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ペリー来航の目的と、その後幕府の権威が急速に失墜した経緯を考える

前回の記事で、江戸幕末に米の相場以上に生活必需品の価格が高騰して武士階級が困窮生活を余儀なくされていたことを書いた。徳川幕府は有効な対策を講じないまま求心力を失っていったのだが、徳富蘇峰は『近世日本国民史 第31巻』でこう解説している。

「…徳川幕府中心主義を、わが全国民が遵奉し、かつ徳川幕府がこれを遵奉せしめ得る場合においては、鎖国政策も祖法としてこれを維持するを得べきも、国民の心が徳川幕府より離れ、もしくは離れんとし、而して幕府が国民を強制するだけの実力や、実験を失墜したる場合においては、如何に祖法は存在しても、そは勢い徒法とならざるを得ないのだ。
 しかるに徳川幕府中心主義は、尊王思想勃興のために一大打撃を受けた。それがようやく具体化せんとするに及んで、さらに致命的打撃を受けつつあった。これと同時に、永続したる泰平は、農工商の階級をして、漸次に台頭せしめた。すなわち腕力に代えるに富力を以てするのやむなきに至った。堂々たる国持大名が大阪町人の前に、叩頭平身せねば、その日用が弁ぜられぬ時代を現出し来った
 …
 例せば…幕府老中・水野忠邦の失脚の如きも、多くの理由中の一には、彼がその属僚羽倉外記*をして、大阪町人から無理やりに多額の御用金を徴収せしめたることを数えねばならぬ。
 しかのみならず徳川幕府中心主義に必須の力たる、いわゆる旗本八萬旗なるものは、全くと言わざるも、その大半はほとんど物の用には立たない。否(いな)却って徳川幕府の足手纏いとなった。彼らによって徳川幕府を擁護するなどとは、思いも寄らないこととなった。…
 徳川幕府の法度、制典も、時代の変化とともに変化すべき必要があった。しかも執政者は、ただ守株の見に拘泥し、時勢に応じて変通の策を施す所以(ゆえん)を解せず。ここにおいて一切の法度、制典も、ほとんど徒法となり、徒制となった。かかる場合において、その法制が、威権を失墜し、その強制力、その拘束力を薄弱ならしむるは、まことに余儀なき結果と言わねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/17
*羽倉外記:水野忠邦の抜擢により納戸頭兼勘定吟味役となり、天保14年7月に大阪西町奉行所に富商を集め総額110萬両に及ぶ御用金を申し付け、そのうち98万両を引き受けさせたが、水野忠邦の失脚により羽倉外記も職を追われてこの件は沙汰止みとなった。

徳川幕府の支えとなるべき旗本の生活は困窮状態にあり「幕府の足手纏いとなった」とまで書いている。本来ならば時代の変化に合わせて諸制度も見直すべきであったのだが、何もしてこなかったために幕府の権威は衰えていくばかりである一方、尊王思想の拡がりもあって、それまでは幕府の命を奉じてきた雄藩の大名や豪商たちが、次第に幕府を軽視するようになっていったのである。

このような状況下で、鎖国を続けているわが国の近海に、外国船が頻繁に現れるようになっていた。
文化5年(1808)にはイギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に侵入して乱暴を働く事件が起き(フェートン号事件)、その後も、イギリス・アメリカの捕鯨船が近海に現れたので、鎖国体制を守ろうとした幕府は、文政8年(1825)に異国船打払令を出している。
その後天保8年(1837)に、日本人漂流民7人の送還と通商のために浦賀に現れた非武装のアメリカ商船・モリソン号を、異国船打払令に基づき砲撃を行ったことはわが国でも批判されることとなり、さらに天保13年(1842)に起こったアヘン戦争で清国がイギリスに惨敗した情報を入手するとその年に幕府は異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出している。

ペリー来航

その後も何度か外国船が現れて、嘉永6年(1853)6月にはアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4隻の軍艦が、開国と通商を求めるアメリカ大統領の国書を携えて江戸湾入り口の浦賀の沖にやって来た。この4隻の軍艦がわが国を、特に徳川幕府を大きく揺さぶり、幕末の動乱はここから始まったといっても過言ではない。
教科書などにはペリーが「我が国に強く開国を迫った」程度のことしか記されていないのだが、アメリカは我が国に開国を実現させるためにどのような交渉を考えていたのであろうか。

ペリー

徳富蘇峰の前掲書に、ペリーが海軍長官に送った意見書の要約が紹介されているので引用しておこう。
「捕鯨船、その他船舶の避難所および糧食、薪水等の需要品補給の港湾を一箇所及び数箇所得ることは、必ずしも至難の業ではない。万一日本政府が、本土においてこれを肯(がえ)んぜず*、なお兵力に訴えてもというと言う場合に、日本の南方にて良港を有し、飲料水、および食料を得て、便宜ある島嶼一二箇を占領し、軍艦の屯所を作り、而して後徐(おもむろ)にその目的を達すべく、手段を廻(めぐ)らす事。
次には日本、支那両属の姿である琉球にも、主なる港を開かしむる覚悟だ

かく避難港が出来、船舶が輻輳(ふくそう)するに際しては、勢い食料品の需用が多くなり、したがってその地方に果実、蔬菜等の栽培を奨励するの必要がある。そのため、若干種子類を齎(もた) らし来(きた)ったが、なお農具の類等も、追々と送付を希(こいねが)うこと。

かくて港湾開け、石炭、糧食等に不自由なく、その土着人の労働や物品に対して、相当の代価を払い、彼らに対する公正の態度を以てし、彼らと親密なる交際をなしたる上は、ここに初めて日本政府をして、我が真意を知らしむることが出来るであろう。かくの如くして加州と支那との間を航海する船舶は、中途に安全なる港湾を得、同時に歳月の経過とともに、日本政府をして、わが合衆国の求める交際の目的は、全く平和的のものであることを、諒解せしむるであろう。」
*肯んぜず:聞き入れず、承諾せずの
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/25

この文章を読めば、ペリーはわが国をいきなり武力侵略するつもりはなかったことはわかるが、もしわが国が開国を拒絶した場合は、武力による占領を視野に入れていたことは明らかだ。軍艦4隻は我が国との交渉を有利に進めるために必要であったのだ。

アメリカがわが国を開国させるために、なぜ武力行使まで考えていたのかと誰でも思うのだが、ペリーの意見書には、続けてこう記されている。

「海上権に関して、わが大敵である英国の、東方において有する占領地と、その防備ある港湾の、着々として増加しつつあるを見る時は、わが合衆国もまた、快捷(かいしょう)*の運動を為す必要を思う。
世界の地図を見るに、東印度および支那海、しかして支那海における重要なる地点は、すでに英国の占める所となった。幸いに日本及び太平洋上の諸島嶼はいまだ英国の手が触れていない。のみならず、その中のあるものは、通商の要路に当たり、わが合衆国に取りて、重要の地点だ。それは今日我が合衆国たるもの、自ら進んで多くの避難港を得るに、寸時も遅疑すべきではない。ゆえにボーハタン号およびその他の軍艦を、至急続発せられんことをねがう。」
*快捷:動作などが素早いさま。敏捷。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/26

このように英国との対抗上太平洋を安全に航行できる航路を獲得するために軍艦を送り込むことを要望しているのだが、この言葉の意味について少し補足させていただく。

日本開国

渡辺惣樹氏の『日本開国』に、1849年9月17日にアーロン・パーマーがクレイトン国務長官に提出した『対日戦争計画書』の内容が紹介されている。物騒な表題になっているが、いきなりわが国を武力制圧するということではなく、アメリカの将来にとって東アジア、とりわけ支那大陸との安全交易ルート確保は国益上極めて重要であり、そのためには戦争も辞さずとの覚悟が必要というのがこのレポートの主旨のようだ。

アメリカにとって太平洋航路の確保が喫緊の課題であったのはなぜなのか。渡辺氏はこう解説している。
「…日本の地勢的な位置がアメリカの国益の発展に重要だったのです。
 航路を劇的に短縮するパナマ運河。その前段階としてのパナマ鉄道計画はアスピンウォールらによって具体化しています。

 *南米ケープ岬経由
  イギリス ― サンフランシスコ   13,624マイル
  ニューヨーク ― サンフランシスコ 14,194マイル
 *パナマ経由
イギリス ― サンフランシスコ    7,502マイル
  ニューヨーク ― サンフランシスコ  4,992マイル


ここに現れた海路短縮の数字が、世界の海運地図に与えるインパクトを如実に示しています。セントルイスからミシガン湖周辺を抜け、サンフランシスコやサンディエゴをつなぐ電信網の敷設や大陸横断鉄道の計画も視野に入っています。上海からサンフランシスコまで20日足らず。大陸横断鉄道が完成すれば、上海―ニューヨーク間は25日程度で結ばれてしまいます。電信網が完成すれば、サンフランシスコに船が到着した数時間後には、支那大陸やアジア各国の市場情報がニューヨークにもたらされます。東アジアの動向をロンドンに先駆けて知ることができるのです。イギリスに対して圧倒的に有利に立てるのです。
 太平洋を運行するアメリカの船舶が安全に航行できれば、イギリスの世界覇権に対抗できるのです。幸い北太平洋へのイギリス海軍の展開は遅れています。上海から日本の東岸を抜け、アメリカ北西部に抜ける航路(グレートサークルルート)が安全に使えさえすればよいのです。他の列強がこのルートを使うことは一向に構いません。他国にとってはこの航路をとるメリットはほとんどないのです
。」(『日本開国』p.174-175)

パナマ運河

調べるとパナマ鉄道が開通したのは1855年で、ペリー来航からわずか2年後の話である。このルートが開通すれば、ニューヨークから東アジアまではヨーロッパのどこの国よりも圧倒的に短い距離でつながることが可能となるのだ。しかしながらいくら距離が短くとも、陸地の少ない太平洋で安全に航行ができる条件が整わなければ意味がない。アメリカにとっては、パナマ鉄道が開通する前にわが国が開国して、アメリカと親密な関係を構築することが望ましかったのである。
もしわが国がそれを拒絶すれば、アメリカは、小笠原諸島や沖縄諸島などを占領することを考えるしか方法はない。
ペリーは軍事力でわが国を威圧して交渉を有利に導こうとしたのだが、パナマ鉄道は建築の最中であり、交渉に時間をかける余裕は十分にあったと思われる。

サスケハナ号
【サスケハナ号】

では、ペリーと我が国との交渉はどのようなものであり、わが国はどう対応したのか。
徳富蘇峰の前掲書には、ペリー来航時の状況についてこう記されている。文中の「サスケハンナ」は艦隊の旗艦の名である。

