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坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」)

近江屋

前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。

「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。」

  「渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。
(この時記者は他にもう一人というその一人は誰ですかと尋ねたところ今井氏は、それはまだ生きている人です。そして、その人が己の死ぬまでは決して己の名 前を口外してくれるな、とくれぐれも頼みましたから今も申し上げることはできませんと答え、しいて頼んだが、遂に口を開かなかった。
思うに、今なおある一 部の人の間に坂本を斬った者の中には意外な人物があるとの説が伝えられ、あるいは、その人物は今某の政府高官にあるといった風評があるのは、つまりこの辺りの事情によるものではないだろうか。
今井氏にして語らず、その人物が語らなければ、維新歴史のこの重要な事実は、遂にその幾分かを闇に葬り去ることにな り、惜しんでも惜しみきれないものである)」(引用終わり)

と、今井から出てきたのは戊辰戦争で死んだ2名の名前だけである。あと一人は、「生きている」ということしか言っていない。
しかし、結城が「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評がある」と書いている点に注目したい。事件から33年も経過したにもかかわらず、龍馬暗殺は明治政府の高官が関与していたという風評が存在したのである。

今井信郎

今井信郎は明治2年(1869)に函館戦争で新政府軍に捕らえられ、降伏人として兵部省の訊問を受け、その際に仲間とともに坂本龍馬殺害を自白したために翌年身柄を刑部省に移され取り調べを受けた。その調書によるとメンバーは7名で「佐々木唯三郎(明治元年没)を先頭に、後から直ぐに桂隼之助(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)、渡辺吉太郎(同左)、高橋安次郞(同左)が2階へ上がり、土肥仲蔵(明治元年自刃)、桜井大三郎(明治元年鳥羽伏見の戦いで死亡)と私は下に控えていた二階に上がった」と書いてある。
メンバーの数が違うのが気になるが、この時も死んだ仲間の名前だけを出すことで生きている仲間を守る意図があったようにも読める。そもそも今井信郎の言っている事はどこまで信用できるのだろうか。

ところが、今井に関する「近畿評論」の記事が出てから15年後の大正4年(1915)に、元見廻組肝煎であった渡辺篤という人物が死に臨んで、弟安平と弟子飯田常太郎に、自分が坂本龍馬暗殺に関与したことを告白した。

渡辺篤

この渡辺篤という人物は、今井が口述した桑名藩の渡辺吉太郎とは別人である。

また渡辺篤は、自分の死後に『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』を公表するように、と遺言している。その記事が渡辺篤の死後に朝日新聞に掲載されたが、これは新聞記者の創作部分がかなり多いので省略する。

渡辺篤本人が書いた『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』という遺書は明治44年(1911)8月19日の日付となっており、「近畿評論」よりも11年後に書かれたということになるが、この原文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000007.php

そこで渡辺は
「…(慶応三年)11月15日、土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎というものが、密かに徳川将軍を覆そうと謀り、その陰謀を四方にめぐらせていたので、見廻組頭取の佐々木只三郎の命により、自分をはじめ今井信郎と外3名の組の者(内1人は世良敏郎)と相談し、夕暮れ時に坂本の旅宿へ踏み込み、正面に座っていた龍馬を斬りつけ、 横に倒れたところを突き刺し、左右にいた両名も同時に討ち果たした。…」と書いており、現場に残されていた刀の鞘は世良敏郎のものだというのだ。

世良敏郎という人物は実在したようなのだが、渡辺は「書物は少し読むけれども武芸はあまり得意でないため、鞘を置き忘れる失態をおかした。日頃から剣術の鍛錬をしなかったこともあり、呼吸を切らし、歩くこともできない始末であった。自分は世良の腕を肩にかけ、鞘のない刀を袴の中へ縦に隠し入れて、世良を連れて引き上げた。」と書いている。

こんな人物が刺客として送り込まれたことにやや違和感があるが、実在の人物を語っている点は注目して良い。渡辺篤の言うとおり今井信郎、世良敏郎と自分の3名でやったことが正しければ、今井信郎の証言は、生きている者に影響が及ばないために戊辰戦争で死んだメンバーの名前を挙げて、渡辺篤と世良敏郎を秘匿したということになる。

