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一乗谷遺跡、永平寺から越前竹人形の里へ~~越前カニ旅行一日目その1

毎年カニのシーズンに旅行していることは何度かこのブログに書いた。今年は越前のカニを求めて芦原温泉に宿泊することとし、福井県の名所旧跡などを巡る計画をたてて、11/27~28にかけて旅行をしてきた。

27日の朝に自宅を出て、最初に訪れたのが「一乗谷朝倉氏遺跡」。

一乗谷朝倉遺跡紅葉

パンフレットによると、「朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、一乗谷に本拠を移し、斯波氏や甲斐氏を追放して越前を平定した。」とあるが、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」によると、朝倉氏は南北朝時代にはすでに一乗谷を本拠にしていたようである。

その頃の京都は応仁の乱で荒廃しており、多くの公家や高僧、文人たちがこの一乗谷に避難してきたために、この一乗谷は発展し「北ノ京」とも呼ばれたそうだ。
朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期の人口は一万人を超えたと言われている。

しかしながら、朝倉氏は天正元年(1573)の刀禰坂の戦いで織田信長に敗れこの一乗谷を放棄して大野に逃れたのち、信長の軍勢はこの一乗谷に火を放ち、城下町は灰燼に帰してしまう。

その後信長から越前八郡を与えられた柴田勝家は、本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄(現在の福井市)に構えたために、辺境となった一乗谷は次第に田畑の下に埋もれていったそうだ。

以前は朝倉館前の唐門や山沿いの庭園跡が見えるだけだったのだが、昭和42年から遺跡の発掘が始まり、調査が本格化したのは翌年かららしい。
はじめの頃はめぼしい遺構は発見されなかったのだが、1mほど掘り下げると堆積土の中から礎石が顔を出し、それから発掘調査が一気に進行したとのことだ。

ところが、その頃この近辺は農業構造改善事業による水田の区画整理や造成工事が始まっており、計画では遺跡のかなりの部分が破壊されるところであったようだ。郷土史家や井上鋭夫教授、青園謙三郎氏等が県当局に強く陳情し、間一髪のところでこの遺跡が守られたとのことである。

地元の人が水田や畑地を国に売り払い、昭和46年(1971)に遺跡全体の278haが国の特別史跡に指定されて以降さらに発掘調査が進められ、平成7年には調査に基づき当時の町並みが200mにわたり復元されている。

一乗谷遺跡全貌

上の写真は遺跡から復元町並を眺めたものだが、遺跡の規模があまりにも大きくて、復元された部分が随分小さく感じてしまった。

一乗谷朝倉氏遺跡唐門

一乗谷川を橋で渡ると、朝倉館跡正面の堀に面して唐門が建っている。こんな場所に門があるので、てっきり朝倉家の門が今も残っているように錯覚したのだが、自宅に帰ってから調べると、朝倉氏の遺構ではなく後に建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたもので、現存の門は江戸時代中期に再建されたものだそうだ。

一乗谷朝倉邸跡

唐門を抜けると朝倉家第五代当主の義景が住んだ館の跡があり、建物の礎石や庭園が残されている。三方は土塁と濠で囲まれており広さは6500㎡程あるという。

他にも庭園跡がいろいろ残っていて特別名勝にも指定されているのだが、時間があまりないので省略して次の観光地である永平寺を目指す。

寛元2年(1244)、道元禅師によって建てられた「傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)」が永平寺の開創にあたり、寛元4年(1246)に山号寺号を「吉祥山永平寺」と改められた。
寺号の由来は、中国で初めて仏法が伝えられた後漢の明帝の時の元号「永平」からで、意味は「永久の平和」ということだそうだ。

その後暦応3年(1340)に兵火で伽藍が焼失したほか、何度か火災にあい、現存の諸堂はすべて近世以降のもので、主な建物では山門(寛延2年[1749])、法堂(はっとう:天保14年築[1843])以外は明治以降のものである。

永平寺傘松閣

上の写真は最初に見学する傘松閣(さんしょうかく)の156畳敷きの大広間。天井には昭和初期の画家による絵が描かれている。そこから、僧堂(明治35年築)、仏殿(明治35年築)、法堂、大庫院(昭和5年築)、山門等を見て廻るのだがとにかく広く、これらの建物が回廊でつながっていて、ずっとスリッパを履いて見学していく。

永平寺紅葉1

永平寺の紅葉を少し期待していたのだが、もともと楓などはあまり植えられていないようで、圧倒的に杉等の針葉樹が多く、時おり色づいた葉を見ることが出来る程度だった。

永平寺

鬱蒼と茂る老杉の奥にある唐門。永平寺の写真で必ず出てくる有名な場所なのだが、残念ながらここは観光客には公開されていなかった。

永平寺の近くで駐車させていただいたお店で土産に団助の「ごま豆腐」を買った後、次の観光地である「越前竹人形の里」を目指す。

越前竹人形の工房入口

何年前か忘れてしまったが初めて越前竹人形の写真を見た時に、竹細工でこんな人形が作れるのかと驚いたことがあるのだが、ここでは竹細工職人たちの手技を見学することが出来る。ここが工房の入口である。

越前竹人形髪の毛

中では竹人形制作の実演をしていた。竹の節から節までの部分を縦に細かく割っていき、1mm程度の細さのものを更に4分割して人形の髪の毛などに使うそうだ。この作業だけでも大変だと思うのだが、この繊維を小さな人形の頭部に2000本以上植えていくのだそうだが、気の遠くなるような作業だ。
作業だけではない。それぞれ形が違いまた加工の難しい竹の曲面や節をどう組み合わせてどう活かし、どんな作品に仕上げるかはいくら手先が器用でも簡単な事ではないだろう。

越前竹人形制作途上

越前竹人形の歴史はそれほど古いものではなく、もともとは昭和27年に師田保隆さんと弟・米長三四郎さんが農閑期に竹製の花額を作っていたのを、余りの竹を使って人形が作れないかと試作研究して、いくつかの人形を作ったのが始まりだそうだ。それが、評判を得て次第に大きな人形を作るようになり、全国的な賞を多数受賞して越前竹人形は福井県の新しい伝統工芸品として認知されるようになり、今では海外にも販売されているのである。

越前竹人形作品

創作竹人形展示館「黎明」には素晴らしい作品が展示されているので必見だ。どこにでもある竹が、こんな姿に生まれ変わることが奇跡のように思えて、小さな人形を見ながら飽きることがない。

二人の兄弟が素晴らしい仕事をし、師田保隆氏の長男の師田黎明氏が芸術性を高めていった。その努力が実を結び、地元に大きな職人の工房や販売所や食堂が出来て、地元の方が働ける職場もできた。そのエネルギーを今多くの地方が失ってしまっている。

竹の素材を活かしながら、匠の指先が人形に命を吹き込んでいく職人の世界。
何もかもが機械化されて職人の世界が消えていく中で、福井の山里で人形作りの新たな職人が生まれ育っていることに感動を覚えた。ひたすら人形と向き合い誇りを持って働く職人を見て、少し元気をもらったような気がした。
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千古の家、丸岡城、東尋坊から芦原温泉へ~~越前カニ旅行1日目その2

越前竹人形の里で素晴らしい竹人形を見た後、「千古の家」と呼ばれる坪川家住宅を見学に行く。

坪川家住宅

パンフレットには「坪川家の先祖坪川但馬丞貞純は北面の武士で、源三位頼政(げんさんみよりまさ)の後裔といわれている。今を去るおよそ700年前、故あって、この地に定住した。…建てられたのは中世末期であるとされ、全国的にも貴重な民家の一つとされ…、昭和41年に国の重要文化財に指定され」たと記されている。

「北面の武士(ほくめんのぶし)」とは、上皇(じょうこう:皇位を後継者に譲ったあとの天皇の呼び名で「院」ともいう)に仕えて、院の北面下臈に詰め、身辺の警護あるいは御幸に供奉した武士のことをいう。また「源三位頼政」とは源氏でありながら平清盛に信頼され従三位まで上り詰めたが、治承4年(1180)以仁王に平氏打倒を働きかけ、以仁王の令旨を得て反平氏勢力の蜂起を促そうとしたが、計画が露見したため平氏の追討を受け、宇治平等院の戦いで敗れて自害した源頼政(みなもとのよりまさ)のことだ。

その源頼政の後裔と言われる坪川但馬丞貞純がこの地に定住した後、坪川家は周辺の集落を司る七人の名司の筆頭として高い格式を持ち、近代になって丸岡町に統合されるまでは代々村長を務めていたのだそうだ。

屋根は茅葺きだがすごく重厚感に満ち迫力がある。室内は撮影禁止で紹介できないのが残念だが、荒々しく削られた太い栗の柱がこの家を支え、面白いのは「股柱」と呼ばれる二股に分かれた太い柱の一方の枝を短く切って側桁を支え、他方を斜め上にのばして上屋桁を受けている。すなわち、1本の柱で二本の柱の役割を持たせたものが三本も使われていた。

坪川家庭園

東側の庭は国登録記念物に指定されているのだが、残念ながら紅葉が最も美しい時期は過ぎてしまったようだ。
また別棟で坪川家伝来の古文書や屏風などの宝物も展示されていた。

次に現存する最古の天守閣と言われる丸岡城(別名:霞ヶ城)を目指していく。

丸岡城

丸岡城は天正4年(1576)に柴田勝家の甥である柴田勝豊によって築かれた城で、二重三層の天守閣は、領主の居館としての機能を持った望楼式天守で、屋根は「笏谷石(しゃくだにいし)」と呼ばれる石材を使った石瓦で葺かれており、現在この建物は国の重要文化財に指定されている。

昔の丸岡城

昔の城郭は五画形の広い濠を有し、外郭に侍屋敷を配置し、さらに外濠があって寺院民家を包容した城下町が形成されていたのだが、大正期から昭和にかけて濠は埋められてしまい、今は天守閣と石垣の一部が残されているのみである。

日本の城の天守のうち江戸時代以前に建設され現在まで保存されているものを「現存天守」とよぶが、7つの天守閣(水戸城、大垣城、名古屋城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城)が太平洋戦争で焼失し、戦後の失火で松前城も焼失し、「現存天守」は12*あり、丸岡城はその中で一番古いものである。* (弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根錠、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)

丸岡城地震

しかしながら、丸岡城は昭和23年(1948)の福井地震で石垣が崩れて上の画像のように倒壊してしまい、昭和30年(1955)に元の古材を8割近く使用して修復再建されたそうである。

日本一短い手紙として有名な「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は徳川家康の功臣の本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて書いたものだが、この中の「お仙」は本多作左衛門重次の嫡子の仙千代で、その後仙千代は本多成重と名乗り福井城主に仕えて武勲をたてたことにより、この丸岡城の第六代城主となっていることはここへ来て初めて知った。
また丸岡城は日本100名城、日本さくら名所100選にも選ばれており、福井県の観光には欠かせないスポットである。