「艦隊がいまだ錨(いかり)を下ろさぬ内に、日本の警備船の一群は、艦隊めがけて追うて来た。提督は早速信号もて、船にも短艇(ボート)にも、決して彼らを乗せしむるなと命令した。而して旗艦に限りて、用件を帯び来る者は上艦を許すが、それでも一度に三人を超えるを得ずと命令した
かくて艦隊が錨を下ろすと、海岸の砲台から一発を放った。まもなく艦隊は訪問を砲台の全面と、浦賀の町とに向け、一列に碇泊をなした。その時日本の警備船が、四方から沢山集まり来たった。そのうち小舟が一艘、旗艦の側(かたわら)に近づいてきた。舟の一人が手紙を携えていて上鑑を求めたが、サスケハンナの士官は之を拒絶した。されどその手紙が仏文で書いてあったことがわかったから…読み上げさしてみると、軍艦が此処に碇泊するは危険であるから、はなく退去せよとの指図であった。また大官と見える役人が、サスケハンナの艦側に来り、艦梯を下ろすべく合図したが、これまた拒絶した
この時ペルリ提督は、…提督は最高の役人以外には誰にも面会しないから、陸に帰られよと告げしめた。しかるに舟の中の男が、オランダ語で種々と訊きたてた。…彼は執拗(しつこ)くも上艦を求めたが、その度(たび)ごとに拒絶せられ、この艦隊の司令官は、合衆国にて最高の官位の人であるから、それに相当する高位高官の人であらぬ限りは、相談はできぬと答えた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/40

中島三郎助

結局浦賀奉行支配組与力の中島三郎助とオランダ語通詞・堀達之助の2人が上艦を許されたが提督は顔を出さず、コンテー大尉が2人に米国大統領から日本皇帝に宛てた国書を携えているので、相当の役人を軍艦に派遣してほしいと伝えたという。

蘇峰の解説を続けよう。
「与力は日本の国法では、外交のことは、一切長崎にて取り扱うこととなっているから、長崎に赴かれたしと挨拶した。コンテー大尉は、提督が浦賀に来たのは江戸に接近しているためにことさらに此の地を指定してきたのだ。提督は決して長崎には赴かない。また国書を相当の礼儀をもって現在の場所に受け取らるべきこと。提督の本意は和親にあるも、もし万一侮辱に渉るがごときあるに於いては、一切容赦はまかりならぬ。かつ日本の警備船がかく軍艦を取り巻いているとはけしからぬことだ。もし早速退散せぬならば、提督は武力もて彼らをしかせしむるであろうと付け加えた。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/42

ペリー来航図巻(第4紙)
【ペリー来航図巻(第4紙)】

翌日には浦賀奉行所与力の香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ねたが、親書は最高位の役人でなければ渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだのだが、ペリーは3日なら待とうと答えさらに「高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけながら、さらに幕府を威圧するために浦賀湾内に武装した短艇を派遣して湾内の測量を開始している

徳川家慶
【徳川家慶】

この時の第12代将軍徳川家慶は病床にあり、国家の重大事を決定できる状態ではなく、老中首座阿部正弘が国書の受取りを認め、ペリー一行の下田上陸を許している

嘉永六年六月久里浜陳営の図
【嘉永六年六月久里浜陳営の図】

浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見し、ペリーからフィルモア大統領の親書などが手渡されたのだが、幕府は「将軍が病気のため決定できない」とし、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは1年後の再来航を約して、江戸を威嚇しながら離れていったという。

阿部正弘
【阿部正弘】

ペリー退去後のわずか10日後に将軍家慶が死去し、後継者の家定も病弱で国政を担えるような人物ではなかった。
しかし、老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論の高まりもあって、老中首座の阿部正弘はペリーの開国要求に要請に頭を悩ませた結果、幕府の役人だけでなく諸大名・諸藩士から一般の庶民にまで幅広く意見を求めたのである。

徳富蘇峰は同上書でこのように幕府を批判している。
「ただこの際に遺憾なるは、幕府当局の臆病と不見識だ。彼らはなにゆえに自ら信ずるところを公然と天下に発表しなかったか。攘夷の行うべからざるは彼らはいずれも百も承知のことではなかりしか。何ゆえにこれを公言せざりしか。また一歩を進めて考察すれば、米艦渡来は戦争が目的ではなく、和親が目的だ。ただ日本が容易に和親の相談に応ぜざるため、武力をもってこれを威嚇するという芝居に過ぎなかった。彼らは何ゆえにその真相を看取せざりしか。その所信を公言しなかったのは臆病であり、その真相を看取せざりしは不見識である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/119

国家の命運を決めるような重要な問題について、一般庶民にまで幅広く意見を求めるようなことは徳川幕府としてやってはいけなかったのではないか。幕吏から意見を聞くだけならともかくも、諸般の大名から一般庶民にまで意見を求めては、よほど幕府には見識ある人材が乏しいと解釈されても仕方がないだろう。

これまでの幕府は外様大名やそれ以下の人々が幕府の政策に対して政治的な発言をすることが許されなかったのだが、この時に意見書は七百近く集まったという。中公文庫の『日本の歴史19 開国と攘夷』には、江戸吉原遊女屋主人藤吉の意見書が紹介されている。
「なにげなく漁業をしている様子で異国船に近寄り、鶏や薪水や、そのほか外国人の望む漆器とか絵画などを贈って、仲よしのようになり、だんだん打ちくつろぎ、そのうちに外国船に乗り込み、酒もりなどをはじめる。そうこうしている間に、酒によったふりしてまず日本人同士でけんかをはじめる。そうすると外国人も口を出し手を出すようになるだろう。それを合図に、軍艦の火薬庫に火をつけ、また鮪包丁で、かたっぱしから外国人を切りすてる。成功はまちがいなしです。」(『開国と攘夷』p.48)

幅広い階層から意見を求めたもののさしたる名案はなく、これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がって、結果として、さらに幕府の権威を下げることとなってしまったのである。

前回の記事で紹介した菊池寛の表現を借りれば、黒船来航時の幕府の対応により「かろうじて支えられていた、封建制度の鎖の一筋はたち切られたのである。徐々ではあるが、社会的の地すべりが始まった。断層がそこにも此処にも、不気味な肌をあらわにして来た。」(『大衆維新史読本』p.35)
別の言い方をすると、各階層の人々が幕府の批判を容易に口にできる環境を幕府自らが作ってしまった。そもそも鎖国を始めたのは幕府なのだから、開国すると判断して実行していたら、あれほど簡単に徳川幕府が崩壊することはなかったのではないだろうか。
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【ご参考】
ペリー来航の前に、わが国はロシアと交易を開始する準備ができていました。よかったら覗いてみてください

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-439.html

ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html

間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-441.html

ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-442.html

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ペリーが持参した米国大統領の国書と、有力諸藩大名が幕府に提出した意見書を読む

前回の記事で、徳川幕府の老中首座阿部正弘ペリーの持参した米国の国書の受取りを認め、一行の下田上陸を許したことを書いた。この時幕府は、12代将軍徳川家慶の病気を理由に返答の1年の猶予を要求したのだが、そもそも、この国書には何が書かれていたのだろうか。

一般的な日本史教科書である『もう一度読む 山川の日本史』には
「上陸したベリーには、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。
ペリーは、これまでの外交使節よりもいっそう強硬な姿勢をとり、武力にうったえることも辞さないという態度を示した。幕府が翌年に回答すると約束したので、ペリーはいったん退去した。このとき老中主席阿部正弘は、慣例を破ってこれを朝廷に報告し、諸大名・幕臣にも意見を求め、国をあげて難局に当たろうとした。」(p.209)
と書かれているのだが、この解説では国書の内容が高圧的なものであったのかどうかがよくわからない。もう少し詳しく知りたいと思って載っていそうな書物を探してみた。

日本遠征記
【『ペルリ提督 日本遠征記』】

岩波文庫の『ペルリ提督 日本遠征記 2』のp.240に国書全文が出ているが、この翻訳文では当時の日本人がこの国書をどう読んだかがよくわからない。
国立国会図書館デジタルコレクションで調べていくと、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第31』に、幕臣や諸大名らに諮問した際に配布されたアメリカの国書のオランダ語からの和訳文が引用されていたので、読みやすいように、漢字で書かれた地名や人名などをカタカナに読み替えてその一部を紹介したい。文中の「予」は当時のアメリカの第13代大統領であったミラード・フィルモアを指す。

ミラード・フィルモア大統領
【ミラード・フィルモア大統領】

「予いま水師提督マシュー・ペリーをもって、書を殿下に呈す。この者はすなわち合衆国の海軍第一の将にして、今次殿下の領地に航到せる一隊軍艦の総督なり。
予すでに水師提督ペリーに命じて、予が殿下に対し、かつ貴国の政廷に対し、きわめて懇切の情を含むことを告明せしめ。かつまた今次ペリーを日本に遣わすは、他の旨趣あるにあらず。ただわが合衆国と日本とは、宜しく互いに親睦し、かつ交易すべきところなるを、告げ知らしめんと欲するに在るのみ
合衆国の基律および諸律(英文にては憲法および諸法律)はもとより、その各個民人に禁戒を下し、他邦の民の教法、政治を妨ぐることを得ざらしむ。予特に水師提督ペリーに命じて、これらの事を厳禁せしむ。これ貴国の安穏を妨げざらんことを欲してなり。
北アメリカ合衆国は、大西洋より大東洋(太平洋)に達するの国にして、就中(なかんずく)そのオレゴン州およびカリフォルニアの地は、まさに貴国と相対す。わが蒸気舶カリフォルニアを発すれば、18日を経て貴国に達することを得るなり。わがカリフォルニアの大州は、毎年およそ金六千万ドルラル(原注:…銀六十匁を金一両に当たると定め、六千万ドルラルは本邦の銀一千一百五十二万四千五百両にあたる)、銀若干、水銀若干、宝石若干種、およびその他諸種貴重の物件を産す。
日本もまた豊富肥沃の国にして、幾多貴重の物品を出(いだ)す。貴国の民もまた諸般の技芸に長ぜり。予が志(こころざし)二国の民をして、交易を行わしめんと欲す。これをもって日本の利益となし、また兼ねて合衆国の利益となさんことを欲してなり。
貴国従来の制度、シナ人およびオランダ人を除くのほかは、外邦と交易することを禁ずるは、もとより予が知るところなり。しかれども世界中、時勢の変換にしたがい、改革の新政行わるるの時にあたっては、その時に隨(したが)いて新律を定むるを智と称すべし。…
この時代にあたりて、アメリカ州、始めて見いだされ、あるいはこれを新世界と名付け、ヨーロッパ人これに住棲せり。このころにあっては、アメリカは人民稀少にして、その民みな貧陋(ひんろう:貧しくみすぼらしい)なりしが、当今は民口おおいに蕃息(はんそく:盛んに増加)し、交易また甚だ弘博となれり。ゆえに殿下もし旧律を改革し、両国の交易を允准(いんじゅん:許可)するにおいては、両国の利益極めて大なること疑いなし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/121

