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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。

東大寺と郡山城の桜 040

松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を相次いで焼いている。
松永弾正、三好三人衆のうち、三好長逸はキリスト教に寛容なところがあったそうだが、全員が仏教を信仰する武士であった。それなのになぜ仏教施設に火を付けさせたのだろうか。あるいは配下の兵士達が自発的に火を付けて焼き払ったのか。

いろいろ調べると、松永弾正の配下にも、三好三人衆の配下にも、かなりのキリシタンがいたらしいのだ。
実は松永弾正は、東大寺が焼失した2年前の永禄8年(1565)に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際に、キリシタンの宣教師を京から追放した人物である。また後に、織田信長によって京に宣教師が戻された時に、「かの呪うべき教えが行き渡る所、国も町もただちに崩壊し滅亡するに至る事は、身共が明らかに味わった事である」と信長に進言した人物でもあり、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物でもあるのだ。

その松永弾正が率いる軍隊においてもキリスト教の信者が多くいたことに、多くの人が違和感を覚えるのではないか。また松永軍と戦っていた三好三人衆の軍隊にもキリスト教の信者がいたことから、永禄9年(1566)のクリスマス(降誕祭)の日に両軍がミサのために休戦したということが、今まで何度か紹介したルイス・フロイスの「日本史」に記録されていることを知って驚いてしまった。両軍の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいなければこのようなことはあり得ないはずだ。

しばらくこの戦場のクリスマス休戦の場面を引用しよう。

img20110304000858513.jpg

「降誕祭になった時、折から堺の市(まち)には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見受けられた。ところでキリシタンたちは、自分達がどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所に宛てていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。
 ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢から来ていたにもかかわらず、あたかも同一の国守の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応援した。彼らは自分自身の家から多くの料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾をみようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らはその中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」(中公文庫「完訳フロイス日本史2」p.55)
と、両軍の内訳については書かれていないものの、両軍で70名ものキリシタンの武士がいて、戦争では敵として戦いながら、信仰ではしっかり繋がっていたということは驚きである。このことはどう考えればいいのだろうか。

前回までの私の記事を読んで頂いた方は理解いただいていると思うのだが、イエズス会の日本準管区長であったコエリョをはじめ当時の宣教師の多くは仏像や仏教施設の破壊にきわめて熱心であり、九州では信者を教唆して神社仏閣破壊させたことをフロイス自身が書いている。

京都を中心に活動したイタリア人のイエズス会宣教師であるオルガンディーノも、巡察師ヴァリニャーノに送った書簡の中で、寺社破壊を「善き事業」とし「かの寺院の最後の藁に至るまで焼却することを切に望んでいる」と書いているようなのだ。とすれば、彼らは両軍にキリシタンの武士を増やして、寺社破壊を意図的に仕組んだということも考えられるのだ。

すなわち、キリスト教の宣教師は日本でキリスト教をさらに弘めるために、日本の支配階級である武士をまずキリスト教に改宗させて、戦国時代を出来るだけ長引かせ、キリシタンである大名や武士に神社仏閣を徹底的に破壊させ、彼等の力により領民を改宗させていくことをたくらんではいなかったか。

宣教師が戦争で戦っている両軍のキリシタンに寺社の破壊を吹きこんだとしたら、両軍の指導的地位にある彼らは大きな寺の境内に陣を構えて積極的に火を使えば、容易に宣教師の希望を実現することが出来ると考えても何の不思議もない。

高山右近

キリシタン大名として有名であった高山右近は高槻城主であった時に、普門寺、本山寺、広智寺、神峯山寺、金龍寺、霊山寺、忍頂寺、春日神社、八幡大神宮、濃味神社といった結構大きな寺社を焼き討ちにより破壊したといわれているが、私にはこれなども宣教師の教唆が背景にあるように思えるのだ。また織田信長も多くの寺院を焼き討ちしたが、信長の配下にはこの高山右近などキリシタン大名が多かったことと関係があるのかもしれない。

ルイス・フロイスの「日本史」の次の部分を読むと、三好軍にいたキリスト教の信者が、偶像崇拝を忌むべきものであることを宣教師から吹き込まれていたかがよくわかる。 ここに出てくる「革島ジョアン」は、三好三人衆の中でキリスト教に対して比較的寛大であった三好長逸の甥にあたる人物である。

