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貧家に生まれた岩崎彌太郎が三菱財閥を創業した経緯

「スリーダイヤ」の三菱のマークを知らない日本人はほとんどいないと思うのだが、戦後GHQが財閥解体を行うまでは、三井財閥・三菱財閥・住友財閥は三大財閥と呼ばれていた。

三大財閥のうち三井、住友の両家はそれぞれ300年以上の商家としての歴史があり富の蓄積があるのに対し、三菱は明治期の動乱期に、創業者の岩崎彌太郎が政商として巨万の利益を得てその礎を築いたとされる。
三菱グループのホームページに『岩崎彌太郎物語』があり、そこには「土佐国、井ノ口村。貧しい村の貧しい家に生まれた。明治維新まで33年、1835(天保5)年のことである。」とある。
https://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro01.html

岩崎弥太郎

教科書などでは「海運事業は政府の保護のもとに、岩崎彌太郎の創立した三菱会社を中心に発達した。」(『もういちど読む 山川日本史』p.226)ときわめて簡単に書かれているのだが、そんなに貧しい家に生まれた人物が、どうして「政商として巨万の利益」を短い期間で得ることが可能となったのかと誰でも疑問に思う。

以前このブログで坂本龍馬暗殺に関して岩崎彌太郎が絡んでいるという説を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

いろは丸
【いろは丸】

慶応3年4月23日、海援隊が海運業の目的で大洲藩から借り受け、武器や商品などを満載していたとされる「いろは丸」と、紀州藩の軍艦「明光丸」が広島県の鞆の浦近辺で衝突し、龍馬が乗っていた「いろは丸」の右舷が大破して沈没した事件があり、龍馬が船の代金と、積荷代金の支払いを紀州藩に要求して結局7万両の支払いで決着し、岩崎彌太郎が経営を任されていた土佐商会がその金を受け取った時期に、坂本龍馬が暗殺されている。
その後海援隊と土佐商会は解散となり、九十九商会と改称して個人事業となって、岩崎彌太郎は明治4年(1871)の廃藩置県の時に九十九商会の経営を引き受け、土佐藩の負債を肩代わりする形で土佐藩所有の船3隻を買い受けた頃から、「三菱」の歴史が始まっているのである。

その経緯がわかるような本を国立国会図書館デジタルコレクションで探してみたところ、昭和3年に出版された徳久武治著『金と悪魔』という本にこんな記述があるのが見つかった。文中の「石川」という人物は、三菱会社設立時からの功労者であった「石川七財」で、彌太郎が土佐商会の金で豪奢な生活をしていることを疑った土佐藩主が密偵としてこの人物を送り込んだのだが、その気配を察知した彌太郎がたちまちに石川を抱き込んで自分の腹心としたという経緯にある。

「ところでここに彼(岩崎)と『石川』以外には知られなかった大枚七万円という秘密の大金があった。それは彼の『坂本龍馬』が、伊州丸の償金として紀州家から取ったものを『龍馬』の死後、他人の名義で彼が保管していたのであった。『石川』が如何にしてこの秘密を知ったかというに、藩の命を受けて内密に『彌太郎』の罪跡調査中に計らずも嗅ぎ付けたのである。『石川』は敵として恐るべく、味方として頼むべき有為の材であった。『石川』は彼の股肱となった今日、大胆にもその金を会社の資金として流用を勧めた。そしてさらに、土佐藩の倉庫にあった、樟脳四万丁、時価十五六万両の品を『後藤象二郎』の斡旋で自分の方へ送らせ、この二つで忽ち二十二三万円の資金を作ることが出来た。その後まもなく『九十九商会』を解散し、豊富なる資金と十余艘の汽船帆走船を有する『三菱会社』を新たに創設した。時に明治四年、『彌太郎』は年わずかに三十七歳であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271732/77

少し補足すると、『いろは丸』は大洲藩から龍馬が借りた船であり、賠償金のうち船価にあたる部分は本来なら大洲藩に支払われるべきものである。「龍馬『伝説』の誕生」(新人物文庫)という本には、「土佐藩から大洲藩への賠償金は、船価(35630両)の一割引きの金額が年賦で支払われることになっていたが、第一回の支払いが実行された記録が、土佐藩にも大洲藩にもない」と書かれている。だとすると、岩崎彌太郎が7万両を流用した可能性は高そうだ。

鯨札
【鯨札…土佐藩の藩札】

また岩崎彌太郎は維新政府が貨幣の全国統一化に乗り出す前に、藩札を大量に買い占めて荒稼ぎしたという説がある。
明治維新後、明治2年に版籍奉還が行なわれたが、各藩主はそのまま知藩事として留まっていたため実質的には全国統一国家の形にはなっておらず、明治政府としては早急に廃藩置県を断行したかったのだが、そのためには各藩が発行していた藩札を太政官札に引き換えることが必要であった。当時藩札の相場は下落していて、藩によっては3分の1とか4分の1になっていたようだが、廃藩置県後に政府がこの藩札をいくらで引き受けるかはぎりぎりまで秘匿されていたという。

岩崎弥太郎伝

昭和7年に出版された白柳秀湖が著した『岩崎彌太郎伝』には、この事情についてこう記されている。
「藩札を廃藩置県布告の日の相場で引き換えるということのきまったのは、さほど前ではなかったようであるが、藩札を大蔵省で引き受けて処分するという大体の方針が決まったのは、余程前のことであったものと見えて、秘密は一部に漏れたらしく、土佐藩ではこの時岩崎彌太郎が買占めをやって大儲けしたという説がある
 この頃岩崎の部下に森田眞造という男があった。この男は堺の『米キ』即ち石崎とごく懇意の中であったが、岩崎は森田を通じて『米キ』から十万両の太政官札を借り出した。もちろん、土佐藩の信用では百両の融通もむずかしい当時であったが、岩崎は土佐藩の小参事で、東京在住の後藤象二郎や、林有造を通じて太政官の機密を早耳に知るには、最も便利な地位にあった。廃藩置県前後、大阪では太政官の機密を一日早く知ると知らぬとで、何百年という旧家がころんだり起きたりした。どういう交換条件であったかは知らぬが『米キ』は十万両の太政官札を岩崎の為に融通した。岩崎はこの十万両で、下落のどん底にあった鯨札*を手の及ぶ限り買い集めた。
 そこへ廃藩置県が来て、各藩の藩札は大蔵省で引き換えるということになったから、岩崎は大儲けした
。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186605/133

隱れたる事實明治裏面史

また、昭和3年(1928)に伊藤痴遊の著した『隱れたる事實明治裏面史. 續編』にはこんな話が記されている。
「九十九商会の自分には、船も十艘を越えず、あまり大きなものではなかったが、台湾征伐*の時、その運送御用を引き受けた時から、そろそろ頭をもたげてきた。彌太郎が大隈を介して、時の権力家大久保を説き付け、政府から金を出させて、数艘の汽船を買い入れさせこれを利用して、台湾征伐の御用を無事に果たし、その役の終わるや、その船はいつの間にか、九十九商会の所有にしてしまったのである。」
*台湾征伐(出兵):台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の犯罪捜査などについて、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件」として責任回避したので、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/66

まるで九十九商会が政府の所有する船を横領したような書き方だが、戦地に赴く船には敵の攻撃を受けるリスクが高いことは言うまでもない。船を出す方からすれば、成功報酬が余程高くなければ応じられないことは当然だから、明治政府とかなり厳しい条件交渉があったと考えるのが自然なのかもしれない。
それにしても彌太郎はかなり運が強く、同様なやり方で保有船数を大幅に増やしていった。

西南戦争 城山の戦い
【西南戦争 城山の戦い】

その3年後の明治10年(1877)には西南戦争がおこり、軍隊や兵糧の輸送について、明治政府は岩崎に一切を託すこととなった。再び伊藤痴遊の著書を引用する。

「この時に岩崎は政府へ建白して、五百七十万ドルの金を支出させ、自分がこれに三十万ドルの金を加え、十隻の汽船を外国から買求めて、御用に応じて、西南戦争が終わってのち政府から出させた五百七十万ドルで買った船は、貰ったものでもなく払下げたものでもなく、何だか訳のわからぬうちに、岩崎の手に帰してしまったのである。
 表面において、陸軍省から支払われた運賃だけでも四百万円以上に上っている。こういう事情から、三菱会社の基礎は堅固になり、岩崎家の資産は、遽(にわ)かに増してきたのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/67

