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「満州某重大事件」の真相を追う~~その1

昭和3年(1928)6月4日、中華民国陸海軍大元帥の張作霖を乗せた特別仕様の列車が、瀋陽駅に到着する寸前で爆破され、張作霖は瀕死の重傷を負い2時間後に死亡した。

張作霖記事

学生時代にこの「満州某重大事件」を学んだ時は、日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺したと教えられ教科書にもそのように書かれていたが、関東軍が関与したとは考えられないとの説がかなり昔からあり、何度か目にしたことがある。

最近になって、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家が、2001年にGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書*に基づいて『GRU帝国』という旧ソビエトの情報工作機関の活動を書いた本を上梓し、その中で張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルン**の工作員であることなど、数々のソ連の工作活動を明らかにしたそうだ。
 * GRU文書についてはソ連崩壊後一部公開されていたが、プーチン政権になってアクセスが難しくなりつつあるという。
**コミンテルン:共産主義政党の国際組織。第3インターナショナル。

マオ

2005年に出版された『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだ」と書かれているが、これはプロコホフの著書の記述に従ったものだという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%82%BD%E9%80%A3%E7%89%B9%E5%8B%99%E6%A9%9F%E9%96%A2%E7%8A%AF%E8%A1%8C%E8%AA%AC

『マオ』が我が国で出版されて、この事件のことが我が国の論壇誌に採りあげられ、プロホロフ氏がインタビューに答えた内容が、加藤康男氏の著書に纏められている。

「サルヌインは、1927年から上海で非合法工作員のとりまとめ役を務めていたが、満州国において、諜報活動にあたる亡命ロシア人移民や中国人の間に多くの工作員を抱えていたことが決め手となった。そして、暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった
1928年6月4日夜(正確には4日未明)、張作霖は北京を出発して奉天に向かう特別列車の中にいた。列車が奉天郊外に差しかかったとき、車両の下で大きな爆発が起き、その結果、張作霖は胸部に重傷を負い、数時間後に奉天市内の病院で息を引き取った。

1990年代の初め、ソ連の機密度の高い公文書を閲覧できる立場にあった元特務機関幹部で、歴史家のドミトリー・ヴォルコゴノフ*氏は、ロシア革命の指導者の一人、トロッキー(1879-1940年)の死因を調べている際に、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺されたことを示す資料を見つけたのだという
トロッキーはスターリンとの激しい権力闘争でメキシコに移住したが、スターリンの手先によって自宅書斎で暗殺された。その際に関与していたのが、張作霖の爆殺で暗躍したソ連特務機関要員のエイチンゴンだ。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.123)
*ドミトリー・ヴォルコゴノフ:1988年から1991年の間ソビエト連邦国防省の軍事史研究所長官であった。

張作霖

張作霖は北京政権を牛耳り露骨な反ソ姿勢を取って、1927年4月6日には張作霖の指示でソ連大使館捜索と関係者を大量に逮捕し、同時に武器などが多数押収されたことから、ソ連の特務機関に暗殺の指令が出たようなのである。

ソ連の資料だけなら、エイチンゴンが自分の功を誇るために嘘の記録を残したという解釈も可能ではある。しかしながら、この事件に関してソ連が関与していたことを強く疑っていた大国があったことは注目して良い。それがイギリスである。

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先ほど紹介した加藤康男氏が、2007年に公開されたイギリスの外交文書を、著書『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で紹介しておられる。
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.F4598/7/10】
1928年7月3日付 北京駐在公使ランプソンのオースティン・チェンバレン外相宛公電 「(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも4つの可能性がある。どの説にも支持者がいて、自分たちの説の正しさを論証しようとしている。」(同上書 p.149)
【イギリス公文書館所蔵 ファイルNo.WO106/5750】
張作霖の死に関するメモ
「a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
 b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。
 c.  ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願った上でのことだった。
 d. 満州で張り合うソ連と日本の野望は、張作霖がある程度両国を争わせるようにした側面がある。ソ連も日本も権益保護のため開戦する覚悟は今のところないが、必然的に中国を犠牲にして何らかの暫定協定を結ぶことを望んでいる。したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。」(同上書 p.151-152)

もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう。」(同上書 p.155)
【イギリス公文書館所蔵 1928年12月15日付外交文書】
「調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。
ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠から見て、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。」(同上書p.197)

ドミトリー・プロホロフが、『GRU帝国』で張作霖爆死事件がソ連の工作によるものだと記した内容にかなり近い記録が、事件直後のイギリスの外交文書に残されていることを加藤康男氏の著書で初めて知ったが、イギリスは張作霖爆殺事件について関与していたわけではないので、イギリス情報部が本国に対して報告した文書は、現地で収集した情報を分析した内容を率直にレポートしていると考えるべきであろう。
また『GRU帝国』の出版はイギリスの公文書公開よりも6年も早く、ドミトリー・プロホロフはこれらのイギリスの外交文書を読むことなしに、この事件をソ連の工作によるものだと結論付けていることは注目してよい。

加藤氏はイギリスの外交文書を読んでこう解説しておられる。
「ソ連の工作による利点は、日本が自動的に疑われ、無実であるとの証明がはなはだ難しいことだった。なぜなら、張作霖を排除したいと考えていた日本人を、奉天界隈で見つけることは、極めてたやすい作業だったからだ
そのうえソ連にとっては幸運なことに、日本は自らの無実の証明をまったく試みなかった、とも付け加えている。
イギリスの機密文書からは、少なくともイギリス自身が日本軍主犯説に首をかしげる様子が浮かび上がってくる。
こうしてみると、巧妙に仕掛けられたソ連の工作の可能性を見抜けず、早々と日本軍独自の犯行と言う結論で幕引きを図った日本側の対応ぶりには疑問を持たざるを得ない。」(同上書p.153)

この張作霖爆死事件については昔から諸説があったのだが、旧ソ連やイギリスの機密書類の一部が公開されたことにより、コミンテルンが関与した可能性がかなり高まってきているので、教科書の表現が多少なりとも修正されてはいないかという事が気になった。
自宅にある『もう一度読む山川日本史』の該当記述を確認すると、残念ながら昔とほとんど同内容だ。

「この頃満州に駐屯していた日本軍(関東軍)のなかには、張にかわって日本の自由になる新政権を樹立させようとする動きがあり、1928(昭和3)年、奉天郊外で張作霖を爆殺した(満州某重大事件)。」(『もう一度読む山川日本史』p.290)
と本文に書かれた後、囲み記事で、
「張作霖の爆殺は、関東軍の参謀がひそかに計画し、部下の軍人たちに実行させたものであった。この事件をきっかけに満州を軍事占領し、新政権をつくらせて満州を日本の支配下におこうとする意図であったといわれるが、関東軍首脳の同意を得られず、それは実現しなかった。」(同上p.291)
と、今も明確に、関東軍が実行したこととし、異論があることに一切触れていないのだ。

200px-Koumoto_Daisaku.jpg

では、当時のわが国は、なぜ関東軍が実行したと考えたのだろうか。
当時から関東軍がやったという噂があり、関東軍の大佐であった河本大作(上画像)自身が殺害計画があったことを認める発言を何ヶ所で残していたようなのだ。

河本本人は手記を残していないのだが、河本の義弟で作家の平野零児が『文芸春秋』昭和29年12月号に、河本の一人称を使って「私が張作霖を爆殺した」という手記のようなものを書いている。全文が次のURLで読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.html

全文を読むのは大変なので肝心な部分だけ抜き出すと、
動機に関しては
「一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。
巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足りるのである。」

img20120425233727531.jpg

爆破に関しては
「来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点*にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空ヘ舞い上った。張作霖の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を竪めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。
 そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満州事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝突を未然に防いで終った。」
(『文芸春秋』昭和29年12月号)
*クロス点:事件の現場となった満鉄線と京奉線とがクロスしている地点。

この「手記」が文芸春秋に掲載された時点では、河本大佐は中国共産党軍に逮捕監禁された後に獄死(昭和28年8月25日)していたのだ。この「手記」が河本大佐の口述筆記によるものという平野零児の説明を鵜呑みにすることは危険だと思うのだが、どういうわけか今では河本大佐を実行犯とする説が定説になっている。

当時のイギリス情報部の外交文書の表現を借りると、河本大佐はコミンテルンと共謀した日本人の一人ではなかったのだろうか。またわが国や満州で、関東軍が張作霖を爆殺したとの噂をバラ撒いたのはコミンテルンによる情報工作によるものではなかったか。
そもそも張作霖爆殺事件については関東軍がやったという確実な証拠はなく、ほとんどすべてが噂や伝聞によるものと考えて良い。
関東軍謀略説を主張する論者は、平野零児の書いた「河本大佐の手記」と、東京裁判における田中隆吉の証言を重視しているようだが、平野零児は戦前に治安維持法で何度か捕まった人物だとされる。田中隆吉証言も伝聞に過ぎず、彼はゾルゲや尾崎秀実とも親交があり、コミンテルンにつながる人物であったと言われているのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89#cite_ref-0
また、東京裁判で田中隆吉が証言台に立った時には主犯とされていた河本大佐は中国に生存していた。本来ならば、河本本人が証言すべきであったのだが、なぜ連合軍は当事者でない田中を証言台に立たせたのだろうか。

加藤康男氏の著書によると、当時の関東軍参謀長の斉藤恒(ひさし)は現場を検証し関東軍による実行とは考えられないことを論証する報告をしたのだが、なぜか軍上層部が斉藤の報告を無視し、いち早く罷免しているのだそうだ。この点について書くと話が長くなるので、次回に記すことにしたい。
とにかく関東軍謀略説には謎が多すぎて、私は素直に信じる気になれないのである。
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【ご参考】
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「満州某重大事件」の真相を追う~~その2

前回の記事で、わが国では関東軍が実行したとされている「満州某重大事件」について、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においても、ソ連に犯罪の責任があると記されていることを紹介した。

関東軍主犯説で必ず使われるのが、張作霖爆殺の瞬間の写真といわれる下の画像である。この写真が我が国の山形中央図書館にあることが、この事件を関東軍が実行したことの動かぬ証拠だと主張する人が多いようだ。

張作霖爆津瞬間

まずこの写真が何故山形中央図書館にあるのか、その入手経路を追ってみよう。
加藤康男氏の『謎解き「張作霖爆殺事件」』によると、爆破前後の写真から現場検証の様子や張作霖の葬儀の写真まで61枚の写真がでてきて、この写真はその中の1枚である。
「この写真を密かに保管していたのは、山形県藤島町(現鶴岡市)に住む元陸軍特務機関員で70歳(発見当時)になるSさんだった。彼は写真の束を河野又四郎という特務機関の上司から預かったという。
写真の謎を解くもう一つの手がかりは、写真の裏に書かれていた「神田」と言う文字にあった。「神田」と言えば事件の当事者として名前が出てくる神田泰之助中尉がいる。二人には明らかに接点があることが判明した。」(加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.77-80)
このSと言う人物は、ネットで検索すると元軍人の佐久間徳一郎という名前であることがわかる。
http://rekishi.blog41.fc2.com/blog-entry-26.html

また、加藤氏の前掲書を読むと、実はもう1組の同じ写真が防衛研究所戦史部に保管されているという。秦郁彦氏が『昭和史の謎を追う』のなかでそのことを書いているのだが、秦氏によると写真を撮ったのは桐原貞寿中尉だと記しながら、桐原中尉が爆破スイッチを押したと結論しているそうだ。
爆破スイッチがセットされた場所と爆破現場は200メートルも離れていた。どうして、スイッチを押した人物がこの写真を撮ることができるのであろうか。

現場見取り図

写真撮影者は神田泰之助中尉だという説もあるが、神田中尉も2度目の爆破スイッチを押した人物とされており、桐原中尉と同様の問題が残る。写真撮影は別の人物が行ったと考えないとどう考えても不自然である。(上の図は加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.45)

あまり指摘する人がいないのだが、よくよく見るとこの爆破瞬間の写真も不自然だ。煙が立ち上っていない場所でありながら、既に破壊されている部分がかなりある。満州鉄道の橋梁が一部崩れてすでに列車を押し潰した状態になっていることがわかるし、煙の位置は橋梁の位置と微妙に異なる。この画像は、既に爆殺が終わってから、小さな爆発物を破壊させて撮影したものではないのか。

そもそも何故、河本大佐がこのような写真を撮らせたのだろうか。私には加藤氏の結論が一番納得できるのだ。
「考えられる結論は、関東軍がやったことをあとで政府の調査委員会に認めさせるための証拠品として、河本が特務機関の人物に撮らせた。そのプリントが最低でも2組あって、出てきたというところではないか。」(同上書 p.223)

当初は河本も公式には爆殺実行を否定していたそうだ。あらかじめアヘン中毒患者3人を雇った上で声明文を懐に忍ばさせておいて銃剣で刺殺し、「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表し、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていたのだそうだが、3人のうち王谷生という男は死んだふりをしていて現場から逃亡し、張学良のもとに駈け込んで関東軍がやったと証言したために、この事件は関東軍の仕業だという疑惑が強まっていったのだが、ひょっとすると関東軍は王谷生をわざと逃がして関東軍の仕業だと訴えさせたのではないか。
また爆破に用いた電線は巻き取らずに草むらに残していたというのだが、これもわざとらしい。
その上に写真を撮って「神田」という名前まで書き残したのは、少なくとも私には非常に不自然に見える。
こんな杜撰な偽装工作を本当に日本陸軍特務機関のやったことなのかと、詳しく知れば知るほど誰でも不審に思うことだろう。むしろ関東軍が疑われるために工作したものと考えたほうがスッキリするくらいだ。

今度は爆破された車両に目を移そう。
河本大作には義弟の平野零児が書いたものとは別に、昭和17年12月1日に大連河本邸で森克己との共同聴取筆録という「河本大作大佐談」というものがあり、次のURLで全文が読める。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

この記録で、爆破の場面を紹介すると、
「…鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した
 愈々張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、…予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった
 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた
 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
 また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。 
… 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。」

仮にこの記録が河本の言葉を忠実に記録したものであったとしよう。
張作霖を乗せた列車は20両編成であった。少し考えればわかることなのだが、線路わきに設置した爆弾で列車の中の張作霖を爆殺しようとするならば、まず張作霖がどの車両に乗っているかがわかっていなければならない。しかも高速で駆け抜けるはずの車両をピンポイントで爆破しなければならない。このことは決して容易ではないはずだ。
また、閉鎖された空間であれば少量の火薬でも威力を発揮するが、オープンスペースでは四方八方に爆発のエネルギーが分散してしまうので相当量の火薬が不可欠となる。その場合は、線路脇に設置した場合は地面に大きな穴ができ、線路は折れ曲がって当然である。また、急に前に進めなくなるために列車の後続車両が次々と脱線しなければ不自然である。

20110110122150.jpg

上の画像は張作霖が乗っていた車両なのだが、大量の火薬を土嚢に詰め込んで爆発させたにもかかわらず、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかったのだ。そのことは、現場近くで列車を大幅に減速させていたことを意味している。
一方で京奉線の上を走る満鉄線の橋は半分が崩落し、橋梁には大きな破損が生じ、満鉄線の線路が京奉線に垂れ下がっている。

imagesCAIGKEMG.jpg

上の画像は満鉄の線路の状況であるが、被害が下方よりも上方に大きく出ていることは明らかである。
現場を見れば『河本大作大佐談』や前回紹介した『河本大作の手記』は作り話であることが明らかであり、最初に紹介した爆発の瞬間の写真は、事後で小爆発を起こして撮影したものと理解するしかないのだ。

現場を検証した日本人がそれらの矛盾点に気が付いていなかったのではなかった。
現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対してこのような所見を提出していたのである。

ic.jpg

「爆薬の装置位置に関しては、各種の見解ありて的確なる慿拠(ひょうきょ)なきも、破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず
殊に六十瓩(キロ)内外の爆薬の容積は前記の如く僅かに〇.五立方米なるを以てこれが装置は比較的容易なればなり。」(『謎解き「張作霖爆殺事件」』p.206)
と、斉藤は爆薬の設置位置は、満鉄の橋脚上部付近か列車自体に装置されたものと推測できると記している。

さらに斉藤は、現場付近を一般列車は時速約二〇マイル(約32km/h)で通行するところを、推定時速十キロ程度にまで減速させた理由について次のように書いている。
「何故かくも速度を落し且つ皇姑屯にも停車せざりしや、その理由に苦しむものにしてこの点を甚だしく疑問とせざるべからざる。
すなわち内部に策応者ありて、その速度を緩ならしめかつ非常制御を行いし者ありしに非ずや。(列車内中間、もしくは後部にて弁紐を引けば容易に非常制動行はる。)」
緩速度たらしめし目的は、要するに所望地点にて列車を爆破せむと欲せるものにて非ずや
前記の如く薬量の装置地点は、橋脚上部か又は列車内と判定せるを以て、陸橋上部とせばその位置に張作霖座乗車来る際、時を見計らひ爆破せるものに非ずや。列車内より橋脚上部の爆薬を爆破せむと欲せば、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破し逓伝(ていでん)爆破に依りて行へば容易なり。」(同上p.208)
と、列車の内部に協力者がいたことと、爆薬は車両内部にあり、それを爆破させることにより橋脚上部に設置した爆薬を連鎖爆発させた可能性を示唆している。そのためには、列車はよほどゆっくり走らなければならなかったはずだ。

前回の記事で書いた通り、この斉藤の報告書はなぜか軍上層部に無視されて、斉藤は事件の2か月後に関東軍参謀長を罷免されてしまった。

img20120430190340923.jpg

このような記録を残したのは斉藤だけではなかった。奉天の内田五郎領事が首相兼外務大臣田中義一に宛てた昭和3年6月21日付の報告書には、
「調査の結果被害の状況程度より推し相当多量の爆薬を使用し、電気仕掛にて爆発せしめたるものなるべく。爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず、結局爆薬は第80号展望車後方部ないし食堂車前部附近の車内上部か又は(ロ)橋脚鉄桁と石崖との空隙箇所に装置せるものと認められたり
外部より各車輛の位置を知ることすこぶる困難にかかわらず、爆発がほとんどその目標車両を外れざりし事実より推察し本件は列車の編成に常に注意し、能く之を知れるものと認められる点は本件真相を知る有力なる論拠たるべしと思考せられたり。右に対し支那側は爆発装置箇所に付いては明確なる意思表示を避けたり。」(同上p.217-218)
と書かれている。(上の図はイギリス公文書館に保管されていた爆発現場の見取り図。同書p.230)

