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江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4

赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。

大石内蔵助書状

次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm

「東下りの関所においても無事であり、心配していたことも無く下向できました。他の同志も追々に江戸に入り、私も江戸に入りました。これについては噂も色々あるようです。若年寄もご存じの様に思いますが、何のおかまいもありません。吉良邸を打ち破ることは特別で、その通りにさせておこうとしていると推察しています。私たちが亡君のための忠義の死と感じたのでしょうか、何の障害もなく、安堵しています。」

幕府は赤穂浪士が江戸に集結をし、いよいよ吉良邸の討入りをすることについて知っていながら、その通りにさせようとしていると大石は感じているのだ。
この大石の手紙を読むと、江戸幕府が赤穂浪士の討入りを実現させようとした可能性を誰しも感じることであろう。

忠臣蔵吉良邸討ち入り

赤穂浪士の討入りは普通に考えるとおかしなことだらけである。江戸の治安に携わっていた同心たちは一体何をしていたのであろうか。
武装集団が他人の家に不法侵入して命を奪った行為が放置され、吉良上野介を討ち取った赤穂浪士が吉良の首を槍に結び付けて、両国から泉岳寺まで堂々と歩いて帰れたこと自体が不自然に思えるし、取締りが何もなされなかったとについて、幕府の誰も責任が問われなかったというのも奇妙な話である。
討入りについては幕府が期待をし、そうなるように仕向けたと考える説が根強くあるようだが、その説が根拠としているのはこの手紙だけではない。

具体的に幕府が赤穂浪士の討入りを誘導したことが立証できるような文書が存在すれば話は簡単なのだが、そんな記録が残されるはずがないので確実な証拠となるものは何もない。しかし、そのことを匂わせるような話はいくつもあるのだ。

幕府の頂点はいうまでもなく五代将軍綱吉であるが、その側近ナンバーワンの柳沢吉保と他の老中達や三奉行などの上層部は、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの話をかなり早い段階から聞いていたはずだ。
作家の長谷圭剛氏は、『仕組まれた日本史』(新人物文庫)の中でいくつか興味深い事実の指摘をしておられるので、この論考を参考に松の廊下事件以降の出来事を時系列で整理し、てみよう。

まず元禄14年(1701)の出来事だが、
① 赤穂浅野家の本家である広島浅野家は、松の廊下事件があった3月14日の夕刻に、老中秋元但馬守に対して、浅野長矩が庭先で切腹させられたことが五万石の大名に相応しい扱いであったかという照会をしている。そのあとで、検視役であった庄田下総守は責任を取らされて大目付を罷免されている。
それ以来広島浅野家は秋元老中となにかと接触し情報を交換している。(広島浅野家は、大石らが無謀な行動を引き起こせば責任を問われて改易などの処分を受ける可能性があり、そのために大石らの行動を監視していた。)
② 赤穂城の収公が決まった3月に大石内蔵助は江戸幕府宛に吉良上野介の処分と赤穂浅野家再興の嘆願書を出している。この嘆願書は「願いがかなえられなければ、籠城して一戦も辞さない」ともとれるような内容であった。
③ 幕府内部も含め、一般庶民においても「赤穂浪士はいつ復讐戦に立ち上がるか」と期待する空気が充満していった。
④ 3月に吉良上野介は高家筆頭の地位を退いた。8月には呉服橋の屋敷周囲の住民が赤穂浪士の襲撃を恐れて上野介の退去を願い出ており、上野介は屋敷替えとなった。幕府は都心から遠く上野介の警護を受け持つ上杉家との連携が不便な本所に吉良を移転させた。
また幕府は12月には上野介の家督を養子の義周(よしちか)に譲ることを認めた。(これで吉良家の処分がなくなった。)

次の元禄15年(1702)になると、
① 7月に幕府は、浅野長矩の弟である大学長広を藩主とする赤穂藩再興の拒否が正式に決まり、それを受けて大石内蔵助は同月に円山会議を招集し討ち入りをすることを決定した。
② 12月に吉良邸討入りを決行
という流れである。

討入り事件の後の話ではあるが
① 討入り後、勘定奉行、町奉行、大目付らが中心になって構成した「評定所」が、将軍の諮問により提出した「存寄書(ぞんじよりしょ)」によると、赤穂浪士の処分に対しては好意的であった。

