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鳥取の紅葉名所・智頭町の諏訪神社と鳥取東照宮の神仏分離

毎年紅葉の季節になると、古い寺や神社を巡りたくなる。あまり有名すぎる観光地は人が多すぎて風情を感じることが少ないので避けて、なるべく古いものがそのまま残されていそうな場所を選んで旅程を立てるのだが、今年は鳥取県から日本海に向かうことにした。

最初の目的地は、鳥取県南東部にある八頭郡智頭(ちず)町。この辺りは山陰と山陽をつなぐ交通の要衝の地で、律令制下ではこの智頭には道俣駅(みちまたのうまや)が設置され、江戸時代には参勤交代の道筋にあるこの町に鳥取藩主池田公の宿泊地として本陣が置かれると、商人や旅人の宿場町(智頭宿)として非常に栄えたという。あまり繁盛したので、弘化元年(1844)には小売商人の逗留を禁止したとも伝えられている。

智頭町観光マップ

駐車場は智頭小学校(智頭町智頭320 ☏0858-75-0044)の向かいと、智頭宿特産村(智頭町智頭743)に観光客が利用できるスペースがある。

諏訪神社 鳥居

智頭町の面積の93%を山林が占めていて、この町の紅葉の名所として知られているのが諏訪神社
社伝によると弘安元年(1278)に信濃国諏訪大明神を勧請したといい、軍神・農業守護神・鎮火の神として篤く信仰され、江戸時代は藩主池田家の勅願所であった。

諏訪神社 紅葉

今年の色づきはあまりよくないのだそうだが、それでも境内の紅葉は鮮やかで見応えがあった。

諏訪神社 拝殿

上の画像は諏訪神社の拝殿でこの建物は明治37年(1904)に再建されたものである。この奥に、天保3年(1832)に再建された本殿がある。
この神社で、信州の諏訪大社の御柱祭りに倣った「柱祭り」が6年ごとの申年と寅年の4月に行われ、4本の杉が伐りだされ、町内を練り歩いたのちに宮入りして本殿の四隅に建てられるのだそうだ。
次のYouTubeで7年前の「柱祭り」で4本目の杉の木が建てられるところが記録されているが、こういう伝統行事を一度この目で見たいものである。
https://www.youtube.com/watch?v=qYMUdeb9iuc

諏訪神社から旧街道に戻ると、すぐ近くに石谷家住宅がある。

石谷家住宅 門

石谷家は古くから屋号を「塩屋」と称し、元禄時代の初め(1691)に鳥取城下から移り住み、明和9年(1772)以降は大庄屋としてこの地域の行政に携わってきたという。文政5年(1822)以降大庄屋を分家や国米家に譲り、地主経営や宿場問屋を営むようになり、明治以降は商業資本家としても町の発展に貢献してきた家だそうだ。

石谷伝四郎
【石谷伝四郎】

明治30年代に当主の石谷伝四郎が山林経営と農民金融を発展させたのち政治家としても勇躍し、大正8年(1919)以降、江戸時代の庄屋建築であったこの住宅の改築造営に着手したのだが、主屋が完成したのは伝四郎の死後の昭和3年(1928)だという。

個人の家とはいえ敷地面積が約三千坪もあるこの住宅は、平成21年(2009)に国の重要文化財に指定され、庭園も平成20年(2008)に国登録名勝に指定されている。

石谷家住宅 内部

主屋の入り口をくぐると、高さが14mもある広大な吹き抜けの空間が現れる。梁組には松の巨木が用いられていて豪壮な雰囲気が醸し出されている。土間を一段上がると囲炉裏の間がある。

石谷家住宅 新建座敷

上の画像は昭和になって改築された新建座敷だが、この屋敷のどの部屋も細部に至るまで丁寧に造りこまれている。

石谷家住宅 座敷から庭園を眺める

江戸座敷から見た庭園を撮った画像だが、個人宅でこんなに立派な庭園は滅多にお目にかかれない。

石谷家住宅 庭園

庭園だけで広さは約400坪もあり、池泉庭園の中央に流れる滝の方向に紅葉の美しい諏訪神社の社殿がある。

石谷家 薬医門

池泉庭園の奥には芝生庭園もあり、その奥には簡素な表門と対照的に立派な薬医門がある。

石谷家住宅 庭園と屋敷

この画像は庭から主屋を写した画像だが、寺院建築のような大きな瓦屋根に驚いてしまった。またこの主屋の2階には神殿があり、一部屋に拝殿が設けられている。

旧塩谷出店

この石谷家周辺には結構古い建物が残されている。手前は石谷家の分家として明治30年ごろに建てられた旧塩屋出店(国登録有形文化財)でその奥は米原邸(非公開)。塩屋出店の中庭には洋館の西河克己映画記念館があるが、この建物も国登録有形文化財に指定されているという。

下町公民館

上の画像は下町公民館で大正期に建てられたものだが、この建物も国登録文化財だ。
中央にぶら下がっているのは杉玉で、他の地域では日本酒の造り酒屋の軒先に吊るされて新酒ができたことを知らせる役割に用いられるのだが、智頭町では家々の軒先や公民館のような場所にも普通にぶら下がっているのが面白い。

