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3度目の高山と円空仏を訪ねて丹生川から平湯温泉へ ~~ 岐阜・長野方面旅行一日目

毎年真夏の暑い時期は、大阪を抜け出して涼しいところに旅行している。今年は、平湯温泉と濁河温泉に宿をとって、7月30日から二泊三日で高山から上高地などを車で巡ってきた。今回は旅行の初日のことを書こう。

高山は8年前と4年前に訪れたことがあるので、高山陣屋や高山屋台会館、櫻山八幡宮、日下部民芸館、吉島家住宅など誰でも行くようなコースはすでに訪問済みだ。今回は、高山でまだ見ていない所を訪問する旅程を組んだ。
大阪から名神高速、中部縦貫道を走って「松本家住宅」に着き、その隣の「ヒラノグラーノ」という店でピザを食べてから東山寺町(ひがしやまてらまち)の寺院を巡った後、円空仏で名高い千光寺や平湯大滝等をみる計画だった。

松本家住宅

高山市の中心部は明治八年の大火で焼失し、日下部民芸館も吉島家住宅もその後再建されたものであるが、「松本家住宅」は高山市郊外にあったので焼失を免れた貴重な町屋の建物で、国の重要文化財に指定されている。開館しているのは土日のみのため、残念ながら中には入れなかったが、見るからに立派な建物である。

日枝神社

歩いてすぐ近くに日枝神社があるので立ち寄ったが、この神社の例祭が有名な「高山祭」の春の例祭(山王祭)で、秋の祭りは櫻山八幡宮の例祭である。

ヒラノグラーノ

「ヒラノグラーノ」は「松本家住宅」と高山祭の「大国台」という屋台が収納されている建物に挟まれたイタリアンレストランで、築200年以上の町屋を改修したものだそうだ。 ピザが有名な店だけあって、パリッと焼き上げられたピザは確かに旨かった。

昼食を終えて、東山寺町のお寺を散策した。遊歩道が整備されているが、1.5km程度の遊歩道に13ものお寺と4つの神社が点在している。江戸時代初期に高山城主であった金森長近が、京都の東山に見立ててこの場所に寺院を移したということだそうだ。

宗猷寺

上の画像は、一番大きな宗猷寺というお寺だが、威風堂々とした本堂の建物が気に入った。特に有名なお寺や神社があるわけではないが、高山の古刹を歩いて巡るのは楽しい。

東山寺町を1時間程度散策後、車で千光寺に向かう。

千光寺本堂

千光寺の歴史はかなり古く、伝承によれば仁徳天皇65年 (377年)頃に飛騨の豪族・両面宿儺(すくな)が山を開き、仏教の寺院としては、嘉祥3年 (850年)頃、真如親王(嵯峨天皇の皇子)によって建立され、最盛期には山上に19の伽藍や院坊が立ち並んでいたそうだが、永禄7年(1564)の武田軍の飛騨攻めの際に一山炎上してしまい、天正16年(1588)に高山城主金森長近により再建されたのが今の堂宇だそうだ。
江戸時代初期の僧、円空上人は12万体の造仏を誓願して鉈一本を手に全国行脚し、膨大な数の「円空仏」を残しているが、この千光寺に相当な期間逗留したと言われ、境内にある円空仏寺宝館には63体の円空仏が収蔵されている。
円空仁王像

写真は寺宝館の入口にある立木仁王像で、以前は寺の参道の途中の立木に直接刻まれていたが、傷みがひどいために150年前に当時の住職が仁王門の裏に保存していたものだそうだ。寺宝館内は写真撮影禁止だが、この像だけは撮影可だった。
千光寺五本杉

千光寺に来たら、円空仏だけでなく「五本杉」も是非立ち寄りたいスポットだ。上の画像が五本杉だが、一つの幹から五本の杉が空に向かって伸びている。

案内の立札によると、高さが50m、幹の周りが12m、樹齢1200~1500年だそうで、国指定の天然記念物に指定されている。存在すること自体が奇跡としか思えず、神々しさを感じて思わず手を合わせてしまった。

次に立ち寄ったのが「荒川家住宅」。荒川家は大谷村の旧家で、元禄期(1688~1703)から明治時代になるまでは、代々この地域の6か村の名主を兼ねていたそうだ。

荒川家住宅

写真の母屋は寛政8年(1796)、奥にある土蔵は延享4年(1747)の建築でいずれも重要文化財に指定されている。スタッフの方から一階の各部屋だけでなく、屋根裏部屋にも案内いただき、養蚕で使った農具や古文書についても説明を受けて勉強になった。

次は、「匠の館」に向かう。匠の館は明治時代に飛騨の名工・川尻治助が12年の年月をかけて建てた豪農の屋敷である。
匠の館

川尻治助は高山市内の日下部民芸館を手掛けたことでも有名であるが、その腕の良さは日下部民芸館が明治期の建築物としては日本で最初に重要文化財に指定された建物であることで証明されている。そしてこの匠の館も平成19年に高山市の有形文化財に指定されている。

匠の館内部

良質の材をふんだんに使い、重厚感たっぷりの梁組みや、名工川尻治助の大工道具類の展示なども非常に興味深かった。

次に、一日目の宿泊予定地である平湯温泉に向かう。温泉に入る前に絶対行くべき場所は落差64mの「平湯大滝」。この滝は日本の滝百選にも選ばれている。

平湯大滝

前日の雨の影響もあったのかもしれないが圧倒的な水量で飛沫が凄く、滝に向かって立つと滝から300mは離れているのに眼鏡が水滴で曇ってくる。暑い時期に涼をとるには最高の場所だ。

平湯温泉でこの日に泊まった旅館は「愛宝館」。こじんまりとしたふつうの旅館で、風呂はも決して大きくはないが、内湯、露天風呂とも24時間のかけ流しの天然温泉で結構楽しめた。<続く>
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濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠宿・馬籠宿へ~~岐阜・長野方面旅行三日目

早朝目が覚めて朝風呂に入り、食事までまだ時間があったので夫婦で散歩に出かける。ホテルのすぐ近くに「濁河三滝」と言われる3つの滝があるらしいのでそれを目指して歩く。
天気は良いのだが肝心の御岳山は頂上あたりが雲で隠れて見えないのが残念だ。

宿から5分ばかり歩くと落差20mの「緋の滝」という滝が見えてくる。御覧のようになかなか綺麗な滝だ。

緋の滝

そこからさらに5分程度歩くと道路わきから落差15mの「白糸の滝」が見えてくる。

白糸の滝

更に進んで御嶽神社の参道あたりまで歩いて、時間の余裕があまりなかったので3つ目の滝を観ずに引き返したが、自宅に帰ってから調べると3つめの滝である「仙人の滝」が落差30mと一番大きく、御嶽神社まで歩けば「仙人の滝」はもうすぐだったらしく、少し惜しいことをした。

「旅館御岳」の朝食もまた良かった。特に源泉で味付けをしたお粥があっさりとして美味しく頂けたが、このお粥は「御岳源泉粥」というこの宿の名物料理で、売店でも売っていたので思わずいくつか買ってしまった。

チェックアウトを済ませ、次の行き先は「寝覚ノ床」だ。
「寝覚ノ床」は中学時代に教科書で学んだことがあるし、信州方面の旅行の時にJRの中央本線の車窓から何度か見ているが、いつも「あっ」という間に通り過ぎてしまうので、随分前から一度ゆっくり見てみたいと思っていた。

「寝覚ノ床」近辺には大きな土産物屋があり、その展望台から景色を眺めることもできるが、ちょっと距離がありすぎて小さくしか見れないのと、JR中央本線の架線が邪魔でどうしても気になってしまう。
折角来たのだから、川の近くまで行こうと思って進むと、「臨川寺」というお寺にぶつかる。名勝「寝覚ノ床」は、臨川寺の境内の中にあるのだ。

臨川寺

拝観料を払ってJRの線路の下を通って木曽川の川べりに出ると、なかなか見事な眺めであった。木曽川のような水量の多い川で、良くこんなに狭い流路がここだけに残ったものだと感心してしまう。

寝覚ノ床

「寝覚ノ床」には浦嶋太郎の伝説があるのだが、以前天橋立方面に旅行した時に伊根町に浦嶋神社という神社があり、浦嶋太郎を祀っていた。浦嶋太郎の話は日本書紀や万葉集にも出てくる話で丹後の国(京都府)の話だと思っていたし、木曾川のような急流の川に大きな亀や龍宮城が出てくるとすれば誰が考えても変だと思う。

臨川寺のパンフレットには次のように書いてある。
「…浦嶋太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天橋立である。…ところが龍宮から帰ってみると、親兄弟はもちろん、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家もないので、そこに住む事が出来ず、…、この山の中にさまよいこんできた。…ある日のこと、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱を開けてみたならば、いっぺんに三百歳のおじいさんになってしまい、ビックリして目が覚めた。眼を覚ましたのでここを寝覚という。…」
要するに、浦嶋太郎が玉手箱を開けた場所がこの寝覚ノ床という話だ。

いろいろ調べると、この臨川寺に関しては「寝覚浦嶋寺略縁起」という本があり、その中に寝覚ノ床の浦嶋太郎の話が出てくるそうだが、この本の出版は嘉永元年(1848)頃らしく、江戸時代の終わりの頃にはこのような伝説がこの地に広く知られていたようである。

臨川寺は江戸時代初頭から栄えた寺であったが、文久三年(1863)に全焼した記録がある。この寺の宝物館には、浦嶋太郎の釣りざおが展示されているが、一体いつ頃のものなのであろうか。本当に貴重なものなら、無人の建物に存置されることはないであろう。
浦嶋太郎の釣りざお


次は、妻籠宿を目指す。
江戸時代にタイムスリップしたようなこの景色を、どうしてもこの目で見たかった。よくこの宿場の風景をそのまま残してくれたものだ。

妻籠宿

ここへきたら絶対行くべきは、南木曽町博物館。脇本陣奥谷、妻籠宿本陣と歴史資料館の3館がセットになっている博物館だ。

脇本陣奥谷は明治10年(1877)に建て替えられたものだが、江戸時代には木曾の檜を一般の建築に使うことを禁じられており、その禁制が解かれた際に当主の林氏が、当時の粋を集めて総檜造で建てた建物だそうだ。

妻籠本陣内部

明治時期の建築ながら平成13年に国の重要文化財に指定されている。写真はその囲炉裏の間である。ここでは、語り部のわかりやすい説明を聞くことが出来る。

妻籠宿本陣は、島崎藤村の実兄である島崎広助が最後の当主であったが、明治20年代に広助が東京に出た際に建物は取り壊されてしまったそうだ。現在の建物は平成7年に江戸時代後期の間取り図をもとに忠実に復元したものである。
妻籠本陣

写真は妻籠宿本陣を外から写したものだが、荒川家住宅のように屋根の上に石が置かれている。

妻籠宿で立ち寄りたいのが手作り菓子の澤田屋。名物の「老木」と木曾伝承の栗きんとんを買って帰った。

妻籠宿で蕎麦を食べてから、近くの馬籠宿にも立ち寄った。

馬籠宿

明治の文豪の島崎藤村はこの馬籠宿の本陣で明治5年に生まれた。本陣の建物は明治28年の大火でほとんど焼失してしまったのだが、唯一残ったのが藤村の祖父母の隠居所で、この建物の二階で少年時代の藤村は父から四書五経の素読を受けたそうだ。

島崎家隠居所

展示室もいくつかあり、小説の自筆原稿や愛用品など島崎藤村の生涯にわたる作家活動の資料が展示されている。

馬籠宿にはまだまだ見るべきところがあったとは思うのだが、3日間、沢山見て歩いたので充分満足して、ここで旅行を切り上げて帰途についた。
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飛騨古川から禅昌寺を訪ねて下呂温泉へ~~富山・岐阜・愛知方面旅行2

旅行は二日目の朝を迎えたが、前日から降り出した雨が朝も降り続いていた。
雨に打たれながら露店風呂にゆったり浸かりつつ雲行きや周りの山々を見ても、当面天候が回復しそうな様子ではない。
天気がよければ新穂高ロープウェイに乗って山頂から素晴らしい眺めを見て、帰りに北アルプス展望園地や北アルプス大橋をドライブで巡るつもりだったのだが、予定を変更して飛騨古川に向かい、そこでゆっくりすることにした。

飛騨古川は実は10年ほど前に白川郷に行くバス旅行の途中で降りて30分程度滞在したのだが、前回は祭り広場から「瀬戸川」に沿って少し歩いたぐらいの記憶しか残っていない。
昔は旅行会社が企画したバスツアーに良く行ったのだが、旅行というものは自分で企画するかしないかで、記憶の残り方が随分違うものだ。
今回は時間がたっぷりあるので、おもしろそうなところをじっくり見て行くことにした。

福地温泉の宿から車で1時間半程度走って飛騨古川の駐車場に着いた。

古川祭り会館

雨が降っていたので、最初に「飛騨古川まつり会館」に入ることにした。

飛騨古川まつりは毎年4月19日から20日にかけて行われる気多若宮神社の例祭で、国の重要無形文化財にも指定されている伝統神事である。見どころは絢爛豪華な「屋台行列」と、勇壮な「起し太鼓」だ。

まつり会館屋台

会館内には、古川まつりに実際に使用される屋台や神輿が展示されている。上の画像は白虎台という屋台で、人形は牛若丸と弁慶だ。
古川にはこのような屋台が9台あるのだそうだが、この会館には祭りの当日を除いてそのうちの3台が展示され、定期的に入れ替えられるのだそうだ。

いずれの屋台にも釘は一本も使われておらず、またいくつかの屋台にはからくり人形が仕込まれている。

古川まつりからくり人形1
古川まつりからくり人形2

しばらくしてからくり人形をコンピューター制御で動かす実演があったが、白い装束を着た女性がしずしずと前に進み、一瞬のうちに面をかぶり、扇を開いて舞う細かい動きには驚かされた。お祭りの当日には、からくり人形の操作を人間が行うことは言うまでもない。

古川祭案内

館内のハイビジョンホールでは、3D映像で迫力ある祭りの映像が楽しめた。この会館にきてはじめて「起こし太鼓」の映像を見たが、数百人のさらし姿の裸男たちが担ぐ櫓が、大太鼓を乗せて町中を巡行し、大太鼓の上に載った二人の若者が、ばちを振りおろして深い太鼓の音を響かせる映像は勇壮で迫力がある。是非その日の夜にこの地で見てみたくなった。Youtubeでも「起こし太鼓」の画像を見ることはできるが、大きなスクリーンでの立体映像にはとてもかなわない。
http://player.video.search.yahoo.co.jp/video/a8f841b70a6925f85b04417f95ca6c92?p=%E5%8F%A4%E5%B7%9D%E7%A5%AD&b=1&of=&dr=&st=&s=&pd=&ma=&rkf=1&from=srp

しかし、この勇壮な飛騨古川まつりも、今年は東日本大震災の被害が甚大であったことを配慮して中止されたのだそうだ。祭りの原点がどこにあるかという観点から本来考えるべきだと思うのだか、祭りが国家安泰を願い五穀豊穣を願うものであるならば、何も中止することはなかったのではないだろうか。

古川祭り起こし太鼓

この祭り会館の向かいにある「まつり広場」にある「御旅所」にこの「起こし太鼓」が展示されている。

また、まつり広場の北に「飛騨の匠文化館」がある。
このパンフレットによれば、大和朝廷の時代から寺院仏閣の造営に「飛騨の匠」たちが活躍していたのだそうだが、文化館には釘を一本も使わない木工技術がいくつも展示されていた。

飛騨の匠の技

上の画像の左は「千鳥格子」だが、これをどうやって作ったかを納得するのにやや時間がかかった。この組み立て方を知って感激してしまったが、この技術をはじめて考案した人物は本当に凄いと思う。
左の画像の「1」の部材をつまんで上に引くと、隙間が出来て「0」の部材を縦方向に引き抜くことが出来る。そうすると、他のすべての部材はただ置かれているだけなので、外していって並べると画像の右の様になる。画像の通りすべての部材はすべてが同じ形のものであったのだ。
千鳥格子にするためには、その逆を行えば良いということなのだが、皆さん理解できましたか。

このコーナーには「千鳥格子」以外にもパズルのようなものがいくつかあり、木材を釘を使わずに繋ぐ「継手」などの技を確かめることが出来る。分解したり組み立てたりしているとすぐに時間が過ぎてしまう。