② 将軍綱吉自身も、松の廊下事件の際に独断で浅野と吉良の処分を決めたことに後悔していた記録がある。徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』によると浪士の討入りの後の綱吉の言葉として、「その忠義義烈のさま、淑世にはめずらしき程のことにて、彼らそのまま助け置きたく思へども…」という文章がある

以上の事実を述べたところで幕府が討入りを誘導したことを立証できるわけではない。しかし、将軍綱吉をはじめ幕府の内部で赤穂浪士に対して好意的で、吉良邸討入りの実行を期待し、それが成就したことを評価した人物が少なからずいたことは間違いなさそうだ。

しかし幕府は吉良上野介を処分しないことを決定し、吉良を治安上問題のある場所に屋敷替えさせ、さらに大石らが念願していた赤穂浅野家の再興をも正式に拒否してしまった。
赤穂浪士にとってはすべての希望が閉ざされたが、一方で上野介は仇討の容易な場所に転居し、幕府は討ち入りを取り締まろうとはせず、むしろ自由に活動させている。
「これでは大石らに吉良邸を討入りせよと言っているのと同じではないか」と感じるか感じないかは、人それぞれの感性によって異なることになるのだろう。

また別の視点から、「赤穂浪士は江戸幕府によって匿われていた」という主張をしておられる元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏の推理も面白い。

土地の文明

今では絶版になっている『土地の文明』という書物に書かれている内容だが、この全文を次のURLにアクセスすれば Google bookで拝読することができる。
http://books.google.co.jp/books?id=hSsot1rfoT0C&pg=PA29&lpg=PA29&dq=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E9%96%80%E3%80%80%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80&source=bl&ots=ZZw57j4cbT&sig=g3QGmNoQbyomzskkhNazRULB7v4&hl=ja&sa=X&ei=boMFT-jQHcqamQXT8bmAAg&sqi=2&ved=0CDcQ6AEwBA#v=onepage&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E%E6%AD%A3%E9%96%80%E3%80%80%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80&f=false

竹村氏の指摘で初めて気が付いたが、赤穂浪士の内16名は江戸城の半蔵門に近い平河天満宮近辺に潜伏していたそうだ。

江戸城地図

半蔵門は橋がなく土手を進んで江戸城内に進むことができる場所であり、この付近には、徳川御三家や親藩らの重要大名の屋敷が立ち並んでいた。江戸で最も警備が強固な場所であったような場所に赤穂浪士が潜伏していたというのは、竹村氏の言葉を借りると「指名手配の過激派が警視庁内部の空き部屋をアジトにした」ようなもので、確かに不自然なことである。

幕府には赤穂浪士に吉良を討ち取らせたい理由があったからこそ、赤穂浪士を自由に動かして吉良を討ち取らせたのではないかというのが竹村氏の仮説である。
竹村氏の著書によると、徳川家には吉良家を抹殺したい理由が徳川家と吉良家との100年にわたる歴史から論証されていくのだが、結構説得力があり面白い。詳しくは上記のURLの第三章に書かれている。

竹村氏の説も興味深いが、幕府が裏で討ち入りを工作したにせよ、討ち入りが決行されるまでに世論の強い後押しがあったことは見逃せない。なぜ赤穂浪士の討入りを期待する世論がこれほどまでに盛り上がったのだろうか。
ひょっとするとこの赤穂浪士人気も幕府が裏で工作したのかもしれないが、このような物語に民衆が飛びつく素地がなければ始まらない。

綱吉

この点については、綱吉の政治は一般大衆にほとんど支持されていなかったことを知る必要がある。
「生類憐みの令」が特に有名だが、実際に処罰された事例などを読むと、綱吉の評判が悪くなるのは当然だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

たとえば、
元禄8年(1695年)10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪。
元禄8年(1695年)10月29日:元禄の大飢饉(1695年〜1696年)の最中、中野に16万坪の犬小屋が完成。住民は強制的に立ち退きとなった。犬の食費は年間9万8千両。犬小屋支配、犬小屋総奉行、犬小屋奉行、犬医師などを置き、犬金上納金として府民から毎日米330石、味噌10樽、干鰮10俵、薪56束などを納めさせた。
元禄9年(1696年)8月6日:犬殺しを密告した者に賞金30両と布告。
など、動物を守ることが庶民の生活を守ることよりも優先する判断は庶民の支持を得られるはずがなかった。