次の観光地は東尋坊だ。
昼からは激しいにわか雨が何度かあったが、運よく東尋坊は雨に降られずに観光することが出来た。しかし、楽しみにしていた観光遊覧船は風も波も強かったために残念ながら欠航していた。

東尋坊2

東尋坊は輝石安山岩の柱状節理という、世界で3箇所しかないといわれる奇岩が続き、東尋坊先端に浮かぶ雄島と共に天然記念物に指定されている。

東尋坊1

左の画像が有名な三段岩。雨の後でかなり岩が濡れており危険なので、あまり奥には進まなかった。

東尋坊の散策路を一通り歩いてから、雄島にも渡ってみた。

大湊神社

雄島にある大湊神社は昔から航海・漁業の守護神として崇敬されてきたが、 天正年間(1573~1591)に織田信長の兵火にあって焼失し、現在の社殿は元和7年(1621)に福井藩主松平忠直公により再建されたものである。この建物と伊邪奈岐命の木彫の座像が県指定の重要文化財になっている。 さらに進めば灯台や、磁石を狂わす磁石岩などがあるのだが、雨の後で地面がぬかるんでいたので、それ以上奥に行くのは諦めた。

夕刻近くになったので、芦原温泉で予約した旅館に向かう。
もちろん料理はカニ会席料理で、料金も高かったので大きなカニを期待していたのだが、カニに黄色いタグはなかったし、カニも思っていたよりか小振りのものだった。

本物の越前ガニには黄色いタグが付いているはずなのだが、本物の越前ガニを食べるには、去年の香住のように民宿を予約した方が良かったようだ。温泉や設備などは申し分なかっただけに残念だ。

東尋坊は子供の頃に家族で来た記憶があるのだが、その当時は岩場に通じる商店街がもっと賑わっていたように思う。今は、多くの観光客はただ店前を通り過ぎるだけで、随分空店舗が増えているのが気になった。

このようなことは東尋坊だけの話ではないが、昔はホテルの売店も小規模で、ロードサイドなどに土産物を沢山まとめ買い出来るような店もなかったので、観光客は観光地の売店で御土産を買っていた。わかりやすく言うと、昔は観光地の売店とホテルとは共存共栄の関係にあったのだと思う。
しかし、今ではホテルでも、高速のサービスエリアや道の駅などでも御土産が買えるようになって、観光客にとっては便利だが、観光地の小さな商店は大幅に売上を落とし、利益が出なくなってしまって閉鎖が相次いでいる。

地元の商店の経営の仕方にもっと工夫が必要なのかもしれないが、行政も地元との共生を考慮しない大手業者の参入を認め過ぎてはいないだろうか。
観光地は土地全体で醸し出す文化や空気を失ってしまっては旅行客にとっては魅力のないものになってしまう。 地元の企業がいくら努力しても、またいくら観光客が増加しても、都会資本の会社が潤うばかりで地元があまり潤わないのであれば、次第にその観光地は活力を失い、その魅力も色あせていくのではないだろうか。
観光客のために作られた大きな施設がバラバラに私的な利益を追求するのではダメで、地元の発展のために存在し行動する共生の価値観が必要なのだと思う。
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芦原温泉からみくに龍翔館、三国港、旧岸名家、養浩館庭園を訪ねて~越前旅行2日目

旅行の二日目は朝から雨だった。
芦原温泉の朝風呂に入り食事をゆっくり済ませたが雨はやまず、雨が止む事を祈りつつ旅程の順番を変更し、まずは「みくに龍翔館」に向かう。

みくに龍翔館2

上の画像が「みくに龍翔館」なのだが、一度見たら二度と忘れないようなユニークなデザインだ。この五層八角形の建物が明治12年から大正3年まで三国に「龍翔小学校」として存在し、「みくに龍翔館」はその小学校の外観を模して昭和56年に建てられた郷土資料館である。

龍翔小学校とエッセル

明治9年に三国を訪れたオランダ人の土木技師G.A.エッセルが、この龍翔小学校をデザインしたのだが、このG.A.エッセルと言う人物はトリックアートの天才画家M.C.エッシャーの父親だということがパンフレットに書いてある。

エッシャー騙し絵

M.C.エッシャーは面白い絵を数多く残しているが、名前を覚えていなくとも、上の絵はどこかで見たことのある人がほとんどだろう。

みくに龍翔館北前船

展示物は三国の自然と古代史、北前船で栄えた三国湊のにぎわいや、三国仏壇、三国箪笥などの工芸品や職人の作業場の復元、三国にゆかりのある文学者の書棚や書斎の復元や、トリックアートなどが展示されており、結構見ごたえがある。

三国祭りの山車

上の画像は毎年5月20日に行われる福井県指定無形民俗文化財である三国祭の、明治時代の山車を復元したものだが、この大きさには驚いた。高さは10mはあるだろう。
今ではこんなに大きなものが曳かれることはないそうだが、以前の三国の町は日本海交易でかなり豊かな暮らしがあったようだ。

建物の5階はこうもり傘のようになっている部分だ。ここから360度の景色が遠望できる。
日本海方面を臨むと、九頭竜川の河口が見え、そこに長い三国港突堤が突出しているのがわかるだろうか。

龍翔館からの日本海

G.A.エッセルが三国に滞在したのは、そもそもはこの突堤を作るためであったのだが、文明開化の風潮の中で三国の人々が三国の繁栄のシンボルとして小学校の建設を計画しており、たまたま三国に来ていたG.A.エッセルにそのデザインを依頼したというわけだ。

G.A.エッセルが来日したのは明治6年(1873)で30歳の時だった。大阪の淀川水系の調査を手始めに各地を回り、三国に来たのが明治9年(1876)。
当時、三国湾に流れる九頭竜川の上流から運ばれる土砂が河口に堆積して船舶が入港できなくなっている問題を解決するために、彼が三国に派遣されたのだそうだ。

土砂が河口に堆積する問題をG.A.エッセルは長い弧形の突堤を作って河口を狭め、九頭竜川の水圧を強めて土砂を吐きだす方法を考えて設計した。彼はオランダに明治11年(1878)に帰国し、工事は同じオランダ人のデ・レイケの監督指導により明治11年に着工し、この突堤が完成したのは明治15年(1882)だという。

三国突堤

雨がやんだので、三国港に向かってこの突堤を見に行く。冬の日本海の風は強く波も荒々しかったが、この厳しい環境で、130年近く経っても未だに土砂を河口から吐きだして、現役の突堤として活躍しているのは素晴らしい。この三国港突堤は明治時代に外国人が作ったものであるにもかかわらず、平成15年に国の重要文化財に指定されていることも凄いことである。

みくに龍翔館のホームページにはG.A.エッセルの記事が掲載されており、それによるとエッセルは母国に帰国後官僚として活躍するのだが、自らの人生を振り返って回想記を綴っているらしい。その中の第二巻が日本に関する記述だそうだが、三国に関する記述が突出して多いそうである。三国での生活が強く印象に残ったのだろうか。
http://www.ryusyokan.jp/escher.html

三国港をあとにして、すぐ近くの旧岸名家に向かう。
旧岸名家は代々材木商を営んでいた新保屋岸名惣介(しんぽやきしなそうすけ)の町屋であり、国の登録文化財に指定されている。

岸名家

このあたりは、北前船全盛期の幕末から明治にかけて三国の商業の中心であったところで、船問屋などが立ち並んでいた場所だったそうだ。

かぐら建て

妻入り屋根の正面に平入りの前半分を付けた建築様式は三国独特のもので「かぐら建て」と呼ばれている。三国には旧岸名家のほかにも「かぐら建て」の民家が多くのこっているようである。

旧岸名家の内部は帳場や台所、座敷などが復元されており、中を見学することもできる。
三国は俳諧が盛んで、岸名家初代の昨嚢が松尾芭蕉の高弟であった支考から文台を授かり「日和山吟社」を結成し、初代の宗匠として三国の俳諧を隆盛に導いたのだそうだ。

この「日和山吟社」は300年たった今も続いているそうである。

岸名家2階

旧岸名家の2階には、立机式といって宗匠の就任式の座席が再現されている。

三国から福井市に向かったが、福井市に近づくと雨が激しく降ってきた。

養浩館庭園2

次の観光地は福井藩主松平家の別邸であった養浩館とその庭園だが、雨の中の鑑賞となってしまった。昔のままで残っているのであればいいのだが、残念ながら建物は昭和20年(1945)の福井空襲で焼失してしまった。また庭園の敷地内に、大正11年に小学校が建てられていたのを移転されて、整備・復元されたものである。

養浩館庭園1

米国に日本庭園専門雑誌の「Sukiya Living(数寄屋リビング)/The Journal of Japanese Gardening」2010年度日本庭園ランキングにおいて、この庭園は3年連続で第3位に選ばれているそうだ。ちなみに第1位は島根県安来市にある足立美術館、第2位は京都の桂離宮で第4位は栗林公園なのだが、紅葉の盛りも過ぎてこの雨では、その価値はよくわからなかった。確かに綺麗な公園ではあるのだが、栗林公園の他にも兼六園など他にも名園がいろいろあるなかで、何故この庭園を米国人が高く評価するのかちょっと不思議に思った。
次のURLが、米国人が選んだベスト50なのだが、日本人の感覚とは違うような気がする。
http://www.rothteien.com/magnet/shiosai2010.htm

隣の郷土歴史博物館にも入り、近くのめしやで昼食にして時間をつぶしたが、雨がやむ気配がなかったので、次の観光をあきらめて帰途につくことにした。

ここ数年間は、旅行して天候に恵まれることが多かったのだが、今回は久しぶりに雨に降られてしまった。
福井県にはまだまだ見たいところがあるので、今度福井方面に行く時は、敦賀から小浜の名所を中心に巡りたいと思っている。
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東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1

東大寺の有名な「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

お水取り

この行事は過去一度も途絶えることなく続けられて今年は1260回目の「お水取り」が行われたことになる。

この「お水取り」という行事の前に「お水送り」という神事があり、それが福井県小浜市にある古刹で、毎年行われていることに興味を覚えて、「お水送り」の舞台となる若狭神宮寺や鵜の瀬(うのせ)を訪ねてきた。

お水送り

上の画像はネットで検索した毎年3月2日に行われる「お水送り」の画像だが、白い装束で身を包んだ僧侶や神人が松明を掲げて鵜の瀬に進み、若狭神宮寺の住職が東大寺の「若狭井」に向かって送水文を読み上げ、邪気払いをしたのち後御香水が遠敷川へ注がれ、同時に一斉にほら貝が鳴り響くのだそうだ。そして流された御香水は、10日かけて東大寺二月堂の若狭井へ届くと言われている。
このような神仏混淆の行事がいつから始まったかは定かでないようだが、若狭神宮寺の境内からは平城宮第二次朝堂院跡から出土したものと同系類の瓦が出土しており、また平安時代の嘉承元年(1106)に編纂された『東大寺要録』に、この神事の由来が記されているといことで、相当古い時代からずっと続けられてきたことはまちがいがなさそうだ。

