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金閣寺と足利義満の野望

幕末から明治にかけて外国人も含め多くの写真師が写真館を開業し、慶応2年に来日したイタリア生まれ英国籍のフェリックス・ベアトが撮影した日本の景色や風俗の写真が、横浜のファーサリ商会に引き継がれて明治23年(1890)に写真帖が出版されている。その写真帖の貴重な当時の写真が早稲田大学の次のURLに紹介されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/farsari/index.html

金閣寺1890

上の画像は、ファーサリ商会の写真帖にある金閣寺の写真だが、金閣寺は昭和25年(1950)の7月2日に学僧・林承賢(当時21歳)の放火により焼失してしまった(金閣寺放火事件)。焼失以前はすっかり金箔も黒漆も剥がれてしまっていて、それはそれで趣きを感じさせる建物であった。
金閣寺焼失

また、ネットでは焼失直後の画像も紹介されている。
http://otona.yomiuri.co.jp/history/090702.htm

焼失後金閣寺は昭和27年(1952)から3年かけて復元され、昭和30年(1955)に再建されたが、その後金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その黒漆も劣化してきたために、昭和61年(1986)から翌年にかけての「昭和大修理」で、金箔の張り替えや黒漆の塗り替えが行われた。

金閣寺2011春

上の画像は今年の春に金閣寺に行った時に写したものだが、昭和の大修理から25年経っても、まだまだ金閣寺は色褪せることなく完璧な美しさだ。

金閣寺の歴史を調べると、この場所は鎌倉時代の元仁元年(1224))に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘「北山第(ほくさんてい)」を営み、それ以来西園寺家が代々所有していたのだそうだが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を企てたという容疑をかけられて処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA

そこで室町幕府第三代将軍である足利義満が応永4年(1397)に西園寺家からこの北山第を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山殿(きたやまどの)」を造営し、この場所で政務を行ったという。

義満の死後大塔が焼失し、義満の子である義持は寝殿や仏殿、書院、不動堂等の建物を解体して舎利殿のみを残し、舎利殿を義満の遺言により禅寺とし、義満の法号「鹿苑院」から「鹿苑寺」と名付た。これが寺院としての「金閣寺」の始まりとされている。

ところで、この金閣寺を建てた第三代将軍足利義満については、その死が不自然であり「暗殺されたのではないか」という説があるようだ。この話は興味深いので少し詳しく書いて見たい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80

足利義満は征夷大将軍の座を父の義詮から引き継ぐと、朝廷と幕府に二分化されていた行政権を握り、配下の守護大名に睨みをきかせ、相手の内紛に乗じて権力を掌握していく。 明徳元年(1390)には土岐氏、翌年には山名氏清を討伐し、明徳3年(1392)には、南北朝を統一した。
そして応永元年(1394)には、将軍職を嫡男の義持に譲り、同年に太政大臣に昇進している。 この時点で義満は武家の最高位である征夷大将軍と、公家の最高位である太政大臣とを同時に手にしたことになる。

足利義満像

また、義満は若いころから明への憧憬を深く抱き、明との正式な通交を望んでいたが、明は天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府との交渉は実らなかった。そこで義満は応永元年(1394)12月に太政大臣を辞して出家し、これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となる。
応永8年(1401)、明の建文帝は義満を日本国王に冊封し両国の国交が正式に樹立されて、日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易が1404年(応永11年)から始まる。 しかし、義満が明皇帝の臣下となる朝貢貿易を始めたことに対して、公家からの不満や批判がかなり多くあったという。

義満はさらに宗教界の最高位である皇位の簒奪を狙っていたという説が明治期から田中義成氏により唱えられている。義満自身が天皇となることを狙っていたのではなさそうだが、少なくとも実子の義嗣を天皇とすることを狙っていたふしがある。

義満は応永13年(1406)に、自分の2番目の妻である日野康子を後小松天皇の准母(じゅんぼ:天皇の母の代わり)とし、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、天皇の父である上皇と同様の礼遇を求めるなど自ら准太上天皇*(じゅんたじょうてんのう)として振舞い、義嗣(父:義満、母:日野康子)を天皇の御猶子(ごゆうし)つまり名目上の天皇の子供として「若宮」と呼ばせていた。(*太上天皇:皇位を後継者に譲った天皇)
応永15年(1408) 3月に北山第へ後小松天皇が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。
その年の4月25日には自分の子供の義嗣の元服の儀を後小松天皇のご臨席のもとに宮廷の清涼殿で行っている。この時の衣服は天皇より賜り、式次第は親王と同じであったというのだ。

