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長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて

毎年梅雨が明けた頃に車で旅行することにしているのだが、先日愛知県の新城(しんしろ)市を巡って来た。

最初に向かったのは長篠城址(新城市長篠市場22-1 ☏0536-32-0162)である。

長篠城址

長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上の天然の要害の地に、菅沼元成(もとなり)が今川氏の命を受けて永正5年(1508)に築いた城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち今川氏から松平氏の支配に移り、元亀2年(1571)に武田氏の支配に移り、天正元年(1573)には徳川氏の支配となったのだが、天正三年(1575)に武田勝頼がこの城を奪回しようとして長篠の戦いがはじまったのである。

1万数千の武田軍に包囲された長篠城には、城主の奥平信昌以下わずか500人ほどの兵しかいなかったのだが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかしながら兵糧蔵を焼失してしまって多くの食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められてしまう。そこで城主は家臣の鳥居強右衛門(すねえもん)を密使として岡崎城に送りこみ、徳川家康に長篠城の窮状を訴えて援軍を要請させることにしたのである。

鳥居強右衛門は5月15日の午後に岡崎城にたどり着いたのだが、城にはすでに信長の3万の援軍が到着していて家康の手勢8千と長篠に出撃する態勢であることを知る。そのことを一刻も早く長篠城に伝えようとして引き返すと、運悪く5月16日の早朝に武田兵に捕らえられてしまった。

鳥居強右衛門

武田兵は鳥居強右衛門に、「お前を磔にして、城の前に突き出す。そこで『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命は助ける」と取引を持ちかけ、鳥居はこれを承諾したのだが、翌朝城の前に磔(はりつけ)柱に裸で縛り付けられた鳥居は、武田との打ち合わせとは逆に「あと二、三日で、数万の大軍が救援にやってくる。それまで持ち堪えよ」と大声で叫んだという。鳥居はその場で武田軍に突き殺されたのだが、この言葉によって長篠城兵の士気は奮い立ち、設楽原で織田徳川連合軍が武田軍を撃破するまで城を守り通すことが出来たという。
また自らの命と引きかえに長篠城の窮地を救った鳥居強右衛門は、地元奥三河の英雄として、今もなお人々に語り継がれている。

武田軍による攻撃で長篠城が大きく損壊してしまったこともあり、城主の奥平信昌は新しい城を築いて新城(しんしろ)城と命名し、長篠城は廃城となる。

長篠城空堀と土塁

その後長篠城址は長い間放置されたようだが、大正時代に鳳来寺鉄道(現・飯田線)が建設されて敷地が南北に分断され、さらに城の北側は破壊されて畑地や宅地の開発が進んでいった。昭和4年(1929)に城跡一帯が国の史跡に指定されて、ようやく開発がストップするのだが、本丸の大規模な土塁や本丸南の野牛曲輪など、古い遺構が今も残されている。

長篠城址・史跡保存館

上の画像は長篠城址史跡保存館で、長篠城の籠城戦で用いられたという血染めの陣太鼓や鳥居強右衛門に関する資料、火縄銃や甲冑等の武具が展示されている。

設楽原歴史資料館

次に訪れたのは設楽原歴史資料館(愛知県新城市竹広字信玄塚552 ☏0536-22-0673)だが、このあたりは設楽原(したらがはら)と言い『長篠の戦い』の決戦場となった場所で、内部には火縄銃のコレクションや、長篠の戦で用いられた弾などが展示されていて、資料館の敷地内に馬防柵が復元されている。

設楽原歴史資料館 2

天正3年(1575)5月18日に織田信長・徳川家康連合軍3万8千が設楽原に着陣し、21日の設楽原決戦で武田勝頼軍1万5千と戦って大勝利を収めるのだが、この戦いで織田信長は「鉄砲三千丁・三段撃ち」を行ったと、学生時代に授業で教わった記憶がある。長篠城址史跡保存館、設楽原歴史資料館のパネルなどの解説もそのように記されていたのだが、今ではこの説は疑問視されているようだ。

設楽原歴史資料館 3

信長に関する記録は、信長旧臣の太田牛一が著した織田信長の一代記である『信長公記』が最も信頼性が高いと言われているが、その書物には長篠の戦いについて、以下のように記されている。

