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東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」

新薬師寺の国宝仏像を鑑賞した後、続けて天平時代の国宝仏像が見たくなった。

東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。

東大寺戒壇院

上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに来る観光客はかなり少なかった。

「四天王立像」のことを書く前に、東大寺戒壇院の歴史をパンフレットの記事などを参考にまとめておく。

天平勝宝6年(754)に僧鑑真が来朝し、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて、聖武天皇をはじめ百官公卿四百人に戒を授けた記録があるが、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨により、東大寺戒壇院が造営されたそうだ。創建当初は金堂、講堂などが建てられていて、かなり大きな寺院であったらしい。

東大寺戒壇院戒壇堂

その後、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の三度の火災により、創建当初の堂宇をすべて失い、国宝の「四天王立像」が安置されている現在の戒壇堂(上の画像)は享保17年(1732)年に建立されたもので、現在奈良県の重要文化財に指定されている。

ところで、「戒壇」とは受戒の行われるところで、「受戒」とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う厳粛な儀式のことだ。

創建当初の「四天王立像」は銅造のものであったらしいのだが今はなく、今の国宝「四天王立像」は東大寺内の「中門堂」から移されたものと言われているそうだ。その「中門堂」も焼失して今の東大寺にはない建物であり、よくぞこの戒壇堂に天平時代の最高傑作が残されることになったものだと思う。

入堂すると二重の檀があって、参拝者は下の檀に上がってぐるりと一周しながら上檀の四隅に立つ各像と目の前で対面することになる。

東大寺戒壇院四天王2

東大寺戒壇院四天王1

東南隅に剣を持つのが持国天、西南隅に槍を携えて立つのが増長天。北西隅に巻物を持つのが広目天、北東隅に宝塔を高く掲げているのが多聞天である。

像の高さは163cmほどの等身の像で、増長天のみが口を開いて忿怒形をしているが、広目天・多聞天・持国天は口を閉じてはいるものの内面に怒りを秘めており、それぞれの表情に深みがあり、写実的で迫力がある。

特に広目天の眉間に皺を寄せ両眼を細めて遠くを凝視する表情や、多聞天の口をへの字に曲げてすぐにでも怒りが爆発しそうな表情が印象に残った。像の足元で脅えている邪鬼の表情もまた面白い。
この天平時代に、人間の内面の怒りや感情をこれほど高度に描写する天才仏師が日本にいたというのが凄い。

この「四天王立像」を制作した仏師はいったい誰なのだろうか。

Wikipediaによる「東大寺」の解説によると、この「四天王立像」は、「法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つで、国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)の作」と書かれているのだが、この「国中連公麻呂」という人物は何者なのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA

「続日本紀」の巻第三十三光仁天皇の宝亀五年(774)の記録の中に「国中連公麻呂」が亡くなったことと、その業績などが簡記されている一節がある。しばらく引用してみる。

「冬十月三日、散位・従四位下の国中連公麻呂が卒した。もとは百済の人である。祖父の徳率(百済の官位の第四位)・国骨富は、近江朝廷(天智朝)の癸亥年(663)に本国が滅びる戦乱にあって帰化した。天平年間に、聖武天皇が広大な願いをおこして盧舎那仏(東大寺大仏)の銅像を造ろうとした。その高さは五丈(15m余り)である。当時の鋳造の工人はあえてそれに挑む者はいなかったが、公麻呂は大変優れた技巧と思慮があり、ついにその仕事をなしとげた。その功労によって、最後には四位を授けられ、官も造東大寺次官兼但馬員外介になった。天平宝字二年に、大和国葛下郡国中村に居住していたので、地名に因み「国中」の氏を命じられた。」(「続日本紀(下)現代語訳」講談社学術文庫p133-134)

