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信州の諏訪大社を訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行1日目

長野県中部の諏訪湖の近くにある「諏訪大社」に是非行ってみたいと思って、諏訪から南信州を巡る二泊三日の旅程を組んで先日行ってきた。しばらく、この旅行のレポートを書くことにする。

旅行に行く前に事前に下調べをしたのだが、恥ずかしながら「諏訪大社」に「上社前宮」「上社本宮」「下社春宮」「下社秋宮」の4宮もあることを、これまで知らなかった。諏訪湖の南に上社の2宮があり、諏訪湖の北に下社の2宮があるのだが、大阪から行くにせよ、東京から行くにせよ、諏訪方面に行って4宮を見学するだけで、半日はかかるコースだ。

うなぎ小林

早朝に大阪の自宅を出て、11時頃にあらかじめネットで調べていた「うなぎ小林本店」という店で早めの昼食をとった。
11時に開店の店なのだが、開店待ちのグループが私のほかに5グループほどあった。
四万十川の天然鰻を備長炭の炭火でふっくらと焼き上げてあってタレも旨くて満足だった。
http://www.tamatebako.ne.jp/kobayashi/index.html

昼食を終えて、最初に「上社前宮」に向かう。
この場所は諏訪信仰発祥の地であるとの伝えがあり、古来は栄えたようであるが、他の3宮に比べると規模がかなり小さくて訪れる人も少なく、土産物を売る店舗も見当たらない。

古くはこの前宮で全ての祭祀が執り行われていて、現人神(あらびとがみ:生き神)である「大祝(おおほおり)」と呼ばれる神職として、諏訪家が代々ここに「神殿(こうどの)」と呼ばれる住居を構えていたという。
ところが室町時代に諏訪家一族で抗争が起こり、祭祀を司る「大祝諏訪家」と嫡流で武士であった「諏訪惣領家」とに分裂。戦国時代に入って惣領家が諏訪頼満の時代に大祝家を滅ぼし、惣領家が大祝をも務めて祭政一致のもと武力と権力を強め、「大祝」がこの場所から居住地を移したのちは、前宮は急速にさびれていったのだそうだ。
「諏訪大社と諏訪神社」というHPによると、「上社前宮」は、明治時代の半ばまでは「上社本宮」の摂社扱いとされ、「上社」は「本宮」1社だけであったという。
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/maemiya.htm

上社前宮十間廊

上の画像は「十間廊(じっけんろう)」という建物で、中世まで諏訪の祭政が行われた政庁の場なのだそうだ。昭和32年に火災で焼失し、その後再建されたとのことである。
この場所で、毎年4月15日に「御頭祭(おんとうさい)」という諏訪神社古来の行事が執り行われるという。このお祭りのレポートは先程紹介した「諏訪大社と諏訪神社」というHP に詳しく解説されている。
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.htm

上社前宮

諏訪大社「上社前宮」の拝殿は、「十間廊」から150mほど登ったところにあった。
御祭神は「八坂刀売命(やさかとめのみこと)」で、「上社前宮」の御祭神である「建御名方命(たけみなかたのみこと)」の妃神だそうだ。また、御祭神は諏訪地方の土着の神様であるミシャグジ神とする説も有力だ。ミシャグジとは木や石に降り着く精霊・霊魂で、諏訪地方の土着の神様らしい。

現在の本殿は昭和7年に改築されたものだが、伊勢神宮の式年遷宮で不要となった古材(あるいは余材)を拝領して建てられたという。

上社前宮御柱

拝殿を取り囲むように4本の「御柱」が立っていて、上の画像は二之御柱と三之御柱が写っている。この柱は上社も下社も7年目に執り行われる有名な「御柱祭」で新調されることになる。
拝殿は森の中にあり左手には小川が流れて、この場所で小鳥の鳴き声やせせらぎの音を聞きながら何分かいるだけでなんとなく清浄な気分になれる、そんな場所である。

神長官守矢家史料館入口

「上社前宮」から「上社本宮」に至る途中に、「神長官守矢史料館(じんちょうかんもりやしりょうかん)」という、ユニークな史料館がある。
守矢家は古代から明治時代の初めまで、諏訪上社の「神長官」という役職を代々勤めてきた家なのだそうだ。
現人神(あらびとがみ)である「大祝(おおほうり)」の下で実際の神事を取り仕切っていたのが「神長官」をはじめとする「五官祝(ごかんのほおり)」で、守矢家は上社の「五官祝」の筆頭であったのだ。
資料館の中には守矢家に伝わる貴重な古文書や史料が多数保管されており、そのうち155点が長野県宝、50点が茅野市の有形文化財に指定されている。

