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高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて~~高知旅行1日目

四万十川上流の高知県高岡郡四万十町にある親戚宅を訪ねることになり、自分の車を使って家内と二泊三日で5月15日から四国を旅行してきた。

四国には10年ほど前にバス旅行で行ったのだが、1泊旅行だったので足摺岬と中村と桂浜を駆け足で巡っただけだった。今年に入って祖谷と金毘羅さんを巡ったことはこのブログでも書いたが、高知県内を車で走るのは初めてだ。

5月15日、車で吹田の自宅を早朝に出て11時半ごろに高知城近辺に到着。

高知・窪川・高松方面旅行 002

まず早目の昼食をとることにして「まっぷるマガジン」にでていた「うなぎ屋せいろ」という店で「ひつ御膳」を頂いたが、ここのうなぎはサクサクとした歯触りでとても旨かった。高知城に近いので、同店の契約駐車場に車を置いたまま高知城に徒歩でいけるロケーションも良い。

高知・窪川・高松方面旅行 004

そこから歩いてすぐの高知城に行く。
高知城をバックにして立っている銅像は板垣退助である。

高知城は関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、慶長6年(1601年)大高坂山に新城の築城工事を始め、慶長8年(1603年)に城の大部分が完成し入城したのだが、享保12年(1727年)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失し、宝暦3年(1753年)までに創建当時の姿のまま再建されたと言われている。

高知・窪川・高松方面旅行 010

そもそも日本の城のうち、江戸時代より以前に建設され、現在まで天守閣が残っている城は、高知城を含めて12しか存在しない。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/tensyu1.htm

幕末から明治にかけての戦乱でいくつかを失い、また明治六年の廃城令で財務省に所管が移り多くの天守閣が破壊されている。財務省に所管が移されたということの意味は、学校敷地等として売却するための用地とされたということであり、この時に高知城全体が高知公園となり城郭の一部が取り壊されたのだが天守閣は残された。今も高知城は財務省の所管であり、財務省から無償で土地を借り受けて高知県が運営しているようである。

高知空襲

第二次世界大戦でも名古屋城や水戸城、大垣城、和歌山城、福山城、広島城、岡山城などが消失したが、高知市も昭和20年7月4日にB29の120機(諸説あり)の編隊が大量に投下した焼夷弾で市街中心部の大半が焦土と化した高知大空襲があり、他にも度重なる市内の空襲があったのだが、高知城が破壊されずに残ったことは本当に奇跡的なことである。上の写真は高知駅からはりまや橋につながる大通りのあたりの空襲直後の写真である。

高知・窪川・高松方面旅行 013

高知市は中心部には城山の他に高い山はなく、高知城天守閣からの眺めは好天にも恵まれて素晴らしかった。上の写真は、天守閣から東の方角を眺めたものだが高知市内は山が少なく、最上階からは市内を遠くまで見渡すことができる。

つぎに、会社の仲間が勧めていた国指定史跡・天然記念物の龍河洞(りゅうがどう)に行く。 龍河洞は三宝山の中腹にある石灰洞窟で日本三大鍾乳洞の一つである。

高知・窪川・高松方面旅行 022

三大鍾乳洞とは山口県の秋芳洞と岩手県の龍泉洞とこの龍河洞を指すが、ここは秋芳洞のスケールの大きさと比較するとかなり小規模である。しかしながら、人がなんとか通れるような狭い空間を通り抜けながら、「あっ」と驚くような大自然の造形物に遭遇したり、階段を上りながら冒険をしているような気分を感じさせてくれて、出口までの50分間はなかなか楽しかった。

出口の近くには、弥生時代に人が居住していたらしく、洞内から数十点の弥生式土器や炉跡、木炭および獣骨などが発見されており敷地内の龍河洞博物館に展示されている。
高知・窪川・高松方面旅行 027

また、洞内に弥生式土器と地面とがくっついたまま鍾乳石化したものがあり、これは「神の壺」と命名され龍河洞のシンボル的存在となっている。

龍河洞を楽しんだ後、車で約10分ほどで「龍馬歴史館」に着く。ここは、坂本龍馬の33年の生涯を26シーンに分けて、蝋人形で表現されており、幕末の歴史の勉強になる。ほぼ等身大の蝋人形はなかなかリアルで臨場感があった。

龍馬歴史館

初日はさすがに疲れたのでこのあと宿泊先の土佐ロイヤルホテルに向かった。このホテルには岩風呂の温泉のほか室戸海洋深層水の露天風呂があり、ゆっくり入って旅の疲れが吹っ飛んだ。(つづく)
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桂浜、坂本竜馬記念館を訪ねて~~高知旅行2日目その1

ホテルを早目に出て、朝一番で桂浜に向かう。

桂浜には10年程前に一度バス旅行で訪れているのだが、短い時間の滞在であったので、今回はゆっくり散策して、前回行かなかった「坂本龍馬記念館」も見てみたい。

桂浜の上竜頭岬の高台に有名な坂本龍馬像がある。

高知・窪川・高松方面旅行 039

この像は宿毛市出身の彫刻家本山白雲の制作によるもので、本体の高さが5.3mで、台座の高さと合わせると13.4mにもなる大きなものだ。

この像の経緯を調べると非常に興味深いので、次の高知新聞のサイトを一読されることをお勧めしたい。何の信用もない一学生の思いが、多くの人を動かし、県や国を動かした感動のドラマである。
http://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma005.htm

簡単に記すと、大正15年に坂本龍馬に心酔していた早稲田大学の学生の入交好保(いりまじりよしやす)が、龍馬の功績を世に残そうとして日本一大きな銅像を建てることを決意し、同じ海南中学の同窓である友人らとともに「坂本先生銅像建設会」を発会し、新聞で仲間を呼びかけたことから始まる。

仲間とのつながりから、土佐の交通王と呼ばれた野村茂久馬の支援により乗合自動車のフリーパスを入手し、入交らは夏休みに無銭旅行をしながら県内を遊説して募金活動を開始した。

また入交は幕末の志士で龍馬とも交友のあった田中光顕伯爵にも会い、伯爵の働きかけで秩父宮殿下から200円の下賜金を頂いた後は、県も態度を変えて寄付金集めに動き出した。 そして入交らはついに2万5千円(現在の70-80百万円)の資金を集め、龍馬像制作のめどをつける。

制作や搬送にも大変な苦労があったが、詳しくは先程紹介したサイトを見ていただきたい。 とにかく龍馬像は完成し、昭和3年5月27日(海軍記念日)に除幕式が行われた。その時は当時の内閣総理大臣であった田中義一をはじめ錚々たる人々が出席し祝辞を述べたそうだ。

先程のサイトには除幕式のシーンを次の言葉で結んでいる。 「幕が取り払われ、龍馬が姿を現すと、群衆はどよめき、青年たちは涙したという。運動が実を結んだ瞬間だった。資金も信用もない無名の学生らが起こした大きな渦。それは一介の浪人にすぎない龍馬が国事に奔走した姿とよく似ている。入交自身も後年、高知新聞紙上で「土佐の青年の意気を示す機会であった」と振り返っている。台座には「建設者 高知縣青年」と刻まれている。」

まだ坂本龍馬がそれほど知られていなかった時代に、学生の龍馬を愛する強い思いが国までをも動かしたとは、実に素晴らしいことではないか。

たまたまこの坂本龍馬像のすぐ横で「龍馬に大接近」というイベントが行われていて、この龍馬像の東側に特設の展望台が作られていてここを上ると真横からこの龍馬像を見ることができるようになっていた。こういうことは昔から大好きなので早速入場料100円を払って薄い鉄板でできた階段を登り始める。

