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秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。

朝鮮出兵

最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。
「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東南アジア方面への進出が盛んになった。秀吉はさらに明(中国)の征服をくわだて、まず朝鮮に対して国王の入貢と明への先導をもとめた。しかし朝鮮がこれに応じなかったので、秀吉は2度にわたって出兵をおこない、明の援軍や、朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(文禄・慶長の役)。1598(慶長3年)年、秀吉の死によって全軍は撤兵したが、朝鮮出兵とその失敗は、明・朝鮮両国の反日感情をつのらせたほか、国内的にも豊臣政権がくずれる原因の一つになった。」(『もう一度読む山川日本史』山川出版社P147)

今年の2月にこのブログで秀吉が伴天連禁止令を出した背景について書いたことがある。 当時の秀吉はポルトガルやスペインがキリスト教を布教させて住民を手なずけた後に日本を武力で侵略する意図を見抜いており、その流れを止めるために伴天連禁止令を出したことを、当時の記録などを参考にして記事を3回に分けて書いたのだが、そんな炯眼を持つ秀吉が、自らの征服欲のために朝鮮出兵を行ったとする説に違和感を覚えて、自分でいろいろ調べてみた。

スペインは1571年にフィリピンを征服し、直ちに明国(中国)の征服計画に着手している。 織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺された翌年の1583年にマニラ司教のサラサールがスペイン国王に送った書簡(6月18日付)には
「…シナの統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、これが陛下が武装して、シナに攻め入ることの正当な理由になる…。
そしてこのこと(シナの征服)を一層容易に運ぶためには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されると良い。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.85-88)

と書かれており、
その二年後にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョも、フィリピン・イエズス会の布教長への書簡で、日本への軍隊派遣を求めるとともに「…もしも国王陛下の援助で日本66ヶ国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭の良い兵隊を得て、一層容易にシナを征服することが出来るであろう…」(1585年3月3日付)とあり、キリスト教の布教がスペインの侵略政策と密接に関係し、スペインが中国の征服を狙っていたことは明確なのだ。

当時の情勢からすれば、スペインは日本よりも明から攻める方が容易であっただろう。
もしスペインが明を征服すれば、朝鮮半島も同時にスペインの支配下に落ちただろう。スペインに朝鮮半島から攻められればわが国も相当な犠牲が避けられないはずだ。

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イエズス会日本準管区長のコエリョがスペインに軍隊派遣を要請した直後の1585年5月4日に、秀吉はコエリョと会っている。ムルドック「日本史」にはこう記されている。
「秀吉はコエルホ(コエリョ)に語りて曰く、予が日本全国を平定するの日は近きにあり。この上は…親から(みずから)進んで、朝鮮、支那の征服に従事する筈ぢゃ。今や大兵輸送の為めに、戦艦二千艙を造る可く、樹木伐採の命を布かんとする所である。予は師父等に、何等の註文なし、但だ彼等の力によりて、葡萄牙(ポルトガル)より二個の巨大にして、武装したる船を獲来る丈の事のみだ。…若し成功して、支那人悉く皆予に恭順せんか、予は支那人より支那を奪うを欲せず、又た予自ら支那にあるを欲せず。予は唯だ支那人をして、予を其の君主と認めしむるを以て、足れりとするのみ。然る時には、其の全土に教会堂を建てしめ、総ての人民に令して、邪蘇教徒たらしめ、聖律に遵由せしむ可し。」(徳富蘇峰『近世日本国民史』)

秀吉は、コエリョの計画を逆手に取って自らの手で明を征服すべく、中国でのキリスト教の布教を認める代わりに軍艦を手に入れて、逆に彼等を利用しようとしたのだ。

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さらに秀吉は朝鮮出兵の前年である天正19年(1591)に、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)にも降伏勧告状を突き付けて、応じなければ明征服のついでに征服するから後で後悔するな、と恫喝している。

