の地や死因などに諸説があるのは、それでも信玄の死を3年間秘匿しようとした武田家が、信玄が死亡したという伝聞を打ち消そうとして、敵を攪乱するためにわざといくつもの嘘の情報を流して工作したからなのかも知れない。

それにしても、なぜ信玄は遺骸を諏訪湖に沈めよと言ったのだろうか。
諏訪湖は武神の諏訪大明神の鎮まるところであり、武田信玄は諏訪大明神を篤く信仰していたという。諏訪大社ゆかりの側室・諏訪御料人との間で生まれた勝頼を後継者とした信玄は、死しても諏訪大明神の加護を得て、諏訪湖から勝頼の活躍を見届けたかったのだろうか。

11時を過ぎたので、早目の昼食に信州そばで有名な「おにひら本店」に行く。
人気の店舗だけあってこんな時間から客席はほぼ満席状態だった。ほとんど全員が3人前の「おにひらそば」を注文していたので、私も同じものを注文した。

おにひら本店そば

画像の通り今まで見たことのないような大ざるで、2人で食べるのにちょうど良かった。

天候が良くなかったために富士見高原に行けなかったのは残念だったが、3日目も結構楽しんで帰途に就くことができた。
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日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて

高校時代の教科書に島崎藤村の『千曲川旅情の歌』が出ていて、リズムが良いので何度も口ずさんだ記憶がある。

「小諸なる古城のほとり   雲白く遊子かなしむ
みどりなすはこべはもえず 若草も藉くによしなし…」

藤村が歌った小諸城址とはどんな場所なのか、ずって前から行って見たいと思っていたのだが、たまたま藤村とゆかりのある中棚旅館が予約できたので、長野県に行くついでに、修験道とかかわりのある社寺などをおりまぜて二泊三日の旅行をしてきた。

早朝に自宅を出て約5時間で小諸市懐古園の第一駐車場(0267-22-0296)に着き、まず小諸そばで腹ごしらえをしてから小諸城址の見学に向かう。

パンフレットによると小諸城は、長享元年(1487)に大井光忠によって鍋蓋城(大手門北側)が築かれ、その子満安(光為)が、現在の二ノ丸付近に乙女城(白鶴城)を築いたが、戦国時代に武田信玄が東信州を治めた頃に山本勘助らによって現在の縄張(設計)がなされ、おおよそ現在の城の原型が作られたとされ、のちに豊臣秀吉が天下統一した頃、小諸城主となった仙石秀久により城の大改修と城下町の整備がなされ、堅固な城を完成したという。

その後仙石氏は上田城に転封となり、その後松平氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川氏と藩主が目まぐるしく変わったのだが、元禄15年(1702)に牧野康重が入封した後は国替えが行なわれず、第10代の牧野康済が城主の時に明治を迎えている。
廃藩置県を迎えてこの城は廃城が決定し、しばらく荒れるに任せたようだが、明治13年(1880)に懐古神社が祀られ、以後懐古園として整備されて現在に至っている。

この小諸城址は「日本百名城」に選ばれており、また桜の名所としても有名で「日本さくら名所百選」にも選ばれている観光地である。城郭が城下町よりも低地にあるのは全国的にも珍しく、このようなタイプの城を「穴城」と呼ぶのだそうだ。

小諸城址 大手門

小諸駅の北側に慶長17年(1612)に仙石秀久によって築かれた大手門(国重文)がある。

小諸城三之門

地下道を潜って小諸駅の南側に元和元年(1615)に仙石忠政によって築かれた三の門(国重文)がある。
正面の「懐古園」と書かれた扁額は、徳川宗家16代当主の徳川家達(いえさと) が揮毫したものなのだそうだ。

小諸城址 石垣

二の丸跡に料金所があり入場すると、見事な石垣が視界に入ってくるのだが、右側の二の丸石垣は昭和になって復元されたものだという。

小諸城址 島崎藤村像

黒門橋を渡って少し行くと藤村記念館があり、その前に島崎藤村の銅像がある。記念館には、藤村の自筆原稿や愛用品、有名な作品の初版本などが展示されていた。
島崎藤村は明治32年(1899)に小諸義塾の英語・国語の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間この町で過ごし、函館出身の秦冬子と結婚して三人の子供を授かった。『千曲川旅情の歌』はこの頃の作品で、明治34年(1901)に刊行された『落梅集』のなかに収められているという。
しかし、『破戒』の執筆に専念するために明治38年(1905)に小諸義塾を去って上京するも、その年に三女を失い、その翌年に『破戒』を自費出版した直後に、長女と次女を相次いで失っている。いずれも死因は栄養失調であったとのことだが、有名な明治の文豪が、若い頃にこんなに貧しい生活を送っていたことは記念館の展示物を読んで初めて知った。

小諸城址 千曲川

城内をしばらく進むと『千曲川旅情の歌』の歌碑があり、水の手展望台があってそこから千曲川を望むことができる。藤村はこの景色を何度も観たことだろう。

小諸城 天守石垣

藤村歌碑の近くの東屋から本丸の石垣を眺める。見事な野面積みの石垣で、画像の左側の出っ張った部分が天守閣の石垣である。天守閣は寛永3年に落雷で焼失したのだそうだ。

本丸の中に進むと懐古神社があり、再び黒門橋を渡って元に戻るのだが、徴古館で小諸藩の武具や衣装などを見学したのち、小諸義塾記念館に向かう。

小諸義塾記念館

小諸義塾は明治26年(1893)に、教育者でありキリスト教の牧師でもあった木村熊二によって誕生した私塾で、その教育方針は知識の習得だけではなく、正義に生きる強靭な精神の持ち主を養成することであった。島崎藤村をはじめ著名な教師陣がいたことから、向学の志に燃える生徒が多数集まって発展したという。
しかしながら日露戦争を契機として教育の国家主義化が進み、小諸義塾の自由主義的な教育への風当たりが強まるなかで、町の補助金も減らされて経営が厳しくなり、明治39年(1906)に閉校となってしまったという。

小諸城址から次の目的地である旧中込学校校舎(0267-68-7845)に向かう。

旧中込学校校舎

下中込村(現佐久市)出身の市川代治郎が設計し1875年に竣工した小学校の校舎で、国の重要文化財に指定されていて、現存する洋風建築の小学校としては全国最古の建物なのだそうだ。
美しい建物なので、中に入りたいところだが、今年の7月下旬までは耐震工事の為閉館していたのは残念だった。

龍岡城五稜郭

次の目的地は龍岡城跡(0267-82-0230)。
文久3年(1863)、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨(のりかた)は、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得たのだが、西洋の軍学に関心を持ち砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として稜堡式城郭(星形要塞)を設計。慶応3年(1867)4月には城郭内に御殿などが完成したのだが、すぐに明治維新を迎え、明治5年(1872)に建物のほとんどは解体されてしまったという。現在、当時の建物は台所が1棟残されているだけだが、予約していなかったので内部を見学することは出来なかった。

Tatsuoka_Castle_1975.jpg

五芒星形の西洋式城郭はわが国に2つしかなく、もう一つは函館の五稜郭である。
廃城となった後は城内のほとんどが農地に転用され、中央部分は小学校となっている。Wikipediaに空から見た龍岡城の写真が出ているが、もう少し原型に近い形で残して欲しかったと思う。

この龍岡城から東に少し進むと、古来から佐久地方の総社として信仰を集めた新海三社(しんかいさんしゃ)神社(0267-82-9651)がある。この神社には神仏習合時代の三重塔が今も残されている珍しい神社なので、是非カメラに収めようとして旅程の中に組み込んでいた。

新海三社神社鳥居

これが新海三社神社の鳥居だが、立派な木製の鳥居ながら何故か朱塗りがされず、太い注連縄が特徴的である。この鳥居から真っ直ぐな長い参道が続いている。
車は参道を進めないので、左に折れて駐車場に向かう。

この神社の主祭神は佐久地方を開拓したとされる興波岐命(おきはぎのみこと)で東本社に祀り、その父神・建御名方命(たてみなかたのみこと)を中本社に、伯父神・事代主命(ことしろぬしのみこと)を西本社に祀っている。このように、当社には3つの社があることから新海三社神社と呼ばれている。

新海三社神社 信玄戦勝祈願書

古来から武将の崇敬が篤く、源頼朝は社殿を修理再建し社領を寄進し、武田信玄は永禄8年(1565)の上州箕輪城攻略の際、戦勝祈願文を奉って勝利したことから社殿の修理を行なったという。神社の案内板の左半分に、その時に信玄が奉った「願書」の全文が紹介されていたが、その最後のところで僧侶が「神前に於いて三百部の法華経王を読誦し、もって神徳に報謝すべし」とあるのは非常に興味深いところである。
戦勝祈願にせよ何にせよ、神主が祝詞をあげて終わったのではなく、神前で僧侶が読経することが古き時代の祈禱行事の中心であったことが窺える

新海三社神社拝殿

上の画像は参道から見た拝殿だが、杉並木が150m近く続いていた。

新海三社神社 中本社と西本社

拝殿の裏に回ると中本社と西本社が並んで建っている。

新海三社神社東本社と三重塔

そして境内の東側に東本社(国重文)と三重塔(国重文)がある。いずれも室町時代後期の建物である。

もちろん神社が塔を建てるわけがなく、以前ここにあった新海山上宮本願院神宮密寺という別当寺の建物が残されているわけだが、他の建物は明治の神仏分離で神社から切り離されて壊されてしまったようだ。
本来ならこの三重塔も破壊される運命にあったのだが、案内板には三重塔についてこう書かれていた。

「新海三社神社の神宮寺の塔として建立され、明治維新の排仏毀釈の際には神社の宝庫として破却をまぬがれた。風鐸の銘により永正12年(1515)の建立と考えられる。」

このブログで神社に残されている三重塔をいくつか紹介したが、兵庫県の柏原八幡神社の場合も良く似た話で、神宮寺であった乗宝寺の持ち物であった三重塔に安置されていた大日如来を取り除いて、この塔を柏原八幡神社の「八幡文庫」と呼ぶことで取壊しを免れている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

また、新海三社神社三重塔の案内板にはつづけてこう書かれていた。
「様式に和様を主としながらも随所に禅宗様が取り入れられており、初重と二三重の垂木の方向の違いなどにそれが見られる。」

新海三社神社三重塔 垂木

始めは何を書いているのか意味がよく分からなかったのだが、三層の軒回りをよく見ると垂木の方向が初層と2・3層で異なることがわかる。
初層は扇のように垂木が均等に広がっているが、2・3層は軒に垂直となるように平行に並べられていることがわかっていただけるだろうか。

明治の廃仏毀釈で壊された神宮寺の文化財の一部が、新海三社神社のすぐ近くの上宮寺というお寺に残されているようだ。新海三社神社から南に300m程度南にあって、事前にわかっていたら旅程に入れていたところなのだが、次のURLの写真などを見ると、安普請の建物に仁王像などが置かれていて心が痛む。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/uemiya.htm

新海三社神社 石仏

新海三社神社の境内横の駐車場の脇に、石像が沢山並んでいたので、カメラに収めておいた。はじめは廃仏毀釈で棄てられた神宮寺の石仏ではないかと思ったのだが、よく見ると大半の石に男女の人間が対になって彫られている。いわゆる双体道祖神と呼ばれるもののようだが、路傍にあったものをこの場所に集めて並べたと考えられる。

信州には安曇野や松本市には多くの道祖神が残されていて、佐久地方にも少なくないという。風工房さんの「風に吹かれて」というサイトに信州佐久平の双体道祖神の画像がいくつか紹介されているので比較していただくと良い。
http://blowinthewind.net/doso/bdoso-sakudaira.htm

新海三社神社のものは相当風化が進行しているので、上記サイトに紹介されているものよりも相当年代が遡るものだと思われるが、何世紀もの間、庶民の信仰を集めてきた道祖神の石像を眺めていると、石仏とは異なり、みんな笑顔でいるようでなんとなく心が和んでくる。
(つづく)
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【ご参考】
このブログで、日本百名城についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-229.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-397.html

下呂温泉から国宝犬山城へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-201.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて~~高知旅行1日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-144.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html


苔むした美しい寺・貞祥寺と島崎藤村ゆかりの中棚温泉

新海三社神社の神仏習合の景観を楽しんだのち、次の目的地である貞祥寺(ていしょうじ:0267-62-0325)に向かう。

貞祥寺は室町時代の大永元年(1521)に前山城主の伴野貞祥が、祖父と父の追善のため開基した曹洞宗の古刹である。

貞祥寺 惣門

古い参道には苔が密生していて、その先にはこの寺最古の建造物である惣門(長野県宝)がある。

貞祥寺 山門

惣門を潜ると、増長天と持国天の仁王を左右に配した茅葺の山門(長野県宝)が見える。
山門中庭は樹齢450年と言われる杉や銀杏の大木に囲まれて陽光を遮り、苔の成育に最適の環境なのだろう。地表を覆う美しい苔の上に柔らかい光が差し込む景色は素晴らしかった。

貞祥寺三重塔

山門を抜けて境内の一番奥に進んで石段を登ると、見事な三重塔がそびえ立つ。この三重塔も長野県の県宝に指定されている。

この塔についてネットで調べると、明治の廃仏毀釈で廃寺とされた信濃松原神光寺の三重塔を明治3年にこの貞祥寺に移築したということが解説されていた。

では信濃松原神光寺とはどのような寺であったのだろうか。
minagaさんのホームページで松原神光寺について詳しく調べられているが、それによるとこの寺は松原湖*南東の長湖(ちょうこ)に突き出た半島上にあり、松原大明神(現在の松原諏方神社)の別当寺で、佐久地方南部の信仰の中心であったようなのだ。その歴史は古く、天長3年(826)慈覚大師の開基とも伝えられており、5ヶ寺の末寺があったという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_sinkoji.htm
*松原湖:長野県南佐久郡小海町にある湖。猪名湖(いなこ)・長湖・大月湖という3湖の総称であるが、一般には3湖の中でも最大の猪名湖単体を指す。