神長官守矢家資料館内部

また江戸時代後期の博物学者である 菅江真澄の記録に基づいて、上社で毎年4月15日に行われる「御頭祭(おんとうさい)」が江戸時代ではどのようなものであったかが復元されている。
今の御頭祭では剥製が用いられるのだが、江戸時代の御頭祭では、先ほど紹介した前宮の十間廊に、75頭の本物の鹿の首などが供えられたのだそうだ。生きるための食糧を狩猟することで得ていた時代の儀式が、今もこの地に残されていると理解すればよいのだろうか。
この史料館の展示物ではもちろん剥製などを使っているが、見ていてなかなか迫力がある。上の画像はスタッフの方から許可を得て撮影させてもらった御頭祭の展示物である。
守矢家の敷地の中に7世紀半ばの古墳があり、また諏訪の土着の神様であるミシャグジ神を祀る小さい神社もある。日本神話につながっていくスタッフの話も興味深く、広い敷地の中に長い諏訪の歴史が凝縮されていることを感じて結構楽しめた。

上社本宮回廊

次に諏訪大社4宮で最大規模の「上社本宮」に向かう。
東参道から境内に入ると「布橋」と呼ばれる全長67mの屋根付回廊がある。上の画像は「布橋門」と呼ばれるその入り口でその右には本宮二之御柱が立っている。

上社本宮弊拝殿

布橋を過ぎて左側に主要な国の重要文化財である弊拝殿、左右の片拝殿がある。いずれも天保6年(1835)に上棟式がなされ、諏訪立川流の2代和四郎富昌という有名な工匠の代表作なのだそうだ。

上社本宮神楽殿

布橋の北側には神楽殿がありこの場所で様々な神事が年間を通して行われるのだが、諏訪大社のHPで年間行事を確認すると、下社は農耕的な神事が多いのに対し、上社の神事は蛙狩神事や御狩神事など狩猟的な神事が多いのに特徴があるようだ。
http://suwataisha.or.jp/

法華寺

「上社本宮」の東側に法華寺があり、ここに、以前このブログで「忠臣蔵」のことを書いた際に紹介した、吉良上野介の孫の吉良義周(よしちか)の墓がある。
なぜこの墓に「世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」との解説がなされているのか、興味のある方は是非次のリンクを覗いてみてください。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-153.html

諏訪大社の宝物館や諏訪市博物館にも立ち寄り、そこに古文書や武具や道具や絵図などの展示があったのだが、昔の諏訪大社上社の境内図などの展示を見ると明らかに五重塔が書かれていた。

上社神宮寺

自宅に戻ってからいろいろ調べると、上社にも下社にも神宮寺があり、上社には五重塔、下社には三重塔があったようだが、いずれも明治時代の廃仏毀釈の時に仏教施設が撤去されたようである。このことを書きだすとまた長くなるので、別の機会に改めて書くことにして、ネットでみつけた「木曽路名所図会」(秋里籬島著、西村中和画、文化2年[1805]刊)の第四巻にある「上諏訪神宮寺」の絵を紹介しておこう。この絵の右にある寺が吉良義周の墓がある法華寺で、右下にある鳥居から右が上社本宮の境内である。

高島城

「上社本宮」から6kmほど進むと「諏訪高島城」がある。この城は明治8年(1875)に廃城となり、現在の建物は昭和45年(1970)に復元されたものである。厳寒のこの地は、江戸時代に流人を監禁する場所としてよく利用され、先ほど書いた吉良義周はここで監禁されて衰弱し、21歳の生涯を終えている。

高島城に続いて「下社秋宮」に向かう。

下社の御祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、後兄八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)である。 下社の「春宮」と「秋宮」は、その名の通り、毎年春から夏には春宮に、秋から冬には秋宮に御神霊が遷宮する。その遷宮の儀式が毎年8月1日の「御舟祭(おふねまつり)」と2月1日の「遷座祭」なのだそうだが、「遷座祭」は大きなお祭りではないそうだ。
今年ももうすぐ「御舟祭」で、この大きなお祭りで御神霊が春宮からこの秋宮に遷されることになる。

下社秋宮神楽殿と狛犬

秋宮の境内中央に国の重要文化財の神楽殿がある。この建物も「上社本宮」の弊拝殿などを建築した二代立川和四郎富昌が同時期に造ったもので、国の重要文化財に指定されている。
両脇にある狛犬は青銅製の物としては日本一の大きさと言われているものだが、この狛犬は昭和5年に完成した後、第二次世界大戦で金属回収の国策の為に供出することを余儀なくされたためにしばらく狛犬がなかったのだそうだが、戦後35年に株式会社間組の神部社長が献納した旨のことが銅版に書かれていた。