この内田五郎の報告書も現場の状況からすれば当然の内容だと思うのだが、これも斎藤恒の報告書と同様に軍上層部で葬り去られたようなのである。そしていずれの報告書も、「昭和史研究家」と称する多くの人々から過小評価されているのはなぜだろうか。
この理由は簡単である。この資料の正当性を認めてしまえば関東軍主犯説が瓦解し、昭和史が全面的に書き換えられるきっかけともなり得るものだからである。そして、現状ではわが国の「昭和史研究家」の大半は、連合軍にとって有利な歴史叙述を変えたくない人たちなのである。

加藤康男氏がモスクワの書店で見つけられた『GRU百科事典』*という書物に張作霖爆殺事件のことが書かれており、その内容が前掲の著書の最後に紹介されている。
*GRU:旧ソ連赤軍参謀本部情報総局
フリストフォル・サルヌイニの諜報機関における最も困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を一九二八年に殺害したことである。
張作霖は一九二七年以降も明確に反ソ・親日政策を実行していた。ソ連官吏に対する絶え間ない挑発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。
将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行われることが決定されたのである

そのためにサルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。

一九二八年六月四日、張作霖は北京-ハルビン(引用者注・正しくは奉天)間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見通り日本の特殊部隊に着せられた。」(同上書p.242-243)
とあり、見事に関東軍の仕業であることを日本に認めさせたことが記さているのだ。

張作霖爆殺事件にかぎらず、昭和の歴史には多くの嘘があるのだろう。コミンテルンが多くの紛争に関与して、世界の共産主義化を画策していたとすれば、このような事件はほかにもいくつかあって、日本だけが侵略者にされている可能性はないのだろうか。
こういう議論をするとすぐに、「陰謀史観」とのレッテルが貼られてしまいそうなのだが、ソ連やイギリスから出てきた史料や論文まで「陰謀史観」扱いをしていることは、研究者のスタンスとしてはおかしなことだと思う。これでは、いつまでたっても歴史の真相は明らかにならず、戦勝国側に都合の良い歴史観の中で堂々巡りの議論を繰り返すことになるだけだ。
そもそも、戦争が行なわれていた時代に陰謀が存在していたことは珍しい事ではない。自国の陰謀を隠すために、他国の謀略に見せかけるような事件は世界史でいくらでも見つけることができる。にもかかわらず、わが国の歴史教科書は他国には陰謀がなく、日本軍にのみ陰謀があったことを印象づけたいかのようだが、これでは永遠に真実が何であるかが見えてこないだろう。
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関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった

以前このブログで、昭和3年(1928)6月4日の「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」の事を2回に分けて書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

張作霖爆殺事件

わが国の教科書では今も日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したと書かれているのだが、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されている。
この事件に関する記録を読むと通説と大きく矛盾することばかりで、現場検証をした関東軍参謀長斎藤恒(ひさし)は、参謀本部に対して「破壊せし車両及鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること略推測に難しとせず。」と報告し、奉天領事であった内田五郎も「爆薬は橋上地下又は地面に装置したものとは思はれず、又側面又は橋上より投擲したるものとも認め得ず」と記録している。現場の写真を見ると、線路は傷んでおらず地面に穴も開いていない。列車の台車部分は原型をとどめているのに、列車は脱線していなかった。どう考えても爆薬は車両か京奉線の上を走る満鉄線の橋に仕掛けられていたはずなのだが、京奉線の線路に仕掛けたという河本大佐の自白内容が作り話であることは明らかなのである。

河本大作

この事件は調べていくとおかしなことだらけなのだが、計画を立案したという河本大佐本人は軍法会議にかけられることもなく、翌年の4月に予備役に編入されるという人事上の軽い処分にとどまり、なぜか事件はもみ消されているのである。松井石根陸軍大将はこの処分に反対し最後まで厳罰を要求し続けたが叶わなかったという。
それだけではない。その後河本は南満州鉄道の理事となり、さらに満州炭鉱の理事長に就任しているのだが、百歩譲って河本の証言が正しかったとしても、軍の命令もなく外国の要人を暗殺した首謀者を優遇するような人事は誰でもおかしいと思うだろう。
昭和初期の頃から、関東軍の上層部にはソ連の工作で動くメンバーが少なからず存在して、関東軍の人事権まで掌握していたということではなかったか。

じつは、この張作霖爆殺事件があった翌月にモスクワで開催された第6回コミンテルン*世界大会が開かれており、そこで決議された異常な内容がこの時代に全世界で頻発したテロ事件を読み解くヒントになるのではないかと私は考えている。三田村武夫氏の『大東亜戦争とスターリンの謀略』にその決議内容が要約されている。
*コミンテルン: 共産主義政党の国際組織。第3インターナショナルともいう。

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること

(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。

… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従えばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

このような考え方はレーニンが最初に考えた『敗戦革命論』と呼ばれているものだが、共産主義者は革命を成功させるために進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力とし、自国政府の敗北を導けという考え方である。

レーニン

その考え方だけでも恐ろしいのだが、その方法についてレーニンはこう記している。
「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない』
『共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。
』」(同上書 p.41-42)

ソ連は世界の共産国化をはかるために、各国の政治家、官僚、マスコミ、教育機関などに工作をかけていったのだが、とりわけ最重要の工作対象が軍隊であったことは言うまでもない。大量の武器と弾薬を持つ敵国の軍隊の工作に成功すれば、敵国の自国に対する攻撃力を弱めるだけでなく、敵国で武力革命を起こさせることも不可能ではないのだ。

今のわが国では共産主義思想の信奉者はごく少数だと思うのだが、当時においては共産主義思想が若い世代を中心に急速に広がっていて、マルクスやレーニンの全集が次々と出版されていた。日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは昭和3~10年。二十四巻の『レーニン叢書』が白揚社から刊行されたのは昭和2~3年。十五巻の『スターリン・ブハーリン著作集』が同じく白揚社から刊行されたのは昭和3~5年で、このような共産主義思想書が飛ぶように売れていた時代であったことは重要なポイントである。ソ連にとっては、共産思想に飛びついた日本人の中から協力者を見出すことは決して難しくなかったと思われる。
軍部においてもかなりソ連に工作されていたことは、神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」の検索機能を使って探すと、当時の新聞記事でいくつも確認することができる。

大正12年5月2日 大阪毎日新聞 露国の世界赤化運動
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10100242&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
最初に紹介する記事は大正12年5月2日の大阪毎日新聞の記事だが、この時点でシベリアや満州・朝鮮半島はソ連による赤化はかなり成功していたことが記されている。アメリカにおいてもかなり浸透していて、我が国については「帝国内においても可なり運動は熱心に試みられている」とのみ記されている。

昭和3年4月11日 大阪朝日新聞 『日本共産党』の大検挙
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070605&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
張作霖爆殺事件が起こった昭和3年の新聞記事を調べると、この年の3月15日に日本共産党の大検挙が行われていて多くの学生が検挙されている。

昭和3年4月14日 神戸又新日報 共産党の一味が重要なる某連隊に
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070587&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA
また、同年の4月14日の神戸又新日報には、軍隊の現役兵の中にこの共産党事件に関与した者がいて、軍隊内でオルグ活動をしていたことの報道が出ている。

昭和3年9月24日 中外商業新報 赤化運動の経緯(1〜6)小松緑

上の画像は同年9月25日に中外商業新報に掲載された小松緑氏の論文だが、これによるとソ連の官報『プラウダ』の5月24日の紙上に、コミンテルンの日本軍兵士に対する檄文が掲載されたという。該当部分を引用すると、
「檄文の冒頭には
 『強盗に等しき日本帝国は山東出兵を断行した。』と悪罵を放ち
 『世界のブルジョア諸国は、支那に対する内政干渉より一転して領土侵略に移った。日本はその機先を制せんとして、早くも要害の地歩を占め、山東を満洲と同じくその植民地とする野心を暴露した。』と妄断し、更に
 『陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ』という煽動的発言を弄し、一石以て日支両鳥を打つの狡計を運らし最後に
 『日本の反革命的強盗に打撃を加うべき共産党機関現在なれ』と結んである。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070971&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

ここで『反動勢力』とか『反革命的強盗』と書かれているのは、日本政府あるいは日本のブルジョワを指していることは言うまでもないが、これらの勢力と戦えと関東軍兵士に檄を飛ばしていることになる。
コミンテルンがプラウダ紙面に於いて関東軍に対する檄文を掲載したのは、日本共産党の中心メンバーが3月に検挙されて彼らの連絡網が寸断されたことと関係があるのかもしれないが、このような記事がプラウダに掲載されたということは、関東軍の中にこの新聞を購読していた者が少なからずいたことを意味する。

そしてこのプラウダ記事の11日後に張作霖爆殺事件が起こっているのだが、この事件の不可解さの原因は関東軍に対するコミンテルンの工作と関係があるのではないだろうか。

昭和3年9月21日 時事新報 赤化宣伝の密謀に政府神経を尖らす

その後、コミンテルンのわが国に対する工作はさらに激しくなっている。上の画像は9月21日付の時事新報の記事だがここにはこう記されている。

「政府は過般の共産党事件以来特に露国の赤化運動を重大視しその防圧に関して種々対策を講じているが其後も第三インターナショナル*の赤化運動は隠然猛威を逞しうし聊かも緩和の色なきのみか共産党事件の取調べ進捗するに従い漸次其背後に第三インターナショナルの支援ある事実が顕著になって来た、殊に最近政府側の探知し得たるところに依れば第三インターナショナルは今秋を期し大いに赤化宣伝に努めんと陰密に計画を廻らし我国の共産党員中の有力なる注意人物も之と策応せるの事実明かなるものある…」
*第三インターナショナル:コミンテルンのこと。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070801&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


昭和3年10月19日 国民新聞 露国共産党巧みに我が軍隊に赤化宣伝

また、10月19日付の国民新聞の記事では、ソ連が在満日本軍および内地軍隊に対して強力な赤化宣伝工作を開始したことが報じられている。残念ながら宣伝文の内容は「掲載し得ざる性質のもの」として略されているが、
「ハルビン労農領事館宣伝部は具体的宣伝計画の樹立に関し種々協議を重ねた結果、労農革命完成の経験に鑑み、直接日本軍隊に宣伝を行い以て革命を勃発せしむるの方針を執るに決し、去る七月初旬以来、先ず以て在満日本軍隊に対し前後二回に亘り
 (一)善良なる無産者、親愛なる日本軍人同士に檄す(二)虐げらるる無産者、親愛なる日本軍人同士へ
と題し世界革命労働軍連盟の名を以て軍閥資本閥に反抗して階級闘争を激成し、以て一路革命の勃発に邁進せしめんとする過激なる言辞を連らねた長文の邦語宣伝文を配布
し、更に引続き第三、第四の宣伝に著手せんとするの外、一歩を進めて我国内地の軍隊全部に対しても宣伝網を拡張するの計画を定め、本月上旬既に其の宣伝員は我国に潜入したる形跡あり」と報じている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

一般的な歴史書やマスコミの解説などでは関東軍が満州を獲得するために「暴走した」と描かれることが多いのだが、冒頭の張作霖爆殺事件に関して言うと、この事件はソ連の特務機関要員によって計画され、日本軍に疑いが向くように工作がなされて、何人かの日本人エージェントを用いて実行された可能性が高そうだ。犯行を自白したとされる関東軍の河本大佐はおそらくソ連とつながっていて、ソ連の犯罪を隠蔽するために名乗り出たものと考えられる。

だとすると、その後に起きた関東軍の「暴走」事件に関して、通説をそのまま鵜呑みにして良いのだろうか。彼らが独断行動に走り日中戦争のきっかけを作ったことは、ソ連の工作と無関係であったと言えるのか。
<つづく>

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html

「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html

わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html

スターリンの罠にかかって第二次大戦に突入したことをわが国から教えられた米国の反応
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-449.html








関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。
昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であることは明らかで、最近の研究によるとソ連の機密文書にはソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪の責任があると記されているのだそうだ。もしそれが正しいとすると、河本らはソ連の犯罪を隠蔽するためにソ連に協力したということになるのである。

事件直後の柳条湖の爆破現場
【事件直後の柳条湖の爆破現場】

そしてこの事件の3年後に満州事変のきっかけとなった柳条湖事件が起こっている。
一般的な教科書である『もういちど読む 山川日本史』では、このように解説されている

「1930年代にはいって、協調外交がゆきづまり、中国の反日民族運動が激しくなって、満州における日本の権益がまもれないのではないかとの危機感が高まると、陸軍のあいだには、軍事力を用いてでもこれを打ち破ろうとする機運が高まった。
 1931(昭和6)年9月18日、武力による満州の制圧をくわだてた日本の関東軍は、奉天近郊の南満州鉄道の線路をみずから爆破し(柳条湖事件)、戦争のきっかけをつくって奉天付近の中国軍への攻撃を開始した。こうして満州事変がはじまった
 第2次若槻内閣は『事変の不拡大』を内外に声明したが、関東軍はこれを無視して軍事行動を拡大した。
 かねてから『満蒙の危機』を国民に強く訴えていた多くの有力新聞は、満州事変がおこるといっせいに日本軍の行動をたたえる記事や写真で紙面を埋め尽くした。このようなジャーナリズムの活動をつうじて、満州事変における軍事行動を全面的に支持する熱狂的な世論がつくりだされた。若槻内閣の不拡大方針は失敗し、軍部を抑えることができないまま、1931(昭和6)年12月、内閣総辞職に追い込まれた。
 こうして日本軍は半年ほどで満州の主要地域を占領し、1932 (昭和7) 年3月、清朝最後の皇帝だった溥儀を執政に迎えて、満州国の建国が宣言された。しかし、軍事・外交はもとより、内政実権も関東軍や日本人官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.296-297)

花谷正
【花谷 正】

ところが当時の日本の記録では、南満州鉄道の線路を爆破したのは中国側によるものとされ、その後日本軍が中国軍から攻撃を受けたことになっており、その点については東京裁判でも問題にされなかったという。
この説が覆ったのは昭和30年に発行された雑誌『別冊 知性』の12月号に元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されたことによるのだが、次のURLにこの全文が掲載されている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

実はこの文章は関東軍参謀の花谷正本人が書いたものではなく、当時23歳の東大生であった秦郁彦が花谷に取材し、自分の名前を伏して花谷正の手記として発表されたものなのである。そして関東軍がやったとする根拠資料はこの文章しか存在しないのだが、秦郁彦が花谷という人物に取材した内容を忠実に書き起こしたものであるのかどうかはわからない。もし花谷の証言を正確に文章化したものであったとしても、そもそもこの人物の証言が信用するに値するものであろうか。ネットで花谷正について調べるとずいぶん酷い人物であったことばかりが書かれているのだが、例えばWikipediaの解説では、
能力ばかりか人格面においても極めて問題のある人物で、第55師団長時代は部下の将校を殴り、自決を強要することで悪評が高かった。また、日頃から陸大卒のキャリアを鼻にかけ、無天(陸大非卒業者)や専科あがりの将校を執拗にいじめ抜き、上は少将から下は兵卒まで自殺者や精神疾患を起こした者を多数出すなどしたため、部下から強い侮蔑と憎悪を買っていた。反面小心でもあり、行軍中も小休止の度に自分専用の防空壕を掘らせていた。」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%B0%B7%E6%AD%A3

秦郁彦はこんな問題人物のために自らがゴーストライターになって記事を書いたことになるのだが、『別冊 知性』に掲載された記事の冒頭には箔づけのためかこんな文章が付け加えられている。

当時の関東軍関係者が、満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言。
 本庄繁、板垣征四郎、石原莞爾は、満洲事変は『自衛』であったとして、関東軍による謀略を否定しており、花谷以外の関東軍関係者で、満洲事変は関東軍の謀略に基づくものであったことを認めた者はいない
。」

この雑誌が出た時点では板垣征四郎(明治18~昭和23年)、石原莞爾(明治22~昭和24年)らは物故しており、このタイミングで『満洲事変は関東軍の謀略に基づくもであったことを認めた唯一の証言』などと言っても何の説得力もないのだが、なぜかこの花谷証言とされた文章が根拠とされて、「満州事変は関東軍の謀略である」ということがその後昭和史の通説になったことに違和感を覚えるのは私ばかりではないだろう。

しかも秦郁彦は戦後のわが国に自虐史観を広めた人物の一人である。自虐史観を広めたい立場からすれば、満州事変の原因がわが国の侵略行為であったことが好都合であることは少し考えれば誰でもわかることである。秦氏は、関東軍が暴走したストーリーを花谷参謀の言葉として描くことにより、自虐史観をわが国や世界に拡散しようとする意図があったのではなかったか。

とは言いながら、板垣征四郎、石原莞爾らが、柳条湖事件の前から綿密な軍事作戦を練り上げていたことは間違いがないことである。では、何のためにそのような作戦が必要であったのか。また、なぜ国民がそのような軍部の行動を支持したかについては、当時の新聞の記事を読めばその背景が理解できる。

自虐史観の立場に立つ論文にはほとんど何も書かれていないのだが、当時の満州は、各地で反日運動が仕掛けられて暴動が相次いで起こり、日本人居留民の安全が脅かされていた。
いつものように『神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫』の検索機能を用いていくつかの記事を拾ってみよう。

昭和6年6月27日 京城日報 間島一帯に亘る未曾有の暴動事件

上の画像は昭和6年(1931)6月27日の京城日報の記事で、文中の「間島(かんとう)」というのは豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地である。この地域は抗日パルチザン*の根拠地となっていたのだが、この記事は昭和5年(1930)5月に間島で未曽有の大暴動(間島共産党暴動)が起きた事件の予審について書かれており、その暴動が起こる2か月前にコミンテルンが中国共産党に対し満州の暴動を起こす指令を間島の潜在党員に出させたことに注目しておこう。
*パルチザン:抵抗運動・内線・革命運動といった非正規の軍事活動を行う遊撃隊