しかし、ここで不思議な事が起こる。
義嗣の元服式が行われた二日後の4月27日に義満は発病し、5月3日にはいったん持ち直したが、再び病状が悪化し、5月6日に51歳で亡くなっている。これは偶然だとしても、あまりにもタイミングが良すぎる。
例えば井沢元彦氏は毒殺説で、著作の中で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理しているそうだが、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたり、その死を暗殺と疑った記録はなく、直接の証拠はないのだそうだ。また、皇位簒奪のために最大の障害となるはずの後小松天皇の皇子に対して、何らかの圧力があったとの記録もない。

とは言いながら、もし義満がもう少し長生きすればその政治的権力によって、天皇家とは全く血縁関係にない義嗣が天皇となる可能性はあったのである。
しかし義満は死んでしまった。また義満の嫡男で将軍の義持は、父義満に偏愛された異母弟の義嗣のことを良く思っていなかった。
応永23年(1416)に将軍義持は、関東における内紛を利用して兄を討とうとした義嗣を捕えて相国寺の林光院に幽閉し、応永25年(1418)に建物もろとも焼き殺してしまっている。

250px-Ashikaga_Yoshimochi.jpg

その後4代将軍義持は、父・義満とは異なる道を歩み始める。
義満の死後に、朝廷から義満に対して「鹿苑院太上法皇」の尊号が宣下されたが、義持は「そんな破格な尊号をもらった臣下はない」と言ってそれを返上し、後小松天皇の准国母日野康子(弟義嗣の母)が亡くなった時も葬式を簡単に行い、義満が始めた勘合貿易も取りやめ、北山殿の建物も舎利殿(金閣)を残して殆どを取り崩し、庭石まで崩してしまった。
この義持によって、再び武家としての節度を回復し、室町幕府は政治的な安定を取り戻すことになるのである。

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大阪のてっぺん 浄瑠璃の里~~地域の文化を継承するということ

ドライブや旅行で地方に行くと、素晴らしい文化と繁栄の歴史を持ちながら、時代の流れと共に若い人が地元を離れて衰退し、その地方固有の伝統や文化も後継者を失っているのを見て悲しくなることがある。
いくら文化的に価値の高いものであったとしても、その文化を支えてきた仕組みがその地方に残らなければ、いずれ消滅してしまうことを避けることは難しいのだろう。

昔はどんな地方にも地元で働ける仕事が少なからずあり、若い世代の多くが地元に残ることが出来た。農業や林業や漁業をはじめ小規模ながらも様々な製造業や小売業などが地元に存在し、各家の長男は家の生業を継ぐ社会だったと思う。
しかし農林水産業での生活は厳しくなる一方で、地域での零細な製造業や小売業なども都会資本の大企業等に淘汰され、さらに役所まで統廃合されたために地元で働ける職場が激減している。

地元で家族を養えるだけの生活ができるような仕事がなければ、若い世代は地元を離れざるを得ない。その結果、地方は老齢化が進んでいくばかりだし、経済は縮小し都心部との地域間格差は拡大していかざるを得ない。

地方に残った有形・無形の文化は、それぞれの地域に代々居住している農業の従事者や、零細な事業者等によって永年にわたり承継されてきたものだが、地域に若い世代が残る仕組みの多くが崩壊した今、多くの地方でそれらの文化の存続が難しくなってきている。

古いお寺や神社の建物などは屋根などが傷んでも、地元の人々の寄付が集まらないために修復にお金をかけられず、祭りや踊りや浄瑠璃などの無形の文化は若い世代がいないために伝統の承継が容易ではないという地域は多い。観光客が集まって地元に多くのお金を落としてくれる場所であればともかく、大半の地域では稼ぎ手の多くを失い、共同体的な地域の人々のつながりが崩壊してしまって、その地域文化を残すことが次第に難しくなってきている。

能勢浄瑠璃の里

しかし大阪の北端にある豊能郡能勢町では200年以上の歴史がある浄瑠璃が今も地元の多くの人々によって支えられて、平成5年(1993)には大阪府の無形民俗文化財に指定され、ついで平成19年(2007)にはサントリー地域文化賞も受賞していることを知って興味を持った。
http://www.suntory.co.jp/news/2007/9849-2.html

