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日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。
インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要がある。

ルイスフロイス

大量に日本人奴隷が海外に輸出された事実は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録を読めばわかる。以前私のブログで引用した部分だが、

「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述

この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、

「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(同書p.314)…1589年の記述

という記録もあり、数千人レベルではなさそうだ。
太閤検地の頃の豊後の人口が418千人であったことから勘案すると、鬼塚英昭氏が『天皇のロザリオ』という本で書いた50万人説は、豊後以外の人々が奴隷にされていたとしても多すぎると考える。
史料を読む人によってイメージする数字が異なるのだろうが、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の会話録の中で、彼らが世界各地で日本人奴隷を見て驚愕した記録や、インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人奴隷のほうが多かったという記録があることなどからしても、数万人程度は海外に奴隷として送られたと考えてもおかしくはないだろう。

日本人奴隷は鎖につながれて数百人が奴隷船に積み込まれた記述がある。
秀吉の祐筆であった大村由己(おおむらゆうこ)が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯をまとめている。

「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」

奴隷船

手足に鎖をつけて、数百人も船に積み込むのはアフリカの奴隷船と全く同じやり方だ。 アフリカで実際に使われた100tクラスの奴隷船は全長が約30mで414人の奴隷を乗せたという記録があるそうだが、船底の3~4段のスペースに身動きできない程ぎっしりと詰められた暗くて狭い空間で、何か月もろくな食事も水も与えられずに波に揺られて運ばれていたかと思うとぞっとする。

当時日本にいたキリスト教宣教師のトップであるイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりが、ルイス・フロイスの記録に残されている。

hideyoshi_koudaiji.jpg

「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

秀吉が、奴隷を連れ戻すために必要な金を払うとまで言ったのに、コエリョは我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えて秀吉を激怒させ、『伴天連追放令』を出すこととなる流れだ。
前回の記事でも書いたように、コエリョ自身が署名した奴隷売買契約書も発見されている。コエリョはローマ教皇教書によって認められていた、異教徒を奴隷にする権利を行使していたことは間違いがない。

しかしながら、途中から日本での奴隷貿易を廃止させようと動いたこともまた事実である。
Wikipediaによると、「1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E3.81.AE.E8.B2.BF.E6.98.93

ここで、前回の記事を思い出してほしい。
ローマ教皇パウルス3世が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出したのは1537年。しかし、それが翌1538年に教皇パウルス3世自身により撤回されて異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活しているのだ。
当時のローマ教皇はキリスト教世界の首長として絶大な影響力を持っており、その決定はヨーロッパのキリスト教国王に対しても拘束力があった。したがってローマ教皇の教書で異教徒の奴隷化を全面禁止としない限り、奴隷貿易がなくなるはずがなかったのだ。

上記のWikipediaの記事には秀吉が『伴天連追放令』を出した9年後の1596年(慶長元年)に、「長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している」ことが書かれているが、ガスパル・コエリョがそのような通達を早い段階から出していれば、日本のキリスト教の布教がその後も拡大した可能性はあったかもしれない。しかしながら、自らが奴隷貿易に関与していた男が、ローマ教皇の教書によって与えられた権利を捨ててまでしてそのような通達を出すことはなかっただろう。

日本の歴史の教科書にはほとんど何も書かれていないので、中学高校時代にはイエズス会の宣教師はキリスト教を広めるためにわざわざ日本にやってきたとしか考えなかったのだが、私がスペインやポルトガルにわが国を侵略する意図があったことを知ったのは数年前のことである。
この頃の日本は「戦国時代」で、どの大名も軍事力を大幅に増強していた時期であったことは幸運なことだった。だからこそわが国は、この時にスペインやポルトガルに征服されずに済んだのだと思う。最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で日本を占領することは無理だと報告している。

ザビエル

「…貴兄に、我らの国王と王妃とに、次の献言をして頂きたいためである。即ち此の御ニ方は、その良心を軽くせんがため、カスチリヤ(スペイン)の艦隊を、ノヴ・イスパニヤ経由で、*プラタレアス群島の探検のために、送らないようにと、皇帝やカスチリヤ国王達に知らせなければならないことである。何となれば、幾つの艦隊が行っても皆滅びてしまうからである。そのわけは、海底に沈没しなくても、その島々を占領するならば、日本民族は甚だ戦争好きで貪欲であるから、ノヴ・イスパニヤからくる船は、皆捕獲してしまうに違いないからである。他方日本は、食物の頗る不作の土地であるから、上陸しても皆飢え死にするであろう。その上、暴風が激しいので、船にとっては、味方の港にいない限り、助かるわけは一つもない。
…日本人は貪欲であるから、武器や品物を奪うために、外人のすべてを殺すであろう。…」
*プラタレアス群島:「銀の島」。日本はそう呼ばれていた。
(岩波文庫『聖フランシスコ・ザビエル書簡抄(下)』p172-173)

同様のことを織田信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニも1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡に書いている。本能寺の変から半年後に次のような書簡が書かれたことに注目したい。当時のフィリピンはすでにスペインの植民地であり、スペインが次にどの国に向かうべきかがこの書簡の主題である。