高知・窪川・高松方面旅行 042

上の写真は、特設展望台の上から龍馬と桂浜を写したもの。下から見る龍馬像とは一味違う龍馬の表情を見ながら、太平洋を龍馬と一緒に眺める気分は格別であった。

このイベントは4月3日から5月31日までで、あと1週間もすればこの特設展望台が撤去されるのだろうが、もし今月中に桂浜に行く予定がある人はここに登ることをお勧めしておきたい。

ついでに、この特設展望台は龍馬像の東側にあるので、写真を撮るのなら逆光にならない午前中が良い。

桂浜を散策後、車で坂本龍馬記念館に向かう。
今年はNHKの大河ドラマの影響が大きく、入場者は例年の3倍ペースで、GW中には平成3年の開館以来初めて入館待ち時間制限が行われたそうだ。

坂本竜馬記念館

16日(日)の開館直後の時間に到着したが、その時間で駐車場は大半が埋まっていて、館内も人が一杯だった。

見どころは地下二階に展示されている龍馬の手紙。達筆な字のためとてもすらすらとは読めないが、わかりやすいように翻刻文と口語訳文とが併記されており、姉の乙女に宛てた手紙などはなかなかユーモアがあって暖かい龍馬の人柄が伝わってくる。他には高杉晋作から送られたというピストルや、暗殺現場の近江屋に残された血痕のついた掛け軸(複製)など貴重な資料が展示されていた。

高知・窪川・高松方面旅行 058

2階には様々なパネルの展示や近江屋の実物大の模型等があり、全てを見終わるとガラス張りの空間となり、雄大な太平洋が一望に広がる。外見はモダンアートのようだが、龍馬の生涯を辿ったあとで、龍馬が何度も見たであろう太平洋を最後に眺めて幕末の時代にしばし思いを馳せることを想定して、うまく計算され設計された建物だと思った。(つづく)
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四国霊場第37番札所岩本寺と高岡神社~~高知旅行2日目その2

坂本龍馬記念館から高知県高岡郡四万十町にある親戚宅に向かう。

「四万十町」という町は平成18年3月に高岡郡窪川町、幡多郡大正町・十和村が市町村合併によってできた町であるが、平成17年に中村市と幡多郡西土佐村が合併してできた「四万十市」とは異なる。大雑把な言い方をすると、四万十町は四万十川の上流地域を含み、四万十市は中・下流地域を含むのだが、四万十市の中に中村四万十町があったりしてややこしい。
ついでに言うと高知県には土佐市があるかと思えば別に土佐町がある。これも市町村合併でできた名前だが、旅行者には紛らわしい。

話を元に戻そう。
桂浜から一般道で須崎市を抜けて「四万十町」に入った。窪川駅の手前を右折し四万十川を渡ると、のどかな田園風景となり、親戚の家はその風景の中にあった。

「自宅で皿鉢(さわち)料理を是非」と誘われて、生まれて初めて土佐の有名な皿鉢料理なるものを御馳走になり、新鮮な魚や自然素材を活かした料理とあふれんばかりに盛り付けられた豪華さに感激した。あまりにすごい分量でとても食べ切れず申し訳なかった。

高知・窪川・高松方面旅行 060

食事を終えてから、車で近隣の観光地などを巡ることになった。
最初に案内していただいたのは、四国八十八箇所霊場第37番札所の岩本寺。

この寺は、思ったよりも境内は狭く、本堂などの建築物もかなり新しい。

高知・窪川・高松方面旅行 065

上の写真は本堂だが、これは1978年に新築されたものである。本堂の天井には画家や一般市民が書いた575枚の天井絵が飾られている。花鳥風月の絵に交じって、マリリンモンローの絵もあるそうだが見落としてしまった。

高知・窪川・高松方面旅行 066

建物は新しいのだが、この寺の歴史はかなり古い。

天平年間(729~749)に行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて福円満寺を建立し、さらに「仁王経」の「七難即滅、七福即生」を祈願し、天の七星を象って仁井田(現四万十町窪川近辺)に宝福寺・長福寺などの六つの寺を建立し、合わせて仁井田七福寺と称したという。

その後弘法大師が弘仁年間(810~823)に五社五仏を建立し、福円満寺などは先の七福寺と合わせて、仁井田十二福寺と称し、五社は仁井田五社と呼ばれて神仏習合の霊場として栄えたとされる。

仁井田五社とは四万十町仕出原にある現在の高岡神社のことで、今も鳥居と社殿が五か所に分かれている。
弘法大師が高岡神社の一の宮に不動明王、二の宮に聖観音菩薩、中の宮に阿弥陀如来、四の宮に薬師如来、森の宮に地蔵菩薩を本地仏として安置したとされるのだが、神仏習合の時代はお寺と神社の違いがあまりはっきりしていなかったようで、現代人には理解しづらい。

享禄から天文の頃(1528~1555)福円満寺が火災で廃寺となり、当時金剛福寺の住職であった尊海法親王が窪川に岩本坊を建立し法灯を継がせたが、岩本坊も天正年間(1573~1592)に焼失し、僧釈長が再興して岩本寺と改称した。
以来、岩本寺が仁井田五社の別当となり、巡拝者は仁井田五社(高岡神社)の中の宮に札を納めた後、岩本寺で納経を行ったという。下の写真は高岡神社の中の宮である。

高知・窪川・高松方面旅行 086

ネットでいろいろ調べると江戸時代の承応2年(1653)に澄禅大徳という高僧の書いた「四国遍路日記」という本があるようだ。現存している最古の遍路日記だそうだが、当時は八十八箇所という番号も固まっていなかったらしい。

この本によるとこの高僧が岩本寺ではなく仁井田五社(今の高岡神社)に参拝したと書いてある。
「扨、五社の前に大河*在り、少し雨降りければ五日十日渡る事なし。舟も橋も無くして第一難所なり。洪水には五社の向かいへ坂中より札を手向け、伏し拝みて過ぐなり。折節河浅くして漸く歩渡り、東路の大井川に似て石高く水早し。渡り悪き河也。而して五社に至る、青龍寺**より是まで十三里なり。
 仁井田の五社***、南向き、横に双びて四社立ち給ふ。一社は少し高き所に山の上に立つ。何れも去年太守より造宮せられて結構也。札を納め、読経念佛して又件の川を渡りて跡へ帰りて、窪川と云ふ所に一宿す。此の所は太守の一門山内伊賀守城下也。一万石の領地也。町侍小路など形の如く也。」
*四万十川のこと **土佐市宇佐町にある36番札所 ***現在の高岡神社

お遍路さんが札所で般若心経を唱えたあとに札所のご詠歌を唱えるならわしだそうだが、四国霊場第37番札所岩本寺のご詠歌は、
「六つのちり、五つのやしろ あらわして ふかき仁井田の 神のたのしみ」である。
(六塵[色、聲、香、味、觸、法]を無くすことで、山深き仁井田郷の、五社様にお祀りしている、神様・仏様がお歓びになります)

こういう経緯は調べて初めて分かったが、お遍路さんも高岡神社にお詣りしなければ、このご詠歌の意味はよくわからないのではないか。

ところが、明治に入って神仏判然(分離)令により岩本寺は仁井田五社と分離され、廃仏毀釈で大師堂のみを残して寺領の大半を失ってしまい岩本寺は廃寺となってしまう。

一時期は御本尊が愛媛県の八幡浜に移され、37番の札所が2箇所並立していた時期もあったようである。大正7年に四国を巡礼した高群逸枝の「娘巡礼記」という本には、八幡浜の吉蔵寺に37番札所の本尊と納経の版が伝わっていることが書かれているそうだ。