飛騨の匠の技を楽しんでちょうど昼時になったので、すぐ近くの「味処古川」というお店で昼食。写真を撮り忘れたが、飛騨古川ラーメンの定食はなかなか旨かった。

飛騨古川には伝統的な木造建築の町屋が数多く軒を連ね、新しい建物も周囲との調和が良く取れていて街並みがとても美しい。

白真弓

2軒の造り酒屋があって、それぞれが国の登録有形文化財に指定されている。上の画像は「蒲酒造場」だが、軒先に架けられているのは「酒林(さかばやし)」といって、杉の葉を球状に束ねたもので、毎年11月下旬に新酒ができると新しいものに取り換えられるのだそうだ。

三嶋和ろうそく店

古い街並みの中にある明和年間(1764~72)創業の「三嶋和ろうそく店」の作業場。ここではすべてのろうそくが天然の植物原料から手作りで製造されている。全国で和ろうそくを手作りで作っているお店は今では10軒もないそうだ。

飛騨古川の町並み1

歩いているうちに雨も上がった。白壁土蔵の並ぶ瀬戸川沿いの道は本当に美しい。瀬戸川には見事な錦鯉がたくさん泳いでいるのも良い。
この町の伝統を愛し景観を愛する人が多かったからこそ、この街並みが残せたのだろう。こういう道を歩いていると、昔の故郷に戻ったような安らぎを覚えるのだ。

飛騨古川の町並み3

この街には昔ながらの店が軒を連ねて、コンビニもスーパーも、チェーン店のようなものはどこにも見当たらない。昔ながらの景観を残すためには、地域の経済循環を残し、外部資本に頼らずに、古い商店と街の人々との共存共栄関係を維持していくことが重要なのだろう。そのことが観光地としての価値を高めると思うのだが、地域の人々がある程度我欲を捨てなければ、とてもこの街並みを維持できないと思うのだ。

飛騨古川を楽しんで、次の目的地の「禅昌寺」に向かった。
この寺は、平安時代に創建された円通寺という寺院があり、享禄元年(1528)に再建されて禅昌寺に名前が改められたという説や、円通寺と禅昌寺とは無関係だという説など諸説があり、創建年、創建地、円通寺との関係などは確定していないそうだ。

禅昌寺門

天文二十三年(1554)後奈良天皇より十刹(五山に次ぐ寺格)のご綸旨を賜り勅願所(勅命により国家鎮護などを祈願した社寺)とされただけあってなかなか立派なお寺であった。

禅昌寺内部

美術品にも見るべきものがあって、特に雪舟筆の大達磨像はすごい迫力で、しばらくこの絵の前で釘づけになった。
禅昌寺には指定文化財は51もあるのだそうだが多くは宝物館に移されており、以前は宝物館も公開されていたようなのだが、今は見ることが出来ないのは残念だ。

禅昌寺庭

禅昌寺の庭園は「萬歳洞」と呼ばれて岐阜県の指定名勝となっている。庭園の水の流れる音を聴きながら静かに時を過ごせるのはいい。

禅昌寺杉

またこの寺の境内の裏山には推定樹齢1200年の「禅昌寺大杉」がある。周囲は12mもあり国の天然記念物に指定されている。

この寺は下呂温泉に近いのでもっと観光客が多いのかと思ったが、滞在中の観光客は我々だけだった。土曜日だと言うのにこんなに観光客が少なくては、受付にずっと人を置いておくのも大変だろう。せっかく宝物館を作っても、貴重な美術品を観光客に見てもらおうにも、別に受付の人を置かなければならなくなる。人を置くだけの拝観収入がなければ、閉館するしかないであろう。しかし閉館すればこの地を訪れる観光客がさらに少なくなってしまう。

禅昌寺の宝物館には長澤芦雪の大涅槃像などがあるはずなのだが、もっと観光客が集まらないと公開できないのであろうか。せっかくの観光資源をぜひ地域振興のために活かしてほしいと思う。

禅昌寺のあとは宿泊先である下呂温泉に向かう。宿はホテルパストゥールというところだ。
下呂温泉は草津温泉、有馬温泉とともに日本の三名泉に数えられるのだが、無色透明のまろやかなお湯で、入浴すると肌がすべすべになる。
大浴場から南飛騨の豊かな緑が望め、蝉の鳴き声を聴きながらゆったりと風呂に浸かって気分は最高だった。

<つづく>
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飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語

江戸時代に飛騨地方で、「大原騒動」という大きな百姓一揆があったということを知った。

Wikipediaによると「大原騒動」とは、江戸時代に飛騨国の代官(のちに郡代に昇進)であった大原紹正(つぎまさ)・正純父子のもとで、明和8年(1771)から天明8年(1788)までの18年間、断続的に続いた百姓一揆とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%A8%92%E5%8B%95

普通に考えれば、たとえ貧しい生活であったとしてもなんとか生きていけるのであれば、集団で代官に立ち向かうようなことは考えにくい。農民が集団で立ち上がるという事は、それなりの理由があるはずだ。
百姓一揆」は権力者の側からすれば「騒動」にすぎないが、生活に困窮する農民からすれば、生きるために「最後の手段」を行使したものであり、メンバーを導いて勇気を出して訴え出て厳しい処分を受けた仲間を見殺しにすることは出来なかったのであろう。この「大原騒動」で犠牲になった農民たちを「義民」と呼び顕彰する碑がいくつか飛騨の地に建立されている。

大原騒動」は大きく分けて明和8年(1771)の「明和騒動」安永2年(1773)の「安永騒動」天明8年(1788)の「天明騒動」に分かれるが、その最大規模の「安永騒動」を率いたのは、本郷村善九郎というわずか17歳の少年であった。
この「大原騒動」が起こるまでの歴史を、Wikipediaや高山市のHPの記述などを参考に私なりにまとめてみたい。
http://www.city.takayama.lg.jp/bunkazai/documents/000.pdf

戦国時代に高山一帯を治めていたのは姉光路氏(三木氏)であったが、越中国の佐々成政に味方した三木頼綱が金森長近ら秀吉方に敗れ、天正14年(1586)に金森長近が国主として入府している。
金森長近は高山城を築城し、関ヶ原の戦いの後に飛騨高山藩の初代藩主となり、その後6代に107年間にわたり金森氏による飛騨国統治が続く。
しかし元禄5年(1692)に第6代藩主・金森頼時が突然出羽国上ノ山藩に移封されてしまい、それ以降、飛騨国は江戸幕府の直轄領となっている。通説では、その背景には、飛騨国には金山があり、貴重な木材資源があったことに江戸幕府が目をつけたとされているようだ。

その後江戸幕府は、元禄8年(1695)に高山城の破却を決め、以前金森氏の下屋敷であった高山陣屋で政務を行なわせることとしたのち、明和2年(1765)に大原紹正が代官に着任し、安永6年(1777)には飛騨一国の検地を成功させた功績を高く評価されて飛騨国郡代に任命されたという。
大原紹正は江戸幕府の命令を忠実に履行し、税収を25.7%も増やしたことが評価されて昇進したのだが、このことが農民を怒らせ、騒動が起こる原因となったようだ。

では、順を追って「大原騒動」を見て行こう。

明和8年(1771)に起こった「明和騒動」の原因は何だったのか。
この年に代官の大原紹正は、幕府勘定奉行の命により御用木元伐休山命令を山方衆に出している。解りやすく言うと、幕府の命令により飛騨の木材の買い入れを休止するということなのだが、山方衆たちは材木の切り出しを行う事で毎年の生計を立てていたので、この決定は死活問題であった。そして代官は材木代として農民たちに支払われる予定であった三千石の米を突如幕府に返納すると言い出したという。
Wikipediaでは、大原代官は高山の米商人と結託して、他地域の米を高山産米と偽って江戸に送り、農民から集めた三千石の米は米の高騰を待って利ざやを抜こうとしていたことが発覚し、それに激怒した農民たちは代官に協力した町人宅や土蔵の打ちこわしをしたのだそうだ。
大原代官は直ちに農民の鎮圧を行ない、54名を投獄し、1人が死罪となっている。

二度目の「安永騒動」は安永2年(1773)から始まっている。
この年に大原代官は、幕府への年貢米を嵩上げするために検地を強行しようとした。 飛騨の農民たちの生活は厳しく、検地に反対して高山御役所に陳情したが埒が明かないとみるや、江戸の老中や勘定奉行などへ代表を送り込み駕籠訴を決行したが、捕えられて打ち首などで多くの仲間の命を失うこととなる。
幕府からの連絡を受けた大原代官は各村々の名主を集めて、検地を認めて不服を申し立てない旨の文書に署名させようとした。このような事態に対して、「仲間の死を無駄にするな」と立ち上がったのが、17歳の本郷村善九郎という人物である。

飛騨一宮水無神社

この騒動で、数千人とも1万人とも言われる飛騨の百姓たちが、検地に反対して飛騨一宮水無神社に結集し抵抗姿勢をみせたが、大原代官は郡上藩などの鉄砲隊の力を借りて、武器を所持していなかった集会参加者に銃火を浴びせたのだそうだ。
農民たちの犠牲者数には諸説があり、次のURLでは即死者が3名、負傷者が300名、縛り付け125名とあり、集会の指導者は本郷村善九郎ら13名が死刑となり、14名が流罪になるなど厳しい処罰を受けたという。
http://tsumugu.shiga-saku.net/e204688.html

そうして新検地が強行され、大原代官は年貢米を大幅に増加させたことが評価されて、安政6年(1777)に郡代に昇格している。
この「安永騒動」の物語は映画化され、Youtubeでいつでも見ることが可能だ。46分程度の短いものなので、時間があればぜひ見て頂きたい作品である。
http://www.youtube.com/watch?v=aZL45DI-pw8

無題

この作品の中で本郷村善九郎が処刑される4日前に妻に書き残した遺書と辞世の句が朗読される。この映画の題名は、善九郎の辞世の句にちなんだものである。
「寒紅(かんべに)は無常の風にさそはれて莟(つぼ)みし花の今ぞ散りゆく(寒中に咲く紅桜がつぼみのまま風に吹かれて散ってゆくように私も今はかなく散っていく)」

3-117.jpg

善九郎の遺書は岐阜県の重要文化財に指定され、高山陣屋資料館に展示されているようだが、次のURLで画像を見ることが出来る。
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/syoseki/takayamasi/honngoumura.html

「悪代官と義民の物語」というものは、ある程度の誇張や創作が付き物だとは思うのだが、高山市のHPでは大原紹正の昇進について次のように記していることに注目したい。
「幕府の方針を忠実に履行すれば、たとえそれが良民にとっては苛政であっても地位は上がっていくのであった。大原代官の昇格は幕府による幕領行政の一端をうかがわせるものであった。
なお、大原代官の妻は夫の悪政を諌めて自殺した。」
http://www.city.takayama.lg.jp/bunkazai/documents/000.pdf
高山市のHPを素直に読むと、当時の幕領行政は悪政であり、大原紹正は悪代官であったと書いているのと同じだ。

この大原紹正は郡代に昇進した年の7月に妻が自害し、翌安政7年(1778)には眼疾により失明し、更に翌年には急病により死去したのだそうだ。

その後の飛騨郡代に就任したのが、大原紹正の子である大原正純であったが、その男はさらにひどい男であったようなのだ。
Wikipediaによると、
大原正純は、私利私欲に走り、過納金(米一俵につき30~50文を過納し、納め終わると、百姓に返す金)を返さず、また村々から618両を借り、さらに幕府が天明の大飢饉対策としての農民に対する年貢の免除分を取り上げ、自分のものとしてしまった。更に、大原正純は飛騨の町村から6000両もの一条金を借りたという。

この私利私欲に対しては農民のみならず、役人や名主たちも不信を募らせことになる。1787年(天明7年)頃から、解雇された役人や失職した名主たちは、度々江戸に代表を送り、老中松平定信らに密訴状の投入や老中宅の門への訴状の添付を繰り返した。」
と書かれている。

「天明の大飢饉」は、天明2年(1782)から8年(1788)の7年間にわたって凶作が続いて東北地方の農村を中心に全国で餓死者が出た。のだが、そんな時期に私利私欲を追及するような政治をされてはたまらない。

松平定信

天明6年(1786)に第10代将軍徳川家治が死去すると田沼意次が失脚し、天明7年(1787)松平定信が第11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となる。
天明8年には農民たちは飛騨に来た巡見史に対し訴状を出し、さらには江戸で老中松平定信に駕籠訴を行ったという。
江戸幕府もようやく問題視して実情の調査にあたり、大原正純は八丈島に流罪となり、大原正純に加担した役人も処罰されている。

最後は裁かれるべき者が裁かれることで18年にも及ぶこの騒動が終わるのだが、この間に刑死した者26人、遠島17人、追放14人、過料を受けたものはおよそ1万人にも達したと伝えられている。
理不尽なことに対して命懸けで、組織的にかつ粘り強く戦った飛騨の農民たちの歴史には、ただただ感心するばかりである。
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「大原騒動」の史跡や飛騨の国宝や渓谷などを訪ねて白骨温泉へ

前回「大原騒動」のことを書いたが、記事の中で紹介した映画『莟し花』をYoutubeで見て感動し、岐阜方面の旅行の最初に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)を訪れる旅程を組んだ。

安永2年(1773)に、大原代官の強引な検地に反対する数千人とも1万人とも言われる飛騨の百姓たちがこの神社に集まったのだが、大原代官は郡上藩などの鉄砲隊の力を借りて、武器を所持していなかった集会参加者に銃火を浴びせて多くの犠牲者を出し、さらに本郷村善九郎ら集会の指導者を磔・獄門・遠島などの厳罰に処したという歴史がある。処罰されたのは農民だけではなく、この神社の神主も4名が捕えられ磔にされたのだそうだ。

飛騨一宮境内

自宅を早い時間に出て、11時頃飛騨一宮水無神社に到着した。
この神社の創建の時期は不詳だが、飛騨国の鎮守として古くより朝廷に崇敬されてきた神社であり、平安時代・清和天皇(在位:858~876)の貞観9年(867)に従五位上の神位を授けられたとの記録があるので、それよりも古い神社であることは間違いない。
社名の「水無」は、水主(みずぬし)を意味すると言われ、神社の南西にある「位山(くらいやま)」は、古くから川の水源(水主)の神の坐す霊山と仰がれてきたという。
境内は綺麗に掃き清められていて、清々しい気分で参拝を済ませる。

一宮神社ご神木の杉

境内には岐阜県の天然記念物に指定されている樹齢800年と推定される杉の大木があり、そのすぐ近くに「大原騒動 一宮大集会之地」と書かれた碑が建っていた。

大原騒動一宮大集会の地

このブログで何度か書いているのだが、歴史というものは為政者にとって都合の悪いことは公式には残されないものである。この碑文を読んで驚いたのだが、こういう歴史は現地を訪れないと知ることが難しい。
「…大原代官は、尋常の手段では到底鎮圧できぬと察し、江戸表へ急報、幕府は飛騨の近隣藩へ緊急出動を命じた。11月14日深夜、郡上藩勢3百人、代官所郡代、地役人40人が付き添い高山出立、途中松橋に一隊を残し、夜明け宮村に到着、鬼川原に伏せ、一隊は頭取会所久兵衛宅を始め神主宅・太七宅等に踏み込み、委細かまわずからめ捕った。山下の民家に宿泊していた農民は合図の鐘を聞き神社に向かって、鬼川原の鉄砲組が火蓋を切り負傷者、重傷者が出た。最後に郡上藩勢は力づくで拝殿を取り囲み神域は安全と教えられ、何の用意もしていなかった農民の集団に突っ込み、あたるを幸い十手で頭を打ち割り、刀で袈裟掛けに切りつけ、服や膝を突き通し、逃げるものには鉄砲を発射した。この日の即死者3名、負傷者200名、縛付けの者125名に及んだ。…」

碑文の全文は次のURLで読むことが出来る。
http://hino.anime.coocan.jp/ooharasoudou/ooharasoudou-03.htm

また境内には島崎藤村の父親である島崎正樹の歌碑があった。島崎正樹は明治時代の初期にこの神社の宮司を勤めていたのだそうだ。
春の訪れの遅いこの神社で、弥生の節句から1月遅れの4月3日に毎年「生きびな祭り」という伝統行事が行われ、飛騨一円から選ばれた女性が十二単に身を包むのだそうだ。

