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隠れ切支丹の里

171号線の中河原交差点から忍頂寺福井線に入り、履正社茨木グラウンドから山道に入る。サニータウンを抜け大岩郵便局を過ぎると暫く樹木のトンネルのようなところを走る。そこを過ぎると、棚田が広がるのどかな田園風景になり、しばらく行くと「キリシタン遺物資料館」の案内標識がある。案内通り左折するとその資料館(茨木市大字千提寺262)がある。思ったよりも小さい資料館だった。
資料館

キリスト教がフランシスコザビエルによって天文18年(西暦1549年)に伝えられたことは、小学校や中学校や高校で習ったし、教科書や参考書にはザビエルの肖像画が必ず掲載されていた。神戸市立博物館で本物も見たことがあるが、今まで何度写真でみたかわからないあのザビエル像が、この茨木の山奥から出てきたことはここの展示物を見て初めて知った。
ザビエル像

資料館のパンフレットによると、キリシタン大名として有名な高山右近は、永禄6年(1563年)11歳の時に洗礼を受け、その後天正元年(1573年)に高槻城主となり、在城の間三島地方(現在の摂津市・茨木市・高槻市・吹田市・島本町)はキリシタン宗の一大中心地となるのだが、天正15年(1587年)豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、同様に徳川家康もキリシタン禁教令を発し、高山右近は慶長19年(1614年)に信者達とともにルソン島のマニラへ追放され、他の信者たちは死罪・流罪等の厳しい刑に処せられることになる。

そこで信者達は、表面上は仏教を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるように信仰していたのだが、大正8年(1919年)に、キリシタン研究家の藤波大超氏によりキリシタン墓碑が発見され、その後、元信者宅の「あけずの櫃」などから相次いで絵画やキリスト像や銅版画、書物などが発見されたとのことである。資料館では、元信者の子孫に当たる方からの説明を受けることができる。

このような山奥であったからこそ細々と信仰が続いたことは理解できるが、なぜこれだけ急激に、また激しくキリスト教を禁じることになった経緯が長い間腑に落ちなかった。

3年ほど前にインターネットで、秀吉が何故禁教令に踏み切ったかがスッキリ分かる解説を見つけた。日本の教科書では西洋人に都合の悪いことは書かないことになっているのでしょうか。一度読めば、誰でも秀吉の英断に納得できるのではないでしょうか。

興味のある方は、是非このサイトをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400

日本人が奴隷となって海外に売られた話は当時の宣教師の記録や伴天連追放令の11条などでも確認できます。

スペイン人がインディオを奴隷にして絶滅させたように、またポルトガル人がアフリカ原住民をその代わりの奴隷にしたように、当時の西洋では奴隷は普通の商品でした。西洋人が日本に来て、日本人を奴隷にしようという魂胆と日本を植民地化する野心を理解しなければ、秀吉や家康が何故禁教令を出し伴天連を国外追放にしたかが見えてきません。

多くの教科書では、異教徒を弾圧したくらいのことしか書かれていませんが、これでは歴史のリアリティを感じることができません。
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石清水八幡宮と松花堂弁当

徒然草の第52段に「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、或る時思い立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。」ではじまる有名な文章があるが、最近になってこの石清水八幡宮が以前は仏教を中心とする施設であったことを知った。

石清水八幡は貞観2年(860年)僧行教によって寺院として創建され、後に神仏習合で神社と共存するのだが、「男山四十八坊」と言われるように男山全体は以前は圧倒的にお寺を中心とする地域で、毎日読経が流れているような場所だったらしいのだ。
石清水案内絵図

当時の絵図をネットで見つけたが、男山には大塔や八角堂などの多くの仏教施設が書き込まれている。下は地図で場所を復元した図である。
石清水八幡宮伽藍復元図

ところが明治元年の廃仏令で僧侶は還俗させられ俗人となり、法施や読経を禁じられ、堂宇も撤去されるか、一部は神殿に変えられてしまった。またこの時期に阿弥陀如来像などの仏像や曼荼羅等の文化財はほとんどが売却されたり捨てられてしまったという。この中には国宝級の文化財も少なくなかったらしい。

京都で生まれ育ちながら石清水八幡宮へは一度も行ったことがなかったのだが、いろいろ調べると興味を覚え急に行ってみたくなり、石清水八幡宮から松花堂庭園を歩いて松花堂弁当を食べにいくコースを思いつき、先日夫婦で歩いてきた。

大山崎ICから神社の一の鳥居近くの駐車場に車を止め、京阪八幡市駅前の観光案内所でガイドマップをゲットしてから、参道を進み始める。

一の鳥居を抜けるとすぐに頓宮があり、次いで高良神社がある。 徒然草では「極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。」と書いてあり、この僧はせっかく石清水まで徒歩で来ておきながら肝心の本殿のある山に登らずに帰ったので、兼好法師は「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」と結んでいる有名な場所である。

古い絵図と見比べると、今の頓宮あたりが「極楽寺」であることがわかる。また高良神社は思いのほか小さい社だったが、以前はかなり大きい建物だったらしい。

二の鳥居を過ぎて七曲りを抜けて、裏参道に入り江戸前期に松花堂昭乗が隠棲した跡地を見たのち、石清水社の湧水石清水井を見る。さらに登ってやっと男山の山頂となり、南総門を通って本殿を参拝した。
八幡宮本殿

本殿は八幡造といわれる建築様式で、丹漆塗りの立派な建物であるが、残念ながら平成の大改造中で一部がシートで覆われていた。
エジソン記念碑

本殿の西側にエジソン記念碑があるが、この碑は電球を発明したエジソンが、フィラメントに使う素材を世界各地から集めて実験をした結果、男山の竹の繊維が一番長く輝き続けたことから、この地域の竹が白熱電球の実用化に大きな役割を果たしたことを記念したものである。

そこから山を下りて、「松花堂弁当」名前の由来となった松花堂庭園で昼食。ランチで税込3859円はやや高いが、それだけの価値はある。
松花堂弁当

松花堂庭園の中に室町期の建築である松花堂書院(京都府登録文化財)があるが、これは男山にあった泉坊(男山四十八坊の一つ)の客間を移築したものでかなり立派なものであった。当時はこのような建物が男山にいくつもあったかと思うと、残念でならない。

京都には古い寺院がいくつも残っているが、廃仏毀釈で失われた文化財も測り知れない。「廃仏毀釈」という言葉は以前から知っていたが、このすさまじさは通史を読むだけでは到底理解できないものだ。
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大山崎美術館と宝積寺

前回石清水八幡宮と松花堂庭園に行ったことを書いたが、その日は時間があったのでそれから大山崎美術館とすぐ近くの宝積寺に立ち寄った。

大山崎美術館の建物はもともとは1911年に実業家加賀正太郎が個人の別荘として建てたものだそうだが、バブルの頃にある不動産会社がこの建物を壊してマンションを開発する計画が持ち上がったらしい。地元住民からこの大正期の立派な建築物を壊すことに強い反対運動が起こる中、アサヒビールが京都府からの要請もあり、天王山山麓の景観を保全するためにこの山荘を買い上げ、1996年に美術館として再生したというものである。
大山崎美術館

その後建物の文化的価値が認められ2004年に国の有形文化財として登録されている。
旧館はレトロな雰囲気がよく、棟方志巧や河合寛次郎の作品がよく似合う。
2階にはカフェがあって、そこから眺める庭園や山の景色もよいし、木々の間から隣の宝積寺の三重塔も見える。

私が訪問した日は紅葉には早い時期だったが、庭の紅葉は素晴らしいそうだ。ネットで調べると、昨年の秋の美しい景色の写真が出ている。
http://www13.plala.or.jp/chisoku/yamaza.htm

また新館は安藤忠雄氏の設計によるモダンな建物で、モネの作品などが展示されている。

時間があったので、美術館のすぐ近くの宝積寺にも立ち寄った。このお寺はあまり観光案内などには書かれていないお寺だが、三重塔をはじめ8つの仏像などが重要文化財に指定されている。何故観光地としてあまり知られていないのが不思議なくらいである。
石清水八幡宮から大山崎へ 078

ボランティアの人が、本堂・閻魔堂の案内をしてくれた。閻魔堂は閻魔大王をはじめとする五体の鎌倉時代の仏像のために新しく建てられたものだが、間近で見る閻魔大王像をはじめとする仏像の迫力のある表情に圧倒されてしまった。これだけ明るい場所で近寄って重要文化財級の仏像を見せてくれるお寺はあまりないのではないだろうか。
img_201529_23081641_3.jpg

説明によるとこれらの仏像は、すべて明治初期の廃仏毀釈の時に廃寺となった大阪府島本町の西観音寺というお寺から移されてきたものとのことである。石清水八幡宮が廃仏毀釈で堂宇や仏像などを撤去された話を知ったばかりだけに、少しばかり複雑な思いがした。

歴史には書き残されていないものの、時代に抗って文化財を守ろうとした人々が各地にいたからこそ、日本に多くの古い寺院や仏像などが残っているのだと思う。
この日は予定外に素晴らしい仏像を拝見できて満足だった。
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虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け

龍虎図

年賀状を準備する季節になってきた。といっても、15年ほど前からずっとパソコンで年賀状を作っているのでポイントはどの図柄を選ぶかなのだが、虎の絵なら今年見てきた無量寺にある長沢芦雪の「龍虎図」が素晴らしかったのでこの虎の顔を拡大して年賀状に使うことにした。

今年の9月に南紀方面の旅行を計画していた時に、無量寺というお寺が串本にあることを知って旅程に組み入れたのだが、実際に訪れてみると小さいお寺ではあるが、境内に日本で一番小さい美術館と言われる「串本応挙芦雪館」があり、江戸時代の画家円山応挙とその高弟長沢芦雪の素晴らしい襖絵の実物を見ることができる。

無量寺は1707年の宝永地震の津波によって全壊・流出してしまうのだが、その80年後に愚海和尚によってこの寺が再建され、和尚が京都にいたときの友人であった円山応挙がその祝いとして障壁画を12面を描き、高齢のために高弟であった長沢芦雪を南紀に呼んで残りの障壁画が作成されたとのことである。

串本・太地・勝浦・熊野旅行 008

応挙の「波上群仙図」も良いが、芦雪の「龍虎図」が強く印象に残った。
「龍虎図」は名前の通り、龍の絵と虎の絵が対になっているのだが、とにかく「虎」の絵が気に入った。

虎は実は龍を睨んでいる構図なのだが、こちらを睨みつけて今にも襲いかかってきそうなすごい迫力のある絵で、この虎の絵の前でしばらく釘づけになってしまった。芦雪はこの虎の絵を、猫をモデルにして描いたと言われているが、小さい猫を見て虎のしなやかな肢体と野性味を墨と筆だけで存分に引き出しているのは本当にすごいと思う。

p050212_03.jpg

串本は本州の最南端に位置する市だが、いろいろ見るところがあって面白いし、食べるものもおいしい。今回は、お昼のお勧めスポットを書いておきたい。

無量寺を見てから、お昼は萬口(0735-62-0344)というお店で有名な鰹茶漬けを食べることにしたが、開店前から10人以上の列ができていた。もし人が並んでいなかったら入るのをやめていたかもしれないほど、外見は相当ボロボロの建物だったが、食べてみればこれだけの列ができる理由はよくわかる。病みつきになりそうな味だ。

m0030010243_1_S2.jpg

一杯目はごはんの上に特製のごまだれで漬け込んだ薄切りの新鮮な鰹を並べて海苔をのせてたれを少し使って海鮮丼風に食べるのだが、二杯目は同様に鰹を並べて海苔をのせて残りのたれを使ってお茶をかけてお茶漬け風に食べる。こんな鰹茶漬けを出してくれる店が大阪にあれば喜んで食べに行くのだが、どなたかご存知でしたら教えてください。
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紀伊大島の樫野崎灯台、トルコ軍艦慰霊碑、海金剛など

前回串本で無量寺に行って萬口の鰹茶漬けに感激したことを書いたが、串本の旅行の当初の目的はそこからくしもと大橋を渡って紀伊大島に行き、樫野崎灯台、トルコ軍艦慰霊碑、トルコ記念館、海金剛を見ることがメインだった。

樫野崎灯台wibY01

実はこの場所をずっと前から見たいと思ってきたのだが、その理由は10年前にインターネットで次の文章を読んで感激してしまったからである。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog102.html

親善訪日施設としての役目を終えて、トルコの軍艦エルトゥールル号は帰国の途に就くのだが、1890年9月16日に紀伊大島の樫野崎で台風による強風にあおられ岩礁に激突して沈没し、587名が死亡または行方不明となる大惨事となった。

串本・太地・勝浦・熊野旅行 025

ここが有名な海金剛とよばれるところ。島の右端にみえるのが樫野崎灯台である。エルトゥールル号遭難場所はこの近くだが、遭難当時樫野崎灯台下に流れ着いた生存者は、この高さ60メートル近い断崖絶壁を這い登って灯台守に遭難を知らせたそうだ。
通報をうけた樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱にあたり、非常用のニワトリを供するなど生存者の健康回復に努め、69名が日本海軍の戦艦によって1891年1月2日に晴れて母国に帰ることができたのだが、詳しくは是非紹介したサイトの記事を読んで頂きたい。この文章を読めば、何故トルコが今なお親日国家であり、何故イランイラク戦争の時になぜ孤立した日本人のために救援機を出してくれたのかを理解することができる。

串本・太地・勝浦・熊野旅行 019

ここが遭難慰霊碑。今でも5年おきに串本町とトルコ大使館共催で慰霊祭が行われている。下はトルコ記念館だ。

トルコ記念館

この遭難事件の事はトルコの教科書にも永年記述されてきたらしいが、日本人はいいことも悪いことも忘れることが少し早すぎるのではないだろうか。昔の日本人の素晴らしい話を末長く記憶に留めておく努力が少しくらいは必要だと思う。
この日は、串本海中公園を見てから太地に向かい夕食は旅館のクジラ料理で大満足。翌日の昼食はマグロ料理を食べて帰ったことは言うまでもない。

ちなみに、私が泊まった宿はここです。






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日本の歴史を変えた紀伊大島の人々

前回はエルトゥールル号事件のことを書いたが、その事件の4年前の1886年10月24日に、やはり紀伊大島で日本の歴史を変えるきっかけとなったノルマントン号の遭難事件が起こったことも書いておきたい。この事件を最初に発見したのは紀伊大島樫野崎灯台の灯台守と記録にあるので、遭難場所はエルトゥールル号の遭難場所にかなり近かったはずである。

ノルマントン号事件

記録によると発見した灯台守の連絡により百四十人余りの漁師がただちに海に乗り出して、海上を漂っていたボートから、船長ドレイク以下27人を救出した。

ところが、ここで問題が起こった。

このノルマントン号には23人の日本人船客も乗っていたのだが、日本人は誰一人として救出されずに全員水死し、ボートで船長が救出したのは一人の中国人コックを除いてすべてイギリス人ばかりだったのである。

この事件に関して、当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり、この領事による海難審判で船長ドレイク以下全員に無罪判決が下ったのだが、審判長も陪審もすべてイギリス人によって下されたこの審判に対する日本国民の怒りは大きく、日本政府は改めて船長を殺人罪で告訴し横浜領事裁判所で裁判することになるのだが、ここで出された判決も「陪審員は、船長ドレイクが殺人を犯したと判断する」としながらも、禁固三ヶ月程度で賠償を一切却下され、不平等条約の悲惨さを天下に知らしめることとなった。

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この事件を機に国内で不平等条約改正の世論が盛り上がり、日本政府も国内の法典の整備をし、欧風化を推進するなど努力をして、この事件の8年後の1894年に陸奥宗光がイギリスとの交渉により、領事裁判権の撤廃などを含む新条約締結に成功することになったのである。

ノルマントン号のイギリス人を救ったのも、エルトゥールル号の遭難者を救出したのも同じ紀伊大島の人たちで、エルトゥールル号事件の時は、4年前に起こったノルマントン号事件を恐らく経験したか少なくともその顛末を知っていたものと考えられる。それにもかかわらず、大島の人々は村中で一丸となってエルトゥールル号の遭難者を救い出したのである。

その献身的な島民の行為が、トルコとの友好のきっかけとなったことは前回記したが、ノルマントン号事件の時も、もし紀伊大島の人々がイギリス人の救出にあたらなかったら、条約改正を求める国内世論があれほどは盛り上がることはなかったし、イギリスもそう簡単には条約改正に応じることはなかったと思われるのだ。

いずれの事件も、大島の人々の献身的な行為が日本の歴史を動かす大きなきっかけとなったのである。

大島の岩礁と波

前回書き漏れたが、紀伊大島の岩礁が多く、波は非常に荒く、島全体がテーブル状になっていて海から島に入ることは容易ではない。特に樫野崎近辺は海抜60メートル近い断崖絶壁で、ボートに乗ったイギリス人を救うことも、海に漂うトルコ人を救うことも命がけの行為であったはずである。
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厳島神社と「雛めぐり」

昨年の春、桜の咲くころに宮島に旅行した。

宮島・広島・尾道・福山 063

鮮やかな朱色の鳥居や厳島神社の建物が青い海の色に映えて、あちこちで咲く桜の花がまた美しくて絵になる景色がいっぱいで、何枚も写真を撮った。

平清盛が厳島神社に平家納経を奉納したことからわかるように、この宮島も明治になる前は神仏習合の地であり、大聖院という寺院が宮島全体の僧を束ね、厳島神社の祭祀をつかさどってきた経緯にある。
ところが明治初期の廃仏毀釈で7つの寺院を残してすべての寺院を廃寺にし、厳島神社にあった厳島弁財天や千畳閣にあった釈迦如来坐像などを大願寺に移し、仏像や仏具がなくなった千畳閣は豊国神社の建物になったのだが、宮島ではあまり激しい破壊活動は起こらず、比較的古いものが残されているとのことだ。

宮島千畳敷内部 058

上の写真は千畳閣の内部だが、この祠があるあたりに本尊の釈迦如来座像があったのだろうか。

大願寺と狛犬

上の写真は大願寺で、お寺であるのに狛犬があるのが面白い。厳島弁財天や千畳閣の仏像はここに移されたとのことであるが、今回は、廃仏毀釈の話題はこれくらいにしておこう。

厳島神社の参拝を終えて古い街並みを歩いているとたまたま「雛めぐり」というイベントが宮島民俗博物館ほか何か所かで行われていて、時間がなかったので2か所だけ訪問したが、江戸時代から伝わる立派な雛人形をいくつも見ることができた。

もうすぐひな祭り(桃の節句)の日なのだが、太陽暦ではこの日に桃が咲くことはない。旧暦の3月3日は太陽暦の4月初めにあたり、この時期ならば「桃の節句」という言葉が良く理解できる。
宮島では毎年旧暦の桃の節句前の10日間(3/25~4/3)に、この「雛めぐり」を行っているようである。宮島には古い雛人形を持つ家が何件もあって、毎年展示される人形が変わるそうである。今年のパンフレットが次のサイトに出ている。
http://www.miyajima.or.jp/new/wp-content/uploads/2010/02/e38381e383a9e382b7e8a1a81.pdf
宮島雛めぐり2

上の写真はある旧家で展示されていたものだが、手前の円卓に並べられているものが大正時代のもの。奥の7段のものが昭和時代でその左右の雛人形は江戸時代のものだそうだ。
良く見ると、お内裏様とお雛様の左右の位置が時代によって変わっているのに気がつく。