高知・窪川・高松方面旅行 064

明治22年(1889)に岩本寺は再興され、それぞれの寺院の本尊を一堂に集めて一つの寺院として復興させたことから五つの異なる仏像(阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩)を全て本尊としているそうだ。ちなみに本尊は秘仏で60年に一度開帳されるそうである。(つづく)
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四万十川上流を進み松葉川温泉へ~~高知旅行2日目その3

岩本寺と高岡神社を見た後、四万十川上流を走る。

四万十川は全長が196kmで四国では最も長い川である。
また柿田川、長良川とともに日本の三大清流と呼ばれ、日本の秘境100選にも選ばれている。また、「日本最後の清流」等と呼ばれることも多い。

こんなに有名な「四万十川」という名前は昔から変わらないとばかり思っていたが、この名前がこの川の正式名称になったのは意外と最近であることを知って驚いた。
例えば宝永4年(1708)の「土佐物語」という本には「四万十川 わたりがわ」と記されているそうで、昔はこの川を「わたりがわ」とよく呼ばれていたらしい。「四万渡川」と書かれた事例もあり、それが略されて「渡川(わたりがわ)」の名称が生まれたものと思われるが、旧河川法では昭和3年に「渡川」をこの川の法律上の正式名称に採用したそうだ。昭和39年の新河川法でも名前をそのままにしている。ということは平成6年7月に「四万十川」と改名されるまでは「わたりがわ」がこの川の正式な名前であったのだ。

高知・窪川・高松方面旅行 074

岩本寺のある旧窪川町あたりは四万十川の上流にあたるのだが、意外と海にも近い。窪川駅から海までは直線で10km程度しか離れておらず、四万十町の興津海水浴場は白くキメの細かい砂浜が東西2kmにも及ぶ遠浅の海水浴場で、平成18年に環境省が「日本の快水浴場100選」に認定している。上の写真は興津峠から見た興津海水浴場だ。

また四万十町には樹齢700年のヒロハチシャの木という国指定の天然記念物の大木がある。

高知・窪川・高松方面旅行 077

植物知識の乏しい私には初めて聞く名前であったが、この木は九州以南の低地にみられるが、この四万十町の木が最北端のものだそうだ。風害で主幹に大きな空洞が出来ているが、手厚く保護されており、よく繁茂している。

ところで四万十川には「沈下橋(ちんかばし)」と呼ばれる橋がいくつも架かっている。 「沈下橋」とは、河川敷と同程度の高さに架けられるために、水位の低い時は橋として使えるが、増水時にはこの橋は水面下に沈んでしまう橋のことである。
もし増水時に流木などが橋にひっかかると橋が流されたり、川がせき止められて洪水の原因になったりするので、水の抵抗が小さいように橋に欄干がないというのは合理的だし、もし橋が流されても建築コストは余りかけなくて済むように出来ている。

高知・窪川・高松方面旅行 095

上の写真は四万十川の最も上流にある一斗俵(いっとひょう)沈下橋で、四万十川にかかる現存の沈下橋の中では最も古く(昭和10年築)、国の登録文化財に指定されている。

高知・窪川・高松方面旅行 102

一斗俵沈下橋を渡ってみたが、幅は2.5mとかなり狭い橋だった。自転車で渡れないこともなさそうだが、バランスを失うと簡単に川に転落してしまいそうだ。

Wikipediaによると1999年の高知県の調査で、全国各地の一級河川にこのような沈下橋が410箇所あり、そのうち高知県に69箇所と一番多く存在し、ついで大分県(68箇所)、徳島県(56箇所)、宮崎県(42箇所)の順だそうだ。四万十川にはこのような沈下橋が47箇所かかっているそうで、高知県の沈下橋の約7割は四万十川にかかっていることになる。

車のない時代は、大半の橋がこのような橋だったのだろう。美しい里山と美しい四万十川に沈下橋はよく調和して、日本の原風景を見ているような気分になる。このような風景を是非後世に残してほしいものである。

一斗俵沈下橋あたりは田園風景が広がり、仁井田米に代表される県内有数の穀倉地帯でもあるが、開墾の歴史は洪水と灌漑の歴史でもある。明治23年の四万十川の洪水のあと、野村成満翁がこれ以上農民に負担を課すことは忍びないとして、田畑を売却し私財を投じて手掘りで完成させた法師の越山水路トンネルは約100年間この地域を洪水から守り、水田に水を送り続け、農地の拡大に寄与したそうだ。
平成16年に国の補助を受けて野村翁が掘ったトンネルの横に新しいトンネルが完成し、野村翁の偉業をたたえる碑が建てられている。

高知・窪川・高松方面旅行 109

四万十川上流をさらに進むと、松葉川温泉という温泉がありそこで宿泊。
ホテルは四万十川源流の日野地川沿いに建てられている。

ここまで来ると、本当に静かで、素晴らしい山の景色を見て川のせせらぎや鳥のさえずりを聞きながらゆったり入る露天風呂は最高の気分だった。有名観光地の豪華な施設とは違うが、こんな山奥に来ればこのような施設の方が心も体も癒されて良い。
泉質も良く、料理もおいしく、親戚と一緒に飲んだお酒もおいしくて大満足の一日だった。

高知・窪川・高松方面旅行 115
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高知市五台山の名所から、いの町の文化と自然を楽しむドライブ~~高知方面旅行2

ホテルをチェックアウトして、高知市の東にある五台山公園に向かう。
標高146メートルと決して高くない山なのだが、頂上に上ると素晴らしい景色を楽しむことができた。

五台山公園からの眺望

狭い高知港に向かって鏡川、久万川、国分川、下田川など多くの川が流れ込んでいる。山あり川あり都会ありの素晴らしい眺めである。

公園のすぐ近くに四国霊場第三十一番札所の竹林寺がある。
竹林寺は神亀元年(724) 聖武天皇の勅願により創建されたとあり土佐屈指の古刹で、その後、大同年間(806-810)に弘法大師がこの地に滞在し、堂塔を修復したと伝えられている。
江戸時代には土佐藩主の帰依を受け、藩主祈願寺として隆盛したのだが、この寺も明治初期の廃仏毀釈でかなり衰退したという。その後復興されて往古の姿を取り戻したのだそうだ。

竹林寺庭園

客殿に入って、夢窓国師の作と伝えられる庭園を鑑賞した。この庭園は昭和9年に国名勝の指定を受けており、土佐の3名園の一つとされている。

宝物館には藤原時代から鎌倉時代にかけての仏像17体があり、いずれも国の重要文化財に指定されているのだが、後背のない仏像もあり、廃仏毀釈により傷められたものもいくつかあるのではないかと思ったが、どういう経緯でこれらの仏像が廃仏毀釈の波を乗り越えてきたか、詳しいことは良くわからなかった。この狭い宝物館の空間に高知県下の国重要文化財指定の仏像の約3分の1が集まっているというのだが、裏を返すと、それほど明治初期における高知県の廃仏毀釈が激しかったということでもある。