その他智頭町には明治期や大正期の建物がいくつかあり、もう少し時間をかけてまわっても良かったのだが、諏訪酒造の酒を買って次の目的地の鳥取市に向かう。

鳥取市で昼食をとったのち、大雲院(鳥取市立川町4-24 ☏0857-22-5608)に向かう。
この寺は観光地としてはあまり知られていないのだが、この寺のことを調べていくと、驚くほど由緒ある寺なのである。

少しばかり寺の歴史を振り返ってみよう。
寺でいただいたリーフレットにはこう記されている。

池田光仲
【池田光仲公】

慶安3年(1650)鳥取藩主池田光仲公19歳の時、鳥取に東照宮を勧請しその祭礼を司る寺(別当寺)として当院を建立。当初は、乾向山東隆寺淳光院と称し、徳川将軍位牌安置所と藩主祈願所の役割を持っていた。
 寺領500石を有し内坊4カ寺を持つ大寺院として宗派を超えて、因州二州の頂点に立った寺であったが、神仏分離により、明治3年現在の地に移転、その後鳥取大震災によって、堂宇の崩壊より多数の仏像、古文書等が諸堂とともに失われました。

 さらに農地解放によって寺院収入の道を絶たれ、震災復興のため、境内地の縮小を余儀なくされ、現在では、仏像・仏具・将軍家位牌と仏画・古文書などに藩政時代の名残を止めています。」

少し補足しておくと、池田家は恒興、輝政時代に豊臣秀吉の重臣として活躍し、豊臣姓を賜るなど有力な豊臣系大名であったのだが、池田光仲は徳川家康の外曾孫に当たるということで改易は免れた。しかしながら、徳川家に忠節を示すと同時に藩主としての威厳を示す必要から、鳥取に家康を供養する東照宮を建立することを幕府に願い出て認められたという。
当時は神仏習合であり、この東照宮の祭祀を司り管理する別当寺として、鳥取東照宮のある樗谿(おうちだに)に大雲院が建立された経緯にあるのだが、この大雲院は藩内の最高の格式を誇る大寺院として、鳥取の観音院、覚寺の摩尼寺、三朝の三仏寺、倉吉の長谷寺などの古刹もこの寺の末寺とされていたのだそうだ。

『鳥取城下町大絵図』の東照宮と大雲院

では、大雲院は樗谿のどのあたりに建っていたのであろうか。
元禄年間に制作された『鳥取城下町大絵図』や『因幡民談記』には東照宮のすぐ近くに大雲院が描かれており、次のURLにその画像が紹介されている。上の画像は『鳥取城下町大絵図』と現在の樗谿公園の地図を対比させたものだが、樗谿公園内の梅鯉庵のある緑地一帯が昔の大雲院の境内であったことがわかる。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-1357.html

ところが明治元年(1868)の神仏分離令により樗谿にあった仏教施設の廃止と僧侶の還俗が命じられ、明治3年(1870)に大雲院は現在地(鳥取市立川町4-24)にあった末寺・霊光院に仏具等一式を引き継がれることとなり、現在に至っている。

大雲院 本堂

上の画像が大雲院本堂(かつての霊光院本堂)で、拝観をお願いして内部を案内していただいたのだが、立派な仏像ばかりが40尊近く並べられているのに驚いてしまった。
正面の阿弥陀如来像、脇侍の観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊像はもともと霊光院にあったもので、その三方を囲うように西国三十三所観音像が安置され、また樗谿にあった大雲院の本尊である千手観音像も他の仏像と同様に並べて安置されていた。
内部撮影禁止であったので読者の皆さんに紹介できないのは残念だが、仏像ファンには是非訪れてほしいと思う寺である。次のURLに阿弥陀三尊像と一部の仏像の画像がアップされている。
http://asaxlablog.blog.fc2.com/blog-entry-978.html

大雲院 元三太師堂

本堂の左横に元三大師堂があり、樗谿の地にあった鳥取東照宮別当寺・大雲院のものを移築した唯一の建物とのことである。この大師堂には東照宮別当寺名残の仏像二十数体のほか、徳川将軍家の位牌や藩主家歴代の位牌などが安置されている。

徳川家康
【東照宮御神影(大雲院蔵)】

寺宝として伏見天皇宸筆『紙本金地法華経』巻二・巻四(国重文)や『東照宮御神影』ほか、東照宮別当寺として授受した古文書を所蔵するが、多くは博物館などに寄託されているようだ。

鳥取東照宮鳥居

大雲院の拝観を済ませたのち、樗谿公園の鳥取東照宮に向かう。大雲院からは車で5分程度で到着する。

鳥取東照宮 1

上の画像は随神門と呼ばれているが、昔はおそらく左右に仁王像がある仁王門であったと思われる。

鳥取東照宮 拝殿

随神門をくぐると石畳の参道が続き、その両脇には勧請当初に鳥取藩の重臣たちが献納した20基の石灯篭が等間隔に並んでいる。
参道を進むと拝殿・幣殿があり、さらに唐門、本殿がある。これらはいずれも国の重要文化財に指定されている。

鳥取東照宮 唐門 本殿

上の画像は唐門と本殿だが、他地域の東照宮のように以前は鮮やかな彩色が施され、壁面には絵が描かれていたのではないかと思いながら、よくよく見ると彩色されたあとをわずかに確認できるところがある。