ヴァリャーニ

「これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
と、まずシナから征服すべきであるとし、日本は武力征服が成功する見込みがないし国土が不毛でメリットがないということを書いているのだ。
イエズス会の巡察師というのはイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師と理解すればよい。彼ら宣教師の目的が布教だけでなかったことは彼らの書簡を読めば明らかなことである。

また、フィリピンのマニラ司教のサラサールが1583年6月18日付でスペイン国王宛にシナに対する武力征服の正当性を主張した報告書が残されている。この報告書は当時のスペインの征服事業が、前回の記事で記したローマ教皇の教書に基づいたものであることを裏付けているし、日本をどうするかについても書かれている。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国に攻め入ることの出来る正当な理由になることを、陛下に知らせるためである。…
…もしも迅速に遠征を行うなら、シナ人がわれわれを待機し、われわれに対して備えをするのを待ってから事を起こすよりも、はるかに少数の軍勢でこと足りよう、という点である。そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されると良い。
そしてこれが効果を上げるための最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」(同書p.85-88)

キリスト教の布教に協力しないということだけで宣戦布告できるというのは、前回の記事で書いたインカ帝国を滅ぼした手口と同様である。
これはローマ教皇アレキサンデル6世が1493年に出した『贈与大勅書』により、異教徒であることが認定されればすべての権利がスペインに帰属するという解釈により、「福音の宣布を妨害している」ことを口実にシナも攻め入ることができると進言しているのだ。

この2年後の1585年3月3日にイエズス会日本準管区長のコエリョは、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層にシナを征服することができるであろう」と書いている。すなわちコエリョは、日本人をキリスト教に改宗させたうえで、その軍事力を使ってシナ征服にとりかかろうという考えであったのだ。

これらの書簡を読めば、キリスト教の布教は単に信者を増やすというレベルの問題ではなく、スペインが海外を征服していくための国家戦略に組み込まれていて、宣教師は世界征服のための先兵のようなものであったことが誰でもわかるだろう。

当時のわが国で、カトリックに本気で帰依したキリシタン大名はすでに何名もいた。彼らは秀吉の統制の外にいて、いずれスペインが明を征服し朝鮮半島から最短距離でわが国に向かったとすれば、キリシタン大名の銃口は秀吉に向かい国内は内乱状態になっていたはずだ。

彼らの意図を察知した秀吉の動きは早かった。コエリョが軍隊派遣した直後の5月4日に、秀吉は自らの明征服計画をコエリョに被瀝し、明でのキリスト教布教を認める代わりにポルトガルの軍船2隻を所望している。さらに秀吉は、天正19年(1591)にはゴアのインド副王とマニラのフィリピン総督に降伏勧告状をつきつけ、応じなければ明征服のついでに征服するから後悔するな、と恫喝している。
その秀吉のフィリピン総督宛ての書状には、「今や大明国を征せんと欲す。…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃せて伏(降伏)すべし。若し、匍匐膝行(ぐずぐすして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必せり。悔ゆる勿れ…」と書かれているという。

以前に私のブログで、秀吉の朝鮮出兵は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとしたと考える方がずっと自然ではないかと書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-188.html

秀吉の朝鮮出兵【文禄の役(1592)、慶長の役(1597)】については教科書や通説ではロクな評価がなされていないのだが、以上のような歴史的背景を知らずして、その意義を正しく理解できるとは思えないのだ。

われわれが学校で学んできた歴史は、西洋にとって都合の良い内容を押し付けられてきたのではなかったか。西洋の世界侵略や奴隷貿易のことを知らずに日本史を理解しようとするために、戦国時代以降近現代の歴史理解が随分歪んだものになってはいないだろうか。

西尾幹二氏の著書で『GHQ焚書図書開封』というシリーズ本があり、すでに6巻まで刊行されている。

焚書図書開封

その第1巻の第1章には、第二次大戦後GHQが日本を占領していた時代に7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄されたことが書かれている。幸い国会図書館の蔵書と個人が購入していた本までは没収されておらず、西尾氏が入手した本を解説しているのが上記のシリーズだ。
焚書処分された本の中には、国粋主義的なタイトルのものもあるが、西洋の侵略の歴史や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書などがかなり含まれている事がわかる。
またGHQは、焚書とは別に、昭和20年9月からの占領期間中に新聞、雑誌、映画、放送内容をはじめ一切の刊行物から私信に至るまで、徹底した「検閲」を実施している。
次のURLに昭和21年11月25日付の占領軍の検閲指針の30項目が出ている。
http://www.tanken.com/kenetu.html

この検閲指針を読めば、東京裁判を批判したり、SCAP(連合国最高司令官=マッカーサー)が日本国憲法を起草したことを批判したり、米国、英国、ロシアや中国を批判したり、韓国人を批判することなどが禁止されていたことがわかる。
しかし終戦後67年目にもなるのに、これらの指針が今も活きているように錯覚してしまうことが少なからずあるのはなぜなのだろうか。
なぜマスコミは、東京裁判史観を否定する論拠となる史実を伝えようとせず、またアメリカや中国や韓国などに主権が侵害されていても充分な抗議をしようともしないのだろうか。