と、ここには国中連公麻呂が東大寺大仏の鋳造に関わった事だけが書かれている。これだけ大きなプロジェクトに関わった人物が、他にも多くの仏像を造ったことは間違いないのだろうが、「続日本紀」に国中連公麻呂が異例のスピードで昇進した記録と、「寧楽遺文」という書類に東大寺三月堂の不空羂索観音の制作に関わったと思われる記述がある程度らしいのだ。では戒壇堂の四天王寺立像の制作者が国中連公麻呂という説は何を根拠にしているのだろうかというと、それについては過去の記録は何もないようなのだ。

奈良時代の天平期には素晴らしい仏像がいくつもあるが、制作した仏師が記録で判明しているものはわずかしかない。
東北大学名誉教授の田中英道氏はこの時期の仏像を作風や技術、表現力のレベル別に分類されて、以下の仏像はいずれも同一人物の手になるものであり、国中連公麻呂の制作によるものである可能性が高いと結論付けておられる。(「国民の芸術」)

【東大寺大仏殿】盧舎那仏(東大寺大仏)
【東大寺三月堂】不空羂索観音像、日光菩薩像、月光菩薩像、執金剛神像(秘仏)
【東大寺戒壇院】四天王立像
【新薬師寺】十二神将像
【唐招提寺】鑑真和上像
【法隆寺夢殿】行信僧都像

日光月光菩薩
<不空羂索観音像(中央)、日光菩薩像(右)、月光菩薩像(左)>

執金剛神像
<執金剛神像>

田中英道氏はこう書いている。(同書p250-251)
「…西洋「中世」美術でさえも、現在では様式に基づいて議論が行われ、出来る限り作者認定の試みが行われている。」
「…日本における奈良時代のこの大芸術家だけが、日本でも世界でも知られていない。作品があれば当然、それを作った作家がいる、という平凡な事実が、わが国ではなぜか無視されている。
 わが国では、史料がなければ、作家を認定することが出来ぬという、悲しむべき美術史家の史観におおわれていきた。「様式」観察を基礎とする美術史的な訓練に欠けた考察しかなかったとも言える。作風を検討し、多くの眼が共通性を一致して認める。そこではじめて、作風認定による一人の芸術家が生まれる。それが美術史の基本である。史料はその上に補強材料として組合わせられていくにすぎない。」

さらに田中英道氏は「公麻呂の芸術性はミケランジェロに相当する」と書いておられるが、この評価は人によって異なるだろうし、田中英道氏が掲出した作品がすべて国中連公麻呂の作品だとすれば、ミケランジェロよりも上だと考える人がいてもおかしくない。しかも国中連公麻呂の時代はミケランジェロよりも800年も以前にこれらの仏像を造ったことになる。
私にとっては天平期の仏像の方が深いものを感じるし、少なくとも奈良時代においては、日本の彫刻や造形技術、その芸術性が世界最高レベルにあったことは間違いないのだと思う。
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奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて

西大寺東門

東大寺戒壇院の四天王立像を見た後に、近鉄奈良駅から西大寺駅まで乗って、そこから歩いてすぐの「西大寺」に向かった。上の画像は「東門」だ。

西大寺の創建は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことから始まるのだが、造営当初の境内の広さは東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)と広大で、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院など110以上の堂宇が立ち並び、東の大寺(東大寺)に対する西の大寺に相応しい官大寺だったそうだ。

その後、平安時代に火災や台風で多くの堂塔が失われ衰退したのだが、鎌倉時代に叡尊(えいそん1201~1290)が荒廃していた西大寺の復興に努め、西大寺に現存する仏像、工芸品の多くはこの時期に制作されたものである。

室町時代の文亀2年(1502)の火災で、大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代の再建なのだそうだ。