この神社のすぐ近くに樹齢1100年と言われる「臥龍桜(がりゅうざくら)」という有名な桜がある。国の天然記念物に指定されているので、JR高山本線の飛騨一ノ宮駅に車を置いて見に行った。

臥龍桜

「臥龍桜」という名は、幹枝の形が龍の臥した姿に似ていることから名付けられたという。高さは約20mで枝張りは30m程あるのだそうが、こんな桜の大木は見たことがない。
この桜も何度か枯死の危機があり、この桜を守ろうとする人々の努力で逞しく樹勢を回復したのだという。

臥龍桜を後にして、県立自然公園宇津江四十八滝に向かう。
公園のすぐ近くにある、八光苑という創作料理のお店で予定通り昼食をとる。

八光苑

この店は、画像の通り一見入り難そうなお店だが、川のせせらぎを聞く素晴らしい環境で飛騨の旬の食材がおいしく戴けて、価格もリーズナブルである。

八光苑昼食

食事を終えて県立自然公園の入口の駐車場に車を停めて、渓谷に向かう。
宇津江四十八滝は宇津江川の上流の渓谷にある瀧の総称で、1982年に森林文化協会と朝日新聞社が「21世紀に残したい自然100選」にこの渓谷を選んでいる。
http://www.shinrinbunka.com/datatable/1-1-01.html

渓谷に沿って遊歩道があり、歩きやすくよく整備されている。
苔のむした岩や樹木を縫うように進んでいくとところどころに瀧があり、暑い時にはこういう場所を歩くのは涼しくてとても気持ちが良い。

「四十八滝」とは言うものの名前のついている瀧は全部で13ある。

宇津江48滝1

この滝は上から上段瀧、函(はこ)瀧、平(ひら)瀧の三段の瀧が一望できるところ。

王瀧

この滝は、四十八滝の中で一番大きな「王滝」で、高さは18.8m。

宇津江48滝展望台

9つ目の瀧である障泥(あおり)瀧を過ぎると、展望台があり、北アルプスの山々が見える。

1時間ほど自然を楽しんで駐車場に戻り、次の目的地である安国寺(高山市国府町)に向かう。
ここに、飛騨の建造物としては唯一の国宝として知られる経蔵がある。中を案内していただくためには事前の予約が必要な場所で、約束していた時間に訪問した。

室町幕府を開いた足利尊氏は、京都天龍寺の夢窓国師の勧めで国ごとに安国寺を建てたことを学生時代に学んだが、説明によると足利尊氏はすべての安国寺を新築したのではなく、従来からある大きなお寺のいくつかを「安国寺」としたということらしい。
この飛騨国の安国寺は、以前からあった「少林寺」という寺の名前を改めて、宗派を臨済宗に変えて貞和3年(1347)に設立されたという。最盛期には七堂伽藍と9ケ寺の塔頭が並ぶ大寺院だったそうだが、戦国時代の天文、永禄年間に兵火にかかり、「経蔵」と「開山堂」だけが焼け残ったという。

安国寺経蔵

この建物が応永15年(1408)に建立された国宝の安国寺経蔵である。
国宝の周囲を太い杉の木がもっと多くとり囲んでいたそうだが、樹が倒れた場合に国宝の建物が守れないということで、国の予算で大きな杉の木が何本か切られているところだった。しかし、このような大きな杉の木があったからこそ、雨や風や火災からこの歴史のある建物が守られてきたのではないだろうかという思いが頭を掠めて、私には納得が出来なかった。

経蔵の内部に案内いただいた。内部は撮影禁止なので画像を紹介できないが、中にお経を収める回転式の八角の輪蔵(りんぞう)がある。この輪蔵は、室町時代に制作されたもので、回転式輪蔵としてはわが国の最古のものだという。岐阜県のHPで、この輪蔵の画像を見ることが出来る。
http://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku-bunka-sports/bunka-geijutsu/bunkazai-zuroku/bunkazai-zuroku/kenzobutsu/takayama/annkokuji.html
案内の方がこの輪蔵を少し回して下さったが、600年の年月が経過しても、今なお輪蔵としての機能を失っていないことに驚いた。

大原騒動義民の碑

この安国寺の境内に、「大原騒動義民碑」が建っているのでカメラに収めた。かなり大きな碑だが、多くの犠牲者が出た安永期の騒動の180年忌にあたり、この安国寺で大法要が営まれた際に建てられたのだそうだ。碑の裏面には犠牲者103人の出身地と名前が刻まれている。

冒頭に書いた飛騨一宮水無神社やこの安国寺のほかにも、大原騒動の義民の碑が数多くあるようだ。次のURLが参考になる。
http://tujigahana.blog.ocn.ne.jp/blog/2012/07/post_825f.html
為政者からすれば、一揆の犠牲者を「義民」とすることは、当時の政治を「悪政」であったことを自ら認めることになるが、そのようなことは政権が変わらなければあり得ないことだろう。
一方地元に生きる人々からすれば、「義民」として先祖の冥福を祈ることは、先祖の行ったことは正しく、それがゆえに自らは犯罪者の末裔ではないことを世に訴え、誇りを持って現世を生きようとする行為でもある。
立場が異なれば史実の解釈についても異なることになることは当然のことであり、為政者の公式記録だけを信頼して歴史を解釈しようとする姿勢には真実の解明に限界があるはずだ。かといって、庶民の書いた記録だけに依拠することにも問題があるだろう。
いつの時代もどこの国でも、真実が何かを探っていく上で、立場の違う様々な記録を読み、第三者の記録などを参考にしていく必要があるのだと思う。

宇津江四十八滝も安国寺も高山市国府町というところにあるが、この町は平成14年(2005)の市町村合併で高山市に編入され、それまでは岐阜県吉城郡国府町と呼んでいた場所である。
高山市とはいっても国府町にまで足を延ばす観光客は多くないようなのだが、国府町には安国寺のほかにも多くの文化財が残されている。

荒城神社本殿

たとえば安国寺のすぐ近くに荒城 (あらき)神社本殿がある。
荒城神社は平安時代の『延喜式』神名帳にも記載されている古い神社で、屋根は杮葺きで三間社流造の本殿は明徳元年(1390)に再建されたものだが、現在国の重要文化財に指定されている。またこの神社の周辺から縄文時代中期から後期にかけての土器や石器が出土したという。(荒城神社遺跡:岐阜県史跡)

国府町にはほかにも、阿多由太神社本殿や熊野神社本殿が国の重要文化財に指定されているので訪れたが、覆屋に覆われているために重要文化財を画像に収めることができなかった。
さらに岐阜県の重要文化財に指定されている円空仏のある清峰寺というお寺もあるが、今回は時間に余裕がなかったので見送ることにした。狭い地域でありながら、此れだけ貴重な文化財が存在することは、この地域は、昔はかなり豊かであったと考えられる。

winter_map_early_Dec.jpg

良い時間になったので、宿泊先の白骨温泉に向かう。昨年の12月に県道300号が開通して、平湯温泉から安房トンネルを抜け湯川渡を左折すれば10分程度で白骨温泉に到着出来るようになったのはありがたい。それまでは前川渡から乗鞍高原を経由していくしかなかったので、30分程度は時間短縮できたことになる。
http://www.shirahone.org/access/

県道300号を通って、高山からは1時間10分程度で宿泊先の新宅旅館に到着した。
新宅旅館

あまり良く知らなかったのだが、皇太子時代の今上天皇と高松宮もこの旅館に宿泊されたことがあるのだそうだ。
山々と緑の木々、野鳥の声に耳をすませながら、源泉かけ流しの白濁した温泉にゆったり浸かり、料理も美味しくて大満足の一日だった。

<つづく>

【ご参考】前回の記事で、「大原騒動」のことを書きました。興味のある方は覗いてみてください。

飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-131.html

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白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて

白骨温泉で清々しい朝を迎えて、小鳥の囀りを聞きながら白濁した源泉かけ流しの温泉に浸かったあと、時間があったので宿の近くを20分程度散策した。

三十三観音

旅館から県道300号線に出てしばらく歩くと江戸時代に湯治客の有志が建てたと言われている三十三観音がある。
さらに進むと「竜神の滝」と呼ばれる滝があり、そこから遊歩道が整備されている。

隧通し

原生林の緑に囲まれた道を少しばかり歩くと、湯川が石灰岩を侵食してできた「隧通し(すいとおし)」と呼ばれる天然の洞窟がある。トンネルの出口周辺を「冠水渓」と呼び、紅葉の季節には鮮やかな彩りを映す風景が楽しめるのだそうだ。

旅館に戻って朝食を楽しむ。朝食にはこの旅館の源泉を入れて土鍋で炊いた温泉粥が印象に残った。帰宅してから気が付いたのだが、この旅館では温泉の持ち帰りが出来たようだ。持って帰れば、自宅で温泉粥を楽しめたのにちょっぴり残念だ。

旅館を出て奈良井宿に向かう。中山道の宿場町は、馬籠宿、妻籠宿は3年前に行ってこのブログにも書いたので、今回は奈良井宿に行く旅程を組んでいた。
2年前にはNHKの朝ドラ「おひさま」のロケ地になったこともあり、その頃は観光客がかなり多かったそうだが今はそれほど多くはない。

JR奈良井駅近くの駐車場に車を停めて、古い街並みを歩き出す。散策には奈良井宿観光協会の地図を参考にさせていただいた。
http://www.naraijuku.com/map/naraijuku_map.pdf

奈良井宿杉並木

宿場町の中心部に行く前に、中山道の杉並木が残されている場所に行く。カメラを構えながら、数百年の時代を遡ったような錯覚を覚えた。

二百地蔵

この杉並木を過ぎると二百地蔵と呼ばれる場所がある。これだけの地蔵がこの場所の為に造られたのではなく、案内板によると「明治期の国道開削。鉄道敷設の折に奈良井宿周辺から集められたという」と書かれていた。誰が何のためにこれだけのお地蔵さんを集めたのかがよく解らないのだが、一部の石碑やお地蔵さんの首が折れているのが気になった。ひょっとすると廃仏毀釈と関係があるのかもしれない。

奈良井宿1

八幡宮を抜けて旧街道を歩く。観光客の少ないタイミングを狙って何枚かシャッターを押したが、馬籠宿、妻籠宿では観光客が写らないような画像を撮ることは難しいだろう。
ここにはけばけばしい看板は一つもなく、電柱もなければ自販機もない。このような街並みを残しつつ、現代の生活が行われていることはすごいことであるが、このような街並みが1km近く続いているのは驚きだ。

国の重要文化財に指定されている手塚家住宅(上問屋資料館)がお休みだったので、塩尻市の指定文化財である中村邸に入った。

中村邸

この住宅は櫛問屋であった中村利兵衛の屋敷で、江戸時代の天保8年(1837)から14年(1843)頃に建築されたとされている。
NHKの朝ドラ「おひさま」では、この建物が「飴屋」の「村上堂」として使われたのだそうだ。塩尻市観光協会が作成した「おひさま」ロケ地のマップがある。
http://www.city.shiojiri.nagano.jp/kanko/locachi.files/map.pdf

昭和44年(1969)にこの中村邸を川崎民家園に移築する話が持ち上がり、これを機に町並み保存の機運が高まり、昭和53年(1978)に奈良井宿が国の重要伝統的建造群保存地区に選定されることになったという。
この素晴らしい景観を維持するために地元では様々な苦労があったと推察するが、この町並みをこれからさらに後世に残すことは更に大変な事だと思う。そのためには、もっと多くの観光客がこの地を訪れて、土産物を買ったり食事をしたりすることが必要だ。
地元の人も、この観光資源を活かして観光客を呼び込むアイデアがもっと必要だと思う。
京都ではレトロな人力車や、着物等のレンタルが結構人気があるが、奈良井宿で和服を着て、下駄や草履をはいて歩きたいという人が沢山いるような気がするし、人力車などもこの町並みには良く似合いそうだ。

店の名前は失念したが、お土産に地元の工芸品を買い、おいしい蕎麦を食べて、次の目的地である定勝寺(じょうしょうじ)に向かった。

定勝寺は木曽郡大桑村須原にある臨済宗の寺院で、室町時代初期にこの地を領した木曽親豊が始め木曽川の近くに創建したのだが数回洪水に襲われ、豊臣秀吉が全国を統一したのち、犬山城主石川光吉が慶長3年(1598)に現在のこの地に再建したとされる。

定勝寺山門

この寺の本堂は再建時の頃のもので、江戸時代初期に建てられた山門、庫裏とともに国の重要文化財に指定されている。上の画像が山門で下の画像が庫裏だが、この寺の庭も良い。紅葉の時期は山門付近も庭もさぞ美しいことだろう。

定勝寺庫裏

真夏の暑い季節には緑の多い寺社も良いが、炎天下の中を旅行するには渓谷が涼しくて良い。大桑村には「阿寺渓谷(あてらけいこく)」という素晴らしい渓谷があるので、午後の旅程に組み入れていた。

阿寺渓谷の入口にも駐車場があるが、入口から歩き出すと時間がかかりすぎるので、渓谷の中間地点にある駐車場から遊歩道を歩きはじめる。次のURLに渓谷の地図がある。
http://www.vill.ookuwa.nagano.jp/kankou/plays/nature/nature_atera/nature_map.html

阿寺渓谷6段の瀧

緑深い森の中を進むと6段の滝がある。画像は対岸から写したものだが、3段ぐらいしか見ることが出来なかった。
この渓谷の魅力は何と言っても水の美しさにある。今回は時間がなかったのであまり奥には行かなかったが、エメラルドグリーンの清流は深いところでも川底の石までがくっきりと見える。

犬帰りの淵

上の画像は「犬帰りの淵」のあたりを撮ったものだが、こういう景色を楽しみながら歩くのは楽しい。

苗木遠山史料館

1時間ばかり散策して清新な気分になった後、岐阜県中津川市の苗木遠山史料館に向かう。この史料館は苗木城跡(国史跡)のある高森山の登り口にある。
ここには苗木城の模型や城門の一つである風吹門が展示されているほか、苗木藩の廃仏毀釈の資料などが展示されていた。

苗木遠山史料館の裏から城跡につながる道がある。Wikipediaによると、苗木城は大永6年(1526)に遠山昌利が植苗木(うわなぎ)から高森山に館を移し、天文年間(1532)に遠山直廉が隆盛に苗木城を築いたが、織田信長没後豊臣方の森長可に城を落され、城主・遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。その後関ヶ原の戦いの後、遠山友忠の子・友政は、豊臣方の河尻秀長から苗木城を奪い取り、この功が認められて遠山氏はこの地に返り咲き、その後幕末まで苗木の地を治めたのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%97%E6%9C%A8%E5%9F%8E

苗木城址1

史料館から15分ほど歩けば、苗木城の立派な石垣が見えてくる。上の画像は大矢倉跡だ。

苗木城天守

上の画像は坂下門跡付近から見上げた天守の石垣だ。苗木城の石垣は天然の巨岩をうまく利用しながら積み上げられている。苗木藩は石高わずか一万石の小藩であったが、石垣はなかなか立派であることに驚いた。

苗木城からの眺め

この日は天気が良くて、高森山からの眺めは格別であった。眼下には木曽川が流れ、遠くに中津川の市街地が見える。更に向うに見える高い山は標高2191mの恵那山だそうだ。

高森山を下山して、苗木遠山史料館の近くを散策する。この場所を旅程に入れたのは、苗木城の石垣を見ることもあったが、苗木藩が明治時代の初めに徹底した廃仏毀釈を行なった足跡をこの目で見たかったからである。 この苗木遠山史料館のあたりは、藩主・遠山家の菩提寺であった雲林寺という臨済宗の寺があった場所なのだが、墓を残したまま雲林寺は廃寺とされてしまった。
苗木藩の廃仏毀釈で廃寺とされたのは雲林寺だけではない。藩内には15ヶ寺が存在したのだがその全てが廃寺となっている。また村内に数多くあった無住の阿弥陀堂や観音堂、地蔵堂、薬師堂などは壊されて、仏蔵仏具類は焼かれたり、土に埋められたり他領へ売却され、路傍にある石仏や名号塔、供養塔なども打ち割られたり引き倒されたという。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