サントリー地域文化賞の受賞理由にはこう書いてある。
「世襲ではない独自の家元制度により200年の伝統を重ねてきた能勢の浄瑠璃は、オリジナルな人形浄瑠璃を新たに作り出すなど、伝統を継承するだけではなく、能勢町全体で『浄瑠璃の里文化』の新たな発展に取り組んでいることが、高く評価された。」

「世襲でない独自の家元制度」とはどういうことなのか。
能勢の浄瑠璃は江戸時代中期・文化年間(1804年~1817年)に初代太夫が誕生し、竹本文太夫派・竹本井筒太夫派・竹本中美太夫派があり、お互いに競い合ってその伝統を継承してきたそうなのだが、2001年に新しく竹本東寿太夫派が誕生した。

能勢浄瑠璃流派

浄瑠璃の語り手を「太夫(たゆう)」というのだが、人口11千人程度の能勢町に、上記の4派で200名を超える太夫がいるというのだ。
それだけ多くの語り手がいる理由のひとつは、「おやじ制度」という仕組みで、弟子を採用して稽古をつけるだけでなく、外部から師匠を呼んで長期間稽古をつけて技芸を磨くのだが、歌舞伎の家元制度のように世襲ではないので、新たな「おやじ」がうまれて更にメンバーを拡大していくことで、浄瑠璃人口の拡大につながったと評価されている。
http://www.masse.or.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/7/20057p11_14.pdf

三味線

伝統の承継だけではなく「新たな発展に取り組んでいる」ということはどういうことなのか。
能勢浄瑠璃は、もともとは人形を使わずに語りと三味線だけで物語が進行する「素浄瑠璃」の伝統が200年近く続いたのだそうだ。
そして平成10年(1998)に新しく人形を加えて「ザ・能勢人形浄瑠璃」がデビューし、演目も古典ばかりでなく、オリジナルな作品を手掛け、平成18年(2006)には劇団として発展させた「能勢人形浄瑠璃鹿角(ろっかく)座」が誕生し、現在数多くの公演活動を行っているという。
「鹿角座」のホームページを見ると師匠に人間国宝の竹本住太夫(人形浄瑠璃文楽座太夫)、吉田蓑助(人形浄瑠璃文楽座人形遣い)も名前を連ねているから凄い。子供のメンバーもかなりいるようだ。
http://rokkakuza.jp/

浄瑠璃シアター入口

たまたま10月2日に能勢町の「浄るりシアター」で人形浄瑠璃の公演があることを知ったので、鑑賞しに行ってきた。
上の画像が能勢町の「浄るりシアター」だが、このシアターが完成したのは平成5年(1993)のことだ。

太夫の衣装

ロビーには人形浄瑠璃に使う人形や三味線、太夫の着る衣装などの資料が展示されている。

床本

上の画像は太夫が読む「床本(ゆかほん)」で、この太い特殊な字を読むことだけでもそれなりの訓練が必要だが、「太夫」はただ読むのではなく、三味線に合わせて独特な節回しで、登場する何人もの人物の声を使い分けて、仕草や演技の描写を伴う絶妙な語り口で、観客に物語の情景や展開のすべてを理解させる役割であるからかなりの熟練が必要なのだ。この「太夫」が能勢町に200人近くいるということは本当に凄いことなのである。

支援企業

地元の多くの企業がこのシアターの創設に関わっていることは、上の画像を見ればわかる。全国的に有名な企業はどこにもなく、地元の企業や団体ばかりだと思われる。
別の言い方をすれば能勢町では地元企業はこれだけ元気がいいし、多くの企業が地元の文化に誇りを持っているということなのだろう。

この日に浄るりシアターで開催されたのは、伝統的な能勢町の素浄瑠璃と徳島勝浦座の人形とのジョイント公演で、今回がその第20回目になるのだそうだ。

出し物は「傾城恋飛脚 新口村の段」「鎌倉三代記 三浦別れの段、高綱物語の段」「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段」で、入場者全員に出し物の「床本集」が手渡される。
この床本集は太夫が読むような太い特殊な字ではなく、明朝体で印刷されいて誰でも読む事はできるのだが、公演が始まるとどうしても人形の動きと太夫の語りを聴くことに集中してしまうので、舞台を見ながら床本に目を通すことは難しい。

