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シーボルトと日本の開国

ドイツ人のシーボルトが長崎出島のオランダ商館医として来日したのは文政6年(1823)、27歳の時であった。彼は、来日した翌年に鳴滝塾を開設し、日本各地から集まってきた医者や学者たちに講義をし、高野長英、二宮敬作、伊藤玄朴ら、多くの弟子を育て、文政9年(1826)にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、将軍徳川家斉に謁見したほか、最上徳内や高橋景保ら多くの学者と交流したという。

シーボルト

そのシーボルトが文政11年(1828年)9月、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けた。

シーボルトにより複製された伊能図

この事件を「シーボルト事件」と呼び、学生時代にこの事件を学んだ時は、シーボルトはスパイであったという説に納得してしまったのが、いろいろ調べていくと、シーボルトは安政の開国で追放が解除されたのち安政6年(1859)に再来日し、後に江戸幕府の外交顧問に就任している。
普通に考えると、江戸幕府が過去スパイ容疑で国外追放処分をした人物の再来日を認め、後に幕府が彼を外交顧問としたというのは、容易に納得できる話ではない。

シーボルトがどんな人物であったのかをネットで調べていくと、長崎市の諏訪公園にある『シーボルト君記念碑』という石碑の内容が眼に止まった。この碑文は明治12年に漢文で記されたものであるが、次のURLで現代語に訳されて紹介されている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/

シーボルト君記念碑

碑文の冒頭にはこう書かれている。
「欧州各国をして、日本あるを知らしめし者シーボルト君の功なり。日本をして欧州各国あるを知らしめる者亦シーボルト君の功なり。蓋し我邦久しく交を外国に絶つ。君我邦に来てより、我邦の名大いに彼の国に顕れる。」
わが国のことを欧州各国に知らしめたのも、わが国に欧州のことを知らしめたのもシーボルトのおかげであるだと書いているのだが、シーボルトは鳴滝塾でわが国の俊秀に欧州の先端知識を伝えただけではなく、江戸幕府による国外追放後に彼は全7巻の大著『日本』を公刊し、わが国のことを世界に伝えた人物である。

そして碑文の最後にはこう記されている。
「ああ、君が長崎に身を寄せ、医学植物の学を受けた者は、戸塚、伊東 二先輩の後を追い、特に優れた者たちがその後を継ぎ、我国の洋学はすぐさま盛んになった。
欧州の外交制度・学術は嘉永安政年間をその夜明けとし、鎖国・攘夷の論を排して和親条約を結んだ。 それはどうして洋学家に頼ることなくしてできたであろうか。そして、今日の文化に次第に慣れ親しんだのは、結局君の功績と分けて考えることはできない。欧州の学者は君を称えて、日本の学術の上で発見したと言い、人は誠にこれを謗ることはない。この為ここに銘記する。
 我が国の華を観て
 これを欧州に伝える
 偉大な功績はつとに成り
 その名は永遠である
 これを石碑に刻み
 永く瓊浦(けいほ:長崎の古地名)の地にとどめる」
シーボルトのおかげで鎖国・攘夷の論を排して開国が出来、西洋文化に親しむことが出来たのもシーボルトの功績が大きいと書いているのだ。

この碑文の中に、この碑を建てることになった経緯が記されている。
シーボルトが1866年にミュンヘンで没し、その7年後に各国の農学者たちがシーボルトの生地のビュルツブルクに建てることとなり世界の農学者に資金援助を募ったところ、わが国は865円が集まりそれを送金しようとしたところ、オランダ公使が
「その資金を欧州に送るより、むしろ別に碑を日本に建立し、この国の人に功績を永く忘れ させないようにするのがいいのではないか。碑が日本にあるということがそもそも君の志である」
と述べ、600円を欧州に送り、残ったお金でこの碑を建てることになったというのである。
明治の初めの頃の1円は現在の2~3万円程度の価値があったと言われるが、明治12年当時の865円の現在価値は10~20百万円程度と考えればいいのだろうか。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000026844