古来の日本の考え方では、「左」が上位を意味しており、宮中においては天皇と皇后との左右の位置は左(向かって右)が天皇と決まっていたので、雛人形も向って右に男雛を置くならわしであったそうだ。 ところが、西洋では国王と王妃との左右は逆であったため、日本もそれに合わせようという考え方となり、大正天皇の即位以降は天皇と皇后との位置が変更になったそうだ。それに伴い人形の位置も次第に変わっていったということらしい。

宮島雛めぐり

上の写真も江戸時代のもので、かなり豪華なものである。建物には「紫宸殿」とかかれた扁額が掛けられている。

「節句」というのは、伝統的な年中行事を行う季節の節目になる日で、年に五回行われるので「五節句」と呼ばれる。(人日(七草)1/7、上巳(桃の節句)3/3、端午(菖蒲の節句) 5/5、七夕7/7、重陽(菊の節句)9/9)

節句の伝統行事は古代中国から日本に伝わったとされるがで、ひな祭りは三月の最初の巳の日に行われていた上巳節(じょうしせつ)と室町時代の貴族女性の人形遊びである「ひないまつり」が合わさって、原型ができたといわれ、安土桃山時代に貴族から武家社会に伝わり、さらに江戸時代には庶民の間に広まったそうだ。
中国では桃の木は、悪魔を払う神聖な木と考えられており、桃の花を飾ることは子供の無病息災を祈ることとつながっているとのことだ。

子供の頃には雛人形は京都の実家でも毎年飾っていたし、友人の家でも雛人形を部屋に飾っている家を良く見かけたが今ではどうなのだろうか。
昔は、雛人形をあまり長く飾ると女の子の婚期が遅れると考えられて、節句が過ぎるとすぐに片づけていたが、昔はこんな伝統を守って子供と一緒に人形を並べながら、子供を思う親の気持ちを伝え、子供は自分を思う親の気持ちを知り、将来はよき伴侶を早く見つけて幸せに生きることを幼いながらも考える機会を持ちえたのだと思う。

言葉だけではなかなか伝えられないものを、このような家庭の行事を通して小さい子供に伝えていく日本の伝統や風習は本当に素晴らしいと思うのだが、最近の日本人はこのような昔のやり方をあまりに軽視してはいないだろうか。親がいくら子供にお金を使って物を買い与えても、肝心なことが子供に伝えられなければ意味がない。
伝統や風習には様々な先人の様々な英知が詰まっており、長い年月をかけて検証された成功体験があるからこそ、これだけ長く続いているのだということを、振り返るべき時に来ているような気がする。
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祖谷のかずら橋

ずっと前から、徳島県祖谷(いや)地方に行ってみたいと思っていた。どうせ行くのなら、桜の咲きそうな季節にと思い、3/27から2日間家内と祖谷地方から金毘羅さんを巡るドライブ旅行に行ってきた。

早朝に吹田の自宅を出て11時ごろ大歩危近辺にあるもみじ亭で「祖谷そば」を食べ、大歩危の「まんなか」という旅館から出航する大歩危峡遊覧船に乗って吉野川の激流が2億年もの時を経て大自然が作り出した渓谷美を楽しむ。大歩危あたりは比較的吉野川の流れはゆったりとしており期待したほどのスリルはなかったが、景色は充分楽しむことができた。新緑の時期、秋の紅葉期などはもっと素晴らしいことだろう。

祖谷渓・こんぴら 018

祖谷地方に行くには大歩危から山道をさらに20分程度走らなければならない。
祖谷地方は日本の三大秘境の一つに数えられている場所である。三大秘境とは岐阜県白川郷、宮崎県椎葉村とこの祖谷を指すが、祖谷については別に「日本のチベット」とも言われており、平家の落人が住み着いて様々な文化を残している地として以前から興味があった。

今回は日本三大奇橋の一つである「祖谷のかずら橋」の事を書いておきたい。

まず、日本の三大奇橋と言われている場所の確認だが、困ったことにこの橋の中身は諸説あるようだ。

山梨県の猿橋、山口県岩国の錦帯橋の2つはいずれも一致しているが、3つ目は栃木県日光の神橋、徳島県祖谷のかずら橋、富山県黒部川愛本橋とわかれておりどれが正しいというものでもなさそうである。

この橋がいつからできたかについても、弘法大師が架けたとか平家の落人が架けたとか諸説がある。後者に説に関して言うと、平家の落人がこの地に住み着いたことは事実で平家屋敷が数軒残されていることは次回に書く予定だが、かずら橋は源氏の追っ手を防ぐようにかけたという説は確かに説得力がある。

記録では正保3年(1646)の「阿波国図」にかずら橋が7つ存在したと記録されているそうだ。また寛政5年(1793)の「阿波国海陸度之の帳の写」の祖谷紀行には13のかずら橋があったとされている。

阿波名所図会かずら橋

上記の図は、弘化3年(1846)に出版された「阿波名所図会」に書かれているかずら橋の絵だ。

明治44年の「美馬郡郷土史」には8本のかずら橋があった旨の記録があるそうだが、大正時代に危険防止のために全てのかずら橋をワイヤーの吊り橋に架けかえられてしまったらしい。しかし昭和2年に当時の三好郡池田町長が観光客を集めるためにかずら橋を復活すべきと考え、昭和3年に昭和のかずら橋が完成し、現在にいたっているとのことである。(危険防止のため、針金で補強されている)

現在祖谷地区にかずら橋は3つあるのだが、奥祖谷にある二重かずら橋は通行できるのは毎年4月から11月なので今回の旅行では行くのをやめた。

祖谷渓・こんぴら 038

写真のかずら橋は西祖谷山村善徳にあるもので長さが45mあり、祖谷の3つのかずら橋の中では最も大きく、現在重要有形民俗文化財に指定されている。通行料は通常500円だがJAF会員の10%割引があった。

はじめは簡単に渡れるつもりで軽い気持ちで渡り始めたが、橋の床の部分は板が半分、隙間が半分で14m下の谷底が丸見えで、橋全体がゆらゆら揺れるのは結構怖く、カメラのシャッターを押すのに冷や汗が出た。

今もかずら橋は3年に一度架け替えられているのだが、橋に使うシラクチカズラが10年以上前から不足するようになってきたらしい。

以前はシラクチカズラは祖谷の山に沢山あったのだが、植林したスギやヒノキに絡みついて成長を妨げるとして切られるようになったため、急に少なくなったそうである。

何年か前にシラクチカズラの試験栽培を始めるとの記事を読んだことがあるが、うまくいっているのだろうか。祖谷の象徴ともいえるかずら橋はいつまでも残しておいてほしいものだ。

祖谷渓・こんぴら 050

かずら橋を渡るとすぐ近くに琵琶の滝がある。落差30mの結構大きな滝で、かって平家の落人たちがこの場所で都を偲んで琵琶を奏でて慰めあったとの言い伝えがあるそうだ。
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祖谷の平家屋敷と平家落人伝説

前回はかずら橋のことを書いたが、祖谷(いや)は平家落人伝説でも有名な場所でもある。 屋島の戦いで敗れた平国盛率いる残党がこの祖谷に住んだと言われているのだ。

Wikipediaによると、平家の落人が住み着いたと言われている地が全国で132ヶ所もあるらしい。脚色された信憑性の薄いものもかなりあるそうだが、祖谷地区には何軒も平家の末裔の住んでいた武家屋敷が残されており、平家の赤旗なども残されている。平家の末裔が住んでいたことについては確実だろう。

しかし、祖谷地区の平家伝説では安徳天皇がここで生きていたことになっている。平家物語巻第十一では平家は壇の浦の戦いで敗れ、当時8歳だった安徳天皇は祖母の二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した情景が描かれていて、歴史の教科書でもそのように書かれている。

安徳天皇

祖谷の伝承では「屋島の戦いに敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、讃岐山脈を越え、阿波の国の吉野川に出て南岸に渡った。」ことになっているのだが、実は安徳天皇に関しては祖谷をはじめ、鹿児島県三島村や対馬など全国で20か所ほど安徳天皇が隠れ住んだと伝承されている場所があるという。

安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間に生まれ、清盛が高倉天皇を廃位させてわずか2歳の時(治承4年:1180)に天皇に即位している。もちろん政治の実権は清盛が握ったのだが、その年には源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家を破り、翌年に平清盛が死んでからは平家は源氏との戦に敗れ続けていくのである。

屋島の戦いが文治2年(1185)の2月、壇の浦の戦いが3月だが、屋島の戦いに敗れて平家軍の一部が天皇を連れて陸路で祖谷に向かうということは充分考えられることだ。

将来平氏を再興させ一族郎党を再結集させるためには、平清盛の孫である安徳天皇はなくてはならない存在であることは誰でもわかる。当時はカメラも何もなかったのであるから、源氏も平家も天皇の顔がわかる人は少数であったはずである。だから、良く似た子供を探して衣装を替えて本人とすり替えても源氏の兵士にはまずわからないし、「実は安徳天皇は生きている」と言い続ければ相手を撹乱し、同時に味方を引き付けることができる。

全国各地に安徳天皇が生きていたという伝説が残っているのは平家側が情報戦をかけた結果なのではないか。あるいは本当に安徳天皇が生きていて、どこにいるかわからないように工作したことも考えられる。
一方源氏側では、安徳天皇が死んでしまったことを広めて、平家勢力の再結集を防ぎたい。だから、平家物語にも書かせ、源平盛衰記にも書かせ、安徳天皇陵を下関に作り、琵琶法師に平家物語を語らせた。これらは源氏側の情報戦とは考えられないか。

そもそも鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」には壇の浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」としか書かれていない。あまりにも簡単すぎる。

二位の尼と安徳天皇が入水したことや平家の武将が次々と入水したようなことは後世の作り話の可能性があるのではないか。平家物語も源平盛衰記も平家滅亡から相当後に書かれた物語で、これだけの作品が書かれた時期も作者も明記されていないのはどこか奇妙でもある。この物語の記述をそのまま鵜呑みにして歴史的史実としていいのだろうか。

祖谷の話に戻ろう。前回に大歩危峡遊覧船の事を書いたが、そこから車で10分程度走ると平家民俗資料館という所がある。
祖谷渓・こんぴら 032

この屋敷は安徳天皇の御典医であった堀川内記とその子孫が代々住んでいた。中には平家の軍旗である赤旗や武具や生活用具、農機具などが展示されている。JAF会員の1割引もある。

ここからかずら橋を見て、それから東祖谷歴史民俗資料館に立ち寄った。ここでも赤旗や生活用具や農具などが展示されている。ビデオによる解説も興味深い。

次に、祖谷地区で最も大きい武家屋敷である喜多家を目指す。この屋敷は平家の末裔である小野寺氏を祖にする家柄で、今の建物は宝暦13年(1763)に建てられたものである。
祖谷渓・こんぴら 064

この建物は公開が毎年4月1日から11月末日までと聞いていたのだが、近くにある樹齢800年の県下一の杉の巨木である「鉾杉」が見たくて立ち寄った。
祖谷渓・こんぴら 073

これが鉾杉だが高さが35m、幹の周りが11mもあるのだそうだ。
たまたま喜多家は公開に向けての準備中で、運よく無料で見学させていただいたが、写真にはビニールシートが写ってしまった。

この喜多家は道幅3メートル程度の狭い山道を5㌔以上走らないとたどり着けない。退避所が何か所かあるが、観光シーズンに車がすれ違うのは大変だと思う。帰り道で運悪くトラックと出合い、細いS字カーブをバックで退避所まで辿り着くのには冷や汗ものだった。

最後に、祖谷渓の奥にある「小便小僧」を見に行く。このように深い谷が10km近く続き、谷は深い所で100mを超え、まさに深山幽谷と呼ぶべき場所である。

祖谷渓・こんぴら 083

夕刻5時頃にホテル「秘境の湯」に到着。このホテルは施設も食事もお風呂もサービスも良好で、気持ち良く過ごすことができた。
祖谷渓・こんぴら 084

平家一族の歴史ロマンを感じさせる楽しい一日であった。
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【ご参考】
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明治初期までは寺院だった「こんぴらさん」

前回は先週行った徳島・香川方面旅行の1日目のことを書いた。その日は祖谷のホテルで一泊し、2日目は「こんぴらさん」に向かう旅程だ。

「こんぴらさん」へは今まで一度も行ったことがなかったのだが、急にここに行きたくなったのは昨年来廃仏毀釈に興味を覚えて調べているうちに、廃仏毀釈が起こるまではここは象頭山金光院松尾寺という真言宗の寺院であったことを知ったからである。

金毘羅参詣名所図会

上の絵図は江戸時代の「金毘羅参詣名所図会」の象頭山金光院松尾寺の図だが、左に多宝塔が描かれているのがわかる。

松尾寺の開基は805年とかなり古く、金比羅大権現が守護神だったのだが、「金毘羅」とは梵後(インドの古代語)のKumbhiraの音訳で、「雑阿含経」や「金光明経」、「大宝積経」、「薬師如来本願経」に出てくる印度仏教の神であり仏教守護の神である。

ところが明治に入って、「凡そ神と名のつくものはすべて日本神道のもの」という狂信により、仏教施設が徹底的に破壊してしまった。そして、誰もが今も「こんぴらさん」と呼んでいる施設名を、仏教色のない「金刀比羅宮」とし、町の名前もご丁寧に明治六年に「金毘羅町」から「琴平町」に改称している。

佐伯恵達氏の著書「廃仏毀釈100年」には「明治元年の令達によって、別当職の僧宥常は還俗して琴陵宥常と改名し、金毘羅を改めて金刀比羅宮となし、その宮司となったのです。千古以来の建築物は、仏像仏具類を廃棄して神社にしてしまいました。すなわち、阿弥陀堂が若比売社、観音堂が大年社、薬師堂が旭社、不動明王が津嶋神社、摩利支天堂・毘沙門堂が常盤神社、日子神社、孔雀堂が天満宮、多宝塔は明治三年六月に打ちこわし、経蔵や文庫・鐘楼も打ちこわし、大門は左右金剛力士像を撤去し、二天門も左右の多聞天、持国天の二像を撤去し、万灯堂は火産霊社に、大行事堂は産須毘社に、行者堂は明治五年にうちこわし、山神社は大山祇社と、ことごとく名前を変えて神社として使用することになりました。…こうして、金毘羅大権現も、祭神としての大物主神や崇徳天皇へとすり替えられてしまいました。(引用終わり)」と、書かれている。
ということは、今の「こんぴらさん」には金毘羅大権現はなく、根強いこんぴら信仰に基づく参拝が途絶えないように、良く似た名前の神社名に変えたということだ。
参考までに元禄期の地図と、平成の地図を用意したので、見較べていただきたい。
konpira_genroku.jpg
konpira_genzais.jpg

これは徹底した文化破壊であり腹立たしいのだが、なぜこのような歴史的事実が正しく伝えられないのだろうか。

金毘羅大権現の別当職の僧宥常は、明治元年3月に神仏分離令が出て翌4月には大権現は日本古来の神ではない旨の上申書を提出したが、翌5月には豹変し大国主命と同体であると認める嘆願書を提出している。6月には松尾寺の堂宇を改廃する旨申告し、琴平神社と改名までしている。

この時に神社化に反対した僧侶も少なからずいたようだが、別当職の僧宥常に信者を守り歴史ある文化財を何とか守ろうとした姿が見えてこない。見えてくるのは、自分自身の保身ばかりではないか。

この時期に松尾寺の僧侶がどういう行動をとったかは次回に記すことにして、話を先週の旅行に戻そう。
祖谷のホテルを出て1時間半くらいで目的地近辺に到着し、民間の駐車場に車を預けた。
商店が並ぶ筋を抜けていよいよ階段を上り始める。

祖谷渓・こんぴら 099

最初の施設は365段目にある「大門」。
この大門には左右に金剛力士像があったはずなのだが、今は人形のような随身像が置かれている。

祖谷渓・こんぴら 101

途中で「宝物館」に立ち寄る。1階には三十六歌仙の絵と歌がかかれた絵などが展示されているが、2階に上がると、奥の方にこんな阿弥陀如来像が展示されていた。
祖谷渓・こんぴら 106

この仏像は廃仏毀釈によって川にでも投げ込まれたのであろうか、顔などの輪郭が殆どわからなくなってしまっている。このような破損仏が3体ほど、何の解説文もなく並べられていたが、何故、仏像としては価値を失ったものを「宝物館」に展示するのだろうと考え込んでしまった。

次に「書院」に入る。ここは松尾寺の本坊・金光院のあったところで、円山応挙の障壁画などが残されている。

祖谷渓・こんぴら 111

これが629段目の「旭社」。
祖谷渓・こんぴら 117

以前は松尾寺の金堂であり須弥檀があって仏像が並んでいたのだろうが、今では中はこんな状態になっている。

祖谷渓・こんぴら 118

ここが785段目の金刀比羅宮の御本宮。

祖谷渓・こんぴら 123

この日は快晴で、展望台から眺める讃岐平野の眺めは良かった。
祖谷渓・こんぴら 124

奥の院までは1368段。夫婦とも杖なしで完走して帰路に着いた。

昼食は、いろいろ讃岐うどんのおいしい店をネットで調べていたところに車で行くつもりだったのだが、おなかがすいたので参道の商店街にある「こんぴらうどん」に入る。職人が足踏みし手打ちして包丁切りしたばかりの麺でいただいた「生しょうゆうどん」は、歯ごたえがよく旨かったので、お土産のうどんは全部ここで買って帰ることにした。

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「こんぴら」信仰と金刀比羅宮の絵馬堂

「こんぴらさん」の長い石段を785段登ったところに、金刀比羅宮の御本宮があり、三穂津姫社があり、その隣に絵馬堂がある。

祖谷渓・こんぴら 128

「絵馬堂」には大手や中小の船会社が航海の安全を祈念したり、大漁を祈願する絵馬が所狭しと吊るされている。これは「こんぴらさん」が海の神様だと信じられているからである。

祖谷渓・こんぴら 129


船だけでなく飛行機や日本人で最初の宇宙飛行士となった秋山豊寛氏の絵馬まで並べられている。海の神様が、空まで面倒を見てくれると考えられているのが面白い。

しかし、肝心の航海の神様である「こんぴらさん」こと金毘羅大権現は、明治の廃仏毀釈以降は金刀比羅宮には存在していないのだ。

金刀比羅宮の公式ホームページには「金刀比羅宮には主たる祭神の大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。大物主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。」と書かれている。

この文章は変な文章だ。少なくとも廃仏毀釈までは「漁業航海…神徳を持つ神様として、…厚い信仰を集め」たのは金毘羅大権現の「こんぴら信仰」があったからなのだが、この文章は明治以降のことだけを語っているのか。

金毘羅大権現が廃仏して御祭神が変わってしまったことが遍く知れわたっては、参拝者が激減してしまう。そこで多くの観光客が、御祭神が変わったことを気づかずに参拝できるよう「金刀比羅宮」と、「金毘羅」とよく似た名前を考案したことは容易に想像がつく。

