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東大寺二月堂に向け毎年「お水送り」神事を行う若狭神宮寺を訪ねて~~若狭カニ旅行1

東大寺の有名な「お水取り」は修二会(しゅにえ)と呼ばれ、天平勝宝4年(752)東大寺開山良弁(ろうべん)僧上の高弟、実忠和尚によってはじめられた春を迎える法会で、本尊の十一面観音の前で、11人の僧侶(練行衆)たちが、全ての人の罪を背負って懺悔をし、全ての人に代わって祈る法会である。

お水取り

この行事は過去一度も途絶えることなく続けられて今年は1260回目の「お水取り」が行われたことになる。

この「お水取り」という行事の前に「お水送り」という神事があり、それが福井県小浜市にある古刹で、毎年行われていることに興味を覚えて、「お水送り」の舞台となる若狭神宮寺や鵜の瀬(うのせ)を訪ねてきた。

お水送り

上の画像はネットで検索した毎年3月2日に行われる「お水送り」の画像だが、白い装束で身を包んだ僧侶や神人が松明を掲げて鵜の瀬に進み、若狭神宮寺の住職が東大寺の「若狭井」に向かって送水文を読み上げ、邪気払いをしたのち後御香水が遠敷川へ注がれ、同時に一斉にほら貝が鳴り響くのだそうだ。そして流された御香水は、10日かけて東大寺二月堂の若狭井へ届くと言われている。
このような神仏混淆の行事がいつから始まったかは定かでないようだが、若狭神宮寺の境内からは平城宮第二次朝堂院跡から出土したものと同系類の瓦が出土しており、また平安時代の嘉承元年(1106)に編纂された『東大寺要録』に、この神事の由来が記されているといことで、相当古い時代からずっと続けられてきたことはまちがいがなさそうだ。

なぜ、東大寺から遠く離れたこの場所で「お水送り」をすることになったのだろうか。次のURLに由来がまとめられている。
http://www.weblio.jp/content/%E9%B5%9C%E3%81%AE%E7%80%AC

「若狭神宮寺に渡ってきたインド僧実忠は、その後東大寺に二月堂を建立し、大仏開眼の2ヶ月前から祈りの行法(修二会)を行った。初日に「新名帳」を読み上げて日本国中の神々を勧進したが若狭の遠敷明神だけが漁に夢中になって遅れ、あと2日で終わるという日に現れた。そのお詫びとして、二月堂のご本尊にお供えする「閼伽(あか)水」(清浄聖水)を献じる約束をして地面を割ると白と黒の2羽の鵜が飛び出して穴から清水が湧き出した。若狭の「鵜の瀬」より地下を潜って水を導かせたのである。この湧き水を「若狭井」と名づけ、1250年の長きに渡って守り続けられているその井戸より「閼伽水」を汲み上げ本尊にお供えする儀式が、大和路に春を告げる神事「東大寺二月堂のお水取り」である。若狭小浜の神宮寺では、奈良に先立つこと10日、3月2日にお水送りの神事が執り行われる。」
若狭の遠敷明神が「鵜の瀬」より地下を潜って東大寺に閼伽水を導かせたという話は、先ほど紹介した平安時代編纂の『東大寺要録』に記されているという。

二月堂と良弁杉

上の画像は「お水取り」が行われる東大寺の二月堂でその真ん中に聳え立つ杉の木が「良弁(ろうべん)杉」と呼ばれる杉である。かつては樹齢600年の杉があったそうだが、昭和36年の第2室戸台風で倒されてしまったため、今の杉は、その古い杉の枝を挿し木にしたものだそうだ。そして下の画像は、二月堂のすぐ近くにある「閼伽井屋(若狭井屋)」で、ここの水と鵜の瀬の水とがつながっていて、10日間で「鵜の瀬」の水が東大寺の「閼伽井屋」に届くという考えなのである。
あかい屋