(信長は)酒井忠次を呼び、家康の軍勢の中から弓・鉄砲の巧みな者を集め酒井忠次を大将として二千ばかり、さらに鉄砲五百挺を持った信長のお馬廻り衆を加え、金森長近・佐藤秀方・青山新七の息子・賀藤市左衛門を検使として添え、合計四千ほどの長篠城救援部隊を編成した。
部隊は、五月二十日の戌の刻*、乗本川を越えて南の山地を回り、長篠の上、鳶の巣山へ五月二十一日辰の刻**に上り、旗頭(はたがしら)を押し立て、鬨(とき)の声を上げ、数百挺の鉄砲をどっと撃ちこんだ。こうして長篠城を包囲している武田勢を追い払い、城に入り、場内の味方と合流して、敵陣の小屋小屋を焼き払ったので、籠城の兵はたちまち運を開いた。武田方七部将に率いられた攻撃部隊は、突然のことであったから混乱し、鳳来寺をめざして退却した。
信長は、家康が陣取った高松山という小高い山に登り、敵方の動きを見て、命令するまでは決して出撃しないよう前もって全軍に厳命した。鉄砲千挺ほどを選抜し、佐々成政・前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直正を指揮者とし、ついで、敵陣近くまで足軽隊を攻めかからせて敵方を挑発した。前後から攻められて、敵も出撃してきた。」(新人物文庫『現代語訳 信長公記』p.243~244)
*戌(いぬ)の刻:午後8時の前後2時間頃
**辰の刻: 午前8時の前後2時間頃


信長公記

このように、『信長公記』では鉄砲の数は、決戦に使用された千挺と鳶の巣山の別動隊の五百挺と合わせて千五百挺程度であったことが読めるのだが、この鉄砲隊を相手に武田軍はどのように戦ったのか。

一番手の山形昌景も二番手の武田信廉(のぶかど)も鉄砲隊に撃ちこまれて退却した。
三番手以降の武田軍の戦い方を見てみよう。

「三番手には、西上野の小幡の一党。赤色の具足を揃えて、入れ替わって攻め掛かって来た。関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなしたから、小幡一党もまた騎馬で突撃する戦術で、攻め太鼓を打って突進してきた。味方は鉄砲の兵を揃え、楯に身を隠して待ち受け、撃たせたので、小幡隊も過半数が撃ち倒されて、兵力少数になって退却した。
 四番手は、武田信豊の部隊が黒の具足を揃えて攻め掛かって来たが、こちらからは軍勢は一隊も出撃させず、鉄砲だけを増強して足軽であしらった。敵方は撃ち倒され、兵力を削がれて退却した
 五番手は馬場信春、攻め太鼓を打ち鳴らして攻め寄せたが、味方は鉄砲隊を揃えて撃ち払い、敵は前と同じく大勢が討たれて退いた。
 五月二十一日の明け方から、東北東の方角に向かって未(ひつじ)の刻*まで、鉄砲隊を入れ替わり立ち替わらせて戦った。武田方は多くの兵が討たれ、しだいに兵力が少なくなって、諸隊とも武田勝頼の本陣に逃げ戻り、かなわないと悟ったのか、鳳来寺めざしてどっと退却した。」(同上書 p.244~245)
*未の刻:午後2時の前後2時間

その後、織田・徳川連合軍は武田軍を追撃し、この設楽原の決戦で武田軍の約1万の兵士を討ち取ったことが書かれているのだが、『信長公記』を読んで鉄砲隊が大活躍したことはよくわかるものの、「鉄砲三千丁・三段撃ち」というのはどこにも描かれていないのである。

では誰がこのような説を唱えるようになったのだろうか。
調べると、小瀬甫庵が元和八年(1622)に著した軍記物の『信長記』が初出で、この書物がこの戦いに関するイメージを変えてしまったようだ。

信長記

小瀬甫庵の『信長記』は国会図書館デジタルライブラリーで公開されており、問題となる部分はこう記されている。
敵馬を入れ来たらば、間一町までも鉄砲打たすな。間近く引き受け、千挺づつ放ちかけ、一弾づつ立ち替わり立ち替わり打たすべし。敵なお強く馬を入れ来たらばちっと引退き、敵引かば引き付けて打たせよと下知し給いて…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771443/204