そこに浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介を斬りつける事件が起こる。幕府は赤穂藩の要望をすべて拒否し、吉良はお咎なしとしたことから、多くの一般大衆が赤穂藩を支持して間接的に幕府を批判した。

討ち入りの起きる前から歌舞伎などで松の廊下事件を模した歌舞伎や浄瑠璃が演じられていたことは注目に値する。

http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews09/news288.htm
上のURLによると、
(1)刃傷事件の1年後(元禄15年3月)に、江戸で『東山栄華舞台』が上演され、
(2)討入りの翌月(元禄16年1月)、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されたが、幕府はすぐに上演を禁止している。
(3)討入り2カ月後(元禄16年2月)、江戸で『曙曽我夜討』が上演されたが、すぐに幕府は上演を禁止している。

赤穂浪士に切腹が命じられたのは元禄16年の2月4日(上のURLでは切腹の日付が3月24日となっているが、誤りである)だから、討ち入り後の赤穂浪士の処分が幕府でなかなか決まらないうちに、江戸で『傾城阿佐間曽我』、京都で『傾城三の車』が上演されているのだ。
一般庶民の間では、赤穂浪士の討入りが大変な評判であったことは間違いがなく、赤穂浪士を義士とし討ち入りを義挙とする物語が、幕府の結論が出る前に出来上がっていたのだ。

ただでさえ評判の悪かった幕府が、赤穂浪士に討ち入りを成功させてその義挙を讃えることで幕府の人気を回復しようというストーリーを描いた人物がいた可能性を感じるのだが、処分の意見がまとまらず幕府の結論が遅れたうえに、最後は四十七士の切腹という結論に世論は納得しなかった。

鳩山由紀夫

世論に迎合しようとした幕府は、結局のところ、かえって評判を落としただけの結果となってしまった。この点はどこかの国の政府とよく似た話でもある。
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赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5

赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。

赤穂浪士討入り

忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news234.htm

それによると、
「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」
「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜左兵衛の側に寝ていた中小姓一人、徒士の者三人が行方不明となっている。これは逃亡したとみられるから、結局吉良屋敷の内にいた者は一五○人」と書いているそうだ。

屋敷の中にいたのは150人で死傷を免れたのが101人というのだが、この中には女子供もいた数字で、内訳はよくわからない。死傷者の多くが寝起きを襲われたというのは吉良側はほとんど警戒をしていなかったということを意味する。武装した赤穂浪士は全員無事で、吉良側は一方的にやられまくったということだ。

吉良側では赤穂浪士討入りがある可能性を日々注意はしていたのだろうが、情報入手ができていなかったようである。一方大石内蔵助には吉良家の情報がかなり詳しくわかっていた。

赤穂浪士軍議

忠臣蔵新聞第195号』に寺井玄渓宛て大石内蔵助の12月14日付け書状が紹介されている。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news195.htm

「茶会の日もこれで決まった。12月5日に茶会があるというので討入りを考えていましたが、将軍が柳沢吉保殿屋敷をお成りと聞き、延期していました。14日に茶会があるというので、討入りをすることに決定しました」(「会日ヲも自然と承候、先日(5日)これ在り候へ共 御成日故遠慮致し、今日(14日)これ在るに付き明日打込申事ニ候」

将軍の御成り日まで把握していたというのは、赤穂浪士は幕府筋の情報ルートを持っていたという事になる。

吉良側にとってみればいつ来るかわからないものを、毎日受け身で待ち続けるのではいくらなんでも体が持たない。少なくとも武器は寝室の近くに置いて、異変を察知すれば直ちに動ける程度の準備は常々していたことだろう。

当時の江戸には町ごとに設置された「木戸」と呼ばれる仕切りがあり、夜10時以降の通行を制限するために木戸が閉められて、通行するためには木戸番に理由を告げて脇の潜り戸を通してもらう必要があったはずだ。そこでもし異変があれば木戸番や吉良邸の辻番が吉良邸に何らかの合図をしてもおかしくないところなのだが、この辻番や木戸番と赤穂浪士はトラブルなく通過したのか、特に記録が残されていないようなのだ。
脅されて黙って赤穂浪士を通したのかもしれないが、そのために異変を知ることが遅れてしまえば、守る側の吉良側は圧倒的に不利になることは言うまでもない。