わが国がオランダと中国以外の国々と交易することを禁じられていることは当然承知の上で、アメリカ大統領はわが国が鎖国制度を改めて双方が交易を開始することは、日米両国にとっても利益になることを説いている。

ペリー来航図巻(第4紙)
【ペリー来航図巻(第4紙)】

またこうも述べている。
然れども殿下もし外邦の交易を禁停する古来の定律を全く廃棄するを欲せざるときは、五年あるいは十年を限りて允准し、もってその利害を察し、もし果たして貴国に利なきにおいては、再び旧律に回復して可なり。おおよそ合衆国他邦と盟約を行うには、常に数年を限りて約定す。しかしてその事便宜なるを知るときは、再び其の盟約をつぐこととす。
予さらに水師提督に銘じて、一件の事を殿下に告明せしむ。合衆国の船、毎歳カリフォルニアよりシナに航するもの甚だ多し。また鯨猟のため、合衆国人日本海岸に近づくもの少なからず。而してもし台風あるときは、貴国の金塊にて、往々破船に逢うことあり。もしこれらの難に遭うにあたっては、貴国においてその難民を撫卹(ぶじゅつ:物を恵み与え憐れみをかける)し、その財物を保護し、もって本国より一舶を贈り、難民を救い取るを待たんこと、これ予が切に請うところなり
予また水師提督ペリーに銘じて、次件を殿下に告げしむ。蓋(けだし:思うに)日本国に石炭甚だ多く、また食料多きことは、予がかって聞き知れるところなり。我が国用いるところの蒸気船は、その大洋を航するにあたって石炭を費やすこと甚だ多し。而してその石炭をアメリカから搬運せんとすれば、その不便知るべし。是をもって予願わくは、わが国の蒸気舶およびその他の諸舶、石炭食料及び水を得んが為に、日本に入ることを許されんことを請う。もしその償いは、価銀をもってするも、あるいは貴国の民人好むところの物件をもってするも可なり。請う殿下帰国の南地において、一地を選び、もって我が舶(ふね)の入港を許されんことを。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/123

このようにアメリカ大統領の国書の内容は、わが国の南方に港を開き石炭や水や食料を購入させてほしい、日本近海で難破した船の乗組員を保護して欲しいなどといたって穏当なもので、非礼な言葉は見当たらず、高圧的なものでは決してなかった。しかも、条約の期限到来後、日本側にメリットがないと判断されるのであれば、元に戻されても良いとまで書いているのだ。

アメリカを警戒したことはわからないでもないが、この程度の内容ならば、前回の記事で書いた通り、幕府単独でアメリカとの開国を決断しても良かったとも思う。しかしながら、幕府に人材が乏しかったのか、攘夷論の高まりを意識してそのガス抜きを図ろうとしたのか、幕府は問題を先送りにしたうえで、この国書に対する対応をどうすべきかについて、幕府の役人から諸大名、諸藩士らに幅広く意見を求めたのである。

水戸齊昭
水戸齊昭

では、彼らはどのような意見を幕府に申し述べたのであろうか。徳富蘇峰は前掲書に次のように諸大名らの意見をまとめている。
幕府は諸大名、諸有司その他に諮問し、その意見を徴したが、別段目新しき説を提出するものとては、ほとんどこれなかった。要するにその多数は、和親反対、交通拒絶、彼もし来たらば、開戦も辞するところにあらずとの説であった。即ち尾張、水戸、越前、長防、肥前等の諸国持大名、津、桑名、松代、南部、二本松署藩主皆然りであった。而してその代表的意見は…水戸齊昭。他島津齊彬のごとく、しばらく決答を延引し、わが武備の整頓を俟って拒絶すべしという者あり。伊達宗城のごとく、しばらく通商を許し、武備充実ののちこれを拒絶し、もしくは我より進撃すべしという者あり。しばらく寛大に取り扱い、武備充実の後、強硬手段をとるべしというは、加賀、仙台、熊本の諸国主の意見であった。
而してあるいは佐倉藩主堀田正睦(まさよし)、村松藩主堀直央(なおひろ)の如く、しばらく彼の要求を容れるべしという者あり。あるいは制限を付して交易を許すべしという掛川藩主太田資始(すけもと)、小浜藩主酒井忠義あり。あるいは長崎に限り交易を許すべしという筑前国主黒田長溥(ながひろ)、津山藩主松平齊民(なりたみ)、忍藩主松平忠國あり。あるいは拒否を明言せざる芸州の浅野齊粛、彦根の井伊直弼、足守の木下利恭あり。而して彼の要求を許容すべしと明言したるは、中津藩主奥平昌服、郡上藩主青山幸哉に過ぎなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/148

『海防愚存』(写)
【『海防愚存』(写)】

このように諸大名の大半は攘夷論者であり、その代表格が水戸齊昭(なりあき)である。彼が老中阿部正弘に提出した意見書『海防愚存』が、徳富蘇峰の前掲書に紹介されている。
「…この度渡来のアメリカ夷、重き御制禁を心得ながら、浦賀へ乗入り、和睦合図の白旗差出、推して願書を奉り、あまつさえ内海へ乗り込み、空砲打ち鳴らし、我がままに測量まで致し、その驕傲無礼の始末、言語道断にて、実に開闢以来の国恥とも申すべく候。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/134

水戸齊昭は老中阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わることとなり、水戸学の立場から強硬な攘夷論を主張したのだが、長文の『海防愚存』の中に水戸学の思想と現実とのギャップについて述べている部分がある。徳富蘇峰はこう解説している。

「(水戸齊昭の述べていることは)いずれも当時の海防論者の範囲の外に出でたるものはない。ただ彼の位地が三親藩の一であり、しかして彼が天下の声望を一身に負うているゆえをもって、その議論も、その意見も、おのずから権威があるのだ。この長文の中にて、最も注意すべき一点は、
拙策御用いにあい成り候わば、和の一字は封じて、海防掛りのみの預かりに致したきことに候。』
の一節だ。これにて見れば、齊昭は表向きには堂々と打払いを主張しつつ、裏面にては、到底今日の勢いにては、戦勝の見込みなきゆえ、それぞれ方便をめぐらす下心であったことがわかる。
齊昭および水戸派の議論の弱点は、実にここに存す。彼らは真成に打払うという程の大決心なく、ただ天下の人心を激高作興する手段として、かかる硬論を鼓吹した。かかる手段は政治家として、いまだ必ずしも絶対的に排斥すべきものではない。しかもその行うべからざる、その行う能わざるを熟知しつつ、しいてこれを行わしめんとするは、これ実に幕府を死地に陥れるものにして、幕府としてはいわゆる仏を頼んで地獄に落ちたることわざも、齊昭の起用に於いて、実現することとならんとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/144

江川太郎左衛門
【江川太郎左衛門】

当時のわが国は異国排斥を唱える攘夷論の高まりがあり、幕府はそのリーダー格の水戸齊昭を海防参与に任じることで諸大名の支持が得られることを目論んだのであろう。
水戸齊昭は江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上し、幕府も江川太郎左衛門等に砲撃用の台場造営を命じたほか、大船建造の禁を解除して各藩に軍艦建造を奨励し、幕府自らも洋式帆船『鳳凰丸』の建造に取りかかり国防を強化しようとした。

鳳凰丸
【鳳凰丸】

だが、戦勝の見込みがないことをしりつつ攘夷を推進しようとした齊昭を幕政に参画させたことが、後に裏目に出ることとなるのである。その点については次回以降に記すこととしたい。

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【ご参考】
わが国がなぜ鎖国したかは、かなり史実が歪められて伝えられています。
次の記事で紹介したような出来事や記録がわが国や西欧諸国に残されているにもかかわらず、なぜか戦後の日本人にはほとんど伝えられていません。

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-191.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係~~その3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-193.html

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-371.html

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-372.html

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-373.html

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-374.html

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html

徳川家康が、急にキリスト教を警戒し出した経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-378.html

江戸幕府の対外政策とキリスト教対策が、急に厳しくなった背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-380.html

徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-381.html

徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-385.html

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ペリーが江戸を離れた翌月に4隻の艦隊を率いて長崎に来航したロシアのプチャーチン

前回まで2回に分けて嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に来航したペリーの事を書いた。
徳川幕府は将軍の病気を口実に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後の再来航を約して6月12日江戸を離れたのだが、それからわずか10日後の6月22日に将軍家慶が死去している。
そして幕府が7月3日水戸齋昭を海防参与に任じた2週間後の7月17日に、今度はロシアのプチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した


パルラダ号
【パルラダ号】

ロシア政府はアメリカが日本との通商開始を求めて艦隊を日本に派遣する計画がある情報を事前に入手していて、プチャーチンはペリー出航よりも早くロシアのクロンシュタット港を出発していたのだが、パルラダ号がスウェーデンとデンマークの間の狭いオレスンド海峡で座礁してしまい、イギリスで修理するのに2か月近く要したためにペリーに先を越されてしまったのである。

プチャーチン航路

教科書などにも記されているが、オランダ・中国以外の国で、鎖国以降のわが国に最初に接近し交易を求めてきた国はロシアである。ロシアと我が国とのそれまでの交渉経緯を簡単にまとめておこう。

ロシアは1706年にカムチャッカ半島を領有し、オットセイの毛皮などを獲るために千島列島にも出没するようになっていたのだが、ロシア領から遠く離れた地であるために、近隣諸国と食糧物資などの交易ができることを求めていた。
また1799年にはアラスカがロシア領となり、その広大な領土を維持するためには大量のロシア人を送り込むことが必要となる。しかしながらアラスカは極北の地ゆえ食糧等が乏しく、大量の食糧や生活必需品などをどうやって調達するかがロシアにとって喫緊の課題となった。
そのような経緯から、18世紀からロシアは交易を求めて何度かわが国に使節を送り込んできたのである。

1778年にロシアの勅書を携えたイワン・アンチーピンの船が蝦夷地を訪れて直に通商をもとめたが翌年に松前藩が拒否した記録がある。続いて1792年には、日本人漂流者でロシアに保護されていた大黒屋光太夫ら3名の送還と通商開始交渉のためアダム・ラクスマンがイルクーツク総督の信書を携えて根室に来航したが、老中松平定信は長崎のオランダ商館と交渉することを求めたため、ラクスマンは長崎に行かずに帰途についている。