いままでいくつかの『東照宮』を観光してこのブログでレポートさせていただいたが、Wikipediaの『東照宮』の解説によると、江戸時代に東照宮は全国で500以上造られたのだそうだ。しかしながら「明治維新以後の廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる」という。
鳥取東照宮に限らず、それぞれの地域で「東照宮」を残すことに地域の人々の大変な苦労があったと思うのだが、明治以降そのような記録を活字にすることが憚られてきたのか、今日ではほとんどお目にかかることがない。

鳥取東照宮の歴史を調べていくと、江戸時代の創建時以降は『因幡東照宮』と称されていたのだが、明治7年(1874)から『樗谿神社(おうちだにじんじゃ) 』という名前に変わっている。『鳥取東照宮』と呼ぶようになったのは平成23年(2011)というから、名前が変わってからまだ6年しか経っていないのだ。鳥居に懸かる「東照宮」と書かれた扁額が新しいのはそのためである。
因幡東照宮が樗谿神社に改称された経緯について詳しく書かれた記録を探してみたのだが、ネットでは短い文章しか見つけることができなかった。わずか2行だけだが、明治36年(1903)に出版された『因幡国史談』にはこう記されている。

「明治のはじめ、本社のほか付属の寺院みな廃止せられしか。同7年本県士族等相謀りて旧藩祖池田忠継・忠雄・光仲三卿神霊を合祀し、社号を今名に改め県社に列せしめた…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766079/19

徳川幕府が崩壊したのち徳川家康を祭神とする東照宮などは不要と明治政府は考えたのだろうが、鳥取藩の士族たちは池田忠継・忠雄・光仲三卿神霊を合祀し「東照宮」の名を「樗谿神社」に変えることで、なんとかこの歴史的建造物を残そうとしたのであろう。短い文章ではあるが、「本県士族等相謀りて」という表現に、明治政府に抵抗した旧士族達の努力を読み取ることができる。

さらに鳥取市教育委員会の佐々木孝文氏の論文を読むと『鳥取県史料』四、明治七年四月一日条にこう書かれているという。
「旧藩祖ノ三霊ヲ県社長田神社ニ附属セシ東照宮ニ合祀シ、更ニ樗谿神社ト称シ、県社ニ列ス。……然ルニ、鳥取上町ノ内、樗谿ニアル旧藩所祭ノ東照宮ハ、即今、県社長田神社ニ附属シ、祭主・氏子モ無之、追年替廃ニ至ン。茲ニ三霊ヲ合祀シ、樗谿神社ト改称シ、自今、氏神同様永ク祭奠ヲ執行セン
https://note.mu/mastert/n/n993e91266794

当時の東照宮は近くの永田神社に付属する神社となっていて、神主も氏子もおらず、荒廃する一方であったようだ。神仏分離が強行される前は、この東照宮で『権現祭』が毎年4月と9月に盛大に行われていたのだが、祭礼の行列は行われなくなっていたようである。

明治40年権現祭
【明治40年権現祭】

この『権現祭』は鳥取県で最大規模の祭りで沿道に数万の見物人であったそうなのだが、この祭りが、明治40年(1907)に皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)が鳥取を行啓された際に、その祭りが復活されたようだ。

その時の記録が、角金次郎『山陰道行啓録』に出ていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読むことができる。
鳥取にて権現祭と云へば、封建時代には因伯二州にて又無き盛典なりしとて、在りし昔を回想して感慨を催せる老人、物珍らしき若者打ちませて此の行列を見物せむと、其の沿道に押し寄ずる者幾万なるを知らす。頗る雑踏を極めたり。……其の列は約三丁に亘り器具万端流石大名仕事たるに恥ぢず頗ぶる壮観を極めたり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780760/91

これだけ盛り上がったのなら、昔のように祭りを復活させても良かったと思うのだが、その後大正期に断続的に開催された記録があるだけだという。

2017権現祭ポスター

しかしながら、ようやく平成12年(2000)になってこの祭りが再び復活されるようになった。上の画像は今年の権現祭のポスターである。

やまびこ館
【やまびこ館(鳥取市歴史博物館)】
鳥取は古いものを少なからず残していながら、古いものを活かして観光価値を高める努力が不足していたのではないだろうか。樗谿公園にあるやまびこ館(鳥取市歴史博物館)のような建物のデザインはモダンすぎて、歴史ある地域には似合わないと思うのは私ばかりではないだろう。もっと歴史的景観を守る努力をしていれば、観光地としての鳥取の魅力をもっとアピールできる可能性を感じる。

ようやく権現祭が復活し、古い伝統や文化財が脚光を浴びるようになったことは良いことだと思う。古いものは古いがゆえに尊く、古い建物や伝統を守り次の世代に承継していくことはその地域の観光価値を高めていくことに繋がるのである。
鳥取の権現祭りがこれからも末永く継続され、観光地としての鳥取市の知名度が上がっていくことを祈ってやまない。

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【ご参考】
各地の東照宮を訪れてこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

唐崎神社から日吉大社、日吉東照宮を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-344.html

古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-511.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-350.html

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-351.html

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html

紅葉し始めた日光の輪王寺と東照宮を歩く~~日光観光その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-353.html


