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貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯

「スリーダイヤ」の三菱のマークを知らない日本人はほとんどいないと思うのだが、戦後GHQが財閥解体を行うまでは、三井財閥・三菱財閥・住友財閥は三大財閥と呼ばれていた。

三大財閥のうち三井、住友の両家はそれぞれ300年以上の商家としての歴史があり富の蓄積があるのに対し、三菱は明治期の動乱期に、創業者の岩崎彌太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いたとされる。
三菱グループのホームページに『岩崎彌太郎物語』があり、そこには「土佐国、井ノ口村。貧しい村の貧しい家に生まれた。明治維新まで33年、1835(天保5)年のことである。」とある。
https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro01.html

岩崎弥太郎

教科書などでは「海運事業は政府の保護のもとに、岩崎彌太郎の創立した三菱会社を中心に発達した。」(『もういちど読む 山川日本史』p.226)ときわめて簡単に書かれているのだが、そんなに貧しい家に生まれた人物が、どうして「政商として巨万の利益」を短い期間で得ることが可能となったのかと誰でも疑問に思う。

以前このブログで坂本龍馬暗殺に関して岩崎彌太郎が絡んでいるという説を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

いろは丸
【いろは丸】

慶応3年4月23日、海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受け、武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」の右舷が大破して沈没した事件があり、龍馬が船の代金と、積荷代金の支払いを紀州藩に要求して結局7万両の支払いで決着し、岩崎彌太郎が経営を任されていた土佐商会がその金を受け取った時期に、坂本龍馬が暗殺されている。
その後海援隊と土佐商会は解散となり、九十九商会と改称して個人事業となって、岩崎彌太郎は明治4年(1871)の廃藩置県の時に九十九商会の経営を引き受け、土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船3隻を買い受けた頃から、「三菱」の歴史が始まっているのである。

その経緯がわかるような本を国立国会図書館デジタルコレクションで探してみたところ、昭和3年に出版された徳久武治著『金と悪魔』という本にこんな記述があるのが見つかった。文中の「石川」という人物は、三菱会社設立時からの功労者であった「石川七財」で、彌太郎が土佐商会の金で豪奢な生活をしていることを疑った土佐藩主が密偵としてこの人物を送り込んだのだが、その気配を察知した彌太郎がたちまちに石川を抱き込んで自分の腹心としたという経緯にある。

「ところでここに彼(岩崎)と『石川』以外には知られなかった大枚七万円という秘密の大金があった。それは彼の『坂本龍馬』が、伊州丸の償金として紀州家から取ったものを『龍馬』の死後、他人の名義で彼が保管していたのであった。『石川』が如何にしてこの秘密を知ったかというに、藩の命を受けて内密に『彌太郎』の罪跡調査中に計らずも嗅ぎ付けたのである。『石川』は敵として恐るべく、味方として頼むべき有為の材であった。『石川』は彼の股肱となった今日、大胆にもその金を会社の資金として流用を勧めた。そしてさらに、土佐藩の倉庫にあった、樟脳四万丁、時価十五六万両の品を『後藤象二郎』の斡旋で自分の方へ送らせ、この二つで忽ち二十二三万円の資金を作ることが出来た。その後まもなく『九十九商会』を解散し、豊富なる資金と十余艘の汽船帆走船を有する『三菱会社』を新たに創設した。時に明治四年、『彌太郎』は年わずかに三十七歳であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271732/77

少し補足すると、『いろは丸』は大洲藩から龍馬が借りた船であり、賠償金のうち船価にあたる部分は本来なら大洲藩に支払われるべきものである。「龍馬『伝説』の誕生」(新人物文庫)という本には、「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの金額が年賦で支払われることになっていたが、第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。だとすると、岩崎彌太郎が7万両を流用した可能性は高そうだ。