シーボルトがわが国に滞在した年数は第1回目の来日時が5年。第2回目の来日は3年にもならず、帰国したのは1862年のことだ。その4年後の1866年にシーボルトがこの世を去り、死後7年後にシーボルトを顕彰しようとわが国でこれだけのお金が集まったというのは、尋常なことではない。
わが国の多くの人々から相当感謝されていた人物であったことを窺い知ることができるのだが、いろいろ調べていくと、シーボルトが多くの日本人から感謝されたのは、単に学問上の師弟の関係だけではないことが見えてくる。シーボルトは国外追放されてから、わが国が西洋列強に呑み込まれないように、わが国の為に活動していたのである。

Wikipediaにはこう書かれている。

「1830年、オランダに帰着する。翌年には蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。

オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』(日本、日本とその隣国及び保護国蝦夷南千島樺太、朝鮮琉球諸島記述記録集)を随時刊行する。…

日本学の祖として名声が高まり、ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカ東インド艦隊を率いて来日するマシュー・ペリーに日本資料を提供し、早急な対処(軍事)を行わないように要請する。1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、書簡を起草するが、クリミア戦争により日露交渉は中断する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

シーボルト日本


ではシーボルトがわが国の開国を促すために具体的に何をしたというのか。1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容が、『シーボルトと日本の開国近代化』という学術書に要約されている。Googleブックスで親書の概要を読むことが出来る。(p.289)
http://books.google.co.jp/books?id=80S_1lmb3jgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

シーボルトと日本の開国近代化
「従来の慣例を破りあえて国書を上呈するのは現在の世界情勢が貴国の内政にも患い(わざわい)を及ぼす恐れのあることを慮ってのことだと前置して、近年のイギリスと『支那帝国』との阿片戦争にふれ、日本にもそういう災害の及ぶ恐れがあること、シーボルト来日直後の文政8年(1825)における異国船打払令を改めた天保13年(1842)の同打払令の緩和は結構な措置ではあるが、外国の漂着船、或いは接近船に対しては、寛大の取扱いのあるべきことを要請する。(これは後の日米和親条約の一つを先取りしたもの)。次にこの勧告書中で最も説得力を持つ蒸気船の発明による世界交通上の激変(遠国も近国も変わらなくなった)を述べ、懇親的態度で交易を熟計されるべきを希望している。」

ペリー

以前このブログでも書いたが、アメリカのペリーは中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えであった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-157.html

そしてシーボルトは、アメリカの遠征計画が、日本国内の攘夷運動の高まりによって武力衝突が起こることを危惧していたことが、当時のシーボルトの書簡(『シーボルトと日本の開国近代化』p.222所収)に書かれている。
アメリカがペリー来航直前のわずか8年間で北米大陸の西半分を獲得し、ハワイに併合要求を突き付けた経緯などは、今の中国よりもはるかにひどいやり方であった。アメリカが武力で日本をも奪おうとすることを、シーボルトが危惧したことは当然のことだと思う。

在NY日本国領事館のHPによると、ペリー提督が遠征隊の司令官に任命されたのち、シーボルトはその遠征隊の一員として雇われたいと申し出たことが書かれている。その時、ペリーは、日本を追放された人物を連れて行くことはできないと拒絶したのだそうだ。
http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/exepi7.htm
このHPでは、シーボルトが遠征隊に日本に行きたいので遠征隊に加わろうとしたと書かれているが、そんな単純なものではないだろう。恐らくシーボルトはペリーに武力による示威行為を起こさせないために、自ら遠征隊に入り込んでペリーを説得しようとしたのだと思う。

日米交渉の歴史を詳しくまとめたサイトに、シーボルトの名前が出てくる。

該当部分を引用させて頂く。
「アメリカ政府は1852年2月全権使節としてペリー提督の日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じた1852年7月2日付けの書簡で、アメリカから日本に向けた通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。