こんなことを考えていろいろ調べていると、暗殺の時刻も本や史料でバラバラであることがわかった。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では事件が起きた時間を慶応3年(1867)11月15日の午後9時と書いている。これは通説に従ったのだろうが、この事件は龍馬が峰吉という書生にシャモを買いに行かせている間に起こっている。しかし、当時はほとんどの店舗が夕食時間の前に売りきって商売を終えていなければならない時代だった。常識的に考えて、冷蔵庫もなければ電気もないような時代に、いくら京都でもこんな時刻にシャモが買えるような場所があったのだろうか。

ところで今井信郎は「五ツ頃」と明治3年(1870)の「刑部省口書」で述べているが、江戸時代の刻(とき)では五ツとは午後8~9時頃を意味する。
http://www.viva-edo.com/toki.html
今井を取材して結城礼一郎が書いた明治33年(1900)の「近畿評論」の記事では「晩」とだけ書かれている。

また明治45年(1912)の谷干城の遺稿では、中岡が坂本を訪ねたのが「今夜」で、龍馬と話している最中に何者かが訪ねてきて二人を斬った。龍馬が死んだのは事件翌日の午前1~2時頃と書かれている。

渡辺篤は、先程引用した文章では龍馬の宿に踏み込んだ時刻を「夕暮れ時」と書いているが、渡辺篤の死後に渡辺の証言の記事を書いた朝日新聞では「未明」と書かれている。朝日の記者は渡辺についての記事を書きながら、何故渡辺の文書に書かれた時刻を無視したのだろうか。

ネットでいろいろ調べると、事件とは直接関係のない土佐藩士の寺村左膳という人物が坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺の件を日記に書き留めているのが見つかった。その日記に書かれている暗殺時間はやはり夕刻なのだ。
この日記には、「自分芝居見物始而也。(略)随分面白し夜五時ニ済、近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有、子細ハ坂本良馬当時変名才谷楳太郎ならびに石川清之助今夜五比両人四条河原町之下宿ニ罷在候処」暗殺されたとあり、寺村左膳は龍馬の暗殺された11月15日は昼から芝居見物をしており夕方五時頃に芝居が終わって帰ると、家来が両名の暗殺のことをあわてた様子で伝えたと記されている。
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/d3a14b234de2ce9fe1a3f790c60d5230

となると時刻は渡辺篤の遺書に書かれているのが正しいということになるのだが、この『渡辺家由来緒暦代系図履暦書摘書』は何故かあまり重視されていない。

もし夕刻の時刻が正しいのならば、京都の中心部で人通りも多く、旅館の主人も女中も宿の中にいたはずだから、もっと多くの証言が得られてもおかしくない。
しかし、同じく近江屋にいたはずの書生の証言もなければ、近江屋の主人や女中の証言すらないことが不思議であるが。そのような者の証言は、本で探してもネットで検索しても見当たらず、存在しない可能性が高そうだ。
当初から新撰組が夜に暗殺したことにストーリーを決めて、そのストーリーに合わない証言ははじめから取る意思がなく、関係者に緘口令を敷いたことは考えられないか。

最初に紹介した「近畿評論」で結城礼次郎がいみじくも書いているように、「坂本を斬った者の中には、…今某の政府高官にあるという風評」が明治33年頃にも根強くあったのであれば、もっと以前からそのような風評があったと考えるのが自然である。

もし武力討幕派あるいは明治政府の中に龍馬暗殺に関与する者がいたとしたら、谷干城はその風評を少しでも打ち消そうと考える立場だ。
坂本龍馬・中岡慎太郎が斬られたと聞いて真っ先に近江屋に駆け付けたのが谷であったのも何かひっかかる。谷は穏健派の龍馬と違い武力討幕派で中岡と同じ考え方だ。

谷干城2

谷干城が語った中岡慎太郎から聞いたという話は、倒幕派が疑われないために、かなり谷の創作がなされてはいないか。また本当に中岡慎太郎は一部始終を語れるような状態だったのだろうか。中岡の状態が話が出来るようなものであったとしても、その話を聞いたのが武力討幕派の数人であれば、いくらでも創作が可能であったはずだ。
以上の理由から、私には谷の言っている事は、一部真実が含まれるとしても、全体的にはあまり信用できないのではないかと考えている。