なぜ、東大寺から遠く離れたこの場所で「お水送り」をすることになったのだろうか。次のURLに由来がまとめられている。
http://www.weblio.jp/content/%E9%B5%9C%E3%81%AE%E7%80%AC

「若狭神宮寺に渡ってきたインド僧実忠は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の2ヶ月前から祈りの行法(修二会)を行った。初日に「新名帳」を読み上げて日本国中の神々を勧進したが若狭の遠敷明神だけが漁に夢中になって遅れ、あと2日で終わるという日に現れた。そのお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽(あか)水」(清浄聖水)を献じる約束をして地面を割ると白と黒の2羽の鵜が飛び出して穴から清水が湧き出した。若狭の「鵜の瀬」より地下を潜って水を導かせたのである。この湧き水を「若狭井」と名づけ、1250年の長きに渡って守り続けられているその井戸より「閼伽水」を汲み上げ本尊にお供えする儀式が、大和路に春を告げる神事「東大寺二月堂のお水取り」である。若狭小浜の神宮寺では、奈良に先立つこと10日、3月2日にお水送りの神事が執り行われる。」
若狭の遠敷明神が「鵜の瀬」より地下を潜って東大寺に閼伽水を導かせたという話は、先ほど紹介した平安時代編纂の『東大寺要録』に記されているという。

二月堂と良弁杉

上の画像は「お水取り」が行われる東大寺の二月堂でその真ん中に聳え立つ杉の木が「良弁(ろうべん)杉」と呼ばれる杉である。かつては樹齢600年の杉があったそうだが、昭和36年の第2室戸台風で倒されてしまったため、今の杉は、その古い杉の枝を挿し木にしたものだそうだ。そして下の画像は、二月堂のすぐ近くにある「閼伽井屋(若狭井屋)」で、ここの水と鵜の瀬の水とがつながっていて、10日間で「鵜の瀬」の水が東大寺の「閼伽井屋」に届くという考えなのである。
あかい屋

しかし、何故「お水取り」「お水送り」という行事がはじめられたのであろうか。
奈良の大仏建造の際に多くの作業者に原因不明の病気が流行して死者が出たとの記録があるそうだ。Wikipediaによると「当時の金メッキが、水銀と金のアマルガム合金を塗布した後に加熱して水銀を蒸散させる工法であったため、作業者が水銀蒸気を吸引したことによる水銀中毒と考えられる。」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%8A%80%E4%B8%AD%E6%AF%92
岡野玲子さんは『陰陽師』の中で、大仏鋳造により水銀で汚染されてしまった東大寺の土地を、水の豊かな鵜の瀬の時空をまるごと勧請することにより浄化しようとしたのではないかと述べているそうだが、私はこの説がかなり的を得ているような気がしている。

鵜の瀬

ここが「鵜の瀬」と呼ばれるところだが、この遠敷川(おにゅうがわ)の水は実によく澄んでいる。「お水送り」の儀式がなされる場所はこのあたりなのだろうか。

良弁生誕地

ところで「鵜の瀬」の水は「名水百選」にも選ばれており、近くに水汲み所があって誰でも飲むことができる。その近くに良弁(ろうべん)生誕の地の碑があった。
良弁僧正は東大寺の創建に尽力し、東大寺の初代別当となった人物だが、東大寺の公式HPでは「相模国(さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといいますが、別伝では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれています。」と書かれており、若狭に生まれたという説はあまり有力な説でないからなのか、紹介すらされていない。
http://www.todaiji.or.jp/index/haikan2001/1216/roben.htm

鵜の瀬から約2kmの若狭神宮寺に車を進める。

若狭神宮寺は元正天皇の勅願により、奈良時代の和銅7年(714)に開創され、鎌倉時代初期に寺号を若狭彦神社別当寺神宮寺と改められたという。現在の本堂は、室町時代に朝倉義景の寄進により再建され重要文化財に指定されている。
七堂伽藍二十五坊を有していた時代もあったが、豊臣秀吉の時代に寺領没収に遭い、さらに明治時代初頭の廃仏毀釈により衰退したとされる。

神宮寺山門

上の画像は若狭神宮寺の仁王門(国指定重要文化財)だ。鎌倉時代末期に再建されたもので、左右の金剛力士像は室町時代初期のものだそうだ。
しめ縄が懸っているところが他の寺院とは違うところで、このしめ縄があることで独特な雰囲気が醸し出されている。
中央の参道の両側には、以前は室町幕府、朝倉氏、細川氏の加護を受けて7堂25坊が存在したのだが、今は何もない。

神宮寺本堂

この参道を進むと、若狭神宮寺の本堂(国指定重要文化財)が目に飛び込んでくる。朝に入って気温が上昇したからか、檜皮葺の屋根から湯気が立っていたのが印象的だった。この本堂にもしめ縄が懸けられている。

「神宮寺」という名のお寺は、神仏混淆の時代であった明治維新までは全国の有名神社に存在した。それが明治の廃仏毀釈でほとんどの神宮寺が破壊されてしまったが、この若狭神宮寺は、境内の中にあった若狭彦神社の奥宮が破壊されて神宮寺本堂が残された稀有な例である。残されたのは、古い時代から連綿として続けられてきた「お水送り」行事と無関係ではあるまい。

本堂の中に入ると、たまたま住職が講話をしておられた。話は途中からだったが、お水送りの歴史や神宮寺の由来などを独特の語り口で、時折ユーモア交えながら話されてなかなか面白かった。

本堂には藤原時代に制作された本尊薬師如来座像をはじめ、日光月光菩薩立像、鎌倉初期の十二神将像などが安置されている。これらの仏像を参拝する際には柏手を打って下さいとの説明があり、生まれて初めて寺院の本堂内で二拍一礼で仏像に向かってお参りをした。住職によるとこのような祈りの作法を行うお寺は、わが国でここだけとのことだ。神仏混淆時代はどこのお寺や神社も二拍一礼でお参りしたのだろうか。
実はこの寺には仏像のほかに、重要文化財に指定されている鎌倉時代の男神座像、女神座像があるのだが、明治4年の神仏分離令により絶対秘仏とされ奥の院に秘蔵されているという。

住職の講話を聴いて初めて知ったのだが、小浜と平安京と平城京と飛鳥と熊野本宮はほぼ一直線上にあるのだそうだ。自宅に戻ってから調べてみると、次のURLにこのような図が掲載されていた。
http://www.ley-line.net/gobou/gobou01.html

若狭レイライン

このブログの作者は、このライン上にどれだけの施設が存在するかを、もっと詳しく地図上にプロットした図も次のURLで作っておられる。
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html
古代の聖地というべき施設がこれだけきれいに並ぶのは、とても偶然であるとは思えない。
聖地を直線状に並べることで、祈りのパワーを高めることができるとでも考えたのであろうか。風水や陰陽道などと関係があるのであろうか。
もしそのような意図があって南北の直線状に並べたものだとしても、正確な地図も時計もない時代に、どうしてそれが可能であったのだろうか。イギリスでジョン・ハリソンが高精度の懐中時計を完成させて経度の測定法を確立させたのは18世紀後半のことなのである。

神宮寺椎の木

神宮寺の境内には歴史を感じさせる樹木が何本もある。上の画像は小浜市指定の天然記念物である椎(スダジイ)の巨木。樹齢500年と推定されているが、幹の太さとその存在感に圧倒されてしまう。

神宮寺井戸

この巨木の前にある建物が閼伽井戸で、ここで3月2日の「お水送り」の御香水が竹筒に汲み取られ、2千人以上の松明行列に送られて約2km上流の「鵜の瀬」に、この御香水が注ぎ込まれるのだ。この神秘的な行事の一部始終を是非一度見たいものだと思った。

この若狭神宮寺の下流に若狭国の一の宮である若狭彦神社・若狭姫神社がある。
廃仏毀釈が起こるまでは、若狭神宮寺がこの2つの神社の別当寺であったのだ。

若狭彦神社

上の画像は若狭彦神社で、和銅7年(714)に創建されたというから、若狭神宮寺と同じ年に作られたことになる。この本殿および神門ともに福井県指定文化財となっている。
境内の杉の木がいずれも大木で、枝が空間を支配して日光を遮り、暗く感じるほどだった。

若狭姫神社

上の画像は若狭姫神社で、養老5年(721)に若狭彦神社から分祀されて建てられたという。
この本殿および神門および随神門はいずれも福井県指定文化財となっている。また本殿の横の杉の木は幹周は6m、高さは30mで樹齢は推定500年の巨木で「千年杉」と名付けられ、福井県の指定天然記念物になっている。近くで見るとすごい迫力だ。

鵜の瀬から神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社は古い建物や文化や自然までが昔のままで残されているようで、何百年もタイムスリップしたような気分を味わえる不思議な場所だ。 小浜には千数百年の歴史のある古刹がまだまだあるが、これらの文化財が歴史の教科書に載るようなことはなかったし、テレビなどで取り上げられることも少ないので、私もあまり知らなかった。
実際に訪れてみると、もっと観光客が来てもおかしくない場所だと思うのだが、週末なのに訪れる人は少なかった。

このシーズンは日本海のカニを目当てに小浜方面に来る観光客は多いはずなのだが、もっと多くの人が小浜の古い寺社を訪れてもいいと思うし、その歴史的価値は充分あると思う。

<つづく>
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国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2

前回は「お水送り」の神事を行う若狭神宮寺のことを中心に書いたが、今回はほかのお寺のことを書くことにする。小浜には歴史のある素晴らしいお寺がいくつもあり、とても一日では巡りきれないくらいだ。

福井県の建築物で国宝あるいは重要文化財に指定されているものは26棟あるのだが、このうち小浜市に7棟が存在する。うち2棟は国宝で、福井県の国宝はこの2棟しかない。また彫刻では46躯のうち24躯が小浜市に存在しその大半が仏像だ。
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/itiran.html

みほとけの里若狭おばま

旅行から帰ってから見つけたのだが、若狭おばま観光案内所作成のデジタルパンフレットは、非常によくできている。小浜の古刹の素晴らしい仏像の画像とマップとを古刹の由来と住所・電話番号が記載されており、小浜の古刹巡りは、このファイルを印刷しておけば、自転車で巡るにせよ、カーナビを使って車で巡るにせよ重宝すると思う。
http://www.pamph-navi.jp/art/view_dynamic/pdfView.php?src=pam10008055