GHQに代わってこれらの検閲基準を今も守らせようとする勢力が国内外に存在して、大手のマスコミや出版界がその勢力とのトラブルを避けるために、未だに自主規制をしているということなのだろうか。
そんな自主規制のようなものが存在しないというのなら、少なくとも主権を侵害されているような事案に関して堂々と抗議してくれなければ、一体どこの国の会社なのかと問いたくなるところだ。
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中国人苦力を全員解放させた日本人の物語

19世紀に奴隷制の廃止運動が起こり、イギリスでは1833年、フランスでは1848年に奴隷制度が廃止され、アメリカは少し遅く南北戦争後の1865年に漸く奴隷制度が廃止されている。
しかし、これで完全に世界で奴隷制度がなくなったわけではなく、奴隷商人たちは彼らに代わる奴隷をアジアの地に求めるようになった。
かくして中国人の苦力(クーリー)貿易がアヘン戦争直後の1845年から本格化する。彼らは建前上は契約労働者であったが実態は奴隷であり、前回紹介した奴隷船と同様な構造の船に詰め込まれて鎖につながれて運ばれていった。

1860年代半ばには、こうした苦力を運ぶ定期航路が開かれて大量移民に拍車がかかり、1930年代に下り坂に向かうまで、数百万人にもおよぶ中国人苦力が運ばれていったと言われている。

私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。
ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。

大衆明治史

何も苦労して古本を探さなくとも、ネットで全文を公開している奇特な人がいるので、今では誰でもダウンロードして読む事が可能だ。
http://tncs.world.coocan.jp/tsmeijisi.html

この本は、明治に起こった21の出来事を事実に基づきわかりやすく叙述した書物で、明治21年生まれの作家・菊池寛が明治という時代をどのように捉えていたかがわかって興味深く読める。少し読んで頂ければわかると思うが、国家主義的な思想性は特に感じられない。なぜこの本がGHQの焚書対象とされたかの理由を推定するに、西洋諸国にとって都合の悪い史実が記されていたからだと思う。

目次をみると最初が廃藩置県で、次が征韓論決裂、そして次が問題のマリア・ルーズ号事件だ。
今ではこのマリア・ルーズ号事件のことを記述している本がほとんど見当たらないのだが、菊池寛がこの事件の事を書いたことがGHQの焚書につながった一番大きな理由ではないかと私は考えている。この事件は西洋諸国にとっては、日本人に知らせたくない、都合の悪い出来事であったはずだ。

ではマリア・ルーズ号事件とはどんな事件なのか。菊池寛やWikipediaなどの叙述を参考にしながら、纏めることにする。(Wikipediaでは「マリア・ルス号事件」と表記されている。日付が双方で異なるのは、菊池の文章は旧暦でWikipediaは新暦で統一されている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B9%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

明治5年(1872)6月1日(旧暦)に古い帆船が横浜港口に横付けとなったが、途中で暴風雨に遭ったらしく、マストの一部が破損し、帆綱も断れていた。
横浜港長パーヴィス大佐の命令を受けて同船に対し役人の臨検が行われ、この船の正体が明らかになった。
この船は南米ペルー船籍の350tの商船で船名はマリア・ルーズ号。
船長はペルー国大尉のドン・リカルドオ・ヘレラ。
中国のマカオを出港しペルーのカリアオに向かう途中で台風に遭遇し、修理のために横浜に入港したが積荷はなく、中国人苦力225名ならびに船長自身が雇入れた中国人のボーイ23人を載せていたという。

それから数日後、マリア・ルーズ号の過酷な待遇から逃れるために一人の中国人が海へ逃亡し、近くに停泊していた英国軍艦アイアン・デューク号が救助した。その中国人には明らかな虐待の形跡があり、本人の陳述から英国領事館はマリア・ルーズ号を「奴隷運搬船」と判断し、「この驚くべき蛮行の事実を率直に当局に告げ、日本政府が適宜の処置を執られんことを切望する」旨を、神奈川県庁を通じて通告した。

菊地寛

菊池寛は、この事件の背景をこう書いている。
「南北戦争の結果奴隷が解放され、その為新大陸では極度の労力不足を感じていた。これに乗じた、一部の奸商共は、新たに支那の苦力を大量にアメリカに送って、これを奴隷同様に売買して、巨利を博していたのである。」

神奈川県庁の権令(副知事)の大江卓は義憤を感じつつも、条約が締結されていない日本とペルーとの間で国際紛争を起こすことはないとの考えでその苦力をヘレラ船長に戻したのだが、船に戻すと船長はその苦力に笞刑を加えその悲鳴が遠くまで達したという。
数日後またもや別の苦力が英艦に泳ぎ着き、再び船長の暴状を訴えた。激昂した英艦乗組員は英国代理公使ワットソンに急報し、ワットソンは米国公使とともに外務卿の副島種臣を訪ねて日本政府に注意を喚起した。

当時政府部内では、司法卿江藤新平や陸奥宗光等は条約国でもないペルーと事を構えるのは不得策だと反対したが、副島はこの非人道的な事件に対して断固糾弾すべきだとし、中国及びペルーに対しては条約による領事裁判を認めていないので、この事件の処断はわが国における正当な権利であると主張したのである。

