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伊勢神宮より古い神社と伊根の舟屋を訪ねて~~二年前の天橋立カニ旅行②

宮津温泉の茶六別館で朝食を済ませて、天橋立をゆっくり眺めながら、傘松公園の近くの「元伊勢籠神社*(もといせこのじんじゃ)」に行く。(*「籠神社」とも言う。)

籠神社

「元伊勢」という字が冠されるのは、天照大御神や豊受大神を伊勢神宮の内宮・外宮に鎮座する前にこの場所で祀っていたという伝承をもつことを意味するそうだが、第十代崇神天皇の御代に日本国中に疫病が大流行したらしく、それがきっかけとなって何度も遷宮を繰り返し、全国に「元伊勢」と言われる神社が、この神社の他にも奈良、京都、岡山、三重、滋賀、岐阜、愛知の各府県にいくつか残されているそうなのだ。

もともとこの神社は神代より豊受大神(現在の伊勢神宮外宮の御祭神で穀物の女神)を今の奥宮のある真名井に鎮座されていたのだが、崇神天皇の御代に天照大御神が大和国笠縫邑(現在の奈良県桜井市)から当社地に遷座され、吉佐宮(よさのみや)と称して両大神を一緒に祀る事になったそうだ。その後天照大御神は第十一代垂仁天皇の御代に、豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代に今の伊勢神宮の場所にここから各地を回って、伊勢の国に鎮座することになったという。
この経緯については「日本書紀」にも簡略に書かれているが、「皇太神宮儀式帳」や「倭姫命世紀」「止由気宮儀式帳」という書に詳しく書かれているそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2

これだけ歴史のある神社なので文化財も多い。

籠神社の狛犬

まず境内参道に鎮座する狛犬は鎌倉時代のものだが、国の重要文化財に指定されている。

また公開されてはいないが、籠神社の創祀以来の祀職である海部氏の始祖から平安時代初期までの家系図が、我が国で現存する最古の家系図として国宝に指定されている。なお、現在の宮司である海部氏は神代以来血脈直系で世襲されてきており、現宮司が82代と伝えられているそうだ。

これも公開されていないが、日本最古の伝世鏡(古墳などで発掘されたのではなく代々継承されてきた鏡)である邊津鏡という前漢時代の鏡と息津鏡という後漢時代の鏡があり、前者は今から2050年位前に、後者は今から1950年位前に作られたものだそうだ。

天橋立図sessyu

今回「元伊勢籠神社」のHPを読んで初めて知ったのだが、前回紹介した雪舟の描いた国宝「天橋立図」は、雪舟がこの籠神社を描いて奉納し、近世までは海部宮司家にて大切に保存されてきたものだそうだ。昔は天橋立そのものが籠神社の神域であり参道であったと書かれているが、それが事実なら何故雪舟が「天橋立図」をこのアングルで描いたのかがなんとなくわかる。籠神社の境内すべてを周囲の山とともに書きこむには、もっとも収まりの良いのがこの構図のような気がするのだ。
http://www.motoise.jp/main/top/index.html

倭宿禰像

ところで、籠神社の境内に浦嶋太郎に良く似た銅像がある。これは倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)の像で、海部宮司家の4代目の祖にあたる人物だ。籠神社のHPによると神武天皇御東遷の途中で「明石海峡に亀に乗って現れ、天皇を大和の国へ先導したといわれ、さらに、大和建国の功労者として倭宿禰の称号を賜った」と書かれている。この記述は、「古事記」の神武東遷の際に現れ倭の国造の祖となったサオツネヒコの記述とピッタリ一致するのだが、籠神社のHPの記述の原典は何なのだろうか。

真名井本殿dscn0499

私は行かなかったが、籠神社の奥には奥宮である真名井神社がある。前述したようにこの場所が神代より豊受大神を祀っていたところである。境内では有名な真名井の御神水が湧いているそうだ。