しかし、何故「お水取り」「お水送り」という行事がはじめられたのであろうか。
奈良の大仏建造の際に多くの作業者に原因不明の病気が流行して死者が出たとの記録があるそうだ。Wikipediaによると「当時の金メッキが、水銀と金のアマルガム合金を塗布した後に加熱して水銀を蒸散させる工法であったため、作業者が水銀蒸気を吸引したことによる水銀中毒と考えられる。」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%8A%80%E4%B8%AD%E6%AF%92
岡野玲子さんは『陰陽師』の中で、大仏鋳造により水銀で汚染されてしまった東大寺の土地を、水の豊かな鵜の瀬の時空をまるごと勧請することにより浄化しようとしたのではないかと述べているそうだが、私はこの説がかなり的を得ているような気がしている。

鵜の瀬

ここが「鵜の瀬」と呼ばれるところだが、この遠敷川(おにゅうがわ)の水は実によく澄んでいる。「お水送り」の儀式がなされる場所はこのあたりなのだろうか。

良弁生誕地

ところで「鵜の瀬」の水は「名水百選」にも選ばれており、近くに水汲み所があって誰でも飲むことができる。その近くに良弁(ろうべん)生誕の地の碑があった。
良弁僧正は東大寺の創建に尽力し、東大寺の初代別当となった人物だが、東大寺の公式HPでは「相模国(さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといいますが、別伝では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれています。」と書かれており、若狭に生まれたという説はあまり有力な説でないからなのか、紹介すらされていない。
http://www.todaiji.or.jp/index/haikan2001/1216/roben.htm

鵜の瀬から約2kmの若狭神宮寺に車を進める。

若狭神宮寺は元正天皇の勅願により、奈良時代の和銅7年(714)に開創され、鎌倉時代初期に寺号を若狭彦神社別当寺神宮寺と改められたという。現在の本堂は、室町時代に朝倉義景の寄進により再建され重要文化財に指定されている。
七堂伽藍二十五坊を有していた時代もあったが、豊臣秀吉の時代に寺領没収に遭い、さらに明治時代初頭の廃仏毀釈により衰退したとされる。

神宮寺山門

上の画像は若狭神宮寺の仁王門(国指定重要文化財)だ。鎌倉時代末期に再建されたもので、左右の金剛力士像は室町時代初期のものだそうだ。
しめ縄が懸っているところが他の寺院とは違うところで、このしめ縄があることで独特な雰囲気が醸し出されている。
中央の参道の両側には、以前は室町幕府、朝倉氏、細川氏の加護を受けて7堂25坊が存在したのだが、今は何もない。

神宮寺本堂

この参道を進むと、若狭神宮寺の本堂(国指定重要文化財)が目に飛び込んでくる。朝に入って気温が上昇したからか、檜皮葺の屋根から湯気が立っていたのが印象的だった。この本堂にもしめ縄が懸けられている。

「神宮寺」という名のお寺は、神仏混淆の時代であった明治維新までは全国の有名神社に存在した。それが明治の廃仏毀釈でほとんどの神宮寺が破壊されてしまったが、この若狭神宮寺は、境内の中にあった若狭彦神社の奥宮が破壊されて神宮寺本堂が残された稀有な例である。残されたのは、古い時代から連綿として続けられてきた「お水送り」行事と無関係ではあるまい。

本堂の中に入ると、たまたま住職が講話をしておられた。話は途中からだったが、お水送りの歴史や神宮寺の由来などを独特の語り口で、時折ユーモア交えながら話されてなかなか面白かった。

本堂には藤原時代に制作された本尊薬師如来座像をはじめ、日光月光菩薩立像、鎌倉初期の十二神将像などが安置されている。これらの仏像を参拝する際には柏手を打って下さいとの説明があり、生まれて初めて寺院の本堂内で二拍一礼で仏像に向かってお参りをした。住職によるとこのような祈りの作法を行うお寺は、わが国でここだけとのことだ。神仏混淆時代はどこのお寺や神社も二拍一礼でお参りしたのだろうか。
実はこの寺には仏像のほかに、重要文化財に指定されている鎌倉時代の男神座像、女神座像があるのだが、明治4年の神仏分離令により絶対秘仏とされ奥の院に秘蔵されているという。

住職の講話を聴いて初めて知ったのだが、小浜と平安京と平城京と飛鳥と熊野本宮はほぼ一直線上にあるのだそうだ。自宅に戻ってから調べてみると、次のURLにこのような図が掲載されていた。
http://www.ley-line.net/gobou/gobou01.html