一町というのは109.1mで、当時の火縄銃は甲冑をつけていても50m圏内では弾が貫通し、生身の人間の場合は150~200m程度が殺傷距離であったという。弓の殺傷距離は80m程度なので、敵が1町(109.1m)の距離まで近づいてから撃つというのは、敵の弓が届かない安全な場所から攻撃するという合理的な考えのように思えるのだが、火縄銃は次の弾を撃つのに時間がかかるという欠点があった。
一発撃ったあとで銃身内の火薬残滓を洗い、水で湿らせた布で拭い、銃身を冷やしてから次の弾丸を装填し、火皿に火薬を入れるという作業が必要で、熟練兵士でも15~20秒程度かかってしまう。そんなに時間がかかっていたら、敵との距離が1町程度ならば、鉄砲隊が弾をこめている間に敵は弓や槍の殺傷距離内に到達することが可能となってしまう

そこで小瀬甫庵は、織田・徳川連合軍が三千挺の鉄砲隊を三つに分けて、千挺ずつ交代で撃つことで銃の発射間隔を短縮して武田軍を圧倒したと描いたのだが、この戦いは『信長公記』によると6時間も続いている。連合軍がそのような戦法で臨んでいたならそんなに長く戦いが続いたことがむしろ不自然ではないか。

長篠合戦図屏風

武田軍側の記録である『甲陽軍鑑』には、武田軍は徳川の陣に攻めかけて、柵の前に出て部隊を展開していた徳川軍が何度も柵の中に逃げ込んだことが記されている。武田軍が攻め込んだことも何度かあったものと思われる。
しかしながら、設楽原において鉄砲の数では圧倒的に織田・徳川連合軍が勝っていた。
『長篠合戦図屏風』を観ると、武田軍にも鉄砲は描かれているものの、数ではほとんど比較にならない。

また連合軍の鉄砲隊は直立して鉄砲を構えている絵が描かれているが、この姿勢は敵方の鉄砲や弓矢に対して無防備であることは誰でもわかる。ネットで馬防柵の構造を調べると、柵の前に空堀や土塁が作られていて、鉄砲隊の兵士たちは、このような堀や土塁に身を隠して弾を込めながら、敵を狙撃していたようなのである
太田牛一の『信長公記』には、設楽原に到着したばかりの織田軍が、鉄砲戦に有利なように陣地に工夫をしたことが記されている。
「十八日、陣を進め、信長は志多羅(設楽)の郷極楽寺山に、信忠は新御堂山に陣を構えた。志多羅の郷は地形が一段窪んだところである。敵方に見えないように窪地に散らばして、軍勢三万ほどを配置した。先陣にはその地方の軍勢を充てるのが慣例であったから、徳川家康がころみつ坂の上、高松山に陣を布(し)いた。滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の三人は揃って有海原に上り、武田勝頼勢に向かって東向きに布陣した。家康・滝川の陣の前に、騎馬隊の侵入を防ぐための柵を作らせた。」(同上書 p.242)
このような防御設備を準備した織田徳川連合軍と何も準備しなかった武田軍とが戦えば、どちらが有利かは言うまでもないだろう。

火おんどり

資料館には、すぐ近くの信玄塚の前で毎年盛大に行われている『火おんどり』(愛知県指定無形民俗文化財)に関する展示もあった。
長篠の合戦のあと地元の人々は両軍の戦死者を手厚く葬り塚を作ったのだが、そこに蜂が大発生して村人や近くを通る人馬に大きな被害が出て、村人たちは蜂の大軍を戦没者の亡霊と考えて、その霊を慰めるために松明をともして毎年供養することになったのだという。

資料館の奥から右に折れる道があり、しばらく進むと信玄塚がある。大きい塚が武田方、小さい塚が織田・徳川方の兵士を葬ったものだという。そして二つの信玄塚の間にある広場で、毎年8月15日の午後9時から『火おんどり』が行われるのだそうだ。
下の動画は5年前の火おんどりの映像であるが、戦国時代の長篠の戦の戦没者の慰霊の行事が、戦いから443年も経過した今もなお、地元の人々により継承されていることはすごいことである。
https://www.youtube.com/watch?v=I8P_jmyUIng

松明は大きなもので長さ2~3m、直径80cm程にもなるという。このような松明が70本近く、鉦や太鼓の囃子にのって8の字を描くように振り回されるのだそうだが、この迫力のある伝統行事を、一度この目で見たいものだと思う。

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長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて

設楽原歴史資料館の駐車場から医王寺(新城市長篠字弥陀の前256)に向かう。
長篠の戦いで、武田勝頼がこの寺に本陣を置いたとされ、境内には『武田勝頼公本陣跡』と記された石碑が建っている