竹林寺五重塔

以前は三重塔があったらしいが、明治32年に台風で倒壊したため、昭和55年に現在の五重塔に再建されたそうだ。新しいとはいえ高さは31.2mもあり、総ヒノキ造りの大変立派なものである。設計施工は香川県詫間町の富士建設株式会社が請負い、施工にあたったのは京都宇治の工匠・岩上政雄氏なのだそうだが、宮大工を延べ5400人も使う大工事であったらしい。

この竹林寺のすぐ近くに妙高寺というお寺が昔はあったというのだが、明治初年の廃仏毀釈によって廃寺になってしまった。その跡地が、「高知県立牧野植物園」となっている。

土佐の代表的な民謡である「よさこい節」の一番は「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た  よさこい よさこい」だが、昔は「おかしことやな はりまや橋で 坊さんかんざし 買いよった」だったのだそうだ。

この一節は安政2年(1855)5月に、竹林寺の脇坊・妙高寺住職の純信が鋳掛屋の娘お馬と相思相愛の仲になり、純信がお馬のためにかんざしを買って贈ったことが噂となって広まり、それを苦にして二人が駆け落ちしたという事件があったことを唄っているのだが、その後2人は讃岐金毘羅参道の旅籠屋にいるところを土佐藩吏に捕えられ、破戒と番所破りの罪で城下の三カ所でさらし者にされたのち、純信は国外追放、お馬も安芸川以東に追放されたという。

そして、この「よさこい節」が幕末から勤王の志士たちによって歌われ、明治初年に流行したのだそうだが、昔の歌詞を読むと江戸末期の土佐藩の仏教の堕落を揶揄しているようでもあり、高知県で廃仏毀釈が激しかったこととどこか繋がっているような気がしたりもする。

牧野富太郎植物園

「高知県立牧野植物園」の敷地は17.8ヘクタールとかなり広く、景色も素晴らしいし、展示物もなかなか見ごたえがあった。

植物の知識の乏しい私には、植物そのものより牧野富太郎の人生や、彼の直筆の植物図の方に興味を覚えた。
牧野富太郎は文久2年(1862)に現在の高知県高岡郡佐川町に生まれ、3歳で父を、5歳で母を亡くし、祖母の手で育てられ、幼い頃は病気ばかりの虚弱児だったそうだ。
小学校を中退し、独力で植物学を学び、22歳の時に東京帝大理学部植物学教室に出入りするようになり、多くの業績が認められてその後東京帝大の講師となるのだが、金銭感覚に欠如しており、家賃が払えず追い出され結婚以来18回も引越しを繰り返したのだそうだ。

牧野富太郎書斎

その様な貧乏生活の中で借金を重ねながら貴重な本を買い集め、牧野植物園の牧野文庫には4万5千冊の蔵書が保管されているという。館内には牧野博士の借用証までが展示されてあったが、博士の借金は今のお金で億単位であったらしい。それだけの借金をしながら天衣無縫の人生を生き、95歳の天寿を全うした。
彼のスケールの大きい生き様は、ドラマ化すれば結構面白そうだ。

牧野富太郎の生涯は、次のURLがわかりやすく写真も多いのでお勧めだ。
http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/whatnew1/satomi/satomi1.html
http://www.nc-21.co.jp/dokodemo/whatnew1/satomi/satomi2.html

展示館には彼の手書きのスケッチが多数展示されていたが、細い筆で葉の細かい毛や、葉脈や根の一本一本まで精密に描かれた植物図を見て驚いてしまった。

fig46821_10.png

『青空文庫』に彼の『植物知識』という著作の全文テキストが紹介されているが、文章も素晴らしければ絵も素晴らしい。最初の文章を読むだけで、私のような植物の知識のない者でも、植物についての興味が沸々と湧いてくる。この『植物知識』のはじめの文章は次のようなものである。

「花は、率直にいえば生殖器である。有名な蘭学者の宇田川榕庵(うだがわようあん)先生は、彼の著『植学啓源』に、『花は動物の陰処の如し、生産蕃息(せいさんはんそく)の資(とり)て始まる所なり』と書いておられる。すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。そして見たところなんの醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点に充ち満ちている。まず花弁の色がわが眼を惹きつける、花香がわが鼻を撲(う)つ。なお子細に注意すると、花の形でも萼(がく)でも、注意に値せぬものはほとんどない。
この花は、種子を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現れなかったであろう。そしてその花形、花色、雌雄蕊(しゆうずい)の機能は種子を作る花の構えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司っている。(ただし最も下等なバクテリアのようなものは、体が分裂して繁殖する。)」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/46821_29301.html

学生時代に生物学を学んだ時に「面白い」と思ったことはほとんどなかったのだが、この頃に牧野富太郎のこういう文章に触れていれば、植物学に興味を覚えたかもれない。

いのまち紙の博物館

牧野植物園から、「いの町紙の博物館」に向かう。
紙が発明されたのは1900年くらい前の中国だが、西暦610年ごろに曇徴(どんちょう)という高麗(いまの朝鮮)の僧侶によってわが国に紙が伝えられ、それが各地に拡がり工夫を重ねて日本独特の手漉き和紙を作り上げたのだそうだ。
土佐和紙には古い歴史があり、平安時代の延長5年(927)に延喜式献上品として奉書紙・杉原紙を献納したという記録や、「土佐日記」で知られる紀貫之が土佐の国司として製紙業を奨励したという記録があるのだそうだ。
いの町は清流仁淀川に沿った町で、古くから「紙の町」として発展したところであるが、いまでは町内に14戸の工場が残されているだけだという。

いのまち紙漉き

「いの町紙の博物館」では、土佐和紙の歴史と、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)といった紙の原料から手漉きの手法により土佐和紙になるまでの工程を見ることができるし、土佐和紙の手漉き体験もできるようだ。

紙の原料となる楮や三椏を見たのは初めてだが、この木の枝を蒸して皮をはいで乾かして紙を作ることを考えた昔の人はつくづくすごいと思う。木材パルプを用いる西洋紙とは違い毎年収穫できるので、環境を破壊することもない。
楮も三椏も雨が多く暖かい土地でよく育ち、高知県の山々は特に栽培に適した環境で、全国の和紙の原料の半分以上は高知県で生産されているのだそうだ。

この博物館から20分ほど仁淀川沿いを走ると、「水辺の駅あいの里仁淀川食堂」というところがある。ここで予定通り昼食をとる。

アユの塩焼き定食

昼食のメニューは、鮎の塩焼き定食と初めから決めていた。清流仁淀川を眺めながら食べる鮎はとても旨かった。

次に向かったのは、ネットで写真を見てどうしても行きたいと思っていた「にこ淵」。
この「にこ淵」は太陽の光が差し込む時間帯である昼の1時前後が最も神秘的で美しいと書かれていたので、この場所にこの時間帯に着くためにこの日の旅程を考えていたし、狭い山道を歩けるよう、滑りにくい靴まで履いて用意万端だ。この日は朝から快晴で、最高のコンディションだ。

「にこ淵」への行き方は、いろんな人が書いているが、私は次のURLを参考にした。
http://www.geocities.jp/kurumilk_web/hyogo/taki0901/nikobuti.htm
http://blog.livedoor.jp/hami_orz/archives/51846464.html

私のカーナビではこの「にこ淵」を認識しないので、「グリーンパークほどの」を目的地に登録して、走行距離を確認しながら目的地にたどり着いた。R194から「グリーンパークほどの」の案内板を目印に右折し、そこから1.7kmほど進むと、道路左下に「にこ淵」と書いた看板がある。車は少し先に数台停めるスペースがある。