若狭レイライン

このブログの作者は、このライン上にどれだけの施設が存在するかを、もっと詳しく地図上にプロットした図も次のURLで作っておられる。
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html
古代の聖地というべき施設がこれだけきれいに並ぶのは、とても偶然であるとは思えない。
聖地を直線状に並べることで、祈りのパワーを高めることができるとでも考えたのであろうか。風水や陰陽道などと関係があるのであろうか。
もしそのような意図があって南北の直線状に並べたものだとしても、正確な地図も時計もない時代に、どうしてそれが可能であったのだろうか。イギリスでジョン・ハリソンが高精度の懐中時計を完成させて経度の測定法を確立させたのは18世紀後半のことなのである。

神宮寺椎の木

神宮寺の境内には歴史を感じさせる樹木が何本もある。上の画像は小浜市指定の天然記念物である椎(スダジイ)の巨木。樹齢500年と推定されているが、幹の太さとその存在感に圧倒されてしまう。

神宮寺井戸

この巨木の前にある建物が閼伽井戸で、ここで3月2日の「お水送り」の御香水が竹筒に汲み取られ、2千人以上の松明行列に送られて約2km上流の「鵜の瀬」に、この御香水が注ぎ込まれるのだ。この神秘的な行事の一部始終を是非一度見たいものだと思った。

この若狭神宮寺の下流に若狭国の一の宮である若狭彦神社・若狭姫神社がある。
廃仏毀釈が起こるまでは、若狭神宮寺がこの2つの神社の別当寺であったのだ。

若狭彦神社

上の画像は若狭彦神社で、和銅7年(714)に創建されたというから、若狭神宮寺と同じ年に作られたことになる。この本殿および神門ともに福井県指定文化財となっている。
境内の杉の木がいずれも大木で、枝が空間を支配して日光を遮り、暗く感じるほどだった。

若狭姫神社

上の画像は若狭姫神社で、養老5年(721)に若狭彦神社から分祀されて建てられたという。
この本殿および神門および随神門はいずれも福井県指定文化財となっている。また本殿の横の杉の木は幹周は6m、高さは30mで樹齢は推定500年の巨木で「千年杉」と名付けられ、福井県の指定天然記念物になっている。近くで見るとすごい迫力だ。

鵜の瀬から神宮寺、若狭彦神社、若狭姫神社は古い建物や文化や自然までが昔のままで残されているようで、何百年もタイムスリップしたような気分を味わえる不思議な場所だ。 小浜には千数百年の歴史のある古刹がまだまだあるが、これらの文化財が歴史の教科書に載るようなことはなかったし、テレビなどで取り上げられることも少ないので、私もあまり知らなかった。
実際に訪れてみると、もっと観光客が来てもおかしくない場所だと思うのだが、週末なのに訪れる人は少なかった。

このシーズンは日本海のカニを目当てに小浜方面に来る観光客は多いはずなのだが、もっと多くの人が小浜の古い寺社を訪れてもいいと思うし、その歴史的価値は充分あると思う。

<つづく>
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国宝の明通寺本堂・三重塔から紅葉名所・萬徳寺などの古刹を訪ねて~~若狭カニ旅行2

前回は「お水送り」の神事を行う若狭神宮寺のことを中心に書いたが、今回はほかのお寺のことを書くことにする。小浜には歴史のある素晴らしいお寺がいくつもあり、とても一日では巡りきれないくらいだ。

福井県の建築物で国宝あるいは重要文化財に指定されているものは26棟あるのだが、このうち小浜市に7棟が存在する。うち2棟は国宝で、福井県の国宝はこの2棟しかない。また彫刻では46躯のうち24躯が小浜市に存在しその大半が仏像だ。
http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/itiran.html

みほとけの里若狭おばま

旅行から帰ってから見つけたのだが、若狭おばま観光案内所作成のデジタルパンフレットは、非常によくできている。小浜の古刹の素晴らしい仏像の画像とマップとを古刹の由来と住所・電話番号が記載されており、小浜の古刹巡りは、このファイルを印刷しておけば、自転車で巡るにせよ、カーナビを使って車で巡るにせよ重宝すると思う。
http://www.pamph-navi.jp/art/view_dynamic/pdfView.php?src=pam10008055