祖谷渓・こんぴら 123

御祭神が「金毘羅大権現」だと思っている参拝者は今も多いと思うのだが、神社参拝の場合は御祭神を見ないで帰るので何も気づかずに参拝して帰ることになってしまう。

前回このブログで、廃仏毀釈の時に神社化に反対した僧侶がいたことを記した。
当時松尾寺には金光院があり、その支配下に真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があったが、そのうちの尊勝院、普門院がその当時神社化に強く反対したらしい。
その普門院が金毘羅大権現、釈迦如来等を引き継いで松尾寺と名を変えて法灯を継いだのだが、その松尾寺が明治42年に金刀比羅宮を相手取り「現金刀比羅宮の建物・宝物は元来金刀比羅宮のものではなく、松尾寺のものである。」とする訴訟を起こしていることを見つけて興味を覚えた。
いろいろネットで調べると、次のサイトに「六大新報」という宗教新聞に訴訟に至るまでの両者交渉経緯についての面白い記事(明治41年12月20日付)が転載されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/sos_kotohira.htm
簡単に記事を紹介すると、
明治元年9月:松尾寺金光院の宥常は復飾改名し宮司となり、僧侶二十数名のうち2,3の還俗者を除いては一時金を得て四散したが、普門院宥暁のみは強硬に理を持って、寺院維持を主張した。そこでついに松尾寺一山の堂塔を旧照明寺(寺跡あり)に移し、松尾寺の 法灯を継承することを条件に、松尾寺の私有財産を売却し、家来に分配した。
仏像仏具経巻その他什器は宥暁に引継ぐまでは金堂(現旭社)に格納し、一切の山規寺法などの書類を普門院宥暁に渡した。

明治4年に普門院を金光院の別邸の地に放逐し、宥常は金堂に格納した仏像・仏具を宥暁に引き渡そうとしたが、普門院宥暁は盛大なる引渡し儀式を計画したため、社務所側では再び維新以前の状態に戻ること(金毘羅大権現は寺院であり)を恐れ、前約束は反故にし、一切の仏像などを焼却することに決定した。
一切の物件は元神護院還俗・神埼勝海が総督になり、浦の谷に持ち行き、仁王尊をはじめ仏像仏具経巻などの大過を焼却した。 その折、宥盛法印の木造を火中すると暴風が起き総督は気絶したという。焼却されなかった物もこの騒動で皆紛失した。

その後3代にわたり、松尾寺は社務所と交渉するも回復策に尽力したのだが、社務所側の抵抗が強く事態は好転しなかったので、終に訴訟に及んだとの経緯である。

この訴訟は明治43年7月に裁判所で判決が出て、原告の請求を棄却している。
棄却理由は、明治維新の改革で金光院は還俗し、金刀比羅宮に一切を譲った。この時点で松尾寺金光院は消滅している。現松尾寺はその所有権を主張する正統性はない、というような内容だったそうだ。

松尾寺は、今も金刀比羅宮の参道を外れて海の科学館の近くにあるようである。明治のあの時期に普門院宥暁が黙って宥常から仏像仏具を受け取っていれば、多くの文化財が残されたことだろう。

これだけ由緒のある名所旧跡でありながら、金刀比羅宮には重要文化財はあっても国宝が1件も存在しないのは以上記した経緯によるものである。
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数奇な運命をたどって岡山県西大寺に残された「こんぴらさん」の仏像

先月の徳島県祖谷(いや)地方から「こんぴらさん」を巡る旅行の下調べをしていた時に、「こんぴらさん」の2体の仏像が海を渡って、「裸祭り」で名高い岡山県の西大寺観音院に安置されていることを次のサイトで知り興味を持った。
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/konpira.html

裸祭り

どういう事情で、「こんぴらさん」の仏像が西大寺観音院に行ったのだろうか。

西大寺観音院の公式ホームページには
「…明治維新のころ神国日本は古来の神をこそ祀るべきで、渡来した神仏を祀る必要は無く、よって仏像・寺院は破壊するべきだ”という廃仏毀釈の運動が起こり、仏教は迫害された。」
「 讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎(すなみすけごろう)宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。」
「その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、当山住職の長田光阿上人が明治15年3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。(引用終わり)」と記されている。

角南助五郎の故郷である「津田村君津」とは現岡山市の南東郊外であり、宥明はこの二体の仏像を船で持ち出したことになる。今でこそ車や電車で瀬戸内海を簡単に渡れるようにはなったが、今の瀬戸内自動車道で坂出ICから早島ICから37.3kmもある。仏像が保管されていた「旭社」(前松尾寺金堂)から、629段の階段を気づかれずに運んで下りるのも大変な苦労があったろう。

西大寺不動明王

上の仏像が、「こんぴらさん」から持ち出された不動明王像。

西大寺毘沙門天

この仏像が、「こんぴらさん」から持ち出された毘沙門天像である。

前回の記事に書いたが、当時松尾寺は金光院を中心とし、その支配下に真光院、万福院、神護院、尊勝院、普門院があったが、そのうちの尊勝院、普門院がその当時神社化に強く反対したという。万福院は神社化に賛成した側であった。その万福院の住職宥明師が「こんぴらさん」の仏像2体を救ったのである。賛成した側であったからこそ、疑われずに持ち出すことが可能だったのかも知れない。

前回紹介した「六大新報」の記事では、いつ頃金刀比羅宮による仏像等の破壊があったかがはっきりしなかったが、元岡山藩主の池田章政公は明治二年の版籍奉還で岡山藩知事となり、明治4年11月の廃藩置県で免官となっているので、明治4年の秋までに仏像破壊等があり、その直前に万福院の住職宥明師が二体の仏像を持ち出したか、破壊活動中に暴風が吹いて神埼勝海総督が気絶したとされるタイミングを狙って持ち出したか良く分からないが、いずれにせよ暗夜に運び出して、大変な苦労をして角南助五郎宅に持ち込んだことと思われる。そして池田章政知事の指示で知事の祈願寺の円務院に移された時は関係者の誰もが、「これで大丈夫だ」と安心したことであろう。

ところが、先程記したとおり廃藩置県で旧藩主は知事を解任されて東京に移り、旧藩主が持ち込みを指示した円務院も、廃仏毀釈の影響で明治5年に上石井にあった興国山長延寺に合併して同所に移り、長延寺の寺号を廃して常住寺と称した後、和気郡藤野村南光院に合併移転し、ついで大正8年2月22日現在の岡山市門田の地に移り現在は金剛山常住寺円務院と呼ぶなど大変ややこしい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-okayama-kadota-zyouzyuuzi.htm
とにかく、二体の仏像は何度も場所を変えながら数奇な運命を経て明治15年3月に西大寺住職の長田光阿(ながたこうあ)によって、西大寺観音院牛玉所殿に迎えられたのである。

四国旅行の帰りにこの仏像が見たくて西大寺観音院に立ち寄ったのだが、残念ながら秘仏のために一般公開はしていなかった。

祖谷渓・こんぴら 152

寺の僧侶によると、この二体の秘仏が安置されている牛玉所殿は現在改築中で、今年の11月3日に落慶法要が営まれるとのことである。その時の主役は牛玉大権現ではあるが、「こんぴらさん」の秘仏もこの時には見ることができるそうである。
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天平彫刻の宝庫、東大寺三月堂の解体修理

東大寺と郡山城の桜 069

東大寺は治承4年(1180年)の平重衡の兵火と、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵乱とにより、創建当時の建物の多くが失われたが、奈良時代の建物としては転害門(てがいもん)と本坊経庫などの校倉(あぜくら)と三月堂(法華堂)が残されている。

そして三月堂(法華堂)は東大寺大仏殿が建立された時代よりも前に建てられた東大寺最古の建物で、創建は天平12年(740)から19年(747)の間と言われている。

東大寺と郡山城の桜 020

東大寺は何度か行っているのだが、この三月堂(法華堂) には高校の頃に行ってから40年近く行っていない。ここには本尊の不空羂索観音立像(国宝)のほか、日光・月光菩薩立像(国宝)、執金剛神立像(国宝)、金剛力士立像(国宝)、四天王立像(国宝)など合計16体の仏像が安置されており、そのうち天平時代に制作されたものが14体(内国宝12体、重要文化財2体)もあるので、ずっと前からもう一度じっくり参拝したいと思っていたのだが、この新聞記事を読んでから早く行かなくてはと思っていた。
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/100222/art1002222108001-n2.htm

この記事および東大寺のホームページによると、鎌倉時代に作られたとされる板張りの須弥檀がシロアリの被害などで傷みが激しく、地震対策のなどのために三月堂が5月から3年間の予定で本格的解体修理に入るために5月18日から7月31日までは拝観停止になり、全仏像が一時的に移動される。

8月から入堂拝観が再開されるそうだが内陣の中には入れず礼堂からの参拝となり、堂内に残る仏像も弁才天(重要文化財)、日光菩薩・月光菩薩(国宝)、帝釋天(国宝)、梵天(国宝)、地蔵菩薩(重要文化財)、不動明王(重要文化財)の7体が予定されているだけだ。

そして3年後の修理完成後は塑像の日光・月光菩薩立像(国宝)と弁財天堂(重要文化財)、吉祥天像(重要文化財)の4体は、南大門近くで建設されている寺総合文化センターに半永久的に移されると書いてある。

ということは、16体の仏像が須弥檀に林立する姿があとおおよそ1ヶ月で見られなくなってしまうのだ。

というわけで先日、桜の咲く東大寺大仏殿を横目に、家内と朝一番で東大寺三月堂へ行って来た。よほど人が多いかと思っていたのだが、修理されることがあまり知られていないのか、拝観料(@\500)を払ってすぐに内陣に入ることができたのは意外だった。

東大寺三月堂

中に入ると、林立している16体の巨大な仏像の神々しさにまず圧倒される。また、本尊の不空羂索観音像をはじめとする16体の仏像それぞれが素晴らしく、それらの仏像が醸し出す荘厳な空気が、観る人をいにしえの時代にいざなっていく。

ここは博物館ではない。仏像と観光客とは空間を共有し、遮るものは何もない。建物も、仏像も、1250年近く古いものが今も残されて目の前に祈りの対象として存在し、観光客も千年以上前と同じ状態の仏像に手を合わせて参拝することができるのだ。

度重なる兵乱や地震や台風や廃仏毀釈などの大変な危機を乗り越えて、これらの仏像が今も残されている。素晴らしい仏像を制作したことも凄いことなのだが、私は1250年近く守られて、今も信仰の対象であることに日本人の凄さを感じている。

三月堂のパンフレットには、これらの仏像を制作した仏師の名前は記されていないが、田中英道氏は、「国民の芸術」という著書の中で不空羂索観音立像(国宝)や日光・月光菩薩立像(国宝)を制作したのは国中連公麻呂(くになかむらじきみまろ)と推定している。国中連公麻呂は東大寺大仏を制作したことでも有名であるが、三月堂の秘仏である執金剛神像や東大寺戒壇院にある四天王像も公麻呂の制作だとされ、それらの仏像の質的レベルの高さから、田中英道氏は公麻呂のことを「天平のミケランジェロ」と呼んでいる。

ミケランジェロもすばらしい作品を残しているが、お寺で生まれ育った私には西洋彫刻に精神性の高さがあまり感じられず、個人的にはミケランジェロよりも天平仏の方が好きなのだ。

京都出身でありながら、仏像は奈良のものが以前から好きだったのだが、私が写真などで見て好きだった奈良の仏像の多くが、公麻呂の制作によるものであることに気がついた。、奈良の仏像が好きだったのは公麻呂の仏像が好きだったということなのか。

仏像は本来祈りのためにある。お寺の建物の中で参拝者と空間を共有できてこそ祈りの対象となりうるのだが、三月堂の14体もの天平仏を参拝できるのはあと1ヶ月が残されているだけである。
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円山応挙ゆかりの金剛寺と近隣の古刹巡り

GW中はどこへ行っても渋滞するので、高速道路は使わず近場で行けるところがないかいろいろ探したところ、京都府亀岡市に円山応挙ゆかりの寺があると知り、急に行きたくなって車でその近くの古刹と一緒に巡ってきた。

私は円山応挙の絵が大好きで、昨年の秋には和歌山県串本の無量寺、冬には兵庫県香住の大乗寺に行って円山応挙とその弟子の描いた襖絵などを鑑賞してきたことをこのブログにも書いた。

私のプロフィールで使っている虎の絵をブログ仲間から時々質問されるのだが、この虎は無量寺にある長沢芦雪の「龍虎図」の虎である。金刀比羅宮の奥書院の襖絵にも応挙の「遊虎図」という絵があり今年鑑賞してきたばかりだが、虎に関しては、私は弟子の長沢芦雪の作品のほうが好きだ。

亀岡にある円山応挙ゆかりの寺とは亀岡市にある臨済宗天竜寺派の金剛寺というお寺で、地元では「応挙寺」とも呼ばれている。
大門寺・穴太寺・金剛寺 017

この山門は明和8年(1771)年に建立されたものだが、本堂や庫裏は平成11年に再建されたばかりのものである。

円山応挙は享保18年(1733)に丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)で貧しい農家の次男として生まれ、8歳の時にこの金剛寺で小僧として生活したのだが、同寺の住職であった玉堂和尚から禅の手ほどきを受け、また画才を認められていたそうである。 玉堂和尚が亡くなってから15歳の頃に京都に出て、岩田屋という呉服屋に奉公し、その後びいどろ尾張屋勘兵衛の世話になり、17歳の頃に狩野探幽の流れをひく鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

応挙は既成概念にとらわれない斬新な発想で、従来の日本画にはなかった遠近法や写生を採り入れて画家として大成し、天明8年(1788年)応挙56歳の時に京都が天明の大火でアトリエが焼失し、一時的に亀岡の金剛寺に戻り、両親の追善供養と幼少時代の感謝の意を込め、本堂全面の襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き寄進したと言われている。

これらの作品はすべて国の重要文化財に指定されているが、1904年に「山水図」「波濤図」は東京国立博物館に寄託され、「郡仙図」は同寺の収蔵庫に保管され、毎年11月3日「文化の日」に一般に公開されるそうだ。

現在の本堂には「波濤図」の内8幅が複製されており、本堂にいけばその鑑賞が可能だが、 同寺は観光寺院ではないので通常本堂は施錠されており、本来は予約が必要だったようだ。 たまたま、運よく奥さまが庭で掃除をしておられて声をかけると、快く本堂を案内して下さってラッキーだった。

波濤図

本堂の「波濤図」は複製といってもほとんど実物の様で、ダイナミックな波のうねりが圧倒的な勢いで眼前に迫り、襖を開けても閉めても絵がつながるように緻密に構成された素晴らしい構図だ。

波濤図2

これらの応挙の襖絵が、他の作品とともにこのまま金剛寺に残されていたら素晴らしかったのだが、ネットでいろいろ調べると、明治の時期には相当建物が傷んでいたらしく、襖絵も相当傷みが激しかったようだ。そのまま襖絵を傷めてしまうよりかは国立博物館に寄託して文化財を守ることを選択されたのはやむをえなかったと思う。

この金剛寺のすぐ近くに西国三十三箇所第21番札所の穴太寺(あなおじ)がある。ここもお勧めしたい場所である。

大門寺・穴太寺・金剛寺 009

このお寺は慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大友古麻呂が開創したしたとされる。境内には本堂・多宝塔などの建物と日本庭園があるがいずれも江戸時代のものである。
大門寺・穴太寺・金剛寺 012

堂宇も庭園もすばらしく、観光客も多くなくて、心が落ち着く寺院である。

もうひとつ欲張っていったのが茨木市の山奥にある大門寺。摂津国八十八箇所霊場の第五十番札所である。

大門寺・穴太寺・金剛寺 002

寺伝によれば宝亀2年(771)に桓武天皇の兄にあたる開成皇子の開基とされるが、空海がこの地を来訪し、その際に金剛・蔵王の2像を彫刻し守護神にしたと伝えられている。 貞観年間(859~877年)には、本堂・無量寿堂・御影堂・三重塔などの諸堂を境内に有して隆盛していたらしいのだが、建久の地震や元弘の兵火により荒廃し、現在の伽藍は江戸時代初期に再建されたものである。

本尊の如意輪観世音菩薩と四天王立像はともに平安時代のもので重要文化財に指定されているが、秘仏として公開していないようだ。

大門寺・穴太寺・金剛寺 004

参道は苔むして、庭園もよく手入れされている。今は新緑の時期で緑が鮮やかだが、紅葉時期も素晴らしいようで、紅葉の名所としても知られているらしい。今年の秋でも訪れてみたい。

大門寺・穴太寺・金剛寺 006

昔は相当山深い所だったろうが、この近くを新名神高速道路が走るらしく近くで工事をしているのが見える。この鄙びた雰囲気は是非このまま残してほしいものである。

【ご参考】円山応挙の襖絵などがある串本の無量寺と香住の大乗寺

虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-273.html

香住にある国指定重要文化財を楽しんで~~~帝釈寺、大乗寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-480.html

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高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて~~高知旅行1日目

四万十川上流の高知県高岡郡四万十町にある親戚宅を訪ねることになり、自分の車を使って家内と二泊三日で5月15日から四国を旅行してきた。

四国には10年ほど前にバス旅行で行ったのだが、1泊旅行だったので足摺岬と中村と桂浜を駆け足で巡っただけだった。今年に入って祖谷と金毘羅さんを巡ったことはこのブログでも書いたが、高知県内を車で走るのは初めてだ。

5月15日、車で吹田の自宅を早朝に出て11時半ごろに高知城近辺に到着。

高知・窪川・高松方面旅行 002

まず早目の昼食をとることにして「まっぷるマガジン」にでていた「うなぎ屋せいろ」という店で「ひつ御膳」を頂いたが、ここのうなぎはサクサクとした歯触りでとても旨かった。高知城に近いので、同店の契約駐車場に車を置いたまま高知城に徒歩でいけるロケーションも良い。

高知・窪川・高松方面旅行 004

そこから歩いてすぐの高知城に行く。
高知城をバックにして立っている銅像は板垣退助である。

高知城は関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、慶長6年(1601年)大高坂山に新城の築城工事を始め、慶長8年(1603年)に城の大部分が完成し入城したのだが、享保12年(1727年)城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失し、宝暦3年(1753年)までに創建当時の姿のまま再建されたと言われている。

高知・窪川・高松方面旅行 010

そもそも日本の城のうち、江戸時代より以前に建設され、現在まで天守閣が残っている城は、高知城を含めて12しか存在しない。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/gauss/tensyu1.htm

幕末から明治にかけての戦乱でいくつかを失い、また明治六年の廃城令で財務省に所管が移り多くの天守閣が破壊されている。財務省に所管が移されたということの意味は、学校敷地等として売却するための用地とされたということであり、この時に高知城全体が高知公園となり城郭の一部が取り壊されたのだが天守閣は残された。今も高知城は財務省の所管であり、財務省から無償で土地を借り受けて高知県が運営しているようである。

高知空襲

第二次世界大戦でも名古屋城や水戸城、大垣城、和歌山城、福山城、広島城、岡山城などが消失したが、高知市も昭和20年7月4日にB29の120機(諸説あり)の編隊が大量に投下した焼夷弾で市街中心部の大半が焦土と化した高知大空襲があり、他にも度重なる市内の空襲があったのだが、高知城が破壊されずに残ったことは本当に奇跡的なことである。上の写真は高知駅からはりまや橋につながる大通りのあたりの空襲直後の写真である。