ではこの赤穂浪士の討入りを、吉良側ではどう見ていたのか。
吉良上野介の孫で、養子の嫡子で17歳の吉良義周(よしちか)は、討ち入り後の15日に、幕府の検使にこの日の出来事について口上書を差し出している。
次のURLに口上書の原文とともに現代語訳が紹介されている。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news233.htm

吉良邸

「昨日14日午前3時過ぎ、父の上野介や私がいる所へ、浅野内匠頭の家来と名乗り、大勢が火事装束の様に見えたのが、押し込んできました。表長屋の方は、2ヶ所に梯子をかけ、裏門は打ち破って、大勢が乱入してきました。その上、弓矢や槍、長刀などを持参しており、あちこちより切り込んできました。
家来たちが防いだが、彼らは兵具に身を固めてやってきたので、こちらの家来は死んだり、負傷をしたものがたくさん出ました。乱入してきた者には、負傷させたが討ち取ったものはいません。
私たちの屋敷に切り込んだので、当番の家来で近くに寝ていたものは、これを防ぎ、私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。しばらくして、気がついたので、父のことが急に心配しになりました。今へ行って見ると、最早父は討たれていました。その後は、狼藉を働いた赤穂浪士は引揚げ、居りませんでした」

と、まるで防戦一方で、『米沢塩井家覚書』によると、「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候」とあり、眉間の刀傷は深く、長さが15cm程であばら骨が1本斬られてかちりと音がしたと書かれている。

武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という条文がある。赤穂浪士の討入りは明らかに武家諸法度に違反する行為であったし、夜中に人家に忍び込む行為は武士道にも反する行為でもあった。

討入りの日に吉良家に幕府検使目付として派遣された安部式部信旨と杉田五左衛門勝行は、報告書を幕府に提出している。その報告書をうけ、老中一同は、赤穂の牢人たちの所業は「まさに夜盗の仕業である」といった感想を吉良家に伝えたというのだが、五代将軍・徳川綱吉が赤穂浪士の討入りを賞賛したために途中で結論が変わったようなのである。

討ち入りの日からまだ日も浅い元禄15年(1702)12月23日に老中列座のもと幕府・評定所の寄合が開かれ、その内容をつたえる「存寄書(ぞんじよりがき)」(意見書)では、赤穂浪士たちの夜討ちを賞賛し、読みようによっては赤穂浪士を助命したいともとれる内容が書かれている。
吉良家に関わる部分を要約すると次のようなものである。
① 吉良左兵衛義周は「武道不覚悟」で申し訳が立たない。自決すべきなのにそれもできなかったのだから、切腹を申し付けるべきである。
② 吉良家の家来で手合わせをしなかったもののうち、侍身分のものは斬罪に処されるべきである。多少とも働き手傷を負ったものは親類へのお預けに処されるべきである。 ③ 小者・中間は追放に処すのが妥当である。
④ 赤穂の牢人たちが泉岳寺に引き上げるのを傍観した(吉良家の縁家である)上杉家は改易・断絶に処してもかまわない。
⑤ 赤穂の牢人たちについては、武家諸法度の第一条までもちだし真実の忠義であると述べ、四大名家に預けたまま裁定はあとでもよい。

評定所は徳川幕府の最高裁判所のようなもので、その主体である寺社奉行、勘定奉行と町奉行の評定所一座に大目付・目付で構成される。また「存寄書」というものはあくまでも評定所の意見であって幕府の最終決定でもないが、幕府の中枢の考えが反映されてそれなりの影響力がある書類である。

赤穂浪士と吉良家の処分についてその後幕府内部で意見が割れて、綱吉の裁定に日時を要したことはこれまでの記事に書いたので繰り返さない。
赤穂浪士の処分が決まった同じ日(2月4日)に吉良義周は江戸幕府の評定所に呼び出され、義周の討入り当日の際の「仕形不届」(武道不覚悟)を問われ、家名断絶・領地没収を言い渡された。

この処分に納得できなかった義周はその後自ら評定所に足を運んだものの、幕府は「こうしなければ世論が納得しない」といって取り合わなかったそうだ。

そして元禄16年(1703)2月11日、吉良義周は罪人として諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は2名のみで、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだったという。

