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七夕の由来

いよいよ明日は七夕の日だ。

七夕飾り

子供の頃に五色の短冊に願い事を一生懸命書いたが、折角作った短冊が何度か雨で濡れてしまい、楽しみにしていた星空を見ることができなかった記憶が何度かある。よくよく考えると、七夕の日に梅雨が明けていることは考えにくく、この日に雨がよく降って星空の見える日が少ないのは当然のことである。

しかし仙台では8月6~8日に七夕祭りがある。仙台に限らず北海道や関東では1カ月遅れで七夕を祝う地域が多いようだ。なぜ同じ行事を異なる時期に行う地域があるのだろうか。

450px-SendaiTanabata1.jpg

それは、我が国が明治6年に太陰暦から太陽暦に切り替えられた際に、この行事を新暦で行うか旧暦のその日に近い日を選んで行うか、地域によって分かれたということがその理由のようだ。

七夕についていろいろ調べていくと、明治政府が面白い布告を出している。
ちょうど太陰暦から太陽暦に変わった明治六年の1月4日の太政官布告で
「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」と七夕を廃止して神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日:11月3日)を祝日とすると記されている。

「五節」とは「五節句」のことで、人日(じんじつ:1月7日)、上巳(じょうし:3月3日)、端午(たんご:5月5日)、七夕(たなばた:7月7日)、重陽(ちょうよう:9月9日)を指すが、毎年これらの日は季節の節目として、古くは朝廷にて「節会(せちえ)」と呼ばれる行事が行われ、江戸時代には幕府が公的な行事・祝日と定めていたのだが、これを明治六年の太陽暦導入とともに廃止したということである。

公式行事や祝日として七夕はなくなってしまったが、もともと民衆の間に根付いたものはそう簡単にはなくならず、この時期に新暦の7月7日で行うこととした地域と、旧暦の7月7日に近づけるために1か月遅れで実施する地域とに分かれたということなのだ。

ところで「七夕」は俳句では秋の季語であるのだが、このことは旧暦を知らなければまず理解できない。
旧暦の7月7日は太陽暦の8月半ばに相当し、立秋を過ぎている時期になることを知ってはじめて秋の季語であることが腑に落ちる話だ。(ちなみに、今年の「旧暦の7月7日」は8月16日。太陰暦では七夕の日は毎年上弦の月となる)

太陽暦しか知らない我々には、旧暦を使っていた時代の俳句や和歌の季節や情景を誤って理解してしまっていることが少なくない。
たとえば松尾芭蕉の有名な「五月雨を集めて早し最上川」は、旧暦の五月は梅雨の時期であることを理解しないと、芭蕉の伝えようとした情景が伝わらないのではないか。「五月晴れ」という言葉も、今は快晴イメージが強いが、旧暦では梅雨の晴れ間を意味する言葉なのだ。

太陽暦の採用は、日本の伝統行事に様々な影響を与えたことは想像に難くない。あまり知られていないが、「お盆」は、明治5年までは太陰暦の7月15日が「お盆」だったようだ。ということは、七夕とお盆とはわずか8日間の違いしかないことに気付く。
太陰暦の時代では、七夕が終わればすぐにお盆という感覚であったはずなのだが、こんなことは調べて初めてわかる話だ。Wikipediaでは、太陰暦の時代は、七夕はお盆の行事の一環であったと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95

「七夕」は「棚幡」とも書くが、そもそも七夕の日の夕方には故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡を拵えることから、「棚幡」がいつしか「七夕」に転じたとも言われる。またお盆の間に、僧侶に読経してもらい報恩することを「棚経参り」というが、これは精霊棚で読むお経が転じて棚経というようになったそうだ。

しかしながらこの「七夕」の説明は、現代人の知る「七夕」とは内容が違いすぎる。織姫と彦星の七夕伝説や五色の短冊に願い事を書くのとどう結びつくのか。

ネットでいろんな人が解説している内容をまとめると、七夕伝説は日本に古くから伝わる棚織津女(たなばたつめ)の物語と、中国の牽牛星と織女星の伝説が合わさってできたと考えられる。
日本の棚織津女(たなばたつめ)の物語とは、村の災厄を除いてもらうために、棚織津女が機屋(はたや)にこもって、天から降りてくる神の一夜妻になるという巫女の話。
中国の伝説は、夫婦であった牽牛と織女が天帝の機嫌を損ねて、天の川をはさんで引き離されてしまい、一年に一度だけ天の川にかかる橋で会うことを許されたという話である。