下社秋宮弊拝殿と左右片拝殿

その奥にあるのが、弊拝殿・左右の片拝殿で、これらは安永10年(1781)初代立川和四郎富棟の製作によるもので、国の重要文化財に指定されている。

本陣岩波家

このすぐ近くに、江戸時代に参勤交代の大名が利用した「本陣岩波家」がある。昔の本陣はもっと広かったのだが、岩波家の内紛絡みで土地が分割され、皇女和宮が宿泊した部屋の道具や備品はこの本陣に残されているが、部屋自体は明治初期に岩波本家から分家した子孫が経営している「聴泉閣かめや」という旅館に残されているという。

本陣岩波家 庭

建物はかなり老朽化しているにもかかわらず十分な補修が出来ていないために、昔の面影を失っている部分もあるが、大名らが宿泊した部屋から見える庭は今も良く手入れされており、素晴らしい景観を残してくれているのはありがたいことだ。

続いて「下社春宮」に向かう。

下社春美や弊拝殿と左右片拝殿

鳥居をくぐって幅広い石畳の向こうに弊拝殿・左右の片拝殿がある。この建物は安永9年(1780)に高島藩の御用大工大隅流の伊藤長左衛門の作で、立川流の秋宮の弊拝殿と時を同じくして請け負われ、二重楼門造りという同じ図面をうけて大隅流と立川流とが腕を競い合ったものといわれている。そしてその結果は、大隅流の方が1年ほど早く完成し、建築費用も安かったのだそうである。

下社春宮の柱の彫刻

軒の装飾彫刻があまりに見事なので画像に収めておいたが、今の宮大工でここまで彫れる人が存在するのだろうか。

春宮の西に接して砥川という川が流れ、細い橋を渡っていくと「万治の石仏」がある。

万治の石仏

高さ2mくらいの半球状の自然石の上に仏頭を乗せた極めてユニークな石仏で、一度見たら誰しも忘れられない表情をしていて、見ているうちになんだか不思議に癒されてくる。
古くから地元の人々は浮島の阿弥陀様としてこの石仏を大切にしてきたそうだが、昭和49年(1974)の諏訪大社御柱祭を見るために、この地を訪れた芸術家・岡本太郎氏がこの石仏を絶賛したことから、それ以降観光客が訪れるようになったという。
胴体に万治3年(1660)と書いてあることから、「万治の石仏」と呼ばれるようになったが、その建立や背景については、何も記録がないので良くわからないのだそうだ。

浜ノ湯夕食

あいにく雨が降ってきたので宿泊先の上諏訪温泉「浜ノ湯」に向かう。
広い湯船にゆったりと浸かって、あちこち観光した疲れも吹っ飛んだ。
食事もおいしく頂けたし、行きたいところはほぼ予定通りに行けたし、大満足の一日だった。
(つづく)
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御柱祭の木落し坂から名所を訪ねて昼神温泉へ~~諏訪から南信州方面旅行2日目

ホテルの朝食前に諏訪湖畔の散歩に出た。雲がかかって山の景色は見ることができなかったが、国の重要文化財である「片倉館」は見ておきたかった。
「片倉館」は諏訪に製糸業を起こした片倉財閥の2代目、片倉兼太郎氏が昭和3年(1928)に造った温泉施設で、レンガ造りのお城のような立派な建物だ。

片倉館

この建物は片倉財閥の創立50周年を記念して建てられて今も大衆浴場として営業しており、中には大理石の彫刻などが多数あるらしいのだが、営業時間は朝の10時からなので中に入ることはあきらめた。

朝食を終えてチェックアウトし、朝一番で諏訪大社下社「御柱祭」の最大の見せ場である「木落し」の舞台となる「木落し坂」を訪ねることにした。

木落し坂

「御柱祭」とは正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行なわれる式年祭であり、長野県指定無形民俗文化財に指定されているお祭りだ。
最近では平成16年(2004)、平成22年(2010)に行われており、次回は平成28年(2016)の春に執り行われる。

諏訪大社上社と下社の「御柱祭」は別々に行われ、「木落し」の趣は上社と下社で随分異なる。
上社の「木落し」は目処梃子(めどてこ)と呼ばれるカタツムリの角のようなⅤ字型の柱が御柱の前後にあり、これに氏子がしがみ付いて左右に揺らしながら傾斜角度30度の坂80mを下る。
下社の「木落し」は、最大傾斜40度の坂100mを氏子たちが御柱に馬乗りになり轟音を響かせながら坂を突き進んでいく。
上の画像は下社の木落し坂を下から見上げて写したものだが、この急坂の上から6~8トンの御柱が秋宮の四本、春宮の四本の計八本も落とされるのだ。
テレビなどで何度か「御柱祭」の画像を見たことがあるが、放送されるのはほとんどがこの下社の「木落し」であるように思う。