西大寺四王堂

東門を入って暫らく進むと右手に「四王堂」が建つ。この建物は延宝二年(1674)築で、堂の中には十一面観音立像(重要文化財)と四天王立像(重要文化財)がある。

西大寺四天王

堂内は撮影禁止なので、ネットで探した画像を貼っておいたが、四天王が足で踏みつけている邪鬼の部分だけが西大寺で唯一残る、奈良時代の制作によるものだそうだ。

西大寺本堂

西大寺の本堂は江戸時代宝暦二年(1752)の建立で、国の重要文化財に指定されている。

西大寺文殊菩薩

堂内のお勧めは鎌倉時代に制作された文殊菩薩騎獅像(重要文化財)。この像の両脇にある脇侍像のうち右にある善財童子も可愛らしくていい。

西大寺東塔跡

上の画像は文亀2年に焼失した東塔の跡で、巨大な基壇や礎石は往時の偉容を偲ばせる。高さは45mあったというからかなり高い塔であったようだ。(現存する近世以前の塔の高さでは東寺54.8m、興福寺50.8mに次ぐ高さ。)

その西側にある愛染堂には有名な愛染明王坐像(重要文化財)があるが、秘仏のため普段は公開されずレプリカが展示されていた。

以前奈良における明治時代の廃仏毀釈の話を何回かに分けて書いた。そのなかで興福寺は僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

興福寺諸仏

その当時の写真を紹介したが、興福寺の貴重な仏像がこんな風に等級をつけて並んでおり、有名な阿修羅像の腕は二本が欠けている。上記の記事を書いた際にこの時期の興福寺の建物や仏像は誰が管理していたのかと疑問に思ったが、最近になって興福寺のホームページに「興福寺は明治8年(1875)から同15年まで、西大寺住職佐伯泓澄によって管理された。」と書いてあることを知った。
http://www.kohfukuji.com/about/history/04.html

西大寺が衰退した平安時代には、西大寺は興福寺の管理下に入っていたのだが、その歴史を踏まえて西大寺は興福寺を荒廃から守ろうと考えたのだろうか。廃仏毀釈の頃は西大寺も多くの収入減を失って苦しかったはずなのだが、詳しいことはよくわからない。

続けて、最後の目的地である「秋篠寺」に向かった。

秋篠寺南門

西大寺から「歴史の道」と名付けられた迷路のような道を歩いていくと15分ほどで秋篠寺の南門に辿り着く。この辺りの鄙びた雰囲気はタイムトリップした気分になる。

秋篠寺参道

南門から木々に囲まれた参道を歩くと境内は苔むして、ひっそりと静寂な空気に包まれて別世界に来たようだ。この苔むした雑木林の中に、かって存在した金堂、東西両塔の跡があり、それぞれの礎石が残されているそうだ。

秋篠寺庭

簡単に秋篠寺のパンフレットなどによりその歴史を振り返ってみる。
秋篠寺は宝亀7年(776)光仁天皇の勅願により、薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとするが、天応元年(781)富士山が噴火した年に光仁天皇が崩御されたために、造営は桓武天皇に引き継がれ、完成したのは平安遷都の頃だそうだ。

保延元年(1135)に兵火により金堂、東西の両塔など主要伽藍を焼失し、鎌倉時代以降現本堂の改修や仏像の修理がおこなわれたのだが、明治初期の廃仏毀釈により「諸院諸坊とともに寺域の大半を奪」われてしまったとパンフレットには明記されている。
Wikipediaによると平安時代に大安寺と寺領争いがあった記録が西大寺側に残されていることが書かれているので、以前の境内は相当広かったのだと思う。

秋篠寺本堂

境内の雑木林を抜けると国宝の本堂が建つ。この建物は創建当初は講堂として建立されたが、金堂が焼失した後鎌倉時代に大修理を受け、それ以降は本堂と呼ばれてきたそうだ。シンプルではあるが均整のとれた美しい建物である。

この本堂の中に、かって作家・堀辰雄が「東洋のミューズ*」と絶賛した有名な仏像がある。
伎芸天像(ぎげいてんぞう:重要文化財)がその仏像だが、私もそのしなやかな立ち姿にくぎ付けになってしまった。(*ミューズ:ギリシャ神話の女神で音楽・舞踏・学術・文芸などを司る。)