神光寺地図

神光寺が存在した場所については、松原諏方神社のホームページにあるアクセスマップをみると、神社と寺の位置関係がよく分かる。
http://matsubarasuwajinja.com/access/

また神光寺の末寺であった海尻山医王院薬師寺のホームページによると、
「『神』という名が寺名に付いているとおり神と仏とが互いに融和し、ともに信仰の対象とされる神仏習合の道場でありました
 甲斐武将の武田信玄の厚い帰依をうけた松原諏方神社の別当寺として、また当院をはじめとする五ケ寺の本寺として、佐久地方南部の信仰の中心でありました。とくに武田信玄と信濃神光寺とには深い関係があったようです。戦勝祈願のために『三十三人の僧侶を集めて、三十三部の法華経を読誦させた』『神馬・神馬銭の寄進した』などの記録が、奉納された祈願文から見て取れます。
 しかし、江戸時代より明治に亘り四度の法難に遭い、徐々にその力を失っていきます
。…」と書かれている。下の画像は医王院薬師寺のホームページで紹介されている寛政3年(1791)の神光寺の古地図で、多くの堂宇が描かれている。
http://shinshu-iouin.jp/history

神光寺

神光寺は神仏習合の聖地であったのだが、この寺が力を失った原因となった「四度の法難」とはどのような出来事であったのか。この点について医王院薬師寺のホームページには、明治期の法難(廃仏毀釈)以外のことが何も書かれていないのが気になる。

再びminagaさんのホームページに戻ると、「四度の法難」にあたる具体的な出来事が記されている。
① 文政12年(1829)に松原村で大火があり、三重塔、本地堂、十王堂、三王堂、惣門、神殿、阿弥陀堂、観音堂を焼失したこと。
② 弘化2年(1845)には三重塔再建の工作小屋から出火して、塔婆再建用材や仮本地堂、本堂を類焼したこと。(三重塔は嘉永2年[1849]に完成)
③ 文久3年(1863)から本堂の再建が始まるが、慶応元年(1865)暴風雨のため建築途中で倒壊。
④ 明治元年(1868)神仏分離で住職は還俗し、再建工事が頓挫し、寺は廃絶となる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_sinkoji.htm

短い期間によくこれだけ悪いことが重なったものだと誰でも思うところだが、たとえ火事による焼失がなかったとしても、明治元年の廃仏毀釈でこの寺が破壊されていた可能性はかなり高いと思われる。

明治元年の神仏分離で神光寺の第七十九世住職・光俊(こうしゅん)は、僧侶の職を辞することを強いられ、明治2年(1869)に藤島一學氏と改名して神職となり、本尊の薬師瑠璃光如来は末寺である海尻山医王院薬師寺に遷され、三重塔は明治3年(1870)に金112両2分で貞祥寺に売り渡されたというが、塔の譲渡代金についてはどう評価すればよいのだろうか。

正木直彦

以前このブログで紹介したが、東京美術学校の校長を明治34年(1901)から昭和7年(1932)まで31年間も勤めた正木直彦が東京美術学校在職中に語った講話などを記録し校友会雑誌に連載された記事を抄録した『十三松堂閑話録』のなかに、同じ時期に奈良の県令(今で言えば知事)であった四條隆平が興福寺の五重塔(国宝)が目障りであるとして入札払にかけた際に15両で落札した人物がいたことが記されている。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-176.html
結局15両で五重塔を落札した者は、足場を掛けるのに費用がかかるために放置してしまったので、県令は柴を積んで日を期して焼き払おうとしたのだが、町家から猛烈な反対に会って中止となり、そのおかげで国宝の興福寺の五重塔が今に残された経緯にある。

当時の1両が現在価値にしていくらであるかは数千円から10万円まで諸説があるようだが、いずれにしてもこの時期は、古都奈良を象徴する五重塔ですら二束三文の価格で取引されたことを知るべきである。神光寺の三重塔もかなり安い価格ではあったが、奈良興福寺の価格と比べれば、貞祥寺は良心的な価格で購入したということになる。

蜩(ヒグラシ)の透き通ったセミの鳴き声を聴きながら、貞祥寺の石段を下りていくと、境内中に島崎藤村が小諸義塾の教師をしていた頃の居宅が移築されている。

島崎藤村旧宅

この建物は、もともとは小諸藩士の居宅であり小諸城の大手門の近くにあったそうなのだが、藤村が明治32年に小諸に赴任してからの6年間、藤村は家族とともにこの家で過ごしたのだそうだ。
その後この建物は大正9年に個人邸宅の一部として買われて佐久市大字前山南に移転され、そして島崎藤村生誕100年を記念して昭和49年にこの場所に移設されたのだという。

事前に良く調べておけばよかったのだが、島崎藤村旧宅の閉館時間が午後3時30分と随分早かったために中を見学することが出来なかったのは残念だった。
中には8畳の書斎と居間、和室2室があり、藤村自筆の書や掛軸などがあるという。
https://www.city.saku.nagano.jp/kanko/spot/meisho_shiseki/shimazakitoson.html

貞祥寺をあとにして、宿泊先の中棚旅館に向かう。

水明楼

この旅館の敷地の中に、島崎藤村が小諸義塾の教員であった頃、良く訪ねたという水明楼がある。

千曲川のスケッチ

『千曲川のスケッチ』のその四には、こう記されている。今ではネットの『青空文庫』で誰でも読むことが出来る。

「…八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚の方へ出掛けた。私の足はよく其方(そちら)へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎(りんご)畠が見える。千曲川はその向を流れている。……この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚って眺望の好い位置に在る。……水明楼へ来る度に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄(てすり)に倚りながら恣(ほしいまま)に賞することが出来る。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1503_14594.html

木村熊二

この文章の中で出てくる「校長」というのは、小諸義塾の創立者である木村熊二で、中棚に別荘を持っていた。それが水明楼である。その木村熊二が、この地の湧水の治療効果に気づき、明治31年に開湯に協力したのが中棚温泉である。

藤村は水明楼に足繁く通い、中棚温泉にも何度も行ったようである。『千曲川のスケッチ』にはこう書かれている。

島崎藤村

「…私は中棚の温泉の方へ戻って行った。沸し湯ではあるが、鉱泉に身を浸して、浴槽(よくそう)の中から外部(そと)の景色を眺めるのも心地(こころもち)が好かった。湯から上っても、皆の楽みは茶でも飲みながら、書生らしい雑談に耽(ふけ)ることであった。林檎畠、葡萄棚(ぶどうだな)なぞを渡って来る涼しい風は、私達の興を助けた。」

また『千曲川旅情の歌』の一節、
千曲川いざよふ波の        岸近き宿にのぼりつ
 濁(にご)り酒濁れる飲みて   草枕しばし慰む」
で詠われている「宿」はこの中棚旅館のことである。

中棚荘 

上の画像が中棚旅館の入口で、駐車場はさらに下ったところにある。

この旅館の温泉は、石段を50段近く登らなければ行けないという難点はあるが、緑に囲まれていて小鳥の囀りを聴きながら、のんびりと湯舟に浸かるのは最高の気分であった。

中棚荘食事

食事処はレトロな大正時代の建物で、夕食も朝食も地元で採れた旬の素材を活かした体にやさしいものばかりで、とても美味しくいただけたし、接客も、温泉の泉質も素晴らしくて大満足の一日であった。
<つづく>
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

明治時代に参政権を剥奪された僧侶たち
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-126.html

野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-182.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

明治初期、廃絶の危機にあった東本願寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-81.html

智識寺、荒砥城址のあと、修験道の聖地であった戸隠三社を歩く

長野旅行の2日目は中棚温泉から千曲市にある智識寺(026-275-1120)に向かう。
この寺の縁起は古く、寺伝では天平年間(729~749)に冠着山(かむりきやま)の東麓に創建され、その後の移転あと、鎌倉時代に源頼朝の帰依により現在の場所に移ったとされている。

智識寺

上記画像は室町時代後期に建立されたとみられる大御堂(国重文)である。
本尊は平安時代末期に造られた木造十一面観音立像(国重文)だが、残念ながら中に入ることは出来なかった。

智識寺を出て上山田温泉街に入り、途中で左折して急坂を登っていくと千曲市城山史跡公園となっている荒砥城(あらとじょう)跡(026-275-6653)に着く。

荒砥城跡

この城は、当地一帯を治めていた村上氏の一族である山田氏により、大永4年(1524)に築かれたと伝えられ、郭(くるわ)が連なるように並んでいることから「連郭(れんかく)式山城」と呼ばれていて、村上氏の本城である葛尾城の支城としての役割を果たしていたようだ。

葛尾城の城主であった村上義清は、天文17年(1548)の上田原の戦いや天文19年(1550)の戸石城の戦いで、武田晴信(のちの信玄)に勝利し領地を守ったのだが、天文22年(1553)に武田信玄に攻められて葛尾城が落城すると、荒砥城も城主を失い、山田氏は滅亡してしまう。
領地奪還を目指す村上義清に長尾景虎(のちの上杉謙信)が加勢して川中島の戦い(1553~1564)がはじまり、12年に及ぶ戦いを経て荒砥城は上杉氏の治める城となる。
しかし、海津城の副将であった屋代秀正は上杉氏に背き、海津城を出て荒砥城に篭ったのだが、天正12年(1584)に上杉軍に攻められて荒砥城は落城し、城としての役割を終えたという。

荒砥城石垣1

上の画像は本郭(ほんかく)の石垣を写したものだが、画像左にある門に入ると右に折れて狭い道になっている。
下の画像は門に入った出入り口付近を撮ったものだが、石垣で視界が狭められて、小さな城ではあるが簡単に攻め落とされない工夫がなされている。

荒砥城石垣2

天候に恵まれて、本郭に登ると千曲川の雄大な流れと上田市方面が良く見えた。西には遠く北アルプス・後立山連峰の山も望むことができたのもラッキーだった。

荒砥城からの眺め 南

荒砥城から次の目的地である戸隠三山に向かう。11時半ごろに到着したので、早めの昼食を取ることにした。戸隠はそばが特に有名なので戸隠神社宝光社の近くの築山という蕎麦屋に入った。
前日の昼食は小諸そばで、二日連続蕎麦の昼食となってしまったのだが、戸隠に来たら「日本三大そば」に選ばれている蕎麦を食べないわけにいかないと思って予定に入れていた。

戸隠蕎麦

画像ではわかりにくいかもしないが、一口ぐらいの量ごとに束ねて5~6束を一つのざるに蕎麦が並べられて出てくる。これを戸隠では「ぼっち盛り」と呼ぶのだそうだ。
なぜこのような盛り方をするのかについて、戸隠神社のホームページにこう解説されている。
「ぼっちに盛り分けるためには、切れたり折れたりしたそばではうまくいきません。不揃いなそばは、盛り分ける途中ではずされます。見目も味もよいそばだけが、ざるに盛られて供される、いわばハレの料理というわけです。ぼっち盛りは、戸隠そばが神様(権現様)へのお供えや、高貴な方へのおもてなし料理として地域に定着してきたことを物語っているのです」
http://www.togakushi-jinja.jp/shrine/history/togakushisoba/
いつものように大盛りを注文したのだが、蕎麦の香りが楽しめて、しっかりと歯ごたえがあってなかなか旨い蕎麦だった。

ここで少し戸隠の歴史に触れておこう。
平安時代から鎌倉時代にかけての戸隠についてWikipediaにはこう書かれている。
「平安時代後期以降は、天台密教や真言密教と神道とが習合した神仏混淆の戸隠山勧修院顕光寺として全国にその名を知られ、修験道場戸隠十三谷三千坊として比叡山、高野山と共に『三千坊三山』と呼ばれるほど多くの修験者や参詣者を集めた。当山(延暦寺山門派)の別当職であった栗田氏が鎌倉期以後は山麓の善光寺(園城寺寺門派)別当をも世襲したこともあって両寺は関連を強め、参詣者は一度に両方を共に参詣することが多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

このように、古くから戸隠は神仏習合で修験道の聖地であり、「三千坊」と言われるほどの多くの寺院があったのである。
治承年間(1180年前後)に後白河法皇が編んだ歌謡集である『梁塵秘抄』のなかに、
「310:(霊験所歌六首)
四方の霊験所は、伊豆の走井、信濃の戸隠、駿河の富士の川、伯耆の大山、丹後の成相とか、土佐の室生と讃岐の志度の道場とこそ聞け。」
http://homepage2.nifty.com/zaco/text/ko/ryojin.txt

ところが、戸隠は戦国時代に武田信玄と上杉謙信との争いの戦火に巻き込まれてしまう。
昭和12年に出版された『長野市郷土資料』にこう記述されている。
「永禄元年(1558)、信玄川中島攻略と信濃一国の掌握を戸隠山中院に祈願す。中院光如坊これを取次ぐ。(その願状はいま神社の宝物)上杉はこれを非常なる脅威とし大いに怒り、永禄2年(1559)6月19日戸隠山を侵す。一山の衆徒、難を鬼無里小川に避く。つづいて武田の勢力北信濃に及び、上杉兵を引く。一山の衆徒帰山。謙信は信玄の勢力を永久に牽制せんとし、永禄7年(1564)8月再び戸隠に兵を出す…」とその後も熾烈な戦いが繰り返されている。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1054730/75