「…彼(革島ジョアン)はどこに行っても異教徒と、彼らの宗教が誤っていることについて論争した。この殿たちが皆、津の国のカカジマというところで協議した際、このジョアンは他の若い異教徒たちと一緒に立ち去って、彼らとともに西宮という非常に大きい神社に赴いた。そこには多くの人が参詣し、異教徒たちから大いに尊崇されている霊場であった。

他の若い同僚たちは、キリシタンになったそのジョアンを愚弄して、彼にこう言った。『貴殿はあのような邪悪な宗教を信じたし、また貴殿は日本の神々を冒涜する言葉を吐いたことだから、近いうちに神々の懲罰を受けるであろう』と。

ジョアンはそれに答えて言った。『予が、死んだ人間や、木石に過ぎないそれらの立像に、いかなる恐れを抱けというのか。ところで予がそれらをどれほど恐れてはいないか、また悪魔の像を表徴しているにすぎない彫像を拝むことがどんなに笑止の沙汰であるかをお前たちが判るように、これから予がそれらをどのように敬うかを見られるがよい』と。

こう語ると彼は、非常に高く、すべて塗金されている偶像の上に登り、その頭上に立ち、そこで一同の前で偶像の上に小便をかけ始めた。…」(同書p.70-71)

この事件があってからは三好長逸も、司祭や教会のことには一切耳を貸さなくなったそうであるが、当時のキリスト教信者にとって仏教施設はすべて愚弄し破壊すべき対象物にしか過ぎなかったのだ。

十日戎

ここに出てくる「西宮」とは、毎年1月10日の本えびすの朝に「開門神事福男選び」が行われる有名な西宮神社だが、廃仏毀釈で仏教施設が破壊されるまでは、神仏習合でお寺も仏像も存在していたのだ。今は西宮社にあった大般若経が播磨三木市吉川にある東光寺というお寺に残されているようだが、仏像や寺院がどうなったかはネットで調べても良くわからなかった。

戦国時代にキリシタンの武士がさらに増えていれば、また戦国時代がもっと長引いていれば、もっと多くの日本の文化財がこの時代に破壊されていたことは確実だろう。

以前にも書いたが、豊臣秀吉が伴天連を追放し全国を統一して平和な社会を実現させたことが日本人奴隷の海外流出と寺社の破壊に歯止めをかけた。
もし秀吉がキリスト教を信奉していたら、あるいはキリスト教宣教師の野心を見抜けず何の対策も打たなければ、日本はこの時期にキリスト教国になっていてもおかしくなかったと考えるのは私だけなのだろうか。
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1300年以上の古い歴史を持つ神峰山寺と本山寺を訪ねて

大門寺紅葉

昨年の秋に「素晴らしい紅葉の古刹を訪ねて」という記事を書いて、大阪の茨木市の山奥にある大門寺という寺を紹介した。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-111.html

この大門寺を開いたのは桓武天皇の異母兄である開成皇子(かいじょうおうじ724-781)だが、開成皇子は天皇家の直系男子でありながら、正史である「続日本紀」には全く現れず、「元亨釈書」(日本最初の仏教通史:元享2年[1322]成立)、「本朝高僧伝」(元禄15年[1702]成立)、「拾遺往生伝」(12世紀前半)など、かなり後世に編まれた僧侶の伝記の中にだけ記されている人物で、母親が誰かもよくわかっていないそうだ。

北摂の山には、ほかにも開成皇子が創建に関わった古い寺院が少なくないのだが、1か月程前に、役行者(えんのぎょうじゃ)が開き、この開成皇子が創建したという言い伝えのある神峰山寺(かぶさんじ)と本山寺(ほんざんじ)を訪ねてきた。

また高槻市の安岡寺(あんこうじ)も開成皇子が創建したという言い伝えのある寺院だが、「北摂三山寺」ともよばれるこの神峰山寺・本山寺・安岡寺の三つの寺は、グーグルの地図で確認すると一直線上に並んでいることがわかる。(A:神峰山寺、B:本山寺、E:安岡寺)

大きな地図で見る



お寺の由来はどうなっているのか。
本山寺は寺伝によると、持統天皇10年(696年)に役小角が葛城山で修行中に北西に紫雲のたなびくのを見て霊験を感じ、北摂の山に来て自ら毘沙門天像を彫り、堂を建てて修験の道場として開山したのが始まりと伝えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%AF%BA_%28%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82%29
また『神峰山寺秘密縁起』によれば、697年(文武天皇元年)役行者が葛城山中より、葛城山と葛城山と北方の嶺とに金色の光が往来するのを見て当山を訪れ、地主神金毘羅童子のお告げにより、伽藍を建立、霊木を得たとされる。