いかにリスクの高い事業であったとはいえ、岩崎にかなり有利な条件であったことは確実だろう。明治政府とこのように有利な交渉が出来たのは、大隈重信の存在が大きかったようだ。伊藤痴遊は岩崎と大隈との関係をこう記している。

「あまりの悪辣なる彼のやり方に対して、なかなかに非難も多かったのである。その仲介を勤めたのが大隈であったから、今でも大隈家と岩崎とは因縁があり、重信の生存せる間は、年々岩崎家から少なからぬ台所料なるものが支出されていたということは、公然の秘密であった。前年大隈邸が焼失した時分にも、岩崎家は直ちに見舞金として十万円を贈っている。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/67

伊藤痴遊
【伊藤痴遊】

このような手法で三菱会社はどんどん事業を拡大し、岩崎家も富を増殖していくことになるのだが、その事が国内で大問題となる。伊藤痴遊の解説を続けよう。
「…三菱会社の商売振りというものは、甚だしき専横振りを発揮し、乗客はあたかも豚の如く取扱われ、貨物の賃金などは、荷主の懐を考えず、ボリ放題に取上げたものである。そのために、世間の非難が漸く起こって来たのみならず、沿岸の海運業者との軋轢が甚だしくなり、三菱会社専横の声が非常な勢いで勃発した。
 同時に政府部内においても、あまりに岩崎家の富が増殖していくのと、三菱会社の事業が拡張されていく、この二つの事情から考えて、何とか牽制策を講じなければならぬという議論が日を追うて高くなってきた。民間においては田口卯吉が、東京経済雑誌紙上において、さかんにその横暴を痛撃するというような有様で、政府部内の岩崎征伐論は、勢いを占めて来た…、」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/68

田口卯吉
【田口卯吉】

文中の田口卯吉の三菱批判も国立国会デジタルコレクションで読むことが出来る。
田口は明治11年の大蔵卿の予算表から、農商務省本省の総予算458,773円のうち、三菱会社250千円、沖縄号航海費9千円、朝鮮国定期航海費10千円が三菱会社に支払われる内容になっていることを指摘している。本省の予算の6割近くが三菱会社一社に支払われている予算になっているのだが、これを問題視した田口卯吉は正論を述べただけのことだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/799175/260

政府内でも品川弥次郎、西郷従道が立ち上がり、渋沢栄一が音頭取りになって三井系の共同運輸会社が創設されると、両社の競争が始まって運賃が大幅に値下げされることとなる。
伊藤痴遊の著書によると、横浜から神戸までの船賃が三菱が独占していた時代は乗客一人について5円50銭だったが、共同運輸会社との競争が始まると1円50銭まで下がり、さらに50銭になって弁当まで出たという。

220px-Y_Iwasaki.png
【岩崎彌太郎】

しかし、ここまで船賃が下がる消耗戦が続いてはお互い採算が取れるはずがない。岩崎は共同運輸会社の株価が低落したのを見て、過半数以上の株式を買い占めてしまったという。
ふたたび伊藤痴遊の著書を引用しよう。

同時に三十万円の運動費を支出して、岡本健三郎*が政府部内に運動を始めた。それは西郷、品川のやりかたに反対しているものを突っつき始めたのである。
『それまでして岩崎を苦しめるには及ぶまい。三菱会社も、前後二回の戦争には、相当の功労があったものである。したがって戒しむべき点は戒めておくことに悪いことは無いが、これを潰してしまうことは、ちょっと穏やかではない』
という説が起こってきた。
 同時に過半数以上の株券を持っている岩崎家が、共同運輸会社の解散説を主張し始めたから、遂にこれに敵対すること能わず、紛擾は日一日と高まってきた。その中に仲裁者が現われ、遂に両社合併という説が行なわるることになり、その結果として成立したのが、今の日本郵船株式会社なるものである。したがって、今日でも郵船会社の勢力は岩崎家の手に帰しているのは、もとより当然のことであって、近藤廉平**の去った後の郵船会社は、大分形勢が変わってきたが、その以前においては、あたかも岩崎家の出張所たるが如き観があったのは、無理もなきことである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899876/69
*岡本健三郎:元土佐藩士。坂本龍馬と中岡新太郎が襲撃される直前まで近江屋にいたが、所用があり退席して難を免れている。この人物が、見廻り組を近江屋に案内したという説もある。
http://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/95407fac112a63f8a76eacda13ffd82d
明治14年(1881)に自由党に参加。日本郵船株式会社設立に参画し理事となる。
**近藤廉平:元徳島藩士。明治5年に三菱商会に入り、岩崎彌太郎の従妹・豊川従子と結婚。その後日清汽船社長、日本郵船社長となる。

共同運輸会社との協定が成立したのは明治18年(1885)の2月6日なのだが、岩崎彌太郎は年明けから重病を患っており、主治医からは絶対安静を命じられていたということだが、両社の協定成立については主治医の了解をとって報告がなされたという。
そして岩崎彌太郎はその翌日、2月7日の夕刻に帰らぬ人となっている。享年52歳であった。
遺骸は同月13日に駒込染井の墓地に葬られ、葬式には京浜間の主たる社員だけが参列を許されたという。

西郷従道
【西郷従道】

明治維新前後の大混乱の中、一代で巨額の富を築きあげた岩崎彌太郎は、強烈なリーダーシップと卓抜した商才の持主であったことはそのとおりなのだが、かなり強引なやり方で金を稼いだことで世論の批判も多く、農商務卿西郷従道から「三菱の暴富は国賊なり」と非難されたこともあった。

岩崎彌太郎の商売のやり方は、以前このブログで書いた近江商人の商いの精神とは対極にあったと言って良いだろう。
近江商人は「商いというものは売り手も買い手も適正な利益を得て満足する取引であるべきであって、その取引が地域社会全体の幸福につながるものでなければならない」と考え、『三方良し』、すなわち『売り手良し、買い手良し、世間良し』の精神を商売の心得としたのだが、創業期にこのようなやり方で巨額の富を短い間で築き上げることは不可能に近い。

三綱領

しかし、三菱の経営理念はのちに近江商人の考えに近づいていく。第4代社長の岩崎小彌太が1930年代に定めた経営理念『三綱領』が今も三菱グループの企業活動の指針となっているという。
・所期奉公…期するところは社会への貢献
・処事光明…フェアープレイに徹する
・立業貿易…グローバルな視野で

https://www.mitsubishi.com/j/history/principle.html

先ほど紹介した『金と悪魔』という書物で、著者の徳久武治はおもしろいことを述べている。
「今日及び今後の『三菱』にはもはや『彌太郎』の如き創業の材幹を必要としない。もし万一彼の天命を長からしめば、あるいは益々野望を逞しうして、ためにせっかく築き上げた全財産を擲(なげう)ち丸裸になるようなことが無かったとも限るまい。この意味から言えば、彼が比較的短命であったことは、かえって『三菱』の大を成し得た所以であるとも言える。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1271732/82

創業は易く守成は難し」ということわざがあるが、何事も新しく始めることよりも、築き上げたものを軌道に乗せて守り続けていくことのほうが難しい。
彌太郎という人物がいなければ三菱財閥が生まれることは無かったのだが、徳久武治の言う通り、もし彌太郎が早死にせずに社長として長くとどまっていたなら、三菱グループは今ほどの大きな企業集団にはなっていなかったのではないだろうか。
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【ご参考】
このブログで、こんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか①
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-26.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか③
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-28.html

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-29.html

薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html

明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html

江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html


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明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊

慶応四年(1868)三月十四日に、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である、五箇条の御誓文を神前に奉読されている。

五箇条の御誓文

一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。

いつの時代にせよこのような政権交代があった時には、旧来の価値観が否定されて、新しい価値観を広めようとする動きが生まれることが多いのだが、『旧来ノ陋習ヲ破リ』と言っても旧来の価値観のすべてが誤っているわけではなく、また「正しいこと」として取り組んだことが誤りでないという保証もない。むやみに伝統的な価値観なり慣習を否定してしまうと大いに混乱が生じたり、貴重なものが失われたりすることがいつの時代もありうるのである。

明治維新期に古い価値観が否定されて、伝統や文化財、歴史的景観などが失われていった。当時においてこのような文化・景観破壊を厳しい目で見ていたのは、日本人よりもむしろ外国人であったのかもしれない。