籠神社から伊根の舟屋に行ってから、浦嶋神社に行ったのだが、倭宿禰のことを書いたので先に浦嶋神社の事を先に書こう。

浦嶋神社は浦嶋太郎伝説の中では最も古い神社だが、浦嶋太郎の伝説は本当に古い話で、8世紀に誕生した「日本書紀」「古事記」「万葉集」「風土記」といった古代を代表する文書のことごとくに浦嶋太郎(浦嶋子)を記録しているのである。

「日本書紀」は日本の正史でありながら巻第十四雄略天皇に実在の人物として「水江浦嶋子」が船に乗って釣りをしていると大きな亀を得て、その亀が女性になって結婚し、一緒に海中に入り仙境を見て回った話が出てくるのだが、どうして我が国の正史にお伽話のような記述があるのだろうか。(「丹後国風土記」の逸文にはその物語がもっと詳しく書かれている。)

「古事記」には神武天皇の東征の話の中で、「亀の背に乗り、釣りをしながら羽ばたき来る人」がやってきて水先案内人を買って出たシーンがあり、この人物が先程の籠神社のHPでは倭宿禰ということになるが、後世の浦嶋太郎の話は古事記の神武東征の水先案内人の話と「日本書紀」「丹後国風土記」の浦嶋子の話とが一部合体したような話だ。

また「古事記」「日本書紀」には景行・成務・仲相・応神・仁徳天皇の五代の天皇に仕えた武内宿禰という人物が出てくる。同一人物とすれば300才近く生きていたことになるのだが、これはちょうど浦嶋太郎が竜宮城で生活した期間と重なって来るのも面白い。

浦嶋神社

上の画像が浦嶋神社の鳥居と拝殿である。
この浦嶋神社の創祀年代天長二年(825)と古く浦嶋子を筒川大明神として祀っている。
この神社の案内板によると
「浦嶋子は日下 部首等の祖先に当り、開化天皇の後裔氏族である。その太祖は月読命の子孫で当地の領主である。浦嶋子は人皇二十一代雄略天皇の御宇二十二年(四七八)七月 七日に、美婦に誘われ常世の国に行き、その後三百有年を経て五三代淳和天皇天長二年(八二五)に帰って来た。この話を聞き浦嶋子を筒川大明神と名付け小野篁を勅使とし宮殿を御造営された。」とある。

浦嶋社殿の彫刻

拝殿には立派な彫刻がなされており、藁で編まれた亀が架けられているのが面白い。

浦嶋神社はこれくらいにして、伊根の舟屋の話題に移そう。
伊根の舟屋は伊根湾を取り囲むように海面すれすれに建築され、1階は船のガレージのようになっており2階は住居という造りになっている。このような舟屋が伊根に約230棟あり、漁村では全国で初めて国の重要伝統的建造物保存地区の選定を受けている。

この舟屋が軒を連ねる伊根湾の景色を高台から望める場所に道の駅があり、そこに朝揚げたばかりの旬の魚が味わえるレストランがある。
伊根漁港は日本三大ブリ漁場のひとつで、伊根ブリと言われるコリコリの歯ごたえとともに脂ののったジューシーなブリは旨かった。

高台から眺める舟屋もいいが、伊根湾めぐりの遊覧船から間近に眺める舟屋もいい。

伊根舟屋

それぞれの家がすべて男の仕事場である豊かな海につながり、仕事に不可欠な船は家とともにあり、家族とともに支えられ、集落の人々とは海を通じて固い絆で結ばれた関係が続いたからこそ、この景観が残されているのだと思う。

伊根遊覧と鷗 095

どこか人の温もりを感じる舟屋の景色を楽しみつつ、時おり船の周りに集まるカモメと戯れる時間も楽しかった。
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坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方

高知市の坂本龍馬記念館に、妻・お龍の若い頃の写真と晩年の写真が拡大されて展示されていた。この写真はネットでも容易に見つけることが出来る。

若き日のお龍

この若い頃の写真は、龍馬の京都での定宿で暗殺現場ともなった「近江屋」の主人(井口新助)のご子孫の家で、昭和54年に見つかった写真を複写したものだそうだ。
ちょっと痩せているが、今でも充分「美人」で通用する女性と思われる。