このデジタルパンフレットを見ればわかるように、文化財のある古刹のほとんどが小浜市の東南部に点在しており、この地域は人口も観光客も多くないためか、事前にネットで調べても昼食をとる適当な場所があまり見つからなかった。(上記のデジタルパンフレットにも「飲食店はありません。御注意ください。」と書いてある。)
せっかく小浜に来て、どこにでもあるような国道沿いのチェーン店で昼食をとるのでは面白くないので、小浜ICに到着してすぐに小浜港に近い「小浜お魚センター」にある「五右衛門」というお店で午前10時半頃に昼食をとる旅程を組んだ。
ここなら新鮮な魚が割安な価格で食べることができるし、朝早くから営業しているので、早めのランチでも使えるのがいい。

五右衛門昼食

ここで刺身定食を注文したが、この分量で1200円。魚はもちろん仕入れたばかりの魚で新鮮そのものだ。

食事を終えて最初に向かったのは、本堂と三重塔が国宝に指定されている明通寺(みょうつうじ)。真言宗御室派の寺院である。

明通寺山門

山門は江戸時代の明和9年(1772)に再建されたものだが、左右の金剛力士像は鎌倉時代の造立で、小浜市の指定文化財だ。

明通寺本堂

国宝の本堂と三重塔はいずれも鎌倉時代に建てられたもので、福井県の国宝がこの寺にしか存在しない。このお寺の2つの国宝と秋の風情をカメラに収めたかったのだが、残念ながら本堂は30年に一度の屋根の吹き替え工事で、足場が組まれていたために、良い写真が撮れなかった。工事が完了するのは来年の春なのだそうだ。

もちろん内部には入ることができて、仏像の説明を受けることができた。
本尊の薬師如来坐像をはじめ、降三世明王立像、深沙大将立像、不動明王立像はいずれも藤原時代のもので、すべてが国の重要文化財に指定されている。小浜の古刹はどこでもそうなのだが、参拝者とこれらの仏像を遮るものは何もなく、昔の人々と同様の祈りの空間を味わうことができるのは嬉しい。

明通寺三重塔

本堂を出て三重塔に向かう。
三重塔は昨年に屋根の吹き替え工事は終了したばかりで、外観を見ることが可能だが、内陣の絵の修復作業を行っておられるために、ビニールシートやコーンなどが一部置かれていて、近づきすぎるとそれが写ってしまう。目立たない程度にしようとするとカメラのアングルがかなり限定されてしまう。
本堂も三重塔も工事が終了するまで、しばらくかかりそうだ。来年の春には本来の姿をみせてくれるのではないか。

明通寺は大同元年(806)に北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したと伝えられているが、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられて蝦夷を征伐した平安時代の武人である。
2度にわたる征討で北上川中流域までを平定し延暦21年(802)に胆沢城、延暦22年(803)に志波城を造ったが、三度目の遠征は財政上の理由で中止となり、それ以降は多くの神社・仏閣の創建に関わったという伝承がのこっている。
Wikipediaには大同元年(806)に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建し、翌大同2年(807)には京都の清水寺を創建したと記載されているが、この時期に坂上田村麻呂が創建した寺社は東北中心にやたらあるのだ。
たとえば新潟県十日町市の公式HPには、坂上田村麻呂が大同2年(807)に創建した神社ばかりが掲載されているページがある。
http://www4.city.tokamachi.niigata.jp/kanko/sample-list.html
坂上田村麻呂が明通寺を創建したのはその1年前の大同元年(806)と言うのだが、これだけ全国各地の多くの寺社の創建に実際に関与できるとは思えない。
この時期に創建された寺院は坂上田村麻呂だけではなく空海もよく各地の寺院で名前が出てくるのだが、古代の英雄の名前を借りて創建者とすることで、寺社の価値を高めようとしたのではないかと考えるべきだと思う。