このデジタルパンフレットを見ればわかるように、文化財のある古刹のほとんどが小浜市の東南部に点在しており、この地域は人口も観光客も多くないためか、事前にネットで調べても昼食をとる適当な場所があまり見つからなかった。(上記のデジタルパンフレットにも「飲食店はありません。御注意ください。」と書いてある。)
せっかく小浜に来て、どこにでもあるような国道沿いのチェーン店で昼食をとるのでは面白くないので、小浜ICに到着してすぐに小浜港に近い「小浜お魚センター」にある「五右衛門」というお店で午前10時半頃に昼食をとる旅程を組んだ。
ここなら新鮮な魚が割安な価格で食べることができるし、朝早くから営業しているので、早めのランチでも使えるのがいい。

五右衛門昼食

ここで刺身定食を注文したが、この分量で1200円。魚はもちろん仕入れたばかりの魚で新鮮そのものだ。

食事を終えて最初に向かったのは、本堂と三重塔が国宝に指定されている明通寺(みょうつうじ)。真言宗御室派の寺院である。

明通寺山門

山門は江戸時代の明和9年(1772)に再建されたものだが、左右の金剛力士像は鎌倉時代の造立で、小浜市の指定文化財だ。

明通寺本堂

国宝の本堂と三重塔はいずれも鎌倉時代に建てられたもので、福井県の国宝がこの寺にしか存在しない。このお寺の2つの国宝と秋の風情をカメラに収めたかったのだが、残念ながら本堂は30年に一度の屋根の吹き替え工事で、足場が組まれていたために、良い写真が撮れなかった。工事が完了するのは来年の春なのだそうだ。

もちろん内部には入ることができて、仏像の説明を受けることができた。
本尊の薬師如来坐像をはじめ、降三世明王立像、深沙大将立像、不動明王立像はいずれも藤原時代のもので、すべてが国の重要文化財に指定されている。小浜の古刹はどこでもそうなのだが、参拝者とこれらの仏像を遮るものは何もなく、昔の人々と同様の祈りの空間を味わうことができるのは嬉しい。

明通寺三重塔

本堂を出て三重塔に向かう。
三重塔は昨年に屋根の吹き替え工事は終了したばかりで、外観を見ることが可能だが、内陣の絵の修復作業を行っておられるために、ビニールシートやコーンなどが一部置かれていて、近づきすぎるとそれが写ってしまう。目立たない程度にしようとするとカメラのアングルがかなり限定されてしまう。
本堂も三重塔も工事が終了するまで、しばらくかかりそうだ。来年の春には本来の姿をみせてくれるのではないか。

明通寺は大同元年(806)に北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したと伝えられているが、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられて蝦夷を征伐した平安時代の武人である。
2度にわたる征討で北上川中流域までを平定し延暦21年(802)に胆沢城、延暦22年(803)に志波城を造ったが、三度目の遠征は財政上の理由で中止となり、それ以降は多くの神社・仏閣の創建に関わったという伝承がのこっている。
Wikipediaには大同元年(806)に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建し、翌大同2年(807)には京都の清水寺を創建したと記載されているが、この時期に坂上田村麻呂が創建した寺社は東北中心にやたらあるのだ。
たとえば新潟県十日町市の公式HPには、坂上田村麻呂が大同2年(807)に創建した神社ばかりが掲載されているページがある。
http://www4.city.tokamachi.niigata.jp/kanko/sample-list.html
坂上田村麻呂が明通寺を創建したのはその1年前の大同元年(806)と言うのだが、これだけ全国各地の多くの寺社の創建に実際に関与できるとは思えない。
この時期に創建された寺院は坂上田村麻呂だけではなく空海もよく各地の寺院で名前が出てくるのだが、古代の英雄の名前を借りて創建者とすることで、寺社の価値を高めようとしたのではないかと考えるべきだと思う。

明通寺かやの大木

拝観を終えて勝手口から境内を出るところに、天然記念物に指定されている樹齢500年のかやの木がある。これも存在感のある木なので写真を撮っておいた。

明通寺から前回の記事に書いた鵜の瀬、神宮寺と巡ってから妙楽寺に行く。
この寺は真言宗高野山派の寺院で、養老3年(719)に行基が本尊を彫り、延暦16年(797)に空海が再興したと伝えられているが、記録がないので建立の起源は定かではないそうだ。

妙楽寺山門

ここが妙楽寺の山門だが、残念ながら紅葉のピークには少し早かったようだ。

妙楽寺本堂

本堂は鎌倉時代初期に建造され、若狭における最古の建物で国の重要文化財に指定されている。
御本尊の千手観音菩薩立像は平安時代中期のものでこれも国の重要文化財に指定されている。長い間秘仏にされていたためか、施された金箔は今も鮮やかである。檜の一木彫ということなのだが、よくこんな複雑な仏像を一本の木で彫りあげたものだと感心した。

次に、紅葉の名所として知られる萬徳寺に進む。この寺も真言宗高野山派だ。

萬徳寺本堂

この寺の前身は極楽寺といい文永2年の(1265)の若狭惣田数帳に存在が記されているそうだが、応安年間(1370頃)に安芸国円明寺の僧覚応が極楽寺を天台宗から真言宗に改宗し、寺号も正照院と改め、以後武田氏の庇護により隆盛したが、元亀年間に兵火により焼失し、慶長7年に城主京極高次の寄進を受け、寺号を萬徳寺と改めたという。

萬徳寺庭園

ここの庭園は国指定名勝で、春はツツジ、初夏は新緑、秋は紅葉が美しいことで有名なのだが、残念ながら訪れた日は、紅葉のピークには少し早かったようだ。
本堂にある本尊の阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の彫刻で檜の一木造りで国の重要文化財に指定されている。当山の前身である極楽寺の本尊でもあったそうで1000年以上前の仏像なのだが、近くで見てもとてもそんなに古いものには見えない。仏像のおだやかな表情も素晴らしいが、台座は衣の垂れた部分で覆われて、そのひだの曲線が見事に彫られているのが印象に残った。

最後に羽賀寺に行く。この寺の宗派も真言宗高野山派だ。拝観は4時までだがぎりぎり間に合った。

羽賀寺本堂

霊亀2年(716)に鳳凰が舞い降りた吉祥を慶び、元正天皇の命により行基が開山したと伝えられる寺だが、洪水や火災などで建て替えられ、今の本堂は文安4年(1447)の建立で国の重要文化財に指定されている。
本尊の木造十一面観音菩薩立像も国の重要文化財で、制作されたのは10世紀初期と言われているが、千年以上経った無仏像とは思えないほど極彩色がよく残されている。
他に千手観音菩薩立像、毘沙門天立像も国の重要文化財だ。

他に多田寺、圓照寺、加茂神社など古い古刹がいくつもあるのだが、紅葉名所の萬徳寺を除いては、週末ながら観光客はまばらであった。

明通寺の受付の方と話したが、国宝といっても修復工事に必要な資金は国や県からの補助金だけでは足りず、地域によって異なるがどこの社寺でも工事費の相当部分を自前で調達するしかないのだそうだ。
特に檀家が減り観光収入が期待できない寺院では、それが大変な負担になる。明通寺の年間の参拝者は5万人程度で、京都清水寺の参拝者の観光シーズンの1日分程度だということだが、これでは改修のための資金づくりは大変だったと思われる。
次のURLによると、明通寺の今回の修復工事に必要な資金は2億5千万円で、国の補助は75%。残りの部分を福井県と、小浜市と明通寺が負担するのだそうだ。
http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article13229
国の補助はお寺の財政状況や収入によってかなり異なるそうだし、県や市の支援も地域によっては少ないところも多いと聞く。2割前後の自己調達はどの社寺も必要なのだろう。

明通寺の本堂・三重塔に限らず国宝や重要文化財に指定された建築物は、その価値を減じないために、安普請の工事は許されず古来の工法での修復工事が不可欠となる。檜皮葺の修復は檜の皮を大量に使うのだが、宮大工を呼んでの工事費用は当然高くつく。明通寺は境内に多くの檜の木があるので、まだ檜皮の調達は割安にできたと推測するが、もし檜皮まで調達するとしたらもっとお金が必要だったろう。

地域の文化を支えてきた地域経済循環の仕組みが崩れて、働き手となる若い世代は都会に出たまま帰ってこない。地方に限らず、京都や奈良でも、観光客の少ない寺社のかなりの部分が、年金生活者の多い檀家や氏子から寄付を募って建物を維持しなければならないという状態になっている。
日本人が千年以上も護り続けてきた文化財を後世に残すためには、地元に多くの若い世代が残り、一人でも多くの観光客がこういうお寺や神社を訪れて、いくらかでもお金を落とすことが必要なのだ。

古刹巡りを終えて、常神半島にある民宿に向かう。今年は『まるしもや波華楼』というところで宿泊した。宿の外はすぐ海浜で眺めも良く、夏の海水浴シーズンにはほとんど宿泊客で砂浜が独占できるような場所だ。

越前かに

目当てはもちろんカニ料理。焼蟹、蟹刺、茹蟹、蟹鍋、蟹天婦羅、蟹雑炊と、カニのフルコースでお腹がいっぱいになり、大満足の一日だった。
<つづく>
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越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行われていて、平安時代の仏像が残されていることに興味を覚え、越前方面の旅行の最初に訪れることにした。
この地域を巡るには、次のURLにある「和紙の里」めぐりの地図がわかりやすい。
http://www.echizenwashi.jp/information/pdf/pamphlet_area.pdf

和紙の里地図

『越前和紙』のホームページに、この地における和紙生産のはじまりに関する『川上御前の伝説』が紹介されている。
http://www.washi.jp/history/index.html

継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として、まだ、この越前に潜龍されておられたころ、 岡太(おかもと)川の川上の宮が谷というところに忽然として美しいお姫様が現れました。
『この村里は谷間であって、田畑が少なく、生計をたてるのにはむずかしいであろうが、清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉けばよいであろう』と、自ら上衣を脱いで竿にかけ、紙漉きの技をねんごろに教えられたといいます。習いおえた里人は非常に喜び、お名前をお尋ねすると、『 岡太川の川上に住むもの』と答えただけで、消えてしまいました。それから後は、 里人はこの女神を川上御前とあがめ奉り、 岡太神社(おかもとじんじゃ)を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの業を伝えて今日に至っています。」

継体天皇は応神天皇の5世孫にあたり、以前は男大迹王として越前国を治めていたのだが、第25代武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に白羽の矢が立ち、中央豪族の推戴をうけて西暦507年に河内国樟葉宮において即位され、第26代の天皇となったとされている。この継体天皇が越前の王であった時代は5世紀末から6世紀のはじめなので、この地における和紙の生産について1500年以上の歴史があることになるのだが、この地における和紙生産が相当古くからおこなわれていたことについては、川上御前の伝承だけではなく、正倉院文書に記録が残されているという。