高島城

諏訪藩に到着すると信州高島藩三万石の居城、高島城南之丸の諏訪湖のほとりにある一室に幽閉されたのが、ここでの生活は過酷を極め、寒さの厳しい真冬でも木綿布子1枚で火鉢などで暖をとることもできず、また自殺防止のために脇差や扇子、楊枝、鼻紙などを身に着けることもできなかったという。

さらに幽閉中に悲しい知らせが相次いだ。
宝永元年(1704)6月2日には実父上杉綱憲が享年42歳で死去。同じ年の8月8日に養母(祖母)梅嶺院が享年61歳で死去と、度重なる身内の訃報に義周はかなりショックを受けただろう。

このような厳しい環境での生活のために、義周はたびたび体調を崩し衰弱していく。
幽閉から3年ほどたった宝永2年(1705)10月頃から発熱や悪寒といった症状が出て完全に寝たきりとなり、翌年の1月20日に21歳の生涯を終えたという。

今まで何度か書いてきたが、普通に考えれば浅野内匠頭が殿中で吉良上野介を斬りつけたのであって、吉良上野介は単なる被害者だ。浅野内匠頭は即日切腹となったが、それは幕府が命じたことであり、赤穂藩が仇討ちをするとすれば相手は幕府でなければ筋が通らない。
しかし赤穂浪士が命を奪ったのは松の廊下刃傷事件の被害者である吉良上野介で、この被害者の命を奪う行為は「仇討」と呼ぶべきものではなく、亡君の遺志を完結させて霊を慰める儀式のようなものである。義周にまで罪が問われる理由がどこにあろうか。

夜討ちで吉良邸に侵入してきた赤穂浪士に寝起きで防戦した吉良家からすればこの処分は到底納得できるものではなかっただろう。
無能な幕府の犠牲になった吉良義周のその後の運命は、まことに哀れとしか言いようがない。

法華寺

長野県諏訪市の法華寺に吉良義周の墓がある。そこに次のような熱い解説が記されている。
「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」

義周の墓
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『明暦の大火』の火元の謎を追う

明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼け、特に江戸開府以来の古い市街地はほぼすべてが焼失し、焼死者が十万人余を数えたという大火災が発生した。世に言う「明暦の大火」である。

むさしあぶみ

この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。
作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさしあぶみ』の「明暦の大火」の記述の一部を原文で読むことができる。
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg146.html

そこには、
「…去年霜月の比より今日にいたるまて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこ(粉)おちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急をのがれてうちすてたる車長持ハ。辻小路につミあひひしめく間に。猛火さきさきへもえ渡りしかバ目の前に京橋より中橋にいたるまで。四方の橋一度にどうど焼落る。…」
と、前年の11月以来80日ばかり雨が降らず、空気が乾燥していたうえに当日は朝から強い風が吹いて、炎が「車輪のように」渦を巻き地を這うように延焼していった様子が記されている。

以前このブログで、関東大震災の時に東京で「火災旋風」が発生したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

火災旋風

Wikipediaによると「火災旋風」とは、「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻」で、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで螺旋状に局地的に上昇気流が起こる。
関東大震災の火災旋風の大きさは高さが100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後の火災旋風が発生したと推測されているのだが、「車輪のごとくなる猛火」という表現から「明暦の大火」でもこの火災旋風が起こったことが推測される。
『むさしあぶみ』には、次のような記述もある。

「おびたゝしき旋風ふきて。猛火さかりになり。十町廿町をへだてゝ飛こえ飛こえもえあがりもえあがりけるほどに。前後さらにわきまえなく。諸人にけまどひて焔にこがされ煙にむせび。…あそこ爰の堀溝に百人弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしといふ所もなし。」

1町は109.09mであるから、火炎が1~2km近く飛び越えて延焼していったというのは誇張もあるかもしれないが、火炎が長距離を飛ぶことは火災旋風の典型的な現象で関東大震災でも実際にあった事なのである。

meirekitaika1657地図

次のURLで明暦の大火で焼失した地域が特定されているが、炎は江戸城の御濠を飛び越えて江戸城の天守閣や本丸御殿などを焼き払い、江戸城で焼けなかったのは西の丸だけであった。さらに火災旋風は隅田川をも飛び超えて、対岸の深川地区をも延焼させていることがわかる。大きな公園や川があっても、火災旋風が起これば風向き次第で火はそれくらいの幅を飛び越えて行くものなのだ。
http://imai-aud.co.jp/Bieyasu.htm