鯨札
【鯨札…土佐藩の藩札】

また岩崎彌太郎は維新政府が貨幣の全国統一化に乗り出す前に、藩札を大量に買い占めて荒稼ぎしたという説がある。
明治維新後、明治2年に版籍奉還が行なわれたが、各藩主はそのまま知藩事として留まっていたため実質的には全国統一国家の形にはなっておらず、明治政府としては早急に廃藩置県を断行したかったのだが、そのためには各藩が発行していた藩札を太政官札に引き換えることが必要であった。当時藩札の相場は下落していて、藩によっては3分の1とか4分の1になっていたようだが、廃藩置県後に政府がこの藩札をいくらで引き受けるかはぎりぎりまで秘匿されていたという。

岩崎弥太郎伝

昭和7年に出版された白柳秀湖が著した『岩崎彌太郎伝』には、この事情についてこう記されている。
「藩札を廃藩置県布告の日の相場で引き換えるということのきまったのは、さほど前ではなかったようであるが、藩札を大蔵省で引き受けて処分するという大体の方針が決まったのは、余程前のことであったものと見えて、秘密は一部に漏れたらしく、土佐藩ではこの時岩崎彌太郎が買占めをやって大儲けしたという説がある
 この頃岩崎の部下に森田眞造という男があった。この男は堺の『米キ』即ち石崎とごく懇意の中であったが、岩崎は森田を通じて『米キ』から十万両の太政官札を借り出した。もちろん、土佐藩の信用では百両の融通もむずかしい当時であったが、岩崎は土佐藩の小参事で、東京在住の後藤象二郎や、林有造を通じて太政官の機密を早耳に知るには、最も便利な地位にあった。廃藩置県前後、大阪では太政官の機密を一日早く知ると知らぬとで、何百年という旧家がころんだり起きたりした。どういう交換条件であったかは知らぬが『米キ』は十万両の太政官札を岩崎の為に融通した。岩崎はこの十万両で、下落のどん底にあった鯨札*を手の及ぶ限り買い集めた。
 そこへ廃藩置県が来て、各藩の藩札は大蔵省で引き換えるということになったから、岩崎は大儲けした
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186605/133

隱れたる事實明治裏面史

また、昭和3年(1928)に伊藤痴遊の著した『隱れたる事實明治裏面史. 續編』にはこんな話が記されている。
「九十九商会の自分には、船も十艘を越えず、あまり大きなものではなかったが、台湾征伐*の時、その運送御用を引き受けた時から、そろそろ頭をもたげてきた。彌太郎が大隈を介して、時の権力家大久保を説き付け、政府から金を出させて、数艘の汽船を買い入れさせこれを利用して、台湾征伐の御用を無事に果たし、その役の終わるや、その船はいつの間にか、九十九商会の所有にしてしまったのである。」
*台湾征伐(出兵):台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の犯罪捜査などについて、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件」として責任回避したので、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/66

まるで九十九商会が政府の所有する船を横領したような書き方だが、戦地に赴く船には敵の攻撃を受けるリスクが高いことは言うまでもない。船を出す方からすれば、成功報酬が余程高くなければ応じられないことは当然だから、明治政府とかなり厳しい条件交渉があったと考えるのが自然なのかもしれない。
それにしても彌太郎はかなり運が強く、同様なやり方で保有船数を大幅に増やしていった。

西南戦争 城山の戦い
【西南戦争 城山の戦い】

その3年後の明治10年(1877)には西南戦争がおこり、軍隊や兵糧の輸送について、明治政府は岩崎に一切を託すこととなった。再び伊藤痴遊の著書を引用する。

「この時に岩崎は政府へ建白して、五百七十万ドルの金を支出させ、自分がこれに三十万ドルの金を加え、十隻の汽船を外国から買求めて、御用に応じて、西南戦争が終わってのち政府から出させた五百七十万ドルで買った船は、貰ったものでもなく払下げたものでもなく、何だか訳のわからぬうちに、岩崎の手に帰してしまったのである。
 表面において、陸軍省から支払われた運賃だけでも四百万円以上に上っている。こういう事情から、三菱会社の基礎は堅固になり、岩崎家の資産は、遽(にわ)かに増してきたのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/67

いかにリスクの高い事業であったとはいえ、岩崎にかなり有利な条件であったことは確実だろう。明治政府とこのように有利な交渉が出来たのは、大隈重信の存在が大きかったようだ。伊藤痴遊は岩崎と大隈との関係をこう記している。

