HOME   »  2010年05月
Archive | 2010年05月

端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か

端午の節句が近づくと、どこのスーパーに行っても「ちまき」と「柏餅」が店頭に並べられる。

ちまきと柏餅70

子供の頃端午の節句の日に友達の家に遊びに行って「ちまき」をごちそうになって帰ることがあった。京都にある実家は忙しくて「ちまき」を作ることは一度もなかったが、当時は近所で「ちまき」を作る家が結構あって、お裾分けしていただくことがよくあった。

しかし、小さい頃に京都で私が端午の節句で食べたのは「ちまき」が大半で、「柏餅」を食べるようになったのはもう少し大きくなったからのような気がする。

そもそも端午の節句に「ちまき」や「柏餅」を食べるようになったのはいつの時代からなのだろうか。またその由来は何なのかがちょっと気になって調べると、次のサイトなどに結構詳しく書いてある。
http://allabout.co.jp/family/seasonalevent/closeup/CU20080421A/index2.htm
しばらく引用すると、
「今からおよそ2300年前の中国に、屈原(くつげん)という詩人がおりました。屈原は国王の側近として仕え、その正義感と国を思う強さで人々から大変慕われていましたが、陰謀によって失脚し、国を追われ…国の行く末に失望した屈源は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったそうです。その日が5月5日です。」

屈原

「国民は屈原の死を悲しみ、川に沈んだ屈源が魚に食べられてしまわないよう、小船の上から太鼓を叩いて魚をおどしたり、供物を投げ入れて弔いをしていましたが、せっかく川に捧げた供物も、屈原のもとに届く前に悪い龍に盗まれてしまいます。そこで、龍が苦手にしている楝樹(*れんじゅ)の葉でもち米を包み、邪気を払う五色(赤・青・黄・白・黒)の糸で縛ってから川へ流すようにしたところ、無事に屈原のもとへ届くようになったそうです。(引用終わり)」
(*楝樹とはセンダンという香りの強い木らしいが、日本では今では「ちまき」は笹で巻かれている。)

これが「ちまき」の始まりとなって、中国では5月5日に「ちまき」を作って災いを除ける風習ができ、端午の節句となって「ちまき」とともに日本に伝来したらしい。

Wikipediaによると平安時代中期に編纂された辞書である「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には「和名知萬木」と言う名の記事があり、もち米を植物の葉でつつみ、これを灰汁で煮込むという製法が記載されており、当時は灰汁の持つ殺菌力や防腐性をもちいた保存食であったようだ。これが長い年月をかけて次第に変化していったもののようである。

また江戸時代の元禄10年(1697)に書かれた「本朝食鑑」には4種類の「ちまき」が紹介されており、そのうちの1種類は和菓子としての「ちまき」の原型と考えられている。いずれにせよ中国から伝わった「ちまき」が、国内でかなり変化遂げながら、端午の節句に食べる伝統のお菓子としての「ちまき」を食べることが続いているということで、昔のものがそのまま伝わっているわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%81%BE%E3%81%8D

では柏餅はどうかというと、これは日本独特のもので、江戸時代の江戸に生まれたものだ。

柏餅を包む柏は新しい葉が生えないと古い葉が落ちないことから、「子供が生まれるまでは親は死なない」すなわち「跡継ぎが絶えない」「子孫繁栄」に結びついて、男の子のお祝いである端午の節句に縁起のいい食べ物となったということだそうだ。

というわけで、江戸文化を反映して全国に柏餅が広がっていき、上方では伝統を重んじて「ちまき」が伝承され、江戸時代の幕末には関西で「ちまき」、関東で「柏餅」を食べることがほぼ定着し、今でも関西で「ちまき」、関東で「柏餅」が親しまれる傾向にあるというのである。

これで私の子供の頃に京都の実家で端午の節句に「ちまき」を食べることが多かった謎が解けた。

関西と関東の文化が融合して、最近ではどこのスーパーでも「ちまき」と「柏餅」が店頭に並ぶようになった。グルメの私にとっては東西文化の融合は大変ありがたく、今年も両方をいただくことにしよう。
**************************************************************
ブログパーツ
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ









関連記事

円山応挙ゆかりの金剛寺と近隣の古刹巡り

GW中はどこへ行っても渋滞するので、高速道路は使わず近場で行けるところがないかいろいろ探したところ、京都府亀岡市に円山応挙ゆかりの寺があると知り、急に行きたくなって車でその近くの古刹と一緒に巡ってきた。