この二つの寺の由来から考えると、本山寺と神峰山寺と葛城山とが直線上にあれば、寺の由来に強い説得力がでて、更にその直線上に安岡寺を配置すれば霊験が更に強まるように昔の人は考えたのではないかと仮説を立ててみたが、神峰山寺、本山寺、安岡寺を結ぶラインの延長線は、残念ながら奈良の葛城山よりかは西にずれてしまうようだ。

しかし、もう少し西にも(和泉)葛城山があり、この山は北摂三山寺のラインにかなり近いことに気が付いた。この山も役行者が開いた修験道の山であった。
いろいろ調べると、「葛城山」は古くは奈良・大阪府県境の金剛山地から、大阪・和歌山県境の和泉山脈に及ぶ逆L字形の山系の総称を指していたそうだ。
http://homepage3.nifty.com/enno-f/enno/enno_21.htm
とすれば、私の仮説がひょっとすると当たっているのかもしれない。

北摂三山寺はいずれも天台宗の寺で、開成皇子が創建にかかわったということのほかにもいくつかの共通点がある。

そのうちの一つは、いずれの寺もキリシタン大名であった高山友照・右近父子が高槻城主であった時期に破壊されたという伝承が残されている点だ。

高山右近

しかし残念なことに、高山右近らがこの地で活躍した時代の記録は残されておらず、あれだけ詳細に当時のキリスト教布教の歴史を記述したルイス・フロイスも、高山右近の寺院破壊については具体的な記述が乏しい。
また、先月訪れた神峰山寺と本山寺には立札にもパンフレットにもホームページにも高山右近の焼討にあった事は一言も書かれていないのだ。では、北摂三山寺が焼討にあったという根拠はどこにあるのか。

早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊15号-2に山下洋輔氏が「高山右近の寺社破壊に関する一考察」という論文を寄稿しておられ、ネットでも誰でも読む事が出来る。学術論文なので出典なども明記されている。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/30131/1/KyoikugakuKenkyukaBessatsu_15_02_001_YAMASHITA.pdf
それによると、江戸時代に出版された「摂津名所図会」という書物に本山寺が、「摂陽群談」という書物に神峰山寺が高山右近によって焼討・破壊されたことが書かれているらしい。
山下論文によると安岡寺については高山右近によって焼かれたという記録はないようだが、高山父子が高槻城主であった時代に破壊にあったと伝えられているそうだ。ところがWikipediaでは安岡寺は天正年間に高山右近の兵火によって焼かれたと書かれているが、根拠となる出典については記されていない。

もう一つ神峰山寺、本山寺、安岡寺の3つの寺に共通する点は「勧請掛(かんじょうがけ)」という伝統行事が数百年にわたり続いている点である。ネットでその画像を見て、自分の目でどうしても見たくなって、先月に高槻の山奥を走って来たわけである。 最初に訪れたのが神峰山寺。写真を撮り損ねたが、お寺でありながら大きな鳥居があった。

神峰山寺勧請掛

鳥居を過ぎると、駐車場の近くに不思議な「勧請掛」が見えてくる。これは縄に12束の樒(しきみ)を結びつけたもので、毎年12月23日に掛け替えられるそうだ。次のURLに、昨年末にその作業をしているところを神峰山寺が編集した動画を見ることが出来る。
http://www.youtube.com/user/kabusanji#p/a/u/1/dSpysjBLawk

「勧請掛」の掛け替えは神峰山寺に数百年前から変わらずに行われている行事で、古い寺族檀家27軒だけにこの神事の作業を行うことが許されているそうだ。
「勧請(かんじょう)する」とは「神様をお呼びする」ということで、「この場所より奥は神域である」という意味があるという。

神峰山寺山門

勧請掛を過ぎてしばらく行くと、仁王門が見えてくる。仁王門の横にある神峰山寺の案内板には、
「…足利三大将軍義満や豊臣秀頼の生母淀殿らの寄進も多く、大いに栄えた。秀頼も諸堂を造営したと伝えられる。」
「しかし、江戸時代の中期の明和2年(1756)に火災で焼失し、安永6年(1777)に再建された。」と淡々と書かれており高山右近の破壊のことには触れていないが、どういう事情で秀頼が諸堂を造営したのかが問題なのである。