戦火を避けるために僧侶たちは戸隠から避難して、30年間小川郷筏ヶ峰(現小川村)という場所に移り住んだのだそうだが、上杉・武田両雄が死んだのち戸隠に戻ってみるとその荒廃はひどく、大講堂や主要な建物が大破し堂塔は倒れていたと記されている。

江戸時代に入り、徳川家康から朱印高千石を与えられて地位は安定したものの、戸隠山顕光寺は江戸幕府によって日光山御門主輪王寺宮の直支配とされ、修験者は天台宗の僧侶となり、同時に境内の大整理が行われたという。
その結果、山伏が山中で修行を行ない各地の霊山を巡歴する修験者は次第にその色彩を弱めて、山伏は霊山の山麓に定住するようになり、中院、宝光院の門前には院坊が建ち並び、商人や職人などで賑わうようになって、戸隠は修験道場から門前町へと変貌していったという。

では江戸時代に戸隠にいくつの寺が存在したのか。
前掲の『長野市郷土資料』によると、江戸時代初期には、本院(奥の院)12坊、中院24坊、宝光院17坊の53ヶ寺であったのだが、安永9年(1780)に本院・中院と宝光院が対立して寺社奉行に提訴される事件があり宝光院の17坊が追放され、明治の初めに本院の12坊の移転などがあり、最終的には中院21坊、宝光社16坊の37ヶ寺となったようだ。

信州戸隠山惣略絵図

江戸時代のいつ頃の絵図であるかは不明だが、『信州戸隠山惣略絵図』という木版画がある。
この絵の中に多くの寺が描かれているのがわかる。良く見ると寺の名前まで記されている。

しかしながら、明治初年の太政官・神祇官の厳達により神仏混淆が禁じられ、僧侶は復飾還俗を命じられ、仏像、仏具、仏画、経典、山伏道具から、塔やお堂などが徹底的に破壊されて寺院は廃され、戸隠山顕光寺の奥の院、中院、宝光院は戸隠神社奥社、中社(ちゅうしゃ)、宝光社と改称されたのである。

戸隠神社宝光社鳥居

食事を終えて、近くの戸隠神社宝光社に向かう。

戸隠神社宝光社石段

最初の鳥居のさらに奥には、杉の古木に囲まれて、270余段の長い石段がある。正直なところ、この石段を登るのはきつかった。

戸隠神社宝光社社殿

登りきると荘厳な社殿が建てられている。この建物は戸隠神社の中では最も古く、文久元年(1861)に建てられたものだという。
案内板の説明には、
「神仏習合の面影を残す寺院建築の様式を取り入れた権現造で、拝殿周りは宮彫師北村喜代松の彫刻による見事な龍・鳳凰・麒麟・唐獅子牡丹・象の木鼻・十二支などで飾られている。
 間口は5間、奥行7間、屋根は入母屋造、妻入、銅板葺である。この奥行の深い構造は社殿建築では極めて例が少なく貴重な遺構と言える。」
と書かれているのだが、この建物がもともとは寺院の建物であったことを意図的に伏せている表現になっている。廃仏毀釈が起きてからもうすぐ150年になるのだから、そろそろ明治政府がやったとについて国民に真実を伝えてほしいところである。

戸隠神社宝光社社殿彫刻

案内板に紹介されていた社殿の彫刻は確かに見ごたえがあった。
『週刊長野記事アーカイブ』の記事によると、宝光社社殿の麒麟の彫刻が、キリンビールのマークの出所になったという説があるようだ。
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0638-1.html

戸隠神社中社鳥居

次に中社(ちゅうしゃ:026-254-2001)に向かう。
とりいの後ろにある大きな杉が、樹齢800年とも900年とも言われるご神木の「戸隠の三本杉」である。

戸隠神社中社狛犬

なかなか迫力のある狛犬なので思わずシャッターを押した。

戸隠神社中社社殿

社殿(上画像)で参拝を済ませた後「戸隠神社宝物館」に入る。
鳥居の額や御神鏡や掛軸などいろいろな展示があったが、運慶作と伝わる毘沙門天像の頭部があり、頭頂部から真っ二つに割られたような傷痕があるのを見て釘付けになってしまった。撮影禁止なので紹介することは出来ないが、こんな素晴らしい仏像を、そのままの姿で残して欲しかったと思うのは私だけではないだろう。

信州戸隠中院拡大

上の画像は先程紹介した『信州戸隠山惣略絵図』の中社付近を拡大したものだが、鳥居の近くに多くの寺があったことが確認できる。

先ほど、明治の初期に戸隠には中院21坊、宝光社16坊の37ヶ寺が残ったことを書いたが、これらのうち35の施設が宿坊として今も営業していることが次のURLを見ればわかる。
http://togakushi-jinja.jp/stay/index.html

旧徳善院 極意家神殿庫裏

この中でただ一つ、昔の外観に近い状態で残されているのが「宿坊極意(旧徳善院)」である。
この建物は文化12年(1815)に再建されたもので、平成17年に国の登録文化財に指定されているのだが、先ほど紹介した『信州戸隠山惣略絵図』の中社付近の拡大図の右端に『徳善院』としっかり描かれている。


次は奥社に向かう。車は参道の入口の駐車場に停めるしかないのだが、人気スポットであるだけに観光客が多かった。

戸隠神社奥社鳥居

上の画像は参道入口の鳥居だが、ここから隋神門まで約20分歩く。美しい緑に囲まれて、小鳥の囀りを聴きながら歩くことは楽しい。

戸隠神社奥社隋神門

これが隋神門だが、明治の廃仏毀釈の前はこの門は仁王門と称していた。
当然寺を守るために、かつては2体の金剛力士像が安置されていたのだが、この像は善光寺の近くの寛慶寺という浄土宗の寺に移されて長野県の県宝に指定されているようだ。「長野市文化財データベース」にその写真が出ている。
http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1033.html

戸隠神社奥社参道杉並木

隋神門を過ぎた辺りから見事な杉並木が続いている。これらの杉の樹齢は400年から1000年あるというが、長い間人々の戸隠信仰が続いてきたからこそ、この素晴らしい景観が守られてきたのであろう。

戸隠山奥院拡大

再び『信州戸隠山惣略絵図』を拡大して奥社の参道あたりを見てみると、この杉並木のあたりに多くの寺院が描かれている。
これらの寺院がどういう経緯でなくなったかをネットでいろいろ探していると、岩鼻通明氏の『観光地化にともなう山岳宗教集落戸隠の変貌』という論文が目に留まった。そこにはこう解説されている。

「明治維新の宗教政策により神仏習合が禁止され、明治4年に戸隠山顕光寺は戸隠神社と改められ、…一山衆徒は僧形を捨て神職となり社中と称し、また戸隠講聚長を名乗るようになった。しかし1000石の領地は没収され、神社の参道と境内以外は国有地となったため、奥社の社中はそれぞれ里坊のあった中社と宝光社へ移転した。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/33/5/33_5_458/_pdf

抵抗はそれなりにあったとはおもうのだが、戸隠では比較的スムーズに神仏分離が行なわれたようだ。岩鼻氏の前掲の論文にはこう記されている。
「戸隠においては…修験道的色彩は早い時期から希薄となり、農民信仰の移行が速やかに進んでいた。
…このように修験道的色彩が薄れていたため、他の山岳宗教とは異なり、神仏分離や明治5年の修験道廃止令の際にもさほど大きな混乱は生じなかったものと考えられる。実際に戸隠の場合、その対応はスムーズであり、いち早く戸隠山顕光寺から戸隠神社へと変換し、自ら仏教関係のものを撤去したために廃仏毀釈の被害はほとんど受けなかった
 他地域の山岳宗教集落では伯耆大山寺のごとく寺院のまま存続したために廃仏毀釈によりほとんどの院坊が廃絶し、山岳宗教集落としての機能を失った例や共同体内部での神仏分離をめぐる対立により機能が衰退した例が多くみられる。ところが、戸隠においては、社家の栗田氏が対立し離山した以外は、社中の共同体的結合は強固であり、山岳宗教集落の存続に大きく寄与した。」

このようにして戸隠の人々は、生き残るために神仏分離を受けいれて、自ら仏像などを捨てたということのようである。
以前このブログで書いたが、奈良県吉野の金峯山寺の蔵王堂は明治初期に神社とされたのだが、明治19年に仏教施設として認められたものの、山頂にあった多くの寺が失われた。
また同じ時期に神社にさせられた山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などの修験の寺院は二度と寺院に戻ることはなかったし、多くの宿坊は衰退して失われていったのである。戸隠が明治政府に抵抗していれば、もっと多くのものを失っていたことだろう。

杉並木をしばらく歩くと石段があり、ここからの登りはかなりきつかった。

戸隠神社奥社

ようやく奥社に辿りついて参拝を済ませてきたが、コンクリート製の神殿は雪崩の多いこの場所ではやむを得なかったのだろう。調べると明治以降4度も雪崩で奥社の本殿が倒壊してしまっている。現在の本殿は昭和53年(1978)に奥社本殿・休憩所が雪崩で流失したため、その翌年に岩盤をうがちコンクリート製の神殿を中に納める方式で建てられたものだという。
http://weekly-nagano.main.jp/2011/04/0627.html

戸隠は時間をかければまだまだ観る所がありそうだが、予定の時間を過ぎたので帰途を急ぐことにした。

コットンスノー

この日の宿は、戸隠からは少し距離があるが、白馬村落倉高原のコットンスノーというペンションを予約していた。

コットンスノー夕食

夕食にはオーナーが育てた無農薬野菜や地元の食材をふんだんに使って、美味しい料理が食べきれないほどのボリュームで出てきた。パンもオーナーの焼いたパンというこだわりが嬉しい。前日から和食ばかりだったので、洋食の宿を選んだのだが正解だった。

建物はやや古いが、食事を楽しみながら気さくな奥さんとの会話も弾んで、旅の疲れが吹き飛んだ。
<つづく>
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【ご参考】

明治の神仏分離で修験道の聖地は徹底的に叩かれ、千年以上の歴史のある聖地を守るために、大変な苦労がありました。
興味のある方は覗いてみてください。

一度神社になった国宝吉野蔵王堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-70.html

数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-71.html

修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-396.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

白馬落倉高原の風切地蔵、若一王子神社、国宝・仁科神明宮などを訪ねて

白馬落倉高原の朝を迎えて、いい天気なので朝食までの時間に高原の散歩に出かけることにした。ペンションで貰った地図を片手に歩き始めたのだが、野鳥のさえずりや川のせせらぎの音を聴き、景色を楽しみながら歩く高原の散歩は心地の良いものである。

白馬岳の雪渓

しばらく東に進んでいくと、白馬岳の大雪渓が見えてきた。訪れた日はまだ梅雨明け宣言が出ていなかったのだが、こんなにきれいに晴れ渡った空を背景にして、白馬連峰の写真が撮れたことは幸運だった。

白樺通りを一回りして433号線に戻ると、「風切地蔵」があり、何気なく立ち寄ってみると、案内板に興味深いことが記されていた。

風切地蔵

「農作物を風や病気や虫から守るということは、農民が何千年来かにわたって持ちつづけてきた悲願であった。風害や病虫害を恐れるのは、今日にあっても同じことであるが現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている。
 かつては、風祭・虫送り・鳥追いなどは、いずれも農耕儀礼の一種で、近年までは庶民信仰という形の中で、年中行事ともなっていた。風切地蔵(風除地蔵)は道祖神や庚申様が、何でも聞き届けてくれる神様となっているように風害防除というだけでなく風邪や疫病をもたらす悪霊も、追い払ってくれという祈願にもこたえてくださったもののようである。
 白馬村内には、何体かの風切地蔵が存在しているが、西方白馬連山の北橋にある大日岳と東方の野平武士落から鬼無里村に通ずる柄山峠にあるものはここ(落倉)のものを中にして一直線上に置かれている。白馬村には、鎌を立てて風を断ち切るという風習も残っているが昔人の風から農作物を守り、災厄から身を守る切なる願いを知って心が痛む。」

白馬村に3つの風切地蔵があり、それらが1直線状に並んでいるというのだが、自宅に帰ってパソコンで調べると、このことについて詳しく調べている人が何人も見つかった。

風切地蔵レイライン

例えば内田一成氏のブログによると、この直線は冬至の日の出を指し示す直線上にあり、「地元の古老によれば、それが『結界』を形作っているおかげで、昔から風水害や冷害などが少ないと伝えられている」のだという。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2006/07/1---super-mappl.html

戸隠神社奥社参道杉並木

そして、さらに面白いのは、前回の記事で紹介した戸隠神社奥社につながる杉並木の長い参道は、風切地蔵の並ぶ直線と平行なのだそうだ。一体誰が、何のために、またどうやって、冬至の太陽の登る方向に参道を作り、風切地蔵をその参道と平行な直線上に設置したのか、非常に興味深いところである。
おそらく古来からの太陽信仰と無縁ではないだろうし、もしかすると修験道のルーツにもつながるものがあるのかもしれない。

戸隠奥社参道

いくら科学が進歩しても、人間の力では解決できないことが、今も数えきれないくらいに存在する。地域の人々が力を合わせれば最悪の事態を防ぐ道があるのにもかかわらず、みんなの価値観がバラバラで、それぞれが好き勝手に行動するのではそれは不可能だ。
昔の日本人は、地域の人々が自然災害に遭わないよう、みんなが幸せに暮らせるようにと、メンバーが心を一つにして祈る世界が存在した。その祈りがあったからこそ、地域の人々とのつながりを強めて、もし災害が起きてもみんなで助け合う価値観を共有できたのではなかったか。
風切地蔵の案内板に、「現代人はもう神仏にすがることを忘れてしまっている」と書いてあったが、何でもお金で解決しようとする都会の多くの日本人は、何か大切なものを失ってしまってはいないだろうか。