秋篠寺伎芸天

伎芸天は諸技・諸芸の守護神で、秋篠寺のこの仏像はわが国に残る唯一の伎芸天像なのだそうだ。

他にも素晴らしい仏像がいろいろあるのだが、画像はこの伎芸天像だけを紹介しておこう。この仏像を見ている時はずっと、一人の優れた仏師が制作したものとばかり思っていた。 自宅に戻って、パンフレットを読んで驚いた。パンフレットには「頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像」と書いてある。

秋篠寺の歴史で少し書いたが、保延元年(1135)に兵火により金堂、東西の両塔など主要伽藍が焼失し大切な仏像にも火が付いたのだが、焼けなかった頭部を活かして鎌倉時代に体部を制作しなおしたということなのだ。

心持ち首を左に傾げてわずかに微笑む顔立ちの頭部をそのまま活かして、天衣を羽織ってしなやかに立つ仏像を寄木造りで再現することは相当難易度が高いと思うのだが、秋篠寺の伎芸天像はよくバランスがとれていて全く違和感がなく、むしろ一つの仏像としての芸術性の高さを感じるくらいであった。

パンフレットによると伎芸天像と同様に、帝釈天像(たいしゃくてんぞう:重要文化財)、梵天立像(ぼんてんりゅうぞう:重要文化財)、救脱菩薩像(ぐだつぼさつぞう:重要文化財)という仏像も兵火で体部を破損し鎌倉時代に体部を造りなおしたのだそうだが、梵天立像と救脱菩薩像は奈良国立博物館に寄託されており見ることが出来なかった。

伎芸天像にせよ帝釈天像にせよ、400年以上の時を超えて、先人が作った美しきものの価値を落とすことなく、素晴らしい仏像に再生させた鎌倉時代の仏師たちの芸術的センスと技術力の確かさに驚くばかりである。

朝から白毫寺、新薬師寺、東大寺戒壇院、西大寺、秋篠寺と5つの奈良の古刹を廻って建造物や仏像を見てきたが、日本文化の質的レベルの高さにふれ、これらの文化財を後世に残そうとしてきた人々の思いを感じて有意義な一日であった。
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「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。

蒙古襲来絵詞

「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。

たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日本史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。
元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。

「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめた武器を手にして、集団でおしよせた。この元軍の戦法に、一騎討ちを得意とする御家人たちは苦戦の連続で、このために日本軍の主力は大宰府にしりぞいたが、元軍は海を渡っての不慣れな戦いによる損害や内部対立から、兵をひきあげた。(文永の役)」(同書p.98)
と、文章のどこにも「風」が吹いたとは書かれていないのだ。

では、当時の記録ではどうなっているのだろうか。

元(蒙古)側の公式記録(「元史」日本)では文永の役について、
「至元十一年(1274年)、鳳州経略使の忻都・高麗軍民総管の洪茶丘に命じ、二百人乗りの船、戦闘用の快速艇、給水用の小舟それぞれ三百艘、合わせて九百艘を擁し、一万五千の士卒をそれに乗せ、七月を期して日本に攻撃をかけさせた。冬十月、遠征軍は日本に進攻して日本軍をうち破った。しかし官軍も統率を失い、また矢も尽き、そのあたりを掠奪し、捕虜を得ただけで帰還した。」(口語訳:『倭国伝』講談社学術文庫p.331)
と書かれているだけだ。
倭国伝

元の軍隊が風で退却を余儀なくされたような情けない公式記録を残したくなかったのかなと思い、二度目の弘安の役(1281)についての記録に進んでいくと、そこには暴風が起こって舟が毀されたことが書かれており、将軍たちは部下を捨てて逃げ、残されたものは舟を作って帰ろうとしたが、日本軍がやってきて戦闘した結果全滅となり、生き残った二、三万の兵は日本の捕虜になって、元に生還できたのは遠征軍十万のうちわずか三名だったと明確に記述されている。
元史」を素直に読めば、文永の役には「神風」はなかったということになる。