…日本向けアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として、オランダ国王の許可のもと、かって出島の医師だったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの私案を基にしたといわれる、「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案をも示した。これらはオランダ政府が細心の注意を払って準備したものだが、老中首座・阿部伊勢守の命により長崎で翻訳され、江戸に急送され、嘉永5年9月(1852年10月、ペリー初回来航の約9ヶ月前)には幕閣に届いた。」
http://www.japanusencounters.net/amitytreaty.html

また、先程紹介した『シーボルトと日本の開国近代化』のp.185には、「日露通商航海条約」も、シーボルトの助言を参考にして起草されたものであることが書かれている。
http://books.google.co.jp/books?id=80S_1lmb3jgC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

開国に際して、わが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、当時わが国と交流していた唯一の国であるオランダにシーボルトがいて、彼がわが国のことを愛し、また「日本学」の権威として欧米列強の求めに応じて献策していたことが大きかったのではないか。

ロジャーズ司令長官

お隣の朝鮮半島では、1871年にアメリカ極東艦隊司令長官ロジャースは、鎖国朝鮮の扉をこじ開けるべく、ペリーと同様に5隻の軍艦を率いて江華島に現われた。その時にアメリカは、抵抗する朝鮮軍を砲撃し、米軍は殆んど損害がなかったが、朝鮮軍は240名以上の戦死者を出している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E6%9C%AA%E6%B4%8B%E6%93%BE
もしシーボルトがいなかったら、わが国でも同様のことが起こっていてもおかしくなかったと思うのだ。

わが国が欧米の主要国と和親条約、修好通商条約を締結した後、シーボルトは日本への再入国を許され、オランダ商事会社の顧問として二度目の訪日をしている。

シーボルトが幕府の外交顧問になった経緯については、先ほど紹介した『シーボルトと日本の開国近代化』にこう書かれている。
「シーボルトは、長崎にしばしば入港するロシア東洋艦隊の司令官や艦長らと交際し、かれらから入手した中国情勢や英仏の対日政策についての情報を、長崎奉行を通して幕府首脳に伝え、ロシアに強い影響力を持っている学者として自らを売り込むことに成功する。
こうしてシーボルトは、1861年夏、幕府の政治外交顧問になり、東禅寺事件(水戸浪士ら十数人が深夜にイギリス公使館を襲い、イギリス人外交官を負傷させた)や露艦対馬停泊事件解決のために努力した。日本の国難に際してシーボルトは、日本人に近代的外交とは何かについて実践的に教えたのである。…」p.199

わが国がこの国難のなかで辛うじて独立国を維持できたことは、ほかにもさまざまな要因があったとは思うが、シーボルトの貢献が大きかったことは確実ではないか。
では、このような重要な史実をなぜ日本人に広めようとしないのだろうか。

このブログで何度も書いてきたように、わが国で広められている歴史は「戦勝国にとって都合の良い歴史」であり、日本人はその歴史観に洗脳されてしまっている。
当時の欧米にアジアを武力侵略する意思が確実にあったのだが、シーボルトが欧米の侵略からわが国を守ったことを書けば、「欧米諸国は良い国であった」とする歴史観と矛盾し、「戦勝国にとって都合の良い歴史」が成り立たなくなってしまう。
だからわが国の教科書の叙述では、シーボルトについて鳴滝塾と帰国の際に日本地図を持ち帰ろうしたことしか書かれることがないのだろう。
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シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか

前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。

シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。

その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。

丸山遊郭

『寄合町諸事書上控』という古文書は、長崎にあった丸山遊郭の出来事を記録したものだそうだが、その文政10年(1827)の5月7日付の文章が『長崎のおもしろい歴史』というホームページで紹介されている。当該のページのURLは次の通りである。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