副島種臣

「領事裁判」とは在留外国人が起こした事件を本国の領事が本国法に則り領事裁判所で行う裁判のことをいい、江戸幕府が安政年間に結んだ米・英・仏・蘭・露各国と結んだ条約では認められていたが、領事は本来外交官であり、本国に極めて有利な判決が下される傾向が強かった。副島種臣はペルーとはこのような条約がないので、わが国の法律で処すべきであると述べたのである。
この副島の主張は閣議を通過し、この事件の調査は神奈川県令大江卓に命ぜられた。

大江の査問に対しヘレラ船長と弁護人は、問題の苦力たちはいずれも乗客であるから相当な待遇を与えていると主張し、「本事件は公海において発生したものであり、日本国法権の及ぶところでない。」「マリア・ルーズ号出港停止による、損害賠償を請求する」と主張した。一方、大江は他の苦力たちを公判に呼び証言させたところ、いずれも船内の暴状を訴えたという。

大江卓を裁判長とする特設裁判所による7月27日の判決は、中国人の解放を条件にマリア・ルーズ号の出港を認めるものであったが、ヘレラ船長はこの判決を不服としたうえ、中国人苦力に対しての移民契約破棄の罪状で告訴するに至った。

大江卓

しかし大江卓が出した8月25日に出した判決は痛快である。移民契約は奴隷契約であり、人道に反する者は無効であると却下し、中国人苦力全員解放という快挙をやってのけたのである。
「…若し人にして肆に幽閉せられた際は、ハーベーオス・コーポスなる公法によりて、其の者の自由を完全ならしむるが通議なり、今我国に於ては、この公法の設定なし。然れども、何人と雖も、この自由の通議あり。これが我が国の本理なり。然るにマリア・ルーズ船の清国船客の如きは、外国人のために肆に幽閉せられしこと判然たり。故に彼らは盡く釈放さるべし…」

清国政府は直ちに特使陳福勲を派遣して大江卓神奈川県県令および副島種臣外務卿に深謝し、9月13日に苦力から解放された者とともに上海に向かったのである。

菊池寛はこう解説している。
「阿片売買と共に、この苦力売買は、西欧人が支那に対して行った罪悪の、最も悪逆なるものの一つである。当時ハバナの総領事から、外務大臣への報告に依ると、この奴隷船の支那苦力の死亡率は14パーセントに達したと言われる。ひどい例になると、同じく澳門(マカオ)からペルーへ送られた二隻740名の苦力中、航海中死んだ苦力が、240名という記録さへある。…
後に清国政府は、わが国の厚誼を徳として、副島外務卿及び大江県令に対し、感謝のしるしとして、頌徳の大旆(たいはい)*を送ったという。」*大旆:大きな旗

大江卓宛大旆

ちなみにこの時に清国から送られた頌徳の大旆は、神奈川県立公文書館に保管されており、神奈川県のホームページにその写真が掲載されている。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f100108/p10431.html

しかし、この事件はまだ終わらなかった。
翌年2月にペルー政府は海軍大臣を来日させ、この事件に対する謝罪と損害賠償を要求してきた。この両国間の紛争解決のために、ロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁に立つこととなり、国際仲裁裁判が開催されたが、この裁判は1875年に6月に「日本側の措置は一般国際法にも条約にも違反せず妥当なものである」との判決が出て、ペルー側の訴えが退けられている。

菊池寛はこう結んでいる。
「国際法の知識の貧弱なわが外務当局が、敢然起って、自主的にこの事件に干渉し、この好結果を得たのは、もとより副島の果断、大江の奮闘にもよるが、わが当局が、人道上の正義に基づく行動は、結局世界の同情を得る、と云う確信から出発したことにも依る。外務省公刊の『秘魯国(ペルー)マリヤルズ船一件』なる文書の末尾に、
『此一件ノ当否ハ普ク宇内ノ正決ニ信ズ』
と壮語しているが、全くこの自信を現したものに外ならない」

明治維新直後の新政府において外交が務まるだけの素養や国際法の知識のあるものなどは皆無に近かった中で、副島種臣は佐賀藩の「致遠館」でフルベッキに英米法や各国の法制経済を学んでいた。だからこそ正論を押し通すことができ、土佐藩出身の大江も体を張って奮闘した。
人権という考え方が世界的にも未成熟な時代に、各国領事の圧力をはねのけたことは、わが国が近代国家の仲間入りを果たす契機ともなり、明治人の気概を感じさせる物語である。

同様な事件は、実はこの事件の20年前にも石垣島で起こっていた。石垣島の出来事については次のURLが詳細なレポートを載せている。
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/1835/1/Vol29p92.pdf

ペリー来航の1年前の1852年3月に、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中で暴行に堪えかねて蜂起し、船長ら7人を打ち殺し、その船はその後台湾に向かう途中に石垣島沖で座礁したため、苦力380人が石垣島に上陸し、船は残りの20余名の苦力を載せて厦門に引き返した。