ニコライ・レザノフ
【ニコライ・レザノフ

1804年にはニコライ・レザノフが日本人漂流者の津太夫らを伴い国書を携えて長崎に来航したのだが、半年間も監視され出島に留め置かれた挙句、幕府より国外退去を命じられ追い返されてしまった。
このロシアの使節に対する日本幕府の仕打ちに憤慨したレザノフの部下の中に、日本には、軍艦も大砲もないので武力を用いればロシアが樺太などに拠点を作ることは容易であるとの意見を持つものも現われ、ニコライ・フヴォストフは日本への報復として、独断で1806年及び1807年に樺太や択捉島の拠点を部下に攻撃させている。(文化露寇)

幕府は北方警備の重要性を悟り、西蝦夷地も幕府の直轄領とし、さらに奥羽四藩に蝦夷地(北海道)の沿岸警備を命じたのだが、知床半島の斜里に向かった100名の津軽藩士は寒さと栄養不足から72名もの病死者を出してしまった。そもそも北海道の海岸線の総延長は3000km近くあり、広い蝦夷地のどこに現われるかもわからないロシア船を追い払うためには膨大な数の兵士と大砲と軍艦が必要なのだが、幕府が送り込んだのは軽武装の津軽、南部、秋田、庄内の藩兵3千程度で、彼らを駐留させ、越冬させるための準備も不十分で、これでは蝦夷地を守ることは不可能だ。

そこで、幕府内でロシアとの交易を認めるべきであるという考えが出てきた

後に箱館奉行となった河尻春之と荒尾成章は、文化5年(1808)2月に老中の諮問を受けて意見書を提出し、ニコライ・フヴォストフの乱暴狼藉について謝罪があれば、国同士ではなく辺境同士の交易ぐらいならば『軽き事』として許可すべきであると主張し、このことを幕府が許可しなければ蝦夷地全域を警衛が必要となり、たとえ2万3万を動員してもこの広い蝦夷地を守ることは難しいと説いたのである。
そして、この二人の意見書が認められ、幕府はフヴォストフの再来を予想し、「狼藉を働いた上に、いうことをきかねばまた船を沢山出して乱暴するというような国とは通商できない。戦をする用意はこちらにもある。本当に交易したいのなら、悪心のない証拠として日本人を全部返した上で願い出よ。来年6月カラフト島にて会談しよう。この上狼藉するなら交易どころではないぞ」との趣旨の返事が用意されたという。(渡辺京二『黒船前夜』p.277)
渡辺氏によると、もしこの頃にロシアが船を派遣して日本側と接触していたら、交渉次第では日露の通商関係が成立していた公算が高かったとある

しかしながら文化5年(1808)にイギリス海軍のフェートン号が、オランダ国旗を掲げて国籍を偽って長崎港に入港し、出迎えのため船に向かったオランダ商館員2名を拉致し、薪、水、食料の提供を要求し、供給がない場合は港内の船を焼き払うと脅迫する事件(フェートン号事件)が起こって幕府の対外姿勢が再び硬化するのだが、この事件の3年後の文化8年(1811)に、再びロシアの軍艦ディアナ号が5月に択捉島の北端に上陸したのち国後島の南部に向かい、泊湾に入港した。

ゴロウニン
ゴロウニン

ディアナ号艦長のゴロウニンは松前奉行配下の役人と面会して補給を要請したところ、日本側から陣屋に赴くように要請され、食事の接待を受けたのちに捕縛されてしまう
ゴロウニンの安否を心配した副艦長のリコルドは、情報を収集するために択捉島から函館に向かっていた官船・観世丸を拿捕し乗船人を人質に取ったのだが、この船に乗っていた船主の高田屋嘉兵衛はたまたまゴロウニンが生存していることを知っていた。

リコルド
【リコルド】

リコルドと親交を深めて次第に言葉を理解し事情を把握した嘉兵衛は、日本がロシアに敵意を抱く原因となったフヴォストフの蛮行には全くロシア政府が関与しておらず、この男がロシア皇帝により処罰されていることを公文書で幕府に提出した上で、フヴォストフらが掠奪した物品を日本国に返却すれば、ゴロウニンと嘉兵衛一行との交換が可能となることをリコルドに提案し、リコルドは自ら日ロ交渉に赴くことを決意する。
一方幕府も、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換がなされていて、嘉兵衛の提案に基づき作成されたイルクーツク民生長官とオホーツク港務長官による松前奉行宛の書簡が功を奏し、文化10年(1813)9月に松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、2年3か月ぶりにゴロウニンは解放されることとなる

この交渉の過程で、ゴロウニンもリコルドもわが国に対して好意的になり、この事件にかかわった日本人もロシアに対して好意的となり、この時にもう少しロシアが粘っていれば、他国に先駆けて交易が開始されたかも知れなかった。
しかし、ロシアはそれから30年間わが国に対して使節を送ることはなく、記事の冒頭で記した通り、ペリー来航の1か月半後にプチャーチン率いるロシアの艦隊が長崎に現れたのである。

200px-Pallada_in_Nagasaki_1854.jpg
プチャーチン来航を描いた瓦版】

ペリーの場合は外国船の来航が許されない浦賀に艦隊を乗り入れ、そこで高官との面談を要求し、さらに浦賀湾内の測量まで強行して幕府側に威圧を加えたのだが、プチャーチンの艦隊はシーボルトの進言に従って、日本で唯一の対外国窓口である長崎に向かい、長崎では武力で威圧するようなことは一切なく、長崎奉行応接掛の馬場五郎左衛門の聞書きによると、「奉行より食料薪水なども差支え候わば、手当致すべき旨申し聞き候ところ、万端不足これなき由相断る」とあり、漂流船でも猟船でもなく使節の船であるので、故なくわが国から助力を受けることを断ったという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/178

プチャーチン
【プチャーチン】

プチャーチンが携えてきた国書は長崎奉行に渡されて、プチャーチンは江戸から幕府の全権が到着するのを待つことになったのだが、そもそもこの国書には何が書かれていたのだろうか。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第31』にその全文の日本語訳が紹介されている。長い文章だがポイントとなる部分を紹介したい。
「今般使節を、大日本国の大主へ差上げ候趣意は、その一には本国より親交を相求め候意味と、世界当時の形勢事情如何というところを申し立て、その二には両国境界を取り定め候肝要のことを申し立て、その三には両国領分の人民互いに利益あるの交わりを相始め、両大国を至極安全の場に至るよう成行き候事は、疑いなく存じ候。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/187

幕府はロシアの国書に対する返事を、ペリーと同様に引き延ばすことにしたという。プチャーチンは何度か返事の催促文書を記し、長崎奉行も幕府に上申書を送って返事を促したのだが埒が明かなかった。

国書を交わして2か月以上が経過した嘉永6年(1853)9月19日、長崎奉行らが将軍家慶薨去の事を告げ、これがために返答が遅れていると説明しに来たのだが、この時にロシア側は彼らにこう詰問したという。

プチャーチンを描いた瓦版
【プチャーチンを描いた瓦版】

何ゆえに江戸から速やかに返事を得る能わざるか。長崎の地は、畢竟単に外人を欺かん為に設けたる場所だ。日本の西隅にありて、首府とかけ離れ、中央政府との交渉、勢い緩慢となる。ために外人は自ずから倦怠して、立ち去るに至らんこと、これ貴国政府の本意であろう。されど欧州諸国は、やがて貴国のこの譎策(きっさく)を洞知すべく、かくて爾後はかかる手段は乗らずして直ちに江戸に肉薄するに至るであろう。しかして露国は7月22日は将軍の喪を発したる日にして、その死去はその以前にあり。江戸より長崎への道程は、約三週間なれば、8月19日会見の際には、日本官吏は、当然このことを知るべきである。しかるに今までことさらにこれを秘したるは何事ぞと。」
*譎策:偽りの策
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/194

そして10月17日になってプチャーチンは、長崎から江戸に向かうことを決意し、長崎奉行にその旨を通告した。徳富蘇峰は前掲書でこう記している。

吾が官吏は大いに驚き、これを引き留めんとした。19日に至り、露艦がその旗を捲くと見て、長崎奉行は人を露艦に派し、江戸より露使へ面会のため、特に4人の大官を派する旨を告げた。されど到着日を示さず、かつ日本官吏の指定したる場所が露人の意に適せず。かくて22日プチャーチンは長崎奉行に宛てた書と、江戸より来たるべき4名の大官に宛てたる書とを留め、不日再び来航の際、江戸の種瀬、なお未だ来着せざるに於いては、直ちに江戸に向かうべき旨を告げ、23日相い率いて長崎を去った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/195

プチャーチンは3か月もの間長崎で無駄に過ごしたのちに上海に向かっている。
クリミア戦争に参戦したイギリス軍がロシア軍を攻撃するために艦隊を差し向けたとの連絡が入り、おそらくプチャーチンは情報収集のために中国に向かったものと考えられている。

では、プチャーチンを待たせている間に江戸ではどのような議論がなされていたのであろうか。徳富蘇峰によると、ロシア船を追い払えとする意見はほとんどなかったという。
たとえば仙台藩士大槻平治は、9月20日付けでロシアと結んでアメリカを制すべしとの意見書を勘定奉行川路聖謨(としあきら)宛てに提出している。
殊に強大なロシアを与国となされ候上は、かの来春渡来仕るべきアメリカ人等は、ただ今のうちに、いかようとも御工夫相なり申すべく。たとい御返翰遣わされ候とも、この国を以て取次がせ候わば、…必ず穏便の取扱い出来申すべく、かの水師提督数十艘の軍艦差向け候様の儀、必ずや相控え申すべきやと存じ奉り候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/197

川路聖謨
川路聖謨

江戸で様々な議論がなされたが、幕府としては確固たる対ロシア政策を定めないまま、長崎で交渉するメンバーとして川路聖謨と筒井政憲を派遣することに決定した。
徳富蘇峰の前掲書に、幕府がこの2人に対してどのように指示したかについて、川路聖謨の伝記を引用している部分があるので紹介したい。

「(老中)阿部正弘から、開国通商の一件は、なるべく延期をせよ。また北方境界の設定は、樺太島にては、北緯五十度の地を分界となし、またウルップ全島をも、なるべく我有となすべく尽力せよと申し聞けたという(『川路聖謨之生涯』)。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/200

幕府が回答を引き延ばしたのは、開国の判断を躊躇したこともあるようだが、両国の国境についての考え方が、大きく異なっていたことが大きかったようだ。
プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に、老中に宛てて記した書簡に、境界についてのロシアの考え方が記されている。文中の「クリル諸島」は千島列島、「エトロフ」は択捉島、「カラフト」は樺太島を意味している。

