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松尾芭蕉と河合曾良の『奥の細道』の旅の謎を追う

「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口をとらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思いやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘蛛の巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引きの破(やぶれ)をつゞり、笠の緒付(つけ)かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、…」

有名な『奥の細道』の冒頭の部分だが、古文の教科書にも出ていたので何度も口ずさんだ記憶がある。

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松尾芭蕉は元禄2年(1689)の3月27日、弟子の河合曾良とともに、『奥の細道』の旅に出たのだが、この二人が歩いた距離が半端ではなかった。
全行程約600里(2400km)を150日で歩いたということになるのだそうだが、当然のことながら当時の旅は基本的に自分で歩くしかなかったし、何度も山を越えなければいけなかった。雨が降れば道路はぬかるんだと思うのだが、そのような道を、草鞋をいくつも履き潰しながらこれだけの距離を歩いたことはすごいことなのである。

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次のURLに『奥の細道』の全行程と日付が出ているが、3月27日に江戸深川を出発した芭蕉がわずか3日後の4月1日に日光東照宮を参拝している。車で走れば150kmにもなる距離を、1日平均50km近く歩いたことを意味している。
http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/oku/aamap999.htm

当時、江戸日本橋から京都までの東海道五十三次(約492km)を、旅人は徒歩で2週間前後かけていたようだが、14日で計算すれば歩行距離は1日平均して35kmである。当時芭蕉が4 6歳であったことを考慮すれば、芭蕉が相当な健脚であったと言わざるを得ない。観光が主たる目的である旅行であるのに、なぜこんなに急いで歩く必要があるのか誰しも疑問に思うところだ。

そこで、こんな見方が存在する。Wikipediaは、芭蕉の1日の移動距離の大きさに触れた後、こう述べている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

「…これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって『芭蕉忍者』が生まれた。
また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に『松島の月まづ心にかかりて』と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている。」

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松尾芭蕉は寛永21年(1644)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたのだが、「伊賀」と言えば忍者の里として有名な場所である。
父・松尾与左衛門は阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の無足人(準武士待遇の農民)で、母・梅は百地(桃地)氏出身とも言われ、いずれも伊賀忍者の一族であったという説もあるようだ。

少し気になったので、伊賀忍者の歴史を調べてみた。
伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、外部からの侵略に対しては結束して戦った歴史がある
伊賀衆は天正6年(1578)に織田信雄が伊賀国を支配するために送り込んだ滝川雄利(たきがわかつとし)を追放し、その報復として攻め込んできた織田信雄(おだのぶかつ)の軍をも翌年に壊滅させたという。(第一次天正伊賀の乱)
しかし天正9年(1581)に織田信長が大軍を編成して攻め込んで来た際には伊賀衆は壊滅的な打撃を受け(第二次天正伊賀の乱)、百地丹波以下100名が紀州に落ち延びたと言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1
その後天正10年(1582)に、信長の招きで徳川家康が少数の供回りで堺の見物中に本能寺の変が起き、この際に家康らを三河の岡崎まで安全に帰らせる(神君伊賀越え)ために、服部半蔵正成らの伊賀衆や甲賀衆が家康の警護に当たったことが評価され、その後服部半蔵は徳川家に重用され、伊賀衆や甲賀衆も徳川家に召し抱えられるようになって、諸大名の内情を探ったり、大奥の警護、屋敷の管理や江戸城下の治安警護などを行なったという。

再び芭蕉の話に戻そう。
明暦2年(1656)、芭蕉が13歳の時に父・与左衛門が死去し、兄の半左衛門が家督を継いだが、その生活は苦しかったと言われている。
また寛文2年(1662)、19歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の三男・良忠に仕えたそうだが、芭蕉はこの頃に良忠とともに俳句を学び、俳諧の道に入ったという。
ところが寛文6年(1666)23歳の時に、藤堂良忠が死亡し藤堂藩への仕官の道が途絶えてしまう。芭蕉は突如脱藩して京へ上り、その6年後には江戸へ住まいを移している。
次のURLに松尾芭蕉の年譜が詳しく記されているので、興味のある方は参考にしていただきたい。
http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm#t01

伊賀の国で生まれたことや、服部半蔵の親族に一時仕えたことや、異常に健脚であることが『芭蕉忍者説』の主要な論拠になっているようだが、他にもいくつかの論拠がある。

宗長

室町時代の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけん そうちょう)は、朝比奈家の掛川城について詳しい記述を残しているなど、連歌師として各地を渡り歩きながら、諜報活動をしていたことが窺われるのだそうだが、各地を旅する者に接近して、情報収集を依頼する者が出てきてもおかしくないという考え方がある。
条件が良ければ、芭蕉も応じることがあったのかも知れないが、これだけでは芭蕉が諜報活動をしていたと断じる論拠にはならないだろう。

また、2人の156日にもわたる旅費をどうやって捻出したのかと疑問を持つ人も少なくない。俳句による収入だけではとても生活できず、別の安定収入がなければこのような長期間にわたる旅行に出ることは考えにくいとの視点である。

俳句を作ったり指導することで、当時どの程度の収入になったのかはよく分からないのだが、芸術や文学の世界では、知名度の低い時期は多くの収入を得られないという構造は今も昔も変わらない。
いろいろ調べていると、寛文12年(1672)に江戸に下り(29歳)、日本橋にあった小沢卜尺の家に起居するようになってから、延宝8年(1680)深川の芭蕉庵に移る(37歳)までの間に、芭蕉が神田川の水道工事に携わった時期があったようだ。

『東京の川と橋  知命庵論考』というホームページの第三章に『6 芭蕉と神田上水』という文章がある。
http://hix05.com/rivers/river03/river036.html
知命庵氏によると、芭蕉の弟子の森川許六という人物が著した『風俗文選』という書物に、この様な記述があるという。
世に功を遺さんが為に、武小石川之水道を修め、四年にして成る、速やかに功を捨てて、深川芭蕉庵に入りて出家す

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神田上水は家光の時代(1629)に作られて、樋が木製であったために何度も改修や修繕が加えられ、特に延宝5年(1677)から8年かけて行われた改修工事は大規模なものであったらしく、芭蕉がこの工事に4年間関わったことが、先ほど紹介した芭蕉の年譜にも記されている。
普通に考えれば、もし芭蕉が諜報活動に従事していたならば、この様な仕事に就く必要があるとは思えないのだ。

芭蕉が俳諧の宗匠となったのが延宝5年(1677)で、この頃になると連句興行や撰集を刊行するなどして、俳諧師としての収入も安定していたはずだ。
俳諧師として注目されるようになると、裕福な商人や豪農、上級武士などが門人となり後援者となって、俳句を作ったり指導することで結構な収入になったと思われる。
芭蕉の年譜を見ればわかるが、宗匠となった後は各地で句会などを興行し、精力的に句集などを刊行している。また短冊や色紙に何かを書けば、容易に資金が捻出できたであろうし、弟子の家や支持者の家に泊まった日が多いので、実際にはそれほど旅費はかかっていなかったと考えられる。

しかしながら、『奥の細道』の旅行に何らかの諜報目的があった可能性を匂わせる重要な史実がある。
芭蕉に同行した河合曾良という人物は、宝永7年(1710)に幕府の大目付直轄の巡見使・土屋数馬喬直の用人として雇われ、九州地方査察団に加わったという。「巡見使」というのは江戸幕府が諸国の大名・旗本を監視する目的で設置されたもので、情報収集が主な仕事であり、「悪政」と評価された大名は処罰される可能性があった。

河合曾良が巡見使になった年齢は61歳と高齢であったが、Wikipediaによれば「寛文8年頃より長島藩主松平康尚に仕え、天和元年(1681年)頃に致仕」とある。
29年間も公職に就いていなかった人物が、61歳の時にいきなり幕府に雇われたというのは異常なことであり、それまでに何らかの形で、幕府と繋がっていた人物だと考える方が自然ではないだろうか。当然情報収集に関する経験がなければ、その年齢で雇われるはずのない類の仕事なのである

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もし芭蕉と曾良に、『奥の細道』の旅をしながら情報を収集する目的があったとすれば、「黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に『松島の月まづ心にかかりて』と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している」という異様な行程が、少しは理解できるのではないだろうか。

ではその観点に立った場合に、二人はどのような情報を集めようとしていたことになるのか。
河合曾良は『曾良旅日記』という旅行記を残している。それと『奥の細道』とを読み比べると、80ヶ所以上の食い違いがあるのだそうだ。