そんな事を考えながら宿に戻ると、オーナーがパンを焼く香ばしい匂いがした。

コットンスノー朝食

これがコットンスノーの朝食のメニューだが、パンはもちろんおかわり自由で、ジャムもオーナーが昨晩造ったものだという。昨夜ここに宿泊したのは私達1組だけだったのだが、そのためにジャムまで作って用意していただいたのが嬉しくて、無理を言って両方のジャムを安く分けていただいたのだが、チェックアウトするときに、「主人からのプレゼントです。お昼にどうぞ」と手造りのハンバーガーまで用意して下さった。
至れり尽くせりのサービスに感激してしまった。

お世話になったコットンスノーのママにお別れをして、信州旅行3日目の最初の目的地である神明社(白馬村神城)に向かう。

神明社の創建時期は不明だが、弘安6年(1286)の銘のある懸仏2面(長野県宝)が現存しており、国重文の本殿は棟札から天正16年(1588)に建築されたものであることが判明している。
古くから沢渡(さわと)の鎮守として信仰され、今も村の信仰の中心になっているという。

予めよく調べておけばよかったのだが、昨年の11月に長野県の北部でかなり大きな地震があり、その時境内に亀裂が入って、国の重要文化財である神明社の本殿、諏訪社本殿を守る覆屋の柱が変形して大きく傾き、文化財に少しの被害が出たために修理工事が行われており、境内は立入禁止となっていた。
次のURLに地震直後の神明社の画像がある。
http://news-sv.aij.or.jp/hokuriku/2event/2014/jishin2.pdf

神明社

せっかく来たのだからとお願いして、覆屋をカメラに収めてきたが、国重文の神明社本殿と諏訪者本殿はこの中にあって観賞することはできなかった。

神明社からの白馬連峰

神明社の参道を降りていくと、白馬連邦の山並みが綺麗だったので思わずシャッターを押したのだが、残念ながら山の名前が良く分からない。
.
神明社参道

自宅に戻ってGoogle Earthで確認すると、偶然かもしれないが、この神明社の参道の方向も、戸隠奥社の参道や風切地蔵の指し示す方向と同じのようだ。

次の目的地は大町市にある若一(にゃくいち)王子神社(0261-22-1626)である。

Wikipediaによると、
「鎌倉時代、安曇郡一帯を治める国人領主の仁科盛遠が紀伊国熊野権現に詣でた際、那智大社第五殿に祀られる若一王子を勧請し、以降『若一の宮』(若一王寺、王子権現)と称されるようになった。その際、盛遠は後鳥羽上皇の知遇を得て西面武士として仕えた。仁科氏が主家の武田氏とともに滅亡すると、織田信長以後の天下人は安曇郡を歴代松本城主の所領とし、松本藩の庇護を受けるようになった。
明治の神仏分離の際に、寺号を廃して現社名に改称した。…」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%B8%80%E7%8E%8B%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE

この神社も明治の神仏分離以前は「若一王寺」という名の寺であったのだが、注目すべきは、廃仏毀釈によって「神社」とされながらも寺の施設である三重塔と観音堂を残して、神仏習合の姿を今に伝えている点である。

若一王子神社鳥居と三重塔

上の画像が若一王子神社の全景だが、江戸時代まではこのような景色が全国各地にあったはずである。
できれば車はあまり写したくなかったのだが、この日はたまたまこの神社の例祭の1週間前で、近隣の方が大勢集まって境内の草刈りの奉仕をしておられたために、三重塔の周囲は車が何台も停まっていたので、車が写ることは仕方がなかった。

若一王子本殿

この神社の本殿は戦国末期の弘治2年(1556年)に仁科盛康により造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。拝殿は昭和50年(1975)に伊勢神宮の旧社殿の一部を譲り受けたものだという。

若一王子神社観音堂

本殿の東に長野県宝に指定されている観音堂がある。その内陣の中央の厨子に十一面観音坐像御正体(みしょうたい:長野県宝)があるのだが、その右隣には廃仏毀釈以前に本尊であった平安時代の仏像を納めた小さな厨子がある。ネットで探すと、その無残な姿に変貌してしまった仏像の画像を容易に見つけることが出来るが、この画像を見てさすがに私もショックを受けた。

若一王子神社 観音堂 旧御本尊

もともとはこの仏像が観音堂の御本尊として中央の厨子に安置されていたのである。詳しく知りたい方は、次のURLに詳しくレポートされているので参考にしていただきたい。
http://koma-yagura.blog.so-net.ne.jp/2013-05-16

実のところ信濃国で最も激しく廃仏毀釈が行われたのは松本藩だった。にもかかわらず、なぜ若一王子神社は観音堂と三重塔を守り通せたのかと誰でも思う。

長野県の解説によると、
「『信濃日光』として知られていた若沢寺(波田町)をはじめ無住・廃寺となった寺が全寺院の74%にも達した(『長野県史』通史編7)。そうした中で、若一王子神社では、三重塔は『物見の高楼』、観音堂は『神楽殿』とされ(『明治28年北安曇神社明細帳』)、仏具を移転撤去し、建物の名前を変更することで破却を免れたようである。また、寺と神社に明確に区画すれば破却されないというので境界石を置いて免れたともいわれる(『大町町史』第4巻)
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/kyoiku/goannai/kaigiroku/h23/teireikai/documents/930-2.pdf

簡単に書かれてはいるが、実際には松本藩とは相当激しいやり取りがあったはずである。

仏教遭難史論

このブログで何度か紹介させていただいた羽根田文明氏の『仏教遭難史論』の本記(13)に松本藩の廃仏状況がかなり詳しく記されており、それによると、明治3年8月に松本藩は廃仏の藩令を発し、寺院は悉くこれを破却し、仏像仏具はみな焼き捨て、僧侶は、すべて帰農せしめんとしたという。

松本藩の藩吏が大町市に出張し、54ヶ寺と檀徒総代と名主らを集めて、廃寺と帰農を伝達したのは明治4年(1871)3月のことだという。この時に彼らは衆人の面前で何度も僧侶を辱しめ、だから帰農せよと迫ったのだが、その席で敢然と命令に抵抗した僧侶が二名いたのである。
羽根田氏の著書から、霊松寺の達淳和尚の発言を引用する。
「…大町の巨刹、曹洞宗、霊松寺住持達淳和尚出て曰く、全体貴官方は何所よりの命を帯びて、廃寺、帰農を促さるるや、太政官よりか、また何時、何所よりかかる命令が出たか、特に寺院には、各自、其宗本山との、密接不離なる関係あり、このこと果たして、各宗本山との、協議を遂げられたのかと詰問し、拙僧が、帰農すると否とは貴官に返答する義務なし、むしろ貴官が、命令の出所を、明了にせられたしとて、あくまで役人を詰責し、かえって和尚が、翻弄したという。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/106

この席で廃寺に抵抗する発言をした大澤寺、霊松寺は、ともに廃寺を免れたそうだが、もしこの2ヶ寺が反対の発言をしていなければ、おそらく寺は破却されていたことだろう。
若一王寺はこの席では発言しなかったようだが、おそらく檀徒らが抵抗して知恵を絞ったからこそ、観音堂も三重塔も残すことが出来たのだと思う。

戸田光則

松本藩の廃仏毀釈を積極的に推進した藩知事の戸田光則*は、明治4年7月の廃藩置県で藩知事が廃官となって東京に移り、それ以降、廃仏・廃寺の藩令はうやむやになったようだ。
もしも、もっと早く廃藩置県が行なわれていれば、長野県に限らず、全国でもっと多くの文化財が残されていただろうが、廃仏毀釈で多くの文化財が灰燼に帰してしまった原因は寺院側にもあったと思われる。霊松寺の達淳和尚のような気骨のある僧侶がもっと多くいれば、この時期にわが国の大量の文化財を失うことはなかっただろう。
*戸田光則:信濃松本藩の最後の藩主(第9代)。戸田松平家14代。上画像

羽根田文明氏は、こう纏めておられる。
各藩とも、廃仏に、廃寺願書の提出を迫っているのは、これが朝旨*でないからのことである。故に少し強硬に出て、廃寺の朝命を拝するまで、現状を維持せんと、頑張ったら、廃寺の厄は免れたのである。然るに当時、僧侶の意志、薄弱、護法、扶宗の念、皆無であったから、藩吏の奸策に乗り、廃寺の難に罷ったのは、遺憾の極みであった。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983346/107
*朝旨:朝廷の意向

このように、激しい廃仏毀釈のあった藩では、多くの場合、寺から「廃寺願書」を提出させてから、仏教施設や仏具類を破壊したようなのである。こんなものを提出してしまっては、寺院側が廃仏毀釈をお願いしますと言ったのと同じではないか。
羽根田氏の指摘の通り、自分の寺と檀徒を守るために身命を賭す僧侶が少なかったことは残念なことである。

若一王子神社をあとにして、国宝・仁科神明宮(0261-62-9168)方面に向かう。

盛蓮寺観音堂

途中で、国の重要文化財に指定されている盛蓮寺(じょうれんじ)観音堂に立ち寄った。
この寺は領主であった仁科氏の祈願寺であったそうだが、この観音堂は室町時代の文明2年(1470)の建築だという。案内板には何も書かれていなかったが、この寺も廃仏毀釈の難を逃れるのに苦労があったと思われる。

ここから1kmほど南に走ると仁科神明宮がある。

参道の脇に空地があり「仁科二十四番 神宮寺」と書かれた道標が建てられていた。この寺は明治の廃仏毀釈で破却され、不動明王と薬師如来は先程紹介した盛蓮寺に移され、本堂は北安曇郡池田町の浄念寺という寺に移築されたという。

仁科神明宮鳥居

この鳥居が仁科神明宮の二の鳥居で、奥に三の鳥居があり神門がある。そしてその奥に、わが国で現存する最古の神明造である国宝の社殿がある。

仁科神明宮本殿

一番奥が本殿で、本殿は手前の中門と釣屋とよばれる屋根で繋がっている。ここまでが国宝指定となっている。

宝物館があるので中に案内していただくことにした。

仁科神明宮棟札

仁科神明宮は20年に一度式年遷宮が行なわれているのだが、南北朝時代の永和2年(1376)の棟札をはじめ620年間の33枚が目の前に残されているのに驚いた。このうち江戸時代幕末の安政3年(1856)までの27枚が国の重要文化財に指定されている

仁科神明宮懸仏

次の画像は懸仏(かけぼとけ)であるが、神仏習合の考えによりご神体である鏡に本地仏の像を毛彫りにして奉納されたもので御正体(みしょうたい)とも言われる。仁科神明宮には懸仏が16面あるのだが、そのうち5面が国の重要文化財に指定されている
懸仏のほとんどが天照大神の本地仏である大日如来で、古いものは鎌倉時代中頃のものがあるという。神仏習合の時代を髣髴とさせる貴重な懸仏が、神社の宝物館でこんなに多く見学できるとは思わなかった。

最近はネットで簡単にいろんなことが調べられるようになってありがたい限りなのだが、『長野県立歴史館/信濃史料』をデジタルアーカイブで調べていると、弘安9年(1286)の記録にこんな記述があるのが見つかった。
「弘安九年一二月二二日(1286) 尼妙法、安曇郡仁科神明に懸仏を寄進す、同郡神城村神明宮ノ懸仏
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2000710100/2000710100100010?hid=ht042680

なんと弘安9年(1286)に懸仏を仁科神明宮に寄進した尼妙法という人物が、この日の朝一番に訪れてきた白馬村神城の神明社にも、同じ年に懸仏(長野県宝)を寄進したことが書かれている。
神明社では見ることは叶わなかったが、おそらくこの懸仏と同様のものが奉納されたのであろう。それにしても、長野県がこの様な古文書までデータベースにして公開していることも驚きだ。

今回の旅行で、神社にある三重塔や観音堂や懸仏をいくつか見てきたが、長野に来て、修験道や神仏習合の多神教的祈りの世界が残されていることに親近感を覚えた。

明治政府の宗教政策で、仏教は衰退を余儀なくされ多くの文化財を失わせた一方、伝統的な神道をも否定して、多神教的な神道から天皇という現人神を崇拝する宗教に変質させてしまったとは言えないか。天皇という存在は、本来は多神教的な神々を祀る存在であったのだが、明治政府によって一神教的で絶対的な存在として祀り上げられてしまったと言えば言い過ぎであろうか。
戦国時代にキリスト教宣教師が先導して寺院や仏像を破壊したことと同じことが明治初期に激しく起こったわけだが、特定の神的存在を絶対視する宗教は、純粋化すればするほど異教に対して排撃的となり過激となる。

しかし太平洋戦争でわが国が敗戦したのち、天皇は現人神であることを自ら否定したため、戦後になって多くの日本人は、自分の家族や先祖に対して祈ることはあっても、地域や国のために祈る習慣を失ってしまった。

ある時は太陽に祈り、ある時は山に祈り、またある時には川に祈って、地域の人々が幸せに暮らせることを願う。日本人はそのようにして平和に暮らして来た民族ではなかったか。
その祈りの世界を少しでも日本人が取り戻し、自分や先祖が生まれ育った地域を愛することの大切さを忘れないようにしたいものである。それができなければ、いずれ、わが国の各地で何百年も受け継がれてきた地域の伝統文化や価値ある文化財や歴史的景観の多くを、失ってしまうことになるのではないだろうか。

そんな事を考えながら3日間の信州の旅を終えて、帰途につくことにした。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-386.html