「あまりの悪辣なる彼のやり方に対して、なかなかに非難も多かったのである。その仲介を勤めたのが大隈であったから、今でも大隈家と岩崎とは因縁があり、重信の生存せる間は、年々岩崎家から少なからぬ台所料なるものが支出されていたということは、公然の秘密であった。前年大隈邸が焼失した時分にも、岩崎家は直ちに見舞金として十万円を贈っている。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/67

伊藤痴遊
【伊藤痴遊】

このような手法で三菱会社はどんどん事業を拡大し、岩崎家も富を増殖していくことになるのだが、その事が国内で大問題となる。伊藤痴遊の解説を続けよう。
「…三菱会社の商売振りというものは、甚だしき専横振りを発揮し、乗客はあたかも豚の如く取扱われ、貨物の賃金などは、荷主の懐を考えず、ボリ放題に取上げたものである。そのために、世間の非難が漸く起こって来たのみならず、沿岸の海運業者との軋轢が甚だしくなり、三菱会社専横の声が非常な勢いで勃発した。
 同時に政府部内においても、あまりに岩崎家の富が増殖していくのと、三菱会社の事業が拡張されていく、この二つの事情から考えて、何とか牽制策を講じなければならぬという議論が日を追うて高くなってきた。民間においては田口卯吉が、東京経済雑誌紙上において、さかんにその横暴を痛撃するというような有様で、政府部内の岩崎征伐論は、勢いを占めて来た…、」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/68

田口卯吉
【田口卯吉】

文中の田口卯吉の三菱批判も国立国会デジタルコレクションで読むことが出来る。
田口は明治11年の大蔵卿の予算表から、農商務省本省の総予算458,773円のうち、三菱会社250千円、沖縄号航海費9千円、朝鮮国定期航海費10千円が三菱会社に支払われる内容になっていることを指摘している。本省の予算の6割近くが三菱会社一社に支払われている予算になっているのだが、これを問題視した田口卯吉は正論を述べただけのことだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799175/260

政府内でも品川弥次郎、西郷従道が立ち上がり、渋沢栄一が音頭取りになって三井系の共同運輸会社が創設されると、両社の競争が始まって運賃が大幅に値下げされることとなる。
伊藤痴遊の著書によると、横浜から神戸までの船賃が三菱が独占していた時代は乗客一人について5円50銭だったが、共同運輸会社との競争が始まると1円50銭まで下がり、さらに50銭になって弁当まで出たという。

220px-Y_Iwasaki.png
【岩崎彌太郎】

しかし、ここまで船賃が下がる消耗戦が続いてはお互い採算が取れるはずがない。岩崎は共同運輸会社の株価が低落したのを見て、過半数以上の株式を買い占めてしまったという。
ふたたび伊藤痴遊の著書を引用しよう。

同時に三十万円の運動費を支出して、岡本健三郎*が政府部内に運動を始めた。それは西郷、品川のやりかたに反対しているものを突っつき始めたのである。
『それまでして岩崎を苦しめるには及ぶまい。三菱会社も、前後二回の戦争には、相当の功労があったものである。したがって戒しむべき点は戒めておくことに悪いことは無いが、これを潰してしまうことは、ちょっと穏やかではない』
という説が起こってきた。
 同時に過半数以上の株券を持っている岩崎家が、共同運輸会社の解散説を主張し始めたから、遂にこれに敵対すること能わず、紛擾は日一日と高まってきた。その中に仲裁者が現われ、遂に両社合併という説が行なわるることになり、その結果として成立したのが、今の日本郵船株式会社なるものである。したがって、今日でも郵船会社の勢力は岩崎家の手に帰しているのは、もとより当然のことであって、近藤廉平**の去った後の郵船会社は、大分形勢が変わってきたが、その以前においては、あたかも岩崎家の出張所たるが如き観があったのは、無理もなきことである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/69
*岡本健三郎:元土佐藩士。坂本龍馬と中岡新太郎が襲撃される直前まで近江屋にいたが、所用があり退席して難を免れている。この人物が、見廻り組を近江屋に案内したという説もある。
http://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/95407fac112a63f8a76eacda13ffd82d
明治14年(1881)に自由党に参加。日本郵船株式会社設立に参画し理事となる。
**近藤廉平:元徳島藩士。明治5年に三菱商会に入り、岩崎彌太郎の従妹・豊川従子と結婚。その後日清汽船社長、日本郵船社長となる。