下社の木落しの動画がYoutubeで見つかった。これはすごい迫力だ。
http://www.youtube.com/watch?v=AN7A7CTewr0&feature=player_detailpage

木落し坂2

木落し坂の上に登って下を見ると、足が立ちすくむほどの急坂だ。この坂を氏子たちは御柱に乗り、何度も振り落されながら、再び左右から飛び付いて御柱の上に乗ろうとする。非常に勇気のいることだが、それをしないとこの巨木を制御することが難しくなる。
人が乗ることによって御柱と斜面との摩擦を大きくでき、柱を坂の下で止めることが可能となるのだ。もし御柱が横を向いて転がりはじめたら、見物客を巻き込む大惨事になる危険がある。

参考までに上社の木落しの動画も紹介しておこう。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=9EI6sojnKpQ
上社の木落しは目処梃子(めどてこ)のVの字を維持して美しく坂を下りることが重視されているように見える。

木落し坂を後にして、岡谷市にある「旧林家住宅」に行く。

旧林家住宅

レーヨンなどの化学繊維が開発されて次第に製糸業は凋落していくのだが、明治から大正、昭和の初めにかけて、生糸は日本の貿易輸出の中心で、日本の近代化を支えた花形の産業であった。明治42年にわが国は世界一の生糸輸出国となり、最盛期には外貨の5割を生糸で稼いでいたという。
諏訪地方は最盛期には、わが国の生糸の3割、輸出の5割を生産し、大いに繁栄していたのだが、その栄華の時代を偲ばせる建物が諏訪湖周辺にいくつか残されている。最初に書いた「片倉館」もそのうちの一つであるし、この「旧林家住宅」もその代表的なものである。

この住宅は、岡谷の製糸業発展の礎を築いた一人であり、鉄砲火薬店の経営や、福島県常磐単行の採掘など幅広く事業を手掛けた実業家・林国蔵の居宅で、平成14年に国の重要文化財に指定され、また平成19年には近代化産業遺産にも認定されている。

旧林家欄間

建築には最高級の資材を用いて当時の最高レベルの建築技術で建てられたとの説明があり、欄間の彫刻や仏壇の彫刻もまた素晴らしいものであった。
圧巻は離れの2階にある座敷。壁・天井・ふすまの全てに「金唐紙」が貼られている。

旧林家金唐紙

西洋建築の壁を飾る美しい装飾の皮を「金唐革」というが、「金唐紙」とは「金唐革」を真似て和紙で作られた壁紙のことで、ウィーン万国博覧会で出品して好評を得て外国にも輸出されるようになり、バッキンガム宮殿の壁にも「金唐紙」が使われたと言われているようだ。
しかし、いつしか「金唐紙」は作られなくなり製造法さえ忘れられて、この「金唐紙」を残す和室は、わが国ではここだけはないかとの説明であった。
建物だけでなく家具や調度品も素晴らしいものばかりで、説明員の方から詳しい説明を受けながら、結構楽しむことができた。

次に向かったのは高遠町の歴史博物館。高遠町の歴史についての資料の展示のほかに、正徳4年(1714)に江戸城大奥の大年寄の絵島が高遠の地で幽閉された事件(「絵島事件」)に関する資料が展示されているほか、絵島が幽閉されていた屋敷が復元されている。
「絵島事件」のことを書きだすとまた長くなるので、また別の機会に書くことにする。

次に、昼食の場所に選んだ「かんてんぱぱガーデン」に向かう。

かんてんぱぱガーデン

「かんてんぱぱ」というのは、伊那食品工業の登録商標だが、坂本光司氏の「日本でいちばん大切にしたい会社」という本に、この会社の事が詳しく書かれているのを読んで感激したことがある。

伊那食品工業は「自分で考えたものは自分で創り、自分で売る」という主義で、大手スーパーには商品を一切卸していない。販売は、直営店とネット・通販が中心の様である。
何よりも社員の幸せを第一とし、過去一度もリストラをせず、同業者と戦わず、大きな販路が目の前にあっても無理な成長を追わず、しかし成長への種まきを怠らない経営を続けて、寒天メーカーという斜陽産業のなかで48年連続して増収増益を果たしてきた凄い会社だ。今では国内の寒天マーケットの8割を占め、世界の寒天マーケットのトップ企業なのだそうだ。