私は円山応挙の絵が大好きで、昨年の秋には和歌山県串本の無量寺、冬には兵庫県香住の大乗寺に行って円山応挙とその弟子の描いた襖絵などを鑑賞してきたことをこのブログにも書いた。

私のプロフィールで使っている虎の絵をブログ仲間から時々質問されるのだが、この虎は無量寺にある長沢芦雪の「龍虎図」の虎である。金刀比羅宮の奥書院の襖絵にも応挙の「遊虎図」という絵があり今年鑑賞してきたばかりだが、虎に関しては、私は弟子の長沢芦雪の作品のほうが好きだ。

亀岡にある円山応挙ゆかりの寺とは亀岡市にある臨済宗天竜寺派の金剛寺というお寺で、地元では「応挙寺」とも呼ばれている。
大門寺・穴太寺・金剛寺 017

この山門は明和8年(1771)年に建立されたものだが、本堂や庫裏は平成11年に再建されたばかりのものである。

円山応挙は享保18年(1733)に丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現京都府亀岡市)で貧しい農家の次男として生まれ、8歳の時にこの金剛寺で小僧として生活したのだが、同寺の住職であった玉堂和尚から禅の手ほどきを受け、また画才を認められていたそうである。 玉堂和尚が亡くなってから15歳の頃に京都に出て、岩田屋という呉服屋に奉公し、その後びいどろ尾張屋勘兵衛の世話になり、17歳の頃に狩野探幽の流れをひく鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

応挙は既成概念にとらわれない斬新な発想で、従来の日本画にはなかった遠近法や写生を採り入れて画家として大成し、天明8年(1788年)応挙56歳の時に京都が天明の大火でアトリエが焼失し、一時的に亀岡の金剛寺に戻り、両親の追善供養と幼少時代の感謝の意を込め、本堂全面の襖と壁面57面に「山水図」「波濤図」「群仙図」を描き寄進したと言われている。

これらの作品はすべて国の重要文化財に指定されているが、1904年に「山水図」「波濤図」は東京国立博物館に寄託され、「郡仙図」は同寺の収蔵庫に保管され、毎年11月3日「文化の日」に一般に公開されるそうだ。

現在の本堂には「波濤図」の内8幅が複製されており、本堂にいけばその鑑賞が可能だが、 同寺は観光寺院ではないので通常本堂は施錠されており、本来は予約が必要だったようだ。 たまたま、運よく奥さまが庭で掃除をしておられて声をかけると、快く本堂を案内して下さってラッキーだった。

波濤図

本堂の「波濤図」は複製といってもほとんど実物の様で、ダイナミックな波のうねりが圧倒的な勢いで眼前に迫り、襖を開けても閉めても絵がつながるように緻密に構成された素晴らしい構図だ。

波濤図2

これらの応挙の襖絵が、他の作品とともにこのまま金剛寺に残されていたら素晴らしかったのだが、ネットでいろいろ調べると、明治の時期には相当建物が傷んでいたらしく、襖絵も相当傷みが激しかったようだ。そのまま襖絵を傷めてしまうよりかは国立博物館に寄託して文化財を守ることを選択されたのはやむをえなかったと思う。

この金剛寺のすぐ近くに西国三十三箇所第21番札所の穴太寺(あなおじ)がある。ここもお勧めしたい場所である。

大門寺・穴太寺・金剛寺 009

このお寺は慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大友古麻呂が開創したしたとされる。境内には本堂・多宝塔などの建物と日本庭園があるがいずれも江戸時代のものである。
大門寺・穴太寺・金剛寺 012

堂宇も庭園もすばらしく、観光客も多くなくて、心が落ち着く寺院である。

もうひとつ欲張っていったのが茨木市の山奥にある大門寺。摂津国八十八箇所霊場の第五十番札所である。

大門寺・穴太寺・金剛寺 002

寺伝によれば宝亀2年(771)に桓武天皇の兄にあたる開成皇子の開基とされるが、空海がこの地を来訪し、その際に金剛・蔵王の2像を彫刻し守護神にしたと伝えられている。 貞観年間(859~877年)には、本堂・無量寿堂・御影堂・三重塔などの諸堂を境内に有して隆盛していたらしいのだが、建久の地震や元弘の兵火により荒廃し、現在の伽藍は江戸時代初期に再建されたものである。