神峰山寺本堂

本堂には国の重要文化財に指定された阿弥陀如来座像、聖観音立像(いずれも平安時代のもの)があるが、残念ながら外からではあまりよく見えなかった。事前予約すれば、秘仏の毘沙門天(3体)を除く仏像を拝観できるそうだが、拝仏料が2000円となっている。また毘沙門天の内1体は秋の大祭で御開帳されるそうである。

神峰山寺は毎年1月9日の「初寅会」には修験者によって「大護摩供」と「火渡りの神事」などが行われるそうだし、また紅葉の頃も美しいことで有名だ。また行ってみたくなるお寺のひとつである。

神峰山寺の駐車場に戻って本山寺に向かう。道幅3メートル程度の細い道が3キロ程度続く。本山寺の駐車場からは一般車通行禁止で、約1kmを歩いて登ることになるが、これが結構厳しい上り坂である。

本山寺 勧請掛

上の画像が本山寺の勧請掛である。神峰山寺よりもこじんまりしているが、12束の樒(しきみ)を縄に結びつけるのは同じである。

本山寺本堂

更に進むと山門があり、もう少し行くと階段があり、本堂に辿り着く。

この寺の毘沙門天立像は日本三大毘沙門天(鞍馬寺、朝護孫子寺、本山寺)のうちの一つで、国の重要文化財に指定されているのだが、残念ながらこの秘仏が公開されるのは、年に3日のご開帳と定められており、1月3日、5月第2日曜日、11月第2日曜日の午後1時から3時ごろとなっているそうだ。

安岡寺はまだ行ったことがないのだが、次のURLで安岡寺の勧請掛の写真を見ることが出来る。縄に12束の樒を結びつけるのは、どうやら北摂三山寺すべてに共通のようだ。
http://mukago.osakazine.net/e242035.html

勧請掛は高槻に限らず、若狭・近江・伊賀・大和に多く分布し、集落の入り口や神社の入り口などに掛けられているそうだが、勧請掛の形は部落ごとに様々で、全く同じものはないそうだ。次のURLで様々な勧請掛(勧請縄)を見ることが出来るが、それぞれの地方で何百年もこの伝統が継承されていることは注目すべき事だと思う。
http://homepage2.nifty.com/kakitsubata05/fukei/040/main.htm

しかし、現在のような経済施策が続けられては都心や大企業が潤って多くの地方は豊かになることが難しい。若い世代を育てても、生活できる仕事が地元で見つからなければ、多くは地元を去っていく。
数百年の長い年月をかけて培われ、世代から世代に長い間引き継がれていった地方文化や伝統行事を承継していくことは、地元に残された人々の大変な苦労があるのだろう。

こういう伝統や文化を非科学的だと言う人も少なからずいることだろう。しかしながら、居住地域の文化と無縁な人々の集まりである都心部の人々が、これから高齢化が進んだ場合に、田舎で地域の文化を継承している人々よりもいつまでも幸せだと言えるのだろうか。
地域の共同体意識がほとんどない都心部は、単なる住居の集合体でしかない。これからは、都市部において無縁社会化が進行し老人の孤独死がますます増えていくだろう。

都心部よりも生活環境が厳しい田舎では、人々がお互い助け合いながら生きていくしかない。そのために、地域がまとまる仕組みをいろんな形で昔の人が残してくれたという見方もできるのだ。
お祭りもそうだし、今回紹介した勧請掛もそうだが、自分を育ててくれた両親や祖父母をはじめとする先祖が代々大切にしてきたものを、住民同士で継承し守り続けることによって地域の共同体意識を強め、厳しくもあり不便でもある田舎で、国や地方のお金や人手にあまり頼らずに、住んでいる人々がお互いに信頼し助け合いながら、それなりに幸せに生きていけるという素晴らしい智恵が隠されているような気がするのだ。
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「稲むらの火」のものがたりと安政南海地震の津波の真実

小学生の頃だったと思うが、「稲むらの火」という物語を読んだ。
この物語のあらすじは、概ね次のようなものである。

五兵衛という人物が激しい地震の後の潮の動きを見て津波を確信し、高台にあった自宅から松明を片手に飛び出し、自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々に火を着けはじめた。
稲むらの火は天を焦がし、山寺ではこの火を見て早鐘をつきだして、海の近くにいた村人たちが、火を消そうとして高台に集まって来た。
そこに津波がやってきて、村の家々を瞬く間に飲み込み、村人たちは五兵衛の着けた「稲むらの火」によって助けられたことを知った、という物語である。