例えば『奥の細道』には3月30日に日光に入り、翌4月1日に「御山に詣拝(けいはい)す。往昔、此御山を『二荒山』と書(かき)しを、空海大師開基の時『日光』と改(あらため)給う。」と書かれていて、日光東照宮に行ったことは明記されていないのだが、『曾良旅日記』には江戸浅草・清水寺からの紹介状を携えて、養源院という水戸家代々の宿坊に拝観の便宜をはかってもらって、東照宮を拝観したことが記されているようだ。

ところで芭蕉には以前から水戸家と接点があった。
芭蕉の俳句の師匠である北村季吟は水戸家の出入りを許された幕府お抱えの文人だったし、先ほど芭蕉が神田川の水道工事に携わった時期があったと記したが、この神田上水は水戸家の庭園である後楽園にも引き込まれていたのだそうだ。
今でこそ東照宮は誰でも拝観料を支払えば拝観できるが、当時は然るべき紹介がなければ拝観できなかった。芭蕉が東照宮を拝観できたのは、水戸家の便宜によるものだったのだ。

ところで、芭蕉が訪れた際の日光東照宮は天和3年(1683)の大地震により、奥社宝塔が倒壊するなど、社殿全体が被害を受けていて、大規模な修復を行なおうとしていたのだそうだ。そしてその修理費を、江戸幕府は伊達藩に命じていたという。おそらく、江戸幕府は東北の雄藩である伊達藩に巨額の負担を押し付けて藩の弱体化を狙ったのだろう。

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宮本健次氏の『日光東照宮 隠された真実』に、江戸幕府と伊達藩とのやり取りについてこう記されている。
『伊達家文書』によれば、芭蕉が日光を訪れる3か月前の1689年1月、伊達藩は、『全面的建て替えではなく、一部修理なら大変ありがたい』という書状を幕府に提出した。その2ヶ月後の3月、将軍綱吉から『日光の修復について申し出ることはまかりならぬ』という返書が届き、両者の間が極めて緊迫したことがうかがえる。芭蕉が日光へと旅立つまさに1ヶ月前であった。
 おそらく、芭蕉は、日光の修復の状況及び伊達藩のその後の動きを偵察する目的を持っていたため、日光と伊達藩領は急いで通過し、句を詠むことも少なかったと金子氏は指摘するのだ。」(『日光東照宮 隠された真実』p.92-93)

金子兜太

「金子氏」というのは、『芭蕉=隠密説』を持論とする俳人の金子兜太(とうた)氏のことである。日光では芭蕉は「あらとうと青葉若葉の日の光」という、日光で詠んだとは思えないような句を残して1泊しただけだ。伊達藩領でも仙台や塩釜や松島や石巻では1句も残さずに通り過ぎている。

面白いことに、芭蕉が伊達藩を訪れたすぐ後に江戸幕府が動いたのだが、これは果たして偶然だったのか。宮本氏は続けてこう述べている。
芭蕉が伊達藩領を訪れたのは5月。その1か月後の6月11日、幕府ははじめて日光の具体的内容を発表した。この時点ではじめて、今回の工事が『一部修理』であることが明らかにされた。伊達藩の希望が受け入れられたのである
 金子氏は芭蕉が日光と領地における伊達藩の状況を幕府に知らせ、それが幕府の判断材料になったというのだ。」(同上書 p.93)

私は金子氏の説に結構説得力を感じるのだが、反応は人により様々であろう。
『俳聖』とまで呼ばれた松尾芭蕉の評価を貶めるつもりは毛頭ないのだが、いくら優秀な作家であっても、旅行を楽しまずしては良い作品が残せないだろうと思うのだ。
芭蕉が有名な観光地であった日光や松島でほとんど創作活動が出来なかったのは、このような事情があったのかもしれない。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。

伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

メキシコで歓迎されず、スペインでは諸侯並に格下げされた~~慶長遣欧使節2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-44.html

教皇謁見を果たしスペインに戻ると、国外退去を命じられた~~慶長遣欧使節3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-45.html

伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか~~慶長遣欧使節4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-46.html

家康の死後の主導権争いと日光東照宮
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-349.html

【ご参考】
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徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか

徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』を調べていると、教科書の記述が学生時代に学んだ内容と随分ニュアンスが違ってきているのに驚いた。

たとえば『もういちど読む 山川日本史』では、次のように解説されている。

江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐みの令は、近年見直しがすすんでいる。犬の愛護はそれまで食犬の風習や野犬公害の多かった江戸とその周辺で推進されてきたが、全国的には捨牛馬(すてぎゅうば)の禁止が重視された。また、法の対象は、捨子、行路病人、囚人などの社会的弱者にもおよんでおり、人を含む一切の生類を幕府の庇護下におこうとしたのである。これは殺伐な戦国の遺風を儒教・仏教により払拭することを政治に反映させようとする政策の一環であった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.164-165)

徳川綱吉 土佐光起筆 徳川美術館蔵
【徳川綱吉】

昔から綱吉の治世の前半は善政(「天和の治」)を行ったとしてそれなりに評価されているのだが、後半については側用人牧野成貞や柳沢吉保を寵用して奢侈生活に耽り、さらに悪法として知られる『生類憐みの令』で人々を随分苦しめたと解説されることが多かった。

ブリタニカ国際大百科事典には、『生類憐みの令』について次のように記されている。

「江戸時代,5代将軍徳川綱吉が行なった生類殺生禁止令。綱吉は嗣子徳松の夭折以来,盛んに求子の祈祷をしたが効果はなかった。そこで,生類の殺生を禁じ,戌年生れのため特に犬を愛護すれば,前世での罪障を消すことができ,子も授かるという真言僧隆光の言をいれて,貞享4 (1687) 年これを発令,その死まで励行された。犬に対する愛護は極端で,元禄8 (95) 年江戸中野,四谷,大久保などに犬小屋を建てて犬を養い,その費用を江戸町民に課した。違法者に対する刑罰はきびしく,切腹や遠島もしばしば行われた。この令は綱吉の儒仏愛好心と側近らの迎合主義から生じたもので,悪政の評判が高く,綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と呼ばれた。
https://kotobank.jp/word/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4-79995

このような解説を今まで何度聞いてきたかわからないのだが、そもそも綱吉の悪評は、これまでどのような書物を根拠にしていたのであろうか。いくつかあるようだが、当時に記された『三王外記(さんのうがいき)』という書物を紹介したい。

三王外記
【三王外記】

国立国会図書館のデジタルコレクションに徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻 政治篇』が公開されていて、そこに『三王外記』が引用されている。そこにはこう記されている。

「王太子(徳松)を喪うてより、而して後、後宮また子を産む無し。乃(すなわ)ち萬方嗣を求む。僧隆光(りゅうこう)進言して曰く、人の嗣に乏しき者、みなその前世多く殺生(せっしょう)の報いなり。故に嗣を求むるの方、最も生物を愛し殺さざるより善きはなし。殿下まことに嗣を求めんと欲せば、なんぞ殺生を禁ぜざる。且つ殿下丙戌(ひのえいぬ)を以て生(うま)る。戌は狗(いぬ)に属す。最も狗を愛するによろしと。王これを然りとす。太后(桂昌院)また隆光に聴き、王のためにこれを言う。王曰く敬諾。乃ち殺生の禁を立て、愛狗の令を都鄙に下す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/118

綱吉の長男徳松がわずか5歳で亡くなったのは天和3年(1683)の閏5月のことだが、それから4年間も将軍には子が生まれなかったのである。そこで僧隆光に助言を求めに行って『生類憐みの令』を出すことになったとあるのだが、この『三王外記』に書かれていることは正しいのであろうか。

調べるとこの隆光という人物が知足院の住持として江戸に滞在するようになったのは貞享3年(1686)なのだが、綱吉の生類憐み政策はそれ以前から始まっていたのである。

では、綱吉はいつごろから生類憐み政策を開始しているのだろうか。Wikipediaには以下のような指摘がある。
天和2年10月(1682年)、犬を虐殺したものを極刑にした例。辻達也はこれを生類憐み政策のはしりとしている。ただし、寛文10年代にも許可なく犬を殺すものは処罰の対象であり、犯人は追放や流罪に処されており、各藩においても犬殺しは重罪であった。」
貞享元年(1684年)、会津藩は老中から鷹を献上する必要がないという通達を受けているが、この際に幕府が「生類憐乃事」を仰せだされた時期という言及がみられる。根崎光男はこの記述から貞享元年5月から6月ごろにかけて、何らかの生類憐れみに関する政策が打ち出されていたと見ている。」
貞享2年2月(1685年)、鉄砲を領主の許可なしに使用してはならないという法令
貞享2年7月14日、将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