苗木遠山家廟所

史料館の近くに墓地があり、その中に苗木遠山家廟所(中津川市指定史跡)がある。ここには遠山家とその家臣団が眠っている。

雲林寺跡

お墓以外に、寺院の跡地である事をうかがわせるものが、史料館の駐車場のすぐ近くにあった。自然石に文字が彫られているが「菩薩」「菩提」という字が読める。お経の一節なのだろうか。
石の上にはお地蔵さんがあるのだが、首はあとから付けたものであることが明らかだ。

苗木藩の廃仏毀釈のことを書きだすとまた文章が長くなるので、詳しくは次回に記すこととしたい。
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苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて

前回の記事で、苗木藩では徹底した廃仏毀釈が行われて、藩内の15ヶ寺全てが明治の初期に廃寺となったことを書いた。

今までこのブログで廃仏毀釈のことを何度か書いてきたが、苗木藩廃仏毀釈は相当激しいものであったことを多くの人が指摘している。なぜ苗木藩のような小さな藩で、徹底した廃仏毀釈が行われたのだろうか。まずそのことについて考えることとしたい。

遠山友禄

12代藩主の遠山友禄(ともよし)は慶応3年(1867)6月まで幕府若年寄を勤めて江戸にいた人物である。帰国を願い出て苗木に戻ったが、東征軍はすぐそこまで進軍していた。つい最近まで幕府の若年寄だったというだけで朝敵と見做される可能性があったことから、友禄は東山道鎮撫軍の総督に面談を求め、勤皇の誠意を示し恭順の意を伝えたという。

また幕末期の苗木藩は財政が厳しかった。そこで友禄は、思い切った人材登用と大胆な藩政改革を断行して財政を建て直し、さらに新政府の施策を率先して行うことで生き延びようと考えたようだ。
ここで重要な役割を担ったのは青山景通(かげみち)・青山直道の父子であった。
苗木藩の下級士族であった青山景通は、 江戸で平田派の国学を学び、嘉永5年(1852)東濃地方で最初に平田篤胤の門人となり、慶応4年(1868)の5月には新政府の神祇官の高級官僚となっていた。
苗木藩主・遠山友禄は、新政府と苗木藩との関係を良くするために青山景通を重んじ、さらにその長男の直道を藩職の最高位である大参事に抜擢し、その結果平田篤胤国学思想が苗木藩の中枢に拡がるようになっていった。
そして明治3年(1870)には藩主自らが平田国学に入門し、藩の政治と諸改革が、国学者によって運営されるようになったという。

神々の明治維新

安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)にはこう書かれている。
「慶応4年7月、苗木城の守護神竜王権現は高森神社と改められ、本尊大日如来像の撤去などがおこなわれた。その後、地域での神仏分離や平田門人の神葬祭改宗などがあったが、苗木藩の廃仏毀釈が本格的に進行するのは、明治3年7月に知事(旧藩主)が自家の神葬祭を願い出、それが領内全域に及ぼされるようになってからである。ついで8月には、村々の辻堂や路傍の石仏・石塔などを毀(こぼ)ち、神社の神仏分離も徹底することが命ぜられた。苗木藩の廃仏毀釈は、領内の全寺院(15か寺)を廃毀し、石像石碑にいたるまで、仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させる、というすさまじいものであった。」(『神々の明治維新』p.99-100)

そして、藩知事(遠山友禄)自らが率先して廃仏毀釈を徹底させたのである。安丸氏は続けてこう書いている。
「3年閏10月、廃仏毀釈を督促するために領内を巡視していた藩知事遠山友禄は、加茂郡塩見村の庄屋宅に一泊した。そして、庄屋の後見役柘植謙八郎を召しだし、過日、神葬祭に改めるといったのに、仏壇がそのままになっているのはどうしてか、と詰問した。謙八郎が、伯父(庄屋?)は七十余歳で、日夜あまりに廃仏を歎くのでやむをえず『等閑』にすごした、と答えた。友禄は、明朝、仏壇を庭前にもちだすように命じた。ついで病気の組頭市蔵に代わって倅為八が呼び出され、同家の仏壇も明朝もってきて、おなじく庄屋宅の庭前におくように命じられた。翌朝、両家の仏壇から本尊と脇仏六幅がとりだされ、一つ一つ土足で踏みにじられ、火中へ投げこまれた。仏壇も焼き捨てられた。これを見た市蔵の妻は、狂乱のようになって本尊とともに身を投じて焼死しようとして、まわりの者から抱きとめられた。
こうして、塩見村の人々は、恐怖と不安にかられながらも、結局は神葬祭を受けいれるほかなかった。…」(同上書 p.100)

藩知事が平田国学に心酔し、自ら廃仏毀釈を推し進めていたのであるから、結果は推して知るべしである。

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのホームページに、苗木藩の廃仏毀釈の通達などが紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/b_naegi.htm

「明治3年8月15日、郡市局達(苗木藩の廃仏毀釈)
 『一、村々の内、辻堂を毀ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。
   但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
  一、諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。
  右の条々相達し候もの也。
                   午 八月十五日  郡市局
  御支配村々里正中』

明治3年8月27日、達
 『一、諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
  一、堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。』

明治3年9月3日、廃寺帰俗の申し渡し
大参事青山直道、管下寺院の全住職を藩庁へ呼び出し、申し渡し
 『今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。
 よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀を許し、村内においては里正の上席とす。』
住職たちは、遠山家菩提寺雲林寺で協議、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決する。」

苗木藩の廃仏毀釈は、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」という強引な薩摩藩の廃仏毀釈とはかなり異なるのだが、かくして苗木藩の寺は収入源が断たれて全てが廃寺となり、仏像・仏具類は破壊されたり売却されたりしたようだ。旧苗木藩の領地であった場所には、廃仏毀釈の痕跡が今も何箇所か残されている。

旅行の3日目は、午前中に苗木藩の廃仏毀釈の史跡などを訪ねる旅程を立てていたが、該当の場所は、地元の方も良く知らない場所であることが多く、初めて訪れる旅行者がカーナビで辿りつける場所はわずかしかない。

最初に訪れた場所は東白川村役場(岐阜県加茂郡東白川村神土548)である。
岐阜県内には「村」が白川村と東白川村の2つしかないというのは意外だったが、東白川村はわが国で唯一、域内に寺のない自治体なのだそうだ。要するに東白川村では、明治の廃仏毀釈のあと仏教が復活することなく現在に及んでおり、ここでは冠婚葬祭の全てが神式で執り行われているという。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑

この村役場の敷地は、廃仏毀釈以前は「常楽寺」という寺の境内であった場所で、この役場の脇に「4つ割りの南無阿弥陀仏碑」が建っている。この碑は正面から見ても、真横から見ても、縦に見事に割られている。

四つ割りの南無阿弥陀仏碑2

こんなに綺麗に割れているのは、常楽寺の住職がこの名号塔を制作した高遠の石工・守屋伝蔵を呼び寄せ。石の節理に沿って割らせたことによるのだそうだ。割られた石は畑の石積みとして利用されたそうだが、昭和10年(1935)に有志の手により掘り起こされて再建されたという。

東白川村役場で『美しスポットマップ』という案内地図を入手して、次に東白川村五加大沢の「蟠龍寺跡」を目指す。村役場から白川街道を西に6km程度の距離なのだが、これといって目印になるものはなく、簡単な地図だけを頼りになんとか辿りついた。

蟠龍寺跡

東白川村の特産品であるお茶は、約600年ほど前に蟠龍寺の住職が京都の宇治から茶の実を持ち帰り、里人に茶の栽培を薦めたのが始まりなのだそうだが、その蟠龍寺はすでになく、茶畑と石垣とお墓だけが残されていた。

次に中津川市苗木609にある「穴観音」を目指す。住所は昨日苗木遠山史料館で教えて頂いたのだが、次のURLで地図がでている。近くまで来ると大きな岩があるのでわかると思う。
http://jimy1700.blog62.fc2.com/category8-1.html

穴観音

この巨岩の下のお堂が「穴観音」で、中にはにいくつかの石仏などが安置されていて、この史跡全体が中津川市の文化財に指定されている。
明治の廃仏毀釈の時に、観音石仏を地中に埋めるのにしのびなく、この穴に隠したという言い伝えがあるのだが、中津川市教育委員会による案内板には「広さ約10㎡の堂内には、明治2年(1869)に起きた廃仏毀釈運動から難を逃れた仏像等が安置され、また穴観音の周囲には破壊された石仏約8体が集められている」と書かれている。

穴観音の内部

この穴に石仏を隠したのか、難を逃れた石仏がこの穴に安置されているのかは大違いなのだが、地元では廃仏毀釈の蛮行があったことを、あまり思い出してほしくないような意図を感じさせる文章でもある。
格子戸越しに中を覗くと、首を切断された跡のある石仏もあるようだ。

次に、昨日苗木遠山史料館でもう1か所教えて頂いた、「くろぜ道地蔵」を訪ねる。
穴観音から裏木曽街道に戻り、高山という交差点を右折し高山大橋で付知川を渡り、すぐ右折してさらに左折した場所に「くろぜ道地蔵」が建っていた。この地蔵も中津川市の文化財に指定されている。

くろぜ地蔵

高さ2メートルを超える大きな石仏なのだが、首がきれいに切断されている。もちろん背面まで切断されているのだが、教育委員会の案内板には「…尊像の傷跡は明治初年の廃仏毀釈によるもので、村人の厚い信仰により一時期、山中に匿われていたが、その後この地に再建されたものである。」と書かれている。
首が切断されているのを「傷跡」とさりげなく書くのは、地元の人々にとっては「苗木藩の廃仏毀釈」は触れたくない史実であり、忘れてしまいたい歴史ということなのだろう。 だから地元の人に聞いても知っている人は少なく、知っている人も詳しくは語りたくないようなのだ。

地元にはすでに歴史ある寺もなければ文化財もない。廃仏毀釈の真実を詳しく知ることは、仏教を捨てた先祖が為したことを否定することにもなり、現在の神道を中心とした生活をも否定することにも繋がってしまう。それでは、地元で生きることに誇りが持てないだろう。
地元の人にとっては、苗木藩の廃仏毀釈は「触れたくない歴史」であり、できれば、そっとして欲しいというのが本音なのではないだろうか。

苗木遠山史料館で教えて頂いた史跡の場所は、どちらかというときれいに切断された仏像や石碑であったのだが、ネット探すと激しく破壊された仏像などが結構出てくる。このような史跡は、地元の人々からすれば「人に見せたくない史跡」なのだろう。

次のURLに詳しいレポートが写真付きで出ているのだが、住所がよくわからないので、どうやって行けばよいかがよく解らないのは残念だった。
http://blog.goo.ne.jp/fuw6606/e/cb370b833fc2c394791a25cc43ea37e4
その多くは中津川市が史跡に指定しているようだが、経度や緯度は書かれていても住所で場所を示している史跡はほとんどない。
http://www.city.nakatsugawa.gifu.jp/wiki/%E5%8F%B2%E8%B7%A1

廃仏毀釈は明らかに明治政府が主導したのだが、このブログで何度か書いているように、いつの時代もどこの国でも、為政者にとって都合の悪い史実が通史などには書かれることはほとんどない。

山川日本史

一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた。」(p.231)
と、自然発生的な運動が全国に広がったような書き方がされ、政府が関与したとはひとことも書かれていないのだが、例えば奈良県の廃仏毀釈を推進したのは、明治政府が地方に派遣した役人であり、伝統寺院などを破壊し寺宝を収奪して財を成したと言われている税所篤(さいしょあつし)のような県令もいたのである。しかしそのような史実は、為政者にとっては都合の悪い真実であり、教科書に記述されることはないのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-177.html

苗木藩は、明治政府の神仏分離の施策を先取りし徹底して実行したばかりに廃仏毀釈で目立ってしまったのだが、本当の悪玉は、施策の誤りを最後まで認めずに、「一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹きあれた」と教科書に記述させて、地方に責任を擦り付けて固定化させようとした明治政府の中心勢力ではなかったのか。

討幕派と明治新政府を善玉とし徳川幕府と佐幕派を悪玉とするかのような単純な歴史叙述で幕末から明治の歴史が描かれることが多いのだが、このような叙述を鵜呑みにするのではなく、薩長閥がどれだけわが国の歴史を都合よく歪めてきたかという視点から、本当は何があったかを考えることも必要だと思う。
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日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る

苗木藩の廃仏毀釈の史跡を見た後、岩村城跡(県史跡)に向かう。
岩村城は鎌倉時代中期頃に、砦あるいは城館のようなものが平坦部に築かれ、戦国時代に入って本格的な城山が築かれたとされる。
この城の本丸は標高717mの城山山頂にあり、諸藩の居城の中では最も高い場所にあるのだそうだ。この城の付近でよく霧が発生するために、別名「霧が城」とも呼ばれている。

また岩村城は、高取城(奈良県高市郡高取町)、備中松山城(岡山県高梁市)と並ぶ日本三大山城の1つに数えられているのみならず、公益財団法人日本城郭協会が平成18年2月に公表した「日本百名城」にもリストアップされている。岐阜県で選ばれているのはこの城と、岐阜城の2つのみである。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~nihonjokaku/pdf/100list.pdf
1989年にJTBが選んだ「日本秘境百選」にもこの城が選ばれているのが気になっていて、以前から行きたいと思っていた。
http://j100s.com/hikyo.html

岩村城の麓の藩主邸跡に「岩村歴史資料館・民俗資料館」があり、その駐車場に車を駐めた。
この資料館には岐阜県の重要文化財に指定されている「享保岩村城絵図」「明和岩村城絵図」「佐藤一斎自讃画像」などが展示されている。

知新館と櫓

藩主邸の敷地には岩村城の太鼓櫓、表御門が復元され、すぐ横に岩村藩校知新館正門(岐阜県指定史跡)が移築されている。
知新館は、元禄16年(1703)に信州小諸から転封してきた松平乗紀(まつだいらのりただ)によって創設された岩村藩の藩校だが、当時、藩校は全国的にもまだ数少なく、特に2万石という小禄の大名が創設した事例は他にはないのだそうだ。
岩村藩では藩士は8歳になるとここで学ぶことが義務付けられ、20歳まで四書五経や儒学の修養、算術や書道などを学んだという。そしてこの藩校から、その後の日本の学問をリードした人物が何人か出ている。

江戸幕府の儒家である林家の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与した林述斎(はやしじゅっさい)や、後に昌平坂学問所に入門し、文化2年(1805)には昌平黌の儒官(総長)となった佐藤一斎(さとういっさい)が有名だが、佐藤一斎の弟子には佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠など幕末で活躍した著名な人物がかなりいるのに驚いてしまう。

佐藤一斎像

知新館の横に佐藤一斎の銅像があり、その左に佐藤一斎の有名な言葉が刻まれている。
「少くして学べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず」

岩村城天守跡へはこの場所から徒歩で20分くらいと書かれていた。
「日本秘境百選」のリストのなかで、この場所ほど簡単に目的地に辿りつける場所は多くはないと思うのだが、真夏の炎天下に天守に続く坂道を登っていくのは正直言ってきつかった。歴史資料館近辺には飲料水の自販機が見当たらなかったので、汗をかく人は、事前に水筒を用意しておいた方が良いだろう。

岩村城址1

15分ほど登ると大手門を過ぎて立派な石垣が見えてくる。

岩村城址2

天然の地形を活かした菱櫓があり、奥に六段壁の石垣が見える。

岩村城址4

この坂を登れば、本丸の跡だ。このあたりの石垣は見事である。

岩村城址3

本丸跡からの眺めも素晴らしいのだが、3日連続の山歩きで、しかも炎天下の散策はきつかった。普段ならベストアングルを狙って、石段を登ったり下りたりしていろんな場所からカメラの位置を変えて写すところなのだが、この日はその元気がなかったので、本丸から出丸、南曲輪方面には行かずに、来た道を引き返すことにした。

ここで岩村城の話題をひとつ。
岩村城は「女城主」と呼ばれた人物がいたという伝説がある。この話はネットでいろんな人が書いているが、朝日新聞の記事などを参考にして、簡単にまとめておく。
http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200908170117.html

元亀3年(1572)、城主の遠山景任(かげとう)が子供のないまま病死する。織田信長の叔母にあたるという景任の妻の「おつやの方」は、信長の五男坊丸(後の織田勝長)を養嗣子としたのだが、坊丸はまだ幼かったので、おつやの方が当主の座を引き継いで岩村城の女城主となったと言う話だ。