医王寺 勝頼公本陣跡

新城市のHPによると、『三川日記』という文書に、武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に三千の兵を配置したことが記されているそうだが、山麓の医王寺境内地内には陣城と思われる遺構は確認されていないという。
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,22232,149,722,html

しかしながら旧広島藩主浅野家に伝えられた城絵図(『諸国古城之図』)中に「勝頼陣城」と記された医王寺(三河設楽)の絵図があり、この絵図は、ほぼ医王寺の現況に近く描かれているという。
調べると、広島市立図書館のホームページに『諸国古城之図』の全177枚が公開されていて、その29枚目が医王寺の「勝頼陣城」図で、寺の裏山(医王寺山)の山頂付近に陣が築かれていたことがわかる。
https://www.library.city.hiroshima.jp/hiroshima/webgallery/kojo.html

医王寺 2

上の画像は武田勝頼本陣の物見櫓を復元したものであるが、山の上からは長篠城や鳶が巣砦など武田軍陣地のすべてが展望できるのだそうだ。

医王寺 弥陀の池

「勝頼陣城」図の中央に描かれている池は「弥陀の池」といい、「緑さす 片葉の葦や 弥陀の池」と記された句碑がある。
現地の案内板には、長篠の戦いに関する伝説が残っていることが記されていた。
「決戦前夜のこと、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち『明日の決戦は無謀だ、戦いをやめて故郷に帰りなされ』といさめたところ夢うつつに勝頼はとっさに傍らの太刀をとり、老人の肩口に斬りつけました。老人は煙のように消えましたが、翌朝、弥陀池の久葦がすべて片葉となったというお話です。」

弥陀の池には多くの葦が生えていたものの、「片葉の葦」がどのようなものであるかがよくわかっていなかったので探すことはしなかったが、帰宅後ネットで調べると全国各地の「片葉の葦」の画像を見つけることが出来た。次のURLには東京都墨田区中川の「片葉の葦」が紹介されている。
http://kana-kana.at.webry.info/201407/article_3.html

医王寺から次の目的地である旧黄柳橋(きゅうつげばし)に向かう。
宇連川(うれがわ)にかかる鳳来大橋を渡ると乗本の交差点があり、その交差点右手に黄柳川(つげがわ)にかかる旧黄柳橋がある。

旧黄柳橋

この橋は大正7年(1918)に建築された鉄筋コンクリート製のオープンアーチ橋で、アーチスパン30.3mは当時としては全国一の長さであったという。
交通量の増加に伴い新しい橋が架かって、当初はこの橋は撤去される計画であったのだが、その文化財的価値が認められて残されることとなり、平成10年(1998)に国の登録有形文化財に指定されている。

黄柳川

車で新しい黄柳橋を走っている時には気が付かなかったのだが、この橋の下を流れる黄柳(つげ)川の谷はかなり深い。旧黄柳橋の手前に川に向かう階段があり、降りていくと旧黄柳橋を下から眺めることができる。川底に届く橋脚が1本もなくて、よくこんな橋が100年も前に建築できたものだと感心してしまった。

旧黄柳橋から長篠城址の地図

交差点の「乗本(のりもと)」という地名は船の乗降地を意味しているのだそうだが、この辺りから宇連川を下り豊川と合流するまでの地域を「乗本」というらしい。前回の記事で書いたが、この二つの川の合流する場所に長篠城址がある。

鵜飼船のモニュメント

乗本は、江戸時代から明治にかけて豊川の水運の拠点として重要な役割を果たしてきた地域だという。旧黄柳橋から豊川の合流点までは川幅が狭く岩場も多いため、小型の幅の狭い鵜飼船で荷物を運んでいたそうだ。鵜飼船といっても鵜飼をしていたわけではなく、鵜飼型の船を水運に用いたとのことである。旧黄柳橋の近くに鵜飼船のモニュメントがあったのでカメラに収めておいた。

旧黄柳橋から満光寺(新城市下吉田田中140 ☏ 0536-34-0116)に向かう。

満光寺 1

案内板によると、この寺は貞観2年(860)に創立されたがその後衰退し、天文元年(1532)に今川義元の配下で山吉田城主であった鈴木重勝が、曹洞宗の禅寺として再興させたという。
それから数十年が経過したある日、この寺に徳川家康が一夜を過ごしたエピソードが有名なのだが、案内板にはこう記されている。