明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html

江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-339.html

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html


伊那市の古い寺社と、250年以上続いた中尾歌舞伎のこと

久しぶりに信州に行きたくなって、先日伊那方面を旅行してきた。

早朝に自宅を出て、約4時間で最初の訪問地である仲仙寺(ちゅうせんじ:長野県伊那市西箕輪羽広3052 ☎0265-73-5472)に到着した。
仲仙寺は平安時代に慈覚大師によって創建されたと伝わる天台宗の名刹で、伊那路と木曽路とを結ぶ峠の麓にある。古くから「馬の観音様」として有名で、昔は田植えが終わる6月ごろに諏訪・木曽・飯田方面から多くの参拝客が愛馬を連れて訪れて賑わったという。
伊那路から仲仙寺まで続く「羽広道」には一丁(約109m)ごとに石仏が建てられて、今も三十数体が残されているのだそうだ。

仲仙寺仁王門

上の画像は仲仙寺の仁王門で、仁王像は長野県の県宝に指定されている。
この門をくぐると、左手に伊那市考古資料館があり、旧石器時代から江戸時代までの出土品が展示されていたようだが、7年ほど前に閉館となってしまった。

仲仙寺本堂

坂道と階段からなる参道を登ると本堂に至る。
毎年1月の中頃にこの本堂で、伊那市無形民俗文化財に指定されている「羽広の獅子舞」が演じられるのだそうだが、この獅子舞は江戸時代から今日まで続いているというのはすごいことである。次のURLにその動画が紹介されている。
http://www.kagakueizo.org/create/visualfolklore/477/

仲仙寺 絵馬

本堂の外陣に多くの絵馬が掛けられているが、「馬の観音様」だけに馬を描いた絵馬が数多く掲げられていた。江戸時代に描かれた十三面の絵馬が伊那市宝に指定されているのだが、どれが市宝に指定されているのかよく判らなかった。

仲仙寺石仏

本堂の内部は一般公開されていなかったのは残念だったが、鳥のさえずりを楽しみながら美しい境内を散策するのは楽しい。上の画像は本堂の裏に並べられている石仏群である。

境内は自然の宝庫で、樹齢数百年のスギ・ヒノキなどが茂り、薬草やヒカリゴケなどの群生地もあって、これらの植物群が天然記念物の指定を受けている。珍しい植物があるだけではなく、秋の紅葉が非常に美しい寺であるようだ。次のURLにこの寺の紅葉写真がでているが、こんな静かな寺で紅葉が楽しめるなら、また訪れてみたいと思う。
http://rv9084.blog38.fc2.com/blog-entry-238.html

高遠そば 壱刻

仲仙寺の散策を終えて「高遠そば」を目当てに高遠町に向かう。高遠町には蕎麦屋はいくつもあって、私は「壱刻」という店を選んだが、この町に「高遠そば」の店が出来たのは比較的最近のことのようだ。
江戸時代初期の高遠藩主・保科正之公は無類のそば好きであったと伝えられ、後に山形最上藩、福島会津藩に転封するさいに高遠のそば打ち職人を連れて行ったのだそうだ。
会津では「高遠そば」と呼ばれて地方に根付いたのだが、肝腎の高遠町では「そばの打てない女性は嫁にはいけない」と言われるほど蕎麦が日常食となっていたので、蕎麦屋は商売として成り立ちにくく、以前は町内に蕎麦屋はほとんどなかったらしい。
平成9年に、高遠町の人々が会津若松市を訪れて「高遠そば」なる蕎麦が名物として定着していることを知り、信州そばの発祥の地とも言える高遠町の活性化の為に、この地で「高遠そば」を復活させる取り組みが翌年から始まったのだそうだ。

遠照寺 山門

美味しい蕎麦で腹ごしらえをしたのち、近くの遠照寺(おんしょうじ:伊那市高遠町山室2010 ☎0265-94-3799)に向かう。
寺伝によれば弘仁11年(821)に最澄がこの地に薬師堂を立てたのがこの寺の始まりとされ、以前は天台宗の寺であったそうが、その後火災により荒廃したのち、文明5年(1473)に身延山久遠寺の11世法主の日朝がこの寺を再興し、日蓮宗に宗派を変えている。
ネットで画像を検索すると、美しいボタンの花が咲き乱れる写真が多数ヒットする。この寺は、「ぼたん寺」と呼ばれて5月中頃から6月上旬頃には多くの観光客で賑わうようだ。

遠照寺 亀島庭園

本堂と庫裏と渡り廊下に囲まれた30坪ほどの空間に、伊那市の名勝庭園に指定されている「亀島庭園」がある。誰が作庭したかは明らかではないが、小堀遠州の作風を踏襲したものと考えられており、江戸時代初期から中期にかけて造られたものと考えられている。

遠照寺 釈迦堂

釈迦堂は天文7年(1538)の建立で、和様主体の入母屋造に唐様と大仏様を組み合わせた折衷様式で、国の重要文化財に指定されている。

遠照寺 多宝塔

そしてこの釈迦堂の内部に文亀2年(1502)に制作された多宝塔が収められている。この多宝塔も国の重要文化財に指定されているのだが、保存状態は極めて良好で、制作されてから500年以上経過しているものとは思えない。

遠照寺 七面堂

この釈迦堂から続く道を進み、紫陽花の咲く階段を上ると江戸時代の元禄11年(1698)から享保3年(1718)の間に再建されたという七面堂がある。この建物の内部は一般公開されていないが、堂内の極彩色の欄間彫刻と絵天井が有名で、伊那市の指定文化財となっている。

遠照寺から熱田神社(伊那市長谷溝口宮之久保1993-1)に向かう。

今は無人の神社のようなのだが、本殿が国の重要文化財に指定されているので旅程に入れていた。カーナビでは位置が特定できなかったが、近くまで来ると杉の巨木が林立しているのでここだとわかる。

黒御影石に刻まれた案内板にはこう記されていた。
「…現在の本殿は宝暦12年(1762)溝口村百数十戸の氏子が300両という大金を出し合って建築したものである
 この建築には宮大工であった当溝口村高見善八が棟梁となり、多くの職人とともに精魂をこめて仕上げたもので、規模といい造作といい、近隣に比類のない豪華なものである。
 特に彫刻師は上州(現群馬県)勢多郡の関口文治郎、彩色は武州(現埼玉県)熊谷庄の森田清吉である。竜 象 唐獅子 花鳥などの彫刻は実に巧妙華麗で見飽きることがない。それで名声が響きわたり『伊那日光』と呼ばれるようになった。
 またこの本殿を風雨から防ぐため、明治21年(1888)天覆(かやぶき屋根)を再建し、次後幾たびかの屋根替えが行なわれ現在に至っている。」
少し補足すると、彫刻師の関口文治郎は榛名神社、妙義神社などの豪華絢爛たる彫刻を手掛け、「上州の左甚五郎」と呼ばれた名匠だという。

熱田神社社殿

上の画像が熱田神社の拝殿だが、国重要文化財の本殿はその後ろの茅葺・入母屋造の覆い屋の中にある。

熱田神社 本殿覆屋

覆い屋は本殿よりかなり大きめに作られているのだが、こんなに大きな屋根を支えるのに一本の筋交いもなく、土壁で塗りかためられている部分が全く存在しないことはすごいことだと思う。そのおかげで、柱の隙間から本殿の彫刻を覆い屋の外から隅から隅まで観賞することが可能なのである。

熱田神社 本殿彫刻

細部まで精緻に作られた本殿を観ていると、先人たちが後世に一流の社を後世に残そうとした強い熱意が伝わってくるのだが、カメラのレンズを覆い屋の柱と柱の間に入れて画像を撮ろうとすると、自由なアングルでカメラを構えることが出来なかった。上のような画像しか紹介できないのは残念だが、次のURLの画像が『伊那日光』の魅力を比較的良く伝えていると思う。
http://www.omiyasan.com/south/ina/post-7.php

熱田神社の舞台

熱田神社の境内に舞宮(伊那市文化財)がある。以前は熱田神社拝殿の前にあったのだそうだが、昭和11年(1936)に現在地に移転されたという。
ネットで調べると、この舞宮でつい最近まで中尾歌舞伎の定期公演が行われていたようだ。

熱田神社より2km程南に中尾という集落があり、江戸時代の明和7年(1767)頃に旅芸人がこの地を訪れ、上中尾の山の神様を祀ってある神社の前庭で歌舞伎を演じたのが中尾歌舞伎の始まりで、それから山の神祭りにあわせて歌舞伎が演じられるようになり、天保年間(1830~44)から明治時代がその最盛期であったという。
太平洋戦争のあと長い間中断してしまったが、先人の残した遺産を復活しようとする地元の若者たちの熱意によって昭和61年(1986)に復活を果たし、平成9年(1997)には「長谷村伝統文化等保存伝習施設――中尾座」が竣工し、翌年には伊那市の無形民俗文化財にも指定されて、それ以降その中尾座で春と秋の定期公演が行われ、他にも多くの活動を続けてきたという。
しかしながら、今年の3月に会員数の減少と役者不足と資金不足から、突然活動を中断することとなったそうだが、非常に残念なことである。
http://www.nagano-np.co.jp/articles/14071


5年前に大阪府豊中市にある「日本民家集落博物館」の香川県小豆島の農村歌舞伎舞台であった建物で、香川県の中山農村歌舞伎保存会の皆さんが演じる歌舞伎を観賞しにいったことがある。

中山農村歌舞伎
【中山農村歌舞伎2012.11.4日本民家集落博物館にて】

一流の歌舞伎役者がスポットライトを浴びて演じる都会の大きな舞台とは異なり、小さな舞台ながらも太陽の光を浴びて汗をかきながら保存会の人たちが地声で演じる歌舞伎を観て、そのすばらしさに感動してしまった。
江戸時代から人々が親しんできた歌舞伎は、聴衆の目の前で役者が演じて迫力もあったのだが、今の歌舞伎でそのような距離から観賞しようとすれば2万円近い料金を支払わねばならないし、2階席でも1万4千円程度は必要だ。正直言って、役者の顔もよく判らないような座席から観るくらいなら、農村歌舞伎の方がはるかに楽しめる。

全国にある農村歌舞伎は、地元の観客を相手に無料か少額の料金を取って活動してきたのだが、過疎化の進行とともに大半が衰退していった。
有形文化財は適宜補修する費用さえ捻出できれば、その価値を落とさずに後世に伝えることが可能だが、無形文化財は何度も練習を重ねながら若い世代にその伝統を受け継いでいかなければ、いずれその価値を失ってしまうものなのである。
伊那市の無形民俗文化財に指定された伝統ある歌舞伎をこのまま衰退させてしまうのはあまりにも惜しい。なんとか次の世代に繋げることはできないものだろうか。

中尾歌舞伎
【熱田神社の舞宮で中尾歌舞伎の開演をまつ人々】

全国には歌舞伎や伝統芸能に興味を持つ人は相当数存在するのだが、歌舞伎を観る機会が少ないのはチケットが高価であることが大きいのだと思う。ならば、全国のそういう人達を農村歌舞伎に誘って、旅行者を対象に少しでも収入を増やす方法を考えてはどうだろうかと思う。

地域の貴重な伝統文化は「無形民俗文化財」に指定されたところで、役者が喜んで演じることのできる環境が維持されなければ、伝統文化を守ることは難しいだろう。中尾歌舞伎が中断のやむなきに至った主たる理由は、演じる側の金銭的な負担が少なくなかったことにあるようなのだが、ならば旅行者を歌舞伎に誘導して、演じる人々がある程度の収入が得られるようになれば多くの問題が解決することになると思う。
伊那地方にかぎらず地方を観光する人々にとっては、その地域の伝統文化は極めて興味深いものであり、もし中尾歌舞伎を毎月1回でも2回でも観賞できる機会があるのなら、その日に合わせて舞台を訪れ、あわせてこの地をゆっくり観光したいと考える人は多いと思う。そうすることでこの地域の地域活性化にも資することになれば、伊那市にとってもいい話ではないだろうか。

会場が狭いので観客が多すぎても困ると思うが、例えば地元の旅館とタイアップして宿泊とセットしてネットで予約できるようにしてはどうだろうか。旅館の宴会場で演じるのでも悪くはないが、観光客としてはできれば地元の小さな舞台で観賞したいものである。
宣伝はそれほどコストをかけなくても、SNSなどで歌舞伎好きに情報を広めれば、はじめは少数しか集まらないとしても、評判が良ければリピーターが次第に新しい客を呼び込んでくれることになるだろう。

私も、伊那の美しい自然を背景に伝統芸能を後世に残そうと力を尽くしてきた人々の歌舞伎を、中尾座か熱田神社の舞宮で観賞したいと思う。
伊那市長谷の人々が250年もの長い間代々守ってきた貴重な伝統文化をこれからも継承されていくことを祈念し、私も微力ながらこのブログやSNSなどで応援していきたい。

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【ご参考】
このブログで無形民俗文化財のことをテーマにいくつか記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-184.html

桜の咲く古民家の風景を求めて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-232.html

淡路人形浄瑠璃と高田屋嘉兵衛と淡路特産玉葱の「七宝大甘」~~淡路島文化探訪の旅3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-52.html

後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-455.html

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

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ヒカリゴケが群生する光前寺から飯島陣屋跡、西岸寺を訪ねて

熱田神社から31kmほど走って、次の目的地である光前寺(こうぜんじ:駒ヶ根市赤穂29 ☎0265-83-2736)に向かう。

光前寺は、平安時代の貞観2年(860)に本聖(ほんじょう)上人が開山したとされる天台宗の寺で、広大な境内の全域が国の名勝に指定されている。

光前寺の参道と三門

仁王門を過ぎると長い参道が続き、参道に沿って林立する杉並木の大きさがこの寺の歴史と風格を感じさせてくれる。
上の画像は嘉永元年(1848)に再建された三門で、十六羅漢が祀られているという。