ところが、同年10月に武田信玄が西上作戦を開始した際に、おつやの方は武田軍に寝返り、武田の将・秋山信友の妻となって岩村城主の妻の座に着き、この時に坊丸は人質として甲斐に送られたという。このことが信長の逆鱗に触れることとなる。

長篠の戦いで武田勢に圧勝した信長は、嫡男の信忠を大将として岩村城を攻めたのだがなかなか落ちない。そこで信長は城兵の助命を条件に開城させるのだが、その後和議の約束を反故にして秋山信友以下の城将を皆殺しにしたという。この時におつやの方がどうなったかについては、武田家軍学書「甲陽軍艦」には、信長によって成敗されたと書かれているそうなのだが、捕らえ逆磔刑に処されたという話もあるようだ。

遠山景任の妻が織田信長の叔母であったというのが多数説なのだそうだが、甲陽軍鑑では「伯母」、「巌邑府誌」では「信長の女弟なり」と記されているようで、「女城主」の伝説も後世の創作部分がかなりありそうな気がする。

前日は奈良井宿の古い街並みを楽しんだが、岩村城の城下町である岩村町の散策を予定に入れていた。この岩村町も重要伝統的建造物保存地区に指定されており、現在も本町通りの4分の1は江戸時代の建物なのだそうだ。

岩村城下町

本町通り沿いには古い家がびっしり建っているので駐車場はない。少し歩くことになるが、大きな駐車場が岩村振興事務所の近くにあるのでそこを利用するのが良いだろう。次のURLの観光マップが参考になる。
http://www.fureai.enat.jp/kankou/images/map1.pdf

昼食を終えて本町通りを少し歩いて、勝川家に入った。
勝川家は屋号を「松屋」と言い、江戸末期から台頭した材木や米を扱う商家だったそうだ。

勝川家

中庭には米蔵があり、年間3千俵の米を取扱い、幕末にはその財力で逼迫した岩村藩の財政を支えたと言われている。敷地内には江戸時代の土蔵などが残されている。

予定の時間が過ぎたので岩村町の観光を切り上げたが、時間があれば幕末の庄屋であった浅見家や江戸時代の問屋で岩村藩御用達であった木村屋なども見ておきたかった。

最後の目的地は、多治見市にある永保寺(えいほうじ)。

夢窓礎石

この寺は正和2年(1313)に土岐氏の招きを受けた夢窓礎石(むそうそせき)により開創されたと伝えられ、現存の開山堂と観音堂はともに国宝に指定され、庭園は国の名勝に指定されている。

永保寺観音堂2

上の画像は国宝の観音堂で、この建物は夢窓礎石が来られた翌年の正和3年(1314)5月に建立されたもので、夢窓礎石により建てられた建築物としてわが国に唯一現存するものだそうだ。唐様建築の手法に平安時代から続く和様建築の手法を折衷させた建築様式で、鎌倉時代末期の折衷様建築の代表作と評価されている。
庭園は寺の創建直後に夢窓礎石に造庭されたと言われ、観音堂の横の岩山、臥龍池にかかり観音堂につながる無際橋(むさいきょう)など歩きながら景色の変化を存分に楽しむことが出来る。

永保寺開山堂2

庭園の西北の奥まったところに、国宝の開山堂がある。この建物は1352年頃に足利尊氏が建立したと言われ、室町時代初期の唐様建築の代表的な建物だとされている。
この建物の裏には祠堂(しどう:神社でいえば本殿のようなもの)があり、夢窓国師とこの寺を開山した仏徳禅師の座像が安置されているという。
前部の礼堂、後部の祠堂とは相の間によって繋がっていて、その建て方が「後の神社建築(権現造)の原型になった」と、案内板に解説されていた。
「権現造」は、本殿と拝殿が一体化され、間に「石の間」と呼ばれる低い建物を設けているのだが、永保寺に来て神社の建築様式の原型を見ることになるとは思わなかった。

岐阜県には何度か来ているが、国宝を訪ねたのは今回の旅行が初めてだ。
岐阜県の国宝建造物は3つだけで、今回の旅行の初日で安国寺経蔵を見学し、最終日の最期に永保寺の観音堂と開山堂を見学した。岐阜県のすべての国宝建造物を今回の旅行で訪ねたことになる。
http://otakaramap.funboy.info/modules/pico/index.php?content_id=220

今までいくつもの国宝や文化財を見てきたのだが、国宝や文化財があるにもかかわらず、その場所を訪れる観光客が驚くほど少ないことが気になっている。
このブログで何度か書いてきたが、美しい街並みや建造物や伝統文化などは、訪れる人がいなくなれば、いずれは地元の人々だけでは支えられない時が来てしまうことになる。

しかし、我々の先祖が、数百年以上ものあいだ何世代にもわたって護り育ててきた地域の伝統や文化やその景観を、我々の世代で朽ち果てさせて良いのかという思いがあるのは私だけではないだろう。
そうならないためには、地方の魅力をできるだけ多くの人に知っていただき、興味を持っていただいて実際に足を運んでいただくことが必要なのだ。

私に出来ることは、地方を訪れて社寺などの名所を訪ね、その地域の農産物や加工品などを買ったり食事をして、その旅行の記事を書くことくらいなのだが、旅行の雑誌に載っていないような場所にも、地域の人々が誇りにするさまざまな歴史や文化があることを、このブログでこれからも伝えていきたいと思う。
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郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで

毎年7月には避暑と歴史散策をかねて車で旅行することにしているのだが、今年は白川郷と長良川温泉に宿をとり、郡上(ぐじょう)八幡から白川郷、岐阜市、関ヶ原古戦場などを周遊してきた。
梅雨が明けていなかったので雨が心配だったが、なんとか予定していた場所を観光することが出来た。

ある読者から、カーナビで登録できるように電話番号や時間の目安も書いて欲しいとの要望があったので、今回の旅行からなるべくその要望に応えることにしたい。

早朝に自宅を出て、9時過ぎに最初の目的地である郡上八幡城(0575-67-1819)の駐車場に到着した。

郡上八幡城

まずこの城の歴史を簡単に振り返っておこう。
戦国時代末期、郡上一円は東氏(とうし)によって支配されていたが、永禄2年(1559)に八幡山の上に砦を築いた遠藤盛数(もりかず)によって東氏が滅ぼされてしまう。この遠藤盛数が築いた砦が郡上八幡城の起源で、その後遠藤盛数の長男・遠藤慶隆(よしたか)が城主となってこの地を治めたのだが、慶隆は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、ついで稲葉貞通が城主となり城郭を修築して天守台等を設けたという。やがて、関ヶ原の戦いが起こり、家康についた遠藤慶隆は再び城主に返り咲いている。
その後元禄5年(1692)、遠藤氏の5代目の常久が幼少で亡くなり改易処分となって、井上氏・金森氏が入封。
金森頼錦(よりかね)の藩主の時代に、農民の困窮甚だしく宝暦義民の一揆がおこり、そのために金森家は改易され、代わって丹後国宮津城主の青山幸道が城主となり、その後の藩政は安定したという。
残念ながらこの城は、明治4年に廃城となって取り毀されてしまったのだが、現在の天守閣は昭和8年(1933)に当時の大垣城を参考に木造で再建されたのだそうだ。
全国で再建された城はいくつかあるが、木造で再建された城は非常に珍しいという。現在は石垣が岐阜県史跡に指定され、天守閣も郡上市の有形文化財に指定されている。

郡上八幡城と山内一豊・千代像

山麓には山内一豊と妻千代の銅像があるが、千代は初代郡上八幡城主。遠藤盛数の長女であるという説が有力なのだそうだ。

郡上八幡博覧館(0575-65-3215)の郡上踊り実演が11時にあるので、近くの駐車場に車を停めて、1時間20分程度市街地を歩くことにした。
郡上八幡観光地図

市街地の散策は次のURLの地図が参考になる。
http://www.gujohachiman.com/kanko/pdf/city_map_j2.pdf

郡上八幡は古い街並みが美しく残されていて、歩いていて楽しい。また防火などを目的に築造された水路がめぐらされて、今も生活用水として利用されているという。

郡上八幡いがわの小径

上の画像は「いがわのこみち」だが、川には鯉が泳いでいて、こんな細い道を歩いていると妙に癒されてくる。

郡上八幡旧庁舎

「いがわのこみち」の近くにある、「郡上八幡旧庁舎記念館」。平成6年までは八幡町の役場として使われていたこの建物は、昭和11年に建てられた洋風建築で、平成10年に国登録文化財に指定されている。レトロな街並みにこの建物は良く似合う。
この記念館前の道路は今年も4回にわたり郡上踊りの会場となり、その夜は道路の車の通行が規制され屋台が組まれて、地元の人だけではなく多くの観光客も交じって、夜遅くまで踊り続けるのだそうだ。

郡上八幡やなかの水の小道

さらに西に行くと「やなか水のこみち」がある。黒い玉石を敷き詰めた道と水路と柳の並木と古い家が絵になる景色である。こんな道を、下駄を鳴らして歩いてみたいものだ。
この美しい道沿いに、「やなか三館」と呼ばれる、小さな美術館や民芸館がある。
郡上八幡出身の画家であり造形作家の水野政雄さんの作品が集められている「心の森ミュージアム遊童館」に入ったが、子供や動物たちの人形や、郷土をモチーフにした絵や人形に心が和んだ。

郡上八幡宗祇水

宮ヶ瀬橋を渡って左に折れると、環境省選定「名水百選」の第一号となった「宗祇水」がある。室町時代に連歌の第一人者であった飯尾宗祇が、この場所で郡上領主の東常縁(とうつねより)と歌を詠み交わしたことからこの湧水を「宗祇水」と呼ぶようになったという。
東常縁は藤原定家・俊成にはじまる二条家歌道の流れをくむ著名な歌人でもあり、その東常縁を、『新撰菟玖波集』を編んだ連歌の第一人者である飯尾宗祇が都からわざわざ訪ねに来たということはすごいことである。宗祇は郡上にしばらく滞在して東常縁より古今伝授を受け、この清泉のほとりで別れを惜しんだのだそうだ。
この地で、東常縁が宗祇に託した餞別の句が残されている。
「もみじばの流るる龍田白雲の花のみよしの思いを忘るな」
また明建神社と那比新宮神社には二人の連歌碑が建立されているという。

郡上八幡古い街並み

宗祇水から元の道に戻り北へ歩くと鍛冶屋町、職人町の古い街並みが美しい。
道の奥に見える寺は長敬寺(ちょうきょうじ)といい、慶応4年(1868)江戸城開城の際に、郡上藩士45名が「凌霜隊(りょうそうたい)」を編成し、佐幕派の中心・会津へ救援隊として出発し、会津若松の「白虎隊(びゃっこたい)」とともに政府軍と戦ったという。
9月に会津は降伏し、凌霜隊士は郡上に護送され獄舎に入れられたのだが、厳しい獄舎の生活に犠牲者が出るのをみた城下寺院の嘆願が聞きいれられて明治2年にこの寺に移され、翌年に釈放されたものの、彼らの一生はかなり厳しいものだったようだ。

郡上八幡博覧館

この長敬寺を右折すると、元に戻って郡上八幡博覧館に到着する。
館内には郡上八幡の自然や歴史や文化を紹介するパネルや工芸品などの展示がなされているが、一番印象に残っているのはやはり「郡上踊り」の実演である。たった15分間程度の実演だが、結構楽しませてくれる。この実演は、季節に関係なく毎日11時、13時、14時、15時の4回あるので、その時間に合わせて訪問されると良い。

郡上踊り

郡上踊りの歴史は古く、江戸時代に初代藩主の・遠藤慶隆が領民親睦のため奨励したのが発祥という説もあれば、江戸時代中期の藩主・青山氏の時代(1758~)に百姓一揆(郡上一揆)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥という説もあり、どちらが正しいのかはよく分からないが、この踊りが地元で生きる人々の誇りとなり、それが世代を超えて地域の人々の絆を強める仕組みの一つになっていったのだと思う。

郡上踊りは毎年7月中旬から9月上旬まで延べ32夜にわたって、旧庁舎記念館前やら城山公園やら、開催日ごとに会場を移して行われ、特にお盆の8月13日から16日には明け方まで夜通しで踊り続ける『盂蘭盆会(徹夜踊り)』が行われる。
20120715143536.jpg

この「郡上踊り」は、徳島県の「阿波踊り」・秋田県の「西馬音内(にしもない)盆踊り」日本三大盆踊りの一つとして数えられ、平成8(1996)年には国の重要無形民俗文化財に指定されている
のだそうだ。
今年のスケジュールは次のURLにある。
http://www16.plala.or.jp/gujo/newpage2odori15.html

お盆の徹夜踊りには踊り客は4日間で延べ25万人とも言われ、郡上八幡町の人口16千人と較べれば、いかに多くの観光客が踊りに参加しているかが良くわかる。この時期には観光客・宿泊客は郡上八幡の人口の40倍近く膨れ上がるという。
また、踊りのうまい観光客には、「郡上踊り保存会」から郡上踊りの免許状が交付されるそうだが、そういうちょっとした工夫がリピーター観光客を増やしていることに繋がっているのだと思う。

同じ曲で、何度も踊り続けてはそのうち飽きてしまうだろうと誰でも考えるところだが、郡上踊りの曲は、踊る人が飽きないように曲目が10種類もあるのだそうだ。
「郡上の八幡出てゆくときは、雨も降らぬに袖しぼる」の唄い出しで知られる「かわさき」から始まり、「春駒」、「三百」、「ヤッチク」、「げんげんばらばら」、「猫の子」、「さわぎ」、「郡上甚句」、「古調かわさき」、「まつさか」と、テンポの速い曲もあればゆっくりとしたものもあり、踊り疲れないように曲の順番がよく考えられているのだという。

今年の7月12日に旧庁舎記念館前で行われた今年最初の郡上踊りの動画を見つけたので紹介したい。「春駒」という曲はとてもテンポの良い曲で、こんな曲を聴けば私でも踊りたくなってくる。今度来るときは、是非踊りの輪の中に入ってみたいものである。


しかしながら、この歴史と文化の香りあふれる郡上八幡も若い世代が都会に流出するばかりで、人口の減少傾向が続いているという。
このブログで何度も書いているのだが、地方の伝統文化がその地域で世代から世代に継承されていくためには、若い世代が地元に残って家族を養えるだけの収入が得られる仕事があることが不可欠である。
高度成長期以降のわが国は、地方の生産者や小売店を非効率であると切り捨てて、地域の経済循環を破壊し、地方を衰退させてきた。
都会資本の大企業が世界から安い原料を集めて大量に消費財を生産し、都会資本の大手流通企業が市場としての地方に店舗網を広げていくことを後押しするような経済施策が続き、そのために地方に住む人々の多くが地元での収入源を失い、稼ぐ場所を求めて若い世代の都会への人口流出が止まらなくなっているのだが、そろそろこの流れを止めないと、郡上八幡に限らず多くの地方の固有の文化が衰退して、いずれその観光価値をも失っていくことになりはしないか。

そうならないためには、つまるところ都会に住む人々が、地方で代々生産や販売に従事している人々に直接お金が落ちるように、今よりも配慮した消費行動をとることが不可欠なのだと思う。たとえば、少々高くても国産品にこだわり、大手メーカーの商品よりも地方の産品を求め、大手流通の店舗で買うウェイトを減らしてネットで地方の農産物や加工品を買ったり、ドライブしたり旅行地で地元の産直や商店などで買い、地元の食材にこだわった料理屋などで食事をすることが、地方の暮らしを豊かにし、地方の素晴らしい文化を残すことにつながるのだと思う。
それと同時に地方の農漁業従事者や食品加工業者などは販売ルートを見直すべきだと思う。大手流通に不本意な価格で回すことよりも、ネットや産直などで都会の消費者に直接販売する努力をしていけば、地方はもっと豊かになれるのだと思う。

地方に住む若い人が都心に出て就職しても、住居を買うために多額のローンを組んで、生涯所得のかなりの部分をローン返済の為に失うことになる。
地元である程度収入が得られる目途がつくならば、先祖代々の家があれば収入が少なくともなんとかなるし、子供を育てるのも安心だし、通勤地獄のない生活や、豊かな自然があり親族や昔なじみが何人もいる地元で生活することができるメリットははかり知れない。店舗が少ないのは仕方がないが、今ではネットでほとんどの商品を買うことが可能である。
薄給で都会で働くことを余儀なくされている若い世代の中には、田舎で暮らすことの方が幸せな生活が出来る可能性が高いと考える人がこれから増えていくのではないかと思う。