この機織りに秀でた織女にあやかり、織女星に機織りや技芸の上達を願い、庭に祭壇を設け、糸や針、布などを備えた「乞巧奠(きっこうてん)」という行事が奈良時代に中国から伝えられたらしく、この行事に用いられたと思われる大きな針が、正倉院の宝物に残されているそうだ。また万葉集にも山上憶良をはじめ七夕を歌った歌が132首もあり、その頃はすでに七夕伝説は一般に知られていたことは明らかである。

京都の冷泉家では今なお王朝の名残をとどめる七夕行事が行われておりその写真が次のURLで紹介されているが、今の七夕行事とは随分異なることがわかる。
http://www.iz2.or.jp/rokushiki/7.html

冷泉家七夕行事

写真は冷泉家が毎年旧暦7月7日に庭に設ける「星の座」である。笹は使うようだが、五色の短冊で飾るのではなさそうだ。

このような宮中の行事であったものが、一般庶民に広がっていくのは江戸時代の半ばごろと言われている。織物などの手習い事に長けていた織姫にあやかろういうことで、手習いごとの願掛けとして広がっていったそうだが、このような風習は日本だけのものだそうだ。その頃に、バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣を仕掛けるような知恵物が日本にいたのだろう。

江戸百景七夕祭

上の絵は安藤広重の「名所江戸百景」にある「市中繁栄七夕祭」である。制作年代は安政3~5年(1856~1858)で、幕末に近い頃の江戸の風景であるが、当時の七夕飾りは随分大きい竹を使っていたことに驚いてしまう。願いが天まで届けと、どこの家も大きなものを用意したのであろうか。

子供の頃に五色の短冊にいくつもの願い事を書いたことを覚えているが、自分なりに一生懸命綺麗な字を書こうとしたし、友達に笑われないよう、願い事に何を書くかもそれなりに考えたと思う。七夕の伝統を「非科学的な話」と切り捨てるのは簡単だが、子供が本気になって綺麗な字を書こう、自分の夢を書こうとする機会をなくしてしまうにはもったいない話である。こういうおおらかな行事を失ってしまえば、子供にとっては幼いころからギスギスした競争社会ばかりになってしまう。

残念ながら、大気汚染や夜の照明で、天の川どころか星も見えない空になってしまった。ミシンやパソコンや電卓などの普及で、「習い事」の多くが消えてしまった。住宅地から自然が消えて笹や竹が手に入りにくくなり、学校の近くにあった文房具屋の多くが廃業して、子供が「色紙」を買うのも簡単ではなくなった。
いずれは衰えていく運命にある風習なのかもしれないが、子供のために、長く残していきたいと思う。
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祇園祭の「祇園」とは

もうすぐ京都の祇園祭(ぎおんまつり)だ。

今日10日から鉾町で鉾が組み立てられ(鉾建て)、ついで12日からは山が組み立てられる。
そして山鉾巡行はいよいよ17日で、今年は土曜日だからすごい人出だろう。

山鉾巡行岩戸

京都には有名なお祭りがいくつかあるが、私は子供の頃から祇園祭が大好きだった。今でもあの祇園囃子の音色を聴くだけで気分が高揚してくる。

しかしながら子供の頃に、ふと疑問に思ったことがあった。祇園祭の「祇園」という地名についてである。

「祇園」という場所は、京都市内の東の方を南北に走る東山通り(正しくは東大路通り)と、市内の中心部を東西に走る四条通との交差点あたりを言うが、子供の頃なんとなくこの地名に違和感を覚えた。

京都の中心部は碁盤のように直角に道路が走っていて、京都の地名は、例えば南北を走る河原町通と東西を走る丸太町通との交差点を河原町丸太町などと呼ぶ。ならば、「祇園」は 東山通と四条通とが交差する場所なので、普通なら東山四条と呼んでも良さそうなのに、なぜか「祇園」と呼ばれているのが不思議だった。