石井研堂
【石井研堂】

石井研堂という人物が著し明治四十一年に出版された『明治事物起原』という本があり、国会図書館デジタルコレクションで検索することで、誰でもPCなどで読むことが出来る。
一部を紹介しよう。文中のジャパンガゼット新聞は明治4年創刊、ヘラルド新聞は幕末期に創刊の何れも英字新聞である。

「明治四年秋、電線を張るに妨げありとなし、横浜小田原間並木を伐り払えり。ジャパンガゼット新聞之を惜み、夏は日陰をなし、冬は風雪を防ぎ、かつその美観大に旅情を慰むるに足るものを、さりとは風景を失へり。他日鉄道を設くる時に及び、復び植える能わず、実に殺風景と謂うべしといえり。[雑誌十七号訳載]
 又、五年三月二十一日のヘラルド新聞は、東京上野の破却を評していう、今般日本政府の命によって、上野を此節破却中の由。又幾百年の星霜を経し大木数百株を何の故有りて倒す事か、…凡そ由緒ある精巧の事物を破却して之を他に移すとは蕃夷の風にして、既に文明の罪科なり…日本今日、冬夏洋服の新式を用ゆと雖も此等は小事、古来由緒ある旧跡墳墓は謹んで之を存し置かざるは一欠点とす…等の語あり。[毎週四号]外人皆之を愛惜せしを知る然るに今日尚、上野の古木乱伐聖堂森の破却、凱旋道路の改修等に就ては、外字新聞四十年前の言をくり返さざるを得ざるものあり。
 楼閣はやけてあとなき上野山花ぞ昔の香ににほひぬる(百首)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/61

「開発行為」の名のもとに、歴史ある趣のある住居が取り壊され、敷地にあった巨木が伐り倒されて美しい風景が台無しになるのは、明治の頃も今もあまり変わらないのかもしれないのだが、外国人が失われることを嘆いた以前の風景というものはどのようなものであったのだろう。

広重 藤沢

上の画像は安藤広重筆『五十三次名所図会 藤沢』だが、このような景観がこの時期に各地で失われてしまったものと思われる。

東叡山寛永寺古地図

東京の上野公園は寛永寺の敷地の一部であったのだが、この寺は戊辰戦争で中心伽藍が焼失してしまい、子院のあった現在地に移されている。

江戸名所図会 巻五 寛永寺 根本中堂

以前の敷地は実に広大なもので、『江戸名所図会 巻五』に寛永寺の図絵が多数掲載されており、中心伽藍の絵だけでも五枚に分けて描かれている。上の図はその四枚目の根本中堂の絵であるが、『明治事物起原』に記されている通り、境内の巨木が大量に伐り倒されたことが野蛮な行為であると外国人から非難を受けることになる。
跡地を造成して大きな病院を建築しようとした明治政府の方針に反対し、オランダ人医師のアントニウス・ボードウィンが公園にすることを提言したことから、上野恩賜公園は日本初の公園に指定されることとなり、公園内には上野公園生みの親としてボードウィンの像が建てられたという。

東叡山中堂之図
【勝春朗 東叡山中堂之図】

この時代の人々は、昔から地域の人々が大切にしてきたものを破壊したり、これまでやってはいけないとされていたタブーを冒してみたところで何も実害がないことを体験し、その後各地で様々なタブー破りにチャレンジしている。
『明治事物起原』を読み進むと、

「蛮的の一例として、大和春日の神鹿狩を掲げん。[雑誌]三十三号に曰く、五年正月一六日、奈良県に於て、県令を始め、其他官員数名游猟を催し、春日山の鹿数十匹を狩り取れり。土人神罰を怖る大方ならざりしが、其後少しの異儀も之なきにより却って従来の盲説を悔悟し、皆々安堵の思いをなせりと云。」とあり。此他、『五年十一月に、安房国(現在の千葉県安房郡)朝夷(あさいな)郡宮下村戸長某院主と談合し、かかる御時節になりては、神社の祭器も不用なりとて、名越山神社の黄金幣束、並に鉾・大鳥毛飾り馬具など残らず売り払いたる由(日要五十四号)といひ『六年三月に、磐前県(現在の福島県浜通り)下、月待日待等無用の祭、観音地蔵等の祭を廃禁し、路傍の馬頭観音十三夜塔まで悉皆取払わせ、寺院にありし皇帝の御位牌等、悉く之を県庁に引揚げ[日要七十三号]、滋賀県の如きは、益もなき業なりとして、古来の地蔵祭を禁止し、あちこちの路傍などにありし石の地蔵を取払はせける。大小様々の地蔵を多く車の上に積重ねて大津の町をひき行くを、爺婆女子供など集りて、その車の前に線香果物等を備へ、手を合せて拝むもあり、涙を流しつつ南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩とわめきつつ跡より追ひ行く[報知十五号]など、上代未聞の悲劇を呈し、時の新聞紙さへ、『苟も僧侶乞食に付与する物あらば、縦令(たとひ)一粒半銭といへども、悉く之を貯蓄し学校創建の費用に充る時は、まことに善根功徳といふに至らん[日要五十五号]と放言せし程にて、終に『磐前県菊多郡植田村龍昌寺住職眞禅といふもの、私儀仏門に従事し、遊手にて半生を消却する段慚愧にたへざるにより、帰俗して耕を力めたきよし、県庁に出願して還俗する者ある[報知九号]に至れり。実利一点張の弊、ここに至りて極らずや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/61

奈良の鹿
【奈良公園の鹿】

この頃は廃仏毀釈も激しかったのだが、神の使いとされていた奈良春日山の鹿を狩猟したり、名越山神社の祭器を売却したりと、神道においても伝統文化やしきたりの破壊行為が行われていたとは知らなかった。

明治初期は、「変革」の名のもとに古い物が捨てられ、伝統文化がないがしろにされてきたのだが、その風潮に多くの日本人が乗せられてしまっていた。しかしながら、当時わが国にいた外国人はその点についても批判的であったようだ。石井研堂は同上書でこう続けている。

「人々只皮相の開花に沈溺して、また心霊の修養等を慮(おもんばか)る者なかりしかば、[雑誌](五年三月版三一号)にいへる『或外国人の説に、方今日本人の書を読む者、多くは会話窮理書地理書等の類に止りて、人生切要なる修身学を講究するものなし、恐らくは本(もと)を捨て末に趨(はし)るの弊習を生じ、遂に学風偏頗に陥るべし』等の歎声を聞きたりし。されども、洪河の決するは、一簀の土の能く防ぐべきに非ず、社会は漸く堕落の一方に傾けり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/62

明治政府はわが国の土着の習俗や信仰を「悪弊」や「旧習」と考え、これらを排除するとともに急速に西洋化を推進したのだが、この点は自虐史観に陥って日本の歴史的景観や伝統文化を軽んじる戦後のわが国に通じるところがある。

Erwin_Baelz.jpg
【エルヴィン・フォン・ベルツ】

明治9年(1876)にお雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として招かれたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、当時の日本人の知識人についてこう批判している。

「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。『いや、なにもかもすべて野蛮でした』、『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです』という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84

このベルツの文章は、現代においてもそのまま通用する。長い歴史を持つ地方の貴重な文化や伝統は衰退傾向にあり、美しい景観も開発行為によって失われている地域が少なくないことは悲しいことである。

地域の伝統文化の担い手を育てることはもちろん重要だが、それ以上に重要なことは、その地域で若い世代が経済的に不自由なく生活できる働き場があることである。地域の若手が都会に流出してしまえば、その地域の固有の伝統文化だけでなく寺や神社を支えることも難しくなり、歴史的景観が守れなくなれば、その地域の文化的価値・観光的価値は年々失われていく。一方で経済優先のために開発行為に走りすぎても、同様に重要な価値が失われてしまうことになる。
むしろ文化的・観光的価値を高めて、地域の経済の活性化を図ることができればベストなのだが、それは容易なことではないだろう。何時の時代も我々の先祖たちが大切に守って来たものの価値を失うことなく後世に伝えていくことは難しい。


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【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキング(ベスト50)です。毎月末にリセットされています。



本ブログの今月の個別記事アクセスランキング 上位500(今月1日からの集計値)
http://pranking12.ziyu.net/html/shibayan1954.html