間島

北間島一帯にわたり共産党員の極度のテロ化の暴状事実は近来極左系の暴動としてはまさに後世まで記録すべきほどの未曾有の実際運動であったが、そもそもその暴動の起りはどうして起ったか?それには憎むべき国際共産党コンミンテルンの恐ろしい施令と度しがたき小児病者的主義者の附和雷同とが狂想二重奏をかなでたのである。間島暴動事件の二ヶ月半以前の四月初旬、国際共産党コンミンテルンでは満洲方面における運動方法の微温的であるのに業を煮やし、一挙に極端なテロリズムを以て戦うべしとの意見が一致し、中国共産党に向って全満洲に暴動を起こすべし』との重大な指令を飛ばせた中国共産党では朝鮮人の頭株である朴允瑞らを入れてこの指令につき緊急会議を開いた結果、広大な地域の満洲に暴動を起すより充分可能性があり警備力の薄弱な北間島部分的に行った方が策を得たものとなし、直ちに間島潜在党員に対して再び指令を飛ばせたものである。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10070834&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

この間島共産党暴動の際に治安を守るべき中国側官憲も軍隊も動かず、傍観したままだったという。この地域でその後の半年間に200件を超える暴動が起こり、百名以上の死傷者が出たそうだ。

昭和6年 6月6日 大阪毎日新聞 満州の日支紛争今や到る所で勃発

上の画像は昭和6年6月6日の大阪毎日新聞の記事で中国が満州の各地で紛争を起こしていることを伝えているが、おそらくこれらもコミンテルンの工作と無関係ではなかったであろう。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10159971&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

間島共産党暴動のあと、一般の朝鮮人は間島の住処を追われわが国の保護のもとに満州の別の地域に入植を斡旋されたのだが、万宝山に入植中の朝鮮人が灌漑水路を作り種まきを始めたころ、突然中国公安局が来て退去を命じ、五月末には朝鮮人農民90名を留置場に叩き込んだという。その後6月下旬から中国農民によって用水路が徹底的に破壊され、ついに7月に入って激昂した朝鮮人と中国人との間で流血の惨事となった。

この万宝山事件をきっかけに朝鮮半島では中国人への感情が悪化して中国人排斥運動が起こり、多くの死傷者が出たという。下の画像は平壌で中国人が襲撃された事件後の現場写真だが、すさまじい破壊がなされていたことに驚かざるを得ない。

中国人襲撃事件 1931年平壌

関東軍参謀の石原莞爾は『満蒙問題私見』という意見書を5月に作成しており、ネットで全文が出ている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/t_tajima/nenpyo-5/ad1931b.htm

この意見書を拾い読みすると、満蒙問題の解決の方法については「唯一の方策は之を我が領土となすにあり」とし、そのために必要なことは、「①満蒙をわが領土となすことは正義なること、②わが国はこれを決行する実力を有すること」の二点を挙げ、満蒙問題を解決することで「朝鮮の統治は満蒙をわが勢力下に置くことにより初めて安定すべし」と書いている。
さらに当時の中国は治安が乱れており、「在満三千万民衆の共同の敵たる軍閥官僚を打倒するは、わが日本国民に与えられたる使命なり」とし、どのようなタイミングで軍事活動を実施するについては、「謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず、もしまた好機来るに於ては関東軍の主動的行動に依り回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し」と書いている。

石原莞爾
【石原莞爾】

石原莞爾は謀略による戦争開始の可能性を否定していないのだが、この頃の新聞を読めば暴動が何度も起こっており、石原の言うところの「我が国が軍事行動を起こすことの正義」が認められる「好機」はいくらでも存在していたこともまた事実なのである。

昭和6年8月19日 中村大尉虐殺から参謀本部硬化す

たまたま6月27日に中国官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが行方不明となった。この二人はのちに興安屯懇団に逮捕されて射殺されて、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられていたことが判明している。
また9月に入ると満州各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に柳条湖事件が起こっているのだ。

関東軍の自作自演説に対する基本的な疑問だが、日本人が多数乗車している列車を爆破して大きな人的被害が出たらどういうことになっていたであろうか。そうなれば関東軍は現場作業に追われて軍事作戦どころではなかったであろう。もし関東軍の関与が少しでも疑われたら、取り返しのつかないことになってしまうことは誰でもわかる。普通に考えれば、関東軍がこんなリスクの高いことは実行することは考えにくく、軍事行動を起こすきっかけとなるような事件は頻発していたのである。満州事変の引き金となった小規模な爆破事件は、外国勢力が起こしたと考えるほうが正しいのではないだろうか。

昭和6年10月7日 満州日報 南京政府の満洲事変対策

10月7日付の満州日報で満州事変に関して興味深い記事が出ている。この記事を読むと、蒋介石は柳条湖事件を日本軍の仕業と見せかけようとしていた可能性を感じざるを得ない。

蒋氏は事件の報告を聴取した後憤怒に燃え北に向って、あの小僧がヘマをやるから斯様な面倒を惹起したのだと張学良氏を罵倒したそうだ
 ロシアの力を借りて今日の地歩を築き上げた国民党及びその政府はその味が忘れられず、満洲事件に対しても同一の筆法で進めば少くともパリ会議やワシントン会議程度には効果のあるものと楽観し御用紙でない新聞までがこの気分で筆を執って居た。その方針は直に上海において実行に着手され一部の外字新聞は日本非難の記事や論文を掲ぐるに至り又外人記者中には南京政府の支給した旅費で満洲視察に出かける者も出て来た。そればかりではなく同じ方法で日本に不利な新聞電報が上海、北平天津その他から欧米に飛ばされた勿論ジュネーヴの施肇基氏には外交部から長文の訓電が発せられ国際連盟の力を借るべく命ぜられた外人記者を通じての宣伝は金力に正比例してそれ相当の成績を挙げているが、国際連盟では支那側の報告に欺瞞が混じていたことが判明したとかで不人気を買い、通り一遍の平和勧告を試みたに過ぎず何等干渉がましき行動を取らないこととなったものらしい。
 国際連盟の態度が南京に報告さるるや首脳部は大に狼狽し蒋介石氏は慟哭せんばかりに落胆したと或る確な筋から漏らされた。そればかりでなく米国も余り力瘤を入れて呉れそうにない事を知り今は二重の失望に悶えて最後の手段として次の二つに力を注ぐ事になった


一、従来の対外宣伝を続行し更に多額の経費を投じて空気の転換を図ること
二、ロシアに交換条件を提言して干渉せしむること」

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10161022&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

蒋介石は世界の世論を日本非難に向けるために多額の工作資金を投入してきたのだが、国連の協力を得ることが出来なかったことに落胆し、世論工作に失敗した張学良を蒋介石が罵倒したというのである。
張作霖爆殺の時は、ソ連はうまく日本軍の犯行であるようにみせかけることに成功したのだが、柳条湖では中国は失敗したということではなかったか。

ところが、戦後になって自虐史観を奉じるわが国の「歴史学者」が関東軍が爆破したことに書き換えてしまい、今日の通説では戦争の原因を作ったのは関東軍ということになっているのだが、歴史の叙述に於いてわが国を戦争に巻き込もうとさんざん挑発した側の史実を全く書かないのは大いにバランスを欠いていると言わざるを得ない。

昭和6年9月18日 満州日報 牛蘭事件の審問

柳条湖事件の起きた日の満州日報の記事に、コミンテルン(第三インター)の命を受けて東洋攪乱に携わってきた牛蘭(ヌーラン)という人物が上海で捕らえられ、六百余の秘密文書が押収されたことが伝えられている。中国に関する文書の解読が進み、この記事によると牛蘭がいた組織は国民政府の軍隊内に共産党の細胞を植え付けてその戦力を弱める工作をし、中華民国の国民を赤化し社会組織を破壊するほか、我が国や朝鮮、インドの労働者煽動や共産党の組織宣伝などに従事し、そのために毎月13万元を使っていたという。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071151&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


獄中のヌーラン
【獄中のヌーラン】

このようなコミンテルンによる社会破壊工作が我が国においても例外でなかったことは明らかなのだが、このような史実が戦後のわが国の歴史叙述からは完全に抜け落ちてしまっているのはなぜなのか。

その理由は少し考えれば見当がつく。これまではすべての戦勝国にとって都合の良い歴史観、すなわちわが国だけが悪者になる歴史観(「自虐史観」)が広められたのだが、コミンテルンや共産主義者による社会破壊工作の史実が歴史叙述に加えられると、いままでわが国に広められていた「自虐史観」が説得力を失うことになることは確実だ。そして「自虐史観」代わって共産国や左寄りの人々にとって都合の悪い歴史叙述に置き換わることとなっていくことだろう。
そうさせないために、わが国では教育界やマスコミ界などに左巻きの人々が多数派を占めて「自虐史観」でわが国民を洗脳し、異論を唱えることも許されない時代が長く続いてきたのだが、最近では大手マスコミが明らかなフェイクニュースを連発するおかげでマスコミに対する国民の信頼が大きく失われて、これまでマスコミが伝えてきた「我が国だけが悪かった」とする歴史叙述にも疑問を懐く国民が増加している傾向にある。

事実に基づいた歴史の見直しが進められその成果が広く伝えられて、多くの人々が「自虐史観」の洗脳から解き放たれる日が来ることを期待したい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-252.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html







満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。

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この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が(しん)である。

明代の万里の長城

清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわかるのだが、満州は万里の長城の外側にあり、漢人の国ではなかったのである。

この満州の地はもともと人口が少ないうえに清ができてから支配階層が北京に移ってしまい、その結果満州の故地はさらに人が少なくなってしまった。
そこで清朝皇帝は、満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していたという。
そのために清の時代には満州の広大な地域に人口がわずかしかいなかったのだが、清国が弱体化していくと、諸国からこの地域が狙われることになったのである。

ではわが国は、満州とどういう経緯で関わるようになったのであろうか。この点について簡単に振り返っておくことにしたい。

遼東半島
遼東半島

日清戦争で勝利したのち、明治28年(1895)に日清講和条約が結ばれて、わが国は満州の一部である遼東半島を手に入れたのだが、その後ロシアはわが国の進出を警戒し、ドイツ・フランスとともに、わが国に対して遼東半島を清国に返還することを勧告している(三国干渉)。
わが国はこの三国と戦うだけの力がなかったために、3千万両を代償としてやむなくこの勧告を受諾したのだが、その後ロシアは清に対してその見返りを求め、李鴻章に賄賂を与えて1896年に露清密約を締結
するに至った。その密約の内容についてWikipediaにはこう解説されている。

ロシアはこの条約で満州での駐留や権益拡大を清に承認させることに成功した。ロシアの役人や警察は治外法権を認められ、戦時には中国の港湾使用を認められた。さらにシベリア鉄道の短絡線となる東清鉄道を清領内に敷設する権利も認めさせた。東清鉄道は名目上は共同事業だったが、実際には出資も管理も全てロシアが行った。清はロシア軍の部隊移動や兵站を妨害することができず、ロシアに対して大幅に割り引いた関税率を認めさせられた。またロシアは鉄道建設に必要な土地の管理権を得たのみならず密約を拡大解釈して排他的行政権も手にし、鉄道から離れた都市や鉱山も『鉄道附属地』としてその支配下に置いた。」
露清密約の主な内容についてはこう記されている。
・日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。
 ・締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。…
 ・ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。…
 ・戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%B8%85%E5%AF%86%E7%B4%84

義和団の乱
【義和団の乱】

その後、列強諸国があいついで清国に租借地を設定し、鉄道敷設や鉱山開発などの権益を獲得していくことになるのだが、この動きに反発して1900年に清国で「扶清滅洋」を唱える義和団を中心とする外国人排斥の暴動が激化する。

龍岩浦

この義和団事件をきっかけにしてロシアは大軍を派遣して満州を占領し、事変が終了しても撤兵することはなく、さらに1903年(明治35)5月には鴨緑江河口にある龍岩浦(りゅうがんほ)を軍事占領し、その後要塞工事を開始して朝鮮半島にも進出する動きに出た

わが国はロシアの南下を食い止めるために日露戦争を戦うこととなり、なんとか勝利して終戦後に結ばれた日露講和条約で、ロシアの満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡されることとなった。
そしてこの権益の移動については同年に12月にわが国と清国の間で締結された満州善後条約で清国は了承し、加えてこの条約の付属議定書で、満鉄に併行する幹線や満鉄の利益を害する支線を建設しないことも清国は承諾したのである


かくしてわが国は国際的に何ら問題のない方法で満州の権益を取得し、それ以降満州の開発を開始することになるのだが、満州の治安が改善し経済が順調に発展していくと、その後山東省や河北省から数百万人の窮乏した農民(漢人)が仕事を求めて満州になだれ込んできた。その背景を調べると、清国が弱体化してくると「封禁の地」であった満州にロシア人が入ってくるようになってきたのだが、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して満州移住を認めてしまったことが原因だったようだ。
しかしながら、この人口移動によって満州を故地とする満州族よりも漢民族の人口が圧倒的に多くなってしまい、そのために漢人が、満州の地を自分の土地だと主張することに繋がっていくのである。
*満州の人口:日清戦争の頃の満州の人口は約5、6百万人で漢人の人口は2、3百万人であったが、1938年ごろには漢人だけで30百万人いて、全体の9割が漢人になっていたという。

清は1911年の辛亥革命で滅ぼされ、翌年成立した中華民国は清の領土や諸条約を承継したものの実態は各地域の軍閥による群雄割拠の状態で、満州は馬賊あがりの張作霖の軍閥が支配していた。

少年満州読本

では張作霖とその子・張学良時代の満州で、どのような政治が行われていたのであろうか。
GHQ焚書とされた長與善郎氏の『少年満州読本』が徳間文庫カレッジで復刊されているので、その文章を紹介することとしたい。

「ちょうど支那は清朝が亡びて、民国(支那が中華民国となったのは1912年)となり、群雄割拠の軍閥覇戦時代だった。割拠するには足場が要る。その足場には満州はお誂(あつら)え向きの地の利を占めていて、出るにも守るにも楽。のみならず軍隊を養い経済的実力を富ます上には、ロシアと日本が二代がかりで築き上げた鉄道中心の産業や交通の施設が完備している。だから狡(ずる)い張作霖は自分の勢力を大きくして、その頃東三省(奉天省、吉林省、黒竜江省)と呼ばれていた満州の主権者になるために、初めのうちはできるだけ日本の力を利用しようと,親日家を装っていた。その彼が、だんだん目的を達して支那の中央まで勢力を持つようになると、今度は満州での日本の勢力が邪魔になって来たのは当然だ。だからうわべは日本と親しく手を握るようなことをいいながら、裏ではどんどん日本の勢力の駆逐、日本がロシアから受け継いで支那から得ている権益の踏みにじりと奪い返しにかかった。(その権益は、大正4年の日支二十一箇条条約で25年の期限が99年に延びた。)例えば満鉄に並行する鉄道を数本も敷いて、その運賃を安くして、満鉄の営業を潰しにかかるとか、いろいろ邪魔をした。そういうやり口は、その子の張学良の時代になってますます甚だしくなった。」(『少年満州読本』p.72~73)

張学良
張学良

張学良の時代になると、「武力ずくで滅茶苦茶な政治をして、勝手にその地方だけの紙幣を乱発しては本国の正金の銀と取り換えるとか、無法な税制を布いて20年も先の税まで取り立てるとか、満州の最大産物である大豆の買い占めをして、これを一般に高く売りつけるとか」したという。
また大正4年(1915)の日華条約で、南満州での日本人が商工業・農業を営むために土地を租借する権利を認められていたにもかかわらず、中国は日本人に土地を貸した者を死刑とする条例を公布するなど、満蒙で日本が獲得した条約上の諸権利が相次いで中国側に侵犯されるようになっていくのである。

排日教育によって反日感情が煽られて満州の治安は乱れ、侮日行為や鉄道妨害などの事件が多発し、街のいたるところで反日スローガンのポスターが貼られるようになり、前回記事で紹介したように日本人がトラブルに巻き込まれ、殺害されるような事件も起きるようになった。

長與善郎
【長與善郎】
しかしながらわが国は満州に多大な投資を続けてきたので、この地を手放すことはできなかった。長與善郎氏は前掲書でこう解説している。

日本が貧乏な国庫の中から17億という殆んど無理な程の大資本を投じて、日露戦争以来27年間、孜々として満州の開発につくした事業。それもロシアのように1から10まで自分の国の利益と、政治的、軍事的侵略のための経営とはわけが違って、日本のためと同時に、満州それ自身の開発と福利のために計った数えきれない公共事業、衛生方面だけでも範囲は大変だが、例えば規模、設備ともに東洋一といわれる医院や保養院や、衛生研究所の設立。上水、下水の設備、大学以下、教育機関としての何百という各種の学校をはじめ、図書館、博物館、公園の建設。通信、交通のための会社や鉄道、道路の敷設。治安のための警察の仕事。地質、気象、資源の綿密な調査。歴史上の遺跡、史料、古美術の整理と保存。農作物と畜産の改良。山の植林事業——。
 そんな風に挙げていたら際限のないほどの文化事業というものは、ただ満州を日本の食い物にしようなどという利己的な根性でできるものではない。むしろ損をしてでも満州という所、満州に住む人間の生活を向上させたい公の精神からでなければやれないことだ
 しかしだ。それ程までに打ち込んでやった仕事がすっかり他人に横取りされて、自分の利益以外に何も考えないような横暴な者への貢ぎ物にすぎなくなってしまっても構わん、17億の金の掛け損になってもいいという程に日本はお目出たいお人好しではいられない。第一それでは、この満州の土と化した日清、日露の戦役の十万の護国の生霊に対しても相済まない。そうでなくてさえ猫の額ほどの狭い土地にぎゅうぎゅう詰めに人が溢れて国家の生きていく資源のなさに泣いている日本だ。どうしておめおめこれを馬賊あがりの圧政家などに手渡せよう。それももともとそこが彼ら漢民族祖先伝来の故郷だというならまだしもだ。元をただせば彼らには何の地主面をする権利もない満州民族発祥の地で、ただそこが主人のいなくなった大きな空巣も同然で、場所が場所であったために、ここが日本、支那、ロシアという三民族の生存と発展との一大争奪戦場になったというものだ。」(同上書 p.74~78)