元亀年間(1570頃)家康が若い頃武田信玄との戦に敗れ山吉田まで落ち延びて来た。ちょうど満光寺という寺が目に止まった。
 そこで住職に一夜の宿を頼んだ。住職は気の毒に思い快く泊めることにした。家康は大変喜んで住職にお礼を述べ、さらに『ご住職、まことに相済まぬが、私どもは故あって明朝早立ちしたいと思う。よって一番鶏が鳴いたら必ず起こして戴きたい』と頼んで寝についた。
 そして真夜中になった頃であった。不思議なことにその夜に限って寺の鶏が真夜中に刻を告げた。住職は随分早く鳴いたものだと思いながらも、約束のことを思い早速家康たちを起こした。家康は厚くお礼を言って大急ぎで闇の中を出発して行った。
 ところが家康一行が去って間もなく武田の一隊が寺を包囲したが、家康一行は一瞬の差で危機を脱することが出来た
 のち天下を統一した家康は、この恩返しとして満光寺のニワトリに三石の扶持を与えた。
 その後慶安2年(1649)三代将軍家光から寺領20石が与えられた
。」

満光寺庭園

また満光寺の庭園の作庭者は不明だが、裏山の山裾を利用した鶴亀蓬莱式の池泉鑑賞庭園で愛知県指定文化財になっている。
部屋から庭園を鑑賞していると、どこからかコシアキトンボが飛んできて、池のまわりを旋回し始めた。私の実家の寺にも池があって、子供の頃にトンボを追いかけた日々のことを思い出してしまってあっという間に予定の時間が過ぎてしまった。

新城市には歴史散策を楽しめる場所が多いだけでなく、滝や渓谷美などで有名な場所がいくつもある。満光寺の次の目的地は、日本の滝百選に選ばれている阿寺の七滝である。

阿寺の七滝への道

県道442号線沿いに駐車場(新城市下吉田黒渕25)があり、そこから滝まで15分ほど歩く必要があるのだが、深い緑に覆われて思いのほか涼しく、沢沿いの道は平坦で歩きやすくて誰でも気持ちよく滝つぼに到着できると思う。

阿寺の七滝

上の画像が阿寺の七滝で、滝が7段の階段状になっていることから七滝と名付けられたという。こういう美しい滝は、じっと見ているだけで爽快な気分になってくる。

近くには百間の滝という愛知県最大の滝もあるのだが、駐車場が狭いのと、一部の道路が通行止めになっているようなので今回は見送ることとした。
チャレンジされる方は、新城市のホームページにう回路の地図が出ている。
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3146,c,html/3146/20180130-112401.pdf

いつも旅行の計画を立てる時に、近辺に残されている文化財を調べるのだが、この阿寺の七滝よりもさらに山奥に巣山という集落があり、その集落の熊野神社に国の重要文化財に指定されている鎌倉時代の仏像が2躯、愛知県の文化財に指定されている鎌倉時代の仏像が1躯と懸仏が3面、新城市の文化財に指定されている仏像などが7躯と狛犬1対が残されていることが目に止まった。

熊野神社の仏像

新城市のホームページによると、巣山地区は江戸時代に鳳来寺と秋葉寺を結ぶ秋葉街道の宿場町として栄えたところで、この地域には金隆山高福寺(こうふくじ)と野高山栖雲寺(せいうんじ)の2つの古刹があった。ところが高福寺は明治維新期に廃寺となってしまって仏像などを栖雲寺に移したのだが、その後地区住民が神道に改宗したことから栖雲寺も廃寺となり、以降熊野神社の氏子の方がこれらの仏像を収蔵庫に収めて管理しているのだという。次のURLに仏像の解説と画像があるが、なかなか立派な仏像である。
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,18127,152,720,html

拝観が可能かどうかを新城市に照会してみたのだが、毎年春分の日に一般公開しているほかは、団体の希望がある場合に日程を調整のうえ案内していただけることがあるとのことであった。
地元の方3名が文化財の管理をしておられ、公開する際には2名以上が立会うことにしておられるとのことで、普通の観光客は春分の日に訪れるしかなさそうだった。

熊野神社

この熊野神社を訪れてみたくなって旅程に入れておいたのだが、どこにでもあるような、無人の小さな神社であるのに驚いた。神社の周囲には田んぼばかりで人家は少なく、かつて宿場町として栄えた地域とは思えない。