この写真は、傍らの洋風の椅子、背後の壁などから、明治元年から八年の間に浅草の写真家・内田九一のスタジオで撮影されたものだそうだ。内田九一という人物は幕末から明治にかけての写真家で、史上初の天皇の公式写真を撮ったとして有名な人物だ。

Meiji_Emperor.jpg

上の画像は内田九一が撮った明治天皇の写真だが、この写真は皆さんもどこかで見たことがあるのではないだろうか。

お龍のもう一枚の写真は、白髪混じりの晩年のものだ。
上の写真は、明治37年(1904)の12月に東京二六新聞に掲載されたものである。

晩年のお龍

お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなっているのだが、この写真はその1年1か月前のものだ。

晩年の写真は本人のものに間違いがないのだが、若い頃の写真は別人のものだとする説もあり、平成20年(2008)に高知県坂本龍馬記念館が警察庁科学捜査研究所に依頼をした。その結果「同一人物の可能性がある」との結論が出され、その旨の記者発表がなされているが、この件については坂本龍馬記念館のサイトに詳しく書かれている。
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/oryou.htm

しかし、警察庁科学捜査研究所は同一人物との断定をしたわけではない。ただ可能性があることを示唆したに過ぎない。
当時は写真を撮影料金は安価ではなかったので、お龍がこのような場所で写真を撮るようなことは考えられないとか、別の女性であると主張する説も根強くあるようだが、お龍の養女であった西村ふさも同じ写真を所有していたらしいという話もあり、この写真がお龍を写したものであるというのが多数説になっている。

晩年のお龍の写真を今の老人と同様に比較してはいけないのかもしれないが、この写真は65歳にしては晩年のお龍の写真はかなり老けた顔に見える。夫の龍馬が暗殺された後、お龍はどのような人生を送ったのかをちょっと調べてみた。

お龍の生涯についてはネットでいろんな人が書いているが、次のWikipediaの記事は内容も詳しく参考文献の紹介もある。龍馬死後のお龍について、他の記事も参考にしながらまとめてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D

坂本龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのは慶応3年(1867)11月15日だが、その時お龍は亀山社中の活動拠点のあった下関におり、龍馬が亡くなった知らせがお龍に届いたのは12月2日とのことで、お龍はしばらく気丈に振る舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供えて号泣したと言われている。

その後お龍は、龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

その後海援隊の菅野覚兵衛と結婚した妹・起美を頼るも、覚兵衛の米国留学が決まったために明治2年(1869)に土佐を離れ、その後は元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねてきたお龍を冷たく追い返したそうだ。

元海援隊士の間ではお龍の評判は悪かったらしく、田中光顕(元陸援隊士で宮内大臣まで出世)の回顧談によると、瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際に、妹婿の菅野覚兵衛までが、「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒は見られない」と拒否したらしい。
お龍は後年、腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語ったそうだ。

明治7年(1874)に旅館の仲居として働いた後、明治8年(1875)に西村松兵衛と再婚して西村ツルとなり、母の貞を引き取り妹の子・松之助を養子として横須賀で生活を始めるのだが、明治24年に母と松之助を相次いで亡くしている。

その後、坂本龍馬の活躍を書いた坂崎紫瀾の『汗血千里駒』がベストセラーになったこともあり、お龍にも取材が来るようになるのだが、明治30年に安岡秀峰という作家が訪ねた時には、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていたそうである。

晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたという。

その後、妹・光枝が夫に先立たれてお龍を頼るようになり3人で暮らし始めるが、やがて夫の松兵衛と妹・光枝が内縁関係となり、二人でお龍の元を離れて別居してしまう。

お龍は明治39年1月に横須賀の棟割長屋で亡くなった。死因は脳卒中だったらしい。

お墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあるが、長く墓碑が建てられず、田中光顕らの援助を受けて、お龍の死の8年後の大正3年(1914)に、妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となり、お龍の墓を建立したという。
お龍の墓