奇兵隊に参加し失明した藤田伝三郎が大富豪となるきっかけとなった人物との出会い

前回の記事で、長州の豪商白石正一郎が奇兵隊のために巨額の私財を投じて、維新成就後に事業を倒産させたことを書いた。その一方で、奇兵隊から明治の大富豪になりあがった人物がいる。藤田財閥の創立者である藤田伝三郎である

藤田伝三郎
藤田伝三郎

奇兵隊脱退と失明】
藤田伝三郎は天保12年(1841)に長州藩・萩の酒屋の四男として生まれ、文久3年(1863)に白石正一郎邸で奇兵隊が結成されると伝三郎も参加したのだが、元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で運悪く創(きず)を負い、武士として身を立てることを断念して萩の実家に帰っている。
そもそも伝三郎が奇兵隊に入ることについては、父も兄も大反対していたのだが、その伝三郎が奇兵隊を脱退し、実家に帰って諸国を回る旅費が欲しいと兄に頼んだ場面を、白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』(昭和6年刊)にはこう記されている。(この書物は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、誰でもPC等で読むことが出来る。)

「兄の鹿太郎は伝三郎の要求を聞くと、直ちに50両の金包みをその前に置き、これはお前に貸してやるのではない。お前にくれてやるのだ。兄弟の手切れ金だ。お前のような不心得のものと、永く兄弟の縁を結んで居たとしたら、藤田の家も、いつどんな災難に見舞われるか知れたものでない。兄弟の縁も之限りだ、サアこの金を以て、どこへでもサッサと立ち退いてくれ、その代りきつと藤田家の敷居をまたぐことのないようにしてくれと、恐ろしい権幕であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1443832/39

それからのち伝三郎は中国地方を巡りながらその金を使い果たしてしまい、そのうえに奇兵隊時代から患っていた眼の病が重くなり、摂津国有馬温泉に辿り着いた時には、両目が見えない状態であったという。

中野梧一
中野梧一

【斎藤辰吉(中野梧一)との出会い】
伝三郎は、有馬温泉第一の宿である「御所の坊」の主人に助けを求めると、主人は湯山町にいた盲人頭に頼んで伝三郎に按摩(あんま)を習わせたという。まもなく伝三郎はその術を取得して、一人前の按摩として独り立ちすることとなる。

そして慶応三年(1867)の三月のある日、有馬温泉に滞在していた武士に按摩の声がかかり「御所の坊」に向かったのだが、その武士は斎藤辰吉という名で、伝三郎の按摩に身を委ねながら二人は時局などの話題に会話が弾んだという。

辰吉は第二回長州征伐で幕府のために力を尽くしたが、この争いで体に何か所か創(きず)を負い、回復するまで有馬で静養していた経緯にある。会話の途中で辰吉は、伝三郎の左腕に創があることに気が付く。前掲書にはその場面についてこう記されている。

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【アメリカ南北戦争で使われた椎の実弾(Wikipediaより)】

「ふと見ると按摩の左の腕に創痕がある。辰吉は流石に商売柄。それを鉄砲創と見てとった。さっきからの話し振りと思い合わせて、辰吉は早くも按摩を長州方の落武者とにらんだ。
 そこで辰吉は咄嗟(とっさ)にその左の腕の創についてたずねた。按摩は少なからず狼狽した。しかし何食わぬ顔で、その場をつくろい、アッサリ話頭を他に転じようとした。けれども初めの一目で鉄砲創とまでにらんだ辰吉は容易に逃がさなかった。『鉄砲創もただの鉄砲創じゃない。椎の木玉*じゃないか。』とまで問い詰められては、按摩も隠し切れず、到頭その素性を明かした。
 按摩は果たして奇兵隊の脱走者で、辰吉とはきのうまで敵味方として戦陣の間に相見えた藤田伝三郎であった。辰吉は人間の運命の奇なるに驚いた。そうして藤田が失明した前後の事情を聞くに及んで、心からその不幸に同情した。」
*椎の木玉:それまでよく用いられていたゲベール銃の弾丸は球形だが、薩長両藩が先んじて導入したミニエー銃の弾丸は椎の実の形で銃身にライフリングと呼ばれる螺旋状の溝があり、有効射程はゲベール銃の3~6倍に伸び、殺傷能力が強かった。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1443832/44

それ以来辰吉は何度も伝三郎に按摩を依頼し、休暇が終わり有馬温泉を去る時に伝三郎に百両の金を贈ったばかりではなく、伝三郎の眼病の治療のためヘボンの治療を受けるように薦めたという。伝三郎は辰吉の行き届いた親切に感謝し、辰吉に教えられたままヘボンを訪ね手術を受けて、両眼の視力を回復したのである。

戊辰戦争箱館戦争の図
【戊辰戦争箱館戦争の図】

ちょうどその頃に将軍慶喜は大政を奉還し、ほどなくして鳥羽伏見で戦争が始まった。
辰吉は彰義隊に身を投じた後、箱館に走って大鳥圭介らとともに榎本武揚の軍に身を投じたが、明治二年(1869)に箱館戊辰戦争も終結し、榎本と一緒に捕えられることとなる。
ところが、箱館で捕らえられたメンバーのほとんどは翌年の特赦でその罪を許され、釈放されている。白鳥の前掲書には、その背景について次のように解説されている。

「著者は維新の歴史を研究する毎に、一から十まで薩長下士階級の功績として通念づけられている文物制度の草創が、おびただしく幕臣の手によって成されていることを見て、微笑を禁じ得ぬものだ。勿論、徳川氏の封建制度を倒すために、いわゆる尊攘運動の第一線に立って働いたものは彼等だ。しかし彼らの幕府打倒運動が一段落を告げ、いよいよ新政府の組織となった時、財政の事は勿論、教育の事にしても、産業の事にしても、衛生の事にしても、それは譜第といわず、旗本といわず、彼等がきのうまで叛賊よ、朝敵よと叫んで殲滅を期した幕臣の中から人材を抜擢して、その助力を借りるのでなければ手の下しようもなかったものらしく、その焦心の跡の歴然としておおい難きものがある。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1443832/49

政権打倒を唱えてきただけの明治新政府のメンバーに政治や財政の実務を担える人材は少なく、実務的な人材の多くを幕臣に頼らざるをえなかった事情があったようだ。そのおかげで辰吉は、予想外に早く自由な身となったのである。

【大阪で靴屋を開業したのち中野梧一と再会】
辰吉は明治3年(1870)に釈放されたのち静岡に移住し、従兄弟の籍に入って「中野梧一」と改名後、明治4年(1871)9月に大蔵省に勤務となり、11月には山口県参事に登用されている。
旧幕府出身者が討幕派の旧領の県幹部に任命されたのは極めて異例な人事であったのだが、明治7年(1874)には中野梧一は山口県県令に昇進を果たしている。県令としての評判はかなり高かったようなのだが、翌年には梧一は職を辞している。その理由は、前原一誠ら山口県の不平士族が反乱を起こす動きがあり、旧幕臣で山口県令という自分の立場で反乱の鎮圧をした場合に、その後の運営が厳しいと考えたのではないだろうか。梧一は、その後実業界に転身し、大阪に居を構えることとなる。

鳥尾小弥太
【鳥尾小弥太】

その頃、藤田伝三郎も大阪にいて高麗橋二丁目で靴屋(藤田伝三郎商社)を営んでいた。
当時の大阪鎮台の司令長官は四條隆謌(たかうた)で、この人物は文久三年(1863)の八月十八日の政変で京都から追放された公家のうちの一人で、旧長州藩とは縁のある人物であった。また四條に次いで司令長官となったのは元奇兵隊士の陸軍少将・鳥尾小弥太で、藤田の店に靴をよく発注してくれていたという。
その頃のわが国は不平士族の反乱が各地で相次いで起こっており、政府はその鎮圧に忙殺されていた。そのため、軍需品はいくらあっても足らない状態で、靴も良く売れていたのである。その頃に、伝三郎と梧一との関係が親密化していったという。

西南戦争 城山の戦い

そして明治11年 (1877) には、国内で最後の内戦とされる西南戦争が勃発し、藤田伝三郎商社は正当軍の輜重用達を命じられ、軍隊用の靴だけでなく被服、糧食、器械などを一手に引き受け、さらに人夫の請負までしたという。また戦地でコレラが流行したために石炭酸*が十倍に高騰し、予め多めに仕入れていた藤田組はそこでも大儲けをすることになる。
*石炭酸:フェノール。幕末・明治期のコレラ大流行の時に、消毒剤として用いられた。