まつい

郡上八幡博覧館の売店でいくつかのお土産を買い込んだ後、近くの蕎麦屋さんを紹介してもらった。
入ったのは手打ちそばの「蕎麦正まつい」(0575-67-0670)というお店で、博覧館から歩いて3分程度の距離で駐車場もある。

郡上八幡 まつい

メニューは冷たい蕎麦だけで、私は辛味大根を使用した「おろし蕎麦」を注文したが、飛騨荘川で育つ玄そばを用い、郡上八幡の清水で打ち上げた冷たいそばが辛味大根とよく合うのである。蕎麦の香りと、しっとりとした食感と、心地よい麺のコシを楽しんで、大満足だった。今度来るときも是非立ち寄りたい店である。<つづく>

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いています。よかったら覗いて見てください。

飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-131.html

「大原騒動」の史跡や飛騨の国宝や渓谷などを訪ねて白骨温泉へ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-154.html

白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html

苗木藩の廃仏毀釈と、その史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-179.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html





郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる

前回の記事で郡上八幡城の歴史について、「金森頼錦(よりかね)の藩主の時代に、農民の困窮甚だしく宝暦義民の一揆がおこり、そのために金森家は改易され、代わって丹後国宮津城主の青山幸道が城主となり、その後の藩政は安定した」と書いた。

「宝暦義民の一揆」とは「郡上藩宝暦騒動」とも「郡上一揆」とも呼ばれているが、この一揆が原因で、郡上藩主金森家が改易処分となっただけでなく、幕府高官も大量処分されたという大事件で、郡上市のあちこちに義民の顕彰碑や記念碑が建立されている。

郡上義民顕彰碑

最初に訪れた郡上八幡城にも敷地内に「郡上義民顕彰碑」がある。石碑に円形の図形が掘られているが、これは傘連判状(からかされんぱんじょう)を表したものである。百姓一揆の主謀者が誰かを隠すために、誰が最初に署名したかが分からないよう、このような円形の連判状が良く用いられたようだ。

最初に「郡上一揆」のあらましを記しておこう。

江戸時代も後半に入った宝暦4年(1754)、美濃国郡上藩主の金森頼錦(よりかね)は、税収を増やすために、毎年の年貢額が一定である定免(じょうめん)法を改め、年ごとに稲の実り具合を検査して年貢の額を決める検見(けみ)法に切り替え、さらに農民らが新たに開発していた切添田畑を洗い出して新規課税を計画した。

同年7月20日に郡上藩は各村の庄屋を藩役所に呼び出し、検見法を申し渡ししたのだが、村々では一同が相談の上、大幅な増税になるので受けられない旨の判を捺して庄屋方に差し出し、庄屋たちは藩役人に交渉して検見法を断ろうとしたが聞いてもらえず、以後は農民たちが団結して藩役人と交渉することとなった。

8月10日に郡上藩の千人ほどの農民たちが八幡城の城下に集まり、御蔵会所におしかけて検見法廃止願いなど16か条の願書を差出し、驚いた家老たちは、この時は農民たちの要求を認めたのだが、この問題はこれでは終わらなかった。

検見法をあきらめない江戸の金森藩邸は、重役たちが幕府の老中本多正珍(ほんだまさやす)らに内談し、幕府からの命令ということで農民たちに検見法を納得させようと工作したのである。
宝暦5年(1755)7月21日、庄屋たちが笠松代官所に呼び出され、長老の庄屋が検見法を断ると、足軽たちが棒で打ちすえるという態度に出て、検見法の実行を強引に承諾させてしまう。
そのことを知った農民たちは各村々で傘連判状を作り、8月13日に農民の代表40人が郡上を出発し、江戸の金森屋敷に訴えに向かったのだが、藩は郡上から来た農民たちを全員監禁してしまったのである。

藩への訴えでは要求が通らないことを知った農民たちは、当時厳しく禁じられていた幕府への直接の訴えを行なうことを決意し、11月26日に5人の農民代表が江戸城大手門前で、駕籠で出勤途上の老中酒井忠寄の行列に願書を以て飛び込むという駕籠訴(かごそ)を決行した。これが受理されたことにより郡上一揆は法廷で審理されることになったのだが、その審理がなかなか進まなかった。

宝暦8年(1758)4月2日には、評定所門前に置かれた目安箱に訴状をいれる「箱訴(はこそ)」を決行し、老中酒井忠寄はようやく事態を重く見て新たな5人の詮議掛(裁判官)を任命し、この事件を評定所で再吟味することを決断した。
幕府役人、郡上藩主・金森頼錦ほか郡上藩関係者、郡上農民らが取調べを受け、江戸時代の裁判の中では例がないほど大がかりなものになり、江戸でも「金森裁判」と呼ばれて評判になったのだそうだ。
そして、10月29日にまず幕府役人らに対して判決が下されている。
老中本田正珍をはじめ若年寄、勘定奉行、笠松代官らは免職。藩主金森頼錦は領地没収、お家断絶となり、ほかにも多くの幕府や藩の役人が処罰されたという。
しかし12月25日に出された農民たちに対する判決は、それ以上に厳しかった。14人が死刑の判決を受け、裁判中に拷問と寒さで牢死したものも19人もいたという。

江戸時代には全国で多くの百姓一揆が起っているのだが、一揆が原因で老中などの幕閣や藩主が免職あるいは改易となった事例はこの「郡上一揆」のみなのだそうだ。
郡上市の各地に残されている「義民顕彰碑」は、一揆で犠牲になった仲間たちのことを郷土の英雄として讃え、農民が藩や幕府を相手に戦った歴史を後世に永く伝えようとしたものである。

前回の記事で紹介した「郡上踊り」の10の曲目の中に「ヤッチク」という歌があるが、この歌詞を読むと「郡上一揆義民伝」になっている
http://senshoan.main.jp/minyou/gujoodori-word.htm

「○これは過ぎにしその物語 聞くも哀れな義民の話
時は宝暦五年の春よ 所は濃州郡上の藩に 
領地三万八千石の その名金森出雲の守は
時の幕府のお奏者役で 派手な勤めに其の身を忘れ 
すべて政治は家老に任せ 今日も明日もと栄華に耽る…」
からはじまり、藩主金森頼錦と重役たちが処罰され、駕籠訴や箱訴に訴えた農民たちが打ち首にされ、代わって丹後国宮津城主の青山幸道が城主となって郡上に平和が戻った経緯が3回に分けて詠われて、最後の締めくくりの歌詞はこうなっている。
共に忘るなその勲(いさお)しを 共に伝えん義民の誉れ

このように、今も郡上八幡の人々は毎年郡上踊りで「やっちく」を踊りながら、256年も前のこの一揆で犠牲になった人々に今も感謝し、その霊を慰めているのである。

郡上八幡をあとにして次の目的地である白山長滝神社(0575-85-2023)に向かった。
距離は27km程度だが、車で30分と少しで到着した。

白山長瀧神社

この神社は明治初年の神仏分離令までは神仏混淆の修験道場で、「白山中宮長滝寺」と称する、比叡山延暦寺の別院であったという。白山信仰の道場は美濃・越前・加賀の3箇所にあり、ここは美濃の白山信仰の中心地として繁栄をきわめたという。

nagataki_kozu.jpg

廃仏毀釈に詳しいminaga氏のサイトによると、
「明治元年:神仏分離で、長滝寺と白山神社に分離。
大講堂、薬師堂、弁天堂、鐘楼、経蔵などは長滝寺とし、
白山三社、拝殿を白山神社、左右末社、児御前、竈社、御鍬社を摂社として分離する。
明治2年(1869)には阿名院、経聞坊、一乗坊、蔵泉坊、宝幢坊、竹本坊、大日坊、大本坊、持善坊、明尭坊、等覚坊、真如坊(無住)、中之坊(無住)、大円坊(無住)の14坊、と執行坊(神主) の存在が知られる。
明治32年(1899)の火災でほとんどの堂宇が焼失する。」とある。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_nagataki.htm

越前・加賀にあった白山信仰の道場は明治の廃仏毀釈で仏教施設が破壊されてしまったが、この美濃の道場だけが廃寺を免れたのだそうだ。長滝寺は白山長滝神社の境内の中に今も堂々と存在し、明治以前の神仏習合の世界を彷彿とさせる。
しかしながらせっかく破壊を免れた長滝寺も、明治32年の白山長滝神社の火災時に長滝寺にあった高さ6.3mはあったという本尊大日如来像や脇座の釈迦如来坐像をはじめ多数の宝物を焼失させてしまうのだが、鎌倉時代後期制作の木造釈迦三尊像:国重文、木造四天王像:国重文などは、地域の人々の必死の努力により運び出されて焼失を免れ、境内にある瀧宝殿で今も観ることが出来るのはありがたいことである。

宝暦義民碑

この広い境内の一角にここにも「宝暦義民碑」があるのでカメラに収めておいた。このあたりも郡上藩の領地で、近辺に犠牲になった農民の屋敷跡があり、もう少し南の白鳥神社などを会場として、郡上八幡と同様に7月から8月にかけて21夜も「白鳥踊り」が踊られ、8曲の曲目のうち「八ツ坂」という唄の歌詞は、郡上踊りの「やっちく」と同様な内容の「郡上義民伝」である。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~tomozuri/ameno-gujougimin.html

若宮修古館

白山長滝神社から200mほど北上すると「若宮家住宅」(岐阜県指定文化財)がある。
若宮家は、神仏分離以前は白山中宮長滝寺の執行(宮司)を代々つとめていたが、神仏分離令以降は、長滝神社の社家となっている。母屋の北側に「若宮修古館」があり、古美術品などが展示されているはずなのだが、たまたま改修工事のために見学できなかった。

白山文化博物館

そこから国道156号線を隔てた東側の長滝自然公園内に「白山文化博物館(0575-85-2663)」がある。ここには長滝寺、長滝神社の白山信仰の宝物が収蔵・展示されているほか、宝暦騒動関係の史料も見ることが出来る。

旧遠山家民族館

長滝神社の駐車場に戻って、次の目的地である国の重要文化財である「旧遠山家民族館(05769-5-2062)」に向かう。
この建物の建築年代は文政10年(1827)頃で、能登の大工によって建てられたものだそうだ。

このあたりには合掌造りの建物はあまり残されていないので、14kmほど走って荻町地区の民宿に急ぐ。私は「十右エ門」という民宿に宿泊したが、白川郷の合掌造りの建物で宿泊が出来るところが他にも20件近くあるようだ。

宿に車を置いて、夕刻の白川郷・荻町地区を散策した。この地区には合掌造りの街並みが比較的良く残されている地域である。

白川郷明善寺

最初に入ったのは明善寺。上の画像は白川村指定重要文化財の本堂だが、この寺の庫裏と鐘楼門は岐阜県の指定重要文化財である。いずれも江戸時代末期に建築されたものだが、とても200年近い年月が建っているとは思えなかった。
庫裏は白川郷の五階建て合掌造りとしては最大のもので、階上には郷土の民具などが展示されている。

白川郷風景

白川郷の散策は楽しい。緑鮮やかな水田と合掌造りの茅葺の家がとても似合う。電線は地中に埋められていて、無粋な電柱がどこにも見当たらないのが良い。
水田の横の細い道を歩いていると、何度もカメラを向けたくなるような美しい光景に出合う。

白川郷和田家

国の重要文化財に指定されている和田家住宅。和田家は江戸時代に名主や番所役人を務め、焔硝(えんしょう:鉄砲に用いる火薬)の取引で栄えた家で、建物だけでなく庭の木も存在感がある。昔はこの建物に20人以上の家族が住んでいたのだそうだ。

白川郷全景

途中から山道に入って、荻町城址展望台に向かう。ここから白川郷荻町地区の合掌集落を一望することが出来る。画像の左下にある大きな家が和田家住宅である。

この白川郷の美しい景観を守るために、これまでも多くの苦労があったと思うし、1995年に世界遺産の指定は受けたとはいえ、これから先もこの景観を維持することは容易な事ではないと思う。
観光客が増加しても観光バスでわずかの時間滞在をするだけの観光客が大半では、潤うのは幹線沿いのごく一部の施設にすぎないだろう。
この日本の原風景というべき景観を維持していくためには、この地で観光に直接携わっていない地元の人々も潤うようにしなければならないのだが、実際にはそうなっていないようだ。地元で茅葺の家を守っておられる多くの人は農業を営んでおられると思うのだが、よく見ると結構休耕地や空き地がある。休耕地や空地がこれ以上増えて駐車場に変わっていくようでは白川郷の魅力はいずれ失われていくことになるだろう。入場料をとるいくつかの家が残っても、その周囲が荒廃してしまえば、「日本の原風景」というべき景観は失われ、観光地としての魅力は激減してしまうのだ。次のURLを読めば、地元の人々の悩みがわかる。
http://doyano.sytes.net/inaka/hana/sira/sira.html

白川郷に限らずどこの観光地でも言えることであるが、田舎の観光地の魅力を残すためには、観光客の多くがその観光地で宿泊して、地元で獲れた米や野菜やきのこ類や魚を食べて、地元の人々に直接お金を落すことが一番なのだと思う。

白川郷民宿十右衛門

そんなことを考えながら、民宿「十右エ門」に戻った。
この民宿は荻町の中心部から少し離れた場所にあるのだが、とても静かな場所に建っているのが気に入った。建物は築300年近いのだそうだが、そんな歴史のある建物に宿泊できたのに1泊8千円台とは随分割安だ。

白川郷夕食

夕食は飛騨牛の陶板焼きやアマゴの甘露煮やら山菜やら白川郷豆腐屋やら、体によさそうな地元の新鮮な食材を頂けたのは嬉しかったし、朝食の「朴葉味噌」と自家製の白米のご飯がおいしくて、何杯もおかわりさせていただいた。
部屋にはテレビもクーラーもないのだが、白川郷にはそんなものはいらない。
江戸時代にタイムスリップしたつもりで、食事が終わってすぐに床に就くのもなかなかいいものだし、茅葺の建物は熱がこもらず、網戸から涼しい風が入ってきてとても心地よく眠ることが出来た。  <つづく>

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湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話

白川郷の民宿「十右エ門」を8時半ごろ出て、御母衣(みぼろ)ダムの近くの「御母衣ダムサイトパーク」(05769-5-2012)に向かう。白川郷からは17kmで27分程度かかる。

荘川村風景

今は御母衣湖の湖底に沈んでしまったのだが、以前は「飛騨の白川郷」と呼ばれ、合掌造りの家々が数多く建っていた「岐阜県大野郡荘川村」というのどかな集落が、庄川のさらに上流に存在していたという。
沈む前の荘川村の写真が次のURLにいくつか紹介されている。
http://www.westsho.jp/syoukawa/db/feeling/index.html
また、次のURLでは水没前の航空写真と水没後の航空写真が紹介されている。
http://doyano.sytes.net/keiryu/3/img/miboro.swf

庄川上流に東洋一のダムの建築計画が持ち上がったのは昭和27年(1952)のことだ。
当時のわが国は高度成長期の入口にあり、産業界から電力供給増加について強い要望があり、そのために国内の多くの河川で水力発電の開発が盛んに行われていた時代である。
庄川上流に大貯水池を設ければ下流のダムの水量を増加させながら、年間の流量を調節できる。しかしそのためには、荘川村の3分の1にあたる240戸が水没してしまうことになり、住民1200人に故郷を捨てる苦渋の決断をしてもらわなければならなかった
そして水没することになる家の多くは白川郷と同様に合掌造りの建物であり、またこの村は標高700mの高冷地でありながら、質・収穫量ともに第一級の米どころであり、反当りの収穫高は濃尾平野と変わらなかったというから、人々の生活も豊かであったようなのだ。

地元の人々は昭和28年(1953)に「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」を結成し、その年の10月には東京の電源開発本社の前で「御母衣ダム絶対反対」という襷をかけた陳情団を送り込み、高碕達之助総裁に会わせろと要求すると、総裁本人が出てきたという。