石垣島の人々は仮小屋を建てて彼らを収容したのだが、米国と英国の海軍が来島して砲撃を加え、武装兵が上陸して逃走した苦力を捜査し、百名以上の苦力が銃撃され、逮捕され、自殺者や病没者が続出したという。
石垣島の人々は苦力達を深く同情し、彼らに食糧を与えて援助した一方、清国に戻った苦力達が船内の虐待を訴えたことから厦門民衆の苦力貿易反対運動が高まったという。

琉球王府は、もし再度米国と英国の海軍が来島した場合は、米英と戦うことは不可能であるとして、苦力全員を引き渡す方針をも検討していた。一方厦門では苦力貿易反対運動が更に激化し、英国は陸軍を厦門に上陸させて中国人4名を銃殺、5名以上を負傷させて辛うじて運動を鎮圧させたという。
その後ロバート・バウン号で厦門に引き返した苦力が無罪釈放されることとなり、石垣島に残留したメンバーの罪も不問に付すとの情報が福建当局から入り、翌1853年11月に琉球の護送船二隻を仕立てて、生存者172人を福州に送還したという話である。
もし、苦力の一部が厦門に戻ることがなければ苦力貿易反対運動も燃え上がらなかったであろうし、さらに米英の海軍が石垣島を砲撃しに再来した場合には、島民が巻き込まれて多くの犠牲者が出てもおかしくなかった。最悪の場合は、島が占領されて島民自身が苦力にされた可能性も否定できないだろう。

石垣島の人々は、島で亡くなった中国人苦力達の墓を作って慰霊を続けて、そのような墓が昔は島内各地に点在していたそうだ。

唐人墓地図

1971年に石垣市が台湾政府、在琉華僑の支援を得て、これらを合同慰霊するための唐人墓を建てている。
島の人々が、この事件で命を落とした苦力達の慰霊を160年も続けてきているということを知って驚かされたのだが、つくづく日本人は心優しい、素晴らしい民族だと思う。

唐人墓

この唐人墓の横にある1971年に作られた石碑には
「人間が人間を差別し憎悪と殺戮がくりかえされることのない人類社会の平和を希いこの地に眠る異国の人々の霊に敬虔な祈りを捧げる」
と記されているそうだ。
1971年は石垣島をはじめ琉球列島は米国の占領下であり、アメリカとの無用のトラブルを避けるために墓建立の経緯を詳しく書かなかった経緯があるとのことだが、この事件を知れば、この言葉の重みを深く感じることができる。今では事件の経緯を記した碑文もあるようだ。

もしマリア・ルーズ号やロバート・バウン号の事件に関する史実が、GHQによる焚書や検閲対象にもされず、その後教科書やマスコミなどで報道されて国民に広く知れ渡っていくとどういうことになっていただろうか。
欧米諸国が世界侵略をし、奴隷貿易という非人道的な行為を4世紀近く地球規模で行ってきた史実が国民の常識となれば、今の日本史の通史や教科書における戦国時代以降の歴史観が、今とは随分異なるものにならざるを得なくなるし、多くの国民が自分の国を自分で守ることの大切さを認識することになるのではないだろうか。

どこの国でも、いつの時代も歴史というものは勝者にとって都合の良いように書き改められる傾向があるものだが、わが国の第二次世界大戦敗戦後に、多くの歴史叙述が戦勝国にとって都合の良い内容に書き換えられたことを知るべきである。そして、国民の洗脳を解くカギの一つが、GHQが封印した史実にヒントがあると私は考えている。

私は戦前の史観が正しいと言っているのではない。ただ、史実に基づかない、あるいは史実と矛盾する記述は、史実に基づくものに置き換えられていくべきだということが言いたいだけなのだが、多くの重要な史実が封印されてほとんどの人が知らされていない現状を放置しては、教科書や通史における記述が簡単に変わるものではないだろう。
まずは、多くの人が歴史に興味を持ち、何が真実かを正しく知り、それを広めていくことが重要なのだと思う。二国間の真の交流を深めていくためには、お互いの国が、実際に起こった出来事を正しく知ることが不可欠で、事実でもない歴史には決して振り回されるべきではない。

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GHQが日本人に封印した歴史を読む~~イギリスとインド・中国

前回の記事で、GHQ焚書である菊池寛の『大衆明治史』に書かれている文章を紹介した。
今回は、GHQが終戦直後から実施した検閲に引っかかって、抹消された文章を紹介しよう。

アメリカのメリーランド大学にあるマッケルディン図書館に、プランゲ文庫といってGHQ検閲官が検閲したゲラ原稿の資料が持ち帰られて保存され、マイクロフィルム化されて誰でも自由に閲覧ができるようになっているそうだ。このプランゲ文庫を5年間にわたり調査して、日本の歴史がいかにGHQによって歪められたかを紹介した本がある。

抹殺された大東亜戦争

『抹殺された大東亜戦争~~米軍占領下の検閲が歪めたもの』(勝岡寛次著:明成社)という本がこれから紹介する本なのだが、プランゲ文庫を引用する場合は検閲官が当初の論文のどの部分を削除したかがわかるようにして近世以降の日本史を纏めておられる。この本と他の本を対比すると、占領軍がどんな歴史を日本人の頭に叩き込みたかったが誰でもおおよそ見当がつく。