北方領土

日本北方にあるクリル諸島は、往時よりすでにロシアに属し、かつその支配たり。エトロフ島もまたこの諸島中の一にして、クリル人ここに住居し、かつ一部は日本人も雑(まじ)わり住す。しかのみならずロシアの漁民、往時よりすでにこの島に棲居せり。これによりて、この島ロシアに属するか日本に属するかの疑問を生ず。このゆえに全権と日本政府の高官と会同して、この疑問を決せば、両帝国の境界もまた定まるべし。
カラフト島は、ただ野人のみ住棲し、その住民は、ロシアの支配を仰ぎ、制教および交商に乏しき者たり。ゆえにロシア皇帝の命令にて、この3か月来ロシアの所領とし、かつ数多の軍兵を置いてこれに備う。漁猟および他の商業を為し、かつ時節を期して、おのれが住家を構えんが為に、カラフト島の南部アニワ港に来たる日本人の寡少なるは、ただ全権が言えるところの理を資(たす)く。しかのみならず、右日本人アニワ*に住居するにあたっては、ロシア領民の如く、その保護を蒙(こうむ)るなるべし。」
*アニワ: サハリン(樺太)南部のアニワ湾に面した町。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/205

択捉島も千島列島も樺太島も全部ロシア領と言わんばかりだが、プチャーチンの書簡の内容は真実だったのか。千島列島はアイヌ民族などの先住地で、ロシア人がはじめてウルップ島以南に到達したのは1766年の事であるし、樺太南部には鎌倉時代からアイヌ民族や日本人が進出していて、千島列島も樺太島も江戸時代に松前藩が治めていたことは確かなことである。
ロシアの交渉姿勢はいたって穏便ではあったものの、国境を定める問題については当初から随分強気の姿勢で臨んでいたことがわかる。

どんな談判が行われたのか興味深いところだが、この点については次回に記すことにしたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

レザノフを全権使節として派遣したロシアにわが国を侵略する意図はあったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-439.html

ペリー来航の45年前のわが国でロシアとの交易を開始する準備がなされていた
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-440.html

間宮林蔵は原住民の小舟で北樺太を探検し、海峡を渡って樺太が島であることを確認した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-441.html

ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-442.html


嘉永6年に行われたわが国とロシアの領土談判とプチャーチンの残した警告

前回の記事で、アメリカのペリーが来航した翌月の嘉永六年(1853)七月にロシアのプチャーチンが長崎に来たことを書いた。プチャーチンは、ペリーのようにわが国を武力で威圧するようなことはしなかったが、携えてきた国書には両国の親善と交易の開始のほかに両国の境界を定めるという難問が記されていた
しかも、プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に老中に宛てて記した十月十八日付けの書簡には、択捉島も千島列島も樺太島も全部ロシア領と言わんばかりに書かれていて、さすがの幕府もこの問題についてしっかり反論しておく必要があったのである。

川路聖謨
川路聖謨

幕府の全権として川路聖謨(としあきら)、筒井政憲が長崎に派遣されることになり、老中阿部正弘は、川路に対し「開国通商の一件は、なるべく延期をせよ。また北方境界の設定は、樺太島にては、北緯五十度の地を分界となし、またウルップ全島をも、なるべく我有となすべく尽力せよ」と指示したという。

プチャーチンは十二月五日に再び長崎に戻り、いよいよ幕府全権との領土談判が始まった。この談判はオランダ語を介して行われ、談判の記録が徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第31』に紹介されていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でもPCなどで読むことができる。

北方領土

十二月二十日に行われた第一回目の談判における、領土問題に関するロシア使節と川路聖謨の発言の一部を紹介したい。文中の「左衛門尉(さえもんのじょう)」は川路聖謨を指している。

「使節
日本千島のうち、南は日本、北はわが国にて支配致し候。右のうちエトロフ島は、昔から我が国人が居住いたし来たり候ところ、その後貴国より手を入れ、貴国の人住居致し候様に相成り候。当今日本にては、エトロフは、いずれの所領と心得られ候や。

左衛門尉
蝦夷の千島は、残らずわが国の属島にて、元来名も蝦夷詞(ことば)に候ところ、段々貴国より蚕食致し、名をも付け替え候儀にこれあり、その後貴国のゴロウニンと申す者、蝦夷地へまかり越し候砌(みぎり:頃)、規定を立て、たがいの国境を守り、ウルップを以て間島と致し候つもり、契約いたし、それ以来、エトロフ島へは、外国の者を置かず、領主よりも番所をも差し置き来たる所にして、もとより吾が所領なるところ疑いもなくこれ候

使節
ウルップ島は、百年前ロシア所領なりしに、近来アメリカ人罷り越し、猟事いたし、エトロフ島は、50年前迄は、ロシア人のみ住居致し、貴国の人罷り越し居り候儀これなきことにつき、右の心得方尋問に及ぶところに候。

左衛門尉
エトロフはわが国所領たること断然として疑いを容れべきところなく、古(いにしえ)はカンシャッカ迄も、わが国の所属にて、蝦夷人のみ住居致し候を、その後貴国の人據守(きょしゅ)するようになり、それのみならず、カラフト南岸の地、わが国所属にて、これまで番所をも差し置き来たり候。いったい使節心得方に不審すべき條々これあり。貴国政府の書簡にもこれなき儀を、使節よりは色々と弁を加え申し聞けらる趣もこれあり候は、政府の意に非ざるべし。右体(みぎてい)の儀、強いて弁論及ばるるは、貴国の所願をなさんとの儀にはこれあるまじく、右様の心得方にこれあり候わば、通信通商の儀は、論判にも及び難く、これらよりして、わが国人心の憤怒を生じ申すべく。しかしながら望み乞うことを調(ととの)えたく存ぜられなば、追っての書面は相下げ候方にはこれあるまじくや。さもこれなくては申し聞けらるる旨も、畢竟無益のことなるべし。

使節
ゴロウニンは元来我が国政府よりの使臣にあらず。全く自己の了簡をもって右様の事にも及びたる事なれば、今般の証跡には引用(ひきもち)いがたく、エトロフの儀、品々弁論もこれあり候えども、今日の会議に尽くしがたき間、後会に治定の答え承るべし。

左衛門尉
承り届け候。

使節
サカレン(樺太)は、もともと我が国人住居の地にあらず。先年アンモル(黒竜江)へわが国の者罷り越し候ところ、かの住民ども、我が国へ属せんことを願うにつき、我が主の命によって、軍卒を差遣し、かの土を守らせ候ことにて、日本所属の地へ手出し等致し候儀にはこれなく、右境界しかと取り極め申さず候ては、外国のもの通航差しさわりにも相成り候あいだ、境界相定めたく存ずるところなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/231

このように川路聖謨は、国境の問題に関しては結構強い姿勢でロシア使節とやりあっている。

プチャーチンと川路聖謨

次に二十二日に行われた第二回目の談判を紹介しよう。

「左衛門尉
カラフトを半分に引き分け、貴国より差し置かれ候軍卒主兵は、境界相分かり次第引き払わせらるべくとの儀においては、一昨日申し聞けられ候通りにこれあるべく、エトロフの儀は、その砌(みぎり:時節)申し述ぶる通りにて、存寄りもこれあるまじく候。

使節
カラフトの儀は一昨日申し述べ候とおり、守兵は外国人の窺窬(きゆ:隙を窺い狙うこと)を絶たんが為にして、日本所領へ対し手出し致し候儀にはこれなく候あいだ、談判次第、右守兵速やかに引き払わすべし。

左衛門尉
カラフト境界50度以上の所をもって、半島に引き分け候つもりに候や。この心得承りたく候。

使節
境界巨細のところは、その場所の大名並びに官府の役人中立立ち合い御取調べの上にこれ無くては相整い難き儀は勿論にこれあるべく候えども、概略の規定取り決め申さず候ては、衛卒の進退にもかかわり、捨て置きがたき筋につき、いずれにもこのところにおいて、あらましの取り決めは致しおき、貴国の来春二三月頃、双方場所へ立ち合いの上、取り調べ方致すべし。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/237

こんな具合に、カラフトについては境界線をいずれ取り決める方向となったのだが、エトロフ島もロシア人が居住しているので、この島についても国境を定めようと持ち掛けてきた。これに川路はこう答えている。

「左衛門尉
それは心得違いと存じ候。いったい蝦夷千島の儀は、わが国古記録にも相見え、その上エトロフは、断然当時わが国の所領の所、右様筋なきの儀申し出候ては、さても談合も取り扱いも相なりがたく、この上は談判は詮なき事なるべし。

使節
当時エトロフには、アイヌばかり住居致し、日本人住居致さずように相見え候

左衛門尉
アイヌは、蝦夷人の事にて、蝦夷は日本所属の人民なれば、アイヌ居り候所は、即ち日本所領に候

使節
アイヌはエトロフ島の内、諸方に住居致し候うち、ロシアに属し候者も、日本に属し候者もこれあり。同島北の方のアイヌは、ロシア支配にして、日本の所属にあらず。これを取り極めたく存ずるところなり

左衛門尉
エトロフ境界の儀については、文化年中、為取替(とりかわせ)の書付も出来致し候ところ、貴国より受取りの者差し越されざるゆえ、それきりに相成りたり。この一條につき、段々申し聞けられの趣、畢竟不筋の申し分にはこれあるまじくや。いったい貴国は、両国の民の争論を慮(おもんばか)られ、わざわざ使節差し越され候につき、我ら不肖ながら命を受けて、品々穏やかに懸け合いにも及び候ところ、右様不法の申し分これあり候ては、談合及び難く候。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/241

そもそも国境を定めるような難問が、初めての両国の協議で簡単に決まるはずがない。
このような談判が24日にも26日にも行われ、それぞれ言いたいことを述べあったのだが、結局国境問題で結論が出ることはなかった。

魯西亜使節應接図
【魯西亜使節應接図】

徳富蘇峰はこの談判についてこうまとめている。
「ただ日本側にて、カラフトに支配下の役人を派遣して、見分せしむるであろうと言うただけが、いささか具体的に近き箇条にして、その他には薪水食料窮乏の際には、いずれの地にても給与して差支えなしとの一点が談判中露国使節の、握り得たる言句であった。しかもこれとて言葉の上のみにて、未だ確たる物とは思えなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/267

またロシアの使節は26日の談判の際に、わが国がいつまでも鎖国を続けることを改めるべきことを忠告する文書を提出している。結構説得力のある内容なので一部を引用させていただく。