京都市内の中心部のバス停の名前は、ほとんどのバス停は二つの通りの名前で地名を表しているのだが、例外となるケースは「○○前」などというように有名な神社仏閣や大学や病院があるようなケースが大半である。しかし、「祇園」はそれにも当てはまらない。すぐ近くに大きな神社があるのだが、「八坂神社」という名前だ。

八坂神社

上の写真は八坂神社の西楼門であるが、この神社に、祇園祭の山鉾などが収められている。しかし「祇園」という名前を連想させる神社仏閣などはどこにも存在しないのだ。

このあたりを昔から「祇園」と呼んでいたのだろうと長い間勝手に解釈していたのだが、学生時代に「祇園」という名前の由来となるお寺が以前は存在していたことを聞いた。しかし、どんなお寺がいつごろ創建されていつ頃なくなったかを詳しく知ったのは、つい昨年のことである。

安永9年(1780)に出版された「都名所図会」巻三には、この地に以前あった寺院の図絵が描かれている。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_gionyasiro.htm

祇園社

説明には、この「祇園社(ぎおんやしろ)」と祇園祭についてこう書かれている。

「…清和天皇貞観十八年*、疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て、六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて、祇園会といふなり。神輿を置所をば八坂郷感神院といふ寺なれば、神殿もなきほどに、昭宣公の御殿をまゐらせられて神殿とす、祇園は尋常の殿舎造りなり、是を精舎といふ、後人又祇園の名を加へけり。」*貞観18年は西暦876年

ここには感神院を祇園祭の神輿の置き場所にしたが、神殿がなかったので昭宣公(藤原基経836~891:摂政関白太政大臣)の御殿を移して神殿としたと書かれている。図には多宝塔があり、薬師堂がありお寺であることは確実だが、神仏習合の時代であり神殿も作られていたのだ。

洛中洛外図屏風祇園

寛永三年(1626)に描かれた「洛中洛外屏風図」にも、祇園社が描かれている。では、今の八坂神社は何なのか。

空から見た八坂神社

今の八坂神社を上から見るとこのようになるが、今の八坂神社は以前は祇園社であったことがわかる。楼門がそっくりそのまま八坂神社の楼門になっていることも明らかだ。

Wikipediaによると祇園社の創建年については656年、876年など諸説があるが、古くから仏教の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)とそれに習合したスサノオノミコトを祀る神仏習合の施設で、当初は興福寺、10世紀以降は延暦寺の支配を受けていたらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

慶応4年(1868)の神仏混淆の禁止により「感神院祇園社」の名称を「八坂神社」と改められ、薬師堂などの仏教施設は破壊されている。(多宝塔は江戸時代寛政年間[1789~1800]に焼失) 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社あったそうだが、明治の廃仏毀釈によりすべて八坂神社(弥栄神社)に改名させられたそうである。
http://www.pauch.com/kss/g023.html

では、「感神院祇園社」の仏像はどこに行ったのか。
これは幸い大蓮寺というお寺に残されているが、十一面観音像以外は秘仏として直接拝観することはできない。祇園社本尊の薬師如来の写真が大蓮寺のHPに載っているが、本尊でありながら光背がないのはやや違和感がある。

祇園社本尊薬師如来
http://www.anzan-no-tera.jp/gion/index.html

大蓮寺の歴史については比較的次のサイトが詳しい。
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/22365330.html

「八坂神社」から祇園祭の山鉾が立ち並ぶ四条烏丸あたりまで、大人が歩いて20分くらいだろうか。その途中で鴨川を渡ることになるが、その橋は「四条大橋」という。

この四条大橋については昨年11月にこのブログに書いたが、明治七年に作られた橋は廃仏毀釈で強制的に供出させた仏具類を鋳潰して橋材に使われたそうである。下の写真がその頃の四条大橋だが、明治の京都人は、どんな思いでこの橋を渡ったのだろうか。

昔の四条大橋
ご参考:「四条大橋のはなし」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-73.html

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二つの祇園祭の関係

前回は祇園祭の「祇園」の事を書いた。今度は「祇園祭」のことを書こう。

この祭りは大阪の天神祭、東京の神田祭とともに、日本三大祭の一つとされているのだが、八坂神社の祭礼でありながら山鉾巡行が八坂神社の前を通らないことを誰しも不思議に思う。