このような降伏勧告状を突き付けても、スペインは日本には攻めて来なかった。
今年の1月にこのブログに書いたが、鉄砲の大量生産に成功した日本は世界に輸出し16世紀末には世界最大の鉄砲保有国になっていたし、当時の英国の鉄砲保有数は肥前国の保有数の3分の2程度にすぎなかった。それほど日本の鉄砲保有台数は多かった。
鉄砲だけではなく刀も鎧も日本の物の方が優っていた。ヨーロッパの剣も鉄砲の銃身も日本の刀剣で真っ二つに切り割かれる程度のものだった。
さらに日本の武士の数は、人口の7%から10%近くもいたが、ヨーロッパはどの国も人口の1%を超えなかったと言われている。
正面から攻めるやり方では、スペインは日本に勝てるはずがなかったのだ。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-5.html

また、秀吉は李氏朝鮮軍も明軍も決して強くないことが分かっていた。スペインが先に攻撃を仕掛ければ、明も李氏朝鮮も簡単に征服されてしまうだろう。ならば、スペインに先んじてわが国から明を攻めて、支配下に置こうと考えたのではないか。

『明史』にはこう書かれている。
「秀吉は…年号を文禄と改め(1592年)、そのころから中国を侵略し、朝鮮を滅ぼして併合しようという野心を抱くようになった。そこで以前の汪直(倭寇の頭目)の残党を呼んで情報を集めた結果、唐人が倭人を虎のように恐れていることを知り、…着々と軍備を整え、艦船を修理し、家臣と謀略を練り、中国の北京に侵入するには朝鮮人を案内者とし、浙・閩等沿海地方の郡県に侵入するには中国人を案内役にするのがよかろうということになった。…」(『倭国伝』講談社学術文庫p.432)

前回までに記した通り、倭寇のメンバーの大半が李氏朝鮮や明国の民衆であり、もし明国を征伐したとしても協力する朝鮮・明国の勢力があったことを中国の正史である『明史』に書かれているのだ。

文禄の役ルート

秀吉軍は文禄元年(1592)4月13日に釜山(プサン)攻撃開始後僅か20日の5月3日に首都漢城(現在のソウル)を陥落させているのだが、500km近いプサンからソウルの距離*をこんなにはやく進軍できたのは、相手の抵抗があまりなかったからではないのか。この時に日本軍兵士の半分は朝鮮の民であったという記録があり、多くの朝鮮民衆が秀吉軍に加勢したのである。この話を書きだすと長くなるので、別の機会に書くことにしよう。(*東海道五十三次の約500kmは旅人が通常15日程度で旅をしていたと言われている。)

秀吉の第一回目の朝鮮出兵の後に文禄五年(1596)土佐沖で起きた有名な事件がある。
300人近い黒人奴隷を満載しメキシコに移送中であったスペイン船サン・フェリペ号が座礁してしまった。秀吉は家臣の増田長盛を派遣して、積荷一切を没収しようとしたが、それに抵抗しようとしたサン・フェリペ号の水先案内人が増田の前に世界地図を広げ欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土を示し、何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったかと増田の問いに対し、その水先案内人は「それはまず、宣教師を諸国に派遣し、その民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」と答えたと徳富蘇峰が書いているが、実際にそのようなやりとりがあったかどうかは日本側の記録には見当たらない。

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しかし、同様の発言があっても不自然ではない史料はイエズス会側に残されている。 日本にいたイエズス会のヴァリヤーニは翌年にイエズス会フィリピン準管区長ライムンド・プラドに宛てて、
「(日本などの)地域の王や領主はすべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次のことを知っているからである。即ち、彼等は征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャを奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。…何年か前にボルネオに対し、また二年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。少し前に彼等はモルッカ諸島を征服するための大艦隊を有していた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナ人の船がマニラを行き来しており、見聞したことを語っているからである。このようなわけで、これらの国民は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に渡来する修道士に対しても疑惑を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。…」と書いている。(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132-133)

秀吉はスペインの日本征服の魂胆を見抜き、修道士はその為に送り込まれたスパイだと認識していることをヴァリヤーニはプラドに警告しているわけである。この書簡から、秀吉は倭寇のメンバーからも情報を収集していることが伺える。