これらを読むと、僧隆光の助言によって綱吉が生類憐み政策を始めたのではないことがわかる。しかしながら、一般の町人や百姓の生活に深くかかわるような法令がたて続けに出されるようになるのは貞享四年(1687)からのことなのである。

『生類憐みの令』は1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類憐み政策の諸法令の総体であるのだが、具体的にはどのような命令が出されていたのかは、江戸幕府の公式記録である『徳川実記』の巻十五の貞享4年1月から3月の記録からある程度推測することが出来る。原文は次のURLのページだけでもいくつか出ているので確認していただくことにして、いくつか意訳して記しておこう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772968/127


1月28日
すべて人宿または牛馬宿その他にても、生類わずらい候えば、いまだ死せざるうちに捨てることがよくあるようだが、そのようなことをする不届き者は厳しくお咎めがあるべきであり、そのようなことをする者がいたら密かに訴え出るべし。
2月16日
各所の放鷹の地にて夏冬によらず忍びて鷹をつかい、餌差と言われる者が来て殺生すれば、検察してその者のあとを追うて預けおき、速やかに訴え出るべし。
2月21日
飼い犬の毛に印をし、もし犬が見つからないときはどこかから別の犬を連れてきて数合わせするとの風聞がある。人々に生類を愛し養うよう何度か命じているのだが理解されていない。今後は飼い犬が見当たらないときは尋ね出すべし。もしなおざりにするものがあれば、訴えよ。他所よりきた犬がいた場合は、そこで養いおき、持主がわかり次第返してやるべきである。
2月27日
食物として魚・鳥を蓄養して売買することは、今後固く禁止するべきである。鶏や亀も同様である。ただし慰めとしての飼うことは許す。
3月26日
生きた鳥類を飼うことは禁止すべきである。ただし鵞鳥や唐鳥のように、野山に住まない鳥は、放しても飢えてしまうので飼うことはかまわない。卵を産む間は良く育てて、それぞれ所望の方へ遣わすべきこと。鶏を絞め殺して売買することはあってはならない。亀を買うことも一切禁止する。笱を設けて魚を貯えて売ってもいけない。

このように、僧隆光が江戸に滞在するようになった翌年初から、たて続けに生類憐み政策が出されていることがわかるのだが、隆光自身による『隆光僧正日記』には、将軍や桂昌院にそのような助言をした話は何も記されていないのだという。
『三王外記』は、今でいう三流週刊誌のようなもので根拠のないゴシップ記事が多く、信頼性が乏しいと評価されているようなのだが、とすると江戸幕府の公式記録である『徳川実記』に記されていることも信用できないのであろうか。

前掲の徳富蘇峰『近世日本国民史. 第17』には、貞享4年1月以降に処罰された人々の記録が引用されている。

当時の歌学者・戸田茂睡の日記『御当代記』によると、貞享4年2月に台所頭天野五郎大夫正勝が猫二匹が死んだことで八丈島に遠流されたという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/119
また4月には犬を斬った人物も八丈島に流された。(『徳川実記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/120
6月には吹屋で燕を射た人物の一人が死罪、一人が遠流せしめられたという。(『御当代記』)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/121

徳富蘇峰はこのような事例をいくつも紹介したうえで、以下のようにまとめている。

「貞享4年正月、生類憐愍の令を布いてより、宝永6年正月、綱吉の死する迄、足掛け23年相食べ、正味22年間、生類憐愍の政治は、未だ一日も休止することなかった。極言すれば、此の二十有余年間、綱吉は人類の為でなく、むしろ畜類の為に、将軍職にあったのではないかと、思わしむる迄に、此のことに没頭した
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/123

綱吉は戌年生まれであったことから犬を特別に愛護して、「御囲(おかこい)」、「御犬囲」と呼ばれた犬屋敷が各地に設置され、特に元禄8年(1695)に完成した中野の犬小屋全体の御用地は29万7652坪にも及び10万匹もの犬を収容して「中野御用御屋敷」と呼ばれていたそうだ。

綱吉の晩年はさらにエスカレートしている。
宝永2年(1705)には牛馬に重荷や嵩高いものを負わせることを禁じている。
また宝永4年(1707)にはウナギやドジョウの販売を禁止していたところ、あなごと名付けてウナギを売っていた人物を獄につないでいる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/124

こういう記録を読むと、綱吉を名君とは考えにくいところなのだが、最近では綱吉を評価する論者が少なくないのは何を根拠としているのか。

当時江戸の町中には多数の犬がうろついていて、町民の生活にトラブルを発生させていたのみならず、無頼な連中が犬を捕まえて食らっていたという。綱吉は犬の収容所を作り、無頼者を大量検挙することで治安を回復させ、人々から歓迎されたという文書も少数ながら存在するのだという。

誤解の日本史

また井沢元彦氏は『「誤解」の日本史』で、別の視点から綱吉の時代を評価しておられる。

「私はよく、生類憐みの令というのは『劇薬』だったと表現しています。法律としては、一言で言えばむちゃくちゃな法律です。人間どころか動物を殺しても死刑になるということがあったというのですから、実際の所、非常に問題の多い法律だったはずです。
 しかし、実は法律の陰に隠れているのは『生命の尊重』という基本思想でした。そして、蚊一匹殺しても下手をすると遠島になるような、そういうむちゃくちゃな法律を施行したことによって、日本人の意識は劇的に変わっていったのです。
 『人を殺すなんてとんでもない』という風潮ができたのは、この法律ができたあとのことです
。人を殺すのはとんでもない悪事であるという意識の中に、われわれ現代人は生きています。我々の日常的な倫理の中に、そうした意識は深く根を下ろしています。ところが戦国時代は、人を殺すことが功名だという意識を以て、世の中は動いていました。
 日本人の意識の大転換が起こったのは、実は綱吉の時代なのです。
 だから私に言わせれば、綱吉は相当な名君なのです
。」(PHP文庫『「誤解」の日本史』p.248-249)

たしかに、こういう視点から綱吉の時代を考えることも必要であろう。綱吉が生類を憐れみ政策を22年間徹底し続けたことで、生きとし生けるものを大切にする考え方が日本人に広く定着したという指摘は正しいと思う。

とは言いながら、『徳川実記』を読んでいると、綱吉の時代を生きる多くの人々にとっては、息苦しい日々が続いていたと考えざるを得ない。
綱吉は病床で自分の死後も生類憐みの令を続けることを遺言していたそうだが、没してからわずか10日後の宝永6年1月20日に、時期将軍となることを約束されていた家宣により生類憐みの令が廃止されたという。

徳川家宣
【徳川家宣】

『徳川実記』には綱吉の遺言を守ろうとしなかった家宣の言葉としてこう記されている。
「生類あわれみの事は、先代のごとくいよいよ守るべき御むねといえども、それにより下民、艱困するよし聞こし召したれば、いまよりの後おのおの心を入れ、このことによって下民の愁いとならず、刑法もたち、罪の出でくることあるまじくはからうべし。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772969/9

綱吉の葬儀は1月22日であったのだが、葬儀の前に廃止してしまえば前将軍が自分で法令の廃止を決めたという体裁を整えることが出来る。
この案は次期将軍家宣側近の新井白石の知恵だとされているが、そのおかげで奉行所に捕らえられていた未決犯が解放され、後に罪人に対する恩赦も行われ、中野にあった犬囲いも廃止されたというのだが、山室恭子さんの『黄門さまと犬公方』によると、家宣の言葉を聞いた柳沢吉保の日記『楽只堂年録』には『徳川実記』と異なることが記されているという。

「一月二十日、間部詮房と一緒に老中に申し渡すようにと、次のような新将軍の仰せを承った。生類憐れみのことについては、先代がお心にかけられたように、いずれも遵守して断絶なきようにせよ。ただし万民が苦しまず、咎人を出さず、町屋も困窮せず、奉行所も煩わされないよう、万事穏便に済ませるべく心がけよ、と。」
https://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/33030071.html

新井白石

実際に市中に触れ出された通達の文面である『宝永日記』にも同様の事が記されていて、明らかに『徳川実記』と矛盾するのである。
そして山室恭子さんは前掲書で、この矛盾の原因が新井白石にあることをつきとめているのだそうだ。新井白石は第6代将軍家宣を支えたことで知られるが、その自伝である『折りたく柴の記』の序文には家宣の事蹟を少しでも後世に伝えたいという思いが記されている。