明治初期の廃仏毀釈の事例をこのブログで何度か紹介してきたが、仏像が破壊されたり売却された事例が多い中で、巣山のように明治初期に廃寺になった寺の多くの文化財を何世代にもわたって地元の人々が大切に守り続けているケースは珍しいのではないだろうか。これだけ貴重なものが数多く残されているならば、ただ保管するだけではなくて、観光資源として地域の活性化につなげることができないものだろうかとも思う。

はづ別館

奥三河旅行の初日の旅程を終えて、宿泊先の湯谷温泉に向かう。
湯谷温泉は鳳来峡の宇連川沿いに広がっている温泉で1300年ほどの歴史があり、日本百名湯にも選ばれている。
私が選んだ宿は「はづ別館」で、渓流沿いにある大正ロマン風のレトロな趣のある建物だ。
温泉はもちろん源泉かけ流しで、料理もおいしくいただけて大満足だった。



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「大原騒動」の史跡や飛騨の国宝や渓谷などを訪ねて白骨温泉へ
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白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
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高知市五台山の名所から、いの町の文化と自然を楽しむドライブ~~高知方面旅行2
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中津渓谷から秋葉神社に向かい、最後に武田勝頼伝説の地を訪ねて~~高知方面旅行4
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白山信仰の聖地を訪ねて加賀禅定道を行く
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浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
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鳳来寺の神仏分離と日本の百名洞・乳岩峡などを訪ねて

旅行の二日目は少し早起きして、食事の時間までのあいだ宇連川沿いから不動の滝を散策することにした。

朝の散歩コース

コースははづ別館から浮石橋を渡り、ゆーゆーありーなから渡瀬橋を渡ったのち乙女沢遊歩道を歩いて不動の滝を巡るコースである。

鳳来峡 1

宇連川は黄褐色の岩の上を流れていて、川底が板を敷いたように見えるため、板敷川とも呼ばれている。夜間の放射冷却で気温が低くなった空気が、暖かい水面付近の空気に触れて、川霧が発生しているのが幻想的だ。

宇連川

湯谷温泉の上下流約5キロは鳳来峡と呼ばれ、紅葉の名所でもある。上の画像は渡瀬橋から上流を撮ったものだが、このあたりの紅葉はさぞ美しいことだろう。

不動の滝に続く道

渡瀬橋を渡り左折して少し進むと不動の滝の入り口があるのでそこを右折。JR飯田線の踏切を渡り、深い緑に覆われたゆるやかな沢沿いの道を歩いて行く。

不動の滝

700mほど歩くと不動の滝がある。高さは10mぐらいで水量はそれほど多くない。滝の前に鳥居があり、幟には荒沢不動明王と記されていて滝の前には鳥居がある。

存分に森林浴を楽しんだのち旅館に戻り、朝食を終えてお世話になった旅館をチェックアウトして、鳳来寺山パークウェイを走り山上駐車場に向かう。

新城市観光マップ

鳳来寺山は、約2000万年前の火山活動で形成された標高695mの死火山で、山全体が国の名勝および天然記念物に指定されている
その幻想的な岩肌が古くから人々の信仰の対象となって、山岳修験道の霊山として人々の信仰を集めてきたのである。

鳳来寺の寺伝によると大宝2年(702)に利修仙人が開山したとされるが、鎌倉時代には三河七御堂の一つとして栄え、戦国時代からは松平家との関係が深まっていったという。
『東照宮縁起』によると、松平広忠が天文10年(1541)に於大(おだい)と結婚し、立派な男児をさずかるようにと祈願した後、於大は懐妊し男児(のちの徳川家康)が誕生した。
その様な経緯からこの寺は江戸幕府の庇護を受けることとなり、三代将軍徳川家光の命により鳳来山東照宮の建築が行われたという。

鳳来寺の最盛期は21院坊、寺領1350石の寺勢を誇ったが、江戸幕府の崩壊後神仏分離令により鳳来寺と東照宮は分離されたうえに寺社領は没収されて大打撃を受け、東照宮が命脈を保つ一方で鳳来寺の衰勢は著しかった。さらに明治8年(1875)5月の火災で本堂および多くの堂宇を失い、その後もしばしば起こった火災で大半の文化財が失われてしまったという。
とはいいながら、鳳来寺の衰勢の原因は火災だけではなかったようだ。