龍馬暗殺についての通説について、重要な部分で引っかかるところが他にもいくつかある。
ひとつは、龍馬や中岡が知らない人物を、何故、宿の中に入れてしまったのかという点。
今井信郎の証言では松代藩士、谷干城(中岡慎太郎)の証言では十津川藩士だが、素性のわからない人物は警戒して当たり前ではないのか。中に入れるとすれば、龍馬か中岡のいずれかが知っている人物しかあり得ないのではないか。

中岡慎太郎

その点に注目して、下手人は京都見廻組ではなく土佐藩や薩摩藩が直接やったという説もある。あるいは、中岡慎太郎が京都見廻組を呼び込んで龍馬暗殺に関わっていたという説もある。後者の場合は龍馬と中岡が斬りあったことになり、目撃者を消すために藤吉も斬られたということになる。

もう一つ引っかかるところは、もし京都見廻組が京都守護職の指示により龍馬や中岡を仕留めたのならば「暗殺」ではなく「公務」であり、記録に残っていないのはおかしくないかという点である。
だから、幕府方が関与したとする説は私にはピンとこないし、明治政府が新撰組を犯人として近藤勇を処刑したこともおかしなことである。

坂本龍馬2

結局前回書いたのと結論は同じだが、龍馬暗殺の黒幕は武力討幕派の中におり、おそらく大久保利通、岩倉具視あたりが中心メンバーにいるのではないかと考えている。確たる証拠はないが、証拠がないのはどの説をとっても同じことである。

武力討幕派は後の明治政府の中心勢力となり、谷干城もそのメンバーの一人である。 また今井信郎も新聞も、権力批判に繋がることは軽々には語れなかったし、書けなかった。 だから信頼できる資料が何も残らない状況になってしまった。
そのために、坂本龍馬の暗殺については様々な説が出ており、将来決着するとも思えない。しかしよくよく考えると、誰が犯人かがわからないような状況の方が、明治政府にとっては望ましかったのではなかったか。

もうすぐ「龍馬伝」が終了する。
天下のNHKが、通説を覆すようなストーリーを書くようなことはおそらくないだろう。 今井信郎は出てくるそうだが、黒幕については様々な可能性を匂わすようなナレーションが入る程度で終わるのではないだろうか。

小説やドラマで多くの人が歴史に関心を持つことは非常に素晴らしいことなのたが、小説やドラマで描かれるたびごとに、真実と異なる歴史が拡がって定着していくようなことはないようにして頂きたいものである。
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世界遺産の吉野山金峯山寺と特別公開中の秘仏・蔵王権現像

奈良県にある吉野山は古来桜の名所として有名で、三年前の桜の時期にバス旅行で行った時はものすごい人だった。吉野に来たほとんどの観光客が最初に訪れる世界遺産の金峯山寺(きんぷせんじ)は、明治7年に修験道が禁止されて一時的に廃寺となり、国宝の蔵王堂などは強制的に神社にされてしまったことは以前このブログにも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-85.html

yosinosan80.jpg

上の画像は江戸時代後期に描かれた「吉野山勝景絵図」だが、これを見ると江戸時代はこの山に多くの僧坊があったことがわかるが、その多くが廃仏毀釈により消滅してしまっている。

和州芳野山勝景図

上の図は正徳3年(1713)に描かれた「和州芳野山勝景図」の蔵王堂の近くを拡大したものだが、蔵王堂のすぐ近くにあった多宝塔や、後醍醐天皇の行宮となった實城寺も明治期に破壊されてしまったようだ。

明治19年(1886)に金峯山寺が神社からお寺に戻った経緯は以前書いた記事を読んで頂くこととして、前回に訪れた時は蔵王堂内陣の巨大な厨子に安置される3体の蔵王権現像(重要文化財)は公開されていなかったので見ることが出来なかった。
この仏像は今まで滅多に公開されることのない秘仏で、最近では吉野・大峯の史跡が世界遺産に登録された6年前に1年近く公開されたのち、3年前に5日間だけ公開されたそうだが、今年は奈良遷都1300年のイベントの1つとして9月1日から12月9日まで公開されている事を新聞で知り、どうしても見たいと思って先週の6日に行って来た。

吉野銅の鳥居

駐車場に車を置き、黒門を過ぎてしばらく歩くと、四天王寺の石の鳥居、厳島神社の朱の鳥居とともに日本三鳥居の一つとされる「銅(かね)の鳥居(重要文化財)」が見えてくる。以前このブログで「鳥居は神社のものなのか」という記事の中でこの鳥居を紹介したが、鳥居は神社だけのものではないのだ。探せば大分県の富貴寺や岩戸寺など結構お寺に鳥居が存在する。佐伯恵達氏によると、画像のように鳥居に丸い台座のあるものは仏教信仰によるものだそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-56.html