「恐乍口上書 引田家卯太郎抱遊女そのぎ21歳 上記の者去る未年より外科阿蘭陀人シーボルト呼入候処、懐妊仕りに付、御届申上候処 銅座跡親佐平方に於、昨夜女子出産仕り候段、抱主卯太郎申出候に付、此の段書付を以って御届申上候、 以上。」

なんとシーボルトに女児が誕生したのである。
記録では「遊女そのぎ」とあるが、上記URLでは
「シーボルトは来日草々長崎奉行の特別の計らいで、出島を出て蘭医吉雄、楢林家へ出帳し、日本人の患者を診察し治療した。
そのためオランダ商館に名医来るの評判が直ちに長崎の街中に広がった。
楠本瀧はこの時シーボルトの診察を受け、シーボルトと恋におちたと推測される。
二人は、程なくして、寄合町の引田家卯太郎宅へ赴き、何がしかの金子を支払い、瀧は遊女『そのぎ』の名義を借り、出島へ入ったのである」と解説している。

楠本瀧

遊女『そのぎ』の本名は楠本瀧だそうだが、古文書の通り遊女だったとする説と、遊女でなかったという説とがありどちらが正しいのだろうか。
いずれにせよ、シーボルトが瀧を本気で愛していたことは、シーボルトが出島に上陸した3カ月後の1823年11月15日に書いた伯父のロッツへ宛てた手紙を読めばわかる。
ハンス・ケルナー著「シーボルト父子伝」にその手紙が引用されていて、その翻訳文が上記URLで読める。

「小生もまた古いオランダの風習に従い、目下愛くるしい16歳の 日本の女性と結ばれました。小生は恐らく彼女をヨーロッパの女性と取替えることはあるまいと存じます。」
そして同様の手紙を、母親のアポロニアにも出しているという。

そして文政10年(1827)の5月7日に二人の間に女の子が生まれてイネと名付けた。
このイネはどうやら出島で生まれたと考えるべきだろう。
唐人の見張り役をしていた倉田という役人が、出島で起きた事件などを日記に記していて(「唐人番倉田氏日記」)、その文政10年7月9日の記録では、
出島に居住している遊女そのぎが女子を出産したが、乳の出が悪いので、乳の出る遊女を出島へ入れるよう通事に相談した。しかし、通事は前例がないので、町年寄に申し上げた。その結果、乳の出る女性を遊女の振りをして出島へ入れることになった。」
と書かれているそうだ。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/oine/index.html

出島は遊女以外に女性の出入りを禁止されていたために、乳の出る女性を遊女の振りをして入れざるを得なかったというのは面白い。こういう抜け道があるから、シーボルトが惚れた楠本瀧を妻としてではなく、遊女として出島に入れた可能性を感じさせる古文書でもある。

唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図

長崎歴史文化博物館に、当時出島に出入りしていた絵師の川原慶賀が描いた「唐蘭館絵巻 蘭館図 蘭船入港図」という絵がある。この絵の中で緑色の帽子をかぶった男性がシーボルトで、後ろに立つ着物の女性は瀧で、抱かれている子供はイネだと言われている。
他にも川原慶賀がオランダ商館員たちの生活を描いた絵があり、長崎市立博物館に「宴会図」「玉突の図」にシーボルトと瀧が描かれているとされている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/otaki/index.html

シーボルトは、事件のあとオランダに帰国した際に、日本で採集した植物や動物の膨大な標本や絵図を持ち帰り、『日本植物誌』『日本動物誌』を著している。サクラソウ、スズキ、イセエビなど彼が命名したことにより、学名が確定したものが少なくないそうだが、彼が命名した中に妻の瀧の名前を入れた植物があるという。

Hydrangea otaksa

上の画像はシーボルトが『日本植物誌』に掲載したホンアジサイの図だが、これを彼はHydrangea otaksaと分類している。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10595694473.html

「お瀧さん(otakisan)」が”otaksa”となったのは、長崎の方言では「キ」が無声化するらしく、また最後の”n”がないのは、学名はラテン語を用いるのだが、ラテン語では語末が”a”で終わらないと、女性の名前にならないということらしい。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10596656979.html