高知・窪川・高松方面旅行 013

高知市は中心部には城山の他に高い山はなく、高知城天守閣からの眺めは好天にも恵まれて素晴らしかった。上の写真は、天守閣から東の方角を眺めたものだが高知市内は山が少なく、最上階からは市内を遠くまで見渡すことができる。

つぎに、会社の仲間が勧めていた国指定史跡・天然記念物の龍河洞(りゅうがどう)に行く。 龍河洞は三宝山の中腹にある石灰洞窟で日本三大鍾乳洞の一つである。

高知・窪川・高松方面旅行 022

三大鍾乳洞とは山口県の秋芳洞と岩手県の龍泉洞とこの龍河洞を指すが、ここは秋芳洞のスケールの大きさと比較するとかなり小規模である。しかしながら、人がなんとか通れるような狭い空間を通り抜けながら、「あっ」と驚くような大自然の造形物に遭遇したり、階段を上りながら冒険をしているような気分を感じさせてくれて、出口までの50分間はなかなか楽しかった。

出口の近くには、弥生時代に人が居住していたらしく、洞内から数十点の弥生式土器や炉跡、木炭および獣骨などが発見されており敷地内の龍河洞博物館に展示されている。
高知・窪川・高松方面旅行 027

また、洞内に弥生式土器と地面とがくっついたまま鍾乳石化したものがあり、これは「神の壺」と命名され龍河洞のシンボル的存在となっている。

龍河洞を楽しんだ後、車で約10分ほどで「龍馬歴史館」に着く。ここは、坂本龍馬の33年の生涯を26シーンに分けて、蝋人形で表現されており、幕末の歴史の勉強になる。ほぼ等身大の蝋人形はなかなかリアルで臨場感があった。

龍馬歴史館

初日はさすがに疲れたのでこのあと宿泊先の土佐ロイヤルホテルに向かった。このホテルには岩風呂の温泉のほか室戸海洋深層水の露天風呂があり、ゆっくり入って旅の疲れが吹っ飛んだ。(つづく)
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桂浜、坂本竜馬記念館を訪ねて~~高知旅行2日目その1

ホテルを早目に出て、朝一番で桂浜に向かう。

桂浜には10年程前に一度バス旅行で訪れているのだが、短い時間の滞在であったので、今回はゆっくり散策して、前回行かなかった「坂本龍馬記念館」も見てみたい。

桂浜の上竜頭岬の高台に有名な坂本龍馬像がある。

高知・窪川・高松方面旅行 039

この像は宿毛市出身の彫刻家本山白雲の制作によるもので、本体の高さが5.3mで、台座の高さと合わせると13.4mにもなる大きなものだ。

この像の経緯を調べると非常に興味深いので、次の高知新聞のサイトを一読されることをお勧めしたい。何の信用もない一学生の思いが、多くの人を動かし、県や国を動かした感動のドラマである。
http://www.kochinews.co.jp/ryoma/ryoma005.htm

簡単に記すと、大正15年に坂本龍馬に心酔していた早稲田大学の学生の入交好保(いりまじりよしやす)が、龍馬の功績を世に残そうとして日本一大きな銅像を建てることを決意し、同じ海南中学の同窓である友人らとともに「坂本先生銅像建設会」を発会し、新聞で仲間を呼びかけたことから始まる。

仲間とのつながりから、土佐の交通王と呼ばれた野村茂久馬の支援により乗合自動車のフリーパスを入手し、入交らは夏休みに無銭旅行をしながら県内を遊説して募金活動を開始した。

また入交は幕末の志士で龍馬とも交友のあった田中光顕伯爵にも会い、伯爵の働きかけで秩父宮殿下から200円の下賜金を頂いた後は、県も態度を変えて寄付金集めに動き出した。 そして入交らはついに2万5千円(現在の70-80百万円)の資金を集め、龍馬像制作のめどをつける。

制作や搬送にも大変な苦労があったが、詳しくは先程紹介したサイトを見ていただきたい。 とにかく龍馬像は完成し、昭和3年5月27日(海軍記念日)に除幕式が行われた。その時は当時の内閣総理大臣であった田中義一をはじめ錚々たる人々が出席し祝辞を述べたそうだ。

先程のサイトには除幕式のシーンを次の言葉で結んでいる。 「幕が取り払われ、龍馬が姿を現すと、群衆はどよめき、青年たちは涙したという。運動が実を結んだ瞬間だった。資金も信用もない無名の学生らが起こした大きな渦。それは一介の浪人にすぎない龍馬が国事に奔走した姿とよく似ている。入交自身も後年、高知新聞紙上で「土佐の青年の意気を示す機会であった」と振り返っている。台座には「建設者 高知縣青年」と刻まれている。」

まだ坂本龍馬がそれほど知られていなかった時代に、学生の龍馬を愛する強い思いが国までをも動かしたとは、実に素晴らしいことではないか。

たまたまこの坂本龍馬像のすぐ横で「龍馬に大接近」というイベントが行われていて、この龍馬像の東側に特設の展望台が作られていてここを上ると真横からこの龍馬像を見ることができるようになっていた。こういうことは昔から大好きなので早速入場料100円を払って薄い鉄板でできた階段を登り始める。

高知・窪川・高松方面旅行 042

上の写真は、特設展望台の上から龍馬と桂浜を写したもの。下から見る龍馬像とは一味違う龍馬の表情を見ながら、太平洋を龍馬と一緒に眺める気分は格別であった。

このイベントは4月3日から5月31日までで、あと1週間もすればこの特設展望台が撤去されるのだろうが、もし今月中に桂浜に行く予定がある人はここに登ることをお勧めしておきたい。

ついでに、この特設展望台は龍馬像の東側にあるので、写真を撮るのなら逆光にならない午前中が良い。

桂浜を散策後、車で坂本龍馬記念館に向かう。
今年はNHKの大河ドラマの影響が大きく、入場者は例年の3倍ペースで、GW中には平成3年の開館以来初めて入館待ち時間制限が行われたそうだ。

坂本竜馬記念館

16日(日)の開館直後の時間に到着したが、その時間で駐車場は大半が埋まっていて、館内も人が一杯だった。

見どころは地下二階に展示されている龍馬の手紙。達筆な字のためとてもすらすらとは読めないが、わかりやすいように翻刻文と口語訳文とが併記されており、姉の乙女に宛てた手紙などはなかなかユーモアがあって暖かい龍馬の人柄が伝わってくる。他には高杉晋作から送られたというピストルや、暗殺現場の近江屋に残された血痕のついた掛け軸(複製)など貴重な資料が展示されていた。

高知・窪川・高松方面旅行 058

2階には様々なパネルの展示や近江屋の実物大の模型等があり、全てを見終わるとガラス張りの空間となり、雄大な太平洋が一望に広がる。外見はモダンアートのようだが、龍馬の生涯を辿ったあとで、龍馬が何度も見たであろう太平洋を最後に眺めて幕末の時代にしばし思いを馳せることを想定して、うまく計算され設計された建物だと思った。(つづく)
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四国霊場第37番札所岩本寺と高岡神社~~高知旅行2日目その2

坂本龍馬記念館から高知県高岡郡四万十町にある親戚宅に向かう。

「四万十町」という町は平成18年3月に高岡郡窪川町、幡多郡大正町・十和村が市町村合併によってできた町であるが、平成17年に中村市と幡多郡西土佐村が合併してできた「四万十市」とは異なる。大雑把な言い方をすると、四万十町は四万十川の上流地域を含み、四万十市は中・下流地域を含むのだが、四万十市の中に中村四万十町があったりしてややこしい。
ついでに言うと高知県には土佐市があるかと思えば別に土佐町がある。これも市町村合併でできた名前だが、旅行者には紛らわしい。

話を元に戻そう。
桂浜から一般道で須崎市を抜けて「四万十町」に入った。窪川駅の手前を右折し四万十川を渡ると、のどかな田園風景となり、親戚の家はその風景の中にあった。

「自宅で皿鉢(さわち)料理を是非」と誘われて、生まれて初めて土佐の有名な皿鉢料理なるものを御馳走になり、新鮮な魚や自然素材を活かした料理とあふれんばかりに盛り付けられた豪華さに感激した。あまりにすごい分量でとても食べ切れず申し訳なかった。

高知・窪川・高松方面旅行 060

食事を終えてから、車で近隣の観光地などを巡ることになった。
最初に案内していただいたのは、四国八十八箇所霊場第37番札所の岩本寺。

この寺は、思ったよりも境内は狭く、本堂などの建築物もかなり新しい。

高知・窪川・高松方面旅行 065

上の写真は本堂だが、これは1978年に新築されたものである。本堂の天井には画家や一般市民が書いた575枚の天井絵が飾られている。花鳥風月の絵に交じって、マリリンモンローの絵もあるそうだが見落としてしまった。

高知・窪川・高松方面旅行 066

建物は新しいのだが、この寺の歴史はかなり古い。

天平年間(729~749)に行基菩薩が聖武天皇の勅を奉じて福円満寺を建立し、さらに「仁王経」の「七難即滅、七福即生」を祈願し、天の七星を象って仁井田(現四万十町窪川近辺)に宝福寺・長福寺などの六つの寺を建立し、合わせて仁井田七福寺と称したという。

その後弘法大師が弘仁年間(810~823)に五社五仏を建立し、福円満寺などは先の七福寺と合わせて、仁井田十二福寺と称し、五社は仁井田五社と呼ばれて神仏習合の霊場として栄えたとされる。

仁井田五社とは四万十町仕出原にある現在の高岡神社のことで、今も鳥居と社殿が五か所に分かれている。
弘法大師が高岡神社の一の宮に不動明王、二の宮に聖観音菩薩、中の宮に阿弥陀如来、四の宮に薬師如来、森の宮に地蔵菩薩を本地仏として安置したとされるのだが、神仏習合の時代はお寺と神社の違いがあまりはっきりしていなかったようで、現代人には理解しづらい。

享禄から天文の頃(1528~1555)福円満寺が火災で廃寺となり、当時金剛福寺の住職であった尊海法親王が窪川に岩本坊を建立し法灯を継がせたが、岩本坊も天正年間(1573~1592)に焼失し、僧釈長が再興して岩本寺と改称した。
以来、岩本寺が仁井田五社の別当となり、巡拝者は仁井田五社(高岡神社)の中の宮に札を納めた後、岩本寺で納経を行ったという。下の写真は高岡神社の中の宮である。

高知・窪川・高松方面旅行 086

ネットでいろいろ調べると江戸時代の承応2年(1653)に澄禅大徳という高僧の書いた「四国遍路日記」という本があるようだ。現存している最古の遍路日記だそうだが、当時は八十八箇所という番号も固まっていなかったらしい。

この本によるとこの高僧が岩本寺ではなく仁井田五社(今の高岡神社)に参拝したと書いてある。
「扨、五社の前に大河*在り、少し雨降りければ五日十日渡る事なし。舟も橋も無くして第一難所なり。洪水には五社の向かいへ坂中より札を手向け、伏し拝みて過ぐなり。折節河浅くして漸く歩渡り、東路の大井川に似て石高く水早し。渡り悪き河也。而して五社に至る、青龍寺**より是まで十三里なり。
 仁井田の五社***、南向き、横に双びて四社立ち給ふ。一社は少し高き所に山の上に立つ。何れも去年太守より造宮せられて結構也。札を納め、読経念佛して又件の川を渡りて跡へ帰りて、窪川と云ふ所に一宿す。此の所は太守の一門山内伊賀守城下也。一万石の領地也。町侍小路など形の如く也。」
*四万十川のこと **土佐市宇佐町にある36番札所 ***現在の高岡神社

お遍路さんが札所で般若心経を唱えたあとに札所のご詠歌を唱えるならわしだそうだが、四国霊場第37番札所岩本寺のご詠歌は、
「六つのちり、五つのやしろ あらわして ふかき仁井田の 神のたのしみ」である。
(六塵[色、聲、香、味、觸、法]を無くすことで、山深き仁井田郷の、五社様にお祀りしている、神様・仏様がお歓びになります)

こういう経緯は調べて初めて分かったが、お遍路さんも高岡神社にお詣りしなければ、このご詠歌の意味はよくわからないのではないか。

ところが、明治に入って神仏判然(分離)令により岩本寺は仁井田五社と分離され、廃仏毀釈で大師堂のみを残して寺領の大半を失ってしまい岩本寺は廃寺となってしまう。

一時期は御本尊が愛媛県の八幡浜に移され、37番の札所が2箇所並立していた時期もあったようである。大正7年に四国を巡礼した高群逸枝の「娘巡礼記」という本には、八幡浜の吉蔵寺に37番札所の本尊と納経の版が伝わっていることが書かれているそうだ。

高知・窪川・高松方面旅行 064

明治22年(1889)に岩本寺は再興され、それぞれの寺院の本尊を一堂に集めて一つの寺院として復興させたことから五つの異なる仏像(阿弥陀如来、観世音菩薩、不動明王、薬師如来、地蔵菩薩)を全て本尊としているそうだ。ちなみに本尊は秘仏で60年に一度開帳されるそうである。(つづく)
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四万十川上流を進み松葉川温泉へ~~高知旅行2日目その3

岩本寺と高岡神社を見た後、四万十川上流を走る。

四万十川は全長が196kmで四国では最も長い川である。
また柿田川、長良川とともに日本の三大清流と呼ばれ、日本の秘境100選にも選ばれている。また、「日本最後の清流」等と呼ばれることも多い。

こんなに有名な「四万十川」という名前は昔から変わらないとばかり思っていたが、この名前がこの川の正式名称になったのは意外と最近であることを知って驚いた。
例えば宝永4年(1708)の「土佐物語」という本には「四万十川 わたりがわ」と記されているそうで、昔はこの川を「わたりがわ」とよく呼ばれていたらしい。「四万渡川」と書かれた事例もあり、それが略されて「渡川(わたりがわ)」の名称が生まれたものと思われるが、旧河川法では昭和3年に「渡川」をこの川の法律上の正式名称に採用したそうだ。昭和39年の新河川法でも名前をそのままにしている。ということは平成6年7月に「四万十川」と改名されるまでは「わたりがわ」がこの川の正式な名前であったのだ。

高知・窪川・高松方面旅行 074

岩本寺のある旧窪川町あたりは四万十川の上流にあたるのだが、意外と海にも近い。窪川駅から海までは直線で10km程度しか離れておらず、四万十町の興津海水浴場は白くキメの細かい砂浜が東西2kmにも及ぶ遠浅の海水浴場で、平成18年に環境省が「日本の快水浴場100選」に認定している。上の写真は興津峠から見た興津海水浴場だ。

また四万十町には樹齢700年のヒロハチシャの木という国指定の天然記念物の大木がある。

高知・窪川・高松方面旅行 077

植物知識の乏しい私には初めて聞く名前であったが、この木は九州以南の低地にみられるが、この四万十町の木が最北端のものだそうだ。風害で主幹に大きな空洞が出来ているが、手厚く保護されており、よく繁茂している。

ところで四万十川には「沈下橋(ちんかばし)」と呼ばれる橋がいくつも架かっている。 「沈下橋」とは、河川敷と同程度の高さに架けられるために、水位の低い時は橋として使えるが、増水時にはこの橋は水面下に沈んでしまう橋のことである。
もし増水時に流木などが橋にひっかかると橋が流されたり、川がせき止められて洪水の原因になったりするので、水の抵抗が小さいように橋に欄干がないというのは合理的だし、もし橋が流されても建築コストは余りかけなくて済むように出来ている。

高知・窪川・高松方面旅行 095

上の写真は四万十川の最も上流にある一斗俵(いっとひょう)沈下橋で、四万十川にかかる現存の沈下橋の中では最も古く(昭和10年築)、国の登録文化財に指定されている。

高知・窪川・高松方面旅行 102

一斗俵沈下橋を渡ってみたが、幅は2.5mとかなり狭い橋だった。自転車で渡れないこともなさそうだが、バランスを失うと簡単に川に転落してしまいそうだ。

Wikipediaによると1999年の高知県の調査で、全国各地の一級河川にこのような沈下橋が410箇所あり、そのうち高知県に69箇所と一番多く存在し、ついで大分県(68箇所)、徳島県(56箇所)、宮崎県(42箇所)の順だそうだ。四万十川にはこのような沈下橋が47箇所かかっているそうで、高知県の沈下橋の約7割は四万十川にかかっていることになる。

車のない時代は、大半の橋がこのような橋だったのだろう。美しい里山と美しい四万十川に沈下橋はよく調和して、日本の原風景を見ているような気分になる。このような風景を是非後世に残してほしいものである。

一斗俵沈下橋あたりは田園風景が広がり、仁井田米に代表される県内有数の穀倉地帯でもあるが、開墾の歴史は洪水と灌漑の歴史でもある。明治23年の四万十川の洪水のあと、野村成満翁がこれ以上農民に負担を課すことは忍びないとして、田畑を売却し私財を投じて手掘りで完成させた法師の越山水路トンネルは約100年間この地域を洪水から守り、水田に水を送り続け、農地の拡大に寄与したそうだ。
平成16年に国の補助を受けて野村翁が掘ったトンネルの横に新しいトンネルが完成し、野村翁の偉業をたたえる碑が建てられている。

高知・窪川・高松方面旅行 109

四万十川上流をさらに進むと、松葉川温泉という温泉がありそこで宿泊。
ホテルは四万十川源流の日野地川沿いに建てられている。

ここまで来ると、本当に静かで、素晴らしい山の景色を見て川のせせらぎや鳥のさえずりを聞きながらゆったり入る露天風呂は最高の気分だった。有名観光地の豪華な施設とは違うが、こんな山奥に来ればこのような施設の方が心も体も癒されて良い。
泉質も良く、料理もおいしく、親戚と一緒に飲んだお酒もおいしくて大満足の一日だった。

高知・窪川・高松方面旅行 115
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高知からの帰路は讃岐うどん目当てに屋島と栗林公園へ~~四国旅行3日目

松葉川温泉で朝食後、窪川あたりで大変お世話になった親戚と別れて、高松に向かう。
予定では昼前に高松に着いて昼食はもちろん讃岐うどんだ。

讃岐うどんは有名な店が多すぎて行くところを迷ったが、昼頃に到着する計算になるのでどこに行っても混む時間帯に入ってしまう。駐車場のない店や狭い店舗は待ち時間がもったいないので、観光地に近くて駐車場の大きいうどん屋を選ぶしかない。高松の観光は初めてなので、まず屋島にいくこととして、屋島の近くで駐車場が大きくて評判の良さそうな店を旅行前にネットで検索して「わら屋」に行くことにした。

  「わら屋」は四国の古い民家を集めた「四国村」の門前にあり、「わら屋」の建物も、本棟は徳島県西祖谷山村から、東棟は香川県内から移築してきたかやぶき屋根の民家である。ここの駐車場は「四国村」の駐車場も兼ねているものの、200台近くのスペースがあることも安心感がある。

高知・窪川・高松方面旅行 117

「わら屋」の入口は上の画像の通りで、このような雰囲気で讃岐うどんが楽しめるのが良い。有名な店だけあって、お遍路さんも何人も食事しておられた。

この店は釜揚げうどんが評判で、周りを見ると大きなたらいに10玉入った「家族うどん」にチャレンジしているグループが多かったが、こちらは家内と二人なので単品ずつの注文。いつも食事が運ばれてきたらブログ用に写真を撮るのだが、この時はうどんが来るなりすぐに食べだしてしまった。打ち立ての麺はコシがあって、だしも旨くてすんなり胃袋に収まった。