地方の多くの製造メーカーが目先の売上高増加の為に大手スーパーに商品を卸して次第に価格主導権を奪われ、厳しい仕入れ価格を要求されて品質を落とし、独自の商品開発をすることを忘れて成長力を失ってしまった。リストラを余儀なくされてしまってた企業も少なくないのだが、大手流通に自社商品を流す戦略は正しかったのか。

伊那食品工業は地方の製造業がこれから進むべきモデルを示しているように思う。
製造メーカーが良いものを作ることにこだわり続け、消費者と直接つながる売り方に徹していれば、大手流通業者から買いたたかれることもないので無理してコストを下げて品質を落とすこともなく、着実に適正水準の利益を自社に蓄積することができる。
地元に利益を蓄積できてこそ、地元の人の多くを採用することができ、地元の人々に地元で幸せに暮らせる環境を提供できるのだと思う。

今の時代は良いものを作っていれば、大手流通ルートに乗らなくともネットで繰り返し何度も買ってくれる消費者がきっと出てきて、評判が高まるにつれ売上が全国に広がっていく。
宅配料金を加えても近隣のスーパーの価格よりも割安で、味や鮮度に勝る商品の味を覚えた消費者は、いずれ多くの農産物や海産物やその加工品などをネットで生産者から買うようになるだろう。これからは今まで拡大路線を走ってきた大手スーパーや卸業者等が次第に売上を減らして凋落していき、宅配にかかわる運送業者と、都心部の消費者を掴むことに成功した地方の生産者が潤っていく時代になるのではないだろうか。

「かんてんぱぱガーデン」は伊那食品工業の本社・北丘工場一帯の緑地の中にあり、広さは3万坪もあるという。その中にレストランや美術館やホールや健康パビリオンやショップなどがあり、駐車場は200台以上のスペースがある。この日はマイカーや観光バスで驚くほどの観光客が集まっていた。
http://www.kantenpp.co.jp/garden/index.html

私が入ったレストランは「寒天レストランさつき亭」。昨日はカロリーを摂りすぎたので、低カロリーの寒天料理を食べることにした。

寒天レストラン

上の画像は「寒天麺梅かつお」だが、これで128kcal。ざるそば1枚が441kcalでカロリーはその3割以下だが、これだけで充分お腹一杯になった。

次に向かったのは、伊那の名刹「光前寺」。
この寺の歴史は古く、寺伝によると平安時代の貞観2年(860)に本聖上人によって開山されたという。戦国時代に武田家・羽柴家などの武将の保護を受け、江戸時代には徳川家から六十石の寺領と十万石の大名格を与えられて隆盛を極めたが、明治初期の廃仏毀釈によって、多くの末寺を失ってしまう。
今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれた境内には多くの堂宇が残っており、広い境内全体が名勝指定を受けている。

光前寺三門

上の画像は参道の途中にある三門で、嘉永元年に再建されたものだ。また、参道の左右に或る石垣の隙間から、時々緑色に光るヒカリゴケが見えることがある。

この三門のすぐ右に国の重要文化財である弁天堂があったのだが、写真を撮るのを忘れてしまった。室町時代の建築物で、光前寺の建築物の中で最も古いものだそうだ。

本堂を左に折れると、この地で飼われていた早太郎という犬が怪物を退治したという伝説があり、「霊犬早太郎」の墓石があり、そのすぐ近くに長野県宝の三重塔がある。

光前寺三重塔

この塔は文化3年(1806)の建築で、南信濃唯一の塔なのだそうだ。

光前寺ヒカリゴケ

客殿の庭園に向かうと、本坊の外縁の床下にヒカリゴケが太陽光に反射して美しく光っていた。あまりいい画像が撮れなかったが、これだけ大きなヒカリゴケの群生を見たのは初めてだ。

光前寺庭園

庭園は夢窓国師により築かれたとされる築山式枯山水で、今の季節は緑が美しい。境内の空気と湿度が私には心地よく感じられ、庭を眺めているだけで癒される場所だ。
花の咲く季節や、紅葉の季節にはまた違う楽しみ方になるだろう。
参拝者には和菓子とお茶が付いていて、落雁が素朴な味でおいしかった。

この光前寺のすぐ近くに、国の重要文化財に指定されている「旧竹村家住宅」がある。

旧竹村家住宅

この住宅はもともと天竜川東岸の駒ケ根市中沢大津戸(おんど)という場所にあったのだが、重要文化財に指定後に駒ケ根市が譲り受けてこの場所に移築したものだそうだ。
竹村家は江戸時代に代々名主を務めた家柄で、この家が建築されたのは江戸時代中ごろとされているが、こんなに大きな茅葺の家は珍しい。
隣には「駒ケ根郷土館」があり、建物は大正期に建てられた旧赤穂村役場を移築したもので、民俗文化財などが数多く展示されている。