高麗の正史である『高麗史』にも文永の役に関する記述がある。
船の中で軍議が行われ、高麗軍司令官の金方慶は抗戦論を唱えたのだが、総司令官の忽敦から「孫子曰く、〈小敵の堅、大敵の擒〉味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)を掻き集めて挑んでも、刻々と増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)には抗し得ず。退却するより他無し。」と却下され、「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定され、「たまたま、夜、大風雨に遭い、戦艦、巌崖に触れて大敗す」と記述されている。ある程度の風は吹いたようだが、それでも約半数が帰還し、日本で拉致した少年少女200人を高麗国王に献上したことなども書かれている。

では、日本側のこの当時の記録ではどうなっているのか。
この点についてはWikipediaも原典のテキストを紹介しているが、「モンゴル襲来と神国日本」(三池純正著:洋泉社歴史新書)が、原典を口語訳されており読みやすい。
モンゴル襲来と神国日本

この本によると、当時の記録として判明している唯一の文書が、京都の公家・勘解由小路兼仲(たでのこうじかねなが)の日記『勘仲記』の中の「文永十一年十一月六日付」の記事で、そこには「或る人が言うには…、凶賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、にわかに逆風が吹いて、本国に吹き帰され、少々の船は陸に上がった。」とだけ、簡単に記されているそうである。
11月6日ということは事件後17日目のことになるが、あくまでも人から聞いた話として書かれている。

『勘仲記』の次に古いとされる記録は『薩摩旧記雑録前編』のなかに収められている文永十二年の「国分寺文書」で、事件から一年後に書かれたものである。
そこには「蒙古の凶賊等が鎮西に来嫡子、合戦をしたが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、その乗船は海底に沈んだり、あるいは入江や浦にうち寄せられた」と書かれているそうだ。

一方で、風について何も書かれていない文書もある。鎌倉末期に石清水八幡宮の社僧が記した八幡神の寺社縁起である『八幡愚童訓(はちまんぐどうきん)』には、前日までの激しい戦闘の記録のあとで、翌朝の朝の様子をこう記しているそうだ。
「二十一日の朝、博多湾の海面を見ると、蒙古軍の船は一艘もなく、皆々馳せ帰ってしまっている。…皆、滅んでしまうのかと一晩中歎き明かしたというのに、(モンゴル軍は)どうして帰ってしまったのであろうか。ただ事とも思えない。皆、このことで泣き笑いをしたものだ。」
と、文永の役に関する日本側の記述は様々だ。

最初に、最近の研究では文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力と書いたが、最初に「神風説」を否定したのは気象学者の荒川秀俊氏で、昭和33年にが「文永の役の終わりを告げたのは台風ではない」という論考を発表され、旧暦10月20日以降に西日本が台風に遭遇することは統計的にも存在せず、『八幡愚童訓』等の資料を見ても大風雨があった記録も、モンゴル軍の難破船が海岸になかったことなどを理由に、モンゴル軍船団が一夜にして博多湾から消滅したのは予定の行動であると主張したそうだ。この説が現在では有力説になっているようなのだが、ではなぜ「神風」があったような古い記録が残っているのだろうか。

三池純正氏は先程紹介した著書の中で、非常に興味深い指摘をしておられる。

「…モンゴル・高麗軍との戦いはわずか一日の戦闘だったものの、日本軍は明らかに敗北していたのだ。…ところが、事件後、幕府を糾弾する声はどこからも上がってこなかった。それはなぜであろうか。

翌日…の光景を、遠征軍が勝利の中で撤退したと心底思わない人々が見たとしたら、十中八九同軍が一夜の暴風雨のせいで壊滅したと思うのは無理もないことである。
しかし、これは歴史上の大きな錯覚であり、勘違いであった。だが、この歴史的勘違いは幕府にとって、幾重にも幸運をもたらした。