初めのうちは太夫の語りの言葉の意味がわからなかったり、登場人物の誰の言葉なのかがわからなかったりして理解に苦しんだが、幕間に床本を読むことによって次第に太夫の語り言葉がスッと頭に入るようになって、最後の「菅原伝授手習鑑」では、菅原道真公の子の命を守るために、我が一人息子の命を身代わりに差し出した親の切ない心を絞り出すように語る太夫の言葉が体に染みわたるように理解ができるようになり、途中から眼がしらが熱くなってきた。
浄瑠璃の床本はネットでもデータベースが公開されているが、たとえば「菅原伝授手習鑑」は、次のURLで読む事が出来る。
http://homepage2.nifty.com/hachisuke/yukahon/sugawara.html

今回上演されたのは「寺子屋の段」で、手渡された床本集には寺子屋の段までのあらすじが書かれていたのだが、幕間にこの難しい文章を読んでもなかなか理解できなかった。ところが人形の動きと太夫の語りを聴いているうちに、途中から物語を少しばかり理解できるようになったのは、太夫の語る技術と人形の動きや表情のお陰なのだろうと思う。

私が一番驚いたのは、このような難しい言葉の多い漢語調の文章を、床本を見ずに楽しんでいる観客の多さである。
テレビドラマなどとは全く比較にならないような中身の濃い物語を、能勢の人々は、昔から人形がなくとも、内容を理解して楽しんできた歴史がベースにあるのだ。
「素浄瑠璃」と言葉でいうのは簡単だが、何人もの登場人物の声を使い分けて、聴衆に物語を理解させる太夫の語りの技術は相当洗練されていないと観客を楽しませることはできない。
ハイレベルの語りの技術が伝承されてきたからこそ、この町に200年にわたる素浄瑠璃の歴史があり、今の時代でも多くの観客を呼べるのだろう。

能勢町のことは以前にもこのブログで記事を書いたが、この町にはお米や野菜などを買ったり、地元の美味しい食材を使ったレストランや食堂などがいくつかあって、最近よく訪れるようになった。

野間の大ケヤキ

ここでは食べるものが美味しいだけではなく景色も素晴らしい。天然記念物の「野間の大ケヤキ」はスケールの大きさにも驚くが、新緑の季節は緑が鮮やかで美しい。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-183.html

またこの町は、地域の中で経済がうまく循環していて、昔ながらのお店がたくさん残っているのも魅力の一つだ。大手チェーン店がこの町に進出して来ないのは人口密度が115人/㎢と低いことによるのだと思うが、私のように都市部から買物にくる消費者が少なからずいることがこの町の活性化に繋がっているのではないか。

能勢の里

週末に良く行く道の駅(能勢町観光物産センター)は大変な盛況だし、他にも昔ながらの手作りの豆腐や手作りの丁稚羊羹の店などによく行っている。

能勢の棚田2

能勢町では、どこの街にでもあるようなチェーン店の派手な看板はほとんど見当たらず、美しい自然の中にお寺や神社や人々の家や店舗が調和して存在しているようで、絵になる景色が多くて癒されるのだ。

今回の公演で「鎌倉三代記 三浦別れの段」で太夫を務めた能勢町長の中和博氏が、強いリーダーシップを発揮して能勢町を浄瑠璃の里として広めておられる。町に200年以上続く伝統を、次の世代につなげていく施策こそが地域の連帯を強めて、その伝統が価値を持ち続ける限り、人々は郷土の誇りを失うことなく今までどおりの生活を続けることが出来るのだと思う。

愛すべき郷土があり、郷土の為に尽くすことができる人生は幸せである。能勢の人々にはその愛すべき対象が残されている。しかるに、都会人の多くは自分が尽くすべき郷土を失ってしまったかのようである。

能勢町が持つ田舎の魅力とパワーをいつまでも失わずにいて欲しいし、200年以上続いた人形浄瑠璃の伝統を、これからの200年も是非つなげて欲しいものだ。
私もこれからも時々ここに買物に来て、この地域の生産者の生活に少しでもプラスになればと思うし、他の地域の伝統文化なども応援していきたい。
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伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節~~その1