神仏分離史料

『明治維新 神仏分離史料 第五巻』にはこう記されている。
東照廟の別当を日光輪王寺の配下に置き、薬師堂を高野山の配下に置いた事は、延いて天台・真言両宗の駢立*となり、その間自ら軋轢をなし、維新の後に於いても尚一致せず、益々衰亡の勢いを強めたのである。(しかしこの点は、その後両派の管長の協議によって両宗合一して、真言宗高野派に専属することとなり、明治39年11月12日に允許せられた。)」(『明治維新 神仏分離史料 第五巻』p.185)
要するに鳳来寺の再建のリーダーシップを執るべき宗派があいまいな状態が30年以上続いたことも、鳳来寺全体の衰微を早めた大きな要因になったという。
*駢立(べんりつ):並び立つこと

東海道名所図会 鳳来寺

上の画像は江戸時代後期に刊行された『東海道名所図会 巻三』にある鳳来山伽藍図で、多くの堂宇が描かれているのだが、今では東照宮と鳳来寺本堂と仁王門、鐘楼、および松高院と医王院が現存しているだけで、廃絶された諸僧坊跡地には石碑が建てられているという。

鳳来寺山

山上駐車場から歩いて東照宮まで向かう途中に、鏡岩と呼ばれる大きな岩が見えてくる。上の画像の中央にあるのが鏡岩で、屋根が見えている建物が鳳来寺の鐘楼である。

鳳来山東照宮拝殿

駐車場からは歩いて10分程度で鳳来山東照宮に到着する。

鳳来山東照宮

東照宮の内部が公開されていないのは残念だが、建物は慶安4年(1651)の造営によるもので、屋根はいずれも檜皮葺である。昭和28年(1953)に、本殿・拝殿・幣殿・中門・透塀・石柵・石灯篭などが国の重要文化財に指定されている。残念ながら御供殿は昭和30年(1955)に焼失してしまったがその他の建物は護られて、創建当時の華麗荘厳な姿を今に残している。

鳳来寺本堂と鏡岩

東照宮から鳳来寺本堂までは歩いて5分もかからない。
先ほど明治8年(1875)に火災で本堂などを焼失したことを書いたが、明治13年(1880)に再興された本堂や庫裏も大正3年(1914)に再び焼失してしまい、現存の建物は昭和49年(1974)に建てられたものだという。上の画像はその本堂で、左にある巨大な岩は鏡岩である。

この本堂の前の田楽堂で毎年1月3日に鳳来寺田楽が奉納されるのだという。

https://www.youtube.com/watch?v=rfL1I927T6Y
上の動画は5年前に撮影されたものだが、その年の五穀豊穣、悪霊退散等を願って天狗、獅子舞、稚児の舞、祈願の舞などが披露されるという。鳳来寺田楽は、室町時代から続けられている伝統行事であり、新城市黒沢の田楽、北設楽郡設楽町田峰の田楽とともに国の重要無形民俗文化財に指定されているのだそうだ。

鳳来寺の建物で唯一国の文化財に指定されているのが仁王門。江戸幕府三代将軍家光の寄進によって建てられたものだが、鳳来寺の中心部から離れていたことから焼けずに残されてきた。

鳳来寺山 2

寺や神社は、本来は参道を登って正面から参拝すべきなのだろうが、鳳来寺を参道から上るとすると1425段もある石段を登らなければならない。山上の駐車場を用いることはかなりの時間短縮になるのだが、鳳来寺本堂から仁王門に歩いて行こうとすると、片道で900m近くの階段の昇り降りが必要になる。

鳳来寺山登り口

旅館の方から、仁王門は参道の駐車場から歩いたほうが楽だと言われてそうしたのだが、石段の登り口から仁王門までの距離が300m、参道の駐車場から石段の登り口までもそれなりの距離があったので、結果的にはそれほど時間短縮にならなかったかもしれない。

鳳来寺仁王門

上の画像が仁王門で、入母屋造り銅板葺きで朱塗りの美しい楼門である。左右の仁王像は江戸時代の仏師・法橋雲海が制作したもので、新城市の文化財に指定されている。

鳳来寺山で時間短縮を図った理由は、その次の目的地である乳岩峡(ちいわきょう)に行くために体力を温存したかったからである。
先ほどは鳳来寺山が国名勝で天然記念物であることを述べたが、乳岩と乳岩峡も同様に国名勝で天然記念物である。1時間少しで出発地点に戻れるハイキングコースではあるのだが、かなりスリリングなコースらしいので旅程に入れていた。