「にこ淵」の入り口から狭い急坂を降りていくが、地面は滑りやすく、何箇所かは木の枝を掴んだりロープを伝って進んだり、梯子を下りたりするところなので、手荷物は絶対に持たないほうが良い。
何度かスリルを味わいながら、4分もすれば素晴らしい「にこ淵」の全貌が見えてくる。

にこ淵

これが「にこ淵」だが、こんなに美しい滝はこれまで見たことがない。落差は7mぐらいあるだろうか。この滝と大きな淵の神秘的なエメラルドグリーンの色がとても絵になる景色なのだ。
瀑音を聞きながら、晴天の日の昼頃しか見られないこの美しい空間にしばらくいるだけで、心も体も洗われてとても清新な気分になれた。

   <つづく>
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仁淀川町の安居渓谷から長州大工の名建築・河嶋山神社を訪ねて~~高知方面旅行3

神秘的な「にこ淵」の景観を楽しんでから、次の目的地である仁淀川町の安居渓谷に向かう。

私が仁淀川町に行ってみたいと思ったのは、今年の春にNHKスペシャルで「仁淀川 青の神秘」という番組が放映されて、日本一の清流である仁淀川に興味をもったからである。
安居渓谷は仁淀川の支流の安居川にある渓谷だが、この渓谷をNHKスペシャルで随分長い間放映していたので絶対に行こうと思っていた。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0325/

仁淀川町で遊ぶ本

いつでも旅行に行く前にはいろいろ下調べをするのだが、その時に仁淀川町が『仁淀川町で遊ぶ本』という素晴らしいガイドブックを制作されたことを知った。この本を読むと仁淀川町の景勝地やお祭りや地図などが網羅されていて、仁淀川町に行ってみたいと思っている方は、事前に手に入れておくことをお勧めしたい。全ページのPDFが次のURLで公開されているが、私は宿泊先から1冊送付していただいた。
http://www.town.niyodogawa.lg.jp/life/life_dtl.php?hdnKey=1004

安居渓谷につながる道だけではなく、仁淀川町の道は国道を除いては概して狭い道が多いのだが、昨日、箸蔵寺や豊楽寺に行く際にもっと細い道を走ったので、運転にも大分慣れてきたようだ。たまに対向車が来ても、待避所が所々にあるのでなんとかなるものである。

安居渓谷の道

安居渓谷にある宿泊施設の宝来荘の近くに駐車場がある。すぐ近くに「乙女河原」と呼ばれる場所があり、そこから「飛龍の滝」を目指して進む。渓谷に入ると、手つかずの森があり、鳥のさえずりを聞き、歩きながら水と戯れるのが楽しい。透明度の高い水の流れの中に、時折アメゴが泳いでいるのが見える。

飛龍の滝

15分ぐらいで「飛龍の滝」に到着した。
なかなか迫力のある見事な滝である。落差は30mくらいあるだろうか。
この迫力のある瀑音とともに美しい滝を見ているだけで、不思議にエネルギーが漲ってくる。何枚かカメラに収めたのだが、画像だけではとてもこの迫力を伝えることができないのが残念だ。

もう少し時間があれば、「昇龍の滝」や「背龍の滝」や「みかえりの滝」など、他にもいくつか滝があるのだが、仁淀川町はただ自然が美しいだけではない。数百年にわたる貴重な伝統文化が受け継がれてきている土地柄なのだ。
この安居地区には国の重要無形民俗文化財である「安居神楽」がこの近くの八所河内神社(偶数年の12月8日)、熊野神社(奇数年の12月12日)に毎年奉納されるのだそうだ。
安居神楽の由来は延元元年(1336)戦乱の京都から落ち延びてきた神主が伝えたとする説があるようだが、いつから始まったかについては確かなことは分からない。神楽本は寛政2年(1790)のものが残っており、かなり古くから代々伝統の舞が受け継がれてきていることについては間違いがない。
Youtubeで、安居神楽のいくつかの舞を見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=ufPfnUZ17NU

仁淀川町には神楽の伝統が他の集落にも残されておりいずれも国の重要無形民俗文化財に指定されている。
一つは「名野川磐門(なのかわいわと)神楽」で平家の落人であった古式部の子孫・日浦小太夫が400年前に伝えたとされ、毎年11月から12月にかけて地元の7~8社で奉納されている。

もう一つは土佐最古の神楽と言われ、土佐三大神楽の一つとされる「池川神楽」で、元禄2年(1593)年の「神代神楽神儀」に存在が記されており、確実に400年以上の歴史がある。

P10740M.jpg

Youtubeを検索すると「四天の舞」で大蛮(だいばん)という鬼神が登場する場面が見つかった。
https://www.youtube.com/watch?v=O1QowtBXM9Q&feature=relmfu

価値のある文化を持つことは地元で生きる人々の誇りとなり、それが世代を超えて地域の人々の絆を強める仕組みの一つになっていたと思う。
しかし、当たり前の事ではあるのだが、地方の伝統文化がその地域で世代から世代に継承されていくためには、若い世代が地元に残って家族を養えるだけの収入が得られる仕事があることが不可欠である。
神楽は氏神様を喜ばせるための舞であって、それが一家の収入に結びつくものではない。仁淀川町に限らず過疎に悩む集落で、その地方の伝統文化を守り続けることには大変な苦労があるはずだ。

池川神社

「池川神楽」の舞台である池川神社に向かった。上の画像が池川神社の本殿である。
毎年この場所で11月23日、12月31日、1月1日に「池川神楽」が奉納されるのだそうだ。

ところで池川神社のすぐ近くに、「池川茶園」というスイーツの店がある。
仁淀川町は高知県一のお茶の産地であちこちに茶畑があるのだが、「池川茶園」は地元の茶農家の女性が立ち上げた小さなお店だ。

茶畑プリン

商品は「茶畑プリン」で「かぶせ茶プリン」(上画像)と「ほうじ茶プリン」の2種類なのだが、どちらもとても上品な味で、見た目も美しく、これなら日本中どこに出しても通用すると思う。またすぐ近くを流れる仁淀川を眺めることができるロケーションも良く、近く来たらぜひ立ち寄られることをお勧めする。次のURLが池川茶園のHPだ。
http://www.ikegawachaen.jp/concept/index.html

仁淀川町は雨量が多く岩がちな斜面は水捌けも良く、昼と夜の寒暖差が大きいなどお茶の栽培に極めて適しているのだそうだ。
古くは千年以上前に弘法大師が修行に来て、野生の山茶で喫茶法を教えたという伝説があるようだが、文献では400年以上前の「長宗我部地検帳」に、お茶と紙の原料である楮(こうぞ)が基幹作物であることが書かれているという。

『仁淀川町で遊ぶ本』を読んで仁淀川町が高知県最大のお茶どころであることを初めて知ったのだが、そのことが余り知られていない理由はどこにあるのだろうか。
高知新聞の平成21年9月1日付の記事によると、高知県は中四国最大の茶産地であり、「栽培面積600ヘクタール。生産量は年間3千トン余り。その7割近くを仁淀川流域で生産している。」のだそうだ。
http://www.kochinews.co.jp/tosafukunen/asu06.htm

それだけのお茶を生産しながら知名度がないのは独自のブランドを持たないためである。高知新聞のその記事には重要な指摘がある。しばらく引用してみたい。
「同流域の茶葉は長らく静岡、京都などの茶師に愛される高品質の『地産外商』商品。香りと味、長年築いてきた生産、製茶技術は西日本でも有数のレベルを誇る。
だが、ブレンド茶に利用されたため、産地としての知名度は皆無。一方で、同協議会などの調査で本県消費茶葉の半分以上が県外産だったことも判明した。地産地消には寄与していなかったのだ。
同協議会のテーマは「ブレンド茶からブランド茶へ」。現在、9割以上を占める静岡市場への出荷分を減らし、地元で売る製品茶を3年間で生産量の7%から15%に増やす。」