しかしながら戦争が終わると、藤田組が請け負って送り込んだ人夫の一部が解雇されることとなり、彼らの不満を煽動した人物によって藤田組は大きな事件に巻き込まれることになる。
その事件はどのような事件であり、藤田伝三郎はこの危機を如何にして乗り越えたのか。その点については次回に記すことにしたい。

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明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション

前回の記事で藤田伝三郎が西南戦争を機に大儲けしたことを書いたが、大多数の国民はこの戦争のために大なり小なりの犠牲を払っているのに対して、暴利を得た藤田組に非難の声が高まっていった。

日本富豪発生学

藤田組の悪い噂を流したのは誰か】
前回紹介した白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』にはこう解説されている。

この非難の声につれて先ず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争がすむと、契約以外には一文の手当てにもありつけず、そのまま解雇されることになった。藤田組に対する世間の悪いうわさを散々聞かされてきた彼らの不平は忽ちに爆破した。
 人夫どもは叫んだ。吾々は弾丸の下をかいくぐって戦死者の死体を取り片づけ、あらゆる惨苦を忍んで糧食、弾薬の運搬を手伝った。吾々の働きは軍人と同じだ。吾々の勲功も軍人と同じだ。しかるに藤田組は吾々が命と交換に給せられる賃金の頭をはねてしたたかもうけておきながら、今、吾々の解雇に際し、契約をたてにとって、一文の手当ても出さぬというのは不都合であるというので一斉に起って、藤田組に迫ったものらしい。」

この時に人夫たちを煽動したのは薩摩出身の豊島源右衛門という人物であったという。人夫側の要求は千余人に対し五千円という金額だったが、中野梧一が交渉にあたり、その半額で決着したとある。

【藤田組贋札事件が起きた背景】
しかしながら別の新たな事件がおこり、再び藤田伝三郎が巻き込まれることになる。
明治十一年十二月に各府県から政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、元藤田組の人夫として雇われていた人物が、藤田組が大量の贋札を外国で製造させたと告発したことにより翌年九月に藤田の会社に家宅捜索が入り、藤田は中野梧一らとともに拘引されている(藤田組贋札事件)。

しかしながら大阪では贋札が出回っていないことが判明し、それから何も証拠がでてこなかったことから藤田らは十二月に無罪放免となっている。
元社員の告発は、腹いせの為に行った狂言で行ったもので、長州派が圧力をかけてもみ消したわけではなかったようだ。その証拠に、警視庁は誤りを認め、藤田らを拘引した中警視は懲戒免官され、また虚偽の告発をした元社員は、誣告罪で懲役七十日を申し付けられている。三年後には贋造に関わった人物が判明し伝三郎の冤罪が晴れたのだが、なぜ警視庁は事実確認もせずに元社員の告発内容をそのまま鵜呑みにしたのであろうか。その背景にあるのは、薩長の対立だという。

前掲書にはこう解説されている。

「…誰でも知っているように警視庁は初めから薩派の牙城であった。一概に薩派という中にも西郷とは反(そり)の合わなかった大久保派の色彩が濃厚であった。西南戦争の前には警視庁が政府の爪牙となって盛んに活躍し、そのスパイ政策が何ほどか西南戦争の破裂を早めたものである。明治十年に西郷が戦死し、明治十一年に大久保が暗殺されて見ると、薩派は俄(にわか)にその落莫を感ずると同時に、非常な焦燥を始めていた。この焦燥はやがて長閥に対する燃えるような嫉視となり、反感となり、いやしくも機会があれば、乗じて以て長閥に一撃を加えようと、手ぐすね引いて待ち構えた。」

維新三傑

維新の三傑と呼ばれた木戸孝允(長州出身)、西郷隆盛(薩摩出身)、大久保利通(薩摩出身)の3人の最高指導者が短い間に相次いで世を去り、そのあとは、伊藤博文(長州出身)、山形有朋(長州出身)や井上薫(長州出身)が台頭するようになって「薩長」の勢力関係が逆転してしまっていた。西郷は大久保が殺したようなものだが、その大久保が暗殺されてしまって薩摩派は焦った。そこで薩摩派は長州派の糧道である藤田組を追い落とすことで長州派に打撃を与えようとしていたのである。

伊藤、山縣、井上

そのタイミングで藤田組が大量の贋札を製造したという話が飛び込んできて、警視庁が十分な確認もせずに飛びついてしまい、藤田らを逮捕・勾留してしまった経緯にある。

藤田伝三郎と長州派のリーダーとの関係】
前掲書に、伝三郎がその事件に関する警視庁の訊問に答えた内容が記されている。これを読むと、伝三郎が木戸孝允、井上馨など政界の大物とどういう関係にあったかがよくわかる。

藤田伝三郎

「自分の生家は長州の萩で、父は酒・醤油の製造販売を業とし、傍(かたわ)ら掛屋(かけや)ととなえる藩士相手の金融業を営んでいた。長州藩で掛屋といったのは、先(ま)づ江戸の札差(ふださし)に近いもので、藩の下士階級に属する人々の為に節季の俸米を抵当として、金を貸すものである。長州出身の大官はすべて藩の下士階級に属する人々で、藤田家の如き掛屋業とは関係の深い人々のみであった。…
たとえば木戸公の如き、いまでこそ自分とは身分も違っているけれども、自分の生家とは至極関係が深かった。現に自分の親戚の中にも、その俸米を抵当に木戸公の為に金を融通したものがあったほどである。また自分の生家と木戸公の家とは裏表で、幼少の時から腕白仲間としてよく遊んだものである。…
井上公とてもその通りである。公と自分とは奇兵隊時代から至極懇意の仲で、井上公は自分の最も畏敬する先輩であり、また友人である。」

このように藤田伝三郎は、長州の下士階級と深いつながりがあったのだが、その人脈が幕末から明治以降大いに活かされることとなる。

明治維新を推進したのは「薩長土肥」の武士である学生時代に学んだのだが、白鳥秀湖は前掲書
明治政府は薩長土肥四藩の勢力を代表するものではなくして、岩倉具視を盟主とする各藩下士階級の政府であったと見るのが至当である。」
と述べている。
確かに明治維新を推進した勢力は、薩長土肥四藩の上士階級ではなく下士階級であり、「藩閥政府」という呼び方はその本質を衝いた表現ではない。そして、藤田伝三郎は長州藩の下士階級の主要人物と深いつながりがあったのである

【藤田財閥の形成】
贋札事件の直後は陸軍や大阪府などからの発注が途絶えて苦しい時期があったが、明治十四年(1881)に伝三郎は実兄鹿太郎、久原庄三郎との共同出資で藤田組を設立し、軍需産業以外にも手広く事業を展開している。中核となったのは土木請負業と鉱山業だが、紡績業や鉄道事業から銀行や新聞業にも乗り出している。

Wikipediaの解説を引用させていただくが、現在でも有名企業が目白押しである。
「大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疏水などの工事を請け負い、建設業で躍進すると共に明治16年(1883年)には大阪紡績(東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。
さらに明治17年(1884年)、小坂鉱山(秋田県)の払い下げを受けると、技術革新に力をいれ、明治30年代後半には、銀と銅の生産で日本有数の鉱山に成長させた。そのほか、阪堺鉄道(南海電鉄の前身)、山陽鉄道(国鉄に吸収)、宇治川電気(関西電力の前身)、北浜銀行(後に三和銀行)などの創設に指導的役割を果たした。毎日新聞も行き詰った『大阪日報』を藤田が大阪財界人に呼びかけ『大阪毎日新聞』として再興した。」

岡山平野の開発の歴史(「よみがえれ児島湖」(1991)より改編)
【岡山平野の開発の歴史(「よみがえれ児島湖」(1991)より改編】

伝三郎は財界活動にも注力し、明治十八年(1885)五代友厚の死後、大阪商法会議所(商工会議所)の第二代会頭となり、明治二十年(1887)には大阪商品取引所の初代理事長に就任するなど大阪の財界活動に足跡を残しているほか、明治政府が資金難を理由に断念した児島湾開拓事業を手掛け、岡山県では藤田伝三郎は偉人として認知されているという。

藤田美術館

また伝三郎は書画骨董にも造詣が深かった
彼と息子・平太郎と徳次郎が集めた美術品は「藤田コレクション」として名高く、大阪市都島区網島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館には、藤田と息子平太郎と徳次郎が集めた美術品などが収納されている