共同運輸会社との協定が成立したのは明治18年(1885)の2月6日なのだが、岩崎彌太郎は年明けから重病を患っており、主治医からは絶対安静を命じられていたということだが、両社の協定成立については主治医の了解をとって報告がなされたという。
そして岩崎彌太郎はその翌日、2月7日の夕刻に帰らぬ人となっている。享年52歳であった。
遺骸は同月13日に駒込染井の墓地に葬られ、葬式には京浜間の主たる社員だけが参列を許されたという。

西郷従道
【西郷従道】

明治維新前後の大混乱の中、一代で巨額の富を築きあげた岩崎彌太郎は、強烈なリーダーシップと卓抜した商才の持主であったことはそのとおりなのだが、かなり強引なやり方で金を稼いだことで世論の批判も多く、農商務卿西郷従道から「三菱の暴富は国賊なり」と非難されたこともあった。

岩崎彌太郎の商売のやり方は、以前このブログで書いた近江商人の商いの精神とは対極にあったと言って良いだろう。
近江商人は「商いというものは売り手も買い手も適正な利益を得て満足する取引であるべきであって、その取引が地域社会全体の幸福につながるものでなければならない」と考え、『三方良し』、すなわち『売り手良し、買い手良し、世間良し』の精神を商売の心得としたのだが、創業期にこのようなやり方で巨額の富を短い間で築き上げることは不可能に近い。

三綱領

しかし、三菱の経営理念はのちに近江商人の考えに近づいていく。第4代社長の岩崎小彌太が1930年代に定めた経営理念『三綱領』が今も三菱グループの企業活動の指針となっているという。
・所期奉公…期するところは社会への貢献
・処事光明…フェアープレイに徹する
・立業貿易…グローバルな視野で

https://www.mitsubishi.com/j/history/principle.html

先ほど紹介した『金と悪魔』という書物で、著者の徳久武治はおもしろいことを述べている。
「今日及び今後の『三菱』にはもはや『彌太郎』の如き創業の材幹を必要としない。もし万一彼の天命を長からしめば、あるいは益々野望を逞しうして、ためにせっかく築き上げた全財産を擲(なげう)ち丸裸になるようなことが無かったとも限るまい。この意味から言えば、彼が比較的短命であったことは、かえって『三菱』の大を成し得た所以であるとも言える。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271732/82

創業は易く守成は難し」ということわざがあるが、何事も新しく始めることよりも、築き上げたものを軌道に乗せて守り続けていくことのほうが難しい。
彌太郎という人物がいなければ三菱財閥が生まれることは無かったのだが、徳久武治の言う通り、もし彌太郎が早死にせずに社長として長くとどまっていたなら、三菱グループは今ほどの大きな企業集団にはなっていなかったのではないだろうか。
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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html


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明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊

慶応四年(1868)三月十四日に、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である、五箇条の御誓文を神前に奉読されている。

五箇条の御誓文

一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。

いつの時代にせよこのような政権交代があった時には、旧来の価値観が否定されて、新しい価値観を広めようとする動きが生まれることが多いのだが、『旧来ノ陋習ヲ破リ』と言っても旧来の価値観のすべてが誤っているわけではなく、また「正しいこと」として取り組んだことが誤りでないという保証もない。むやみに伝統的な価値観なり慣習を否定してしまうと大いに混乱が生じたり、貴重なものが失われたりすることがいつの時代もありうるのである。

明治維新期に古い価値観が否定されて、伝統や文化財、歴史的景観などが失われていった。当時においてこのような文化・景観破壊を厳しい目で見ていたのは、日本人よりもむしろ外国人であったのかもしれない。

石井研堂
【石井研堂】

石井研堂という人物が著し明治四十一年に出版された『明治事物起原』という本があり、国会図書館デジタルコレクションで検索することで、誰でもPCなどで読むことが出来る。
一部を紹介しよう。文中のジャパンガゼット新聞は明治4年創刊、ヘラルド新聞は幕末期に創刊の何れも英字新聞である。