先ほど紹介した通り、江戸幕府の公式記録である『徳川実記』には、次期将軍の家宣が綱吉の遺言を堂々と破ったことになっている。ならば、家宣の判断が正しかったことを記すためには、綱吉の生類憐み政策を貶める書き方にならざるを得なくなってくるだろう。
だとすれば、『徳川実記』をそのまま鵜呑みにしてしまっては、真実から遠ざかってしまうことになりかねないのだ。

そもそも5代将軍綱吉の治世に元禄文化が花開いたのだが、人々がビクビクして暮らしていたり政治に不満をもっている時代に、そのような洗練された香りの高い文化が形成されることは考えにくいと思うのだが、読者の皆さんはどう判断されますか。

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【ご参考】
綱吉の時代に赤穂浪士の討ち入りがありました。興味のある方は覗いてみてください。

浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-149.html

赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-150.html

赤穂浪士に切腹を許した江戸幕府の判断は正しかったのか~~忠臣蔵3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-151.html

江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-152.html

赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-153.html







綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか

前回は徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』のことを書いたが、もう少し綱吉の話題を続けよう。

徳川綱吉が将軍宣下を受けたのは延宝8年(1680)で、宝永6年(1709)に死去するまで将軍位に就いていたのだが、綱吉の時代を調べていくと後半期に不幸な出来事が相次いで起きていることに気が付く。

富士山噴火

例えば、元禄8年(1695)以降奥州飢饉がおこり、元禄11年(1698)には江戸で大火(勅額大火)が発生し、元禄16年(1703)には関東を巨大地震(元禄地震)が襲い、宝永元年(1704)には浅間山が噴火し、宝永4年(1707)には宝永地震が襲ったのち富士山が噴火し、宝永5年(1708)には京都で大火(宝永の大火)が起きている。
綱吉の治世の後半の評価が特に低いのは、このような大火や自然災害がたて続けに起きたことと無関係ではなさそうだ。

そもそもこのような大災害が起こる前から、幕府の財政は火の車であった。
4代将軍家綱の時代に起きた明暦3年(1657)の明暦の大火で、江戸城や大名屋敷、市街地の大半が焼失してしまいその復旧支出が大きかったこともあるが、天領は約400万石と固定化されかつ米の価格は長期低落傾向にあり、一方貨幣を鋳造するための金の産出量は減少し、オランダとの貿易決済の為に多くの金貨が流出していた。そのために国全体の通貨量が不足して、デフレーションの状態に陥っていたのである。

徳川綱吉 土佐光起筆 徳川美術館蔵
徳川綱吉

綱吉が幕吏を集めてこの問題の解決策を問うた際に、荻原重秀は「他物を和剤して貨幣と為すに如くはなし。益を原材に取るなくして而してその数倍す。故にこれを便となす。」(『三王外記』)と答え、綱吉より貨幣改鋳の実行を命じられることとなったという。
そして元禄八年(1695)に荻原重秀は、貨幣の金銀含有量を下げて通貨量を増大させる小判の改鋳を行ったのだが、この点について一般的な教科書には次のように記されている。

元禄小判

「綱吉は、勘定吟味役荻原重秀(のち勘定奉行)の意見を用いて、財政再建の方法として貨幣の改鋳にふみきった。
 重秀は、金が8割以上も含まれていた慶長小判の質を落とし、金を6割以下に減らした元禄小判を大量に発行して、その差益を幕府の収入とした。しかし、財政の危機は一時的に救われただけで、これに伴う物価の値上がりが、庶民のはげしい不満をよびおこすようになった。」(『もういちど読む 山川の日本史』p.166)

前回記事では綱吉の『生類憐み政策』が見直されつつあることを書いたが、通貨改鋳についての教科書の記述は昔も今も変わらず、荻原重秀は「インフレの元凶」ということになっている。

『勘定奉行 荻原重秀の生涯』

ところが、金沢大学の村井淳志教授は著書『勘定奉行荻原重秀の生涯』のなかで、荻原重秀を高く評価しておられる。私は、村井教授の説の方が通説よりはるかに説得力があると思うので、ポイントとなる部分を引用しておこう。文中の彦次郎は荻原重秀のことである。

「少なくとも彦次郎は、『実物貨幣から名目貨幣へ』という貨幣観を自覚的にもちながら、改鋳作業を指揮していた。これが、ローマ帝国以来、幾多の国々で行われた『後ろめたい』改鋳と、元禄八年の改鋳を決定的に区別する点である。太宰春台が書いたとされる『三王外記』という本の中に、次のような叙述がある。改鋳後の貨幣の質が悪いと批判されて、彦次郎が次のように言ったというのだ。
  貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。
  今、鋳 するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。
 これはまさに名目貨幣の考え方であり、『貨幣国定説』にほかならない。
 なぜ彦次郎は、ヨーロッパの経済学会よりも二百年も早く、名目貨幣の考え方に気づくことができたのか。それは日本が鎖国をしていて、比較的早く、金鉱フロンティアの枯渇に直面したからだ。ある程度以上の規模を持つ閉鎖経済圏で、しかも日本ほど金産出量に恵まれた地域は、ほかには見いだせない。金産出量が豊富だったから自国通貨を独占発行することができたし、閉鎖経済だったからこそ政府による名目貨幣の強制通用が十分可能だった。つまり、日本列島は、地球上で初めての名目貨幣の通用実験には、まさにうってつけの場所だったのだ。」(村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』p.117~118)

村井淳志
【村井淳志】

教科書などを普通に読むと、荻原重秀による貨幣改鋳はとんでもない物価上昇を招いたとそのまま鵜呑みしてしまうところだが、実際はそうではなかったようなのだ。
村井氏によると、『三貨図彙(さんかずい)』に記録されている米価や、『吹塵録』に記録されている幕府張り紙値段の推移から元禄期の貨幣改鋳後11年間の平均の物価上昇率を推定すると、名目で3%程度とかなり小さく、この程度で庶民の生活が困窮したとは思えないという。激しい物価騰貴を招き庶民は困窮したとする通説は当時の記録と矛盾しているのである。

改鋳の被害を受けたのは、庶民ではなくこれまで大判小判を退蔵してきた商業資本や富豪層であった。彼らは改鋳による貨幣価値の下落というリスクに直面して、金銀を退蔵してもその価値が低下していくばかりである。その結果、貯蓄から投資・消費へという金の流れが生じて経済が活性化したのである。この時期に香り高い元禄文化が育まれたことは荻原重秀の貨幣改鋳と無関係ではないようなのだ。

先ほど元禄期の貨幣改鋳後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度であったことを紹介したが、その間に起こった元禄16年(1703)の地震(『元禄地震』)は相模トラフ巨大地震と考えられていて、大きな津波が発生して関東を中心に非常に大きな被害が出ている。震源地は千葉県の野島崎と推定され、マグニチュードは推定7.9-8.5で地殻変動は関東大震災よりも大きかったと考えられている。

徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第17 元禄時代 上巻』に、元禄地震に関する『武江年表』の記録が引用されているので紹介したい。
「十一月二十二日。宵より震強く、夜八時地鳴ること雷の如し。大地震、戸障子たおれ、家は小舟の大浪に動くが如く、地二三寸より、所により五六尺割れ、砂をもみ上、或いは水を吹出したる所もあり。石垣壊れ家蔵潰れ、穴蔵揺りあげ、死人夥しく泣き叫ぶ声巷(ちまた)に囂(かまびす)し。又所々毀れたる家より失火あり。八時過ぎ津浪ありて、房総人馬多く死す。内川一ぱい差引四度あり。此時より数度地震あり。相州小田原は分けて夥しく、死亡の物凡そ二千三百人。小田原から品川迄一万五千人、房州十万、江戸三万七千余人(内二十九日火災の時両国橋にて死せるもの千七百三十九人といえり。)…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228446/260

元禄地震の被害や津波の規模がWikipediaにまとめられているが、後に起こった江戸の火災を含めて死者は20万人を上回っていたようなのである。この年の2月に赤穂浪士46人が切腹したことから、この地震は浪士たちの恨みで起こった地震と噂されたようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E5%9C%B0%E9%9C%87

この地震と火災で江戸城などにも被害が出たのだが、復興に必要な資金を荻原重秀は貨幣改鋳益などにより捻出して対処し、この災害においては『三貨図彙』や、『吹塵録』を見る限り、激しい物価騰貴は生じていないようなのだ。

宝永地震

ところが、元禄地震よりもさらに大規模な地震がその4年後に起きている。
宝永4年(1707)に起きた宝永地震は南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと考えられていて、推定されているマグニチュードは8.4から9.3。記録に残る日本最大級の地震とされている。