本尊の如意輪観世音菩薩と四天王立像はともに平安時代のもので重要文化財に指定されているが、秘仏として公開していないようだ。

大門寺・穴太寺・金剛寺 004

参道は苔むして、庭園もよく手入れされている。今は新緑の時期で緑が鮮やかだが、紅葉時期も素晴らしいようで、紅葉の名所としても知られているらしい。今年の秋でも訪れてみたい。

大門寺・穴太寺・金剛寺 006

昔は相当山深い所だったろうが、この近くを新名神高速道路が走るらしく近くで工事をしているのが見える。この鄙びた雰囲気は是非このまま残してほしいものである。

【ご参考】円山応挙の襖絵などがある串本の無量寺と香住の大乗寺

虎なら無量寺の「龍虎図」、串本の昼は萬口の鰹茶漬け
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-273.html

香住にある国指定重要文化財を楽しんで~~~帝釈寺、大乗寺を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-480.html

**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ





関連記事

葵祭りの由来について

5月15日は京都の三大祭りのひとつである「葵祭」(賀茂祭)のとりおこなわれる日だ。

都名所図絵葵祭_30

上の写真はこのブログで以前何度か紹介した江戸時代の安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」にある、「葵祭」の絵である。

都名所図会」は、国際日本文化センターのサイトにアクセスすれば、誰でも全文と翻刻文を読む事が出来る。
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/c-pg1.html

絵の上の方に草書で「加茂のあふいまつりは四月中の酉の日なり。人皇三十代欽明天皇の御宇よりはじまる」と書かれているが、欽明天皇と言えば在位中に仏教伝来があったことを中学高校の日本史で学んだ。

朝鮮半島で新羅が強大化する形勢のもと、その圧迫を受けた百済が日本の軍事的援助を求めてきただけでなく、仏像と仏具と仏教の経典を欽明天皇に献上したのである。

日本書紀」によると欽明天皇は仏像と経典を見て欣喜雀躍されたそうなのだが、百済の使者に対しては自分一人では結論を出さずに群臣と相談するとされ、その時に蘇我稲目(そがいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。日本だけが背くべきでしょうか」と賛成し、物部尾興(もののべのおこし)は「蕃神を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りを受けることになりましょう」と反対した。
そこで天皇は蘇我稲目に仏像をしばらく礼拝させたところ、国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。
すると物部尾興が、このような事態となったのは仏教をとり入れたことが災いを招いたので、「今もとに返されたらよくなる」と天皇に奏上し、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、また寺に火をつけて焼いたところ、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた…等々「日本書紀」の欽明天皇の時代は読んでいてなかなか面白い。

このような蘇我氏と物部氏の仏教を巡る対立は、それぞれの子の蘇我馬子、物部守屋の代にも引き継がれて半世紀近く続くことになる。

日本書紀」には葵祭のことは一切書かれていないが、仏教を受容するかどうかで国論が真っ二つに割れて、蘇我氏・物部氏との間で虚々実々のかけひきがなされている時期に葵祭が生まれたというのが面白い。

葵祭の由来に興味を持っていろいろ調べてみた。

「露草色の郷」というサイトに「本朝月令所引秦氏本系帳」という古書の「賀茂乗馬」というテキストがあるのをみつけた。これが葵祭のルーツになる記録である。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/fudoits1.html

原文をそのまま引用すると
「いろせ、玉依日子は、今の賀茂縣主等が遠つ祖なり。其の祭祀の日、馬に乘ることは、志貴島の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(欽明天皇)の御世、天の下國擧(こぞ)りて風吹き雨零(ふ)りて、百姓(おほみたから)含愁(うれ)へき。その時、卜部、伊吉の若日子に勅して卜(うら)へしめたまふに、乃ち卜へて、賀茂の神の祟なりと奏(まを)しき。仍りて四月の吉日を撰びて祀るに、馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙(かがふ)りて、駈駆せて、祭祀を為して、能く祷(ね)ぎ祀らしめたまひき。因りて五穀(たなつもの)成就(みの)り、天の下豐平なりき。馬に乘ること此に始まれり。」

上賀茂神社のホームページによると「賀茂縁起」という書物にも同様な記載があり、それが賀茂祭のおこりであると記されている。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/

欽明天皇の時代の544年(567年とも言われる)に五穀が実らなかったので、当時賀茂の大神の崇敬者であった伊吉の若日子に占わせたところ、賀茂の神々の祟りであるというので、若日子は勅命を仰せつかって4月の吉日に祭礼を行い、馬には鈴をかけ、人には猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)をしたところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰となったということからこの祭りが始められたというのだが、当初は現在の優雅な貴族行列とは異なり、かなり荒っぽいお祭りであったようなのである。