なんと、良質の茶葉の大半が静岡や京都に流れ、地元の高知県でも他府県の茶葉が消費されていたのだ。どんな商品であれ、原料として供給するだけでは生産者は潤わない。加工して製品にすることまで関わらなければまともな利益にはならないだろう。

今の時代は、ネットショップなどで有名なブランド茶よりもおいしいお茶が送料込み価格で安く買える仕組みがあれば、都会の消費者は必ず飛び付くと思う。そういう消費者を増やしていけば、流通業者に安く買いたたかれることは次第になくなっていくはずだ。普通に考えれば、良質の原料が入らなくなって困るのは、いままで仁淀川茶をブレンドすることによってブランド価値を維持していた業者の方ではないのか。

ネットショップの隆盛は、地方の零細な生産者にとっては大きなチャンスだと考えている。
宅配便などを使って都市部の消費者との直接取引が増えれば、大手流通や他地方の業者に卸すよりもはるかに多くの収入を得ることができる。知名度が上がればお茶以外にスイーツや抹茶などの加工品などにも取り組むことが可能になるだろう。そうなれば新たな雇用が生まれる。
地元の生産者が潤い、地元で働く場所が増えて若い世代が戻るようになれば地域の伝統文化も守れるのではないか。仁淀川町のお茶の知名度を、まずは高知県で浸透させ、四国から全国に段階的に広める取り組みを期待したい。

旅行二日目の最後の目的地は、仁淀川町の百川内にある河嶋山神社。

この神社は普通の地図には載っていないし、カーナビなどにも登録されていないような無名の神社なのだが、ネットで調べると「長州大工」が建てたもので建築彫刻が素晴らしい事をいろんな人が書いているし、高知新聞にも今年9月19日の朝刊で「威風堂々のたたずまい」「山里に残る巧みな技」と紹介されたようなので行ってみたくなった。
http://ameblo.jp/sup2410/entry-11358999673.html

地図は『仁淀川町で遊ぶ本』に載っている。次のURLでp.74~p.75を印刷すればよい。
http://www.town.niyodogawa.lg.jp/life/life_dtl.php?hdnKey=1004
池川神社から県道494号線を北に進み道なりに進んで土居川に架る橋を渡り、左折せずにまっすぐ大野椿山方面に向かうと、しばらくして右折して大野椿山川を渡る小さな橋がある。その橋を渡るとすぐに河嶋山神社がある。鳥居の近くに車を止めるスペースがある。

河嶋山神社

上の画像が河嶋山神社だ。
境内は決して広くないが、拝殿及び本殿は確かに立派な建物で、「長州大工」の気迫を感じさせる。

河島山建築装飾

内部の木組みや彫刻がまた素晴らしい。文化財などに指定されているわけではないのだが、充分その価値はあるだろう。

この神社は嘉吉3(1443)年に大野と百川内の総氏神として、現在地より上流の敷地に「七社天神宮」の名で鎮座され、天保3(1832)年に移築し、現在も残る本殿が建立したというのだが、要するに地元の人々が建てた神社である。

河島山建築装飾2

今は百川内地区と大野地区とあわせて40数名しか住んでいないのだが、昔はもう少し住民がいたとしてもそんなに多かったとは思えないような場所に、こんなに立派な神社が建っているのは驚きだ。

ところで「長州大工」というのは「江戸時代から明治・大正の頃にかけて四国山地などに出稼ぎし、社寺などを建築した周防大島の大工」を言うのだそうだ。周防大島は山口県にあり、瀬戸内海の島としては淡路島、小豆島について大きな島だ。「長州大工」の中心が宮大工の門井家なのだそうだが、次のURLの記事に紹介されているプリントによると、この河嶋山神社建築に携わったのは門井友助という人物で、この神社は天保3年(1832)に建築されたことが分かる。
http://blogs.yahoo.co.jp/muronaka0702/13072796.html

上記URLによると、この河嶋山神社だけでなく、他にも仁淀川町のいくつかの神社が「長州大工」によって建てられていることも書かれている。
周防大島東和町の資料には「長州大工」がどこの社寺建築に関わったかというデータがあるようだが、それによると仁淀川町で108もの建築に関わったということが次のURLで紹介されている。
http://ameblo.jp/sup2410/entry-11361454778.html

今は過疎で悩む仁淀川町だが、昔は今よりもっともっと豊かな地域だったはずだ。そうでなければ、いくら質の良い木が近くにあったとしても、このような高級建築物が村人の資金を集めていくつも建てられることはなかっただろうし、神楽のような伝統文化がこのような山奥に何百年も承継されることはなかったと思うのだ。
この地域の江戸時代における富の源泉は、おそらく林業と紙の原料となる楮(こうぞ)、三椏(みつまた)の生産、土佐紙やお茶の製造、仁淀川を用いた物流などにあったと考えられる。

何百年もかけて固有の文化や伝統を培い継承してきた地域は仁淀川町に限らず全国各地にあるが、多くの地域でその文化や伝統を支えてきた仕組みが崩れてきている。
地域の文化や伝統はその地域経済の豊かさによって支えられてきたのだが、安価な海外製品や安価な原料を用いた代替品との競合を余儀なくされ、販売先も都会資本の企業に席巻されて多くは廃業し、働く場所がないために後を継ぎぐべき世代が都会に定住したまま戻ってこない。この流れを放置したままで、素晴らしい地方の文化や伝統をどうやって後世に残すことができるのだろうか。

仁淀川町に限らず、どこの地方も同じ悩みを抱えている。いくら伝統文化を承継してきた地域であっても、長い歴史を持ち文化財を保有する社寺があったとしても、地域の人々がその地で生活が出来る条件を失ってしまえば、住民の高齢化が進み、いつかは伝統文化や文化財を守ることが出来なくなる日が来てしまうだろう。

田舎の高齢化・過疎化が更に進んでいけば、水源の維持管理や治安や防災や道路の維持管理から文化財の修理や管理などの大半のコストを、いずれは都市住民が負担せざるを得ない時代が来ることになってしまうことにどれだけの政治家や都市住民が気づいているのだろうか。
日本の国土の75%は山林で、15%しかない平野に人口の半分が集中しているのだが、何の規制もなく大企業が利潤を追求できる状況を放置したままでは、国土の85%が衰退していってしまう。ある程度の規制は地域の経済循環の仕組みを活かすためには必要な施策なのではないのか。

この流れに歯止めをかけるためにはどうすればいいのか。
東北の被災地を見てもわかるように。国や県にはあまり期待できない。地域の生産者や販売業者が潤うことを、都会の消費者が消費の仕方を変えていくことで実現していくしかないのだと思う。
具体的には、消費者が大手スーパーで食品を買う回数を減らして、せめて1割でも産地直売所やネットショップなどで、特定地方の産品をその地方の生産者や取扱業者から直接買う行動をとれば、世の中の流れが変わるはずだ。あるいは少しでも多くの人が、旅行やドライブをして地方の名所などを廻りながら、その地方で少しでもお金を落として帰ることがその地方を活性化させることに繋がるのだと思う。