地震の揺れによる被害は東海道、伊勢湾沿い、紀伊半島で顕著であったが、房総半島から種子島までの太平洋海岸沿いでは、下田で5~7m、紀伊半島で5~17m、阿波で5~17m、土佐で5~26mの津波が襲い、各地で甚大な被害が出たことが確実なのだが、当時の記録は断片的なものはあっても、全国レベルの損害をまとめたものは残されていない。

東京大学地震研究所図書室のホームページに宝永地震について残されている記録が掲載されている。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/meta_pub/G0000002erilib_L001000

たとえば、土佐国の『弘列筆記』には次のような記録がある。
「宝永四年十月四日、朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるいいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもわる。大地二三尺に割、水涌出、山崩、人家潰事、将棊倒を見るが如し。…(その後)半時計(ばかり)あつて、沖より大波押入ると声々に呼わり、上を下へとかえし、近辺の山に迯(にげ)上る。…間もなく跡より大浪うち入り…西は小高坂井口、北は萬々久萬、秦泉寺、薊野、一宮、布師田、東は介良、大津の山の根まで一面の海となる。大浪打事都合六七度、其浪の高さ五六丈*もあるべきや…」
丈(じょう):約3.03m。1丈=10尺。
http://wwweic.eri.u-tokyo.ac.jp/dl/cont/01/G0000002erilib/000/002/000002822.pdf?log=true&d=1534068611084

新井白石

また翌月には富士山が噴火し、その火山灰が広い範囲で降って、江戸にも大量に灰が積もったという。
新井白石は『折りたく柴の記』でこの日のことをこう記している。
「十一月二十三日午後参るべき由を仰下さる。よべ地震い、此日の午時雷の声す。家を出るに及びて、雪のふり下るがごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起りて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりぬ。…やがて御前に参るに、天甚だ暗かりければ、燭を挙げて講に侍る。」(岩波文庫『折りたく柴の記』p.126)

Wikipediaに宝永地震の全容がまとめられているが、建物や人名が失われただけでなく、不作により米が前年の倍近くなるなど諸物価が高騰したことが解説されている。

そして宝永6年(1709)1月10日に将軍綱吉がこの世を去った。
幕府の財政は厳しい状況にあったので、荻原重秀は再び貨幣改鋳を行おうとしたのだが、次期将軍家宣側近の新井白石がこれを阻もうとする。

折りたく柴の記

新井白石の自伝『折りたく柴の記』に、荻原重秀と議論した場面が描かれているので紹介しよう。白石が「貨幣改鋳は私の心にはない」と発言した後、荻原はこう反論している。

「初め金銀の製改(あらため)造(つく)られしよりこのかた、世の人私(ひそか)に議し申す事どもありといへども、もし此事によらずむば、十三年がほど、なにをもてか国用をばつがれ候べき。殊にはまた癸羊*の冬のごとき、此事によらずむば、いかむぞ其急難をば救はせ給ふべき。されば、まづ此事を以て当時の用を足され、これより後、年穀も豊かに国財も余りある時に及び、金銀の製むかしに復されんことは、いとやすき御事にこそあるべけれ。」(岩波文庫『折りたく柴の記』p.145-146)
*癸羊(みずのとひつじ):元禄16年(1703)11月22日の元禄地震と、29日の江戸の大火のこと

荻原は元禄地震や江戸大火のあとは、改鋳という方法によらなければ急場を救うことは出来なかったと主張したのち、今回も改鋳することによって当座の必要資金を確保するべきであることを述べたのだが、それに対して新井白石は次のように答えたと書いている。文中の近江守は荻原重秀のことである。

「近江守が申す所も、其いはれあるに似たれども、はじめ金銀の製を改造らるるごときの事なからむには、天地の災も並び至る事なからむもしるべからず。」(同上書p.146)

白石は、金銀貨幣の改鋳がなければ災害も起こらなかったかも知れないと述べたのだが、おそらく白石は綱吉の治世に大災害が相次ぐ理由は、徳川将軍家の祖法を守らず生類憐み政策や貨幣改鋳という悪政を行ってきた天罰であると本気で考えていたのだろう。

新井白石は第6代将軍家宣に3度に渡る罷免要求を繰り返し、正徳2年(1712)に荻原重秀を失脚させたのち、正徳4年(1714)に慶長金銀と同等な良質の貨幣(正徳金銀)を発行したのだが、そのために経済は縮小してデフレに逆戻りしてしまったという。

後世に荻原重秀の考え方が伝わらなかったことが影響してか、幕末になって通貨の大問題が起こっている。Wikipediaにはこう解説されている。

「実物貨幣から信用貨幣へのシフトという政策を支える経済理論が後世に伝わらなかったため、改鋳により金地金より高い価値を持つようになった金貨および南鐐二朱銀以降秤量貨幣から計数貨幣へ切り替わるとともに銀地金の数倍の価値を持つようになった銀貨の仕組みについて、幕府は金本位制が主流の欧米諸国を納得させる説明ができず、地金の価値に基づく為替レートを承認させられた。諸外国では金銀比価が金1:銀15に対し、日本では金1:銀5であった。その結果、金が国外に大量に流出し、流出防止のために金貨の価値を銀貨の価値に対し相対的に引き上げる必要が生じ、金貨の量目を低下させたので、インフレーションが発生し、日本経済は混乱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E9%87%8D%E7%A7%80

両替による利益獲得

幕末の外国人商人は、1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んで4枚を小判に両替したのち国外に持ち出し地金として売却すれば、簡単に当初の3倍の銀貨を手にすることが出来たのである。結果としてどれだけの金貨が海外に流出したかについては諸説があるが、わが国は短期間に大量の国富を失ったことは確実だ。
幕府は量目を天保小判の3割以下とする万延小判を発行した
のだが、そのことがさらに経済の混乱を招いたという。Wikipediaは、こう解説している。

「新小判の発行に先立ち、1860年2月11日(万延元年1月20日)に、2月22日(2月1日)より既存の小判は含有金量に応じて増歩通用とする触書が出され、天保小判一枚は三両一分二朱、安政小判一枚は二両二分三朱通用となった。このため江戸では三倍もの額面の新小判に交換される旧貨幣を所持する者が群衆となって両替商へ殺到し大混乱に陥る騒ぎとなった。
これは激しいインフレーションを意味し、物価は乱高下しながらも、激しい上昇に見舞われた
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%95%8F%E9%A1%8C

幕末に萩原重秀のような人物がいたら、幕府は通貨発行益を得ることによって巨額の財政赤字で悩むことはなかったであろうし、開国後に欧米諸国が両替で荒稼ぎし大量の金貨が国外に流出するようなこともなかったと思われる。

田沼意次
【田沼意次】

荻原重秀と新井白石の関係は、以前このブログで書いた田沼意次と松平定信との関係に似ている。
荻原も田沼もある意味で近代日本の先駆者的な人物であったのだが、荻原は元禄地震や宝永地震に襲われ、田沼も明和の大火や天明の大飢饉に遭遇し、相次ぐ大災害にかこつけて妄言をまき散らす政敵に失脚させられ、正史の中で政敵により悪しざまに描かれたことを知るべきである。

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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。

田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-416.html

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-417.html







江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由と、豪商・淀屋の闕所処分を考える

徳川家康が江戸に幕府を開いた以上は、徳川幕府の歴代将軍は江戸が政治・経済・文化の中心になるよう努力したに違いないのだが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡したにもかかわらず、大阪がわが国の経済の中心地であり続けたのである。その理由はどこにあったのだろうか。

この問題について徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第19 元禄時代 下巻 世相篇』でこう解説している。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰でもネット読むことが出来る。

政治上に於いては、一個の大名の城下程の勢力もなかった大阪が、何故に重要の働きを、徳川時代に為しえたかといえば、それは別儀ではない。ただ大阪が、日本全国物資の集散地であったからだ。物資中でも、殊に封建時代に於ける将軍をはじめ、大名どもの生命(いのち)と頼む、米の集散地であったからだ
 徳川氏の封建制度は、米の上に立つたる制度だ。徳川将軍の所得は勿論、その旗本でも、大名でも、また大名の家来たる侍(さむらい)でも、みなその所領の百姓から年貢として米を取り、米を以て生活の基本にした。しかも人は米のみにて生活する能わず、その米を通貨に代え、通貨を以て、自余の需要に供した。その米の処分を為す場所が大阪であった。而してその米の取り捌き人が、大阪商人であった。されば単に米のみについて見ても、大阪商人は、日本における武士の、敢えて総てとは言わぬが、大部分の生命(いのち)の綱を、握りつつあるものと言わねばならぬ。
 しかも大阪は単に米の都のみではなかった。その水陸における運輸交通の利を占め、その日本における最も膏饒(こうじょう)にしてかつ富庶なる環境を控え、さらに遠くは朝鮮、支那、海外との関門と接触し、鎖国政策実行後に於いても、長崎と江戸の中間に位するため、あらゆる海外貿易についても、より大なる便宜を専らにした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228467/21