彼が美術品を集めたのは、わが国の優れた美術品が海外に流出することから少しでも守りたいという目的があったという。藤田美術館のホームページには次のように解説されている。
大名旧家や寺社に伝えられてきた文化財の多くが、明治維新を機に、海外へ流出したり、国内で粗雑に扱われたりすることに傳三郎が危機感を覚えました。傳三郎は、実業家であると同時に、若い頃から両親に物数奇を戒められながらも、とうとうその性質を変えることができなかったほどの美術品愛好家でもありました。『この際、大いに美術品を蒐集し、かたわら国の宝の散逸を防ごう』と決意して蒐集に乗り出しました。」

古美術品の蒐集は伝三郎が亡くなる直前まで続けられたとされ、その志は息子らに受け継がれて、現在美術館では、国宝 9 件、重要文化財 53件を含む、約2000件のコレクションを収蔵しているという。しかしながら、建物の老朽化のため施設が全面建て替えされることが決定し、平成29年(2017)6月12日から長期休館となっているようだ。開館は2021年度を予定しているという。

内山永久寺跡
内山永久寺跡】

以前このブログで「廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ」という記事を書いたが、堺・奈良の県令を務めた薩摩出身の税所篤は奈良の大寺院であった内山永久寺を廃寺にして寺宝を収奪してしまった。この寺にあった鎌倉時代の仏画『四天王像』は、現在ボストン美術館に所蔵されているが、わが国に残っていればまちがいなく国宝指定だと言われている。しかしながら、この寺の障子絵であったとされる『両部大経感得図』は伝三郎が購入し、現在国宝指定されて藤田美術館に収納されている。曜変天目茶碗など他の貴重な文化財とともに、是非鑑賞したいものである。

両部大経感得図
【両部大経感得図】

伝三郎が集めた古美術品は「藤田コレクション」がすべてではない。
奈良の白毫寺と消えた多宝塔の行方」という記事で、閻魔像で知られる奈良の白毫寺が明治初期には荒れ放題になっていて、藤田伝三郎がこの寺の多宝塔を買取り、寺はその代金で他の諸堂を修復し多くの文化財を守ることが出来たことを書いた。内山永久寺白毫寺もいずれも奈良の寺であるが、薩摩藩出身の県令・税所篤が奈良の寺を破壊して貴重な文化財が失われていくのに、長州人の藤田伝三郎が対抗しようとしたのかもしれない。

他にも伝三郎は安芸竹林寺の大破した三重塔を買取り、修復して東京椿山荘に移築したり、高野山光台院の多宝塔を買取り藤田美術館に移築している。

明治の混乱期においては藤田伝三郎のような人物の努力により、廃寺寸前となった寺の多くの文化財を今日に残すことが出来たのだが、わが国の文化財の危機はこれからもっと深刻化するのではないだろうか。

地方の若い世代が都心部で職を求めるため、地方の高齢化の流れが止まらない。これから先は、観光客の少ない地方の寺社の収入は先細りとなり、住職や神主の成り手がいなくなり無住となる寺社が増えることだろう。
また、昔の建物を修復できる技術のある宮大工の数も減るばかりで、文化財の修復が必要な場合はその費用は高くならざるを得なくなる。文化財の価値を維持するための修復工事が、資金面で年々厳しくなることは確実だ。
昔なら、文化財の修復の為に協力を惜しまない企業や個人が地元に少なからずいたのだが、疲弊した地方にできることは限られている。
文化財指定のある寺社の建物などの修復費用については、「ふるさと納税」と同様に、寄付した人や企業が税額控除を受けられる仕組みが作れないものであろうかと思う。

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大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯

明治期に大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎は、天保八年(1837年)越後国新発田の質屋の五人兄弟の四番目の子として生まれ、幼名を鶴吉といった。生家は商家とはいえ、帯刀が許され殿様に拝謁することが出来たというから格式のあるなかなかの家柄であったのだが、十七歳の時に父を失い、翌年には母を失ってしまう。やがては家を出て身を立てねばならぬことは周囲から言い聞かされて、本人もその自覚があったのであろうが、鶴吉は、十八歳の時に江戸をめざして出立したのである。

大倉喜八郎
<大倉喜八郎>

【鶴吉が十八歳の時に越後国から江戸に出る決心をした事情】
若くして故郷を離れたのには理由がある。ある日、友人の家の前を通ると表門が閉じられていたのに気づく。その友人の家も商家であったのだが、事情を聞くと、一か月の営業停止処分を受けたのだという。処分が出た経緯を聞いて、鶴吉は大憤慨したのだが、この出来事を大倉喜八郎は明治四十四年に出版された『致富の鍵』という書物の中で、次のように口述している。

「その頃の町人というものは実になさけないもので、侍は無上の権力を持っていた。大道で侍に逢うと土下座(どげさ)というて地べたに座って平伏しなければならないのであった。ところで私の学友の父が、昨日町を通っていたが侍に逢った。その日は生憎越後名物のみぞれ雪の後で、通りは四五寸厚さの雪まじりの泥、そこへ平伏しなければならない端目(はめ)に陥ったが、如何に町人でも跣足(はだし)になって平伏は出来ない。が已むを得ないから袴の裾を泥に浸して両手をついて敬礼をして居た。すると後ろから来て、袴の裾を捲り上げる者がある。『こりゃ何だ、足駄を穿(は)いたままで下座になるか。』と意地悪く糺明されましたので、重々済みませんと色々にあやまったがとうとう聞き入れられず、閉門の罰に中てられて、彼様(かよう)に一月営業を差し止められたのである。
 私はこの話を聞いて非常に気の毒に思うと同時に大層憤慨して、『侍が何だ、泥の上に平伏したらそれで沢山ではないか、…それも目付風情の奴があれ是れというて大切な商売の妨げをするというのは憎くい振舞だ。何時吾々も、この様な奴等に頭をおさえられるかも知れない。…一体こんなところに居さえしなければよいのだ。こんな国に居るのが間違っているのだ』と、非常に強く感じた。…
 私はこの時の憤慨で、江戸へ出るという決心を固めたのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800645/14

【鰹節屋の小僧から独立】
安政元年(1854)に江戸に着いた鶴吉は、友人を訪ねて日本橋の魚河岸の仕事を手伝ったのち、中川屋という鰹節屋に奉公にあがるようになるが、越後の田舎から出て来たばかりの少年ゆえに苦労して、「自分の一身は自分で立てなければならない。決して他人を力にするものではない、他人を当てにしたのでは、いつまでも望みを遂げられる筈はない」ことを知ったという。

二十歳ごろに独立して上野で乾物屋を開き二十三歳の頃に、祖父の通称であった「喜八郎」を名乗るようになる。

【横浜で蒸気船を観て武器商人に鞍替え】
数年たったある日のこと、喜八郎は商売のネタを探しに横浜を訪ねている。当時の横浜は漁村に毛の生えた程度で西洋人もわずかしか住んでいなかったのだが、海岸通りに行くとたまたま蒸気船が入港してきて錨を降ろすところを観察することが出来た。そして彼はこう考えた。

「『これだこれだ、こういうものが日本に来るようになってはきっと天下は一変するに違いない。』と囁いたのである。そこで天下が一変するについては必ずや騒動が惹き起こされなければならぬ。騒動が起きれば戦争によって曲直正邪を決定するものである。戦役に入用であるところのものは第一に武器類である。そうすれば先ず鉄砲屋になるがよいと思うたのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800645/17

ペリー来航図巻
<ペリー来航図巻>

何故、喜八郎は蒸気船を観て「天下が一変する」と直感したのか。
彼が二十三、四歳の頃に、「江戸が大飢饉で貧民が餓死するものも多く秩序が全く乱れてしまった。」と述べている。教科書などには書かれていないが、慶応二年(1866)の飢饉は結構大きくて米価は急騰し、四月には江戸で打ちこわしが起こり、その後全国に波及している。第二次長州征伐が幕府軍にとって好ましくない結果となった原因の一つとして、兵站に不安が出たことを無視することはできないだろう。
かくして幕府の権威は失墜し、世の中は次第に騒がしくなっていくばかりだ。二十四歳の喜八郎は早速行動を開始している。