シーボルト妻子像螺鈿合子

長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。

直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。
http://www.geidai.ac.jp/~s1306937/KautzschMAthesis.pdf

こう言う事を知ると、なぜシーボルトがオランダに帰国してからも、わが国が西洋列強に呑まれないように奔走したかがなんとなく見えてくる。
彼が日本に滞在した期間は決して長くはなかったが、瀧とイネを愛し、瀧の育った日本という国の文化や自然に魅了されたということではなかったのか。

Wikipediaによると、シーボルトが集めた植物の押し葉標本だけで12000点で、『日本植物誌』で記載されている種は2300種にも及ぶという。『日本動物誌』や大著『日本』もそうだが、日本という国を好きにならずして、そのような研究が出来るとはとても考えられないのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

わが国は「オランダ風説書」により世界の情勢についての知識を入手していたことを学生時代に学んだ記憶があるが、Wikipediaによるとオランダが「阿片戦争」に限らず世界的な情報が提供されるようになったのは、1846年からだというが、このことは、オランダにシーボルトがいたのと無関係ではないような気がする。

前回の記事で、1844年にシーボルトが起草したというオランダ国王の徳川将軍への親書の内容を紹介したが、この文書を書いたシーボルトに日本を列強の侵略から守りたいという気持ちがあったと私は考えている。

シーボルトは江戸幕府から国外追放処分を受けている。瀧やイネに再開したいと思っても、日本国の鎖国が続くかぎりはそれが難しいことは少し考えればわかることだ。
シーボルトが再度日本の土を踏むためには、日本が外国に門戸を開かねばならず、しかもわが国が西洋列強に呑みこまれることなくそのことが実現できなければ意味がない。
シーボルトはそのために尽力したのではなかったのか。

安政5年(1858)に日蘭通商条約が結ばれ、江戸幕府のシーボルトに対する追放令も解除される。そして翌安政6年(1859)、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たし、文久元年(1861)5月15日に江戸幕府の外交問題の顧問として雇われている。しかしながらわずか4か月後の9月16日に幕府により解雇されているのだ。いったい何があったのか。
http://space.geocities.jp/kamito_ken/Calendar1861.html

調べると、外交問題の顧問に就任した13日後の5月28日に水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使らを襲撃した事件(東禅寺事件)が起きている。

東禅寺事件

この事件でシーボルトは負傷した浪人を手当てし、無意味な殺傷は中止するように強く幕府に意見を述べたという。しかし、このシーボルトによる幕府寄りの指導が、オランダをふくめた米英仏露の西洋諸国の反発を買ったためにオランダ領事館から解雇処分を受けてしまったとされている。文久2年(1862年)3月12日に失意のうちにライデンに帰国し、その翌年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰ったという。
そして1866年10月18日、ミュンヘンで70歳の人生の幕を閉じた。

楠本イネ

シーボルトの娘の楠本イネは後に医学を志し、日本人女性で最初に産科医として西洋医学を学んだという。そのイネには娘がいて、その写真が今も残されている。シーボルトの孫娘でもある楠本高子は、今でも美人で十分通用する女性である。

楠本高子

慶応2年(1866)にシーボルト門下の三瀬諸淵と結婚するも明治10年(1877)に夫に先立たれ、その後医師の山脇泰助と再婚し、一男二女を生むが、結婚7年目にまたもや夫に先立たれている。
彼女の身の上話が、最初に紹介した『長崎のおもしろい歴史』というホームページに掲載されている。当時は今以上に混血児として生きることは今よりもはるかに厳しい時代であったろう。イネも経験しただろうが、高子も何度も辛い思いをしたことが書かれている。
http://www2.ocn.ne.jp/~oine/kinenhi/metaka.html