「わら屋」の食事の後は、屋島ドライブウェイを走って屋島寺に向かう。ドライブの途中で源平の古戦場が見渡せるところがある。

高知・窪川・高松方面旅行 119

「屋島の戦い」で平家は、この入江の入口に軍船を停泊させて海上からの源氏の攻撃に備えたと伝えられるが、源義経は牟礼・高松の民家に火を放ち、大軍が来たかに見せかけ、浅瀬を渡って奇襲攻撃をしたとされる。
「平家物語」では平家は安徳天皇と建礼門院を奉じて、船で壇ノ浦に逃げて最後は二位の尼とともに入水することになるのだが、3月に旅行した祖谷には安徳天皇や平家が隠れ住んだとされる武家屋敷などがいくつも残されていることをこのブログにも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

祖谷の伝説では屋島の戦いの後、平国盛一族は安徳天皇をお守りして、讃岐山脈を越え、阿波の国吉野川に出て南岸に渡り、祖谷に辿り着いたとされているが、安徳天皇については、祖谷以外でも四国や九州を中心に全国で20箇所ほどの伝承地がある。大阪にも能勢の来留見山の山頂に安徳天皇の陵墓があるそうだ。

源氏と平家の情報戦であるから、どれが真実か、どれが替え玉かはさっぱり分からない。鎌倉幕府が編纂した歴史書である「吾妻鏡」には、壇ノ浦の戦いについて安徳天皇のことは何も書かれておらず、通説は「平家物語」の内容をそのまま採用しているが、これは平家滅亡後数十年後にまとめられた「物語」にすぎず、真実も含まれるが創作が多いと考えてよい。

頂上の駐車場に車を止めて、四国霊場第84番札所の屋島寺に進む。 この寺は天平勝宝6年(754)に来日した鑑真が、大宰府から難波に向かう途中で屋島の山上に瑞光が見えたので船を止めて屋島の北嶺に登り、仏像や経典を納めて開基し、後に弟子の恵運律師が堂宇を整備して初代の住職になったとされる。

高知・窪川・高松方面旅行 127

弘仁6年(815)にこの地を訪れた弘法大師は、嵯峨天皇の勅願により一夜のうちに本堂を建立し、十一面千手千眼観世音を刻んで本尊として安置したとされる。その後山岳仏教の霊場として栄えたが、戦乱で衰退し、歴代の藩主の尽力により修復され現在にいたっている。

高知・窪川・高松方面旅行 135

写真の本堂は鎌倉時代末期に建立されたとされ、国の重要文化財に指定されている。また本尊は十一面千手観世音菩薩でこれも国の重要文化財だ。

屋島寺宝物館にも入ったが、ここには源平盛衰記絵巻物、屋島合戦屏風や平安時代の薬師如来坐像などが展示されていた。

屋島を抜けて、最後の観光地である栗林公園に向かう。
栗林公園はもともと当地の豪族であった佐藤氏によって元亀・天正の頃(1570年代)から築庭されたのにはじまると言われ、その後寛永年間(1625年頃)讃岐領主生駒高俊公によって、南湖一帯が造園され、寛永19年(1642)入封した松平頼重公に引き継がれ、以来5代100余年の間、歴代藩主が修築を重ねて延享2年(1745)に完成した回遊式庭園である。
明治4年に高松藩が廃され、新政府の所有となり、明治8年に県立公園として一般公開され、現在にいたっている。

さすがに旅行3日目で疲れていたので、讃岐民芸館などの展示物は見ずに、60分モデルコースを早足で歩くこととした。
園内の広さは23万坪で、国の特別名勝に指定されている公園の中では最も広いそうだ。

高知・窪川・高松方面旅行 153

松の緑濃い「紫雲山」を背景に、6つの池と築山を巧みに配しており、歩きながら少しずつ変化する景色を楽しむ事が出来る。高松市の中心部にあることを忘れ、美しい山と池と木々の緑を見るだけで充分に癒される時間だった。

高知・窪川・高松方面旅行 158
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東大寺大仏のはなし

東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。

東大寺と郡山城の桜 064

聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グループが調査した大仏の補修個所が修理時期別に色分けされておりわかりやすい。

東大寺大仏の修復状況

では東大寺の大仏はどういう経緯で修理されることになったのか。いろいろ調べると、東大寺大仏が破壊されたのは三度もあるのだ。

江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が3回落ちたということを書いているそうだが、それによると、その時期は
斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)だそうだが、その時にいったい何があったのか。

最初の斎衡2年は地震が原因らしい。全国で貴賎を問わぬ修復費用の調達が行われて、この時は貞観三年(861)に開眼供養会が行われたようだ。

二度目の治承4年は有名な平重衡による南都焼討である。この時は東大寺だけではなくて、興福寺も焼かれてしまっている。

平治元年(1159)の平治の乱の後、大和国が平清盛の知行国となったが、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視したことに対して南都寺院側は強く反発し、特に東大寺、興福寺は僧兵と呼ばれる武装組織を背景に、強く平氏に反抗していたのだが、治承4年(1180)5月の以仁王の乱を契機に、園城寺や諸国の源氏とも連携し反平氏活動に動き出す。

12月に平重衡(平清盛の五男)が園城寺を攻撃して焼き払い、奈良については当初は平和的解決を目指して清盛はまず使者を送るのだが、南都の僧兵により60人の使者の首が切られてしまう。

激怒した清盛は、南都攻撃を命令しその際に奈良の主要部を巻き込む大火災が発生し、特に東大寺は法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外はすべて焼け落ち、興福寺も三基の塔の他、金堂・行動・北円堂・南円堂など38の施設を焼失してしまう。

この時の大仏がどうなったかについては、『平家物語』巻第五「南都炎上」の段には「御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあいて山の如し」とあり、大仏の頭は下に落ち、体は熱で溶けて山の塊のようになったと書いてある。

東大寺の復興事業は平家政権によって始まり、俊乗坊重源が造営勧進となり大仏は運慶らの制作によりまず大仏が完成し、文治元年(1185)8月28日に後白河法皇を導師として大仏様開眼供養が行われている。壇の浦の戦いは3月なので、平家滅亡の後のことである。

ところが肝心の大仏殿の建築は用材の調達に支障がありなかなか進まず、上棟式が行われたのは建久元年(1190)で大仏殿が完成し落慶供養が行われたのは建久六年(1195)で、その時は後鳥羽上皇や源頼朝が臨席したとの記録が残っている。源頼朝は奈良の復興を鎌倉幕府の最重要の政策とし、巨額の再建資金を支援したそうである。

三度目の永禄10年は、戦国時代の真っただ中の永禄10年(1567)の10月10日で、この時も大仏は火災で鎔けて首が落ちている。

松永久秀と対立していた三好三人衆・筒井順慶が奈良に侵入し東大寺や興福寺に陣を構えたなかで、松永久秀が三好三人衆の本陣のある東大寺大仏殿に夜襲をかけたとされるのだが、この経緯はWikipediaにかなり詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」にはこの日のことを、次のように記載されているという。

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

しかし、誰が東大寺に火をつけたかについては諸説がある。当時日本で布教していたイエズス会のルイス・フロイスは「日本史」という著書を残しているが、そこにはイエズス会に入信していた三好方の誰かが夜分、本陣のあった東大寺を警護している時にひそかに火をつけたと書いている。

ルイス・フロイスは火をつけた者の名前までは明記していないが、フロイス自身がイエズス会に不利なことを書いていることを何故注目しないのかは良く分からない。ここではその可能性もあるとだけ書いておこう。

とにかくこの兵火のために東大寺は、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院などは残ったものの、大伽藍の大半を再び焼失させてしまっている。

元亀元年(1570)、朝廷は京都の阿弥陀寺の青玉上人に、大仏の修復のための諸国勧進を行うべしと命じ、織田信長や武田信玄へも勧進への協力が命じられたようだが、当時はなかなか資金が集まらなかったようである。

天正6年に鋳物師の弥左衛門久重が起用され大仏が修復されたが、頭部は銅板で仮復旧したままの状態だったらしい。大仏殿も仮堂で復興したがそれも慶長15年(1610)に大風で倒壊し、大仏は無残な姿のままで数十年雨ざらし状態だったことになる。

万治3年(1660)東大寺の公慶上人が立ち上がり、奈良の町人に大仏殿再建のための勧進を呼び掛け、江戸をはじめ遠い国からの勧進も盛んになった。

貞享3年(1686)から大仏の本館修復が始まり、元禄5年(1692)には露座の大仏開眼供養が行われ、全国から20万人を超える参詣人が集まったと言われている。下の図は東大寺に残されている「開眼供養屏風」で、露座のままで法要が行われているところが描かれている。

開眼供養屏風

そして大仏殿は宝永6年(1709)に完成し、落慶法要には24万人が詰めかけたというのだが、 三好・松永の戦乱で焼けて以来大仏が修復され、立派な大仏殿の屋根の下に納まるのに142年もかかっているのだ。

東大寺と郡山城の桜 006

今我々が目にすることのできる東大寺の盧舎那仏像は、このようにさまざまな人々の努力により残されてきた貴重な文化財であることを忘れてはならない。この仏像は国宝に指定されているが、ただ古いから国宝であるのではなく、その時代時代の最高の技術で修復されてきたからこそ国宝なのである。

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3度目の高山と円空仏を訪ねて丹生川から平湯温泉へ ~~ 岐阜・長野方面旅行一日目

毎年真夏の暑い時期は、大阪を抜け出して涼しいところに旅行している。今年は、平湯温泉と濁河温泉に宿をとって、7月30日から二泊三日で高山から上高地などを車で巡ってきた。今回は旅行の初日のことを書こう。

高山は8年前と4年前に訪れたことがあるので、高山陣屋や高山屋台会館、櫻山八幡宮、日下部民芸館、吉島家住宅など誰でも行くようなコースはすでに訪問済みだ。今回は、高山でまだ見ていない所を訪問する旅程を組んだ。
大阪から名神高速、中部縦貫道を走って「松本家住宅」に着き、その隣の「ヒラノグラーノ」という店でピザを食べてから東山寺町(ひがしやまてらまち)の寺院を巡った後、円空仏で名高い千光寺や平湯大滝等をみる計画だった。

松本家住宅

高山市の中心部は明治八年の大火で焼失し、日下部民芸館も吉島家住宅もその後再建されたものであるが、「松本家住宅」は高山市郊外にあったので焼失を免れた貴重な町屋の建物で、国の重要文化財に指定されている。開館しているのは土日のみのため、残念ながら中には入れなかったが、見るからに立派な建物である。

日枝神社

歩いてすぐ近くに日枝神社があるので立ち寄ったが、この神社の例祭が有名な「高山祭」の春の例祭(山王祭)で、秋の祭りは櫻山八幡宮の例祭である。

ヒラノグラーノ

「ヒラノグラーノ」は「松本家住宅」と高山祭の「大国台」という屋台が収納されている建物に挟まれたイタリアンレストランで、築200年以上の町屋を改修したものだそうだ。 ピザが有名な店だけあって、パリッと焼き上げられたピザは確かに旨かった。

昼食を終えて、東山寺町のお寺を散策した。遊歩道が整備されているが、1.5km程度の遊歩道に13ものお寺と4つの神社が点在している。江戸時代初期に高山城主であった金森長近が、京都の東山に見立ててこの場所に寺院を移したということだそうだ。

宗猷寺

上の画像は、一番大きな宗猷寺というお寺だが、威風堂々とした本堂の建物が気に入った。特に有名なお寺や神社があるわけではないが、高山の古刹を歩いて巡るのは楽しい。

東山寺町を1時間程度散策後、車で千光寺に向かう。

千光寺本堂

千光寺の歴史はかなり古く、伝承によれば仁徳天皇65年 (377年)頃に飛騨の豪族・両面宿儺(すくな)が山を開き、仏教の寺院としては、嘉祥3年 (850年)頃、真如親王(嵯峨天皇の皇子)によって建立され、最盛期には山上に19の伽藍や院坊が立ち並んでいたそうだが、永禄7年(1564)の武田軍の飛騨攻めの際に一山炎上してしまい、天正16年(1588)に高山城主金森長近により再建されたのが今の堂宇だそうだ。
江戸時代初期の僧、円空上人は12万体の造仏を誓願して鉈一本を手に全国行脚し、膨大な数の「円空仏」を残しているが、この千光寺に相当な期間逗留したと言われ、境内にある円空仏寺宝館には63体の円空仏が収蔵されている。
円空仁王像

写真は寺宝館の入口にある立木仁王像で、以前は寺の参道の途中の立木に直接刻まれていたが、傷みがひどいために150年前に当時の住職が仁王門の裏に保存していたものだそうだ。寺宝館内は写真撮影禁止だが、この像だけは撮影可だった。
千光寺五本杉

千光寺に来たら、円空仏だけでなく「五本杉」も是非立ち寄りたいスポットだ。上の画像が五本杉だが、一つの幹から五本の杉が空に向かって伸びている。

案内の立札によると、高さが50m、幹の周りが12m、樹齢1200~1500年だそうで、国指定の天然記念物に指定されている。存在すること自体が奇跡としか思えず、神々しさを感じて思わず手を合わせてしまった。

次に立ち寄ったのが「荒川家住宅」。荒川家は大谷村の旧家で、元禄期(1688~1703)から明治時代になるまでは、代々この地域の6か村の名主を兼ねていたそうだ。

荒川家住宅

写真の母屋は寛政8年(1796)、奥にある土蔵は延享4年(1747)の建築でいずれも重要文化財に指定されている。スタッフの方から一階の各部屋だけでなく、屋根裏部屋にも案内いただき、養蚕で使った農具や古文書についても説明を受けて勉強になった。

次は、「匠の館」に向かう。匠の館は明治時代に飛騨の名工・川尻治助が12年の年月をかけて建てた豪農の屋敷である。
匠の館

川尻治助は高山市内の日下部民芸館を手掛けたことでも有名であるが、その腕の良さは日下部民芸館が明治期の建築物としては日本で最初に重要文化財に指定された建物であることで証明されている。そしてこの匠の館も平成19年に高山市の有形文化財に指定されている。

匠の館内部

良質の材をふんだんに使い、重厚感たっぷりの梁組みや、名工川尻治助の大工道具類の展示なども非常に興味深かった。

次に、一日目の宿泊予定地である平湯温泉に向かう。温泉に入る前に絶対行くべき場所は落差64mの「平湯大滝」。この滝は日本の滝百選にも選ばれている。

平湯大滝

前日の雨の影響もあったのかもしれないが圧倒的な水量で飛沫が凄く、滝に向かって立つと滝から300mは離れているのに眼鏡が水滴で曇ってくる。暑い時期に涼をとるには最高の場所だ。

平湯温泉でこの日に泊まった旅館は「愛宝館」。こじんまりとしたふつうの旅館で、風呂はも決して大きくはないが、内湯、露天風呂とも24時間のかけ流しの天然温泉で結構楽しめた。<続く>
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平湯温泉から上高地を散策して濁河温泉へ ~~ 岐阜・長野方面旅行二日目

旅行の二日目は、平湯温泉から上高地を往復し、濁河(にごりご)温泉に行く旅程だ。

実は10年ほど前に上高地行ったのだが、天気が悪かったうえにバス旅行で2時間程度の自由時間しかなく、小雨の降る中を大正池から河童橋までを歩いただけで、肝心の山はほとんど見ることができなかった。

上高地へはマイカーが利用できないのでバスで行くしかないが、平湯温泉なら宿から歩いてすぐに平湯バスターミナルに行けるし、そこから上高地行きのバスが30分ごとに出ている。
今回のようなマイカー旅行の場合は、他の温泉に宿泊したのであればこのバスに乗るのにあかんだな駐車場に車を半日預けなければならないが、3時くらいに平湯温泉に戻る計画であれば宿泊した旅館にお願いすれば車を預かってもらえるメリットもある。上高地を往復するのならば平湯温泉で宿泊すれば、時間の無駄が少なくて済む。

7時過ぎに宿の朝食を済ませ宿をチェックアウトして、7時30分の上高地行きのバスに乗り込む。この時間帯だとさすがに渋滞はなく20分くらいで大正池のバス停に着いた。

上高地散策マップ

本日歩く予定のコースは、大正池→田代橋→ウェストン碑→河童橋→明神館→明神橋→明神池→河童橋の4時間程度の標準コースだ。

バス停前の大正池ホテルで散策地図を購入して、大正池に向かう。
大正池

この時期には大正池は早朝に霧がよく出るそうだが、まだわずかに水面に霧が残っていてちょっぴり神秘的な景観を味わうことが出来た。

大正池を過ぎて林を抜けると、田代湿原が広がり、この池が田代池。
田代池

非常に浅い池で、澄んだ湧水を湛えて穏やかに流れていく。

朝の梓川は川面の所々で霧が発生している。こんな幻想的な川の景色を今まで観たことがない。
霧の梓川

私のカメラ技術ではなかなかうまく撮ることができなかったが、実際はもっと霧が深く美しかった印象にある。

田代橋で梓川を渡り、ウェストン碑を過ぎて河童橋に向かう。
上高地の猿

途中でこのような猿の親子連れを二度ばかり遭遇した。
河童橋で再び梓川を渡った頃に、小雨が降り小休憩を取る。
河童橋

大正橋からここまで1時間10分程度だ。

そして再び歩き始め梓川左岸道を進んで50分程度で明神橋につく。
明神橋

明神橋を渡ると明神池はもうすぐだ。

明神池は穂高神社の神域となっており、途中から神社の参道となっている。
穂高神社参道

明神池の入り口で300円の拝観料が必要だ。

明神池は素晴らしいところだった。
明神池

大正池と同様にわずかに霧が立って、鏡のような水面が周りの山々を映し出す。神々しいまでの美しさだ。

明神池の鴨

カルガモがゆっくりと泳いでいる。ここでは自然のすべてが美しい。
このような景観をこのまま手をつけずに、いつまでも残しておいてほしいものだ。

明神池の近くに建つ嘉門次小屋で有名な岩魚の塩焼きを食べたが、これは小屋の囲炉裏で焼いたものでなかなか旨かった。

こんどは梓川右岸道を進んで河童橋を目指す。梓川右岸道は左岸と異なり湿地帯をかなり通るので、木で造られた遊歩道の上を歩くことが多いために、やや時間がかかる。

梓川右岸

しかし景色については、左岸道はやや単調で、右岸道の方が変化に富んでいて良かったように思う。

梓川右岸2

河童橋に戻り小休止の後バスターミナルで1時頃の平湯行きのバスに飛び乗ったが、対向車線は上高地に向かうバスとタクシーが駐車場が空くのを待って数百メートルの長い列を作っていた。対向車の長い列を横目に見ながらバスはスイスイ進んでいくのだが、朝一番で上高地に行く旅程を組んだのは大正解だった。