江戸時代の航路

江戸幕府は当初は浦賀を貿易港にしようと動いたようだが、商業の中心地を江戸に移すことは出来なかった。江戸は武士中心の社会であり、大阪商人からすれば上に無用の束縛をなす武士が少ない方が商売がやりやすかったし、京都に近くまた海外貿易の拠点である長崎からも遠くない大阪を離れたくなかっただろう。

「…江戸に於いては商人が武士に叩頭し、大阪にては武士が商人に叩頭す。江戸に於いては、商人の得意先が武士であり、大阪に於いては、武士の得意先が商人であった。かくのごとくして江戸が武士の都である如く、大阪は商人の都であった。而していわゆる上方の文化なるものは、この大阪の富と、京都の歴史との、化合的産物と言わねばなるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228467/21

大阪が米の集散地となったとは豊臣時代からのことだが、豊臣家が滅亡し徳川幕府の直轄地となったのちにさらなる発展を遂げ、米取引で巨額の財を成す者が現われるに至る。

徳富蘇峰の前掲書に『堂島旧記』が引用されており、淀屋のことが記されている。

「…淀屋與右衛門という有福の者ありて、寛永正保の頃より、西国諸侯方積登せし米穀を引請け、売捌代銀を取立て国へ送り、江戸屋敷への仕向等の世話をもって業とす。則ち町人の蔵元なり。寛文年に至りては、この蔵元を勤むる者数軒に及ぶ。尤も淀屋を第一とす。ここにおいて市中米商する者、多分この淀屋に集まり買得せしより、自然と米価高下を争い、是より相場の事起これり。[堂島旧記]」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228467/30

菱垣新綿番船川口出帆之図
【菱垣新綿番船川口出帆之図】

淀屋の初代・岡本三郎右衛門常安(じょうあん)は伏見城の造営や淀川の堤防改修工事で采配を振るったのち材木商を営み中之島の開拓を行った人物だが、二代目の淀屋言當(ことまさ)の時代に自身が拓いた中之島に米市を開き、中の島を渡るための淀屋橋を自費で土佐堀川に架けている

淀屋橋
【現在の淀屋橋】

Wikipediaには、こう解説されている。
「米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並んでいた。また1620年代、全国の米の収穫は約2700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約500万石が市場で取引きされていた。その4割の約200万石が大坂で取引きされていたと言われている。
米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていた。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった。この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎(かさい)、四代目の重當(しげまさ)の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B1%8B

摂津名所図会 巻四 2
【摂津名所図会 巻四】

では、淀屋にどの程度の富が蓄積されていたのだろうか。淀屋4代目の重當の贅沢振りが『元正間記』という書物にこう記されているという。文中の古安(こあん)は、重當のことである。

淀屋屋敷

「彼古安が代に奢り過ごして、屋敷を百間四方に構え、家作の美麗はたとえて言うべき様もなし。大書院、小書院は、総体金張付金襖、勝田興則興信が彩色の四季の花鳥なり。庭には泉水立石、唐大和の樹木を植えさせ、夏座敷と名付けて、四間四方四面に雨椽(ぬれえん)を付けて、玻瓈(びいどろ)の障子を立て、天井も同じびいどろにて張詰め、清水を湛え、金魚銀魚を放したるてい、天下の御涼所にても、是にはいかで勝るべき。右のほか数寄屋の構え、金銀を延べたる如く、奥座敷には欄間に四季の草花を彫らせ、雨椽高欄は朱塗りに仕立つ。大名高家の連中方もいかでか及ぶべき。表廻りの手代座敷、料理の間、台所は広大なること、言語に絶え、夫々の役人を定めて、家内は常に市をなしけり。
 これにより西三十三か国の大名衆の御用を承り、西国九州の諸大名、淀屋の金借用なきは一人もなしといえり。金銀には諸大名よりの付届(つけとどけ)、家老用人の歴々にも手をつかせ、高位大禄の輩とも膝を組んで威を振るう。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228467/30

4代目の重當はこのような贅沢三昧を続けたのだが早死にし、元禄15年(1702)に息子の淀屋辰五郎が家督を継ぐこととなった。しかしながら辰五郎も親の重當と同様に「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」とされ、宝永2年(1705)に闕所(けっしょ)、すなわち全財産没収の処分を受けている

摂津名所図会 巻四 1
【摂津名所図会 巻四】

この時に没収された淀屋の財産は驚くべき金額である。Wikipediaによると、
闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B1%8B

米1石が約6万円として計算すると、100万石の大名でも石高はほぼ600億円で、税収はその半分程度ということになる。元禄10年の元禄郷帳・元禄国絵図の石高は2600万石程度だから税収は8000億円程度という計算になることを考慮すると、100兆円にも膨れ上がった諸大名の借金など淀屋に返せるはずがないだろう

それにしても、贅沢が目に余るという理由で淀屋の莫大な全財産を没収した幕府は随分横暴なことをしたものである。重大な罪を犯したわけでもないのに、どう考えても処罰が重すぎるのである。
しかも淀屋辰五郎は18歳*で家督を継ぎ、闕所処分にされた時はわずか21歳前後の青年であった。
*淀屋辰五郎の出生年は貞享元年(1684)とされているが諸説あり、徳富蘇峰は前掲書では15歳で家督を継いだとあるので、闕所処分は18歳ということになる。

淀屋辰五郎が闕所処分を受けた時期は、前回の記事で書いた元禄16年(1703)に起きた元禄地震の2年後であることと無関係ではないだろう。この地震は前回記事でも書いたが、推定マグニチュードが7.9~8.5で地殻変動は関東大震災よりも大きかったと考えられており、大きな津波が発生して関東を中心に20万人を上回る死者が出た大地震であった。
江戸幕府や被害の大きかった諸大名や幕府は、この災害復旧のために巨額の支出を余儀なくされることになるのだが、その資金を調達するために幕府が淀屋に目を付けたということではなかったか。大量の金銀を没収する目的もあったのだろうが、巨大化した商家を押さえ込むと同時に、巨額に膨れ上がった借金を帳消しにさせて諸大名の窮迫状況を救うことに主たる意図があったという説が真実であると思う

この事件の直後から淀屋事件が戯曲化されている。徳富蘇峰は前掲書でこう記している。
「宝永二年六月—未だ事件が結了せざる以前—には、錦文流の棠(からなし)大門屋敷の作出で来たり、宝永五六年の頃には、近松門左衛門が、淀鯉出世瀧徳の浄瑠璃出で来たり、宝永7年には、其碩(きせき)の風流曲三味線出で来たり、正徳三年には、西鶴門人圑水(だんすい)が、新永代蔵出で来った。その他にこの事件に関する記事が、種々の書籍に散見している。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228467/38

淀屋辰五郎

かくして淀屋の贅沢三昧・放蕩三昧のイメージが人々の間に定着していったのだが、このような情報は、幕府が淀屋を闕所処分したことを正当化するために意図的に広められたプロパガンダではないだろうか。

この問題に関して、「八幡の歴史を探求する会」会員の丹波紀美子さんのレポート『淀屋の歴史をたどる!』に、興味深い資料が紹介されている。

「淀屋闕所に関する資料の一つとして注目すべき文書がある。

  淀屋闕所ヨリ當年五拾年ニ相成候ニ付、於御堂法事
  相勤可申旨被為仰付、従江戸面銀百貫目如斯書付相
  添、當所御堂ヘ被仰付。當八月十六日夜限、右法事相勤候事。
  其時御堂祐筆是ヲ冩取置候。講中衆内證ヲ以冩置候也

 要するに、闕所50年後に、江戸幕府より銀百貫を添えて辰五郎の法事をする様御堂にお達しがあったということである。幕府が淀屋の功績を認めていたことに他ならない。」 
https://yrekitan.exblog.jp/22160151/