「…水蒸の航海起こるに及びて、隔遠なる地も縮みて近く、古(いにし)え数月を経ざれば、到ると能わざる地方も、今は数週にて達すべし。水蒸船は風の恬静(てんせい)なる日も、停止する患(うれい)なく、大風涛のために支えられず。通行すべからざる両極下極寒の地を除くのほかは、世界中一所の探討(たんとう)せざる地なし。何の故をもって、昔日に比すれば、近年は異舶の日本港に到れる数増大したるや。また昔に比すれば、毎年日本の洋面に航する船隻、何ぞ甚だ多きや。…これらの船隻は、彼是の国人、害心を挟(さしはさん)んでこの地方に往来するには非ず。皆已むを得ざる切用の事あればなり。今は支那に交易起こり、アメリカ理西北岸に、互市を開き、かつハワイ島においても交易盛んなれば、その数十二十のみならず。百隻に及べる船舶毎年その地に往来すれば、その途中必ず日本諸島を過(よぎ)らざるを得ず。これ、日本は上に言える数地の中間にありて、これより彼に航海する間、適当の憩所たるが故なり。

数年前オランダの政堂よき思慮ありて、日本に方今の形勢に応じて、政律を改革すべき時節至れるよしを告ぐ。今はまた他の諸国よりも日本政堂にその説を献じ、爾後も屡々(しばしば)来りて、日本と厚意の交わりを結び、風波を日本の港に避ける事を許し給わんことを請い、また外国の如くに交易を許されんことを願うものあらん。船舶頻りに来たり請うことあらんには、その交易をついに開かざることを得ざるべし
日本政府も、すでに旧律に拘泥することはなしがたき由をほぼ了解し給い、かつロシアより希望せる事体と、このたび上言せる善き思慮の証例を熟(よ)く勘考(かんこう)したまいなば、速やかに外国との交通を開き、殊にはロシア国と交好を結び給わんこと、全権大使の望むところなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/268

蒸気船ができたことで、世界中で交易が盛んにおこなわれるようになり、日本も国是の鎖国にこだわることなく、他国と同様に交易を開始すべきであると論じたあとで、これまでのわが国の対応はロシアから見ていかなるものであったのかを述べている。

日本の国法に、善を尽くさざること多くあるを省みたまうべし。例えば難船に逢いて困迫せる漂流人の本国に帰ることを禁ずる法の如きこれなり。他の諸国にてはかくの如き遭厄の徒を見るときは、深くその情を察し、これを保護して、それぞれの扶助をなし、その本国に帰るべき処置をなすことなり。風波に逢ってロシア国の海岸に漂着せる日本人6名ありけるが、ロシア帝これを憐れみ、ロシア船に命じて去年下田港に送りたり。その際両国の処置相反するは如何ぞや。下田の県令これを受け取ることを欲せず、威劫(いきょう)してその船を速やかに出帆せしめんとせり。漂民は、せめて本国の地にて死に就かんと船将に請いけるゆえ、上陸させたれば、彼らその所にて囚に就くかまた刑を受くるを待つの体なりき

また異国の船を種々の国法に準じ非道の取扱いをなし、甚だしきは、近年までは日本海岸に到ることを許さず。もしたまたま到れば、再び来たることを禁ずるの法律は、正理というべからず。開けたる他の諸国にては、すべて正理にもとづき、破船せるものあれば、破損を修繕すべき諸物を与え、その徒を愛敬して、しかるべき扶助をなし、これによりて愛敬をその本国に示すことなり。船の来たることいよいよ多ければ、文物いよいよ備わり、もって富を致すべく、国威もまた従って盛んなり。産物を交易すれば、互いに有用の諸物を得、人民富饒にして生営も十分なるを得るなり。平日交わりを結び、かつ異国に使節を差し遣わしおけば、争端自ずから開けず、互いに親睦なることを得るなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223894/270

プチャーチン
【プチャーチン】

ロシア使節はこう論じて、わが国が開国し、他国と交易することで豊かになり、他国との親睦を深めることが可能となる。今までのように鎖国を続けていても利益はないと説いたのである。

ロシアとわが国との交渉は結局まとまらなかったのだが、将来もしわが国が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与えることについて合意して、プチャーチンは嘉永七年一月八日にマニラに向かっている。

そしてその八日後の一月一六日に、今度はペリーが琉球を経由して再び浦賀に現れたのである。前回の来航時に幕府は将軍の病気を理由に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは一年後の再来航を告げて嘉永六年六月十日に江戸を去ったのだが、それからまだ七か月しか経っていなかった

ペリー
ペリー

Wikipediaには「ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えた」とあるが、『ペルリ提督 日本遠征記 ㈢』には、
「ロシアの海軍大将プチャーチンは、他の戦艦三艘を率いて上海にあった。長崎から到着したばかりだったのである。ペルリ提督は、ロシア人は日本に引き返して、結局江戸に行こうとひそかに企てており、この企ては自分の活動を大いに妨げることになるだろうと懸念し、…あらゆる不便を冒して、真冬に日本への航海に乗り出そうと決心した」(岩波文庫『ペルリ提督 日本遠征記3』p.90-91)と記されている。
ペリーは、ロシアがアメリカよりも先に日本と交易を始めることを許すわけにはいかないとの思いから、九隻の艦隊を組んで江戸湾に集結したのだが、幕府は突然のペリーの来航にいかなる対応をしたのか。
この点については次回に記すことにしたい。

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【ご参考】
シーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草している。
ロシアに対してシーボルトは、穏便で平和的な交渉をするべきと主張しロシアはそれに随い、アメリカもわが国には軍事行動を起こさなかった。
わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとしたら、いったいどこの国のスパイだというのだろうか。

シーボルトについては、このブログで何度か書きました。読んでいただくとありがたいです。

シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html

シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html

シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html

押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html

江戸幕府がポルトガルと断交した後に海外貿易高は増加した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-392.html

シーボルトが記した「鎖国」の実態を知れば、オランダの利益の大きさがわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-393.html



ペリーの再来航と日米和親条約

ロシアのプチャーチンが長崎を去った八日後の安政元年一月十六日に、今度はペリーが再び浦賀に現れた。
ペリーは昨年六月に一年後の再来航を告げて江戸を去ったのだが、幕府にすれば、ペリーがこんなに早く来航することは想定していなかったはずだ

鳳凰丸
【鳳凰丸】

ところで幕府は、一年後にペリーが再来航することを前提に様々な準備をしていたようだ。
以前に記したように、老中阿部正弘は強硬な攘夷論者であった水戸齊昭を海防参与に据え、江戸湾警備を増強すべく品川沖に砲撃用の台場造営を命じ、水戸齊昭は江戸防備のために大砲74門を鋳造し弾薬と共に幕府に献上している。また大船建造の禁も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励し、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」の起工を行ったほか、オランダに艦船の発注も行っていた。
この程度の準備で「攘夷」が可能であったとはとても思えないのだが、幕府にすれば準備が整っていない段階でペリーが再来航したことになる。

徳富蘇峰は、『近世日本国民史. 第32』の中で、ペリーの『合衆国艦隊遠征記事』を引用して、彼の対日交渉方針についてこのように解説している。

「ペリー提督はロシア使節プチャーチンに比すれば、その覚悟もその態度も、すこぶる趣を異にした。露使は日本従来の法度に準拠して、言論の上にて、日本人を説伏するにあった。ペリー提督は、当初から恫喝と威嚇とによりて、日本人を恐怖せしめ、万一の際には——これは当初からの希望ではなかったが——武力に訴えるも、敢えて辞せざる覚悟であった
『彼の目的は日本政府に向かって、その日本海岸に漂着した米人を虐待したることについて、その釈明を求めるにあった。而して合衆国政府は、今後断じてこれを容赦しないことを宣言するにあった。少なくとも米国船のために、一両港を開くべく努め、而して能うべくんば正義、公平の基礎において、条約を締結し、もし一般的なものが出来なかったならば、せめて通商貿易の事だけにても実行すべきものを締結するにあった。その成否如何は、当初よりすこぶる不定であった。されど提督は断固として、その威力を以てこれを貫徹せんと期した。…
ただ提督はもし日本政府が、彼と協議するを否み、もしくは合衆国の商人もしくは捕鯨船に、港を開くを肯ぜざる際には、日本領土の一なる琉球をば、合衆国の国旗の下に占領すべく準備した。』(『合衆国艦隊遠征記事』)
…この覚悟と決心とは、ことごとに暴露せられ、それが自然に日本当局もしくは一般にも感応せられたものであろう。…ペリー来航の目的は、平和であったが、その手段は必ずしも平和ではなかった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/38

ペリーは浦賀沖を通過して、金沢錨地に集結した。浦賀奉行は、艦隊の浦賀碇泊を交渉したのだが、ペリー艦隊はさらに湾内に進み、江戸市街を遠望できる羽田沖まで進んだという。慌てた幕府は、横浜で高官との会見を行うことに合意し、老中阿部正弘は大学頭林復斎、町奉行井戸覚弘らを応接委員に任命した。

ペリー提督横浜上陸
【ペリー提督横浜上陸】

第一回の会見が二月十日に行われ、幕府の応接委員はぬらりくらりと確答を与えず、将軍の代替わり等を理由にさらに返答を遅らせようとしたのだが、そんな手に乗るような相手ではなかった。
徳富蘇峰の前掲書の解説を続けよう。

合衆国提督口上書
【合衆国提督口上書】

「ペリー提督は委員らに向かって、日米の修好条約は支那と米国のそれの如くするを最も然るべしと言い、かつ曰く予は条約締結のために我が政府から派遣せられた。もし予にして成功せずんば、合衆国政府は、これを成功せしむべく、さらに多数の艦隊を派遣するであろう。されば予は万事友誼的に解決せんことを望む。さすれば予は現在の艦隊から二船を返して増発せしむるなからしむるよう取り計らうであろうと。かくて米清条約の写しの英文、漢文、オランダ文に認めたるものと、提督からの二通の書付、及び浦賀から応接委員長の与えたる書に答えたる一通とを手渡した。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/74

徳富蘇峰の前掲書にペリーが手渡した書類の全訳文が引用されているが、わが国の当局者は、ただ当面の延期一点張りで、このような条約を結ぶことの得失を考えるどころではなく、確たる方針も定まっていなかったようだ。

徳富蘇峰は当時の幕府の主要人物の考え方についてこう述べている。

水戸齊昭
【水戸齊昭】

「当時政府の至高顧問たる水戸齊昭の意見は如何。彼はなお打払いを主張したるか。否彼はもはやそれまでの決心はなかった。ただかつて彼に向かって筒井、川路らが嘉永六年六月ペリー来航の際、説きたる決答保留の意見に傾いていた。ただ即刻通信交易を許可することは大反対であった