愛宝館の旅館駐車場に戻って、今度は濁河温泉にカーナビをセットする。最近はカーナビを信頼して、地図を持っていかなかったのは失敗だった。カーナビがとんでもない悪路を選択してしまった。
カーナビが選択したのは秋神温泉から山越えするルートで距離的には最短の道ではあったが、道幅3mあるかないかのカーブだらけの狭い山道で、何年も前から舗装されておらず表面がボロボロ状態であった。「落石注意」の看板が何箇所かあり道路に石がいくつも転がっていたり、「段差注意」で道路に段差があったりで、こんなに緊張した運転ははじめてだ。 対向車が来ないことを祈りながら運転したのが良かったのか、運よく対向車が道路幅の広いところですれ違うことが出来たのでなんとかなったが、こんな道は二度と走りたくないと思った。

旅館に着いて従業員に道のことを言うと、「秋神温泉からの道は近道ですがかなり悪路です。」と言われて地図を受け取ったが、家に帰ってから旅館のHPでアクセス方法を確認すると、なんと「カーナビで…秋神温泉方面へ案内することがございますが、秋神温泉から先は細い林道になりますので、こちらからのルートはあまりお勧めしません」と、しっかり書かれていた。

旅館御岳アクセス地図

上の地図は旅館のHPで案内されている地図である。

事前に旅館のHPをアクセスして確認していればこんな道を通ることもなかったと思うのだが、田舎の道を走るのにカーナビを過信するのはよくないことが身にしみてよくわかった。

ところで濁河(にごりご)温泉は御嶽山の7合目、標高1800mにあり、原生林に囲まれた秘境にある。また万座温泉とならび通年自動車で辿り着ける国内最高所の温泉とも言われている。

私が泊まったのは「旅館御岳」という施設だが、旅館というよりは大規模なホテルという感じの建物で、ここは温泉も料理も設備もなかなか良かった。
風呂はもちろん源泉かけ流しで、空気に触れると黄土色から赤褐色に色が変わる湯質だそうだ。
川のせせらぎや原生林の鳥のさえずりを聞きながら、きれいな空気を思い切り吸って、ゆったりと温泉につかるのは最高の気分だった。
また飛騨牛や山菜などをふんだんに使った料理も美味しく、部屋の温度はクーラーなしでも涼しく快適で、夜も熟睡できて充分に満足した。<続く>
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濁河温泉から寝覚ノ床、妻籠宿・馬籠宿へ~~岐阜・長野方面旅行三日目

早朝目が覚めて朝風呂に入り、食事までまだ時間があったので夫婦で散歩に出かける。ホテルのすぐ近くに「濁河三滝」と言われる3つの滝があるらしいのでそれを目指して歩く。
天気は良いのだが肝心の御岳山は頂上あたりが雲で隠れて見えないのが残念だ。

宿から5分ばかり歩くと落差20mの「緋の滝」という滝が見えてくる。御覧のようになかなか綺麗な滝だ。

緋の滝

そこからさらに5分程度歩くと道路わきから落差15mの「白糸の滝」が見えてくる。

白糸の滝

更に進んで御嶽神社の参道あたりまで歩いて、時間の余裕があまりなかったので3つ目の滝を観ずに引き返したが、自宅に帰ってから調べると3つめの滝である「仙人の滝」が落差30mと一番大きく、御嶽神社まで歩けば「仙人の滝」はもうすぐだったらしく、少し惜しいことをした。

「旅館御岳」の朝食もまた良かった。特に源泉で味付けをしたお粥があっさりとして美味しく頂けたが、このお粥は「御岳源泉粥」というこの宿の名物料理で、売店でも売っていたので思わずいくつか買ってしまった。

チェックアウトを済ませ、次の行き先は「寝覚ノ床」だ。
「寝覚ノ床」は中学時代に教科書で学んだことがあるし、信州方面の旅行の時にJRの中央本線の車窓から何度か見ているが、いつも「あっ」という間に通り過ぎてしまうので、随分前から一度ゆっくり見てみたいと思っていた。

「寝覚ノ床」近辺には大きな土産物屋があり、その展望台から景色を眺めることもできるが、ちょっと距離がありすぎて小さくしか見れないのと、JR中央本線の架線が邪魔でどうしても気になってしまう。
折角来たのだから、川の近くまで行こうと思って進むと、「臨川寺」というお寺にぶつかる。名勝「寝覚ノ床」は、臨川寺の境内の中にあるのだ。

臨川寺

拝観料を払ってJRの線路の下を通って木曽川の川べりに出ると、なかなか見事な眺めであった。木曽川のような水量の多い川で、良くこんなに狭い流路がここだけに残ったものだと感心してしまう。

寝覚ノ床

「寝覚ノ床」には浦嶋太郎の伝説があるのだが、以前天橋立方面に旅行した時に伊根町に浦嶋神社という神社があり、浦嶋太郎を祀っていた。浦嶋太郎の話は日本書紀や万葉集にも出てくる話で丹後の国(京都府)の話だと思っていたし、木曾川のような急流の川に大きな亀や龍宮城が出てくるとすれば誰が考えても変だと思う。

臨川寺のパンフレットには次のように書いてある。
「…浦嶋太郎が龍宮へ行ったという話は、やはり海岸のことで、今の京都の天橋立である。…ところが龍宮から帰ってみると、親兄弟はもちろん、親族隣人誰一人として知っている人はなく、我が家もないので、そこに住む事が出来ず、…、この山の中にさまよいこんできた。…ある日のこと、フッと思いついたように、土産にもらってきた玉手箱を開けてみたならば、いっぺんに三百歳のおじいさんになってしまい、ビックリして目が覚めた。眼を覚ましたのでここを寝覚という。…」
要するに、浦嶋太郎が玉手箱を開けた場所がこの寝覚ノ床という話だ。

いろいろ調べると、この臨川寺に関しては「寝覚浦嶋寺略縁起」という本があり、その中に寝覚ノ床の浦嶋太郎の話が出てくるそうだが、この本の出版は嘉永元年(1848)頃らしく、江戸時代の終わりの頃にはこのような伝説がこの地に広く知られていたようである。

臨川寺は江戸時代初頭から栄えた寺であったが、文久三年(1863)に全焼した記録がある。この寺の宝物館には、浦嶋太郎の釣りざおが展示されているが、一体いつ頃のものなのであろうか。本当に貴重なものなら、無人の建物に存置されることはないであろう。
浦嶋太郎の釣りざお


次は、妻籠宿を目指す。
江戸時代にタイムスリップしたようなこの景色を、どうしてもこの目で見たかった。よくこの宿場の風景をそのまま残してくれたものだ。

妻籠宿

ここへきたら絶対行くべきは、南木曽町博物館。脇本陣奥谷、妻籠宿本陣と歴史資料館の3館がセットになっている博物館だ。

脇本陣奥谷は明治10年(1877)に建て替えられたものだが、江戸時代には木曾の檜を一般の建築に使うことを禁じられており、その禁制が解かれた際に当主の林氏が、当時の粋を集めて総檜造で建てた建物だそうだ。

妻籠本陣内部

明治時期の建築ながら平成13年に国の重要文化財に指定されている。写真はその囲炉裏の間である。ここでは、語り部のわかりやすい説明を聞くことが出来る。

妻籠宿本陣は、島崎藤村の実兄である島崎広助が最後の当主であったが、明治20年代に広助が東京に出た際に建物は取り壊されてしまったそうだ。現在の建物は平成7年に江戸時代後期の間取り図をもとに忠実に復元したものである。
妻籠本陣

写真は妻籠宿本陣を外から写したものだが、荒川家住宅のように屋根の上に石が置かれている。

妻籠宿で立ち寄りたいのが手作り菓子の澤田屋。名物の「老木」と木曾伝承の栗きんとんを買って帰った。

妻籠宿で蕎麦を食べてから、近くの馬籠宿にも立ち寄った。

馬籠宿

明治の文豪の島崎藤村はこの馬籠宿の本陣で明治5年に生まれた。本陣の建物は明治28年の大火でほとんど焼失してしまったのだが、唯一残ったのが藤村の祖父母の隠居所で、この建物の二階で少年時代の藤村は父から四書五経の素読を受けたそうだ。

島崎家隠居所

展示室もいくつかあり、小説の自筆原稿や愛用品など島崎藤村の生涯にわたる作家活動の資料が展示されている。

馬籠宿にはまだまだ見るべきところがあったとは思うのだが、3日間、沢山見て歩いたので充分満足して、ここで旅行を切り上げて帰途についた。
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全焼したはずの坂本龍馬ゆかりの宿「寺田屋」~~平成の「寺田屋騒動」

9月5日の「龍馬伝」は第36回「寺田屋騒動」だった。
京都に生まれ育ったものの、寺田屋は遠かったので行ったことがなかった。こういう番組を見てしまうと急に行きたくなって、たまたま10日が振替休日だったので、平日の方が観光客が少ないかと考えて出かけてきたが、朝10時のオープンを待つ人が随分大勢並んでいたのに驚いた。観光バスのツアーで来ておられる人も少なからずいたようだ。

開館前の寺田屋

中に入ると龍馬やお龍、お登勢の写真から、幕末の志士の写真や手紙等のコピーなどが所狭しと飾られている。
寺田屋内部

いつ誰が付けたかよくわからないが刀痕のある柱もあり、お龍が龍馬に裸で追っ手を知らせた時に登ったという階段や、昔の風呂桶なども残されている。
寺田屋風呂

多くの観光客は、龍馬のいた時代のままで残されているものと錯覚してしまう。

展示物の中にはいくつか新聞の切り抜きの様なものがあり、その中に京都新聞の『「幕末の寺田屋」焼失確認』という記事のコピーが目に止まった。この記事を読むと、どうやら寺田屋は2年前に京都市から展示内容が見学者に誤解を与えないようにとの指導を受けていたようなのだ。幕末の寺田屋が焼失したのが事実ならば、刀痕や風呂桶は一体何なのだ。

こういうことを調べることは大好きなので、早速自宅に戻ってからいろいろパソコンで調べてみた。

当時の新聞記事検索はリンクが切れてしまっているが、Wikipediaでは産経新聞の当時の記事が、Web魚拓で紹介されていた。
http://megalodon.jp/2008-0925-2222-53/sankei.jp.msn.com/life/trend/080925/trd0809252043008-n1.htm   

京都新聞の記事を探したが2年前の記事は見つからず、社会部の佐藤知幸記者の「取材ノート」というコラムは、リンクが切れておらず誰でも読む事が出来る。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/syuzainote/2009/090519.html
ここでは佐藤記者は寺田屋の営業行為を「歴史に対する裏切り」とまで書いている。

京都市は、寺田屋は慶応4年の鳥羽伏見の戦いで焼失してしまったと結論し、寺田屋は「今も一部が焼失しただけ」と考えて今まで通り営業活動を続けるが、市の見解も伝えるように努力するとのスタンスだそうだ。館内に京都新聞の記事を展示したのは、京都市の見解を見学者に伝えなければならないので、こっそりと貼り出したものだろう。

寺田屋は全焼したのか、あるいは一部焼失だったのか、ここがポイントである。

この問題に最初に火をつけたのは「週刊ポスト」2008年9月1日号だそうで、この雑誌には寺田屋は鳥羽伏見の戦いで全焼したと書かれていたらしい。
その記事の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課は、週刊ポスト誌に対し調査を約束し、京都市歴史資料館にその調査を依頼したところ「寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失した」ことが史実であるということとなり、それを各報道機関に配布したことが当時の新聞で採り上げられて、先程紹介した産経新聞の記事はその一例である。

では、寺田屋が全焼したという根拠はどこにあるのか。
この点については、なかさんのサイトに非常に詳しく書かれている。
http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-546.html

詳しくは、上記のサイトに根拠となる史料まで添付されているので興味のある方は確認していただきたいが、一部を紹介すると
① 鳥羽伏見の戦いで焼けた地域の瓦版が京都市歴史資料館に残されていて、3つの史料から寺田屋のあたりは焼失地域であることが確認できること。(紹介したサイトで画像が確認できます。)
② 現在の寺田屋の東隣にある空き地に明治27年(1894)に建立された「薩藩九烈士遺跡表」という碑が立っている。
この碑文の文言の中に、「寺田屋遺址」という言葉があり、寺田屋のあったこの場所に碑を建てたという趣旨が書かれていること。

寺田屋騒動記念碑

③ 昭和4年の「伏見町誌」に「寺田屋遺址 字南濱に在り,現在の建物の東隣を遺址とす」と書かれていること。
④ 西村天囚という漢学者が明治29年に寺田屋を訪問し、「紀行八種」という本の中で、「寺田屋は,伏見の兵火に焚けしかば,家の跡を取拂ひて,近き比此に銅碑を建てゝ,寺田屋は其西に建てけり」と書いていること。
あたりを読めば納得していただけるのではないだろうか。
以上を総合すれば、今の寺田屋は明治になって建て替えられ、幕末の寺田屋はその東隣の土地だったということになる。

Wikipediaによると、現在の寺田屋の建物の登記は明治38年(1905)だそうだし、湯殿のある部分は明治41年(1908)だそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

また、大正年間に、現在の寺田屋の土地建物は幕末当時の寺田家のものではなくなったらしく、昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたとも書いてある。その人物とは幕末の寺田家とは関係がない人物というのだ。

寺田屋のパンフレットでは、「当時の状況を、第14代寺田屋伊助の考証により復元したものである」として宿の1階と2階の間取りが立体的に描かれており、この部屋は龍馬が襲われた部屋だの、この階段は龍馬に知らせようとお龍が裸のまま駆けあがった階段だのと説明書きがいくつもされている。

寺田屋パンフ

このパンフレットであれば、「今の建物の説明をしているのではなく、当時の建物はこうだったとして書いています」という言いわけが出来てしまうだろう。こう書けば、京都市の指導をうまく逃れることができるとでも考えたのであろうか。

そもそも、「考証」したという人物が「第14代寺田屋伊助」である。この人物をネットで調べると、昭和37~38年頃にこの古い建物を買取って旅館経営に乗り出し、本名は「安達清」といい、元は警察官で幕末の寺田屋の寺田家とは何の縁もゆかりもないようだ。7年前に亡くなられたそうだが、そんな人物が「考証」したとする図面をそのまま信じていいのだろうか。現在の寺田屋に近い図面をパンフレットに載せただけなのではないだろうか。

司馬遼太郎が産経新聞に「竜馬が行く」の連載を始めたのが昭和37年6月だが、その時期にこの人物は旅館業を始め、当時の龍馬ブームに乗っかって営業を軌道に乗せたのだろう。 なによりも腹立たしいのは、幕末の寺田屋が焼失したこととこの建物が明治になって改築されたものであることを一言も説明せず、入口にもパンフレットにも堂々と「史跡」と書いていることである。

観光客は本物を求めている。そのために時間をかけ、お金を使って見学に来ている。どれが本物か、どれがレプリカであるかがせめてわかるように展示してほしい。旅行業者も旅行に関する書籍の出版社も、本物かどうかは見極めたうえでキチンと書くべきである。言いたいことは、ただそれだけである。
寺田屋の今の営業のやりかたは見学者を欺くものであり、「観光地偽装」と言われても仕方がない。模造品のコレクションとはいえ、それなりに珍しいものが展示されているのだから、誤解されるような展示手法はやめていただきたい。

寺田屋だけではないと思うのだが、歴史ブームに乗っかって、歴史の事実を曲げてまで、利益のためなら何でもやるような商売のやり方がまかり通らないようにしてほしいものだと思う。
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京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館

前回は寺田屋に行ったことを書いたが、寺田屋の近くには見逃せない観光スポットがいくつかある。
寺田屋が開くのが10時なので、この日は寺田屋を行く前に2か所ばかり観光をしてきた。今回は、私が見学してきた寺田屋近辺の観光地のことを書こう。

最初に訪れたのは御香宮(ごこうのみや)神社である。

平安時代の貞観4年(862)に、この神社の境内から「香」の良い水がわき出たので、清和天皇から「御香宮」との名前を賜ったが、それ以前は「御諸神社」と称していたらしい。

その後豊臣秀吉が伏見城を築城する際に鬼門除けの神として勧請され伏見城内に移されたが、徳川の天下となって家康が慶長10年(1605)に元の位置に戻したそうだ。

伏見門298

上の画像は御香宮神社の表門だが、これは元和8年(1622)に徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して御香宮に寄進したものとされ、国の重要文化財に指定されている。

御香宮拝殿

上の画像は拝殿だが、これは寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進によるもので京都府指定文化財である。平成9年に極彩色が復元されて美しく、良く見ると右側に鯉の滝登りが、左側には仙人が描かれている。

御香宮本殿

本殿は慶長10年(1605)徳川家康の命により建立されたもので、昭和60年に国の重要文化財に指定されている。本殿も平成2年より着手された修理により極彩色が復元され、屋根の桧皮葺も美しい。

名水100選

本殿の横にこの神社の名前の由来となった「石井の御香水」が湧き出ている。明治以降は涸れてしまっていたらしいが、昭和57年に復元され昭和60年に環境庁により「名水100選」に選定されている。一口飲んでみたが、なかなか美味しい水である。もしここへ来られる場合は、ペットボトルを用意されればよい。もちろん持ち帰りは無料である。

この神社に来られた時に是非立ち寄っていただきたいのが、社務所の奥にある小堀遠州ゆかりの石庭。社務所の座敷に進んで、石庭を眺めながらくこの庭の由来についてのテープの説明を聞いたが、この内容がなかなか面白かった。

小堀遠州

小堀遠州は茶人、建築家、作庭家として有名な人物だが、元和9年(1619)に伏見奉行に任ぜられた時に庁舎の新築を命ぜられ、寛永11年(1634)上洛した三代将軍家光を新築の奉行所に迎えた時に、家光は立派な庭に感心して褒美として五千石を加増し、遠州は伏見奉行の庭で出世の糸口を掴んで大名となったという。

250px-Kobori_Ensyu.jpg

ところが伏見奉行所は、明治以降は陸軍工兵隊となり、太平洋戦争後は米軍キャンプ場となってすっかり庭はひどく荒されてしまったそうである。その後昭和32年市営住宅になったのを機に、奉行所の北にある御香宮に庭を移すことになり、中根金作氏(中根造園研究所長)が庭石や藤の木などを移して復元されたものだそうだ。なかなかいい庭で、秋の紅葉時はもっと美しいだろう。

明治維新伏見戦跡

御香宮の境内に「明治維新 伏見の戦跡」と書いた石碑がある。その横に元首相の佐藤栄作が鳥羽伏見の戦いを解説した文章が書かれた案内板がある。
それによるとこの御香宮の東側の台地に薩摩軍の大砲が備え付けられて、鳥羽方面からの砲声を合図に、薩摩軍が伏見奉行所に陣取る新撰組に砲撃を開始したことから鳥羽伏見の戦いが始まったとのことである。
しかし、圧倒的に優勢だったはずの幕府軍がなぜこの戦いに敗れたのか。このテーマはいずれまた書くことにしたい。

大倉記念館

御香宮から車で3分も走れば、月桂冠大倉記念館に着く。白壁土蔵の立派な建物が立ち並ぶ街並み自体が素晴らしく、タイムスリップしたような気分になる。

大倉記念館樽
中には、昔の帳場を復元したものや、昔の酒造用具などが展示されている。
入場料は300円だが、お土産にワンカップの特級の日本酒が付いてくる。電車で行けば利き酒コーナーでいろんなお酒が楽しめるのだが、この日は車で行ったので美味しいお酒を飲み損ねてしまった。

伏見のお酒は「御香宮」の名水に代表される地下水が酒造りに最適と言われ、「月桂冠」の他に、「黄桜」、「松竹梅」、「玉乃光」など40近いメーカーがこの近辺にあるそうだ。