明通寺かやの大木

拝観を終えて勝手口から境内を出るところに、天然記念物に指定されている樹齢500年のかやの木がある。これも存在感のある木なので写真を撮っておいた。

明通寺から前回の記事に書いた鵜の瀬、神宮寺と巡ってから妙楽寺に行く。
この寺は真言宗高野山派の寺院で、養老3年(719)に行基が本尊を彫り、延暦16年(797)に空海が再興したと伝えられているが、記録がないので建立の起源は定かではないそうだ。

妙楽寺山門

ここが妙楽寺の山門だが、残念ながら紅葉のピークには少し早かったようだ。

妙楽寺本堂

本堂は鎌倉時代初期に建造され、若狭における最古の建物で国の重要文化財に指定されている。
御本尊の千手観音菩薩立像は平安時代中期のものでこれも国の重要文化財に指定されている。長い間秘仏にされていたためか、施された金箔は今も鮮やかである。檜の一木彫ということなのだが、よくこんな複雑な仏像を一本の木で彫りあげたものだと感心した。

次に、紅葉の名所として知られる萬徳寺に進む。この寺も真言宗高野山派だ。

萬徳寺本堂

この寺の前身は極楽寺といい文永2年の(1265)の若狭惣田数帳に存在が記されているそうだが、応安年間(1370頃)に安芸国円明寺の僧覚応が極楽寺を天台宗から真言宗に改宗し、寺号も正照院と改め、以後武田氏の庇護により隆盛したが、元亀年間に兵火により焼失し、慶長7年に城主京極高次の寄進を受け、寺号を萬徳寺と改めたという。

萬徳寺庭園

ここの庭園は国指定名勝で、春はツツジ、初夏は新緑、秋は紅葉が美しいことで有名なのだが、残念ながら訪れた日は、紅葉のピークには少し早かったようだ。
本堂にある本尊の阿弥陀如来坐像は、平安時代後期の彫刻で檜の一木造りで国の重要文化財に指定されている。当山の前身である極楽寺の本尊でもあったそうで1000年以上前の仏像なのだが、近くで見てもとてもそんなに古いものには見えない。仏像のおだやかな表情も素晴らしいが、台座は衣の垂れた部分で覆われて、そのひだの曲線が見事に彫られているのが印象に残った。

最後に羽賀寺に行く。この寺の宗派も真言宗高野山派だ。拝観は4時までだがぎりぎり間に合った。

羽賀寺本堂

霊亀2年(716)に鳳凰が舞い降りた吉祥を慶び、元正天皇の命により行基が開山したと伝えられる寺だが、洪水や火災などで建て替えられ、今の本堂は文安4年(1447)の建立で国の重要文化財に指定されている。
本尊の木造十一面観音菩薩立像も国の重要文化財で、制作されたのは10世紀初期と言われているが、千年以上経った無仏像とは思えないほど極彩色がよく残されている。
他に千手観音菩薩立像、毘沙門天立像も国の重要文化財だ。

他に多田寺、圓照寺、加茂神社など古い古刹がいくつもあるのだが、紅葉名所の萬徳寺を除いては、週末ながら観光客はまばらであった。

明通寺の受付の方と話したが、国宝といっても修復工事に必要な資金は国や県からの補助金だけでは足りず、地域によって異なるがどこの社寺でも工事費の相当部分を自前で調達するしかないのだそうだ。
特に檀家が減り観光収入が期待できない寺院では、それが大変な負担になる。明通寺の年間の参拝者は5万人程度で、京都清水寺の参拝者の観光シーズンの1日分程度だということだが、これでは改修のための資金づくりは大変だったと思われる。
次のURLによると、明通寺の今回の修復工事に必要な資金は2億5千万円で、国の補助は75%。残りの部分を福井県と、小浜市と明通寺が負担するのだそうだ。
http://www.buddhachannel.tv/portail/spip.php?article13229
国の補助はお寺の財政状況や収入によってかなり異なるそうだし、県や市の支援も地域によっては少ないところも多いと聞く。2割前後の自己調達はどの社寺も必要なのだろう。

明通寺の本堂・三重塔に限らず国宝や重要文化財に指定された建築物は、その価値を減じないために、安普請の工事は許されず古来の工法での修復工事が不可欠となる。檜皮葺の修復は檜の皮を大量に使うのだが、宮大工を呼んでの工事費用は当然高くつく。明通寺は境内に多くの檜の木があるので、まだ檜皮の調達は割安にできたと推測するが、もし檜皮まで調達するとしたらもっとお金が必要だったろう。