次に向かったのは「元善光寺」。

元善光寺

推古天皇十年(602)に信州麻績の里(おみのさと:現在の長野県飯田市座光寺)の住人である本多善光公が、阿弥陀三尊像を安置したのがこの寺の起源で、その後本尊は水内郡芋井郷(みのちぐんいもいごう:現長野市)に移築されたと伝えられている。その移築先が長野市にある「善光寺」で、飯田市にあるこの寺は「元善光寺」と呼ばれるようになった。
宝物殿には雪舟筆の「寒山拾得図」や釈迦涅槃像などの寺宝が展示されている。

4年前に長野市の「善光寺」に行ったのだが、昔から長野の善光寺と飯田の元善光寺と両方にお詣りしなければ「片詣り」と言われてきたのだが、これでようやく両方を詣ることができてスッキリした気分になれた。

下伊那地域は古墳群が多く、弥生時代から中世までの遺構なども多く発見されているし、古い寺社も数多くある。また歌舞伎や人形浄瑠璃や獅子舞など地域の文化も興味深い。
7年に一度春に行われる飯田市の「お練り祭り」には長さ25m・高さ3.2mの日本一の獅子が登場するそうだが、いちど見てみたいと思っている。

予定の観光を終えて、宿泊先である昼神温泉の「お宿山翠」に向かう。
昼神温泉は昭和48年(1973)に旧国鉄のトンネル調査時に良質のお湯が湧出し、それ以来開発が進んで今では40件宿泊施設があり、年間70万人近くの観光客が訪れるのだという。
「美人の湯」とも言われているが、泉質は無色透明のアルカリ性単純硫黄泉で、独特のヌメリ感があるもののさらさらしていて、入浴すると肌がツルツルになる。

お宿山翠

お風呂も良かったし、食事も美味しくいただけたし今日も大満足の一日だった。
(つづく)

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昼神温泉から平成の宮大工が建てた寺などを訪ねて~~諏訪から南信州方面旅行3日目

旅館の朝風呂につかってから、昼神温泉の「朝市」に出かける。
観光地で「朝市」を行なっているところは少なくないが、昼神温泉の朝市の規模は思ったよりも大きかったし、朝の6時だというのになかなかの賑わいだった。昼神温泉の朝市は朝の4月~10月は6時から8時まで、11月~3月は6時半から8時までの短い時間なのだが、毎日欠かさず開催されているというのがすごい。

昼神温泉朝市

地元の農産物やその加工食品などをたくさん並べておられて、浴衣姿の観光客が袋をいくつもぶら下げて宿に戻っていく。私もブルーベリーやトマトやトウモロコシやジュースなどを買い込んだが、販売しておられる方の表情を見れば、温泉の宿泊施設と地元の生産者とが共存共栄の関係になっていることがよくわかる。

昔は有名な温泉地に行くと、土産物屋や饅頭屋や飲食店などがいくつも並んで賑わっていて、浴衣姿の観光客がいろんな店に入って買い物をしたりする風景が情緒を感じさせたのだが、最近はどこでも大きなホテルや旅館が建てられて、建物の中に大きな食事処や土産物コーナーや喫茶コーナーや大浴場などを作ってしまったために、観光客が外に出て買い物をしたりする必要がなくなってしまった。
宿泊施設の中にそういう施設を作ることは観光客の利便性を高めるためではあるのだが、そのために街を歩く観光客が激減し多くの土産物屋などの商売が成り立たなくなって、昔のような温泉地の情緒を失いつつある観光地は少なくない。
昔は宿泊施設と地元の土産物屋や飲食店とは共存共栄の関係にあったと思うのだが、今では多くの観光地で、せっかく多くの観光客が集まっても、潤うのは宿泊施設ばかりで、地元の店舗はあまり恩恵を受けなくなってしまっている。

昼神温泉の朝市は、温泉の近くに住む農家の方が、高齢化・過疎化が進み遊休荒廃地が拡大していく中で、地域の活性化と温泉観光客のために何かできないものかと、昭和56年1月から村営鶴巻荘の前に箱を並べ、毎日曜日の朝のみ持ち寄りの農産物等の販売を始めたことが予想以上に反響を呼んだことから始まったのだそうだ。