全国手すき和紙連合会のホームページにはこう解説されている。
「越前和紙は、日本に紙が伝えられた4~5世紀頃にはすでに優れた紙を漉いていたようです。正倉院文書の天平9年(737)『写経勘紙魁(しゃきょうかんしげ)』に「越経紙一千張薄」とあり、写経用紙として薄紙も納めていたので、すでに技術水準が高かったといえます。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

川上御前
【川上御前】

紙漉きの業を伝えた川上御前は、紙祖神(しそじん)として今もこの地で尊崇され、その姿を模した分霊の像は、どこの紙屋でも高い場所に鎮座されているのだという。この神様は、わが国で存在する唯一の「紙の神様」なのだが、群を抜く越前和紙の品質の高さは、紙祖神に対する地域の人々の厚い信仰抜きでは語れないのだと思う。

前掲のホームページにはこう解説されている。
「平安時代には中男作物の紙を納め、中世には鳥子紙・奉書紙の名産地となっています。近世にはさらに檀紙の産地として名声を博し、最高品質を誇る紙の産地で、『雍州府志(ようしゅうふし)』は「越前鳥子是を以て紙の最となす」と讃え、『経済要録』には「凡そ貴重なる紙を出すは、越前国五箇村を以て日本第一とす」と評しています。
寛文元年(1661)に初めて藩札を漉き出したのも、明治新政府の太政官金札(だじょうかんきんさつ)用紙が漉かれたのもこの地です。また、横山大観始め、多くの芸術家の強い支持を得て、全国に越前和紙の名は知られています。」
http://www.tesukiwashi.jp/p/echizen1.htm

岡太神社 大瀧神社 鳥居

上の画像は大瀧神社・岡太(おかもと)神社(〒915-0234 越前市大滝町23-10 ☏ 0778-42-1151)の鳥居で、主祭神は大瀧神社が国常立尊(くにとこたちのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で、岡太神社が川上御前である。
標高326mの権現山山頂付近にある奥の院にはそれぞれの本殿が別々に建てられているそうだが、下宮の本殿・拝殿は両神社の共有になっているというところが面白い。

大瀧神社 境内の紅葉

この神社の境内域の森林はふるさと文化財の森に指定されており、鳥居をくぐると樹木に囲まれた神秘的な雰囲気の境内が広がる。この時期は銀杏の木の色づきが鮮やかで、今月下旬までは美しい秋の景色が楽しめそうである。

手水舎で手を清めていると、ボランティアの方に声をかけて頂き、木造十一面観音(越前市指定文化財)の拝観を勧められ、手水舎の奥にある観音堂(絵馬堂)に向かった。
大瀧神社はもともと神仏習合で「大瀧児(おおちご)権現(大瀧寺)」と称し、中世には勝山市の平泉寺の末寺となり広大な寺域に48坊の堂塔が建ち600余人の衆徒がいて隆盛を誇ったが、織田信長による一向一揆討伐の兵火にかかり全山が焼失。その後丹羽長秀を始め歴代領主の保護を受けて復興したのち、明治維新の神仏分離令により大瀧神社と改称されたという。仏像などは処分せず、法徳寺などの寺に預かってもらったおかげで、貴重な平安時代の仏像が今も残されている。

大瀧神社 絵馬堂の十一面観音座像

観音堂にある木造十一面観音坐像はご祭神の本地仏として平安時代初期に制作されたものだという。神社が仏像を保有している事例は今まで何度かこのブログで書いてきたが、所有している仏像を一般に公開しているところは殆んどない。大瀧神社が仏像を保有していることは事前に調べて知ってはいたが、拝観は難しいと思っていたので、拝観の声をかけて頂いただけでなく撮影の許可までしていただいた時は本当に嬉しかった。この日はたまたまバスで団体の観光客が来られる予定とのことで、運よく拝観できたのかもしれない。

大瀧神社 神門

上の画像は神門だが、この門をくぐると国の重要文化財である大瀧神社本殿および拝殿がある。

大瀧神社 拝殿・本殿

この建物は天保14年(1843)に建築されたものだが、屋根は檜皮葺で重厚にして躍動感があり、柱や本殿の壁面などには驚くほど装飾性の高い彫刻が施されている。大工の棟梁は大久保勘左衛門で、大本山永平寺の勅使門を手がけた人だという。

大瀧神社 拝殿の彫刻

上の画像は拝殿の彫刻で、下の画像は本殿の彫刻であるが、この地域が和紙作りで如何に豊かであったかが、この建物を鑑賞すれば誰でもわかるだろう。

大瀧神社 本殿の彫刻

権現山の山頂付近に奥宮があり、岡太神社、大瀧神社、八幡宮の三つの建物が並んでいるのだそうだ。御神木の大杉やぜんまい桜、ブナの大木が林立する社叢を観ても良かったのだが、旅程を優先して断念した。奥宮までは歩いて約30分とのことだった。

次の目的地である紙の文化博物館(〒915-0232 越前市新在家町11-12 ☏ 0778-42-0016)に向かう。道路の反対側にコミュニティー広場の無料駐車場があり、チケットは卯立の工芸館と共通である(\200)。

紙の文化館には越前和紙の産地の歴史や和紙の利用についての様々な展示がある。
明治維新後、幕府などに納めていた越前和紙の需要が激減し、五箇の紙漉きは存続の危機に陥るのだが、明治維新政府の参与となった福井藩出身の由利公正が、全国統一紙幣である太政官札の発行を建議し、藩札用紙の漉き立ての実績があり大量生産が可能な五箇の紙が選ばれたのだそうだ。その後、新政府発行の紙幣はドイツ製の洋紙に変更されたが、明治8年(1875)に大蔵省抄紙(しょうし)局が設けられ用紙の独自製造が再開されると、その際に越前和紙の紙漉き職人が上京して新紙幣の用紙を漉いて技術指導を行った記録がある。
また越前和紙職人は偽造防止の為に透かし技法を開発し、日本の紙幣製造技術の飛躍的進化に貢献したという。その後も大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の御分霊が奉祀され、昭和15年(1940)には大蔵省印刷局抄紙部出張所が岩本(越前市岩本町)に設置されるなど、越前和紙の技術はわが国の紙幣発行に不可欠なものであったのである。

卯立の工芸館

紙の文化博物館から歩いてすぐの所に卯立の工芸館(〒915-0232 越前市新在家町9-21-2 ☏ 0778-43-7800)があり、紙漉き職人の実演を見ることが出来る。
この建物は、江戸中期寛延元年(1748)に建てられた紙漉き家屋・西野平右衛門家を平成8~9年に移築したもので、国登録文化財になっている。

卯立の工芸館の玄関を入った土間と板の間

玄関を入ると広い土間と板の間があり、紙の原料である楮(こうぞ)などの煮釜がある。そして流しや井戸があり、紙漉き場がある。

紙漉き実演

和紙を作るには原料の皮をはぎ、白皮を煮たあと塵を取り、煮た皮をトントンとたたいて繊維を解きほぐし、叩いた皮を水の中で念入りに洗って不純物を洗い流す。その後漉舟の中の紙原料が早く沈まないようにするため、とろろあおいの根の部分を臼でついて採った粘液(ねり)をまぜる。そうしてから紙を漉くのだが、簡単そうに見えるものの均一な和紙に仕上げるためにはかなりの熟練が必要だという。あとは圧搾して水分を絞り、1枚ずつ板に張り付けて天日で紙を乾かすのだが、越前では紙の肌合いを重視して、干板は雌の銀杏の板を用いるのだそうだ。

この工芸館で本格的な流し漉き体験ができるコース(一人5千円)があるのだそうだが、簡単な紙漉き体験なら近くのパピルス館で封筒作りやうちわ作りなど多くのメニューが用意されているようだ。

しかしながら、よくよく考えると、今日の生活で和紙を使うことが随分少なくなってしまっている。昔は筆で字を書くこともあったのだが、今ではほとんどなくなってしまった。
パソコンや携帯機器が普及したことの影響で手紙を書くことがなくなり、書類なども印刷することが少なくなって、和紙だけでなく洋紙の需要も低迷しつつある。また電子マネーの利用が増加して、紙幣の需要も低下傾向にあり、このままでは、和紙にせよ洋紙にせよ、どちらも市場は縮小していくばかりである。
この地域の素晴らしい文化と伝統と景観を守るためには、越前紙が売れることが必要なのだが、そのためには絵画用、版画用、工作用、手芸用、建築用などの用途をもっと開拓していかなければならないはずだ。しかしながら紙という素材は、書く、描くという用途を離れて、消費者が飛びつくような新しい商品を開発することは決して容易なことではないのである。とりあえずおみやげに便箋を1つだけ購入したが、いつ使うことになるかはわからない。

せっかく越前に来たのだから、昼は越前蕎麦が食べたいと思って、近くの森六(越前市粟田部町26-20 ☏ 0778-42-0216)に向かう。和紙の里のコミュニティー広場の駐車場から1.5kmで、車で5分程度で到着する。

森六店内

明治4年創業の古いお店で、店構えも店内もレトロな雰囲気が漂う。店内には所狭しと芸能人らの色紙が飾られている。

越前蕎麦

メニューは越前おろしそばと越前せいろそば、スペシャルせいろそばの3つだけだが、迷わずおろしそばの大盛りを注文した。

黒っぽくてやや太めの蕎麦の上に辛味大根とネギと鰹節が載っているだけなのだが、噛めば噛むほどそばの甘みとおろしの辛みが混ざり合ってなかなか旨かった。
<つづく>

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【ご参考】
このブログで紹介した、神仏習合の風景が楽しめる神社。

いずれも、神社の境内に三重塔や多宝塔が残されています。

①柏原八幡宮(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-289.html

②名草神社(兵庫県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-228.html

③談山神社(奈良県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-78.html

④新海三社神社(長野県) 
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html

⑤若一王子神社(長野県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-404.html

④邇々杵神社(滋賀県)
 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-558.html

今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキング(ベスト50)です。毎月末にリセットされています。



本ブログの今月の個別記事アクセスランキング 上位500(今月1日からの集計値)
http://pranking12.ziyu.net/html/shibayan1954.html







継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2

昼食のあと福井市の足羽山(あすわやま)に向かう。
前回の記事で越前和紙の歴史は、第26代の継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として越前を治めていたころから始まることを書いたが、足羽山には継体天皇にまつわる神社などがある。

『日本書紀 巻十七』には継体天皇の出自に関して次のように記されている。文中の男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は継体天皇のことである。