吉野蔵王堂仁王門

銅の鳥居から少し歩くと、金峯山寺の仁王門(国宝)が見えてくる。重層入母屋造,本瓦葺の楼門で康正2年(1456)の再建である。左右にある仁王像は鎌倉末期の仏師康成の作だそうだ。

吉野蔵王堂

そして仁王門を登るとすぐに国宝の蔵王堂が見えてくる。この建物は天正19年(1592)の豊臣家の寄進で建立されたもので、高さ34メートル、奥行、幅ともに36メートル。木造の古建築としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさだそうだ。

蔵王権現像

中に入ると、内陣の厨子の扉が開けられており、巨大な蔵王権現像(ざおうごんげんぞう:重要文化財)を拝むことができた。この仏像は木造で、制作されたのは天正19年(1592)頃と言われているのだが、保存状態はかなり良好で青黒い彩色が今も色鮮やかである。秘仏なので写真を撮ることは許されないのでネットで見つけた画像を添付したが、この画像で本物の迫力がどの程度伝わるだろうか。

寺伝では中央の像が釈迦如来(7.3m)、向かって右が千手観音像菩薩(6.1m)、左の像が弥勒菩薩(高さ5.9m)を「本地」とするもので、それぞれ過去、現世、来世を象徴していると言われている。

「本地」という言葉を理解するには、学生時代に学んだ「本地垂迹説」という言葉を思い出す必要がある。
神道と仏教を両立させるために神仏習合という信仰行為を理論づけし、整合性を持たせるために平安時代に成立した「本地垂迹説」、をわかりやすく説明すると、「本当は仏教の仏(本地)で、日本では神道の神としてやっています(垂迹)」ということ。「権現」とは仏が神の形をとって仮の姿で現れたということを意味している。

この大きな権現像が安置されている厨子の近くに、特別拝観期間中だけのためにいくつか仕切られた特設スペースが設けられていて、正座しながら蔵王権現像を目の前で見ることが出来た。これだけ近づくと外陣から見るよりもはるかに大きく、その存在感に圧倒されてしまう。

火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開き、右足を高く上げて虚空を踏む。
右手に持つ法具は三鈷(さんこ)といい、煩悩を打ち砕くものだ。左手は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣を持ち、左足で地下の悪魔を押さえ、右足は天地間の悪魔を払う姿だという。青黒い色は仏の慈悲、赤い炎は偉大なる知恵を表すもので、蔵王権現像は神も仏も自然も一体になった日本独自の存在だそうだ。

蔵王権現up

悪を払うという怒りの形相は今の世の中を怒っているのか、それに対して何もしていない私のことを怒っているのか。じっと見ているうちに次第に自分を奮い立たせて、励まされているような気分にもなる。
普通の寺院の仏像なら、柔和な表情で鑑賞するだけで穏やかな気分になるのだが、蔵王権現像はむしろ見ているだけで力がみなぎり、自然に背筋が伸びるような思いがする。しばらくこの仏像に釘付けになってしまった。

役行者

金峯山寺は白鳳年間(7世紀末)に修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)がこの山で修行され、蔵王権現を感得し、そのお姿を桜の木で刻み、蔵王堂を建ててお祀りしたのがはじまりだそうだが、その時代は様々な悪事がはびこり、悪を調伏させるためにこのような蔵王権現像を作ったと言われている。

ならば今の時代にこそ、憤怒の形相の蔵王権現像が必要なのではないか。
今の政治家や企業経営者、教育者、公務員など、国家や社会や組織のリーダーたるべき立場の人間が、本当の「悪」と戦っているのか。戦うどころか、自己の利益や保身ばかりを優先し問題を先送りして、結果として大きな「悪」をのさばらせてはいないだろうか。そのことが、真面目に働き真面目に学ぶ人々を苦しめてはいないか。

日本人は争いごとを好まず、怒りは抑えて表に出すことが少ない民族だと思うのだが、怒らないから多くの問題が先送りされて、なかなか問題が解決されない側面もある。
日常生活の中で人の怒りを感じることが少ないからこそ、神や仏の怒りと対峙して自分を謙虚に振り返り、自分に関係する様々な問題を見つめる機会を持つことが、現代社会に生きる多くの日本人にとってきっと必要な事だと思うのだ。