昼神温泉朝市2

しかしながら、ただ余剰農産物を販売するだけでは村おこしにはならないので、昭和59年に農産加工センターを建設し、「漬物」「味噌」「菓子」などの製造をはじめ、その後はメンバーのアイデアで「五色もち」「柿酢」「阿智のふるさと漬」などのヒット商品を生み出し、今では地元で働くことを希望してUターンする若者も出てきたという。

長野県阿智村智里東農事組合法人の方が書いた「朝市で築く生きがいの里活動」という文章を読むと、昼神温泉朝市がどうやって拡大し、活性化していったが良くわかる。
http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f89/17.htm

新製品の開発などが軌道に乗るまでは苦労の連続であったとは思うが、この成功事例は、観光地に近い他の農村地帯の村おこしの参考になるのではないだろうか。前回の記事で伊那食品工業のことを書いたが、地方の生産者が成功するためには、消費者に直接販売することに力を注ぐことが重要なのだと思う。

この日の当初の旅程は、ロープウェイに乗って富士見高原で遊ぶ予定であったのだが、時折雨が降る天候のために取りやめ、最初に信濃比叡広拯院(しなのひえいこうじょういん)というお寺に向かうことにした。

信濃比叡広拯院伝教大師像

昼神温泉のある場所は長野県阿智村だが、この村に櫻井三也(さくらいみつなり)さんという宮大工がおられる。私と同世代の方だが、この方が棟梁になってこのお寺が建築されたことをネットで知って、今回の信州旅行で是非訪れてみたいと思っていた。

伝教大師(最澄:767-822)は比叡山を開いたわが国の天台宗の開祖だが、「叡山大師伝」という書物に、伝教大師が弘仁8年(817)に東国教化のために東山道の神坂峠(みさかとうげ)を超えて美濃から信濃に入られた際、あまりに急峻な峠道に難儀され、旅人の便宜を図るために、美濃側に「広済院(こうさいいん)」、信濃川に「広拯院(こうじょういん)」という布施屋(旅行者の一時救護・宿泊施設)を建てたという記録があるのだそうだ。

広拯院月見堂

美濃側の「広済院」の位置は特定されていないが、信濃側の「広拯院」は現在の「広拯院月見堂」が、その跡だと言われている。上の画像が「広拯院月見堂」だ。

信濃比叡根本中堂

伝教大師の足跡が明らかであるこの「広拯院月見堂」の近くに、浄財を集めて新たな天台宗の宗教施設が建てられることとなった。比叡山延暦寺から「信濃比叡」の称号を授かり、比叡山にあるものと同一の伝教大師像が建てられて、平成17年には櫻井三也さんらによってこの根本中堂が完成したのだ。

根本中堂彫刻1

根本中堂はなかなか立派な建物だった。
モデルとなる建物がない建物の図面を描き、必要な資材を集め、均整のとれた美しい出来栄えで完成させ、柱の彫刻もなかなか見事なものである。これから何百年もの間通用するだけのものを残そうとする宮大工の心意気を感じた。

根本中堂天井

この建物の建築にどれだけの資金が必要だったかは聞かなかったが、伝教大師の聖地でもあることから、全国の天台宗の寺院や信者の方から多くの浄財が集まったそうである。根本中堂の中には、浄財を奉納された方の芳名帳が掲示されている。

宮大工の櫻井さんの会社(三清建築)のHPで櫻井さんのプロフィールが読める。
http://miyadaiku.info/

櫻井さんは観光旅行で訪れた英国で、古い建築物や道具を大切にする習慣を目の当たりにして古民家を守る必要性を痛感され、古民家のある景色を守る古民家再生事業実行委員会委員長をも務めておられるという。

上記HPの中から、櫻井さんの言葉をいくつか引用させていただく。
「減りつつある古民家は地域の宝。田舎らしい風景をみせることこそが、これからの観光だ」
「このままでは、日本から田舎らしい風景がなくなる。今動き出さねば次世代に技術も引き継げず、古民家が残せなくなる」
「100年の歴史を感じさせる柱や梁(はり)を見て育った人が帰って来るのは、家族に会うためだけではなく、建物に郷愁と愛着を感じているから。それがなくなれば、ふるさとへの思いは薄れる。Uターンや交流人口を増加させるためにも、古民家は残さねば」

いくら古い文化財が残されていても、その周りの古い街並みが消滅してしまっていれば、観光地としての価値は半減してしまう。古民家に住むことは不便なことかもしれないが、古い街並みを残すことが、将来的に大きな価値を生み、人々の郷土愛の拠り所になるという櫻井さんの考え方を大切にしていきたいものである。