GHQの検閲

私もこの本を読むまでは、スペインは中南米でインディオを大量に虐殺してひどいことをしたが、イギリスやアメリカは比較的うまく植民地を統治したと思っていた。しかし、実態はイギリスもアメリカもスペインと似たり寄ったりである。
わが国に近いアジアの歴史を調べてみると、インドや中国で起こったこともかなり悲惨な状態であったのだが、そのことを戦後のわが国にどれだけ知らされているのだろうか。

ラス・ビハリ・ボース

勝岡氏はこう書いている。
「西欧の植民地化により、最も悲惨な状態に貶められたアジアの国はどこだろうか。それはインドである。『かって世界最富の国であった印度で人々は今日骨と皮のみの生活を送っている』という悲痛な叫びに始まる、インド独立の志士ラス・ビハリ・ボースの書『インドは叫ぶ』を一読すれば、このことがはっきりわかる。
 インドはイギリスの統治下に入るや、それまでに経験したことのないような大飢饉に見舞われる。1770年のベンガル大飢饉が最初であった。この時の死者1千万人。次いで19世紀前半に死者140万人、19世紀後半には死者2千万人、20世紀初頭には1千万人がやはり大飢饉によって死亡する。而してこれがイギリスのインド植民地統治に由来するものであることは、イギリス人自身が認めることであった。
 …
 『英国侵入前の方がインド人は富み栄えていたのである。1750年頃までインドの村落には必ず学校があり、人口の6割は読み書きができたのである。然るに今日9割すなわち3億2千万が文盲であって、過去150年間読み書きなしえたものの総数は2260万にすぎない。かかる英国が果たしてインドを統治するに適するであろうか。(チャールス・ラッセル)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.92-93)

一方、市販されている高校用の教科書『もう一度読む山川世界史』では、1757年のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社がベンガル地方政権とフランスの連合軍に勝利して、インド侵略の足場を固めた。当時はムガル帝国の衰退期で、イギリスは内陸部に容易に進出できたことに続けてこう書いている。

「イギリスの支配は、インド社会を大きく変えた。安い機械織り綿布の輸入によってインドの古くからの木綿工業は大打撃をうけ、また綿花・藍・アヘン・ジュートなどの輸出用作物の栽培、商品経済の浸透、あたらしい地税制度の採用などにより、伝統的な村落社会が崩れた。一方、植民地支配を行うため資源開発や交通網・通信網の整備がなされ、イギリス流の司法・教育制度が導入された。思想面では、カースト制の否定や女性地位改善などのヒンドゥー教近代化運動がおこった。」(『もう一度読む山川世界史』p.187-188)

ラス・ビハリ・ボースや英国人チャールス・ラッセルの文章と同じ時代のことを書いているにもかかわらず、あまりにもギャップがあると誰しも思う事だろう。
次の勝岡氏の記述を読めば、おおよその背景を理解することができる。

「…(プラッシーの戦いで)インド全域における覇権を確立した。しかし、イギリスにとって、インドとの貿易は当初は割の合わぬものであった。インド産綿織物に対するイギリス国内需要は着実に増大しつつあったのに対し、イギリス産の毛織物はインド国内や支那ではさっぱり不評で捌けなかった。支那産の茶もイギリス人の日常必需品に成長し、需要は激増したが見返りの商品をイギリス側は欠いていた。この結果、大量の銀がイギリスから支那へと流出し、イギリス側を慌てさせたのである。
 だが、この問題はこうして解決された。東インド会社は1765年にベンガル地方の徴税権を獲得し、それまで3割であった地租を、6割から8割にも引き上げ、茶の購入資金に流用したのである。…
イギリス東インド会社は、こうして単なる貿易会社からインド人を搾取する権力機構へと、その性格を一変させた。だが、これではインド人は食べていけるわけがない。餓死者1千万人を出したインド史上初のベンガル大飢饉(1770)はこうして発生したのである。」(『抹殺された大東亜戦争』 p.94-95)

『もう一度読む山川世界史』の記述では、誰もイギリスが酷いことをしたようには読めず、むしろ高度な文明をインドに齎したかのような印象を受ける。
山川世界史の「あたらしい地税制度の採用」などという記述を読んで、地租が倍以上に跳ね上がった事実を想像する人は皆無だと思うし、また「イギリス流の教育制度が導入され」たという記述で、文字が読める人口の比率が6割から1割に激減した事実を、誰が読み取れようか。「イギリス流の教育制度」といっても、大多数のインド人は文盲のままで放置されていたのだ。これではインド人は、ほとんど奴隷のようなものではなかったか。今の教科書に書かれていることは綺麗ごとばかりで、これでは本当に何があったかが見えて来ない。

防衛省OBの太田述正氏のブログを読むと、イギリス統治下になってからインドが凋落したことが、数字の変化を読むことでよく理解できる。
http://blog.ohtan.net/archives/51006404.html
http://blog.ohtan.net/archives/51007300.html