陸軍に破壊された鳥取城の城跡から神話の舞台となった白兎海岸へ

前回記事で、明治時代の初めに因幡東照宮(現鳥取東照宮)の神仏分離が行われ、別当寺の大雲院が移転され、鳥取の最大の祭礼であった権現祭りが行われなくなったことを書いたが、鳥取の人々は、さらに地域の人々の誇りであった鳥取城をもこの時期に失うこととなる。
次の目的地は鳥取城跡だ。駐車場はあまり多くないのだが、運よく無料のお堀端路上駐車場が空いていたので利用した。

鳥取城は久松山城とも言われ、織田信長の中国攻めでは羽柴秀吉が兵糧攻めを行って攻略したことで有名な城だが、元和三年(1617)に池田光政が32万5千石の大封で入府したのち、大大名に相応しい規模に拡張され城下町も整備されたが、その後備前岡山藩に入っていた池田光仲と所領の交換が行われ、そのまま池田家が12代続いて明治維新を迎えている。

鳥取城石垣

日本名城100選」にも選ばれていて、非常に立派な城であったことは石垣を見ただけでわかるのだが、鳥取城はどういう経緯で破壊されてしまったのであろうか。

Wikipediaの『鳥取城』にはこう解説されている。
「城は、1873年(明治6年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管に属した。1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ、1877年(明治10年)より1879年(明治12年)にかけて中仕切門と扇御殿化粧の間を残して破却された。最後に取り壊されたのは、鳥取城を象徴する建物となっていた二の丸の御三階櫓だったという。唯一現存していた中仕切門も1975年(昭和50年)の台風によって倒壊したが同年に再建された。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定されている。」

鳥取城の二の丸古写真

少し補足すると、明治4年(1871)の廃藩置県後、明治政府は全国の城郭や陣屋・砲台など軍事利用可能な施設をいったん兵部省の所管として国有化し、その後軍事的に有用であるかどうかを判断して、明治6年(1873)の廃城令で今後陸軍が所管する城(「存城」)と大蔵省が所管する城(「廃城」)に分けられたのだが、「存城」といっても軍財産とすることを決めたにすぎず、文化的価値とは無関係で選ばれただけだ。鳥取城に関していうと、軍が不要と判断した門櫓や土塀の大部分は早い時期に撤去され、土蔵や御殿、三階櫓などの大型の建造物は、軍が利用していた間は残されていた。上の画像はその頃の鳥取城の写真である。

明治12年日本地図

その後明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再設置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅した。鳥取城が破壊されたのは、「鳥取県」が存在しなかった頃のことである。
以前このブログで明治12年(1879)の日本地図を紹介させていただいたが、この地図には富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が存在していない
これらの県は第二次府県統合の後で復活されたということになるのだが、いずれも地元民の再設置に向けての相当な努力がなければ、復活が実現できなかったことは容易に想像がつく。鳥取県再設置についてはいずれこのブログで書くこととして、話を先に進めよう。

では陸軍は、鳥取城をいつ破壊したのだろうか。
明治2年(1869)の版籍奉還によって従来の藩の知行高は 10分の1に削減され、さらに明治4年(1871)の廃藩置県以降、士族の収入がさらに削減されいったことから各地で不平士族たちが反乱を起こしている。鳥取県においても不穏な動きがあったようだが、明治10年(1877)に西南戦争が終結して不平士族の動きが沈静化していくと、陸軍の分遣隊を全国各地に置く意味がなくなっていった。
明治11年(1878)に鳥取分遣隊の撤収が決定し、12月に建造物処分を前提に兵営用の什器備品が搬出されたのち、建造物は解体撤去されてしまったようなのだが、この時の解体の経緯や入札結果を示す資料は乏しく、どういう経緯で解体されたかを明確に記している記録はネットでは見つからなかった。

いろいろ調べて分かったことだが、西南戦争終結後も鳥取には明治政府に反抗的な旧藩士がかなりいたことは確かで、明治政府が鳥取県を特に警戒していた記述が明治42年に出版された『西南記伝』に記されていて、昭和7年の『鳥取県郷土史』に引用されている。

「…詫間護郎は因州における政府反対派の領袖なり。かつて同志とともに弾薬を製造し、武技を鍛錬し、以て風雲の来るを待つや久し。十年の役(西南戦争)起こるに及び、詫間は機に乗じまさに為すところあらんとす。政府鳥取の形勢を看破し、前鳥取県令河田景與をして鳥取に赴き人心を鎮撫し、…官軍熊本城に連絡するに及び、詫間等計画を中止し、事無くて止みしといえども、十一年その党中より紀尾井坂事件(大久保公暗殺事件)*に與(く)みし、また、竹橋騒動(思案橋事件)**に與みするものを生じたるは、蓋し十年失敗の結果なりしなり。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/660
*紀尾井坂事件:明治11年5月14日、内務卿大久保利通が不平士族6名によって暗殺された事件。参加者の内1名は鳥取藩士であった。
**竹橋騒動:明治11年8月23日、陸軍近衛部隊259名が起こした武装反乱事件。大隈重信邸が攻撃目標とされた。中心メンバーに鳥取藩士がいた。