十石船

大倉記念館のすぐ南に十石船の乗り場がある。春の桜や秋の紅葉の季節は、古い街並みや酒蔵を見ながらの観光は素晴らしいだろう。ブログでいろんな人が感想を書いているので乗ってみたい気持ちもあったのだが、この日はこれから寺田屋に行き、枚方で昼食を予約していたのであきらめた。

大倉記念館から寺田屋へは歩いて5分程度。途中で月桂冠を創業した大倉家の本宅(文政11年[1828]築)や大正8年築の旧本社などを見ることが出来る。

先程の十石船の乗り場を流れる濠川は、大倉記念館の裏を通って寺田屋の近くを流れている。

伏見船場

「都名所図会」の巻之五に「伏見京橋」の絵が載っている。地図を見ると寺田屋からあと80mも西に行けば伏見区京橋町となる。

「都名所図会」が出版されたのは安永9年(1780)で、龍馬がお龍と出会うのは元治元年(1864)だが、当時は物流を船に頼っていた時代である。このような景色は明治になって鉄道網が発達する頃まではあまり変わらずに続いたと思われる。
龍馬が寺田屋に行く時は図会に描かれた中央辺りで船を下り、宿の近くで見た景色はこのようなものであったのだろう。

「都名所図会」の本文にはこう解説されている。

「京橋の辺は、大阪より河瀬を引登る舟着にて、夜の舟昼の舟、あるは都に通ふ高瀬舟、宇治川くだる柴舟、かずくこぞりてかまびすしく、川辺の家には旅客をとゞめ、驚忽なる声を出して饗応けるも、此所の風儀なるべし。」

なんだか、船頭の声や旅館の客引きの声が聞こえてきそうな情景だが、今の観光地よりも昔の方がはるかに活気がありそうだ。
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「一休寺」と、自然野菜の手作り農園料理「杉・五兵衛」

前回は、御香宮神社と大倉記念館のことを書いたが、この日はそれから寺田屋を見た後、「一休さん」で有名な「一休寺」に向かった。

一休

とんち話で有名な「一休さん」はテレビアニメにもなって日本人なら誰でも知っていると思うのだが、その「一休さん」こと一休宗純禅師が晩年を過ごした「一休寺」というお寺が京都府京田辺市にあることを知ったのはつい最近のことである。友人からも勧められていて、ずっと前から行ってみたいと思っていたので、今回伏見の名所を廻ってから一休寺に行くコースを組んだ次第である。
寺田屋近辺から一休寺まで15kmくらいで、35分くらいで一休寺に着いた。

一休寺は、鎌倉時代の正応年間(1288-1293年)に開かれた妙勝寺が前身で、この寺が元弘年間(1331-1334)に兵火にあって衰退したのを、一休禅師が康正2年(1456)に草庵を結んで中興して「酬恩庵」と号し、その後、一休禅師は88歳で亡くなるまでここで過ごしたそうである。

一休寺名所図会_072

上の画像は「都名所図会」巻之五にある「酬恩庵」の図会である。(名所図会では「妙勝禅寺」と書かれているが本文に「酬恩庵と号す」と付記されている。今は「一休さん」が有名になり過ぎて「一休寺」と呼ばれてはいるがこれは通称で、正式名称は「酬恩庵」である。)

一休寺石畳

門をくぐると参道は非常にきれいに手入れがされていて気持ちが良い。残暑が厳しい日ではあったが、木々の緑が日差しを遮って心持ち涼しく感じられた。秋の紅葉の時期はきっと美しいだろう。

一休和尚の墓

参道を右に曲がると一休禅師の御墓がある。お墓といってもちょっしたお堂であるが、この門には菊の御紋が彫られている。門の左に建てられた木の立札は宮内庁のもので「後小松天皇皇子 宗純王墓」と書かれていた。

はじめは、別のお墓が二つあるのかと思ってあまり深く考えず先に進んでしまったが、良く考えるとお寺に宮内庁の立札があるのは違和感がある。自宅に帰ってから調べて驚いた。一休和尚は第100代後小松天皇の落胤だったという説が有力なのだそうだ。

一休寺のパンフレットには小さく「禅師は人皇百代後小松天皇の皇子であるので御廟所は宮内庁の管轄である」と書いてあるのに気がついたのは家に帰ってからだが、自宅で一休寺のホームページを辿っていくと、一休禅師の墓の説明の部分で、「一休さんは、1394年(応永元年)正月元旦に、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘照子姫との間に生まれました。」と書いてある。
http://www.ikkyuji.org/keidai_annai/ikkyu_haka/ikkyu_haka.html

Wikipediaによると、東坊城和長の「和長卿記」という本の明応3年(1494)8月1日の条に、「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之を知る人無し」と書かれているほか、「一休和尚行実」「東海一休和尚年譜」などの伝記類においても、出自を後小松庶子としていることなどが書かれている。但し、母親については諸説があるようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94

一休寺枯山水

中に入ると方丈を囲んで見事な枯山水庭園が広がる。この庭は松花堂弁当で名高い松花堂昭乗と佐川田喜六、石川丈山の三氏合作と言われている。上の画像は方丈から眺めた南庭で、白砂が鮮やかで美しい。庭から屋根が見えるお堂が一休禅師の御廟所である。

一休寺方丈

この画像は方丈で重要文化財に指定されている。中に一休禅師の木造(重要文化財)が安置されている。

一休寺北庭

上の画像は方丈から眺めた北庭で枯滝落水の様子を表現したものだそうだ。

一休寺本堂

方丈を出て本堂に進む。入母屋造の桧皮葺でこれも重要文化財に指定されている。
内部には釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩を祀っているとのことだが、あまりよく見えなかった。

すぐ近くに宝物殿があり、重要文化財の「一休禅師頂相」や、一休禅師の墨跡やゆかりの品が展示されている。

平日であったこともあると思うが観光客は少なく、古刹と素晴らしい庭の景色をほとんど独占出来て大満足だった。

ところで、一休禅師は77歳の時に森(しん)という若い女性と恋に落ちる。彼女は生まれつきの盲目で、身寄りもなく謡を歌って金品を貰って生活する日々を過ごしていたのを一休禅師は哀れに思い、庵に連れて帰るのだがやがてそれが愛情に変わっていく。
一休禅師が森女との愛欲にまみれた生活を隠さずに漢詩で書いた「狂雲集」という詩集があり、次の「里山のフクロウ」というサイトでいくつか現代語訳が紹介されているが、かなりエロチックな内容に誰しも驚いてしまうだろう。
http://minoma.moe-nifty.com/hope/2010/09/---ebc9.html

一休寺を後にして、昼食を予約した農園・杉・五兵衛に向かう。ここは、農園で育てた無農薬野菜や地鶏を料理して出す農園料理が売りだ。次のURLが杉・五兵衛のHPである。
http://www.sugigohei.com/

杉五兵衛本館

昼食を予約したのはここの本館の農園会席料理で、価格はやや高い気がするがこんなに静かで落ち着ける場所で、新鮮な食材の手作り料理が頂けるのは価値がある。

杉五兵衛部屋

私が家内と案内された部屋はこんな部屋なのだが、とても落ち着けて、ゆっくりおいしい食事を楽しむ事が出来た。
おつまみ、前菜、メインディッシュ、手作り豆腐、炊き込みご飯と吸い物、デザートの順に運ばれてくるが、下の写真はメインディッシュである。

杉五兵衛メインディッシュ

右上の黄色い花は「花オクラ」というもので、花びらが食用になっている珍しい植物だ。私は生のままで頂いたが、花びらにほのかな甘みが感じられた。
野菜中心のメニューなのだが、充分おなか一杯になって大満足だ。
杉五兵衛デザート

最後のデザートは自家製の巨蜂と柿のシャーベットとその上に自家製のアイスクリーム。どれもとてもおいしかった。

この施設は本館以外に、テラスハウスやパン工房や売店がありそこでも食事をすることが可能だ。 また売店では、農園で作られた野菜や果物、ジュースやジャムや菓子類やパンなどを買うことが出来る。
農薬や化学肥料を使わず、残飯を餌にしてロバや鶏を買い、糞は畑の肥料にする自然循環農法を営んでおられる。園内で動物と遊ぶこともできるし果物や野菜を収穫するイベントも行われているようだ。広さは5haで甲子園球場の敷地くらいの広さはあり、散策しても楽しそうだ。

自宅に帰っていろいろ調べると、昨年の7月18日付の「日経プラスワン」の「何でもランキング 夏休みに行きたい農園レストラン」で、この農園・杉・五兵衛が大阪で唯一全国ベスト10(第9位)に入っていたそうだ。近畿圏では和歌山であと1件入っていたようだが、大都市近郊でこんなに広い農園が残っていたこと自体が奇跡のように思える。

この杉・五兵衛の園主がHPで書いていることが良い。
「農耕とは自ら種を播き、耕し、育てそしてそれを食した。その育てるという過程におのずと教育が生まれ、花が咲き実がつくことにより情操が生まれる。さらに収穫したものをいかに蓄え活かし食するかという中に文化が芽ばえる。
農業という産業に分化してからは、いかに多くの金銭を得るかとする事ばかりに重点が置かれ、農の楽しみがなくなり教育や文化迄もが衰退してしまっている。」
そして、農園の経営とは「農業として潤し、かつ教育、情操、安らぎ、文化をも含み、経済の奴隷にならず大地に働く誇りを持った営みと考えます。」と、実に立派な経営者だ。この考え方が農業従事者に浸透していたら、こんなに日本の農業が衰退することはなかっただろう。

しかしどんなにいいお店でも、お客様が来店されてお金を落としてくれなければ生き延びることができない。これからも杉・五兵衛に時々足を運んで応援することにしたい。
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日本三景「天橋立」の楽しみ方~~~二年前の「天橋立」カニ旅行 その①

日本三景の一つである「天橋立」は今まで社内旅行などで何度か行く機会があった。
観光バスが案内してくれるのは北側の傘松公園か南側の天橋立ビューランドのいずれかで、電車で行く場合は天橋立ビューランドで見ることが多かった。
行く季節は秋から冬が多く、景色を楽しんだ後は日本海のカニを堪能することが多い。

天橋立ビューランド

上の画像は天橋立ビューランドから見た景色であるが、ここから見る天橋立は龍が天に登る姿にたとえられ「飛龍観」と呼ばれている。ここから見る天橋立は確かにすばらしい。

しかし、せっかく車で天橋立に来たのだから違う景色も見たいものだと思って、2年前に成相寺(なりあいじ)の裏の山上(成相山)にある「成相山パノラマ展望所」に行ったことがある。
ここは成相寺の境内で拝観料がいるが、傘松公園より西側でずっと高い場所から天橋立を見降ろすことになるので、晴れていれば非常にスケールの大きい景色を眺めることが出来る。道は未舗装でデコボコしているが、ここまで来るのに車で登れるのがありがたい。

天橋立成合寺

上の画像は「成相山パノラマ展望所」から見た天橋立だが、天橋立だけでなく栗田半島から伸びる黒崎半島までの全景を見渡せる。

成相寺は西国三十三箇所第28番札所で、寺伝によれば慶雲元年(704)真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったという由緒あるお寺だ。

成相寺本堂

本堂は安永3年(1774)に再建されたもので、本尊の左の地蔵菩薩坐像は重要文化財に指定されているほか、文化財がいくつかある。

他にもいろんな角度から天橋立を鑑賞するスポットがあり、次のサイトで「天橋立十景」といわれる鑑賞する名スポットが紹介されており、それぞれの場所から見る天橋立がどんな景色になるか画像も見ることが出来る。
http://www.h4.dion.ne.jp/~yama44/kanko/images/hashitate.htm

宮津滝上公園から15分歩いた展望所から見る「弓ヶ観」や、岩滝町の板列展望台からみる「一字観」などもなかなか良さそうで、今度行く機会があればチャレンジしたい。

このサイトの中に「雪舟観」の展望所の案内も書かれている。

天橋立図sessyu

雪舟といえば室町時代に活躍した水墨画家だが、その代表作で国宝となっている「天橋立図」という水墨画がある。雪舟がこの絵を描いたのがこの辺りだろうということで、「雪舟観展望所」が作られた。

雪舟観

しかし、上のサイトの雪舟観展望所から見た天橋立の写真は雪舟の絵と随分異なる。雪舟の絵のように天橋立の西側の海(阿蘇海)が大きく見えるためにはもっと高いところに登るしかないが、栗田半島にはそのような高いところがなく雪舟の絵のように見える場所は実際には存在しない。雪舟の天橋立図は、鳥瞰図として描かれたものであって写生画ではないのだ。

天橋立を少し歩くのもいい。まずは南端にある智恩寺から紹介しよう。

智恩寺

智恩寺は大同3年(808)年に平城天皇の勅願寺として創建されたお寺で、文殊菩薩を本尊とし、奈良県桜井市の安部文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊とともに日本三文殊の一つとされている。上の画像は智恩寺の山門で宮津市の指定文化財となっている。

智恩寺多宝塔

智恩寺の多宝塔は明応10年(1501)に落成したもので、国の重要文化財に指定されている。 また本尊の文殊菩薩も重要文化財であるが、御開帳されるのは毎年7月24日一度だけだそうだ。

廻旋橋を渡り天橋立を歩きだす。天橋立は延長3.6kmの砂嘴で、道に沿って8000本あるという松並木がずっと続いている。砂嘴の幅は広いところでも170m、狭いところでは20mしかない。

天橋立砂浜

東側の外海(宮津湾)は白い砂浜が続き、西側の内海(阿蘇海)には砂浜がなく、水深は深く左右の景色は随分異なる。

途中で与謝野寛・晶子の歌碑や蕪村の句碑等があり、もう少し行くと磯清水という井戸があり、四方海に囲まれて砂浜が近い場所でありながらここの水は不思議な事に塩分を含んでおらずおいしい水で、環境庁から昭和63年に全国の「名水百選」に選ばれている。

磯清水

古来から不思議な名水とされ、昔和泉式部が「橋立の松の下なる磯清水都なりせば君も汲ままし」と詠ったと伝えられている水をお試しあれ。

天橋立の近くで、グルメの方に是非勧めたいところは「飯尾醸造」。
以前このブログで月間サライ誌の『世界に誇る日本の「食」』という特集でこの会社の製品が紹介されていたことを書いたが、明治26年創業で日本一美味しいと評判の酢のメーカーである。

飯尾醸造

テレビや新聞や雑誌で紹介される事が多いそうだが、マンガ「美味しんぼ」の第66巻の第二話「真心に応える食品」にここの製品である「富士酢」が紹介されているそうだ。

「富士酢」は酢1リットルにつき200gのお米(コシヒカリが8割と酒米の「五百万石」が2割)を使うそうだが、これはJAS規格の5倍量のお米だそうだ。しかもお米は無農薬の新米のみを使い、自社の蔵で「酢もともろみ」を作り、昔ながらの「静置発酵法」で100日間かけて発酵させるそうだ。多くのメーカーはタンクに空気を送り込んで人工的に発酵させる「全面発酵法」で8時間から長くても数日で発酵が終わるのだそうだが、実際使って見ると、大手メーカーの酢とは全然違いまろやかさがありツンツンしない。一度使えばその良さが分かると思う。

日曜・祝日は残念ながら休業となるが、この工場に行けば、製造工程の見学はもちろんのこと、濁り林檎酢、無花果酢、紅芋酢、石榴酢などの果実酢や健康酢などが試飲できるし、販売もしている。
酢の苦手な人も飯尾醸造の製品ならきっと飲みやすいと思っていただけるのではないか。 飯尾醸造のHPのURLは次のとおりである。
http://www.iio-jozo.co.jp/

古い街並みや住宅が見たければ、三上家住宅がお勧めだ。三上家は酒造業・廻船業・糸問屋業を営む一方で、宮津藩の財政などに関わってきた豪商で、屋敷は天明三年(1783)築の主屋や酒造施設(1830築)などが並んでいる。

三上家住宅

敷地は1000㎡を超え建物が素晴らしいし、庭も良かった。

2年前に天橋立で泊まった宿は「茶六別館」。この宿は宮津温泉の数寄屋造りの料理旅館で、創業290年の老舗である。建物に風情があるだけでなく、料理も良くサービスも良く、お風呂も良く、価格も比較的リーゾナブルで誰にでも勧められる宿だ。

料理はもちろんカニづくしの会席だったが、美味しいカニをフルコースで頂いて大満足の一日だった。
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伊勢神宮より古い神社と伊根の舟屋を訪ねて~~二年前の天橋立カニ旅行②

宮津温泉の茶六別館で朝食を済ませて、天橋立をゆっくり眺めながら、傘松公園の近くの「元伊勢籠神社*(もといせこのじんじゃ)」に行く。(*「籠神社」とも言う。)

籠神社

「元伊勢」という字が冠されるのは、天照大御神や豊受大神を伊勢神宮の内宮・外宮に鎮座する前にこの場所で祀っていたという伝承をもつことを意味するそうだが、第十代崇神天皇の御代に日本国中に疫病が大流行したらしく、それがきっかけとなって何度も遷宮を繰り返し、全国に「元伊勢」と言われる神社が、この神社の他にも奈良、京都、岡山、三重、滋賀、岐阜、愛知の各府県にいくつか残されているそうなのだ。

もともとこの神社は神代より豊受大神(現在の伊勢神宮外宮の御祭神で穀物の女神)を今の奥宮のある真名井に鎮座されていたのだが、崇神天皇の御代に天照大御神が大和国笠縫邑(現在の奈良県桜井市)から当社地に遷座され、吉佐宮(よさのみや)と称して両大神を一緒に祀る事になったそうだ。その後天照大御神は第十一代垂仁天皇の御代に、豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代に今の伊勢神宮の場所にここから各地を回って、伊勢の国に鎮座することになったという。
この経緯については「日本書紀」にも簡略に書かれているが、「皇太神宮儀式帳」や「倭姫命世紀」「止由気宮儀式帳」という書に詳しく書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2

これだけ歴史のある神社なので文化財も多い。

籠神社の狛犬

まず境内参道に鎮座する狛犬は鎌倉時代のものだが、国の重要文化財に指定されている。

また公開されてはいないが、籠神社の創祀以来の祀職である海部氏の始祖から平安時代初期までの家系図が、我が国で現存する最古の家系図として国宝に指定されている。なお、現在の宮司である海部氏は神代以来血脈直系で世襲されてきており、現宮司が82代と伝えられているそうだ。

これも公開されていないが、日本最古の伝世鏡(古墳などで発掘されたのではなく代々継承されてきた鏡)である邊津鏡という前漢時代の鏡と息津鏡という後漢時代の鏡があり、前者は今から2050年位前に、後者は今から1950年位前に作られたものだそうだ。

天橋立図sessyu

今回「元伊勢籠神社」のHPを読んで初めて知ったのだが、前回紹介した雪舟の描いた国宝「天橋立図」は、雪舟がこの籠神社を描いて奉納し、近世までは海部宮司家にて大切に保存されてきたものだそうだ。昔は天橋立そのものが籠神社の神域であり参道であったと書かれているが、それが事実なら何故雪舟が「天橋立図」をこのアングルで描いたのかがなんとなくわかる。籠神社の境内すべてを周囲の山とともに書きこむには、もっとも収まりの良いのがこの構図のような気がするのだ。
http://www.motoise.jp/main/top/index.html