ラフカディオハーン
この物語は、ラフカディオ・ハーンが書いた「A Living God」という作品を読んで感激した和歌山の小学校教員・中井常蔵氏が児童向けに翻訳・再構成したものだが、わが国では昭和12年から昭和22年までの国定教科書に掲載されていたほか、アメリカのコロラド州の小学校でも1993年ごろに英訳されたものが教材として使われたことがあるそうだ。 中井常蔵氏の「稲むらの火」の全文は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/inamura.htm
ラフカディオ・ハーンの「A Living God」の日本語訳は次のURLで読む事が出来る。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/ikerukami.htm

いずれも主人公は「五兵衛」と書かれているが、モデルとなった人物が濱口梧陵 (儀兵衛)で、場所は今の和歌山県の湯浅港に近い有田郡広川町で、安政元年(1854)の安政南海地震の時の出来事と言われている。

私の子供の時は素直にこの話を和歌山で実際に起こった話と信じていたのだが、数年前に何年振りかに読んだ時にちょっと話が出来過ぎているように思えた。そして、今回の東日本大震災の津波の映像を見て津波の早さや破壊力に驚いて、この「稲むらの火」で、地震からわずかの時間でやってくる津波の被害から村民全員が助かったということがどこまで真実なのか、ちょっと調べてみたくなった。

もし真実をそのまま書くのであれば、地震の起こった時期や場所を特定し、登場人物は実名を用いると思うのだが、ハーンの文章は地震の場所を特定せず日本の「海岸地方」とし、時期も「明治よりずっと以前」としか書いていない。主人公であるはずの濱口儀兵衛を「五兵衛」と書き、年齢は当時34歳であったにもかかわらず「老人」としている。
ハーンのこの作品は安政南海地震の史実を参考に書かれたものであるとしても、創作部分が相当含まれていることはこの物語の場面設定から推測されるが、ではどこまでが事実でどこまでが創作なのだろうか。

ハーンの作品をもとに書かれた「稲むらの火」をそのまま実話だと考えている人が多いのだが、ネットでいろいろ調べると、濱口儀兵衛が書いた手記が見つかった。
次のURLに濱口儀兵衛の手記の口語訳が掲載されているが、この手記を読むと、「稲むらの火」の物語はほとんどが作り話だということがわかる。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/aiiku/goryosyuki.htm

安政南海地震は、嘉永7年11月4日と5日の二日連続で起こった。儀兵衛は4日の地震で、2m程度の津波を目撃する。そして、翌日の午後4時頃に前日よりもはるかに大きな地震が起こる。地震を警戒して家族に避難を勧め、儀兵衛が村内を見に行くところから手記の一部を引用させていただく。

「…心ひそかに自分の正しさを信じ、覚悟を決め、人々を励まし、逃げ遅れるものを助け、難を避けようとした瞬間、波が早くも民家を襲ったと叫ぶ声が聞こえた。
  私も早く走ったが、左の広川筋を見ると、激しい浪はすでに数百メートル川上に遡り、右の方を見れば人家が流され崩れ落ちる音がして肝を冷やした。
  その瞬間、潮の流れが我が半身に及び、沈み浮かびして流されたが、かろうじて一丘陵に漂着した。背後を眺めてみれば、波に押し流されるものがあり、あるいは流材に身を任せ命拾いしているものもあり、悲惨な様子は見るに忍びなかった。

  そうではあったがあわただしくて救い出す良い方法は見いだせず、一旦八幡境内に避難した。幸いにここに避難している老若男女が、いまや悲鳴の声を上げて、親を尋ね、子を探し、兄弟を互いに呼び合い、そのありさまはあたかも鍋が沸き立っているかのようであった。…」

と、手記にはどこにも地震を村人に伝えた場面がなく、自らも津波に流されているのは意外であった。つづいて「稲むらの火」が登場する。

「…しばらくして再び八幡鳥居際に来る頃は日が全く暮れてきていた。
  ここにおいて松明を焚き、しっかりしたもの十数名にそれを持たせ、田野の往路を下り、流れた家屋の梁や柱が散乱している中を越え、行く道の途中で助けを求めている数名に出会った。
  なお進もうとしたが流材が道をふさいでいたので、歩くことも自由に出来ないので、従者に退却を命じ、路傍の稲むら十数余に火をつけて、助けを求めているものに、安全を得るための道しるべを指し示した。
  この方法は効果があり、これによって万死に一生を得た者は少なくなかった。
  このようにして(八幡近くの)一本松に引き上げてきた頃、激浪がとどろき襲い、前に火をつけた稲むらを流し去るようすをみて、ますます天災の恐ろしさを感じた。…」