幕府はこの戦いでは九州を中心とした御家人・武士たちを博多湾岸に派遣し、その一方全国の主要な社寺に命じて『蒙古調伏』の祈祷を熱心にさせていた。幕府に対する非難の声が止んだのは、その幕府が行った祈祷が功を奏して暴風雨=『神風』を吹かせ、モンゴル軍を壊滅させたと認識されたからであった。」(「モンゴル襲来と神国日本」p.96-98)

「(歴史学者の海津一朗によると)当時の考え方では、モンゴル軍との戦争で原動力となって活躍した神々は現場で同軍と戦った武士同様に恩賞をもらう権利があるとされていたという。
文永のモンゴル襲来からほぼ一年後の建治元年(1275)11月、薩摩国の天満宮と国分寺の神官・僧侶は『蒙古退散』の祈祷の成功、すなわち『神戦』への恩賞として、荒れ果てた建物の修理を朝廷に訴え、それが翌月認められたという文書が残っている。同じ理由で京都の東寺も寺の修理や僧侶の待遇改善を朝廷に訴えている。

記録には残っていないものの、全国各地の多くの社寺はこうして朝廷や幕府に『神戦』への勝利の恩賞を求めていったことは間違いない。また幕府も、伊勢神宮や宇佐八幡宮に実際にモンゴルと戦った現場の武士たちに与える恩賞そっちのけでいち早く所領を寄進している。」(同書:p.101)
わかりやすく言うと、幕府にとっても祈祷した寺社にとっても、「神風」が吹いてモンゴル軍が退却したことにした方が都合が良かったという事なのだ。当時はテレビもラジオもない時代だ。事実でなくとも都合のよい情報を流布させた方が強い世界ではなかったか。 先程紹介した『勘仲記』はともかく、『薩摩旧記雑録前編』『八幡愚童訓』にせよ、『蒙古調伏』の祈祷の効果があったことにしたい人物が書いているという点がポインである。

ちょっと意外に感じたのだが、江戸時代文政十年(1827)に書かれた頼山陽の『日本外史』も文永の役について「風」のことは一言も書いておらず、敵将を倒したことで敵兵の統制が乱れたことが書かれているだけだ。
天皇中心の国家体制を築こうとした明治政府も、文永の役の「神風伝説」に飛びついて、わが国が「神国」であるとのイメージを国民に広めようと考えたのではないだろうか。

叡尊像

前回の記事で荒れ果てていた奈良の西大寺が、鎌倉時代に叡尊によって復興され、今ある文化財の多くがこの時期に造られていることを書いたが、この叡尊は文永10年(1273)に伊勢神宮、文永11年(1274)に枚岡神社、住吉大社、広田神社、四天王寺、で大規模な『蒙古調伏』の祈祷を行い、それ以降も伊勢神宮、石清水八幡宮などでも祈祷を行って名声を得た僧侶である。その時に恐らく得たであろう祈祷料や恩賞が、鎌倉期の西大寺復興と大いに関係がありそうだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-130.html

しかし、寺社には多くの恩賞が与えられた反面、よく戦った御家人たちにはほとんど恩賞がなかったらしい。
学生時代に学んだときは、外国との戦いでは没収地があるはずもなかったので、御家人に充分な恩賞を与えることが出来なかったという説明を聞いた記憶が残っている。しかしよくよく考えると、外国からの侵略を防いだとしても没収地がないことは初めからわかっている話だ。祈祷に参加した社寺には金銭等の恩賞を実施したのであるから、蒙古軍と戦った御家人たちにも同様の恩賞を実施してもおかしくなかったはずだ。

竹崎季長

肥後国御家人の竹崎季長(たけざき・すえなが)は文永の役の恩賞が何もないのを不服として、建治元年(1275)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴し、同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たして、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられたそうだ。彼が作成させた 『蒙古襲来絵詞』には安達泰盛と交渉している姿が描かれているが、このようにして恩賞を得た御家人は例外的だったようだ。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

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