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【満鉄シンボル 特急「あじあ」号】

わが国は満州に17億円をつぎ込んだというのだが、昭和初期の予算規模が15~19億円程度だから、かなり大きな金額であったことがわかる。では、その満州にどの程度の日本人が住んでいたのかというと、前掲書によれば日清戦争の終わった明治38年(1905)の末には日本人は5025人しかいなかったが、大正7年(1918)には124千人、満州事変前の昭和5年(1930)末には213千人に増加したにすぎなかったという。一方で漢人は1905~1930の25年間に15~16百万人増加し、その後も増え続けていって1938年には満州人口の9割が漢人となったそうだ。

横浜正金銀行大連支店と大連民政所 大正4年 満州写真帳
【横浜正金銀行大連支店と大連民政所 満州写真帳(大正4年)】

わが国の投資に対する最大の受益者は漢人であったわけなのだが、中国人は日本人に感謝するわけではなく、排日運動を仕掛けて日本人が苦労してインフラを整備し築き上げた満州の権益を奪い取ろうとしたのである。

そして満州を狙っていたのは決して中国だけではなく、ソ連はもっと大仕掛けであった。
長與善郎氏は、ロシア革命から満州事変に至るまでの流れをこう記している。

レーニン

「…『世界革命は東方から始めるべし』というのがレーニンの唱えたモットーだった。こうなると、日本にとってはロシアは二重の意味でふさがねばならない相手となったわけで、今まではただ軍事上からその侵略に備えるだけだったのが、今度は更に思想赤化という厄介千万な危険が加わって来た。これは国情の違うロシアではともあれ、日本国体の性質からいって、絶対に容れることのできない思想だから、もし満州の地が赤化、すなわち共産主義化されるとなると、それに隣る朝鮮はいうに及ばず、ひいては日本本国までが搔き廻される惧(おそ)れがある。ソ連としては出来るだけ他国を搔き廻して、内側から切り崩そうというのが思う壺だから、さしあたり支那に排日、抗日の思想を焚きつけて盛んに赤化を図ったが、その火は満州にも飛び火して、張学良もこれをいい日本勢力駆逐の手に用いた。一方、満州に巣喰う匪賊というものをソ連はまた背後から突っついて、絶えずその暴れるのを援ける。そうした事情が重なって険悪になっていく一方の空気は、いつか大爆発をしないでは到底収まらない。とうとう多勢の朝鮮人が(中国人に)殺されたあの万宝山事件、中村大尉の殺された事件と続いた挙句の昭和6年9月18日、奉天郊外柳条湖の鉄道が支那軍に爆破されたことが最後の導火線となって、ここに堪忍袋の緒を切らした日本軍の蹶起、満州事変となってしまったのだ。
 こう聴いてみると、満州事変は、どうしても日本の生きて立って行く上に、また国防と、満州での権益をしっかり保って、日本民族が発展していくために、実に止むに止まれない悲愴な切開手術、大決闘であった…」(同上書 p.79~80)

大連市役所
【大連市役所 満洲写真帖. 昭和4年版】

わが国は合法的に満州における権益を獲得し、この地域の人々が豊かに暮らせるように都市インフラを整備していったのだが、近代的で魅力的な都市建設が進んだからこそ他国から狙われ、中国からは大量の移民を送り込んだ上で排日が仕掛けられ、ソ連からは赤化工作が仕掛けられたいうことではなかったか。

旅順工科大学と満州医科大学
【旅順工科大学と満州医科大学 満洲写真帖. 昭和4年版】
長與善郎氏が『少年満州読本』を著したのは昭和13年(1938)のことだが、もしわが国が戦わずに満州から引っ込んでいたらどうなっていたかについてこう述べている。

それはただ暴虐な支那軍閥の暴れ狂って罪もない民百姓の血を啜るだけのところになってしまうか、看板の文句ばかり体のいい嘘八百を並べ立てて、その実人道を無視蹂躙すること、どこかの国と並んで世界の両横綱といわれるソヴィエト・ロシアの植民地に、むざむざなってしまうかするだけのことだったのは余りに眼に見えた運命だったのだ。」(同上書 p.80~81)

わが国の教科書や通史には、中国やソ連にとって都合の悪い史実が一切記されることがないために、「関東軍が満州を占領した」という記述に安易に納得してしまうところなのだが、実際はそんな単純な話ではなさそうだ。

他国の権益を奪うことは必ずしも武力を必要としない。宣伝・謀略を用いて「戦わずして勝つ」のが孫氏の兵法であるが、中国は移民を大量に送り込んで満州族の故地を実質的に奪い取った。さらに中国は排日運動を仕掛け、またソ連は赤化工作で我が国の満州の権益を侵していったのだが、このような工作員を排除し治安を守るために武力を用いたわが国は侵略行為を働いたというべきなのか、自衛のために戦ったとみるべきなのか。そのような視点から昭和初期に満州で起こったことについて考えてみることも必要だと思う。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html






関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。

溥儀
溥儀

この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。

「しかし、軍事・外交はもとより、内政の実権も関東軍や日本時官吏がにぎっており、満州国は日本が事実上支配するものとなった。日本のこうした行動は、不戦条約*および9か国条約に違反するものとして国際的な非難をあびた。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.297)
*不戦条約:1928年、仏のブリアンと米のケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約。ケロッグ・ブリアン条約とも言う。

このような文章を読むと、わが国が全世界から非難されたような印象を受けるのだが、満州事変のあと国連から派遣された調査団によってレポートされた『リットン報告書』では相当程度わが国の立場を認めていた。

昭和7年9月11日 大阪毎日新聞 日本は正当 英紙の満州問題視

また満州国は当時の世界60か国の内20か国がのちに承認し、ソ連のような建国以来国境紛争を繰り返した国さえも事実上承認の関係にあったのである。
世界の3分の1が承認しているような満州国を支援したわが国が「国際的な非難を浴びた」とわが国の教科書が書くのは、国民を「自虐史観」に誘導し固定化する意図を感じるところなのだが、この点について当時の論調はどのようなものであったのか。

昭和7年10月28日 神戸又新日報 ロシア事実上満洲国を承認

まずわが国が「不戦条約」に違反したかどうかだが、そもそも1928年に成立した「不戦条約」は単純に戦争を放棄するというものではなく、自衛のための武力行使は認められていたことは重要なポイントである。
前回の記事で書いたように、日清戦争の頃は満州人の故地である満州の人口はわずか数百万人であったのだが、そこに中国は3千万の漢人を送り込んで排日運動を仕掛け、ソ連も赤化工作を仕掛けて何度も暴動を起こし、わが国が多額の投資をしてインフラを整備し築き上げてきた満州の権益を奪う動きをしていたのである。わが国の行動が自国の権益を守るための自衛行為だと認知されていたなら条約違反にはあたらないことになる

満州事変と世界の声

国立国会図書館デジタルコレクションに、満州事変の1か月後に出版された『満洲事変と世界の声』という本が公開されている。この書物は主要国の新聞や雑誌の当時の論調をまとめたものだが、わが国が「不戦条約」に違反したかどうかについては、アメリカのファーイースタン・レビュー誌のG.ブロンソン.リーの論文(要約)がわかりやすい。この人物はその後満州国外交部顧問に就任していることを付記しておく。

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【G.ブロンソン.リー】

「日本は満州に15億円の投資を為しているばかりではなく、その経済的必要、国防の安全、国家の名誉と威厳をかけている。…
 この満州における日本の既得権益問題が解決されなければ、日支通商も日支親善もあり得ない。中村大尉事件、万宝山事件、朝鮮における支那人虐殺事件その他三百余件が日支間に未解決のまま残されている。支那*はその解決策として、国際連盟**、ケロッグ不戦条約その他世界の同情を利用して日本の武力を封じ、一方ボイコットを以て日本を経済的に圧迫しようとしている。日本がこと満州の既得権に関する限り絶対に第三国の干渉を排除し、必要とあれば全世界をも相手取って争うことを辞せないことを誓っていることを支那は忘れているのである。しかのみならず、支那はケロッグ・ブリアン不戦条約について重大な見落としをしている。すなわちこの不戦条約には自己防御および既得権擁護の権利の場合が保留されていることを見落としているのである。…満州における支那の宗主権は日本といえども認めている。しからば支那はその宗主権を如何に行使したか。国際の信義を重んじたか、満州の福利を計ったか、治安を維持したか、また外国資本からなる企業を保護したか?…
 満州の支那官憲は七十億ドルもの無価値な紙幣を発行して農民から穀物をとり上げ、それを現金に代えて巨大な軍隊を養い、将軍連の私腹を肥やしていた。支那は盛んに国際的道徳を説くが、日本が事実をもって説くところも聴く者をして肯かせるものがある。支那は日本の侵略を説き不戦条約違反だとするが、日本からしてみれば自己防御と言うだろう。元来国際公法なるものは国際の伝統、習慣および力から成るのであって口先ばかりの理屈ではない。支那は自己の外交を支持する力を以てせず、ボイコット、ストライキその他の排外運動なるものを武器として戦う。支那は常に国内の戦争ばかりしていて、ろくに自分の国を治めないで外国の干渉は排撃するが、外国と事が起こると第三国の干渉を希望している。今日の紛争の種は支那が撒いたようなものだ。即ち国内を治めず、国家の権力に伴って存する義務を怠っていた結果である。」
*支那:現在の中国本土。
**国際連盟:1920年1月20日に正式に発足した国際機関。本部はジュネーブにあった。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/94

また同上書で、英国のタイムズ紙(同年10月16日付)に掲載されたT.O.Pブランド氏の論考も紹介されている。文中のジュネーブというのは国際連盟のことを指している。

支那国民党は、南京および奉天において日本に対する敵対的政策を遂行していたもので、それは激烈なる反日宣伝やあらゆる種類の破壊的行動によって示されていた。これは支那外交の伝統的手段に全く一致するもので、この煽動政策は日本をして合法的権益を自衛せしむる上に、武力に訴える立場まで引きずりこむこむことで、日本がこの軍事行動をとるや支那はこれをもってケロッグ条約や連盟に抵触するとなしてこれを訴え、連盟および米国の干渉を誘起せんとするものである。
 この支那の取っている政策の真の目的は満州における日本の権益を廃棄せしむるか、またはその根本的改定にあるもので、国民党の首領らはワシントンおよびジュネーブの雰囲気がこの目的遂行に十分合致せるものなることを知りつくしている。支那はワシントン会議以来他の条約国との交渉に於いて条約の義務を平気で無視し、または破棄することに成功している。今回支那がことさらに事件を起こして日本の満州における権益を排除すべき見解をとって、ジュネーブに訴え出たことは敢えて驚くに当たらぬ事実である

 しかしながらすべてこの理論的政策をまず差しおいて、日本が合法的権利の範囲内で活動した結果、満州が無秩序な支那の砂漠の嵐の中に反映せるオアシスとなっている状態は貴重な事実であらねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146591/22

このように中国に対して厳しくてわが国に理解を示す論調もあれば、その逆もまた存在するのだが、ソ連や中国のように侵略行為としてわが国を厳しく非難する論調は決して多くなく、軍部が政府の指示を得ずに動いた問題点は指摘しつつも、わが国の自衛のための行動と評する論調をいくつも見出すことが出来る。

再び冒頭の教科書の記述に戻って、次にわが国が「9か国条約」に違反していたかについて考えてみたい。

この条約は大正11年(1922)のワシントン会議に出席したアメリカ、イギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国間で締結された中国に関する条約で、各国に中国の主権、独立そして領土及び行政的保全を尊重させ、門戸開放・機会均等・主権尊重などが定められているのだが、中国側にも軍事力と軍事費の削減努力を行う義務などが定められており、中国に関して言えば、彼らはこの決議を全く無視して兵力を増やし続けたことを指摘せざるを得ない。

支那国軍隊の削減に関する決議

日本外交文書デジタルアーカイブ ワシントン会議極東問題の決議内容が公開されていて、次のURLの第9章第1節にのp.348に、(7)支那陸軍兵力縮小に関する決議の訳文が出ている。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/tt-4.html

満州国建国の正当性を弁護する

G.ブロンソン.リーの著書『満州国建国の正当性を弁護する』によると、1921年当時の中国軍は約百万人と見積もられていて、その後大幅に増加したという。

「『チャイナ・イヤー・ブック』(1932年)は、非正規軍を除外してその戦力を2,245,536人と見積もっている。南京政府の軍事独裁者、蒋介石の私兵は百万である。これに加えて承認政府の軍隊と独立した軍閥があり、武装した匪賊、そして共産軍がおよそ二百万である。銃器を携行する中国人は合計するとざっと五百万で、これが人民を餌食にし、外国の承認を求め、外国が管理して集めた歳入を享受しようと、覇権を求めてお互いに戦い合っているのである。」(『満州国建国の正当性を弁護する』p.269)

このように中国は決議に違反して兵力を大幅に拡大していったわけだが、国際正義の観点からこのような国の主権を尊重することが優先されるべきだとは思えない。そしてわが国は、柳条湖事件以降経った数万の兵力で、わずか5か月の間に満州全土を占領してしまったのである。

昭和4年1月8日 東京朝日新聞 英・米・独からの対支輸出が激増

満州事変直後においては中国の方を批判する論調が少なからずあったにもかかわらず、なぜその後、世界の多くの国は日本に非難の矛先を向けていったのだろうか。
G.ブロンソン.リーは、同上書で非常に興味深いことを述べている。

合衆国政府と種々の我が世論機関は日本にひどく批判的だが、それは日本が海軍制限条約の改訂を望まないからである。日本は2・2・2の同率条件が認められれば、日本は海軍を削減するつもりだと請け合っているにもかかわらず、我々が聞き知るすべては、日本が極東を支配し、我々の貿易を閉ざそうとしているということだ。…
 他の一面は最も浅薄な観察者でもよく理解できる。中国の外国貿易は現在、政府がその力を維持するための主要な歳入源となっており、それは過去七年間の二千五百万から三千万の人々の死の原因となっている。関税で集まったお金は軍隊維持のために費やされ、人々を食い物にして彼らの外国製品購買能力を破壊するのだ。我々は外国の法律も、アメリカ上院決議も干渉できない武器密売の光景をここに見る。あらゆる国が、このぞっとするビジネスの分け前を得ようとしている。彼ら”死の商人”は、増加する関税収入に担保された長期貸付で裏取引を行う一方、外交や政府の支持を得て、その特製品を売るのである。外国貿易が武器代金を支払うことになるのだ。
 世界は九か国条約に違反したとして日本を非難する。告発は自由である。しかし貿易と儲けの為に中国の条約違反に目を閉ざしたその他の七か国はどうなのだ?関税自主権を認められた中国は資金をつぎ込んで正規軍を百万から三百万に増やし、第一次世界大戦の戦死者の五倍の人間を殺すことを可能にした。日本は自衛のために条約に違反したかもしれない。しかし日本を告発する者は、つまらない貿易の利益を得んがために中国の条約違反を大めに見た廉で、世論という法廷の前では有罪を宣告されるのである。」(同上書 p.272~273)

内戦の続く中国は、欧米の『死の商人』からすれば極めて魅力的な武器のマーケットであったことは言うまでもないだろう。G.ブロンソン.リーは中国が大量の武器を買っていたことについてこう述べている。
「満州の張家の統治時代には、人々は銃剣を突き付けられ、労役の産物と交換に七十億ドルの不換紙幣を無理やり押し付けられた。その他の省では土地税が二十年から五十年先まで取られている。阿片の栽培と販売が幾つかの省の軍隊を維持する収入となっている。その他の方法でも人民はその抑圧者に財産を搾り取られているのだ。」(同上書 p.271)

昭和7年11月27日 大阪毎日新聞 支那に延びる欧米の大資本

このように収奪された資金のかなりの部分が武器弾薬や軍用車などの購入に充てられたことは想像に難くない。前回記事でわが国が満州の都市建設などのために投資した金額は17億円と書いたが、ドルに換算すると5~6億ドル程度である。張作霖・張学良の時代の満州では、その何倍もの金が内戦の為に使われた可能性が高いのである。

『死の商人』にとっては、争いが続く限りはいくらでも武器・弾薬を売ることができる。そして、もし中国の内戦の泥沼に日本を引き摺り込むことができれば、さらに儲けることができると考えていたのではなかったか。

しかしながら、中国兵よりも圧倒的に少数の関東軍が、たちまちのうちに満州を制圧してしまった。武器・弾薬をもっと売りたい彼らからすれば、関東軍が満州を鎮圧してこの地域が平和となることは決して好ましいことではなかったことは誰でもわかるだろう。

昭和7年8月2日 中外商業日報 対支貿易に於ける日米の地位顛倒す

以前このブログで、大正8年(1919)から中国の排日が始まり、その背後に英米の勢力が活発に動いていたことを書いたことがある。
上の画像は昭和7年(1932)8月2日の中外商業新報の記事であるが、中国の日貨排斥運動を機にアメリカの対中国貿易が、日本、イギリスを追い抜いて一気に首位に踊り出たことが報道されている。アメリカが主張していた中国大陸の「門戸開放」は、中国に排日を仕掛けることで実を結んだことを知るべきではないだろうか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

第一次大戦以降、中国の排日運動を背後から操ったのはどこの国だったのか~~中国排日その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-238.html

米英が仕掛けた中国の排日運動はそれからどうなったのか~~中国排日その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-239.html

中国の排日が我が国を激しく挑発するに至った経緯~~中国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-240.html

中国全土に及んだ「排日」がいかに広められ、誰が利用したのか~~中国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-241.html

当時の米人ジャーナリストは中国排日の原因をどう記述しているか~~中国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-242.html





リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか

前回の記事のなかで、昭和6年(1931)9月の満州事変以降関東軍が満州全土を占領した頃の世界には、わが国に理解を示す論調が少なからずあったことを述べた。

その翌年3月に満州国が成立し、わが国は「国際的な非難をあびた」と教科書などで記されているのだが、このように書かれる根拠はその後の国際連盟の動きにあると思われる。

わが国が国際連盟を脱退した経緯について、『もういちど読む 山川の日本史』では次のように記されている

中国政府は満州事変を武力侵攻であるとして、国際連盟にうったえた。1932(昭和7)年、国際連盟は実情を調査するためにリットン調査団を派遣し、同年10月、リットン報告書を公表した。その内容は、満州に対する中国の主権を認め、満州国の独立を否定してはいたが、満州における日本の特殊権益には理解を示し、満州に自治権をもった政府をつくるという、かなり妥協的なものであった。しかし、軍部や国内世論の強いつき上げで、斎藤実内閣はリットン報告書の公表の直前、日満議定書をむすんで満州国を正式に承認していた。
 1933(昭和8)年2月、国際連盟臨時総会がリットン報告書にもとづいて、満州を占領している日本軍の撤退などをもとめる勧告案を圧倒的多数で可決すると、同年3月、日本はついに国際連盟脱退を通告した(1935年発効)
 こうして日本は、国際協調路線から大きく方向転換して、孤立化への道を歩むことになった。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.298)

リットン調査団の報告の内容がポイントになるような書き方だが、この調査団は昭和7年(1932)に結成され、3月から3か月にわたり満州、日本、中国を調査し、8月より北京で調査報告書の作成が開始され、10月2日に報告書が世界に公表されている。

この報告内容には色々問題があり、批判的な論調が世界で少なくなかったことを紹介しておこう。そもそも暴動の相次ぐ中国で日本軍が撤退したら、再び治安が乱れていずれ武力紛争に発展することは誰でも容易に想像できることであったのだ。

世界は、この調査団がわが国に不利な報告を出すことは予め分かっていたようで、報告が公表される前から批判記事が出ている。
いつものように神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫で、「リットン調査団」をキーワードで検索すると42本の記事を確認することが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/

昭和7年9月11日 大阪毎日新聞 日本は正当 英紙の満州問題視

昭和7年(1932)9月11日付(リットン報告書公表前)の大阪毎日新聞の記事に、イギリスのサタデー・レビュー誌の論調が紹介されている。

国際連盟が何をいい、リットン調査団が何を報告しようとも日本の満洲における権益は確固不抜である。支那のそれは山に湧いた霧の如くで満洲国は支那のものでなく支那のものだったこともない、支那が満洲との境界に長城を築いて満洲人の入冠を防いだ事実は明かにこれを物語っている、しかし満洲人の入って来るのを防ぐことは出来なかった、満洲人は支那に入ってきて遂に全く支那に吸収されてしまったのである、その後日本はその背後地を援助して朝鮮から進出したが、右進出までは満洲には遊牧の民等何百万がいたに過ぎない、今や支那の政治家たちはこれまで全く支那のものでなかった土地を取戻そうと企てている。かくのごとく鬼面の狂言に過ぎない無理押により日本の苦心経営の果実を掴み取りしようとしているのである。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162180&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

昭和7年10月5日 大阪時事新報 ポーランド代表は曰う 結論は牽強附会

またリットン報告書が公表されたのちのポーランドの主張が、10月5日付の大阪時事新報に出ている。
「ポーランド代表方面の意見は、リットン調査団の蒐集した各種の条項は寧ろ強く日本の主張の正しい事を示しているに拘らず調査団の結論は日本に不利なるものとなるに至っている。第一リットン報告書それ自身が、支那には秩序回復し正常なる状態を改組する能力なき事を明瞭にしている調査団も、満洲の原状復帰の不可能なる事を予期して居るではないか。日本の特殊の経済的財政的権益を認める時は日本の特殊行動も亦正当化されるのであると極めて事の判った正論を表明している。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164045&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

ポーランドが指摘しているように、リットン調査団の報告は相当程度わが国の主張を織り込んでおり、第三章ではわが国の満州における権益について認め、第六章では日本兵の行状は善良で略奪や虐殺事例がないことも書かれている。しかしながら重要な事実誤認が存在したのである。

渡部昇一氏は『リットン報告書』の解説でこう述べている。
「それは『満州はシナの一部である』とする結論だ。
《従来、東三省(満州)はつねにシナや列強がシナの一部と認めていた地域で、同地方におけるシナ政府の法律上の権限に異議が唱えられたことはない。》(第三章)
《右の地域(満州)は法律的には完全にシナの一部分である。》(第九章)

 こうした記述が歴史的に見てまったくの誤りであることは言うまでもない。後述するように『満州』は、溥儀を最後の皇帝(ラストエンペラー)とする満州族が支配していた土地であり、万里の長城の外にあって、元来は漢人(シナ人)の立ち入りは禁じられていた『封禁の地』でもあった。断じて『シナの一部』などではないのである。」(『リットン報告書』P.14)

このブログでも何度も書いてきた通り満州は満州族の故地であり、清王朝以前ではこの地が漢人王朝に支配されたことがない地域であった。

満州の日本の勢力圏

満州の面積は当時の日本の面積の約三倍で、日清戦争の頃の満州の人口は5~6百万人に過ぎなかった。そのうち漢人の人口は2~3百万人程度だったようだが、その後わが国を中心とする投資によりインフラの整備が進むと大量の漢人が流入して、1938年頃には漢人だけで30百万人となり全体の9割が漢人になってしまったのである。
満州人は故地である満州を漢人支配から取り返そうと独立運動を展開していたのだが、リットン報告書の第6章にはその満州人の独立運動を日本軍は利用したとし、「現在の政権[満州国]を純粋かつ自発的な独立運動によって出現したものと考えるわけにはいかない」と結論付けている
そもそも独立を果たした国のほとんどが、どこかの国の支援を得ていた。第一次大戦後に欧米列強は「民族自決主義」を提唱したのであるが、満州人に関しては独立することを認めないというのはおかしな議論である。

そして、リットン報告書の結論はあきらかに中国寄りになっている。
たとえば報告書の「第九章解決の原則および条件」には、こう書かれている。

七 満州の自治
 満州における政府は、シナの主権および行政的保全と一致し、東三省の地方的状況や特徴に応じられるように工夫された広範な自治を確保するものに改められるべきである。新しい文治制度は善良な政治の本質的要求を満足するよう構成・運用される必要がある。
八 内部的秩序および外部的侵略に対する保証
 満州の内部的秩序は有効な地方憲兵隊によって確保され、外部的侵略に対する安全は憲兵隊以外のいっさいの武装隊の撤退と関係国間における不可侵条約の締結によって与えられること
。」(同上書 P.315)

満州は漢人が治めることにするので関東軍は撤退せよと述べている部分だが、漢人の地方憲兵隊ではこれまで相次ぐ暴動事件を止めることが出来ず、居留民の犠牲が何人も出たことから関東軍が動いた経緯を全く無視している。漢人の地方憲兵隊に任せても満州の平和が維持できないことはそれまでの歴史が証明しているのだ。

昭和7年11月26日 大阪毎日新聞 リ卿、勝手に答弁出来ぬ

当時の新聞を調べていくと、リットン調査団の中にも意見の違いがあったようだ。
昭和7年(1932)11月26日の大阪毎日新聞によると、団長のリットン卿(英国)は、クローデル(仏国)の主張により、国際連盟の理事会で自由に発言することが出来なかったようなのである。
こういう記事を読むと国際連盟やリットン報告書に何かキナ臭いものを感じるところなのだが、当時の新聞の記事を探していくと、これらの組織の問題点について興味深い解説をしている記事が見つかった。

昭和8年2月24日 神戸又新日報 連盟を掌中に日本を孤立へ フリーメーソンの正体

上の画像は昭和8年(1933)2月24日の神戸又新日報の記事だが、国際連盟のメンバーや、リットン調査団のメンバーに某秘密結社のメンバーが少なからずいることが指摘されている。この結社は「全世界の弱き国不平をもつ国などを煽動し擾乱を起さん」とし、その秘密結社と国際連盟との関係について、その結社の機関誌にこう書かれているという。
「指導精神から考えて連盟はユダヤの運動に深い関係を持っており吾々ユダヤ人は連盟の最初の具体的提案者で、連盟はユダヤ民族に世界的放浪生活をさせている根本原因を政治的に解決するものである
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10014432&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

古代ローマ帝国によって国を滅ぼされたユダヤ人にとっては、母国を建設することが永年の民族の悲願であったわけだが、そのためには世界の紛争を拡大して大国を疲弊させ、さらに世界を攪乱していくことでユダヤ人が世界の支配的地位に立つことができると考えていたという。

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【ヤコブ・シフ】

日露戦争の際にわが国は、ユダヤ人で前述の某秘密結社のメンバーであるヤコブ・シフの支援を受けて戦費を調達しているが、シフはその後レーニン、とロッキーに資金提供してロシア革命を支援した人物でもある。

もし国際連盟やリットン調査団がこの秘密結社と関係があったとすれば、わが国が連盟脱退に至ったことは、彼らが世界を攪乱させていく戦略の中で仕組まれていたという解釈が成り立つことになるのだが、このような考え方は当時において決して珍しいものではなかったと思われる。
神戸大学の新聞文庫や国立国会図書館のデジタルコレクションでこの秘密結社の名前を入れて検索すると、多数の記事や著作がヒットすることに多くの方が驚かれることであろう。

昭和7年3月26日 大阪時事新報 米露両国の如く連盟を脱退せよ

わが国が国際連盟脱退するべきとの意見が出てきたのは、リットン調査団が満州で調査を開始した頃から始まっている。上の画像はわが国の新聞で最初に連盟脱退論が報じられた昭和7年(1932)3月26日付の大阪時事新報の記事である。

国際連盟にはアメリカもソ連も参加しておらず、参加国は欧州が中心であったため東洋の問題解決に欧州国の考え方で臨むことには限界があり、わが国が連盟を相手に交渉を重ねても極東事態を悪化させるばかりで、世界平和に悪影響を及ぼす結果になりかねないとする考えが、外務及び陸軍部内で有力になりつつあると伝えている。

昭和7年(1932)6月に出版された『列国は日本をどう見る : 不穏事件に対する列国の輿論』という本を読むと、上記記事のわずか2日後に、ニューヨークタイムズでわが国が『連盟脱退をも辞せざる決心である』との記事が出たという。アメリカだけではなく、フランスも同じ日に記事が出ているのだが、その反応の速さに驚かざるを得ない。

列国は日本をどう見る -

この本には当時の各国の論説が紹介されているが、4月1日付のエコ・ド・パリ掲載のベナクルス氏の論説を紹介したい。

(日本が連盟を脱退するようになれば)日支問題は連盟の手を離れるにいたり、また連盟自身は日、米、露の三大国を失い、全く欧州のみの連盟と化してしまう。しかも、日本が満州の門戸を開放している限りは、米国の反対には頓着なしに他の数国にその満州における地位を容認させることに成功するだろう。こうなれば不戦条約もまた打撃を被ることとなる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269665/146

同上書でカナダのテレグラフ・ジャーナル紙も日本の立場に立って論評している。
三大海軍国無きの日米二国が連盟の圏外に立つことになったならば、連盟の使命遂行は不可能となってしまうであろう。もし日本が連盟を脱退するならば、その理由は国家の利益が到底容認し難き不当の侵害を受けたからだというであろう。今次の事変において、支那に罪なしとは言いえない。そうして支那との交渉方法は、他のいずれの国よりも、日本が最もよく知っているのである。たとえ、日本の主張が不当であるとしても、日本は被害者なることを熱心に闡明(せんめい)して、それを枉(ま)げようとはしない。その主張に反して、連盟の一員成るがゆえに、重大なる国権の侵害を甘受しなければならないとなれば、日本たるものの憤懣もさこそと察せられる。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269665/148

昭和7年9月22日 大阪毎日新聞 日本の対満政策に反対 米国、露骨に運動を開始

この国際連盟にはアメリカは正式には参加していなかったのだが、アメリカは自他ともに認める世界第一の富強国である。国際連盟としても重要な議題についてはアメリカを外すわけにはいかず、三顧の礼を尽くしてアメリカにオブザーバーの参加を要請していたという。

アメリカの戦略については同上書の著者志賀哲郎氏の解説がわかりやすい。
「日本の連盟脱退説がアメリカにおいても相当のセンセーションを巻き起こしたことは既に述べたとおりであるが、元来連盟加盟国でもなんでもないアメリカが、いったいどうして日本の連盟脱退についてそれほど騒ぎまわるのであろうか?。これはアメリカが連盟を利用して日本の行動を掣肘(せいちゅう)しようと思っているからである。少なくともアメリカが単独でやるよりは、連盟という大所帯の尻をつっついて、日本に干渉させた方がより利巧であり効果的だと信じているからである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269665/146


昭和7年10月4日 大阪日日新聞 最も大なる失望は米政府が感じる

しかし、リットン調査団の報告の内容はアメリカが期待していたような内容とは程遠かったようだ。昭和7年(1932)10月4日付の大阪日日新聞に、軍事評論家の池崎忠孝氏はこう述べている。
従来のアメリカ合衆国の主張たる不戦条約及び九ヶ国条約の侵犯は、国際連盟は認めなかったのである
 スチムソン外交の基礎は此処に崩壊すべく、米国従来の対日態度の論理的根拠を失い、スチムソン国務長官の面目は丸潰れとなったのである。リットン報告に最も大きな失望を感ずるものは米国である」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10163755&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

国際連盟脱退

これからどのような多数派工作が行われたかは定かではないが、、昭和8年(1933)2月の国際連盟総会にて満州における中国の統治権を承認し日本軍の撤退を求める報告案が出され、44か国中42か国の賛成(日本反対、シャム[現在のタイ]棄権)となり、松岡洋右ほか日本代表団は議場から退場したわけだが、その後欧米の主要国は日本商品に高関税を賦課して日本商品を排斥する動きに出たのである。

昭和8年6月11日 大阪時事新報 英国のやり方は国民の感情を害す

上の画像は昭和8年6月11日付の大阪時事新報の記事であるが、わが国が国連を脱退したタイミングで、わが国が開拓した市場を奪い取ろうとして主要国が動き出したことは注目に値する。リットン調査団報告に基づいて国際連盟で決議したことを演出することによって、わが国を孤立させ、追い詰めていこうとした列強が何を狙っていたかは明らかではないのか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

カリフォルニア州の排日運動が、日露戦争後に急拡大した背景を考える~~米国排日1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-260.html

日露戦争後のアメリカにおける日本人差別の実態~~米国排日2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-261.html

米人弁護士が書いた日露戦争後のカリフォルニアの排日運動~~米国排日3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-262.html

日露戦争以降、わが国は米国黒人の希望の星であった~~米国排日4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-263.html

パリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した日本とその後の黒人暴動など~~米国排日5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-264.html

関東大震災のあと日本支援に立ち上がった米国黒人たち~~米国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-265.html









満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人口540万人の北海道に数千万の移民を送り込んだ国があったとした場合に、北海道の主権を大量の移民を送り込んだ側に認めるとするのがリットン報告書の考え方なのである。

眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来

そもそもその当時の満州地区の民族別の人口構成はどのようなものであったのだろうか。
昭和7年に出版されて戦後GHQ焚書とされた『眼前に迫る世界大戦と英米赤露の襲来』という本があり、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている。そこには満州国の版図と民族別人口構成についてこう記されている。

満州

満州国は普通われらが満蒙と呼ぶ土地の総称である。即ち奉天、吉林、黒竜江、熱河省の四省を含み、その面積は…日本の内地面積の約三倍にあたる。しかも人口は三千四百万、日本人口の半ばにも達しない。
 しかしこれを民族別的に観るときは、満州人の起こった所でありその郷土でありながら、現実には漢人によって大勢力を支配されその比率は漢人九十五に対し純満州人は五ないし十の割合にしか過ぎない。即ち新国家の旗のもとに生活する純満蒙人は二百万ないし三百万人で、他の多部分は漢人である。また新国家に参加する蒙古人は四~五十万人、日本人は昭和五年末の調査によると二十二万二百九十五人、同朝鮮人五万五千十一人である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442250/76

紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)
紫禁城全景 『北京の展望』(昭和14年刊)】

1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した清(しん)は、満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝であるが、清朝皇帝は満州族の故地である満州に漢人が住み着くことがないように、この地域を「封禁の地」として漢人が立ち入ることを禁止していて、昔の人口は数百万程度にすぎなかったという。
ところが阿片戦争以降ロシアの南下の脅威が増大し、清国政府はロシア人に踏み込まれるくらいなら漢人の方がましだと判断して、次第に漢人の満州移住を認めていき、日清戦争以降は移住を全面解禁したのである。その結果三千万もの漢人が満州に流入してきて、住民の大多数が漢人となってしまったという。リットン報告書』では、満州人と漢人との関係についてこう述べている。

リットン報告書

満州人は漢人とほとんど完全に同化されている。もっとも吉林と黒龍江においては、なお少数、政治上重要ではない満州人の植民地があって、二か国語を話す満州人が残存している。中華民国の成立以来、満州民族はその特権的地位を失った。
 …満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ、彼ら・満州人の提議は容れられることがないため失望を感じつつあるという。満州人の血が流れているもののあいだには先帝(宣統帝・溥儀)に対する精神的な忠誠の念がまだ残っているといっても、顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない。」(ビジネス社『リットン報告書』p.268)

リットン調査団は漢人からの証言をそのまま鵜呑みにして、満州人は漢人と同化したと述べているのだが、そんなことは絶対にありえない。満州人による独立運動はかなり以前から存在していたことは少し当時の記録を調べれば誰でもわかる

故宮入りする前の幼い溥儀
【故宮入りする前の幼い溥儀

満州人の独立運動のことを書く前に、清朝最後の皇帝となった宣統帝溥儀(ふぎ)のことを補足しておこう。溥儀は1906年に北京に生まれ1908年にわずか2歳10か月で第12代清朝皇帝(宣統帝)となった。
1911年に辛亥革命が起こり、翌年に溥儀は退位させられしばらく紫禁城で監視されながら生活していたのだが、1924年の北京政変で紫禁城から退去させられることとなる。