その文章の前半に、シーボルトが2度目の来日を果たし、江戸幕府の顧問となった時に高子の夫である三瀬を連れて行ったという記述に注目したい。

「祖父が江戸に招かれました時も三瀬はついて行きました。
祖父が江戸のエライ方々とお話をいたします時に、福地源一郎さまや、福沢諭吉さまが通弁に当たられましたが、どうにもよく話が通じません。祖父もやきもきいたしましたが、そのような時に三瀬が通弁をいたしますと、忽ち話が通じまして、幕府の方々とスラスラと話が通じたということもうかがっております。
ところが、やはりそうした出過ぎたことが宜しゆうございませんでしたようで、公儀の役人を差しおいて僭越の段不都合とお思いの方もあったものと見えます。
祖父が江戸を去りますと、三瀬は町家の出でありながら身分を弁えず、宇和島藩士と称して帯刀をしたという廉で佃島(つくだじま)に永牢申しつくということに相成りました。
しかし、三瀬は獄中でも医者としての本分を忘れず、役人の病を治療したりいたしまして、それに宇和島の伊達さまのお力添えもございまして、元治元年(1864)に出獄となりました。…」

幕府の偉い役人たちがいくら外国人と話をしても通じず、三瀬が通訳すると相手に通じたということが妬まれて、些細なことで牢屋に入れられてしまった。ようやく再来日を果たしたシーボルトを追い出したのも、こういう役人連中ではなかったか。
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シーボルトはスパイであったのか

シーボルトがスパイであったというのが多数説になっているのだが、いろいろ調べていくとシーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草しているという。
わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとしたら、いったいどこの国のスパイだというのだろうか。シーボルトはわが国で得た資料をもとに、大著『日本』のほか多くの著作により、世界に対してわが国のことを知らしめたという事実はどう理解すればよいのだろうか。

シーボルトにより複製された伊能図

シーボルトが文政11年(1828)に帰国する際に、オランダ船に積みこんだ荷物の中から、国外持ち出しを禁じられていた日本地図が発見され、この地図は幕府天文方高橋景保がシーボルトに贈ったことがわかり、関係者50人が捕えられて高橋が獄死し、シーボルトが国外追放の処分を受けた「シーボルト事件」があったのだが、この事件に関しては幕府の記録をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

これまでの通説では、文政11年(1828)9月17日夜半から18日未明に西南地方を襲った台風で座礁したオランダ船コルネリス・ハウトマン号の中から、禁制品の地図などが見つかっていたことになっていたのだが、この話は後世の創作で、この船が台風で座礁したことは史実だが、その船にはシーボルトが収集した物は一切積み込まれていなかったことが今では明らかになっている。

西南学院大学国際文化論集第26巻第1号に「創られた『シーボルト事件』」という論文が掲載されており、ネットでも公開されている。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/nippon%20neo/10.pdf
その論文のp.78-79に、商館長メイランが記載した、この船に関する荷揚げや積み込みの実務的な記録が紹介されているが、積み込まれたものは9月2日にバラストとしての銅500ピコルのみで、台風の襲来した前日の16日まで何も積み込まれていないことが確認できる。

では、座礁した船の中のシーボルトが依頼した荷物から禁制品があらわれたということを最初に書いたのはだれかというと中島廣足という人物で、事件のあった5年後の天保4年(1833)年に刊行された『樺島浪風記』という書物にこう記しているという。

「こたびの大風は、まさしく神風なりと世にいひながせるはさる事ありたり、かの阿蘭陀船はこたびかへるべきときにて、其船乃中にわが国乃地図をはじめて外国にわたすことをいみじくいましめたまふ物どもを、たれか取つたへけむ、くさぐさつみいれ、ものしいたるを、此大風にあひて、船(*オランダ船)をふきあげられしかば、やがてこなたの司人(*役人)たちゆき見て、つみ入たる物どもとりおろし、とかくせらるゝついでに、さるものども(*禁制品)みなあらはれ出て、ことごとにおほやけにめしあげ、取をさめられぬ…
天保四年正月十五日橿園のあるじ(*中島廣足)、長崎のたびやどりにて、ふたゝび此よしをしるしぬ」(「創られた『シーボルト事件』」p.80所収)