男大迹天皇――またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)――は、応神天皇の五世の孫で、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子である。母を振姫(ふりひめ)という。振姫は垂仁天皇の七世の孫である。天皇の父は振姫が容貌端正で大そう美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召し入れて妃とされた。そして天皇を産まれた。天皇が幼年のうちに父王が死なれた。振姫はなげいて『私はいま遠く故郷を離れてしまいました。これではよく孝養をすることができません。私は高向(たかむこ:越前国坂井郡高向郷)に帰り、親の面倒をみながら天皇をお育てしたい』といわれた。
 成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。武烈天皇は五十七歳で、八年冬一二月八日におかくれになった。もとより男子も女子もなく、跡嗣が絶えてしまうところであった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.346)

継体天皇
継体天皇

このように『日本書紀』では、継体天皇は応神天皇の「五世の孫」とは書いているが、応仁から継体に至る中間の四代の系譜については記されていない。鎌倉時代に記された『釈日本記』という『日本書紀』の注釈書に引用された『上宮記』の逸文によってその系譜が記されているそうだが、その内容が信頼できるかどうかについては議論が分かれているという。
とは言え、『日本書紀』の記述通り応神天皇から血がつながっていたとしても、継体天皇は天皇家の傍系の血筋であることは変わりなく、即位後に先帝の妹を皇后として迎えることによって自らの血の薄さを補強しようとしたことは確実であろう。

血筋の問題はともかくとして、男大迹王は母の故郷である越前で育てられ、越前国の王となってからは現在の九頭竜川、足羽川、日野川の治水に取り組まれて、農業を盛んにされ諸産業を興隆された伝承が残されており、越前開闢の御祖神(みおやがみ)として、称えられ崇敬さけてきた人物であるのだ。

第二十五代の武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に次期の天皇として白羽の矢が立ち、男大迹王は力不足を理由に何度も断ったのだが、大連・大伴金村らは次のように男大迹王を説得したという。

「大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは口をそろえて『私たちが考えますのに大王(男大迹天皇)は、人民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私たちは国家社会のため、思い図ることは決してゆるがせに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れ下さい。』とお願いした。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.348)

天皇家の跡継ぎが途切れそうになった場合に、血筋がつながっていれば誰を持ってきても良いわけではなく、天皇家を継ぐことのできる器の人物でなければならなかった。
『日本書紀』のこのくだりは、幾分誇張もあるだろうが、男大迹王が越前で善政を行っていた評判が都にも伝わっていたことを匂わせる部分である。

毛谷黒龍神社
【毛谷黒龍神社】

最初に訪れたのは、毛谷(けや)黒龍神社(福井市毛矢3丁目8−1  ☏ 0776-36-7800)。

神社のホームページには由緒・沿革についてこう記されている。
男大迹王越前國御在住の時、地の理に随ひ越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水工事をされ越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河であった黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安穏、万民守護のため高屋郷黒龍村(舟橋)毛谷の杜に、高龗神(たかおがみ)、闇龗神(くらおがみ)の二柱の御霊を祀る「毛谷神社」が御創建されました
元明天皇の和銅元年(708)9月20日、継体天皇の御遺徳を景仰し御霊の合祀が行われた。
後醍醐天皇の元徳元年(1329)6月1日神託により越前守参議藤原國房公が北ノ庄菩住山斎屋清水の上に(足羽山)に奉還され、元鎮座の村名を併せ『毛谷黒龍神社』と改称
し、また元神社名を取り麓一帯は「毛矢町」と呼ばれ祭りは賑わい盛儀が行われた。」 
http://www.kurotatu-jinja.jp/010_information/information.php

昔は黒龍川沿いに高龗神、闇龗神の二神を祀る「毛谷神社」があり、和銅元年(708)に継体天皇の御霊が合祀されて「男大迹天皇」が御祭神に加えられ、元徳元(1329)年に足羽山に遷座されたとある。
その後慶長8年(1603)に徳川家康がこの神社を越前松平家の祈願所とし、元禄三年(1609)に現在の藤島神社の社地に神殿が造営されたのだが、明治8年(1875)に現在地に社殿が移築され、現在の社殿は本殿が昭和3年に、拝殿が同6年に再建されたものだそうだ。

藤島神社
【藤島神社】

毛谷黒龍神社の駐車場から藤島神社(福井市毛矢3丁目8−21 ☏ 0776-35-7010)に向かう。

藤島神社 拝殿
【藤島神社 拝殿】

この神社の主祭神は鎌倉時代末期から南北朝時代に南朝側で活躍した南朝方の武将・新田義貞で、その子の義顕、義興、義宗と弟の脇屋義助、および一族の将兵が祀られている

新田義貞公肖像
【新田義貞公肖像】

新田義貞は延元元年(1338)に灯明寺畷の合戦で戦死したのだが、それから約300年後の明暦2年(1656)に合戦のあった灯明寺畷の水田(この神社から約4km北)から兜鉢が発掘され、これが福井藩の軍学者の鑑定の結果新田義貞の兜であるとされたという。福井藩主・松平光通はこの発見場所に碑を建て、「新田塚」と名付けられ、明治3年(1870)に祠が建てられ、同9年(1876)に「藤島神社」として別格官弊社に列せられた。この神社が現在地に移建されたのは明治34年(1901)のことであるが、この場所は、以前は継体天皇を祀る前述の毛谷黒龍神社の境内の一部であったことになる。

継体天皇石像
【継体天皇石像】

足羽山を登っていくと足羽山公園がありその三段広場に継体天皇の石像が建っている。
この像は明治17年(1884)に内山基四郎を中心とした石工たちが、伝説に語られる天皇の業績を顕彰するために制作され、笏谷石*製で高さは4mを超えるものだという。
*笏谷石(しゃくだにいし):足羽山山麓北西部の笏谷からとれる第三紀層の凝灰岩で、少し青みを帯び、なめらかできめが細かく加工しやすい

この石像の建つ小丘は、4世紀に造られた古墳で、円墳としては県内最大級の山頂古墳なのだが、公園を造る際に大きく削られてしまって原形を留めていないのだそうだ。
足羽山の尾根にはかつて30基以上の古墳が存在していたと伝えられているが、現在では15基が残されているのみだという。これらの古墳は4世紀末から5世紀代にかけて築造されたものとされ、足羽郡の豪族であった足羽氏の墓だと推定されている。

足羽神社拝殿
足羽神社 拝殿】

歩いて足羽神社(福井市足羽上町108 ☏ 0776-36-0287)に向かう。
上の画像は神社の拝殿で、下の画像は狛犬だ。親子の狛犬は珍しいので、思わずシャッターを押してしまった。

足羽神社狛犬
足羽神社 狛犬】

この神社は継体天皇と坐間神(いかすりかみ)五柱を主祭神とする古社で、社名は『延喜式』神名帳にも出ている。
神社のHPには、神社の起源について次のように解説されている。
五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業をされますが、まずその初めに朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされています。
 第26代天皇として即位をされ越前を発たれる時に、『末永くこの国の守り神とならん』と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれて行かれました。
 それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られています
。」
http://www.asuwajinja.jp/

同HPによると、昔の越前国は沼地が多く、人々が住むには限られた土地しかなかったのだが、男大迹王の治水事業により水を海に流して越前平野に道が造られ、住居や農地や道が出来、川を利用して舟で荷物が運ばれるようになり、国が栄えたことが記されている。越前開闢の御祖神(みおやがみ)と呼ばれる理由はこのあたりにあるのだと思う。

『日本書紀』を読み進むと、男大迹王が第二十六代の天皇として即位された約1か月後に、次のような詔が出されたことが記されている。

男が耕作しないと、天下はそのために飢えることがあり、女が紡がないと天下はこごえることがある。だから帝王は自ら耕作して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕をして、桑を与える時期を誤らないようにする。まして百官から万人に至るまで、農桑を怠っては富み栄えることはできない。役人たちは天下に告げて私の思うところを人々に識らせるように。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.350)

継体天皇は越前でも同様なスタンスで政治に取り組まれたものと思うのだが、このようなリーダーであったからこそ、今も福井の人々に敬愛されているのだろう。

足羽山をあとにして大安禅寺(福井市田ノ谷町21-4 ☏ 0776-59-1014)に向かう。

大安禅寺 本堂
大安禅寺 本堂】

1300年ほど前に泰澄が創建した田谷寺(でんこくじ)という寺が、天正2年(1574)の織田信長による越前攻略により焼かれて廃絶してしまうのだが、その跡地に藩主の松平光通(みつみち)が、両親や祖先の菩提寺として明暦3年(1657)に創建したのがこの大安禅寺である。

大安禅寺 庫裏
大安禅寺 庫裏】

現在の伽藍はほぼ創建当時の姿をとどめていて、本堂・庫裏・開山堂・開基堂・鐘楼の5棟が国の重要文化財に指定されているのだが、昭和23年(1948)の福井地震の影響で本堂の柱が傾いているほか、建物の屋根や床下で腐食が進んでいることが明らかとなり、来年から本堂など8棟で大規模な修繕工事が始まるのだそうだ。工事は国や自治体の補助を含めて総事業費は22億円で10年以上かけて工事が行われるのだそうだ。

大安禅寺 庭園 2

私が訪れたのは11月9日で、報道各社を集めて修繕工事についての記者会見が行われている最中であったためにしばらく本堂の中に入ることが出来なかったが、そのおかげで大安禅寺の庭や他の諸堂をゆっくり楽しむことが出来た。上の画像は本堂の南側にある阿吽庭で奥に見えるのが開基堂である。また下の画像は本堂の西側の庭である。

大安禅寺 庭園

紅葉はこの日は色づき始めたばかりだったが、この記事をアップする頃は見ごろを迎えているのではないだろうか。

大安禅寺から坂井市三国町の民宿なかじまに向かう。11月6日に漁が解禁されたばかりの越前ガニを求めて民宿をネットで探して選んだのだが正解だった。

越前ガニ

茹でガニでは予想していたよりも大きく、蟹酢を用いずカニ本来の甘さで楽しめて味噌は絶品。雑炊は卵を用いずカニ味噌を用いただけなのだが、これも旨かった。
料金もリーゾナブルで、今度来るときは特大の茹でカニの出るコースに是非チャレンジしたいと思った。

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瀧谷寺から越前海岸の景勝地と北前船で栄えた河野浦を訪ねて~~越前の歴史散策3

翌朝、お世話になった三国の民宿をチェックアウトし、近くの東尋坊に向かう。

東尋坊

東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、最も高いところで約25mの垂直の崖があるという。これほどの規模のものは世界的にも珍しく、国の天然記念物に指定されている。
朝早くここを訪れたのは初めてだが、商店などの営業が始まる前は観光客もわずかで、静かに景観を楽しむには良い時間帯である。