紫禁城の黄昏

清朝最後の皇帝溥儀の家庭教師を務めたレジナルド・ジョンソンの『紫禁城の黄昏』に、満州人による独立運動のことが書かれた新聞記事がいくつか紹介されている。

【1919年6月23日付 ノース・チャイナ・デイリー・ニュース紙】
増税したことと管理が腐敗したことにより、国民は満州皇帝の復帰を望むようになっている。満州朝廷も悪かったけれども、共和国はその十倍も悪いと人々は思っている。満州王朝を恋しがる声は人里離れた辺鄙なところで聞こえるだけでなく、他の地方でも満州朝廷の再建の望みはまだあるという声を耳にする。」(『紫禁城の黄昏(下)』祥伝社 p.58)

【1919年9月9日付 ノース・チャイナ・デイリー・メール紙】
シナで共和主義を試みたものの、蓋を開けてみれば能なしだと分かったということだ。シナの国土の屋台骨である商人階級や中流上層階級は、内輪争いにうんざりしている。どのような形にせよ、十八省に平和を保障する政府なら、人々は諸手を挙げて支持すると断じて疑わない。

前皇帝の復辟を望み、密かに支持する人たちが強く主張するのは、共和制主義者がこの国を破壊しているということだ。つまり、いかに荒療治であっても、共和制主義者を片付けて、かつての平和と繁栄を取り戻さなければならないのである
。」(同上書 p.70~71)

【1921年5月21日付 ノース・チャイナ・スタンダード紙(北京)】
「シナ当局が掴んでいる確かな報道によると粛親王(しゅくしんのう)*と前総督の升允(しょういん)が掲げた政策の目的は、シナで満州王朝を復古することである。しかし、もしこれができなければ、満州の君主制主義者たちは『満州人のための満州を』と叫びながら、まず手始めに奉天で、衰退に向かっている満州王国を再建することに望みを託すだろう、とその報道は付け加えている。これにはシナの官吏たちもびっくり仰天している。というのも、アタマン・セミョノフ**と粛親王が共同で推進する運動が、現在の外蒙古の深刻な情勢と絡み合うことを怖れているからだ。」(同上書 p.74)
*粛親王:愛新覚羅善耆(あいしんかくらぜんき)。清の皇族で、太祖ヌルハチの孫ホーゲに始まる粛親王を継いだ。
**アタマン・セミョノフ:白系ロシアの反革命派のコサック首長。


また同上書で、辛亥革命後に急進的な政治思想を持つ指導者たちが出版した『曙光』という雑誌に、1921年に発表された記事の一部が紹介されている。
「農民たちは自由が何を意味するかを知らず、参政権や政府がどのような概念なのかも知らない。彼らが知っているのは、地税を払わねばならぬことと、日々の生活の糧を得る術だけである。村の市場へ行けば、次のようなことを尋ねてくる村人に出くわすはずだ。『宣統帝陛下はお達者か』とか『今は何方が宮廷を治めていらっしゃるのか』。そして何度も何度もこのような願いやら不平やらを聞かされるのだ。『こんな不作で、俺たちはどうなるのか。俺たちには、いいことなんぞ、ひとつも起こらない。本物の龍が、天子様がもう一度お出ましにならねばな』。」(同上書 p.60)

このように辛亥革命後の中国は混乱が続き、商人階級や中流上層階級のほか地方の農民の多くは満州人の王朝である清の復活を望んでいたのだが、この記事の出た1921年の時点の溥儀の年齢はまだ15歳と若く、監視されている紫禁城では外部の勢力と接触することは困難であった。

大正11年3月30日 大阪朝日新聞 粛親王遂に起たず

当時旅順にいた皇族の粛親王が、清朝の遺臣とともに清の復活のための活動をしていたのだが、志半ばにして大正11年(1922)3月に逝去されてしまっている。

その後中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘が活発化し、1924年の北京政変で馮玉祥(ふうぎょくしょう)と孫岳が北京を支配することとなり、紫禁城に軍隊を送りこんで溥儀とその側近らを紫禁城から強制退去させている。

レジナルド・ジョンストン
【レジナルド・ジョンストン】

溥儀は醇親王の王宮である北府に一時的に身を寄せたがその場所も安全ではなく、どこかの国の公使館に庇護してもらおうと動き出す。まず知人のいるドイツ病院に向かい、側近のジョンストンがイギリス、オランダ、日本の公館に対して庇護の依頼をしている間に、溥儀はジョンストンとは別に、自らの意思で日本公使館を訪れていたのである。

溥儀は約3か月間日本公使館に滞在した後、1925年2月から1931年の11月まで天津の日本租界で逗留生活をしたが、わが国はは決して歓待しなかったのである。ジョンストンの同上書にはこう記されている。
「1925年から1931年までのいつでも良い。万が一でも日本政府が、日本で皇帝を暖かく歓迎すると少しでも匂わせていたら、皇帝は単調でつまらない天津の生活を捨て、美しい京都の近郊か、天下無双の富士山の見える田園の別荘で、自由にのびのびと生活できる機会が訪れたと大喜びしたことだろう。だが日本政府は、皇帝にそのようなそぶりを見せなかったのだ。それどころか、日本や、日本の租借地である満州の関東州に皇帝がいては、日本政府が『ひどく困惑する』ことになるという旨を、私を通して、間接的に皇帝に伝えたほどである。」(同上書 p.367~368)

昭和6年10月1日 大阪朝日新聞 満洲独立を叫ぶ諸団体側面観

昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を機に、悪政を続けてきた張学良政権打倒を旗印として満州各地で独立運動が起きている。上の画像は同年10月1日の大阪朝日新聞だが、このような運動に関しては多くの新聞が報じており、注目すべきは日本軍がまだ進出していない地域でも発生しているという点である。
リットン報告書には「顕著な民族意識を持った満州人の運動は存在しない」と記されているのだが、明らかな誤りであると指摘するしかない。

昭和6年9月30日 大阪毎日新聞 満蒙独立運動に絶対に干渉せぬ

上の画像は9月30日付の大阪毎日新聞の記事だが、このような満州の独立運動に関してわが国は、列国の誤解を招来することがなきよう、何人たりとも関与させないことを29日の閣議で決定したことを伝えている。

昭和6年11月4日 大阪朝日新聞 有力な人を得れば満蒙独立は可能

その後、各地でばらばらで動いてきた独立運動が、宣統帝溥儀を擁立することでまとまっていくのであるが、11月4日付の大阪朝日新聞で、地方維持委員会の袁金鎧(えんきんがい)は「信望のある有力者をして東北を統一せしむる」と答えている。溥儀が天津から動くのはその9日後の11月13日のことである。

昭和6年11月14日 大阪毎日新聞 宣統廃帝を擁立し満蒙独立国建設

そして11月14日付の大阪毎日新聞はこう伝えている。
「張学良政権倒壊後の東北には事実上これに代るべき実力者なく、一方満洲民族の名門たる清朝の末裔を擁立することは満洲のみならず蒙古を併合して独立国を建設するに容易なる事由があるので遂に宣統廃帝を擁立するに最後的決定を見、従来排擠的関係にあった袁金鎧、閻朝璽、于沖漢ら巨頭もこれに賛意を表するに至った
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10164248&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

『紫禁城の黄昏(下)』を読むと、溥儀はギリギリまで天津の日本租界にいて11月13日に自分の意思で満州に向かったとある。

ジョンストンはこう書いている。
シナ人は、日本人が皇帝を誘拐し、その意志に反して連れ去ったように見せかけようと躍起になっていた。その誘拐説はヨーロッパ人の間でも広く流布していて、それを信じる者も大勢いた。だが、それは真っ赤な嘘である。…皇帝は本人の自由意思で天津を去り満州に向かったのであり、その旅の忠実な道づれは鄭孝胥と息子の鄭垂だけであった。」(同上書 p.393~394)

満州国が正式に建国されたのはその翌年(1932)の3月1日で、元首には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いている。溥儀は満州族の皇帝として、満州族の故地に戻ることを決意したのである

満州国政府組織系統及重要職員表
満州国政府組織系統及重要職員表】

またリットン報告書には「満州における漢人の証言によれば、(満州国の)すべての権力は日本人の手に握られ」とあるのだが、昭和7年(1932)版の『現代中華民国満洲国人名鑑』を確認しても、重要職のリストに22人中5人の日本人名を見つけることが出来るだけだ。しかも「長」という名の付くポストに就いたのは法制局長の三宅福馬ただ一人である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238338/333

日本植民地の真実

わが国では満州国を日本や関東軍の傀儡国家とみなす歴史叙述が多いのだが、この点について黄文雄氏は『日本植民地の真実』でこう解説している。

満州国を『傀儡国家』と見なし、長城以北の諸民族の協和を目指す新国家の再建を否定するのは、明らかに『天に二日なく、地に二王なし』とする中華帝国史観の国家観に他ならない。現在、中国におけるかつての満州国の『正式呼称』は『偽満州国傀儡政権』である。満州国を呼ぶに際し、必ず『偽満州国』との言い換えにこだわるのも、中華絶対主義に基づく心理の表れだ。それに従う日本の学者は少なくないが、『偽満州国』論など鵜呑みにしては、歴史的事実は直視できなくなる。」(『日本植民地の真実』p.280)

確かにわが国は満州国の建国にあたり支援的役割を果たし、建国後も支援したことは事実である。しかし、出来たばかりの満州国が生き残るために、どこか強い国の支援を受けようとすることは当たり前のことではないのか
わが国が満州国を支援することは、無政府状態にあった満州の治安を回復させ居留民を守ると同時に、これまで多額の投資をしてきた満州における我が国の権益を守る目的から都合が良かったのであろうが、満州国もまた関東軍の軍事力により治安が回復し、満州が日本の支援により経済発展することを期待したことは間違いないところだろう。
このような互恵関係をわが国と結んだことで満州国が『傀儡国家』などと呼ばれるのであれば、世界中の小国のほとんどがどこかの国の『傀儡国家』になってしまうことにならないか。

このように満州国の成立に至るわが国の歴史記述はおかしなことだらけなのだが、なぜこのようなことになるのであろうか。このことは、もし満州人が独立国家をつくる動きがあった真実を歴史叙述の中で描いた場合にどうなるのかを考えればある程度察しがつく。
このブログで何度か書いてきたことだが、わが国民は戦後の長きにわたり『戦勝国にとって都合の良い歴史=自虐史観』を押し付けられ、学校やマスコミなどで繰り返し擦り込まれてきた。
よくよく考えればわかることなのだが、『自虐史観』というものは、関東軍なりわが国がよほど悪者でなければ成り立たない。もし関東軍が、治安が悪化していた満州におけるわが国の権益を守るために満州を平定した経緯や、満州国の成立が満州族の自発的な独立運動があったという史実がキチンと描かれていたならば、『自虐史観』は説得力を失うことは確実なのだ。

当時の記録などで事実と認定できる内容を大量に無視することで成り立っているような歴史観は、ネットなどで歴史の真実が国民に知られるようになるにつれていずれ消えていく運命にあると考えるのは私ばかりではないだろう。
中韓が声高に主張するような歴史叙述が、全面的に書き換えられる日が一日も早く来ることを祈りたい。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「南京大虐殺」の真実を追う~~中国排日8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-245.html

盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html








満州に関東軍が駐留していた背景を考える

教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州関東軍がいたかについて一言も触れることがない。

黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。

ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権利が明記されている。これで計算すると、鉄道守備隊の最大規模は14,419名、実質二個師団になる。その後、日清条約第一条でもこの約款は再確認されている。
関東軍』の前身はこうして生まれたのである。関東軍は、ソ連を仮想敵国とした独立戦闘集団で、その正式発足は第一次世界大戦末期のシベリア出兵(1918年)である。
関東州や関東軍の『関東』は、もともと万里の長城の東端である山海関以東という意味の地域名で、日本が1905 (明治38) 年9月にそこに設置した行政府が『関東総督府』だったことによる。…
満州事変を迎えるまでの19年間、関東軍の規模は内地から交代で派遣される1個師団と独立守備隊、重砲兵大隊、関東軍憲兵隊といった規模に過ぎなかった。もともと満鉄沿線を守備するだけが任務だったため、いたずらに増強することは出来なかったのだ。」(『日本の植民地の真実』p.274-275)

鉄橋守備の日本軍

このようにわが国が軍隊を送り込んだ理由は、明治38年(1905)に締結された日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の追加約款第一において、満鉄沿線を守るために1km毎15名を超過しない人数で守備兵を置く権利が認められていたことによるが、この人数は決して多くない。

わが国が獲得した満州の利権を活かすためには、移民を送り込みさらにインフラを整備するための投資が必要であったことは言うまでもないが、当時の満州の治安は劣悪な状態にありながら中国の官憲は治安を改善させようともしなかった。そのためにわが国は、満州の警察権に関与せざるを得なくなっていたのである。

大正4年3月16日~ 時事新報 日支懸案解決 警察権関与

上の画像は大正4年(1915)3月16日から時事新報に連載された「日支懸案解決」の記事だが、警察権に関与せざるを得なかった事情が縷々述べられている。

「警察権干与の一般的理由を挙ぐれば凡そ左の如し
(第一)満蒙の地たる人煙希疎にして政令の思考風気の教化尚お未だ普からざるが為めに匪賊*横行の患い甚だ多く所謂馬賊*なるものは之等の地方を通じて抜くべからざるの根拠を有するを以て地方人民の生命財産は常に危殆を免がれず仮令い我国人にして此等地方に居住、土地所有及び採砿の権を得るとするも予め是種匪賊の難を防ぐの道を講ずるに非ざれば安んじて住居を構え業務を営むを得ざるべし
(第二)独り匪賊の難あるのみに止まらず満蒙に於ける支那官民中には我国人に対して深刻なる敵意を懐き事に臨み機に触れて之を凌虐せんとするの風あり。或は之に反して我国人に対して頗る好意を表する者もなきに非ずと雖も尚お且つ彼等の性癖として瑣末の衝動の為め急に其心情を一変することあり。決して永く其好意に信頼するを得ざるを以て苟も我国民が三権の獲得に依りて満蒙の内地に支那人と雑居する以上我警察力を以て之を保護するは緊要欠くべからざるの処置ならん
(第三)仮令支那官民に悪意なしとするも、風俗習慣を異にし文化の程度を異にする日支両国民の間には、往々他の言動を誤解邪推して紛争を生ずるの例少からず、鉄道沿線もしくは之に接近せる地方に於ても尚お且つ然りとすれば、我国人の多数が深く内地に進入するの暁に及んでは、此等の弊風は益々甚だしきを加え、或は意外の奇変を勃発するに至るやも量るべからず。是種の危害を予防するの方法としては、我警察権を内地に拡張し我警察官をして支那官民並に我国人の誤解邪推を矯正せしむるの外なかるべし
(第四)支那官憲の間に無知無能にして徳義廉恥の念を欠くもの甚だ多きは今更言う迄もなけれども、満蒙の如き僻陬の地に在任するものに至りては是等の欠点ますます甚しきを加えるの事実あり。斯る官憲の下に在りて我国人が周到公正なる保護を被らんを望むは、甚だ覚束なき次第と云わざるを得ず。固より司法上には治外法権を存すと雖も、一般の警察事務に於ては現状の儘を以てするときは概して支那官憲に一任するの外なきを以て我国人の内地に雑居するもの増加するに随いて其不利不安ますます甚だしきを加えざるを得ず。即ち我国が三権の獲得を要求すると同時に警察干与をも併せて要求せざるを得ざる所以なり
(第五)我国人は事実上既に鉄道附属地其他の境界を越えて附近地方に雑居するもの少からず。其結果として我国人に対する日支両国警察の権現に関して紛議を生ずるの例も亦少からず。斯くの如きは満蒙に於ける日支両国間の関係を円滑ならしむる所以に非ざれば仮令三権獲得のことなしとするも尚お且つ我警察権を未開放地の一部に向って拡張するの必要あり其獲得に依りて我国人の未開放地雑居無制限と為るの暁に及んでは其必要ますます大なるべし」
*匪賊(ひぞく)、馬賊: 関東軍や旧満州国の治安機関は、政府に敵対する集団を盗賊と同じ意味をもつ「匪賊」と呼んだ。騎馬を中心にした組織を「馬賊」とも称した。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10125392&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

生命・財産の危険を感じるような地域には誰しも住もうとは思わないところだが、中国は、満州の地に移住した日本人を排除するためにあの手この手を用いている

大正2年11月3日 やまと新聞 満洲に於ける居住権

たとえば大正2年(1913)11月3日のやまと新聞にはこう報じている。
「我外務当局者は満洲未開放地に居住せる邦人が或は退去を命ぜられ其居住営業権の安定を害さるるが如き傾向は多く之を見ず。却て支那官憲は屡々(しばしば)切実にこれが保護を声明しつつありと称しつつあるも、事実は不幸にして屡々我邦人が支那官憲に迫られて折角築き上げたる其根拠地を放擲して退去せるの実例を見る。今是を最近に起れる二三の事実に就いて証せんか

一、本年三月の交長春の西北方なる農安県に居住せる六戸三十四人の邦人は突然支那官憲に退去を命ぜられ、其命に従わざるや遂に多数の巡警は各戸を包囲して其戸扉を釘付にしたり
二、去る九月中奉化県知事の退去命令により売買街及小城子方面に居住せる邦人男女六名は四平街に引揚げたり
三、十月二十七日満洲各地の官憲は北京政府の命令なりとて未開放地居住の邦人に対しては馬賊等の危険につき生命財産の保護の責に任ぜざる旨を言明し其退去を要求せり
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10125397&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

刀とモーゼル銃を構える馬賊
【刀とモーゼル銃を構える馬賊

「馬賊」は大量の武器を保有しており、満鉄の線路のボルトや枕木が抜き取って列車を止め積み荷を盗む事件、住居侵入事件などが頻繁に起きて、邦人被害も大きかったのだ。本来、馬賊の危険を排除することは中国官憲の仕事であるはずなのだが、それを行おうともせずに「馬賊等の危険」があるとして日本人に退去を要求するというのはどう考えてもおかしな話である。