「明治四年秋、電線を張るに妨げありとなし、横浜小田原間並木を伐り払えり。ジャパンガゼット新聞之を惜み、夏は日陰をなし、冬は風雪を防ぎ、かつその美観大に旅情を慰むるに足るものを、さりとは風景を失へり。他日鉄道を設くる時に及び、復び植える能わず、実に殺風景と謂うべしといえり。[雑誌十七号訳載]
 又、五年三月二十一日のヘラルド新聞は、東京上野の破却を評していう、今般日本政府の命によって、上野を此節破却中の由。又幾百年の星霜を経し大木数百株を何の故有りて倒す事か、…凡そ由緒ある精巧の事物を破却して之を他に移すとは蕃夷の風にして、既に文明の罪科なり…日本今日、冬夏洋服の新式を用ゆと雖も此等は小事、古来由緒ある旧跡墳墓は謹んで之を存し置かざるは一欠点とす…等の語あり。[毎週四号]外人皆之を愛惜せしを知る然るに今日尚、上野の古木乱伐聖堂森の破却、凱旋道路の改修等に就ては、外字新聞四十年前の言をくり返さざるを得ざるものあり。
 楼閣はやけてあとなき上野山花ぞ昔の香ににほひぬる(百首)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/61

「開発行為」の名のもとに、歴史ある趣のある住居が取り壊され、敷地にあった巨木が伐り倒されて美しい風景が台無しになるのは、明治の頃も今もあまり変わらないのかもしれないのだが、外国人が失われることを嘆いた以前の風景というものはどのようなものであったのだろう。

広重 藤沢

上の画像は安藤広重筆『五十三次名所図会 藤沢』だが、このような景観がこの時期に各地で失われてしまったものと思われる。

東叡山寛永寺古地図

東京の上野公園は寛永寺の敷地の一部であったのだが、この寺は戊辰戦争で中心伽藍が焼失してしまい、子院のあった現在地に移されている。

江戸名所図会 巻五 寛永寺 根本中堂

以前の敷地は実に広大なもので、『江戸名所図会 巻五』に寛永寺の図絵が多数掲載されており、中心伽藍の絵だけでも五枚に分けて描かれている。上の図はその四枚目の根本中堂の絵であるが、『明治事物起原』に記されている通り、境内の巨木が大量に伐り倒されたことが野蛮な行為であると外国人から非難を受けることになる。
跡地を造成して大きな病院を建築しようとした明治政府の方針に反対し、オランダ人医師のアントニウス・ボードウィンが公園にすることを提言したことから、上野恩賜公園は日本初の公園に指定されることとなり、公園内には上野公園生みの親としてボードウィンの像が建てられたという。

東叡山中堂之図
【勝春朗 東叡山中堂之図】

この時代の人々は、昔から地域の人々が大切にしてきたものを破壊したり、これまでやってはいけないとされていたタブーを冒してみたところで何も実害がないことを体験し、その後各地で様々なタブー破りにチャレンジしている。
『明治事物起原』を読み進むと、