「死守会」の書記長であった若山芳枝氏はその時の高碕総裁の言葉を著書にこう記している。

高碕達之助
「日本の国の資源は雨と高い山である。バケツ一ぱいの水を山の上に持っていくには相当の努力がいる。上から落とすことは容易である。雨を降らせてくれる神様によってその雨を利用して電力をおこし、そのために国の産業が発展する。雨を無駄にすれば河川は洪水となる。雨は利用すればよいもの、捨てておけば悪いものだ」
皆さんの苦痛は金銭のみではかえられない。第一に故郷を失い、すべてを無くされることについてこれをどうしてあげるかということで私も頭を悩ましている。多数の人たちのため感情を殺しなさい、と言えぬところが一番苦しむ点である。私も六十八になりこの仕事は最後の国に対する御奉公だと思っている。」(『ふるさとはダムの底に』)

また若山氏は、同じ著書で次のように高碕総裁の印象を記している。
「この総裁のコトバには不思議な力があった。先程とは全く打って変わった何かしら温い空気が死守会員の胸に流れ始めたのである。」
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post03.html

しかし地元民は「故郷を守りたい」という純粋な思いを放棄するわけにはいかなかった。
強力な反対運動が続いて膠着状態が続いていたのだが、昭和31年3月4日に荘川村を電源開発の藤井栄治副総裁が突如訪れて、5月8日の死守会総会での会見の約束を取り付けている。
そしてその5月8日に藤井副総裁が再び荘川村にやって来た。若山氏の著書によると、この日の会場の雰囲気は、反対派の「殺気が感じられたほどであった」そうだが、一人で壇上に上がった藤井副総裁はこのように切り出したという。
「なんとかダムをつくらせてくれと、みなさんから承諾いただくまで、私は1週間でも10日でも動きませんと」
私も命をかけて参りました
壇上の藤井副総裁の鬼気迫る説得に死守会の面々は沈黙したという。

藤井が別室で休憩している時間に、このまま対話を続けるか、決裂させるかで賛否両論が飛びだしたが、死守会会長の建石福蔵氏から、相手側から「覚書」をもらうという意見が出て、メンバーの同意が出たので建石会長と若山書記長らが学校の校長室に移動して、校長に文章作成を要請したことが次のURLに書かれている。
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post04.html

後に『幸福の覚書』と呼ばれるようになった次の文書は、学校の便せんに手書きで書かれたものだという。

「覚書
御母衣ダム建設によって立退きの余儀ない状況に相成ったときは、貴殿方が現在以上に幸福と考えられる方策を、我が社は責任を以て樹立し、之を実行するものであることを約束する
昭和31年5月8日
電源開発株式会社 副総裁 藤井栄治
御母衣ダム絶対反対死守会 会長 建石福蔵殿」

いくら出費しても相手方が「以前より幸福でない」と言いだしたら更なる出費を余儀なくされることになる内容であり、今の企業なら普通は出せない内容の文書だと思うのだが、この覚書を交わしたことで、「死守会」が次第に歩み寄ろうとするようになったという。

昭和34年(1959)年に入ると補償交渉が成立して新天地に去る人が多くなり、会員の相当数が現地に残っている内に、円満に交渉が妥結したという証として、11月22日に「死守会」の解散式を行う運びとなった。

移植前の光輪寺の荘川桜

この会に東京から参加した電源開発の高碕総裁は、湖底に沈む集落を最後に見たいと言って、ふと立ち寄った光輪寺の桜の巨木に遭遇した。高碕はこの桜を「水没から助けたい」と死守会書記長の若山さんに語ったという。ダムに土地を奪われた村人たちが故郷を偲ぶよすがにしてほしいとの思いからであった。

老桜の移植を心に決めた高碕だったが、多くの専門家に相談しても、古い巨木の移植は難しいと何度も断られたようだ。しかし高碕は諦めず、当時「桜博士」と呼ばれていた笹部新太郎という人物を訪ねた。当時高碕は電源開発総裁の職を辞していたが、なんとしてでも桜の命を守りたいという高碕の心に打たれて、笹部は心を決めたという。
笹部は早速荘川町を訪れて、光輪寺のほかに照蓮寺という寺にも桜の古木があることを発見し、万が一1本が枯れてももう1本が助かればとの思いから、2本を同時に移植することを提案している。

移植中の荘川桜

昭和35年(1960)11月15日から巨桜の移植作業が開始された。いずれも樹齢400年を超え、重量は光輪寺の桜が約35t、照蓮寺の桜が38tととんでもない重さであり、それぞれの木を距離にして600m、高低差50mまで引き上げねばならない。そのために新しい道路までが作られたという。
大きすぎては運ぶことが出来ないし、切りすぎてもいけないし、樹木に傷をつけてもいけない。地下100mも伸ばした根を何処まで切り、枝を何処まで切るかというバランスを誤れば移植はうまく行かないのだそうだ。12月24日に移植工事が完了したのだが、いくら難工事であったにせよこの木が移植先で活着しなければ何の意味もない。当初は無残に枝や根を切り落とされた桜の木を見て、村人の反応はかなり冷ややかだったという。

年が明けて待ち望んだ遅い春が荘川の地にもやってきた。そして待ちに待った若芽が、こもの目をついて出始めたという報告があった。2本の桜は枝を伸ばし、日を追うごとに元気を増し、かっての美しさを取り戻そうとしていた。

昭和37年(1962)6月12日に水没記念碑除幕式が行われ、電源開発関係者と桜を移植に携わった人々や、元村民ら500人余りが桜のもとに集まった。

この式に参加した「桜博士」の笹部新太郎氏は、自著『桜男行状』にこう書いておられるという。
見渡すかぎり、山は削られ川は埋められまさに山渓あらたまるというべき索漠たる風景を前にして、これらの人たちは老若を分かたず、申し合せたように誰もかもみな、この僅かに生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声を上げて泣いていた。」

また、挨拶に立った高碕達之助も眼鏡の下を指で押さえて、感激に唇を震わせながらこう述べたという。
昭和27年10月18日基本計画の発表を見た時から、皆さんの幸福をひたすらねがいながら交渉をすすめた。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています。」
また、高碕はこの桜をこう詠ったという。
ふるさとは湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに

荘川桜の開花

2本の桜は「荘川桜」と命名され、昭和41年には岐阜県の天然記念物の指定を受けて、いまも春には美しい花を咲かせてくれている。
満開の季節には多くの観光客が訪れるのだそうだが、このような経緯があったことも是非知ってもらいたいものである。

御母衣電力館

「御母衣ダムサイトパーク」の右側の建物の中にシアターがあり、このダム建設の交渉から荘川桜の移植までの出来事をまとめた「桜守の詩」という18分の映画があるので観賞してきたが、なかなかいい映画で感動してしまった。
この建物の左側には、荘川桜の美しい写真などが展示されている。2階に上がれば、御母衣ダムの外観を見ることが出来る。

御母衣ダム

多くの住宅は湖底に沈んでしまったのだが、いくつかの建物は移築され、今も見ることができる。

wakayamake.jpg

上の画像は高山市の「飛騨の里」に移築された「旧若山家住宅」で国の重要文化財に指定されている。
下の画像は横浜「三溪園」に移築された「旧矢篦原(やのはら)家住宅」でこれも国の重要文化財だ。

矢篦原家

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荘川桜があった照蓮寺は高山市堀端町に移築されているが、この本堂は国の重要文化財に指定され、中門と梵鐘は岐阜県の重要文化財だ。もう一つの桜のあった光輪寺は関市清蔵寺町に移築されたという。

御母衣ダムサイトパークから荘川桜までは9.3km。15分程度で到着する。

荘川桜

手前の桜が、高碕総裁が一目見て移植したいと考えた光輪寺の桜で、奥の桜が照蓮寺の桜である。

高碕の歌碑

この2つの桜の大樹の間に、先ほど紹介した高碕達之助の歌碑が建っている。
ふるさとは湖底となりつ うつし来し この老桜 咲けとこしへに
何度もこの歌を口ずさんで、私も胸が熱くなった。

この歌を残した高碕達之助は、水没記念碑除幕式の翌年に病に倒れ、その翌年(昭和39年)の2月24日に帰らぬ人となった。高碕は充分に枝を拡げ咲き誇る荘川桜を見ることは叶わなかったのである。
高碕の葬儀の時に、棺には荘川桜の小枝が手向けられたという。

ふるさと友の会

昭和45年3月に、県内外に散在していた女性たちが声を掛け合って水没地の元住民による『ふるさと友の会』が結成され、平成10年頃まで毎年のこの桜の元に集い、多い時には400人ものメンバーが集まったという。
また当時荘川村の中学校の教員であった林子平氏の回顧談を読むと、地元で高碕氏の7回忌から27回忌まで年忌法要を行なったのだそうだが、この桜が蘇生したことを荘川村にいた人々が喜び、高碕氏がこの桜を残してくれたことにいかに感謝したかがよくわかる。
http://www.sakura.jpower.co.jp/folklore/04/post03.html

故郷を失った人は誰でも悲しいものだと思うが、少しでも故郷のものが残っていれば嬉しい、懐かしいと思うに違いない。高碕はそこまで考えて荘川桜の移転を決断したのだと考えるのだが、高碕が念願していたとおりにこの桜は、荘川村にいた人々にとって故郷を偲ぶよすがとなり、そしてかけがえのない宝物となったのである。

最後に高碕達之助氏の言葉を記しておきたい。

進歩の名のもとに、古き姿は次第に失われていく。
だか、人力で救える限りのものは、なんとかして残していきたい。
古きものは、古きが故に尊い。
」(文芸春秋 第40巻 第8号より)
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濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠・馬籠へ
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「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう

前回は荘川桜のことを書いたが、この荘川桜の移植に興味を持ち、その一部始終をカメラに収めた佐藤良二という人がいた。佐藤氏は当時国鉄バスの名古屋から金沢を結ぶ「名金線」の運転手だったのだが、移植2年後の春に再び彼が荘川桜を見に来ると、お花見の最中に老婆が立ち上がり、桜の太い枝を抱えて突然声を上げて泣き出したのだそうだ。

ryoji.jpg

この出来事は佐藤氏の心に強く焼き付いて、彼は自分の走る沿線266kmを桜並木で結ぶことを決意したという。昭和41年頃から私費で桜を植え始め、12年間で約2000本の桜を植樹したのだそうだが、残念ながら若くして亡くなられたようだ。この佐藤氏の人生は小説にもなり映画にもなった。

荘川桜を見たあと白山信仰の聖地である白山中居神社に行こうとしたのだが、土砂降りになったので山道を走るのを諦め、午後の目的地である岐阜城を目指すことに変更した。
荘川桜からはずっと飛騨街道(国道156号線)を南に走っていたが、この道は佐藤氏が桜を植え続けた道で「さくら道」と親しみを込めて呼ばれているようだ。

さくら

途中で雨脚が強くなったので郡上市白鳥町あたりで早目の昼食をとることにした。このあたりはたまたま桜を植え続けた佐藤良二氏の生まれ故郷であり、飛び込んだレストランも「さくら」という店だった。

雨が小降りになったのでドライブを再開し、東海北陸道を通ってまず岐阜城に向かった。
1時間程度で岐阜公園の駐車場に到着し、金華山ロープウェイで金華山の頂上にある岐阜城に向かう。駐車場の地図は次のURLが参考になる。
http://www.city.gifu.lg.jp/8416.htm

ロープウェイの往復1080円はやや高いが、JAFの会員なら100円の割引がある。歩いて登る人もいるようだが45分はかかるし、かなりの急坂を覚悟しなければならないことは、ロープウェイからの景色でわかる。ロープウェイの山頂駅から天守閣に続く道も、坂が続いて結構きつかった。

Gifujyou11.jpg

岐阜城はかつて稲葉山城と称し、戦国時代は斉藤利政(道三)の居城であったが、天文23年(1554)に嫡子の斎藤義龍に城と家督を譲り、また永禄4年(1561)に義龍が急死し、斉藤龍興が13歳で家督を継いで城主となっている。
そして永禄10年(1567)に、かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が稲葉山城の戦いで勝利し、本拠地を小牧山城からこの城に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定したのに因んで城と町の名を「岐阜」と改めている。この頃から信長は「天下布武」の朱印を用いるようになり、天下統一を目指すようになったとされる
信長が安土に移ると、城は長男信忠に与えられ、その後3男信孝、池田輝政、豊臣秀勝らが城主となったが文禄元年(1592)からは信長の孫の織田秀信が城主となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの前哨戦で、織田秀信が石田三成方の西軍に属していたことから東軍の福島正則や池田輝政に攻められて落城し、翌慶長6年(1601)に徳川家康は岐阜城の廃城を決め、この城は解体されてしまったいう。

岐阜城

現在の岐阜城は昭和31年(1956)に完成したコンクリート造りの建物で、内部は展示場と展望台になっている。

天守閣の最上階に登ると、信長政権を支えた濃尾平野が眺望できる。中央に流れる川は長良川で、近くに見える橋が長良橋だ。なかなか素晴らしい眺めで、織田信長はこの景色をみて、天下を志したのである。

岐阜城から観た景色

ロープウェイで山麓駅に戻って、岐阜公園を散策する。山麓駅の近くにシートで覆われた場所がいくつかあったが、織田信長の居館の発掘調査が行われているようだ。

Odanobunaga.jpg

イエズス会宣教師のルイス・フロイスが自著に、1569年にこの居館で織田信長に謁見した記録を残しているが、これを読むと、かなり大規模な宮殿であったことがわかる。

「…彼は自らの栄華を示すために他のすべてに優ろうと欲しています。それゆえにこそ、彼は多額の金子を費やし、自らの慰安、娯楽としてこの宮殿を建築しようと決意したのであります。宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くベき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。 第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴しい材木でできた劇場ふうの建物があり、その両側には、 二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨ(宮殿)のそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、 そこから市の一部が望まれます。
…私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、…これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、その厚板地は燦然と輝き、あたかも鏡のようでありました。円形を保った前廊の壁は、金地にシナや日本の物語の絵を描いたもので一面満されていました。この前廊の外に、 庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであます。それらの幾つかには、1パルモ(約20cm)の深さの池があり、その底には入念に選ばれた小石や眼にも眩い白砂があり、その中には泳いでいる各種の美しい魚がおりました。…
二階には婦人部屋があり、…三階は山と同じ高さで、 一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、 静寂で非常に優雅であります。三、四階の前廊からは全市を展望することができます。」(中公文庫『完訳フロイス日本史2』p.205-207)

最近の発掘調査の成果を岐阜市教育委員会が次のURLでまとめているが、この図を見ると、フロイスが二階、三階などと書いているのは、平地に四階建ての建物があったのではなく、緩やかな山の斜面に建物が配置され、登り廊下で繋がっていたようだ。
http://www.nobunaga-kyokan.jp/siryou/sj_gensetsu_h25.pdf

信長宮殿金箔瓦

この居館の発掘調査で花をかたどった瓦がいくつか出土し、当時は金箔が貼られていたことも判明しているのだそうだ。最初に金箔瓦が用いられたのは安土城だとされてきたが、岐阜城でより早く用いられていた可能性があるのだという。今後の発掘調査の結果が楽しみである。

板垣退助像

以前このブログで、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われて『板垣死すとも自由は死せず』という言葉を発したとされる話を記したが、その現場である中教院の跡地が今の岐阜公園の中にあったようだ。公園の中に立派な板垣退助像が建てられている。

岐阜公園

岐阜公園は結構広く、金華山の山頂には岐阜城が見え、岐阜市歴史博物館や名和昆虫博物館など、レトロな建物が建っていてなかなか雰囲気が良い。岐阜市民にとっては素晴らしい憩いの場だ。

いろいろ岐阜市の旧市街を歩いても良かったのだが、歩き疲れて足も重たく、夜には「長良川の鵜飼」を見る旅程で天気も心配だったので、宿に近い「長良川うかいミュージアム」(058-210-1555)に行くことにした。

鵜匠の薪

宿泊先の「ホテル石金」の駐車場に車を預けて、「うかいミュージアム」まで歩いたのだが、その近くには鵜匠が住んでおられるようで、鵜飼に使う篝火用の薪などが積んであった。

長良川うかいミュージアム

このミュージアムは2年前にオープンしたばかりだが、以前は「長良川ホテル」本館があったようだ。入館料は大人500円、小人250円だが、JAFの会員はそれぞれ50円、20円の割引特典がある。