ゆの森夕食

高知旅行2日目の観光を終えて、宿泊先の中津渓谷ゆの森に向かう。
山の中の小さな旅館だが、おいしい空気を吸い、中津川のせせらぎの音を聞きながら、とても寛ぐことができた。
温泉にゆっくり浸かって体の芯から温まり、おいしい食事を頂いて大満足の一日だった。
<つづく>
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中津渓谷から秋葉神社に向かい、最後に武田勝頼伝説の地を訪ねて~~高知方面旅行4

朝食を摂ってから、すぐ近くの中津渓谷に向かう。この渓谷は高知県立自然公園に指定されている。

渓谷の入り口から遊歩道に入ると、巨岩・奇岩が幾つも連続し、狭い岩の間を通り抜けるようなところがいくつかあったが、よく整備されていて思ったよりも歩きやすかった。
今の季節でも充分美しい渓谷であるが、紅葉の時期は両岸が赤く色づいて、見事な景色になるのだそうだ。

雨竜の滝

15分くらい歩くと雨竜の滝に到着する。この滝はかなり近くから眺めることが出来る。晴天の日が続いて水量が少ないとはいえ、すごい迫力だ。落差は20mあるという。

竜宮淵

雨竜の滝の上流にある、竜宮淵。このあたりは特に秋の紅葉が美しいのだそうだ。

石柱

遊歩道をずっと歩くと、高さ8mの奇岩に遭遇する。石柱(いしばしら)と名付けられていて、6万年前からの水の浸食作用によってできたものと言われている。

いりもち

渓谷の散策をたっぷり楽しんでから、宿に戻って「仁淀川町で遊ぶ本」に紹介されていた「いりもち」を買って食べた。
ヨモギもちに小豆あんを入れて焼いたものだが、大阪では滅多に味わえなくなった本物のヨモギの香りが嬉しい。

旅館をチェックアウトして、次の目的地は秋葉神社だ。
この秋葉神社で毎年2月11日に土佐の三大祭りであり文化庁の無形民俗文化財に選定され高知県の保護無形民俗文化財に指定されている「秋葉祭り」の大祭が執り行われる。

国道33号線から別枝大橋を渡り、そこから秋葉神社につながる道は5km以上の細い山道だった。ここまで来ると、愛媛県との県境も近そうだ。

秋葉神社正門

これが秋葉神社の鳥居と神門だ。かなり急な階段を登りきると、拝殿と本殿があり、社務所がある。この神社の木組みや建築彫刻もまたすごい。

秋葉神社

上記画像は秋葉神社の本殿だが、脇障子に「櫻井の別れ」を題材にした彫刻がなされている。

秋葉神社木組み

本殿の腰組みも見事で、中ぞなえには十二支が彫られている。

秋葉神社うさぎ

ウサギの彫刻は特に気に入ってしまった。

前回の記事で河嶋山神社を紹介し、その建築彫刻は長州大工の門井友助によるものであることをを書いたが、次のURLで秋葉神社は門井友助の曾孫である門井鳳雲が建てたものであり、昭和15年(1940)に上棟式が行われたことがわかる。
http://blogs.yahoo.co.jp/muronaka0702/25440727.html
http://blogs.yahoo.co.jp/muronaka0702/13072796.html

この秋葉神社の由緒が案内板にこう書かれていた。
「社伝によれば 寿永年間 安徳帝の一行に 警護役としてこの地に随行してきた常陸の国筑波城主 佐藤清巌が遠州秋葉山から御祭神(秋葉様)を岩屋(現岩屋神社裏)の岩窟に勧請したのが当神社のはじまりです
秋葉様はその後 法泉寺 番所役 市川家と遷り祀られてきました 時は移り寛政年間 地区民そろって秋葉様を地区の守り神として御神徳を仰ぐことを市川家に願い出ると『年に一度の後神幸を仰ぐ』との約束で快諾 庄屋中越清太郎に指図を願うと同氏は私有地を社地に献上 地区民大いに喜び力を合わせてここに社殿を造営 御祭神を遷座しました 寛政六年(1789)一月一八日のこと」

安徳天皇

平家物語巻第十一では平家は壇の浦の戦いで敗れ、当時8歳だった安徳天皇は祖母の二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した情景が描かれていて、歴史の教科書でもそれが史実のように書かれている。しかし平家物語は平家滅亡から相当後に書かれたものであり、作者も明記されていないのだが、この平家物語に書かれていることをそのまま史実と考えていいとは思えない。

以前このブログで祖谷の平家屋敷の記事を書いたとき、安徳天皇が隠れ住んでいたと伝承されている場所が全国で20か所ほどあることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

平家方にとっては一族が再結集して再度源氏と戦うためには安徳天皇は絶対に守るべき存在であり、身代わりを壇ノ浦に送って天皇は別ルートを進んだという可能性はかなり高いのではないか。 当時は写真もなければビデオもない。平家方からすれば、子供にそれなりの衣装を着せれば、源氏方を容易に攪乱できたであろうし、実際に何人もの身代わりを作って源氏方を攪乱して本物の安徳天皇がどこにいるかわからないようにさせたから、全国で安徳天皇の伝承地が幾つも残っていると考えた方がスッキリするのだ。
一方、源氏方にとっては、安徳天皇が死んだことを広めて平家勢力の再結集を防ぎたいと考えたはずだ。だから平家物語や源平盛衰記で壇ノ浦で二位の尼と共に入水したと物語を書かせ、下関に安徳天皇陵を作り、琵琶法師に平家物語を語らせて広めようと考えることは当然のことではないのか。

安徳天皇について諸説があるのは源平の情報合戦の結果だと考えるのだが、私は壇ノ浦の戦い以降も安徳天皇が生きていた可能性は高いと思っているし、とりわけ四国の山奥で安徳天皇が守られていたということは、場所の特定は難しいにせよ、十分あり得る話だと考えている。
今回の旅行では行かなかったが、秋葉神社からさらに南に行くと安徳天皇御陵と伝承されている場所があり、その近くに白王八幡宮という神社があって平家の人々ゆかりの太鼓踊りが今も受け継がれているのだそうだ。

秋葉神社の由緒に戻ろう。
平家の落武者の一人である佐藤清巌が「遠州秋葉山」から御祭神(秋葉様)を勧請したとあるが、「秋葉様」というのは静岡県浜松市天竜区春野町にある「秋葉権現」のことで、秋葉山の山岳信仰と修験道とが融合した神仏習合の神であり、「遠州秋葉山」には観世音菩薩を本尊とする秋葉寺が存在していたという。慶応4年(1868)に神仏分離・廃仏毀釈により、「遠州秋葉山」の修験道の神である「秋葉権現」は廃され、秋葉寺は廃寺とされて祭神を火産大神(ほぶすなのみこと)とする秋葉神社として再建されたそうなのだが、ここから各地に設けられた分社は、それぞれの土地の事情で神社または寺として独立の道を歩むことになったという。
仁淀川町の秋葉神社も明治の時期に正式に神社にさせられたではないか。鳥居を過ぎると大きな神門があるのだが、この門はどこかお寺の山門に似ており、廃仏毀釈以前はここに仁王像が立っていたのかもしれない。

また案内板には寛政年間に庄屋の中越清太郎が私有地を献上して、地域の人々が力を合わせてこの地に社殿を造営したとある。要するに地元の人々がお金を出し合い、社殿建築に労力も提供したということだと思うのだが、昔の仁淀川町はよほど豊かな土地柄であったことは間違いがないだろう。
今の社殿は昭和期に改築された記録があるが、その経緯についてはいろいろネットで調べてみてもよく解らなかった。