これらの一連の流れから考えれば、秀吉は単なる征服欲で明国に出兵したという教科書の記述は、当時の時代背景を理解していない浅薄な見方としか思えないのだ。

秀吉は当時のスペインの明征服計画が存在することを知っていたことは確実だ。
もし明がスペインに征服されれば、朝鮮半島をスペインが支配することは時間の問題であり、そうなればスペインは朝鮮半島から最短距離でわが国を攻めてくることになってしまう。大量の食糧や武器弾薬をつぎ込んで大軍団でわが国を攻めてきた場合、一部の切支丹大名が離反することが想定されるので、そうなればわが国は分裂して、元寇のときよりもはるかに大きな危機に陥ると考えていたのではないか。
そうならないために秀吉は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとした、と考える方がずっと自然だと思うのだ。

晩年の秀吉が教科書などでロクな書かれ方をしないのは、当時の世界史の大きな流れの中で秀吉の朝鮮出兵や伴天連禁止令を考えないからではないのか。
(つづく)
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多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。

秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm

朝鮮出兵については、山川の日本史をはじめ多くの教科書には「朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦した」と簡単に書いているのだが、それならばなぜ簡単に日本軍が平壌まで進む事が出来たのか。

文禄の役ルート

まず、日本軍が上陸した釜山(プサン)では4月13日の早朝に攻撃開始後数時間で日本軍は釜山城に攻め入って勝利している。
日本軍が短時間で勝利した理由は簡単だ。日本軍は大量の鉄砲があったが朝鮮軍は鉄砲を持っておらず、刀も槍も弓矢も性能は日本の武器の方がはるかに優秀だったからだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E9%8E%AE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

日本軍が釜山を橋頭保として北の漢城(ソウル)に軍を進めて行くためには、釜山から数キロ北にの東菜城を陥落させる必要があった。翌4月14日早朝に戦闘開始し、この戦いでは朝鮮軍は奮戦し8時間持ちこたえるのだが兵器の差で日本軍が勝利し、北から現地に向かっていた慶尚道の全軍の指揮官らは、その報を聞いて逃げたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8E%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

文禄の役

その後、4月24日に「尚州の戦い」、4月28日に「弾琴台の戦い」があり、いずれも日本軍が簡単に勝利し、5月3日には現在のソウルである首都・韓城が陥落する。

韓城では戦いらしい戦いはなく、小西行長らの一番隊が漢城に到着した時には、守備隊は誰もいなかったという。前日に宣祖王は平壌に向かって逃亡していたのだ。

Wikipediaにはこう書かれている。
「…漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却した。王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した。全ての村々で、王の一行は住民たちと出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った…」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9

当時の李氏朝鮮は両班(ヤンパン)を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の三割から五割は奴婢 (ぬひ、奴隷の一種) 身分だったと言われている。「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したというのだ。
宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。(下の画像のピンク部分)

宣祖実録

「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)

したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていたのである。
http://ccce.web.fc2.com/rekisi1.htm#karairi

韓国の教科書には「(日本軍侵略の為に)文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているそうだが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていたのだ。

多くの民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もあるそうだ。
日本軍は、朝鮮軍からの抵抗をあまり受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡し、冊封に基づいて明国(中国)に救援を要請。小西行長らの一番隊は和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。

7月16日に明軍の援軍が平壌に到着するが、日本軍はこれを撃退する。

朝鮮半島地図

加藤清正らの二番隊が進んだ咸鏡道(半島の北東部)については『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したという記録があるそうだ。
人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまい、この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となったという。

という具合で、上陸した日本軍は各地で勝利し全羅道を除く全土を早い時期に制圧したのだ。

しかし日本軍の弱点は船にあった。
日本の船の底は平らで、帆を一本かけるだけだから順風でないとロクに使えなかったし、船も小さかった。

亀甲船

一方朝鮮の船は李舜臣(りしゅんしん)が考案した亀の形をした有名な「亀甲船(きっこうせん)」といわれる大きな船で、日本軍の船よりも安定感があり、船体の上部に槍や刀を上向きに植えこんでいたので、日本軍が乗り移って戦うことが困難な構造になっていた。
朝鮮の船は戦うことを前提にした船であるのに対し、日本の船は輸送船団に武士を乗せたようなものだ。
海の戦いでは日本軍は劣勢が続き、全羅道から北上することが出来なくなって、そのために前線に充分な武器や食糧が運べなかったのだ。