光前寺の苔

境内の大部分は杉などの大木に囲まれて陽光を遮り、苔の成育に最適の環境となっている。この道は立ち入り禁止となっていたのだが、苔が地表を覆っていて絨毯を敷いているようだ。

光前寺のベストシーズンは桜の咲くころと紅葉時期だとは思うのだが、その間の4月中旬から10月の下旬までの時期は、参道にある石垣の石と石の間にヒカリゴケを観ることができる。
http://www.kozenji.or.jp/contents/sakura.html#koke

光前寺 参道のヒカリゴケ

ヒカリゴケは日の光の反射によって光るものなので、あまり接近してカメラを向けると光が少なくなってしまってうまく撮れないと友人から聞いたことがある。ヒカリゴケを見つけたその場所から動かないで、ズームで画像を拡大して撮影すると、神秘的な光を放つ姿を写すことが可能になるので、この寺を訪ねるチャンスがあれば一度試されれば良いだろう。私も以前この寺を訪れた時はヒカリゴケをうまく撮影できなかったが、今度はうまく撮ることができた。

光前寺本堂

三門を抜けるとすぐに本堂に辿りつく。この本堂も何度か焼失したらしく、現在の建物は嘉永4年(1851)に再建されたものである。

光前寺 本堂の彫刻

この本堂の庇の下の虹梁(こうりょう)に龍が彫られていて、その彫刻が面白かったので思わずシャッターを押した。

光前寺 早太郎像

本堂の外陣に霊犬早太郎の像がある。この光前寺には次の様な伝説が伝わっている。
今からおよそ700年程昔、遠州府中(静岡県磐田市)見付天神社では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしがあったのだが、祭りの夜に大きな怪物が娘をさらっていくのを見た旅の僧・弁存がこの怪物と闘うことを決意した。
当時この光前寺には早太郎という強い犬が飼われていて、弁存は早太郎を借り受けて急ぎ見付村に戻り、早太郎が闘うことによってこの怪物は見事に退治され、村の災難は除かれたのである。
早太郎はこの戦いで傷を負ったために死んでしまったのだが、早太郎を借り受けた弁存は、その供養にと『大般若経』を写経して光前寺に奉納し、その経本は今も残されているという。そして早太郎は、不動明王の化身であり、霊犬として広く信仰を集めるようになったという話である。
もちろん物語風に脚色されているのであろうが、この寺に早太郎という犬がいて悪党退治に一役買ったというような話は実際にあったのではないだろうか。

光前寺 三重塔

本堂の左に早太郎の墓があり、さらに行くと文化3年(1806)建造の美しい三重塔がある。
南信州で現存している唯一の塔であり、現在長野県宝に指定されているようだ。上の画像の右にも、霊犬早太郎の像が建立されている。

光前寺 客殿の庭園

再び参道に戻って、左に折れると客殿がある。ここの庭園は築山泉水庭である。夢窓国師が作庭したという説もあるようだが、寺のパンフレットには「築造年代、作者等は、不明」と書かれており、夢窓国師が作庭したことを裏付ける記録は残されていないようだ。
美しい庭を眺めたあとで、茶菓をいただけるのはありがたい。この客殿の縁の下にもヒカリゴケを見ることが出来る。

旧竹村家住宅

光前寺から車で1分程度北に向かって走ると、国の重要文化財に指定されている旧竹村家住宅(駒ヶ根市赤穂26 )がある。
この建物は、以前は駒ヶ根市中沢大津渡(おんど)にあったのだが、昭和41年(1966)に重要文化財に指定されたのち駒ヶ根市が譲り受けて、昭和43年(1968)にこの場所に移築したものだそうだ。

竹村家住宅内部

竹村家は江戸時代には代々名主をつとめた家柄で、この家が建てられたのは江戸時代中頃と考えられている。内部も公開されており、上の画像は土間から部屋を撮影したものである。

駒ヶ根市郷土資料館

その隣に駒ヶ根市郷土館がある。この建物は大正11年(1922)10月に旧赤穂村役場として建てられ、その後駒ヶ根市役所の旧庁舎としても用いられたようだが、昭和46年(1971)に駒ヶ根市庁舎新築に伴いその中心的な部分がここに移築されたという。

駒ヶ根市郷土資料館内部

内部は考古資料や農具などが展示されていたが、このレトロな建物の木のぬくもりを感じながら、廊下を歩いているだけでなんとなく癒される。

次の目的地である飯島町歴史民俗資料館飯島陣屋(飯島町飯島2309 ☎0265-86-4214)に向かう。専用の駐車場は用意されていないが、陣屋から100mほど南にある無料の町営駐車場を使えばよい。

飯島陣屋跡

江戸時代の寛文12年(1672)に、飯島を含む大島(松川町)以北の旧飯田領が幕府領に編入され、幕府は当初片桐町(現:松川町)に陣屋を置いたが、5年後の延宝5年(1677)に飯島町に移転され、その後飯島陣屋は幕末に至るまで、伊那郡の幕府領を統括する拠点となった。
明治維新後は信濃国の旧幕府領は伊那県となり、旧飯島陣屋を伊那県庁としたのだが、明治3年(1870)に伊那県の北半分が中野県に移され、翌明治4年(1871)に筑摩県が発足して伊那県は廃止となり、役目を終えた旧飯島陣屋の建物は明治5年(1872)に解体処分されたという。

伊那県地図

明治維新になって「伊那県」ができたことはどこかで読んだことがあるのだが、これまでは「伊那県」は南信州にあったとばかり思っていた。しかし、飯島陣屋で頂いたリーフレットの地図をみると、信濃国の旧幕府領を中心に「伊那県」とされたので飛び地だらけであり、三河にも「伊那県」となった地域があったことがわかる。こういうことは活字だけを読んでいてはなかなか頭に入らない内容だ。

現在の「飯島陣屋」の建物は、平成5年(1994)に、当時と同じ位置に、同じ構造様式で復元されたものであるが、展示物は手で触っても良いし撮影も自由であることはありがたい。

飯島陣屋跡 内部

代官になった気分でこんな席に座ってみてもよいし、お白洲の前に座って、遠山の金さん気分になっても良い。生まれて初めて偉い人が乗るような駕籠に乗ってみたが、想像していた以上に窮屈な空間だった。
最後に囲炉裏端でお茶のサービスを受けたが、いろいろ説明を聞きながら結構楽しく過ごすことが出来た。

西岸寺 山門

初日の最後の目的地である西岸寺(せいがんじ:飯島町本郷1724 ☎0265-86-3939)に向かう。
西岸寺は蘭渓道隆を開祖として弘長元年(1261)に創建された臨済宗の名刹で、室町時代には七堂伽藍を造営して隆盛を極めたが、天正10年(1582)の織田信長が飯島城を攻めた際にこの寺も兵火にかかって焼失してしまったという。
天和元年(1681)に大極和尚がこの寺を再興したのちも何度か火災に遭遇し、現在の建物は、本堂は昭和38年に、その他の諸堂は昭和41年に再建されたものだそうだ。
内部の拝観はできないが、境内は自由に散策することができる。

西岸寺 本堂とカヤ

この寺で是非見ていただきたいのが、山門と本堂の真中にある樹齢500年以上あるというカヤの木。説明版によると樹高18メートル余り、目通りの周囲4.8m、枝張り東西17m、南北16mなのだが、このカヤの木の地上2mの樹間から1本の杉の木が生えていて、それがすでに高さ15mあまりにも伸びている。上の画像でカヤの幹の中央から真っ直ぐに伸びているのが杉の木である。
このカヤの木は、杉の木を抱きかかえているように見えることから、「抱寿貴(だきすぎ)のカヤ」と呼ばれていて、飯島町の天然記念物に指定されている。

西岸寺の拝観を終えて、予約していた中川村の望岳荘に向かう。

ハチ博物館

望岳荘は中川村が南向(みなかた)小学校の跡地に建てた宿泊施設で、館内にハチ博物館があるので向学のため見学させてもらった。伊那谷は古くからタンパク源としてハチの子を食用した歴史があるが、地元の蜂研究家の富永朝和氏がハチの習性を熟知して作らせた世界最大級の蜂の巣などなかなか見ごたえがあった。

望岳荘からの眺め

公共の宿なので、正直言ってそれほど期待してはいなかったのだが、設備は綺麗で充実しており、部屋や大浴場からは雄大な中央アルプスを一望でき、地元の田舎料理をとてもおいしくいただける旅館で大満足だった。

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【ご参考】
このブログで夏の暑い時期にいろんな地域を旅行して記事にまとめました。
よかったら覗いてみてください。

信州の諏訪大社を訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行1日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-39.html

御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-40.html

世界遺産の越中五箇山の合掌造り集落を訪ねて~~富山・岐阜・愛知方面旅行①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-199.html

飛騨古川から禅昌寺を訪ねて下呂温泉へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-200.html

郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html

郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-335.html

湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-336.html


養命酒駒ヶ根工場見学ののち、秘境・遠山郷の素晴らしい文化と絶景を楽しんで

翌日の望岳荘の朝は快晴で、美しい日本アルプスが遠くまで見渡せた。旅行2日目は、細い山道をかなり走る旅程なので良い天気に恵まれたことは有難い。

最初の訪問地は養命酒駒ケ根工場なのだが、養命酒は、慶長7年(1602)信州伊那の谷・大草(現在の長野県上伊那郡中川村大草)の塩沢家当主、塩沢宗閑翁によって創製されたと伝えられている。養命酒発祥の地は望岳荘にかなり近い場所で、現在石碑が建てられているようなのだが、一般公開されていないようなので行くのを諦めた。

養命酒駒ヶ根工場2

宿から30分程度で養命酒駒ヶ根工場(駒ヶ根市赤穂16410 ☎0265-82-3310)に到着する。
この工場は標高800mに位置し、36万㎡もあるという敷地の約7割が自然の森林に覆われている。

養命酒駒ヶ根工場散策マップ

工場見学は次のURLで10時に予約をとっていたのだが、早めに到着したのは鳥の囀りを聴き、中央アルプスから流れてくる清怜なせせらぎの音を楽しみながら、緑の木々に囲まれた工場の敷地の散策を先に楽しみたかったからである。
http://www.yomeishu.co.jp/komagane/study/

養命酒 健康の森

駒ヶ根工場は昭和47年(1972)に新設されたのだが、昭和45年(1970)に敷地内に縄文時代の遺跡が発見され、翌年の発掘調査で縄文早期、縄文前期、縄文中期、弥生式早期、古墳時代の遺物や住居跡などが相次いで発見されたという。

養命酒 健康の森 縄文式住居

そのうち縄文式中期住居、弥生後期住居、平安時代初期の住居が敷地内に工場復元され、散策者の目を楽しませてくれる。上の画像は約4000年前の縄文式中期住居跡である。

養命酒創始者 塩澤宗閑像

水芭蕉の池の近くに養命酒の創始者である塩沢宗閑の像がある。

養命酒のホームページによると、塩沢宗閑が養命酒を創製した経緯についてこう記されている。
「慶長年間のある大雪の晩、塩沢宗閑翁は雪の中に行き倒れている旅の老人を救いました。その後、旅の老人は塩沢家の食客となっていましたが、3年後、塩沢家を去る時、『海山の厚きご恩に報いたく思えども、さすらいの身の悲しさ。されど、自分はいわれある者にて薬酒の製法を心得ている。これを伝授せん。幸いこの地は天産の原料も多く、気候風土も適しているから・・・』とその製法を伝授して去りました。
薬酒の製法を伝授された塩沢宗閑翁は“世の人々の健康長寿に尽くそう”と願い、手飼いの牛にまたがって深山幽谷をめぐり、薬草を採取して薬酒を造りはじめ、慶長7年(1602年)、これを『養命酒』と名付けました
江戸時代、塩沢家では、養命酒を近くに住む体の弱い人や貧しい人々に分け与えていましたが、医術が十分に行きわたっていなかった山村のため、大変重宝がられました。…その評判が高くなるにつれて、養命酒の名は伊那谷の外へも知れわたり、5里も10里も山越えをして求めにくる人が次第に多くなってきました。」
http://www.yomeishu.co.jp/sp/health/beginning/

養命酒が造られた慶長7年は天下分け目の関ヶ原の戦いの2年後であるから、今から415年も昔のことである。それ以来今日まで、「養命酒」というブランドで製造され続けてきたということはすごいことである。

養命酒 展示物

予約していた時間が近づいてきたので、管理棟の2階の受付に向かって受付を済ませる。
今年の4月11日に見学者用のスペースをリニューアルオープンしたとのことで、建物は美しく、ガラス窓からは雄大なアルプスが望めてとても気持ちの良い空間であった。
待合室に、大正時代からの養命酒が展示されていたが、今から50年前頃のボトルは何となく見覚えがあって懐かしく思えた。

養命酒 原料

最初に養命酒の歴史や健康の森についての映像を見たのち、製造工程の説明をして頂く。
画像は養命酒の原料となる14種類の生薬の現物だが、誰でも手に取ってその香りを確かめることが出来る。

ラインの見学は写真撮影NGで、また土曜日なので機械は稼働していなかったのは残念だったが、案内の方に丁寧に説明して頂いて、結構楽しく見学することができた。

最後に養命酒社の製品を試飲できる時間があるのだが、車を運転するのでアルコールの入った製品を飲むわけにいかず、酢飲料などを試飲させていただいた。最後に同社製品のお土産までいただけるのは有難い。