東尋坊の景観を楽しんだ後に、瀧谷寺(たきだんじ:坂井市三国町滝谷1-7-15 ☏ 0776-82-0216)に向かう。東尋坊から車で10分程度で到着する。

瀧谷寺参道

総門を抜けると、杉並木の巨木やツバキの樹に囲まれたゆるやか上り坂の長い石畳の参道がある。

瀧谷寺 鐘楼門

参道を登りきると鐘楼門(国重文)があるが、この門は柴田勝家が寄進したものだという。

瀧谷寺 本堂と庫裏

瀧谷寺は永和元年(1375)に紀州根来寺の学頭・睿憲(えいけん)の創建にかかる真言宗の古刹で、堀江氏、朝倉氏、柴田氏、松平氏など歴代領主の祈願所として栄えてきた歴史があり、45千㎡におよぶ境内地は三国町指定の自然環境保全地区になっている。
上の画像は本堂(国重文)と庫裏(国重文)で、いずれも貞享五年(1688)に建てられたものである。また下の画像は観音堂(国重文)で、寛文三年(1663)に建てられたものである。ほかに鎮守堂、開山堂も国の重要文化財に指定されている。

瀧谷寺庭園

建物の内部は写真撮影が禁止されているので紹介できないが、庭園などは自由に撮影が可能だ。本堂裏の築山池泉式の庭園は江戸中期の作で、昭和四年(1929)に国名勝に指定されている。
宝物館もあり、国宝の金銅毛彫宝相華文磬など数多くの寺宝が展示されている。

九頭竜川の河口に開けた港町である三国は、江戸時代に北前船の寄港地として栄えた歴史があり、河口の近くに残る古い町並みには湊町の風情が今も残されている。旧岸名家(国重文)などは8年前の旅行の際にこのブログで紹介したので繰り返さないが、かつてこの地域が非常に豊かであったことは、旧市街を歩いて旧家や資料館に入ればよくわかる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-197.html

北前船の寄港地は越前国では三国のほかに河野、敦賀、小浜があるが、河野浦は行ったことがないので、今回の旅程に入れていた。三国からは60km近く越前海岸沿いをドライブすることになるのだが、奇岩断崖が続くこの海岸は、ドライブしながら海の景色が楽しめて結構楽しい。そのいくつかを紹介しよう。

鉾島

上の画像は鉾島(福井市鮎川町)という島で、東尋坊と同様に柱状節理が見られる。島に渡ることもできて、頂上には不動明王が安置されているという。

潮噴き岩

上の画像は潮吹岩(福井県丹生郡越前町梨子ヶ平)で、強い波が岩の隙間に入り込むと、鯨のように潮を吹くところが面白い。
何度もカメラを構えたおかげで、我ながら面白い画像を撮ることが出来た。

右近家地図

この潮吹岩から35分程度走って目的地の河野浦に到着する。地図で確認すると、ここは越前海岸の南端部にあたり、敦賀湾のほぼ入口に位置している。
小さな港ではあるが、かつて越前の中心地であった府中(現在の越前市、以前の武生市)に近いことから、古くから府中と敦賀とを結ぶ海陸の中継地として栄え、また江戸時代中頃から明治時代中頃までは、下関経由で蝦夷地と大坂間で物資を運ぶ北前船の寄港地として繁栄した。

北前船主通り

河野浦には「北前船主通り」とよばれる道があり、船主が建てた立派な屋敷や倉庫が建ち並んでいる。上の画像の家は中村三之丞家で、右近家と並んで河野浦を代表する北前船主の住宅であり河野浦で唯一国の重要文化財に指定されているのだが、残念ながら一般公開はされていない。他には中村吉右衛門家、刀禰新左衛門家が通り沿いに並んでいて、河野浦が栄えた時代の面影を今も残している。

北前船主の館 右近家

上の画像は「北前船主の館・右近家」(福井県南越前町河野第2号15 ☏ 0778-48-2196)で、北前船主通りに並ぶ船主の住居が公開されているのはここだけで、中に入ると北前船や右近家に関する資料が多数展示されているが、本館では玄関の北前船の模型以外の写真撮影は禁止されている。

北前船主の館 右近家 入口

北前船の船頭は運送代で稼ぐだけではなく、船主の意向を受けて各寄港地で物資を買い付けながら、それらの商品を別の港で販売(買積み商い)することによって多額の利益を得ていたという。

右近家で入手したチラシにはこう解説されている。
「江戸時代の半ば過ぎ、商品流通の発展にともない日本海海運は飛躍的に発展を迎えました。荷所船として運賃積を行っていた廻船も買積み商いの比率を徐々に高めるようになっていったのです。鰊肥料の需要の拡大と商品価格の地域差を利用して、北前船の買積み商いは活況を呈しました。船主達はこのチャンスを生かして大海原に進出していきます。また、明治維新後の北海道開拓用の物資運搬にも大活躍し、近代日本形成の大きな力となりました。こうした活躍により、幕末から明治時代にかけて日本海沿岸有数の北前船主を輩出しました」

では北前船はどのような商品を運び、どのくらい稼いでいたのだろうか。
福井県立大学の地域経済研究所のホームページで南保勝氏が次のように解説しておられる。

「北前船は何を運んでいたのか。大阪から蝦夷地に向かう荷を下り荷と呼び、大阪や下関の港では、竹、塩、油、砂糖、木綿、紙、たばこなどの日用雑貨を、小浜や敦賀の港では、縄、むしろ、蝋燭など、新潟や坂田の港では米などを積み込んだという。逆に、蝦夷地から大阪に向かう荷を上り荷と言い、カズノコ、コンブなどの海産物やニシンを積み込んだ。北前船の一航海の利益は、下り荷と上り荷を合せた収益から、船乗りの給料、食費、船の修理代を差し引いたものであった。明治5年の『八幡丸』の収支報告を見ると、収入は下り荷が223両、上り荷が1,169両、その他146両、合計1,538両。支出は724両で、差し引き814両の利益が出ている。こうしてみると、上り荷の利益が極めて大きいことがわかる。当時、蝦夷地で取れたニシンは田や畑の肥料として大量に使用されていた。千石船一航海1000両と呼ばれた北前船の収益の多くは、上り船のニシンだったのである。」
http://www.fpu.ac.jp/rire/publication/column/001463.html

北前船寄港地

北前船は普通1年1航海で、毎年3月下旬ごろ大坂を出帆し、瀬戸内海から日本海に出で、対馬海流に乗って北上し、5月下旬ごろ北海道に到着する。(下り船)
そして7月下旬ごろ北海道を出帆し、航路上の寄港地で商売しながら南下し11月上旬頃に大阪に到着する。
河野浦の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大阪に戻っていたとのことである。

「千石船」とは「米を1千石積むことが出来る船」という意味で、「一石」とは成人一人が年間に消費する米の量に等しいとされ、2.5俵で重さは約150kgである。一両の価値を10万円とすると、「千石船一航海1000両」は「150トンの米が詰める船で1億円程度稼いだ」ということになる。ちなみに北前船の建造費は約1000両というから、船の建造費は最初の航海で回収できるほどの利益が出たということになるのである。

航海の利益の多くは上り船のニシンで稼いだというのだが、館内のガイドさんの解説では、ニシンから油を搾ったのちニシン粕を発酵させて造った肥料が、仕入れ値の5倍、時には10倍で売れたのだという。

右近権左衛門家の廻船数・収益高

『福井県史』通史編5 近現代一 第三章第四節四項には明治前期の右近家の稼ぎについてこう記されている。
明治前期は、多くの北前船主がもっとも利益を得た時期であり、所有する船舶も大型化する傾向があった。福井県の有力な北前船主であった南条郡河野村の右近権左衛門家を例にみても、明治元年から十年までの総収益は約一五万四〇〇〇両余に達する(表159)。また、毎年一、二艘の新造船や中古船を導入しており、そのほとんどは一〇〇〇石積み以上の船で、なかでも、八年に敦賀で新造した八幡丸は一三〇〇石積みの船であった。ちなみに、十一年の「船々鑑札控」によれば、共同出資の船を含めて一七艘の船を所有し、総石数は一万七二七七石に達し、このうち一〇艘は一〇〇〇石積み以上であった(右近権左衛門家文書)。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-3-01-04-04-01.htm

右近権左衛門(10代目)

右近権左衛門(10代目)】

このように右近家は北前船で巨額の利益を得たのだが、その利益を地域社会に還元している。『福井県史』には続けてこう記されている。
「この時期、道路開鑿や港湾修築などに、北前船経営で蓄積した資金を投入する船主もあった。五年九月には、右近権左衛門と同郷の北前船主中村三之丞とが、費用の大半を負担することで、南条郡春日野から河野浦に通じる道路の開鑿を政府に請願し、七年五月に完成している(資10 二―一六二)。」

右近家は道路の開鑿だけでなく学校建設や神社の建て替えの際にも多額の寄付をしたのだそうだが、村の乗組員が身を挺して北前船を守ってくれていることによって経営が成り立っているのだから、地元に恩返しすることにより地域との絆を深めることは、会社にとっても長期的にプラスになるという考えであったのだと思う。

しかしながら、明治10年前後から汽船が登場し、いつの季節においても海上運送が可能となり、木造の北前船は姿を消していくことになる。
右近家は北前船主の中でいち早く蒸気船を導入して海運の近代化を進めた一方、海上保険業に進出し日本海上保険株式会社(現在の損害保険ジャパン日本興亜株式会社)を設立するするなど事業の転換をはかっていく。

北前船主の館 西洋館

北前船の館の敷地内の坂を上っていくと、国登録有形文化財に指定されている西洋館がある。この建物竣工した当時の右近家は、既に実質的な本拠地を芦屋に移していたという。それなのに、なぜこんなに立派な河野に建物をたてたのか。

右近権左衛門(第11代:義太郎) 西洋館の建築主
【右近権左衛門(第11代:義太郎) 西洋館の建築主】

ガイドさんの説明によると、河野村の人々に仕事を与えるためであったという。
西洋館の2階にこの西洋館を建てた11代目右近権左衛門の肖像画があった。その解説にはこう記されている。文中の「赤萩」という地名は、河野から3㌔程度山側の地域である。
「大林組の設計施工により昭和8年8月に着工、昭和10年8月に完成。
『洋館付属工事概要録』には、使役した人夫の総数、石工853人、河野、赤萩の男7,516人、河野、赤萩の女3,034人、大工334人、左官214人と記載がある。」

昭和8年から10年といえば、わが国は不況のどん底にあったと言って良い。その前後の年表をみれば、昭和6年の満州事変、7年の上海事変、5・15事件、8年の国際連盟脱退、11年の2・26事件など大事件が相次いでいる。そんな暗い時期に右近家は、故郷の河野の人々のために仕事を与えようとしたのだが、いまの大企業の経営者に、こんなに地元の人々を大切にする人物がいるであろうか。