画像でもわかるとおり大きなお墓だが、この墓碑に使われた石は海軍工廠が寄付したドック建設用のものだそうである。

墓碑には夫の西村松兵衛の姓ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているのが確認できるが、何故施主が夫ではなく妹なのか。何故8年もたってから墓が建つのか。 結局、夫の西村家の墓にも、龍馬の坂本家の墓にも迎えられず、維新の元勲が資金を出して妹に墓標を作らせたと考えればよいのだろうか。

龍馬を失ってからのお龍の人生は、「自分が龍馬の妻である」ということを支えにして生きようとしたのかもしれないが、そのことが彼女の人生を非常に淋しいものにしたと思われる。
本人自身が周りの人から愛される努力をしなければ、本当の幸せを掴むことはできないのは、いつの時代も同じだと思う。
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お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分

前回は龍馬が亡くなってからのお龍の人生を辿ってみた。
お龍が坂本家からも海援隊メンバーからも嫌われていたことから、お龍の人生があのような淋しいものになったのはお龍の性格に問題があったのだとは思うが、お龍自身が坂本家についてどう語っているかも知りたくなった。

ネットで「わが夫坂本龍馬」(一坂太郎著:朝日選書)という本を取り寄せて読んでみた。
この本には、安岡秀峰が晩年のお龍から聴取した回顧談をまとめた「反魂香」や、その後川田瑞穂が聴取して著した「千里駒後日譚」という文章の一部を、読みやすいように一坂太郎氏の解説とともにまとめたものである。

前回も書いたように、お龍は龍馬暗殺の後しばらくは三吉慎蔵らの世話になり、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

SakamotoGonpei.jpg

上の画像は坂本権平だが、私が気になったのはなぜお龍が坂本家を飛び出したのか、坂本権平夫婦に問題はなかったのかという点だ。
お龍の不幸の始まりは、龍馬の死も大きいが坂本家を出て行ったところにもポイントがあるようにも思う。
普通の女性ならば、誰かに養ってもらうしか生きていけない時代だったのだから、少々のことは我慢するのが普通ではなかったか。
坂本家も、お龍が一人でどうやって生きていくのかと心配して、説得して引きとめるべきではなかったのか。 どちらも悪かったのかもしれないが、お龍の言い分はどうなのか。

坂本家を出た点について、お龍は次のように語っている。(「わが夫坂本龍馬」p168)

「ところが私は義兄(権平)および嫂との仲が悪いのです。

なぜかというと、龍馬の兄というのが、家はあまり富豊ではありませんから、内々龍馬へ下る褒賞金をあてにしていたのです。

が、龍馬には子はなし、金は無論私より他に下りませんから、私がいては、あてが外れると言って、殺すわけにもゆきませんから、ただ私の不身持*をするように仕向けていたのです。
*不身持(ふみもち)…異性関係にだらしのない様子

すでに、坂本は死んでしまうし、海援隊は瓦解する。私を養う者はさしずめ兄より他にありませんから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違いない、その時はおりょうは不身持ゆえ、龍馬に代わり兄が離縁すると言えば赤の他人。褒賞金はこの方の物という心で始終喧嘩ばかりしていたのです。

これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるのでしょうが、元来きかぬ気の私ですから、

『なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる。私しゃあ金なぞはいらない。そんな水臭い兄の家に誰がいるものか。追い出されないうちに、こちらの方から追ん出てやろう』

という了見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借りました。」

と書かれてある。

またお龍は、龍馬の姉の乙女からは親切にしてもらったと言っている。次の画像が乙女の写真だ。
坂本乙女

「姉さんはお仁王という綽名(あだな)があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。
私が土佐を出る時もいっしょに近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは、乙女姉さんでした。」

お龍はこう言っているが、お龍が坂本家を出た理由については、他にもいろいろな説がある。

一坂太郎氏は同上の著書の中で、
「また、権平は、おりょうを龍馬の「妾」として扱ったという話も伝わる」(p163)と解説しており、ちょっと気になってネットでいろいろ検索していくと