中国はさらに排日運動を起こして、日本製品の不買や嫌がらせや暴力事件を繰り返したわけだが、国策として満州移民を推進し多額の投資をしてきたわが国として、満州に渡った人々の生命財産や権益を保護することは当然のことではないか。しかしながら、こんな治安状況ではそれが困難であることは明らかだ。

関東庁要覧 大正12年版
【関東庁要覧 大正12年版】

関東長官官房文書課による『関東庁要覧  大正12年版』にはこう記されている。
「南満州に於ける匪賊の横行は依然として酷だしく、大正10年管内外をつうじて日本官憲の聞知せる馬賊、海賊及び強盗の被害は461件。死傷者153人、拉去せられたる人質125人、被害価格55万1643円を算し、内邦人の被害70件、死傷35人、被害価格15万4365円にして、邦人被害は前年に比し著しく増加せり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939399/168

匪賊の夜襲

ところが『関東庁要覧  昭和6年版』になるとその被害はその数倍に跳ね上がり、彼らの犯行の手口が具体的に記されている。

匪賊犯罪は頓(とみ)に増加し、昭和4年中管内警察署の関知せる近接支那管内の匪賊犯罪は1170件の多きに達し、さらに昭和5年に於いては、9月末日までに1650件の夥しき数を示せり
 これら馬賊なるものに付いては確たる定義あるに非ず、頭目、副頭目、小頭目等の下に傾倒的かつ継続的に結合する一種の強盗団体にして、通常小銃、拳銃、刀槍、時としては砲機関銃などを携行し、あるいは馬隊を組織するもの等あり。
 昭和5年中には支那軍服を着用せる軍装そのままの馬賊団各地に横行
を見たるが、その犯行手段としては、個人または住民団体に対し脅迫状を送りまたは直接侵入し、期限を定めて金品を強要し、これに応ぜざるときは機を見て予告通り焼打ちもしくは殺傷をなしもって報復し、直接侵入して銃器その他の凶器を擬し、場合に由りては容赦なく殺傷をあえてし、金品を強奪し人質を拉致し期限を付し囘贖金を強要し、これに応ぜざれば耳鼻または指を裁りてこれを贈り催促を試み、なお目的を達せざるときは人質を惨殺する等大胆かつ強暴なる行為に出づるを常とす。…
 なお銃砲火薬類の取締厳重となり、銃器の容易に得難きに至るや、不逞の徒はわが守備兵および警察官の所持する武器の掠奪を企て、巡邏中の守備兵または警察官を狙撃する事件
を生ずるに至り、昭和4年中には数件の被害を見たるも、昭和5年中にはこれらに対する予防訓練も徹底し、常に賊の機先を制して未然に防ぎえたること一再に留まらず。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223815/117

満州匪賊の本部

このように満州は昔から馬賊が跋扈していて法治はおろか人治すらない状況にあり、民衆は仕方なく馬賊に金を払ってその頭目の力で他の馬賊からの襲撃を守ろうとしてきたのである。しかしながら満州内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が「自衛」を超えて盗賊まがいの行動を取るようになり、次第に武装を強化していくことになる。満州で軍閥に成長して悪政を敷いた張作霖・張学良親子は馬賊出身で、その部下にも馬賊出身者が多かったことを知るべきである。

昭和6年8月18日付 東京朝日新聞

そして昭和6年(1931)6月に中国官憲のパスポートを携行して旅行していた中村震太郎大尉と井杉元曹長らが興安屯懇団に捕らえられて射殺され、さらに目を抉り耳をそいで焼き捨てられる事件が起きた。また9月に入ると、満州各地で馬賊による殺害事件や強盗事件が相次ぎ、関東軍は馬賊の根拠地にも出動する自力警備を始めたのだが、そんな時期に柳条湖事件が起こっているのである。

関東軍はたちまちのうちに北大営、奉天、長春、営口の各都市を占領していったのだが、前述した通り関東軍の兵力は1万数千程度に過ぎず、一方張学良が指揮する東北辺防軍は30~40万もいて飛行機や戦車などの近代的装備も備えていたのである。

林銑十郎
【林銑十郎】

わが国政府は当初「戦線不拡大方針」で臨もうとし関東軍の増派に反対したのだが、もし増派がなければ、圧倒的に人数の多い張学良軍からの反撃は避けられず、多くの犠牲が出たことであろう。関東軍の林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で満州に増援することを決め、昭和7年(1932)2月のハルピン占領によって関東軍による中国東北部支配が完了したのである。

東三省に於ける官兵匪賊暴挙実例

柳条湖事件以降、中国の官兵や馬賊の活動のため、満州の日本人居留民に多くの犠牲が出ている。
国立国会図書館デジタルコレクションに『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』という記録がある。「東三省」というのは現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省を指すが、概ね「満州国」の領土を意味している。
その書物には、58日間に165件もの民間人が犠牲になった事件が個別に記録されているのだが、この記録とて全体の一部にすぎないのだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187781/3

1932年3月に満州国が建国されると満州国軍も創建され、関東軍が従来の任務のほかに満州国軍の指揮をとることとなり、関東軍も年々増加されていく。
そして、当時満州に30万人いたとも3百万人いたともされる馬賊の討伐が関東軍によってなされて、満州の治安がようやく安定したのである。

黄文雄
【黄文雄】

黄文雄氏は、冒頭で紹介した『日本の植民地の真実』で関東軍についてこう解説されている。
「中国人だけでなく戦後の日本人からも、関東軍は満州侵略の張本人として悪名が高い。だが関東軍の歴史的評価の上で最も大切なのは、住民を苦しめ続けてきた軍閥、匪賊を満州から駆逐して社会に秩序をもたらし、王道楽土の近代化建設の基を築き上げたとの功績ではないだろうか。関東軍が存在しなければ、満州の地に平和は到来しなかったのだ。」(同上書 p.275-276)

私が社会人になったばかりの頃、担当した取引先の社長さんが関東軍を経験された方だった。あの当時は私も完全に『自虐史観』に洗脳されていて、関東軍は日本を戦争に引きずりこんだ元凶とのイメージが強く、その社長とは戦争の話を一切しないまま私が別の職場に転勤してしまったのだが、今から思えば随分惜しいことをした。

終戦後73年も経ち、戦争を経験した人々はほとんどこの世を去り、戦争の話を聞きたくても聞くことが出来なくなってしまっている。ほとんどの日本人にとって、日中戦争から第二次世界大戦のことはマスコミが伝える映像や解説を通じてしか知ることしかできないのが現状だが、戦後彼らが伝えてきた大正から昭和にかけての歴史は、国民を『自虐史観』に洗脳させ固定化するために描かれたものと言っては言い過ぎであろうか。
戦勝国が「自国にとって都合の良い歴史」を敗戦国に押し付けるようなことはいつの時代もよくあったこととは言え、いつまでわが国はこのような歴史叙述に付き合わされなければならないのだろうか。当時の記録を読んでいけば、「戦勝国にとって都合の悪い真実」をいくらでも見付けることかできるのだが、残念なことにわが国では戦後の長きにわたりそのような史実は封印されてきたのである。

これからの世界は米中の対立を軸に展開することになると考えるのだが、アメリカからすれば武力を用いなくとも、保有している秘密文書などから「中国にとって都合の悪い真実」を少しずつ公開して世界に広めるだけで、中国に強いダメージを与えることができる。そのようにして戦勝国の歴史が二つに割れるようになると、中国が声高に主張する歴史はその論拠が根底から崩れ、同時にわが国の『自虐史観』論者も力を失うことになるのではないだろうか。

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【ご参考】
このブログで「中国にとって都合の悪い真実」のいくつかを書いてきました。良かったら覗いて見てください。

蒋介石はなぜ外国人居留地であった上海で日本軍と戦ったのか~~中国排日6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-243.html

プロパガンダでわが国に罪を擦り付け、世界を「反日」に誘導した中国~~中国排日7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-244.html

「黄河決壊事件」の大惨事が教科書に記述されないのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-251.html

陥落直前に無責任にも南京を脱出した中国軍の最高指揮官が栄転したのは何故か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-253.html

蒋介石に外国の干渉を導くことを進言したドイツの軍事顧問団
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-254.html

ルーズベルトはなぜ黄色人種の中国を連合国陣営に残そうとしたのか~~米国排日11
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-271.html

軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-285.html

南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-414.html

日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-415.html








満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか

昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件から始まった満州事変で、30~40万いたとされる張学良軍は、およそ1万の関東軍によって総崩れとなって満州から駆逐されてしまったのだが、彼らは圧倒的に兵士の数では関東軍よりも優位にあっただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。

張学良

Wikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である。
満州事変が勃発した時、彼は北平にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたと後に述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E5%AD%A6%E8%89%AF

NHK取材班が張学良にインタビューして編まれた『張学良昭和史最後の証言』には、張学良が兵士に対し日本軍に抵抗しないことを指示したことが述べられているようなのだが、普通に考えてわずか1万の関東軍に対して30万以上いたという兵士全員に無抵抗を指示したという張学良の言い分が正しいとはとても思えない。

黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられるが、おそらく真実はこのとおりではなかったか。

「それは、張学良軍があまりにも弱体だったからだ。その最精鋭の主力部隊ですら、関東軍の30センチ砲の轟音に驚倒し、そのまま総崩れとなっている。それまで排日侮日に狂奔していた彼らは、関東軍が一向に動かなかったことに安心し、完全に侮っていたのだ。逆襲があるなどとは夢にも思わなかったのである。
 彼らの本質は、匪賊と変わりがなかった。そのような軍隊だから、反乱や兵器の悪用を防ぐため、夜間銃器類は一括して格納されていた。これが主力部隊の決定的な敗因となった。」(『日本の植民地の真実』p.277)

格納されていた張学良軍の銃器の多くは関東軍によって鹵獲されたことは言うまでもない。

日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか

こののち敗残兵が満州各地で略奪と虐殺を繰り返している。
田中秀雄氏の著書『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』にはこのように記されている。
9月26日、京奉線を走る列車が新民屯近くでレールを外され脱線した。転覆した客車は待ち構えていた敗残兵の掠奪と虐殺の標的となり、60数名が死傷した。欧米関係では8名が犠牲となり、インド人1名が殺害され、女性を含む数名が行方不明となった。
 これには後日譚がある。破壊車両は天津に運ばれて展示された。日本軍の空爆によるもので、無辜の中国人が多数虐殺されたと宣伝に利用された。アメリカの宣伝も見事で、奉天では3名のアメリカ人が日本人に虐殺されたと報道された。
 奥地の朝鮮農民は敗残兵の毒牙にかかりやすかった。撫順の北40キロ遼寧省鉄嶺県や開原県の2千名あたりが生活する朝鮮農民一帯が襲われ、家はことごとく放火された。辛うじて虐殺を免れた農民は山に逃げ込んだ。虐殺は百名に上った。女性や子供に犠牲者が多かったのは、稲刈りの時期で避難を躊躇した家族が多かったためだ。
 10月1日、敗残兵掃討と農民保護のために重松大隊と警察官が被害地の大甸子(だいでんし)に到着した。山に隠れていた農民は日章旗を見て狂気の如く山を駆け下りてきた。日本兵は十日ばかりろくに食べていなかった彼らに食糧を配った。虐殺死体は目も当てられなかった。鉈(なた)で頭部を割られた男性、負った子供ごと刺殺された母親。藁(わら)を斬る押切で首を落とされた婦人の遺体があった(『満州日報』10月8日付)。警察官は生き残った農民を集め、『どんなことがあってもお前たちを保護する、一歩も譲らぬ』と涙ながらに語りかけた。」(『日本はいかにして中国との戦争に引きずりこまれたか』p.200-201)

東三省に於ける官兵匪賊暴挙実例

この本にはこのような事例が多数紹介されているが、これらは決して作り話ではない。この大甸子の事件は大連商工会議所がまとめた『東三省ニ於ケル官兵匪賊暴挙実例 : 自九月十九日至十一月十五日』の9月26日の記録(二十八)にもしっかり記されており、この日には2件の列車の襲撃事件が記録されていることも確認できる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187781/5

昭和7年4月14日 大阪時事新報 満洲全土に跳梁する無慮十万の匪賊

黄文雄氏は前掲書で張学良軍のことを「匪賊と変わりなかった」と記しているが、相当数は匪賊そのものではなかったか。
昭和7年(1932)4月14日付の大阪時事新報に満州匪賊の討伐の記事がでている。それによると、これら匪賊団の中心をなすものは第二次東北義勇軍で全体を指揮していたのは張学良の腹心である胡育坤であったという。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162733&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

満蒙管理論

昭和3年(1928)に出版された細野繁勝 著『満蒙管理論』という本に、中国の当時の軍隊について非常にわかりやすい解説があるので引用させていただく。文中の「支那」というのは「中国」を意味する言葉である。

「支那には過去においても現在においても、実数を測り知る能わざる多くの軍隊がある。こは世界何人の目にも夙(つと)に映出せられている事実ながら、さてその夥(おびただ)しき軍隊はそもそも支那のために何の用を為しているか。実際は数十万乃至(ないし)百数十万をも超ゆる――1920年の統計では百三十六万と称す――その陸軍が、全部国家の兵員ではなくて、いわゆる護国軍とか、革命軍とか、いろいろの名称をこそ付すれ、その実態は一人残らず軍閥の私兵なのである。清朝時代には、それでも表面的には官兵たるの形を装っていたが、武漢革命以来は、その形式さえ失われて悉(ことごと)くそれぞれの軍閥の頭目に隷属する私軍私兵となっている。これは海軍も同様である。その上なお驚くべきことは、それが決して普通の良民ではなくて支那名物の土匪、浮浪人、乞丐(カタイ:乞食)の変形であり、それらの異名同体たる事実である。…
 私兵の存在を容認する国家は、如何なる場合においても断じて健全国家ではない。しからば私兵ばかりしか持たぬ国、私兵以外に一個の国軍も有せざる国、これを目して世界の人々はいかなる名称を与え、如何なる取り扱いを為すべきであろうか――それに国家の名を付すことすらが妥当とはいえない。…
 そこには張作霖とか、馮玉祥(ふうぎょくしょう)とか、閻錫山(えんしゃくざん)とか、蒋介石とか、唐生智などといったような各頭目と、これらに付随する私兵は存在する。そしてその私兵を擁して、一時的にある地方に権力を持つものの存在することも嘘ではない。しかしながら事実はただそれだけである。それが支那を代表するものでなければ、中華民国なるものの権利と義務を諸外国に負うものでもない。ましてや、その軍閥や私兵と没交渉なる絶対多数の支那の人民としては、たとい彼ら軍閥の徒が如何に国家の名を僭称するにもせよ、真実は少しの関係も因縁もないのである。支那の権力者と支那の人民とは徹底的に性質を異にする二元的存在である。…
 支那一般の人民は、昔からその軍隊を呼んで『兵匪』といっている。即ち武装せる盗賊の集団という意である。…
 支那にあっては、初めからその軍隊に投ずるものが匪賊不逞の徒であり、徴募せらるるものも苦力以下の浮浪者なるのみならず、彼らの目的とするところも、武器を携えて劫掠(ごうりゃく)略奪の機会を得んが為である
 支那の軍隊は、旧領が法外に安い。被服食物等も甚だしく粗末である。そしてその安い給料や衣食さえ支給されぬことが珍しくない。それを彼等は民家に対する脅迫と掠奪とで補っているのである。無論かかる軍隊のこととて、戦闘力の強かろう筈はなく、掠奪には頗る勇敢だが、戦争には極めて弱い。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1269485/41

軍閥と人民とは「徹底的に性質を異にする二元的存在」とはいっても、こんなレベルの軍隊を維持するために、人民は重い負担と数多の犠牲を強いられていたのである。
前述の大甸子の虐殺事件では、山に逃げ込んで難を逃れた朝鮮人農民が日章旗を見て山を駆け下りてきたという記録は重要なポイントである。満州の人々は、わが国の軍隊と警察に信頼を置き、わが国が匪賊の集団たる張学良軍を満州から追い払うことを心から願っていたのではなかったか。

朝鮮人に限らず満州居留民の多くは日本軍を敵視しなかったようなのだが、その背景を知るためには、かれらは張学良軍閥の為に、いかに過酷な生活を強いられてきたことを知る必要がある。

昭和7年1月12日 満州日報 満蒙新国家

上の画像は昭和7年1月12日の満州日報だが、満州居留民が日本の統治を切望した背景についてこのように解説されている。

「建国次来軍閥のため搾取されている彼等は生色を失い、今日では統治者の何者であろうと搾取主義でない統治者であればよいと悲鳴を挙げている。恐らくこれは偽らざる告白であろうが、暗に日本の監理統治を切望してる者も決して少くない
 之は今次の事変により吸血搾取者たる軍閥を一挙に屠った日本の軍隊が規律整然として秋毫も犯さざるのみか、軍行動に徴発使用した総てのものに対しては支那人からすれば余りに高価過ぎる程の金銭を支払い、兵匪のために掠奪された悲惨な良民に対しては金品を恵与し、曾て味うたことのない人間味を日本軍隊によって味うたことが彼等支那人間に如何に好感を持って迎えられたか。彼等は日本の軍隊と支那の軍隊とを比較して見たのである。
 前者は勇敢で強く、勝って良民を犯さず、戦い休めば我等の顧客で、毫末も搾取的に出でない。後者は良民にのみ強く、敗走に際しては敗戦の駄賃として手当り次第にこれ掠奪、婦女子を姦し放火殺人、全く強盗か軍隊か解釈に苦しむ。また役人は役人で重税に重税を課し、安い日本品の輸入買入を圧迫し、或は日本人との合弁事業禁示、国土盗売等々で個人的の財産を殆んど搾取し尽すという有様である
 今日の彼等は生きんとして生きられぬ悲惨な極に達していた。何が彼等をそうさせたか、云うまでもなく軍閥と役人所謂彼等の統治者である
。日本の統治を切望し歓迎するのは理の当然であろう。」
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10162877&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