思うに水戸一派は、あくまでも交易通信の二條反対を立て通し、是非ともその意見を貫徹する決心であったか。はた議論は議論として、自ずから天下志士の望みをつなぎつつ、已むをえざれば、幕吏の手にて、右の二條を允許(いんきょ:許可)するに一任するつもりであったか。…彼が通信交易に反対したるは、全くその本音に相違なきも、さりとていかなる手段をもてこれをきり留むべきかについては、全く成案はなかったようだ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/89

阿部正弘
【阿部正弘】

では老中阿部正弘の考えはどうであったのか。
「当時閣老中の閣老ともいうべき阿部正弘は、内交家にして、外交家ではない。彼は終始一貫したる定見はなく、むしろただ事なかれ主義にて、無事に時局を了したきが、その念願であったらしく思われた。ただその腹の底を打ち割ってみれば、少なくとも当初は、開港主義者ではなかった。おそらくはその意見においては、水戸齊昭と大同小異の程度であったろう。ただ彼は当局者として、最も責任の中枢に立ったため、その意見通りのことを実行戦とすれば、平和に妨げありとして努めて曖昧模糊の態度を持したる傾向があった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/91

この二人がこのような考えであれば、議論は平穏無事を願う方向に進んでいかざるを得ず、アメリカの圧力に屈して譲歩に向かっていくしかない。
城中では交易を許可しないとする意見が強かったのだが、二月十三日の二回目の談番で、応接委員はアメリカの要望に引きずられていったという。

ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子
【ペリーとオランダ語を介しての交渉の様子】

二月十七日の会見では長崎を交易の窓口とするペリー提督に対する返書が手渡されたのだが、この時の交渉の様子を徳富蘇峰はこう記している。

提督は長崎以外に、松前及び琉球の開港を促し、即時でなければ六十日以内に開港すべしと主張した。日本委員は長崎は外人のために開いたる場所にて、その住民も役人も、対外の事情に通じている。かつ仮に合衆国のために、他港を開くとしても、長崎同様の準備をするには、今後5年の歳月を要すとて、固く執(と)って下らなかった。
提督は長崎が開港場というよりもむしろ外人のために、特殊の用途に当てられたる事実を挙げ、その住民及び役人は、久しき間、オランダ人の卑屈に慣れ、これを当たり前のこととしているから、アメリカ人と接触するにおいては、不慮の事を来たすの虞(おそれ)あるを語り、さらに従来日本人が外国人に加えたる圧制的の法律は、わが米国人の耐えるところにあらざるを説き、自分は決して長崎を一の開港場と認めない所以を切言した。而して提督は米国のために新たに五港を開かんことを要望し、まず、差し当たり、本土の浦賀か、鹿児島の内一港と、蝦夷の松前と、琉球の那覇の三港を開かんことを提議した
かくておいおいと押し問答をなし、提督は極力長崎を拒絶し、日本委員はまた浦賀に反対し、その代わりに下田港を正式に提出するに至った。而して日本委員は琉球は日本の外藩であるから、何ら商議に及び難い、松前もまた大名の所領にて同一関係であると反対した。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/111

こんな具合に、日本委員が反論するたびにペリーの要求は次第に大きくなり、結局日本委員はペリーの要求のいくつかを飲まざるを得なくなるという状況に引きずり込まれていくのである。
かくして、下田と箱館の2港の開港が決定したのだが、もし日本委員の中に、ロシアとの交渉で一歩も引かなかった川路聖謨(としあきら)がいたとしても、恫喝・威嚇を繰り返すペリー相手では、結果はそれほど変わらなかったかもしれない。

安政元年(1854)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図
【安政元年ペリー提督黒船陸戦隊調練の図】

徳富蘇峰は日米の会見についてこう解説している。
彼(ペリー)は戦争をも辞せずと言い、我(幕府)は戦争はご免を被ると言う。その双方の意気込みは、当初から全くかくの如く相違していた。従ってその談判が、ことごとに彼の意見を通さねばならぬ始末となったのは、決して怪しむべきではない。むしろ穏便を主としつつ、なお幾分にても、此方の申し分を保留せしめたことを多とせねばなるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/136

日米和親条約
日米和親条約

次のURLに、三月三日に江戸幕府とアメリカ合衆国が調印した日米和親条約(神奈川条約)の原文のテキストと口語訳が出ている。
原文  www.ndl.go.jp/modern/img_t/002/002-003tx.html
口語訳 http://www.tomoland.net/nagamimi/nagamimi/treaties-perry.html

内容は大雑把なものではあるが、幕府がこれまでの鎖国制度を打ち破ったことには相違なく、わが国はアメリカと和親条約を結んだことでロシアとも同様の条約を結ばざるを得なくなり、いずれ英仏その他の列強とも門戸を開放することになることは当然のことである。

この時期に列強と結んだ条約が明治になってから問題となるのだが、日米和親条約に関して言うと、領事裁判権に関する条項は存在しない。ただ、片務的最恵国待遇に関する定めが第9条にさりげなく記されているだけだ。

「第9条:日本政府、外国人え、当節亜墨利加人え不差免候廉相免し候節は、亜墨利加人えも同様差免し可申、右に付談判猶予不致候事。
(将来、日本が米国以外の外国に対し、米国に対して認めていない権利、利益を認めた場合、交渉を経ず、直ちに米国にもこれを認めるものとする。)」

わが国にとっては最初に外国と締結した条約なので幕府もあまり深く考えなかったのだろうが、この条項を各国と結ぶ条約に入れたために、後に明治政府は条約改正で大変な苦労をすることとなるのである。

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【ご参考】
この時期に欧米列強と締結した条約は明治時代に様々な問題を引き起こしました。教科書などではあまり詳しく触れられていませんが、明治期に書かれた記録などを読むと、不平等条約問題で世論が沸騰した背景がよくわかります。

英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-303.html

英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-304.html

条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-305.html

陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-306.html


吉田松陰はペリーを暗殺するためにポーハタン号に乗り込んだのか

嘉永七年(1854)三月二十七日ペリーの二度目の来航の際に、吉田松陰と金子重之輔が海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗り込もうとした事件があった。二人は、渡航を拒否されたために下田奉行所に自首し伝馬町牢屋式に投獄され、死罪は免れたものの松陰は長州へ檻送されたのちに野山獄に幽囚されたのだが、松陰がペリーのいるポーハタン号に向かった目的は何であったのか。アメリカに留学しようとしたというのが通説になっているのだが、実は松陰はペリーの暗殺を狙っていたという説が存在するのが気になっていた。

松陰と重之輔

この事件については、米国側や日本官憲側の記録のほか松陰自身の記録が残されている。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第32』にこの事件についてそれぞれの記録が引用されているので紹介したい。

米国側の『合衆国艦隊遠征記事』によると、
「彼 (松陰) らが甲板に上るや、士官はその旨を提督(ぺリー)に通じた。提督は通訳を遣わし、その不時の入来が何故であるかを尋ねしめた。彼らは正直に、何卒(なにとぞ)合衆国に伴い行かれたし。さすれば遠遊の志を達し、世界を大観することができるであろうとの旨を答えた。…
提督は彼らの来意を聞き、而してのち、自分も日本人を米国に同行するは、固より欲するところであるが、残念ながら君らをこのまま乗艦せしむることは出来ないと告げしめた。提督は日本政府の許可さえあれば彼らを伴うことは拒まない。而して艦隊も当分下田に碇泊すれば、彼らは十分にその許可を得る機会があろうと言わしめた。

彼らは提督の答えに、甚だ当惑した。彼らもし再び陸上に還らば、必ずその首を断たれることを告げ、熱心に留艦を許されんことを懇請した。この祈願は強くしかも懇ろに拒絶せられた (The prayer was firmly but kindly refused) 。彼らと通訳との談判はなお久しきに渉った。彼らはあらん限りの議論を尽くしてその志を達せんと努め、米国人の人道心に訴えた。端艇は下ろされた。彼らはその送去に際して、些か穏やかなる抵抗を試みたるのち、その不幸の運命を悲しみつつ蕭然(しょうぜん)として舷(ふなばた)を下った。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/149

吉田松陰
吉田松陰

この文章を素直に読めば、松陰は勉学のためにアメリカに渡ろうとしたことになるのだが、殺意をもって乗り込んだとしても、まずは米兵に疑われないように振舞って、船の中に留まることを認めてもらうように努力することは当然のことである。艦内に留まることが許されれば、直接ペリーと話ができるチャンスがいつか到来することが期待できるからである。

しかしながらペリーは二人が船に留まることを認めなかった。その理由は、吉田松陰がおそらく想定していなかったと思われる理由によるものであった。

徳富蘇峰の前掲書にはこう記されている。

「…提督が彼らを拒絶したるはこのぼんやりとしたる人道よりも、なお他に考慮するところがあったからだ。日本人の脱走を見逃すのは、日本帝国の法律に背くものだ。今や日本をば嫌々ながら重要なる譲歩をなさしめ、条約を締結したからには、そのうえは出来うるだけ日本の制度に適合するをもって、米国の政策とせねばならぬ。日本の国法は死刑のもとに、その臣民の外国に去るを厳禁している。たとい米国人には無罪と映ずるも、日本の国法の眼から視れば、外国船に逃れ来った者は、立派な犯罪者だ。
かつまた彼らの語りたるところは、別段疑うべき節はなかったが、しかも彼らが公言したる以外の卑俗なる動機から動かされて来たものであるやも料(はか)られない。あるいは彼らが米国人の面目(信義)を試みるための策略であるかもしれない。あるいはかく信じたる者もあった。
兎にも角にも提督は、彼らを厳罰より宥むるべく、これがほんの一些事であるという彼の心持を、あくまで日本官憲に合点せしむべく、細かに気を配った。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/151

ペリー

ペリーは、わが国に圧力をかけて条約を締結した以上は、わが国の法律を尊重すべきであり、国法を犯した者を匿って日本側を刺激するべきではないと考え、また彼らの渡米の動機は純粋に向学のためかもしれないが、別の動機があって接近してきた可能性も否定できない。確かにペリーにすれば、二人の乗船を拒否することが無難な選択であったと思われる。

次に『浦賀奉行支配組頭上申書』を紹介しよう。松陰らが米艦に乗船しようとした動機については、こう記されている。
「…亜(アメリカ)船浦賀へ渡来、不穏につき、異国の状態審(つまび)らかに弁(わきま)え候こと、国家の急務と存じ付き、異船へ乗り組み、五大州研究の外はあるべからず。しかしながら御大禁の儀につき、身を捨て、策を行うにしかじと決心し、ひそかに異船乗組み、地球実験のうえ、皇国の御為に致すべしと覚悟を極め、師範修理へもはかり候おりから、魯西亜(ロシア)船四艘、長崎表へ渡来につき、魯人へ頼み、ひそかに乗り組み、異国へ渡るべしと、去る丑年九月中一人にて長崎表に到り、種々周旋候えども、宿意を遂げず、むなしく江戸へ帰り、…この度亜米利加(アメリカ)船渡来につき、宿意を遂げたく、…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/154