圧倒的な存在感で怒りを感得できる素晴らしい秘仏の特別公開も、残すところあと1ヶ月を切ってしまったが、この機会に「蔵王権現像」を出来るだけ多くの人に見てもらいたいものだと思う。
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吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社

前回は吉野山の金峯山寺のことを書いた。
「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは平成16年(2004)だが、この時に世界遺産に登録されたのは、①吉野・大峯②熊野③高野山のそれぞれの霊場とそれらの参詣道で、吉野山における世界遺産の構成資産は、金峯山寺だけでなく、吉水神社(よしみずじんじゃ)、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)の寺社の他に大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)および吉野山全体もあわせて登録されている。

金峯山寺の蔵王権現を見たあとで、前回の旅行では時間がなくて充分に見ることが出来なかった吉野山の世界遺産を訪ねようと歩き始める。

金峯山寺から500mも歩けば吉水神社(よしみずじんじゃ)がある。

吉水神社の門

今は神社になっているが、もともとは「吉水院(きっすいいん)」といって、今から1300年ほど前の白鳳年間に役行者(えんのぎょうじゃ)が修験僧の僧坊として創建した寺院であった。鳥居はあるのだが、入口にはいかにもお寺のような門が残っている。

吉水院絵図

上の図は江戸時代の末期から明治初期の間に描かれたとされる「南朝皇居之地吉野山吉水院境内之図」であるが、これをみれば神社に改める前の「吉水院」の境内がどうだったかを知ることが出来る。

南北朝時代の延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野に潜幸された時に、この吉水院に行宮(あんぐう:一時的な宮殿として利用された施設)を設けて以来、吉野は56年間にわたり南朝の帝都となったのだ。この後醍醐天皇を吉野に迎え入れたのが、この吉水院の住職であった吉水宗信法印である。

後醍醐天皇

吉野の人々は後醍醐天皇に味方すれば足利幕府の怒りを買い、平和な吉野が戦争に巻き込まれることを恐れて反対した人が多かったそうだが、吉水宗信法印は「この吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある。」「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならないが、損得勘定で逃げたら、恥は千載に残す。」「吉野が勤王であるのだから筋を通すべきだ。反対する者があらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火のごとくの形相で叫び、反対する吉野人を説得したのだそうだ。

しかし後醍醐天皇は、延元4年(1339)に夏風邪をこじらせて病床につかれ、肺炎を併発されて、吉水宗信法印らの看病の甲斐なく8月16日についに崩御された。
「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ」という天皇の遺言が残されている。
玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都をさしている。後醍醐天皇の悲願は、この地に留まりながらもいつかは京都に帰るという思いをずっと抱いておられたのだ。

後醍醐天皇の崩御を知った足利尊氏は高師直に吉野を襲わせ、この時に金峯山寺蔵王堂を始め吉野全山が焼失してしまったが、吉水宗信法印らが後村上天皇を支えて吉野は復興したのである。

このように吉水院は吉野の歴史に欠かせない寺院だったのだが、明治元年の神仏分離令に続く修験道廃止令により一時は廃寺となってしまう。ところが明治7年(1874)にこの場所で建武中興の理想が成就されたとして、明治政府より「後醍醐天皇社」という名で創立が許可され、翌年に「吉水神社」に名称を改めて存続し現在にいたっている。

明治になるまではこの吉野山には100以上のお寺があったらしいのだが、今残っているのは8寺のみだそうだ。明治政府により半ば強制的に神社に変えられてしまった吉水神社だが、どんな形であれ文化財が残されたことは良かったと考えるべきなのだろう。

吉水神社本殿

ここが吉水神社の本殿であるが、以前は吉水院の本堂であったようだ。今はもちろん仏像はなく、後醍醐天皇と楠正成、吉水院宗信法印を主祭神としている。

その隣に、今は楠正成を祀る祠があり、その隣に書院がある。

吉水神社豊臣公花見の本陣

この建物は、初期書院建築の傑作と言われており、国の重要文化財に指定されている。中に入ると「源義経潜居の間」と呼ばれる部屋があり、義経が使った鎧の「色々威腹巻」(国指定重要文化財)がガラスケースに展示され、静御前の衣装などが展示されている。