朝鮮出兵日本船

日本軍は陸戦では勝ち進んで平壌まで来たが、これから先、明国に進もうにもまともな道路がないし、一方で兵糧は不足する。日本の船は来ないし寒さは厳しくなるばかり。ゲリラも現れ、疫病にも苦しめられたという。これでは日本軍の士気は上がらない。

文禄二年一月八日、李如松(りじょしょう)率いる明軍が平壌に総攻撃を仕掛けてきた。明軍は城の食糧庫に火を放ち、そうなると日本軍ももう長くは戦えない。日本軍は大同江を渡って逃げたが、明兵も朝鮮兵もそれ以上は追ってこなかったという。この平壌の戦いが、陸における日本軍の唯一の敗戦と考えてよい。

明がこの時の戦果を調べさせたところ、李如松が平壌でとった首の半ばは朝鮮人だったという報告があるそうだ。多くの朝鮮民衆が日本軍に加担していたことは確実なのである。

日本軍は一旦漢城に戻って体制を立て直す。補給に問題があるので籠城戦を避け、碧蹄館(へきていかん)で再び明軍と戦い日本軍は大勝し、明軍の李如松は命からがら逃走したという。

文禄二年の三月に漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれてしまい、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣し、小西行長・加藤清正の三者で会談を行い、4月18日に日本軍は漢城より釜山へ退却した。

しかし、秀吉には明が降伏したと言い、明朝廷には日本が降伏したと言って双方の講和担当者がそれぞれ偽りの報告したため、両国とも受け入れられない講和条件を要求してきたが、日本側の交渉担当の小西行長と小西如安は偽りの降伏文書を作製して戦争を終結させてしまう。
文禄五年(1596)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられておらず、自分が明の臣下の扱いであることを知り激怒する。秀吉は明の使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定したというのが、文禄の役の流れである。

このような史実を知ると、第二次世界大戦の日本軍がマレー半島からシンガポールに進み、ジャワやラングーンを電光石火で陥落させたが補給を軽視して失敗した歴史を思い出す人が少なくないだろう。
歴史に学ばない国民は、何度も同じ過ちを繰り返すということなのか。

また当時の記録などを読めば読むほど、わが国で流布している教科書の「明の援軍や朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(山川日本史)」という記述がばかばかしくなって来る。なぜ日本の教科書は朝鮮人口の多くが奴婢身分であり、民衆の多くが日本軍に加勢したという史実を書かないのか。

この朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工が捕虜として日本軍に連行されたとよく言われるのだが、彼等にとっては自国に残っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしが待っているだけではなかったのか。日本で技能者として優遇されるのであれば、日本での暮らしを望んだ人が多くいても不思議ではないのだ。
秀吉の朝鮮出兵が終わって60年程度あとに、船が難破して李氏朝鮮に流れ着き1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていたオランダ人のヘンドリック・ハメルは「朝鮮幽囚記」(平凡社東洋文庫)に、こう記述しているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A1%E3%83%AB
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。…」
秀吉の朝鮮出兵の後も、李氏朝鮮には相変わらずの身分制度が相当強固に残されていた国だったのだ。
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第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。
この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終えるために偽りの降伏文書を作成したことが後に発覚し、秀吉が激怒する。秀吉は直ちに第二次朝鮮出兵を命じ、第二次朝鮮出兵と言われる「慶長の役」が始まるのだ。

慶長の役ルート

第一回目の「文禄の役」は明の征伐が目的であったが、「慶長の役」は朝鮮征伐が目的であった。諸将に発せられた慶長2年(1597)2月21日の朱印状(『立花家文書』等)には「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」とあり、朝鮮半島の西南部を侵攻し、半島南部に城を築き城主を定めてわが国の領土とするという計画だったようだ。

全羅道への進撃

九州・四国・中国勢を中心に編成された総勢14万人の日本軍に、李氏朝鮮軍は釜山周辺に布陣する。最初の「漆川梁(チルジョンリャン)海戦」は7月16日に水陸から攻撃した日本軍が大勝し、朝鮮水軍の幹部指揮官の元均らを戦死させ、軍船のほとんどを撃沈して壊滅的打撃を与えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%86%E5%B7%9D%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