「1700年の時点を振り返ってみれば、支那とインドは併せて世界のGDPの47%を占めていたと推計される一方で、西欧(含むブリテン諸島)の推計値は26%に過ぎなかったのです。
 1870年には支那とインドを併せたGDPの世界のGDPに占めるシェアは29%にまで落ち込み、その一方で西欧(含む英国)シェアは42%へと上昇した」
「1757年には、英東インド会社が報告書の中でベンガル地方のムルシダバードについて、『この都市はロンドンのように広くて人口が多くて豊かだ』と記したというのに、1911年にはボンベイの全住民の69%が一部屋暮らしを余儀なくされるようになっていました。(同じ時期のロンドンでは6%。)1931年には74%にまでこの比率が高まっています。インド亜大陸の他の大都市も皆同じようなものでした。」
東インド会社の搾取と自然災害によって、ベンガルで1770年に大飢饉が起きるのですが、その際、同会社が減税どころか増税を行い、穀物の放出どころか強制買いだめを行ったため、前述したように120万人もの死者が出たのです。やがて、東インド会社は、イギリスの大土地所有制に倣って、支配下の地域に大土地所有制(ザミンダール(zamindar)制)を導入し、大土地所有者を東インド会社の藩塀としました。この過程で、2000万人にのぼる小土地所有者達が所有権を奪われ、路頭に迷うことになったのです。」とある。

ベンガル大飢饉の死者の数が随分違うのが気になるが太田氏は公式発表の数字を用いたのだろう。いずれにしても、インドにおいてはイギリスの植民地となってからはイギリスに富を奪われているだけで、まるで歴史が逆行しているかのようだ。

ここまででも随分ひどい話なのだが、東インド会社は更にひどいことを始めるに至る。
インドで強制栽培させた大量のアヘンを銀塊の代わりにインドから中国に運ぶことを思いつき、18世紀末にはたちまちのうちにアヘンが中国全土に広まり、夥しい数のアヘン中毒患者を生み出した。

opium20war.jpg

清は1757年以降貿易を広東港一港に絞るなどの制限を加えたが効果なく1839年に林則徐を広東に派遣して密輸アヘンを没収し処分させた。林則徐はアヘンを清国に持ち込まない旨の誓約書を提出しないイギリスとの貿易を拒否したため、イギリスは海軍を派遣しアヘン戦争が勃発する 。
戦争はイギリスの勝利に終わり、清は1842年の南京条約によって香港を割譲、上海・寧波・福州・厦門・広東の5港開港を余儀なくされてしまう。

勝岡氏は前掲書で、GHQにより抹消された阿片戦争に関する次の論文の記述を紹介している。この論文は『国際法外交雑誌』昭和21年5月号に掲載予定であった植田捷雄『南京条約の研究』のゲラ原稿の一部だが、紹介箇所は検閲官により全文抹消されている。

阿片戦争2

「併し、本来アヘン貿易の杜絶を恐れるの餘り英国が支那に挑んで戦いを開いたのが阿片戦争であることは既に論決した通りである…。唯、流石の英国も阿片といふ有害物を支那に強要するために開いた戦争であるとは公然に主張し得なかったと見え、パーマストーンは清国宰相に宛てた書簡に於いて林則徐の処置を以て『国際法に違背し、英国官吏が当然に受くべき尊敬を無視した』不法監禁なりとし、(中略)英国政府は焼棄せられたる英国商人の阿片に対する賠償を支那政府より要求するなりとしている。併し、林の処置が支那の禁令を破って密輸入された阿片の提供を要求し、英国商人がこれに従わざりしためその反省を促す目的を以て行なわれた監禁であることも既に述べたところである。…。故にこれを以て不法監禁なりとなすことはあたらない。(中略)」(『抹殺された大東亜戦争』 p.96)

またこの論文のゲラ原稿で、南京条約による香港の領有に関する記述についても、全文抹消されている。

「英国人は常に英国がかかる香港の領有によって支那に於ける領土侵略の先鞭を着けたといはれることを嫌ひ、彼らはこれに対する反駁の語として必ず英国の終始変わらざる政策は香港を通じて通商上の利益を擁護し発展せしむるに在りといふのである。…併し、これ等の言は…必ずしも香港領有の真相を語れるものとは考へられない。…。ボッチンヂャーは本国の命令を堅持して勇敢に武力弾圧の政策を行ひ遂に南京条約を通じて香港を明白成る海軍根拠地たらしめ、施政の方針は完全なる植民地を目標とするものとなった。南京条約後、香港が正式に皇領植民地に編入せられたのは即ちこれがためである。」(同上p.96-97)

マッカーサー

こんな論文がGHQの検閲により抹消されているのだが、その理由は「英国批判(critical of Britain)」と記されているのだそうだ。
書かれていることが史実であっても、こんなレベルの表現までが日本人に読ませないために検閲で抹消の対象とされていたことを知るべきだと思う。
前回の記事に紹介したが、GHQの検閲基準は次のURLに書かれている。この基準を読めば、当時のわが国においては戦勝国に対する批判が不可能だったことが誰でもわかる。
http://www.tanken.com/kenetu.html

果たして真の文明はキリスト教を奉じる国にあったのか、それともその武力の前に支配されたアジアの国にあったのかという問いは、今なお検討に値する問題であるのだが、シカゴにおける万国宗教大会席上でインド代表が述べた演説の邦訳を『理想日本』という雑誌(昭和22年6月)に掲載予定のゲラ原稿も、GHQが全文削除している。