学生時代に仙台藩主伊達政宗が、慶長18年(1613)に家臣支倉常長をローマ教皇とスペイン国王のもとに派遣したことを学んだ(慶長遣欧使節)。
改めて「もう一度読む 山川の日本史」を読みなおすと、慶長遣欧使節に関しては「メキシコとの直接貿易をめざしたが、目的は達することが出来なかった」とのコメントがあるだけだ。

しかし、なぜ江戸幕府を差し置いて仙台藩がスペインとの交渉を直接行うことになったのであろうか。また、江戸幕府がキリスト教を禁止していた時期にもかかわらずこの使節がローマ教皇に謁見したことに違和感を覚えていた。

幕府が最初のキリスト教の禁教令を布告したのは慶長17年3月(1612)で、この時に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じ、そしてその年の8月にはキリシタン禁止が明確に成文化されて、法令として全国の諸大名に公布され、領内の一般庶民にキリシタン禁制が義務付けられている。もちろん伊達政宗の仙台藩も例外ではなく、この禁教令により長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されたり処刑されたりしているのだ。

伊達政宗

伊達政宗慶長遣欧使節を派遣した時期は、教科書には慶長18年(1613)と書かれていて幕府の禁教令公布の直後のことなのだが、この使節が派遣された背景などを詳しく知りたくなっていろいろ調べてみた。

ネットではWikipediaなどで慶長遣欧使節やその関連人物について詳しく記述されているし、関連した書物もいくつか出ているので、それらを参考にして簡単に纏めてみよう。

まず最初に、慶長14年(1609)に前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコへの帰路で台風に遭遇し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着するという事件があり、地元民に救助された一行に徳川家康がウィリアム・アダムス(三浦按針)の建造したガレオン船(サン・ブエナ・ベントゥーラ号)を贈って、メキシコに送還させたという出来事があった。

続いて、慶長16年(1611)に、その答礼使としてセバスティアン・ビスカイノがスペイン国王フェリペ3世の親書を携えてサン・フランシス号で来日した。そこには外交を開く条件としてカトリックの布教を認め、プロテスタントを排除することなどが記されていたらしい。
しかし家康は、スペイン側の条件を受け入れればわが国が植民地化されかねない、というウィリアム・アダムスの進言もあり、友好的な態度を取りながらも全面的な外交を開くことはしなかったという。

慶長17年(1612)9月にセバスティアン・ビスカイノは家康・秀忠の返書を携えて帰途に就いたが、11月14日に暴風雨に遭遇し、座礁して乗船(サン・フランシスコ号)を失ってしまった。メキシコに戻るために船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本の外交方針の変更により受け入れられなかったという。

このような状況のなか、伊達政宗は家康から「外交権」を得ることに成功する。スペインやメキシコと通商条約締結のためには、どうしてもスペイン国王に使節を派遣すべきであると伊達政宗に説得し、さらに家康に説得してそれを認めさせた人物がいた。その人物がフランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロである。

当時は500トン以上の船を国内で造船することが禁止されていたので、政宗にすれば、幕府が関与することでその造船許可を得ることも、海外渡航証明の朱印状も発行してもらうこともできる。
また幕府にしても、幕府の資金を使うことなく、国賓として来日していたセバスティアン・ビスカイノ一行をメキシコに帰国させる目途がたち、国際的な面目を保つことが出来る。

ところが、その後幕府は禁教令を公布し、慶長18年(1613)6月にソテロ自身も小伝馬町の牢屋に閉じ込められて危うく火刑に処されるところだったのだが伊達政宗の陳情により助けられ、その年の9月の伊達政宗の遣欧使節団に正使として参加することとなるのだ。 外交には当然通訳が必要であり、日本語だけでなくスペイン語での交渉力も不可欠だ。政宗からすれば、ソテロはそのために欠かすことのできない存在だったようだ。

しかしソテロは、出帆直前になって伊達政宗に対し重大な要求を行っている。イエズス会のアンジェリス神父が、政宗とソテロとの駆け引きについて、1619年のイエズス会本部に宛てた報告書で次のように記録している。