張学良は満州の民に過酷な重税を課しただけでなく、軍の兵士が各地で資産家の誘拐・強奪・財産没収などの悪事を働いていたわけだが、一般居留民がそのために恐怖に晒されていた状況を改善するためには、『兵匪』と呼ばれていた連中を武力で討伐する以外にどのような方法があったというのだろうか。わが国は何度も「厳重抗議」を繰り返してきたのだが、そんなことで改善してくれるような相手ではなかったのである。

奉天入城

よく関東軍が満州を「侵略した」と描かれるのだが、居留民に対し掠奪・暴行を繰り返してきた張学良の私兵を関東軍が討伐したことを、果たして「侵略」と呼ぶべきなのであろうか。
もし満州の人々が関東軍を敵視し強く抵抗したのであれば、「関東軍の侵略」という言い方は理解できるのだが、実際のところはどうであったのか。

まず満州の人口の推移から見てみよう。
満州国が建国された1932年10月の人口は2928万人であったが、1940年には4108万人に増加している。
次に満州国の予算規模は1932年が一般会計113百万円、特別会計42百万に対し1940年は一般会計574百万円、特別会計2,025百万円と大幅に増加している。

もし関東軍が満州の人々に敵視され抵抗されていたのなら、人口が増加することも、経済が成長して税収が増えることもなかったであろう。関東軍に対する満州の人々の支持があったからこそ、平和が訪れて満州の人口が増加して経済発展を遂げたと考えるべきではないのか。

昭和6年10月10日 満州日報 果たして成功するか満洲独立運動

関東軍が張学良軍を打ち破っていく過程で、満州の各地で中華民国からの独立運動が澎湃として立ち上がっていく。上の画像は昭和6年10月10日の満州日報だが、このような記事は他の新聞でも多数報じられている。誤解されないように一言加えておくが、これらの独立運動は関東軍に抵抗するものではなく、それまでの軍閥支配に対する抵抗運動である。張学良の勢力が衰えたから、満州人を中心に独立運動が起きたのである。 
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10161157&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

また9月29日のわが国の閣議では、このような独立運動に関与することは諸外国の誤解を招くことになるので、陸軍も外務省も一切関与しないことが決定されていることを知るべきである。

しかし、この時点では関東軍が張学良の残党討伐はまだまだ終わっていなかった。
黄文雄氏の前掲書にはこう解説されている。
満州事変が起こると、中国側の軍隊22万人と警察官11万人の大部分は民衆の武装勢力と合体し、あるいは錦州に逃れた王以哲軍に合流している。この混乱に乗じて匪賊集団は勢力を拡大し、敗走兵や逃亡兵も取り込んで人員、装備を充実させ、強大な勢力を形成し、匪賊の総数は十数万にも膨れ上がった。
 こうした匪賊が錦州にいた王以哲軍に合流し、遼西地方を荒らしたため、1931(昭和6)年12月には関東軍が、奉天省長臧式毅(ぞうしきき)の要請を受け錦州を攻撃、翌年7月にここを占領して、武装集団を内外に駆逐した。
 このように匪賊、兵匪が各地で跳梁する政情、治安の不安定ななかで満州国は成立した
。」(同上書p.302)

「満州国は関東軍の傀儡国家」などとよく言われるのだが、満州国が成立したのは1932年3月1日で、関東軍が匪賊討伐を完了したのはその4ヶ月もあとの話なのだ。
関東軍が満州のあちこちで勃発した独立運動を仕掛けて工作した証拠があるなら『傀儡国家』という言葉を使うことは理解できないわけではないが、この言葉を使う論者は論拠を示さずにただレッテルを貼っているようにも見える。彼らはその論拠が薄弱であることを承知の上で、議論を避けるために声高に言い続けているだけではないのか。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-293.html

政府中枢にいてソ連に忠誠を尽くそうとした『軍国主義者』たち~~ポツダム宣言5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-295.html

『玉音放送』を阻止しようとした『軍国主義』の将校たち~~ポツダム宣言6
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-296.html

昭和20年8月15日に終戦出来なかった可能性はかなりあった~~ポツダム宣言7
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-297.html

国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html









満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国

前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。

黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。
そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代アジアにおける歴史の奇跡として銘記されるべきだろう。」(『日本の植民地の真実』p.302)

関東軍が満州の匪賊を討伐したといっても、それで匪賊が完全にいなくなるようなものでもなく、治安維持のためには武装警察の力が不可欠であった。
「そこで民生部警務司の下に警察制度が整備された。日本の陸軍士官学校出身の臧式毅(ぞうしきき)民政部長の下で、初代の警務司長には偉才の甘粕正彦が就任し、警察の組織化が推進された。
 こうした結果、中国との一部国境地帯を除き、満州の治安は良好となり、僻地においても列車旅行が可能になった。
」(同上書p.303)

その後満州国は近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せていくのであるが、国家の理念がしっかりしていてかつ官吏が余程優秀でなければそうはいかないだろう。しかしながら建国直後の満州国の人口の大半は漢人で、他に満州人、朝鮮人、日本人と民族は様々で、考え方もまたバラバラで、8割は文字が読めない人々であった。

満州国建国宣言

満州国が成立した1932年3月1日に対外に発表された『満州国建国宣言』には、「王道」という中華思想と「楽土」という仏教思想、さらに「民族協和」という多民族社会の共存共栄と、近代的な産業社会と法治国家の建設が謳われている。かなり長文なので後半部分の一部だけを紹介したい。

「竊(ひそか)に惟(おも)ふに政は道に本づき道は天に基く、新国家建設の旨は一に天に順(したが)ひ民を安んずるを主とす、施政は必ず真正の民意に徇(したが)ひ私見を存する事を容さず、凡(およ)そ新国家の領土内に居住する者は皆種族の岐視、尊卑の分別なし、原有の漢族、満族、蒙族及日本、朝鮮の各族を除く外、即ち其他の国人と雖(いえど)も長久に居住を願ふ者も亦(また)平等の待遇を享くる事を得、其当に得べき権利を保障し、其をして絲毫(しごう)の侵損あらしめず、並に極力往日の黒暗政治を鏟除(さんじょ)し、法律の改良を求め、地方自治を励行し広く人材を収めて賢俊を登用し、実を奨励し金融を統一し富源を開闢し生計を維持し警政を調練し匪禍を粛正す、更に進んで言へば教育の普及は当に礼教を崇ぶべし、王道主義を実行して必ず境内一切の民族をして煕々皓々(ききこうこう)として春台に登るが如くならしめ、東亜永久の光栄を保ちて世界政治の模型となさんとす。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908621/40

駒井徳三
【駒井徳三】

満州国政府最初の総務長官に就任した駒井徳三が昭和8年(1933)に著した『大満洲国建設録』という本がある。民族や思想の違いを乗り越えてできたばかりの満州国をリードしていくために、彼は最初に何をしなければならないと考えたのか。

「満州国政府最初の総務長官としての私は、日系官吏を代表して、排日系、中立系、親日系その他私の考え雑然たる満州国官吏を強く握りしめて、これを立国の意図通りにリードして行くべき必要と責任とを痛切に感じた。では、それがためには、満州国における政治は何処までも公明正大に強く、明るく、朗らかでなければならぬ。苟(いやしく)も従来軍閥政権の下に醸(かも)された賄賂政治的臭気ならびにスパイ政治的暗影を徹底的に排撃しなければならぬと思った。と同時にこの際私が是非とも実行しなければならぬとしたところは、満州国における中央集権制の確立、群(むらが)り来たる各種利権屋の排除、紊乱極まれる幣制の統一、更に進んでは満州国を一個の完全なる独立国家として我が祖国日本に承認せしめることであり、これこそ新国家の誕生をことぶく最大の祝辞であり、私の果たさねばならぬ重大任務であると確信し、私はひたむきに駑馬(どば)に鞭(むちう)ちて勇往邁進した。
 …
 私は今、何故に私が中央集権制の確立を強く主張したかについて、少しくその理由を語るべき必要を感ずる。…私はこう考える。支那における政治の腐敗混乱はもともと地方分権制にその禍根が存したのであって、各地方の有力なる省長なり督軍なりが各々自己の権勢にまかせて各自勝手に振る舞ったことから現在の如き不安なる状態に陥ったものである。そこで各省の省長はこれを文官とし、中央民政部総長の指導監督の下に置かしめ、また別に各省に警備司令なるものを設け、これに軍権を持たしめ、それは中央政府の軍政部総長の指揮統括の下に置き、更に財政の中央集中を行って、中央から派遣された税務監督機関ならびに税務署が各々その収税の任に当たり、中央の財政部総長が厳重に監督するといったような中央集中政治組織の確立を、名目的に非ず実質的に実現することが緊急焦眉の問題であると固く信じた。更にまたこれは交通のことに関しても同様で、各地の鉄道、通信機関を交通部に従属せしめて、その監督を受けしめることが必要であった。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234668/81

しかしながら、誕生したばかりの満州国に実務能力の高い官吏がいるわけではなく、優秀な日本人官吏を送り込んで指導させることにしたものの、日本人が多すぎても拙いので日本人官吏は全体の2割程度にとどめようとした。それでも駒井は漢人相手に随分苦労をしている。中国人のやることは今も昔も非常によく似ていると思う。

「三千万民衆とか五族の民とか言っても、満州国国民の大部分は漢民族である。漢民族は相寄り相扶けて一つの国家を構成すべき国民的集結力に欠けるところがあるが、しかし、民族社会を築き営む上に於いては一種独特の手腕を持つ優秀民族である。なるほど今日のいわゆる文化的科学的知識に於いては日本人が漢人より数等優れているかもしれない。ところが、いわゆる智恵かけひきに至っては日本人は到底漢人の敵ではない。この一種特異な民族を日本人の有する単純、請求、かつ率直なる知識、財力、武力を以て永久に誘掖指導していくということは容易ならぬことである。夷を以て夷を制するというのは漢民族が数千年来採り来った伝統的対外政策である。満州国が一つの独立国家として出現し、そこに若干の日本人が相当なる地位に入り込んだとして如何ほどの事を為し得ようか? 否むしろ日本従来の行き方を以てしては、必ず彼らに逆に巻き込まれるおそれなしとしない。幾多の先例はこれを事実の上に明示しているではないか? 彼らを以て直ちに日本人と心から融和提携し得る民族だと思うのは非常な誤算であり、飼い犬に手を噛まれるようなことにならぬとも限らぬ。まず満州国政府要路に或る日本人が入ったとすれば、その声望権威と対抗すべく、彼らの私設秘書である日本人を使って、日本本国の有力なる官民に対して盛んにそれら日系官吏の悪弊を放たしめ、結局その任に堪えざらしむるの策に出る如きは、彼ら一流の不愉快なる常套手段であり、朝飯前の片手間仕事である。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234668/118

このような連中を多数抱えて、少数の日本人官吏がわが国の国益中心に満州国の政策を誘導することなどできるはずがないと思うのは私ばかりではないだろう。彼らは満州国のそれぞれの民族が納得できるような、公明正大な施策を行うことに心掛けたことを知るべきである。

新京 最高法院
【新京 最高法院】

例えば、近代化を推進するために前近代的で人治的な法令や制度はことごとく廃止されて、建国の理念に基づいたものに置き換えられていった。また近代司法制度確立のため、1936年に法院(裁判所)組織法が制定され、新京の最高法院の下に新京、奉天、ハルビン、牡丹江、錦州、チチハルの6高等法院、その下に29の地方法院、さらにその下に129の区法院が設置され、司法と行政を兼ねていた司法公署、兼理司法県公署は廃止されて三権分立が達成された。
さらに日本政府は昭和12年(1937)12月に、満州国における日本人が享受する治外法権を撤廃し、満州鉄道付属地の行政権も満州国に移譲している。

また貨幣制度や税制も大幅な改正が実施された。
黄文雄氏は、満州のこれまでの制度上の問題点についてこう解説しておられる。
満州では、張作霖父子に限らず、各地の軍閥のほとんどが通貨の乱発で民衆を収奪していた。たとえば湯玉麟(とうぎょくりん)支配下の熱河省では、同省政府経営の熱河興業銀行が1926 (大正15) 年から3回にわたって異なる『熱河票』を発行し、そのたびに従来の紙幣を無効にして民衆の財産を収奪した。
 満州の軍閥にとって安定していた財源が租税であり、専売制度だった。租税徴収では簡単な請負徴収制度が採られ、超過税収額が奨励金として交付されるため、税吏は競って苛酷な取り立てに走っている。手っ取り早く蓄財できる徴税局長のポストは売買の対象となり、局長が代われば、その一族郎党で構成されていた局員も代わる。局長職の競売も軍閥にとっては大きな収入源となった。
税金の名目も多く、130余種に上ったこともあった。」(『近現代史集中講座 台湾・朝鮮・満州篇』p.190)

満州中央銀行
【満州中央銀行】

黄文雄氏によると、満州建国直後に設立された満州中央銀行が、公私各種の旧金融機関から継承した紙幣は、幣種15、券種136種に及んだそうだが、銀本位制が採用されたのち1932年に新通貨が発行され、わずか2年足らずで旧通貨との引き換えが進み、通貨の統一をはかることに成功したという。

満州中央銀行が発行した最初の一円紙幣

また軍閥支配下の時代は、満州では財政予算の大半が軍閥の軍備や内政に消えてしまい、インフラ整備はほとんど行われなかったのだが、満州国建国により鉄道、港湾、空港などの交通網整備から、農業・鉱工業などの産業開発、治山治水、電力供給、都市改修などの工事が積極的に行われた。

大連満鉄本社
【大連満鉄本社】

わが国が日露戦争以降満州国崩壊までに投資した金額は100~117億円と推定されているが、満州国の国家予算は1932年が1.4億円、1942年が8.2億円というから、如何にわが国が満州に多額の投資をしたかがわかる。

豊満ダム

南満州鉄道が吉林市を流れる松花江の上流に建設した豊満ダムの最大出力は70万キロワット、朝鮮窒素肥料(現在のチッソ)が鴨緑江に建設した水豊ダムの最大出力は60万キロワットというが、当時の日本本土の水力発電規模は合計で280万キロワットというから、投資規模の大きさは半端なものではない。ちなみに現在の日本最大の出力を誇る奥只見ダムが56万キロワットなのである。
当時豊満ダムの視察に訪れたフィリピン外相は「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したことが、案内をした満州電業理事長・松井仁夫の著書『語り部の満州』に書かれているという。

鞍山製鉄所
【鞍山製鉄所】

上の画像は鞍山の昭和製鋼所だが、この工場は175万トンの製鉄と100万トンの製鋼が可能で、当時国内の製鉄総生産量の大半を占めていた日本製鉄八幡製鉄所と遜色のない規模であった。
戦時体制下の満州では「一業一社」制度が採用され、大規模工場が多数建設されて、急速な産業発展を遂げ、人口は建国時(1932)の29百万人が、1942年には44百万人まで増加したという。

満州景観 写真帖 新京
【新京】

「満州国」という独立国家の存在を認めたくない中国は、今もこの国を日本の「傀儡国家」と定義し、日本軍による虐殺や搾取があったと主張しているのだが、この点について黄文雄氏は著書でこう述べておられる。

もしも本当に満州が阿鼻叫喚の地獄であったなら、なぜ満州国建国後に、年間100万人を超える中国人が『万里の長城』を超えて流れ込んだのだろう。
 人間なら誰であれ、自ら進んで虐殺の大地には入り込みはしないはずだ。
こうした至極当然の疑問について、中国人学者は何も答えられない。『日本軍に強制連行されたのだ』と弁明する者もいたが、もちろん、それはまったく根拠のない話だ。数万の関東軍がどうして、年に百万もの中国流民を強制連行できるというのか。また、その必要性は、どこにもない。
 …
 満州国は13年余と短命であったが、それでも東亜大陸の一角に戦闘機まで造れる大産業国家が忽然と出現したことは、人類史上の奇跡に近い。当時の中国人にとっては、戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育、医療を受けられるこの国は桃源郷だった。」(同上書 p.205-206)

満州国は終戦直前までは比較的平和であったのだが、1945年8月8日に対日宣戦布告したソ連は同日満州に侵攻した。関東軍首脳は撤退を決定し、8月10日に特別列車で脱出を図ったため、取り残された日本人居留民は酷い目に遭ったのだが、このことは以前このブログで書いたので繰り返さない。

ソ連軍のあと、ハゲタカのように満州を襲ったのが中国である。黄文雄氏はこう解説しておられる。
ソ連軍が満州に侵攻しはじめた翌日、中国共産党も満州占領を指令している。当時、満州の重工業は全中国の約90パーセントを占めており、事実上中国の生命線だったのである。
 号令一下、共産党軍は、ソ連軍と入れ替わるかたちで各地から続々と満州に侵入し、10月には国民党軍も進駐してきた。初期の戦闘では米式装備の精鋭部隊を投入した国民党軍が優勢で、共産党軍は一時、鉄道沿線都市から農村、さらに山林へと撤退したものの、やがて反撃に出る。このように、本格的な国共内戦は満州国の遺産をめぐって開始されたのである。」(同上書 p.211-212)

この戦いは1948年10月まで続いて、満州はほぼ共産党の手中に収まったのだが、林彪の報告によると、この戦いで殲滅された国民党軍は40万人以上、共産党軍の死者は6万人だったという。
こうして掠奪に成功した満州国のインフラの遺産が、長い間中国経済の屋台骨を支えてきたことは言うまでもない。

しかしそのような史実は、中国共産党の歴史を格調高く描く上では余程都合が悪いのであろう。彼らの行為を正当化するために、満州国は中国の歴史叙述の中で『偽満州国』などと呼ばれ、満州に巨額の投資をした日本企業も貶められることとなる。

豊満ダム万人坑

例えば先ほど紹介した豊満ダムの建設に15万人の中国人が徴用され、苛酷な環境の下で強制労働を強いられ15千人が死亡し、松花江右岸の河岸段丘に棄てられたと中国は主張し、『豊満万人坑遺骨館』を建設して大量の人骨等を展示している。旧満州国だけでこのように『万人坑』と称して人骨等を展示する建物が20ヶ所以上あるようだが、中国が主張しているようなことが本当にあったかどうかについては読者のみなさんの判断に委ねることとしたい。
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
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国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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