カフェヒーリングテラス

80分程度の工場見学を終えて、敷地内の養命酒記念館に向かう。この白壁の建物は、実際に養命酒が造られた酒蔵をここに移築したものだそうだ。
そのなかに養命酒の歴史や生薬に関する展示物やショップがあり、ランチもできるカフェが併設されている。

カフェヒーリングテラス 昼食

昼食は信州十四豚ブラウンシチューというメニューにしたが、信州十四豚というのは薬用養命酒の生薬残滓を餌に与えて育てた豚なのだそうだ。デザートも体にやさしいこだわりメニューばかりなのが嬉しい。
https://www.yomeishu.co.jp/komagane/cafe/

ショップで買い物を楽しんだ後、次の目的地である「まつり伝承館天伯」(飯田市上村上町753 ☎0260-36-2005)に向かう。養命酒工場からは52kmほどの距離があるので、1時間以上はかかる。

まつり伝承館

上の画像の建物が「まつり伝承館天伯」で、ここには地域の歴史や伝統の祭りであり国の重要無形文化財である霜月祭り(しもつきまつり)などの展示がある。

遠山郷

このあたりは長野県の南端に近く、天竜川の支流である遠山川に沿って拡がる山深い谷間の地域で、遠山郷と呼ばれていて日本の秘境100選のひとつに数えられている。

中央構造線 1
上村を通る中央構造線

むかし学生時代に日本列島最大の断層である「中央構造線」を学んだ記憶があるが、南信州ではこの断層が南アルプスと伊那山地を二分するV字谷が南北に走っていて、遠山郷はそのような深い谷間の隔絶された場所であったために、独特の文化が育まれた。
毎年12月になると、かつて柳田国男が「日本の祭りの原型」と書いた霜月祭りが、遠山郷の各地で執り行われている

まつり伝承館内部

この祭りは、湯を煮えたぎらせた釜の周りを神様や農民などを模した面(オモテ)と呼ばれる仮面の被り手たちが舞い踊りつつ、釜湯かけを行なうものなのだが、信州遠山郷観光協会公式サイトに、この祭りの意味がこう解説されている。

「祭りは夜間におこなわれますが、これにも重要な意味があります。
神は昼間でなく夜に迎えてまつるというのが日本の祭りの古い形でした。
太陽が沈む夕刻の頃に神々を迎え、一夜を徹してもてなし、夜明けに神々を返すのです。
祭りを終えて迎える日の出は、新たな太陽のよみがえりを意味します。
祭りをつとめ上げた村人たちは、それを拝むことで自らの活力のよみがえりを実感するのです。

遠山の霜月祭りは、湯立てが何度もくり返されますが、これは天竜川流域の、とくに信州側の霜月神楽に共通した特徴です。
神社の中に設けられた竈(かまど・湯釜)を中心に、湯立てなどの神事や舞がおこなわれます。
湯釜には聖なる水と火によって聖なる湯が立てられます。
この湯を神々に捧げ自らも浴びることで、命を清めてよみがえりを願うのです。
また、湯釜から立ち上る湯気は天上への架け橋となり、これを伝って全国66ヶ国の一宮をはじめ、地域の神々までを湯の上飾りに招き寄せる
ということなのでしょう。」
http://shimotsukimatsuri.com/about-shimotsuki-festival/

「霜月」は旧暦の11月で、1年で最も日照時間の短い冬至は「霜月」にある。
「霜月祭り」は太陽光の弱い季節の夕刻以降に神々を迎えてもてなし、太陽の活力を取り戻してもらうことで翌年が豊作になることを祈る人々の気持ちが込められているのだろう。

霜月祭りの面

Youtubeで祭りの画像を検索するといくつかヒットするが、遠山郷の集落によって面の種類や舞の動きや囃子の仕方に違いがあるのだそうだ。次の動画は飯田市南信濃和田の諏訪神社の霜月祭りだが、祭りの雰囲気が良く伝わってくる。
https://www.youtube.com/watch?v=2vllGeCYs6s

この祭りがいつ頃から始まったかについては詳しいことはわかっていないという。平安時代の終りとも鎌倉時代との説もあるが、江戸時代にこの地を治めていた遠山氏を鎮魂する儀礼が加えられたという伝承があることは注目して良い。実際に、霜月祭りには「遠山八幡社」などと呼ばれる遠山氏をかたどった御霊面が登場するのだそうだ。

『伊那民俗叢書 第1輯 山の祭り』

国立国会図書館デジタルコレクションに、昭和8年に出版された『伊那民俗叢書. 第1輯 山の祭り』が公開されていて、誰でもPCなどで全文を読むことが出来る。
そこには、地区別の霜月祭りの伝承などが纏められていて、この祭りで遠山氏を鎮魂するようになった経緯について、下栗集落の祭りの解説の中でこう記されている。

「元和*年間当時三千石を領していた遠山藩は、非常に取立てが厳しく、二升の桝を以て一升とするというような悪政を行なったために、領内の百姓どもの恨みを買い、参勤交代の帰路、大河原峠において一揆の土民の為に石打ちにされて殺された。…一揆の勢いは土佐守を石こづめにすると同時に、和田城を襲い、土佐守の妻子一族はもとより、三人の家老も四天王と言われた侍大将などもともに虐殺してしまった。すると三年間飢饉が続き、悪病が流行し、それがなかなか熄まないので、百姓どもはこれは必定主君遠山様をはじめ罪なき人々迄殺したため、その祟りが飢饉悪病となって我々に報い来るのであろうと、遠山氏一族を八社の神として祀り、死霊祭をしたのがこの祭りの起こりであると言っている。但し一揆のために殺されたのは遠山土佐守ではなくて、その弟の新助景道で、元和八年*四月七日であるという(遠山氏史蹟による)。いずれにせよこの祭りが死霊祭であるという説明は誰からも必ずきかされることである。」
*元和(げんな):1615~1624年。 元和八年は1622年。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463976/42

遠山郷ロードマップ

「まつり伝承館天伯」をあとにして、「日本のチロル」と呼ばれる秘境・下栗の里に向かう。
山の狭い道を走ることになるので、対向車が来るときは注意が必要だ。カーナビは高原ロッジ下栗(飯田市上村下栗1250 ☎0260-36-2758)にセットしておく。参考になる地図は「まつり伝承館天伯」で入手するか、次のURLにある『遠山郷(上村+南信濃)ロードマップ』のPDFをダウンロードして印刷しておくことをお勧めしたい。
http://page.shirabiso.com/?cid=5

「まつり伝承館天伯」から下栗の里の駐車場までは25分程度だが、ここから下栗の里を望むことが出来る『天空の里ビューポイント』までは細い山道をひたすら歩くことになる。

下栗の里

山の中を25分近く歩いただろうか。急に視界が開けて下栗の里が見えたときは本当に感動した。下栗の里は標高1000m前後の斜面にあるのだが、こんな山の上に集落があるということが凄いと思う。

駐車場の近くの店で休憩したのち、最後の目的地である旧木澤小学校(長野県飯田市南信濃木沢811)に向かう。

旧木澤小学校校舎

昭和7年(1932)に建てられ、平成12年(2000)に廃校となった木造校舎なのだが、廃校後17年も経つのに、ついさっきまで先生や生徒がいたと錯覚を覚えるように工夫がなされて、その状態が維持されているのが良い。

旧木澤小学校教室

机や椅子の配置が昔のままに残され、黒板にチョークの文字が残され、生徒の作品が教室の後方の壁に貼り出されていて、教室の中にしばらくたたずんでいると、小学校低学年時代に木造校舎で学んだ懐かしい思い出が甦って、ほっこりとしてしまった。
南アルプスの資料の展示や木澤地区の霜月祭りの展示なども参考になるが、私にとっては木造の校舎が、地元の人々の手で今も管理されて、現役の小学校のように美しく残されていることが嬉しい。

予定していた観光を終えて、予約していた下條温泉の月下美人に向かう。
静かな温泉宿で、料理もおいしくいただけただけでなく、夕食後には社長の独唱と女将さんのピアノと息子さんのギターのミニコンサートがあり、そのあとで、玄関前に敷かれたござの上に寝転がって星空を観察する会があって、宿泊者全員がひとつになれる企画に感動した。ドライブの疲れを癒すのに、とても良い宿だった。
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【ご参考】
夏の暑い時期に、こんな歴史散策はいかがですか。新しい記事を書きながら、ブログの記事を以前のブログから手作業で移していたため、この時期の記事のエントリー番号はバラバラになっていますが、「大原騒動」と「廃仏毀釈」の故地と、日本百名城の岩村城を訪ねて4年前に岐阜県を旅行した記事です。

飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-131.html

「大原騒動」の史跡や飛騨の国宝や渓谷などを訪ねて白骨温泉へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-154.html

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html


飯田市の観光を楽しんだのち、「満蒙開拓」とは何だったのかを考える

南信州旅行の3日目は、月下美人の精算を済ませたのち天竜川の舟下りにいく予定を組んでいた。

飯田市の天竜川下りは弁天港から出発する「天竜舟下り」と天龍峡温泉港から出発する「天龍ライン下り」の2つがある。
旅館の人に聞くと景色は天龍峡を通る「天龍ライン下り」の方が良いかもしれないが、「天竜舟下り」の方が上流なので流れが速くて水しぶきを浴びるスリルが味わえるとのことだった。
いずれも伝統的な木造船の造船技術および操船技術を継承していて、川下りの観光船としてはおよそ100年の歴史を有していることから、昨年の6月、両方同時に飯田市の民俗文化財の指定を受けているようだ。
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/20160715.html

初めてなのでどちらに乗船してもよかったのだが、川下りの後は飯田城跡を巡る予定なので、「天竜舟下り」を選択して、旅館から割引券を頂いた。

天竜舟下りマップ

天竜舟下り」の乗船場である弁天港(飯田市松尾新井7170 ☎0265-24-3345)に向かう。
出発時間が迫ると2階の待合席でライフジャケットが配られて、全員それを着用してから船に乗り込む。
待合列の先頭に並んで船の先頭に近い席を確保して迫力ある写真を撮るつもりだったのだが、後ろから順に座るように指示されたので座席が後方になってしまった。しかしながら、乗船しているうちに、船の前の方が特等席ではないことが誰でもわかるようになる。
船の先頭は水しぶきを何度もまともに浴びる可能性が高く、「濡れにくい」という観点からは後ろの席の方が良い。しかしながら、いい写真を撮るためには、せめて中央よりも前の方に座りたいところである。

天竜舟下り 1

出港してしばらくは川幅が広くて船はゆっくりと進むのだが、最初の橋である水神橋を過ぎたころから次第に流れが速くなり、上の画像の南原橋を過ぎたあたりから川幅が狭くなって、いよいよ川の流れが一段と速くなってくる。
水しぶきがかかる可能性が高い場所が何箇所かあり、危険な場所に近づくと、船頭から座席の後ろにあるビニールシートを乗客全員で持ち上げる指示が飛ぶので、指示どおりにしていれば衣服が濡れずにすむと思いきや、後ろの席でもたまに横波を受けて、シートを乗り越えて水を被ることがある。

天竜舟下り 2

南原橋から最後の天龍橋までは鵞流峡(がりゅうきょう)と呼ばれていて、深いところでは水深が8mもあるのだそうだ。県立公園に指定されている場所でもあり、紅葉を迎える11月ごろはきっと素晴らしい景色が楽しめることだろう。
約6kmの35分の船旅だが、スリリングなだけでなく景色も楽しめて結構満足できた。

天竜舟下り 4

宣伝するつもりはないのだが、Youtubeで「天竜舟下り」の動画があったので紹介しておこう。この流れの速い川で、設計図のない手作りの木造船で、手漕ぎと舵取りで川を下る伝統の技術はすごいことだと思うのだが、こういうことは言葉で説明するよりも動画を見た方がわかりやすい。
https://www.youtube.com/watch?v=cIC6KiF3QBk

無量の送迎バスで弁天港に戻り、飯田市の中心部の観光に向かう。

飯田市を訪れるのは今回が2回目で、前回観光しなかった飯田城跡に向かう。駐車場は市立美術館の近くに無料のものがある。

飯田城は13世紀初めにこの地で勢力を持つようになった坂西(ばんざい)氏によって築かれたのだそうだが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡したのちは目まぐるしく城主が替わっている。
Wikipediaによると、武田氏滅亡の後「信濃伊那郡は織田家家臣・毛利長秀に与えられ、長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行う。同年6月の本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て、三河国徳川家康の支援を得た下条頼安が飯田城を掌握し、後に菅沼定利が入城した。徳川勢の関東移封後には、再び毛利秀頼が入り、その娘婿の京極高知に継承され、この頃に近世城郭としての姿が整えられた。江戸時代になると小笠原氏1代、脇坂氏2代と続き、寛文12(1642年)堀親昌が2万石で下野烏山より入封し、以後明治維新まで飯田城に居を構えた」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%9F%8E_(%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%9B%BD)

飯田城図

国立国会図書館デジタルコレクションに『信州飯田城図』が公開されている。二の丸跡地には飯田市美術博物館が建っていて、本丸は神社境内となっているようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286697

明治4年(1871)7月の廃藩置県で飯田藩は飯田県となり、11月には第一次府県統合が行なわれ、近隣の6つの県が統合して筑摩県が発足し、この城内に筑摩県の飯田支庁が置かれたという。その後明治9年(1876)の第2次府県統合に筑摩県は長野県に合併されたのち、この城の大半は壊されてしまった。