陸軍が鳥取城の建造物を破壊したのは、鳥取城が反政府分子に利用されることを怖れたという可能性はないだろうか。
鳥取県民の誇りとする城を奪い、県下最大の祭りを奪い、さらには県名をも奪った明治政府の施策は鳥取の反政府勢力を弱体化させる意図があった可能性を感じるのだが、逆に彼らを強く刺激する結果になったとは言えないか。
もしあと数年長く陸軍が鳥取に分遣隊を置いていたとしたら、国内の文化財保護の機運が高まっていた時期でもあったので、鳥取城が陸軍による破壊から免れることになったかもしれない。

鳥取城 中仕切門

せっかく来たので、二ノ丸跡だけでも見ていこうと鳥取城跡の散策を始める。上の画像は中仕切門。鳥取城に残る唯一の城門で、陸軍の破壊から免れたものの台風で倒壊し、昭和50(1975)年に復旧されたという。

鳥取城 石垣2

二ノ丸の三階櫓跡の石垣。山頂の天守が焼失した後は、三階櫓は鳥取城のシンボルだった。

鳥取城 菱櫓跡から天球丸跡の石垣を見る

次の画像は二ノ丸菱櫓跡から天球丸跡の石垣方向を写したもの。

もう少し上に登っても良かったのだが、時間がないので麓にある仁風閣(にふうかく)に向かう。
前回記事で明治40年(1907)に皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が鳥取を行啓された際に、権現祭りが復活したことを書いたが、この時に親王の御座所(宿舎)として、旧藩主家の侯爵池田仲博が建造し提供した建物がこの仁風閣である。
鳥取で初めて電灯がともり、電話が最初に設置されたのも仁風閣だというが、電気事業連合会のHPによると明治39年(1906)には電灯照明は全国で50万灯になったと書かれている。鳥取県は他の地方よりかなり近代化が遅れていたようだ。
http://www.fepc.or.jp/enterprise/rekishi/meiji/

仁風閣

仁風閣の建築設計は、赤坂離宮(迎賓館)などを手がけた宮廷建築家・片山東熊(とうくま)で、建築費は4万4千円であったと記録されているそうだ。ちなみに当時の鳥取市の年間予算は5万円だったという。

仁風閣 額

建物の命名は行啓に随行した海軍大将・東郷平八郎である。二階ホールに掲げられている『仁風閣』の書は東郷平八郎の揮毫によるものだ。

仁風閣 御座所と謁見所

この部屋は謁見の間。奥に見える部屋が御座所である。

仁風閣 2階ベランダ

二階のベランダはとても明るく、窓から見える庭は池泉回遊式の宝隆院庭園で、国の名勝に指定されている。

大国主命と白兎

仁風閣から白兎神社に向かう。駐車場は道の駅(神話の里白兎店:鳥取市白兎613 ☏0857-59-6700)を利用すれば良い。駐車場の入り口に大国主命の像が建てられている。

白兎海岸

道の駅から歩道橋を使って白兎海岸へ降りることができる。
『古事記』に記されている、因幡(いなば)の白兎(シロウサギ)の神話は日本人なら誰でも知っていると思うのだが、上の画像の島が淤岐島(おきのしま)*で、白兎は和邇(ワニ)*を騙してこの淤岐島から陸に渡ったのち、騙されたと知った和邇に襲われてしまい、皮を剥がされて泣いているところを大国主命に助けられたとされている。
*「淤岐島」「和邇」:『因幡國風土記逸文』では、「沖津島」「鰐」と表記されている。

子供の頃この話を聞いて、日本の海にワニがいるとは思えず奇異に感じた記憶があるが、山陰地方ではサメのことを「ワニ」と呼ぶのだそうだし、アイヌ語では「ワニ」はシャチを意味するのだという。

インドネシアの民話に、ウサギの代わりにネズミジカ*が出てきてワニの背中を飛び跳ねて海を渡る話があり、この民話では、ネズミジカはワニの背中を飛び越えて元の陸地に帰ると、最後にワニを馬鹿にして話が終わるのだそうだ。インドネシアは実際にワニが生息している国であり、この民話がわが国に伝わって因幡の白兎の神話に変化した可能性はかなり高いと思われる。
*ネズミジカ:ジャワマメジカという体長30~48cmの小さな鹿で、現地では『手乗りジカ』とも呼ばれる。
https://nihonsinwa.com/page/257.html

白兎神社樹叢

白兎海岸から白兎神社に向かう。
参道周辺の森は「白兎神社樹叢」と名付けられていて、学術的に重要なもののようだ。
案内板には「…この周囲には常緑のタブ、シイノキ、アカガシ、ヤブニッケイ、トベラ、モチノキ、カクレミノ、クロキなどの低木が多く育っています。
 これは北西方向の黒松が冬期の寒風を遮ったために生育したもので、日本海岸地方の原始林景を今に残している重要なものであるため、昭和12年国指定の天然記念物にされました。」

白兎神社 拝殿

上の画像は白兎神社の拝殿だが、この神社の創建の由緒についてはよくわかっていない。
『古事記』には因幡の白兎の話が記されてはいるものの、延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に因幡国の神社50座42社の名前が挙げられている中に白兎神社の名前がない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E5%B9%A1%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7

白兎神社保存の寛文9年(1669)の棟札に、「慶長年間(1596~1615年)に鹿野城主、亀井茲矩公が再興された」と記されているようだが、それより以前の記録は存在しないようだ。
神社に伝わる賽物には「延喜ノ時、式外ノ神社ニシテ頗る大社ナリシガ往古兵乱ニ逢ヒ詞廟衰廃シ跡形絶失」したとあるのだが、『延喜式神名帳』に名前がないのであれば、もし古い時代から存在したとしても決して大きな神社ではなかった可能性が高いと思う。