北前船主の館 西洋館1階

上の画像は1階のスパニッシュ風のリビングで、イギリスのイングルヌックと呼ばれる暖炉が備えられている。

北前船主の館 西洋館階段

2階の和室に上がる階段は、親柱も欄干も木のねじり彫刻が施されていて、階段のタイル装飾も木の色とよく調和している。

北前船主の館 右近家2階ベランダからの風景

階段を上ると、ベランダに出て日本海の眺めを楽しむことが出来る。手前に見えるのは常神半島で、遠くにかすんで見えるのは舞鶴方面と丹後半島ではないかと思われる

1階のリビングでコーヒーを注文することが出来る。国登録文化財の建物の中でコーヒーを飲むのは初めての経験だが、旅行中に素晴らしい建物の中で、日本海の眺めを楽しみながらゆったりと過ごす時間が持てて良かった。
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日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4

河野浦の北前船主の館・右近家の旧本宅の庭園に、なぜか砲弾が置かれている。
ガイドさんの説明によると、右近権左衛門が所有していた「福井丸」が日露戦争の旅順港閉塞作戦の二回目の作戦で使用され、その船を指揮していた広瀬武夫少佐がその船で戦死したことと関係があるという。
旅順港閉塞作戦のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でその話を読んだ記憶があるが、北前船主の館・右近家でその話が出て来るとは思わなかった。

右近家の西洋館からもう少し坂を上ると山荘展示館があり、福井丸に関する資料が展示されている。
展示パネルには旅順港閉塞作戦について次のように解説されていた。

福井丸
【福井丸】

「明治37年(1904)2月10日、日本は強大国ロシアに対し宣戦を布告した。開戦当時、ロシアは極東の根拠地、遼東半島の旅順港およびウラジオストック港に戦艦5隻を中心として19万トンの極東艦隊(太平洋艦隊)を擁していた。
 日露戦争の戦場となる満州への兵員、物資の輸送を必要とする日本にとって、極東艦隊の出没を阻止し、日本海における制海権を確保する必要があった
 それがためには、極東艦隊を旅順港に封鎖する『旅順港閉塞作戦』がとられた。
 そこで閉塞作戦は3回決行されるが、その2回目に選ばれたのが『福井丸』であった。戦争という予期しない事態のため、『閉塞船』という任務をおびて、3月27日に旅順港口にて爆破自沈した。その沈没が二人の軍神を生んだ。指揮官は広瀬武夫海軍少佐(のち中佐)であり、指揮官附は杉野孫七海軍上等兵曹(のち兵曹長)であった。
 福井丸は爆破自沈を決行したが、その混乱の中、杉野が行方不明になり、指揮官広瀬は安否を気遣い、三度船内を探索したが見つからず、脱出のボートに乗り移って間もなく、広瀬は敵弾にたおれた。
 この指揮官と部下の最後が人間愛の物語として全国に長く伝えられ、国民の称賛を受けた。」

広瀬は決死的任務を敢行し、自らの危険も顧みず部下の声明を案じて戦死を遂げたことから国民の共感を呼び、すぐに中佐に特進した後に「軍神」と崇められ、出身地の大分県竹田市には広瀬神社が創建されたという。

広瀬武夫
【広瀬武夫】

東郷平八郎連合艦隊司令官が、第二回旅順閉塞について報告した公報が、昭和11年に出版された『類聚伝記大日本史. 第十三卷』に引用されている。広瀬中佐戦死については次のように記されている。
「…戦死者中福井丸の広瀬中佐、および杉野兵曹長の最期は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に転嫁する為め船艙に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て、遂に戦死せるものの如く、広瀬中佐は乗員を端舟に乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざる為め、自ら三たび船内を探索したるも、船体次第に沈没、海水上甲板に達せるを以て、止むを得ず端舟に下り、本船を離れ、敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり。中佐は平時に於いても、常に軍人の亀鑑たるのみならず、その最後に於いても萬世不滅の好鑑を残せるものと謂つべし、…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879891/34

旅順港を封鎖するとは随分大胆なことを考えたものだが、これには前例がある。
1898年に起きたアメリカとスペイン間の戦争でスペイン大西洋艦隊がキューバのサンチャゴ湾に入港した際に、アメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾の湾口に船を自沈させてスペイン艦隊の出港を防ごうとしたのだが、予定通りの場所で自沈したものの沈没する角度が悪く、意図したように湾口を完全にふさぐことは出来なかった。

サンチャゴ湾
【サンチャゴ湾】

地図で確認するとサンチャゴ湾の湾口は最も狭いところで200m程度のようだが、旅順口の場合は370m程度であろうか。湾口が広ければそれだけ閉塞作戦の難易度が高くなるし、1度試みれば、敵方は二度目、三度目があることを警戒することになることは言うまでもない。

旅順閉塞作戦図(㈶三笠保存会)
【"旅順閉塞作戦図(㈶三笠保存会)】

この閉塞作戦は三度にわたり実行され、この作戦で、当時日本が保有していた千トン以上の商船の1割に当たる21隻が投入され、特に第三次閉塞作戦は12隻の閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、敵の沿岸砲台により湾の手前で沈められてしまい、結局旅順港を十分封鎖するには至らなかったようである。

福井丸は明治36年(1903)の8月から12月の間日本海航路に従事していたのだが、年が明けた1月10日に軍用船として傭入命令書が届いたのだそうだ。この船は1882年にイギリスで竣工した貨物船で、明治24年(1894)に右近権左衛門が購入して「福井丸」と名付けたものであるが、直前まで貨物運搬で利用していた船であり今後も利用できる船を手放すことにはさぞ複雑な思いがあったことだと思う。

北前船主の館・右近家をあとにして、敦賀に向かう。敦賀も、三国、河野とともに北前船で栄えた地域である。

気比の松原

日本海さかな街で昼食をとり、お土産を買ってから北に向かって走ると松原公園があり、国名勝の気比の松原があるのだが、この広さは想像をはるかに上回る規模であった。地図で確認すると、敦賀湾の奥に面する部分のうち西側の半分が松原だ。
敦賀観光案内サイトによると、長さ1.5km、広さ約40万㎡で赤松・黒松約が17千本もあり、静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原と並ぶ日本三大松原のひとつだという。
http://www.turuga.org/places/kehimatsubara/kehimatsubara.html

気比の松原4

これだけ広大な松原がどういう経緯で残されたかと思って調べてみると、古代からこの地域は、近くにある氣比神宮の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していたという。
ところが元亀元年(1570)頃に織田信長が氣比神宮から松原を没収し、江戸時代は小浜藩の藩有林となり、近隣の人々は納税の為に燃料となる松葉採集を行うことによって松原が残され、明治32年(1899)には国有林に指定され、昭和9年(1934)には国名勝に指定されたが、太平洋戦争時には軍用木材として一部伐採されたことがあるのだそうだ。

気比神宮鳥居

気比の松原から越前国一之宮の氣比神宮(敦賀市曙町11-68 ☏ 0770-22-0794)に向かう。
上の画像は敦賀のシンボルである氣比神宮大鳥居(国重文)である。木造の鳥居では広島の厳島神社、奈良の春日大社とともに日本三大鳥居のひとつである。

敦賀は天然の良港を有し、北陸道諸国から畿内への入り口であるとともに、対外的にも朝鮮半島や中国からの玄関口にあたる要衝であった。敦賀湾の近くにある氣比神宮は、「北陸道総鎮守」と仰がれ、古くから朝廷から崇敬されてきた歴史がある。
神社のホームページの「由緒沿革」には、
「仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。」
https://kehijingu.jp/about/#about2
とあり、実際に『古事記』、『日本書紀』、『日本後紀』にこの神社の名前が出てくるのである。

氣比神宮古図

霊亀元年(715)には境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたとの記録があり、これが文献上で全国最古の神宮寺成立だという。
上の画像は室町時代後期に描かれたとされる『氣比神宮古図』だが、五重の塔のほかに三重塔が二基あったことがわかる。
しかしながら元亀元年(1570)織田信長の越前侵攻の際に社殿とともに神宮寺は破壊され、その後廃絶したと考えられている。境内には神宮寺の名残として鐘楼があったそうだが、明治維新後取り払われたという。

気比神宮 鳥居と拝殿

戦前には旧国宝に指定されていた江戸時代初期建造の本殿があったのだが、残念ながら空襲により焼失してしまい、現在の社殿は戦後になって建築されたものである。

金崎宮 鳥居と神楽殿
【金崎宮 鳥居と神楽殿】

氣比神宮から金崎宮(敦賀市金ヶ崎町1-1 ☏ 0770-22-0938)に向かう。この神社のご祭神は後醍醐天皇の皇子恒良親王・尊良親王なのだが、なぜ南朝の親王が祀られているかについて、少し説明しておきたい。

新田義貞公肖像
【新田義貞公肖像】

建武二年(1335)に足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻し、翌年入京を果たすも楠木正成、新田義貞の攻勢に晒され一旦九州に下ったのだが、軍勢を立て直して東上し、5月25日に湊川の戦いで勝利すると、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。
後醍醐天皇は比叡山に逃れ、南朝の勢力回復の為に、氣比神宮の膨大な収入と日本海側の制海権を握って足利方と対抗しようと、建武三年(1336)10月に新田義貞に命じて恒良親王・尊良親王を奉じて敦賀に下向させ、それを出迎えた氣比神宮の大宮司・気比氏治らとともに金ケ崎城にこもり、北朝の高師泰(こうの もろやす)・斯波高経(しば たかつね)率いる6万の兵と半年にわたる激しい攻防戦の末、翌年3月6日に落城し、尊良親王・新田義顕・気比氏治以下将兵321人が殉じた悲劇の場所となった。

金崎宮 中門と本殿
【金崎宮 中門と本殿】

この神社は明治23年(1890)に敦賀の有志の人々が願い出て明治26年(1893)に金ヶ崎城跡地内に建立したもので、その後焼失し明治39年(1906)に現在地に再建されたものである。
神明造の本殿と中門は想像していた以上に格調の高いものであった。

絹掛神社
【絹掛神社】

本殿の隣に摂社の絹掛神社がある。案内板にはこう記されていた。
延元2年(1337)3月6日金ヶ崎城落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判明する者わずかに十数名、大半の人は近畿・中国・四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少なくはない。籠城5か月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立ち向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」

金ヶ崎城址
【金ヶ崎城址】

境内を出ると金ヶ崎城阯の石碑がある。
この横の道を歩くいていくと、金ヶ崎古戦場の碑や本丸の跡地があり、そこからの眺めが素晴らしく、越前海岸まで望むことができるとのことであったが、予定の時間を過ぎていたのと越前海岸は十分楽しんできたことから、帰途に就くことにした。
この金崎宮・金ヶ崎城阯は桜の名所でもあるので、また別のシーズンに訪れたいと思う。

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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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