吉水神社書院内部

文治元年(1185)源義経は、兄である源頼朝の追手を逃れてこの吉野に潜入され、この書院にしばらく留まったのだが、ここでも追討を受けたために静御前と別れ、東国へ脱出したと伝えられている。

源義経

敵である頼朝を前にして、義経との別離を静御前が歌った和歌が残されている。

「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
人の跡というのはもちろん義経のことで、この吉水神社は義経と静御前のロマンスの舞台なのである。

そしてすぐ近くに後醍醐天皇の玉座がある。

吉水神社南朝皇居

書院の中には、ほかにも掛け軸や屏風や能面などさまざまな文化財が展示されている。

また吉水神社は、豊臣秀吉が吉野で花見をした時にここに本陣を置いて数日間滞在し、御茶会や歌の会、能の会を開いて豪遊したことでも名高い。

吉水神社一目千本

この場所は「一目千本」といって、春の桜の頃には千本の桜が咲き誇っている景色が見渡せる場所である。豊臣秀吉はここからの景色に感動し、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と子供のように喜ばれたそうである。

吉水神社をあとにして、次の世界遺産の吉野水分神社に向かう。
吉野蔵王堂を臨む

上千本あたりから蔵王堂が見渡せる。この辺りの景色はすばらしい。

桜の時期は人も多かったが、この時期に水分神社を訪れる人は少ないようだ。

水分神社鳥居

この神社は神仏習合の時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされて金峯山寺に属する神社として修験道の行場の一つとされていたのだが、明治の神仏分離により金峯山寺から独立したそうだ。
平安時代の中頃から「子守明神」とよばれ、豊臣秀吉もここに来て秀頼を授かったと言われている。現在の社殿は慶長10年(1605)に秀頼により創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

水分神社

また本殿には「木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像」という鎌倉時代の神像彫刻があり国宝に指定されているが、神社の神体であるために公開はされていない。

続いて、次の世界遺産の金峯神社に向かう。吉野水分神社からここまでの1.6kmは上り坂が続き正直言って楽ではなかった。
金峯神社の創建の経緯などは不明なようだが、平安時代に金峯山は金鉱のある山として信仰され、平安時代に関白藤原道長が参詣したことが「栄華物語」に記されているそうだ。
金峰神社

画像は金峯神社の鳥居と拝殿だが、この神社が所有し京都博物館に寄託されている国宝「金銅藤原道長経筒」はこの神社の境内から発掘されたものだそうだが、神社が経筒を所有しているのが面白い。

義経隠れ塔

金峯神社の左の道を抜けると、文治年間に源義経が弁慶ほか家来と共に塔内に隠れて一時難を免れたという「義経隠れ塔」(別名「蹴抜塔(けぬきとう)」)が境内にある。この建物は付近の堂塔中唯一残された鎌倉時代の建造物として国宝に指定されていたのだが、明治29年に惜しくも焼失し、現在の建物は大正時代に再建されたものだそうだ。

yosino_m16.jpg

「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)の図を見ると、この塔の焼失前は三重塔だったらしい。この図の右側に「金精大明神」とあるのは「金峯神社」のことで、この絵図の左上に描かれている「安禅寺」は廃仏毀釈で毀された経緯にある寺だ。

水分神社から金峯神社に向かう道の途中でも牛頭天王社跡があり、水分神社のすぐ近くには世尊寺跡があったが、いずれも明治になって毀された寺である。これだけの寺院が廃仏毀釈で破壊された中で、よくぞ金峯山寺を残すことが出来たものだとつくづく思う。

明治6年には教部省から「蔵王堂並びに仏具仏体等、悉く皆、取除き致すべき事。」という通達も出ているのだが、吉野の人々はずっと明治政府に抵抗してきたのだ。その抵抗がなければ、我々は蔵王堂も蔵王権現像もこの時に失っていたと思うのだ。

文化財のほとんどは、ただ残ってきたというのではない。戦乱や廃仏毀釈の嵐の中を、人々の信仰に支えられて、必死に守られることによって今の世に残されてきていることを忘れてはならないのだと思う。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了することが決定しています。BLOGariの旧メインブログの「しばやんの日々」はその日以降はアクセスができなくなりますことをご承知おき下さい。

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コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。

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