宿に向かう途中で湖山池に立ち寄る。「池」と名付けられていても周囲は16kmもあり、地形的には「湖」である。水深は3m程度の所が多く、6つの島が浮かんでいて、最大の青島には縄文式土器や弥生式土器、勾玉などが出土したという。

この地域にこんな民話(『湖山長者』)が残されている。
「高草郡に赤坂の長者と呼ばれる大金持ちが住んでおり、村人全員で一日で長者の田んぼの田植えを行う習慣がありました。ある年、夕方になっても田植えが終わらず、残念に思った長者は、金の扇を招き、太陽に向かって『一時の間戻ってくれ。』と言いました。すると沈みかけていた太陽が再び昇り始め、一日の内に田植えを終える事ができました。ところが翌日、田んぼへ行くと、見渡す限り広い池になっており、人々は『太陽を招いた罪で田んぼを池に変えられた。』と噂するようになりました。その池が湖山池です。」
http://www.city.tottori.lg.jp/geopark/geospot/koyama.html
湖山池は、学術的には、千代川による砂の堆積作用や湖山砂丘の発達によってせき止められてできた潟湖なのだが、このような民話が残っているのは興味深いものがある。

湖山池

上の画像の右は青島の西側で、画像中央の小高い山の上に、防己尾(つづらお)城跡がある。
天正9年(1581)の羽柴秀吉の鳥取城攻撃に際し、秀吉は三津ヶ崎本陣山城に本陣を構えて防己尾城を攻めたのだが、この城に籠城していた吉岡将監らは変幻自在の戦法で秀吉の大軍を3度も撃破したと伝えられる。そこで秀吉は防己尾城を包囲して兵糧攻めに切り替え、糧食つきた吉岡一族は降伏して城を出てこの城は落城したという。

浦富海岸民宿の夕食

湖山池から宿泊先の浦富海岸に向かう。もちろんこの季節は解禁されたばかりの松葉ガニが目当てである。
有名な観光地なら民宿でも松葉ガニのフルコースは結構の宿代を覚悟しなければならないが、この日に泊まった浦富海岸の民宿は、設備面は古くて狭いことを割り引いても、食事の内容は1泊1万8千円にしてはすごいボリュームで、とてもおいしくいただけて大満足だった。
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【ご参考】
このブログで奈良県と宮崎県の再設置運動について記事を書いています。良かったら覗いてみてください。

「奈良県」が地図から消えた明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-90.html

「宮崎県」が存在しなかった、明治の頃のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-92.html

また、『日本百名城』についてこんな記事を書いてきました。

江戸幕末以降の危機を何度も乗り越えて、奇跡的に残された国宝・姫路城を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-451.html

「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-229.html

誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-467.html

日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-194.html

後醍醐天皇を支えた武将・楠木正成にまつわる南河内の史跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-527.html

日本百名城の一つである高取城址から壺阪寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-397.html

「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-337.html

津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html

日本百名城の一つである小諸城址から龍岡城跡、新海三社神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-401.html


鳥取砂丘から若桜町、『日本三大投入堂』の一つ不動院岩屋堂を訪ねて

鳥取旅行の2日目はあいにく雨になった。

浦富海岸

お世話になった宿にお礼を言ったのち、せっかく浦富海岸に来たのだから、海岸沿いの駐車場に車をとめて海岸の散歩に出ることにした。上の画像は浦富海岸の島の一つである「向島」である。
浦富海岸は約15kmも続くリアス式海岸で、海岸西部には海水等の侵食による花崗岩の断崖、奇岩、洞門が続き、海面上に大小の島や岩が散在していて『日本百景』にも選ばれている自然景勝地なのだが、さすがにこの雨では遊歩道を歩く人はいなかった。

荒砂神社

すぐ近くにある荒砂神社に立ち寄ってみた。
案内板を見て驚いたのだが、この神社の創建は白鳳期(7世紀後半)で、10世紀に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある『因幡国大神社』にあたるという。

天候が良ければこの日の最初に蒲生川の河口から出発する浦富海岸の島めぐり遊覧船に乗る予定であったのだが、雨が止みそうでないので予定を変更して、鳥取砂丘砂の美術館(鳥取市福部町湯山2083-17 ☏0857-20-2231)に向かう。

実は鳥取砂丘に来たのは3度目なのだが、この美術館を訪れたのは初めてである。
鳥取砂丘では平成18年(2006)から砂の彫刻展示イベントが開始され、第4期までは野外・仮設テントで行われていたのだそうだ。第5期の2012年の展示からは屋内での展示がメインとなり、現在は第10期でアメリカをテーマとする作品が展示されていて、翌年の1月3日まで展示がなさりたのち取り壊され、それから3か月半次のテーマの砂像の製作がなされて4月中旬には新しい作品が公開される予定だという。