李氏朝鮮水軍勢力をほぼ一掃した日本軍は、8月16日に黄石山城、南原城の二城を陥落させ、さらに全州城に迫るとそこを守っていた明軍は逃走し、8月19日に日本軍は全州城を無血占領している。そしてまたたく間に朝鮮半島の南東部である全羅道、忠清道を占領してしまった。

慶長の役画像

海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍の残存部隊が日本水軍を攻撃したが痛打を与えると速やかに退却し、この鳴梁海戦の結果日本軍は全羅道西岸を制圧した。また、拠点を失った朝鮮水軍は、全羅道北端まで後退した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

ここで日本軍は、当初の計画通り朝鮮半島南部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)の恒久領土化を目指して、城郭群の建築に取り掛かる。

蔚山倭城

しかし完成直前の蔚山倭城に12月22日に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。 加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの籠城戦となり苦戦するが、1月3日に毛利秀元等の援軍が到着し、翌日に水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて日本軍が勝利している。

その後城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留し、四国衆・中国衆と小早川秀秋は予定通り順次帰国して、翌年以降の再派遣に備えたという。

秀吉は翌慶長4年(1599)に大軍を再派遣して攻撃する計画を発表していたが、8月18日に死去し、五大老や五奉行を中心に、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。

9月に入って明・朝鮮連合軍は総力を結集して三つの倭城(蔚山、泗川、順天)の同時攻撃をしかけるが、第二次蔚山城の戦いでは、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%9A%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
泗川の戦いでは島津軍7000が明・朝鮮連合軍20万を迎撃し、結果連合軍8万を討ち取り壊滅させた記録がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
また順天を守っていた小西行長も順天城の戦いで勝利している。
http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E_%E9%A0%86%E5%A4%A9%E5%80%AD%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

順天倭城の戦い

上の図は順天城の戦いを描いた図だが、これだけ鉄砲で待ち構えられたら、明・朝鮮軍に勝ち目がなかったことが誰でもわかる。
李氏朝鮮の公式記録『宣祖実録十月十二日条』には「…資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立…」(三路に分かれた明・朝鮮連合軍は溶けるように共に潰え、人心は恐々となり、逃避の準備をした)と書かれている。

10月15日秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令され、命令を受領した小西行長は明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付けたのだが、引き揚げてくる日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が明の大将陳璘(ちんりん)率いる水軍と共に海上を閉鎖し、撤退を妨害した。
そこへ島津軍の引き揚げ船団が合流し、露梁津(ろりょうしん)の戦いが起こる。島津軍は苦戦するが、この戦いで朝鮮水軍の大将李舜臣も明水軍の副将鄧子龍(ていしりゅう)は戦死している一方、島津軍の主だった武将で戦死者はいなかった。この戦いでは日本軍が負けたと書く歴史家もいるが、この戦いにおいて日本軍は敗走したのではなく、目的は海戦海域を脱出して釜山に戻ることでありその目的はしっかり果たしているのだ。この戦いで敗れたのは、日本軍の進路妨害に失敗したにもかかわらず追撃もせず、主要な武将を失った明・朝鮮連合軍の方ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6

かくして日本の出征大名達は無事に日本に帰国し、秀吉の計画は成功に至らぬまま秀吉の死によって終結してしまうのだ。

以上見てきたとおり、日本軍は慶長の役では一戦たりとも敗北していないのだが、何故五大老は日本軍に帰国命令を出したのであろうか。この点については、秀吉が死亡し、家康等有力大名間の権力を巡る対立が顕在化して対外戦争を継続できる状況ではなくなったと考えられている。

明史朝鮮伝

明史・朝鮮伝』では秀吉の朝鮮出兵をこう総括している。
豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」(自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。)
http://halto112.blogspot.com/2011/07/3_20.html

このように中国の正史である『明史』で、明と朝鮮には「勝算がなかった」と総括している事実は重たいはずだ。なぜなら正史というものは、自国に都合の良いことは誇大に書き、都合の悪いことはあまり記述しない傾向にあるものであるからだ。事実は、明・朝鮮連合軍が大敗し、たまたま秀吉が死んだことで戦争が終わったということは明も認めている真実なのだ。