この中島廣足は熊本藩士で、国学者でもあり歌人でもあるそうだが、この人物は実際に樺島付近でこの台風に遭遇し、長崎に帰りついたのち街中の被害を目の当たりにし、座礁したオランダ船も目撃した直後の記録も残しているという。

中島廣足の記録に書かれているのは、
「大浦乃方より見やれば、海かたづける家々はみなくづれて、ありしおもかげもなし、まづ近く見えたる阿蘭陀館、うみにのぞめる高楼なかばよりくづれおちたり…」(同上p.80) とあるだけで、座礁したオランダ船の積荷検査や禁制品発覚のことは何も書かれていないのである。

松浦静山

また、平戸藩9代藩主の松浦清(号は静山)が隠居した後に書き記した『甲子夜話続編』巻二十一に「シーボルト事件」の記事があるという。そこには文政11年(1828)11月15日付の長崎在住の人からもたらされた「風説」の内容が書かれていて、1つは高橋景保からシーボルトへ送った日本地図などを長崎奉行所で取り上げたことと、関係するオランダ通詞などが捕えられたこと、またシーボルトはロシア人であるという噂もあることが書かれている。
事件の初期の段階では、座礁した船から禁制品が出てきた話はなかったのだが、次第に噂話に尾ひれがついていき、中島廣足の著作などで広がっていったと考えれば良いのだろうか。私には中島廣足が平田篤胤の流れをくむ国学者であることがどうも気にかかるのだ。

当時のわが国の学問の世界では、蘭学者は少数派であり蘭学は異端視されていたと考えて良い。たとえば、シーボルト事件から11年後の天保10年(1839)に蘭学研究者が大弾圧される事件が起きている。世に言う「蛮社の獄」である。
モリソン号

この事件の起こる2年前の天保8年(1837)6月に江戸湾に現れたアメリカ商船モリソン号を、外国船打払令に基づいて浦賀奉行が砲撃を加えて追い払う事件があった。(モリソン号事件) この事件における幕府の対応や鎖国政策を批判した高野長英・渡辺崋山ら8名が捕えられて獄に繋がれたのだが、その後の判決で渡辺崋山は蟄居を命じられ天保12年(1841)10月に自刃。高野長英は永牢を命じられたが、弘化元年(1844)牢に放火して脱獄し逃亡し、嘉永3年(1850)に江戸にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84

この事件の問題は、高野長英も渡辺崋山も無罪でありながら、罪をでっち上げられて捕えられている点にある。
この事件を調べていくと、鳥居耀蔵(とりいようぞう)という幕臣の名前が出てくる。鳥居の父は大学頭の儒者・林述斎であり、渡辺らを告発したのがこの人物で、告発状には渡辺らが海外に渡航することを企てていたと書かれていたという。

Wikipediaにはこう解説されている。
「鳥居の告発状をもとに大草が尋問したところ、海外渡航の企てなどはすべて事実無根…
5月22日に、奉行所で吟味が再開された。崋山の逮捕後鳥居がさらに提出した告発状に記された、大塩平八郎との通謀容疑・下級幕臣大塚同庵に不審の儀があることについても事実無根が明らかになっていたが、無罪の者を捕らえたとなっては幕府の沽券に関わるので、奉行所は糺明する容疑を海外渡航から幕政批判に切り替えた。崋山の書類の中から『慎機論』『西洋事情書』の二冊が取り出され、その中に幕政批判の言辞があることが問題とされた。崋山はそれらの文章が書き殴りの乱稿であり、そのような文字の片言隻句を取り出して断罪する非を言いつのったが、聞き入れられなかった。」
今風の表現をすれば明らかな「不当逮捕」であったのだ。