砂の美術館 1

上の画像は展示室の入り口付近にある、アメリカの映画産業をテーマに制作された砂像だが、このような巨大な像を造るのに砂と水しか使っておらず、しかも半年以上も形を維持していると聞いて驚いてしまった。
どうやって造るかは会場のパネルや動画でも解説されているが、公式HPに画像付きの説明がある。ポイントは水と砂とをよく混ぜた後に押し固め水を抜くところにあるようだ。
http://www.sand-museum.jp/?page_id=50
それでも、砂像の形状を長期間維持することは難しいようで、中には砂像に小さな亀裂ができていたものもあった。

砂の美術館 2

展示室は結構広く、スケールの大きい作品が数多く並べられている。上の画像の手前の砂像は『デラウェア川を渡るワシントン』で、独立戦争でワシントンが独立軍を率いてデラウェア川を渡るところを描いた絵画をモチーフとしている。その奥の砂像は『マウントラシュモアとグランドキャニオン』で、マウントラシュモアという標高1745mの巨大な岩山に、アメリカの歴史に名を遺した4人の米大統領の胸像が彫刻されているのだが、その像が砂像でミニチュア化されている。その手前にグランドキャニオンが配置され、さらにナイアガラの滝をイメージして、実際に水を流しているのには驚いた。水は砂像の天敵なのだが、水が砂に浸み込まないように、うまく設計されている。

砂の美術館 3

瀧から流れる水を用いて、『ゴールド・ラッシュ』で砂金を掘る人々の砂像もすごい。像のすぐ近くを水が流れているのだが、決して像に水が及ばないように工夫されている。

砂像は全部で19点製作されていて、その内の18点が展示室の中にあるのだが、巨大な像を実に巧みに配置して結構楽しむことができた。

鳥取砂丘

展示室の3階から屋外に出ることができ、屋外にも砂像がある。展望広場から鳥取砂丘を望むことができるのだが、悪天候のために砂丘を散策する観光客はほとんど見当たらなかった。

鳥取砂丘から城下町である八頭郡若桜(わかさ)町に向かう。
途中に通る八頭郡八頭町は鳥取県下有数の梨や柿の産地である。こおげフレンドセンター(八頭町門尾40-2 ☏0858-72-0704)などに立ち寄って名産の梨や柿を買い込むことをお勧めしたい。価格は都会の価格よりもはるかに安くて味も良い。

若桜町のHPに町の生い立ちが記されている。
若桜の名は履中天皇(大和時代)のとき出たことが姓氏録にあります。『郡郷考』には、若桜を和加佐と読み、古姓若桜部に因むとあるから、読み方も昔から 『わかさ』であり、地名若桜は姓の若桜から出たものと思われます。
『和名抄』の中に、八上郡若桜郷とあり、また奈良の東大寺に因幡若桜部が進上物をした記録があるので、聖武天皇(奈良時代)のころに若桜氏がいたことになり、若桜は千数百年以前からあったことが窺われます。」
http://www.town.wakasa.tottori.jp/?page_id=6

若桜町散策マップ

若桜町は鳥取と姫路を結ぶ若桜街道(播磨道ともいう)と、鳥取と伊勢神宮を結ぶ伊勢街道(但馬道ともいう)が通る交通の要衝だったことから、軍事的にも重要視され戦国時代には尼子氏や毛利氏による攻防戦が繰り広げられ、天正6年(1578)の羽柴秀吉による因幡侵攻で若桜鬼ケ城を攻略し家臣の木下重堅を城主として配し軍事的拠点となし、城下町や領内の整備が行われたという。
しかし、慶長5年(1600)の関が原の戦いで木下重堅が西軍に属し敗戦とともに自害。代わって山崎家盛が三田から3万石に加増され初代若桜藩主となり、引き続き城下町の整備を行ったが、2代家治が転封となると鳥取藩となり若桜藩は廃藩となり若桜鬼ケ城も廃城となっている。
その後若桜は鳥取藩に組み込まれるが、元禄13年に鳥取藩主池田光仲の5男清定が鳥取西館新田判を立藩したが、以降この地に城は設けられずに陣屋を設けた程度であったという。
江戸時代以降も若桜は交通の要衝の地として多くの商人が集まり、周辺の経済的な中心地として発展してきたのだが、昭和35年人口9,616人をピークに高度経済成長期に大都市圏への人口流出が続き、少子高齢化も進行して平成27年の人口は3,269人と人口減少が止まらない。
若桜町に限らず、歴史と伝統のある地方の町や村がいずこも人口減少で悩んでいるのだが、若い世代が残らずして、これからどうやって地域の伝統や文化をつないでいくことが出来ようか。

若桜駅

上の画像は若桜鉄道若桜駅。この鉄道は国鉄再建法施行に伴いJR西日本の若桜線を昭和62年(1987)に引きついだものだが、この駅を含め沿線全体の古い施設が国登録有形文化財となっている。この駅の右側に駐車場がある。

若桜駅 SL

若桜駅にはSL(C12形蒸気機関車)があり、4月~11月の第2、第4日曜日はこのSLが牽引するトロッコに乗車して楽しむことができ、第3週の土曜日には体験運転できる企画もあるようだ。
http://www.infosakyu.ne.jp/~wakatetu/karenda.html