祇園祭山鉾巡行コース

上の図は、7月17日の山鉾巡行のコースだが、それぞれの山鉾は四条通に入って東進したのち、四条河原町で河原町通りを北上し、河原町御池で西進したのち元の場所に帰っていく。八坂神社へは四条河原町から東に歩いて10分はかかる距離である。

子供の時に、なぜ山鉾巡行が八坂神社を通らないのだろうかと思ったことがあるのだが、あまり深く追究しなかった。というより、当時は身近な大人に聞いてもわからないことは、どうしょうもなかった。

今ならネットで検索すればいろんな情報を掴むことができる。
たとえば、平安時代後期の祇園御霊会(今の祇園祭)の絵巻物が見つかった。
http://www.pauch.com/kss/g030.html#gion

年中行事絵巻祇園祭

上の絵巻物は「年中行事絵巻」(京都芸術大学蔵)の第9巻だが、ここに描かれているお祭りは今の山鉾巡行とはあまりに違いすぎる。山鉾巡行には神輿や牛車はないが、この絵巻物には描かれている。また絵巻物には山鉾巡行はないが列の先頭に鉾を担いでいる人物がいる。

「祇園祭」というとほとんど人が山鉾巡行や祇園囃子を連想してしまう。テレビでも放映されるのは山鉾巡行の映像ばかりである。重要有形・無形民俗文化財に指定されているのも山鉾と山鉾巡行などの行事である。

祇園祭神幸祭

しかしながら、祇園祭には山鉾巡行のほかに、その日に「神幸祭」の神輿渡御というのがある。先程の平安時代の絵巻物に描かれているのは、山鉾巡行と同じ日に行われる「神幸祭」とかなり似ていると思われる。私は「神幸祭」はじっくりと見たことがないので今年はぜひ見に行きたい。

この神幸祭では神輿が八坂神社から出発する。八坂神社のお祭りだから当然と言えば当然だが、この巡行ルートが面白い。

祇園祭神幸祭ルート

先程の山鉾巡行の図と見較べて頂くとよくわかるのだが、神輿が山鉾を設置している鉾町を通らないのである。

山鉾巡行も神幸祭もどちらも八坂神社のお祭りなのに、まるで別のお祭りがおこなわれているようでもある。なぜ、山鉾は八坂神社を通らず、神輿は鉾町を通らないのか。

まず今のような山鉾巡行が行われるようになったのはいつなのか。

都名所図会祇園会

もう少し調べると、江戸時代の「都名所図会」に祇園祭の絵が描かれている。二つの絵があっていずれも山鉾巡行の絵で、神輿のことは本文にルートのことが書かれているだけだ。

ルートは微妙に違うが、山鉾が八坂神社を通らず、神輿が鉾町を通らないのは同じである。

いろいろネットで調べると、山鉾を作って巡行させるようになったのは室町時代かららしい。その後応仁の乱があって中断したが、室町時代には祇園祭のクライマックスは山鉾巡行になっていたようだ。

では、なぜ山鉾巡行は八坂神社を通らず、神輿が鉾町を通らないのか。

この疑問を解くカギが、四条寺町にある八坂神社の御旅所である。四条寺町というのは、全ての山鉾の設置場所よりも東(すなわち八坂神社寄り)に位置している。

八坂神社御旅所

山鉾巡行は八坂神社の三基の神輿が7月17日に御旅所に渡御される前の露払いの役割ということのようだ。八坂神社に近い場所は神域なので露払いの必要がないということらしい。

そして、この御旅所に置かれた三基の神輿は一週間後の7月24日に八坂神社に戻る。これを「還幸祭」という。

祇園祭は、昔は「祇園御霊会」と言われていたが、「還幸祭」は御旅所を出た神輿が氏子の間を全部めぐって、ありとあらゆる災いの神を全部神輿に積んで持ち去ってくれるというお祭りであるから、本来の祇園祭のメインイベントは「還幸祭」ということになるのだろう。

山鉾巡行は室町時代に時の権力者が鉾を動かしてはいけないというお達しが出た時に「神事これなきとも、山鉾を渡したし」と町衆が抵抗して山鉾を動かした記録があるようである。それ以来町衆中心の山鉾巡行と、八坂神社の氏子中心のお祭りと二つに分かれたと理解すれば良いのだろうか。

いよいよ明日は、祇園祭の山鉾巡行だ。今回は「神幸祭」の神輿渡御を見逃さないようにしたい。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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