ルイスソテロと支倉常長

「…船の準備が整うと、ルイス・ソテロは、…政宗がイスパニア(スペイン)の国王陛下とローマ教皇聖下の下に使節を派遣すべきであることを指摘し、また交渉をうまく進展させるために両者へ相当な進物を持参する必要があると述べた。そしてこの条件が受け入れられなければ、自分は乗船しないだろうと述べた。…政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言を受け入れてイスパニアとローマに使節を派遣することを同意した。…」(大泉光一『伊達政宗の密使』洋泉社p67-68所収)

サンファンバディスタ号

この使節の当初の目的は、メキシコとの直接通商交易を開くことであったのだが、サン・フアン・バウティスタ号が完成し、その出帆直前にソテロの一言によりスペイン、ローマにも使節を派遣することとなったのだ。そんなことを江戸幕府が許すはずがなかったのだが、伊達政宗は重臣たちから大反対されながらもそれを受け入れてしまうのだ。

200px-Pope_Paul_V.jpg

なぜ政宗はそれを受け入れたのか。その手掛かりになるのが、使節団がローマ教皇に謁見した際に奉呈された文書で、今もヴァティカンに残されている。
一部を読んでみよう。最初は政宗がローマ教皇パウロ五世に宛てた親書である。

「私はキリシタンになりたいと思うに至ったのですが、今のところ、どうしてもそうすることのできないような、差し障りになる事情があるため、まだ、そうするまでに至っておりません。しかしながら、私は、領分の国(奥州)で、しもじもの領民たちがことごとくキリシタンになるようにさらに勧奨するという目的のため、サン・フランシスコ御門派の中でもオウセレバンシアに所属するパードレ衆(宣教師)を派遣して頂きたく存じます。…」

「…なお、このパードレ・フライ・ルイス・ソテロと、六右衛門(支倉常長)とが、口頭で申上げるはずですから、この人々の申上げるところに従ってご判断頂きたく存じます。」

ソテロ自身がかなり作文した臭いが漂うのだが、伊達政宗自身も直接署名している文書であり、政宗が内容については承知していたと考えられるのだ。重要な極秘事項はこの時に口頭で語られたのだろうが、その内容についてはどこにも記録が残っていない。

次は同じく教皇に奉呈された、日本のキリスト教徒の連書状である。

「今年になってから新たな迫害が…将軍様によって引き起こされました。…
 偉大な教父(教皇)よ、神が…奥州の王(伊達政宗)を召し出して、彼を照らし出した時、大きな門が開かれたということを疑わないでください。…私たちは彼が将来出来るだけ早く支配者(将軍)になることを期待しております…」(同上書p192-193)

他にもう一通連書状が残されているが、いずれも同様に伊達政宗を支持する内容のものである。この内容もかなりソテロが手を加えたことはまず間違いないだろう。

慶長の遣欧使節に詳しい大泉光一氏は「伊達政宗の密使」のなかで、こう書いている。

「ソテロが、船が完成する直前に、スペインやローマに使節を派遣することを政宗に進言したのは、『訪欧使節団』派遣の真の目的を最初から明かしたのでは、メキシコとの直接通商交易を開始することを第一と考えていた政宗が、使節派遣計画を取り止める恐れがあったからである。」(同上書p84)

では、ソテロにとって「訪欧使節団」の真の目的とは何なのか。
大泉氏はさらにこう書いている。
「ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で自分が洗礼を授けた多くのキリシタンが処刑されるのを目撃し、また自らも囚われの身となり、火刑に処せられる直前に救出されるという経験から、将来の日本におけるキリスト教の布教活動に対し強い危機感を抱いたに違いない。

 そこでソテロは、…伊達政宗の保護の下、自ら東日本区の司教になって仙台領内に宣教活動を行うことを目論んだ。そして、キリスト教に対し理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタン改宗を勧めた政宗に日本全国のキリスト教徒の指導者になるように歓説したのだろう。

 それを現実のものにするためには、日本中のキリスト教徒(30万人以上)の支持を得て政宗がローマ教会に服従と忠誠を誓い、彼らの指導者として承認してもらう必要があった。そのためにソテロは、政宗にスペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣することを持ちかけたのである。」(同上書p84-85)

と、なかなか説得力があるのだ。

大泉氏はさらに「政宗自身も天下取りの夢を捨て切れず、自ら「将軍職」に就くためにキリスト教を利用しようとした」とも書くのだが、この点について書きだすと長くなるので、次回以降に紹介することとしたい。
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しばやん

Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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