その後弘仁10年 (819)には、「賀茂祭」を中祀に準じ斎行せよとの勅命が下り、この祭りは勅祭すなわち国家的な行事となるのだが、中祀として取り扱われたのは伊勢の神宮と賀茂社の祭りだけであり、その後貞観年間(859-876)に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められ、壮麗なる祭儀が完成したとされている。

葵祭御所

平安時代の京都で「お祭り」というと、この「賀茂祭」を指したようである。(当時は「葵祭」とは呼ばれておらず「賀茂祭」という名前であった。)

しかしながら、応仁の乱(1467-77)の後、様々な理由で祭祀の経費が増大したため、文亀2年(1502)以降元禄6年(1693)までの長きにわたり中断されたが、将軍・徳川綱吉の後援や霊元上皇などの尽力により元禄7年に復興され、その時からこの祭りを「葵祭」と呼ぶようになったそうだ。

なぜ「葵祭」と言われたかについては諸説があり、昔カモアオイの花を頭に挿して行列したからだとも、祭りの前に葵かずらを将軍に献上したからだとも、祭りの復興に徳川幕府(葵の御紋)の多大な援助があったからだとも言われている。

しかし明治に入って都が東京に移り、一旦祭りはすたれてしまうが、明治17年(1884)から勅使行列が再開されるようになり、また太陽暦が採用されていたので祭日も5月15日に変更された。

その後第二次世界大戦に日本が参戦し昭和18年(1943)からしばらく中断され、葵祭行列協賛会等の努力で昭和28年(1953)に復興し、同31年には斎王代(さいおうだい)以下女人列が加えられ、現在我々が目にする葵祭の行列が固まったのは意外と最近のことなのである。

葵祭
**************************************************************
ブログパーツ

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
    ↓ ↓         


にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ




関連記事
FC2カウンター
最近の記事プルダウン
全記事表示リンク
ブログ内検索
『しばやんの日々』のブログ内の記事をキーワードで検索できます。検索された全てのブログ記事と、記事の最初の文章が表示されます。
プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

***********************
Facebook、twitterなどで記事を拡散していただいたり、リンクしていただくことは大歓迎ですが、このブログ記事のURLとブログ名は明記していただくようよろしくお願い致します。

コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

匿名のコメントや質問にはできるかぎり対応させていただきますが、回答する場合はこのブログのコメント欄でさせていただきます。

また、お叱りや反論もお受けしますが、論拠を示さないで一方的に批難するだけのものや、汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメントなど、不適切と思われるものぱ管理人の権限で削除させて頂く場合がありますので、予めご了承ください。
***********************

リンク
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
新しいカテゴリに移すなど、カテゴリを時々見直すことがありますので、記事をリンクされる方は、個別記事のURL(末尾が"/blog-entry-***.html")をご利用ください。
年別アーカイブ一覧
RSS登録er
タグクラウド

RSSリンクの表示
QRコード
QRコード
日本語→英語自動翻訳【星条旗】
このページを英訳したい人は この下のEnglishの部分をクリックすれば ある程度の英語の文章になるようです。
ブログランキング
下の応援ボタンをクリックして頂くと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

おきてがみ blogram
ブログランキングならblogram
文字を大きく・小さく
    月間人気記事ランキング
    個別記事への直接アクセス数の今月1日からの合計値です。毎月末にリセットされます。このブログのアクセスのうち6割以上は検索サイト経由、約2割は何らかのリンクを辿って、過去の記事のURLに直接アクセス頂いています。
    51位以降のランキングは、リンク集の「『しばやんの日々』今月の人気ページランキング (全)」をクリックしてください。
    人気ブログランキング 日本史
    「人気ブログランキング」に参加しているブログの1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    ブログ村ランキング 日本史
    にほんブログ村に参加しているブログの、1週間の応援ボタンのクリック件数を集計し、日本史部門でランキングを表示したもの。
    PINGOO! メモリーボード
    「しばやんの日々」記事を新しい順にタイル状に表示させ、目次のように一覧表示させるページです。各記事の出だしの文章・約80文字が読めます。 表示された記事をクリックすると直接対象のページにアクセスできます。
    ツイッタータイムラン
    逆アクセスランキング
    24時間の逆アクセスランキングです。表題の「アクセス解析研究所」をクリックすると、詳細な解析結果が分かります。
    ブロとも申請フォーム
    おすすめ商品
    旅館・ホテル