高野長英は『蛮社遭厄小記』という記録を残していて、その中で鳥居燿蔵の蘭学者攻撃と、蘭学関係者弾圧のためにこの事件が捏造されたことを述べている。読み下し文ではあるが次のURLで全文を読むことが出来る。
http://www.city.oshu.iwate.jp/syuzou01/book/bansha3.html

高野長英

鳥居燿蔵について高野長英はこう書いている。
「儒家ニ出身シテ文人ナル故蠻學ヲ嫌忌セラレケルニ
近來蠻學頗ル旺盛ニシテ上ハ公卿ヨリ下ハ庶人ニ至ル迄往々之ヲ賞揚シ
儒生トイヘドモ是ニ心醉スル者少カラナルヲ以テ常ニ不平ヲ懐カレケル」

要するに、鳥居は蘭学を忌み嫌い、この蘭学がわが国に拡がって行くことが許せなかったから、蘭学関係者の弾圧に踏み切ったのだと長英は考えたのだ。
また鳥居はその後も、阿片戦争ののちわが国も洋式の軍備を採用すべきであると幕府に上申した高島秋帆に謀反の罪をでっち上げて長崎で逮捕させている。

Wikipediaによると、鳥居耀蔵の日記や詩文を読むと「自分を退けて開国したことが幕府滅亡の原因であると考え、当時流行した洋風軍隊や民衆の軍事教練に批判的な目を向け」ていたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5#.E9.B3.A5.E5.B1.85.E8.80.80.E8.94.B5.E3.82.92.E6.89.B1.E3.81.A3.E3.81.9F.E5.8F.B2.E6.9B.B8

この鳥居耀蔵が暗躍した「蛮社の獄」はシーボルト事件から11年も後の話なのである。
また「シーボルト事件」の起きた頃も「蛮社の獄」が起きた時代も、文政8年(1825)年に発せられた異国船打払令が国是であった時代であり、当時の考えではわが国沿岸に接近した外国船は見つけ次第に砲撃し、上陸した外国人は逮捕することを命じられていたのだ。 その考え方の延長線上にあるのは、洋学に対してはそれを嫌悪し、洋学者が勢力を伸ばす芽を早い時期から摘みとろうとする姿勢であり、鳥居に限らず多くの幕臣たちはそのような考えにあったと考えるべきではないか。
江戸幕府が本格的な洋学研究の必要を痛感して「洋学所」を開設したのは、ペリー来航後の安政2年(1855)のことである。

シーボルト

シーボルトが鳴滝塾で洋学を教授していた時代には、外国人を忌み嫌い、洋学をも蔑視し洋学がわが国に拡がって行くことを快く思っていなかった鳥居耀蔵のような考えの役人が幕府内にもっと多数いたはずだから、シーボルトのような影響力の強い人物を目の敵にして、何が何でもシーボルトをわが国から排除し、二度とわが国の土を踏ませたくないと幕府が考えても、おかしくないようにも思えるのだ。とすると、国外追放とするために、シーボルトはスパイということにされた、ということもあり得る話だ。

最初に述べたとおり台風で座礁したオランダ船の荷物から御禁制の伊能忠敬の日本地図が出てきたという話は作り話であり、シーボルトがロシアのスパイだという話なども、当時の風聞をあたかも真実であるかのように書いた国学者の著作から広まって行ったものなのである。
そして現在も当時の風聞が真相のように語られることが多いのだが、本当にシーボルトがスパイであったなら、彼が日本滞在中に収集した標本などを大量に持ち帰ることが出来たことが不自然に思える。また前々回の記事で画像を紹介したが、シーボルトの大著『日本』には伊能忠敬の地図を複製した日本地図が堂々と載っている。さらに、江戸幕府はシーボルトを二度目の来日のあと幕府の外交問題の顧問として採用しているが、これもおかしな話である。

シーボルト事件については、当時の風聞とは異なる観点からの考察が必要な気がするのだが、この話を続けるとまた長くなるので、次回に書くこととしたい。

<つづく>
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若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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