残念ながらこの引用文書の出典が丹波さんのレポートの中に記されていないのだが、せめて文書の日付や文書名程度は知りたいところである。

闕所処分されたのちの淀屋辰五郎は江戸に潜行し、そして6年後の正徳5年(1715)に日光東照宮100年祭の恩赦で、初代淀屋常安が徳川家康から拝領した八幡(現京都府八幡市)の山林300石が返還されることとなり、享保元年(1716)に辰五郎は八幡の地に居を構えたのだが、その翌年にわずか33歳の若さで亡くなったという。

しかしながら、淀屋辰五郎の父である四代 淀屋重當(しげとみ)は、闕所処分とされる事を予想し、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾分けをしたとWikipediaに書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B1%8B

倉吉淀屋
【倉吉淀屋】

牧田仁右衛門は店を出身地の伯耆国久米郡倉吉に開いて順調に経営規模を拡大していき(後期淀屋)、闕所から58年後には五代目の四男が淀屋清兵衛を名乗り、大阪に店を出して淀屋橋を買い戻し大阪淀屋を再興している。そしてこの大阪淀屋は5代続いて繁栄したという。

しかし話はここでは終わらない。淀屋が江戸幕府に復讐する好機が到来するのである。

長谷川晃名誉教授

物理学者で大阪大学名誉教授の長谷川晃氏が『私の独り言 明治維新を成功させた陰の力—ある大阪豪商と京都の公家の話』という論文を書いておられ、ネットで公開されている。この論文にはこう記されている。

「1705年の闕所処分の約150年後の幕末の頃の安政6年(1859年)に倉吉淀屋と大坂淀屋の両家は突然店をたたみ、全財産を倒幕の為にと朝廷に献上して姿を消していることだ。これは淀屋の闕所処分の150年後の幕府に対するリベンジと呼ばれている。」(p.18)
http://www.osaka-u.info/pdf/2014/07/article05_1.pdf

岩倉具視
岩倉具視

長谷川氏によると、淀屋がこの時に献上した資金は500万両以上あり、渡した相手はおそらく岩倉具視で、岩倉は薩長を利用してたくみに倒幕に導き維新政府を軌道に乗せる役割を果たしたと推定しておられる。500万両という金額は当時のわが国のGDPの2割以上で、国家予算の規模を上回る水準であったという。

明治維新を成し遂げた中心メンバーは岩倉のような貧乏公家と薩長の下級武士であったのだが、倒幕を実現させるだけの必要資金を若くて貧しい彼らがなぜ入手できたのかという肝心な部分については、通史には一言も書かれていない。

文久元年(1861)、岩倉具視は将軍家茂への皇女和宮の降嫁に尽力し、宮中の尊王攘夷派からは佐幕派と見なされ、文久2年(1862)に蟄居処分を受けて岩倉で貧困生活を余儀なくされることとなる。そして、岩倉は蟄居生活を続けている間に倒幕論に考え方を変えているのだが、長谷川説ではこの時期に岩倉は淀屋に会って資金献上を受け、佐幕派から討幕派に変身したとする。
岩倉の蟄居処分は慶応3年(1867)11月まで続いたのだが、なぜ貧乏公家であった岩倉が蟄居処分を受けている最中に、討幕の密勅を出したり王政復興大号令を出すなど倒幕に向けての強いリーダーシップを発揮することができたのか。その背景には、大きな資金が動いていた可能性が高そうだ。

長谷川氏は次のように纏めておられる。
「革命を仕掛けたのは薩長軍ではあるが、クーデターを成功に導き、新政府を打ち立てたのは淀屋の資金を得た岩倉具視である。これが私の新説である。善かれ悪しかれ岩倉具視の名前は幕末史には残っていない。金を出しても名を残さない大阪商人の根性の表れであろう。」(同上 p.20)

長谷川氏の仮説を裏付ける記録は存在しないが、淀屋が店をたたんで全財産を朝廷に献上したことは史実である。そしてその資金が岩倉具視に流れたとすれば、蟄居時代の岩倉の行動がすべて謎ではなくなるのだ。私は、長谷川氏の説は真実に近いのではないかと思うのだが、みなさんはどう考えられますか。

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紀伊国屋文左衛門がみかん船で大儲けしたという話は真実か

紀伊国屋文左衛門は元禄時代の豪商で、荒天の海にみかん船を乗り出して大儲けをしたという話が有名で、私も子供の頃に何度も聞いた記憶がある。

紀伊国名所図会 後編 下巻 蜜柑をとる図
【紀伊国名所図会 後編下巻 蜜柑をとる図】

この話の概要をまとめると、このようなものである。
文左衛門はみかんの産地として名高い紀州(和歌山県)の出身で、まだ20代であったある年、和歌山ではみかんが豊作でありながら嵐のためにみかんを江戸に送ることが出来なくなっていた。江戸では毎年鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」が行われていて、この祭りでは鍛冶屋の屋根からみかんをばら撒いて地域の人に振る舞う慣習があったのだが、紀州から船が来ないために江戸のみかんの価格は高騰する一方、和歌山のみかんの価格は暴落したという。
文左衛門はこのチャンスを逃さず大量のみかんを買い集め、荒くれの船乗りたちを説得して命がけで嵐の太平洋に船出をする。船は無事に江戸に到着し、みかんは飛ぶように売れて文左衛門は大儲けしたという話なのだが、この話は実話ではないとするのが最近では通説になっているという。

なぜ真実ではないとされるようになったのだろうか。江戸東京博物館館長の竹内誠氏の『紀伊国屋文左衛門の実像』(『えど友』第68号)をp.1読むとこう解説されている。文中の紀文は紀伊国屋文左衛門をさす。

黄金水大尽盃 挿絵
【黄金水大尽盃 挿絵】

幕末に為永春水紀伊国屋文左衛門という実在の人物をモデルにして書いた長編小説『黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかづき)』は12年間にわたり28編も続き、非常に多くの人に読まれました。その結果、史実と小説がゴチャまぜになり、紀文の実像はわからなくなりました。明治18年(1885)にでた『大日本人名辞書』に小説が紀文の逸話としてそっくり載せられ、これ以降の人物説明は逸話に沿って書かれているものがほとんどです。…江戸時代に紀文のことを取り上げた簡単な伝記第一号は『江戸真砂六十帖』(寛延*のころ)の書です。…この本には紀州出身であることもみかんでもうけたことも記されていません。」
*寛延:1748~1751年
http://www.edo-tomo.jp/edotomo/h24(2012)/edotomo-No68.pdf

紀伊国屋文左衛門が亡くなったのは享保19年(1734)と考えられているが、みかん船で稼いだ話は18世紀半ばに書かれた文左衛門の伝記には記されておらず、幕末の小説家・為永春水の『黄金水大尽盃』が初出である。だから実話であるとは考えられないというわけである。

竹内氏とは別の視点からみかん船の話が真実ではないとする説もある。
例えば『大江戸四方山話』のサイトに出でいるが、ポイントとなるのは
①この時代は静岡でもみかんが生産されていて、わざわざ危険を冒して和歌山から運ぶ理由が乏しい
②紀州から江戸へのみかんの出荷が始まった寛永11年(1634)以降『蜜柑方』が組織され、その出荷記録に紀伊国屋文左衛門の名前がない
という2点にあるようだ。
http://xn--r8jda9j.com/hisB-4.html

紀伊国名所図会後編下巻 蜜柑をとる図 其の二
【紀伊国名所図会 後編下巻】

この指摘については興味深いのでネットで調べてみると、『有田みかんデータベース』のホームページに、御前明良(みさきあきら)氏が『全国のみかん栽培史と江戸時代の有田みかんの流通』という論文を寄稿しておられるのが見付かった。
http://www.mikan.gr.jp/report/saibaishi.html

この論文にわが国の主要なみかんの生産地におけるみかん栽培史がまとめられている。
和歌山県以東で大きなみかんの産地は静岡県しかなく、静岡県のみかんの栽培は和歌山のみかんが江戸で販売されるようになってから紀州みかんの苗が移植されて拡大していったようである。

まず最初に、和歌山のみかんが江戸で販売されるようになったのはいつの頃からなのか。

紀伊国名所図会 後編下巻 4
【紀伊国名所図会 後編下巻】

元和5年(1619)から堺の商人大阪—江戸の定期輸送船として250石船を運航させるようになった(菱垣廻船)のだが、当時の木造船で熊野灘、遠州灘の荒波を乗り超えていくのは大変な危険を伴い、天候や波の加減を見ながら何度も港に停泊しながら1か月近くかけて江戸に到着したという。冷蔵技術のない時代にそんな方法で、生もののみかんを腐らせずに運搬することは容易でないことは誰でもわかる。