若桜町 古家屋

若桜町で明治18年に大火があり、若桜宿会議で「家は道路端から1丈1尺(3.3m)控えて土台を造ること、その土台から4尺(1.2m)の仮屋(ひさし)を付け、2尺(60㎝)の川を付けること」などが決められたという。
現在は途切れ途切れになってしまったが、昔は700mから800m仮屋が連なっていて、雨の日でも傘なしで通り抜けができ、豪雪の時はアーケードのようになって人々が移動するスペースが確保できていたのだそうだ。
上の画像は仮屋通りにある『休憩・交流処 かりや(木島家住宅)』で、建物は国登録有形文化財になっている。

若桜町 昼食

この建物の中にダイニングカフェ新(あらた)という食事のできる場所があるので入ってみたのだが、このような価値ある建物の落ち着いた雰囲気の中で、リーゾナブルな価格でおいしい料理を戴けることはありがたい。
https://tabelog.com/tottori/A3101/A310102/31003374/

若桜町 蔵通り

仮屋通りの一筋北には蔵通りがあり、このように白壁の土蔵群が約300mも続いている。
先ほど明治18年に大火災があったことを書いたが、この時に寺を火災から守るために蔵以外を建てることが禁止されて、今も10戸の蔵が建っている。

西芳寺紅葉

この土蔵群の反対側に蓮教寺、正栄寺、西方寺と三ケ寺が続く。中央の西方寺の紅葉が美しかったのでカメラに収めておいた。

もう少し天気が良ければ、若桜神社、若桜弁財天と若桜鬼ヶ城跡に行く予定だったのだが、それぞれ坂道や階段が続くようなのであきらめて、道の駅若桜(八頭郡若桜町若桜983−2 ☏0858-76-5760)で、土産品を買ったのち、車で行くことのできる不動院岩屋堂(八頭郡若桜町岩屋堂)に向かう。

三徳山三仏寺投入堂

11年前のことになるが、鳥取県三朝町にある三徳山三仏寺の国宝・投入堂(なげいれどう)にチャレンジしたことがある。この投入堂の中に入ることはできないのだが、ここまでたどり着くのに急峻な坂道を登り、カズラ坂やクサリ坂などいくつかの危険な場所をクリアしなければならず、何度もスリルを感じながら、この投入堂が見えたときはよくぞこんな場所にこんな建物を建てたものだと驚き、その美しさに感動した。
投入堂にたどり着くまでのルートは、たとえば次のURLの文章と画像がわかりやすい。難所の連続で、正直言って私の場合は、こんな冷静にカメラのシャッターを押すことができなかった。
https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_1347/

『投入堂』というのは、役小角が蔵王権現などを祀った仏堂を法力で山に投げ入れたという言い伝えがあるからだそうだが、全国で『投入堂』と呼ばれているお堂は他にもある。

『日本三大投入堂』という言葉があるようなのだが、そのうちの二つが鳥取県にあり、一つが三徳山三仏寺の国宝・投入堂でもう一つが若桜町の不動院岩屋堂(国重文)だ。そして最後の一つが大分県宇佐市院内町にある龍岩寺 奥院礼堂(国重文)だという。
次のURLに龍岩寺 奥院礼堂のレポートが出ているが、ここも相当険しい坂を登らなければたどり着けないようだ。
http://www.suonada.co.jp/staff/view.php?id=399

不動院岩屋堂の駐車場がやや遠く150mほど歩く必要があるが、この投入堂だけは急峻な坂を上らずに建物を鑑賞することができる。早めに若桜町観光協会(0858-82-2231)に予約すればお堂の中に入ることも可能なようだ。

不動院岩屋堂

現地の案内板にはこう記されていた。
大同年間(806-810)飛騨匠の創建と伝えられる。
 現在の建物は、鎌倉時代に源頼朝が再建したものと言われ、天正9年(1581)羽柴秀吉の鳥取城攻略のとき、他の建物は兵火にかかり焼失したがこの堂だけが残ったと伝えられる。
 鳥取県では有数の古建築で、三朝町の三仏寺投入堂と同じように修験道の道場であったと推定され、岩窟の中に建立された正面三間、側面四間の舞台造である。
 本尊の黒皮不動明王は高さ1.2メートルの坐像で、弘法大師の作と伝えられる。」

不動院岩屋堂は昭和30年(1955)から32年(1957)にわたって解体修理が行われ、その時の報告書によると室町時代初期頃の建立と推定されているのだそうだ。それにしても、こんな危険な場所にあるお堂が再建後700年近く残されてきたことに驚きを禁じ得ないところである。

毎年3月28日と7月28日にはこの場所で護摩法要が行われ、本尊の黒皮不動明王が一般公開されるのだそうだが、この仏像は目黒不動(東京都目黒区下目黒)と目赤不動(東京都文京区本駒込)と共に日本三大不動明王に数えられているとも言われている。

今度若桜町に来るときは、岩屋堂の護摩法要の日に訪れて、ここの黒皮不動明王を観てみたい。合わせて今回訪問できなかった若桜神社、若桜弁財天、若桜鬼ヶ城跡も見て帰りたいと思う。

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【ご参考】
鳥取県は明治政府によって多くの文化財を破壊された上に、島根県と併合されて「鳥取県」という県名も失いました。
同様に福井県も多くの文化財が破壊され、石川県の併合されて県名を失いました。
石川県から福井県を旅行してこのブログにこんな記事を書いていますが、良かったら覗いてみてください。

白山信仰の聖地を訪ねて加賀禅定道を行く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-457.html

白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-458.html

明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-460.html


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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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