地域の文化を支えてきた地域経済循環の仕組みが崩れて、働き手となる若い世代は都会に出たまま帰ってこない。地方に限らず、京都や奈良でも、観光客の少ない寺社のかなりの部分が、年金生活者の多い檀家や氏子から寄付を募って建物を維持しなければならないという状態になっている。
日本人が千年以上も護り続けてきた文化財を後世に残すためには、地元に多くの若い世代が残り、一人でも多くの観光客がこういうお寺や神社を訪れて、いくらかでもお金を落とすことが必要なのだ。

古刹巡りを終えて、常神半島にある民宿に向かう。今年は『まるしもや波華楼』というところで宿泊した。宿の外はすぐ海浜で眺めも良く、夏の海水浴シーズンにはほとんど宿泊客で砂浜が独占できるような場所だ。

越前かに

目当てはもちろんカニ料理。焼蟹、蟹刺、茹蟹、蟹鍋、蟹天婦羅、蟹雑炊と、カニのフルコースでお腹がいっぱいになり、大満足の一日だった。
<つづく>
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三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3

旅行の2日目は、民宿をチェックアウトしてから、まだ走ったことのない「三方五湖レンイボーライン」を走ることにした。この道はカメラマンの須藤英一氏が選んだ『日本百名道』のうちの一つになっている道だ。
http://blog.goo.ne.jp/adriveki/c/fce0a5a016f7afe0083accd5751a96a7

11.24kmの有料道路だが、カーブが多く、運転しながら景色を楽しむわけにもいかないので、3つある駐車場で車を停めて景色を楽しむことしかできなかったが、快晴だったらもっと素晴らしい景色が望めたのにと思うと残念だ。

1三方五湖

この季節に朝一番にレインボーラインを走ったのも失敗で、薄曇りの天気ながら湖の方角が逆光のために、良い写真が撮れなかった。綺麗な写真が撮れそうだったらリフトに乗って頂上まで登ってもよかったのだが今回は断念して、次の訪問先の「若狭三方縄文博物館」に向かうことにした。

縄文博物館外観

この博物館のすぐ近くに、今から12000年~5000年前の縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡「鳥浜貝塚」があり、低湿地で発見されたために保存状況が極めて良好で、木製遺物など1376点が国の重要文化財に指定されているのだそうだ。その遺物の一部がこの「若狭三方縄文博物館」に展示されている。

博物館の中は撮影禁止のため紹介できないが、次のURLで「鳥浜貝塚」のことが写真入りで詳しく書かれている。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf

縄文式の遺物というと、普通は石器や土器や骨や貝殻といったものしか出てこないことが大半なのだが、ここでは当時の丸木舟 木製品や縄、編物、漆製品、木の実・魚・貝類なども含め、自然遺物といった有機物が半ば水漬けの状態で大量に発掘されているので、「鳥浜貝塚」のことを「縄文のタイムカプセル」などと呼ばれているのだそうだ。

縄文住居

驚いたのは、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品がでていることで、この時代の日本人はすでに漆塗りの器や生活道具を作っていたことを初めて知ったし、漆の技術は同時代の中国の物と比べても若狭のものの方が優れているのだそうだ。また、真珠や骨角や石のアクセサリーなどの装身具や工芸品も出土しており、こんなに古い時代においても高度な文化を持っていたことがわかっている。

遺物層の中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されている。これらの堆積状況から、縄文の人々の季節ごとの食生活が明らかとなり、秋に採取した森の食物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝を、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかったという。また、ゴボウ、アブラナ、シソ、ヒョウタンなどの種も見つかっており、すでに植物栽培も始められていたようだ。この時代の人々の食生活は、私が想像していたよりもはるかに豊かなものであったようだ。

野菜直売会

博物館のすぐ近くに「若狭町観光案内センター」があり、農産物の販売所があったので立ち寄ってみた。たまたまイベントをしておられて、地元の方が作られた「けんちん汁」を御馳走になった。野菜の旨みがたっぷりあって、とても体が温まった。