隅田川

この明暦の大火を「振袖火事」とよく言われるのは、恋の病で臥せったまま2年前の1月18日に死んでしまったウメノという若い女性の振袖がキノという手に女性わたり、キノも翌年の1月18日に亡くなり、その振袖が今度はイクという女性の手に渡ったのだがイクも次の年の同じ日に死んでしまった。そこでこの振袖を本妙寺で供養することとなり、火の中に投げ込んだところ、つむじ風によって振袖が舞い上がり、本堂に飛び込んで燃え広がったという言い伝えがあることによる。
この「振袖火事」の物語は言うまでもなく後世の作り話なのだが、この明暦の大火の出火元については江戸本郷丸山町の本妙寺とほとんどの本に書かれている。上の地図で見ると、火元は3か所あるようだが、最初の火元は本妙寺だ。

ところが、この大火の火元とされている本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。重要な部分を引用してみる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/

「…しかし、本当は本妙寺は火元ではない。幕府の要請により(本妙寺が)火元の汚名をかぶったのである。
理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は 火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、 当山に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には 客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、 十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の 触頭(ふれがしら)*に任ぜられている。
(*触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申達する役)
これはむしろ異例な厚遇である。
さらに、当山に隣接して風上にあった老中の 阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が 大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余に わたり 奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる 本妙寺火元説を覆するものである。」

阿部家と本妙寺地図

本妙寺の主張は、本当の火元は老中の阿部忠秋であり、本妙寺は幕府の要請により本妙寺が火元を被ったと言っているのだ。当時の風向きと阿部忠秋家と本妙寺との位置関係をしめす地図が、本妙寺のHPで紹介されている。それぞれはほとんど隣同士にあり、老中の阿部邸のほうが風上に位置していることがわかる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/ezu.htm

明和9年(1772)の目黒行人坂の大火の時には、火元となった大円寺は無宿者の放火であったにもかかわらず50年間再建が許されなかったのだそうだが、本妙寺がこの時に何の罪も問われなかったのはどう考えてもおかしなことだ。
またこの明暦の大火の後に69の寺院が移動を命ぜられたのだが、火元となった本妙寺が本郷から動かなかったのも理解しがたい。

そもそも阿部家の菩提寺は浅草蔵前の浄土宗西福寺で、本妙寺の檀家ではなかったようだ。
また幕府は、明暦の大火の後に、大火の犠牲者となった人々を供養する目的で、両国に回向院という寺を設立している。ならば、阿部忠秋家が供養料を奉納すべき寺院は回向院ではないのか。
この阿部家の供養料は半端な金額ではなかったらしいのだが、檀家でもない阿部家が何故260年余にわたり本妙寺に奉納したかは大きな謎である。

本妙寺のHPにはさらに詳しいレポートがリンクされている。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/hurikaji.pdf

これによると
「大火の処理にあたっては、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守等が中心となって協議の結果、この大災害が阿部家の失火が原因とあっては、阿部忠秋が老中という幕府の中枢にあることを考えると、大衆の怨恨の的になることは必至であり、ひいては幕府の威信の失墜は免れず、以後の江戸復興等の政策遂行に重大な支障を招く結果につながりかねない。阿部家の責任を追求するより、大混乱を静め、江戸を復興させ、幕府の威信を保つことが大切であるとの結論にたっし、阿部家と隣接して風下にあった本妙寺に理由を説明して、阿部家に代わって失火の火元という汚名を引受けることを要請し、本妙寺も幕府の要請に応じて火元の汚名を引き受け、幕府の威信の失墜を防ぎ、その後の政策遂行に支障をきたさないよう協力し、ひいては、阿部一族を失火の責任から救うという結果につながったわけである。」との説明だ。

明暦の~1

この説明では明暦の大火は阿部家の失火が原因であり、その責任を被った本妙寺が優遇されたことはある程度説明がつくのだが、つい先程指摘したように火元がほかに二箇所ある。本妙寺が焼けた翌日に、風上の火の気のない場所で二箇所も新たな火災が発生したのは極めて不自然な事で、普通に考えれば放火があったと考えるべきだと思うのだが、当時の幕府の記録では放火犯を捕まえた記録はない。
『徳川実紀』には正月二十四日に神田の牢人有賀藤五郎という人物を挙動不審で捕まえているが、その牢人を処罰した記録はないそうだ。