飯田城桜丸御門

上の画像は、「赤門」と呼ばれる桜丸御門だが、建物としては城内で残された唯一の遺構である。

長姫のエドヒガン

二の丸の周囲には飯田藩重臣の屋敷があったそうだが、代々の家老であった安富氏の邸址には樹齢450年以上とされる長野県天然記念物の「安富桜」がある。
ネットでは満開の安富桜の画像が多数紹介されているが、次のURLによると飯田市近辺には見事な一本桜がほかにも多数あるようなので、春になって近くの桜を巡る旅も面白いかもしれない。
http://www.pixpot.net/articles/u_d_view/234/iida-sakura/

柳田国男記念館

さらに東に進むと橋があり飯田城本丸跡の看板がある。上の画像は柳田国男で、東京都世田谷区成城にあった柳田国男の書屋『喜談書屋』を移築し、平成元年(1989)に開館したものである。レトロな建物に興味を覚えたので中に入ってみた。

柳田国男記念館 内部

民俗学者の柳田国男は明治8年(1875)に儒者で医者の松岡操の6男として兵庫県に出生し、東京帝国大学卒業後農商務省に勤務したのち明治34年(1901)柳田家の養子として入籍した。養父の柳田直平は東京在住ながら旧・飯田藩士で、国男は入籍して3年後に直平の四女孝と結婚し、以来、昭和17年(1942)年まで本籍は柳田家祖先の地である飯田にあったという。上の画像は柳田国男館の書斎である。

川本喜八郎人形美術館外観

飯田城跡散策の後、川本喜八郎人形美術館(飯田市本町1-2 ☎0265-23-3594)に向かう。駐車場はすぐ近くにトップヒルズ本町駐車場(市営)がある。

いいだ人形劇フェスタ

飯田市は『人形の街』と形容されることが多いようだが、毎年8月初旬に飯田文化会館などで日本最大の人形劇の祭典「いいだ人形劇フェスタ」が行なわれている。

黒田人形浄瑠璃 下黒田諏訪神社境内の人形専用舞台

人形劇が盛んな土地柄は、300年以上にわたる人形浄瑠璃の歴史を抜きに語れない。
この地域に人形浄瑠璃が伝わったのは江戸時代半ばなのだが、飯田市の黒田地区では人形浄瑠璃は熱狂的に受け入れられ、村人は浄瑠璃の舞台や人形の為に田畑まで売り払ったと伝えられている。そして、300年以上の歴史を持つ黒田人形、今田人形の人形芝居を含めて四座が今も活動を続けているという。

そんな伝統を持つ飯田市で昭和54年(1979)に全国の人形劇人が集まって『人形劇カーニバル飯田』が始まり、平成11年(1999)からは『いいだ人形劇フェスタ』と名称が変更されたのだが、今年は通算第39回目のイベントが8月1日から6日まで行われたようだ。
http://www.iida-puppet.com/thisyear/index.html

年配の方は御存知だと思うのだが、今から35年前の昭和57年(1982)にテレビで『三国志』の人形劇を放送していた。その人形制作を担当した川本喜八郎氏が平成2年(1990)の夏の『人形劇カーニバル飯田』に人形劇公演のために初めて飯田市に訪れ、人形に情熱を傾ける飯田の人々に感激して、「人形が生きている」この飯田こそが「人形たちに一番ふさわしい場所」として、川本氏が制作してきた「三国志」「平家物語」などの人形を飯田市へ寄贈されたという。その人形が展示されているのが川本喜八郎人形美術館なのである。

川本喜八郎人形美術館

上の画像はエントランスにある『三国志』の諸葛孔明の人形である。
ギャラリーには59体もの『三国志』の人形が展示されていたのだが、いろんな人形の表情を見ているだけでも楽しい。

近くのレストランで昼食を済ませて、今回の旅行の最後の目的地である満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村駒場711-10 ☎0265-43-5580)に向かう。道がわかりづらいので、次のURLから近隣地図をダウンロードされた方が確実だ。
https://www.manmoukinenkan.com/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B9/

満蒙開拓平和記念館地図

なぜこんな場所に「満蒙開拓平和記念館」があるのかと誰でも思うところだが、簡単に説明しておこう。

かつて中国東北部に13年間だけ存在した「満州国」に、日本全国から27万人の農業移民が渡って行った。これを「満蒙開拓団」とよぶのだが、この時に送りだされた農民の出身地は長野県が3.3万人と全国で一番多かったという。二番目に多かったのは山梨県で1.7万人というから、長野県の人数の多さが際立っていたことがわかる。当時の長野県の農民は養蚕業の衰退による経済的に困窮していて、耕地面積も狭かったことから新天地に夢を託したのであろう。

満蒙開拓平和記念館パンフレット

記念館の展示室の中に満蒙体験を経験した人の体験談が読めるコーナーがある。
購入したパンフレットにもそのいくつかが紹介されているが、大正12年生まれの小木曽さんの証言を引用させていただく。

「村で満州移民の話が出て、村の偉い人たちが家に来てしきりに『お前さんたちこそ満州へ行くべきだ』って勧めてくれた。日本じゃ仕事がない。満州へ行ったら20町歩の田畑をくれるんだから、20町歩の大地主になれるんだって。そんな大地主になれるんならこんなに苦しむことはない。それじゃあ満州に行こうってことになった。
母親はいやだったけどね、あの時はああするしかなかったんだな。日の丸へ寄せ書きしてくれて、兵隊さん送ってくれるみたいに盛大に送ってくれた」(『満蒙開拓平和記念館』p.28)

この「満蒙開拓団」を発案したのは、移民を増やすことによる満州国維持と、対ソ兵站地の形勢を目指す関東軍であったのだが、太平洋戦争末期の昭和20年(1945)8月9日にソ連が満州国に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして朝鮮国境まで撤退してしまう
以前このブログで紹介したとおり、関東軍は開拓移民だけでなく、民間人のほとんどを見捨てているのだ。
満州国の首都・新京には当時14万人の日本人が居留していて、8月11日未明から正午までに18本の列車が出で38千人が新京を脱出しているのだが、優先的に脱出したのは軍人関係家族や満鉄関係家族、大使館家族で、民間人はわずかしかこの列車に乗っていなかったことがWikipediaに書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6

満蒙開拓平和記念館で購入したパンフレットで、満蒙開拓平和記念館専務理事の寺沢秀文氏はこう記しておられる。
「開拓団を守るべき関東軍はと言えばもうその姿は無かった。関東軍は早い時期からソ連軍侵攻時には南満州方面の『作戦地域』に南下し、開拓団が暮らすその他の大半の地域のほとんどは『放棄地域』とすることを密かに決定しており、その作戦通りに関東軍は『敵に知られるから』と開拓団に知らせることなく密かに南下してしまった。守るべき軍隊もない開拓団員たちの悲惨な逃避行、さらに集団自決により多くの犠牲を出すところとなった。また越冬時の苦境の中から多くの残留孤児や残留婦人が生まれることにもなった。」(『満蒙開拓平和記念館』p.58)

開拓団員のうち成年男子は4.7万人が軍に召集されていたために、残る22.3万人の大半が老人、女性、子供であった。そんな男手が少ない状態で始まった開拓移民たちの逃避行はとんでもなく悲惨なものとなった。侵攻してきたソ連軍や暴徒と化した満州民、匪賊などによる暴行・略奪・虐殺が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例もある。

大正14年生まれの中島多鶴さんはこんな悲しい記録を書き残しておられる。
「湿地ばっかりで、膝までつかるような所で、足はもう履物もないの。それでも必死で一週間くらい歩いて行ったら牡丹江があって、大きな川でね、幅が200メートルもあるの。それを渡ったら向こうはすごい原生林なの。…そうしとるうちに、もう行けないって川に子供を捨てちゃう人がでてきた。もうどうしようもないもんで、子供を流したんです。私も七人くらいまで流れて行くのを見たんだけど、止めてやることもできん、助けてやることもできん。」(『満蒙開拓平和記念館』p.28)

生き残ることが出来た者も極寒の収容所などに送られ難民生活を過ごし、開拓移民の約8万人が死亡し、生き残ることのできた者も、多くは残留孤児や残留婦人となったというという悲惨な話なのだが、このような史実が戦後のわが国ではほとんど伝えられていないのである。

「満蒙開拓平和記念館」のある阿智村からは175名もの開拓団を送り込んだのだが、戦後帰国できたのはわずかに47人であったという。

山本慈昭

長岳寺住職で国民学校の教員であった山本慈昭氏も開拓団員として家族や教え子とともに満州に渡った人物だが、ソ連侵攻時には妻子と引き離されてシベリアに抑留される身となり、昭和22年(1947)にようやく帰国すると、妻や幼い2人の娘の死と、阿智開拓団の8割が死んだと聞かされて愕然とする。

悲しみの中、山本氏はせめて仲間たちの遺骨を拾おうと昭和39年(1964)に訪中し周恩来との面会を果たしているが、遺骨収集は認められなかったという。
しかしながら、その翌年に中国黒竜江省在住の中国残留日本人から、日本にいる肉親を捜してほしいとの手紙が届き、中国残留孤児が存在することを知る。山本氏は孤児たちの帰国運動を開始しようと当時の厚生省をはじめ各省庁に残留孤児の調査を訴えたが、良い返事は得られなかったようだ。

その後昭和44年(1969)に阿智開拓団の生存者の一人が、死去する2日前に、子供達の命を救うために中国人に引き渡し、後に帰国できた自分たちは口裏を合わせて全員死んだと嘘をついたことを告白し、山本氏の長女や教え子15人が生存しているはずと発言した。
山本氏は孤児探しの使命感をさらに強めて活動を強化し、新聞やテレビでも孤児たちの存在が、次第に報じられるようになっていく。

昭和47年(1972)の日中国交正常化を機に「日中友好手をつなぐ会」が結成され、山本氏を会長として、中国の孤児たちの手紙のやりとりや、日本の肉親たちの訪問などの活動が開始されるようになる。それ以降次第に孤児たちの身元が判明して、多くの家族が再会を果たすことになる。

しかしながら、ここまでくるのに終戦後あまりにも長い年月が経ちすぎていた。
身元が判明しても、家庭の事情で親族による永住帰国の承諾が得られないケースや、残された養父母が生活困窮となるケースが少なくなかったようだ。
また帰国しても、ほとんど中国語しか話すことが出来ず、言葉の壁や生活習慣の違いによって孤立するケースが多く、平成11年(1999)の調査で、生活保護に頼る世帯が66%も存在したという。

中国残留孤児国家賠償訴訟

平成14年(2002)に、国は中国残留孤児に対して速やかな帰国支援や帰国後の自立支援を怠ったとして中国残留孤児による国家賠償訴訟が提訴された。全国15の裁判所で訴訟が起こされ、残留孤児として帰国した人の9割にあたる2211人が原告として参加したという。
裁判は原告の敗訴が続き、平成19年(2007)に国は年金の満額支給と特別給付金の支給を約束する新たな支援策を提案して和解を持ちかけ訴訟は取り下げられていったのだが、損害賠償金が支払われることはなかったのである。

ここで、原告に参加した中国残留孤児にとって、わが国はどんな国家であったかを考えてみたい。
彼らは国策として家族と共に満州に送られたのだが、ソ連侵攻時に日本軍に見捨てられ、戦後長い間中国に置き去りにされてきた。そしてようやく夢がかなって帰国できたのだが、わが国は彼らが自立できるような支援すら与えることのない冷たい存在であったのである。

希望を抱いてようやく祖国に戻れたにもかかわらず、彼等の9割もが国を提訴するに至ったことは、政府や地方の行政機関や彼らの親族や故郷の人びとが想定外に冷たかったことを意味している。しかしながら、国を提訴することで多くの国民の関心を集めることができれば、世論の後押しで裁判に勝訴し賠償金を勝ち取ることは不可能ではない…。彼等の誰もが、わずかでも生活改善が図れることを期待していたと思うのだが、期待していた世論の盛り上がりはなく、裁判では敗訴が続いて、彼らは日本の国民も冷たい存在に感じたのではないだろうか。

ではなぜ、日本国民は彼らに対して暖かい支援の手を差し伸べることができなかったのだろうか。
その理由は、戦後の長きにわたりわが国の教育機関もマスコミも、「終戦時において無防備、無抵抗の日本人が 大きな被害に遭遇した歴史的事実を、正しく伝えて」来なかったし、訴訟が起きてからマスコミがこの問題を充分にとりあげなかったことが大きいのだと思う。

満蒙開拓平和記念館

「満蒙開拓平和記念館」は、国や長野県などの出資はなく、民間の人々が出資して入場料と寄付金や会費で運営しておられる施設である。
リーフレットの表紙には「前事不忘、後事之師―前事を忘れず、後事の教訓とする―」と記されていたが、わが国では旧ソ連や中国、および朝鮮半島で起きた過去の出来事を国民にありのままに伝えるということをさせたくない勢力が確実に存在して、マスコミなどで流される解説の多くは真実をありのままに伝えていない。史実でないことを教訓とするわけにはいかないのだが、わが国では「前事」について、確かな資料に基づいて正しく学ぶ機会が乏しすぎることが問題だ。

この記念館は小さな施設ではあるが、戦後のわが国でほとんど伝えられてこなかった満蒙開拓の歴史をしっかり学ぶことのできる良い施設である。
この小さな記念館が、広島の平和記念資料館のように多くの人々を誘い、世界に向けて平和を発信する日が来ることを祈念して、3日間の南信州の旅行を終えることにした。
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【ご参考】
シベリアや満州の事を調べて行くと、なぜ中国やわが国の左派勢力がこのような史実を隠蔽しようとするのかを垣間見ることが出来ます。よかったら覗いてみてください。

昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-410.html

『軍国主義者』や『青年将校』は『右翼』だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-279.html

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-409.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html

ソ連占領下から引揚げてきた日本人の塗炭の苦しみを忘れるな
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-407.html

なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-446.html

『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-448.html

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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