鵜飼の歴史や文化に関する様々な展示物があるが、鵜飼については知らないことばかりだったので、色々と勉強になった。
鵜飼は鵜を使い魚を獲る漁法で、わが国ではかなり古くから行なわれてきたことは『隋書倭国伝』や『古事記』、『日本書紀』などの記録にあるようだが、長良川で行われていた記録では、美濃国では大宝2年(702)の各務郡中里(かがみごうりなかざと)の戸籍に『鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)』の記述があることから、長良川の鵜飼には1300年以上の歴史があることがわかるという。
織田信長や徳川家康など時の権力者の保護を受け、松尾芭蕉も鵜飼を観賞して、
「おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな」
とう句を残しているそうだ。

木曽路名所図会 長良川鵜飼船

上の画像は江戸時代に出版された『木曽路名所図会』巻之二にある「長良川鵜飼船」の挿絵だ。この絵は国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で誰でも見ることが出来る。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952771/130

しかし明治維新で鵜匠の特権が廃止され、長良川で自由に漁をする人が増えて、魚の数も乱獲のために減ってしまったという。
ところが明治11年1878)に明治天皇が岐阜で鵜飼を見物されたことから、長良川の鵜飼がクローズアップされるようになり、明治23年(1890)には禁猟区の「御料場(ごりょうば)」が設置され、鵜匠には宮内庁の管轄下に身を置く「宮内庁式部職」という肩書が与えられたのだそうだ。意外な事なのだが、現在6人おられる長良川の鵜匠はいまも宮内庁に所属する国家公務員で、代々世襲なのだそうだ

鵜匠は鵜飼に連れて行く鵜にはその日は餌をやらず空腹にさせておき、漁に出る前に鵜の首に「首結い」という縄を巻き、鵜が獲った小さい魚は喉を通っても大きい魚は喉に溜まるようにしておくのだという。
鵜飼が始まると、鵜匠は喉が膨らんだ鵜を見つけては手縄(たなわ)を引いて舟に上げて、くちばしを開いて喉をもみあげて魚を吐き出させて漁を行なうのだが、鵜が吐き出した鮎には鵜のくちばしの痕がつくのだという。鵜はくちばしで瞬時に鮎を殺すので、そのため鵜鮎は釣った鮎より新鮮でおいしいと言われている。
長良川鵜匠副代表の杉山雅彦さんが鵜飼が始まる前に、鵜飼を説明しておられる動画がある。鵜の首の中に10匹以上の魚が蓄えられるというのは驚きだ。


宿泊先のホテル「石金」に戻ると、雷が鳴り響いて凄い夕立になったが、幸いすぐに雨がやんだのでほっとした。夕刻からは鵜飼い観覧の屋形船に乗って食事をし、それから鵜飼を楽しむ旅程になる。

夕刻5時半ごろ、ホテルのマイクロバスに乗って観覧船乗り場に向かう。土曜日であったが、観覧船の多さと観光客の多さに驚いてしまった。観覧船は全部で40艘以上あったと思うが、昔ながらの木造の船で、岐阜市内にある鵜飼観覧船造船所で製造されたものだという。

観覧船に乗り込むと、1kmばかり上流の河川敷に進み、そこで屋形船が斜めに整列する。対岸には長良川うかいミュージアムが見える。

IMG_6686.jpg

その場所でしばらく食事とお酒を楽しみながら、暗くなるのを待つことになる。
上の画像は観覧船で戴いた弁当だが、食事を初めてしばらくしてから、ホテルの船が来て、アユの塩焼きが届いた。船の上で食事をするのもなかなか楽しいものである。
隣の船は団体さんで、随分盛り上がっていた。

長良川鵜飼いの観覧船

観覧船の中は禁煙なので、たばこを吸う人は河川敷に降りて一服して時を過ごす。トイレは、専用の船がいくつか係留されているので困ることはない。

花火が上がると、いよいよ鵜飼が開始となる。

最初は6艘の鵜舟が川を下りながら狩りをする「狩り下り」だが、この日は雨のあとで水量が多くて流れが速く、川の水も汚れていたのか鵜が鮎をつかまえるところや、鵜を船縁に上げて鮎を吐かせるような場面を見ることはできなかった。
それでも篝火を燃やした鵜舟が近づき、風折烏帽子に腰蓑姿の鵜匠が手縄で鵜を操る姿を見ると妙に興奮するものだ。

しばらくして鵜舟は再び上流に進む。そして6艘が横一列となって下りながら魚を追い込みながら漁をする「総がらみ」が始まる。これが長良川鵜飼いのクライマックスである。

長良川鵜飼2

何枚かシャッターを押したのだが、私の安物のデジカメでは夜の写真はなかなかうまく写らず、ほとんどが失敗作で終ってしまった。
岐阜市鵜飼観覧船事務所で入手した絵葉書の画像しか紹介できないのは残念だ。今度来るときはもっとうまく撮りたいものである。  <つづく>

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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。
良かったら覗いて見てください。

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-237.html

フランシスコザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.html

フランシスゴビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.html

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-135.html

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-137.html

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-136.html


日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう

旅行の3日目は、長良川沿いの「ホテル石金」のチェックアウトを済ませて、最初に岐阜県安八郡神戸(あんぱちぐんごうど)町にある日吉神社(0584-27-3628)に向かった。ホテルからは18kmくらいの距離で40分もかからない。

このブログで、今まで何度か明治初期に仏教施設が徹底的に破壊された「廃仏毀釈」のことを書いてきた。明治までは「神仏習合」があたりまえで、多くの有名な神社に仏像・仏具や仏塔が存在していたのだが、明治維新後にそれらのほとんどが破壊されるか、寺院に移されるか、売却されてしまった。
ところがこの日吉神社では、当時の住民たちの努力によって三重塔と仏像が残されていることに興味を覚えたので、旅程の中に組み入れていた。

日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂本の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられているが、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社としてこの日吉神社は発展したという。
参道の左右にはむかし寺院があったことを示す石碑がいくつか建てられていて、参道を過ぎると右手に均整のとれた三重塔が見えてくる。

日吉神社三重塔

この三重塔は永正年間(1504-21) 斉藤利網により再建され、天正13年(1585年)稲葉一鉄が修造したものだそうだ。 室町時代の建築様式を伝える貴重なもので、国の重要文化財に指定されているという。神社の立札によると、斉藤利網という人物は春日局の父である斎藤利三の伯父で、稲葉一鉄は春日局の叔父になるのだそうだ。

日吉神社拝殿

正面には拝殿があり、有名な「神戸山王まつり」の時には神輿が7基安置されるのだそうだ。中央の本殿は県の重要文化財に指定されている。
また玉垣中央石段の左右には百八燈明台(県重要文化財)があるが、これは本来寺院にあるもので、神社の社前にあるものとしては珍しいという。

社殿の東側に収納庫があり、その中には平安時代の木造十一面観音坐像2体と、木造地蔵菩薩坐像、安土桃山時代の狛犬一対が納められていていずれも国の重要文化財に指定されている。
これらの文化財は普段は公開されていないようだが、岐阜県安八郡神戸町のホームページに仏像などの画像が紹介されている。仏像の印象は、どちらかというと純日本的で、まるで神像のようである。
http://www.town.godo.gifu.jp/event/event15.html

神仏習合の頃の寺社がどのようなものであったのかは、今は知ることが難しくなってしまったが、神戸日吉神社は、境内にあったという山王社僧八坊は失われたものの、三重塔や神像・仏像とともに古いものを良く残しており、少しばかり神仏習合の名残を感じさせてくれる神社である。

次いで大垣城(0584-74-7875)に向かう。日吉神社からは8km位なので20分もかからない。

大垣城

大垣城の築城については諸説があるが、天文4年(1535)に宮川安定によって本丸と二ノ丸が建てられたとされ、天守閣については慶長元年(1596)に城主の伊藤祐盛によって造営され、その後改築されたとされている。

戦前の大垣城

今回の旅行で初日に訪れた郡上八幡城は、この大垣城をモデルに昭和8年(1933)に木造で再建されたものであるが、大垣城はその後昭和11年(1936)に国宝指定を受けて郷土博物館として親しまれてきた。しかしながら、昭和20年(1945)7月29日に戦災で惜しくも焼失してしまい、現在の天守閣は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。上の画像は戦前に撮影された大垣城だ。

慶長5年(1600)に石田三成ら豊臣方の西軍は、徳川家康を討つため美濃国に入り、時の大垣城主・伊藤盛宗が豊臣家家臣で西軍に属していたので、石田三成は大垣城を西軍の本拠地とし、全軍が集まるのを待っていた。ところが、東軍の進出が早く、美濃の諸城を攻略して、9月14日に東軍の総大将である徳川家康が、大垣城に近い美濃赤坂の安楽寺に到着した。
事態を憂慮した石田三成の家老、島左近が東軍に奇襲攻撃を仕掛けることを進言。一計を案じて東軍を誘い出して、予め配置した伏兵と呼応して囲い込んで西軍が勝利している。(杭瀬川の戦い)
http://yss-mms.jugem.jp/?eid=81

しかし、東軍徳川方の作戦におびき出されて、西軍は大垣城に7500の兵を残して関ヶ原に移動し、9月15日には「関ヶ原の戦い」で東西両軍が戦うことになるのである。

南宮大社楼門

大垣城から10kmほど西に走ると、美濃国一宮の南宮(なんぐう)大社(0584-22-1225)がある。
この神社の社殿は「関ヶ原の戦い」の戦火にあって焼失してしまったのだが、三代将軍の徳川家光が寛永19年(1642)に現在の社殿を造営したという。上の画像は楼門(国重文)。下の画像は拝殿(国重文)だが、社殿や摂社の多くが国の重要文化財に指定されている。

南宮大社

この南宮大社から900mほど西に行くと朝倉山真禅院(0584-22-2212)という寺がある。
歴史を調べると天平11年(739)の開基で、象背山宮処寺と号したと伝えられている。
その後延暦年間に、南宮社と宮処寺とを習合して、南神宮寺と号したという。
この寺も関ヶ原の戦いで大半が焼失したのだが、寛永16年(1639)に徳川家光が再建・造営を命じて寛永19年に復興されたとある。

南宮山真禅院

廃仏毀釈に詳しいminagaさんのサイトに、江戸後期の「美濃国南宮社之図」が紹介されている。上の画像はその中心部分を拡大してみたのだが、この図では真禅院は南宮大社のすぐ北にある。また三重塔は南宮大社のすぐ南に描かれている。どうやら真禅院は、明治の神仏分離により、南宮大社のかなり西側に移転されたようだ。

真禅院本地堂

上の画像が国の重要文化財である本地堂。御本尊は、神仏分離前は南宮大社の本地仏であった無量寿如来だそうだ。
下の画像は三重塔で、これも国の重要文化財である。他にも、梵鐘(国重文)、木造薬師如来立像(県重文)、鉄塔(県重文)など貴重な文化財を残している。

真禅院三重塔

minagaさんは、自身のサイトでこう解説しておられる。
南宮社執行真禅院秀覚法印が、村人の絶大な奉仕のもと、本地堂・三重塔・鐘楼等22棟の堂宇を統廃合して明治4年までに現在地に移建する。
蓋し明治の神仏分離(神仏判然)の時、自ら進んであるいは殆ど抵抗もせず還俗神勤し、堂塔や仏像・仏画・経典・仏器などを自ら進んであるいは手をこまねいて破壊あるいは売却に任せた寺院・僧侶が多い中で、 真禅院秀覚及び村人の『見識』には大いに敬意を払うべし。」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/iti_nagusan.htm
minagaさんが指摘しておられる通り、廃仏毀釈の時に多くの寺院の僧侶はほとんど抵抗もせず、そのためにわが国の貴重な文化財が数多く破壊され散逸してしまったのだが、この真禅院では住職や村人たちが、文化財の破壊を免れるよう努力したことが記録に残されているようだ。

関ヶ原歴史民俗資料館

昼食を済ませて、最後の目的地にある関ヶ原に向かう。最初に訪問する「関ヶ原町歴史民俗資料館」(0584-43-2665)へは、真禅院から8km程度である。

この資料館では、「関ヶ原の戦い」を再現したジオラマや、東・西両軍の武将にかかわる資料が展示されているので、最初に訪問して戦いの全体像を掴むのに良い。
また車で古戦場を周ろうと考えている方は、田舎の道なので細い道が多く、どの道順で行けばよいかなどを予め聞いておくことをお勧めしたい。

関ヶ原の戦いについてはいずれ書く機会があると思うが、簡単に戦いの流れを記しておきたい。

関ヶ原合戦

慶長5年(1600)9月15日、天下の覇権を狙う徳川家康率いる西軍と、それを阻止するために挙兵した石田三成率いる西軍がこの関ヶ原を舞台に、天下分け目の戦いを行なった。
当日は朝から深い霧で覆われていたが、それが少し晴れた午前8時頃に東軍・井伊直正によって決戦の火蓋が切って落とされた。
西軍8万4千人に対し、東軍は7万4千人で、陣形においても西軍は山や丘を見事に押さえて有利な陣形にあったのだが、小早川秀秋の寝返りのあと、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も小早川隊に呼応して東軍に寝返り、戦局が一変してしまう。
西軍の小西行長隊、宇喜多秀家隊の敗走のあと、石田三成隊も敗走し、決戦は開始より6時間余りで決着し、東軍側の勝利に終わっている。

関ヶ原 家康最後陣地

資料館のすぐ近くに陣場野公園があり、ここが徳川家康最後陣地(国史跡)で、西軍将士の首実検をしたところでもある。

岡山烽火場

この場所から車に乗って、陣場野交差点を右折し、丸山交差点を超えると小高い山に岡山烽火場が見える。この見晴らしのよさそうな場所で黒田長政と竹中重門が陣を置いたという。

関ヶ原 決戦地

車をUターンして、陣場野交差点を左折し、1筋目を右折すると、関ヶ原決戦地(国史跡)が見えてくる。
この近辺では東軍の諸隊が石田三成の首を狙って激戦が繰り広げたとされる。

関ヶ原 石田三成陣地

その北800mほどのところに笹尾山の石田三成陣地(国史跡)がある。
この場所は関ヶ原を一望でき、山麓には島左近の陣跡がある。5分程度坂を登ればこの場所に到着する。

関ヶ原 開戦地

笹尾山からほぼ南の位置に開戦地(国史跡)がある。地形を頼りに細い道を走って辿りついた。東軍の先鋒は福島正則隊と決まっていたのだが、決戦の火蓋を切ったのは井伊直正隊で宇喜多秀家隊に対して発砲したのがこの場所だという。

先に進めば宇喜多秀家の陣跡や、大谷吉継の陣跡と墓などがあるのだが、3日間の旅で結構疲れたので、最後に不破の関資料館(0584-43-2611)に向かうことにした。

美濃不破の関資料館

672年に、関ヶ原を舞台に起きたもう一つの「天下分け目の戦い」があった。
天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗を翻した、「壬申の乱」である。
戦いに勝利した大海人皇子は天武天皇となり、673年に飛鳥御原宮を守るために、この地に「不破の関」を置き、さらに鈴鹿関、愛発関(あらちのせき)を設置したとされている。
そして、この不破の関を境に、現在の「関東」「関西」の呼称が使われるようなったことは有名な話だ。

不破関跡

この資料館の裏に不破関跡があるが、発掘調査によると、昔は広さが12万㎡にも及び、不破関資料館もその敷地の中だったという。

不破関跡の庭に松尾芭蕉の句碑が建っていた。
「秋風や 藪も畠も 不破の関」
芭蕉がこの地を訪れたときには不破の関は跡形もなく、藪や畑になっていたことを詠んだ句なのだそうだ。芭蕉も旅に出る前には、結構歴史を学んでいたことがわかる。

今回の岐阜旅行も、観光地としてはあまり有名でないところをいくつか巡ってきた。
何も知らなければただの田舎の風景があるだけの場所も、歴史を調べてからその地を訪ねると、芭蕉のように句は詠めないが、旅行が少しばかり味わい深くなるものである。
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このブログでこんな記事を書いています。良かったら覗いて見てください。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html


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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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    読書
    このブログで採り上げた本のいくつかを紹介します
    三田村武夫の 『戦争と共産主義』復刻版

    同上 電子書籍

    同上 自由選書版

    江崎道郎氏がコミンテルンの秘密工作を追究するアメリカの研究を紹介しておられます





    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史