「しかし、そのお龍はその開放的な性格のために権平とそりが合わず、厄介視されたらしい。一説では、権平がお龍を「自分の妾」であると人に語ったので、お龍は居たたまれず、坂本家を去ったと伝えられている(「坂本竜馬の未亡人」-『報知新聞』明32・5・23付)。」

という新聞記事も見つかった。龍馬の「妾」として扱ったのか、権平が「自分の妾」と語ったのかはどうも話が違いすぎて違和感がある。

このようにいろんな説があるが、海援隊メンバーからもお龍の評判が悪かったことを考えると、お龍の回顧談についてもお龍の言葉をそのまま信用出来るものかどうかはわからない。お龍が自分自身を正当化するために、権平夫婦を悪しざまに言っているだけなのかも知れないし、龍馬あるいは権平の「妾」として扱ったという説も、もともとはお龍の口から出ているのではないだろうか。

坂本権平は龍馬の兄とは言っても、龍馬は五人兄弟の末っ子で龍馬とは年齢が21才も年上だ。
龍馬の母親は龍馬の11歳の時に亡くなったが、龍馬の父親の坂本八平が亡くなったは安政2年(1855)、龍馬が21歳の時だ。

それ以降坂本家の家督は長男の坂本権平が継いだのだが、龍馬にとっては権平は親の様な存在であったであろう。

坂本龍馬の全書簡を集めた「龍馬の手紙」(講談社)という本を見ると、あれだけ多く現存している龍馬が書いた手紙も、権平宛てに書いたものは少なく、慶応2年の12月4日付ので寺田屋騒動の事を詳しく伝えた手紙(権平および家族一同宛)、同じ日付で権平宛てに書いた坂本家に伝わる甲冑か宝刀を分けて欲しいと催促する手紙(権平宛)と、慶応3年6月24日付の坂本家伝来の宝刀を受け取った旨を書いた手紙(権平宛)と8月8日付の坂本家の二尺三寸の刀を所望する手紙(権平宛)、10月9日付の消息を伝える手紙(権平宛)くらいで、この中でお龍の事が少しでも書かれているのは家族に宛てた寺田屋騒動の手紙で、龍馬がお龍に助けられたことを少し書いているだけである。

龍馬が家族に宛てて書いた手紙は大半が姉の乙女宛で、乙女宛の手紙にはお龍のことがしばしば書かれていて、お龍が姉の乙女と親しくなれるよう、龍馬がお龍を気遣っていることが読みとれる。
また龍馬の手紙の文体も、乙女宛の文章はかな交じりの読みやすい文章だが、権平宛てのものは最後の消息を伝える手紙以外はすべて「一筆啓上仕候。」からはじまる漢文調の固苦しいものばかりだ。
乙女とは仲が良かったが、権平とは気軽に何でも話せる関係でもなかったのではないか。

お龍にとってみても、権平は義兄といっても26才も年上で、自分の父親の楢崎将作は義兄の1歳年上に過ぎない。父親と変わらない年齢の義兄がお龍にとって気軽に付き合える存在ではなかったことは言えるだろう。

龍馬が最も心を許した友の一人である三吉慎蔵宛の手紙に、慶応三年5月8日付で、自分にもしもの事があれば、下関に居住するお龍について、

「愚妻儀本国(土佐)に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わされるべく候よう、万々御頼み申上げ候」

と、坂本家から迎えが来るまで、長府城下の三吉家で世話してほしいと頼んでいるが、坂本家にはお龍の行く末については何も書いてはいないようだ。

三吉慎蔵は龍馬との約束を守り、龍馬暗殺後しばらくお龍を引き取った。その際長府藩主はお龍に扶持米を与えたという話もある。

しかし龍馬が三吉慎蔵宛の手紙で約束したように国本の坂本家からお龍を迎えに来たということはなかったと思われ、慎蔵がお龍を龍馬の土佐の実家にまで送り届けたのではないかと考えられている。

龍馬は国事で奔走し大きな仕事を成し遂げたが、お龍に対する坂本家の対応やお龍の行く末までは考えが及ばなかったようである。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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