稲むら

というように、「稲むらの火」は津波の前に人を救うために点されたのではなくて、津波の後で、安全な避難場所に繋がる道を指し示すために用いられたのである。
当時は電気がなく、まして地震の後なので家の明かりもなかったのであれば、夜はほとんど何も見えない暗闇の世界であったはずであり、儀兵衛が点した「稲むらの火」が「安全を得るための道しるべ」となって多くの人の命を救ったことは間違いないだろう。

ところで、この時の地震は「安政南海地震」と命名されているのに、濱口儀兵衛の手記では嘉永7年と書いている。実は嘉永7年も安政元年もともに西暦の1854年で、地震の23日後の11月27日に「嘉永」から「安政」に改元されているので、本来ならば正しい年号で「嘉永南海地震」とでも名付けるべきであったろう。
最初に命名した学者が誤ったために、未だに「安政南海地震」と呼び続けられているのはおかしな話だ。

この地震は駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするM8.4という規模の地震とされ、この地震で被害が最も多かったのは沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地で、町全体が全滅した場所も多数あったそうだ。
甲府では町の7割の家屋が倒壊し、松本、松代、江戸でも倒壊家屋があったと記録されるほど広範囲に災害をもたらせ、伊豆下田では折から停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」が津波により大破沈没して乗組員が帰国できなくなった。そこで、伊豆下田の大工を集めて船を建造して帰国させたという記録まで残っているらしい。

いろいろ調べると濱口儀兵衛はすごい人物である。彼の実話の方がはるかに私には魅力的だ。

濱口ごりょう

濱口儀兵衛は、房州(現在の千葉県銚子市)で醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)を営む濱口家の分家の長男として紀州廣村(現在の和歌山県広町)に生まれ、佐久間象山に学ぶほか、勝海舟、福沢諭吉とも親交があったそうだ。

耐久高校

濱口家の本家を相続する前年の嘉永五年(1852年)に、外国と対抗するには教育が大切と、私財を投じて広村に「耐久舎」という文武両道の稽古場を開いたが、これが現在の耐久中学、耐久高等学校の前身である。

その2年後に安政南海地震が起こり廣村は多くの家屋や田畑が流されてしまう。

濱口儀兵衛はこの津波の後に村人の救済活動に奔走し、自分の家の米を供出しただけでなく、隣村から米を借りるなど食糧確保に努め、道路や橋の復旧など献身的な活動をし、さらに将来のための津波対策と、災害で職を失った人たちの失業対策のために、紀州藩の許可をとって堤防の建設に着手し、5年後に高さ5m、幅20m、長さ670mの大堤防を完成させている。その廣村堤防の建設費の銀94貫のほとんどを自分の私財で賄ったとのことである。

広町堤防

この堤防は昭和19年の東南海地震、昭和21年の南海津波地震でも見事にその役割を果たし、多くの広町の住民を津波から救うことになるのである。

儀兵衛は幕末に梧陵と名を改め、紀州藩の勘定奉行や藩校教授や権大参事を歴任し、明治4年には大久保利通の要請で明治政府の初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)になり、前島密が創設した郵便制度の前身を作っている。その後、再び和歌山に戻って明治13年(1880)に初代の和歌山県議会議長を務め、隠居後に念願の海外旅行の途中で体調を崩しニューヨークで明治18年(1885)に客死してしまう。

濱口梧陵が津波から多くの人々を救ったことは今も地元の人々から感謝されおり、広川町では毎年11月3日に感恩祭・津波祭りが行われ去年は108回目を迎えたとのことだ。 ラフカディオ・ハーンが「生ける神」と書いた人物のモデルは、この物語の世界以上に「生ける神」と呼ぶべきすごい人物だ。

今回の東日本大地震の混乱が一段落すれば、災害に強い町づくりはどうあるべきかを考え、被災地が立ち直るための投資と工事が進められねばならない。その時に地震や津波で職場を失い仕事を失った人々にその工事に参加して頂き、それぞれの家族の生活が出来るだけの収入が得られるようにすることまで考えたのが濱口梧陵という人物である。

今の政治家や経営者の中から、100年経っても、地元の人々から神様のように語り継がれる人物が何人か出てこないものか。

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プロフィール

しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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