乳岩峡 駐車場付近

駐車場から乳岩峡に入る。このあたりの河床は平坦な一枚岩のようだ。

乳岩

しばらく乳岩川沿いを進むと目の前に巨大な岩が聳え立つ場所に到達する。はじめは普通の階段を進んでいくのだが、途中から垂直に近い鉄の梯子を何本も登っていくことになる。

乳岩鉄梯子

鉄の梯子を撮ったつもりであったが、カメラを持つ手が震えていたのか、少し画像がブレてしまった。

通天門

梯子を登り切り、急坂を抜けてさらに進むと、真ん中にぽっかりと穴が開いた通天門という岩に到達する。この景観に感動してしまった。

ここからは下りになり、鉄の階段があるので比較的降りやすく、登りのような恐怖感はない。

通天洞

しばらく歩くと、大きな岩の割れ目に向かって階段が続いていて、一番上まで登ると通天洞と呼ばれるドーム状の空間の中に入る。そこには石仏が並べられている。

脚力に自信のない方にはあまり勧められないが、このハイキングコースはスリリングで景色も素晴らしく、1時間とすこしでスタート地点に戻ることが出来るというのは旅行者にとってはありがたい。紅葉の季節や新緑の季節はもっと素晴らしい景色が楽しめることだと思う。

五平餅

乳岩峡をあとにして湯谷温泉まで戻り、田舎茶屋まつやで昼食をとった。
そばを食したあと勧められて五平餅を注文したが、ほくほくの五平餅は香ばしくて旨かった。

まつやでお土産などを買っててから、最後の目的地である四谷の千枚田に向かった。実は鳳来寺の参道と仁王門は、この時に寄り道して撮影したものである。

千枚田のある四谷地区は標高833mの鞍掛山の南西斜面に広がる山間集落で、石積みの棚田は標高220mから420m付近に広がって、落差は約200mもあるのだそうだ。

四谷の千枚田

上の画像は棚田を下から眺めたものだが、正面の美しい山が鞍掛山である。この山の中腹から毎秒20リットルの清水が沢に流れて棚田を潤しているのだそうだ。

明治37年7月10日に鞍掛山に隣接する山が崩れて山津波が起こり、死者11名、家屋流出10戸という大惨事をもたらし、美しい棚田が崩壊したことがあったのだそうだが、地域の人々はわずか5年で石積みの棚田を蘇らせたのだという。

なぜ、このような大災害が起きたにもかかわらず、地域の人々は棚田を再生させようとしたのだろうか。それは、棚田がある方が地域にとって安全であることが理解されていたからではないか。

四谷の千枚田 1

新城市のホームページに四谷の千枚田についてこのように解説されている。
山の傾斜地に作られた千枚田は、そのあぜや石垣によって大雨の際の土壌浸食を防ぎ、またその保水機能によって調整池の役割を果たし、水が一気に流水するのを抑える災害防止機能を備えています。」
http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,46205,149,722,html

川は流域が狭ければ狭いほど川の流量の増加により水位が上がって決壊しやすくなることは当然のことで、広い棚田があれば、たとえ記録的な集中豪雨があっても、棚田の面積全体でその水量の増加を受け止めることになるので、水害が発生する危険性は極めて低くなるのである。
今年の7月の豪雨は各地で大災害をもたらしたが、川の堤防を高くしたり下水道で水を逃がす発想では、そのキャパを超えるような集中豪雨の場合には、災害リスクを避けることに限界がある。
昔の日本人は、自ら土砂災害の危険から守るために、危険な場所に棚田を作ることで水と共生するという方法を考案したのだが、そのような発想が今のわが国に欠落しているのではないだろうか。
棚田はただ風景を楽しむだけではなく、防災観点から棚田を残すことも必要なのだと思う。
そのためには、生産者が棚田で米を作ることで豊かになれることが不可欠である。この四谷の千枚田で生産されたお米をブランド米として、現地やネットなどで販売することができないものだろうか。大手流通を通さずに直接消費者に販売することが出来れば、生産者は今よりももっと潤うことにはならないか。

そんなことを考えながら、2日間の新城市の旅を終えることにした。





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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
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平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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