「諸君は我々の国に宣教師を送り来り、諸君の宗教を傳へる。我々は諸君の宗教の価値を否定する者ではない。然しながら、最近二世紀の間諸君が為す所を見るに、それは、諸君の信仰が要求する所のものと、明らかに反してゐる。諸君の実際行動を指導するものは、諸君の信仰する神の遺誡たる正義と愛の精神ではなくて、貪婪と暴力の精神である。斯くして我々は、次の判断を下すことを余儀なくされる。即ち、或は諸君の宗教は、その内面的優秀性にも拘らず、実現できないものであり、…或は諸君が余りに劣悪であるがため、実行し得ること又実行せねばならないことを実行しないのか、二者其一(ふたつにひとつ)である。何れの場合に於いても、諸君は我々と比べて、何らの優越を持たない。」

インドがイギリスから独立したのは、1947年の8月だ。まだイギリスの植民地であったインドの代表が公の場でこのような演説をしたことに驚くのだが、これはインド人にとっては宗主国のイギリスの方が野蛮国であったと発言しているようなものだ。

250px-GHQ_building_circa_1950.jpg

GHQによる事前検閲は昭和20年(1945)9月からはじまり、ピークは8000人の検閲官が存在して、新聞や雑誌からこれから出版される本や論文の原稿、私信に至るまでを徹底的に検閲し、プレスコードにかかる記述を削除させていた。
事前検閲は昭和23年(1948)7月までに廃止され事後検閲となり、事後検閲に関しても新聞、ラジオの昭和24年(1949)10月をもって廃止されたことになっている。

昭和22年(1947)5月3日に公布された日本国憲法第21条には
「1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
とあるのだが、検閲制度が廃止されるまでの2年半はGHQは堂々と憲法を破り、検閲者も憲法違反の仕事にともに従事していたことになる。

しかし検閲が廃止されたからと言っても、わが国の言論が自由になったわけでもなさそうだ。歴史的事実でありながら日本人に知らされないことが今も多すぎはしないか。
検閲制度は実態的にはその後も続き、今も外国勢力などによって維持されているのではないだろうかと思うことがよくある。
次のURLで、大手マスコミで報道されない事件などのリストがでているが、このリストを見てなぜこういうことが今も続くのかを是非考えて頂きたいと思う。GHQの検閲基準は検閲者がいなくなった今も、外圧を避けるための組織内の自己検閲やスポンサーなどの圧力によって実質的には部分的に機能しているのではないか。
http://blog.livedoor.jp/waninoosewa/archives/975894.html

imagesCAUT5X6K.jpg

次のURLで、自らが検閲官であったことを自著『鎮魂の花火輝け隅田川』『ああ青春』で公表した横山陽子さんの対談(『諸君』平成16年1月号)が読めるが、彼女の父が現金で500円しか現金で給料がもらえなかった時代に18歳の時の横山さんの最初の月給が450円で、上級になったときは家族が養えるくらいの3000円をもらい、昭和23年に結婚して仕事を辞めるころには8000円も貰っていたし、辞めてからも差額を3か月頂いたというのは驚きだ。
ちなみに、横山さんが通った日本女子大の授業料は昭和21年で年間300円、その後インフレで3000円になったというのだが、それでも検閲官の待遇が良かったかがよくわかる。
http://nishimura.trycomp.net/works/010-2.html

他に、英文学者の甲斐弦氏が書いた『GHQ検閲官』という本がある。この本もご自身の検閲官の体験を綴ったもので、日本軍の行動を賛美したものも非難したものもいけない、マッカーサーを賛美したものも罵ったものもいけない、占領軍を歓迎したものも批判したものもいけないというように、そのような話題を書くこと自体が手紙などの検閲の対象とされていたというのだ。

ところでピークは8000人いたという検閲官のメンバーはどのような人物で、その後はどのような職業に就いたのであろうか。残念ながら過去検閲に携わったことを公表した方は上記2名のほかには数えるほどしか存在しないようである。
外国籍の日系人が検閲官にかなりいたことがわかっているが、日本人も相当数がいて、そのなかにはマスコミや教育界や官僚の重要なポストに就き、あるいは政治家となって、わが国の国益に反する活動をし続けてきたのではないだろうか。あるいは、単純に外国やスポンサーの言いなりになっているという事なのだろうか。
ひょっとすると、GHQが国内要因と外圧要因の両方を残して、その後も検閲が実質的に継続される仕組みを作っておいたのかもしれないが、そうでも考えないと今日のマスコミの偏向報道や教科書や教育等の偏向傾向を説明し難いと思うのだ。

せめて、他国では常識となっているレベルの知識は国民にしっかり伝え、広めていかなければ、今後わが国から世界レベルで活躍する政治家やジャーナリストが出てくるとはとても思えない。
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京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。

平成21年にBLOGariというブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年の1月に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。

またBLOGariは平成29年の1月31日付けでブログサービスが終了して、今ではアクセスができなくなっています。BLOGariの記事URLにリンクを貼ってある記事がもしあれば、左サイドバーの「カテゴリ」の一番下にある「BLOGari記事のURL読み替え」で対照していだければありがたいです。

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