新鮮野菜

中に入って地元の野菜やお酒などを買い込むと、イベントで輪投げがセットされていて、うまい具合に地元のお味噌や梅の加工品などが当たってしまった。旅行先でこういう時間が持てると思わなかったが、地元の元気な叔母さんたちと交流ができて楽しかった。

三方五湖は鰻が有名なので、昼食はこの近くで鰻料理と初めから決めていた。
11時を過ぎたので早目の昼食をとることとし、すぐ近くにある鰻料理店「淡水」に行く。
ネットでは評判のよさそうな店だったので早めに入ったのが正解だった。開店が11時なのだが、三方湖に面した窓際の席はすでに埋まっていて、12時になるまでに満席になってしまった。

淡水うなぎ

これが「淡水」の「うなぎ丼」。肉厚の鰻の身と皮の表面がカリッと焼かれていて、身には脂がしっかり乗っていて旨かった。

他にもいろいろ行きたいところがあったのだが三方五湖を後にして、次の目的地である滋賀県長浜市にある鶏足寺に向かう。

さすがに紅葉の名所で有名な場所だけある。駐車場に入れなかった車が道路にあふれていた。たまたま臨時駐車場に入っていた車が2台程空いたので、運よくすぐに車を駐車することができた。

よしろ神社

大勢の人が歩く道をしばらく進むと、與志漏神社(よしろじんじゃ)がある。この参道の紅葉が美しい。

旧岩戸寺

参道を進むと薬師堂(旧戸岩寺)があるが、今は無住の寺である。この寺は、715年に行基が北西の異光山から遷したと伝えられている古刹で、この本尊の薬師如来は滋賀県最古の仏像で重要文化財に指定され、当地の氏仏として信仰を集めていたのだが今はここにはない。

己高閣

その近くに己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)という仏像が収蔵され公開されている施設がある。
「己高閣」は国庫の補助を受けて建設されたが、「世代閣」は住民の浄財を集めて建築され、地域の住民の力で文化財が守られているのだ。

己高閣には鶏足寺の本尊の十一面観音立像(平安時代:国指定重要文化財)などがあり、世代閣には先ほど紹介した薬師堂(旧岩戸寺)の本尊であった薬師如来立像(奈良時代:国指定重要文化財)などが収められている。
平安時代に制作された仏像が他にもあったが、立派な仏像にしては後ろに光背がないものが多く、光背があっても最近に作られたものであることが一目でわかるし、立派な仏像に釣り合わないものが大半だ。台座も同様だ。
かなり破損した仏像がいくつかあったが、以前このブログでレポートした、金刀比羅宮の宝物館で見た廃仏毀釈で仏像にかなり似ていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html

明治の廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、仏像も壊されたり、燃やされたり、捨てられたりしたことを過去何度かこのブログで書いてきたが、己高閣・世代閣にある仏像の多くは、明治の初期によく似たことがあったのだと思う。

鶏足寺鳥瞰図

近くに、応永14年(1407)頃の伽藍配置を想定して書かれた鳥瞰図があり、その下に鶏足寺の由緒について記載されていた。そこには、
「(鶏足寺は)室町期には僧坊百二十宇を容する大寺院となり、湖北仏教文化圏の中核として隆盛を極め、後期には小谷城主浅井家三代、次いで豊臣家の祈願所となり、石道寺・法華寺・飯福寺その他の名刹を別院としてその格調を誇っていた。
江戸時代には徳川幕府も京都所司代に命じて寺領を保護し寺の維持を図ったが、地理的悪条件から次第に衰退し、末期には無住となり権現堂とともに最後まで残っていた本堂も昭和八年冬不審火により焼失した。
御本尊は大正三年に與志漏神社境内に遷佛していたため無事であり、数奇な運命をたどられた観音菩薩を千二百年後の今も「己高閣」で拝することができるのは誠に幸いである。」 とあるが、明治初期の廃仏毀釈のことは何も書かれていないのは不自然だ。
そもそもなぜ、鶏足寺の本尊が與志漏神社境内に持ち込まれていたのだろうか。