倭宿禰像

ところで、籠神社の境内に浦嶋太郎に良く似た銅像がある。これは倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)の像で、海部宮司家の4代目の祖にあたる人物だ。籠神社のHPによると神武天皇御東遷の途中で「明石海峡に亀に乗って現れ、天皇を大和の国へ先導したといわれ、さらに、大和建国の功労者として倭宿禰の称号を賜った」と書かれている。この記述は、「古事記」の神武東遷の際に現れ倭の国造の祖となったサオツネヒコの記述とピッタリ一致するのだが、籠神社のHPの記述の原典は何なのだろうか。

真名井本殿dscn0499

私は行かなかったが、籠神社の奥には奥宮である真名井神社がある。前述したようにこの場所が神代より豊受大神を祀っていたところである。境内では有名な真名井の御神水が湧いているそうだ。

籠神社から伊根の舟屋に行ってから、浦嶋神社に行ったのだが、倭宿禰のことを書いたので先に浦嶋神社の事を先に書こう。

浦嶋神社は浦嶋太郎伝説の中では最も古い神社だが、浦嶋太郎の伝説は本当に古い話で、8世紀に誕生した「日本書紀」「古事記」「万葉集」「風土記」といった古代を代表する文書のことごとくに浦嶋太郎(浦嶋子)を記録しているのである。

「日本書紀」は日本の正史でありながら巻第十四雄略天皇に実在の人物として「水江浦嶋子」が船に乗って釣りをしていると大きな亀を得て、その亀が女性になって結婚し、一緒に海中に入り仙境を見て回った話が出てくるのだが、どうして我が国の正史にお伽話のような記述があるのだろうか。(「丹後国風土記」の逸文にはその物語がもっと詳しく書かれている。)

「古事記」には神武天皇の東征の話の中で、「亀の背に乗り、釣りをしながら羽ばたき来る人」がやってきて水先案内人を買って出たシーンがあり、この人物が先程の籠神社のHPでは倭宿禰ということになるが、後世の浦嶋太郎の話は古事記の神武東征の水先案内人の話と「日本書紀」「丹後国風土記」の浦嶋子の話とが一部合体したような話だ。

また「古事記」「日本書紀」には景行・成務・仲相・応神・仁徳天皇の五代の天皇に仕えた武内宿禰という人物が出てくる。同一人物とすれば300才近く生きていたことになるのだが、これはちょうど浦嶋太郎が竜宮城で生活した期間と重なって来るのも面白い。

浦嶋神社

上の画像が浦嶋神社の鳥居と拝殿である。
この浦嶋神社の創祀年代天長二年(825)と古く浦嶋子を筒川大明神として祀っている。
この神社の案内板によると
「浦嶋子は日下 部首等の祖先に当り、開化天皇の後裔氏族である。その太祖は月読命の子孫で当地の領主である。浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月 七日に、美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有年を経て五三代淳和天皇天長二年(八二五)に帰って来た。この話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁を勅使とし宮殿を御造営された。」とある。

浦嶋社殿の彫刻

拝殿には立派な彫刻がなされており、藁で編まれた亀が架けられているのが面白い。

浦嶋神社はこれくらいにして、伊根の舟屋の話題に移そう。
伊根の舟屋は伊根湾を取り囲むように海面すれすれに建築され、1階は船のガレージのようになっており2階は住居という造りになっている。このような舟屋が伊根に約230棟あり、漁村では全国で初めて国の重要伝統的建造物保存地区の選定を受けている。

この舟屋が軒を連ねる伊根湾の景色を高台から望める場所に道の駅があり、そこに朝揚げたばかりの旬の魚が味わえるレストランがある。
伊根漁港は日本三大ブリ漁場のひとつで、伊根ブリと言われるコリコリの歯ごたえとともに脂ののったジューシーなブリは旨かった。

高台から眺める舟屋もいいが、伊根湾めぐりの遊覧船から間近に眺める舟屋もいい。

伊根舟屋

それぞれの家がすべて男の仕事場である豊かな海につながり、仕事に不可欠な船は家とともにあり、家族とともに支えられ、集落の人々とは海を通じて固い絆で結ばれた関係が続いたからこそ、この景観が残されているのだと思う。

伊根遊覧と鷗 095

どこか人の温もりを感じる舟屋の景色を楽しみつつ、時おり船の周りに集まるカモメと戯れる時間も楽しかった。
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丹波に秋の味覚を求めて~~丹波栗の歴史と生産農家の危機

17日の日曜日は朝から秋らしい爽やかな天気で、秋の味覚を求めにちょっと車を走らせた。 摂丹街道(R423)を北に走ると、大阪府と京都府の境界線あたりから地元の農産物などが安く買えるところがいくつかある。

途中で朝市もあれば、農家が獲れたばかりの農産物を庭先で売っていたり、飲食店を経営しているところが野菜や果物を店先に並べていたりする。私が良くいくところはそういう場所だ。

この近辺までくれば、店によって若干の価格差があるとは思うが、どこで買ってもそれなりに安く野菜や果物を買うことが出来る。
それぞれの店の在庫の状況次第で、ちょっと古いものを安く売ったりしている。この日は丹波栗と丹波松茸一本とトマトや枝豆等をいろんな店を回って買い回りした。

丹波栗
丹波松茸

店の名前をメモしなかったので申し訳ないが、亀岡市西別院あたりで買った丹波栗が約1kgの袋で個数限定で600円はお買い得だった。松茸は1本780gで1900円。地元でしか買えない価格だと思う。そのお店は、栗はほとんど同じサイズの品が1000円で並べられていた。おそらく仕入れた日が何日か早いので安かったのだろう。
ネットで買えば倍近くするものが、現地に行くと自分で商品を見ながら買うことが出来るのが醍醐味である。

また、栗はサイズ次第で価格が随分違う。前回亀岡に来た時は小ぶりのものを300円で別の場所(亀岡市犬甘野)で買った。皮を剝くのが少し面倒なだけで、焼き栗なら小さいものの方が香ばしくて良いかもしれない。

栗というと、縄文時代の三内丸山遺跡(青森市・約5500年前)で大規模な栗の柱と大粒の栗の実が出土し、遺跡の周辺の森は栗林だったことがわかっている。

三内丸山遺跡

自然の栗の木が林になることはないらしく、縄文時代から栗が日本人の食生活に欠かせない存在であり、食糧生産のために植林したものであることは確実だ。
また自然の栗の木で大粒の栗が出来ることはないそうで、ここに住んでいた縄文時代の人々は、大粒の栗を作るための接木の技術を持っていた可能性もあるとも言われている。
栗の木は心材の耐朽性が高く建築資材として今でも良く使われるのだが、縄文時代から住居の柱に使われていたことも非常に興味深い。

三内丸山遺跡は栗とともに栄えた、定住型都市型社会と考えられているのだが、どういうわけか、今の青森県はほとんど栗が栽培されていないという。しかし当時の気候は今よりも2度程度高く、栗を栽培するには適切な気温だったらしいのだ。

「日本三代実録」という書物に、貞観8年(866)、常陸国(茨城県)の鹿島神宮ではスギ4万本、栗5千7百本を植えたという記録があるそうだが、それが栗を植林した最古の記録なのだそうだ。おそらく、将来神社を再建する時のために植林されたものであろう。

丹波栗のことを書いているサイトを読んでいると、「古事記」や「日本書紀」にも丹波栗が書かれているとか、仏教伝来とともに大陸から栗栽培の技術が伝えられ、大粒の栗が栽培されるようになったと書かれているものがある。
最近は日本の古典もパソコンで原文にアクセスが出来るようになったので、「古事記」や「日本書紀」をざっと文字検索してみたが、丹波栗の話がどこに書いてあるかは残念ながら確認できなかった。
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kojiki/kojiki_top.htm
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syokitop.htm

しかし「栗」に関して調べると、「日本書紀」には栗が朝廷に献上されたような話が何か所かに出てくる。
また巻第三十の持統天皇の七年(693年)3月17日に天皇が「全国に桑、紵(からむし)、梨、栗、蕪青(あおな)などの草木を勧め植えさせられた」。という記述もあるが、丹波の国に限定した記事は見当たらなかった。

丹波地方が栗の名産地であったことが文献上で確認できるのは、平安時代に禁中の儀式や制度を記した「延喜式」だそうで、そのことから、栗の栽培地として一番歴史が古いのが丹波地方であることは定説となっているようだ。

長い間朝廷や幕府に献納されてきた全国トップブランドの丹波栗ではあるが、今の生産量は驚くほど少ない。
2年前のデータでは、全国の栗生産量は18300tで、トップは茨城県の5030tで次いで熊本の3220t、愛媛の1990tの順だそうで、この3県で日本の栗生産の56%にもなる。丹波栗を作っている京都や兵庫は全国のベスト8にも顔が出て来ないのだ。 いつのまにか日本の市場に出回る栗は75%が輸入品になっており、2年前の輸入品の総量は14,445tだそうだ。

栗

丹波栗の生産は京都府では昭和53年には1500tもあったそうだが、今は200tまで減ってしまっていることを今回調べて初めて知った。
理由はいろいろあるが、最大の理由は安価な輸入商品が流入し、大手流通業者に安値で買い叩かれ、生産者の生活が成り立たなくなったことが大きいのだろう。

しかし、ここ数年、消費者は大手流通の野菜や果物よりも、生産地に近い場所で買う方が安くておいしいことに気がついてきたのではないだろうかと思う。都心に近い産直売場はどこも人が増えてきている。これからは車で野菜や果物を買いながら、田舎の名所巡りやグルメを楽しむ人がもっと増えそうな気がする。

こういう場所で野菜や果物が安く買えるのは、農家から直接仕入れていて流通コストがゼロで、売り切れ御免の商売だから廃棄がなく無駄がないことは誰でもわかる。

私の子供の頃は近所の八百屋で野菜などを買っていたが、そういう八百屋が大手流通に潰されていき、初めてスーパーで母親が買ったトマトが不味かったのを今も忘れない。 スーパーのトマトが不味いのは当然で、大手流通は農家に対して熟さないうちにもぎ取るように指導し形の整ったものだけを出荷させるのだが、これは消費者のためにしているのではなく、流通業者の都合で、販売過程で廃棄を減らして効率よく稼ぐために、農家に要求しているだけのことだ。
資本力にものを言わせて、安いところから商品を買い漁り続けるうちに、若い世代は農業に見切りをつけて故郷を去り、日本の農業は老齢化が進み同時に地方が疲弊したが、流通業者は拡大し続けた。

しかし、大手流通が中国などから大量に野菜を入れるような行動を取りだしてから、消費者の行動が少しずつ変わってきたように思う。私が休みの日に田舎をドライブして現地の野菜を買うようになったのはこの頃からだが、最近では都心に近い産直売場には、よほど朝早く行かないと、商品がほとんど売り切れていることが最近ではよくある。

いくら大手流通業者が安い商品を売り場に並べても、生産者の価格に勝てるはずがなく、昨日今日収穫したような野菜が並べられるはずがない。味の違いがわかる消費者は、新鮮なものが買えるなら10kmでも20kmでも平気で走る時代になってきた。生産者も、消費者の顔の見える仕事に、力を入れるようになってきたことは非常に良いことだ。

平安時代からの名産品である丹波栗に限らず、地方の名産品を次の世代に残すためには、都会に住む人が、年に一回でもいいから買うことが一番である。買うということは生産者の商品の価値を認めてお金を払って応援することである。消費者が直接買うことで地方の生産者が潤い生活の基盤が出来、そうすることで地方の伝統や文化も守られ、美しい自然も水源も守られていくのだ。消費者がネットで地方の産物を買うことが簡単にできるようになったが、このことは流通業者に流れていた富を地方で循環させ、地方を潤わせることにつながっていく可能性を感じている。これから地方がやり方次第で豊かになる道が開かれつつあるのではないかと思う。

どこの国のものでも、ただ安ければいいという消費者や流通業者の考え方は、地方を荒廃させ空洞化させてきた元凶ではなかったか。そのために地方の農地や水源などが外国資本に売られているようなとんでもない事例が各地で起こっているようだが、こういうことを放置しては国が守れないし、いずれ国民が高い付けを払わされる日が来るだろう。

しかし今は、消費者は安くて、新鮮で、安心できるものを求めて、生産者の近くで商品を買ったり、ネットで直接商品を買ったりする選択肢をもっている。
これからは地方の生産者との共存共栄を考えない流通業者は、多くの消費者から見放されて、いずれは過大な設備を持て余すことになりはしないだろうか。
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丹波篠山の重要文化財・天然記念物を訪ねて~~磯宮八幡宮と大国寺

24日の日曜日も天気が良かったのでまた田舎道をドライブしたくなった。
先週は亀岡だったが今度は丹波篠山を目指すこととして、事前に丹波篠山の国指定の重要文化財がどこにあるかを調べてみたところ全部で16あり、その内の6つは大国寺という天台宗の寺院にあることがわかったので、まずはその寺を目指すことにした。

吹田から一般道を走り池田から川西、猪名川につながる川西篠山線(県道12)を北上していく。

途中で磯宮八幡神社という神社に立ち寄った。

磯山八幡宮全景

この神社は観光案内書には記載されていない小さな神社だが歴史は古く、承平3年(933)に石清水八幡宮よりご分霊を勧請したという古社で、昔は末社が50社もあって曽地・後川荘など四ヶ荘におよぶ広い地域の総社だったそうだ。
歴史が古いだけあってこの神社は2つの国指定重要文化財を持っているのだが、その文化財がなんと2つとも「仏像」なのだ。

磯山八幡宮重要文化財

明治の廃仏毀釈によりここにあった神宮寺が潰されてしまったが、もともとこの神社は神仏習合でお寺と神社が渾然一体としていたようだ。潰された神宮寺に安置されていた四天王のうち木造持国天立像と多聞天立像が今はこの神社の収蔵庫に保管されているそうだが、残念ながら普段は公開されていない。この二つの仏像は、次のURLで見ることが出来る。
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/bunkazai/bunkazaiichiran/0039.pdf
http://edu.city.sasayama.hyogo.jp/tiikibunka/bunkazai/bunkazaiichiran/0040.pdf

この神社は古くから領主、武将らの信仰が厚く、建武3年(1336)2月、足利尊氏が九州への途中に参拝し、願書や鏑矢等を奉納し、田畑も寄進したと伝えられ、八上城主波多野秀治も城内武運長久の守り神として崇敬し、各種の寄付をするなど保護をしたが、天正7年(1579) 明智光秀の丹波攻略の折に兵火によって焼失。翌8年には再建されたという。

磯山八幡宮本殿

その後、承応3年(1654)、篠山城主松平康信が境内並びに田地二反余を黒印除地とし、寛文12年(1672)に社殿を建立。弘化5年(1848)に造営されたという記録があるそうだが、これだけ由緒のある神社とは思えないくらい、現在の建物は相当に傷んでいる。

磯山八幡宮天然記念物

この神社の境内に、ハダカガヤという高さ約10m樹齢600年以上の大木があり、国の天然記念物に指定されている。普通のカヤの実には堅い殻があるのだが、この木にできる実には不思議な事に堅い殻がないそうだ。突然変異で出来たものだそうだが、このようなカヤの木は世界でここしかないそうである。

次に向かったのは大国寺。

先程も書いたように、この寺には国の重要文化財が6つも存在するのだが、1つはこの寺の本堂である。

篠山大国寺本堂

このお寺は大化年間(645~650)空鉢仙人(くうはちせんにん)が国家安泰を祈願されて、自作の薬師如来を安置し開創されたと伝えられているが、その後平安時代の天暦年間(947~956)に戦火のため焼失。鎌倉時代正和年間(1312~1317)に花園天皇の御帰依により再建され、「安泰山大國寺」の称号を賜ったとされる。

篠山大国寺本堂横

今の本堂は鎌倉時代に再建されたものとされるが、腐朽破損が甚だしかったために、昭和40年に解体修理に着手し、翌年に再建当時の姿に復旧竣工したものである。

この本堂の中に、藤原時代の仏像5体が安置されており、いずれも国の重要文化財に指定されている。住職の御許しを得て、ノーフラッシュで仏像の写真を撮ることが出来た。

篠山大国寺仏像

左から増長天立像、阿弥陀如来座像、薬師如来坐像、大日如来坐像、持国天立像で、薬師如来坐像は藤原時代中期の作、他の仏像は藤原時代後期の作とされている。

またこの寺の境内各所に天満宮をはじめ、大日堂、水掛け不動尊、厄除け地蔵尊、大黒天、弁財天、出雲社、稲荷社が祀られているのは珍しい。

篠山大国寺天満宮

下の画像は本堂のすぐ左にある天満宮であるが、廃仏毀釈以前はこのように境内の中に神様を祀るお寺が普通だったのかもしれない。

どこの地方でも、有名な観光寺院や神社は観光収入で潤っているが、文化財があってもあまり名前が知られず観光客がほとんど来ない寺社は文化財を守るのに相当な苦労をしておられる。
地域の人口が減り高齢化が進んで、地域の信仰の場を支える人々からの収入が少なくなっては、寺社の文化財を後世に残すことは容易ではない。
重要文化財の指定があっても、国の支援は一部に過ぎず、3割以上は寺社と信者で工面しなければならないが、木造建築の修理費用は今では半端な額ではない。

文化財の指定がなければ、木造での修理をあきらめて、鉄筋コンクリートで建て替えるところもあれば、住職や宮司の生活が出来ないために無人となるところも出てきている。

地方の人々が豊かにならない経済政策を続ける限り、地方の文化財の危機はもっと深刻になっていくだろう。地方の振興のためには企業誘致だけでは限界があり、つまるところ農業や林業・漁業を今後どうするか、国全体が食糧問題にどう対峙するかが問われているのだと思うが、今の政治家は、食糧問題は票にならないと考えているのか、真剣に議論されているとは思えない。

地方の文化財を次の世代に引き継ぎ、末永く守っていくために自分ができることは、田舎に行って、あまり有名でないお寺や神社を拝観して拝観料や御賽銭を払うことぐらいだが、歴史の好きな人は是非、年にいくつかそういう寺社を拝観してブログなどで紹介すれば、参拝者が少しずつ増えて、わずかでも寺社を援けることができるのだと思う。

篠山大国寺本堂より

大国寺では、ご住職自らが寺院や仏像の来歴から丹波篠山の歴史までを詳しく説明して下さった。有名な観光地を見て廻るのもいいが、重要文化財をすぐ近くに観賞させていただきながらご住職の熱い説明を聞かせていただき、仏像の素晴らしさを体感できたことは貴重な体験だった。

帰路はいつものように地元の特産物の買い込み。道路沿いにいくらでも丹波栗や丹波黒豆の販売所があり、道の駅などよりはるかに安く買うことが出来る。丹波牛ならデカンショ街道(R372)沿いに西村牧場直営の「篠山ビーフ」という店もある。この日も随分いろんなものを買い込んでしまった。

この季節の丹波巡りは、いろいろ美味しいものが都心のスーパーよりもはるかに安く買えるので、拝観料やガソリン代が浮いたような気分になる。
帰宅してから丹波栗を焼いて食べ、夕食は丹波黒豆の枝豆と丹波牛の焼き肉だが、もちろんどれを食べても旨かった。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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