信濃比叡広拯院の駐車場の近くに、門前屋というお店がある。
広拯院の尼僧から、根本中堂が完成してまだ日も浅い頃にこの店の玄関に白い蛇が現われ、今もその白蛇を門前屋で見ることができると聞いたので、ここでコーヒー休憩を取ることにした。
店主に白蛇を見せてもらったが、ウサギのように胴体が白く目が赤い、実に綺麗な蛇だった。撮影は遠慮したが、美しい蛇の写真は門前屋のHPで見ることができる。
http://shinanohiei-monzenya.com/meibutsu.html

次に、武田信玄公の終焉史跡とされる「長岳寺(ちょうがくじ)」に向かう。
この寺は平安時代の弘仁年間に伝教大師によって創建されたとされているのだが、詳しいことはよくわからない。

長岳寺

武田信玄は元亀三年(1572)の10月に、将軍足利義昭の求めに応じて織田信長を討つために甲府を発っている。そして遠江の三方ヶ原(みかたがはら)において徳川家康軍を圧倒的な強さで打ち破り、三河の野田城に進んだという。

長岳寺のパンフレットによると、信玄公は野田城攻めの最中に病が重くなり、三河からの帰途、元亀4年(1573)4月12日に信州国駒場(長野県下伊那郡阿智)の山中で亡くなり、信玄公の身代わりを甲州に送り、遺体は裏山で火葬に付した旨のことが書かれているが、信玄の墓が昔からあったというわけではなく、寺の境内にある信玄の供養塔が建てられたのは昭和49年とかなり新しいものである。

長岳寺供養塔

その供養塔が建てられた経緯が記された案内板を読むと、近くに信玄公火葬塚と伝えられる場所があり、そこに灰と骨粉が確認できたので、それをこの供養塔に収めたと説明されていたが、どうも釈然としない。その火葬塚の場所も書かれておらず、その骨粉が信玄の物であると断定する根拠もよくわからない。
信玄が亡くなった場所が、信州国駒場の山中でということについては、『小山田信茂宛御宿堅物書状写』という古文書で確認ができるようなのだが、この長岳寺に信玄の遺体が運びこまれたことが明記されているわけでもなさそうだ。

そもそも信玄公終焉の地については愛知県北設楽郡田口(現在・設楽町)・長野県下伊那郡根羽村・平谷村・浪合村・駒場(現在・阿智村)と諸説がある。中でも有力とされるのが阿智村駒場説と根羽村横畑説なのだそうだ。
信玄の墓とされているものも、根羽村横旗の信玄塚のほか、山梨県甲府市の大泉寺と恵林寺、長野県佐久市の竜雲寺や諏訪湖などもあるという。
私には、長岳寺の伝承をそのまま素直に信じて良いものとはとても思えない。

また信玄の死因についても、結核説やら胃がん説やら鉄砲で狙撃されたという説やらいろいろある。一人の武将の死がこれほど謎に包まれていることは珍しいことだと思う。

武田信玄

武田家の逸話や事績などが書かれている『甲陽軍鑑』によると、武田信玄は遺言として、「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」と述べたそうなのだが、信玄の死後わずか10日後の4月25日付の越中の河上富信という人物から上杉家家臣の河田長親に宛てた書状には「信玄が病気だという噂だが、死んだとも言われていて怪しい」という趣旨のことが書かれているそうだ。織田信長も徳川家康も、信玄が死亡した報告を受けていたという。
信玄の終焉の地や死因などに諸説があるのは、それでも信玄の死を3年間秘匿しようとした武田家が、信玄が死亡したという伝聞を打ち消そうとして、敵を攪乱するためにわざといくつもの嘘の情報を流して工作したからなのかも知れない。

それにしても、なぜ信玄は遺骸を諏訪湖に沈めよと言ったのだろうか。
諏訪湖は武神の諏訪大明神の鎮まるところであり、武田信玄は諏訪大明神を篤く信仰していたという。諏訪大社ゆかりの側室・諏訪御料人との間で生まれた勝頼を後継者とした信玄は、死しても諏訪大明神の加護を得て、諏訪湖から勝頼の活躍を見届けたかったのだろうか。

11時を過ぎたので、早目の昼食に信州そばで有名な「おにひら本店」に行く。
人気の店舗だけあってこんな時間から客席はほぼ満席状態だった。ほとんど全員が3人前の「おにひらそば」を注文していたので、私も同じものを注文した。

おにひら本店そば

画像の通り今まで見たことのないような大ざるで、2人で食べるのにちょうど良かった。

天候が良くなかったために富士見高原に行けなかったのは残念だったが、3日目も結構楽しんで帰途に就くことができた。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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