「これは幕府の仕打ちが宜しくない。天下は遠からず変乱に陥って大名と大名の争いになってしまうだろう。そうなっては、各藩爭うて兵制を改めることになり、つまり軍器の争いで勝敗は決することになるであろうという見込みを付けて、すぐ乾物商を止めて軍器商に変わった。多少の資本を借りて来て、横浜の外国商館に行って、鉄砲弾薬その他一切新式の軍器を買入れた。果たして、すぐ長州征伐が起こって各藩は爭うて洋式の兵制に改める。他には軍器を取り扱っている商店はどこにもない。私の仕入れた商品は瞬時に売れつくしてしまった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800645/19

戊辰戦争で何度も危機を乗り越える】
そしてまもなく戊辰戦争が始まった。喜八郎は鎮守府総督の有栖川宮殿下より命じられて官軍の兵器糧食一切の調達を引き受けたのだが、そのために旧幕府軍からはマークされることとなる。武器を売るという仕事は、販売先の敵対勢力からいつ命を狙われてもおかしくなく、兵器などの輸送にも危険を伴うものであることは言うまでもない。

有栖川宮熾仁親王
<有栖川宮熾仁親王>

ある夜、喜八郎は数十騎の兵に取り囲まれて彰義隊の本営に送られ、詰問の場に引き出されている。白刃を突き付けられてのこのような応対は、よほど胆力がないとできないことであろう。

「五六人の将校は高座の上に列(なら)んでいる。その一人は、まず私を睨みつけて、『其方(そのほう)は永年幕府の恩顧を蒙りながら、今更官軍の手先となるとは何らの不心得ぞ、多分その方は官軍の間諜であろう。取り糺して処分するから覚悟しろ。』と詰(な)じる。既に死を決した以上は何の憶する所もない。『貴官方は幕府恩顧の方々であろうが私は越後から参った商人です。官軍であろうと幕府であろうと私の目からは区別をしよう筈がありません。』と言えば、将校は、『然らば何故に官軍には鉄砲を売って彰義隊には売らないか。』と詰る。『我等商人の眼中には唯だ損益ある許(ばか)り、官幕の如何を問う要はない。然るに官軍には鉄砲を売ればすぐに代価を請け下ぐることが出来るが、彰義隊には之を売っても代価を請け下ぐることが出来ない。これがためにやむを得ず銃砲を渡すことも出来ません。』と言えば、将校は憤然として『黙れ。』と大喝一声、白刃を抜いて差し向けた。私は殊更驚きもせぬ、唯だ黙然として白刃を見つめていた。すると他の一将校が、『然らば金を払うが銃砲を納めるかどうか。』というから、『無論注文の通りに致す。』と言えば、『然らば三日の中に五百挺小銃を納めよ。』と言うので、その契約をしてその場は免れて帰った。その翌朝から上野戦争となったので幸いに右の契約履行の奇禍を免れたが、この時が丁度三十歳。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800645/21

上野戦争
<上野戦争>

その上野戦争で彰義隊は明治新政府軍に敗れて解散したのだが、もし大倉喜八郎が最新鋭の武器を彰義隊に流していたら、一日でこの戦いが終わるようなことはなかったことであろう。

箱館戦争
<箱館戦争>

新政府と旧幕府の戦いは北上して、旧幕府側の拠点はいよいよ箱館を残すのみとなった。
喜八郎は箱館で戦が始まることを想定し、青森に展開している新政府軍に武器を売る契約をしたものの、武器を満載した船が青森の手前で暴風雨に襲われ、こともあろうに敵地の箱館に漂着してしまったのである。武器を載せていることがわかれば、武器や船が奪われるだけでなく喜八郎の命も危ない。
喜八郎はドイツ人船長と相談し、もし積荷の確認に来た際はそれを拒否し、武器が積んであることや日本人が乗り込んでいることについて一切口外しないことを指示した。そして、武器は船の奥底に隠し、日本人を隠して、甲板には外国人だけを出すようにした。

努力

大正五年に出版された大倉喜八郎の自伝『努力』に、この時の対応が記されている。

「案の定、港の方から無数の小船がやって来た。多分港内取締奉行で、今の税関役員のようなものであったであろうが、外国人相手にしきりに談判をして、是非船内を調べると言っている。すると船長は『イヤこれは外国船で青森に米を積みに来たのであるけれども、風の都合で暫くこの港に投錨しているまでの事である。決して迂論なものではない』と熱心に弁解する。とうとうその談判が一昼夜続いた。甲板の下には我々四人が小さくなって、手代達は飯も食わずに慄(ふる)えている。…其のうちにやっと談判も済んで、終に船の仲は見せないことになったが、未だ風波が悪くって船は出せない。早く出帆する様になれば宜いがと待ちくたびれていると、翌朝になってきた風が吹き始めたから、早々纜(もやい:ともづな)を解いて青森に乗り込んだ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955095/33

なんとか青森に武器を届けると、今度は代金の回収や、船を無断で使われて苦労した話など面白い話があるのだが、詳しくは『努力』の第二章第四節を読んで頂くことにして、喜八郎がその後如何にして大倉財閥を築くに至ったかについては次回に記すことにしよう。

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大倉喜八郎口述の『致富の鍵』は2年前に復刊されています。


【ご参考】
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大倉喜八郎が事業を発展させたきっかけと、儲けた金の使い方

前回の記事で大倉喜八郎は幕府の動きや黒船を観て、これから内乱が起きることを直感し、乾物商を止めて武器商に鞍替えして大稼ぎしたことを書いた。

ところが戊辰戦争が終わると、喜八郎はこれからしばらくわが国で戦争が起こることはなく、このまま鉄砲店を続けても駄目だと考えたという。そしてこれからは、外国との貿易が盛んになるとともに、わが国で洋服が必要になると考えて、日本橋本町に洋服裁縫店を開き、横浜に内外貿易店を開いている

【欧米視察旅行とその目的】
また喜八郎は私費での欧米視察旅行にも出かけている。その頃は多くの日本人がヨーロッパに来ていたが、商人が自費で視察に来ていたものは彼だけであり、たまたまイギリスで岩倉使節団の木戸孝允大久保利通に声を掛けられ、その旅行の目的を尋ねられている。

岩倉使節団
<岩倉遣欧使節団 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通>

その時の彼の回答が、自伝『努力』にはこう記されている。

「どうしても日本の将来は、衣食住までも西洋風に押し移ってくるに違いないと思います。それには衣類の部で毛織物を日本で製造するようにしなくてはならない。第一兵隊の如きも今迄のように筒袖股引ではいけないから、是非とも洋服にしなくてはならぬ。また民間にも需要が増して来れば、羅紗は益々必用となる。私はこのために英国でマンチェスター、リバップール、グラスゴーなどの羅紗工場を視察しましたが、皆大規模で何百万円という資金を投じている。その中ごく小さい工場でも五十万円以上の資金を卸してそれはなかなか盛んなものです。とても私は今すぐ着手することはむずかしいから、せめては毛布を製造する機械なりとも、日本へ持ち帰りたいものと考えて、ただ今それを取り調べて居ります。しかし之を製造するにはその原料の羊毛がなくてはならぬ。羊を日本に飼養せねばならぬということについて、私も実は大いに困却しているところです」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955095/45

岩倉使節団の派遣は各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていたが、重要な役割の一つとして欧米先進国の文物視察と調査によりわが国に新しい産業を生み育て、近代国家としての諸制度を整えるための情報収集があった。使節団は公費で来ているにもかかわらず、喜八郎が日本で事業を興すために自費で視察旅行していることに木戸も大久保も感心した。

大久保等との協議の結果、羅紗工場については事業リスクが高いため、政府が官営工場をまず設立し、それを軌道に乗せてから民間に払い下げすることとなったのだが、その後伊藤博文や岩倉具視との知遇も得て、以降の彼の事業に大きな影響を与えることになる。

喜八郎は帰国した後、明治六年(1873年)に日本人による初の貿易商社である大倉組商会を東京銀座二丁目に設立し、翌年には日本企業として初めての海外支店をロンドンに開設して直貿易に乗り出している

【台湾出兵・西南戦争の頃】
また明治七年(1874年)十月に宮古島の島民五十四人が台風による暴風で台湾に漂着し五十四名が殺害される事件が発生し、清国政府が「台湾人は化外の民で清国政府の責任範囲ではない」としたために、明治政府は台湾征討軍を派遣することを決定した。しかしながら、敵地への輜重兵站輸送はリスクが高いとして大手企業が断ったために、大倉組に協力の打診が来て、喜八郎はそれを引き受けている。