ところが、困難だと思われていた蜜柑の運搬に挑んだ人物が現れた。御前氏の論文にはこう解説されている。

紀州蜜柑傳来記

「『紀州蜜柑傳来記』に江戸出荷の創始者、有田郡宮原組滝川原村の『藤兵衛』のことが記されている。それによると、寛永11年(1634年)、藤兵衛は小ミカン400篭(一篭15キロ、計6t)を江戸行きの廻船に積み込んで勇躍出立した。太平洋の荒波に揺られ、揉まれて一ヶ月、藤兵衛の全財産を賭けた初めての輸送は見事成功する。」
「江戸には、柑橘類を扱う問屋や小売り、行商人も多かった。京橋の新山屋という水菓子屋から仲買人に売り捌いてもらうと、皆が飛びつき、味のよい有田小ミカンは一篭半(22.5キロ)が一両という高値で売れた。
 大成功に気を良くして藤兵衛は意気揚々と帰国する。村の人々はこの話に驚嘆し、来年は自分たちのミカンも積んで行って欲しいと依頼。村人の委託を受けて、藤兵衛は翌年2000篭を江戸に送り、二篭一両にて販売する。と書かれている
。」

当時の1両の価値については諸説があるが、今の10~13万円程度であったと考えられる。そのような高値で売れたことに紀州有田郡の農民が驚いたことは無理もない。そしてこの年以降、有田みかんは毎年江戸に送られることとなる。

北斎『富嶽三十六景 上総ノ海路』
【北斎『富嶽三十六景 上総ノ海路』】

同論文によると大変な勢いで有田みかんの江戸への出荷量が増加している。
「 寛永11年(1634年) 江戸へ初出荷  400篭   6t
 寛永12年(1635年)         2000篭 30t
 明暦元年(1655年)         5万篭 750t
 貞享年間(1684年~)         10万篭 1300t
 元禄年間(1688年~)       25~35万篭 3750~5250t
 正徳年間(1711年~)         40万篭 6000t
  弘化2年(1845年)          100万篭     15000t」

紀伊国屋文左衛門が生まれた年については諸説があり、寛文9年(1669)に生まれたとする説を採用するとしよう。また、みかん船で大稼ぎしたという年齢も17歳の時という説もあれば20代の時という説もあり、両方の説をまとめると貞享3年(1686)から元禄中期にかけての話ということになる。この頃は順調に有田みかんの江戸への出荷量が拡大しているのだが、静岡のみかんについてはどんな状況にあったのだろうか。

御前氏の論文にはこう記されている。
「『静岡県柑橘史』で静岡のみかん栽培を調べてみると、明暦年間(1655年~1657年)から万治年間(1658年~1660年)にかけて庵原郡富士川町岩淵の常盤小左衛門が紀州よりみかん(紀州小ミカン)の苗木を持ち帰ったのが静岡における蜜柑栽培の発祥とされている。」

実は静岡ではもっと以前から柑橘類の栽培がなされていたが品質があまり良くなかったようだ。御前氏は同論文で、有田郡宮原組滝川原村の『藤兵衛』が初めて江戸に有田みかんを持ち込んだ寛永11年(1634)の頃のことをこう解説している。
当時、江戸では、既に伊豆、駿河、三河などからミカンらしき柑橘が販売されていた。しかし、それらは九年母、柑子の類であり、皮が厚く、味が淡泊であった。それらに比べて、有田の小ミカンは糖度が高く、風味、色艶、形状が他藩産を圧倒した。」

有田みかんが江戸に持ち込まれ高値で売られているのを見て、それまで別の柑橘類を生産していた静岡の農家が動き出す。そして紀州みかんの苗木が静岡に持ち帰られて栽培されることになったのだが、三ヶ日や藤枝に紀州みかんの栽培が始まるのはもっと後の時代であった。

紀伊国屋文左衛門
【紀伊国屋文左衛門】

紀伊国屋文左衛門がみかん船を出したとされる時代に、静岡で紀州みかんの栽培が本格化しつつあったことには間違いがないが、静岡産のみかんには江戸の消費者を満足させるだけの力はなく、江戸はブランドイメージの高い和歌山のみかんを必要としていたと考えるべきだと思う。そう考えなければ、和歌山から江戸に運ばれるみかんが一貫して増加し続けたことを説明できないのである。

また『大江戸四方山話』で「蜜柑方」に紀伊国屋文左衛門が出荷した記録がない点についてはどうであろうか。同ブログでは「紀州徳川家は御三家のひとつで、みかんの国内輸出は重要な収入源だった。だからもし『蜜柑方』を通さずに勝手に売ったりしたら打ち首ものだった」と書かれているが、そもそも「蜜柑方」とはどのような組織であったのか。

御前氏の論文によると、「『蜜柑方』は出荷組合連合会でありその構成単位であるのが地区農協とも言うべき『組株』である」とある。そして江戸の蜜柑問屋も乱立して過当競争となって組株のもうけが減ったという。
そこで次のような対策が打たれたという。
貞享4年(1687年)、蜜柑方は問屋に公正価格維持を要請するために代表を江戸に送り、問屋と交渉する。その結果、問屋は京橋の堺屋藤右衛門ら9軒を指定し、それ以外とは取引禁止とする。また、生産者側の組株は、有田郡19組、海草郡4組に制限し、その増減は、問屋側の承認を必要とするという基本協約が結ばれた。ここに、蜜柑方は指定問屋と結んで利益の確保を図る販売システムを作りあげた。
 しかし、有田において、蜜柑の栽培農家が増えるとともに正徳4年(1714年)には組株が29組となった。組株が乱立すると、足並みが乱れ、お互いに得にならないとして、『これ以上増えては困る』とばかりに既成組の代表者が奉行所に願い出て、新規設立を御法度にしてもらった。ここに蜜柑方は藩の許認可のもとに存在する『特許組合』となったのである。」

このように、『蜜柑方』は過当競争による価格暴落を防ぐ目的で民間の組織として設立され、紀州藩が関与したものではなかったのである。また文左衛門が運んだみかんには江戸の高い需要があったのだから、蜜柑方を通さなくても買いたたかれるようなことはありえなかったと考えられる。

とは言いながら、紀州藩は財政収支改善の為にみかんの売上に対する課税を開始している。そうなるとすべてのみかん取引について蜜柑方を通すことになっただろう。前掲の論文にこう解説されている。

紀伊国名所図会 後編 上巻 田中蜜柑市の図
【紀伊国名所図会 後編 上巻 田中蜜柑市の図】

紀州藩が蜜柑の売り上げに対して“御口銀”と称して税金を課すようになったのは、元禄11年(1698年)のことである。『紀州蜜柑傳来記』によると、その時の税金は蜜柑一篭(15kg)を基準とした。江戸廻し一篭につき銀一分。近国廻しは銀八厘。尚、正徳4年(1714年)には新金銀吹替えがあり、賦課金が半減している。江戸廻し一篭につき銀5厘、近国廻しは銀4厘。元禄から正徳時代には毎年30万篭から40万篭が江戸に出荷されており、紀州藩の財政への貢献は大きかったと思われる。」

このように、紀州藩がみかんの売り上げに課税し始めたのは元禄11年(1698)以降の話で、寛文9年(1669)の生まれだとすればこの時点の紀伊国屋文左衛門は28~29歳ということになる。
文左衛門がみかん船で大儲けした年月が特定されておらず、微妙なところだが、少なくとも元禄10年(1697)以前であれば、「蜜柑方」を通さずに販売して「打ち首」となることはありえなかったと考える。

黄金水大尽盃 1 挿絵
【黄金水大尽盃 挿絵】

『大江戸四方山話』のサイトで指摘されている2つの問題が、紀伊国屋文左衛門のみかん船の話を作り話とする根拠にはならないことはご理解いただけたと思うのだが、冒頭で紹介した竹内誠氏の論文も同様に、この話が実話でないことの証明にはなりえない。作り話である可能性がかぎりなく高いことは言えるのだが、寛延の頃には封印されていた真実を掘り起こした可能性がないとは断定できないのである。ことほど左様に、真実でないことが一度流布されてしまうと、後世においてそれが事実ではないことを証明することは困難である。

紀伊国屋文左衛門のみかん船の話は多分作り話だとは思うものの、時代背景を考えるとこういう出来事があってもおかしくない。為永春水が文左衛門でない他の人物のもうけ話を物語の中に織り込んだのかも知れないが、過去の人物であれ現在の人物であれ、実在の人物の事績として真実でないことを真実であるかの如くに描く行為は、やめていただきたいところである。

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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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