そして寛政六年に社殿が完成してその御祭神を市川家から遷座した日である一月一八日にちなんで、旧暦の1月16日から18日にかけて秋葉祭りが行われていたのだが、平成6年(1994)になって新暦の2月9日から11日の3日間に変更されたようだ。

img00411.jpg

御神体は御輿に乗って祭りの初日に岩屋神社に安置され、翌日の夜に市川家に遷される。そして3日目が大祭で朝から市川家から約3kmの山道を登って秋葉神社に戻る「練り」が行われるのだそうだ。
秋葉神社の由緒や祭礼の起こりや練りの概要などについては、次のサイトに詳しく書かれている。
http://www.geocities.jp/kyoketu/5605.html

ほら貝の音が響き、太鼓の音とともに、黒い鳥毛や柳や幟や御輿や獅子の賑やかな「練り」の行列は大名行列の様だ。見せ場は「鳥毛ひねり」「御輿」「太刀踊り」などだが、説明するよりも動画を見たほうが良くわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=zEolD5i15D0

「練り」といってもただ歩くだけではなく、太鼓の音に合わせて踊りがある。子供も参加するので寒い中を何度も集まって練習する姿が次のURLで紹介されている。地域を挙げて5歳から80歳までの複数の世代が混ざり合って伝統の踊りを承継する環境が作られていることは素晴らしい事である。
http://www.geocities.jp/besshi_akiba/

秋葉神社から、長者地区に向かう。
画像を見て分かるように、この地区は急な斜面に石垣を積んで、何段もの棚田が作られ民家が密集している地域だ。
この場所に石垣棚田が作られたのは400年以上前のことだそうで、今では600枚の田畑があるのだという。

長者の棚田

この棚田の近くに樹齢1200年と言われる長者の大銀杏があるのだが、うまく写真を撮ることができなかった。
長者地区は昭和30年代には人口も多くて、映画館やパチンコ屋があり、星が窪集落には草競馬場まであったというのだが、今は人口が減って多くの棚田が休耕田になっているのは惜しい事である。

仁淀川町観光センターで昼食をとり、最後の目的地である寺村地区に向かう。国道33号線を走り寺村トンネルを抜けてすぐに右折し、さらにトンネルの上の道を北に進むと随分細い道になる。少し進むと寺村観音堂がある。

寺村観音堂

外見では想像できないが、このお堂の中に藤原時代に制作された木造聖観音像(町指定有形民俗文化財)が安置されているという。
この場所は大崎玄蕃(おおさきげんば)の菩提寺である成福寺(じょうふくじ)の跡地なのだそうだが、成福寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となってしまい、今ではこのお堂だけが残っている。ところで大崎玄蕃とは何者なのか。驚くなかれ、この地域には天目山の戦い(1582)を落ちのびた武田勝頼であるとの伝説があるというのだ。

武田勝頼

武田勝頼は武田信玄の四男だが、通説では天目山に向かう途中で滝川一益隊に捕えられ、嫡男の信勝とともに自害したとされている。ところが、この仁淀川町に残る伝説では、武田勝頼は織田軍との戦いで敗れはしたが影武者を使って危機を脱し、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの地に落ち延びて、大崎玄蕃と名乗ったとされている。この伝説は次のURLにわかりやすく書かれている。
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/takedakatsuyori.html

確かに気になる史料や史跡がいくつかこの地に残っているようだ。
この仁淀川町と佐川町に武田家系図が残されており、武田勝頼に関する記述はどちらもほとんど同じなのだそうだ。

また仁淀川町立中央公民館の近くに大崎八幡宮があり、そこには武田剣花菱家紋付手鏡がある。この家紋は高野山に奉蔵されている武田勝頼の肖像画と一致するのだそうだ。

http://www.kochinet.ed.jp/niyodogawa-t/ed/bunka/bunka25.html
また「ひょうたん桜」と呼ばれる有名な桜の奥に大崎半四郎の墓があり、その墓石の裏にはこう彫られているのだそうだ。
「甲斐国領主武田信玄ノ二男ニシテ大崎玄蕃ノ弟ナリ天正十三年二月八日大崎川井土居ニ轉シ大崎半四郎ト稱ス慶長十五年三月十四日土佐領主ノ追手ノ為メ遂ニ於比所ニ討死ス」
要するに、大崎半四郎は武田信玄の二男で大崎玄蕃の弟であるが、土佐領主が追手を差し向けて討ち死にしたというのだ。ほかにも武田家の墓がいくつかあるようだ。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/hansirou-haka.htm

この旅行の最後に寺村に来たのは、寺村観音堂のほかにどうしても見たいところがもう一つあったからだ。
寺村観音堂からさらに坂を上っていくと廃校となった寺村小学校の跡地がある。この近くから見る仁淀川は素晴らしい景色なので旅館の方から強く勧められていた。

さすがに寺村の道は狭いので、寺村観音堂に車を置いて歩くことにした。
坂を上っていくと仁淀川の流れが少しずつ見えてきた。
旧寺村小学校の少し先に公園のようなところがあった。そこには誰もいなかったが、いくつか椅子が用意されていて、そこから蛇行しながら悠々と流れる仁淀川の景色を見ることができた。

寺村公園の眺め

何千年も変わらず同じ場所を流れてきたこの仁淀川が、流域の各地で長い間人々を豊かにし、素晴らしい地域文化を育んできた。しかし高度成長期以降、地域の生産物が安価な海外商品の流入や代替品との競合にさらされ、和紙の需要も激減したために、この地での生活が苦しくなって若い世代の多くがこの地を去って行き、今は過疎化・高齢化の問題に直面している。
ところが、昨年の東日本大震災で新しい動きが出てきたようだ。海抜ゼロメール地帯の高知市二葉町の住民が仁淀川町との連携を模索し始めたという記事を読んだ。昨年の6月9日の「朝日新聞」の記事を見て、仁淀川町に限らず過疎で悩む地域の復興はこれしかないと思った。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-8b71.html

朝日新聞の記事にはこう書かれている。
「南海地震の津波と地盤沈下で長期浸水が想定される高知県で、沿岸の住民が、被災時に地域を挙げて『疎開』できるよう山間部の過疎地の住民と関係づくりを始めている。非常時にお世話になるかわりに、日ごろから山の農産物を購入して過疎の暮らしを支える。東日本大震災をきっかけに双方の危機感が共鳴した。」

農家にとっては農産物を大手流通に販売するよりも、高知市二葉町の住民に直売する方がより多くの収入を得られ、二葉町の住民にとっても大手スーパーよりはるかに新鮮な農産物を安く買い物ができるメリットがある。仁淀川町には廃校になった校舎や空家がいくつかある。受け皿になれるだけの土地はここには充分にあるのだ。
津波はいつどんな形で高知市の住民を襲うかは誰もわからない。いくら高い堤防を作ってもそれで津波の被害から守れる保証もないし、過去の歴史をひもとけば、もし津波が来れば相当長い間水が引かないことも分かっている。国や地方の役所が仮設住宅を作ることを期待して待つよりも、自らが疎開先を選び、その地域との交流を深めていくという動きは非常に良いことだと思う。
寺村地区から雄大で美しい仁淀川を長い間眺めながら、そんなことを考えていた。

これからもこの清流・仁淀川が流域の人々を豊かにし、都市住民との交流が更に深まり、また流域の人々が地域の価値ある伝統文化を末永く継承されていくことを祈って、3日間の旅行の帰途に就くことにした。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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