そこで幕府が放火に関与しているのではないかという説もあり、それが結構有力説となっているようだ。

先程の本妙寺のレポートにも紹介されているが、江戸災害史研究家の黒木喬氏によると、明暦の大火は江戸幕府が関与し、その黒幕は松平信綱だと推定しておられるのだがこのレポートは結構面白い。この説は、新人物文庫の『仕組まれた日本史』の中でも黒木氏本人がレポートしておられるので、内容を紹介してみよう。

久世広之という人物がいる。将軍家綱に仕え老中まで上り詰めた大名で、延宝七年(1679)に71歳で没し四谷の別邸に葬られたのだが、後に広之の子の重之が本妙寺を菩提寺にし、広之の戒名を「中興檀越自證院殿心光日悟大居士」としている。「中興檀越」という字は、久世広之が本妙寺の中興に大きく貢献した檀家であったことを意味する。子の久世重之も老中にまで上り詰めた人物だが、何故広之が「中興檀越」なのか。

久世広之がスピード出世を遂げたのは、都市計画を担当していた老中松平信綱に目をかけられてからだと言うから興味深い。

慶安五年(1652)に広之は江戸府内の巡検を行い、『承応録』によると、旗本で屋敷を持たぬ者が600人いて、この日の巡検で約400人分を確保したという。翌年には築地奉行が任命されて、不足する武家屋敷地を造成するために、赤坂・小石川・小日向などの山の手方面の水田や木挽町海岸の埋め立てが開始され、明暦元年(1655)には広之は寺社奉行・町奉行・勘定頭とともに宅地点検を実施するなど、松平信綱の都市政策に深くかかわっていたようなのだ。

そして明暦二年の七月十一日には、六月に任命されたばかりの屋敷小割奉行を加えたメンバーが信綱邸に集結しているのだが、この日に松平信綱が江戸城に登城していないこともわかっている。余程重要な都市計画の大綱が信綱邸で議論されたのではないかと黒木喬氏は推定している。明暦の大火はこの会議から半年後に起こっている出来事なのだ。

黒木氏の表現を借りると、
「昔も今も都市計画の実行は補償費がばかにならない。日本橋人形町にあった吉原遊郭の浅草移転だけで一万五百両(一説では一万五千両)が支出されている。計画を迅速に達成するには、大きな火事がおこって、きれいさっぱり焼けてくれるのが一番よいのである。」

実際に幕府が放火に関与したとの証明はできないが、きれいに焼けて欲しいぐらいのことを強く期待していてもおかしくないし、そう解釈しないと説明できないことが多すぎるのである。

「明暦の大火後、道路の拡張、武家屋敷・寺社・町屋の移動、広小路・火除地の設定など、矢継ぎ早に都市改造が断行された。手際が鮮やかだったのは、すでに基本計画が立案されていたからだろう。」となかなか説得力がある。

久世広之は、大火後に江戸城再建の総奉行として活躍し、寛文二年(1662)には若年寄に就任し、その翌年に老中に就任している。
一方本妙寺は寛文六年(1667)に日蓮宗勝劣派の触頭(ふれがしら)職になっているのだが、日蓮宗勝劣派には五派あって、その中で一番大きいのは妙満寺派の五百八十余寺、ついで八品派三百二十余寺、興門派二百九十余寺、本成寺派百八十寺、本際寺派十余寺の順なのだが、本妙寺は少数派の本成寺派に属していながら触頭職に昇進しているのも奇妙なことである。
大火の火元とされながら、また老中の久世広之が檀家でもなかった時期に、なぜ本妙寺が異例の昇進を遂げたかは、老中久世広之らのつながりがなくしてあり得ないと考えるのが自然だろう。

黒木喬氏も書いておられるが、松平信綱も久世広之も、この大火で火災旋風がおこって、江戸城の天守閣も本丸御殿や焼けてしまうとは想定していなかったことだろう。

江戸城

江戸城の天守閣はこの「明暦の大火」で焼失した後は、二度と建てられることはなかったのだが、江戸の都市計画の実行は淡々と進められたのである。

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