お隣の韓国の歴史教科書にはこの秀吉の朝鮮出兵をどう書いているか、興味があったのでちょっと調べてみた。
「…全国各地で儒生、農民、僧侶などが義兵を組織し、いたるところで倭軍をうち破り、苦しめた。義兵は自発的に立ちあがり、自分の家族と財産、そして村を守る一方、国家を守るために倭軍を迎え撃った。
義兵は、自分の地元の地理に明るく、地形をうまく利用することができただけではなく、自然条件に合った武器と戦術を活用したために、少ない犠牲で大きな被害を与えた。…」(勝岡寛次『韓国・中国歴史教科書を徹底批判する』[小学館文庫]所収)

随分勇ましい記述であるが、日本軍の圧倒的な鉄砲の威力の前にほとんどの戦いで大敗している史実とはかけ離れた記述になっている。一部の地域で義兵があった記録はあるが、日本軍の大半の地域で朝鮮民衆が日本軍に味方した事実や、当時の朝鮮人口の3割から5割は奴婢身分であり、この時に国王や両班に多くの民衆が反旗を翻した史実を書かなければ嘘を書いているのと同じだ。

この韓国が、日本の歴史教科書に何度も修正要求書を提出している。
http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/new_page_114.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110719-00000023-yonh-kr

「壬辰倭乱」という用語は、韓国では「秀吉の朝鮮出兵」を意味するが、韓国政府は文部省検定済みの扶桑社の教科書の記述について、「出兵」ではなく「侵略」という言葉を使え、この原因は「秀吉の個人的妄想とだけ記述」せよ、「日本軍によりほしいままにされた人的・物的被害の様子を縮小」するな、などとコメントしている。

要するに「秀吉の朝鮮出兵」は日本軍の侵略行為であり、朝鮮民衆はその被害者でひどい目に遭っているとのイメージを日本人に広げたいのである。いずれ書くことがあると思うが、他の時代についても同様のスタンスだ。韓国にとっては、李氏朝鮮が劣悪な身分制度であったことを隠蔽し、秀吉を侵略者であるとすることが都合が良いと考えているのだと思う。
韓国の教科書は国定教科書であり、いずれの時代の対日関係史の出来事はほとんどが日本が悪いと決めつけている。こんな教科書で全国民を指導すれば、韓国が「反日国家」となるのは当たり前のことある。
スタンフォード大学のアジア太平洋研究センターの日・中・韓・米・台の高校歴史教科書についての報告で、韓国の歴史教科書については「韓国は日本が自国以外に行った行為には興味はなく、日本が自分たちに行ったことだけに関心がある。」とし、自己中心的にしか歴史を見ていないと指摘したそうだが、これは多くの日本人が納得する話ではないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E5%95%8F%E9%A1%8C

そもそも一方的な韓国側の主張に、なぜ日本の教科書が配慮する必要があろうか。
私は「近隣諸国条項」を撤廃すべきだと思うのだが、それができないのであれば、中国や韓国の正史や公式記録等にいくらでも彼らの主張に反論できる根拠があるので、それを使うべきだと思うのだ。
当時の李氏朝鮮国の身分制度のことはもちろんのこと、朝鮮出兵において韓国人の民衆の多くが日本軍に加担したことを出典や論拠を明確にしたうえで堂々と日本の教科書に書き、先方の教科書記述にも論争をしかけるくらいのことが必要ではないのか。いずれの国にとっても重要なのは、それぞれの時代の様々な出来事についてその時代背景を把握した上で、史実に基づいて真摯に真実を探求することであるはずである。

どこの国でも、他国の圧力で史実に基づかない歴史記述を押しつけられるようなことが続けば、次第に他国に軽んじられるようになり、国民は自国に誇りが持てなくなり、国がバラバラになって衰退していくだけだと思うのだ。
史実に忠実であるならば、国によって歴史の見方に違いがあっても許容できるが、史実に基づかない歴史を無理に押しつけてくる国に対しては、わが国は史実を示して反論するしかない。政治家は安易に謝罪を繰り返すのではなく、もっと歴史を学んで言うべき事を言って欲しいものである。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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