台湾出兵時の日本人兵士
<台湾出兵時の日本人兵士>

また明治十年(1877年)の西南の役の頃に朝鮮半島が大飢饉となり、大久保利通からの要請で、彼は朝鮮を支援の為に米穀の輸送を任されたのはいいが、届けたのち一週間ほど残務処理のために朝鮮に残っていると、いつの間にか帰る船がなくなっていた。当時は大きな船のほとんどが西南の役に使われて、この乱が終わるまではまともな船が朝鮮に来る気配がなく、そもそも朝鮮にはいい船がない。
しかたなく喜八郎は「長さが4間半、幅が一間半位」のイカ釣り船に乗って博多に向かおうとしたのだが、深夜に暴風雨となり、七八時間もの間船は荒波に大揺れしながら、翌朝運よく対馬に辿り着いたという。

努力

彼の自伝である『努力』には、そのような苦労話が満載で、興味のある方は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているのを読んで頂ければと思う。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/955095

このように喜八郎は、事業リスクが高くて他社がとても手を出さないような仕事に何度もチャレンジし、何度も危険に遭遇してはそれを乗り越えてきた。この時代を振り返って、彼は『致富の鍵』でこう感想を述べている。

大倉喜八郎
<大倉喜八郎>

私の青年時代より壮年時代にかけての奮闘は苦しいとか辛いとかの沙汰どころではない。総てが命がけであった
渡り来しうき世の橋のあと見れば 
    いのちにかけてあやうかりけり
 これが私の懐旧の述懐であるが、実に今日は活きているけれども明日の事はどうなるか測られないという急場ばかりを渡って来たものだ。世には随分不意の危難に接して周章へ慌てたがために殺されなくもいい場合に殺されたり、或いは種々の困難に辛抱し切れずして中途で倒れるものが幾らもあるが、私は常に平常に覚悟を保って居ることができたお蔭で概(あら)ゆる危険と障碍を潜り潜ってとうとう無事で今日まで通って来た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800645/18

長州出身の藤田伝三郎の場合は、ここまでリスクを取らなくても明治政府の重鎮に幼友達が何人かいたから大きな商売が取りやすかったのだろうが、新潟から出てきて何の人脈もなかった大倉喜八郎にとっては、仕事を選り好みすることができなかったという事情もあったろう。彼が命がけで取り組んだ仕事の多くは必ずしも儲からなかったようだが、この様な姿勢で業務に奮闘したことが大倉組の信用を高め、注目されていったことが事業の拡大につながったことは間違いがない。

大倉喜八郎がかかわった事業と彼の評価】
以降大倉喜八郎がかかわった主な事業のいくつかを列挙すると
明治十年(1877年) 東京商法会議所(現・東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)設立
明治十五年(1882年) 東京電燈(日本初の電力会社)設立
明治二十年(1887年) 日本土木会社(一部は現・大成建設の前身)を設立、帝国ホテル創設
明治二十六年(1903年) 大倉土木組を設立し日本土木の事業を継承
明治三十九年(1906年) 大日本麦酒設立(戦後サッポロビール、東京アサヒビールに分割)
明治四十年(1907年) 日清豆粕製造(現・日清オイリオグループ)、東海紙料(現・東海パルプ)、帝国製麻(現・帝国繊維)、日本化学工業、日本皮革(現・ニッピ)設立。
明治四十一年(1908年) 山陽製鉄所(現在の山陽特殊製鋼)
昭和二年(1927年) 日清火災海上保険を買収し大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)とする
と有名企業が数多くあるのだが、どういうわけか彼の自伝には、大倉組が順風満帆の時期の事はあまり書かれていないのである。

大倉喜八郎ほど評価の分かれる人物は珍しいという。「世にもまれな商傑」と絶賛されることも多いが、「政商」「死の商人」と酷評されることも多い。
若い頃の事業はそれほど儲けがあったわけではなかったようだが、日清戦争(1894~5年)以降はかなり利益があったことは、彼の関わった事業拡大の歴史をみればおおよその見当がつく。戦争時期に稼いだ商人は反戦主義者などから叩かれることが多く、喜八郎もその例外ではなかったようだ。
読者の方から教えて頂いたのだが、日清戦争の頃に「戦地に送られた牛肉の缶詰に石が詰まっていた事件」があり、大倉喜八郎が犯人だとの噂が流れたのだそうだ。
調べると木下尚江という社会主義者が東京毎日新聞に連載した反戦小説『火の柱』で、喜八郎をモデルにした人物がその事件の犯人として描かれ、それが事実として人々に広く信じられてしまったために、大倉喜八郎=「悪徳商人」のイメージが国民に定着しまったようである。缶詰に石が入っていた事件は本当にあった話だが、この事件は喜八郎と無関係であることが明らかになってからも、一度定着したイメージを払拭することは容易なことではない。

【儲けた金は子孫に残さず】
大倉喜八郎は儲けた金を子孫に残しても本人が怠慢になるだげで、それよりも公益のために使いたいという考えであった。例えば、明治四十四年(1911年)に恩賜財団済生会に100万円を供している。現在の価値にすると百億円近い大金である。札幌の大倉山シャンツェにも、秩父宮の要請で建造費を出した。また五十万円の寄付で開校した大倉商業学校(現東京経済大学)もその一つである。

大倉集古館

文化芸術分野においては、彼は大正六年(1917年)に、わが国最初の私立美術館である「大倉集古館」を設立している。

彼がなぜ古美術品を大量に買い取ったかについて、ホームページにはほとんど書かれていないのだが、前掲の『致富の鍵』で彼はこう述べている。

「御維新前までは神仏は一緒で、伊勢の大神宮様の方々でも生きて神に仕える間は神徒であるが、死ねば仏になるという訳であって、則ち葬式も仏葬で行うものもあったのである。それであるから神主の家には仏もあれば仏像もある。そのほか鎌倉の八幡宮、熱田の一の宮、多賀の大社など大抵の神社には沢山の仏像も仏画も安置せられてあったのである。それが明治の御維新になって以来、神仏を分離することになって、その時に仏像や仏が神社から取り離されたのである。その結果仏の居所が無くなって全くの宿なしの仏が沢山に出来たのである。それを気の毒だと思うた私が、その仏の仲にてその彫刻が良い仏を吟味して、その彫刻の善いのを取り寄せたのが事のはじまりである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/800645/30

明治の神仏分離で大量の仏像・仏画などが不要となり、多くが海外に流出したのだが、大倉喜八郎は、そのいくつかでもわが国に残したいとして買い取ったのである。
彼が買い取ったのは日本のものばかりではなかった。中国の美術品も買い取っている。
昭和四年に出版された『大倉集古館要覧』には、同館の収蔵物について次のように解説されている。

「陳列品は、我が過去50年に渉り苦心惨憺して蒐集、蓄積したるもので、遠くは明治維新当時よりわが国文物制度の変革に際会し、国宝たるべきわが古美術品が海外に搬出せらるるを憂い、もしくはまた清朝の末期同国団匪の乱とともにその珍什佳宝が等しく欧米に散逸せんとするを防止するため、巨費を投じて之を購入したるものがその大部分を占めている。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094916/17

北清事変連合軍兵士

このブログで『北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊』という記事を書いた。

1900年6月10日に、20万人ともいわれる義和団が北京に入城したのだが、当時北京には11ヶ国の公使館があり、公使館のある区域が暴徒に取り囲まれ、鉄道や通信網が破壊されて約4千人が孤立する事態となったのだが、11ヶ国の兵士はわずかしかおらず、イギリスから4度にわたり出兵要請がなされて、わが国も軍隊を派遣することになる。
日本軍の活躍により義和団は逃走し、その後皇城を除く北京城内を分割して各国担当区域の警備を担当することになったのだが、フランスやロシアの管轄となった地域の暴行略奪は酷かったとの記録が残されている。『大倉集古館要覧』に書かれていることは、その時にロシアが収奪した美術品を日本に売りに来た際に、大倉喜八郎が買ったことを意味している。

大倉集古館」は、関東大震災により一部の展示品を失ったというが、現在のコレクションは国宝3点、重要文化財13点、重要美術品44件を含む2500件の美術・工芸品を所蔵しているのだという。
残念ながら現在は施設改修工事の為に休館となっているが、今年の秋までには展示が再開される予定だという。展示が再開されたら、喜八郎が欧米に散逸させないようにと買い集めた美術・工芸品を是非鑑賞しに行きたい。


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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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