「蛮的の一例として、大和春日の神鹿狩を掲げん。[雑誌]三十三号に曰く、五年正月一六日、奈良県に於て、県令を始め、其他官員数名游猟を催し、春日山の鹿数十匹を狩り取れり。土人神罰を怖る大方ならざりしが、其後少しの異儀も之なきにより却って従来の盲説を悔悟し、皆々安堵の思いをなせりと云。」とあり。此他、『五年十一月に、安房国(現在の千葉県安房郡)朝夷(あさいな)郡宮下村戸長某院主と談合し、かかる御時節になりては、神社の祭器も不用なりとて、名越山神社の黄金幣束、並に鉾・大鳥毛飾り馬具など残らず売り払いたる由(日要五十四号)といひ『六年三月に、磐前県(現在の福島県浜通り)下、月待日待等無用の祭、観音地蔵等の祭を廃禁し、路傍の馬頭観音十三夜塔まで悉皆取払わせ、寺院にありし皇帝の御位牌等、悉く之を県庁に引揚げ[日要七十三号]、滋賀県の如きは、益もなき業なりとして、古来の地蔵祭を禁止し、あちこちの路傍などにありし石の地蔵を取払はせける。大小様々の地蔵を多く車の上に積重ねて大津の町をひき行くを、爺婆女子供など集りて、その車の前に線香果物等を備へ、手を合せて拝むもあり、涙を流しつつ南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩とわめきつつ跡より追ひ行く[報知十五号]など、上代未聞の悲劇を呈し、時の新聞紙さへ、『苟も僧侶乞食に付与する物あらば、縦令(たとひ)一粒半銭といへども、悉く之を貯蓄し学校創建の費用に充る時は、まことに善根功徳といふに至らん[日要五十五号]と放言せし程にて、終に『磐前県菊多郡植田村龍昌寺住職眞禅といふもの、私儀仏門に従事し、遊手にて半生を消却する段慚愧にたへざるにより、帰俗して耕を力めたきよし、県庁に出願して還俗する者ある[報知九号]に至れり。実利一点張の弊、ここに至りて極らずや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/61

奈良の鹿
【奈良公園の鹿】

この頃は廃仏毀釈も激しかったのだが、神の使いとされていた奈良春日山の鹿を狩猟したり、名越山神社の祭器を売却したりと、神道においても伝統文化やしきたりの破壊行為が行われていたとは知らなかった。

明治初期は、「変革」の名のもとに古い物が捨てられ、伝統文化がないがしろにされてきたのだが、その風潮に多くの日本人が乗せられてしまっていた。しかしながら、当時わが国にいた外国人はその点についても批判的であったようだ。石井研堂は同上書でこう続けている。

「人々只皮相の開花に沈溺して、また心霊の修養等を慮(おもんばか)る者なかりしかば、[雑誌](五年三月版三一号)にいへる『或外国人の説に、方今日本人の書を読む者、多くは会話窮理書地理書等の類に止りて、人生切要なる修身学を講究するものなし、恐らくは本(もと)を捨て末に趨(はし)るの弊習を生じ、遂に学風偏頗に陥るべし』等の歎声を聞きたりし。されども、洪河の決するは、一簀の土の能く防ぐべきに非ず、社会は漸く堕落の一方に傾けり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/62

明治政府はわが国の土着の習俗や信仰を「悪弊」や「旧習」と考え、これらを排除するとともに急速に西洋化を推進したのだが、この点は自虐史観に陥って日本の歴史的景観や伝統文化を軽んじる戦後のわが国に通じるところがある。

Erwin_Baelz.jpg
【エルヴィン・フォン・ベルツ】

明治9年(1876)にお雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として招かれたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、当時の日本人の知識人についてこう批判している。

「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。『いや、なにもかもすべて野蛮でした』、『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです』という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84

このベルツの文章は、現代においてもそのまま通用する。長い歴史を持つ地方の貴重な文化や伝統は衰退傾向にあり、美しい景観も開発行為によって失われている地域が少なくないことは悲しいことである。

地域の伝統文化の担い手を育てることはもちろん重要だが、それ以上に重要なことは、その地域で若い世代が経済的に不自由なく生活できる働き場があることである。地域の若手が都会に流出してしまえば、その地域の固有の伝統文化だけでなく寺や神社を支えることも難しくなり、歴史的景観が守れなくなれば、その地域の文化的価値・観光的価値は年々失われていく。一方で経済優先のために開発行為に走りすぎても、同様に重要な価値が失われてしまうことになる。
むしろ文化的・観光的価値を高めて、地域の経済の活性化を図ることができればベストなのだが、それは容易なことではないだろう。何時の時代も我々の先祖たちが大切に守って来たものの価値を失うことなく後世に伝えていくことは難しい。


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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
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    落合道夫氏もスターリンの国際戦略に着目した著書を出されました

    この本で張作霖爆殺事件の河本大佐主犯説が完全に覆されました















    南京大虐殺の虚妄を暴く第一級史料。GHQ発禁本の復刻版







    GHQが発禁にした日本近代化史