このように、プチャーチンの来航の時も同様の目的で長崎に行き、軍艦に乗り込もうとしたが果たせず、江戸に帰ったら今度はペリーが渡来したので、今度こそは目的を果たそうと考えたことが書かれている。
そして、ペリーから乗船を断られた理由については、
「その方の願意、使節においても歓(よろこ)ばしく、尤(もっと)もには存じ候えども、横浜に於いて日本の天下と、亜米利加の天下と、事の約定もこれあり、追っては互いに通路ひらくる上は格別、この節内々に連れがたし。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223901/155
と記されている。

これらの資料を素直に読めば松陰は留学のために渡米しようとしたことになるのだが、松陰がペリーを討ち取る意思を持っていたことを示す手紙が残されているので紹介したい。

宮部鼎蔵
【宮部鼎蔵】

『国立国会図書館デジタルコレクション』で『吉田松陰全集第5巻』に嘉永六年(1853)六月十六日付けで同志の宮部鼎蔵宛てに記した手紙の一節が収録されている。
ペリーの第一回目の来航ののち、米艦隊が江戸を離れた四日目に記されたこの手紙は漢文で書かれていて読みづらいのだが、最後の文章はペリー暗殺を宣言したとしか読めない。

「唯所待春秋冬間又来(ル)ヨシ。此時コソ一当ニテ日本刀ノ切レ味見セ度(タキ)モノナリ。此度ノ事列藩ノ士及策士論者決打払者十ニ七八噫惜哉(聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるという。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものである。この度のことで、ペリーを打払うべきだとする者は、七八割はいた。)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051547/98

久坂玄瑞
【久坂玄瑞】

また文春新書の『ひとすじの蛍火—吉田松陰 人とことば』に、安政三年(1856)夏に愛弟子の久坂玄瑞に送った手紙の内容の一部が紹介されている。

嘉永六年秋、熊本で再開した宮部は『なぜペリーが浦賀にいたときに斬らなかった』となじる。僕が『君こそロシアのプチャーチンを斬らなかったではないか』と反論すると、『彼は斬る必要はない』と譲らない。二人とも江戸にいた翌安政元年、ペリーが再来航した。宮部と僕の二人は憤慨してこの米国人を斬ろうと…」(『ひとすじの蛍火—吉田松陰 人とことば』p.158-159)
できれば全文が読みたいと思って吉田松陰全集の索引を調べてみたが、残念ながら全集にはこの手紙が収録されていないようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155664/485

投夷書
【投夷書】

吉田松陰自身が記した文章もいくつか残されている。
『吉田松陰全集 第10巻』に、米艦に乗り込もうとした際にその趣旨を記した『投夷書』が収録されている。ここには、渡航を志した理由についてこう記されている。

日本国江戸府の書生瓜中(くわのうち)萬二・市木公太、書を貴大臣各商館の執事に呈す。…支那の書を読むに及んで、稍欧羅巴(ヨーロッパ)、米利幹(メリケン:米国)の風教を聞知し、乃ち五大洲を周遊せんと欲す。然り而して吾が国は海禁甚だ厳しく、外国の人の内地に入ると、内地人の外に到ると、皆ゆるさざるの典あり。ここを以て周遊の念勃々然として心胸の間に往来し…幸いにして今貴国の大軍艦…吾が港口に泊し、日たる已に久し。…今即ち断然策を決し、将に深密に請託して貴船中に仮坐し、海外に潜出して以て五大洲を周遊せんとす。また国禁をも顧みざるなり。願わくは執事かたじけなくも鄙衷を察して、この事成れるを得しめられよ。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048683/241

このように二人とも本名ではなく偽名を用いているのだが、純粋に向学のために渡米を望んでいた人物が、米艦に乗船することを懇願する文章で偽名を使うことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。
通説では、この『投夷書』で書かれているような動機で渡米しようとしたとされるのだが、松陰が偽名を使って記したこの文章の内容を、そのまま鵜呑みにして良いのだろうか。

また吉田松陰は乗艦に失敗した三月二七日について、かなり詳しい記録(『三月二七夜記』)を残している。この文章も『国立国会図書館デジタルコレクション』で誰でも読むことができる。

通訳 ウィリアムズ
【通訳 ウィリアムズ】

松陰と金子は放置してあった小さな漁船に乗り、旗艦ポーハタン号に接近していく。米兵は棒で松陰たちの小舟を突き離そうとし、松陰たちはたまらずにタラップに飛び移ったという。小舟には腰刀や文書などが残されていたのだが、小舟は大きく揺れて、刀や文書などを持っていく余裕はなかったと思われる。
二人は五~六名の米兵に囲まれ、しばらくすると通訳のウィリアムズが出てきたという。松陰らが直接交渉した相手はウィリアムズでペリーは二人の前には現れなかったようだ。

ポーハタン号
【ポーハタン号】

松陰が、この交渉がうまくいかなかった理由について述べているところを引用したい。文中の「渋木」とは金子重之輔の変名であり、櫓杭(ろぐい)とは、船尾の櫓床(ろどこ)につける小突起で、櫓の入れ子をはめて、櫓を漕ぐときの支点とするものである。

「…夷船に乗り移る際少しく狼狽す。故に我が舟を失う。もし舟を失わず、また要具を携え舶に登らば、後に心がかりなく、舶中に強いてとどまることを得、我が文書等を夷人に示し、また舶中の様子を見んことを求め、海外の風聞などを尋ぬる間に夜は明くべし。夜明けば白昼には帰り難しと言いて一日留まらば、その中には必ず熟談も出来、計自ら遂ぐべし。たとい事遂げずとも、夜に至り陸に返り急に去らば、かかる禍敗(かはい:思いがけない失敗)には至らぬなり。そのことの破れのもとを尋ぬれば櫓杭なきばかりにてかくなりゆけり。…
渋木生甚だ刀を舟中に遺せしを大恥大憾とす。然れども敗軍の時は何も心底に任せぬものなり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048683/239

櫓杭

このように、金子重之輔の腰刀と、文書などを携えて乗船していれば、計画を遂げることができたと述べ、もしそのまま追い返されたとしても(文書を携えて)陸に戻れば、このような失敗には至らなかったと述べている点は重要である

二人は米艦が用意した船に乗せられて上陸したのだが、
「上陸せし所は巌石茂樹の中なり。夜は暗し。道は知れず、大いに困迫する間に夜は明けぬ。海岸を見廻れども我が舟みえず。因って相謀りて曰く。『事已にここに至る、奈何ともすべからず、うろつく間に縛せられては見苦し』とて、直ちに柿崎村の名主へ往きて事を告ぐ。遂に下田番所に往き、吏に対し囚奴となる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1048683/239

失敗しても陸に戻れば罪に問われることはないと踏んでいたのだが、舟を失ってしまって中に残していた文書などが見当たらない。もしこれらの書類が先に奉行所に渡っていたことを考えて、「うろつく間に縛せられては見苦し」と判断して自首したのであるから、当時のわが国では重要な犯罪の証拠となるような書類などが含まれていたことは間違いないだろう。もともと2人は死を覚悟していたにせよ、早く手を打たないと他の仲間を事件に巻き込むことになるという場合は、早く自首をして2人だけの責任でやったと言い張るしかない。

川口雅昭

人間環境大学教授の川口雅昭氏は、吉田松陰はペリー刺殺のために近づいたのだが失敗し、佐久間象山・横井小楠・梅田雲浜・宮部鼎蔵といった関係者に累が及ばないようにウソをついたという説を唱えられているのだが、その仮説はそれなりに説得力があり、ほかにもそれを裏付ける証拠があるようである。

森田節斎
【森田節斎】

川口氏の論文にはこう解説されている。
肥後勤皇党の中村敬太郎直方が、文久年間に蟄居させられた永鳥三平の処分解除を求める『建議』の中で『吉田寅次郎(松陰)はペリーを一刺しにせんと船に乗り込みました』とはっきり書いています。また松陰の先生でもあった森田節斎*は、下田事件の真相、つまり松陰がアメリカの大将を刺しに行ったことを同志に伝えよと書いた手紙を弟葆庵(ほあん)に送っている。僧月性(げっしょう)や宇都宮黙霖(もくりん)も、松陰の真意を知っていたことをうかがわせる文章を残しています。」(『歴史通』2010年5月号p.208『松陰が謀ったのは「ペリー暗殺」』)
*森田節斎:幕末・明治の儒者・志士。大和五条生。上京し猪飼敬所・頼山陽に学び、江戸の昌平黌に入り、のち京都に塾を開き、吉田松陰・乾十郎ら尊攘派志士を輩出した。

できれば中村敬太郎の『建議』や森田節斎らの手紙の全文を読みたいところだが、これだけ通説と矛盾する資料が存在するのならば、通説が誤っていることを考えることも必要だと思う。
公式の記録や本人やその仲間が記した内容が常に真実であるとは限らず、自分の家族や仲間を守るために、組織を守るために真実が歪められて記録されたり、敢えて記録されないことがありうることは、いつの時代もどこの国でも言えることである。
          
嘉永六年の最初のペリー来航時に、松陰が次のペリー来航時にペリーの命を奪う決意をしたことは確かなようだが、松陰が途中で考え方を改めたかも知れず、嘉永七年三月に金子重之輔とポーハタン号に乗り込む際にペリーを暗殺する意思があったと断言することはできない。
とは言いながら、もし松陰らがペリーを暗殺していたとしたら、わが国とアメリカとの軍事衝突は避けられなかったであろうし、その後のわが国の歴史は大きく変わっていた可能性を感じる。

辛未洋擾
【辛未洋擾】

お隣の朝鮮半島では鎖国攘夷政策が続き、1866年に李氏朝鮮との通商をもとめて来航した米商船ジェネラル・シャーマン号が砲撃にされたのち焼き討ちされ、乗組員全員が虐殺される事件が起きた。(ジェネラル・シャーマン号事件)
アメリカはこの事件の謝罪と通商を求めてアジア艦隊に朝鮮派遣を命じ、1871年に極東艦隊司令長官ロジャースは5隻の軍艦を率いて江華島に現われ、抵抗する朝鮮軍を砲撃したのち海兵隊を上陸させて草芝鎮、徳津鎮、広城鎮を2日間で制圧し、朝鮮軍は240名以上の戦死者を出した(辛未洋擾:しんみようじょう)ことを知るべきである。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情
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薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
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薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
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幕末の孝明天皇暗殺説を追う
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html

幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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