IMG_3622.jpg

紅葉散策のために歩き出して鶏足寺(旧飯福寺)の参道に達すると、案内板には「明治時代に入り廃仏毀釈などによって寺院の規模は縮小されてしまいました。」とだけ書かれていたが、パンフレットや説明書になぜ廃仏毀釈のことを書かないのだろうか。何もなかったように自然消滅したような書き方では、地域の人々が苦労して文化財を護ってきたことが伝わらないだろう。

鶏足寺のある己高山(こだかみやま)には小浜のように1000年以上の歴史のある寺がいくつも存在していたのだが、明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、そのうちのいくつかの寺が破壊されるか、神社に変えられたか、後に廃寺となるか、無住の寺院となっており、最盛期には120近くあったという堂宇はこの時期にかなり失われてしまった。
以前、ここにどれだけの寺院があり、それらの寺がどうなったかについて、詳しく知るにはs.minagaさんの次のURLが参考になる。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_kodakamiyama.htm

鶏足寺の参道の紅葉

この鶏足寺の参道あたりが特に紅葉の美しいところであるが、今年は紅葉が全国的に遅くて、ピークよりも1週間程度早く来てしまったようだ。

鶏足寺の紅葉

それでも、所々で鮮やかな紅葉を楽しむことができた。

この参道を進んでいくとお堂が建っていたが、あまりに安普請なのでシャッターを押す気にもならなかった。

飯福寺之景

ネットでいろいろ調べると、先ほど紹介したs.minagaさんのサイトに鶏足寺(旧飯福寺)の明治29年の絵が見つかった。こんな古いお寺が仏像とともに残っていたらもっと素晴らしいのにと思うのだが、ほとんどが廃墟となってしまっている。それでも紅葉だけでこれだけの観光客が集まることに、やや複雑な思いがした。

鶏足寺(旧飯福寺)から少し歩くと、石道寺(しゃくどうじ)というお寺がある。この寺の周辺も紅葉がきれいなところだ。

石道寺本堂

今の本堂は大正3年に、現在地より東1kmの山間僻地にあった旧石道寺の本堂を移築したものだが、旧石道寺は神亀三年(726)の開基で、のち行基菩薩が堂宇を建てたという古刹である。
この石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されている。
これだけの歴史があり文化財がある寺であるのに住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けているのだそうだが、己高閣・世代閣とは違って暗い本堂の中で、手を合わせることできる空間が残されていることがありがたい。

石道寺本尊

この画像はネットで探した本尊の十一面観音立像だ。
ケヤキの木は堅いので、仏像を制作するのは大変な苦労があっただろう。ケヤキの一木彫りで複雑な十一面観音像を彫るというのは、余程深い思いがなければできない仕事だろう。
これらの仏像が地域の人々の信仰を集め、住職不在の寺となっても人々が観音様の世話を続けてきたのは、地域の人々がこの仏像の素晴らしさを理解し、親が大事にしてきたものを後世にも伝えていきたいという共通の思いからなのだろう。もし芸術的な価値が認められなかったら、人々がここまで長い年月を超えて護られるはずがないのだと思う。

文化財の護り方は、小浜のようにお寺の住職の生活ができるようにして古いものを、古いまま残せれば一番良い。そこで住職の生活ができなければ、石道寺のように地域の人々によって祈りの空間が残せればよい。しかし建物の維持すら困難になれば、祈りの空間は失われ、多くの仏像が博物館に並ぶか売却されていくしかない。

先人たちが苦労して制作し、長い年月にわたり地域の人々が苦労して残してくれた祈りの空間を、できる限り後世に残していくことは、今生きている世代の務めだと思うのだが、今の経済効率優先の政策では地方によっては地元に若い世代が残らず高齢化・過疎化が進むばかりで、いずれは地方の貴重な文化や伝統は担い手を失って、次代に承継することが難しくなっていくことを危惧している。そのような地域で若い人が生活できる仕組みを考えないと地域の文化・伝統が護れるとは思えない。
私ができることはこのような地方を訪れて、わずかばかりの拝観料を支払い、お賽銭を入れ、地域の野菜や魚やお土産を買い、地域のお店で食事をしたり宿泊することくらいなのだが、同じことを少しでも多くの人が行えば、地域の古き良き文化伝統を次代に残す道を拓くことができるのではないだろうか。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
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